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台湾有事に関わらない(戦争に関わらない)ことで日本が何を失うことになるか考えるべきだと思っています

 ツイートで↓のように書いてました。





 ここらへんのことで、もうちょっと詳しく自分の思っていることを書いておこうと思います。


 最初の↓ですが……。

「報道特集」が左の立場からどういう風に台湾有事を語るか気になって見てました。

最後のまとめとして、台湾側が過激なことをしない限り習近平が戦争をしかける可能性は低いという総括でしたが、これはツッコミどころだらけだと思います。
【「過激なこと」というのは、独立派が政権を取るなどのことです】


 しかし私が思うに(というか、日本の左翼以外の衆目の一致するところ)、習近平が戦争をしかけるタイミングは、↓のような場合でしょう。

1.台湾侵攻が成功するだけの条件が整った時
2.(条件は完全に整ってはいないが)習近平の権威が危険に晒され、大きな功績を示す必要が出てきた時
3.習近平の任期延長のために功績が必要なタイミング
4.上記3つにも合致しなくても、習近平が「今だ」と思い込んだ時(習近平が寿命を意識した時など)


 ロシアのウクライナ侵攻は、4の時に行われたように見えます(3も少しあるでしょうし、またプーチン自身は1だと思っていたでしょう)。


 日本の左翼は長年、「戦争を起こすのは日本やアメリカである(中国やロシアは平和勢力だ)。平和のために日本は軍備を増強すべきではなく、日本が軍備を増強するから戦争が近づく」と主張してきましたし、そうすると「報道特集」のように言うしかないのでしょう。



 2つ目の↓ですが……。

ただ、「日本民間人の犠牲者に関して考えるべきだ」という話に関しては同感で、日本国内の軍備増強派もそこの話から逃げるべきでないと思います。

数万人の犠牲が出ても台湾有事にコミットするのか、犠牲には耐えられないから台湾が中国に占領されることになってもコミットしないのか考えるべきだと。


 「べき」だとは思います、思いますけども、それは今の日本ではまだ、極度に難しいでしょうね……。

 というのは新聞などを読んでいても、戦争体験者や戦争について考える若い人によって「戦争は絶対にしてはいけない」というフレーズが何度も何度も繰り返されており、日本社会の(考え直すことなど不可能な)ドグマとなっている感があるので。


 それに対して私は、日本社会は「戦争をしないことのデメリット」について考えたり、話題にするべきだと思っています。それが禁忌でなくなって初めて、冷静な議論が可能になる。現状では冷静な議論が可能な条件は全然整っていないでしょう。


 中国に台湾が侵攻された際に、日本が「在日米軍基地の使用を許さない」であるとか、「自衛隊の出動を見送った」場合、どういうことが起こるか。

 メリットとしては、日本人の犠牲は少なめですむでしょう。日本は戦争には関わらないですみます。

 デメリットとしては、シミュレーションによればその場合、台湾は中国に占領される可能性が高いとされています。台湾は香港やウイグルのようになるでしょう。台湾の民主主義は完全に壊滅し、人権抑圧も頻発するでしょう。台湾人は日本(人)を恨むかもしれませんが、元々台湾人は日本が立ち上がってくれるとは期待できていないという話も聞きます。

 それ以外のデメリットとして(素人の)私が思いつくのは、同盟の信頼関係が傷つくということです。特にアメリカと韓国による、日本への同盟の信頼感は地に落ちるでしょう。結果として、アメリカは東アジアへのコミットを減らし、韓国はアメリカよりも中国の傘に入ることを選択する可能性が高まるのではないでしょうか。つまり、中国の影響圏が広がることになるということです。

 そうすると次に、中国は沖縄に対する影響力を増大させようとすると共に、日本が(韓国のように)中国の言うことを何でも聞く(アメリカの影響力を削ぐ)ように要求をエスカレートさせるでしょう。まさに、「太平洋は中国とアメリカの両国が勢力圏を分けあう広さがある」のであり、太平洋の西側は中国の勢力圏に入るべきなわけです。


 ……と、私は思っているのですが、そうでもない? ここらへんの予測に関して、識者の意見も見たことがないので個人の勝手な憶測にとどまってます。

 私の予測がある程度正しければ、こういうことが言えると思っています。「台湾有事に日本がコミットしなければ、将来的に日本(特に沖縄)は香港やウイグルのようになる可能性がかなりある」。

 「日本が将来香港にようになってもいいから、戦争をしたくない」のも一つの意見だと思います。その認識のある非戦主義者となら、議論ができると思う。しかし「日本は戦争をしない。そして今の民主主義も当然、享受し続けることができる」というのは見通しが甘すぎるのではないかと。



 今回のツイートに市川さんのコメントをもらいまして、そのリンク先のブログ記事にこうありました。

特に、台湾在住の日本人が避退できないうちに有事となった際、中国側から「中国の船舶で在台日本人を避難させてあげるから、台湾や米軍に協力しないように」と交渉される可能性も挙げられているのもなるほどなと。そのように交渉されたら、昨今のウクライナ情勢でも見受けられるように「日本人の生命を優先して、戦争には関わるな」と主張する人たちも出てくるだろう。


 中国の認知戦、ヤバいですね……(>_<)。本当にそうだと思います。そういう人は恐らく、50%を越えるのではないでしょうか。

 それらの結果として、中国が台湾侵攻に成功する可能性もある程度あるのではないかと私は思います(中国が数百万台のドローンを活用するとか、アメリカの国内政治の状況が悪化するなどの条件が重なって)。


 日本社会に広くはびこる「空想的平和主義」が健全な程度まで減るためには、私は、一回本当にひどい目に会うしかないのではないかとも思っています。


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OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた

 1942年のビルマ戦の初期の一時期、モールメン攻略後(2月1日)からビリン川の線からの撤退(2月20日)あたりの期間において、英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていたことに関して複数の資料に書かれているのを発見しまして、OCS『South Burma』(仮)でもそれが可能なように配慮することが必要かと思われました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)の現状のマップ。

unit8560.jpg


 日本軍がモールメン(Moulmein:画像の右下の赤い□)を攻略した前後、日本軍は多数の小さい船を入手していたようです。

 サルウィン川では、マルタバンとダグウィン【画像の右上の赤い□】の間に船が数隻あった。小道や道路はこれらから東【西の間違いか?】へと続いており、そのため船には注意深い監視が必要だった。海岸沿いの多くの河口や小川も同様だった。日本軍は筏、川船、大きなボートを多数所有していることが分かっていたのである。したがって、彼らは我が軍の戦線の背後で海岸上陸を試みることが十分に可能であった。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79

 少なくともダグウィンまでは船が遡れたということであると思われ、ダグウィンに日本軍部隊が上陸すればパプンまで移動することもできるでしょうから、それが警戒されたのでしょう。


 【第17インド歩兵】師団長は【サルウィン川沿いのラインという】新しい状況に満足しておらず、シッタン川のラインへの撤退を望んでいた。しかし、彼は却下され、ハットン将軍はサルウィン川の線に固執した。マルタバン(Martaban)は確実に保持すべきであり、また部隊の配置全体はマルタバン湾からの上陸にも配慮されていなければならない。第17インド師団はマルタバン、サトン、パアン、ビリン、キャイクトー、パプンを保持し、マルタバンからシッタン橋までの主要道路と鉄道をパトロールすることになっていた。この地域は、機甲部隊の支援のない小部隊には広すぎた。お互いの連絡手段が失われてしまうほど遠く離して薄く分散配置するのがせいぜいで、横の連絡もなしではこの地域では、一つ一つの部隊が側面から包囲されてしまうだろう。そのうえ、部隊の配置は海上からの上陸に振り向けられ、より多くの部隊がマルタバンからキャイクトまでの鉄道路線に集中し、地形的に潜入が容易なビリン・パプン・パアンの三角地帯にはより小さな部隊しか配置されていなかったのである。このようにして、ラインは薄く引き延ばされた。師団長は、戦線の延長は縦深を不足させるという金言に基づき、戦線を短縮する許可を要求し、ビリン川戦線への撤退を希望した。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』Introduction xxix, xxx



 さらに、英連邦軍側は、ラングーンの東側の海岸に日本軍が部隊を上陸させることをも警戒していたようです。

 ウェストヨークシャー【軽歩兵大隊】はラングーンのすぐ東の海岸線を監視するために派遣された。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P75




 ところが史実で日本軍側は、サルウィン川を渡河したりするのに船を使用したものの、川を遡ったり、海岸からの上陸作戦などは行いませんでした。後者の理由については、どの資料で見たのか忘れましたが、マルタバン湾(画像の海の部分全部がそれです)の制海権はこの時期、英連邦軍側が握っており、英連邦軍側の艦船によって上陸用の舟艇が沈められてしまうのを危惧したからなのだそうです。


 しかしゲーム上では、可能な作戦として提示されるべきでしょうし、またそうでなくては英連邦軍側が最前線にばかりユニットを配置できてしまうことになってしまうでしょう。

 案としては、日本軍がモールメンを占領したら、たとえば2T分の上陸用舟艇が日本軍に与えられると。OCSシリーズルールで、上陸用舟艇は1つの移動セグメントに10ヘクスずつ移動できるので、それで上陸作戦を行えます。上陸用舟艇は陸上ユニットなどの下に隠すことができます。

 上陸用舟艇を外洋に出した場合、英連邦軍側の艦船に沈められてしまうかどうかのチェックは必要でしょう。

 OCSシリーズルールでは上陸用舟艇にユニットを載せるのは港湾でしか行えないため、モールメンを港湾にしてみましたが、色々な理由からモールメンを港湾にするのはやめて、単純にシリーズルールの例外としてどこでも載せられるようにした方がいいかもです。
(色々な理由……モールメンを港湾にすると、英連邦軍側がモールメンに増援を送りやすくなってしまう。かといって、モールメンの港湾能力をダメージで予めゼロにするようにすると、シリーズルールで上陸用舟艇にユニットを載せる際にも港湾能力が必要なので困ってしまう(>_<))


第二次世界大戦前のインド等でイギリス人(白人)が人種的優越感を持っていた理由を探して

 ↓でイギリス人の人種的優越感らしきものについて書いていましたが、どうやってそういうものが醸成されたのかが気になって最近本を探したりしてました。


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について (2023/06/28)


 そんな中で、↓という本を見つけていくらか参考になるかもと思って買って読んでみまして、少し理解が深まった気がしました。





 1810~1820年代以降は、ヨーロッパ文明の絶対的な優越性と、インド社会の後進性がさらに強調されていく。この背景には、他のヨーロッパ諸国を排斥しイギリスがインドで独占的な地位を占めたこと、産業革命の進展による一等国としての自信などが働いていたであろう。さらになによりも、数千マイル離れた国土を支配する状況を正当化する必要性があった。ここに、「文明化の使命」がインド支配を正当化するイデオロギーとして登場し、【……】
『イギリス支配とインド社会』P10


 これは「マニフェスト・デスティニー」的な考え方なわけですけども、それで「人種的優越感」を持ってインド人を支配することには直結しないかと思います。

 しかしその後、インド人の中に英語知識を持つ者が増えてきつつ、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるようになると……。

 イギリス直接統治への移行がもたらした心理的影響として重要なのは、インドが一介の商社【東インド会社】の領土としてではなく、イギリス国家の所有物としての位置づけが与えられたことである。インド統治は、イギリスの国威に直結するという意識が生まれたのである。インド総督カーゾン卿によるつぎの発言は、こうした意識を明確に示している。「インドを支配するかぎりわれわれは世界最強の勢力である。インドを失うならば、われわれはただちに三流の勢力に転落するであろう」。帝国支配の永続が暗黙の了解事項となるとともに、当初の「文明化の使命」イデオロギーは後退していった。マコーリが望んだような英語知識をもつ現地人中間層が台頭してくれば、当然のことながら「文明化」の意義は色あせてくる。19世紀後半以降は、むしろ支配「人種」としての優越性、インド社会を構成するさまざまな集団の利害を「公平に」調停するアンパイアとしてのイギリスの存在の意義が、支配を正当化する論理として利用されるようになる。また、インド人知識人層からの、統治への一層の参加要求にたいしては、彼らはインドの「一般民衆」を代表していない、むしろイギリスこそが、インド大衆の擁護者であるという主張によって対抗するようになるのである。
『イギリス支配とインド社会』P14,15




 そして、むしろ「人種差別意識」「人種的優越感」が必要とされ、それが強められていく……。

  「人種」問題は、ことに1883年に起きたイルバート法案をめぐる論争で表面化した。この法案は、刑事訴訟法に修正を加え、インド人判事にもヨーロッパ人犯罪者を裁く権限を与えることを内容としていた。これにたいして、インド在住のヨーロッパ人コミュニティから予想をはるかに上回る反対があり、最終的な法律は、ヨーロッパ人には、過半数をヨーロッパ人が占める陪審員による審理を受ける特権を残したかたちで落ちつくことになる。この論争の過程で、ヨーロッパ人系の新聞・雑誌では歯止めのない「人種差別」的な言論が繰り広げられた。19世紀後半、「ニガー」といった蔑称がヨーロッパ人コミュニティのあいだに浸透した事実に明らかなように、ヨーロッパでの人種理論の発達と平行して、「人種差別」意識は19世紀をつうじてむしろ強まったのである。イルバート法案をめぐる議論を典型とする、露骨な人種的優越性の誇示は、イギリス支配の善意、ヨーロッパ思想文化の「啓蒙性」を信じる知識人の意識に冷や水をかけることになった。
『イギリス支配とインド社会』P59



 ここらへん、もし日本という国家(例えば豊臣政権とか?)がイギリスと同じようなことをしていったとしたら、同じ様な経過をたどった可能性も……?



 他にも、『黒人と白人の世界史――「人種」はいかにつくられてきたか』という本の著者は、人種差別意識が元々あったから黒人が奴隷にされたのではなく、黒人を奴隷としていこうという経済的必要性から人種差別意識が必要になったのだ、というようなことを言っているらしいです。






 もちろん、他にも色々な要因があるだろうこととも思えますけども、個人的にはこういう、「誰でもがそういう風になる可能性がある」という理由付けは割と好みです(誰でもが牟田口廉也のようになりうる、というような)。

牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる? (2023/01/28)




<2023/07/13追記>

 もう一冊、『帝国主義と世界の一体化』という本も買ってまして、こちらにも参考になりそうな記述を見つけました。





 すなわち、デカルト的合理主義に象徴される西洋近代のアイデンティティはじつは「大航海」以来搾取し、従属させてきた他の世界の「野蛮の発見」をつうじて形成されたのであった。このことは16世紀から19世紀までヨーロッパ人がもっぱら奴隷として接触したアフリカ黒人との関係でとくにきわだっており、そこでは白人は生まれながらの主人であるのにたいし、黒人はあらゆる否定的な性質を集めた下僕、いや家畜並みの存在であった。
 これにたいし、古い文明と「静止」した政治・社会制度をもつ褐色ないし黄色のアジア人ははじめ、「文明化」され、改善・再生が必要にせよ、まったく異質で、下等な人種と見下されていたわけではない。たとえば18世紀にインドに長期滞在する東インド会社のイギリス人社員がインド人の妻をめとるのはごくあたりまえであったし、もしラジャ(藩王・貴族)の娘とでも結婚できればもうけものであった。同様に18世紀、王侯貴族をはじめヨーロッパ人は中国や日本の華麗な陶磁器に熱中し、その背景となる東洋文化の豊かさにあこがれをいだいた。東洋は西洋と別の世界ではあれ、まだ「野蛮」ではなかったのである。
 しかし19世紀にはいって西欧が産業革命の結果近代工業を発展させ西と東の技術=生産力格差が開くにつれ、またヨーロッパ人が進歩や変化を善しとする価値観になじむにつれ、停滞するアジアはしだいに「野蛮」視され、西洋の「文明」によって救済されねばならない哀れむべき存在に変わったのであった。とくに19世紀半ばイギリスがインドで支配を確立し、また中国が阿片戦争やアロー戦争の敗北をつうじ従属的な条件で「世界システム」に組み込まれるにつれ、西洋の東洋蔑視は普遍的な確信の域に達した。そしてこの蔑視での、「進歩」対「停滞」、「文明」対「野蛮」、「男」対「女・子ども」、「白」対「有色」といった割り切りはヨーロッパ人のアイデンティティを支える柱となり、それは相手の価値や要求に一切眼を閉ざす傲慢を育てるとともに、己の側の実態や欠陥を真剣にかえりみる謙虚さを失わせた。

▼「白」対「有色」 人間を皮膚の色で差別する偏見はヨーロッパ人だけのものではない。たとえばインド(ヒンドゥー教)のカーストにおける四姓(ヴァルナ)はもともと肌の色を意味し、バラモン(白)、クシャトリア(赤)、ヴァイシャ(黄)、シュードラ(黒)と明るい色が暗い色より優位にたった。またある人種の肌色をどうみるかもときと事情によって変わり、ヨーロッパ人は中国人や日本人を18世紀には「白」とみていたが19世紀後半には「黄」とみなすようになった。
『帝国主義と世界の一体化』P54~56

 この変化【進化論を根拠として、白人の生物学的優位を強調する社会ダーウィニズムが代表的思潮になったこと】の背景には当時、世界分割競争の激化にともない、列強の国民のあいだに対抗意識が強まり、それとともにジンゴイズム【自国の国益を保護するためには他国に対し高圧的・強圧的・好戦的な態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)も厭わない、あるいは自国・自民族優越主義的な立場を指す言葉】やショーヴィニズム【熱狂的愛国感情が生み出す排他的思想態度のこと】と呼ばれる偏狭な愛国心や白人と有色人種の差異を決定的なものとする人種差別がヨーロッパ人の心に深く根をおろすようになった事情があった。

 たとえば、上述のように19世紀中葉まで - 1857年の「大反乱」(セポイの反乱)後もなお - イギリス本国では、インドの「文明化」とその後に訪れる自治ないし独立の可能性を漠然とではあれ予想する人びとがかなりいた。しかし【18】80年代以降、列強の通商や植民地の拡大を求める動きが活発になり、イギリスの覇権がゆらぎはじめると流れが変わり、インドの「文明化」よりも統治の強化を求める声が主流になった。すなわちイギリス=ヨーロッパ文明の普遍性への信頼、その結果としてインドの「文明化」への期待ではなく、インド人の癒しがたい後進性・弱さが強調され、帝国主義的支配の強化・継続が主張されたのであった。
『帝国主義と世界の一体化』P59,60


 確かに、幕末(1850~60年代)頃の外国人との接触が結構描かれている『風雲児たち』というマンガを読んでいると、(ジョン万次郎がアメリカ本土で差別されたという話もありましたが)日本人が差別されているという感じは受けません。

 しかしその後、欧米では人種差別意識が強まっていって、インド人やビルマ人、日本人らにとってもそれらが堪えがたくなっていったという流れがあったわけですね。


 あるいはまた、太平洋戦争の終盤にはそれまでよりも日本人に対する欧米人の差別意識が強まり、極限にまで達したというような話もあったようです。現在進行形で戦争している相手ですからある意味では当然ではありますけども、ドイツ人やイタリア人に対する見方に同じ様なことがあったかというと……ではありますね。




<追記ここまで>


OCS『South Burma』(仮)製作のために:九七戦とP-40の航続距離について

 『Flying Tigers』を読み進めていましたら、↓のような記述に出会いました。






 指揮下の戦闘機【九七戦】を敵に近づけるため、吉岡【第77戦隊長】はラングーンからわずか200マイルのラーヘンの前方滑走路に【ラングーンから300マイル東のピサンロークから】部隊を進めた。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103



 別の資料を読んでいると、ラーヘンとラングーン(ミンガラドン飛行場)との間などを日本軍の九七戦も、義勇アメリカ航空部隊(AVG)のP40Bも、往復して空戦したり在地機を銃撃したりしています。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のマップを作る時参考にした地図のうちの一つと重ねているもの。

unit8563.jpg


 一番左の小さい赤い□がミンガラドン飛行場です。ナコンサワンにも飛行場があったり、その南の方にドムアンという飛行場があり、そこも連合軍航空機から攻撃を受けていたもようです。


 ところがふと、現状のP-40と九七戦(Nate)の航続距離と、ラングーン~ラーヘン間のヘクス数を確認して青くなりました。

unit8606.jpg


 ↑P-40の37ヘクス、Nateの40ヘクスに対して、46ヘクスほどあったのです!(>_<)
(ミンガラドンからマップ東端まで38ヘクス、マップ東端からラーヘンまで8ヘクス(ミンガラドンから46ヘクス))



 これはまずい……。


 で、色々調べたところ、↓のようなことが分かりました。

 九七戦の航続距離は627kmらしく、『South Burma』(仮)で使用しているOCSの標準スケールの1ヘクス5マイル(約8km)での片道でのヘクス数は39、まあおよそ40となります。

 ただこれは、翼内にのみ燃料を入れた時のものなのか、「九七式戦闘機の航続距離を教えてください。本気で知りたいのです。」というページのやりとりによると、↓という推測が書かれていました。

(1)翼内燃料のみの280Lのときは航続距離627km(燃費2.24km/L) 【39ヘクス】
(2)胴体内燃量まで搭載した330Lのときは航続距離825km(燃費2.5km/L) 【52ヘクス】
(3)主翼下の落下式増槽まで搭載した596Lのときは航続距離1710km(燃費2.84km/L) 【107ヘクス】

 ゲーム的には、「ピサンロークからではラングーンまで届かないが、ラーヘンからならラングーンまで届く」という航続距離が望ましいかと思うので、航続距離を52ヘクスに変更するのが良いかな、と思われました。ただ今後、九七戦がピサンローク他からラングーンに飛んでいる記述が多く見つかれば、考え直します。


<2023/07/13追記>

 九七戦が落下式増槽を付けていた(ことがある)ことに関する記述を見つけました。

 彼らはミンガラドンと九七戦を同時に視界に入れた。アメリカ人パイロット達が見守る中、24機の日本軍戦闘機が補助燃料タンクを落とした。「紙吹雪のようだった」とニールは回想する。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P154


 また、九七戦がナコンサワンを進発してラーヘンで給油してからラングーンに向かったという記述もあった(P158)ので、ナコンサワンを基地とできるだけの航続距離を持たせても良いのだろうと思います。

<追記ここまで>






 P-40は、これまでのOCSでは航続距離37というケースが一番多いのですが、57や60というのもあります。

OCSにおけるカーチスP-36とP-40について (2022/09/26)


 ただ、Wikipeida「P-40 (航空機)」を見ていると、航続距離は↓となってました。

P-40 2,253km 【141ヘクス】
P-40E 1,529km 【96ヘクス】
P-40L 2,213km 【138ヘクス】
P-40N 1,207km(落下式増槽装備時) 【75ヘクス】


 よく分からないですが、P-40Bの航続距離を96ヘクスぐらいにしても許されるのかもと思いました。が、37ヘクスとは何だったのかということは全然分からないままです(^_^;


 とりあえずは、ゲーム上良さそうなある程度のところの数字でやっていってみようとは思いますが、何か「それはこうですよ」とかありましたら、ぜひご教授下さい(^^)



<2023/07/10追記>

 ↑で引用していた文の直後に、参考になる記述がありました(^_^;

 義勇航空部隊のマニング大尉はヘルズ・エンジェルス【AVG第3飛行隊】に、メルグイに増援部隊を運ぶ兵員輸送船の護衛を依頼した。オーリー・オルソンは、トマホークがテナセリム上空でガソリンを確保できるのは45分と計算し、この任務を拒否した。67戦隊の足の長いバッファローはそのような問題はなかった。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103,4




 ↓関係地図

unit8562.jpg

 今回の引用文で「テナセリウム」というのはビルマ南東部、タイ国境沿いの南北に長い地域のことで、メルグイ(Mergui)の町は現在はベイという名前に変わっています。

 「ターク」の辺りが「ラーヘン」で、画像上の各ヘクス数はラングーン(ミンガラドン飛行場)からのおよそのヘクス数見積もりです。


 ここから推測すると、P-40B(トマホーク)は、だいたい85ヘクス辺りまで行くと、残りの活動時間は45分程度となり、危険になったのでしょうか。すると、安全に活動できる限界は70ヘクスあたり……?(全然分かりません。80弱くらいでもOK?)

 一方、バッファローの方は航続距離が1600kmという数値が出てきまして、ヘクス数にするとちょうど100ヘクスとなります。


 すると、バッファローが100ヘクス、P-40Bが70数ヘクス程度、九七戦が52ヘクス、あたりでしょうか……?

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマの英連邦軍自動車化部隊の一度の積載量について

 1942年のビルマ戦におけるイギリス人部隊、キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊の兵士であった人物の日記を元にしたという本があるのを発見したので、購入して読み始めてます。






 この中に、大隊の持つトラックの総積載量が非常に少ないものであったということが書かれているのに興味を持ちました。

 この大隊には6両の15cwt【約3/4t】トラックしかなかったが、これは大隊全体はおろか、6個小隊にも十分ではなかっただろう。
『Burma 1942: Memoirs of a Retreat: The Diary of Ralph Tanner, KOYLI』P40



 「15 cwt truck」というのは「CMPトラック」というのの1種であるようです。

 「6個小隊」が大隊のうちのどれだけなのかですが、『WWII戦術入門』という本によると、イギリス軍はこのような編制であったようです(P42)。





1個歩兵大隊=4個小銃中隊

1個小銃中隊=3個小銃小隊


 つまり、1個歩兵大隊は12個小銃小隊から成っていたことになります。ということは、「大隊の半分を運ぶにも十分ではなかった」ということになりましょう。


 OCSでは、ユニットの兵員すべてを乗せるだけの車両(あるいは馬)がなかった場合、移動モードにおける移動力が低めにレーティングされるようになっています。


 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)用ユニット。今回の「キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊」というのは、左下から2番目の「2 KOYLI」です。

unit8566.jpg


 自動車化部隊の移動モードの移動力を「10」としてますが、実は最初全部「12」にしてあったのを、先日「少し下げた方がいいかも?」と思って10にしていたのでした。

 OCSの自動車化部隊の移動モードの移動力は通常、12か14あたりで、高いものだと18とか20とかってのもあります。10というのは記憶にはないのですが、あったかどうか……?

 ただ、OCSルソンの第48師団は自動車化部隊であったとはいうものの、師団長の土橋勇逸氏の回想録によれば実態としては1/3は徒歩、1/3は自転車、1/3が自動車であったそうで、私は歩兵連隊は8移動力、捜索大隊は10移動力としてました。


 ↓OCSルソンの第48師団の移動モード面。

unit8565.jpg



 ビルマ戦における英連邦軍全体が車両不足気味であったのか、あるいは部隊によって足りない、足りてるの差が激しかったのか等、今まで気にしていなかったこともあって良く分からないのですが(^_^;、ゲーム上の必要から設定されていく面もかなりあるとは思います。


 今後またこの件について気にして、情報を見つけたら集積していこうと思います。


<2023/07/06追記>

 他の部隊もトラックが不足していた旨の記述を見つけました(今までにも読んでいた内容とは思いますが、気を付けていなかったので……)。

 動員されたグロスターは、鉄製ヘルメットがなかったため、陸軍型の日よけヘルメットをかぶっていた。装甲ブレンキャリア、迫撃砲、トラックも不足していた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P38

 ジョーンズの旅団【第16インド旅団】は、動物による輸送と自動車による輸送を混合して装備していた。例えば、1/7グルカは、52頭のラバ、6頭の馬、10輌の大型トラック、水タンク車、4台のオートバイを所有していた。車両は砂漠迷彩に塗られ、中東の目印のない荒野を横断するための太陽コンパスを持っていた。すべての兵員や動物を一度に運ぶには十分な数の車輛はなかったが、大隊は少なくとも自前の貯蔵品や重装備を移動させることができた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』58



<追記ここまで>




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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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