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VASSALモジュールでスタックの下の地形を見られるようにする方法

 富山のKさんとVASSAL対戦してる時に、BCS『Arracourt』のVASSALモジュールはスタックの上でマウスカーソルを止めた時に下の地形が見えないのだけど、見えるようにして欲しいナァ……という話を聞きました。

 「スタックの下のヘクスの地形が見える」というのは、VASSAL3.7あたりから実装された機能です。



 ↓見えるようにした状態。
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 VASSALモジュールをいじったことのない人でも、これができるようにするだけなら難しくないので、解説しておこうと思います。


 まず、いじるつもりのVASSALモジュールのファイル名を確認しておいて下さい。



 VASSALのメニュー上で、「File」→「Edit Module」で左クリックします。

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 ファイルを選択するので、目視で探してダブルクリックするか、ファイル名を入れて探して左クリックして選択して「開く」ボタンを押すかします。

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 少し待つと、↓のような画面が出てきます。

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 ↓「Main Map」と書いてある左側の、「・-」の部分を左クリックします。

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 ↓「Main Map」以下のメニューが開くので、その中の[Mouse-ove Stack Viewer]の部分をダブルクリックします。

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 ↓のような画面が出てきて、「Include terrain beneath as an additional "piece"」が「Never」になっていると思うので、「▼」ボタンを押します。

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 ↓「Always」を選択して左クリックします(「If at least one other piece(最低1コマが存在するならば)」の方がいいかもしれません。以前「If at least one other piece」にしてみたところあまりうまくいかなかったので「Always」と書いてみたのですが、新たに試してみたところ問題ありませんでした(^_^;)

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 ↓新たにこのような設定画面が出てきます。150×150というのはどれだけのマップ上の領域を表示するかだと思うので、必要に応じて再設定してもいいと思います。

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 設定画面の「OK」ボタンを押し、設定画面を閉じます。




 モジュールのデータをセーブします。↓の「File」の下の保存ボタンを押すと上書き保存されます。別の名前で保存するなら、「File」→「Save as」で。モジュールの名前等も変えておくなら、メニューの一番上(画像のBCS-Arracourt[Module]の部分)をダブルクリックすると、下のような設定画面が出てくるので、ここで名前やバージョンナンバーをいじっておいたりすれば。

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騎兵突撃のタイミングは?:アウエルシュタットでのブリュッヒャーの騎兵突撃は早すぎた?

 『Blucher:Scourge of Napoleon』をDeepL翻訳で読んでいってまして、アウエルシュタットの戦い冒頭でのブリュッヒャーの騎兵突撃は早すぎたのだ、という分析があって興味を持ちました。


 ↓『La Bataille D'Auerstaedt』の冒頭、ブリュッヒャーの位置から見たフランス軍ユニット。

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 ブリュッヒャーの能力値が3、6、~、6とあるのは、歩兵戦闘修正3、騎兵戦闘修正6、砲兵射撃修正なし、士気修正6です。





 アウエルシュタットの戦い冒頭、フランス軍歩兵は視界に敵騎兵がいるのを見て、方陣を組みます。そこにブリュッヒャーは騎兵突撃を3度行い、すべて撃退されました。

 ともあれ、ブリュッヒャーは早すぎる攻撃でプロイセン軍騎兵を無駄にしてしまった。軽騎兵のユサールだったブリュッヒャーは、重騎兵の衝撃戦術(shock tactics)を理解していなかったのだ。後に部下となるハンス・ダーヴィト・フォン・ヨルク大佐【いわゆるヨルク将軍はハンスではなくルートヴィヒなので、別人?】は当時のことを、こう語っている: 「ブリュッヒャーはザイトリッツ将軍【七年戦争の有名な騎兵将軍】ではなかった。独立した指揮権を持つユサールの将軍は、無謀な突撃をしがちだった。その突撃に失敗しても、さらに突撃をしようとする。しかし、会戦における騎兵の衝撃力は、正しいタイミングで解き放たれなければならない。そうすれば、その衝撃力の前に、すべてがなぎ払われるのだ。
『Blucher:Scourge of Napoleon』P105



 まず、軽騎兵と重騎兵の役割の違いというのはあります。……と、騎兵にはもっと色々、軽騎兵にも色々ありますが、話がややこしくなるのでざっくり省略しまして(^_^;、軽騎兵のユサール(驃騎兵とも訳される)は、会戦ではない時期(前後)にあらゆる所に散らばっていって偵察したり、同じ役目を持つ敵ユサールとほぼ絶え間なく衝突を繰り返すのが仕事で、「無鉄砲に突入していく」傾向が高かったそうです(『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』P117)。

 それに対して重騎兵は、会戦において重要なタイミングで使用され、その衝撃力で勝敗を決するのが仕事。

 ブリュッヒャーは軽騎兵(ユサール)出身であったので、アウエルシュタットの戦いにおいてもいきなり、無鉄砲に、タイミングをはかることなく突撃を繰り返してしまった……ということかと思われます。


 あと、以前『The Hussar General』*を読んだ時に、ブリュッヒャーは双極性障害(いわゆる躁鬱)であったのであろうと個人的に確信していたのですが、『Blucher:Scourge of Napoleon』P70にはっきりと「鬱病(depression)」と書いてあるのを見つけました。

*:1975年に出たブリュッヒャーに関する伝記本ですが、文学的創造性を自由にしすぎ、事実とフィクションの境界線が曖昧らしいです(『Blucher:Scourge of Napoleon』PREFACE XVIII)。



 双極性障害にも色々あるようなのですが、割と多めなのは、普段は躁状態(いわゆるハイな状態)で、しかし極度の鬱状態に陥ることがある、というものです(ブリュッヒャーが1814年に極度の体調不良に陥った時期というのは、それだと思いますし、またブリュッヒャーは一時期、「自分は象を妊娠したに違いない」と思い込んだことがあったそうですが、それもそうではないかと……)。

 躁状態の時には、危険を顧みずに次々に企図したことを実行せずにいられなくなるらしいので、このアウエルシュタットの戦い冒頭の時にも基本的にはそういうことが影響していたのではないかと個人的に推察します。


 双極性障害(であるがゆえ)の偉人達については、↓で一度書いてました。

『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』読了。南北戦争や第二次世界大戦のリーダーに興味のある人にも超オススメです! (2021/03/03)





 それから、重騎兵による騎兵突撃については、以前GameJournalの『ワーテルローの落日』の号で、「突撃戦術時代の騎兵について」という記事を書いてました。ただ、何かを読んで書いたハズなのですが、何を読んで書いたのか思い出せません……(>_<)

 今回関係ありそうなところを一部抜粋しますと、

 ただ騎兵突撃が成功するためは、ある程度の条件が必要であった。それは歩兵が騎兵突撃に対する準備が出来ていない時に突撃をかけるという事であり、具体的には、歩兵が縦隊である時、移動中である時、砲撃やマスケット銃の銃火によって歩兵が混乱している時、あるいは退却が始まろうとする時などであった。他にも地形や硝煙によって歩兵から見えていない場所からいきなり騎兵が出現した場合や、上級指揮官のミスなどで時宜を得た隊形変換が行われず危険なままに放置された歩兵部隊、あるいは隊形変換の途中の歩兵部隊や、騎兵突撃をおこなった直後で疲弊している状態の騎兵部隊に対しては騎兵突撃が大きく成功し得た。あるいはまた勿論、戦いが長く続いて歩兵部隊の疲労が蓄積し損害が増大していくに従って士気の維持が困難になってくると騎兵突撃は成功しやすくなった。

 だが騎兵突撃は成功しない事もよくあった。それはまだ士気阻喪していない歩兵部隊が、騎兵に対抗するための隊形である方陣隊形を取った場合である。方陣という隊形は、真ん中に指揮官が位置し、その周りに四角形の形で兵士達が並び、外側を向く隊形である。そして一列目の兵士は膝を付いて、騎兵が近づいて来るならばそれを下から銃剣で刺し、二列目以降は銃剣をまっすぐ外に向けて銃を発射する。方陣は外から見た場合、あたかもハリネズミの様であり、常に密集隊形を維持する。これが維持できなければその隙間から騎兵に口をこじ開けられ、方陣は崩壊する事になるわけである。

 歩兵達は訓練を受けており、横隊や縦隊から方陣隊形に、指揮官の命令で隊形変換するのであるが、これにはいくばくかの時間がかかる。隊形変換が間に合わずに、まだ閉じていない口から騎兵に突っ込まれて部隊全体が蹂躙されるという事もよくあった。だがいったん方陣隊形が完成すれば、これを騎兵が突き崩す事は困難であった。馬は本能的に堅固な塊状のものや、刃物の様に鋭く突き出たものへ走り込むことを忌避する。そのため騎乗した人間がいくら馬を叱咤しても、馬はそこに突っ込んではいかなかった。その場合やむを得ず、騎兵と方陣はにらみ合い、騎兵は銃や剣でなんとか一部を突き崩そうとしたり(その際、槍騎兵の長い槍は一定の効果が見込めた)、一度退いては飛びかかろうとする様を見せつけて脅すくらいのことしかできなかった。



 先日、『La Bataille D'Auerstaedt』のセットアップをしてみた時に、フランス軍側はいきなり前方に割と兵力の多い敵騎兵集団がいて、「こういう場合いったいどうするの……?」と思ったのでしたが、史実を調べてみると、「騎兵が見えたら、とりあえずは方陣隊形を組む(方陣を組めない散兵は逃げる)」ということであったらしく、「あ、なるほど……」と(^_^;

 逆に、方陣を組まれてしまったならば騎兵側は、突撃してもそれほどうまくいかないので、自重した方がいいと……(ただし、相手が新兵とかだったら突撃の成功率は上がるかもです。アウエルシュタットの戦いのフランス軍は、戦史上最強クラスの部隊だったので、うまくいくわけがなかった……)。




 あと、この「突撃戦術時代の騎兵について」の記事には、編集長から「実際の例を書いてくれ」と言われて、マレンゴの戦いの時のことを書き加えてあったのですが、掲載時にはそこはばっさり削られてました(^_^; せっかくなのと、『Triomphe à Marengo』解読中でもあるので、そこの部分を挙げておこうと思います。

 最も華々しい場合には、完敗の淵にあった会戦が完璧なタイミングでの騎兵突撃によって完全にひっくり返り、大勝利になった例もある。1800年のマレンゴの戦いがそれである。第一執政であったナポレオンの判断ミスにより30,000のオーストリア軍から22,000のフランス軍が攻撃を受け、午後4時には誰の目にも敗北は確実であった。ただ、退却の援護として一部の部隊の攻撃が提案される。騎兵指揮官のケレルマンは朝には1500騎あったものが散り散りになってしまっていた竜騎兵、軽騎兵、猟騎兵などをかき集め、やっとのことで400騎の集団に仕立てた。かき集めた大砲でフランス軍が反撃を開始し、歩兵部隊が前進するもすでに圧倒的な勝利を確信している敵兵の前に隊形は崩れ、オーストリア兵の反撃が始まってしまう。この時であった。ケレルマンは400騎の騎兵を敵部隊の側面の葡萄畑に前進させており、オーストリア兵はその存在にまったく気づいていなかった。ケレルマンは完璧なタイミングで、オーストリア軍の側面への突撃を命じる。サーベルを水平に構えたフランス軍騎兵集団がオーストリア歩兵の真横に、完全な奇襲をおこなった。側面からいきなり攻撃されたオーストリア兵は小銃を撃つこともできず、隊列の中に侵入してくる騎兵を防ぐ術を持たなかった。大上段から斬りつけられ、鋭い刃で突き刺され、周りであっという間に大殺戮が展開される状態になったオーストリア兵達は完全に浮き足立った。恐慌が瞬く間に広がり、集団での降伏が始まる。この時、400騎に足らぬ騎兵は2000名のオーストリア精兵を捕虜にした。その場を何とか逃れたオーストリア兵はむしろ、全軍に恐怖をまき散らす存在となってしまう。それを見て始まったフランス軍歩兵の反撃の前に、オーストリア軍全体はまったくなすすべがなかった。夜の帳が降りる頃には、マレンゴの戦いはフランス軍の完勝となっていたのである。



 『Triomphe à Marengo』は騎兵による側面攻撃の効果が非常に強力だという話を聞いており、それは史実でのケレルマンの騎兵突撃(戦史上、最高クラスの成功した騎兵突撃!)を再現するためでもあろうと思いますが、逆に、「えっ、私の騎兵突撃強すぎ……?」ではないかという危惧も感じており、そうすると「普段、どうやって相手の騎兵突撃を阻止し、そして自分は騎兵突撃ができるようにするか」という騎兵運用がキモなのかな……? と想像しているのですが、どうなんでしょう……。

ブリュッヒャー元帥の能力欠如説の誤解と、他の指揮官になかった得がたい長所?

 『ナポレオン戦争期の指揮官達』(仮)のためにとりあえず、以前買っていた『Blucher:Scourge of Napoleon』を読んでいこうと思ってます。


 この本の序文には、ブリュッヒャー元帥の能力欠如説の誤解と、他の指揮官になかった得がたい長所?に関して記述してありまして、その点を書いてみようと思います(序文は、全文が↑のAmazon上の中身検索で読めます)。


 ブリュッヒャー元帥の「能力欠如説」とは、私自身も以前GameJournal誌の記事でそういう風に書いたりしていましたが(>_<)、例えば、

・挫けることなく「前進せよ」と言ったり、兵士を鼓舞することには巧みだが、軍事的な能力はないに等しい

・軽率、無責任で、彼の性急さによって疲労困憊した兵士達は補給不足になり、かなりの戦闘犠牲者を出した。

・他の同列指揮官(例えば慎重なシュヴァルツェンベルク)の部隊と連携できず、作戦上の危機を何度も作り出しさえした。

 ……というような感じでしょうか?



 ところが、この本の序文によると、

・実際にはブリュッヒャーは、前進するよりも、(作戦上の必要性を理解した上で?)後退した回数の方が多いくらいだった

・麾下部隊の調和、結束への深い貢献があった。ヨルク将軍やランジュロン将軍は何度もブリュッヒャーに反抗したものだったが、ブリュッヒャーはタイムリーな冗談を言ったり、故郷の愛する人について思慮深く尋ねたり、我慢強く人の話を聞いたり、親しみやすい夕食の集まりをしたりと、数多くのメンバーの違いやエゴにもかかわらず、調和を保つ不思議な才能があった。ランジュロン将軍などは最終的にはブリュッヒャーに従うようになったようで?、ブリュッヒャーが麾下部隊の結束に尽くした功績は大きかった。

・ブリュッヒャーの書簡から、彼が戦役や作戦計画について十分に理解し、グナイゼナウ参謀長らとよく議論していたことが分かる。グナイゼナウは確かに非常に優秀であったが、ブリュッヒャーの部隊の功績がグナイゼナウからのみに由来し、ブリュッヒャーはお飾りに過ぎなかったというような見解は、間違いである。グナイゼナウの作戦計画は、最終的にブリュッヒャーの承認なしには実行できなかったし、グナイゼナウは何度も、ブリュッヒャーの絶え間ない前進要求に対して苦言を呈していた。彼ら二人はチームであり、お互いに補い合う存在であった。

・ブリュッヒャーの存在と、その意志がグナイゼナウらにとっても非常に重要であったという大きな例が2つある。1814年のランの戦いの後、ブリュッヒャーが極度の体調不良に陥り、寝たきりで動けなくなった時、グナイゼナウは密かに軍を指揮するよりもむしろ作戦を中止した。1815年のリニーの戦いでブリュッヒャーが行方不明になった時、グナイゼナウ自身は元々後方へ下がるべきだと考えていたが、ブリュッヒャーが言っていた?意志を尊重して、イギリス連合軍と連携できる方向へ退却した。

・ブリュッヒャー(とグナイゼナウ)のあまりに大きな前進速度と、後方連絡線を自ら捨てるような、大胆で、異例で、予想外の動きはナポレオンを当惑させ、苛立たせた。ブリュッヒャーが敵を欺き続けたその姿は、ボナパルト将軍の第1次イタリア遠征のそれに似ている。ナポレオンはしばしば、ブリュッヒャーをジョークのネタにしたものだったが、最終的には、ブリュッヒャーが(かつてナポレオンが敵に対してしたように)予想外の動きをしたがために、敗北したのであった。


 ↑これら、特に最後のものなど、個人的に結構「おおおお……」と思うんですが、最も「なるほど……」と思ったのは、ロシア軍兵士達との関係性の話で、引用してみます(1813年、1814年戦役では、ブリュッヒャーの麾下に多くのロシア軍部隊が派遣されていました)。

 ブリュッヒャーがシュレージエン(シレジア)方面軍のロシア兵と模範的な関係を築いたこともわかっている。ロシア皇帝アレクサンドル1世が、3つの連合国軍に兵力を配分するという寛大な決定を下したことを知らなかったロシア軍将兵たちは、シュレージエン方面軍に配属されたことで軽んじられていると感じた。主君の御前で戦うことを望んでいたロシア軍将校たちは、栄光を得る機会がまったくではないにせよ、激減したと考えた。ロシア軍の将軍が連合軍の方面軍指揮官に一人も選ばれなかったことも同様にロシア人を苛立たせ、アレクサンドル1世が中央ヨーロッパにロシア軍部隊を派遣するという決定に反対する者さえいた。それにもかかわらず、ブリュッヒャーはロシア軍部隊との関係において非常に現実的なアプローチをとった。同時代の人物の一人、フリードリヒ・カール・フォン・ミュフリングは、不和を避けることだけが彼の目標ではなく、「兄弟的な調和を確立する」ことで、ロシア軍兵士達が「喜んでとは言わないまでも、少なくとも嫌がらずに」戦争を遂行できるようにすることが目標だったと書いている。

 ブリュッヒャーは、多くのプロイセン人が共有していた、ロシア人はドイツにいる間はドイツの習慣を取り入れるべきだという意見を否定した。そうではなく、プロイセン軍はロシア軍に合わせるべきだと考えた。ブリュッヒャーは確固とした原則として、プロイセン軍は「偉大な行動によって同盟国の尊敬を獲得し、維持する」べきだと主張した。従って、彼の考えでは、プロイセン軍は最も困難な任務を引き受け、最悪の道を行軍し、あらゆる攻撃の先頭に立つべきである。ヨルク将軍はたまりかねて抗議したが、ミュフリングは、この信念がブリュッヒャーの指揮の「基本的条件」であったと断言している。「ロシア軍の援助なしには、我々を不面目と永遠の隷属へと陥れる巨像【ナポレオン麾下のフランス軍】を粉砕することはできない。しかし、我々自身の力では十分でないところに、援助以上のものを望むのは不当である」。ブリュッヒャーの支持者でもなかったミュフリングも、こう結論付けている。 「ロシアは1812年に自らを解放した。今度は我々の番が来たのだ。ブリュッヒャー将軍は、国家の名誉という非常に高尚な概念を抱いていた。それは、我々が利益を得ることを期待して重労働を他人に転嫁するという、卑劣な考え方とバランスをとるためであった。」

 ロシア軍将校達はブリュッヒャーを愛し、慕うようになった。ブリュッヒャーが最前線で自らを危険に晒して指揮を執り、また自軍兵士達だけでなくロシア軍兵士達に対しても常に父親のような気遣いを見せたことを高く評価したのである。ブリュッヒャーに「前進元帥」というニックネームを与えたのはロシア兵たちであり、ブリュッヒャーがどこに現れても、彼らは万歳三唱で彼を迎えた。コサック兵達は特に彼を崇拝した。ブリュッヒャーはコサック一族の一人として草原で生まれたが、幼い頃に一族からさらわれたのだと主張しさえした。1814年、ブリュッヒャーが彼の司令部に配属されていたコサック分遣隊に別れを告げたとき、彼ら全員が涙を流した。しかしロシア軍将校達は、プロイセン軍将校たちの傲慢さを抑えるために、もっとブリュッヒャーのやり方が広がって欲しかったとさえ思っていたのである。ランジュロン将軍によれば、「この戦争の間中ずっと、プロイセン軍の者達は、公爵も、将軍も、将校も,兵士も、民兵でさえも、七年戦争の頃の自慢話ばかりで、その傲慢さはまったく耐えられなかった。1806年戦役のことなど覚えていないかのようだった。我々ロシア軍の将校達は、主君の命に従って実際にプロイセン軍の指揮下にあるという状況の中で、非常に難しい慎重さと、自制を示すことが必要だった。」
『Blucher:Scourge of Napoleon』PREFACE XIII, XIV


 シュヴァルツェンベルクが指揮していたベーメン(ボヘミア)方面軍の方にはロシア皇帝アレクサンドル1世自身がいましたから、ロシア軍部隊に言うことを聞かせるのもより容易だったでしょう。しかし、ブリュッヒャーのシュレージエン(シレジア)方面軍のロシア軍部隊が不満を持たないようにするには、ブリュッヒャーの考え方、やり方が本当に必須だったのでしょうね。このやり方を、他のプロイセン軍の将軍(クライストとか、ビューローとか、ヨルクとか……)ができただろうかというと……?(まだそれらの人物について私も良く分かってないのですが、悲観的な気はします)

 「助けてもらうなら、助けてもらう側がまず必死にやらなければならない」だろうとかってのは、他の件も絡めて色々思うところがありますが、しかし1813年、1814年戦役におけるプロイセン人達が七年戦争の自慢話ばかりしていたというのは、「えええ~……?」という気もしました(^_^;




『ナポレオン戦争期の指揮官達』(仮)のブラウンシュヴァイク公(父子)のページを作ってみました

 承前。続けて、『ナポレオン戦争期の指揮官達』(仮)のブラウンシュヴァイク公(父子)のページを作ってみました

同人誌?『ナポレオン戦争期の指揮官達』のページを試しに作ってみました (2024/04/11)



 ↓にPDFファイルを置いてみました。

ナポレオン戦争期の指揮官達03b.pdf




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 『The Battle of QUATRE BRAS 1815』の表紙は、黒公爵が運ばれるシーンであるようです。








  父親の方のブラウンシュヴァイク公は、今度2度目の再版をされることになったSS『皇帝ナポレオン』にも出てくるのですが、このゲームではプロイセン軍指揮官はこのブラウンシュヴァイク公とブリュッヒャーしか出てこず、ナポレオン戦争期の前半におけるプロイセン軍を代表する指揮官と言えるでしょう(ちなみに、オーストリア軍はカール大公、マック、シュヴァルツェンベルクの3人、ロシア軍はバルクライ、クトゥーゾフ、ヴィトゲンシュタインの3人、フランス軍はナポレオン、スルト、ダヴー、ネイの4人という感じです)。


 ↓コマンドマガジン119号(2014年)で再版された時のブラウンシュヴァイク公のユニット。

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 AH『戦争と平和』だとプロイセン軍指揮官は7人出てくるのですが、1815年シナリオにもしブラウンシュヴァイク公ユニットが出てくるなら(手放してしまったので確認できません(>_<))、それは息子の方であることでしょう(しかし規模的には出てくる可能性は低そうな……?)。

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バタイユシリーズの『La Bataille D'Auerstaedt』でのブラウンシュヴァイク公のユニットの表面は、↓のようなものです(BGGの『La Bataille D'Auerstaedt』にある画像から。ただし、シャルンホルストのユニットなどは後付けのもの?で、ゲームには入っていません)。

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 裏面の能力値は↓となっていました。

歩兵戦闘:+3
騎兵戦闘:+2
砲兵射撃:+3
士気修正:+5





 『La Bataille de Mont Saint Jean(2nd Ed, Deluxe Version) 』(『La Bataille des Quatre Bras』)で息子の方のブラウンシュヴァイク公のユニットや部隊を見てみると、↓のようでした。

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 黒公爵の裏面の能力値は↓となってますので、微妙に父の方が優秀?

歩兵戦闘:+2
騎兵戦闘:+3
砲兵射撃:+1
士気修正:+4



 余談となりますが、ウェリントン公が歩兵戦闘:+4(攻撃)/+8(防御)、士気修正:+8となってますが、ダヴーは歩兵戦闘:+9、士気修正:+12ですから、ウェリントン公より優秀?

 ただし、プロイセン王妃のマリー・ルイーゼは士気修正:+18ですから、ものすごいです(王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は士気修正:+1……)。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマで中国国民党軍が極度に消極的だった理由と、イギリスが中国軍をビルマに入れたくなかった理由

 本屋でたまたま、『インテリジェンスで読む日中戦争』という本を見つけまして、1942年のビルマ戦線における中国、イギリス、アメリカに関しても記述があるようなので買って読んでみてました。

 すると、ビルマ戦線で中国国民党軍が極度に消極的だった理由と、イギリスが中国軍をビルマに入れたくなかった理由が書かれていて、「なるほど……!」となりました。


 中国国民党軍の消極的な姿勢というのは、たとえば↓のようなものでした。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。

『中国=ビルマ=インド』P24




 『インテリジェンスで読む日中戦争』で書かれていた、中国国民党軍がビルマで極度に消極的だった理由は、↓のようなもの。

1.蒋介石は、ビルマ戦線に中国国民党軍の大軍を割いて、しかもそこで大損害を受けでもしたら、日本軍はその機に乗じて中国本土の他の前線を攻撃し、中国本土の戦域が崩壊しかねないと恐れていた(P68)。

2.外国からの軍事支援は乏しいものだった(かつ中国では軍備を生産できない)ので、装備の使用に慎重にならざるを得ない(P70)。

3.日本との戦争後に予想される中国共産党との内戦のことを考えると、装備を持っているということ自体が中共軍に対する優位になるから、外国からの軍事支援による装備を使わずに貯蔵しておきたい(P70)。


 特に↑の3が重要だと思われました。



 『中国=ビルマ=インド』の記述も探してみると、上記3も書かれていましたが、↓もありました。

4.蒋介石は自然要害と、連合軍の努力によって日本軍が弱るのを待つという戦略であり、ビルマで中国国民党軍を戦闘に参加させることに消極的だった(P18)。


 また、蒋介石にとって、ビルマルートによる中国への軍事支援は重要ではあるものの、アメリカはヨーロッパ戦線への支援を極度に重視するという政策で、アジア方面でも太平洋戦域が重視されており、しかも恣意的に中国向きの物資がヨーロッパ向けに振り替えられたりで実際に受け取れているのは微々たる量に過ぎなかったので、「ビルマルートの維持」と「中国国民党軍の維持」を天秤にかけると、後者の方が重要だという判断になった……ということだとも思われました。



 一方で、イギリス側の思惑について。

 イギリス軍のウェーヴェル将軍が「ビルマに中国軍を入れたくない」と思っていて、中国軍が入ってくるのを最初許可しなかった……というような記述は今まで何回か見ていたのですが、理由については全然分からないままスルーしていました(理由書いてあったかもですが(^_^;)。

 『インテリジェンスで読む日中戦争』によると、そもそも「イギリスは、蒋介石政権に対する支援に熱心でない」(P74)と……(アメリカ、というかフランクリン・ルーズベルト大統領は割と熱心だったけども、出先機関などの運用がうまくいかず。イギリスは、現場の人は割と熱心なのだけども、チャーチルなどが蒋介石支援に反対で却下しまくった(P80))。

 それどころか、日本を利するかのようにイギリスは1940年7月から3ヵ月間、ビルマロードを閉鎖してしまい、その間に日本の対中攻撃が激化したそうです(P74)。

 いったいどういうことかというと、こういう風なことらしいです。

 日英開戦後、蒋介石は、香港奪還のために3個軍を派遣するとイギリスに申し出ましたが、拒絶されます。蒋介石がなおも出兵を主張すると、イギリスは「防空援護をしない」と答えました。
 イギリスとしては、香港は自分のものだから自分の力で日本から取り戻したかったのです。中国軍の力を借りれば、あとで、「日本人が大英帝国から奪った植民地を中国人が取り戻した」と蒋介石に言われかねないからです。
 【……】
 【蒋介石にとって】ビルマ・ルートが重要なことに変わりはありません。日英開戦前に英中が軍事協力について協議した際は、中国側が10個軍をいつでもビルマに入れるように準備することで合意していました。
 ところが実際に日英間で戦争が始まると、イギリスはラングーンとビルマ・ロード防衛のために中国軍部隊をビルマに入れることに断固反対しました。表向きは道路状況が悪いから「安全上」インド軍を使う方が良いということでしたが、本音は香港奪還に中国軍を使いたくなかったのと同じ理由でしょう。
『インテリジェンスで読む日中戦争』P78,9


 しかもイギリスは、第二次世界大戦中に中国に対して分裂工作(中華民国内で独立性が強かった地域に独立工作を仕掛けたり、中国共産党を支援したり)を仕掛けていたそうです。つまり、日本が強くなるのも困るけども、中国が強くなるのも困る、なぜなら、ビルマや中国におけるイギリスの利権が大事なわけですから。


 それに比べるとアメリカは当時「ウィーク・ジャパン」という、「日本が弱くなればアジアは平和になってよい」と考える政策を実行していたそうで、中国を支援する方向だった。ただし、中国共産党の力を軽視しまくっており、国民党を十分には支援しきれなかったことによって、中国共産党を太らせてしまい、ここ100年における対中政策を誤ってしまったのだ、と……。


 「国民党を十分には支援しきれなかった」件ですが、スティルウェル将軍が現地で自分の恣意で国民党への軍事支援物資をねじ曲げまくっていたらしく(P54)、また、本来中国=ビルマ=インド戦域には当初別の人物が赴任することになっており、荷造りまでしていたのに、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀長が個人的な理由で、昔からの部下でずっと階級が下のスティルウェルを無理矢理ねじ込んだのだとか。マーシャル将軍は素晴らしいリーダーシップを持った人物だと通常賞賛されていますが、この点については一部から非常に批判されたりしているそうで、そこらへん興味深かったです。


<2024/04/26追記>

 『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』という本を購入して読んでいたところ、また色々と違うことが書いてあったので、そこらへんを追記してみようと思います。

 英国に対しては、帝国主義国家の筆頭、最初に中国の主権を侵害し、不平等条約の先鞭をつけた国として、中国は恐れ、嫌っていた。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P268

 中国は伝統的にビルマに曖昧な所有権を主張し、放棄したことがないので、英国はそのビルマに中国軍が入ってくるのを少しも望まなかった。彼らがいったん国境を越えたら、中国人を大嫌いな地元住民と問題を起こすほかに、居座ってしまう恐れがあった。ウェーヴェルはインド軍部隊の増援を待っており、当然、「大英帝国に属する国は、外国の軍隊ではなく、帝国の軍隊によって防衛される」ことを望んだ。おまけにビルマでは、中国からの大量の流入を養うこともできないし、移動させることもできないと知らされていた。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P270

 【日本軍がビルマへの侵攻を始めると】いらないと一度は断った中国軍が急に頼もしくみえてきた。英国はビルマ第1師団をラングーン防衛に転用するため、同師団が布陣していたビルマ東部国境地帯のシャン諸州の防衛の肩代わりを中国軍に要請した。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P279

 【中国軍が】戦意を失った原因のひとつは、日本軍とはもう十分長く戦ってきた、今度はほかのだれかが戦う番だと中国人が思っていたこと、ひとつは、地方では権力を握るため、中央政府の場合は中共との戦いに備えて、それぞれ兵力を退蔵する傾向があったためである。そして最後に、自信を失っていたからでもあった。「中国人は中国の軍隊が日本軍と戦えるなどと思っていない」とスティルウェルは書いている。
『失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍』P302



 また、この本によると、イギリスがビルマロードを3ヵ月間ストップさせたのは、日本から外交圧力によるものでやむを得ずであったとありました(ただし、ストップさせたこと自体は中国側の恨みを買った)。

 それからマーシャルがスティルウェルを中国に派遣したのは、そもそもアメリカ陸軍の訓練などにおいてスティルウェルは非常に優秀で、マーシャルからスティルウェルが第一級の人物だと見なされていたことがあり、しかも中国への派遣の問題が持ち上がった時、別の人物を厄介払いするために推薦したところ、却ってスティルウェルを派遣せざるを得なくなった事情があったということでした。この本を読んでいた感じでは、マーシャルがスティルウェルを中国に派遣した時の判断としては、非難されるべきような感じは受けませんでした(その後もずっとスティルウェルをとどまらせたことに関してはどうか分かりませんが)。

<追記ここまで>

同人誌?『ナポレオン戦争期の指揮官達』のページを試しに作ってみました

 コマンドマガジン52『赤い夕陽のナポレオン』をプレイしたりする中で、ナポレオン戦争期の指揮官達について調べたい&まとめておきたい機運が自分の中で盛り上がってきました。

 で、もしかしたら同人誌とかで出版できたらという方向で考えようかとも(最初はプロイセン軍指揮官のみでにしようかと思いましたが、各国全部入れないと駄目だなと考え直しました(^_^;)。


 方針としては……

・肖像画はパブリックドメインとして利用できるWikipedia上にある限りは必ず入れたい。
・オールカラー版が欲しい(白黒版もありとしても……)。boothとか、kindle版とかでならできる?
・細かい事績はWikipediaで見られるし(英語版Wikipediaしかなくても機械翻訳してくれるし)、省略する。
・事績の要約と、人物像(能力と性格)をメインとし、それに興味深いエピソードも書けそうならそれも。
・ごく短くしか書けない人物がいっぱいいてOK。
・日本語版Wikipeiaと英語版WikipediaへのQRコードを付ける
・ナポレオニックウォーゲームをプレイする時の「お供」として有用なものにしたい。

 というような感じで?


 試しに作ってみたものを、↓に置いてみました(以前調べていたブログ記事を短くした感じです)。

ナポレオン戦争期の指揮官達02.pdf




 まあ、途中で企画倒れになる可能性もありますが……。でもやってみようかと思う理由として、↓のようなものも。

1.今作ろうとしてみている自作ゲームはうまく作れるかどうか分からない(水物だ)けども、歴史記事まとめのようなものは努力すれば完成には至るだろうし、最悪無料配布でもいい(OCS『Crimea』のデザイナーズノートに、デヴィッド・グランツ氏から「ウォーゲーマーはもっと歴史の本を書くべきだと思っている」と言われた、という話もありましたし(^_^;)。

2.かつてのウォーゲーム雑誌のナポレオン時代の指揮官紹介を読んでいると、ここ10年くらいで私が調べたりした各指揮官の人物像に比べて、見方が古い/浅い/偏っているような気がすることがあるのだけど、それらをただブログとかで批判するのではなく、本だとかの建設的な形で提示するのでなければならないだろう

3.北アフリカ戦の枢軸軍・連合軍の指揮官人物伝も将来的に同人誌か何かにできればという気持ちがあるのだけど、資料にアーヴィングとかパウル・カレルとかの批判されるものも使っている(使わざるを得ない)ので、やましい。でもその前にナポレオン戦争期の指揮官人物伝を出しておけば、ちょっと許される度合いが高まるような気がするバキッ!!☆/(x_x)


 とかとか……。ちょっとやりたいこと、やろうとすることを増やしすぎの感もあるのですが(T_T)


 で、関係資料本も結構注文してみました(そしたら、すでにkindle版で持っているものの書籍版を注文してしまったことも明らかに(>_<))。

「People of Napoleonic Period」というウェブページの、ナポレオン戦争時代の指揮官達の人物の要約を和訳してみました

 「People of Napoleonic Period」というウェブページを見つけまして、ナポレオン戦争時代の指揮官達の参加した戦争や会戦、それに人物像の要約などをまとめたもののようでした。

 トップページを見てみると、ナポレオニックのコンピューターゲームを昔作ったり、あるいは今作ったりしている方のもののようです。


 私は人物像の要約に心引かれ、いくらか試しにDeepL翻訳で見てみたところ、結構いい感じのように思ったので、要約だけをDeepL翻訳にかけ、最低限修正して、まとめておこうと思います(よく分からないところも多数ありますが、今後また修正していくということで)。




フランス軍の指揮官

ナポレオン
 傑出した軍人であり政治家であったナポレオンは、歴史上最も偉大な軍事指揮官の五本の指に必ず入るであろう。彼は大胆で、機会を掴み、完全な粉砕勝利を求めた。彼はその時代にその名を残した。

オージュロー
 粗暴な男であり、また立身出世の途中は欲得ずくの人物であったが、非常にプロフェッショナルな兵士であり、また闘士であった。ナポレオンの第1次イタリア遠征における彼の役割が、おそらく、彼の歴史的地位をもたらした。アイラウでは、彼は自分の軍団とともに非常に手荒く扱われ【確か、体調をひどく崩していたにもかかわらず前線に立つことを要請され、大きな損害を被った?】、その後も同じようにはいかなかったように思われる。

ベルナドット
 スウェーデン国王として死去。1813年のナポレオンの敗北に大きく貢献した彼は、それ以来、多くのフランス人から裏切り者とみなされてきた。非常に政治的な人物であった彼は、1797年にイタリアで出会った当初からナポレオンから疑わしく思われていたようだ。1806年と1809年に報告された彼の行動についての評価は、ナポレオン側からの偏見を念頭に置くべきである【ベルナドットは恐らく悪くなかったにもかかわらず、ナポレオンによってスケープゴートにされたことを指す】。実際、ベルナドットの指揮官としての勇敢さは疑う余地のないものであったし、目立つ存在であった。用心深いとはいえ、将軍としてはかなり有能であったようだ。

ベルトラン
 ベルトランはナポレオンに忠実だった。与えられた仕事はどんなものであれ、確かな能力でこなした。ただ、大きな閃きを見せたわけでも、それ以上のビジョンを示したわけでもないようだが。

ベルティエ
 ベルティエは非常に有能な参謀将校で、フランス王国軍で15年以上の経験を積んでいた。多くの王国将校とは異なり、彼はフランスに留まった。1792年には北方軍の参謀長を務めたが、停職処分を受けた。1795年に復職し、イタリア方面軍の参謀長となった。1796年にナポレオンがその司令官に任命されると、ナポレオンとの長いパートナーシップが始まった。ベルティエの参謀長としての仕事はナポレオンの成功の重要な要因であり、1815年に彼が不在となった時は惜しまれた。彼は、重要性においても人格においても、単なる事務官以上の存在であった。ベルティエのように、歩兵の隊列を率いてオーストリア軍の砲火をくぐり抜け、ロディの橋を渡った「事務官」は想像しにくい。

ベシェール
 ナポレオンの良き忠実な友人だった。彼は皆から非常に好かれていた。元帥になった当時【1804年】、彼はまだ独立した指揮はおろか、大部隊の指揮も執ったことがなかった。このことは、他の元帥達にはまったく納得できないことだったようだ。それでも彼は、戦場では勇敢で有能な騎兵指揮官であり、独立した指揮官としても力量の高い将軍であることを証明した。一方で、彼は悲観的で用心深すぎたという見方もある。彼はメディナ・デ・リオ・セコの大勝利の時ほど積極的に追撃しなかったようだ。彼の遅参が、フエントス・デ・オノロの戦いの敗北に繋がった可能性もある。彼が1812年にナポレオンに進言したことは、ロシア戦役の敗北に繋がったとされている。

ブリュンヌ
 熱烈な共和主義者であり、軍事政治家でもあった。ブリュンヌの経歴の大部分は軍政に費やされた。彼は苛烈であるという評判があった。1798年にイタリアで部下だったスーシェは、ブリュンヌを「最も恥知らずな略奪者」と評した。ナポレオンは彼を高官にふさわしくないと考えていたようだ。しかし、指揮官としては勇敢で、1799年に英露軍の上陸からオランダを防衛したことは高く評価された。駐トルコ大使だった1804年に帝国元帥に昇進したのは、政治的な意図があったのかもしれない。ナポレオンと共和主義が対立していたためである。

ダヴー
 ダヴーはナポレオン麾下の最高の将軍の候補に挙げられる。最後には、独立した指揮を安心して任せられる数少ない人物の一人となった。彼はナポレオンに完全に忠実で、優れた行政官であったため、1815年の「百日戦役」では陸軍大臣のような非軍事的な役割にも就いた。彼の軍団は常によく規律が保たれ、訓練され、補給されていた。彼の最高の栄光はアウエルシュタットの戦いであり、ナポレオンがイエナでより小さな部隊と戦っている間に、彼の第3軍団がプロイセン軍の大部隊に勝利したのである。

グーヴィオン・サン=シール
 後にブルボン軍を再建することになるサン・シールは、冷淡だが非常に優れた将軍だったようだ。彼は、今ではすっかり忘れ去られたような二次的な戦場で何度も勝利を収めた。彼はまた、上官や同僚と喧嘩を繰り返した。

グルーシィ
 王国軍に所属していた優秀な重騎兵指揮官で、元は貴族の一員だった。このことが革命期のフランスでの彼のキャリアを後押しすることはなかったが、それにもかかわらず彼は良い働きをした。ナポレオンのワーテルローでの敗北の責任を取らされたことで、グルーシィの評判は落ちている【実際にはグルーシィが悪かったのではなく、ナポレオンの指揮の方に問題があったのだ、というのが最近の見方です】。

ジュールダン
 王国軍の元二等兵で、誠実な、そして優秀な将軍であったジュールダンは、革命期のフランスでの最高指揮官であったが、ナポレオン時代をも生き抜いた。帝国の元帥となったが、スペインでは軽侮と反抗に遭い、ウェリントンの手によって2度も屈辱的な敗北を喫した。

ケレルマン
 ケレルマンとして知られる将軍の親の方。基本的に彼は有名な革命期の将軍であり、政治的な理由からナポレオンの新帝国で栄誉を受けた。

ランヌ
 当時の基準からしても信じられないほど勇猛で、アルコラで3度負傷した。ランヌは人望も厚く、聡明でもあった。彼の死は、ナポレオンが戦場における最高の将軍と、そして最高の親友を失うことを意味した。

ルフェーブル
 古き良き軍人の典型であるルフェーヴルは、堅実な部隊指導者であったが、独立した指揮官として指揮を執っている間は、勝ったり負けたりであった。

マクドナルド
 彼は自分を荒っぽい実直な兵士だと言っていたが、必ずしもそうでもない。マクドナルドは軍団指揮官としては優秀だったが、独立して部隊を指揮する場合には融通が利かない傾向があった。

マルモン
 指揮官として勇敢で、元々ナポレオンの友人でもあったマルモンは、有能な軍人であり、優秀な行政官でもあった。ダルマチア総督としての任期中、彼はこの地域をフランスのために確保し、重要な民政改良を行った。その功績にもかかわらず、彼は1814年のサラマンカでの敗北と、軍団の裏切り降伏【ナポレオン不在の中、パリで降伏した】で記憶されがちである。

マッセナ
 フランス軍の最高の将軍の一人である。1796年と1797年のナポレオン率いるイタリア方面軍の成功に大きく貢献した。特に1799年のスイス防衛では、独立した指揮官として活躍した。その略奪と、女好きだったことで有名である。1810年にウェリントンと対戦した時には疲労困憊しており、またすでに全盛期を過ぎていた。

モンセイ
 モンセイは誠実で人間味のある人物であり、優れた軍人でもあった。彼は偉大な将軍ではなかったようだ。しかし、西ピレネー軍を指揮した際には、かなり幸運で有能であったようである。彼はナポレオンの側近ではなく、主に政治的な理由で元帥にされたと思われる。

モルティエ
 優秀な軍人であり、有能な管理者でもあった。モルティエは、独立した指揮ではほとんど能力を発揮できなかったが、命令を与えられた場合にはよく働いた。彼は病気でワーテルローの戦いに参加できず、その後はブルボン家のために忠誠を尽くした。

ミュラ
 戦場での騎兵部隊の優れた指揮官であったミュラは、ナポレオンの義弟【妹の夫】であり、重要な藩屏【ナポリ王】でもあった。この後者の役割については、彼の派手さと、彼の企図が最終的に失敗に終わった【ナポレオンを見捨てて自分の王国だけ守ろうとした】ことから、彼は大いに信用できない人物と見られている。彼は戦場での指揮官としての有能さに比べて、軍事行政官としての能力は低く、このことがロシアでフランス騎兵部隊に大きな損害を与えた【ロシア遠征中に、騎馬を早々に大量に死なせてしまったことを指す】。

ネイ
 卓越した戦術的スキルと無尽蔵のエネルギーを持ち合わせたネイは、「勇者の中の勇者」として記憶されている。戦場での指揮官として、彼はしばしば不可能を可能にし、ポルトガルやモスクワからの撤退戦では後衛を得意とした。1815年のワーテルロー戦役での無能さや、1813年のバウツェンとデンネヴィッツの戦いでの独立軍の指揮官としての不運から、彼の一般的な評価、特に知性に対する評価は低下している。このようなやや不当な歴史的評価は、彼の元参謀長ジョミニの著作によるところもあるだろう。

ウーディノ
 ナポレオンの元帥の中で "最も負傷した "ウーディノは、優れた師団長であり、兵士達の訓練においても優秀であった。また、参謀長としても有能であったようだ。独立した指揮を執った場合には、敗北が多かった。

ペリニョン
 東ピレネー方面軍の軍人、司令官として活躍したペリニョンだが、軍事的というよりは政治的、外交的な側面が強かったようだ。彼が元帥に任命されたのは、確かに政治的な名誉職としてであった。

ポニアトフスキー
 ポーランド貴族出身の政治家であり、愛国者であった彼は、指揮官として勇敢で、優れた軍団司令官であった。ポーランド軍の増強と訓練に尽力した。ナポレオンが彼を元帥に任命したのは、軍事的な意味よりも政治的な意味合いが強かった。

セリュリエ
 オージュロー、マッセナとともに、ナポレオンが出世するきっかけとなった1796-7年のイタリア攻略作戦を可能にした3人の師団長の一人である。セリュリエは、1789年にすでに34年の軍歴を持つ人物らしく、昔ながらの信頼できる誠実な軍人として知られていた。彼が元帥に任命されたのは、過去の功労に対する報奨であった。

スールト
 スールトはナポレオンの優れた将軍の一人で、優れた戦略家であり、戦いのプランナーでもあった。彼の前線でのリーダーシップも、発揮されたときには傑出していた。しかし、独立した指揮を執るときには決断力に欠けていたようだ。特に、人を鼓舞するような指揮官でもなければ、政治に長けていたわけでもない。略奪者として悪名高い。ワーテルロー作戦では、ナポレオンの参謀長となったが不首尾に終わった。

スーシェ
 戦術家、組織者、管理者としての才能に恵まれたスーシェは、独立した指揮官として活躍した。彼はナポレオン麾下の最高の将軍の一人であり、スペインで名声を高めた唯一の将軍であった。

ヴァンダム
 悪人だが軍人としては優秀だった。不正利得や略奪行為で何度も罷免された。ドイツでは特に嫌われていた。革命戦争とナポレオン戦争の全期間、戦闘の真っ只中に身を置いた。独立した指揮を執っても有能だったようだ。クルムで軍団を大敗北に導いたのは、少なくとも一部には彼の責任もあるが、責任の大部分は前段のナポレオンにあり、ナポレオンは注意散漫で追撃軍団の調整を怠った。ヴァンダムは捕虜となり、ナポレオンは事後報告書を書いた。関連の書類は不可解なことに消えてしまったようだ。ナポレオンを尊敬していたヴァンダムは黙っていた。

ヴィクトール
 ヴィクトールは有能な将軍だったが、ナポレオンの麾下では平均的な能力だった。彼は優れた組織家であり、戦術家でもあった。

ウジェーヌ【ジョセフィーヌの息子】
 ウジェーヌは人間として誠実で忠実であり、将軍として有能であり、独立した指揮を執っても有能であった。ナポレオンの義理の息子として、自己顕示欲に溺れる必要はほとんどなかった。歴史家が史料を再検討する中で、彼の軍事的評価が向上し始めたのはごく最近のことである。彼個人の人格的、政治的な評判は常に良かった。

ルクレール
 優秀な将校であったルクレールは、1797年にポーリーヌ・ボナパルトと結婚したナポレオンの義弟でもあった。1790年代半ば、彼はかなりの時間を幕僚として過ごした。当初はサント・ドミンゴへの遠征で現在のハイチの黒人の反乱を鎮めることに成功したが、フランスでの政治的決定によって彼の地位は損なわれた。1802年11月に黄熱病で死去した。

モロー
 元々、モローの軍事的名声はナポレオンに匹敵していた。特に1800年のホーエンリンデンでのオーストリア軍に対する勝利は、イタリアでのナポレオンの努力に影を落とす恐れがあった。ナポレオンがマレンゴの戦いの報告に「誇張」を加えたのは、恐らくそのためであろう。モローは1804年から1813年までアメリカに亡命した。1813年、彼はドレスデンでフランス軍の大砲の弾を受けて死んだ。モローは当時、連合国側でアレクサンドル皇帝の軍事顧問を務めていた。彼の政治的才能と軍事的才能は一致しなかったというのが、総意のようだ。

オッシュ
 フランス革命期の最も傑出した将軍の一人である。オッシュが1797年に胸部疾患で亡くなっていなければ、彼はナポレオンの重大な潜在的ライバルになっていただろう。

デュムーリエ
 デュムーリエはフランス革命軍の傑出した将軍であった。彼は北方軍の大部隊を率いてヴァルミーでケレルマンの中央軍を援軍した。多くの資料では、彼はこの戦いのフランス軍副司令官であり、ヴァルミーでのフランス軍の勝利の一部または大部分を担ったとされている。彼はヴァルミーの後、オーストリア領オランダへの侵攻に成功し、ジュマップでオーストリア軍を破った。その翌年、ネールヴィンデンでの敗北の後、彼は命の危険を感じて連合国側に亡命した。




オーストリア軍の指揮官


カール大公
 ナポレオンに対抗できた数少ない将軍の一人である。

ボーリュー(Beaulieu)
 ナポレオンの最初の作戦の犠牲となる不運に見舞われた。ナポレオンの難局を和らげるミスを犯したが、おそらくチャンスはなかった。

シャステル?(Chasteler)
 高い教育を受けた工兵のスペシャリストで、当初は土木作業で頭角を現した。彼の現場での実績は立派なものであった。

F. コロレード(Colloredo)
 カール大公の提案を含むあらゆる改革に反対する保守派であった。アウステルリッツの後、引退した。

H. コロレード(Colloredo)
 その勇敢さは有名で、有能でもあったようだ。1813年、クルムの戦いでヴァンダム元帥率いるフランス軍を撃ち破るのに大きく貢献した。

A. Giulay
 1809年に初めて指揮を執った勇敢な軍人で、最初の成功の後、不運にも敗走を指揮した。

I. ギュライ(Giulay)
 堅実な軍団指揮官であった。

シュヴァルツェンベルク
 ナポレオンは彼を有能だと考えていた。これは政治的なものだったかもしれないが、遅かった【1812年戦役でシュヴァルツェンベルクを部下としたが、その後敵対者として有能だったことを指す?】。

マック
 ナポリ出身の彼を知っているネルソンは、この人物を認めておらず、戦場で指揮を執った彼は確かに最悪の結果を残した。

メルフェルト(Merveldt)
 優れた司令官であり、戦場指揮官だった。メルフェルトはまた、優れた外交手腕を持っていたようである。

ヨハン大公
 出自のために、実際の軍事経験もあまりないまま指揮官に抜擢されたことを考えれば、懸念されたほど無能ではなかった。1800年のホーエンリンデンでの敗北や1809年のイタリアでの敗北と同様、彼が命令通りにヴァグラムの戦場に姿を現すことができなかったのは不運だった。

Archduke Louis
カール大公の弟で、1809年のバイエルン侵攻の際、バイエルン第5軍団を短期間指揮した。目立った活躍はなかった。

ホーエンツォレルン(Hohenzollern)
 アグレッシブで優秀な将校であり、独立した指揮官として有能だった。元帥位を辞退した。

ヒラー(Hiller)
 有能な将校で、もともとは平民であり、部下には好かれていたが、将校仲間には好かれていなかった。カール大公とは仲が悪かった。1809年初頭のバイエルン撤退戦では自らを高く評価した。

Bellegarde
 有能な指揮官。

Rosenburg
 かなり厳格でまじめな性格とされ、有能でプロフェッショナルであったようだが、1809年、最初はエックミュールで、次にヴァグラムで左翼を任され、打撃を受けることを避けられなかった。これは、彼が対峙したマッセナ、ランヌ、ダヴーといった敵指揮官の質の高さを反映しているのかもしれない。

Kienmaier
 堅実な軍人として知られる。オーストリア軍の参謀長として、連合軍のアウステルリッツ戦役の計画に関与した。

Klenau
 エネルギッシュで経験豊富な将校で、オーストリア軍のいくつかの勝利に貢献した。

Kollowrat
 有能ではあったが、傑出した指揮官ではなかったようだ。

Kray
 「勝利の親愛なる息子」Krayは、1800年にドイツで軍司令官として敗戦を重ねるまで、長く華々しいキャリアを積んでいた。


A. Lichtenstein
有能な中堅将校だったようだ。

J. Lichtenstein
非常に有能な騎兵隊長だった。常に自分の役割以上の働きをした。

M. Lichtenstein
軍人一家のもう一人である。

Reuss
勇敢で有能な軍人で、旅団や師団の指揮官として活躍した。

Weyrother
優秀な戦役将校であったことは明らかだが、ホーエンリンデン戦役とアウステルリッツ戦役の結果を見ると、彼はフランス軍の軍団システムの統合された軍隊によって可能となったタイプの戦争に適応するのに苦労したのかもしれない。

Saxe-Coburg
トルコ軍とフランス革命軍の両方に対して優れた将軍であったザクセン=コーブルクは、連戦連勝にもかかわらず、オーストリア領オランダ(ベルギー)を、はるかに数の多いフランス軍に対して保持することができなかった。健康を害し、1794年に辞任した。




ロシア軍の指揮官

バルクライ・ド・トーリー
勇敢で有能、経験豊富な軍人で、1812年から1814年にかけての長期作戦でナポレオンの敗北に大きく貢献した。最初はロシア、次にドイツ、そして最後はフランスで活躍した。

クトゥーゾフ
まさにロシアの国民的英雄である。

バグラチオン
勇敢で有能な軍人であり、スヴォーロフとクトゥーゾフの両者に感銘を与えた。

ベニグセン
パーヴェル1世の暗殺に加担し、フリートラントでロシア軍を指揮して大敗するなど、落ち度がないとは言い難い。それにもかかわらず、ベニグセンはアイラウ、ボロディノ、ライプツィヒなど、何度もナポレオンを苦しめた。しばしば正当に評価されない大物である。

Rostopchin
ナポレオンがモスクワに人がいないのを発見し、彼と彼の軍隊の周囲が焼け野原になったのは決定的な失敗だった。その責任はロストプチンにある。

Toll
有能な幕僚だった。意志が強く活発な性格で、アレクサンドル皇帝を動かすこともできた。1812年、1813年、1814年の作戦における彼の影響力は、正式な階級と地位を持つ将校に期待される以上のものであった。1813年に連合軍が採用したトラッヘンブルクプラン【ライヘンバッハプラン】で勝利を収めたのは、少なくとも彼の功績の一部である。

コンスタンティン【アレクサンドル1世の弟】
勇敢だが、特に能力が高いわけではない。彼は出自のゆえに、常に最高指揮官であった。フランスとの和平を好んだ。

Ostermann-Tolstoy
非常に勇敢で、有能な師団・軍団司令官だった。

チチャゴフ(Chichagov)
ナポレオンはベレジナで彼を欺き、全軍を率いて捕虜となるのを免れた。もちろん、ナポレオンに出し抜かれたことは恥ではない。

トルマゾフ(Tormassov)
有能な上級指揮官だが、1812年以降は健康問題を抱えていた。

ミロラドヴィチ(Miloradovich)
ミロラドヴィチはセルビア出身の後衛軍団司令官で、後方警戒行動を専門としていたようだ。彼はそれにかなり熟練していた。

ヴィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタインが最も活躍したのは1812年のことで、首都サンクトペテルブルクでフランス軍との間に立ち、その後ベレジナで罠の片顎を形成した。

N. Tuchkov
ボロジノで戦死した若き連隊長A.A.トゥチコフや、その弟と混同してはならない。

A. Wurttemberg
人脈も広く、優れた行政官であり、有能な指揮官であることは間違いない。

E. Wurttemberg
1806年の大敗の後、ロシア軍に入ったドイツ軍人。1812年から1813年、1814年にかけて、ロシア軍で最も優秀な軍団指揮官の一人であった。

ゴルチャコフ(Gortschakow)
ボロディノでの英雄的な振る舞いが、彼の軍人としてのキャリアの絶頂期だったようだ。ボロディノで負った傷が回復した後、軍団の指揮を任されたが、彼は傑出した存在というよりは、辛うじてその任にたえる程度であったようだ。彼は独立した任務を任されることはなかった。アレクセイ・イヴァノヴィチ・ゴルチャコフ陸軍大臣の弟である。

Rajewski
1812年にボロディノで活躍したもう一人の英雄であり、その後の数年間良い働きをしたが、輝かしい功績は残していない。

ランジュロン(Langeron)
1789年にロシア軍に入った亡命フランス貴族。スウェーデン戦争とトルコ戦争、そしてオーストリア領ネーデルラントでのフランス革命軍との戦いで活躍した。戦術的には優れていたが、不機嫌なことが多い将校であり、アウステルリッツの後、1813年と1814年の戦役を通じて良い仕事をした。

St.Priest
ロシアに仕えたフランスからの亡命者であったサン・プリーストは、非常に攻撃的な師団長であったが、1814年にランスで起こった戦いで戦死した。

Yermolov
1812年、1813年、1814年を通じて参謀や師団指揮官として活躍したアグレッシブな若いロシア人将校である。優秀だったが、本人が思っていたほどではなかったかもしれない。

Pahlen III
将軍の貴族の息子であったピーター・ペトロヴィッチ・フォン・デア・パーレン伯爵は(一時期は父親の裁縫師を務めていた)、1812年にバルクライの下で騎兵師団長を務め、その後、1813年と1814年のドイツとフランスの戦役を通じて騎兵軍団長として活躍したようである。

Pahlen II
1812年後半にフランス軍と戦った後、1813年と1814年に再びフランス軍と戦った前に、主にトルコ軍と戦った多くの勲章を受けた騎兵将校。




プロイセン軍の指揮官

ブリュッヒャー
"オールド・フォワード "はナポレオン戦争の偉大な英雄の一人である。常に攻撃的で部下に愛された。ナポレオン最大の敵の一人である。

ヨルク
ヨルクは「タルロッゲン条約」でロシア軍側についたため、プロイセン国王らを困った状態に置いた。1813年から14年にかけての彼の指揮は、ブルヒャーの「戦闘部隊」として知られた。この頃から彼を知っていたクラウスヴィッツの評価では、彼は "勇敢さと軍事的才能で傑出していた"。

ビューロー
1813年のザクセンでの戦いと同様、この年のベルリン前面でのビューローの守備の重要性は、英語の資料ではあまり認識されていない。ワーテルローでの彼のフランス軍側面に対する活躍もまた重要であり、現在ではそのことが認められ始めている。

ホーエンローエ
個人的に勇敢で、少なくとも伝統的な軍事戦術に関しては有能だったホーエンローエは、プロイセン軍で非常に人気があった。イエナでの大敗とその3週間後の降伏は、プロイセン軍の士気に深刻な打撃を与えた。彼はイエナで、ナポレオンと対峙していただけでなく、数でも大きく劣っていたことに留意すべきである。

クライスト
「フォン・ノーレンドルフ伯爵位」は、クルムでヴァンダム軍団を撃ち破った功績に対するものである。フォン・クライストは下級将校や中級将校として、ほとんどの場合、幕僚や非常に高い地位の将校の補佐官を務めていたようである。彼が初めて独立した指揮官として登場するのは1806年、プロイセン軍の大部分とともにマグデブルクをフランス軍に明け渡した時である。ブルッヒャー、ヨルク、フォン・ビューローとともに、1813年と1814年のプロイセン軍最高司令部の中心人物であった。クライストは春のライプツィヒ防衛の責任者であり、秋の「諸国民の戦い」でもライプツィヒで戦った。

Hessen-Homburg
高官の大家族の一人で、そのうちの4人はオーストリアに仕え、弟(レオポルド王子)はルッツェン(グロスゴルシェン)で戦死した。プロイセンのルートヴィヒ公は、ライプツィヒでの「諸国民の戦い」で連合国側として戦った2人のヘッセン=ホンブルクの後輩である。上級のヘッセン=ホンブルク公(フリードリッヒ公)はオーストリアの将軍で、1814年のオージュローとの戦いでも独立軍を率いて活躍した。

タウエンツィーン(Tauentzien)
1806年の災難と1813年の復讐の両方を完全に分かち合った。

ティールマン
有能な将校だったようだ。ワーヴルでは良い働きをした。




イギリス軍の指揮官

ウェリントン
非常に熟練した将軍で、情報、兵站、防御戦術に精通していた。ナポレオン時代におけるイギリス軍最高の名将である。

Abercromby
ラルフ・アバークロンビー卿は、七年戦争を戦ったものの、道徳的見地からアメリカ独立戦争で戦うことを拒否し、革命戦争で名を挙げた。アメリカ戦争後の陸軍の士気回復に貢献し、新世代の将校(ムーア、ヒル、グラハム、ホープなど)を指導したことでも知られている。第二次アブキール(別名アレクサンドリア)の戦いで戦死した。

ベレスフォード
ポルトガル軍を再建、訓練したベレスフォードの組織化能力、人材育成能力について異論を唱える者はいない。彼の野戦将軍としての能力については議論があるが、ウェリントンは、彼が彼の将軍の中で最も独立した指揮に適していると考えていた。

フォン・ボック
KGL自体もそうだが、派手さのない堅実なパフォーマンスを見せた。サラマンカ後のフランスへの追撃は珍しく効果的だった。

Lumley
ウィリアム・ラムレー卿はアルブエラで急遽、歩兵旅団の指揮官からベレスフォードの騎兵指揮官となり、大活躍した。その直後のウサグレの戦いは、半島戦争におけるイギリス軍騎兵部隊の最高の戦いの一つであった。彼は戦後も長く輝かしい経歴を残した。

Craufurd
"ブラック・ボブ "は非常に激昂しやすかったが、新しい戦術体系を駆使して部隊の作戦を巧みに計算した。単に攻撃的というよりは、時には軽率だったかもしれない。

Graham
独立した、あるいは半独立の指揮を任されたときに優れた能力を発揮した数少ない将校の一人だが、残念なことに目を患う傾向があった。

ムーア
「Whig将軍」と呼ばれ、軍内でも高く評価され、将校にも部下にも人気があった。重要な戦術的革新者であり、間違いなく優れた部下育成者であった。

H. Paget【アクスブリッジ卿】
この時期のイギリス最高の騎兵指揮官であったと多くの人に信じられている。ウェリントンの義理の妹と駆け落ちしたことが、ムーアのもとで最初の成功を収めた後の半島での活躍を妨げたと考えられている。彼の騎兵部隊は、ワーテルローでのフランス軍の最初の総攻撃を破ったが、その後再起不能に陥った。

E. Paget
ヘンリー【アクスブリッジ卿】の弟。特にムーアのコルンナ撤退時の後衛作戦の指揮は高く評価されている。

ピクトン
下院から7回感状を受けたが、貴族に列せられることはなかった。粗暴な性格だが、積極的で勇敢。部下指揮官としても活躍した。ワーテルローで突撃を率いて戦死した。

Pakenham
優秀とは言えないが、頼りになる師団長。ウェリントンの妻の弟である。サラマンカでフランス軍師団を粉砕した最初の攻撃を指揮した。ニューオーリンズでジャクソンと戦ったイギリス軍を率い、多くの兵士とともに戦死するという不運に見舞われた。

ホープ
ウェリントンは彼を高く評価していたが、無鉄砲な人物だとも思っていた。

ヒル
「ダディ・ヒル」と部隊から呼ばれた彼は、ウェリントンが信頼する数少ない独立司令官の一人だった。ウェリントンは、「彼の居場所はいつも分かっている」と彼を頼りにしていた。

Stewart
激しく戦い、おそらく攻撃的すぎる将校だった。実際アルブエラでは無秩序な攻撃を行い、旅団のひとつを半壊させた。

Stuart
非常に有能な将校で、二次作戦で独立した指揮を執っていた。自分は上官から十分なサポートを受けていないと慢性的に思っていた。

OCSの航空爆撃で、近距離シフトが得られる条件について

 OCSの航空爆撃には、爆撃に参加するすべての航空ユニットが10ヘクス以内の航空基地から爆撃任務ヘクスに来ているのであれば、コラムが一つ良くなるという修正があります。


 このシフトについて、先日の『Tunisia II』でのプレイで疑問点が生じたので、facebookのOCSグループで質問してみました。



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 左側縦列のSpit.VとA20で爆撃に行ったとします。Spit.Vは11ヘクス以遠から来たのですが、A20は10ヘクス以内から来ていました。この2ユニットがそのまま爆撃を行えたならば、7+1で8爆撃力であり、8-11のコラムで爆撃できます。

 ところが対空射撃でSpit.Vが1ステップロスしたため、Spit.Vの爆撃力は0になりました。すると合計爆撃力は7ですから、5-7のコラムで爆撃しなければなりません。ところがここで、連合軍プレイヤーはA20は10ヘクス以内から飛んで来たのであったことを思い出しました。ここでもし、

1.Spit.Vの0爆撃力はそもそも加算されないのだから、ないものとして扱う。
2.Spit.Vの0はカウントされるが、爆撃時にSpit.Vを爆撃自体から外すと宣言できる。

 のであれば、近距離シフトを利用でき、8-11のコラムで爆撃できるでしょう。

 で、質問してみた答は、「爆撃時に一部のユニットを外すことはできず、0爆撃力のユニットは0爆撃力で参加する。ゆえにこの場合、近距離シフトは利用できない」とのことでした。



 そこで、もう1つの疑問が浮かんだので、さらに質問してみました。


unit8368.jpg

 今度は、2ユニットともが1ステップロスの状態で飛んで来ました。さっきの例と同様に、戦闘機(Bf.110)が11ヘクス以遠から、爆撃機(Ju.88)が10ヘクス以内から飛んで来ています。このまま爆撃できれば9爆撃力で、8-11のコラムで爆撃できます。

 しかし今度も戦闘機の側が対空射撃で1ステップロスし、もともとが減少戦力面であったため壊滅してしまいました。すると、Ju.88の6爆撃力のみで爆撃することになります。この場合、爆撃時には11ヘクス以遠から来たユニットはいないのだから、近距離シフトは利用できるのでしょうか?

 この質問に対する返答は、「イエス。この場合は近距離シフトを利用でき、8-11のコラムで爆撃できる。
ただし、こんなことはめったに起こらないだろうが」ということでした(^_^;


 一応、そのようなことですので、ご報告ということで。



 あと、ちょっと前に「航空阻止(Interdiction/Trainbusting)は砲爆撃の一種ではなく、別物である」という解釈の話があったのですが、今回ついで質問してみたところ、「航空阻止は砲爆撃の一種である」という返答でした(!)。ので、そちらもまた修正しておくつもりです。

ザハ氏のブログ記事「【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月」に挙げられていた疑問点をチェックしてみました (2024/04/01)

ナポレオン戦争で戦ったプロイセン軍のフォン・ホルン将軍について

 コマンドマガジン52『赤い夕陽のナポレオン』を最近プレイしているわけですが、その中に登場する「ホーン」という将軍が非常に気になるので、調べてみました。


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 まず気になるのは発音で、初期配置で隣にいる「ヨーク」はドイツ語では本来「ヨルク」であることは確実なので、「ホーン」も「ホルン」なのではないかなぁ……と

 調べてみると、フルネームは「Heinrich Wilhelm von Horn」であるらしく、また、プロイセン人でした(英語圏の生まれとかではなく)。で、「Horn」という人名がドイツでどう発音されているかなのですが、日本語版Wikipedia「ホルン (曖昧さ回避)」に載っているドイツ人2人の綴りが両方「Horn」であったので、やはり発音は「ホルン」で良さそうでした。


 同ゲームで「ヴァーデ」とある指揮官の名前の発音は「ヴレーデ」が正しそうとかもあるわけですが、しかしこのゲームの発表が2003年(20年以上前!)であることを踏まえると、今は当時なかった本やネット環境での調べやすさもあって恵まれているわけですし、同作が非難されるにはあたらないかと思います。それよりも作品を発表してくれたのがありがたいわけで、むしろ、今後に向けてこういうこと関連の情報集積ができていけば良いのではないかと。


 このハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホルンに関しては、Wikipediaにはある程度記事があったのですが、手持ちの『Dictionary of the Napoleonic Wars』『Who Was Who in the Napoleonic Wars』には項目がありませんでした。なので、↓のみで今回、まとめてみます。

英語版Wikipedia「Heinrich Wilhelm von Horn」
ドイツ語版Wikipedia「Heinrich Wilhelm von Horn」


<2024/04/05追記>

 その後、nagunaguさんに「EPOCHE NAPOLEON」というドイツ語のウェブサイトを教えてもらいました。



 また、『Allgemeine Deutsche Biographie』(ドイツ人伝記総覧?)も全文が見られることが分かったので、そちらも参照して↓を追記しています。

<追記ここまで>


WilhelmvonHorn

 ↑ハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホルン中将(Wikipediaから)


 フォン・ホルンはプロイセン軍に入ってまずバイエルン継承戦争に参加。この時期にヨルクと出会って友人となり、将来緊密に協力することになったといいます。1794年から95年にかけてのポーランド遠征でワルシャワ包囲戦に参加し、功績によりプール・ル・メリット勲章を受章します。

 1806年戦役ではダンツィヒ守備隊におり、ダンツィヒ包囲戦中のハーゲルスベルクの勇敢な防御戦で名声を得たそうです。

 1812年のロシア遠征では、フランス軍の一員として長年の友人であったヨルク指揮下のプロイセン補助軍団の第2歩兵旅団を指揮して多くの戦いに参加。1812年9月4日、フォン・ホルンはフランスのレジオン・ド・ヌール勲章を着用する許可を与えられます。

 1813年の解放戦争でもヨルク軍団の旅団を指揮し、リュッツェンの戦い(グロースゲルシェンの戦い)で名を挙げました。バウツェンでも戦い、休戦中の6月28日に少将に昇進。

 同年の秋期戦役では8月26日のカッツバッハの戦いで功績を挙げましたが、その後の悪天候により隷下の兵士達はとても飢えてやつれた状態となります。しかし、ホルンはなんとか規律を維持しました。

 10月13日、ヨルク軍団はヴァルテンブルクの戦いに勝利してエルベ川渡河に成功し、ナポレオンは北側面を確保するためにドレスデンからライプツィヒに向かって西進せざるを得なくなりました。これにより、ライプツィヒの戦いの前の、フランス皇帝を包囲する動きが始まったのです。勝利の大きな要因はホルンの旅団が敵に決定的な打撃を与えたからであり、ホルンが鉄のような行動力で、自ら模範を示して突進し勇気を鼓舞したからでしたが、死傷した兵士達の数もまた非常に大きなものでした。

 ヴァルテンブルクの戦いの後、ホルンの旅団兵達がヨルクとホルンの前を通っていく時、この二人の将軍は帽子を脱ぎ、最後の兵士が通り過ぎるまで帽子を被ることなく立ち続けていたそうです。



 この時の状況や、ヴァルテンブルクの位置とかを何も知らないので、『Napoleon at the Crossroads』で探してみました。すると、9月28日からのシナリオというのがありました。


 ↓『Napoleon at the Crossroads』のマップ西方です。

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 一番上の赤い○がヴァルテンブルクで、ビューローとベルトランが向かい合ってます。編成表を見てみると、ヨルクはブリュッヒャー(右上)の指揮下にあり(ホルンのユニットは見つかりませんでした)、そこからヴァルテンブルクに向かったのでしょうか。ナポレオンはこの時点では画像右下のドレスデンにおり、ヴァルテンブルクでエルベ川を渡河されたことから、その後のライプツィヒ(画像左)の戦いに繋がるということなのでしょう。ちなみに、ヨルクはこの戦いの功績によりヴァルテンブルク伯爵の爵位を与えられたそうです。



 ホルンはライプツィヒの戦いでも特に大きな功績を挙げました。その断固とした勇猛さと同時に、たぐいまれな粗野さでこの「老紳士」(当時51歳)は解放戦争で最も人気のある将軍達のうちの一人となりました。ライプツィヒの戦いの功績により、プール・ル・メリット勲章に柏葉を付与されます。

 1814年戦役では、ラン、パリでの戦いに参加。

 1815年時には彼は戦争には関与しなかった第6軍団の旅団を率いており、ナポレオン戦争終結後にはミュンスターに本拠を置く第7軍団の司令官に任命され、1829年に亡くなるまでその職を務めました。

 アルゲマイネ・ドイツ伝記によれば、「ホルンはプロイセン軍の最も優れた旅団長の一人であった [...] その勇気、その粗暴さは民衆に好かれており、また心の優しさと高貴な気質によりこの「老紳士」は愛され、兵士達からだけでなく国民からも尊敬されていた。」

 また、フォン・ホルンはその晩年に、新兵への予防接種の義務化を導入したり、子ども達が「夜間であっても工場の雇い主によって大量に使われている」という悪を非難したそうです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国軍第200師団長であった戴安瀾将軍について

 中国(中華民国)軍第200師団長であった戴安瀾(たいあんらん?)将軍についてのWikipediaを少し見てみたら、興味深そうだったで、ちょっとまとめてみることにしました。

中国語版Wikipedia「戴安澜」
英語版Wikipedia「Dai Anlan」


Dai Anlan

 ↑戴安瀾将軍(Wikipediaから)



 英語版Wikipeidaの記述より中国語版Wikipediaの方が記述は豊富ですが、勇壮な話に満ちているためにむしろ、話が装飾されているのではないだろうかという疑いも持ちます。ただまあ、英語版のみを元にすると話があっという間に終わってしまいますし、多くを中国語版を元にして一応まとめておいて、後で検証するという方向性で行こうかと思います。



 1904年に安徽省の農民の家に生まれ、最初の名前は戴揚功だったそうです。学校で優秀な成績を収め、1924年に黄埔陸軍士官学校に入り、1926年に国民革命軍の小隊長に任命されました。彼は祖国が危機に瀕していることを感じ、中国を死守する決意を表明するため、名前を「波を静める」という意味の「安瀾」に変更したそうですが、その時期について、英語版では1924年?、中国語版では1926年以降だという風に記述しています。

 北伐、済南事件で日本軍と戦います。1938年の魯南の戦いでは、部隊を率いて中愛山で4昼夜にわたって日本軍と戦い、その功績が認められて第89師団副師団長に昇進。 同年8月、武漢の戦いに参加し、35歳で第5軍第200師団長に昇進。1939年12月、広西チワン族自治区の崑崙峠で日本軍第5師団と激戦を繰り広げ、自身が重傷を負いながらも優れた指揮で崑崙峠での有名な勝利を獲得。

 太平洋戦争が勃発してビルマルートが脅かされると、国民党政府(蒋介石)はビルマ戦線に10万人の軍隊を派遣します。戴安瀾は第200師団を率いて雲南からビルマへ西進し、単独で進む危険を厭わずにトングーへと南下して、英連邦軍の守備を次々と引き継ぎました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から (2023/10/15)に挙げていた地図です。

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 英連邦軍の安全な退却を掩護し、戦闘の準備を万全にするために、戴安瀾は部隊を指揮して昼夜を問わず陣地の修復を行い、敵の前進を阻止するために3つの防衛線を敷きました。妻に宛てた手紙の中で、彼はこのように書いていたそうです。
「私はトングーの守備を命じられた。上の計画はまだ決定されておらず、後方との連絡はあまりにも遠く、敵の動きが早く、今私は一人で、祖国が育ててくれた恩に報いるため、すべてを犠牲にする決意をした。祖国のための戦いで死ぬことは、極めて名誉なことだ。」

 彼は部下達にこのように告げたそうです。
「兵士が一人でも残っている限り、最後まで持ちこたえなければならない。師団長が戦死した場合は副師団長が後任となれ。副師団長が戦死すれば参謀長が、参謀長が戦死すれば連隊長のうちの一人が後任となるのだ」

 師団のあらゆるレベルの指揮官もこれに倣うことを誓いました。

 3月25日、日本軍精鋭第55師団【と中国語版Wikipediaに書かれていますが、第55師団は標準レベルではあったかもしれませんが、第33師団などと比べると精鋭とは言えなかっただろうと思います】の20,000名以上の攻撃に8,000名で抵抗し、トングー防衛の緒戦で勝利を収め、中国内外から賞賛を集めました。トングーの戦いは12日間続き、第200師団は高い戦意を持って敵と激戦し、800名が犠牲になりつつも20回以上の日本軍の襲撃を撃退し、4,000名以上の敵を死傷【原文では殲滅、全滅っぽいですが、誇張でしょう】させ、200名以上の捕虜を獲得しました。

 トングーの戦いの終盤には、右翼の英連邦軍は逃げることしか考えなかったため、日本軍の進撃を許し、結果として三方を敵に囲まれ、第200師団は包囲殲滅の危機に陥りました。最後の手段として、第200師団は北への脱出を命じられました。

 ↑の部分、文が良く分からないので大幅にはしょってます。「右翼の英連邦軍は逃げることしか考えなかったため、日本軍の進撃を許し」というのは、蒋介石がプローム方面の英連邦軍が攻勢に出て、トングーへの日本軍の圧力を弱めるように要求したのに、それがなされなかったことを意味しているのかもしれません。今後、『ビルマ 遠い戦場 上』の記述を使って調べる予定です。



 英語版Wikipeidaの参考文献を見ていると、『The Imperial Japanese Army: The Invincible Years 1941–42』という本の戴安瀾の登場する1ページがGoogle Booksで見られるので、そこを翻訳しますと……。

 ラングーンが陥落したのと同じ3月8日、中国第5軍の部隊の1つである戴安瀾少将率いる第200師団がトングー(タウングーとも表記される)に到着した。この陣地は、竹内寛の第55師団が2週間前に第17インド歩兵師団から奪取したシッタン川渡河地点から約150マイル北のシッタン川沿いにあった。

 戴の部隊がトングーでシッタン川渡河部を防衛するために掘り進むと、竹内の部隊はそれを掘り起こすために北上した。最初の交戦は3月18日に行われたが、主攻撃は3月24日に行われた。

 竹内は第112連隊で市街を正面から攻撃し、第143連隊で中国軍の陣地を包囲し、北へのアクセスを遮断し、戴の陣地を背後から攻撃した。後方の兵力が蹂躙されると、戴は過剰反応し、全指揮官をトングーの中心部の防衛境界線に撤退させた。

 3月25日早朝、竹内の2個連隊は南、西、北から攻撃を開始した。東側はシッタン川であったため、戴安瀾は1ヶ月前のジャッキー・スミス【第17インド歩兵師団長】と同じ状況、つまりシッタン川を背にした状況に陥った【スミス師団長は2月23日にシッタン鉄橋を過早に爆破してしまった咎も受けて解任されてしまっていました】。状況は、スミスのインド人部隊が農村地帯にいたのに対し、戴安瀾は都市【トングー】周辺の入り組んだ地形にいた点で異なっていた。このため日本軍は、日本陸軍が好んで用いた敵陣に潜入する戦術を比較的容易に用いることができた。一方、両軍とも大砲を使用することが難しくなったため、戦闘は多くの場合、近接戦闘となった。

 戦闘は3月26日まで続き、日本軍がトングーの西側を占領したため、大きな損害が出た。翌日には小康状態となり、両軍とも傷を癒すために後退したが、この離脱は日本軍が大砲を使用し、航空優勢を利用して空爆を行うことができることを意味するだけであった。
『The Imperial Japanese Army: The Invincible Years 1941–42』P279


 この本のこの文章、なかなかに分かりやすい感じにまとめられていて好感を抱くのですが、すでに資料が多すぎて管理能力を超えているのと、値段も割と高いので、手を出すのはやめておいて……(^_^;



 閑話休題。


 英語版Wikipeidaによると、第200師団はシッタン川を渡って北へ後退し、第22師団と合流。彼らはシッタン川を北上する日本軍の進撃を阻止し、4月25日にはビルマ中部のタウンギーを日本軍から奪ったとあります。

 その後の撤退中、5月16日に第200師団司令部が敵の待ち伏せに遭い、包囲を突破するも18日の戦闘で戴安瀾は腹部に重傷を負います。

 ビルマ北部の複雑な地形と降り続いた雨のせいで治療を受けられず、5月26日までに傷口は重度の感染症により侵食され、化膿し、穴が空いていました。死が近づいていることを感じた戴安瀾は衛兵に左右から抱き起こすよう命じ、北に向けて「反撃! 反撃! 中華民国万歳!」と叫び、モガウン【ミートキーナの西】で38歳で亡くなりました。

 遺体は火葬され、第200師団の残りの兵士達と共に中国に引き揚げられました。中国に戻った時、戴安瀾の棺を数万人が出迎え、国葬が行われました。1942年10月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領は戴安瀾にレジオン・オブ・メリット勲章を授与し、アメリカから軍事勲章を受章した最初の中国軍人となったそうです。


『Triomphe à Marengo』の疑問点、和訳修正案など

 ミドルアース大阪でSUNPOさんと一緒に、『Triomphe à Marengo』の解読をしていました。





 なかなか進んでいないのですが、雑談なんかも大量にしていたせいでもありますバキッ!!☆/(x_x)


 ただ、色々分からない点もあり、教えてもらったり原文を参照したりして、少しましになってきた面もあって、そこらへん情報集積していこうと思いました。ただ、色々推測とかも混ざっているので、さらに皆さんにご助言いただければと思います<(_ _)>



<2024/04/03追記>

 早速、ぽちょむきんすたーさんからコメントを頂き、私の大きな勘違いが明らかになりました(^_^;





 じっくり確認してみましたところ、「歩兵・騎兵のペナルティアイコン」は「when they(アイコン) are in the approach occupied by the defender.」に効力を持つ、のですから、確かに防御アプローチにアイコンがある時に、攻撃側にペナルティが来るように見えます。

 そしてまた、11.突撃の6.突撃の解決の2番目の「・」に、「防御アプローチに、攻撃リードコマと同じ兵科のペナルティのアイコンがあれば、アイコンにつき1つずつ攻撃リードコマの戦闘力合計から引きます。(原文もおなじ)」とあるので、疑いありませんでした。

 気付かせて下さったぽちょむきんすたーさんに大変感謝します!<(_ _)>


 以下、この件についての分析です。


 砲兵と騎兵のペナルティアイコンは、相対するアプローチでまったく同じ数であることがほとんどなのですが、騎兵のそれに関しては数カ所、相対するアプローチで異なっている箇所がありました。今回見つけたのは、↓の赤い○の部分です(他にもあるかもです)。

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 それらの地点に何か傾向性があるかな……? と思って考えてみたのですが、もしかしたら斜面の上方であったり下方であったりするかもと思ったのですが、それなら他にもアイコン数が異なってもおかしくない箇所もあるような気がして、良く分かりませんでした。

 それから、水色の○で示した部分は、村?などのエリアとその相対エリアで必ずそうなっているもので、村の外側には騎兵ペナルティが1個、村の内側には騎兵障害物(/印)」があります。そこらへんまとめると、

1.村から出るような攻撃には騎兵ペナルティ1個。
2.村に入っていくような攻撃時には騎兵障害物があり、
 a.急襲で防御アプローチに騎兵障害物がある場合、急襲するコマの中に歩兵が必要で、歩兵コマ1個を相手に見せる。
 b.突撃で防御アプローチに騎兵障害物がある場合、攻撃側はリードコマに騎兵を選べず、防御側は騎兵を反撃コマに選べない。

 ということのようでした(他にもあるかも?)。とすると、

 自分の側のアプローチにアイコンがあって、それが自分の側に影響を及ぼすのは、

ア.自分の側に騎兵障害物アイコン(/印)があったら、突撃で戦闘が起こった時の防御側は、騎兵を反撃コマに選べない。
イ.自分の側に進入禁止アイコン(×印)があったら、そこにコマを置けず、そこを越える攻撃、行軍、退却を行えない。

 の2つだけ?


 ここらへん、もし間違いでなければ、↑だけ覚えておけばよくはなるので、ありがたいですけど(間違い指摘お願いします!)

 また、これまでとこのブログ記事で、上記の勘違いの件は、修正しておくことにします。

<追記ここまで>




1.第1ラウンド先攻オーストリア軍で最初に入っていく4コマは……
 a.シャッフルした中から無作為に1コマずつ選んで進入するのか?
 b.シャッフルした中から無作為に4コマ選んで、その4コマを好きな順番等で進入させるのか?


 ……と話していましたら、以前プレイ歴のあるBOWさんから、「シャッフルというのは相手にコマが特定されないように混ぜるということであって、それ以上ではない。この場合、オーストリア軍プレイヤーは、シャッフルしたコマの中から戦力等を全部見た上で、自分で好きな4コマを選んで、好きな順番等で進入させていいんだ」とご助言もらいました(^_^; それでいいんでしょうか?




2.「防御コマ」とは?
 9.急襲の4.戦闘結果の適用:の項に、「防御エリアのすべての防御コマは退却します」とあります。我々はこの「防御コマ」というのを、「ある一つのアプローチで(実際に)防御したコマ(複数)【つまり、攻撃コマ側のアプローチに面していないコマは関係ない】」のことかと思ったのですが、色々読んでいるとどうも違う気がしました。で、原文を読んでみると、「All of defender's pieces in the defense locale must retreat.」とありました(localeというのはフランス語で、いわゆるエリアのことです)。この原文からすると「防御エリアのすべての防御側プレイヤーのコマは退却します」と解釈すれば良いかな? と思われました(が、どうでしょう)。




3.参照すべき砲兵ペナルティの位置は?
 10.砲撃の4段落目にこうあります(原文も同じ)。

 砲兵が今いるアプローチの反対アプローチに砲兵ペナルティのアイコンがある場合、砲撃はできません(砲兵がいるアプローチの砲兵ペナルティは無視します)。


 ところが我々がチェックしてみたところ、砲兵ペナルティのマークは、相対するアプローチに必ず対で描かれているように見えました(そうではない?)。

 だとすると、「反対アプローチに砲兵ペナルティのアイコンがあっても無視します」などとは書いておく必要はないという気も……?




4.退却の項の和訳抜け?
 13.退却の項の、1.損害の適用で、また「防御コマをすべて表面にします」というような表現がありますが、原文は「The defender reveals the pieces' faces,」で、ここも「防御側プレイヤーは、(防御エリアの)コマをすべて表面にします」という風にした方が分かりやすいのかなと思いました。

 また、その後の2つ目の「・」の文の最後に、原文では「reductions can be taken by infantry, cavalry, or a mix of the two.(損害は、歩兵から、騎兵から、あるいはその2種類からの混合で?)」とあるのが、和訳では抜けているようでした(尤も、別に抜けていてもだいたい分かるような気がします)。




5.午後4時以前?
 18.士気の項の最後の段落(3.)で、「午後4時以前のラウンドで」と和訳にはあるのですが、原文は「prior to 4:00PM」で、prior to はその時を含まない表現らしいので、「午後4時より前のラウンドで」とした方が良いようです。




6.士気トークンをエリアに置かれるのは罰?
 防御に成功したりすると、1個か2個の士気トークンがそのエリアに置かれますが、そのエリアが敵に取られると士気トークンは除去されてしまいます。だとすると、防御に成功することが士気トークンが除去される可能性を生むわけで尤も、防御に失敗すると、恐ろしいほどの士気トークンがいっせいに除去されますが((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)、「防御に成功して士気トークンがエリアに置かれるというのは、何を意味しているのですか?」と、BOWさんに聞いてみました。すると、「この時代の会戦が、ある一角で不用意に拡大化してそこから脱却できなくなり、自分はいったい何をしているんだ? と自問するような、もどかしさを表現していると思って、うまいやり方だなと思ったけど」という風にご助言いただきました。なるほど?(まだ完全に理解できてません(^_^;)

 そうすると、リザーブにいる騎兵は無損害で退却できるというようなことを活かして、かかわりたくないエリアからはうまく手を引いて、損害をなるべく避ける……というようなことが有効だったりするのかな? と思ったのですが、そう上手くはいかないよな、と思ったりも(^_^;




7.ゲームプレイの例における和訳
 23.ゲームプレイの例を我々は参照して、なんとかゲームシステムを理解しようとしていたのですが、途中どうにも理解できないことがあり、原文を見てみてると得心したということが複数ありました。

 和訳P13の右側の列の上から2行目にこうあります。
「フランス軍が攻撃してくる可能性を考えるのなら、フランス軍のターゲットはエリア3になるでしょう。」
 この文は、「してくる」というのですからオーストリア軍目線かと思ったら、フランス軍目線だったのか? とSUNPOさんは仰ったのですが、これは原文では、
「If we think of possible French attack responses, we can see that they could target locale 3.」
 で、例えば、↓のような?(尤も、元の和訳でも大差はなく、一応意味は取れるという気もします)
「フランス軍が攻撃によって対応する可能性を考えるのなら、フランス軍のターゲットはエリア3になるでしょう。」

 次の段落の真ん中辺りにはこうあります。
「もうひとつのフランス軍の防御的な対応は、エリア5のコマが攻撃されるのを受け入れる代わりに、エリア8と24のコマ(C1とC2)を北の道路のブロックに使用することです。これらの行軍は2つの指揮ポイントを消費します。エリア24のコマは小道を使用して行軍しています。」
 我々はこれを読んで、この2つのコマを両方回復するのに指揮ポイントを2消費して、エリア8のコマの通常行軍に指揮ポイント1、エリア24のコマの小道の道路行軍に指揮ポイント1、あるいは舗装道路の道路行軍に指揮ポイント0、と理解して読み進めたのですが、その後の記述とどうも合わない……。
 10分か20分すったもんだしたところで、原文を参照してみたところ、
「Another French defensive response might be to accept that the pieces in locale 5 will get attacked and forced to retreat, and instead block the northern road with the pieces from either locale 8 or 24 (C1 and C2, respectively). Each move would cost two commands. 」
(もうひとつのフランス軍の防御的な対応としては、エリア5のコマが攻撃を受けて後退を余儀なくされることを受け入れる代わりに、エリア824のコマ(それぞれC1、C2)を北の道路のブロックに使用することです。どちらの場合でもコマの行軍は、2つの指揮ポイントを消費します。)
 とあったので、「ああ、2つのコマ両方じゃなくて、どちらかで、なのか!」と得心しました。

 あと、この段落の原文の最後の「(instead of only 1)」は、和訳には存在しないことも気付きました(尤も、なくても問題ないと思います)。




 BOWさんからは、「2時間ぐらいのゲームなんだから、そんなにルールブックとにらめっこせずに、とりあえずプレイしてみた方がいいんだ」とも言われまして、確かにその通りかと思います(^_^;

(まあ、気になったこと、分からないことを突き詰めたくなる性分なんだ、ということでもあるのでしょうね~)

ザハ氏のブログ記事「【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月」に挙げられていた疑問点をチェックしてみました

 ザハ氏が、【短報・対戦写真】OCS:Crimea"Tiger by the Tail"/2024年3月というブログ記事を上げておられまして、その中でルール上の複数の疑問点を挙げておられたので、チェックしてみました。



2.1 上陸の誤解
 上陸用舟艇からの上陸後は、海上移動と同様に移動できないと誤解していた。上陸が成功すれば、半分の移動力で移動できる。敵ZOCに不利な修整を受けて無理に上陸しなくてもよかった。ただし、補給ポイントが揚げられないので、内陸に進むと補給が届かなくなる。


 「補給ポイントが揚げられない」とありますが、これは「揚げられる(揚陸できる)」と思います。

 ここで「上陸用舟艇」とあるのは、厳密には『Crimea』に(のみ?)登場する「ソ連軍の海軍輸送船舶(Naval Transport)」のことです(これ以外の、通常の上陸用舟艇は『Crimea』には登場しません)。

unit8424.jpg

 これはOCSシリーズルールにおける「上陸用舟艇(Landing Craft)」の一種扱いだと思うのですが、『Crimea』3.5eの2つ目の「・」に、「海軍輸送船舶はユニットやSPを積載し、港湾に、または揚陸表(ALT表)を使用して貨物を陸揚げできます。海軍輸送船舶に積載されている状態のSPは、同じヘクスにいるユニットであったとしても使用できません。」とあります。

 ところが、OCSシリーズルールではLanding Craftは「SPを(積載はできるが)陸揚げできない」ですし、積載されているSPは「隣接ヘクスまでのユニットしか使用でき」ません。

 で、特に前者について気になった(というか、当時は後者の違いに気付いてなかった(^_^;)のでfacebook上のOCSグループで「OCSシリーズルールで上陸用舟艇はSPを陸揚げできない、と書かれていますが、『Crimea』の海軍輸送船舶はSPを陸揚げできるのですか?」と聞いてみたところ、端的に「Yes」とだけ答が返ってきました(OCS班長のChip Saltsman氏から)。

 その答を見た時私は「なんでやねん」と思ったのですが(バキッ!!☆/(x_x))、よく考えてみれば、シリーズルールの規定を特別ルールの規定で上書きしているだけなんだな、とハタと気付きました。






4.1 クリミア特別ルールの表記の不一致
 クリミアの特別ルールのルールブックの記載に不明瞭な点が難点かあると感じた。
 例えば、プレイブックのシナリオには"Seaborne Assault Marker"とあるが、これはおそらく"Amphibious Landing Marker"のことだと思われる。考えればわかることかもしれないが、ルールには"Beachhead Marker"もあるため、混乱しないよう用語を統一が望まれる。


 これはその通りだと思います。

 あと、私が和訳の時にえらく悩んだのは、シナリオ2の「Kerch Strait Condition:」が「Open」と書かれていることで、「Openってなんやねん?!」と最後まで悩んだのですが、「(ケルチ海峡氷結進行表における、凍結の最初のターン)」という括弧書きがあるので、もうそれに従って「凍結#1」と意訳?してしまいました(が、どうなんでしょう?(^_^;)。




3.1 航空阻止(Train Busting)について
 ソ連軍プレイヤーは、枢軸軍が補給ポイントを鉄道で前線に運ぶのを妨害するために、航空阻止(Train Busting)を試みようかと考えていた。ソ連軍に、航続距離が194ヘクスの爆撃機があるからである。この航続距離であれば、警戒空域を避けて飛んで後方の鉄道を爆撃できると考えたためである。しかし、忘れていて一度も実施できなかった。
 ところで、1942年の途中まで、ソ連軍は制空戦闘と砲爆撃を飛行場から20ヘクス以内でしか行えない(クリミア特別ルール3.2b)が、航空阻止は砲爆撃ではない(シリーズルール14.2eで、「砲爆撃」と「航空阻止」は別に列挙されているため)ので、この影響を受けずに実施できると考えられる。


 これを読んで私は、「え、マジ? 航空阻止は、砲爆撃の一種に決まっているのでは……」と思ったのですが、OCS 14.2eを見るとまったくその通りで、しかも、『Crimea』3.2dには「制空戦闘、航空阻止、およびあらゆる種類の砲爆撃任務」という風に記載されていたので、疑いの余地もなくなったという……(^_^;

 この件、まったく想像もしてませんでした……。気付かせて下さったザハ氏に大変感謝します!(T_T)



<2024/04/08追記>

 ↑の件ですが、別件の質問のついでに質問してみたところ、「(対施設)砲爆撃結果表を使用する航空任務はすべて、砲爆撃の一種であり、航空阻止も砲爆撃の一種である」ということでした(!)。ルールの記述上、どこにそういうことが書いてあるのかとか、なぜ砲爆撃と航空阻止は別々にリストに挙げられているのかとかは良く分からないのですが(さらに質問しても答が返ってこないので(>_<))、一応そういうことらしいです。

 とまれ、理解が深まったので良かったです(^^)

<追記ここまで>




4.2 勝利条件の疑問
 シナリオ2の勝利条件に疑問がある。手元にある英語のプレイブックでは、勝利得点(VP)をカウントする港湾は、"Crimean or Taman Peninsula"、つまりクリミアかタマーン半島の港湾となっている。ところで、後日聞いたところによると、ある和訳では、「クリミアで自軍が支配している港湾」となっているという。
 これは、翻訳ミスか、それとも公知でないエラッタが反映されているかのどちらかであると考えられるが、シナリオの流れに大きく影響すると考えられる。


 これを読んで、「うお、ある和訳とは私の訳で、まず間違いなく私のミスだろうな……」とすでに観念したのですが(おい)、確認してみたところ、やはり私のミスでした(; ;)ホロホロ

 シナリオ1の文をコピペしてしまってそうなったのだと思います。一応、和訳のシナリオ2のVP一覧にはタマン半島側のVPも入っていたのですが……。



 今回判明した和訳ミスと、明確化的事項について、↓に追記しました。また今後も、疑問点やミスなど見つけられましたら、どしどし報告していただけると大変ありがたいです!

OCS『Crimea』の現時点で判明しているエラッタ&明確化 (2024/01/07)


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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