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ナポレオン時代、オーストリア軍のカール大公の軍事指揮官としての評価

 『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の人物評のところだけつまみ食いしているのですが、カール大公のところまで来ましたので、今までに集積していた資料と共に、カール大公の軍事指揮官としての評価について。


Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria

 ↑カール大公(Wikipediaから)。



 今回、日本語版Wikipedia「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」も見てみたのですが、非常に興味深い記述で、しかも結構まとまったものでした。英語版Wikipediaも見てみましたが、日本語版Wikipediaとほぼ同じ内容(というか、英語版Wikipediaから和訳されたのでしょうけども)でした。

カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。またクラウゼヴィッツ、ジョミニらと並び、当時を代表する軍事思想家としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。アメリカのマハンの海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

カール大公の戦略論では慎重であることを重大事として説いており、万難を排して守備に努める傾向は、受けて来た教育による偏向とも言えるが、彼は然るべき状況が来たと見てとれるまでは実行に移さなかった。それと同時に、極めて攻撃的な戦略を練って実現することも可能であり、用兵の戦術的スキル(例えばヴュルツブルクやチューリッヒで見せたような広い範囲での反攻作戦やアスペルン・エスリンクやワグラムにおける大軍の指揮)は、確実に彼が生きた時代の上位の指揮官たちに引けを取ることはない。1796年の戦役は申し分のない出来と見なされる。1809年に敗北を喫した要因の一部はフランスとその同盟軍の圧倒的な兵力の優位性であり、また一部は新たに再組織されたばかりのオーストリア軍の状態による。しかし一方で、彼がアスペルン・エスリンクの戦いの後、6週間も不活発でいたことは批判の的となってきた[10]。

軍事理論家としてのカールは、兵法の進化の過程の中で重要な存在と位置づけられており、その教えの重みは当然のごとく大きい。しかしその教義は、1806年時点においてさえ古風であると見なされていた。慎重さと「戦略拠点」の重要性は彼の学説において主眼を置かれている。彼の地理的戦略の堅実さは「原則から決して離れない」という規範意識からくるものだろう。彼は軍が完全に安全な状況に置かれているならば危険を冒すことはないと繰り返し助言しているが、このルールを無視して1796年の戦役では輝かしい戦果を挙げている[11]。「戦略拠点はその者の国の運命を決するもので、将帥は常に主に神経を配らねばならない」と彼は(敵軍を打ち負かすことよりも)重視して述べている。カール大公の著作の編集者たちは良い仕事をしているが、クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。戦術に関する著作においてもこの精神は顕著に見える。彼にとって予備兵の存在は「退却を援護する」ものとして意図されている[12]。

【……】

カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった[14]。


「クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。」の件ですが、クラウゼヴィッツによる批判は、この部分でしょうか。

『1799年のイタリア及びスイス戦役』の冒頭では、オーストリアのカルル大公が、ジュールダン将軍の率いるはるかに劣勢のフランス軍を撃滅しそこなった理由について、クラウゼヴィッツは次のように書いている。

 第一に、彼には積極性と勝利意欲が欠けている。第二に、通常健全な判断力をもっている彼も、こと戦略に関してはまったく考え方が間違っている。戦争においては、全てを敵の勢力の殲滅につぎ込まなければならないが、それには司令官がはっきりそのことを自覚している必要がある。ところがカルル大公は、然るべき場所から敵を追い払うことしか考えなかった。彼はある場所なり地域なりを占領しさえすれば勝ったと思ったようだが、これは敵の勢力を萎えさせ、味方を勝利に導く一手段にすぎない。彼が勝ったと思い込んだ何度かの会戦で、敵は大した数の捕虜も取られず、砲も失わずにすんでいる。カルル公は敵の死傷者の数の記録さえ取っていない(原註 これより数年前に書かれた「戦争論」第6篇第16章では、クラウゼヴィッツはカルル大公を「立派な歴史家、評論家であるばかりでなく、優れた司令官」と褒めている)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P495~6


 しかし、『歴史群像』103号では軍事理論家としてのカール大公の記事が載っており、そこに書かれている「カール大公が自軍の保全の方により重きを置いている理由」は、私には結構納得できるものがありました。

 カールからすれば、劣勢兵力で優勢な敵に国家の浮沈を賭けて挑むのは、あらゆる原則から逸脱した「絶望の会戦」であった。そこでカールは、戦術的勝利によってもたらされる軍事的栄光よりも、無益に兵を損じないことを追及した。
 従来、カールの用兵思想の鍵とされてきたのは、「戦略要点(Strategische Punkte)」の概念である。「その占有が作戦に決定的な有利をもたらすとき、この地点を戦略要点という。決定的とは、その地点の占有が後方背後連絡(Communication)の安全につながるという意味である」とカールは定義している。カールの論じた戦略論は、この戦略要点と後方背後連絡を主題に展開されている。
 ナポレオンは後方背後連絡を危険にさらそうとも、猛烈な機動を行い、短期決戦を敵に強要しようとした。もし、敵が決戦に応じなければ、ナポレオンの軍隊は後方背後連絡の不備から衰弱していく。ここに目をつけたカールは、要点での持久によって、敵が継戦能力を失うまで我慢強く抵抗し、相手の疲弊を待ったのである。
 カールにはナポレオンのように損耗した兵力を容易く補充出来る徴兵制という魔法の杖はなく、一度損耗すれば、兵力の回復は絶望的だった。そうしたハンデの下で敵と戦い続け手にした勝利であった。
『歴史群像』103号P163


 カール大公とオーストリア軍を賞賛した記述にはこんなのもありました。

 一方で、オーストリア軍の兵士たちが見せた堅固な軍事的資質と総司令官の才能にも経緯を払う必要があろう。カール大公は、ナポレオンがこれまで渡り合ってきた敵のなかでも最も厄介な人物だった。カールが再建してくれたおかげで、オーストリア軍は彼自身が指揮権を預けられた1805年12月の時点よりもはるかに優れた軍隊に成長していた。しかもすべての階級の者たちが闘志にあふれていた。ナポレオンをアスペルンとエスリンクで打ち負かしたことだけでもカールの才能は評価できるが、ヴァグラムでさえも、彼は皇帝が欲していた完全なる勝利をつかませなかったのである。フランス軍は有利な和平さえ結べただけでも幸せだった。
『ナポレオン戦争 第四巻』P102




 一方、カール大公の性格上の欠点(限界)であるとか、あるいはオーストリアという国家や人材、皇帝(兄)の欠点(限界)込みの記述を挙げていきますと……。

 カール大公は外見的に印象の薄い、痩身であごの小さい(性格の弱そうな)人物で、身長はかろうじて5フィート【1.524m】しかなかった。
 【……】
 彼は自軍、ひいてはハプスブルク帝国を少しでも危険にさらすかもしれないことには用心深くなり、気が進まないたちであった。彼が書いた戦術に関する論説には彼の伝統的な、18世紀的なものの見方が反映されている。すなわち彼は、敵を撃破することよりも、機動であるとか、拠点を占領するとか、連絡線を守るということにより傾きがちであった。
 【……】
 カール大公はいろいろな面で感じの良い人物であったが、融通がきかず、物事がうまくいかなくなると他の者達を非難する傾向があった。
 【……】
 だがこの感受性の強さはまた、彼を悲観論に陥らせがちであり、ことに挫折の後ではそうであった。敗北はカール大公の神経を揺さぶり、鉄の意志で戦い続けるよりも、和平を結ぶことを進言させたのであった。
 彼は戦場において、そして危機的状況において本領を発揮した。彼は戦場の重要な地点にすぐさま駆けつけることができたし、彼の戦歴を通じて彼は、苦境を救い状況を好転させようと戦いの真っ只中に身を置いていたのである。彼がアスペルン・エスリンクでそうであったことは最も良く知られているが、Stockachとワグラムにおいても非常にそうであった。この彼の指揮の様子を見た兵士達は奮い立った。見た目に勇敢そうでないということは決して彼の欠点ではなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P172,3

 人格・性行上の疵がなかったわけではない。1809年、ワグラムの会戦で敗北した後、二度とカールが野戦軍総司令官の職に呼び戻されることがなかったのも、多くの将軍がカールの下で戦うことを望まなかったためである。
 カールは心身のバランスを崩しやすく、たやすく精神の耗弱に陥った。そうした内気と気分の変調に加え、父が先代皇帝、兄が当代の皇帝という高貴な身分にあることもあって、他者から批判されることに弱いという性格上の弱点を持っていた。そのためカールは、率直に苦言を呈する人材を側近に配することが出来なかった。彼が取り巻きに集めたのは、オポチュニストや陰謀家、立身出世主義者といった信頼出来ない人間たちであった。彼らは、カールが自らの敗戦の責任を部下の将軍たちに転嫁しようとしても、忠告して止めさせようとはしなかった。
 カールは、1801年から05年までは軍事参議院議長、さらには陸軍大臣兼海軍大臣として、1806年から09年までは大元帥(Generalissimus)として、オーストリア軍の改革を進める責任者の地位に就いているが、改革の大半は機構弄りに終始し、見るべき具体的な実績をあげ得ていない。その理由の一端には、徴兵制の導入といった抜本的な改革の実現によって既成の社会秩序が崩壊することを怖れたカールの保守性や、ナポレオンとの戦争再開を準備不足から先延ばしにしたいと希望していた彼の無意識の避戦努力の影響もある。
 だが、より大きな原因として、質の悪いカールの側近とフランツの側近がそれぞれ暗躍し、その結果、喫緊の軍制改革が停滞したことは、指摘せざるを得ないのである。
『歴史群像』103号P161

 一方で、指導力を備えた参謀システムを充実させようとするカール大公の試みはうまくいかなかった。参謀たちは、紙の上ではいとも巧みに兵力を動かしたり維持したりすることができたのであるが、ここでもまた実戦経験の豊富な将校たちが不足していたのだ。作戦本部と前線の間をつなぐ通信システムにしても明らかに劣っていた。頼るべき上級指揮官に関しても、カール大公は頭を抱えていた。彼には帝国宮内法院に指令を出す権限が与えられていたが、無能で敵対している将軍たちを解雇する権力は備わっていなかった。このような大権はいまだに兄フランツ皇帝がしっかりと握っていたのである。このため、宿敵ともいうべきヒラーだとか、役に立たないルートヴィッヒ、ヨハン、フェルディナントといった兄弟たちを用いなければならなかったのだ。身内びいきは帝国の指令構造のすべてに広く行きわたっていた。カールらに次ぐ高位軍人たちのなかでは、自分自身の功績によって登りつめてきたのはラデツキーぐらいのものだった。ヴァンファン、グリュン、クレーナウ、ローゼンブルクといった一族の者たちは、軍人としての才能などこれっぽっちもなかったのに、みな高位高官になりおおせていた。
 それではカール大公自身はどうだったのか? ストレスがたまるとてんかん性の発作にかかりやすいというハンディーキャップを背負いながら、彼はナポレオンよりも若年で上級指揮官に登りつめていた。初めて軍隊の指揮を執ったのは25歳のときである。そこら辺の二流のフランスの将軍が相手ならば、カールもかなりの実績を上げることができていたが、いかんせんナポレオンに対しては歯が立たなかった。ふたりの将軍は、第一次対仏大同盟戦争の終わりの時期、1797年に対戦したことがあったが、カールが決定的な敗北を喫してしまっていた。とはいえ、オーストリア軍においてはカールが最も有能な軍人であることには間違いがなかった。彼は、同時代人たちに比べても、古くさい18世紀的な形式主義から感化されることがほとんどなかった。しかし、彼自身が受けた軍事教育の最後の最後の痕跡までは捨て去ることができなかったが。たとえば、彼は自身が「地理的な地点」と呼んでいる重大な地勢にこだわる固定観念をもち続けており、時としてこれが敵軍の粉砕という目的から逸脱してしまうような状況を生みだしていた。
『ナポレオン戦争 第四巻』P19,20

 【アーベンスベルク会戦の1809年4月】20日のオーストリアの軍司令官の挙動はまったく不可解で、この日彼はてんかん性の発作に見舞われて行動できなかったのではないかと言われているほどであった。21日もまた目的に向かって行動できなかったと言ってよい。
『ナポレオンとバイエルン』P210

 「積極的に、積極的に、速く」とナポレオンはあの日のマッセナ元帥宛の命令に書いた。これは軍が多分に持っている特性であるが、これを動かし、導くことが必要で、それをナポレオンは誰よりもよく知っていた。カール大公はこのような呼びかけをほとんど利用しなかった。というのは単にそれに必要な性格を持ち合わせていなかっただけでなく、また彼の個人的な能力が彼の軍の欠点を補うのにあまり適していなかったからである。従って彼が最後の瞬間までそもそも戦争にならないようにしつこく警告していたことは賞賛に値する。最初から彼は敗戦が避けられないという萎えた印象の下で行動していたように思われる。さらに健康上の問題がそれに加わった。いずれにせよ彼が優位に立っているときでもまた危機に瀕しているときでも彼が最初の二つの同盟戦争で得た名声を正当化するものでなかったことは疑いない。1809年のバイエルンにおける戦争ほど二人の司令官の間でさまさまな状況において行われた戦いで結果の差がこれほどはっきりと速く出た出兵も珍しいし、その結果が一方的であったのも珍しい。この戦役におけるカール大公よりも1805年のマックの方にもっと素晴らしい戦績が認められるとするのはまったく正当である。この司令官が同じ軍隊を指揮すれば少し後のアスペルンとヴァグラムでナポレオンを非常に困らせたはずだということに異議が出るかもしれない。実際ナポレオンはバイエルンで得た経験から彼の敵の持つ防御能力の高さに非常に驚いた。しかしここでもバイエルンの出兵における状況に決定的な違いがある。組織的な戦闘が防禦として行われるときには、オーストリア軍とその司令官の弱点は移動する戦闘や分散した戦闘の場合ほど影響が現れない。その代わりに彼らの安定性とたとえ受け身であっても疑いもなく高度に持っている勇敢さとが効果を発揮する。そういうことでアスペルンでは役回りが入れ違っていて、引き分けどころか守備側の勝利だったかもしれなかったことを見逃してはならない。
『ナポレオンとバイエルン』P213

 宮廷が求めていたのは命じられた戦争を素直に遂行する軍人であって、政治に対して発言をする軍人ではなかった。しかしカールには、兄皇帝フランツや彼の側近が軍の人的資源の実態を把握せずに、軍事の能力を超えた遠大な目標の達成を軍人たちに要求しているように見えた。軍事力に見合った外交政策を行うには、軍事に明るい人材を配分すべきであり、戦略計画や作戦遂行に宮廷筋が無用の干渉をするのを慎むようカールは要求した。そして、これこそ宮廷が最も忌む「政治に口を挟む軍人」の行為であった。フランツはカールに複数の高級軍人を貼りつけ、彼の動静をスパイするよう命じている。
『歴史群像』103号P159~160



 カール大公は自分自身だけでなく、外部要因で様々な足かせをはめられて戦っており、ワグラム会戦で敗戦した後はまだ30代後半で公職から引退してしまったのも、本人の心の健康のためにはやむを得なかったのだろうなぁという印象を受けます(^_^;

 1813年戦役以後のオーストリアを、シュヴァルツェンベルクという非常に忍耐強い指揮官が担ってくれたのは大変有難かったでしょうねぇ……。


 ↓こちらもどうぞ。 

シュヴァルツェンベルク将軍について (2016/12/31)



 ↓今回の参考文献です。




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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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