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ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人であったというラドゥ・コルネについて

 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーを訳していますと、クリミア戦最初期に編成された「ツィーグラー支隊」の中にルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人であったラドゥ・コルネ大佐という人がいたということで、調べてみるとその後結構重要な戦いで師団長などを務めたということで、OCSゲームでどういう部隊を指揮していたかを調べてみました。


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 ↑ラドゥ・コルネ大佐(Wikipediaから)



 またぞろ、日本語版Wikipeida「ラドゥ・コールネ」が簡潔で分かりやすかったので、引用してみます。

ラドゥ・コルネ(Radu Korne, 1895年12月13日 - 1949年)は、ルーマニア王国の軍人。最終階級は少将。

ブカレストのボイヤー(貴族)出身。本来の姓の表記はCorneaだが、ラドゥは年代記にて記されていたKorneを好んで名乗った。

1913年、トゥルゴヴィシュテの騎兵士官学校に入学し、15年卒業。騎兵第4連隊「マリア王妃」第703機関銃分隊長として第1次世界大戦に従軍。7月31日〜8月13日にかけてタラパン高地にて行われた第二次オイトゥズ会戦で砲撃に巻き込まれ負傷するものの、8日後に護送されるまで前線を引かず指揮し続けた。この勲功により、3等ミハイ勇敢公勲章(英語版)を受章。ハンガリー・ルーマニア戦争では第2機関銃大隊長。

戦後、上級戦争学校を経てフランスに留学。帰国後はシビウの騎兵特別学校教官に就任し、以後長らく教育畑を歩んだ。

第二次世界大戦勃発当時、第5騎兵旅団隷下の第6騎兵連隊長であった。1941年6月22日独ソ戦が始まると第6騎兵連隊はかねてよりソ連に支配されていたモルドバに進軍。要所を次々と陥落させた。

1941年7月22日、第6騎兵連隊隷下の山砲3個大隊を分離再編させ「コルネ」自動車化騎兵集団(2個自動車化騎兵連隊規模)を編成。8月上旬までにブグル(Bugul)を経てドニエプル川まで進軍を果たした。

9月25日、ソビエト赤軍第9軍および第18軍は大規模な反攻作戦に転じた。第5騎兵旅団はアキモフカにて深刻な打撃を受け撤退を余儀なくされるが、第6騎兵連隊は戦線を維持し続けた。これにより2等ミハイ勇敢公勲章を受章。

翌1942年、かねてよりセヴァストポリ攻略に苦悶していた第11軍司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、コルネ大佐にクリミア半島への転進を命じた。第6騎兵連隊および第10騎兵連隊、第54砲兵師団、一個対戦車大隊および二輪車部隊から編成されたコルネ支隊は、3月5日半島南部のフェオドシヤに上陸。ただちにグロデック旅団の指揮下に編入された。ケルチ郊外の戦いにおいて、重要な役割を果たし、16万人以上を捕虜にした。

1942年に第3騎兵旅団、1942年から1943年に第8騎兵師団を指揮した。1943年10月、第8騎兵師団は第8装甲騎兵師団に改編される計画であったが、実際は1944年8月まで装甲化されてはいない。同旅団はマンシュタイン指揮下のドン軍集団ルーマニア第4軍の下で作戦行動を行い、スターリングラードで包囲されたフリードリヒ・パウルス将軍の包囲解除を試みた冬の嵐作戦に参加した。1942年12月18日、騎士鉄十字章を授与された。

1944年4月から第1装甲師団の司令官に親補された。敗戦の濃くなった8月20日、バフルイ川南部にソ連軍の大規模な部隊が押し寄せた。第1装甲師団はスコブルツェニにて戦闘を展開。これは連合軍との最後の大規模な戦闘となった。23日、宮廷クーデターによりイオン・アントネスク政権が崩壊。

1944年9月、予備役に編入され、間もなく逮捕された。1946年に釈放されたが、1948年に再逮捕され、軟禁の上で病死した。







 マンシュタインは大きな装甲部隊を持っていなかったため、即席の「ツィーグラー支隊」(ハインツ・ツィーグラー大佐は、ドイツ軍第42軍団の参謀長でした)を、第190突撃砲大隊やルーマニア軍のコルネ旅団(ラドゥ・コルネ大佐は、ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人でした)、その他の雑多な自動車化部隊によって編成します。彼らは素早く前進し、わずか2日でシンフェロポリ(F18.08)郊外に到達しました。
『Crimea: Conquest & Liberation Playbook』P22



 ↓OCS『Crimea』の「ツィーグラー支隊」と思われる構成ユニット。右側がコルネ旅団です。

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 英語版も含めて、Wikipedia上に書かれているコルネが指揮したという部隊の名称が、OCSゲーム上に見つからないことが多いのですが、とりあえず……。




 ↓OCS『Case Blue』のコルネ連隊。

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 ↑これは『Case Blue』の扱う前半の時期のものなのかもです。





 スターリングラード攻略戦、および冬の嵐作戦の時にはコルネは第8騎兵師団の指揮を執ってそれらに参加していたというのですが、OCS『Case Blue』には第8騎兵師団のくくり(複数ユニットフォーメーション)でユニットが入っていません(第7、第9騎兵師団は複数ユニットフォーメーションで入っているのですが!)。

 OCSでは、割とばらばらに使用されていた師団などではそういうことがあって(例えば、イギリス第6歩兵師団は枢軸国の情報機関を欺くために第70歩兵師団へと改称された(付:OCS『Reluctant Enemies』、『DAK-II』、『Burma II』) (2021/06/06))、それ自体はいいのですが、じゃあ具体的に第8騎兵師団の隷下のユニットがどれであるか、調べようとしてみたのですが……。


 ↓OCS『Case Blue』の冬の嵐作戦シナリオの初期配置。

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 ↑ルーマニア軍の騎兵ユニットが4つほど見えています。この中に第8騎兵師団と、第5騎兵師団があったらしいです。


 ところが、手持ちの資料で(楽をしようと)戦闘序列の表を探してみたのですが、見つけられず。文の中を探せば隷下の部隊は分かるのかもですが、面倒なのでパスで(^_^;

 とりあえず見つけられたのは、以下の2つの記述でした。もしどなたか分かりましたら教えて下さい!(>_<)

・Group Popescu (General Korne's 8th Cavalry Division, two regiments of 5th Cavalry Division, and Group von Pannwitz)
『Companion to Endgame at Stalingrad』P319

5th Cavalry Division Col. Dumitru Popescu
8th Cavalry Division Br-Gen. Radu Korne
『Stalingrad Battle Atlas Volume IV』P94








 OCS『The Third Winter』の期間においてコルネは、ずーっと第8騎兵師団長、そして最後の最後で第1装甲師団長かと思われます。

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 OCS『Case Blue』の時にはアクションレーティングが4で頼りになりましたが、OCS『The Third Winter』の時期にはアクションレーティング2が基本で、なかなかつらいものがありますね……(T_T)


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クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について

 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーを訳していまして、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したというリッター・フォン・ショーベルト将軍(ドイツ軍の将軍で第二次世界大戦中に最初に(前線で?)死亡した。また、その後任がフォン・マンシュタインでクリミアを攻略した)について興味を持ったので、調べてみました。


Eugen von Schobert

 ↑リッター・フォン・ショーベルト将軍(Wikipediaから)


 簡潔で分かりやすかったので、日本語版Wikipedia「オイゲン・フォン・ショーベルト」の記述をまず挙げてみます。

ヴュルツブルクにバイエルン王国軍少佐の息子として生まれる。1902年7月にバイエルン王国軍に入隊。1904年に少尉に格別の優秀な成績によりルイトポルト・フォン・バイエルン王太子に賞されて任官。第一次世界大戦では全期間を通じて西部戦線に従軍、塹壕戦や浸透戦術に格別の能力を示し、負傷すること数回。その功によりバイエルンの最高軍事勲章であるマックス・ヨーゼフ勲章 騎士章を受章し、騎士(Ritter)の称号を叙された。第一次世界大戦終了後もヴァイマル共和国軍に留まることができた。1929年にベルリンに転属となり、高級参謀教育を受ける。1933年12月に歩兵総監に就任。第17歩兵師団、第33歩兵師団(ドイツ語版)長を経て、1938年2月に歩兵大将に昇進し、直後に第7軍団司令官に任命された。

1939年9月のポーランド侵攻時には南方軍集団に所属した第7軍団を指揮し、フランス侵攻時にもA軍集団の第16軍に所属した同軍団を指揮した。1940年6月29日に騎士鉄十字章を受章。1940年9月に第11軍の司令官に就任した。1941年6月のバルバロッサ作戦では第11軍は南方軍集団に所属した。

しかし、作戦偵察中に搭乗していたシュトルヒ偵察機がソ連軍の地雷原に墜落し、パイロット共々戦死した。1941年9月15日に葬儀が執り行われた。

フォン・ショーベルトはナチズムの信奉者として知られており、第11軍司令官当時にはソ連軍の政治将校や政治活動をする占領地の民間人を即時処刑するよう命じた「コミッサール指令」を下達している。


 ドイツ語版Wikipedia「Eugen Ritter von Schobert」によると、ナチズムの信奉者として活動していたことから恩恵を受けて出世が早くなったそうです。ただし、1939年10月に第16軍の司令官に同輩のエルンスト・ブッセが任命された時に、挫折を味わったとか(ブッセも同様にナチズムの信奉者でしたが、フォン・ショーベルトの方が先任?であったので)。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7軍団司令部ユニット。

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 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーンの初期配置上の第7軍団司令部の位置。

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 バルバロッサ作戦中にフォン・ショーベルトの第11軍司令部は、ルーマニアの名目上の最高司令官アントネスクの参謀として機能したとかなんとか……ってことも少し興味深いのですが、そこらへんはOCSでゲーム化されていないので無視しまして(おい)、OCS『Crimea』のマップ上の出来事としましては……。


 ↓OCS『Crimea』のシナリオ1の初期配置。

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 8月12日、フォン・ショーベルトはドニエプル川に向かって進撃し、クリミアへ入るためにそこに橋頭堡を確立するようにという新たな命令を受け取りました。ソ連軍とは後衛との局的な小競り合いがあっただけで、ドニエプル川北岸のBerislav(Beryslaw)にはすぐに到達することができました。

 Berislavは赤い○のF17.35の北側のヘクスだと思われます。スターリンはドニエプル川の線を何としてでも保持するよう命令していたため、8月30日から9月5日までこの地域で激しい戦闘が展開されましたが、その間にフォン・ショーベルトはドニエプル南岸に橋頭堡を形成することに成功します。そして9月10日までにはソ連軍をメリトポリ方面に押し返しました(赤い破線の矢印)。

 さらにフォン・ショーベルトが投入した第54軍団の偵察部隊はクリミア半島への入り口にあたるペレコプ地峡まで進みました(赤い実線の矢印と、赤い□)が、そこで激しい抵抗に会い、小兵力の急襲だけでは突破できないと思われると報告します。

 その同じ9月12日、フォン・ショーベルトはフィーゼラー・シュトルヒに乗り込み、先遣師団の司令部へと飛びました。理由は不明ですが、おそらくはソ連軍の機関銃による対空射撃のために着陸せざるを得なくなってソ連軍の地雷原に突っ込み、直後に機体は爆発。フォン・ショーベルトとパイロットの両名は死亡したのです。

 1941年9月16日、ブク河口の軍港ニコラエフの第11軍司令部では、前任司令官リッター・フォン・ショーベルト上級大将の葬儀が執り行われていた。ショーベルト将軍は、空中偵察の際にソ連軍地雷原に不時着、爆死してしまったのだ。葬儀はしめやかな弔意にみちていた。
 しかしその一方で、参謀長ヴェーラー大佐の以下の第11軍首脳部は不安を禁じ得なかった。新任司令官【フォン・マンシュタイン】は第11軍の担当している東部戦線の南端、最右翼の部隊という重圧に耐え得る人物だろうか? 前任者のショーベルトはバイエルン人らしい率直さで軍の信頼を勝ち得たものだった。プロイセン人だという新任司令官はうまくやれるか? 第11軍の指揮下には山岳猟兵(ゲビルクスイェーガー)が多い。彼らの多くはバイエルン人なのである。
『灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡』P162

 ショーベルトが干渉しないタイプの司令官だったのに対し、マンシュタインはすぐにあらゆる作戦立案の中心となっていった。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P352,3


 ショーベルトは第二次世界大戦で亡くなった最初のドイツ軍の将軍であり、ヒトラーの命令によってドイツ国内で盛大な葬儀が営まれたそうです。

 東部戦線における処刑などに関するフォン・ショーベルトの関与等も、前掲ドイツ語版Wikipediaには色々記載されていました。




 フォン・ショーベルトの死後5日目の9月17日に、フォン・マンシュタインは第11軍司令部に到着しました。

 攻撃に先立ち、【第11】軍司令部はロストフとクリミヤの両正面の指揮がしやすいアスカニア・ノヴァ【赤い☆印の湿原地帯】に移っていた。ここには有名な動物園【広大な野生動物保護区】があり、多くの動物が放し飼いにされていた。作戦主任参謀のテオドル・ブッセ大佐が作戦立案に熱中していると、迷い込んだ鹿に突きとばされたなどという珍事も起こったのである。
『灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡』P166


(ただしゲーム上では第11軍司令部はヘルソンの方に置かれています)



 OCS『Crimea』の(時期的にも)最初のシナリオであるシナリオ1:「通過儀礼」は、41年9月26日ターンから始まります(12月26日ターンまでの28ターン)。史実では攻撃自体は9月24日に始まり、きわめて激しい戦いで、数百年前にタタール人によって築かれた壕まで前進。そして、26日のその壕と壁への強襲が始まったもののようです。

牟田口廉也が非難する三人の師団長にも問題はあった?

 今回『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいて、もう一つ「ほお?」と思ったことがありました。


 著者の藤井非三四(ひさし)氏が、「牟田口廉也が非難する(インパール作戦時の)三人の師団長にも問題はあった」と書かれていたことです。これまで読んできた本では、とにかく牟田口廉也が非難される超悪役であり、罷免された3人の師団長は皆「善人」側とされるのが当たり前であったと思われましたので。

 司令官の牟田口廉也は、戦後の回想を見ても、それほど悲劇だとは感じていないようだ。すべての責任は、隷下三人の師団長にあり、もう少しで勝てた作戦であったと強弁し、あれほど凝り固まる人は佐賀県人でも珍しいと評された

 もちろん、牟田口廉也が非難する三人の師団長にも問題はあった。抗命して独断退却した第31師団長の佐藤幸徳(山形、25期)は政治色が濃く、自分が東條英機(岩手、17期)の後釜に座るという妄想にかられていた。作戦中に作戦中止を具申した第33師団長の柳田元三(長野、25期)は、陸大恩賜の秀才だが、本来は情報畑育ち。第15師団長の山内正文(滋賀、25期)は、駐米武官もした米国通だが、どう見ても野戦向きではないし病気がち。そんなことで三人とも作戦中に罷免されるという珍事となった。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P611




Kōtoku SatōGenzou YanagitaMasafumi Yamauchi

 ↑佐藤幸徳(第31師団長)、柳田元三(第33師団長)、山内正文(第15師団長)(Wikipediaから)




 3人についてそれぞれ詳細を調べるのは大変なので、これまで収集していた情報から、3人の「悪い面(?)」と思われるような記述だけを抜き出してみようと思います(もちろん、「良い面」の記述も大量にあるわけですが)。

 佐藤幸徳の場合は、その性格の激しさにおいて、牟田口と四つ相撲を引き分けるほどのものを持っていたのだから、意見が合えばその力は2倍になるが、そうでないときは、逆に大変なマイナスに転ずる危険性が潜在していたのだ。コヒマの戦闘では、後者の方が悲運を招来してしまったのであった。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P360,1

 偶然、この師団【張鼓峰事件での第19師団】には長【勇】、佐藤幸徳、田中隆吉と札つきの荒武者が連隊長にいたため、日本軍の徴発か陰謀と疑われたが、これはヌレギヌだったようだ。
『昭和史の軍人たち』P196

 高野手記に出てくる佐藤幸徳は、のちにインパール作戦で抗命退却を強行した異色の人物だが、このころは広島連隊付として統制派の拠点づくりに熱中、福山連隊にいた皇道派の相沢中佐を孤立させ、あわよくば統制派に引きこもうと工作していた。
『昭和史の軍人たち』P468

 中【永太郎参謀長】は佐藤を「豪放と小心とを兼有する人物であり、政治に興味を持ち、よく大言壮語したものである」と手厳しい。
『牟田口廉也とインパール作戦』P265

 中佐時代に始まる牟田口との関わりからか、佐藤には上司指揮官を指揮官とも思わない発言や、命令を軽く見る兆しが見られた。後の危機存亡の中、これを更迭することは、むしろ牟田口が軍紀を守ったという見方もできる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P293

土門周平によるとインパール作戦時には、上司の牟田口中将とだけでなく、部下の第31歩兵団長である宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。宮崎は、食糧が十分でない前線部隊にまで佐藤が慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパール作戦の失敗を予言していたこと、テント暮らしの兵士を尻目に数寄屋造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていた。
日本語版Wikipedia「佐藤幸徳」





 第33師団長の柳田元三中将と参謀長田中鉄次郎の激しい反目がそれであった。そもそも二人の性格は氷炭相容れなかった。柳田はすべてに慎重で消極的にさえ見られるのに対して、田中は猪突猛進の積極型であった。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P359

 彼【中永太郎参謀長】は柳田を生一本の「正義の士」と表現する。理屈に合わないことが大嫌いと言い、時に柳田は偏狭とさえ見られると心配する。ソ連関係の権威だけに、物量に重点を置き過ぎると警鐘も鳴らす。
『牟田口廉也とインパール作戦』P264

 そして、インパール作戦となる。柳田ほどの情報センスがあれば、インパール作戦の行く末も予測できる。そのため、「危ない、危ない」と及び腰になっているから、思いもよらぬ錯誤を犯す。
 敵の頭を押さえていた第一線から、「玉砕覚悟で奮闘す」との報告が来ると、「大変だ玉砕させてはならぬ」と包囲を解かせてしまった。それからはさらに慎重になり、インパールに向けての突進を渋り
、軍司令部に「即刻、作戦中止」の意見具申をするまでになった。
 インパール作戦と言えば、牟田口廉也ばかりに非難が集中して来たが、彼が柳田元三に激怒する気持ちもわかる。猛烈な譴責電が発信されるが、柳田も負けてはおらず、作戦構想そのものを批判し、ほかの二個師団に同じ過ちをさせてはならないとまで言い切った。
 こうして柳田元三は、師団長に着任してからわずか二ヵ月、しかも作戦中に更迭された。理路整然と説けば、だれでも納得するはずとの信州人の思い込みが、こまた偏屈で理屈が多く、しかも感情激発型の佐賀県人には通じなかったということになる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P292,3





 中【永太郎参謀長】は山内を「実に穏やかな人柄」と言い、真面目な米国通で中国語も堪能と評価する。山内は「うちの兵団(第15師団)はご承知のとおり、支那戦線から押っ取り刀で駆けつけてきたので、様子も皆目わからず準備も未だ十分ではない」と正直に話す。【……】山内はご命令通り一生懸命やると言うが、自信はあまりなさそうだったと中は感じている。参謀長の岡田菊三郎少将は往々夫人を亡くしたばかりだったが、そんな素振りは一切見せず、張り切って作戦準備に専念していた。山内が岡田を信頼しきっている様子も看守されたという。
 後日のことだ。メイミョーの兵站病院に重篤となった山内中将を中参謀長は見舞った。その時でさえ、山内は自分が既に罷免されたことを知らされていなかったらしい。後送されて床にいることもわからず、死相も呈していた。顔面を緊張させ、頻りに「申し訳ない」と繰り返す。また高熱にうなされ、うわごとのように戦場の地名を呼び、何やら命ずるように言ったかと思うと、眠ってしまうという状態だった。この数時間後に山内は絶命した。中は「自分が山内に最後にあった知己ではなかったか。実に見上げた人格であった」と述懐している。
『牟田口廉也とインパール作戦』P265



 私は、どんな人物も長所と欠点の両方を持っているものだと思うので、いわば「善人」側だとされていたであろうこの3人の欠点についても、検証されなければ牟田口廉也に対して不公平だという気はします。

牟田口廉也は上司の河辺正三への反骨心でインパール作戦に突き進んだ?

 以前、大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について (2023/10/27)で書いてました『都道府県別 陸軍軍人列伝』で、牟田口廉也と、その上司であった河辺正三(まさかず)についてどう書かれているか、読んでみました。






Lieutenant General Reiya Mutaguchi, Commander of the 15th Army of the Imperial Japan ArmyMasakazu Kawabe

 ↑牟田口廉也と河辺正三(Wikipediaから)



 私はこの二人は、「仲の良い」、いわばインパール作戦に関する「共犯関係」のように今まで本を読んできて思っていたのですが、『都道府県別 陸軍軍人列伝』著者の藤井非三四氏は、むしろ牟田口廉也は河辺正三に対する反骨心を持っていたのだろうという書き方をされていて、興味深く思いました。

 例えば、↓では、牟田口と河辺は「仲が良い」という見方で書かれていると思います。

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理 本当に、牟田口ひとりの責任だったか 広中 一成

日本語版Wikipedia「河辺正三」



 以下『都道府県別 陸軍軍人列伝』の中の文を引用していきますが、それぞれの県(地方)人性に関する分析の文は偏りがあるかも……。でも、この本はそこらへんが売りであるのでしょうね(^_^;

【盧溝橋事件の時】夜間に部下を展開させていた牟田口廉也は、すぐさま攻撃の命令を下した。報告を受けた河邊正三は、「なにっ、攻撃するっ」と不快感を表したとも、牟田口を叱責するかのように無言のままだったとも言われる。
 夜襲が成功して一帯が静穏になったとき、河邊正三はこだわりなく「それはよかった。これで安心しました」と牟田口廉也に語った。しかし、牟田口は数時間前の叱責じみた河邊の言動が忘れられなかった。
 河邊正三は北陸人のためか、秀才のためか、その性格は暗い。報告を受けたとき、「適当なところで切り上げて」となり、暖かい一言があればこじれることもなかったろう。
 牟田口廉也は一見豪放そうだが、佐賀県人の性か気が小さく、いつまでも根にもつ。それにしても、この廬溝橋での悪感情が昭和19年3月からのインパール作戦にまで持ち越されるとは、人間関係のむずかしさを痛感させられる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P232,3

 それなのに牟田口廉也は、軍司令官になると積極的になった。インドに攻め入り、その独立を促し、戦争終結の糸口をつかむという夢みたいな話へと衝き動かしたものは、彼の奇妙な責任感であった。
 牟田口廉也は、支那駐屯歩兵第1連隊長として盧溝橋事件の渦中にいた。だから、この戦争のはじまりに責任があり、終結の決め手を演じるのは自分の責任だと思い込んだ。しかも当時、上司であった支那駐屯歩兵旅団長の河邊正三(富山、1期)は、今度も上司のビルマ方面軍司令官だ。
 二人してやるんだと言うよりも、あのとき、冷たかった河邊正三に見せてやるんだと、牟田口廉也は気負い立ったのである。【……】
 そんな責任を感じる必要はどこになかったし、戦線の西端で3個師団ぐらい動かしたところで大勢が決まるはずがない。ところがひとたび思い込むと、それに凝り固まる性格の牟田口廉也は、その道理に納得できなかったのだろう。この偏執的で頑固な性格を見て、なるほど佐賀県人と思う人は多いはずだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P612



 この見方の論拠については書かれていませんが、この本はそもそも論拠を挙げる性質のものではないので……。

 県人性への見方と共に、単なる著者の推測かもですけども、私は「色んな見方がある方が面白い」と思う人間なので、かなり興味を持った次第です。



 河辺正三については、私は少し前に読んだ『戦慄の記録 インパール』で、かなり印象深かった彼のセリフがありました。

 1937年の盧溝橋事件以来、直属の上司と部下という関係から労苦を分けあってきた河辺中将と牟田口中将。強固な信頼関係によって、インパール作戦をともに推し進めた二人の戦後は、あまりに開きがあった。
 軍事研究家の大田嘉弘氏は、戦後、この二人にそれぞれ面会している(大田嘉弘「インパール作戦」)。牟田口中将は「感情の高ぶるままに絶句落涙することが少なくなかった。一方、〔略〕河辺大将に対しては一言も加えるところがなかった」。しかし、河辺中将は、牟田口中将について、「牟田口はまだそんなことに悩んでいるのか」と述べていたという。
 大田氏は、「あれほど許し合った両将軍の仲を冷却させた原因は、陸軍中央部が、河辺中将に対しても、インパール敗戦の責任をとらせなかったことに因る」と述べている。
『戦慄の記録 インパール』P241,2


 河辺正三のいう「そんなこと」とは、たぶん「インパール作戦で多くの将兵を犠牲にしたこと」だと思ったので、私はこのセリフにある意味「戦慄」したんですが、あるいはそうではない?

 しかし今回、『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいると、河辺正三はどうも「将兵の犠牲」とかを気にしない人物であったかのように思え、そこらへん自分の中では整合性がとれたような気がしたんですが、どうなんでしょう。

 そして、河邊正三が表面に出てくるのは、作戦がどうにもならなくなった昭和19年6月、とうとう悲鳴を上げた牟田口廉也が攻撃中止の場合、後退する線について意見具申したときであった。これを受けた河邊は、「消極的意見を具申するのは意外とする所なり」と冷たく突き放した。そうしておいて南方軍には、ウ号作戦【インパール作戦】中止を要請しているのだから、そこに河邊の老獪さ、抜け目なさを感じさせる。
 【……】
 昭和19年8月、河邊正三は激戦がつづくビルマ戦線を離れて、参謀本部付として内地に帰還した。インパール作戦の責任を痛感して自決するのではないか、予備役編入を申し出るのではないかと周囲は心配したが、そんな憂慮はこの人には無用であった。
 すぐに河邊正三は中部軍司令官に就任し、同軍が第15方面軍に改編されてからの昭和20年3月9日、大将に進級した。まったく時期が悪く、東京大空襲が3月10日、13日から14日にかけては河邊が所在していた大阪がB29【、】280機の大空襲を受けた。そこで、「戦さに負けると大将になれる」と公然と語られた。
 そんな下々の声を気にするような河邊正三ではない。
堂々と新設された航空総軍司令官に就任し、杉山元の自決後には第1総軍司令官に就任した。インパール作戦という大悲劇の当事者が、これらの要職に平気で就任するとは、超エリートの心境というものは並の人間には推し量れない。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P234,5





 河辺正三の能力や人となりについては、これまで収集していたものも含めてこんなのがありました。彼は教育畑でしたが、ともに陸大恩賜であった弟の河辺虎四郎は作戦畑で、非常に賢くて勤勉で実力があったそうです。

 この【関特演の】とき、牡丹江正面の第3軍が独断専行して日ソ戦の口火を切るのではとささやかれた。その理由はさまざまあろうが、河邊が司令官では、部隊を統制できないのではないかと憂慮されていたのだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P233

 河邊も皇道派との距離の近さが中国への転任に影響したと言われていた。彼は学究肌で野戦の将に相応しいとは思えなかった。また、強烈な個性の持ち主にも見えなかった。
『牟田口廉也とインパール作戦』P81

 河邊の【ビルマ方面軍司令官】就任の辞は、将兵と聖戦の目的達成に邁進し、天皇の懸念を取り除くことを期す、という簡単なものだった(河邊正三「陸軍中将河邊正三就任の辞」)。虚飾を嫌う河邊らしいと言える。また、ここで言う「天皇の懸念」とは西陲(西端)の守護であるのは論を俟たない。これも作戦に重大な影響を与えることになる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P147

 後世における評価は、ビルマ方面軍の長であった河辺、木村【兵太郎】両者に対してはなはだ厳しいものになっている。 すなわち河辺については、牟田口が提唱し河辺が承認したインパー ル作戦の失敗に対して、木村についてはラングーン撤退戦の不首尾に対して、かれら最高責任者の判断が問題とされている。
 このような対照的な結果は、飯田【祥二郎】の在任した期間が幸運にも日本有利の時期であり、その後の両者の時代が不利な時期であったという点だけでなく、両方面軍司令官の実戦指揮官としての適性にも関係しているものと思われる。
 戦後数十年の年月を経ていた昭和の末年に到っても、将官としての河辺正三を仰慕する人の数は少なくなかった。陸軍教育関係のキャリアも長く、かれの感化を受けた人も多かったものと思われる。飯田とは陸大同期で軍人としてはやや小柄であるが、その端正な風貌と品位に満ちた立居振舞いは、人をして自然に畏敬の念を呼び起させるものであった。河辺については詳しい伝記も出版されている(「軍事研究」臨時増刊、昭和四十六年刊)。
 かれはまた漢詩をよくし、多くの作品が平成に入って刊行された私家版の漢詩集「興観集」に収録されている。この漢詩の中で特に目を引くのはやはり盧溝橋事件について詠んだ数編の作品である。華北の一点から起きた暗雲がやがて全大陸に拡大し、運命の太平洋 戦争開戦に到ったことに対して、幾度か感懐をこめて振り返っている。
今後も同じ上下関係 河辺正三-牟田口廉也のコンビが関係した二度の出来事、盧溝橋事件とその拡大ならびにインパール戦は、日本の歴史の上で忘れられることはないであろう。
『隠れた名将飯田祥二郎』P210,212

TPRGのマスターは、ゲームを面白くするためだったらダイス目の操作も許されるけど、審判制ウォーゲームの審判にそれは許されるか?

 たかさわさんの「審判ありの『エル・アラメイン』」という記事が上がっていて、非常に興味深かったです。





 審判制でダブルブラインド、移動計画をプロット、同時移動というのは、私も特に数年前から興味があったんですが、ここ最近ウォーゲーム業界においても少しずつ話が出てきている気がします。

 私も一応、まずは1806年のイエナ・アウエルシュタット戦役で審判制ゲームが作れないかなと思って、ルール等も考え始めてはいるんですが、「審判にはどこまで許容されるか(審判にどこまでを任せるとみなすのか)」についてが、一番問題かもしれないという思いがありました。

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 私が特に考えていたのは、「TPRGのマスターは、ゲームを面白くするためだったらダイス目の操作も許されるけど、審判制ウォーゲームの審判にそれは許されるか?」ということでした。


 でも今回、たかさわさんの記事を読んでいて、これもまたルール案が思いつけないでいて困っていた「偵察」のルール案を思いついたのですが、その中で。

 1日の昼の時点で、それぞれの陣営の偵察が成功したかチェックする。成功率は1/3とか? その時点で一番近い敵の場所が例えば1/3で、それに失敗したら次に近い敵(軍団)の場所が1/3で……という風にチェックして、一箇所のみが、夜に伝えられる?
(特定の日に必ず偵察結果が伝えられるのだとすると、それまで動かないでおこうとなるだろうから、不特定の方がいいだろう)
 ただこれだと、片方の陣営が3日連続で偵察に成功し、逆の陣営は3日連続で失敗する……というようなことも全然起こりうる。それは、審判が調整する?


 ↑ダイス目の偏りによってゲームが壊れるようなことが偵察の時点で考えられ、それは審判が調整した方が良いと思われるわけですから、他のことでもある程度は審判に委ねて良いということかな、と(自分の中で)思われました。


 また、たかさわさんが書いておられたように、「ルールで規定されていないようなことが起こった時にそれをどう処理するかも、審判が(常識に照らして)判断する」ということであれば、ルールも簡潔にできそうです(^_^; そこらへん「かなり厳密に規定しなければならないのではないか」と私は思っていたので、気が楽になりました。


 あと、『エル・アラメイン』だとまだユニット数はちょっと多いなという気がしたのですが、1806年戦役だと軍団単位で、片方の陣営が目標ヘクスを指定するのが6個ぐらいなので、そこらへんプレイしやすくてやはり良いなという気がしました。

 1815年(ワーテルロー)戦役だと、イギリス連合軍とプロイセン軍は最初割とバラバラに初期配置されているのですが、だんだん集まってそれぞれ2つぐらいのグループにまとめられますから、集める処理だけすれば後は楽だと思います。

 クルセイダー作戦も審判制で欲しいのですが、これはグループはもっと多そうです……。


 たかさわさんの記事で少しまたモチベーションが上がったので、できたら次はユニットを作りたいと思ってます。

『Ney vs. Wellington』(SPI)の今回の備忘録

 Kimatakaさんに言われて、ボードゲームギークス松原にお邪魔しまして、『Ney vs. Wellington』(SPI)を練習プレイしました。


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 ルール理解もですが、「こういう時にはだいたいこうするのが良い」というような戦術的な部分の理解がまだ全然できてない気がします。

 今後、同システムの『Winter's Victory』(NES)もやっていきたいですし、今回「こうなのかな?」と思われた部分をメモっておこうと思います。



・イギリス連合軍側は横隊で待ち構えるのかもですが、一線級(イギリスと、ハノーファーの一部)と二線級(オランダとブラウンシュヴァイク)のユニットがあります。今回二線級ユニットで前線を組み、一線級ユニットを予備にしてましたが、逆、あるいは混合が良いのかも。

・11.24により、フランス軍側の縦隊突撃(白兵戦)の直前に、防御側から射撃を受ける? ここで1~3ステップ失う可能性があります。縦隊突撃の際には、ユニットを1つずつ横に並べるとそれぞれに防御射撃を受けてしまうだろうけども、スタックしていればスタックの一番上のユニットだけが射撃を受ける?

・「ステップの半分を失うまでは戦闘効率は変化せず、半分以上になってから戦闘効率が下がり始める」というルールを入れてやってましたが、それでも混乱(Dis)はしまくった印象がありました。しかし混乱したら3ヘクス後退し、そして回復フェイズに敵から3ヘクス離れていたら自動回復かと思われ、そうすると混乱からの回復は早いかも?

・一方、敗走(Rout)は隣に指揮官がいる(ウェリントンのみ、4ヘクス以内でOK)のでなければ回復(混乱になる)しないし、勝手に下がっていくので、厄介。ウェリントンを回復用に常に用意しておくか、幾人かの指揮官を回復用に回すか……?

・イギリス連合軍はただ守っているだけでなく、散兵に縦隊で白兵戦を挑んだりした方が良い? あるいは、フランス軍が縦隊突撃の試みで混乱した時に、そこに騎兵突撃をかけるとか?

拡張横隊が、各ヘクスに全戦力を持つのかどうか未解明。拡張横隊のメリットがいまいち良く分かりません。

<2023/12/03追記>

 satoさんから旧ツイッターの方でコメントいただきました。ありがとうございます!(; ;)ホロホロ

延長横隊はルール[8.32]により両方のヘクスそれぞれに全兵力が存在するたみなされます。射界が広いのがメリットといえるかもしれませんが、どちらかというとこのルールは大規模編成が強制的にヘクスからはみ出てしまうことを再現してるのではないかと思います。ご参考までに。



<追記ここまで>


・戦線の角があると、側面をさらす部隊がどうしても出てくるので厄介です。どうすればいいのでしょう? 散兵を置く? 砲兵の射界を入れておくとか、騎兵や予備を近くに置いておくとか……?

・障害地形のヘクスサイドは、垂直方向には射界を遮るが、並行方向では射界を遮らない。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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