fc2ブログ

大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について

 OCSで『Luzon: Race for Bataan』(1941~2)を作り、今『South Burma』(仮)(1942/1945)を作れないかなと悪戦苦闘しているわけですが、その間ずっと、それらの軍部隊の上級司令部であった南方軍の総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥というのはどういう人なのだろうというのが気になってました。


Hisaichi Terauchi 2

 ↑寺内寿一元帥(Wikipediaから)



 で、この春にゲームマーケット東京に行った時に神保町で『元帥寺内寿一』という本を見つけて買ってみたんですが、まだ全然読んでいません バキッ!!☆/(x_x)






 それはともかくとして、最近本屋に行っていると光人社NF文庫で『都道府県別 陸軍軍人列伝』という本が出てまして、悩んだものの買ってみました。




 藤井非三四氏の本で、東西2分冊で以前出ていたものが今回1冊の文庫本になって出たもののようです。

 「はじめに」を読んでますと、「人物を中心に歴史を見る」方が興味が持てるじゃないか、戦国時代なんかはそうなっているのに、近現代史ではそういうのが排斥されている傾向にあるのではないか、なので「人物」というものに興味を持って見られる一助となるかもと思って書いてみた……というようなことでした。

 もちろんこれは賛否両論あると思います。例えば、『大いなる聖戦』なんかは、北アフリカ戦の流れはロンメルとかモントゴメリーとかって人物とは何の関係もなく、それぞれの時期の大戦全体の状況から来る投入戦力と補給によってすべて説明できる、というようなことを書いてました(^_^;




 まあそういう方向性の見方もあるかとも思いますけども、私は個人的に歴史や戦史における「人物(キャラクター)」に関心がかなりある方で、藤井非三四氏の主張?には大いに共感するものがありました(個人的には、指揮官のキャラクターによって歴史が動いている割合は結構高いのではないか、と以前より思うようになっている感があります)。

 ただそこで問題になってくるのは、「人物評」というのは著者によるバイアス・偏見が大きくなりがちだということで、ロンメルなんかも「天才!」説もあれば、「単なる無謀な指揮官」評をしている著名戦史家もいるそうです。

 しかし逆に、「偏っているかもしれない短い人物評」でストンと腑に落ちる……ということもあるなぁと最近思ってまして、「石原莞爾は、その特異な終末思想が時代にアピールした。軍人というよりも宗教家としての才能に溢れていた」という評で「なるほどなぁ!」と思ったりしました(『大東亜戦争の謎を解く』P41,2)。





 で、前置きが長くなりすぎましたが、寺内寿一元帥に関して、『都道府県別 陸軍軍人列伝』(P510~516)をメインとして今回まとめてみようと思います。




 そもそも、寺内正毅と寺内寿一が「親子で元帥」という世界的にも珍しいケースなのだそうです(他の例が知りたいです。皇族とか王族とか以外で)。

 父親の寺内正毅は出征していないそうですが、陸相在任期間の記録を作ったり朝鮮総督などとして日韓併合を成し遂げたので元帥になったのだろうといいます。

 寿一の評価はまったく二分されるそうで、「軟弱な二代目、武人どころか単なる遊び人」という酷評と、「勉強こそしなかったが頭脳明晰で、なにより出世欲がないのが素晴らしい。」という絶賛?があるそうです。

 陸軍内での評判が良かったのは、人にご馳走するのが好きで、軍の多人数を料亭に招いて支払いを全部自分で持ったこと(が多かった?)に行き着くそうで、例えば昭和8年の「ゴーストップ事件」の時に大阪第4師団長であった寺内寿一はなかなか強硬に軍の立場を訴えて陸相の荒木貞夫が「寺内を見直した」と言ったそうですが、それより軍と警察の話がついた後、警察や大阪府の役人を多数料亭に招待して自分もちで大盤振る舞いをやったそうです。

 父親が超エリートであっただけに、金持ちだったから可能だったのでしょうか。

 能力の方はというと、「成績や能力については注目されなかった。ただ関東大震災のとき、近衛師団参謀長であり、てきぱきと処置をして、「さすがは東京育ち、地理に明るい」とされたぐらいであった。【……】将官演習旅行の成績が悪かったようで、ここで予備役に編入【……】」されるところを何とか現役にとどまることができたものの、中将となれてそれで終わり……と思っていた(中将まではかなり多くがなれるが、大将はなかなかなれない)のが、無欲が幸いしたか人に引き立てられて大将に。これらには軍内部人事における「父親への義理」という側面もあったようです。

 その後、二・二六事件後に親子二代で陸相となり、徹底した粛清人事を断行(ただしこれは冷徹な能吏梅津美治郎が次官にいたからだとか)。

 昭和16年に南方軍司令官となったのは、海軍の山本五十六よりも先任が望ましいという条件で7人ほどに絞られ、その中で手が空いている軍事参議官かつ最先任者が寺内寿一であったからとか。あるいはまた、東條英機(長州閥が大嫌い)と寺内寿一(父が長州閥のボスだった)とは仲が悪く、東條が寺内を東京に置いておきたくないという気持ちがあったのではなかろうかとも書いてあります。

 寺内寿一の方でも東條英機に対して不満を募らせており、東條が占領地視察に訪れても出迎えすらせず、大本営とは喧嘩状態であったとか……。

 また、降伏の儀式の時に、名刀がないと格好が付かないからと、わざわざ日本本土まで飛行機で刀を取りに帰らせたそうです。




 以上の見方は割と悪い方に偏っているとは思います。試しに『元帥寺内寿一』をパラパラと見てみたら、こっちはこっちで戦後に寺内寿一と関係のあった軍人達の筆による寺内寿一顕彰のための本であるらしく、中立的な、あるいは研究的な本では全然ないようでした(中を見ずに買った感があります……1500円くらいだったと思うのでまあいいのですけど)。



 他の資料で寺内寿一に関する短い評伝を探してみたのですが、数冊持っている日本軍人の列伝形式の本には寺内寿一は取り上げられていませんでした。

 一方、英語による第二次世界大戦中の世界中の軍事司令官等に関する百科事典形式の本を3冊持っているのですが、その3冊にはすべて寺内寿一の項目がありました。




(上段真ん中の『Who Was Who In World War II』の和訳本が2種類あり、それらが下段になります。が下段右側は反戦主義的な研究者が軍事用語に知識がない中で翻訳されたかのようで、個人的にはお勧めしません。左側は元軍人の軍事研究者が監修であり、記述も丁寧ですし、兵器関係のコンテンツも含んでいるので非常にお勧めします。)


 上段左の『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』は記述が最も簡潔であり、真ん中の『Who Was Who In World War II』の少し短い版的な内容であったので省略します。

 真ん中の『Who Was Who In World War II』には寺内寿一の写真が載っており、キャプションには「日本軍の指揮官の中でもかなり無慈悲【more inhumane】な人物であった。」と書かれています(P203)。また、「彼【寺内寿一】は【……】現地人に対しあまりに寛大な政策を施したとして今村均を非難した。」という風にも書かれていました。まあ今村均は陸軍の当時の主流派のほぼ全員から非難されていたのでしょうけども。


 一番右の『The Biographical Dictionary of World War II』には、「この老貴族【伯爵】は有能な行政官であり、ロジスティシャンであったが、無能な戦略家であった。優秀な部下の作戦を台無しにした彼の多くの失敗については、「山下【奉文】」で詳しく取り上げている。」とありました(P558)。

 「山下【奉文】」を見ると、寺内と山下は政敵であったそうで(山下が主流派から嫌われまくっていた?)、フィリピン防衛戦において「日本の最も偉大な軍人【山下】は、日本で最も無能な将軍の一人である寺内の深刻な妨害にもかかわらず、精力的に行動した。」(P626)とありました。



 あと、今回見つけたものとしては、「寺内寿一」というウェブサイトの一番下の記事には、インパール戦やフィリピン戦の最中にもサイゴンの贅沢な公館で優雅な生活を続けていたとか、日本本国から自分の妾(芸妓)を軍用機で総司令部の官舎に連れ込んでいたというようなことが書かれていました。


 まあ、さすがに悪いことだらけだと前述の『元帥寺内寿一』なんていう本も作りようがないでしょうし、良い面も色々あったんだけども、悪い面もいっぱいあったということではなかろうかと想像しますけど、どうなんでしょうか。



 しかしやはり、「短い人物評」は、偏っているとしても興味関心を持つには非常に優れていると改めて思いました。また折に触れて『都道府県別 陸軍軍人列伝』等を紐解ければと思います。

スポンサーサイト



OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の連合軍の新作戦態勢

 これまで、陸戦史集『ビルマ進攻作戦』から、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめてました。





 同書で続けて、「連合軍の新作戦態勢」(P109~111)というのがあって、割と重要そうだなと思ったのでまとめておきます。というか、OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画 (2023/10/24)に描いてました第1ビルマ師団の推測の後退路は間違ってました(^_^;


 ↓その間違っていた地図。「1 Burma Div」から延びる赤い矢印の経路は間違いでした。

unit8503.jpg





 ↓今回作った地図。「1 Burma Div」はエダッセ(Yedashe)にまず撤退し、3月21日頃にそこで集結、その後タウンギー(Taungdwingyi)へ鉄道で移動したそうです。

unit8494.jpg



 3月19日までに中国軍の第200師団の前進部隊(戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P292によれば第598連隊)がピユ(Pyu)方面に進出しており、19日に日本軍から攻撃を受けてトングー周辺の主陣地に下がったそうです。


 時間的に遡りますが、第1ビルマ師団の3月11日~17日の動きは、『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の地図からです。諸資料によると、ラングーン陥落後の第2段階での最初の戦闘は3月17日にキョクタガ(Kyouktaga)で起こったようです。


 画像には東西にまたがるようにして2本の赤線が引かれていますが、実はこれはマップ割(案)でして、上の線は一番南のマップの北端の線、下の線は真ん中のマップの南端の線です。前者は単純に、一番南のマップの南東端を決めた後のOCSのマップのヘクス数から自動的に決まった線なのですが、後者は「第2段階はプロームとトングーの少し南から始まったのだろうから、マップ間を1ヘクスだけ重ねるのではなく、南端をもっと南にずらしておいて、マップ2枚で第2段階全体を再現できるようにできれば」と思ってずらしておいたのでした。

 今回調べたことからすると、まさにその南端のキョクタガ(Kyouktaga)で第2段階が始まったわけですが、あまりにもギリギリすぎて困惑してしまいました(^_^; 本当にキョクタガ戦から始めるならば、さらに数ヘクス南にずらしておかないとダメなんじゃないでしょうか。しかし、ここらへんの戦いは小競り合い的なもので割とすぐにトングーに近づき、しかし3月22日にトングーの1ヘクス南のオクトウィン(Oktwin)で予想外の中国軍の抵抗にぶつかったということなので、マップ2枚シナリオ上では最初の数日分は省略するという方向性はあるだろうと思います。

 より重要なのは、プローム方面での(省略できなさそうな)戦いがどこらへんから始まったかでしょうか。そこらへん、今後見ていくということで。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の中国軍の作戦計画についてです。今回も要約します。



unit8499.jpg





 これは3月中旬ころに中国軍が考えていた全般作戦計画だそうですが……(日本軍第15軍が入手していたもの。『ビルマ進攻作戦』P106~9)。

1.有力な一部でタイ・ビルマ国境(画像の右側)を守備する【タイ北部から日本軍が侵入する動きを見せていたため:赤色破線矢印】

2.別に一部でトングーおよびマンダレー街道【トングーからマンダレーへ通じる道】を守備し、要所を固守し、逐次日本軍を撃滅する。主力はマンダレー付近に置き、日本軍を誘引して深入りさせ、その後方の交通路を遮断し、爾後攻勢に転じて日本軍を捕捉撃滅する。

3.日本軍がもしマンダレー街道沿いに北進してくれば、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の各守備隊【水色破線】は、各陣地を固守し、日本軍に重大な打撃を与える。その際、トングー東北方の山岳地帯を根拠として遊撃戦法により敵後方に侵入し、連絡路を遮断して日本軍の前進を妨害する。

4.日本軍との会戦において万一不利に陥った時でも、必ずトングー、サジ、マンダレー以東の山岳地帯を確保し、ロイレム(Loilem)およびメイミョー(Meymyo)の両拠点【緑色破線】を核心としてこれを固守し、新国際路線【インドルートのこと?】を確保する。

5.【この項、かなり省略】日本軍がタイ・ビルマ国境から進出した時は、山地で頑張る。日本軍が英印軍方向に主力を向けた時は、そちらの方向に進出して英印軍と協力する。

 で、この計画は、「中国軍得意の<誘致導入、消耗撃破、遊撃ゲリラ>の戦法を基調とするものであった。」そうです。


 「山岳地帯からの遊撃」は、画像の水色の矢印で、確かにこれをやられたらイヤだと思います。逆に日本軍から見れば、この山岳地帯(の道路)を押さえることが重要であったとも言えますね。



 今回、個人的に非常に気になったのは、ピンマナ(Pyinmana)、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)の3箇所が固守地点に選ばれた理由についてです。固守地点に選ばれるにはそれなりの地形的な理由があるはずですから。

 というのは実は以前、1945年のビルマ戦について調べていた時に、日本軍はマンダレー街道を南進してくる英印軍をトングーで止めるということを意図したらしいのですが、その時に自分の作っていたマップを見てみたら、「トングーで止めるよりも、他の場所で止めようとした方が明らかにいいじゃん!」と思えるものだったのです(^_^;


 ↓その頃のマップのトングー付近。トングーより、その南の隘路で止めた方が良さそうです(平地ではありますが)。

unit8498.jpg



 ↓現状のトングー付近。トングーを小都市にし、荒地を隣にまで延ばしました(両方とも中障害)。

unit8497.jpg




 で、各地点に関して見てみます。まず、ピンマナ。

unit8496.jpg


 道路の結節点であるという意味においては非常に重要な場所だと思いますが、守りやすいとは思えません(^_^; むしろ、その南の隘路で敵を阻止した方がいいでしょう。今後資料を読んでいって、修正したいと思います。




 次に、ピヨベ(Pyawbwe)、サジ(Thazi)について。

unit8495.jpg


 まだここら辺は平地を設定していないのですが、守りやすそうな気はしません……。あえていえばピヨベの方は、結節点だらけになる北方のサジやメイクテーラ(Meiktila)の前で止めるという意味では、重要な気はします。しかしサジの方は、メイクテーラの方や東方の道路からでも回り込みやすいでしょうから、すごく守りにくそうな……。

 ここらへんもまた、今後資料を読んでいく中で、検証・修正していこうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の日本軍の作戦計画

 承前、ラングーン陥落後の日本軍の作戦計画についてですが、『ビルマ進攻作戦』(P96~103)上の記述が結構長いので、要点のみ記します。


 まずは基本的に、援蒋ルートのうちの「インドルート」というものが大きく関わっていたようです。


unit8501.jpg





 日本陸軍は「すぐに終わる」と考えて日中戦争(支那事変)を始めましたが、英米ソが蒋介石を援助し始めたこともあってズブズブの泥沼にはまっていきます(プーチンが「すぐ終わる」と考えてウクライナ戦争(特別軍事作戦)を始めたものの、欧米の援助で終わらなくなったのと同じです(>_<))。

 この軍事援助のルート(援蒋ルート)は複数ありましたが、次々に遮断、あるいは機能しなくなり、残っていたのは「ビルマ公路」だけになっていました。

 「ビルマ公路」は、ラングーン港に陸揚げした物資を鉄道でラシオ(Lashio)まで運び、あとは道路で中国国内に運ぶというものでした。が、これもラングーン陥落によって使えなくなります。そこで唯一残されたのが「インドルート」で、インド国内のインパールからビルマ中部のマンダレー、ラシオを経由し、中国国内に運ぶというものでした。が、ラングーン港と鉄道を使用するルートよりはかなり輸送量は少なくなっていただろうと思います。

(なお、その後このルートも使えなくなった連合国は、一時期ヒマラヤ山脈を空路越える「ハンプ越え」ルートを使用しましたが損耗が甚大で、1942年からビルマ北部を通るレド公路を作り始め、1944年後半に完成しました。……尤も個人的には、「他にもルートがあり得るのでは」と思ってOCS『Burma II』のマップを見てみたら、インドウ(Indaw)を経由するルートは一応あるのではないかと思いました。しかしそれ故、1942年の日本軍はインドウ辺りまでは一応行っておかねばならなかったのだろうと思います。まあ、すでにメインの戦いは終わった後の掃討戦でですけども)


 で、↑の事情を勘案すると、ラングーン陥落後の連合軍にとってはマンダレー(赤い□で囲みました)を保持することが「超重要」だということになります。地理的にも一番南ですし、ビルマ中部における最大の町でしたし。そのため、日本軍側は「連合軍はマンダレー周辺を保持しようとし、そこで大会戦が起こるだろう」と推測しました。

 そしてこの推測の未来の「マンダレー付近会戦」を「マン会戦」と呼んだそうです。『ビルマ進攻作戦』P99には「マン付近(マンダレーを中心とする中部ビルマ地方を広く包括する)」というような記述もありますが、「マン」という呼び方がそもそもあったというよりは、この頃に「そういう風に短縮して呼ぼう」としたということなんでしょうか……??




 まあそれはともかく、マン会戦までの作戦計画としては、おおまかに↓のようでした。

1.主攻撃は、英中両軍のうち中国軍の方に指向し、これに対しては戦機を構成捕捉して決戦を強要し、特に徹底的な打撃を与え、その再起企図を完封する。

2.マン会戦に先立ち、エナンジョン(Yenangyaung:油田があった)・マグエ(Magwe)付近【こちらは英印軍】の戦闘を一兵団で行わせ、務めてこれを殲滅して、爾後の会戦参加に支障がないようにする。

3.マン会戦の発起点は、エナンジョン、メイクテーラ(Meiktila)、タウンギー(Taunggyi)の線と見込む。

4.マン会戦に当たっては、重点を右翼に保持し、まず、すみやかに広くかつ深く連合軍の諸退路特に自動車道を遮断し、大包囲圏の完成を図るとともに,連合軍を分断し、その後随所にこれを撃滅掃討し、地形の利とあいまって完全に連合軍を殲滅する。
 遠大迅速な機動、要点の急襲占領確保、見敵必滅の意気の3つをもって、本作戦完成の要件とする。


5.半自動車化されている第56師団は、上陸後ラングーン~トングー道を経てタウンギーに向かい、務めて企図を秘匿して前進し、4月上旬までに同地付近に進出してタウンギー飛行場群を確保し、その北方または東北方に向かう爾後の作戦を準備する。




 ゲーム上でも、地形から見て第56師団が敵後方に回り込めるかどうかが重要な気がしますが、史実を知っているプレイヤーはそうはさせじとその道路上をより大きい兵力で守ろうとするかもしれません。

 あるいはまた、キャンペーンゲームや自由配置シナリオの場合には(現状アクションレーティングが最強にされている)第33師団をマンダレー方面に向けたりというようなこともあるかもですが、それはそれでバランスの問題として、英印軍をある程度以上撃滅できないとダメなようにすべきなのでしょうね……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落後の英印軍の作戦計画

 陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでましたら、ラングーン陥落後の日本軍、英印軍、中国軍の作戦計画についてまとめられていたので、それぞれを引用し、地図にしておこうと思います。まずは、英印軍の作戦計画について。






 ↓今回、記述から作った地図。トングーとプロームは赤い□で囲ってあります。その北方にマンダレーやエナンジョンがあります。

unit8503.jpg



 このような状況をみたアレキサンダー大将は、日本軍の引き続く大規模攻勢を可能かつ必然と考えた。攻勢に対し、果たして連合軍がいつまで中北部ビルマを持ち得るかの見とおしを立てることが、アレキサンダー大将の目下の問題であった。

 当時連合軍がビルマに持っていた兵力は、手傷を負った第17師団、第1ビルマ師団、第7機甲旅団の計7個旅団基幹の英印軍と、中国2個軍(実兵力約2個師団相当)の実質総計約四個師団で、これを支援する航空機は約150であった。しかも、中国第6軍は連合軍の左翼を掩護するため、タイとの国境付近に張りついており、自軍を犠牲にしてまで、中部ビルマで生起する次の作戦に直接参加しそうになかった。結局劣勢の3個師団で日本軍に当たることになり、ビルマを保持できる期間は、一に日本軍が集中使用する兵力のいかんによって決まるであろうと思われた。

 そこで、アレキサンダー大将は、カルタッタでウェーベル大将から受けた口頭指令を念頭におきながら、日本軍を最大限遅滞させることによって、日本軍が他の方面に使用するかも知れない兵力と資源を、なるべく多くかつ長く、ビルマに吸いつけておき、できる限りそこで消耗させようと考えた。

 このため、ラングーンからエナンジョンおよびマンダレーに通ずる2つの河谷を掩護するように、イラワジ河谷には英印軍を、またシッタン河谷に中国軍を使用し、中国軍はそのままシャン州方面の左翼掩護に当てることにした。

 ところが、中国第5軍は、それがいかなる理由によるかアレキサンダー大将には当時分らなかったが、やはりトングー以南に前進することを強く拒んだ。種々努力はしたが致し方のないアレキサンダー大将は、全般の戦線をそろえるため、ラングーンからプロームに至る約200キロの地域をむなしく捨て、プロームとトングーを結ぶ東西の線を一般防御線として選ばなければならないと考えた。

 このことは、同大将が、ビルマを利用して日本軍を引きつけ、かつ、消耗させようとした作戦目的と、そのため広く地域を利用して時間をかせぐという戦いの原則に照して考えるとき、約200キロの地域を利用する縦深遅滞の時の利は失われ、逆に日本軍に、より早くエナンジョン油田や、マンダレー等の緊要な地点に迫る可能性を与えることになると思われた。すなわち、トングーの早期失陥の可能性は大きく、そこを失えば、トングーからシャン州に通ずる作戦路を日本軍に開放し、その結果、日本軍のこの方面からの迂回前進を許し、包囲される態勢になるからである。

 また、多量の貯蔵米があるカレン地区を早く放棄する結果、米を主食とする中国軍は一層苦しくなり、その持久がむづかしくなって、結局連合軍の持久日数を減らすことになろうと予測された。

 しかし、中国軍と連合を政戦略上の前提とし、かつ、当時状況が差し迫っていたので、アレキサンダー大将には何とも方法がなかった。そこで、シッタンで中国第5軍の南方にいた第1ビルマ師団と、サラワジー付近で集結中の英印第17師団とを、中国第5軍の第200師団がトングー付近の陣地に着き次第、西方のプローム方面に移動転進させるように決定した。結局第17師団、第1ビルマ師団および第7機甲旅団等の英印軍はイラワジ河谷で、また、中国第5軍はシッタン河谷で、作戦することに最終計画が決定された。

『ビルマ進攻作戦』P104~6



 まずびっくりしたのが、「航空機が150機であった」という記述。15機で1ユニットにしているので、10ユニット程度ということになりますが、現状ユニット化してあるのは5ユニット程度しかありません(^_^; まあ、可動機が150機あったのかどうか分かりませんが……。今後また情報収集で。


 それから、トングーとプロームを結ぶ線から第二段階が始まったということに関して、おおまかには知っていたものの、その詳しい理由については理解していなかったので「なるほど」と思いました。

 「カレン地区(カレン州)」というのは調べてみると薄く緑色で塗った領域で、カレン諸族が住んでいる地区のようです。この近くであれば中国軍の一般補給は楽なのだけども、そこから離れていくと苦しくなってくるということですね。


 それから、英印軍はイラワジ川沿いの線を守ることになり、第1ビルマ師団は西へ移動したわけでしょうけども、その際、トングーからプロームへ通ずるような道(小道)が、これまで見てきた地図には描かれていなかったようですし、マップ上にも描いてませんでした。ただ、その少し南に、赤い矢印で描いたようにして小道があるので、たぶん第1ビルマ師団はこの道を通ってイラワジ川沿いに移動したのではなかろうかと想像しました。

 多分史実でもそうであったように、ゲーム上で英印軍と中国軍は一緒には戦えないようにすべきでしょうし、そうすると、もし本当にトングーとプロームの間にまともな道がなかったならば、第二段階が始まる前に第1ビルマ師団は西に移動しなければならないでしょうし、また英印軍と中国軍とで戦区を完全に分けることが切実に必要だということになるだろうと思われました。そこらへんから考えると、現状のマップはこれはこれで良いと思われました。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第18師団の編成

 前回↓に続いて、第18師団の編成についてです。第18師団長はあの牟田口廉也中将であり、進撃を督励しまくったそうです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成 (2023/10/19)



 第18師団の編制・編成は諸資料(主に陸戦史集『ビルマ進攻作戦』P239)によると以下の通りであったそうです(旅団司令部もありましたが、ゲームには出さない予定なので略します)。

第18師団
 歩兵第55連隊
 歩兵第56連隊
 歩兵第114連隊
 歩兵第124連隊(ビルマ戦には欠:川口支隊)
 騎兵第22大隊
 山砲兵第18連隊
 工兵第12連隊
(『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P371によれば、戦車第1連隊が第18師団隷下であるかのように書かれていますが、とりあえず無視?)


 歩兵連隊は3個大隊からなり、歩兵大隊は4個中隊からなります(ということは、第33師団と同様に7戦力となります)。

 騎兵大隊は乗馬2個中隊、機関銃1個中隊からなります。一方で、すでにゲームに登場している騎兵第55連隊は、乗馬中隊2、機関銃中隊1、戦車中隊(軽戦車2、装甲車6)1、速射砲中隊1からなっていたという話もあります。現状騎兵第55連隊は「テストプレイの結果、ゲーム序盤で英印軍後方に進出しまくってゲームを壊す可能性が高い」という理由から(^_^;、元々5戦力(5-4-5)であったのが1戦力減らされ(4-4-5)、しかも再建不能にされています。これを踏襲すると、第18師団の騎兵第22大隊は3-4-5の再建不能というところでしょうか……。


 山砲兵連隊は3個大隊からなり、うち2個大隊は山砲、1個大隊は野砲編成であったそうです。『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372によると、「第18師団の山砲兵連隊は、各12門の2個大隊と、75mm野砲12門を持つ1個大隊からなっていた。キャウクセ(Kyaukse:マンダレーの少し南)でそれ(it)は、第3重砲兵連隊(1個大隊欠)の150mm砲8門を増援された。」そうです。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数 (2023/06/18)
OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成 (2023/10/19)

 ↑の計算とおまけの付け方からすると、

 山砲は0.257×12=3.084×3=9.252で9ですがおまけして、11くらい。
 野砲は第56師団のものそのままで、最終的に11くらい。

 「150mm砲8門」という話は、マンダレーのすぐ南あたりでの話ですから割と最終盤なので、そこらへんまで資料を読み進むまで棚上げにしておきます。


<2023/10/21追記>

 ミト王子さんからコメントいただきました!

 やはり「支那事変、大東亜戦争間の師団の編制」では、この師団の山砲兵連隊は改造三八式野砲12、九四式山砲18となっています。
 「日本騎兵史」によるとこの師団の騎兵大隊は恐らく昭和17年内のある時期に徒歩編制に改編されたようですが、恐らく進攻作戦後の話だと思われます。

 アジア歴史資料センターのレファレンスコードC14111053300によると、S14年9月14日時点では山砲大隊2、野砲大隊1で、山砲中隊は九四式山砲3、野砲中隊は三八式野砲3、としていますから、もしかしたら野砲は9門であったかも知れませんね。


 この場合、九四式山砲9門で1個大隊、九四式山砲9門で1個大隊、改造三八式野砲12門で1個大隊でしょうか。だとすると山砲大隊は火力が少し下がりますし、野砲大隊は射程が1に下がると思います(これは矛盾がないので、そうしてしまっていいのでしょうけど)。この微妙な差異……(^_^;

 『日本騎兵史』は私もコピーしてきていたので見てみると、P443に確かにそれらしき記述がありました。どうなんでしょうね。ここらへんも、他の資料の情報集積待ちで……。

<追記ここまで>




 第18師団がラングーンに到着したのは、4月7日夕だったそうです。

 が、これもまた全部がいっぺんに到着したわけではなく、歩兵第56連隊第3大隊基幹の部隊は、主力とは別にアンダマン作戦に参加しており、その作戦終了後、ビルマに追及して師団に復帰したとか。これは戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P241によると「4月17日夕刻にラングーンに到着」であったそうです。



 とりあえずユニット化してみました。

unit8507.jpg


unit8505.jpg



 師団ストライプはもちろん、菊の花の黄色で。

『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』の全5章の内容

 『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を読み始めてみましたら、「はじめに」に全5章の内容が書かれていて、それだけで非常に興味深かったので引用してみます。





 この本は5章で構成されている。第1章では、バトルアクス作戦における連合軍地上部隊の限界と、第4インド師団が西方砂漠部隊【第8軍の前身の組織】の他の構成部隊と共にそれらをどのように克服しようとしたかを分析する。空軍と野砲の、歩兵との不十分な協調は、西方砂漠部隊の作戦を特徴づけるものであった。イギリス軍の機甲部隊はそれぞれがバラバラに戦闘を行い、諸兵科連合戦術によって防御された枢軸軍の陣地に対し、バラクラヴァのような無益な突撃を行ったのである。

第2章では、バトルアクス後に第8軍がどのような教訓を得たのか、そしてそれらの教訓がクルセイダー作戦の時期に連合軍によってどこまで反映されたのかを描いている。第8軍の学習過程は不完全だった。その結果、ロンメルは敗北したものの、彼の部隊は壊滅しなかった。連合軍の歩兵部隊と機甲部隊はバラバラに戦った。第8軍は諸兵科連合戦術の必要性を認識していたが、実行はできなかったのだ。その一因は、大英帝国軍が異質な性格と伝統を有する様々な連隊を集めて戦っていたことにあった。また大英帝国軍のさまざまな兵科における島国根性は非常に強く、諸兵科連合戦術は訓練マニュアルや情報分析で繰り返し強調されていたにもかかわらず、実践されることはなかった。

 第3章では、1942年半ばの砂漠での大失敗の理由を説明しようと試みている。ドクトリンの混乱はオーキンレック、ニール・リッチー中将、A.H.ゲートハウス少将、メッサーヴィー、トゥーカーら第8軍の指揮官達の不和を招き、第2次ガザラの戦いでの連合軍敗北の重要な要因となった。アフリカ装甲軍が繰り広げた流動的な機動戦に対して、連合軍の指揮官達は開けた砂漠で堅固な直線的防御を行ったが、それは不適切だということが証明された。リッチーは、連合軍の機甲部隊は高速で分散して走るドイツ軍の装甲部隊にはかなわないことに気付いていた。その反動で、静的で防御重視の旅団「ボックス」が登場した。だが、オーキンレックによる革新的なコンセプトであった旅団サイズの「ボックス」をジョックコラムと共に使用する方策は、アフリカ装甲軍に対しては効果がなかった。しかし一方で、この「ボックス」は1943年から1944年にかけてのビルマ戦で軽武装の日本軍に対して有効であることが証明された。つまり、すべての戦術的革新がすべての戦場で効果を発揮したわけではないのである。技術革新には、有効な地域や、有効な敵というものがあったのだ。第1次アラメインの戦いでの連合軍の勝利は、補給問題に悩まされていたロンメル軍の疲弊によるところが大きかった。

 第4章は、第2次、第3次アラメインの戦いにおける連合軍の勝利は、数的、物的優位に裏打ちされた高度な陣地戦戦術によるものであったと論じている。アラメインの陣地の地理的制約から、アフリカ装甲軍は側面からの突進を伴う機動戦が不可能であった。しかし、イギリス軍機甲部隊の学習スピードは十分ではなかったようだ。モンティの幕僚達は、砲兵戦術の革新、航空写真の活用、パトロールと偵察などを目撃した。しかし、機動戦を遂行するための歩兵-砲兵-機甲-地上攻撃機を含む親密な協力関係は、第8軍ではあまり発展しなかった。例えば、機甲師団と機甲旅団は、歩兵や野砲兵との密接な協力に反対していたのである。モンティの厳格な指揮システムと、ゲートハウスのような一部の師団長達の保守的な態度が、ドクトリンと戦術の分野における革新を妨げた。つまり、軍司令官と師団長達の態度が、戦場の革新のプロセスを加速させることもあれば、減速させることさえあったのだ。そして、これらの要因が、数で劣るアフリカ装甲軍のアラメインからマレトラインへの撤退を成功させたのである。

 第5章では、第8軍によるチュニジアでの戦闘が描かれる。ここでは砂漠戦のパラダイムが山岳戦のパラダイムに取って代わられた。チュニジアの地形を利用して、枢軸軍は山岳地帯を中心とした防衛線を次々と構築した。そしてインド歩兵は、イギリス歩兵に比べて山岳戦に秀でていた。マレト、アカリト、エンフィダヴィルの3つの戦いにおいて、インド第4師団は、丘陵地帯での夜間戦に関して、イギリス第50師団と第51師団に対する優位性を証明した。これは、インド師団が北西辺境でパタン族【パキスタン西北部とアフガニスタンとの国境地帯の部族】と戦いながら培った戦闘技術と、エリトリアにおいてイタリア軍と戦った経験によるものであった。技術的に後進的なパタン族や軍事的に「軟弱な」イタリア軍を相手にした山岳戦と、重火器を装備したアフリカ軍集団の冷徹なドイツ軍の「殺し屋」を相手にした山岳戦は別物だった。中東参謀学校、軍団長や師団長達、インド軍事訓練局との意見交換のおかげで、インド歩兵は荷馬車、迫撃砲、大砲を潜入や小競り合いの技術と統合することができた。第8軍のインド人部隊は、近代的条件下での山岳戦のパラダイムを開発し、それは1944年のイタリア戦で大きな効果を発揮したと断言できる。

『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P6




 北アフリカの英連邦軍がバラバラに戦っていたことに関しては、↓でも書いてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)

 『Fighting Rommel』では、↑とはまた違ったことも色々書かれているようで、興味深そうで楽しみです。



 前掲ブログ記事でも少し書いてましたが、OCS『DAK-II』では英連邦軍ユニットが何の縛りもなく連携して?戦えるため、強すぎるという印象を個人的に抱いています。で、↓でも少しハウスルール案を書いてましたが、うまく機能しなかった感があります。

OCS『DAK-II』7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のサマリーと改造ハウスルール案 (2021/12/02)



 そこらへん、うまく再現しているゲームはあるんでしょうかね……?



OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第56師団の編成

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』で、第56師団の編成についての話が出てきました(P239)ので、その件についてまとめようと思います。


 第56師団はシンガポールでの捕獲車両により半自動車化されていたという話があり(全員は車載できないが、ピストン輸送する)、実際ものすごい大進撃をしたらしいので、移動力設定が問題となります。OCS的には、完全自動車化で無茶苦茶早いやつだと18とか20移動力、ドイツ軍の自動車化歩兵師団なんかは14移動力です。「半自動車化」ということを重視するなら10移動力とかって感じなんですが、マップ上を動かしてみると16とか18とかでないと史実通りにならない、ってことはあるかもと思います。



 その編制・編成は以下の通りでした。

第56師団
 歩兵第113連隊
 歩兵第146連隊
 歩兵第148連隊
 野砲第56連隊
 捜索第56連隊(実質大隊規模)
 工兵第56連隊
(『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P371の戦闘序列によれば、戦車第14連隊も第56師団隷下となっていますが……?)

 歩兵連隊は3個大隊、歩兵大隊は3個中隊よりなります。すると、基本的には6戦力となります。

 捜索連隊は3個中隊からなり、全員車載。


 野砲兵連隊は3個大隊、うち2個大隊は野砲、1個大隊は十榴【91式10センチ榴弾砲?】編成(後述の坂口支隊は野砲第1大隊を含んでいたというので、第1大隊が野砲でしょうが、第2、第3は不明。でもまあ、第2が野砲で第3が榴弾砲でしょうか?)。

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P372によれば、2個大隊が75mm野砲【90式75mm野砲?】、1個大隊は105mm砲であり、各大隊は12門を持っていたそうです。

 90式75mm野砲は最大射程14km程度で、1ヘクス8kmなので射程は2ヘクス? 機械化牽引用の機動90式野砲というのもあったようですが、日本語版Wikipedia「九〇式野砲」を見ている感じでは、この時期に投入された感じは受けません。尤も、機械化牽引用でなくても、自動車で無理矢理引っ張ったのでしょうか。第56師団は野砲も含めて完全自動車化の特別部隊を作って運用したらしいです(詳細はまた今後出てくるでしょうからその時に)。

 91式10センチ榴弾砲は最大射程10~11km程度で、射程は2ヘクスでしょうか。105mmだとすると38式というのと14年式というのがあったらしいですが、非常に重かったとか、後者は少数しか作られなかったとかって『第2次大戦事典②兵器・人名』にあって、その可能性は低そうだと素人考えでは思います。戦史叢書の方を信用してみようかと思います。


 各大隊が12門、ということに関しては信頼すると(おい)↓の計算方法からしますと……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数 (2023/06/18)

 75mm砲の係数0.257×12門=3.084。3倍スケールなので3倍して、9砲爆撃力。ですが、↑では少しおまけしている感があるので、10か11。

 100mm砲の係数0.3辺り×12門=3.6。3倍して、10.8。11砲爆撃力でしょうが、これもおまけして、12か13。


<2023/10/21追記>

 ミト王子さんからコメントいただきました!

 前に言及した「支那事変、大東亜戦争間の師団の編制」によると、第五十六師団の野砲兵連隊はこの時期、改造三八式野砲18、九一式十榴9とされています。

 アジア歴史資料センターのレファレンスコードC14060236100によると、S16年12月22日の編成完結時の野砲兵連隊の火砲は27門としています。(砲種記載なし)


 改造三八式野砲だとすると、射程は1が穏当っぽいですね……。また、門数が1個大隊につき9門ということになりそうです。そうすると火力が少し変わってきます。

 英語資料より日本語資料を信用した方が良いような気もしますけど、今後他の資料でもそこらへんの記述が出てくる可能性もあるかもですので、そこらへん期待したいと思います。

<追記ここまで>






 第56師団のラングーンへの海路での到着は3月25日とあります。



 が、第56師団も全部がいっぺんに到着したわけではないようです。

 坂口支隊(歩兵第146連隊、野砲兵第1大隊基幹)というのがあり、ジャワ攻略作戦に参加。ジャワ攻略後第56師団に復帰することになりましたが、当時東部ボルネオのサンガサンガの警備に任じていた久米支隊(歩兵第146連隊第1大隊基幹)を残して3月31日にジャワ島を出発してラングーンに航行、4月19日にラングーンに到着したそうです(『ビルマ進攻作戦』P239では「4月下旬、シャン州において師団に帰り、追撃作戦に参加した」)。

 坂口支隊はラングーンに到着するまでに合計158名の損害を出していたとか。ただ、これは連隊全部での損害でしょうから、計算しても各大隊の戦力を減らしておくほどではなさそうです。

 久米支隊は3月31日の南方軍命令により、同地の警備を海軍側に委譲し、その後連隊主力に追及してビルマに転進したとのこと(到着日時は書かれていません)。



 とりあえず、適当にユニットを作ってみました。

unit8511.jpg

unit8510.jpg


 師団ストライプの色は、青龍っぽい感じで……。


<2023/10/20追記>

 工兵連隊が抜けていました……(T_T)

 上記のリスト上に追加しておいたのと、↓がユニットです。

unit8509.jpg


<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第2段階開始時(3月19日)の英印軍の戦闘序列から

 ラングーン陥落後の第2段階開始時(3月19日)の英印軍の戦闘序列がある(*)ので、それ以前の戦闘序列や現状のユニットと見比べてみてました。

*:『The War Against Japan Vol.2』P454、『ビルマ進攻作戦』P245



 とりあえず、その戦闘序列にある部隊でまだユニット化していないものをユニット化してみました。前回の日本軍のものも一緒に。

unit8515.jpg




 それから、以前にOCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動 (2023/03/30)で作っていた配置図と見比べてみました。

unit8618.jpg


 すると、3月19日の戦闘序列にはある「F.F.6」という部隊が↑にはないことに気付きました。それだと、ゲーム上でF.F.6がどこから登場すれば良いのか分からないので困ってしまいます。

 で、その前回の資料や、その元になったのであろうとも思われる『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の戦闘序列も見てみたのですが、どうにも見つかりません……。

 まあ、困るのは困るのですが、「だって資料にないんだから」ということで、適当な場所に適当な時期に湧かせるということでいいのかもしれません。尤もその判断が困るのですが……。

(↑ここに書いておくことによって、この件について忘れないようにするということで)


 あと気付いたのが、この戦闘序列で「Line of Communication Troops」と書かれている一覧の中に、2 KOYLIやビルマ小銃大隊の3、4、6などの、ユニット化してある部隊が含まれていることでした。「Line of Communication Troops」というのは、OCS『Burma II』では後方連絡線を守備する弱体な部隊であるかと思います。史実でだいぶ弱体化していて、後方に回されていたのかもしれません。

 そこらへん、ルール化する可能性も考えましたが、まあそれらの部隊はデッドパイルにあるということで、よほど必要でなければそういう部隊をユニット化しない方向でいくということで……(ルールを増やしたくないので)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:第33師団が中支に残してきた第213連隊と砲兵2個大隊の主力への追及時期

 第33師団は↓のようにユニット化していましたが、これらとは別にビルマ戦開始時には中支(徐州)に残置してきた部隊があり、3ヵ月遅れで主力に合流しました。
(ちなみに、第55師団も隷下の第144連隊が南海支隊として別行動していましたが、こちらはポートモレスビーでほぼ壊滅したそうです)


unit8525.jpg


 その遅れて追及してきた部隊は、↓のものになります(まだユニット化していません)。

第213連隊第1大隊
第213連隊第2大隊
第213連隊第3大隊
山砲兵第33連隊第1大隊
山砲兵第33連隊第2大隊


 これらがいつ主力に追いついたかが分からないといけないわけで、今回、少し調べてみました(今後また情報を見つけたら追記していきます)。

 以下、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』P243から(抜粋)。

 3月6日~8日の間にバンコクに上陸。【その後、陸路をラングーンに向かう】
 師団主力の前進開始【3月中旬】までにラングーンに到着したのは、歩兵団長荒木少将および先頭の第213聯隊第1大隊(長有延厳少佐)だけであった。



 以下、『私(達)の歩いて来た道 第三十三師団(弓部隊)歩兵第二百十三聯隊第二大隊第七中隊(及各部隊)の戦跡』から。

 私達第3梯団は3月13日列車にて泰緬国境に向かう【P134:第3梯団がどういう内容か不明】

 3月18日【頃?】【……】これより「ビルマ」領だという所につく。【P135,6】

 夜行軍を初めて4日目だったろうか、徒歩から軍用車(トラック)で一気に「ビルマ」の首都「ラングーン」に到着する。【P141:日にち不明】



 まあ、ほとんど何も分からないのと一緒です(^_^; が、今後情報集積ということで……。




<2023/10/19追記>

 その後、『歩兵第二百十三聯隊戦誌』というのをコピーしてきていることに気付きました(^_^;

 この本による記述を参考に、地図を作ってみました。第2大隊は少し遅れて追及していたようです。


unit8513.jpg


 前掲の戦史叢書『ビルマ攻略作戦』では、第1大隊は3月19日頃にはラングーンに入っていたかのようなので、やや合わない面もあります。

 が、とりあえずこの地図に挙げた『歩兵第二百十三聯隊戦誌』の記述に従うならば、登場の仕方は例えばこんな感じでしょうか?

「第213連隊(第2大隊以外)は、4月1日ターンに他の第33師団ユニットのいる道路/小道ヘクス(あるいはその隣の道路/小道ヘクス)に自由に到着させます。到着ヘクスには敵ユニット、あるいは敵ZOCがあってはいけません。また、到着ヘクスからラングーンまでの間の道路/小道ヘクスに敵ユニット、あるいは敵ZOCがあってはいけません。」


 第2大隊は、その一部(約250名)がアキャブ(『South Burma』(仮)の範囲外)へ派遣されたので、戦力が少し減った状態で登場することになります。以前、↓で計算していたやり方に従いますと……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について (2023/03/01)


 とりあえず、810名で6戦力であると仮定します。すると、810÷6=135で、1戦力は135名となります。

 第2大隊は990名から約250名が抜かれているので、990ー250=740。740÷135=5.48で、四捨五入すれば5戦力となります。

 尤も、990名とか810名とかってのは司令部要員103名を含んでいるので、戦闘要員だけ見れば四捨五入したら6戦力であろうとは思いますが、まあ、戦力が抜かれているのが分かりやすいのでとりあえず5戦力ということにしてみます。


 それで調整したユニット↓。

unit8512.jpg



 第2大隊ですが、「4月15日ターンにラングーンに登場」でしょうか。


<追記ここまで>

北アフリカ戦:ビル、シディ、ジェベルなどの意味

 次に読むつもりと書いていた『Inside Hitler's High Command』はとりあえずやめておきまして(^_^;、『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を読み始めました。




 北アフリカ戦における、インド人部隊の学習をメインとした書物らしく、その点は書名からすると意外でしたが、個人的にはインド人部隊にもかなり興味があるのでよし。インド人部隊以外もバランスよく取り上げられるようです。また、自ら「これは研究論文です」という風に書いていて、色んな説が取り上げられたりするのも個人的に好きですし、またなんか、文章が読みやすくて面白いです(DeepL翻訳で読んでます)。


 その中で「へぇ~!」と思うことがあったら、小さなことでもブログに書いていこうとも思ってるんですが、早速「へぇ~!」と思うことがありました。

 砂漠を縦横に走るのはトリグ(小道)だった。これらの小道は、雨天時には路面が悪化して流され、装輪車両は泥にはまった。2本以上のトリグが交差する場所には、ビル(井戸)やシディ(イスラム聖人の墓)があった。このような交差点は、時に戦闘の中心地となった。海岸近くの砂漠にそびえ立つのはジェベル(断崖)である。ジェベルを占領することで、いくつかのトリグとバルボ街道の一部を支配することができた。そのため、戦闘は主に断崖に沿って行われた。
『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』P5



 ↓英語版Wikipedia「Battle of Point 175」から

Tobruk2Sollum1941 en

 「ビル・エル・グビ」とか「シディ・オマール」とか、聞き馴染みがあるんですが、そういう風な意味だったんですね。



 今までに北アフリカ戦の地名に関して情報集積していたものを探しましたら、「ビル」の意味については少しありました。

"ビル"とは井戸を意味する言葉
『狐の足跡』上P119

 ビル・ハケイムに到着したわたしたちは、それが堡塁というよりも、戦前にアラブの遊牧民たちが交易に使っていた古代の道が交わる場所に過ぎないということを知った。ほんの少しだけ砂と石が盛り上げられた12キロメートル四方の平地。イタリアは戦争が始まる前にそこに小さな石の建物を持つ堡塁を作ったが、建物は全部崩れ落ちていた。吹きさらしの砂漠以外、何マイルもほとんど何もない場所だった。地面は固い砕石だらけで、少ない雨水を溜めるビルスと呼ばれる石の貯水槽は、かつては植民地時代の砦に水を供給していたものだが、今ではひびがはいり、砂が浮いて半ば空になっていた。……
 ……"ビル"とはアラビア語で水という意味だと聞いていた……あるのは平らな岩とコンクリートの小屋の残骸、そして一方の端にある監視所と呼ばれる小さな丘ぐらいだった。
『外人部隊の女』P147

 唯一の小さな利点は、ビル・ハケイムが砂漠の他の場所に比べ、20フィート【約6m】ほど高くなっている長方形の地形で、見張りがしやすいということだった。
『外人部隊の女』P150






 ↑この『外人部隊の女』というのは、ガザラの戦いの時に孤軍奮闘したフランス人部隊に所属していた女性ドライバーの手記で、このフランス人部隊はビル・ハケイムの地を何日間にもわたって固守し、ロンメルを怒らせたのでした。


Map of siege of Tobruk 1942


 しかしそうすると、「ビル」から始まる地名であっても、昔は井戸があったのかもしれないが、北アフリカ戦の頃にはもう涸れて、なくなってしまっていたということもあったわけですね。



<2024/03/02追記>

 北アフリカでよく見る「エル(El, el)」が気になったので検索してみたところ、Yahoo!知恵袋にこういうのがありました。

北アフリカの地名について、エル・アラメインやエル・アゲイラのようにエル〜という地名が北アフリカには多くありますがこのエルってアラビア語か何かで意味があるのでしょうか?

アラビア語の定冠詞ال。
標準的なアラビア語では、al と発音するが、
エジプトでは el と言うらしい。

たいして意味はなく、英語の the みたいなもの。


 なるほど、そうなんですね。

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍のラングーン占領の頃の兵力増強命令

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでましたら、第15軍がラングーンに突入する直前(3月4日)に、第15軍への兵力増強に関し大本営が命じた命令が載ってました(P181)ので、ゲーム上で関係してくる可能性がある部隊を抜粋引用しようと思います(工兵は今回、除いておきます。また、カタカナをひらがなに直しました)。


 前回の分は↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落あたりまでの第15軍麾下の独立部隊について (2023/10/14)



2 第25軍戦闘序列より除き第15軍戦闘序列に編入する部隊
 第18師団(歩兵第35旅団司令部、歩兵第124聯隊欠)(筆者注 その欠部隊は川口支隊である)
 第56師団
 独立速射砲第1大隊(留守近衛師団)
 独立速射砲第6中隊(留守第6師団)
 独立速射砲第11中隊(留守第5師団)【この部隊はすでに前の段階で送られていました】
 戦車第1聯隊(第56師団)
 戦車第2聯隊の軽戦車中隊(留守近衛師団)【この部隊はすでに前の段階で送られていました】
 戦車第14聯隊(第23軍司令官)
 野戦重砲兵第3聯隊(甲)(筆者注 15榴)(留守第3師団)
 野戦重砲兵第18聯隊(乙)(筆者注 10加)(第61独立歩兵団)
 野戦重砲兵第21大隊(1中隊欠)(筆者注 15榴)(留守第3師団)【前の段階の、独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)と同一か?】


 ゲームに関係してきそうなのは以上ですが、(甲)とか(乙)とかって何でしょう? 甲が優秀な部隊で、乙はそれに次ぐ部隊ってことでしょうか。また、(留守~)とかってのは元の部隊のことかもですが、「戦車第1聯隊(第56師団)」とあるのは、第56師団が前線に来るのですが、いやそれでも元の部隊は第56師団だったってこと?

 色々全然分かってません(^_^; (分かる方、教えていただければ幸いです~)


『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』 読了:なぜ、イタリア軍は弱かったという見方が無批判に受け入れられ続けたのか?

 ようやく、『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を読了しました。「イタリア軍は弱かった」という見方に対して、様々な証拠や観点から再検討をおこなった本です。







 これまでにこの本関係で書いたブログ記事をまとめてみました。


『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を注文しました (2020/01/28)

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その4 (2020/03/22)

ミリタリー本なんかの脚注やPCソフトの脚注機能、それに索引とかについて (2020/05/26)

イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた) (2020/10/09)

ドイツ軍の第318歩兵連隊は、小土星作戦開始後どうなったのか?(付:OCS『Case Blue』) (2020/10/27)

オストロゴジスク=ロッソシ作戦:イタリア軍のアルピーニ軍団の「敢闘」は、誇張されたものである?(付:OCS『Case Blue』) (2020/10/29)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍師団の評価 (2023/04/18)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価 (2023/04/20)

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍は人道的で、現地民に何も悪いことをしなかったのか? (2023/06/10)




 ↑で挙げました「東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価」なんかもそうですが、この本ではイタリア軍の上級指揮官達は無能とは言えない、むしろ有能な者も多かった(ただし、訓練された下士官クラスの人材が不足していたのは確か)とか、あるいは東部戦線のイタリア軍はそれまでの北アフリカ戦などでの戦訓も着実にフィードバックして日々改善をおこなっており、もちろん国力から来る限界は大きかったが、決して無能ではなかったと考えられる……というようなことが様々な証拠を挙げて書かれています。

 そして本の最後で、戦後における「戦中のイタリア軍」に対する見方に関して、どのような攻防があったのかが検討されています。


 大まかに言えば、戦後に「イタリア軍(上層部)は無能であった。それによって無辜のイタリア軍兵士達が犠牲になった」という言説を大いに主張したのは、

・兵士達の回顧録(自分達は何も知らない庶民で、犠牲者だった)
・政治的左派(その敵の右派は、軍を擁護していた)
・クレムリン

 だそうで、「残念なことに、これらの神話は国内および国際的な学界にほぼ受け入れられ、第二次世界大戦中のイタリアに対する我々の理解を歪めてしまった。」(P334)

 それに対して戦後、右派と軍の擁護者として孤軍奮闘せざるを得なくなったメッセ将軍は多くの記事や本を書いて、「イタリア軍は何ら悪いことをしなかった」と主張しまくったそうです。その言説はそれはそれで偏りが大きいものの、政治的左派によるメッセ攻撃の内容(例えば、チュニジアで枢軸軍が苦難にある時にメッセは自分を元帥に昇進させるようにムッソリーニに要請したとか、自分の名声を重視して元帥の位を得た直後に「鶏のように」降伏したとか、あるいは東部戦線でも敗北が予見できていたのに、十分な補給を確保することなく部下達を見捨てたとか)は、その後の裁判で事実とは認定されず、メッセの主張よりも嘘の度合いがあまりに大きかったのですが、結局はそういう風な政治的左派が広めまくった言説が世の中に広がっていってしまった……。


 私自身、1980年代の中高生だった時代には日本でも「左翼にあらずんば人間にあらず」という感じで、ほんの少しでも左派的でない言説をすれば社会から総叩きされたのを見てきましたから、「あ~、さもありなん」という気がしました(T_T)


 日本では、一時以来『AxisPowersヘタリア』という作品が流行ったりしましたが、一方でその後ミリタリー界ではイタリア軍擁護的な出版や記事も結構出てきたような気がしますから、現状ではそれほど悲観したものでもないかと思います(『AxisPowersヘタリア』も、別に悪かったというものでもなく、様々な興味関心を持つきっかけになったという点で素晴らしい作品だったのだろうと思います)。できれば、この『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』(の内容)を有名人が取り上げてくれたらとも思いますが……。


 あと、個人的にはメッセ将軍の実像的な部分に興味があるわけですが、この本で最後の方のところ(P334)に、「実際、メッセは、冷戦政治がいかにイタリア陸軍と第二次世界大戦におけるその役割に対する私たちの認識をいまだに歪めているかを示す好例であり、さらなる研究が必要であることを示すもう一つの事例でもある。メッセの学問的な伝記が出版されることが最も望ましい。」と書かれていて、とりあえず現状ではメッセに関する学問的な研究がされた出版物はまだない状態である、ということなんでしょうか。期待したいところですが……。



 とりあえず、これでようやく「特に読みたい積ん読本」の一冊を読了することができました。次は『Inside Hitler's High Command』を読みたいと思っています。その次は『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』で。




 

OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から

 先日、中国軍の初動について地図付きで書いてましたが、その前に一度文字のみでまとめていたものがありました。

先日の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について (2023/10/10)
より前の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について (2023/03/31)

 より前の記事を読み返していますと、中国軍は英印軍から補給を受けていたようです。あ~、OCS的に問題なさそうで良かった(^_^;



 で、少し手持ちの資料で他に探してみたら、『中国=ビルマ=インド』(ライフ第二次世界大戦史)という本に、かなり面白く中国国民党軍の初動について、スティルウェルを中心にして書かれていました。





 ↓後述の本の地図を元に関連地図を作ってみました(P82の次のページのMAP 3から)。

unit8517.jpg



 ラングーンは陥落しており、一番南に3月19日時点での前線(赤い破線)があります。英印軍はプローム(Prome)から北の軸を防衛し、中国軍はトングー(Toungoo)から北の軸を守るという風に役割分担されていました。

 前回の地図で私は中国第5軍はプーアル?方面からかのように描いていましたが、今回の地図を見てると(ミト王子さんから教えてもらった話からしても)ビルマロード沿いに昆明方面から来たのかもです。

 紫色の破線のラインは後の資料に出てくる、蒋介石の考えていた防衛ラインです。


 その弱点だらけの防御線を日本軍の意のままにさらしておくよりはと、もともとが攻撃的なタイプの司令官であったスリムとスティルウェルは、ラングーンに向けて反攻に出ることを考えた。しかしこのような作戦行動に出るためには、スティルウェルは、配下の中国軍を移動させる必要があった。彼は蒋介石から第5軍、第6軍および第66軍の3つの部隊を与えられていた。それぞれアメリカ軍の1個師団にはほぼ相当する規模である。このうち第66軍は、ビルマ公路がサルウィン川の峡谷を渡るあたりのビルマとの国境を守るために、中国にとどめておくことになっていた。残る2軍のうち、第5軍の第200師だけが防御線の東端のトングー付近で実際に日本軍に対峙する位置にいた。しかもそこは、そのときすでに敵に包囲される危険にさらされていた。第5軍の残る第22師および第96師の2個師はまだ中国を発進していなかった。補給物資が到着するまで待つ必要があるというのが重慶側の説明であった。たとえ準備が整って前進したとしても、中央部のマンダレー付近までしか出てはならないことになっていた。スティルウェルは、トングーの第200師を救助するためにこの2個師をただちにビルマに移動する許可を求めたが、蒋介石はこれを拒否した。スティルウェルに与えられた中国軍のうち、残る第6軍は確かにビルマに入りはしたものの、ビルマ公路を東北部のシャン州まで下ってきただけだった。

 彼らがその地点にとどまって動こうとしないのは、タイ北部から国境を突破して日本軍が進入してくるのを阻止せよという、蒋介石の命令があったからであった【ちなみにこの時、日本軍はタイ軍と合同で、タイ北部国境からビルマへと侵入しようとするかのような囮作戦を行っていました】。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。


 杜がこうした態度に出たのは、あらゆる可能性から考えて蒋介石の指示によるものと思われた。蒋介石は当初、自説である縦深防御理論を固守して、第200師を増援するというスティルウェルの案に難色を示したのであった。スティルウェルは蔣総統からビルマ戦線の指揮をまかされていたとはいえ、文書による辞令ではっきり司令官として任命されたわけではない。それで彼の指揮下に入った中国軍の将官たちも、いちいち重慶の指示を仰がないでは、スティルウェルの命令に従おうとはしなかったのである。

 蒋介石はビルマ作戦に関しては終始、しばしばスティルウェルを通り越して直接杜やその他の将官たちに指令を出すことをやめなかった。蔣は、2500キロも遠く離れたところから連隊レベルにいたる作戦命令まで自分で出そうとしたものである。しかもその命令は、「情勢の些細な変化を根拠として、行動と戦備を根本的に変更するといった具合のものであった」とスティルウェルは書いている。時には遠くからの指令が前線に届いたころには、時機を失して命令そのものがばかげたものになってしまっている場合もあった。全作戦を左右する重大な局面で中国軍が絶望的な戦いを続けていたとき、スティルウェルは総統閣下から次のような命令を受け取った。「兵士がのどがかわいているときは、士気回復に西瓜がよい。4人当たり1個ずつ、西瓜を配給せよ」。

 結局、第22師はトングーの戦闘には最後まで参加しなかった。第200師は孤軍奮闘を余儀なくされ、そのため、ラングーンに迫ろうというビルマ作戦中唯一の連合軍側の攻撃も、行動開始前に内部から混乱し、責任のなすりあいになって崩壊してしまった。
『中国=ビルマ=インド』P23,4



 これを読んで、「そういえばスティルウェル関係の本は何も買ってないけど、スティルウェル関係の洋書から攻めるという方法はあるなぁ……」と思ったので、少しそこらへんの洋書がないか調べてみました。その中で、『Stilwell's Mission to China』という本がネット上でPDFで提供されているのが分かり、見てみたらいくらか関係のことが描かれていました(前掲の地図は、その本の中にあった地図から作ったのですが、しかしその地図は以前に他のどこかで見た記憶があるものでした。が、今回探してみたものの見つからず)。

 輸送手段が乏しかったため、部隊の移動はゆっくりと行われた。中国軍第93師団(第6軍)の残りをビルマに移動させることは、1月19日にビルマ軍司令部からの要請でウェーベル将軍が同意した【ウェーベルは中国軍をビルマ戦に参加させることに反対であったため、許可を取る必要があった?】。

 その2日後、彼は第49師団にも同意した。中国陸軍省は2月3日、第6軍の3個師団の最後のもの【第55師団?】を移動させる命令を出した。

 ビルマ軍総司令官T.J.ハットン中将は、総統【蒋介石】がインドを訪問した際にこの問題について協議し、合意に達した。1月31日、ハットンは第5軍がビルマに入ることの許可をウェーベルに要請し、2月3日に総統はこれに同意、2月28日に移動が開始された。ウェーベル将軍の行動は、チャーチルとルーズベルトの介入に先立つものであった。ルーズベルトは、ビルマ防衛に中国が参加することを政治的、行政的な問題で妨げることは許されないと考えた統合参謀本部に促され、自らチャーチルにこの問題を提起した。こうして、中国の第一次ビルマ作戦への参加が始まった。第93師団の到着は予期されていたため、その補給に支障はなかった。

 第49師団は何かと問題が多かったが、3月中旬には快適に宿営できるようになっていた。臨時第55師団は、第6軍の中で最後に到着した新しい部隊で、統率が悪く、装備も貧弱で、訓練も不十分だった。
『Stilwell's Mission to China』P85

 3月6日の最初の会談で、総統はビルマで作戦する計画はないとはっきりと述べた。その後の会談で、彼はスティルウェルに自分の見解を明らかにしようとした。これらの会談で明らかになったのは、第5軍と第6軍が彼の持つ最高の部隊であり、彼らは日本軍を攻撃すべきではなく、もし彼らが日本軍に攻撃されて撃退したのであれば、攻撃に移ってもよい、と総統は考えているということであった。彼はイギリスに対する極度の不信感をあらわにした。より具体的には、総統は次のように述べたのである。「私の最終的な考えは、中国軍がマンダレーを防衛するべきなのであれば、サジ【ミイトキーナのすぐ東】を東西に貫く線を保持するということである。この場合でも、もしプロームから英軍が撤退すれば、その時は我々はマンダレーを中心としてミイトキーナからラシオに至る斜めの線を保持し、インドと中国の間の連絡線を途切れさせないように鉄道と幹線道路を守ることにする。」 翌日、彼はこう言った。「イギリス軍がプロームを保持する限りにおいて、我々はトングーを保持するのだ。」 

 戦術に関しても、総統はスティルウェルを厳しく制限した。スティルウェルは、部隊を約50マイル離して師団を縦に配置することになった。第5軍の第200師団は、イギリス軍がプロームを保持する限り、トングーに留まることになっていた。第6軍はシャン州を頑として保持する。第5軍の残りの2個師団は、補給が十分に整えられた時点でビルマに入り、マンダレーまで前進することになっていた。防御が繰り返し要求され、警告されていたにもかかわらず、スティルウェルはラングーン奪還のための攻勢を主張した。スティルウェルの心には、3つのことが渦巻いていた。すなわち、インドへのルートをカバーするためにビルマ北部を保持すること以外の総統の禁止令と、おそらく5月15日ごろから始まるであろうモンスーンの雨の接近と、マンダレーから北側のビルマの地形(マンダレーのすぐ東の平原から急峻な断崖が劇的にそびえ立っている)である。スティルウェルのビルマにおける作戦意図は、ラングーン奪還を目指すことであった。なぜなら彼は、日本軍は実際には弱いのではないかと思い、大胆な作戦が大きな利益を生むかもしれないと考えたからである。この計画が失敗した場合には、中国軍は北方へ後退し、マンダレー東方の高地に陣取り、日本軍の北上に対して側面からの脅威を与えればよい。モンスーンの雨は、日本の任務を非常に複雑にすると予想された。
『Stilwell's Mission to China』P97

 スティルウェルの説得により、総統は戦術に関する制限をいくらか緩和した。緊急時には第5軍第22師団が第5軍第200師団をトングーで助けるかもしれないが、第5軍第96師団はマンダレーに留まる。総統の態度は極度に防御的であり、アレクサンダー将軍【英印軍】を支援するのは緊急時にのみだった。さらに3個師団(第66軍)が約束され、うち1個師団はマンダレーに、2個師団は国境に留まることになっていた。総統は、日本軍1個師団に対抗するには中国軍3個師団が必要であり、日本軍の攻勢時には中国軍5個師団が必要であると見ていた。
『Stilwell's Mission to China』P99


 最後の1:3とか1:5の比率ですが、中国軍の1個師団は他国の1個連隊相当なので、実際には1:1とか1:1.5くらいの比率かとも思われます。ウォーゲームの種類によっては1:1なら攻撃側はビシバシやっても大丈夫、というようなものもありますが、OCSや『激マン』シリーズなんかは4:1か5:1の戦闘比は欲しいところなので、そっちの感覚でなら理解できる気はします。



 この『Stilwell's Mission to China』のP103以降には、この後の中国軍の動きも書かれているようでしたが、とりあえず今回はこの辺で。戦史叢書とかでも書かれているかもですが……。


<2023/10/16追記>

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、日本軍側の諜報による中国軍の初動についての記述がありましたので、追記しておきます。2月中旬頃までに南方軍が入手していた情報だそうです。

2 蔣軍の入緬状況
(1) 滇緬公路【ビルマ公路のこと】方面
 ビルマ進入を企図しある蔣軍は第5、第6軍にして、第200師(第5軍)は12月27日下関(筆者注 龍陵東北方200粁)を通過せるが如く、新編第22師(第5軍)も移動中にして、2月上旬ビルマに進入せしものの如く、第49師(第6軍)は2月15日ラシオに在るが如し。
 第5軍長は2月10日には未だ昆明に在りたること確実なるも、既に移動を開始し、2月15日第6軍長、第49師長とラシオにおいて会見しあり。現在ラシオ附近に集中しありと判断せらるる蔣軍兵力は第5軍の第200師、新編第22師、第6軍の第49師にして合計2万6千乃至3万にして、近く増加し或は既に到着しあらんと判断せらるるもの第96師(第5軍)暫編第55師(第6軍)計1万8千乃至2万、総計4万4千乃至5万なり。
(以上A情報、確度甲)(筆者注 A情報は無線諜報)
 マンダレーよりの帰還住民報によれば、ラシオより鉄道によりマンダレー附近に南下し、其の一部はトングー附近に進出しあるが如し。(確度甲)

(2) ケンタン方面
 A情報によれば、第93師(第6軍)は2月11日既にケンタン附近に到着しあり。
 其の師部(筆者注 師団司令部)はケンタン附近に、第277団はモンパヤック附近、第278団はミヤウンダ附近、第279団はロイムイ附近に在り。
 筆者注 以上いずれもケンタン州の北部タイ国境方面

『ビルマ攻略作戦』P168,9



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の工兵部隊について

 承前。ビルマ戦緒戦での日本軍の工兵部隊について調べてみました。

 資料としては、奈良県立図書情報館でコピーしてきました、

『独立工兵第二十連隊戦史』(こちらは第15軍麾下の独立部隊)
『工兵第三十三聯隊戦記』(こちらは第33師団隷下の師団所属部隊)

 がありましたので、それで。


 独立工兵なんですが、資料を読んでいると後方での橋梁修理(敵が爆破していったやつとかを)が主で、まれに敵が来て防御戦をやったりしたようですが、基本的には後方での行動が主だと思えました。で、例えばOCS『The Third Winter』なんかはドニエプル川渡河がメインテーマでもありますし「橋梁爆破」と「橋梁修理」がかなりルールに盛り込まれているのですが、『South Burma』(仮)においてはできるだけ特別ルールは少なくしたいですし、現状では独立工兵をユニット化する必要はないかと思えました。


 それに対して師団所属の工兵の方ですが、こちらは敵前で渡河して架橋作業とが主で、時には敵が列車で逃げるのを爆破して列車内に突っ込んで戦闘とか、敵戦車が出てくると工兵の中から戦車攻撃班(地雷による対戦車攻撃の訓練を受けてきていた)が突っ込むとか、そういうことをしていたようです。

 そうするといくらか戦闘力は持っていてもいいかとは思われますが、しかし最低限の戦力ではあるべきでしょう。

 実は、OCS『Burma II』では日本軍の工兵大隊は歩兵大隊とまったく同じ戦力やアクションレーティングを持っていたりしたのですが、あれは通常スケールで各大隊が2戦力(移動モードで1戦力)なので、工兵をユニット化するならそのレーティングにしなければしょうがない、という側面があったのでしょう。しかし『South Burma』(仮)は3倍スケールで歩兵大隊は6とか7戦力を持っているので、工兵大隊の戦力は下げてもいいと思います。

 これまでは頭が『Burma II』に引っ張られていた感もあり、『South Burma』(仮)の師団所属工兵大隊は3戦力(移動モードで2戦力)としていたのですが、下げて2戦力(移動モードで1戦力)にしてみようと思います。1の0にするとか、(1)の(0)にするという案もあり得ますけども、戦力が低すぎると今度は工兵ユニットを守るために歩兵大隊がそこにスタックしなければならない、という本末転倒なことも起こったりしますし。


unit8518.jpg



 工兵ユニットのゲーム上での活用方法について考えてみたんですが、OCSでは架橋能力(戦闘モードで川に隣接するだけでOK)で河川ヘクスサイドの移動力コストを減少させることができ、また通常は橋なしでは渡河できない自動車化タイプや装軌タイプのユニットを攻撃可能にすることはできますが、戦闘において有利な修正を得られることはありません。なので、日本軍プレイヤーはどちらかというと、工兵能力を使うよりは戦闘ユニットとして使ってしまうんじゃないでしょうか……。

 ただ、架橋によって大河川(徒歩で移動力All)を小河川(徒歩で移動力+1)にするというのは、司令部の支給範囲が普通なら大河川で止まってしまうのを+1だけにしてしまうので、そこが一番でかいのではないかと思いました(『South Burma』(仮)の日本軍の司令部は『Burma II』と同様、徒歩移動コストで支給範囲を伸ばします)。



 あと今回考えたのは、大河川を渡るには工兵部隊や、舟艇をかき集めてくることが必要で、その量によって1日の間に渡れる兵士数に限界があった(特に最前線では)ようなので、そこらへん制限するべきだったりするかな? ということでした。

 例えば「1つの大河川(どのように繋がっていても)を架橋能力なしで移動できるユニットは、1フェイズに1個までに制限される。この制限には戦闘後前進も含まれる。」とか……。でもまあ、ルールは少ない方がいいですから、どうしても必要そうなら入れるとしても、そうでもないなら勿論入れないということで。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン陥落あたりまでの第15軍麾下の独立部隊について

 現状ではOCS『South Burma』(仮)の日本軍側は、第55師団と第33師団隷下の部隊しかユニット化していないのですが、第15軍【ビルマ作戦の軍】麾下の独立部隊もいくらかあったようです。

 ゲーム中の最初の10ターンくらいはそれらは出てこない(ような)のですが、シッタン川を渡る頃(第13ターン頃)には、前線の部隊としていくらか記述が出てき始めます。そこで、それら独立部隊の投入予定に関する記述を戦史叢書『ビルマ攻略作戦』からまとめてみようと思います(ただし今回はラングーン陥落あたりまで。ラングーン陥落後はまた、結構独立部隊が投入されるようです)。


 ただし、OCSでは高射砲部隊なんかはユニット化されないのが通例ですし、他のウォーゲームでも通常ユニット化はされない輜重部隊は通信部隊なんかの情報もあるので、ユニット化されそうなものだけを抜き書きしていきます。
(「独立自動車第○○大隊/中隊」とかってのは、私は戦闘部隊かと思っていたのですが、今回調べてると兵站部隊の一覧の中にあったり、旧日本軍(陸軍)自動車第32連隊について、その役割や行動などが分かる資料を探している。から、輜重部隊なんだろうなと思いました。なので、今回のリストから抜きました)


 南方軍は、マレー作戦の予期以上の進展と同軍後続部隊の輸送状況などにかんがみ、第25軍【マレー作戦の軍】じ後の作戦に必ずしも必要としない部隊その他転用可能の兵力は、逐次第15軍方面にその輸送先を切りかえ、同軍の指揮下に入れた。
『ビルマ攻略作戦』P98


 以下、抜き書きします。

1月15日の南方軍命令による転用
 独立工兵第4連隊(甲) (第25軍から)

1月18日の南方軍命令による転用
 独立速射砲第11中隊 (第25軍から)(カムラン【ベトナム南中部?】)
 戦車第2連隊軽戦車中隊 (同右)(カムラン)
 独立工兵第20連隊(甲) (同右)(カムラン)
 独立工兵第26連隊の1中隊(2小欠) (川口支隊から)(ボルネオ)

2月14日の南方軍命令による転用
 独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)(インドシナ)

3月3日の南方軍命令による転用
 独立工兵第14連隊(丁)(1中欠) (本部、1中隊は第16軍から。1中隊は第25軍から)
 独立工兵第26連隊(丁)(1中欠) (1中隊は第16軍から。本部、1中隊は第25軍から)



 「独立工兵」部隊というのが情報的に多めです。幸いにして、↑のうちの独立工兵第20連隊の戦記『独立工兵第二十連隊戦史』の第1編と第2編を奈良県立図書情報館でコピーできており、他の独立工兵部隊の話も含めていくらか情報がありそうなので、別にブログ記事を設けて検討することにしようと思います(他に今回出てくる独立工兵部隊が蔵書にないか検索してみたのですが、ないようでした)。

 独立工兵部隊以外は、↑では3つだけですね。



 さらに、シッタン川橋梁が爆破され、シッタン川西岸からラングーンへと向かおうとする時点での第15軍命令から(P165。カタカナをひらがなに直します)。

 第55師団(川島支隊欠、戦車第2連隊軽戦車中隊、独立速射砲第11中隊、渡河材料第10中隊の一部属)は主力を以て3月3日夜「シッタン」河の渡河を開始し所在の敵を撃破しつつ其の作戦地域を先つ「ペグー」南方地区に向ひ前進すへし


 ここに、先ほどの記述独立工兵以外の3つのうち、2つが出てきています。


 この2つの部隊のユニットをとりあえず作ってみました(速射砲というのは対戦車砲のことだそうです)。


unit8520.jpg

 「戦車第2連隊軽戦車中隊」ですが、『戦車第十四聯隊戦記』P164によれば「戦車第2連隊第1中隊(九五式軽戦車装備)」です。

 タイから陸路進攻した戦車第2聯隊第1中隊 (九五式軽戦車装備)がワウ(ペグー東北方)でM3【スチュワート】軽戦車と遭遇し、その火力装甲防護力の格差から、苦闘の結果、中隊長の指揮する1コ小隊が全滅し、続いて進出してきた独立速射砲中隊も全く歯が立たず、その全火砲を蹂躙された。M3軽戦車は、ビルマ戦線の日本軍にとって最新最大の脅威になっていた。
 聯隊は、ろ獲したM3軽戦車1両を入手し、これを撃破するための研究訓練に早速取り組んだ。M3軽戦車は、アメリカ製で、その火砲は、わが九五式軽戦車と同口径の37ミリであるが、貫徹威力は著しく優れ、その装甲厚は表面硬化された10~50ミリもあり、わが徹甲弾をピンポンの球のように跳ね返し、その機動力は空冷星型エンジン (航空機用)とゴムパットを着けたキャタピラにより最高時速57キロを出しうるものである。彼我の技術、性能の差が歴然としていた。このM3軽戦車に対して、どこに勝目を見出すのかが緊急な問題となった。一応の結論は、M3軽戦車の戦力発揮が困難な地域(錯雑地)に誘致し、不意にその側背、至近距離に進出し、軌道部、砲塔回転部等を砲撃し、機動力と戦車砲火力を封ずることであった。
『戦車第十四聯隊戦記』P164




 この時日本軍がやられたイギリス第7機甲旅団の戦車部隊ユニットは、現状↓のようにユニット化しています。

unit8519.jpg


 ユニット上の総戦力では、英印軍は戦車2個大隊(12戦力)、日本軍は戦車と対戦車砲の2個中隊(4戦力)なので、そこらへんの問題でやられてしまったのだという解釈も成り立つかもとは思いますが、どうなんでしょう(^_^; また、日本軍は戦車中隊全部がやられたわけではなく、1個小隊が全滅です(対戦車中隊は全滅(T_T))。

 日本軍の戦車中隊のアクションレーティングですが、もしかしたら2もありかもですが、3はあって欲しい/あったんじゃないかという願望込みで3に(3は普通、2は劣るというレーティングです)。イギリス軍の第7機甲旅団は北アフリカ戦での歴戦の部隊であり、アクションレーティングは5はないとしても4は確実にあると思われるので、その4と3の差と戦力差でやられたという感じで……。

 またOCSの兵科マーク的に、イギリス軍戦車ユニットは日本軍戦車ユニットに対して平地で2倍の攻撃力を持ちますが、日本軍が攻撃側に回った時には1.5倍にしかなりません(防御時は両軍とも×1倍)。一方で、日本軍の軽戦車中隊が例えばインド人部隊に攻撃をかけた場合には攻撃力2倍になります。





 日本軍の独立速射砲第11中隊ですが、37ミリ砲装備だったそうです(『ビルマ攻略作戦』P167)。

 『第2次大戦事典②兵器・人名』P59によると、「94式37ミリ速射砲【……】の徹甲能力は極めて低いものであったが、ほかに高性能の対戦車砲がなかったため、ないよりましといった存在であった。」とあったので、そこらへんの性能的な劣勢から、アクションレーティングを2としてみました(1でも良いくらい?)。

 日本語版Wikipedia「九四式三十七粍砲」によれば、「運動性は繋駕(馬にひかせる)、駄載(馬にのせる)もしくは人力牽引とし」とあるので、徒歩移動タイプにしてみました(移動力が2の4であるのは適当です(^_^;)。




 あと、「独立混成第21旅団砲兵隊 (第21師団から)」というのもありますが、編制・編成が全然分かりませんし、今後また何か記述が見つかったら考えるということで……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第55師団隷下であった、宇野支隊と沖支隊の登場ヘクス

 OCS『South Burma』(仮)ですが、最初に出てくる日本軍の第55師団は、かなり細切れに登場します。



unit8522.jpg

 ↑のうち、初期配置で置かれるのは、第112連隊の第1、第2大隊と、第55捜索連隊(実質は大隊規模)のみです。



 ↓現状の初期配置。エントリーヘクスAのあたりに日本軍がいます。

unit8521.jpg



 残りの歩兵大隊4つは、ゲーム開始時期の少し前から、マップ南端よりも南のテナセリウムと呼ばれる地域で戦闘行動をしていました。


 第143連隊(第1、第2、第3大隊)は連隊長の名前から宇野支隊と呼ばれ、ゲーム開始時期より割と前に戦闘行動を終えていました。そして第3大隊をビクトリアポイント(テナセリウム南部)に残置していったんタイに戻っており、ゲームを開始してすぐ後に第1、第2大隊はエントリーヘクスAから出てきます。第3大隊はかなり後になってからテナセリウム地域を北上し、エントリーエリアBから出てきます。

宇野支隊
 1-143-55 1月22日ターン(第2ターン)にエントリーヘクスAから
 2-143-55 1月26日ターン(第3ターン)にエントリーヘクスAから
 3-143-55 2月26日ターン(第12ターン)にエントリーヘクスBから

(↑は現状の設定であり、変更の可能性はありまくります)



 残りの第112連隊第3大隊は沖支隊と呼ばれ、2月1日にモールメンに到達したと諸資料にあります。

 で、この3-112-55が、エントリーヘクスAとB、どちらから出てくるべきなのかなのですが、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』では本文や付図からするとBから出てくるように思えます。しかし、ちょっと前に聯隊戦記などの資料を複数入手して読んでいた時期に、沖支隊はいったんタイ国内に戻ってエントリーヘクスAから出てくるべきと思える様な記述を2箇所で見て「これは確定だな。Aからということにして、その出典やページ数は書かないでいいや」と思ったのでした。

 しかし、出典とページ数を書かないでおいたことをその後、後悔してまして、今回そこらへん確定させようと思って記述を探してみました。そしたら、Bであるべきだという記述を見つけてしまいましたバキッ!!☆/(x_x)

 沖支隊は1月26日タボイ【テナセリウム中部の海岸沿いの町】発、海岸道を北進、2月1日モールメンに進出して師団長の隷下に復帰した。
『歩兵㐧百四十三聯隊史』P78



 まあ、ある意味良かったんですが、しかし出典とページ数を書いておくというのは、後で確認するためにもやっぱりやっとかないとダメだと改めて痛感しました。ただ、ある程度の内容だとブログに書いておくかとなるんですが、細かいことだと「ブログに書くほどでもないか……じゃあメモって置かないでいいか」となりがちです。

 しかし、細かいことでもやはりブログに書いておいた方が良い感じなので、今後そういうことで……(^_^;
(メモっておけば良いじゃないかというご意見もあると思いますけども、メモはメモで訳分からなくなりがちで、ブログというのはそこらへん便利なんですよね。たまたまですが、このFC2ブログはブログ内検索ができることもあり)


 以前Aだと思ったのはなぜなのか、宇野支隊とこんがらがったのかのかもとは思いますが、あるいは、Aであるべきだという記述がやはりどこかにあったのかもです。それらももし見つけたら、追記しようと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:迂回して一挙にラングーンを突くという作戦について

 前回に引き続いて、ラングーンへ突進するという作戦について。

 『歩兵第二百十四聯隊戦記』を読んでましたら、この作戦行動について結構印象的な記述があったので、引用し検討してみたいと思います。


unit8523.jpg


 【第33】師団は3月25日【ママ。2月25日の間違いと思われます】各部隊長をメヨンガル(シッタン東南方4キロ)の司令部に集め、ラングーン攻略に関する作戦方針を示した。
 すなわち、まず政戦略上の要地である首都ラングーンを奪取した後、北進して決戦を指導しようとするものであった。
 というのも、泰緬国境を越えるとき、すでに多数の装備を残置し、さらにその後、数次の戦闘と急速な突進で、相当の損耗を来たしているにもかかわらず補給はなく、しかも、ラングーン攻略後は、北部ビルマ作戦を遂行しなければならないので、この際、万一の場合にも軍の兵站線を海路に求めうる戦略上の要求、ならびに、すみやかに英総督府の所在地を占領するという国際政治上の効果を考慮しての重要な決定であった。
 すなわち英印軍は最近、あらたにラングーンに上陸した精鋭戦車部隊第7機甲旅団を加え、これをペグー付近に進めて、日本軍の進撃を阻止しようとする態勢であり、また北方マンダレー方向からは中国第6軍がトングー付近に集結し南下の情勢にあった。この敵両軍の間の、15キロの間を抜けて、一挙にラングーンに殺到することは、いわば戦略的挺進奇襲であり、きわめて放胆な戦略であった。
 ペグーの敵には第55師団が当たることとなり、【第33】師団は一路ラングーンに挺進、一挙に敵の指揮中枢戦略基地を占領することとなった。いま考えてもぞっとするほどの作戦計画であった。
 というのは、もし敵がラングーンまたはその周辺で2~3日の抵抗でもしたならば、【第33】師団の後方はペグー、トングーの敵に断たれ、しかも新鋭第7機甲旅団に引っ掻き回される羽目になるのは明らかであったからだ。いわんやラングーンの配備状況はまったく不明であるばかりでなく、第7機甲旅団の増援に続いて、英国はさらに有力部隊を上陸させて、あくまでもラングーンを確保しようとするかもしれなかったのだから、状況不明と錯誤の交錯するなかで、この放胆な作戦を決定する原動力となった第33師団長桜井中将の卓抜さは高く評価されるべきであろう。
 さらには、「敵にかまうな、この際ほしいのはラングーンという港だ。敵の指揮中枢だ。戦略要地だ」と徹底した作戦目的を確立したことが、敵の過早退却と相まって師団の作戦を成功に導いたのである。チャーチルはラングーン喪失後のことをその回顧録で次のように述べている。「ラングーンの失陥はビルマの喪失を意味した。したがってアレキサンダー大将に援軍を送る望みはまったくなかった。上陸させる港がなかったからである」と。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P318


 なかなかに燃える文章ではあるんですが、(無意識の?)誇張はあると思います。

 「15キロの間を抜けて」という文ですが、上の画像の1ヘクスは約8kmで、つまり2ヘクスくらいに相当しますが、中国軍と英印軍の間が15キロということはないかな、と。

 英印軍の部隊は画像の「3/4」とある辺りにもいたようですが、中国軍がいたというトングーは画像の北端から13ヘクス程度北にあり、いくらか南下していたとしてもそれほど英印軍と接近はしていなかったのではないかと(今のところ)思います。

 「15キロ」というのは、第214連隊と第215連隊の間の距離がそれぐらいで並進した、ということなら理解できる気がします。


 この時点での中国国民党軍の脅威について、まだ全然調べられていないのですが、今のところの印象ではそれほどでもなかったのではないかという感じで思っています。ただ、当時日本軍側は脅威に思っていたというのは確かなのでしょうし、またゲーム上でも「中国軍の脅威」はある程度あった方が良いでしょうね。


 当時の英印軍側は、「日本軍の次の狙いは、ペグーを押さえることだろう」と考え、またペグー周辺の地形は戦車戦に向いているため、第7機甲旅団をそこに差し向けて日本軍に大ダメージを与えることを狙いました。実際それは最もありそうなことだったと思いますが、史実の日本軍はある意味「その裏をかいた」わけで、そしてゲームをプレイする現代の我々は、それを知っているわけです(ウォーゲームにおいては良くあることですが!)。


<2023/10/24追記>

 陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでましたら、この時期の英印軍側(ウェーヴェル将軍)の考え方について書かれてましたので、引用してみます。

 ウェーベル大将は、シッタン河以北にはまだ大なる日本軍がいないこと、第7機甲旅団がまだ無傷であり、また、中国軍がトングーに向けて南下中である状況を確認した。同大将はビルマに来る途中、もしラングーンの撤退が必要となれば、イラワジ河下流を越え、東方の中国軍と連接して一連の戦線を構成することが必要であり、そのため、なるべく多くの部隊が必要であると考えていた。そこで、早速さきにハートレー大将が【カルカッタに反転せよと】回航処置を認可した第63旅団と砲兵1個連隊を、再度ラングーンに向けるよう手配し直した。
 それとともに、これらの増援部隊が到着するまではラングーンを確保しようと決心し、そのためには単に防勢をとるだけでなく、時をかせぐため日本軍に一撃を加えるべく、ペグー方面で攻勢をとれとハットン中将に命じた。
『ビルマ進攻作戦』P80,1


 また、同書にはトングー方面から英印軍が日本軍を圧迫しており、日本軍の側面防御部隊がそれを撃退していたことが書かれていました。もし日本軍側が撃退できなかったら、苦境に陥るわけですね。

川島支隊の右翼掩護 軍直轄で作戦を命ぜられた川島支隊は、軍主力の渡河に先立ち、3月2日夜クンゼイク北方でシッタン河を渡って前進し、3月4日にダイクを占領した。その後、北方からしばし英印軍の攻撃を受けたが、支隊はそのつどこれを撃退し、軍主力のラングーン作戦間、ダイク付近の陣地を確保してその右側背を安全にした。
『ビルマ進攻作戦』P82



<追記ここまで>



 英印軍プレイヤーは当然、ペグー北東のジャングル地帯の、少なくとも道路の結節点や小河川の南側には警戒部隊を置くことでしょうね。ただまあ、日本軍側はペグーの南側を迂回していくという方法もあるかもしれませんし、逆に全力でペグーを包囲・攻撃するというような作戦もありかもです。

 英印軍プレイヤーがラングーン周辺で半周防御のようなことをした場合は……どうなるんでしょう。確かに結構やっかいかもしれません。



 あと、ペグー北東のジャングル(「ペグー山系」と呼ぶようです)についてですが、今回見つけた記述には↓のようにありました。

 【第215】聯隊は休息をとることなく急進撃を続行した。夜明けまでにペグー山系内に潜入しなければならない。幸いにも、【3月4日の】この朝は低い霧があり、延々と続くこの大部隊は、敵機に発見されることなく平原を踏破し、山系内の樹林下に入ることができた。
 その後、聯隊は作間聯隊【第214連隊】と並列した形で、ペグー山系内の密林を南下していった。高い山はないが、起伏の多い広大なジャングル地帯であり、昼間は敵機の眼をのがれて樹間に仮眠し、夜間は南へ南へと行進する。歩く歩く、ただ南をめざして、汗と砂塵にまみれてひたすら歩きつづけた。シッタン出発以来、夜行軍の連続であり。【ママ】睡眠不足と疲労とは大なるものがあった。しかし、ただ「ラングーン占領」、これが、苦痛に耐える合言葉であった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P159

 【第214】聯隊の行軍速度、とくに縦隊の先頭をきた第3大隊尖兵中隊長の進路選定のよさが賞賛されるべきであろう。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P319


 これらを見ていると、やはりずっとジャングル地帯であったようで、また進路は、少なくとも大きな地図には表示されていないようなものをある程度以上進んでいったような印象を受けました。(ただし、シッタン川西岸地域についてはずっと平地でも良さそうで、そのように修正しようと思います)


 第33師団の部隊のこの進撃の速さについては、どうも何らかの特別ルールは必要なのかも、という気が現状してます。しかしどのようなルールにしたものか……。「2ターンの間、予備モードによる移動力増加を、1/4ではなく、全移動力にできる」とか……? あんまりうまそうな気はしませんけど。


 また、別件になりますが、「シッタン川橋梁の爆破」に関するルールは必要だろうと思っていたのですが、前回、今回と調べてみていて、「爆破のルールはなしにした方が、最終的なタイムスケジュールがうまくいくのではなかろうか」という気がしてます。もしそれでうまくいきそうなら、特別ルールは少ない方が良いですし……(^_^;

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ラングーン攻略までの3月3日~8日の経路

 資料を読んでましたら、第214連隊のラングーン攻略までの3月3日~8日の経路について割と詳しい地図があるのに気付いたので、他の資料とも合わせて地図を作ってみました。



 ↓赤色が第214連隊、オレンジ色が第215連隊の進路。矢印や文字は、元の資料ほぼそのままの位置に置いてあります(厳密にどういう意味合いか分からないのですが)。

unit8524.jpg

 第214連隊の経路は、『歩兵第二百十四聯隊戦記』P261から。第215連隊の経路は、『歩兵第二一五聯隊戦記』P153からですが、こちらは割と小さい地図なので、『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』や『Japanese Conquest of Burma 1942』の地図により近づけてあります。

(また、資料には良く出てくる「Pyinkadogon」という地名なのですが、詳しい地図資料には全然出てこず、当時の道路沿いになかったのか、位置が良く分かりません。とりあえず、https://www.tageo.com/index-e-bm-v-09-d-m638858.htmという検索結果の画像を重ねて、その位置に置いてみました)



 出発地にあたるシッタン川東岸に日本軍が突入し、英印軍によってシッタン橋梁が爆破されたのが2月23日の朝でした。

 日本軍はその後、東岸での掃討戦や戦利品の確保、そしてシッタン川の渡河のための作業をやったようですが、シッタン川西岸からの作戦を開始したのが3月3日だったようです。つまりその間、戦線としてはほぼ動きがなかったことになります。

 OCSのターン的には、

2月22日ターン(22~25日) シッタン橋梁爆破
2月26日ターン(26~28日)
3月1日ターン(1~4日) シッタン河西岸から進撃開始

 となるので、丸1ターンくらい掃討戦をやったらちょうどのタイムスケジュールでしょうか。


 で、

3月1日ターン(1~4日) シッタン河西岸から進撃開始
3月5日ターン(5~7日)
3月8日ターン(8~11日) ラングーン突入、占領

 と史実ではなるのですが、かなり早い移動であり、しかも地図に出てくるような道路を通ってない部分が結構あると思うのです。


 現状、両連隊の移動力は↓のようなものなのですが……(歩兵としては破格ですが、AR5の歩兵部隊としてこのような移動力設定はOCSの東部戦線ものにも出てくるので、OCSの枠を出ているとは言えません)。

unit8525.jpg


 仮に、ジャングルは日本軍だけは2(英印軍は3)移動力コストという今の設定で、第214連隊の先ほどの地図の移動コストを数えてみた場合……(シッタン川西岸から移動開始として)。

3月3日 2
3月4日 6
 (3月1日ターンは8移動力)

3月5日 7
3月6日 6
3月7日 4
 (3月5日ターンは17移動力)

3月8日 4
 (ここまでの総計は29移動力)

 となります。いやいや、1ターンで17移動力とか、どうすれば!


 第215連隊は日ごとやターンごとは分かりませんが、総計では25移動力となりますから、途中少し小道を通るとはいえ、第214連隊とそれほどは変わりません。


 OCSにおける移動力を増大させる方法として、予備モードになって許容移動力の1/4をプラスする方法はありますが、焼け石に水です。戦略移動モードになれば倍の12移動力になれますが、戦力0、AR0になります。うーんでも、司令部をシッタン川西岸におけば、最初の1ターンくらいはありかも……(2ターン目はどうかな……)。


 まあ、史実と同じ経路を通らなければならないこともないですし、現状ジャングルにしてあるヘクスを適当に平地にしたり、小道を増やす(例えば、後世の地図では道路がある場所など)などの方法もあり得ます。


 あるいは、史実でシッタン川東岸で丸1ターンほど止まっていたターンからシッタン川西岸にゲーム上では渡れて、史実でラングーンに入った3月8日ターンはよほど運が良くないと無理でも、3月12日ターンにはまあうまくいけば入れる……くらいでもいいのかもしれません。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、1942年1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について書かれていたので、地図を作りました。併せて引用して残しておきます。


 ↓青色が国民党軍で、実線が1月下旬の動き。点線は2月初旬に合意した動き。赤色は英印軍。

unit8526.jpg





 ハットン中将は、右のように、インドからの増援を要求したが、それと同時に中国に対しても増援を要望していた。
 当初ハットン中将の受けていた訓令は、中国第6軍の第93師以外の部隊は極東軍総司令部の許可なくビルマに使用してはならぬということであった。
 そして、1月初め、同師の1コ連隊がメコン河の線に進出し、また同師の主力がビルマのシャン州に進出して同方面の防衛に当たるよう処置されたが、1月20日、ハットン中将はウェーベル大将に対し、タイ国の北西国境の防衛にあてるため、さらに次の1コ師を使用する許可を求め、その認可をとりつけた。
 これにより、ハットン中将は、中国の第49師をラシオを経て南シヤン州に進出させ、タカオ付近サルウィン河東方地区を防衛するように処置するとともに、中国第55師をワンチン(雲南とビルマの境にある町)まで前進させて、訓練および装備を完了させることにした。
 ハットン中将は以上の処置を行なうとともに、中国第49師の主力がタカオ付近に進出するに伴い、それまでケンタン、モンパン地区にあった第1ビルマ旅団の主力をへホおよびロイレム地区に移動させ、また第13旅団をパプン付近で第17師団と連接させるため、トングー東方ボーレイク地区に移動するよう命令した。
 第48旅団は1月31日ラングーンに到着、軍予備としての再訓練を行ないながら重隊の到着を待った。
 中国軍は輜重部隊も衛生部隊も持たなかった。かれらは後方からの補給にたよらず、つねに現地補給を本則とした。
『ビルマ攻略作戦』P155,6


 ↑最後の一文は、OCS的には困った感じですね……。日本軍でさえ、一応後方からの補給はいくばくか受けて戦っていたのに、中国軍は後方輜重なし!? 「中国軍は負傷者は現地に全部置き去りにする」というのは今までにも読んでいたんですが……。


 以上の間、ハットン中将は2月3日ラシオで蒋介石総統と会見したが、この時同総統は、中国軍をハットン中将の指揮下に入れることを明言し、第6軍をもってすみやかに北部泰緬国境の防衛を引き継がせ、かつ、第22、第96および第200師から成る第5軍をビルマ公路防衛のためトングー地区に進出させることに同意した。
 右により、第6軍の第49および第93の両師を依然シャン州にとどめ、第55師をトングー東方カレン山中の国境防衛のためワンチンから南下させる協定ができた。
『ビルマ攻略作戦』P157


 中国第5軍がどこから来るのか(第6軍と同じ場所からか、あるいはビルマ公路からとか)とかは、私はまだ良く分かってません。一応『South Burma』(仮)上でもキャンペーンシナリオ上ではそこらへんは必要な情報になってきますから、今後分かったらまた追記していこうと思います。


 あと、英印軍(「英連邦軍」という呼び方よりも「英印軍」の方が良いかのようなので、今後この呼び方で)の第1ビルマ旅団は、ある資料地図では『South Burma』(仮)の初期配置時にはトングー南方にいたかのように描かれていたので、とりあえず初期配置に置いて「移動不可」にしてあったのですが、少なくともその主力はもっと北方にいたようですね。そこらへんまた、今後調整で。


<2023/10/13追記>

 ミト王子さんにコメントいただきました! 参考になります。大変ありがとうございます<(_ _)>

 ルールとしては、中国軍が米どころにいるならば……とか、わずかながらもいくらかは補給があったならば、日本軍と同様に1Tで10ユニットに一般補給できるという風にするとかいう案もありかもなのです。

 こちらに引用追記しておきますね。

 中国遠征軍は第5軍、第6軍、第66軍、直轄部隊がありますが、手元の「抗日戦争図誌」からの複写と思われる(昔過ぎて記憶が曖昧)紙片によると、中国軍増援方向という矢印が昆明から2本出ているので出所は昆明で良いと思います。
 簡単な図で矢印がどの部隊を指しているのかは記載がありませんが、1本は保山を経てビルマ深くまで侵入し、もう1本はやや南寄りルートで保山までしか延びていません。
https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BF%9C%E5%BE%81%E5%86%9B
 でも昆明からビルマ公路を経てビルマに出てきているので地図のマップの範囲にもよりますが左翼防御の第6軍も大元は昆明だったのでしょう。。


 大雑把な資料ですが「民国軍事史略稿」によると中国軍の1939年型編制だと軍に1個の輜重営がありますが師にはないようです。これは支那事変緒戦の損害による再編が原因と考えられます。
 1940年型編制だと軍に1個輜重営がある他、師にも1個輜重営が設けられています。
 衛生部隊である野戦医院は師に各1個、衛生隊は師に1個、団(連隊)にも各1個があったようです。(中国軍輜重営は、稀に第3連として自動車中隊がある)
 
 「陳誠先生従軍史料選輯 整軍紀要」によれば、輜重営(大隊)は基本的に2個連(中隊)からなり、各連は将校6、下士官兵210、駄輓馬127、輜重車66。

 日本軍師団の輜重兵連隊は任務によってかなり異なり2~6個中隊からなりますが、輓馬中隊1個が馬匹296、輜重車240(連隊本部の数を幾分含むか?)を持ちますから、馬匹で2倍、輜重車で4倍弱もの差があったことになります。
 中国軍には輜重車を約2倍上回る数の馬匹がいますから、2匹で輜重車を曳いたか駄馬で輸送力を補っていた可能性もあります。
 日本軍の基準では輓馬1匹で225kg、2匹450kg、駄馬1匹94kg、自動貨車1台1.5tの輸送力。
 中隊種別では輓馬中隊45t、駄馬中隊23t、自動車中隊45t。

 中国軍輜重連を上記基準で試算すると輜重車66×225kg+駄馬61×94kg≒20.6t。
 1個師が2個輜重連を持つと41t程度の輸送力になり日本軍の1個中隊程度です。
 日本軍師団の輜重兵連隊が多種多様の編制を持つとはいえ、多くは輓馬乃至自動車2~3個中隊ですから中国軍の輸送力はその1/2~1/3だったことになりますね。
 もっとも師団の規模が定数で2倍前後違うことも考慮の必要があります。

 日中共に現地調達を重視する軍隊ですが、ビルマ侵攻作戦での中国軍は昆明から1,400km以上のビルマ公路という長大な補給線になっていたことを考えると、やむを得ない点があるように思われます。
 陸戦史集「ビルマ進行作戦」でも、連合軍は米どころを放棄すると米を主食とする中国軍の補給を悪化させるという懸念をもっていたとの記載がありました。



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:最初の数ターンはうまくいく……今後の取り組み案

 OCS『South Burma』(仮)ですが、テストプレイで最初の数ターン(5~7ターン)はうまくいきそうだという感触が得られてきました。その後も、第11ターン(シッタン川の橋梁が爆破されたターン)あたりまでは何とかなるのではないかと思ってます。

 史実でラングーンが陥落したのは第16ターンなのですが、第12~第16ターンあたりがゲーム調整における次の難関かと思ってます。というのは、史実ではこの時期、両軍がペグー周辺で殴り合っている中、日本軍の第33師団がペグー~ラングーンの北西のジャングルの中を突っ切ってラングーンに突入したのですが、それがうまく再現できるのかどうか。ゲームなので史実通りになる必要はないのですが、史実通りの行動がまったく不可能だったらそれはそれで問題でしょうし、またゲームとしてそもそも面白いものに組み立てられるのかという……。

unit8529.jpg




 それから、1942年のビルマ戦の第2段階が、北側のフルマップ2枚上で20ターンかけて(たったの!)行われたわけですが、それが今の設定でうまくいくのかどうか。

unit8528.jpg




 第2段階では、今の移動力設定や、移動タイプ設定ではうまくいかない可能性が結構あるのではないかという危惧があり、しかしもちろん、1942年戦の分は一つの設定でもってうまくいかせなくてはならないですから、結局今の設定を改変した上で、最初の数ターンに関しても調整のやり直しという事態が考えられる……。

 それを考えると、あんまり最初の数ターンでガチガチにうまくいかせてもしょうがないわけですよね。あくまで暫定的なものにしておいて、全体を構築してから最終的な調整をすべきなのでしょう。


 なので、とりあえず最初期の調整については大体良いとして、今後は第2段階の終わりまでのユニットや配置の作業をしていくのが必要だと思われます。第2段階については非常におおまかなことしか私はまだ分かってません……。



 あと、マップ割についてなんですが、facebookで『South Burma』(仮)について書いた時、ある方から「東の方の山岳地帯は戦場になっておらず、主戦線は西側にあったのだから、北の方のマップはもっと西にずらして、L字型にするのが良いのではないか?」という意見をもらってました。

 基本的には実際その通りで、ただ、マップの一番北東あたりにあるラシオ(Lashio)と、そこに繋がる南からの道は入れておかないと思いますが、しかし6ヘクス程度は西にずらせるかと思います。一方で、ゲームの開始地点が一番南東にあるわけですが、良く考えるとそこの部分だけを追加のミニマップで提供する……というのでも良いのかなと(『Case Blue』で、スターリングラードの東側の追加ミニマップがあったりしました)。1945年戦も考えると、実は一番いらないのが、この南東の部分なのです(^_^;


 1945年のビルマ戦を重視すれば、マップはもっと北西方向に寄っているべきだと思われ、そこらへんまた今後考えていこうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:第46インド歩兵旅団の初期配置について

 第46インド歩兵旅団の初期配置について、かなり迷走しているのですが、考えをまとめるため&備忘録のため、ブログに書いておこうと思います。




unit8531.jpg




 ↓最初、および現状の初期配置場所(左上の2ユニット)

unit8530.jpg



 ところが、一時期はこの2ユニットを、Thaton(サトン)とBilin(ビリン)に初期配置することにしていたのでした。しかし、どうもそれは史実からするとだいぶやり過ぎ(無理)だったことに気付き、最初に設定していた状態にとりあえず戻しました。


 史実でこの部隊がどうであったかについて、引用しておきます。

【……】後者【第46旅団】はインドからビリン地区に移ってきたばかりで、輜重未着のため【1】月末まではビリンから動くことができない状態である。
『ビルマ攻略作戦』P154

 第46旅団は1月20日頃汽車にてビリンに輸送せられ、爾後サルウィン河(マルタバン及パアン対岸)の警備をなす。
『ビルマ攻略作戦』P168

第46インド歩兵旅団は、第16インド歩兵旅団の後方または北側に配置された。師団で最も古い旅団の一つで、1月末にビルマに到着した最初の増援部隊であった。第10バルーチ連隊第7大隊、第17ドグラ連隊第5大隊、第7グルカ連隊第3大隊の3個大隊からなる。第1大隊と第3大隊はインドから運ばれてきて輸送手段なしで下船し、輸送手段は1月30日まで到着しなかった。

1月16日、彼らはラングーンから鉄道で移動し、第17インド師団に合流した。その後、ビリン周辺への移動を命ぜられ、そこでKing's Own Yorkshire Light Infantry第2大隊と合流した。第17ドグラ連隊第5大隊は1月31日に到着し、翌日フニンパレ(Hninpale)地区【ビリンのすぐ南】で第46インド歩兵旅団司令部に合流した。そのM.T.【輸送手段? 輜重?】も後方に残された。旅団は経験の浅い部隊で構成され、それまで何度も何度もベテランを引き抜かれていた。個々の兵士の訓練は水準に達していなかった。新しい将校の流入と迅速な昇進は、経験豊富な将校にさらなる負担を強いていた。そのうえ訓練内容は、完了したら配属されるはずのイラク向けのものだった。ビルマに到着する前に、あと6ヶ月訓練を受ければ、はるかに優れた戦闘部隊になっていただろう。

この旅団の担当地域は、Kyauknyat、Kamamaung、Bilinで、Thaton方向へは小さな三角形の突起のようになっていた。司令部はビリンから3マイル南のフニンパレにあった。旅団の任務は、Papunを強力に保持することと、DagwinとKyauknyatのSalween川にかかるフェリーを保持することであった。第7ビルマ小銃大隊は、この目的のために一時的に旅団の下に配置された5。また、ビリン-サトンの道路をパトロールし、その地域の海からの接近を監視することになっていた。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』P120


 ↑この最後の、Papun保持のための任務というのは、ゲーム上では場所が離れすぎていて、この旅団のまとまりでやらせるのは無理という気がします(そもそも英連邦軍は師団や旅団隷下部隊の縛りが非常にゆるいですし)。


 現状の初期配置案では、戦闘モードでしか移動できないという制限を第3ターンまで付けてはいるものの、移動不可ではない、としています。第17ドグラ連隊第5大隊はラングーン港からプレイヤーが陸揚げし、その後恐らくプレイヤーが鉄道輸送で前線へ運ぶでしょう。

 しかし史実により忠実にするとすれば、ビリン地区周辺に数ヘクス以内自由配置で、その1月末まで(第4ターンまで)は移動不可、とした方がいいのかもしれません。その場合、第17ドグラ連隊第5大隊が1月29日ターン(第4ターン)にいきなりビリン地区に現れるべきなのでしょう。

 でも後者はどうにも、ゲーム的面白さに欠けるでしょうね……。前者は、やや史実からは逸脱するものの、ゲーム的面白さがあります。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:テストプレイでのモールメン、パアン周辺について

 OCS『South Burma』(仮)のVASSALでのテストプレイに、尼崎会のタエさんや富山のKさんに付き合っていただいてまして、大変ありがたいです。自分一人では気づけないでいた、色々重大な改善点が見つかってます(^_^;

 この土日はお二方とも多忙ということだったので、今までの知見を元にソロプレイをノロノロと進めてました。

 で、最初の重要な地理的目標であるモールメン、パアンあたりのことについて自分なりに考えてることを書いてみようと思います。


 ↓第4ターン(1月29日ターン)の日本軍移動フェイズ終了時。

unit8532.jpg




 最初の重要な考察点は、史実でモールメンが陥落した第4ターンに英連邦軍側がどうするのが良さそうか、だと思ってます。

 というのは、勝利条件として、史実より遅い第5ターン以降にモールメンが陥落した場合、英連邦軍側に勝利得点が入るようにしようと思っているからです(史実より早く陥落した場合、日本軍に勝利得点が入る)。

参考:OCS『South Burma』(仮)製作のために:前方(サルウィン川沿い)で防御すべきか、後方(シッタン川沿い)で防御すべきか (2023/03/21)



 ちなみに、日本軍が第3ターンにモールメンを陥落させるのは、英連邦軍側がモールメンをほぼ空にしたのでなければあり得ず、一方で第5ターンには日本軍の攻撃戦力が(戦闘モードになるなどして)かなり大きくなり陥落の可能性が高いはずです。そのように苦労して調整しました(^_^;


 英連邦軍側は、↓のような選択肢があるだろうと思います。

1.モールメンを守らずに明け渡す
2.第4ターンに防御撤退の方向で考える
3.第4ターンは固守し、第5ターン以降柔軟に

 1もなしではないと思います。というのは、2と3では無損害ということは難しいのに対し、1では無損害が可能だからです。ただしもちろん、勝利得点上は不利であり、また次の守備ラインであるマルタバン周辺は半島状に突き出ていて結構守備が難しいという問題があります。また、モールメンは中障害(Very Close)でかなり攻撃側に不利なので、そのような地形をあっさり明け渡すのかという話も……。


 個人的には、2が面白いと思ってます(ただし、私が「史実通りになった方が美しいよね」という思いに引っ張られているのも確かでしょう バキッ!!☆/(x_x))。というのは、第4ターンの日本軍は、モールメンの南東には戦闘モードで接敵できるのですが、北東では移動モードでしか接敵できないので、マルタバンにZOCを及ぼせないのです(上の画像でそうなっています)。


 OCSでは、

・敵ZOCに退却したらDG(混乱)になる。そしてそこに元いたユニットも全部DGになる。
・DGであったスタックが敵ZOCに退却したら1ステップロスする

 というルールがあるのですが、第4ターンにモールメンから戦闘結果によりマルタバンに退却する場合、

・モールメンのスタックがDGでない場合、マルタバンに退却する時にDGにならない
(マルタバンに日本軍ZOCが及んでいた場合、マルタバンに退却する時にDGになり、かつ元々マルタバンにいたユニットもすべてDGになる)
・モールメンのスタックがDGにさせられていても、マルタバンに退却する時にステップロスしない。
(マルタバンに日本軍ZOCが及んでいた場合は1ステップロスし、かつ元々マルタバンにいたユニットもすべてDGになる)

 という風に悪い影響を受けないで済みます。ところが3の選択肢の場合はおそらく、↑の()内のような悪い影響を受けまくるのです。


 しかも3の場合、モールメンのハイスタックを見て日本軍は第4ターンの攻略を諦め、(史実でもモールメン攻略後にしたように)マルタバン周辺への包囲環を作ろうとする可能性があると思ってます。結果として最悪の場合、モールメンとマルタバンに英連邦軍の数ユニットが閉じ込められ、壊滅させられるケースも……? そうなってしまう可能性はやや低めだとは思いますが、日本軍側にとっては恐らくそのパターンが「最高の結果」だろうとも思います。


 仮に2の選択肢を選択する場合、↓のようにするのが良いだろうと思います。

・可能な限り高いARのユニットを、モールメンで守備させてARを使用する。
(英連邦軍も、日本軍ほどではないですが結構補充でユニットが戻ってくるので、日本軍がなるべく高いARのユニットを攻撃せざるを得ないようにさせるべきです。そして、デッドパイルから補充してまた使うのです。また、ARが高い方が、ステップロスを食らわずに退却だけで済む可能性も高まります)
・自動車化タイプでしか移動させられないユニットをモールメンで守備させる場合、大河川をまたいで退却可能にさせるために、モールメンかマルタバンに戦闘モードの司令部を置いて、架橋しておく。
・現状のルール案では、3ユニット以上で守備している時に日本軍が戦闘後前進すると、「チャーチル給与」のダイス目に+2されるので、2ユニット以下で守備する。

 最高なのは、第4ターンに日本軍にモールメンを攻撃させて、それが失敗する、あるいは退却だけで済むというケースかと思います。




 それから、パアン(Pa-an)とラインブエ(Hlaingbwe)の守備ラインの話です。史実で英連邦軍は、最初このラインで防御線を引く予定でした。

 ところがこの防御ラインは、天然の防御ラインであるサルウィン川の向こう側にあり、「いやいや、サルウィン川の西側に防御ラインを作った方がはるかに有利ではないか。なぜわざわざ、川の向こう側に防御ラインを設けるのか?」と私は思ってました。

 ところがテストプレイ中をしていると、英連邦軍がサルウィン川の西側にのみとどまっていた場合、パアンの南東の地域で日本軍はユニットを戦略移動モード(戦力0、AR0になる)で置いたり、SPを載せた輸送ワゴン(防御力0)を守備隊なしで置いたりできるということが分かりました。

 ですからもし英連邦軍プレイヤーがパアンにユニットを置いたならば、日本軍プレイヤーはそのような戦力0のユニットを無防備でパアン南東に置けなくなり、その分移動が遅くなったり、守備隊を置かねばならなくなって手が縮こまることが見込めました。

 英連邦軍プレイヤーとしては、どちらかと言えば、パアンにユニットを置いて、日本軍に好き勝手されないようにした方が良いのではないかと思います。日本軍がラインブエ方向に進撃する可能性もあるのですが、その場合でも英連邦軍がサルウィン川西岸にしかユニットを置いていない時よりも、対応が容易ではないかとも……。


 現状では、ある程度面白いゲームになり得ているのではないかと思います。常に危惧しているのは「見落としている必勝法が存在してしまっているのではないか」ということです。これまでのテストプレイで、日本軍の騎兵ユニットが突進して英連邦軍の後方連絡線をカットしてしまうのが問題だということが認識できたので、マップ上で小河川や荒地や山岳を追加したり、騎兵ユニットを再建不能にしたりしました(^_^;


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR