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1940年フランス戦役時の第5装甲師団長ハルトリープ将軍について(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』)

 先日の尼崎会でOCS『The Blitzkrieg Legend』のセットアップをしていた時、ロンメルの第7装甲師団と並んで配置される第5装甲師団の師団長についての話が出ました。

 ワニミさん曰く、「その後の戦役で名前が出てこないんだけど、どうなったんだろうね?」と。



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第5、7装甲師団

unit9864.jpg




 そこで、オスプレイの『Fall Gelb 1940 (1): Panzer breakthrough in the West』の戦闘序列で名前を調べたところ、Walsporn中将とあったので検索してみまして、ツイートしてました↓


 しかし改めて『電撃戦という幻』で見てみると、「Walsporn(ヴァルスポルン、とスマホ上で勝手に変換されてました)」ではなく、「ハルトリープ」という名前で載っていました。英語版Wikipedia上では「Max von Hartlieb-Walsporn」とあったのでした(この名前で検索すると、写真も出てきます)。


 『電撃戦という幻』にはハルトリープ将軍は1箇所だけ(+注)に出てきます。

 この日(14日)、第5装甲師団はオー・ル・ワスティア【ディナンの北西約7km】をめぐる激戦を制し、ソミエール【ディナンの西北西約5km】まで進出、この地区のフランス軍の抵抗を無力化することに成功した。戦闘以上に興味をひくのは、とかく噂のあった第5、第7両装甲師団長のあいだの反目【第5装甲師団の先遣戦車部隊が5月12日にホートの指令で第7装甲師団に編入されていたことを巡るものか?】がここでついに表面化したことである。アルデンヌから軍橋建設のための資材がムーズ河畔に到着したが、橋一本分の量しかなかった。ロンメルは資材を第7装甲師団にまわしてくれと軍団長のホートに直訴した。第5装甲師団長マックス・フォン・ハルトリープ中将は抗議したが、結局譲歩し、おまけに自分の師団の新型戦車を渡すため軍橋を使わせてほしいとロンメルに頼まなければならなくなった。ロンメルはこの機会をとらえ、そのまま新型戦車を分捕って自分の攻撃のために使用した。ハルトリープは烈火のごとく怒ったが、ロンメルは意に介さず、第5装甲師団の攻撃がいつももたついて困るとやり返し、さらにホートに向かって、第7装甲師団だけでも攻撃をつづけたいのに (戦車がなくては) それができない、だから戦車をいただいたのだと説明した*80。ホートは、それはあまりにも自分勝手な考えであるとロンメルをたしなめたが【……】
『電撃戦という幻』P63

80 Plato, 5.Panzerdivision, S.53. この立派な第5装甲師団史の著者であるフォン・プラートー中将は、「ロンメルの陰で」の章の中で第7装甲師団長に苦情を申し立てている。しかし、プラートーは自分の師団長【ハルトリープ将軍】とリーダーの理想像としてのロンメルとを比較し、「こちら(第5装甲師団)とくらべて第7装甲師団の統率はすごい。あちらの師団長は最初の日(5月13日)にみずから前線に出向いて橋頭塁を二つもつくり、部下たちの心をがっちりつかんでしまった」 Ebd., S.51.
『電撃戦という幻』P277



 英語版Wikipedia「Max von Hartlieb-Walsporn」ではこう書かれています。

 マックス・フォン・ハルトリープ=ヴァルスポルン(1883年10月20日-1959年7月25日)は、第二次世界大戦中のドイツ軍の将軍。
 ハルトリープ=ヴァルスポルンは1939年の初秋に第5装甲旅団の指揮を執り、その後1939年10月8日に第5装甲師団長となった。同師団を率いて1940年のフランス戦役にも参加したが、軽度に守備されているに過ぎなかったフランスのル・ケノワ(Le Quesnoy)の町を攻略するの同師団をもって4日ほどもかかってしまい、劣悪な指揮官であると認識されるようになってしまった。5月28日までに、彼は予備役に回された。のちに1940年中に、彼は第179【予備装甲】師団長【フランスに駐屯していたが1944年解体されて第116装甲師団に吸収された】に任命されたが、1942年1月に再び予備役もしくは後方管理のポストへと降格され、二度と再び前線の指揮を執ることはなかった。
 
 1942年5月19日に負傷したハルトリープ=ヴァルスポルンはほぼ5ヵ月を病院で過ごし、さらに数ヵ月間予備役となった後、他の管理ポスト職に就いたまま戦争の終結を迎えた。戦後、彼は戦争捕虜となり、2年間を獄中で過ごした。


 第179予備装甲師団というのがあったんですね。歩兵師団かと思ってツイートしてました(^_^;


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』ではル・ケノワ(Le Quesnoy)は村として出てきます。ヴァレンシエンヌとモーブージュの間にはマジノ線があったのですが、その南西部分ですね。

unit9863.jpg


 ル・ケノワ(Le Quesnoy)の町の歴史を記したらしきウェブページには、↓のようにありました。

 フランス戦役時、1940年5月18日にマックス・フォン・ハルトリープ=ヴァルスポルン中将は麾下の第5装甲師団にル・ケノワの攻略を命じた。この町はモロッコ人狙撃兵大隊を含む小さな部隊が守備していた。この攻略戦にハルトリープ=ヴァルスポルンの部隊は4日かかり、その間に他のドイツ軍装甲部隊ははるか先まで進んでしまっていた。フォン・ハルトリープ=ヴァルスポルンはル・ケノワを攻略はしたが、すぐ後に指揮権を剥奪されてしまった。


 この頃の戦況図を探してみたところ、『Fall Gelb 1940 (1): Panzer breakthrough in the West』のP70に5月18日~20日のものがありました↓

unit9862.jpg

 第5装甲師団から延びている矢印の一本目が18日、二本目が19日、三本目が20日のものです(他の部隊も同じ)。これを見ると、完全にル・ケノワで止まっていたわけではないようですが……。そしてまた、第5装甲師団は袋の鼠になりかけているフランス軍大部隊とまともにぶち当たる&他の装甲師団の進撃路の側面を防御するような位置にいるようにも見えるので、他の装甲師団と較べるのは酷ではないかという気もします(^_^;

 しかしまあともかく、5月21日にはようやくル・ケノワを攻略したのだけど5月28日までに予備役に回されたとは……ダンケルクの撤退が完了するのは6月4日で、それまで戦いは続いているので、まさに作戦の途中に降格されたということのようです。ハルトリープ中将はそこまで将軍として拙劣だったのでしょうかね……?

 もっと詳しいことも知りたいところですが、これ以上は多分、ドイツ語文献にあたれとかって話になるでしょうから、ここまでで……(^_^;


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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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