fc2ブログ

OCS『South Burma』(仮)製作のために:サルウィン川沿いの防御ラインの守り方

 OCS『South Burma』(仮)のVASSALモジュールを作ることができ、テストプレイが行えるようになりました。

 最初の5ターン(モールメン占領あたりまで)を何回も繰り返していて、修正点は100以上になっただろう(>_<)と思うのですが、ようやく次の、サルウィン川沿いの防御ラインを日本軍が越える辺りまでプレイできるようになってきました。


 で、そこらへんに関する史実の記述を探してみました。すると、以前は読み飛ばしていたような内容が今度はかなり深く分かってくる気がしました。


 ↓現在のマップに、記述の内容を重ねてみたもの。

unit8534.jpg




英印軍の計画 日本軍2個師団の進撃を迎える英印第17師団の新防衛地域は、南はマルタバンから、北はサルウィン河畔のカママウンに至る約100キロの正面を持ち、奥行きはサルウィン河からシッタン河にわたる約130キロもあった。右翼を海岸に、左翼をダウナ山系に託し、海岸を底辺とする不斉三角形のかっこうをした地域である。
 遅滞陣地線としては、サルウィン河、ビリン河の二線があり、その中央に、ドンサミ河とマルタバン山系がほぼ東西に走って区画をつくり、陣地正面は西に行くほど狭くなった地形である。また、兵站線はマルタバンからビリンを経て、キャクトウ、シッタンにおよび、しかも海岸線に近く走っているので、海からの脅威を受け易かった。
 スミス師団長は、マルタバン地区は出張っていて弱いからこれを捨て、サトン~クゼイクの線を確保するよう軍司令官【ハットン】に提案した。しかしハットン中将は、ラングーンに到着する増援と中国軍の来着に必要な時間をかせぐため、天然の障害であるサルウィン河を利用しようとし、第17師団に〈北はパアン付近から南はマルタバンにわたる線を防御し、理由なく土地を放棄するな〉と命じた。
 スミス師団長は示された防衛線を守ることにはしたが、手持の兵力に比し正面が広いので、結局日本軍は、各所から浸透できると考えた。そこで、第一線はその要点を保持し、中央に大きな予備兵力を控置しようと考え、第16旅団でサトン、カママウン、パアン、マルタバン地区を、第46旅団でビリン、パプン地区の第二線を、またモールメンで戦力が低下した第2ビルマ旅団をキャクトウ地区に配置し、シッタン橋梁と後方地域を守備させることに決定した。
『ビルマ進攻作戦』P38,9



 昨日、私は連合軍側でテストプレイしていたのですが、モールメンとマルタバンが連続して失陥してしまったこともあって、サトン~クゼイク線への撤退はちらっと考えました。尤も、その時は手持ちの兵力がやばいほど減少していたので、極力一目散の撤退しか現実的な選択肢はありませんでしたが……。


 一方で、サルウィン川沿いの防御ラインを守るとしても、手持ちの兵力でそのライン全体を守備できないのは確かにその通りです。ゲーム上のユニット数的にそもそもこのラインを埋められないのですから。

 すると確かに、スミス師団長が考えたように、要点にだけ戦力を置き、何か起こったことに後方予備で対処する、というのが賢いかもしれません……。これまでに見てきたクゼイク周辺での戦況図なんかでは、クゼイクに連合軍部隊は置かれているものの、その左右の川沿いに部隊が置かれておらず、むしろ後方のDuyinzeikに部隊が置かれていて、「なんでだろう?」と思っていたのですが、そこらへんに納得がいきました。

 またそうすると、これまで連合軍のビルマ人部隊は防御専用の()付き戦力にしてあって、テストプレイしてみてるとほとんど役に立たなかったのですが、攻撃もできる()無しにすれば、予備戦力として攻撃にも出られるのでその方がいいかな、と思えました。



 それから、この時期の連合軍部隊は「守備位置周辺でパトロールをしていた」という記述が今まであるのがちょっと不思議に思っていたのですが、日本軍の海岸上陸や河岸上陸を警戒していたということなんだろうと思えてきました。

 OCS『Sicily II』の揚陸(ALT:上陸作戦)結果表のダイス修正には「-1 2ヘクス以内の沿岸防衛ユニット毎に」というのがあったのですが、それを見習って『South Burma』(仮)でも「-1 4ヘクス以内の連合軍戦闘ユニット毎に」という風にしようと考えました。そしたら、パトロールという記述に合うなと。

スポンサーサイト



『戦慄の記録 インパール』読了しました & 佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について

 『戦慄の記録 インパール』を読了しました。録画していた番組も全部見ました。






 私はこれまで、インパール関連本は3冊程度、牟田口廉也中将関連本も2冊程度読んだだけだとは思うんですが、中でも一番理性的、かつ編集の上でも様々な話にバランス良く触れて、良くまとめられた良書であるような印象を受けました。番組(2017年)以前には未発見であったような資料や証言も多く盛り込まれていましたし。


 個人的に論争的な話が好きなので、巻末近くに、「佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について」と「牟田口中将の構想通りに(上官の河辺は禁止した)ディマプールへの突進を行っていたら日本軍は勝てたのか」ということについて、複数の人の意見が載っているのが特に興味深かったです。


 「佐藤幸徳第31師団長の独断撤退への賛否について」なんですが、OCS『Burma II』ルールブックの参考文献一覧のところ(P41)に↓のような記述があったのが、どういうことなのかずっと分かっていませんでした。

『Monograph 134: Burma Operations Record- 15 Army Operations』 アメリカ軍:この資料も戦後、米軍の依頼で日本軍の生存者が作成したものです。この資料は、著者が反佐藤派であるため、インパール作戦の失敗を彼のせいにすることに多くの紙幅を費やしているのが難点です。


 私はどうも、これまで「独断撤退して当然じゃないか」という派の本ばかりに触れてきたようなのですが、『戦慄の記録 インパール』によると、反佐藤派として「どのように合理的な理由があろうとも、命令違反は絶対に許されない」という考え方をする人が結構いたのと、それから「独断撤退において隣接する第15師団に何も知らせなかったため、第15師団の側面がいきなりがら空きとなり、多くの死傷者が出たのが許せない」という感情がどうしてもあった、ということらしいです。

 一方で『Burma II』が挙げた参考文献の場合、「インパール作戦の失敗を彼(佐藤幸徳)のせいにする」というわけですから、もしこの件で佐藤幸徳が批判されているという見立てが正しければ、佐藤師団長が独断撤退していなければインパール作戦には勝てたはず、ということなのでしょうか(そういう書き方は『戦慄の記録 インパール』にはなかったように思います)。


 ただ、もう一つの「牟田口中将の構想通りに(上官の河辺は禁止した)ディマプールへの突進を行っていたら日本軍は勝てたのか」ということについては、『戦慄の記録 インパール』は複数の人の意見を挙げて、最終的には↓の研究論文?を挙げて、ディマプールの占領など不可能だったと結論づけているように思えます。

平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書
日本の戦争指導におけるビルマ戦線--インパール作戦を中心に--
(うちのブラウザ上で開いて見ると字が崩れているのですが、完全にダウンロードしてpdfファイルを開けばちゃんと読めると思います。ちなみにこの報告書は、英語版が1万円以上で売られているのを見たのですが、日本語なら無料で読めるわけで、結構いいと思いますのでオススメです)


 しかしそうでなくとも、「命令違反は許されない」派にとって都合が悪いだろうと思うのは、ディマプールに進むことは牟田口中将の上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官が禁じていたということです。

 『牟田口廉也とインパール作戦』という本も、「日本陸軍は任務遂行に全力を尽くせ」という型の組織だったのだから、牟田口司令官がやると決めたら部下達はそれに邁進するのが要求されることで、部下達がそうしなかったことが良くなかったのではないのか、という論だと思うのですが、だとしたらより上級の司令官の命令に沿って、ディマプールに進むことはできない。





 『戦慄の記録 インパール』によると牟田口廉也は戦後、ずっと本当に贖罪の日々を送っていたらしいのですが(それらの具体的な描写があって、結構意外でびっくりしました)、イギリスの軍人から「当時日本軍がディマプールに突進していればイギリス軍は敗北必至だった」という手紙をもらって大喜びし、その後は河辺正三がディマプールへの進撃を禁止したことが作戦の失敗をもたらしたのだと主張する録音を残したそうです。

 でも、命令違反は許されないんじゃ? 命令違反した師団長を更迭しまくったのに、軍司令官として方面軍司令官への抗命を戦後したということになるのでは。



 命令違反に対する意見や、任務遂行型組織という見方に対する意見ですが、私は個人的にゲーム理論や進化論的な見方が好きなので、「命令違反は許されない組織」「任務遂行型組織」は、それが成功する限りにおいて勢力圏を伸ばすだろうし、いくらかの勢力圏を持つのは持つだろうと思います。でも「個々の判断を尊重する組織」「任務に疑問を持ってもいい組織」ももちろん勢力圏を持つわけで、どっちが勢力圏を伸ばせるかの話だと考えます。

 でも、現今で言えばロシア軍や北朝鮮軍はまさに「命令違反は許されない組織」だと思います。旧日本陸軍の話は昔の話だと思うから、「命令違反は許されないじゃないか!」と頭で思えるとしても、じゃあそう考える人は今のロシア軍や北朝鮮軍に所属してもその中であくまで頑張るんですね、と言われたら、今の自分に当てはめて「いや、まっぴらごめん」と思ったりするのでは……。

アウエルシュタットの戦いは、どの場所で始まったのか?

 先日ミドルアース大阪で、『La Bataille D'Auerstaedt』の初期配置をし、少し戦闘をやってみました。


unit8537.jpg



 ところがその初期配置が、持っていっていた洋書による記述と合わないので、ちょっと疑問に思ってました。で、調べてみようと。






 ↓『La Bataille D'Auerstaedt』の初期配置(何ヘクス以内というのが多いので、大体です)。

unit8536.jpg




 ハッセンハウゼン(ハッセンハウッセン)村というのがあり、その周辺でプロイセン軍の前哨騎兵と、フランス軍のバーク大佐隷下の前哨騎兵および第25連隊の部隊が衝突寸前という感じになってます。

 『La Bataille D'Auerstaedt』のヒストリカルノートを見ると、このハッセンハウゼン村の周辺で最初の衝突が起こったと書かれています。

 バークは前哨騎兵や前哨部隊に遭遇することなく前進していたが、ハッセンハウゼン村周辺でプロイセン軍騎兵を発見した。霧が濃くて敵から見つかっていないようだったので、バークは自分の率いる前哨騎兵に、プロイセン軍を動揺させるために発砲するよう命じた。驚いた敵のおおよそ2個騎兵大隊は立ち直ると、やや無秩序に突撃してきた。バークは数人の捕虜を獲得することに成功して任務を達成したが、敵ははるかに優勢であり、またより秩序立った攻撃を仕掛けてきたため、急いで撤退した。ギャロップで戻ると、彼は幹線道路の右側で隊列を組んで前進している第25連隊に遭遇したので、その後ろで自分の騎兵部隊を再結集させた。道路の左側では第85連隊も隊列を組んで前進していた。この2個連隊はギュティエ【Guthier。他の資料ではGauthierとも】准将の旅団の指揮下にあり、バークは彼に敵騎兵の接近を報告した。ギュティエは第25連隊に方陣を組むように命じ、これらは敵の2個騎兵大隊を撃退した。しかし、彼らの後ろには、ハッセンハウゼンからの道路に沿って、ブリュッヒャー将軍の指揮下にある約600の騎兵、擲弾兵1個大隊、1個軽砲兵中隊からなるプロイセン軍の前衛部隊がいたのである。
『La Bataille D'Auerstaedt』のヒストリカルノートの2ページ目



 つまり、ハッセンハウゼン村の周辺(方向は良く分かりません)で最初の衝突が起き、そしてその最初の衝突の後、ハッセンハウゼンの東側に前線があったかのように感じられます。


 ハッセンハウゼン周辺が最初に衝突が起こった場所であったという記述は例えば、日本語版Wikipedia「イエナ・アウエルシュタットの戦い」でもそうなっています。

 ところが、英語版Wikipedia「Battle of Jena–Auerstedt」ではペッペル村周辺が最初の衝突場所であったという風になっています。


 ペッペル村説は、私がミドルアース大阪に持っていっていた『Jena, Auerstaedt: The Triumph of the Eagle』でもそうでしたし、チャンドラーの『ナポレオン戦争』でもそうなっていました。試しに『ナポレオン戦争』の記述を引用してみます。

 14日の早朝、微小のものさえ見分けがつかない程の霞が立ち込めた夜明けを迎えたとき、事態はそのままであった。しかしダヴーの部隊は午前4時過ぎからずっと行動中であった。ダヴー自らが同行する、ギュダン将軍の師団に先導されて、第3軍団はハッセンハウッセンの村落を難なく進軍した。ちょうどそのとき、道路探索をしていたバーク大佐の前哨騎兵が、突然ペッペル村の近くでプロイセン軍の騎兵4個大隊と砲兵1個中隊と出くわしたのである。いまや7時を回り、ギュダンは前進を続ける前に歩兵隊に方陣を作る予防措置をすぐに講じた。ハッセンハウッセンを過ぎたときに霧が一時的に消え、約1000ヤード離れた場所にプロイセン軍の騎兵隊が姿を現したので、ギュダンは時を失せず射撃を開始した。これが即座にプロイセン軍の大砲を無力化し、騎兵隊をあわてて逃走させた。そしてギュダンはリスバッハの小川沿いへと押し寄せたが、そこでフリアンとモランの後続師団がやって来るのを待つことにして、兵員に停止を命じた。実際には、フリアン将軍は8時にコーゼンの橋を渡ったに過ぎず、一方モランはまだはるかに遠い所にいたのである。このことは、ギュダンの兵員が増援軍の到着まで相当長い時間孤立していなければならないであろうことを意味したのであった。
 そのうちに報復をねらうプロイセンの軍勢がリスバッハ川に次々と集結しつつあった。その第2および第3師団の東進は、北へ移動中の輸送隊とひどく縺れ合ってしまったが、プロイセン国王やブランシュヴァイクに伴われたシュメッタウ将軍の師団は午前8時までに位置に着き、ブリュッヒャーの騎兵12個大隊はシュピールベルクの側面部に配備された。この重大局面においてギュダン軍は歩兵9個大隊、24門の大砲、さらに騎兵16個大隊に直面していたのだ。戦闘は双方の側の前哨軽歩兵による小競り合いで開始され、その間に両主力軍が展開を完了したが、凌駕されていたギュダンにとって幸運なことに、プロイセン軍の攻撃の際の協調が絶望的なほどうまくいかなかったのである。
『ナポレオン戦争 第3巻』P74




 で、さらに他の資料での記述も探してみたところ……。

ハッセンハウゼン説:『1806 The Coming Storm』(OSGのSpecial Study Nr.5)、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』
ペッペル説:オスプレイ『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(チャンドラー)


『1806 The Coming Storm』に関しては↓こちら。
ナポレオン関連本3冊、他 (2012/04/30)








 オスプレイ本は『ナポレオン戦争』と同じチャンドラーが書いているので、同じ説を採るのは不思議ではないですがチャンドラー本と並んで権威とみなされているであろう『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』と、そしてウォーゲーム界におけるナポレオニックの権威であろうザッカー率いるOSGの『1806 The Coming Storm』がハッセンハウゼン説を採っているわけです。

 そうすると、素人たる私なんかでは、どうしたものかさっぱり分かりませんね……(^_^; 一応、『1806 The Coming Storm』の記述は、ものごとの進行が『La Bataille D'Auerstaedt』と酷似しているものの最初のうちは地名が全然出てこず、しばらくしてからハッセンハウゼンなどの名前が出てきて、「フランス軍がハッセンハウゼンを確保した……」というような記述が現れるので、ハッセンハウゼン説とペッペル説を合わせたような理解の仕方が不可能ではないかも、という気はしました。



 『La Bataille D'Auerstaedt』(バタイユシリーズルール第3版で)をちょっとやってみての感想なんですが、反応突撃とか臨機突撃とか戦闘前後退とか、採りうる行動の種類が(他の版より少ないらしいとはいえ)やっぱりある程度以上あるので、そこらへんの把握が必要だなぁという気がしました(大学生時代にはシミュレーションゲーム研究会でバタイユのモスクワやアイラウは何回かやりましたし、その後も大阪で中村皇帝陛下と『La Bataille D'Auerstaedt』をやったことはあるのはあるので、当時は把握していたのだと思うのですが、もう25年以上が経って全然忘れてしまっているということですね~)。

 また、初期配置でフランス軍散兵がプロイセン軍騎兵の目の前にいまして、どうしたらいいのか良く分からないものの散兵で近づいて射撃してみたところ、1ダメージは与えたものの臨機突撃されて、戦闘前後退ができず(ここらへんひたすらルールブックとにらめっこしてました(^_^;)、プロイセン軍騎兵が攻撃側になる白兵戦に対する士気チェックにフランス軍散兵が失敗して(兵力数に圧倒的差があったので)、散兵は混乱して退却してしまいました。

 ヒストリカルノートの記述を読んでみると、フランス軍の歩兵連隊(大隊?)でとりあえずは方陣を組むのがセオリーなんでしょうか(散兵は逃げる?)。セオリーが分からないもので、ちょっと前にKimataka氏と『Ney vs. Wellington』をやった時なんかでも「何をすれば良いか分からない」状態になってしまってました。ナポレオニックの戦術級ゲームをやる上では、史実を調べて「こういう場合には大体こうしていた」というセオリーも頭に入れていきつつ……というのが、割と史実を読むのが好きな私としては良いのかなとも思われました。




<2023/09/21追記>

Bernadotte66さんがコメントを下さいました、というかブログ記事として書かれておられました!

こんにちは。
次の本ではp674に次の記述があり、ハッセンハウゼン説です。
Campagne de Prusse, 1806
https://www.amazon.co.jp/Campagne-Prusse-1806-Archives-Classic/dp/1390094251

”この前衛(*1)は霧の中にフランス軍分遣隊(*2)を発見し、ハッセンハウゼン付近で停止した。”
*1 上記の前に記載された文章内容からブリュッヒャー将軍の前衛のこと。
*2 上記の前に記載された文章内容からバーク大佐の分遣隊こと。

こんばんは。
散兵は逃げるのが基本です。
https://sbataille.berjisan66.com/sbataille_blog/2023/09/20/skirmish-target-of-cavalrycharge/



 大変参考になります。ありがとうございます!(^^)

<追記ここまで>

牟田口廉也中将の「ジンギスカン作戦」に使用された牛について

 インパール作戦において牟田口廉也中将は、「歩く食糧」として牛や羊を部隊にもたせ、「ジンギスカン作戦」と自賛した……という話があります。

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいると、この時の牛の様子について複数の詳しい記述があって興味を持ったので、英連邦軍にとってのラバの件と比較しつつまとめてみようと思ったのですが、ネット検索してみると日本版Wikipedia「インパール作戦」にジンギスカン作戦についてのかなり詳しい項目がありました(^_^;

ジンギスカン作戦

インパール作戦のような長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57,000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった[注釈 6]。なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。

この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。第15軍は150個自動車中隊の配備を求めたが、この要求はビルマ方面軍により90個中隊に削減され[157]、さらに南方軍によって内示された数に至っては26個中隊(要求量の17%)へと減らされていた。しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。輜重兵中隊についても、第15軍の要求数に対して24%の増援しか認められなかった。第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた[158]。

牟田口は車輛の不足を駄馬で補うために、1944年初頭から牛、水牛、象を20,000頭以上を軍票で購入[159]もしくは徴用し、荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させることとした。特にウシについては広大なチンドウィン川の渡河が懸念され、渡河中に先頭の1頭が驚いて頭を岸に回すと、他の全部が一斉に岸に向かって走り出すという習性があるので、先頭のウシについては銃爆撃に怯えないような訓練をさせた[160]。そしてウシは訓練の結果、1日13㎞の行軍が可能となった。牟田口はさらに家畜を輸送手段だけではなく、「歩く食料」として連れていくことを思い立ち、山羊・羊を数千頭購入した。これは、過去のモンゴル帝国の家畜運用に因んで「ジンギスカン作戦」などとも呼ばれた[159]。作戦計画において食糧は「各兵士7日分、中隊分担8日分、駄馬4日半分、牛2日分」を携行して輸送し、最後は輸送してきた牛を食べて3日分食いつなぎ合計25日分とされた[161]。これは既述の通り3週間以内という作戦期間に基づくものであった[162]。

牟田口はこの「ジンギスカン作戦」を自信満々に報道班員に披瀝している[40]。

インパールへ落ち着いたら、あとは現地自活だよ。だから生きたヒツジを連れていく。草はいくらでもある。進撃中でも、向こうでも飼料には不自由しない。種子も持っていく。
昔ジンギスカンがヨーロッパに遠征したとき、蒙古からヒツジを連れて行った。食糧がなくなったら、ヒツジを食うようにね。輸送の手間はかからない、こんな都合のいい食料はないよ。
その故知を大いに活用するんだ



しかし、ヒツジは1日にせいぜい3㎞しか移動せず、逆に進軍の足かせとなってしまった。モンゴル帝国は家畜を伴いながらゆっくりと進撃していたが、第15軍の部隊はわずか20日でインパールに達しなければいけないという時間的制限を課されており、ヒツジの習性を理解しないで企画した作戦であることは明らかであった。そのため、ヒツジは作戦開始早々に見捨てられることとなった[163]。また肝心のウシもチンドウィン川の渡河で消耗したうえ、もともと農耕用であったビルマのウシはいくらムチで叩こうが急峻な山道を登ろうとはしなかったため、山岳地帯の移動でも順次消耗していった[164]。第31師団を例にとると、渡河から最初のミンタミ山脈踏破でまず1/3を消耗、次のアラカン山脈でも次々と損耗し、目的地のコヒマに到着できたのはわずか4%に過ぎなかった[165]。

本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄の戦後の調査では、日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存していたが、作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったという。

・騾馬:73日
・中国馬:68日
・日本馬:55日
・ビルマポニー:43日

また、輸送力不足は戦力的にも大きな影響を及ぼした。牟田口は乏しい輸送力でなるべく多くの食糧を輸送するため、険しい山脈を進撃する予定の第15師団(祭)と 第31師団(烈)については、火砲などの重装備は極力減らして軽装備とさせた。特に速射砲が減らされたが、これは敵が戦車をあまり装備していないという都合のいい想定に基づくものであった[166]。しかし、実際には多数の戦車が待ち構えており、対戦車火力に乏しい両師団は敵戦車に甚大な損害を被ることとなった。このように「ジンギスカン作戦」は輸送力強化にも、食料確保にも大きく寄与することはなく破綻し、結局のところ輸送は人力に頼らざるを得ず、兵士らは消耗していった[159]。

家畜を輸送力として有効活用できなかった日本軍に対してイギリス軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸馬で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったという[167]。


 ある時点でのWikipedia上での記述らしきものも見つけました。

インパール攻略作戦において、日本陸軍第15軍司令官:牟田口廉也が、補給不足打開の切り札として考案した作戦。牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言うのが特徴。しかし近代戦においては、歩みの遅い家畜を引き連れて、迅速さを求められる拠点攻略を強行するという作戦には無理があり、実際、家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらにジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前に脱落し、たちまち破綻した。しかも水牛は味が悪く、現地の中国人でさえ食用にしないものであった。おまけに3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。結果、各師団とも前線に展開した頃には糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、戦闘力を大きく消耗する事態を招いた。
ジンギスカン作戦



 ビルマにおける英連邦軍側のラバの使用については以前、↓でいくらかまとめてました。

チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』) (2021/04/26)


 ↑を見ていると英連邦軍のラバの使用については結構訓練期間などもあったということもあり、個人的に気になったのは、ジンギスカン作戦では牛や羊についての事前の訓練があったのかどうか、でした。が、やってはいたのですね。


 他にもこういう記述も見つけました。

 ビルマのコブがある牛は、こぶに棒をひっかけて荷車を引くことはできるが、荷を積むことはない。それをどうにかして荷を積む訓練を重ねた。それも急峻な地形では荷がずれて牛が進まない。三週間分の食料しか持っていないため、それまでにインパールを陥落させる必要があった。牛の歩みを待つと、食料がなくなる。仕方なく、放牧した。一石二鳥どころではなかった。
『未帰還兵』P29



Burma07

 ↑ビルマ(現ミャンマー)の牛と牛車(Wikipediaから)



 以下、『戦慄の記録 インパール』から引用してみます。

「集めた牛や羊は、何万だからね、数がすごかった。"畑やる牛から何もかも日本軍が軍票を払って持って行って、もうビルマに牛なくなっちゃって、仕事できなくなっちゃった"って、ビルマ人が嘆いていた。それぐらい、すごい数だった」
 集めた牛や羊は、兵士一人で二頭ほど引いて歩いた。1944年3月15日、目の前に立ちはだかるチンドウィン河を渡ることになった。
「雨期でないから、まだ雨はあまり降ってないもんで、チンドウィン河の水もいくらか少なかったけどね、それでも大きな川だからね。船と言ったって、そんな大きな船じゃない。板がはってあるだけで囲いなんてない。そこに、みんな牛を乗せた。もちろん、人間も兵隊も乗った。牛が嫌がって大暴れする。それを扱う我々は、みんな素人だから抑えようとしてもうまくいかない。そのうち、暴れる牛と一緒に川に落ちてしまう。牛も沈んだけど、兵隊も相当沈んでしまった。みんな流された
『戦慄の記録 インパール』P72

 【……】佐藤哲雄さん(97)は、牛や羊を引き連れての渡河を指揮した。
「とりあえず一週間、二週間分の食糧の代わりとして牛が配給になったんだわ。川の流れが強いために牛が騒ぐもんだから、鼻環切れたり、ロープが切れたり、向こうへ着くのは半分ぐらいしかなかったんだわ。日暮れからすぐ行動を開始したけども、渡りきるまでは、夜が明けるちょっと前だな、そのくらい時間かかった。
 それで今度は山越えでしょ。〔牛たちは〕食うものないから、山越えるまでには、そのまた半分ぐらいになっちまったんだ。だから、結局最後に兵隊のところに配置になった牛なんて、ほんのわずかずつしかいなかったんだわ
想像以上に牛の扱いに手こずったことを、佐藤さんは記憶していた。
みんな、こんな牛持ってって、足手まといになるから却ってダメじゃないかという意見が多かったんだけども。上からの命令である以上は連れて行ったけれども、面倒くさくなれば牛を放してしまう。そうすると牛はどこでも行ってしまう」
牟田口司令官が自ら考案した〝ジンギスカン作戦〟は、絵に描いた餅だった。
『戦慄の記録 インパール』P73,4

 牟田口司令官の思いつきで連れて行った牛も足手まといとなった。荷物を運ばせようにも、背中がコブのように突き出ていて、乗せるのが難しかった。もともと農耕などに使っていた牛が多く、性格的にも臆病で、悪路を進むのを嫌がった。兵士は牛のお尻を押したり、叩いたり、最後には尻尾に火を点けて進ませようとしたが、動かなくなった。これでは兵士の方が疲弊してしまうと、渡河から一週間ほどで放棄した部隊が多かったようである。
『戦慄の記録 インパール』P104



 ただ、『戦慄の記録 インパール』を読んでいるとすぐにすべての牛や羊を失ってしまったかのような印象も持ったのですが、Wikipediaによるとコヒマには4%が到着したということで、あんな奥地にまで4%も到着したのであれば、ジンギスカン作戦が100%ダメな考えだったとも言えないかなという気はしました。

 OCS『Burma II』でも、水牛なしでは日本軍はインパール作戦の実行は全然できない感はあります。

unit8868.jpg



 ただ、恐らくジンギスカン作戦を思いついてから実行するまでの期間が短く、訓練も少しはやったものの、細かい検証(たとえば、渡河においてはどうなのか、険しい地形ではどうなのか……等)が足りなかったのだろうし、「うまくいく」という前提で数を集めてとにかく実行させるということが姿勢として勝っていたのだろうな、という気はします。

 それに対して英連邦軍側は、ラバ等の動物を作戦に用いるにあたって、1943年から1944年にかけてかなり長い期間をかけ、検証を繰り返し、うまくいかせるための合理的努力を日本軍の何倍もやったんだろうな、と思います。


太平洋戦争自体がそもそも大博打なのだから、インパール作戦が大博打でも、それはやるのが当然だった?

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいましたら、↓という記述が出てきてハッと思い出したことがありました。

 河辺中将は、ビルマ方面軍司令官としてラングーンに赴任する直前に、東條首相に面会していたのである。その席で、東條首相から切り出されたのが、インド進攻であった。
 東條首相は、「日本の対ビルマ政策は対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」と語った。
『戦慄の記録 インパール』P44




 思い出したというのは、そもそも太平洋戦争は勝算がほとんどない「大博打」であることが日本側にも(程度の差はあれ)明らかだったわけですが(連合国側は、そもそも勝算がないのだから日本側が宣戦してくるとは思っていなかったし、最終的に日本を敗北させられるのは明らかだったのでまずは対ドイツ戦に集中して太平洋戦域は後回しにした)、薄い勝算の中でも少しでも可能性があるものとして目指されていた一つの方策が、「イギリスの戦争からの脱落」であった……という話をここ1年くらいの間に複数の資料で読んでいたことでした。イギリスを戦争から脱落させることができれば、即勝利とは言わずとも講和などの点でかなり有利に運ぶことが見込めるということでしょう。

 そのために、インドやインド洋戦域で勝利を挙げることが初期には一応目指されたものの、さまざまな要因で(やっぱり)それがとりあえずうまくいかなかった……。

 一方でイギリス側はどうだったかというと、少なくともインド統治に関してはマジにやばい状況で、対日戦が始まっているにもかかわらずインド(人)を抑えておくことのためにものすごい大部隊をインドに駐留(あるいは警備?)させておかなければならなかった……というのもどこかで読んでいました。具体的に100の桁の部隊を張り付けておかなかったというような記述を見たような気がしてまして、ものすごく驚いた記憶があるのです。100個大隊だとすると、10個師団くらい? ちなみに1942年にビルマで戦った英連邦軍は、総計2.5個師団くらいでしょうか。

 以前、↓で書いてましたような理由で、インド東部を日本軍が支配すれば、少なくともイギリスのインド統治はガタガタになって天秤がガタッと傾く……という可能性はあったのかもです。

1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか? (2023/06/22)



 とすると、太平洋戦争自体がそもそも大博打であったことを考えると、ガダルカナルなどで太平洋戦域の敗勢が明らかになってきたならば、日本(東條首相)としては当然、他のいくらかでも可能性のある場所(ビルマ・インド戦域)で大博打をせざるを得ない、というか大博打をするのが当然、という考え方は、それはあるだろうかなと。

 命がかかった麻雀(その時点で大博打)で、点数的にかなり負けてきているのに役満を狙わないのか、いやそりゃ狙うでしょ、という話だと考えれば分かりやすいような……。


 『戦慄の記録 インパール』の記述だと、「イギリスを屈服させるために」という表現なんですが、「屈服」というのは具体的な程度が分かりにくいとも思います。東條首相などが具体的に狙っていたのは、インド侵攻作戦という大博打にもし勝てれば(もし役満が出れば)、イギリスが現在四苦八苦しているインド統治を崩壊させて少なくとも対日戦から脱落させられ、負けがこんできた(麻雀の)点数をもしかしたら五分以上に戻せるかもしれない、という感じの話だったのではないかと思いました。


 もしそうだとすると、東條首相がこの時期にインパール作戦の実行を望んだのは、結構納得がいくなと(もちろん、そもそも太平洋戦争という大博打を始めるべきでなかったのでしょうけども)。


 ただ、例えば配牌時に手牌がバラバラでもはや役満なんか狙えるはずがないのに「できるできる!」と主張しまくったり、もうおりるべき局面に入ったのにズルズルとおりる決断ができずに最終的に超高めに振り込んでしまう……とかってのが牟田口廉也中将のやったことなのではないでしょうか。

 そう考えると、東條首相にしても牟田口廉也にしても、麻雀マンガにおけるダメな一般人(私なんかも全くその内の一人ですね)の代表という感じとも言えるのでしょうか……。



日本軍とイギリス軍の「ラングーン放棄」の違いは、言霊信仰のあるなし?

 先日、↓で日英両軍の「ラングーン放棄」の比較について書いていましたが、両者の大きな違いの要因として日本人の「言霊信仰」があるのではないかということに思い至りました。

ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察 (2023/09/04)


 「言霊信仰」とは、「言葉には現実に影響を及ぼす力が宿っており、良い意味の言葉を発すれば良いことが起こり、悪い意味の言葉を発すれば悪いことが起こると信じる」というようなことで、日本社会では無意識にもこれが信じられているといいます。

 日本語版Wikipedia「言霊」によれば、

山本七平や井沢元彦は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている[4]。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュの容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという[5]。


(脚注にある井沢元彦『言霊の国解体新書』は昔読みましたし、山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』も多分読んだのではないかなぁと思うのですが、処分してしまって今手元にありません(>_<))





 例えば、↑これらの本に書いてあったことだと思うのですが、欧米では結婚の時に、「もし離婚することになった場合にはこうこう」とあらかじめ決めておくというのです。日本では、結婚の時に離婚する場合のことを話し合うなんて、まったく考えられないでしょう! 欧米での結婚でホントにそんなことをするのか、私は信じがたいのですが、もしホントにするのだとすれば、私もまったく言霊信仰の支配下にあると言えそうです。



 1942年3月初旬の英連邦軍による「ラングーン放棄」ですが、日本軍のビルマ侵攻が始まった時点(1月20日)で、ビルマ方面軍司令官となっていたハットン中将はラングーンが陥落した時に備えて、ラングーンにあった大量の補給物資をビルマ北部へと移す作業を開始しました。ビルマは、イギリス軍の策源地であるインドと繋がっている良好な陸路がなく、海路はラングーンとしかほぼ繋がっていなかったので、補給物資の移送なしでラングーンが陥落した場合、即時にビルマ全土の英連邦軍が干上がってしまうという理由もありました。そしてこの作業のお陰で、ラングーンが陥落した後も在ビルマの連合軍があっという間に全崩壊することはなかったのです。

 また、その上級司令官であったウェーヴェルは徹頭徹尾、日本軍を阻止できると考えており、日本軍がラングーンに近づいた時でもラングーン保持を(ハットンを解任して新たに司令官とした)アレクサンダーに命じましたが、確か「ただしやむを得ない場合にはラングーンを放棄してもよい」という一文を入れていたと思います。


 一方1945年4月下旬の日本軍の「ラングーン放棄」ですが、私自身まだ資料を詳しく読み込んだわけではないですが、「あらかじめラングーンを放棄せざるを得なくなった場合について考えておく(準備しておく)」ということを、ビルマ方面軍司令部自体がやっていなかったのではないでしょうか(これまで読んでいた限りでは、そのような行動があったという記述は見ていないと思います)。もし幕僚の一人がそんなことを言い出したら敗北主義者のそしりを受けたことでしょう。「そんなことを言うから負けるのだ」あるいは「そんなことを思うだけでも、負けに繋がる」というわけです。

 4月13日の時点で、第28軍司令官であった桜井省三中将が木村兵太郎中将に対して「どうぞ早くモールメンに下がって下さい」と意見具申していますが、この意見具申はかなり悩んだ上でなされたものらしく、「誰かが言ってあげないと」いけないだろうということがあったようです。当時の日本軍であらかじめラングーン放棄について考慮してそれを言葉に出して木村中将に伝えたのは、桜井中将しかいなかったということが、非常にありそうな気がします(桜井中将は、先を見通す能力に長けていたという印象もあります)。

 また、日本兵や日本人民間人においても、「やばそうだ」とは思っていたとはしても、あらかじめラングーン放棄について口に出したり準備したりすれば敗北主義者として容易に糾弾されることが分かりきっている中ではそれに順応して、ラングーン放棄を考えもせずに奮励努力していたということが想像できるような気がします。



 このようなことは別にラングーン放棄についてだけでなく、日本軍や日本社会全体がそうであった(今もそう)でしょう。

 最近、日本軍や日本軍兵士について「うまく行っている時はいいが、予期しないことをされると弱い」という指摘を複数見て、「いや、そんなの、どんな軍隊でもそうなんじゃ? 逆に、予期しないことをされても強い軍隊って具体的にどこの軍隊?」とか思っていたのですが……。

 例えば↓。

一方、日本兵の短所は「予想していなかったことに直面するとパニックに陥る、戦闘のあいだ常に決然としているわけではない、多くは射撃が下手である、時に自分で物を考えず「自分で」となると何も考えられなくなる」というものであった。
日本人は知らない、米軍がみた日本兵の「長所と弱点」 米軍報告書は語る


 また、ビルマ戦に勝利したスリム将軍は著書(『Defeat into Victory』?)の中でこう書いているそうです。

「日本軍は意図がうまくいっている時はアリのように冷酷で、勇敢だ。しかしその計画が妨げられたり、退けられたりすると - 再びアリのように - 混乱に陥り、順応し直すのが遅く、必ず最初の構想に長くしがみつきすぎた」
(引用は『戦慄の記録 インパール』P131から)



 あるいは、日本軍のマラリア対策に関する新聞記事で↓こういう記述がありました(2020年8月3日。読売新聞)。

「日本の組織には、うまくいっている時には緻密さや几帳面さがあるが、いったん狂い出すと、修正がききにくくなる側面があるのではないか。方向性を途中で変えにくい空気が、今もあるように思う」


 これらの指摘に関して、今まで得心がいってなかったのですが、言霊信仰のことを考え合わせてみると「なるほど……!」と納得できた気がしました。

 日本社会や日本軍は、悪い結果になった場合にどうするか、考えない傾向が強い。悪い結果になるということを考えたり、口に出したり、備えたりしてしまえば、それが敗北に繋がると信じられており、また周りの人達に敗北主義者だと非難されるから。それに対して欧米社会や欧米の軍は、悪い結果になった場合について考えておいたり、準備したりしておくことができる……。

 もちろん、悪い結果になった場合のことを考えないからこそ「強い」だとか、余計なことを考えずにひたすら勝利に向かって前進できる、ということもあるとは思います。

 ただ、プロイセン軍に端を発する参謀組織というのは、あらかじめあらゆるケースに関して考え、準備しておく(おける)ということに強みがあったはずなのに……。


<2023/09/14追記>

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいたら、牟田口司令官がまったくそのように思っていたことについて書いてあったので、追記してみます。

 この作戦【インパール作戦】をどう終わらせるか、牟田口司令官は想定していなかった。その理由について、「回想録」にこう書き残している。
「万一作戦不成功の場合、いかなる状態に立ち至ったならば作戦を断念すべきか。このことは一応検討しておかねばなるまい。作戦構想をいろいろ考えているうちに、チラっとこんな考えが私の脳裡にひらめいた。
 しかし、わたしはこの直感に柔順でなかった。わたしがわずかでも本作戦の成功について疑念を抱いていることが漏れたら、わたしの日ごろ主張する必勝の確信と矛盾することになり、隷下兵団に悪影響を及ぼすことを虞【おそ】れたのである
『戦慄の記録 インパール』P189



<追記ここまで>




ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察

 1945年のビルマ戦線の崩壊局面における、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」という話は、今までいくらか見たことがありました。

 連合軍がラングーンに迫るのに対して、木村兵太郎中将は独断でさっさと逃げ出し、指揮や士気において大混乱をもたらした……ということのようでした。


KimuraHeitaro

 ↑戦後、1947年の木村兵太郎。A級戦犯として死刑の判決を受け、絞殺刑に処されました。



 ただまあ、詳しいいきさつに関して読んだことはなかったのですが、新たに購入した戦史叢書の『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』の途中から読み始めると、その「敵前逃亡」についてある程度詳しい記述がありました(P231~5)。そしてそれを読んだ感じでは、木村中将がラングーンから撤退したのはむしろ妥当ではなかろうかという印象を受けたのです。






unit8542.jpg



 1945年4月22日に、英連邦軍の大規模機械化部隊群がトングーを南下していったことが判明します(現地の小規模日本軍部隊はただそれを離れた場所から眺めるだけで何もできませんでした)。ラングーンの失陥が目前に迫っていることが明らかになって、ビルマ方面軍の各参謀達が集まって検討した結果、ラングーンから撤退もやむなしという空気となります。地形的に考えて、ラングーンに留まるとラングーンだけで孤立することになるのに対し、ビルマ方面軍司令部をモールメンにすぐに移動させれば、シッタン川やシャン高原の線での抵抗を指揮するのに適当な位置を持つことになるためです。

 反対意見も出なかったため、撤退の命令案をまとめて木村中将に提出すると、すでに撤退の決意を固めていた木村中将は命令案にあっさり署名します。

 ところが翌日に方面軍の田中新一参謀長が司令部に帰還して撤退のことを知ると、これに猛然と反対。結局意見の一致を見ることなく(手続き上、別に参謀長の了解を取る必要はなかった)、23日夕方から25日朝にかけて木村中将と方面軍司令部の幕僚達は空路モールメンへと撤退したのでした。

 個人的には、地形上の問題としてモールメンへ司令部を移すというのはごく当たり前の判断のように思えます。OCSでは司令部が敵に踏まれたり孤立したりしないようにうまい位置に置いておくということはかなり重要であるため、そういう感覚に共感を覚えやすいということはあるかもです。



 ただし、モールメンへの方面軍司令部の撤退について、上級司令部や現地部隊に対して充分告知したり、撤退後にどうすべきかについての指示を与えずにいたため、その後現地が大混乱に陥ったということはあり、その面についての責めは確かに負うべきなのだろうなとは思われました。

 また木村中将は、あらかじめ4月13日に第28軍司令官の桜井省三中将から「早めにラングーンから撤退しておいた方が良い」と声をかけられたのに対して「撤退はしない」と返答しており、ビルマ方面軍全体としては(当時の日本軍の根性論的あり方からしても)撤退するなどあり得ないという空気でもあったのだろうとも想像できますから、いきなり撤退という判断になったのは「唐突」ではあったでしょう(実際、この時から撤退を準備し始めていれば、後世の責めを負う度合いはだいぶ低くなったと思われます)。

 ただ、1942年の連合軍側のラングーンからの撤退にしても、上級司令部のウェーヴェル将軍はラングーン保持を命令していたのに、ビルマ軍司令官アレクサンダーはいきなり撤退命令を出したのですから、単に木村中将を非難するだけでなく、アレクサンダーと比較してどうだったのかというようなことを検討した方が、戦後70年以上経つ現在としては建設的ではないかと思いました(その結果として、木村中将のやり方の方が悪かった、ということは大いにありそうだと思います)。1942年の時は、連合軍側がペグーで日本軍を阻止できると思い込んでいた(実際、そこでは連合軍側が勝っていました)ら、実はその北西を別の部隊に迂回されていてラングーンが北から攻められそうなことが判明して「もうダメだ」となった……という面があったのだろうと思います。1945年においては、トングーでいくらかでも抵抗できると思っていたのがまったく不可能で、大規模機械化部隊がラングーンに突進してくるようだということが明らかとなって「もうダメだ」となったのかもしれないと思います。


 あと、木村中将は『アーロン収容所』によれば、非常に根性論的なことを兵士達に言う人であったらしく、その面では「なんでやねん」という印象になるのはやむを得ないとは思います。

 私たちの小隊長は学徒出身兵で、二十年はじめにビルマの土を踏んだのだが、そのときの様子をこう話した。自分たち学徒出陣兵が、候補生となりビルマにやってきたとき、方面軍司令官K【木村兵太郎】大将【当時は中将だと思いますが、最終階級は大将】に引見された。その席の訓辞はこうであった。
「生っ白いのがやってきたな。前線は貴様らの考えているような甘ちょろいものではないぞ。お役に立つためには覚悟が必要だ。行け、立派に死んでこい」
 19年秋、病院に入っていた私たち兵隊は、ともかく歩行にたえるものはいっせい退院を命ぜられ、前線に向った。私と同行した右手を失った兵士もそうだった。私たちが驚いて、どうしてこんな障害者に前線復帰命令が出たのだろうと噂をしていたら、軍医が大喝した。
「片手で銃は持てなくとも馬のたづなはひける。すこしでもお役に立つものは前線へ行くのだ。K【木村】閣下のご命令なのだ」
 このK閣下はラングーンに敵が迫ると、一般市民を兵役に徴発して守備させ、自分たちは飛行機で脱出した。残された日本人は、一般市民といわず看護婦といわず、英軍の包囲下にほとんど全滅した。私たちの最後の戦闘場所、シッタン河の陣地で、私たちは髪をふり乱して流れてくる赤十字看護婦さんの屍体を毎日見た。「死んでこい」という言葉のつぎには「おれは飛行機で安全地帯へ逃げるから」と補足して述べるべきだったのだ。
『アーロン収容所』P171,2






 あと2つ、気になることがあります。日本語版Wikipedia「木村兵太郎」には、↓のように書かれていいるのですが、この記述に対してはいくらか別の視点を提供できるのではないかと。

4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退が田中参謀長の出張中に決定された。



 桜井省三中将が「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と言っていたというのは、『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』のP237にも書かれていました。

 しかし、『ビルマの名将・桜井省三』では、違ったニュアンスで書かれているように思いました。



方面軍司令部が戦闘の渦中に巻き込まれてはまずい。今のうちならまだ整斉と後退できるので、どうぞ早くモールメンにさがって下さい。そして速やかにシャン高原に戦闘司令所を推進するのが適当だと思われます。ラングーンの防衛は第28軍で引き受けますから
『ビルマの名将・桜井省三』P216


 ここでは「モールメンに下がって欲しい」としていますし、「シャン高原に戦闘司令所を推進する」というのは木村中将がそこにいるべきだというのではなく、適当な指揮官を任命してシャン高原に司令所を置くべきだ、という意味である可能性もあるのではないでしょうか。ただし、同書P220には「(作戦指揮所は)戦闘司令所ではないので軍司令官はいない」という記述があり、この記述からすると戦闘司令所には軍司令官がいるのが普通かもしれません。ただだとしても、シッタン川の東岸に木村中将がいた方がいい、ということではあるかとは思います。



 それから、田中新一参謀長についてです。Wikipediaの記述では、田中参謀長の方がまともなことを言っているように感じられるかもしれませんが、田中新一という人は日本陸軍の最強硬派で、参謀本部第1(作戦)部長として対米開戦を主張して開戦に導いた人物であり、ガダルカナル撤退を頑として認めず乱闘騒ぎを起こし、ビルマ方面軍参謀長としてもインパール作戦失敗後、防御態勢を取った方が賢明だと他の幕僚達が考えているのに積極的攻勢論を主張しまくって周りの人々を困らせていた人物なのです(ただし、ビルマに来て最初に指揮を執った第18師団長としては、非常に優秀であったと思われます)。

 正直、私自身、田中新一がビルマ方面軍参謀長としてビルマ戦線に与えた悪影響というのはかなりあったのではないかという印象を持っています。GameJournal誌16号P24で上田洋一氏は「連合軍が野戦指揮官としての田中を高く評価していることを考えると配属される部署【ビルマ方面軍参謀長のこと】が誤っていたと思えてくるのは筆者だけであろうか?」と書かれているのですが、私も田中新一が師団長にとどまっていた方が遙かに良かったのではないかと思えます(もちろん、反対意見もあることでしょう)。


 また、ガダルカナル撤退に田中新一参謀本部第1(作戦)部長が反対していた時、木村兵太郎は陸軍次官でその席におり、田中新一に対してその言動を詰問して「なにッ!」と反抗してやりとりがあったりしたそうです(『ビルマの名将・桜井省三』P221)。その後、彼等は方面軍司令官と参謀長という関係になるわけですが、その間ずっと「ただならぬ空気」だったそうです。そこらへんの悪影響もあったのではないでしょうか。



 しかし特に、木村兵太郎の人となりや能力については、私はまだまだ知識がないので、そこらへん詳しく知ってくると、意見も変わってくるかもしれません。とりあえず、今の時点での、私なりの「論争的」なものを提示してみました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942と1945は、マップは共通、ルールは別で

 OCS『South Burma』(仮)は、まずは基本的に1942年1月~5月の日本軍によるビルマ攻略を扱うものなわけですが、1945年1月~8月のビルマ戦線の崩壊局面も同一マップで再現できそうなら、ぜひそうできるようにしたいと漠然と思っていました。



 ↓現状のマップ割。フルマップ3枚で、一番北のマップはOCS『Burma II』のマップと一部重なります。

unit8546.jpg



 この件は、リサーチの面からも必要だと思ってました。というのは、OCS『South Burma』(仮)を作る上で最も困難なのはマップ製作の部分だと思っているのですが、ビルマ戦の往路(1942年)の資料だけでなく、復路(1945年)の資料も読めば、地形に関する記述は数倍あるだろうことが見込めるからです(1ヘクス8kmというスケールでは、単に資料の中の地図を参考にしてマップを作るのでは全然充分でなく、文字資料の部分から見つかる材料を織り込んでいかないとダメだと、ここまでの作業でも痛感してます)。


 なので、往路の最初の部分から資料を読み始めて、復路の最後の部分で重なるところが出始めたら、後者も読んでいこうと。尤も、復路の最後の方とはどういうもの(資料)なのか、実は分かってなかった(^_^;のですが、先日ようやく、「シッタン川突破作戦(日本軍の残存部隊が南部ビルマの中央部にいて、その東側が英連邦軍に阻止されていたのを突破し、シッタン川を渡河して南東ビルマに向かおうとする作戦)」が最後の作戦に当たり、戦史叢書にもその作戦を扱った本があるのだということを理解して注文したのでした(そういう作戦行動があったこと自体は知っていたのですが)。






 で、いよいよ少し復路の部分にも手を付け始めそうなので、『South Burma』(仮)のテストプレイ用ルールブックを改訂する上で復路に関しても織り込んでいかねば……と思って、しばらく考えて諦めました。「往路も復路も同一のルールで再現するなんて無理だな! 往路と復路は、別のルールやチャートを使用するということにしよう!」

 マップは同一のつもりですけども、1942年から1945年の間に橋が落とされたり架けられたり、鉄道や道路などの変遷がある可能性はあるかと思います(それらの変遷がかなりの件数あるようなら、別マップ別ゲームということにした方がいいのかもしれません)。ユニットは、1942年は3倍スケール、1945年は標準スケールのつもりですし、全然別となります。地形効果表も、1942年のはかなり移動しやすいのですが、1945年のは(『Burma II』と同様の)かなり移動しにくいものにした方がいいのではないかと思っています。


 ルールを別にするので、ルールブックにはそれぞれ「South Burma: 1942」「South Burma: 1945」とでも書こうと思っています(シモニッチ的な感じがするなぁと思いましたが、良く考えたらシモニッチなら「'42」とかですかね)。

『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました

 古本屋でたまたま見つけて買ってみた『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました。





 この本、記述の姿勢が個人的に非常に好みでした。

 リデルハートについては今までに読んだ記事等などでも賛否両論がある(自分の功績を大きく見せようとしたとか)ことは少し知ってましたけども、この本はリデルハートに関してその功績を語るものではありながら、その欠点も事細かく大量に挙げていて、むしろ欠点に関して割かれた分量の方が多いのではないかと思われるほどでした。

 私は、人間には長所も短所も両方あるのが当たり前だと思いますし、長所しかないとか短所しかないとする記述には胡散臭さを非常に感じるタチではないかと思われます(ごくまれに、長所しかない、短所しかない人間もいるでしょうけども。大谷翔平とか、短所あるんでしょうか?(^_^;)。

 なので、牟田口廉也の長所に関して非常に気になり続けていますし、あるいは、GameJournal誌で児玉源太郎には長所しかないかのような連載記事(そうでもなかったでしょうか?(^_^;)があったのに対して、「ホンマかいな」という印象を抱いたりしました。



 ミリタリーからはずれますが、『人新世の「資本論」』というベストセラー本を買って読んでみていた時に、著者が晩年のマルクスの論について褒めまくりどころか、現代の思想家の色々な論と比べても必ず勝っているかのような記述を繰り返すのに、私は超絶胡散臭さを感じて途中で読むのをやめてしまいました……。環境問題に関して劇的な変革をしなければどうにもならないでしょという著者の方向性に、私はかなり一致する(ただし、すでに手遅れである可能性の方が遙かに高いと私は思っていますけども)のですが、晩年マルクスに対するあまりの傾倒ぶりとか、変革ができる・できて当然と思っているかのような姿勢には個人的に違和感を感じています(尤も、私なんかは世の中を変えることはできない人間で、この著者のように「傾倒性」が高く「楽観的」な人間が、世の中を変えるのでしょう)。






 閑話休題。

 リデルハートについての後世からの論評は、大木毅さんが短く触れていたものの他は『戦略の世界史(上)』での数ページの記述が私が読んだ今までの上限だったと思うのですが、この400ページを越える本で細かくその長所にも短所にも細かく触れ得たというのは大変ありがたかったです。

『戦略の世界史(上)』で個人的に価値のあった部分(付:OCS『The Third Winter』ネタ) (2022/01/05)



 中でも白眉は、「リデルハートがグデーリアンに戦前から影響を与えていた」という説に関して、戦後ある研究者が否定した後、別の研究者がやっぱり与えていたということを明らかにした……という話でした(もちろん、それがまた否定されるとか、議論が継続している可能性もあるでしょうけども)。

 あと、索引があるのが偉いです。参考文献一覧は当然あります。


 この本の個人的に良くなかった面も書いておきますと、同じ内容の繰り返しが多いです。繰り返しをうまく編集すれば、分量は半分近くになったのではないでしょうか。また、間接的アプローチがうまく実戦に適用できないという話とか、西側流の戦争方法とかに関するもっと具体的な例をいくつも挙げてくれると、個人的にはもっと良かったと思いました。

 この本が書かれた時期が2008年で、リデルハートに発する西側流の戦争方法が良いものであるという主張はまあ別にいいと思うのですけども、個人的には、その後のロシアによるクリミア併合やウクライナ戦争というような「権威主義国家による戦争方法」に対して西側流の戦争方法がどうしていけるのだろうか、というようなことが非常に気にかかっています。

#あなたの周りのインパール作戦:ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー

 『戦慄の記録インパール』の「おわりに」をまず読んでみたところ、NHKスペシャルの放送後に、「#あなたの周りのインパール作戦」というハッシュタグが登場して、今現在の日本人が日常の中で直面したインパール作戦的な経験をつぶやく人が急増したという話が載ってました(文庫版P267)。






 その種別としては、「上司への忖度、曖昧な意思決定、現場の軽視、科学的根拠に基づかない精神論、責任の所在の曖昧さ……」などということなんですが、今話が大きくなっている「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」も、私が思うにインパール作戦的な要素がいくらかあるのではないかと思い至りました。

 たとえば、

1.「つきあい(人間的結びつき)」が優先されて「人道的公正性(フェアネス)」が徹底的に閑却されたこと。

2.「迫力」で反対意見を黙らせるリーダーに、まわりが沈黙していったこと。



 特に1は、日本社会全体の問題である可能性が高そうな気がしています。あ、でも公(おおやけ)よりも個人的結びつきの方が遙かに重視される中国やイタリアとかもそうかも……?

 それに比べて欧米(イギリスやアメリカ?)なんかは、フェアネス(社会的に公正であること)が重視され、人間的結びつきがあるからかばうとかって度合いが少ないらしいと、昔何かで読んだ気がします。


 『アーロン収容所』を読んでいても、当時イギリス人はむちゃくちゃ人種差別的なわけですが、約束を守ること(これも一種のフェアネス?)に関してはむちゃくちゃ大事にしていて、約束が守られなかった時には人種差別の対象である日本人捕虜に対してさえも真摯に謝ったものだった、という話が何カ所か出てきていました。


 日本社会の道徳性は、「みんながそうしているから(同調圧力)」という、人と人との間的なもので維持されるのですが、欧米ではそういうのはほとんどなく、むしろ「フェアネス」(あるいは法律)という概念でもって各人(あるいは裁判所)が判断している。もちろん何が「フェアネス」であるかとか、どこからが「フェアネス」になるかとかは各人で違っていったりもするから、その辺についての議論が活発だったり、訴訟が活発だったりする。


 日本社会が、今日から欧米社会になれ、と言われても無理だと思いますし、欧米社会がばら色というわけでもないと思いますけども、「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」は別にメディアだけが悪者になるべきものではなく、そもそも日本社会ってそういうことが起こりやすい社会構造らしいね、インパール作戦とか、というような理解の方が、「マスゴミ」論よりも、私は個人的に好みです。


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR