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OCS『Crimea』のシナリオ3「鉄十字勲章」について

 ミドルアース大阪で、古角さんとOCS『Crimea』のシナリオ3「鉄十字勲章」をプレイしてみることができました。

 クリミア戦の後半に入り、1943年9月から1944年1月にかけて(全36ターン)、ソ連軍の攻勢に対して枢軸軍はクバン橋頭堡から撤退するも、クリミア半島は保持しようとします。







 結論から書きますと、このシナリオもまた素晴らしく面白そうな出来になってました。

 しかも、OCS『The Third Winter』などの「オストフロントセット」*をプレイする上で重要になってくる、ソ連軍の正面軍司令部の「攻勢態勢」「再編態勢」を非常に分かりやすく、楽に習得できる「練習シナリオ」にもなっていると思いました。そういう意味で、『The Third Winter』などへのステップアップのためにも非常に有用でしょう。

*「オストフロントセット」:アントニー・バーケット氏デザインによる、OCSの中でも1943年9月~1944年4月にかけての東部戦線を再現するゲームセット。ウクライナ戦区を扱う『The Third Winter』(2021年)、クリミア戦区を扱う『Crimea』(2023年)、中央軍集団戦区を扱う『The Forgotten Battles』(2024年プレオーダー開始)、北方軍集団戦区を扱う『The Hero City』(デベロップ中)の4作で、一部、または全部を連結してプレイ可能となります(『Crimea』以外の3作はフルマップ4枚の作品です)。


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 このシナリオ3「鉄十字勲章」で最も重要なのは、ソ連軍の「上陸拠点(Beachhead)マーカー」の再使用サイクルだと思われます。

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 シナリオ開始時に「Ready」(使用可能)となっており、第1ターンにソ連軍プレイヤーは枢軸軍前線の後方に上陸作戦を行い、そのヘクスに置いてその機能「1SP分の港湾として使用できる(補給源になれる)」「10ヘクス以内の正面軍司令部の下(あるいは周囲)にあるSPを2倍のコストで上陸拠点から受給できる」を使用すべきなのでしょう。


 恐らく↓の画像の左端に上陸拠点マーカーを置いてあるあたりとか(史実ではそことかと、タマン半島の北側にも上陸作戦を行っていたようです)。

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 で、上陸拠点マーカーはソ連軍プレイヤーの任意で取り除けるので、数ターンで取り除き、再使用のための準備期間9ターンのサイクルに乗せます。このシナリオは全36ターンなので、例えば、

 第1ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第12ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第23ターンから2ターン使用、9ターン準備期間
 第34ターンから2ターン使用

 と、4回、枢軸軍前線の後方に上陸作戦を行える可能性が理論上ありますが、まあ毎回「2ターン使用」はさすがに短すぎるので、上陸作戦は3回が現実的でしょうか


 また、↑で2回目の上陸作戦が可能になる第11~14ターンあたりにダイス目チェックで、ウクライナに第4ウクライナ正面軍が「攻勢態勢」で到着します。その最初のターンの到着場所と戦力は↓で、2ターン目にも同じ程度が来ます(ただし2ターン目はSPはなし)。

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 そして第4ウクライナ正面軍は、到着の2ターン後(3ターン目)に戦車部隊が退出し、さらに「再編態勢」にさせられて攻勢するにはものすごく不向きな状態(攻撃時のアクションレーティング-2とか)になって、SPは基本的に来ません。

 ↑この第4ウクライナ正面軍が攻勢ができる2ターンとほとんど同時に、ケルチ半島方面で上陸作戦を行うことが重要だろうと思われます(古角さん説。私は最初、上陸作戦は4ターン目や5ターン目まで待った方がいいのではないかという説を出したのですが、最終的に古角さん説に敗北しました(^_^;)。



 第4ウクライナ正面軍ですが、ソ連軍プレイヤーが補充のダイス目で11か12を出すと活性化されて1ターンだけ「攻勢態勢」になり、SPとユニットが補充されるので、上記の2ターンが終わった後も枢軸軍プレイヤーは気を抜くわけにはいきません

 そしてソ連軍プレイヤーはその後も、1回程度は後方に上陸作戦を行えますから、ぜひとも最後の上陸作戦の機会まではプレイを継続したいでしょう(^^)


 また、ソ連軍の正面軍は「攻勢態勢」と「再編態勢」(攻勢には向かないが、防御時にはアクションレーティング+1とか、防御用の戦闘補給がノーコストとか、防御がむっちゃ楽)を数ターンおきに繰り返すことになるのですが、「再編態勢」の時にはできることが少ないのでプレイ感覚はかなり楽になるでしょう(再編態勢かどうかは枢軸軍プレイヤーにも明らかにされるので、枢軸軍プレイヤーもひと息つけます)。シナリオ開始時からいるのは「沿岸正面軍(Coast Front)」だけで、あとは前述の第4ウクライナ正面軍が途中から入ってくるだけです。



 枢軸軍プレイヤーは、セットアップ時点ではそのクバン橋頭堡の前線に陣地や川があり、その線を保持したくなりましたが、史実を見ると数ターンでクバン橋頭堡(タマン半島)を放棄してケルチ半島側へ引っ込んだようなので、できるだけ整然と、すぐに撤退すべきなのだと思われました。

 勝利条件的には、枢軸軍はフェオドシヤ(ケルチ半島の根元南岸)を保持できていればよく、ケルチ半島全部を取られても勝利できますから、ケルチ半島全域も無理に守る必要はありません。

 一方、ソ連軍はシナリオ終了時に「セヴァストポリから10ヘクス以内に、一般補給下のソ連軍攻撃可能ユニットが1ユニットでも存在」すれば勝利できます。ですから、クリミア半島内への入り口(ウクライナ方面と繋がる2箇所、ケルチ半島の根元)をなんとかこじ開けて、その状態を維持したいところです。枢軸軍はそれをなんとかして阻止せねばならないわけです。




 このシナリオは恐らく、OCS『Crimea』の中で使用、習熟しなければならないルールが最も多く、期間も最長なのですが、もしかしたら最も面白そうな出来なのではないかと思いました。『Crimea』はそれぞれのシナリオが非常によく出来ていて面白そうで、入門用シナリオも複数あるなど、単純に「OCSでクリミア戦域の全体を再現してみました」というものを遙かに超えた傑作ゲームになっているのではないかと思い始めています(^^)



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エスイグ作品とシモニッチ作品との大きな傾向性の違い?

 昨日のミドルアース大阪で、エスイグ作品(というかOCS)とシモニッチ作品との大きな傾向性の違いについて話が出て、ある程度「なるほど……?」と思いました。


 私はシモニッチ作品を、複数持っていたこともあったのですが、プレイしたことは残念ながらほとんどありません(『The Legend Begins』を少し、一度だけ?)。でも興味を持っていないわけではなく、楽しめそうならやってみたい気持ちは持っています(特に『Ukraine 43' Second Edition』とか『North Africa 41'』あたりは気になってます)


 エスイグ作品とシモニッチ作品の「大きな違い」ということで話が出たのは、シモニッチ作品は「ルール(の精緻度とか?)がすごい」ということで、少し見方を変えて言うと「ルールの規定による度合いが高い(あるいは非常に高め)。細かい違いをルールを増やして(変えて)再現する」であるとの説(仮説)でした。

 それに比べると、エスイグ作品は「ルール上によりも、カウンター上に書いてある度合いが高い」? そしてルールは、シリーズルールで一般的な部分のみを規定する(そもそもエスイグ氏は主にシリーズルールを作る人で、個別のゲームのルールは別のデザイナーが特別ルールとしてくっつけるわけです)。



 そういう話が出て、隣のテーブルに広げられていた『North Africa 41'』のユニットを見に行ってOCSと比べて「なるほど」と思ったのは、

・『North Africa 41'』では、歩兵の移動力は3。戦車部隊は5、機甲偵察で6とか。しかし、道路では歩兵は移動力+5(で8)になるのに対し、戦車部隊は4倍で20になったりする。

・OCSでは、歩兵の移動力は3、移動モードでは5とか。戦車部隊は8、移動モードで16とかって、カウンターの表と裏を見ると書いてある。


 そして戦闘においても、シモニッチ作品はルール上の規定で複数の特別な強さを表す傾向性がある?(本当にそうなのかどうか私はちゃんと見ていません(^_^;)のに対して、OCS(やBCS)なんかはアクションレーティングという数値が全ユニット上に書かれてそれで強さのほとんどが規定されている(他にも機甲・機械化ユニットは平地で攻撃力2倍とかもありますけど、効果はそれほどでかくはない)。



 そうすると、シモニッチ作品というのはテキスト(ルール)の組み合わせの妙とかに真髄があり、喩えて言うなら村上春樹作品みたいな?(全然違う?(^_^;) それに対してエスイグ作品というのはテキストの妙とかはあまりなくてもっと大ざっぱに見た目で「このユニットつえー!」という感情を引き起こす、喩えて言うならアメコミ作品みたいな?(私はアメコミ作品全然知らないですけど……)


 まあ、以上はまったく仮説に過ぎないので、「全然違う!」とかってツッコミと共に色々教えていただけるとありがたいです(^^)

『ビルマ 絶望の戦場』読了:ビルマ戦末期にラングーンの上級将校達が芸者遊びしていたことについて

 ようやく『ビルマ 絶望の戦場』を読了しました。


 途中、ビルマ戦末期にラングーンの上級将校達が芸者遊びしていたことについて結構詳しく書かれていまして、とりあえずその場所が気になったので調べてみてました。



 ラングーンの上級将校が芸者遊びに励んでいた場所が、先述した料亭「萃香園(すいこうえん)」である。萃香園は、もともと福岡県久留米市にあった高級料亭が、芸者ら数百人をつれて、ラングーンに出店。上級将校専用の慰安施設となっていた。
『ビルマ 絶望の戦場』P167



 ラングーンの中のどこにあったのかですが、最初は「ペグークラブ」という洋風の建物の中で営業していたそうですが、1943年末に「雰囲気が合わない」という理由で、ヴィクトリア湖畔に移された(P175)のだとか。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のラングーン周辺。ラングーンの北東に「Pegu」という町がありますが。

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 ペグークラブの場所は、↑で言えばラングーンの港湾マークの上の頂点あたりでしょうか。

 ヴィクトリア湖というのはラングーン市内に描かれている湖です。当時萃香園は、ビルマ方面軍司令部が接収して使用していたラングーン大学の隣にあったそうで、ラングーン(ヤンゴン)大学は湖の南西にあるようなので、その辺という感じでしょうか。



 上級将校らがどれくらい遊んでいたかについて、「自動車が常に二、三十台は集り賑を極めている」(P169)とあったので、なるほどなかなかかと思いました(営業時間は夜9時から午前2時)。芸者さんは「久留米から約100名、大牟田と福岡を合わせて約30名」がビルマへ行ったそうですが、そのほとんどは家が借金を抱えていて、ビルマへ行けば借金が返せるという話で行った人達だろうとのことです(P173)。

 また、ある芸者さんの話としてこういうのが挙げられていました。

「自分を美化していう訳ではありませんが、私は軍人なら誰かまわず寝るような芸者ではありませんでした。そのためには、パトロンを持つのが大事なのです。あの芸者は誰々の彼女だ、となると他の軍人さんは手を出さない。それに私達には入らないような煙草などの品物も差し入れてくれるんです」
『ビルマ 絶望の戦場』P174




 前線の兵士達が言語に絶するほどの苦難に喘いでいたビルマ戦末期にも、この萃香園で上級将校達が享楽にふけっていたことが、当時の方面軍上層部の退廃の象徴として、この本で描かれていました。



 ただ、この本だけを読んだ人(あるいは、このNHKスペシャルを見た人)は、「こういう慰安所はラングーンだけにあって、上級将校らだけの特権であった」という風に思うのではないかなぁと思ったのですが、実際にはそうでなくて、兵士向けの慰安所がビルマ各地(あるいはインドや中国領内にまで)にあったわけです。しかも、こういう慰安所にものすごく反対したのが、あの悪名高い辻政信だったのですが、まあ話がややこしくなりすぎるのでそこらへんの話には触れなかったのでしょうね~。


 あと、当然ながらビルマ戦における英連邦軍側にも慰安婦はいました(上級将校専用とかって枠があったかどうか、興味のあるところですが……)。

インパール戦洋書をちょっと読んだ感想(慰安婦、日本軍兵士の強さへの記述等) (2020/03/06)



 ビルマでどこらへんに日本軍の慰安所があったかについては、↓のような地図がありました。

日本軍慰安所マップ ミャンマー連邦共和国




 あの玉砕した拉孟にも慰安婦はいて、一緒に玉砕しているので、ものすごく悲劇的なわけです……。

 木下中尉の報告により、とりのこされた女性部隊の約二十名も戦禍にまき込まれたことが判明した。彼女らは髪を下ろし、軍服を着用して男姿に身をやつし、准看護婦 (?)となって、傷病兵の看護に、弾丸運びに、あるいは炊事にと、かいがいしく働き、最後は大部の者が玉砕部隊と運命を共にしていったことが明らかにされて、なんとも痛ましく聞くにたえなかった。
『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀痛恨の手記』P237



 第33軍(北ビルマと雲南が戦区)の参謀となっていた辻政信が前線の慰安婦を全員引き上げさせるべきだと主張して、最終的に第33軍ではそのようにしたという経緯が興味深いので、長いですが引用してみます。

 現在、慰安婦のことが大問題になり、にぎにぎしく報ぜられているが、あの当時は公娼制度があったので、いまのような罪悪感は比較的少なく、必要悪ぐらいに考えている者が多かった。戦場は、男性の戦う場で、女性はいないはずであったが、事実は慰安婦と称して多くの女性が進出していた。彼女らはたくましく、じつに勇敢で、どんな辺鄙なところでも、どんな危険なところでも、軍隊の征くところにはどんどん進出していた。
 拉孟のような最前線で危険なところにも、日本人、朝鮮人あわせて約二十名の慰安婦が進出していたが、敵の総反攻時に取り残されて戦火にまき込まれた彼女らの大部が、玉砕した将兵と運命を共にしたことは、すでに述べたところである。
 その衝撃は大きかった。なかでも辻【政信】参謀の受けたショックは大きかった。
 辻参謀の女嫌いは有名で、戦場に女性を連行するなどもってのほかと大反対であったが、南京では料理屋征伐のため、料亭の焼き打ち事件までひき起こしたことは有名で、その噂は遠いビルマの涯(はて)のわれわれの耳にも入っていた。ラングーンの方面軍では、翠香苑という料亭を抱えており、軍【第33軍】でも翠明荘という料亭をかかえていた。辻さんは、ここに絶対に足を踏み入れたことはなく、かねてからこれを白眼視していた。拉孟守備隊が玉砕したとき、慰安婦たちが将兵と運命を共にしたことを知って、婦人部隊は即時かつ全面的に後方に送り返すべきだと強く主張した。
 辻参謀の論拠は、「戦局は今後ますます深刻苛烈となり、第二、第三の玉砕部隊が出ることも予想される。戦闘員でもないか弱い女性を戦火のまき添えにすることは、余りにも残酷だ。犠牲はわれわれ軍人だけで沢山だ。今さら女にうつつを抜かしているときではあるまい」ということであった。

 これに対して、山本【清衛。第33軍】参謀長は絶対に反対だった。参謀長は、酸いも甘いもかみ分け、人情の機微にも通じた豪放磊落の将軍で、酒を愛し、みずからもよく遊んだが、
「戦局が苛烈になればなるほど婦人部隊が必要なのだ。明日をも知れぬ運命にある将兵に、せめて一時なりとも苦しい戦いを忘れさせて、安らぎの場を与えてやりたいものだ。この戦争は国家総力戦で、戦闘員も非戦闘員もない。老若男女がことごとくその分に応じて、力を尽くさなければ勝ち目はないのだ。婦女子といえども戦力だ。
 いよいよというときは軍属として処遇し、准看護婦その他の面で戦力化すればよい。死なせることは気の毒だが、戦死した場合は、後の救恤、栄典の授与、遺族の生活の補償など、軍人に準じて取り扱ってやればよい。靖国神社にもまつり、その遺烈を顕彰してやればよいではないか」と主張した。
 こうして二人の意見の対立はエスカレートして、ついに感情的なものにまで発展した。辻参謀は、山本参謀長に "祇園藤次〟というニックネームをつけて、軽蔑の色をあらわにした。“祇園藤次"とは、当時広く読まれていた吉川英治原作の小説『宮本武蔵」に出てく酒と女に身をもち崩した遊蕩児である。
 一方、山本参謀長は、「辻の顔は北面の鬼瓦だ。あの御面相では女にもてないので、僻(ひが)んでいるのだろう。辻は人情の機微がわからない朴念仁だ。しかし、子供が五人もいるところを見れば、満更でもないね」と、冷笑していた。
 こうして二人の対立は高まるばかりであった。私も、二人の論争にまき込まれて、少なからず迷惑した。この問題は、後方主任参謀の所管だということで、その尻ぬぐいをさせられる羽目になり、後方主任参謀の筆者をはさんで、二人の間に綱引きがはじまったからである。
 辻参謀からは、「早く後方に送り返せ」と、毎日のように矢の催促があった。一方、参謀長はこれに反対して、「野口参謀は辻の参謀でないから、辻の言うことを聞く必要はない」とまで極言されて、要求を拒否するように言われた。
 参謀長の言うように絶対必要とも思われないが、その考え方にも傾聴すべきものがある。辻参謀の意見にも一理があるが、あまりにも潔癖すぎる。ただし、正面切って争うとなると、辻参謀の意見に分があった。私は考え抜いたすえ、辻参謀の意見に同意して、全部の女性を後方に退げることに決心した。
 それは、直接作戦に関係のない事柄で論争をつづけて部内の対立を深め、エネルギーを費消してはならぬ、女性が存在する限り、この論争は片づかないと思ったからであった。
 私はまず翠明荘を後退させるとともに、第一線の部隊にも全部の女性を後退させるように指導した。
 しかし、私のとった処置に対しては、山本参謀長をはじめ一部の者から、
「野口参謀はなんと無粋な奴だ」と陰口をたたかれている声を耳にして、後味が悪かった。
 また、私の指導に対して面従腹背で、陰でひそかにコソコソと温存していた部隊もあった。遠くて近きは男女の仲とかで、この問題は理屈どおりに割り切れないものがあった。
 私のとった処置が適切であったかいなかは別として、その後の敗戦につぐ敗戦での敵中突破や、終戦後の混乱の中で、女性を抱えていなかったので、面倒くさいことに煩わされなかったのは事実であった。
『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀痛恨の手記』P238~241




 ビルマ方面軍でもし、辻政信が主張したような方策が実現していたら、美談になっていたかもですけども……。





 

審判制1806年戦役自作ゲーム『Kriegsspiel 1806』の偵察問題について

 審判制1806年戦役自作ゲームの『Kriegsspiel 1806』で、偵察活動をどうルール化すればいいか悩んでました。



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 これまでは単純に、(何もしなくても)確率で判明するというものを考えていたのですが、どうにもうまくない気がしていました。ところがフト、手持ちのリソース(カードとか)と引き換えに偵察活動を行え、そしてリソースは有限であるという風にすればいいのではないかと思いつきました。気付いてみれば、その方がはるかにマシな解決策であると思えました(^_^;(もっと良い方法もあるかもですが)



 それ以前に、↓こういう問題も気付いていたのですが……。





 最初にカードがたとえば7枚配られ(それ以後カードを引く機会はなし)、カードにはそれぞれ、小さめの勝利得点が得られるような目標が記されており、そのカードを持ったまま目標を達成すれば勝利得点が得られる。一方、カードを偵察のために使用するという方法もあり、カードを捨てて偵察が行えるとか……?

 偵察は数ターン(3ターンとか)は間隔を空けなければ実行できない、とかってルールもあった方が良いかも。


 あと悩むのは、偵察の精度をどうするかです。敵に関する情報の一部だけが分かるべきだとは思いますが、「どの一部」が判明するのかはダイスを振っても良いかも(一方で、どの程度分かるかについてダイスを振ると、両軍で差が出てしまって良くない気がします)。

 「偽」情報が混ざるべきか、空母戦ゲームなどではどうなっているかも気になったのですが、うーん、まあやめておいた方がいいですかね……(偽情報に引っ張られて敗北したら、その偽情報だけがゲーム上決定的に重要だったことになってしまいますもんね)。


OCS『Crimea』のシナリオ2「虎の尾を踏む」について

 ミドルアース大阪で、OCS『Crimea』のシナリオ2「虎の尾を踏む」をプレイしてみたので、このシナリオについて書いてみようと思います。









 史実では、ソ連軍はまずケルチ周辺に第一次上陸を行い、数日後にフェオドシヤ(ケルチ半島の根元南岸)に上陸。その戦域を守備していたフォン・シュポネック将軍は独断で撤退し、投獄されました。

ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について (2024/01/27)




 シナリオは、非常に良くできてるなと思いました。

 初期配置ではケルチ港の北東隣接ヘクスのコロンカ港のヘクスが空いており、ソ連軍が第1次上陸を仕掛けるには好都合です(港湾能力を使用して上陸してすぐに一般補給を引けるので。ただし、その港に海上輸送するためには、移動フェイズ中に敵ZOCがかからないようにしなければなりません)。


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 第1ターンの先攻・後攻に関しては、「枢軸軍プレイヤーがイニシアティブを持っており、先攻・後攻を選択できる」となっており、枢軸軍は先攻を取ってコロンカ港にユニットを入れることもできます。

 ところが、シナリオ特別ルールで「ソ連軍プレイヤーはシナリオ中に1回、「大攻勢」を宣言でき、宣言したならば、枢軸軍のリアクションフェイズはスキップされ、次のターンのイニシアティブをソ連軍が獲得する(つまり、ダブルターンが確実にできる)」とされています。そうすると、枢軸軍プレイヤーとしては第1ターンで先攻を取ると、ソ連軍プレイヤーに「大攻勢」される可能性があるわけです(まあシナリオ中いつかはされるでしょうけども、可能な限りソ連軍に先攻を取らせた方が、枢軸軍にとって良いのは確かでしょう)。



 また、ソ連軍は『Crimea』独自の海軍輸送船舶(Naval Transport)というユニットを使用して上陸作戦を行うのですが……。

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 輸送船舶ユニットは、シナリオ開始時に6ポイント(6RE分)あります。が、第1ターンから第10ターンまでの毎ターン、ソ連軍プレイヤーは密かにダイスを1個振って、5か6が出たならば輸送船舶1ポイントを獲得します。そしてその存在は枢軸軍プレイヤーには秘密にされます。

 輸送船舶ユニットは上陸作戦に使用したら(このシナリオでは)使い捨てなのですが、賢明なソ連軍プレイヤーであれば最初の数ターンにいきなり最初の6ポイント分を使い切ってしまうのではなく、2ポイント分とかを使わずに置いておくと、枢軸軍プレイヤーとしては「まだ上陸作戦がどこかに行われるのではないか」と考えざるを得ません。そして、輸送船舶ユニットは第10ターンまでに、新たに3ポイント程度は獲得されている可能性があるわけです。


 また、OCSで上陸用舟艇による「揚陸(ALT*)」を実行したことのある方なら、「揚陸自体でダイス目が悪ければ全滅もあるなど結構リスキーで、またSPを陸揚げできないなど、結構制限がキツイ」という印象があるのではないかと思います。ところが『Crimea』の輸送船舶ユニットによる揚陸は、最悪でもユニットの半分は上陸に成功し、またSPを陸揚げできる(輸送ユニットに積んだ状態でも)など、かなり制限が緩くなっています。

*:敵ユニットのいないヘクスへの上陸作戦。敵ユニットのいるヘクスへの上陸作戦は、海岸強襲(BA)という別のルールを使用します。



 さらにさらに。『Crimea』プレイノートの「ゲームプレイに関する考察」を読んでいると、こう書いてあります。

 ソ連軍側の上陸作戦【3.5a】の「脅威」は、実際の上陸と同じくらい厄介です。マップ上で、ドイツ軍プレイヤーの前で例えばクラスノペレコプスク(Krasnoperekopsk:F17.23)【クリミア半島とウクライナの間の地峡部にある村】に上陸作戦を行うために必要なヘクス数を仰々しく数えてみてください。そうすれば、枢軸軍は部隊をもっと広げて配置せざるを得ないでしょう。


 実際にクラスノペレコプスクへのソ連軍の上陸作戦が成功し、その周辺に対応できる枢軸軍部隊がいないとなると、クリミア半島の枢軸軍全体が補給切れでとんでもないことになる可能性があります。




 全体としてこのシナリオは、「(1941~42年の冬期反攻の一環として)ソ連軍側が、クリミア半島各地への上陸作戦をチラつかせながら、最大限の戦果を挙げようとする」のに対し、「枢軸軍側はなんとかしてそれに対処しようとする(が、地上戦力も空軍力もSPも乏しい)」というものになっていると思いました。そういうシナリオは、OCS全体でもかつて見たことがないようなものなんじゃないでしょうか。

 20ターンというのは結構長いですし、当時行われていたセヴァストポリ攻略(と守備)のためのユニットも出てきますから全体のユニット数はまあまああるのですが、セヴァストポリ周辺のユニットを動かしてしまうのは両軍にとってリスキーだと思います(そこから戦力を抜くと、やられてVPを献上することになります)し、また各地にある港湾に置かれている枢軸軍ユニットは守備隊として実質上動かせないなど、実際に動かせるユニットはだいぶ少ないです。そしてまた、両軍とも1ターンに来るSPが1SP程度しかなく、華々しいことをやるのは難しいですから、ターン自体は割とスイスイ進むと思います。


 冬期反攻の一環として、ソ連軍側はクリミア半島の各地への上陸作戦を自由に考え、そして枢軸軍側はそれを何とかして阻害しようとするという構図は、なかなかに魅力的なのではないでしょうか。かなりプレイして面白そうなシナリオだと思いました。


OCSのプレイ中にやり直しを許容するプレイ流儀について

 facebook上の「Operational Combat Series」グループで、「OCSのプレイ中にやり直しを許容するプレイ流儀について」の話題(スレッド)が立っていて、私も大いに賛成なのでそこらへんについてちょっと書いてみます。


 最初の投稿は、例えば「移動のやり直しを許容する」とか「補給のミスの修正を許容する」、「再建、脱出、移動、補給チェックなどのタイミングが巻き戻されたりしてやり直されるのを許容する」というようなプレイ流儀で自分達はやっているのですが、他にもそのようなやり方をしている人(グループ)はいますか? というようなものでした。


 私は↓のように返信しました。

 あなた達の流儀に、私は全面的に賛成します!

 私は日本で友人達とOCSを頻繁にプレイしていますが、私達の仲間の間では、「無限にやりなおしをして良い」という考え方でプレイしています。

 まあ、大きく勝っている側が自分に有利な方にやり直しをするのは心証が良くないですが、どちらが勝っているか分からない状況なら、お互いに「どんどんやり直しをしましょう」と言い合っています。

 OCSはかなり複雑で、そして不確実性が非常に高いゲームなので、やり直しを認めないプレイでは、私達はストレスで倒れてしまうでしょう! お互いがOCSを楽しむために、やり直しを認めることは大変良いことだと思います。



 特に、多分日本人は謙虚になりがちだと思うので、私は積極的に「尼崎会では“無限やりなおしOK”ですから!」と何度も何度も言って、「あっ、しまった」と言ったプレイヤーがいたら、「おー、それ、やり直しして下さい。尼崎会では“無限やりなおしOK”ですから!」と言い、「いや、いいです……」と固辞されると、「いや、ぜひやり直して下さい。あなたがやり直ししないと、私もやり直しできない雰囲気になります。お互い幸せになりましょうよ」と言ったこともありました(^_^;

(もちろんこれは、グループやプレイヤーによっては嫌いなやり方かもしれませんし、皆がどう思うかは確認する必要があるでしょう)



 ある方の書き込みで、「素晴らしい!」と思ったのは、↓のような文章でした。

 私達の目標は、OCSのプレイを向上させ、素晴らしい体験をすることであり、「勝つ」ことではありません。私たちはいつも、ミスを修正することを認めています。また、私たちは完了までに1、2年かかるモンスターゲーム(GB2/CB)をプレイする傾向があります。些細な問題にこだわっていても仕方ありません。



 私はカードゲーム(遊戯王とか)でも、いわゆる「エンジョイ勢」(楽しむことを優先し、勝率にはそれほどこだわらない人達)であり、「ガチ勢」(勝率をとことん追及する人達)ではありませんでした。カードゲームでも、私は対戦相手に無限にやり直しOKという姿勢でやってました(自分はそれほどやり直さずとも)。

 ウォーゲームでも、ガチ勝負こそが面白いゲームもあり、プレイヤーもいて、それは全然それでいいと思います。ただ恐らく、OCSは「ガチ勝負」にはかなり向かないシステムであり、それよりは(割と起こりがちな)ミスの修正や、後から判明した決断ミスをやり直すことを大いに許容することによってこそ、お互いに楽しい時間を過ごすことのできるシリーズゲームなのではないかと思っています。

OCS『Luzon: Race for Bataan』の予想外に良かったこと3つ

 OCS『Luzon: Race for Bataan』ですが、OCSのVASSALチームの一人であるHerman Wu氏から、製品版のVASSALモジュールが送られてきました(今まではテストプレイ版でした)。

 モジュールの一般公開は製品版の出版と同時に行われるので、まだまだなんですが、ミスとかバグとかあったら教えて欲しいということで、早速1つ気付いたので報告したらすぐ修正されてまた送られてきました。機会があればチェック込みでプレイできればとも思うので、プレイ(あるいはインスト希望でも!)してくれる方募集です。




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 良く分かってなかったのですが、ヘクス径が大きいので、(元々クォーターマップ2枚=ハーフマップ1枚分の広さなのですが)フルマップ1枚とかの大きさで提供されるのかもです。





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 テストプレイ版ではエル・フレイル島ルバング島(小野田少尉で有名)が無視されていたのですが、ちゃんと描かれててありがたいです(>_<)




 あと、これまでfacebook上のOCSグループの書き込みを見ていたりして、OCSルソンがウケている点が予想外だったりしたことが3点ほどあったので、そこらへん書いてみようと思います。


 元々は、日本人ウケが良いように、日本軍が勝っている戦いをテーマにするという狙いがありまして、アメリカ軍は負ける側なのでそちらにはウケが良くないかなと思っていたんですが……。



1.OCSの初の「Pacific Theater(太平洋戦域)」ゲームである

 ということが結構、興奮を引き起こしていたようです。日本人ならば、「いや、太平洋戦争ものとしてはOCS『Burma(II)』があるじゃん」と思うところですが、ビルマ戦というのはアメリカ人にとっては「China Burma India (CBI) Theater(中国・ビルマ・インド戦域)」というくくりに入り、全然別のもののようです。

 「1945年のルソン島の戦いもOCSゲーム化できないか」という書き込みも多く見まして、一応戦史を調べてみたのですが、戦線の動きがかなりゆっくりとしていて、どうも作ってみようという気になりませんでした。というのは、OCSは機動戦向けだという思いがあったからなんですが、OCS『Crimea』でセヴァストポリ攻略戦シナリオをやってみると、機動戦でなくても結構面白いなと思ったので、実はありなのかもしれませんバキッ!!☆/(x_x)

 尤も、史実を詳しく知らないので、どうなのか分かりませんが……。

 太平洋戦域のOCSゲームとしては他に、レイテ島の戦いはありじゃなかろうかとは思ってます。







2.攻撃側奇襲が非常に起こりやすいのが面白かった

 というテストプレイヤーの方の意見を見まして、「あぁ、なるほど……」と思いました。


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 OCSルソンは、日本軍のアクションレーティングが4が多く、フィリピン軍(青いユニット)のアクションレーティングは0が多くなっています。そうすると、2D6の奇襲チェックは+4修正で、戦闘では6以上の目、オーバーランでは5以上の目で攻撃側奇襲が成立し、さらにダイスを1個振った目の分、攻撃側有利な方向に戦闘比がコラムシフトします。

 これはかなりの確率でして、私はOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』が一番攻撃側奇襲が起こりやすいOCSゲームだと思っていたのですが、もしかしたらOCSルソンはそれを超えているかもしれません(特に序盤は)。

 私は特にそれを狙ったわけではなく、史実を調べた結果としてこれくらいのレーティングかな……と思っていただけなので、そこに面白さがあるという視点が抜けてました(^_^;




3.最終ターンの最終フェイズの最後の一振りまで勝敗が分からない

 ……という風に、OCS班長のチップ・サルツマン氏がテストプレイ時のことを何度も書いてまして、私は「いや、それはそういうプレイが1回あったかもしれないけど、毎回そうなるわけはないし、何度もそう書くのは誤解を与えるのでは……(..;)」とずっと怯えておりました。

 ところがその後、知り合いとOCSルソンをプレイしていてまさに、「最終ターンの最終フェイズ(突破フェイズ)の最後の一振りまで勝敗が分からない」という状況になりまして、「あ~、なるほど」と思いました。


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 OCSルソンの日本軍は、バターン半島の「Japanese Victory Line」を超えてユニットを進入させれば勝利、「US-Philipino Victory Line」を超えられなければ敗北します(その中間領域まで入れれば引き分け)。

 OCSは他のゲームよりも選択肢が非常に広くて不確実性が高く、防御側が「これで大丈夫じゃないか……」と思った防御線が破られることが頻発します。逆に言えば、攻撃側は「何とかあそこまでユニットを突っ込ませれば勝ち」という状況では、結構そのための案を考えることが可能です。

 まあ、ややゲーム的ではあるんですが(^_^;、そこらへん考慮に入れると、確かに「最終ターンの最終フェイズの最後の一振りまで勝敗が分からない」という風になる可能性は結構あるのかなぁ、と思いました。もちろん、そうならないこともたくさんあるわけですけども、勝利条件の設定がたまたま、そういう最後まで勝負がもつれこみやすいものになっていたと言えるとは思え、これも非常に予想外のことでした。


 ちなみに,最初に考えた勝利条件は、「バターン半島に入れた米比軍ユニットの数」によって決まるというものだったのですが、この勝利条件だと、日本軍プレイヤーはバターン半島に入ることなど考えずにひたすら米比軍ユニットを壊滅させることに奔走するので、早々にその勝利条件はお蔵入りしました(^_^;



 OCS『Luzon: Race for Bataan』はそのデザイン過程でも、2回ほど設定をガラッと変更したとかってことはありましたが、それ以外は微調整のみですっとうまくいった、非常に運良く安産であったゲームじゃないかと思ってます。

 一方、今OCS『South Burma』(仮)は、テストプレイが始められるまででもものすごい苦労して、テストプレイが始まってからも優に100以上の改訂点が出る苦労さ加減で、大変です……(>_<)

 一応、死ぬまでにOCS『South Burma』(仮)が作れればとは思っていて、いつ死ぬか分かりませんから、急がなければと思っております……(と言いつつ、ちょっと今バタイユ第3版のサマリー作りをやろうとしてまして、その後でまた再開ということで……)。

OCS『Crimea』のミニシナリオ2「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」について

 OCS『Crimea』のミニシナリオ2「シュトルファング(チョウザメ捕獲)作戦」についてです。

 1942年6月5日ターンから7月5日ターンの10ターン。史実でフォン・マンシュタインがセヴァストポリ要塞攻略に成功した戦いです。












 ↓初期配置。

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 ↑だけが実質的に使用するプレイエリアです。このプレイエリア外にも航空基地が複数置かれていて使用しますが、プレイエリアと航空基地との間の距離をメモっておいたりして抽象的に、最低限のスペースだけ使用してプレイすることも容易だと思います。

 ユニット密度が若干高くてスタックが崩れがちかもなので、プレイエリアのみを拡大コピーしてプレイするとか、VASSALでプレイするとかした方が楽かもしれません。


 私は陣地が好きでなく、またこのシナリオは10ターンで、ミニシナリオ1「立ち退き通告(トラッペンヤークト作戦)」の4ターンに比べてかなり長いので「どうかな……?」という気持ちもあったのですが、古角さんも書かれていたようにほとんど移動がないので非常にサクサク進んでいい感じでした。



 陣地関係のルールをまとめておきます。慣れてくればスイスイ進められます。

1.重AT効果(攻撃力2倍を1.5倍にする)を持ちますが、このシナリオではどうせ攻撃力2倍になる地形上に陣地は一つもないので、まったく無視してOKです。
2.砲爆撃表のコラムを1つ左にします
3.奇襲チェックのダイス目に-1修正
4.戦闘結果のダイス目に陣地レベル分のマイナス修正
5.特別ルール1.1cにより、レベル4と3の陣地が占領されるとレベル2になり、レベル2と1の陣地が占領されるとレベルが1下がります(枢軸軍側が陣地を持っている時に、ソ連軍の防御砲爆撃で砲爆撃表のコラムが1つ左になるので、陣地が存在していることは重要です)
6.ドーラの砲撃でステップロスの結果が出ると、ユニットをステップロスさせると同時に、同じ数だけ陣地レベルを下げます(12の目が出ると、2ステップロスさせた上で陣地レベルを2下げるわけです)

 ドーラの砲撃は、2D6の6と7の結果の時に[1/2](もう1回ダイスを1個振って、4-6なら1ステップロス)となります。この結果は、3レベル以上の陣地があるか、観測ユニットがない時には単なるDGになることに注意が必要でしょう。


 ↓ドーラ、オーディン、トールのユニット。ドーラの砲爆撃力は「*」になってますが、実質的には「69-116」です。

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 ドイツ軍側としては、セヴァストポリ要塞の北側から攻めるか、南側を重視するかという選択肢があり得ます(史実では北側から攻めました)。ターンが進んでくるとソ連軍側は弱くなった場所を強化するために戦力をスライドさせる必要にせまられ、その結果防御の薄い所が出てくる感があったので、ドイツ軍側は途中で攻勢箇所を変えるとかってのもありだと思います。

 ソ連軍側はノヴォロシースクボックスからセヴァストポリ港に戦力やSPを運ぶのですが、何を選択するかが重要になります。最初からPaxが10個分あるので、とりあえずは戦場で壊滅したARの高いユニットを優先するのが良いのではないかと思いました。


 また、両軍とも「増援セット」が2つずつあり、任意に投入できます。投入した数だけ、勝利条件ターンが移動します(ドイツ軍が増援セットを1つ入れると、ドイツ軍勝利となるターン期限が1ターン分短くなる)。割と早い内から投入するとか、戦況を見ながら投入するとか、色々あり得るでしょう。ソ連軍側は、海上輸送力が足りなくて投入しても運べない気がしましたが、戦艦セヴァストポリを含む増援セットを投入すると、艦砲射撃で結構いやがらせができるかもです。


 ↓戦艦セヴァストポリのユニット。1ターンに1回のみ、どの砲爆撃セグメントでも撃てます。

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 このシナリオはプレイしやすさ(悩まなさ)という点ではミニシナリオ1よりもよほど簡単かもしれません。ドイツ軍は豊富な空軍力と、ドーラ、オーディン、トールなどの列車砲でひたすら暴虐な砲爆撃を行えます。ソ連軍側はできることは多くないですが、うまく防御砲爆撃などを行って、ドイツ軍のセヴァストポリ攻略を史実よりも遅らせられれば勝利できます。

 OCS『Crimea』のミニシナリオは、1も2も、かなり良い、手軽な、あるいは入門のシナリオであろうと思いました。


1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍について

 今回も、OCS『Crimea』の1943-44年シナリオに絡めまして。1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍についてです。


Erwin Jaenecke

 ↑エルヴィン・イエネッケ将軍(Wikipediaから)



 イエネッケは1911年に士官候補生として陸軍に入り、その軍歴の大半を工兵部門で過ごしました。最初に注目されたのはスペイン内戦中のゲルニカ爆撃(「史上初の都市無差別爆撃」(異論あり)とも言われます)に参加し、下記のような報告をしたことによるものと書かれています。

「ゲルニカはそれ自体、ドイツ空軍にとって完全な成功であった」


 ポーランド戦では第8軍の兵站主任参謀、1940年5月1日(フランス戦の10日前)から1942年1月31日までベルギーとパリで兵站主任参謀(ドイツ語版Wikipediaによります。『ドイツ軍名将列伝』には第2軍や第9軍の兵站参謀であったと書かれています)。

 1942年2月1日から、イエネッケ中将はプラハにあった第389歩兵師団の師団長となります。同年4月に同師団は東部戦線へと移送され、第17軍麾下で同年5月の第2次ハリコフの戦いに参加しました。


 ↓OCS『Case Blue』の第389歩兵師団ユニット。

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 その後、同師団はイエネッケ中将の旧友であったフリードリヒ・パウルス装甲兵大将(イエネッケの方が数ヶ月だけ早く生まれています)が指揮する第6軍の麾下に編入され、同年9月に第8軍団麾下でスターリングラード市街戦へと投入されます。第389歩兵師団と第305歩兵師団から編成されたイエネッケ戦闘団は1942年10月14日のトラクター工場への大規模攻撃に投入され、成功を収めました。

 1942年11月1日、パウルスが第4軍団長のシュヴェドラーを解任し、旧友のイエネッケを後任に任命しました。しかし11月19日に開始された天王星作戦の結果、スターリングラードの第6軍は包囲環に閉じ込められてしまいます。


 ↓OCS『Case Blue』の第4軍団司令部ユニット。

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 イエネッケはこれまでの軍歴から兵站について詳しかったため、空輸のみでの補給は現実的ではないと考えていました。ヒトラーによるスターリングラード放棄を禁じる命令に対して、イエネッケはパウルスに、行動を起こすように何度も必死で頼んだそうです。

 ドイツ語版Wikipediaには、イエネッケはこのように言ったと書かれています。
「無線機を集めて、独立した行動を起こそう。君はスターリングラードの獅子にならなければならない。君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」

 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』には、「君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」というセリフだけが書かれていました。


 一方、『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のアルトゥール・シュミット(第6軍参謀長)の項には下記のように書かれており、「獅子」の件などはザイドリッツ将軍が言ったかのようです。

 11月27日、第6軍の各軍団長は軍司令部でフリードリヒ・パウルスとその参謀長【シュミット】と会談し、全員一致でパウルスに、【ヒトラーの】命令に反する脱出を促しました。ザイドリッツはパウルスに「獅子の道を歩め」と迫りました。これはカール・フォン・リッツマン将軍のことで、彼は第1次世界大戦中、同じような状況で命令に反して脱出し、その結果、危うくロシア軍の捕虜になるところから司令部全体を救ったのです。片腕のハンス・フーベ将軍は総統のお気に入りで、最近第14装甲軍団長に昇進したばかりでしたが、こう言いました。「ここに残って死ぬわけにはいかない!」。カール・シュトレッカーは懇願したと言います。親ナチ派の第8軍団司令官のハイツ将軍でさえ、死傷者がどれだけ出ようとも即時の脱出を要求しました。パウルスの個人的な友人で第4軍団司令官のエルヴィン・イエネッケ将軍は、パウルスの恩師の亡霊を呼び起こしました。「ライヒェナウ元帥ならすべての疑念を一蹴しただろう。」

 パウルスは答えました。「私はライヒェナウ元帥ではない」

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥は、親ナチ、勇猛果敢な将軍でパウルスの後見人のような立場にありました。パウルスの前に第6軍司令官でしたが、1942年1月12日に極寒の森の中を歩いていて心臓発作を起こし、死亡。後任に参謀長であったパウルスが任命されたのでした。】

 イエネッケは第6軍を救うため、旧友に対してさらなる説得を続けました。しかもザイドリッツは、長期の行軍に耐えられない装備はすべて破棄するよう、すでに第51軍団に命じたことを明かしました。ザイドリッツは、自分が着ていた軍服以外はすべて燃やし、自らその手本を示したとも言いました。すべての軍団長が熱狂的に賛成を表明。ナチスと見なされていた者たちでさえ、ヒトラーの命令に背く脱出を呼びかけました。

 しかし残念なことに、シュミットが最後の決定権を握っていたのです。「我々は総統の命令に従わなければなりません。」

 パウルスは言いました。「私は総統の命令に従うのが当然だ」


『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P90





 その後、戦闘指揮をとり続けていたイエネッケは、1943年1月17日にソ連軍の砲弾が近くに命中して傷を負い、23日に担架に乗せられて(最後の?)輸送機で包囲環の外部へと後送されました。『Hitler's Commanders』によるとこの件には2つの説があるそうです。1つは、16個の破片を身体に受けて本当に重傷を負ったのだというもの。もう1つは、破片が落下してイエネッケの頭を直撃し、実際に血が出たものの、その後イエネッケは電光石火の如く行動し、ほとんどギリギリのタイミングで医療避難【後送?】に成功し、回復するまで隔離された病院に閉じこもったのだ……とするものです。後者の説では、ヒトラーや総統の司令部の取り巻き達が、イエネッケの傷がいかに軽傷であったかを知っていたら、彼はスターリングラードから後送されることはなかったのではないかと指摘されているそうです。


 イエネッケは1943年3月までに現役復帰し、4月1日にはフランス南西部の第86軍団長に就任しました。
(第86軍団という数字は『Hitler's Commanders』、『ドイツ軍名将列伝』、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によります。Wikipediaでは独英日版すべて第82軍団長となっていますが、『Unknown Generals』の第82軍団長のリストにイエネッケの名前はありませんでした)。

 2ヵ月後の同年6月、イエネッケはタマン半島のクバン橋頭堡を守る第17軍司令官に任命されました。


 ↓OCS『Crimea』の第17軍司令部ユニット。

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 クバン橋頭堡は、例えばOCS『Case Blue』の1943年1月の時点では↓のようになっていました。

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 OCS『Crimea』の後半(1943-44年)の最初のシナリオであるシナリオ3:「鉄十字勲章」は1943年9月26日ターンから始まり、↓のような初期配置となっています(44年1月22日ターンまでの36ターン)。

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 ちなみに、なぜシナリオ名が「鉄十字勲章(Cross of Iron)」であるのかというと、『Cross of Iron』(邦題:『戦争のはらわた』)という映画がこの1943年のクバン橋頭堡での戦いが舞台であったからのようです。





 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにはこう書かれています。

 新しいドイツ第17軍の司令官はエルヴィン・イエネッケ将軍でした。イエネッケはスターリングラードで師団を率いて重傷を負ったものの、任務に復帰してきたところでした。彼の麾下部隊の大半はケルチ海峡の向こうのタマン半島におり(ドイツ軍はそれを、クバン橋頭堡または、Gotenkopfstellung(ゴート人の頭の位置)と呼んでいました)、いつか再びカフカスへ攻撃を仕掛けることを考えていたのです。しかしクルスク以降のソ連軍の反攻にドイツ軍はよろめき、新たな兵力を必要としていたため、ヒトラーはしぶしぶブリュンヒルト作戦(クバン橋頭堡からの避難)を許可しました。ソ連軍はこの作戦を妨害することができず、わずか38日間で239,000人の枢軸軍部隊が撤退。クバン橋頭堡に進攻するソ連軍を指揮したのは、前年にセヴァストポリ防衛を指揮したペトロフ将軍でした。

 撤退部隊の大半はクリミアに残りませんでした。OKHはイエネッケからドイツ軍10個師団のうち8個師団を剥奪し、彼に4万人の戦闘部隊だけを残したのです。残りは2個師団のドイツ軍に加え、ルーマニア軍7個師団と少数の枢軸同盟軍とオスト部隊でした。ルーマニア軍の山岳部隊と騎兵部隊は優秀でしたが、スターリングラード以降、ドイツ軍はルーマニア軍の大半の部隊の能力を疑わしいものとみなしていました。『クリミア』のシナリオ3のマップ上には、イエネッケに残されていたユニットのみがあり、撤退の途中からスタートします。この撤退は続行され、1943年10月9日までに完了しました。



 後のイエネッケ自身の証言によると、橋頭堡からの撤退の期間、上層部からの命令で、その地域を経済的に麻痺させるために焦土戦術を実行しました(この時期、ドイツ軍はウクライナから撤退する際に焦土作戦を実行しており、イエネッケだけが特別なことをしたわけではないと思います)。フォン・クライスト元帥の命令によってパルチザン殲滅の措置を実行したとも証言しており(後にフォン・クライストはこれを否定しました)、イエネッケはすべての村を焼き払う「死の地帯」の設置を命じたり、ケルチ地域の採石場の洞窟でパルチザンをガス処刑したりしたそうです。



 イエネッケは当然ながらスターリングラードの再現を望んでいませんでした。『ドイツ軍名将列伝』によると彼は、早い段階からウクライナ本土への脱出計画を研究していたそうです。しかし、ヒトラーは同盟国ルーマニアに対する政治的影響を重視し、クリミア半島の死守を命じていました。ソ連軍がクリミアに押し寄せるにつれて、イエネッケはますます激しく半島からの撤収を主張し、自らの主導で半島を放棄する準備さえ整えました。このため、1943年10月下旬にはフォン・クライスト元帥によって指揮権を剥奪されそうになったそうです。

 10月になるとソ連軍がペレコプ地峡へ進撃してクリミア半島が孤立。11月、イエネッケは軍集団司令部、OKH、総統司令部に対して第17軍を海路で避難させるよう要請します。しかしスターリングラードと同様、ヒトラーはこれを拒否しました。

 1944年1月30日(シナリオ3「鉄十字勲章」の直後から始まるシナリオ4「ダモクレスの剣」の2ターン目)にイエネッケは上級大将に昇進しています。シナリオ4「ダモクレスの剣」の時期はクリミアでは軍事行動がほとんどなかったため、OCS『The Third Winter』と連結してのプレイ以外の単独でのプレイは推奨されていません。



Generałowie niemieccy i generał rumuński po wyjściu ze stanowska dowodzenia na półwyspie Kercz (2-835)

 ↑1944年1月、ケルチ半島におけるイエネッケ将軍(一番右? Wikipediaから)




 1944年4月7日(シナリオ5「解放攻勢」は4月8日ターンから5月12日ターンまでの11ターン)、ソ連軍のクリミア半島への総攻撃が開始されました。

 ↓OCS『Crimea』のシナリオ5「解放攻勢」の初期配置。

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 戦力不足のイエネッケは4月9日、数時間の逡巡の後、OKHに報告することなくケルチ地区の陣地を放棄してセヴァストポリ港への撤退を命令(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P449)。4月12日にヒトラーは、イエネッケに対してセヴァストポリ要塞をそのまま保持するよう命令を下しました。

 イエネッケの麾下部隊はひどく打ちのめされ、日々損害は増大していました。彼は、クリミアの部隊を撤退させようとしないヒトラーや、セヴァストポリが要塞ではなく罠であることを認めようとしないヒトラーに苛立っていました。それでもイエネッケは総統の方針に従い続け、4月24日には麾下部隊を鼓舞するための大げさで不正確な布告を発しています(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P461)。

 イエネッケは4月27日にヒトラーに対して「さらなる増援がいつ到着するのか」を問い合わせ、またソ連軍が全面的な攻撃を開始した場合の「行動の自由」を要求したテレタイプを打電。これにはヒトラーもたまりかねたのか、翌日、イエネッケをベルヒテスガーデンに召還し、直接報告するよう命じます。

 この時の出来事として、『Hitler's Commanders』はこのように書いています。

 【……】ヒトラーは「豊富な」増援を約束。しかし、それがまだ訓練を終えていない新兵の4個大隊を意味することを知ったイエネッケは、第17軍をOKH(ヒトラーが総司令官)の直属軍にするよう要求することで、差し迫った惨事の責任をヒトラーに負わせようとした。
『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P98



 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』にはこう書かれていました。

 ヒトラーの面前でイエネッケは、第17軍の残りを直ちに撤退させなければ壊滅すると主張。ヒトラーは将軍がこのような言い方をすることに激怒し、彼に叫び始めた。

 イエネッケはヒトラーの補佐官の横を通り過ぎると、「総統に伝えてくれ、私は帰ったと」と言い残し、飛行場へと走り去った。ヒトラーはルーマニアで飛行機を止めさせ、イエネッケ上級大将を逮捕するよう命じた。
『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P464



 イエネッケは拘束され、軍法会議にかけられることになりました。彼は5月1日に罷免され、クリミア失陥の責任者として責任を問われることになったのです。しかしグデーリアン上級大将は捜査を遅らせることで裁判を長引かせ、イエネッケを有罪から救うことに成功しました。結局軍法会議は開かれなかったようです。


 イエネッケは1945年1月、ドイツが破滅的な状況に陥ると見てヒトラーに私信を送り、帝国の立場を説明し、ヒトラーは適切な結論を出すべきだとほのめかしたそうです。その結果、イエネッケは1月31日に除隊処分となりました。

 イエネッケは1945年6月11日(『Hitler's Commanders』)、あるいは12日(Wikipedia)にソ連軍の捕虜となりました。ソ連の軍事法廷は当初、自白に基づいて死刑を宣告しましたが、その後、判決を25年の強制労働に変更しました。1955年10月、ドイツ人捕虜の返還に関するモスクワでのアデナウアー首相の交渉の後、イエネッケは釈放されます。

 イエネッケは1960年7月に亡くなりました。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


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