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ウェリントン公爵の人となり その2(軍事指揮や性格など)

 以前から読んで紹介していた『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』なんですが、この本だけをネタ本にしてエントリを書いていると著作権的な問題がしんどいので、他の本なんかも参照しながら紹介していこうと思います。


 今回はウェリントン公爵について。ウェリントンについては以前、↓で一度、人となりについて書いてました。

ウェリントン公の人となり (2016/12/28)




Arthur Duke of Wellington

 ↑1814年のウェリントンの肖像画(Wikipediaから)




 まずは、以前、情報を集積していた『イギリス摂政時代の肖像』から。





 ……若い副官としてアイルランド総督の随員であったときでさえ、まれに見る有望な人物であることを示したし、やがて指揮官の地位に就くと、綿密さと鋭い判断力を備えた彼の才能が明らかになってきた。……若い中佐は、糧食が乏しく装備も乏しい混乱した部隊の秩序を立て直す天才であり、彼の軍勢の戦闘能力の程度を正確に評価できる特別な才能もあった。
 彼はあるとき友人のジョン・クローカーに語った。「師団を編成し軍隊を動かす行動に入る前に、指揮官は個々の将兵の技量と活力を、次に中隊の、その次に大隊の、その次に旅団その他の軍団の技量と活力を理解しておかなければならない。私の成功の大部分は、連隊付将校として作戦の良くなかった部分につねに注意を注いできたおかげだと思っている。この問題を私以上に詳しくよく精通している人はわが陸軍にほとんどいない。これがすべての軍事的知識の基礎である。
 ……何十万頭の雄牛と現地人随行者と将兵専門の娼婦などの大群を引き連れた軍隊を、いかにうまく移動させるかが成功のカギだった。他の指揮官は膨大な数の動物と人間の群れを1時間に5マイルの速度で移動させるのは困難だった。ウェリントンはその3倍近い速度でなんとか動かせたし、それよりも速く動かしたこともあった。さらに厳しい天候と険しい地形のため通常は驚くほど多くの命が失われたのだが、彼はそのような被害もなく目的地に到着することができた。それゆえ到着した軍隊は効果的に戦う準備ができていた。
 彼の指導力には別の側面もあった。いかに騒然とした状況に直面しても、彼は異常なほど沈着だった。激しい砲撃音が雷鳴のようにとどろき、硝煙とほこりが視界をさえぎり、混乱が広がった戦闘のさなかにあっても、彼は分別を失わず、自らの立場を査定することができ、賢明な決断を下すことができた。戦闘が彼を変えたとある副官は書いた。彼は「鷲のように」なって、全員を鼓舞しつづけたので、部隊は不思議なほど勇敢になり、不死身のように見えた。……
 インドで見せた彼の際立った才能は対仏戦争で彼を成功に導いた。彼は食料と武器の供給状況について詳細に把握し、部下の将兵の正確な実力を気味悪いほどよく理解し、多勢の敵軍に対峙した際にも自軍をみごとに配置につかせた。加えて、氷のような冷静さと堂々とした勇気をもっていた。

『イギリス摂政時代の肖像』P173,4

 1815年では彼はまだかなり若く45歳であり、壮健でエネルギーに満ち、青い眼は澄み切り短く刈り込んだ褐色の髪にはまだ白髪はなかった。古代ローマ人のような横顔と細身、筋肉質の身体、節制の習慣と堅実な独立独行の雰囲気をもち、あらゆる点で彼は古典的な英雄に見えた。ただ、大声で笑うのは彼の古典的なイメージを壊した。また彼は自分自身を茶化して楽しむ傾向もあった(彼を称える崇拝者たちがぎっしり詰めかけたなかを通り抜けたとき、彼は仲間の一人に「偉人になるのはすばらしいことだ、そうではないかね?」と述べた)。
 公爵のぶっきらぼうなしゃべり方は当時語り草になったが、彼の演説の簡潔さと正確さ - 美文調が流行した時代には控え目すぎるように思われたが - は、彼が成し遂げたまことに顕著な社会的業績の評価を低めるものではない。青年時代の彼はハンサムで魅力的なきわめて女性にもてた男であり、彼はこの特徴を中年まで保持していた。……
 これらすべてを考慮すれば、名誉や自身の容姿に対する公爵の無頓着さはますます驚くべきことであった。彼は飾り気のない、素直で人を安心させるような単純な人だった。彼に尊大さがまったく見られなかったことは、自己のすばらしさを見せつけ誇示した時代にあって異色であった。彼は摂政【後のジョージ4世】の気取った愛顧をまったく受けつけず、実際、摂政のなだめるような愛想のよさにうんざりしていた。彼はそれよりはるかに価値のあるものをもっていた。ウェリントンは同時代の他の卓越したイギリス人の誰よりも、イギリス人同胞に特有の大胆さと沈着冷静さをもっていた。彼は自身がこうした特性の持ち主であっただけでなく、他の人々にそれを吹き込んだ。彼は配下の将兵に不屈の精神を植えつけた。将兵たちはそれゆえ彼のことが好きで彼を「大鼻の翁」と呼び、もし彼から言われたなら、彼のために死ぬまで戦うと誓っていた。彼の簡素な服装 - 彼は古い青のフロックコートを着るのが好きで、優雅に仕立てられた制服は軽蔑していた - とときどき発するしゃがれ声の叱声は、他の指揮官たちのこれ見よがしの残酷な懲罰よりもずっと効果的だった。
『イギリス摂政時代の肖像』P176,7

 公爵の戦場における英雄的奮戦と、幸運にも彼が負傷を免れたことは皆の口の端にのぼった。一人の兵士がウェリントンの乗馬コペンハーゲンの頭を向き変えているときに殺されたが、コペンハーゲンもその乗り手も無傷だった。他の将校がウェリントンの膝の上に腕を休ませていたとき、弾が命中しその腕を切断してしまったが、弾は公爵からそれでいたので彼は救われた。明らかに彼がこれほど命を護られていたからこそ、麾下の将兵たちは彼の激励と勧告にしたがってこの日を切り抜けることができたのである。
 彼は戦闘の中枢にいて騎乗してあちこち動き回り、将兵と銃砲のすべてに注意を払っていたようだった。補強が必要なときには、配下の軍勢が不足していても、なんとか派遣要員を見つけだした。いつも冷静で無理を言わない彼が姿を見せることで将兵を安心させ、彼の重大な仕事をつづけさせることができた。彼は求められればどこにも現れ、逃げ腰のブラウンシュヴァイク兵を再び集結させ、騎兵を適切な配置に誘導し、大砲の配置すべき場所を指示した。またあるときは、熱心な射手がちょうど射程内にいたボナパルトをねらい打ちしようとしたのを思いとどまらせるという、みごとな騎士道精神を見せた。戦後かなり後になって兵士たちは彼の声を回想した。歩兵に対し「並みいるわが若者たちよ」、騎兵に対し「さあわが紳士たちよ」という彼の呼びかけは、兵士たちが忍耐の限界近くになっていたときでも、新たな攻撃作戦に乗りだそうという気持ちにさせたのだった。
 戦後、名誉は公爵に対し雨あられのように寄せられた。ネーデルラント王ウィレム1世は彼をワーテルロー公爵に任じた。
『イギリス摂政時代の肖像』P193





 次に『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』ですが、まずは『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18) に書いていた件を再度。

 しかし最も重要なのは、落ち着いた二言三言で部下達を安心させることや、あるいは重要な場所に自分自身がいるようにするということだった。
「アーサー【ウェリントン公爵のこと】の奴は、売春婦のとこかよ?」
 イギリス兵の一人が、不安そうにウェリントンの姿を探しながら聞いた。
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxi

 「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」ですが、1811年のアルブエラの戦いの時にウェリントンは戦場に間に合わずにベレスフォードが指揮してまして、ウェリントンは会戦の5日後にようやく到着して自分が間に合わなかったことを悔やんだそうで、そのアルブエラの会戦の最中のある兵士の言葉です(『Wellington: A Journey Through My Family』から)。
 より詳しく書けば、Cooperという兵士の回想で、
「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」
「さあな。俺は彼の姿を見てないよ」(Cooper)
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」
 で、Cooperは『私もそう思った』と書いているようです(文献によっては、その時に「俺もそう思う」とCooperは言った、と書いてありますが)。
 ウェリントン公爵は敬愛というよりは畏敬されていたそうですが、彼がいれば負けないという信頼をも得ていたそうですし、彼は戦場を縦横無尽に駆け巡り、重要な地点に自ら姿を現して自ら大隊レベルの指揮を執るというスタイルだったので、兵士達はウェリントンの姿を実際に見ることが多く、このような会話になったのかなぁと推察します。



 次に、同書のウェリントンの人物に関する項のところから。主に軍事指揮に関してを抜粋しました。

 ウェリントン公爵は、小規模な戦術レベルから長期の戦略レベルまでのすべての戦争レベルに関して優れた能力を持った、傑出した指揮官であった。
 【……】
 ウェリントンは革新的なことをやったわけではなく、既に存在してい手法や手段を用いて、まったくの個人の力でそれに無類の効果を発揮せしめたのであった。
 【……】
 ウェリントンの主力は歩兵であった。彼は1811年まで、騎兵をほとんど麾下に持ったことがなく、騎兵の力量や規律に信頼を置いていなかったが、実際には騎兵達はほとんどの場合彼の麾下で良く働いていたし、サラマンカとワーテルローでは重要な役割を果たした。同様に、彼は砲兵も初期にはほとんど持っていなかったのでそれらを歩兵のサポートとしてのみ使用し、ナポレオンのように砲兵を集中させて強力な攻撃用兵器として用いることはなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P115

 ウェリントンの最も有名な戦術は、イギリス軍大隊を尾根の背後に隠し、フランス軍歩兵縦隊の攻撃の最後の瞬間に、射撃戦のための横隊になるいとまを与えずに急激な猛射を与えるというものであった。イギリス軍の横隊が至近距離で一斉射撃か、あるいは第二射までを与えると、銃剣突撃でフランス軍を敗走させるのであった。
 【……】
 彼は「戦いの最も重要な秘訣は予備を保持することだ」と考えていたし、彼は巧みに平穏な戦区から部隊を引き抜き、攻撃をかける地点に局所的な数的優勢を作り出した。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P116

 それゆえウェリントンは戦略的にも戦術的にも高度な柔軟性を持っており、奇襲し、機動することができた。彼のもう一つの特質は機会主義であり、計画を慎重に練りつつも、極めて実際的に、迅速に、予期していなかった戦果を拡張するのであった。
 【……】
 さらに、ウェリントンは敵軍に関する情報にも大きな関心を注いでおり、多くの場合、敵側が彼の軍について知っている程度よりも、彼が敵軍について知っていることの程度の方が大きかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P117

 ウェリントンの成功に秘密があるとすればそれは、彼が常に細部にまで自ら注意を払いつつも、大局的な見方をも失わなかったことである。彼は1811年に、信頼できない部下達について自分の見方をこのように要約している。
「私はすべての場所を見なければならなかったがそれは、私がいないと常に何かがまずいことになるからであった。【……】」

 それゆえ、彼は体調を維持し、自信を持って、断固として行動する必要があった。ある将校は述べている。
「【……】彼の戦場における命令はすべて、簡潔で迅速で明瞭で、要点を得たものであった。」
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P118


 最後の、「信頼できない部下達」についてですが、イギリスは当時売官制で、しかもウェリントンの配下を本国の人間が決めるようなシステムであったために能力が低く、ウェリントンとの信頼関係も関係なく配属されるという状況で……(T_T) 『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』にはこのような記述があります。



 そこで、ウェリントンはしかたなくこう記している。「この軍にいる将官数名の性格や能力を考えると、震えがくる」。
 【……】特に旅団以上の軍勢を指揮する場合、彼らの力量というのがまさにウェリントンの悩みの種だった。彼らはみな勇敢ではあった。しかし、一番欠けていたのは「戦闘時に冷静かつ鋭敏な判断を下すこと」であり、「巧みに命令を伝達し、気力と決断力をもって行動すること。それによって、兵士たちは上官を信頼するようになり、戦闘時に速やかに従うようになる」という点では能力不足だった。こうした資質の欠如により、ややましな指揮官のことでさえ、ウェリントンはこう記さずにはいられなかった。「彼らは私が現場で指揮を執っているときはまさに英雄だが、私が場を離れたとたんに子供のようになってしまう」。
 『ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者』P5,6




 また今回、Wikipediaを見てみたところ、結構面白いことが色々書いてありました。まずは日本語版Wikipediaから。

補給線を伸ばしすぎないように後退して防備を固め、守備戦で敵を撃退することが多かった将軍である。「偉大な将軍の資質は、後退が必要な時にその事実を認めて実行する勇気があることだ」と語った[68]。

ウェリントン公爵はナポレオンと違い、自らの戦勝や功績を大げさに語ることがなかった。ワーテルローの戦いの勝因も「ナポレオンが戦術らしい戦術を使わなかった。フランス軍が従来通り縦隊で進軍してきて従来通り撃退されただけ。それでも苦しい戦いだった。あと少しで負けるところだった」と謙虚な説明をしていた[204]。年老いたウェリントン公爵がハイド・パークを歩行中、身体を支えてくれた通りすがりの人にお礼を述べた際、その通行人は「この世で最も偉大な人物に手を差し伸べられる日が来るとは思いませんでしたよ」と述べたが、それに対してウェリントン公爵は「馬鹿げたことを言いなさんな」と答えたという[205]。

常にイギリス紳士たる自覚を持ち、敗者に対しても寛容であった[206]。その精神はインドの征服地や敗戦国フランスに対しても発揮された。ウェリントン公爵は「戦争が終結したら全ての敵意を忘れねばならない。敵を許さなければ戦争は永遠に続く。大英帝国の政策が些細な悪感情に影響されることがあってはならない」と語っている[207]。

しばしば略奪を働く隷下の兵士たちを「酒を飲むために応募した人間の屑」と呼ぶことがあった[208]。一方彼らの勇敢さはウェリントン公爵も認めるところであり、「粗暴だが勇敢で任務に忠実な兵士たちは、軍事的教養以外にも大事なものを持っている紳士たちに指揮されることによって戦場で大きな力を発揮する」と主張していた[209]。

ただウェリントン公爵の隷下の指揮官たちは軍事教育をほとんど受けておらず、ウェリントンも彼らの能力をあまり高く評価していなかった[210]。そのためワーテルローの戦いにおいても、彼自身が旅団・大隊ランクにまで直に命令を発していた[211]。

戦場ではあまり派手な軍服は着たがらず、全体的に控えめな格好をしていることが多かった[212]。

ナポレオン戦争後の後半生は政界での活動が多くなったが、ウェリントン公爵自身は軍務の方を愛しており、政治家や民間人と付き合うのは好きではなかったという[213]。




 最後に英語版Wikipediaからですが、すごい面白いです(^_^;。

ウェリントンはいつも早起きだった。軍が行軍中でなくても、彼は「目を覚ました状態でベッドに横になったままでいるのが耐えられない」のだった。[218] 1815年以降は民間人に戻ったにもかかわらず、快適さを求める感覚の欠如ゆえ、折りたたみ式ベッドで寝ていたという(現在それはウォルマー城に展示されている)。[219] ミゲル・デ・アラバ将軍は、ウェリントンがしばしば軍は「夜明けに」行軍を開始し、「冷たい肉」を夕食にすると言っていたので、この二つの言葉が怖くなり始めたと不満を漏らしていた。[220] 戦役中彼は、朝食から夕食までの間に何かを食べることはめったになかった。1811年にポルトガルへと撤退する際、彼は「冷たい肉とパン」を常食とし、共に夕食をとる将校達を絶望させた。[221] 尤も、彼が飲んだり人に注いだりするワインは高級なことで知られており、夕食時にはたびたび一瓶を空にした(ただし彼の時代の基準からすれば大した量ではない)。[222]

人前で感情を表すことはほとんどなく、自分よりも能力や出身階級の劣る人(つまりはほとんど全員だが)を見下しているように見えることが多かった。だが、アラバ将軍がサラマンカの戦いの直前にある出来事を目撃している。ウェリントンは小型望遠鏡を通してフランス軍の動きを観察しながら鶏のもも肉を食べていた。フランス軍の左翼が延びきっているの見て彼は、そこへの攻撃が成功するだろうことに気付いた。彼は鳥の骨を空中に放り投げ、フランス語で「フランス軍敗れたり!」と叫んだという。[223] またトゥールーズの戦いの後、側近がナポレオン退位の知らせを伝えると、ウェリントンは即興でフラメンコダンスを始め、くるくる回りながら指を鳴らした。[224]

軍事歴史家のチャールズ・ダルトンはこう書いている。スペインである激戦の後、若い将校が「私は今夜ウェリントンと食事をすることになっています」と発言したが、それが公爵が馬で通り過ぎる際に耳に入った。ウェリントンは言った。「少なくとも私の名前の前にミスターという言葉を付けて欲しい。」 「閣下」 士官は答えた。「私たちはミスター・シーザーやミスター・アレクサンダーとは言わないのに、どうしてミスター・ウェリントンと言う必要があるでしょうか?」[225]

彼の厳格な表情と過酷な規律は有名だった。彼は「私見の表明に過ぎない」として兵士の歓呼に不賛成であったと言われている。[226] だがウェリントンは兵士達を大事にしていた。彼はポルトの戦いとサラマンカの戦いの後でフランス軍を追撃することを拒否したが、それは、減少した敵を追撃するのに起伏の多い地形を通らねばならず、自軍への損害が避けられないことを予見していたからである。彼が公の場で悲しみを示したのはダバホスの戦いの後だけだった。彼は突破口で死んだイギリス人を見て泣き叫んだのである。[120] この文脈において、ヴィトリアの戦いの後に兵士達を「屑のような連中」と呼んだ彼の有名な文書は、彼らが規律を乱したことへの失望や、怒りによって感情が煽られたのだろうと見ることもできる。彼はワーテルローの戦いが終わった夜に主治医の前で、後には自分の家族に、悲しみを率直に表現した。勝利の祝いを受けたくなかったので、彼は涙を流して泣き崩れ、彼の闘志もまたこの戦いの大きな損失と大きな個人的損失によって衰えたのである。[227]


 ダバホスの戦いの後の件は、『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』に載っていました。




 バダホスの戦いは、ウェリントンの戦闘の多くがそうであったように、僅差の競り合いだった。まさに激戦で犠牲も大きく、ウェリントンは戦闘の翌朝、おびただしい戦死者を目の当たりにして涙を流した。ウェリントンが攻撃停止命令を発しようとしたときに突破口を開いて功名をあげた第3師団のサー・トーマス・ピクトンは、バダホス占領の祝いを述べようとして、総司令官が歯を食いしばって涙を堪えているのに気がつき、驚いた。ウェリントンは、政府が工兵隊と地雷工兵隊を送ってくれれば、敵の防御施設をもっと効率的に打ち破り、勇敢な兵士の任務を易しくすることができたはずだと、感情の昂ぶりのあまり、政府の怠慢を罵り、呪った。
『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』P197




 こうして見てみると、ウェリントンの人となりも非常に興味深いですねぇ……。マンガにしたらかなり面白そうだと思うのですが……(^_^;


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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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