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OCS『South Burma』(仮)製作のために:パアン周辺での戦闘でのインド人部隊の様子

 『歩兵第二一五聯隊戦記』を入手して読んでいて、パアン周辺での戦闘でのインド人部隊の様子がいくらか書かれていて興味を持ったので、抜き書きしてみたいと思います。



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 第33師団の第215連隊がパアン(Pa-an)から対岸のKuzeik(『歩兵第二一五聯隊戦記』の表記はクンゼイク)を確保しようとした一連の戦闘中の記述からです。

 敵は呑気に大きな薪をたいて、身体を温めている。歩哨は居眠りの最中。「突込め」の号令で突込むと、十五、六名のインド兵は銃を捨ててバンザイした。英印軍とはいうものの、最前線にいるのはインド兵ばかりだ。生れて初めて戦いをしたのだろうか。体格は五尺六寸【約170cm】から六尺【約182cm】近い者ばかりだが、度胸のない連中だ。わたしたちもインド兵は初めてなので、ちょっと胸がどきどきしたが、これを見て自信がついた。十五、六名を捕虜にして、三木小隊長は得意の英語で小哨の位置や兵力、装備などを聞く。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P227

 夜が明けて撤収して本部に帰ろうとしたら、森の中から敵の敗残兵が30名近くでてきた。インド人部隊だったが、英国の大尉が一人いた。戦闘開始前、原田聯隊長が英軍将校の捕虜がほしいと言われたことを思い出し、これ幸いと手真似で投降を呼びかけた。インド人大尉とインド兵は全員手を挙げて投降しようとしたが、英人将校だけは敢然と抵抗してきた。その上、彼は友軍であるインド人大尉を我々の目前で射殺してしまった。結局は、この英軍大尉を捕虜にしたが、このことで民族の異なった混成部隊というものは、こうしたことから破綻をきたすものだと思った。しかし、【後に日本の】敗戦というかつてない惨めさを味わった時、日本人の目に彼等を見る甘さがあったことをしみじみと感じたものであった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P231


 ↑の例では、イギリス人大尉とインド人大尉の2人の大尉がいたことになってます。大尉は主に中隊長、中隊は約200人とネット検索では出てきました。


 【日本軍の】夜襲だ。敵か味方か近寄らないとわからない。闇の中であちこち銃弾が乱れ飛ぶ。奇襲作戦に驚いた敵のうろたえぶりは大変だった。夜が明けて掃討戦が行われた。わが分隊は敵陣地の裏側斜面に回った。あちこちに敵の戦利品が散らばっている。舗装道路に出た。一人の白人兵が手を挙げて近寄ってきたので、後手にしばり身体検査をすると本国兵であった。彼の胸のポケットから恋人らしい女の写真が出てきた。瞬間、いまごろ、この彼女は何をしているのだろうか、ふと思ったりした。
 戦利品は小銃、機関銃、食糧品などであった。敵の歩兵は日本兵と違い歩かない。自動車で行進するので何でも持っている。メリケン粉にフライパン、チーズに砂糖、バターなど……。横文字のわからないわれわれは、バターの一缶を持ってきて「よい保革油があった」と乾ききった軍靴に塗りつけ、いささか効果があったと喜んだ。
 進撃は続く、ぽつぽつ敵空軍が攻撃に飛んでくる。昼は木陰を歩き仮寝、夜は行軍、舗装道路あり、山道あり、田圃ありであった。敵機が頭の上で爆弾を落とすのがよく見える。斜めに落ちてくるので真上なら安心だ。歩け歩けで、敵を追って追撃した。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P231,2


 ↑の記述では、「イギリス人の兵」とあります。恐らくインド兵大隊だとイギリス人は士官クラスしかいないと思うのですが、当時ビルマにあったイギリス人大隊のうちの一つの兵かもです。イギリス人士官を「兵」と誤認した可能性もあるかもですけども、イギリス軍の軍服は階級章でしか士官と下士官が区別できないとえはいえ、兵隊さんは階級にものすごく敏感だと思うので、そういうことは考えにくいかなあ? と。

 中段の「敵の歩兵は日本兵と違い歩かない。自動車で行進するので何でも持っている。」という記述も興味深いです。他の資料でも、当時のビルマの英印軍は移動をあまりに自動車に依存していたため、日本軍部隊に後方の道路を封鎖されてしまうと、ジャングルを車は通行できないため、道路封鎖を攻撃して何とか突破するか、あるいは物資を捨てて徒歩でバラバラに逃げるしかなくなってしまったという話がありました。これは1942年のビルマ戦が終わった後に英連邦軍側の深刻な反省事項となり、その後改善が図られていったのでした。

 1942年のビルマ戦で得られた戦利品(チャーチル給与)のリストを作るとものすごい膨大なものになるでしょうし、英連邦軍の物資が豊富なことに関しては、他の資料でも、イギリス人士官?が捕虜になってまず最初に言った言葉が「ウイスキーをくれ」というもので、日本兵は感覚の違いにとまどったという話がありました。

 後段の爆撃の様子も興味深いですし、あるいはまた「舗装道路」という話はこのパアン戦の回想録に何回も出てきまして、想像していたよりもかなり広範囲がアスファルトで舗装された道路であったり、あるいは村の通りがアスファルト舗装されていたようです。

 敵の大部分はインド人であったという。多勢と優勢な火力を頼む敵の真正面から攻める不利を知っている友軍は、横へ横へと回り込んで銃剣を振るってあばれ回ったので、インド兵はすっかりおびえきって逃げ回ったという。彼等は、発砲もせずにいつどこから突っ込んで来るかわからない命知らずの日本軍に、すっかり震え上がってしまった。この一撃でインド兵に与えた恐怖心はその後の作戦を有利にした。一方友軍の損失も大きかった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P233


 こういう話は他の資料にも出てきます。実は最近、最初にとりあえずレーティングしていたアクションレーティングの数値が、「あまりに極端すぎるかな?」と思って、少し英印軍のアクションレーティングを上げようともしていたのですけども、この奇襲効果の強さを考えると、差はあって良い(攻撃側奇襲が成立しやすく、日本軍はそれを頼りに戦闘をやっていく)ということかもと思ったりも。


 ↓現状でのユニット。グルカ兵はあまりアクションレーティングを下げるわけにはいかないかなと3にしてますが、これでうまくゲームが回るかどうか……。

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 サルウィン河西岸道に沿い南下中、突如、敵幕舎数個を発見した。右往左往する敵兵を縦横に刺突して突進した。戦闘司令所とおもわれる幕舎に突入したところ、数名の部下とともに、負傷した指揮官(英国人中佐)が端座していて「われを撃て」の意志を示した。轟然たる銃声の下に従容として死に就いた。その態度は、まさに英国軍人の面目を示したもので、敵ながら天晴れ、われもまたこうありたいと思った。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P234


 ネット検索すると、中佐は主に大隊長を務めるとあり、大隊規模でユニット化してあるので、もしかしたらその大隊長なのかもです。このパアン~クゼイク戦で英印軍側で主に戦ったのはインド人部隊の第10バルーチ連隊第7大隊で、「7-10 Ba」とあるユニットです。今後また英印軍側の資料も調べていく中で、詳細が分かるかもしれません。

 この話は別の資料でも見た記憶があるのですが、今見つけられませんでした。また継続して探してみますが、まったく同文であった可能性もあります。



 『歩兵第二一五聯隊戦記』は「発刊のことば」を見ていると、1969年にようやく同連隊の慰霊祭を行うことができてほっとしていたら、遺族達から「どんな状況で死んだのかが知りたくてやってきたのだが」という声をかけられ愕然として、作られることになったということが語られており、他の聯隊史本よりも各人の死んだ時の状況が詳しく語られている感じがします。

 例えば印象的なものとして、傷が大きくもう助からないと殺してくれる事を頼む兵が多くいて、ある人の場合上官が命じて他の兵士が空へ向かって銃を一発撃つと、その重傷の兵士が事切れた、という話がありました。あるいはまた、「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬ兵士もいて、中国戦線ではそういう叫びは聞かなかったのだが、という記述も興味深く感じました。


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『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について

 『アーロン収容所』から、ビルマ人が日本軍に好意的であった理由についてについても書いておこうと思います。


 実は、著者はその理由について「分からない」と何度も書いており、事実その理由を述べていません(おい)。また、日本軍は(負け戦の中で)ビルマ人達に色々ひどいこともしたのは確かであったと書いていて、実際に日本軍にひどい目にあったビルマ人は日本軍を恨んでいたらしいと述べていますし、あるいは著者らが使役していたビルマ人青年に関して、

 まことに申しわけないが、私たちはこのよく働くビルマ人を可愛がっていたというものの、何もわからぬ上等な家畜のようにしか考えていなかった
『アーロン収容所』P160


 とも書いています(ところがこの青年は日本敗戦となって著者らが餞別などを渡してもう帰るといいよと伝えると、仏教の流転的な所感を述べて、絶望的になっていた著者ら日本兵達を心の底から感動させたのです)。


 ただ、著者の接したビルマ人がどのように日本兵捕虜らに好意を示したかについての記述は、何回も出てきます。日本兵のいる場所に密かにタバコや食べ物を置いておいてくれたり、また著者らがイギリス軍の命令で汚物を処理させられている時にでさえ、そこにタバコなどをくれたこと。ビルマ人のある老人などは日本兵捕虜に出会うといつも道に土下座して手を合わせ頭を下げてくれたため、兵隊一同はありがたいよりは恥ずかしくて閉口したとか(P166)。


 一つには、ビルマ人がインド人やイギリス人を非常に嫌っていたので、それへのあてつけということもあったもののようです(ビルマ人は穏やかで、当時の日本人がよく人を殴ったりするのとは全然違っていたそうですが、インド人とは集団で喧嘩したり、ひどいイギリス人の役人の宿舎を夜ごと襲ったりすらしていたとか)。

 それにも絡むところですが、私は著者の書いている↓のエピソードが、「理由」の部分ではなかろうかと思いました。著者が作業の休憩中にビルマ人達に無理矢理招かれ、食事を出された時の話です。

 私の飯には匙をつけてくれたが、手で食べる方が礼儀なのだということは私も知っていた。しかし自分は捕虜だという気持は抜けきらない。手で食べることが何かおもねるような気がして、しばらくためらった。しかし、この人たちはそんな私の気持には気がついていないらしい。戦争中とおなじように、何か期待して好奇心に満ちた目でにらんでいる。仕方なしに手で食べ出した。
 とたんにみんな、ワッという喚声をあげ何かしきりにしゃべりだした。やはりニッポンのマスターはえらい。イギリス人は自分たちと食事など絶対にしない。手で食べるのは野蛮人だなどと言う。日本人は自分たちをおなじように取扱ってくれるというようなことを言っているらしい。はっきりとはわからないが、幾度もおなじ手まね足まねで、イングリはいかん、いかん、ということをしきりに言って憤慨する。
「戦争は本当に負けたのか。負けても日本のマスターがたくさんいてくれるので自分たちは心強い。どうか帰らないでくれ。武器はどこにかくしてあるか。いざというときは一緒に戦おう。また勝つさ」話はたいへん景気がよい。
 ビールのような泡がでる、アルコール分のうすい、昔なつかしい椰子酒をしきりにすすめてくれる。すこし甘酸っぱくて冷たくてとてもうまいものだ。しきりにいろんなことを言ってくれるが、はっきりしたことはわからないし、それに内容もこんな調子なのでなんとも答えにくい。「帰らないでくれ」と涙まで浮かべ、手を握って頼まれたのにはどうにも答えようがなかった。
『アーロン収容所』P168


 つまり、(当時の)イギリス人はビルマ人を対等などとは絶対に考えないし、そういう振る舞いも絶対にしない。しかし日本人は自分達ビルマ人のやり方を尊重し、対等の人間として接してくれる、ということではないかと。


 今読んでいる途中の『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』という本は、白人による人種差別を糾弾する方向に偏った本だとは思います(ただし、日本人による残虐行為がまったく記述されていないわけではないです)が、その中のマレー人の項にも↑を敷衍するような印象深い記述がありました。




 【マレーで】イギリス人は、国王様のような生活をしていた。「8000人弱の白人が、白人でない者の上に、君臨して」いた。海軍軍人の家庭では、イギリス人の少年にまで給仕(ボーイ)や召使いがいた。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P266

「白人で、自分たちを対等に扱ってくれる者はいなかった。我々先住民が怒りを感じ、日本軍を歓迎したのは、対等に扱ってくれたからだった。日本がついに我々を解放してくれると、思った」【……】
 彼【シンガポールに移住していたインド人】が大英帝国を支持しなかったのは、「イギリス人はアジア人に対して優越感(スーペリアー・フィーリング)を持っていた。我々を差別した」からだった。「インド人は、イギリス人の奴隷だった。それが全てのインド人の思いだった」と、語った。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P269

 彼ら【マレー人の軍隊】は新たな教官である日本人に、訓練を受けることになった。日本人はイギリス人と比べ、はるかに好感が持てた。訓練には40マイル【約64km】の行軍もあった。マレー人にとって感動的だったのは、【日本軍の】将校も、教官も、一緒に行軍したことだった。イギリス人の将校だったら、車で移動しただろう。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P268




 ただし、私の今まで読んできたビルマ戦線での話としては、日本の軍人などは当時の日本では当たり前であったビンタを頻繁にビルマ人に対してもし、そしてビルマ人にとってビンタをされるというのは恐ろしく屈辱的なことであったため、大きな反感を買っていたという話もありました。

 あるいはまた、「男尊女卑(男性が女性を対等だと思わずに差別的に扱う)」にかけては日本は現在進行中で先進国ぶっちぎりですから、「日本はすばらしい」と言うわけにもいきません。しかし、当時のイギリス人や白人の振るまいが、多くのアジア人に当時現在進行形で屈辱を与え続けていたのだろうということは、一応知識としてはあったものの、こういう具体的なエピソードで、ようやく理解が深まってきたかなという気がします。

 もちろん、相反する証言や意見こそを、積極的に集めなければならないと思います。


『アーロン収容所』から:イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について

 『アーロン収容所』を読んでいて、イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について書かれているのが少し興味深く、今後もイメージを持っていく上で有用かなと思われるので、ブログに書いてみようと思います。


 しかしまず私自身、「士官(=将校?)」と「下士官(および兵卒)」の間の断絶について、まだまだ良く理解もできておらず、実感も持てていない感があります。実際のところ長い間私は、字面的にも「士官」というカテゴリの中の下半分が「下士官」ということなんだろうなぐらいに思っていただろうとも(いや、そういう人多いのでは!?)。

 しかし、士官というのは士官学校を出た、(上級)指揮官になっていく人達で少尉(小隊長?)以上、下士官というのは兵卒から上がっていった人達で最高で曹長(あるいは特務曹長とか准尉とかってのもあるとか)で、あくまで指揮官たる士官の指揮の下で戦う兵隊である……?(という理解で合ってます? 例外はあったというのは一応把握してます)


 これが何か、イメージしやすいものに喩えられないか考えてみたのですが、土佐藩の「上士(山之内家の家来出身)」と「下士(長宗我部家の家来出身)」とか……一般的ではないか(^_^; あるいは、第二次世界大戦前・戦中だと「大卒なら士官相当」というような話も見たのですが、それは大卒が数%の状況においての話で。(私はしかし、大学に行く人間は社会の数%程度というのが本来のあるべき姿ではないかなぁ、という気もしますけど)

 ともかく、少なくとも私には想像しにくいのですが、士官と下士官(兵卒)の間にはものすごい断絶感があったようなのです。これがどうも、イギリス軍においてはその差がものすごかったようで……。

 イギリス兵の服装は、日本のように士官と下士官・兵のような劃然とした区別はない。士官であるかどうかは腕にある階級章で区別できるだけである。この点はアメリカ兵と同じである。ところがそのうち私たち【日本兵捕虜】は遠くからでも一見して区別できるようになった。動作や態度とか、そういうものからではない。【……】
 【……】それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(1.75メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸【1.63メートル】くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺【1.82メートル】以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。
 体重も下士官や兵には見事なものは多くない。かえって貧弱だなあと思うような男もすくなくなかった。しかし士官は老人以外はほとんどが堂々たる体躯で私たちを圧倒した。【……】しかも体格だけではない、動作が生き生きとして自信にみち、しかも敏捷であるのが目立つ。

『アーロン収容所』P109,110


 その理由らしきものとして、著者は↓のようなものを挙げています。

 士官たちは学校で激しいスポーツの訓練をうけている。フェンシング、ボクシング、ラグビー、ボート、乗馬、それらのいくつか、あるいは一つに熟達していない士官はむしろ例外であろう。そして下士官・兵でそれらに熟達しているものはむしろ例外であろう。士官の行動は、はるかに敏捷できびきびしているのである。
 考えてみれば当然である。かれらは市民革命を遂行した市民(ブルジョア)の後裔である。この市民たちは自ら武器をとり、武士階級と戦ってその権力を奪ったのだ。共同して戦ったプロレタリアは圧倒的な数を持っていたが、そのあとかれらが反抗するようになると市民たちは力で粉砕し、それを抑えてきたのである。私たちはこの市民の支配を組織や欺瞞教育などによると考えて、この肉体的な力にあったことを知らなかった。
『アーロン収容所』P112,3


 後段については「本当かなぁ……?」とも思うのですが、一応見聞の例としてはそういう感じであったらしいのでしょう。ただ、著者らが見たのは恐らく下級の士官達(尉官とか、高くても佐官?)であって、イギリスの上級将校(将官)は貴族で占められていたとか、あるいは背が低い将官も結構いた(オコーナーやハーディングなど)という印象も私は持っています。

WW2のドイツ軍、イギリス軍、イタリア軍の上級指揮官は貴族閥によって占められていた……? (2021/06/26)
コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)



OCS『South Burma』(仮)製作のために:内陸部の重要性&ハーフマップ案はなし?

 以前ブログかツイッターで書いていたと思うのですが、「The Burma Campaign」というウェブサイトがあり、参考になるかもとは思ってました。


 今日、ふとまた覗いてみたところ、先日ユニット化だけとりあえずしていたビルマ小銃大隊×10個に関して、非常に詳細な個別のページがあることに気付きました。しかも今まで手持ちの資料で見たことがなかった、詳細な部隊配置や部隊移動が記されたマップなども!

 「これはヤバいほど有用……」とヨダレを垂らしながらDeepL翻訳で読みつつ、ユニットのレーティングを変更していったりなどしていたのですが、その中で第2ビルマ小銃大隊が2月中に置かれていた位置について非常に興味深いことがわかりました。


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 同大隊は2月中ほぼ、赤い○で囲んだパプン(Papun)という集落に置かれていたというのです。史実では日本軍の進撃路は画像の下の方の矢印のようなものでしたが、上の方の矢印のようにして一部の部隊が進み、非常に重要な障害であるシッタン川を渡ってしまう可能性もあるとして、そうならないように置かれていたのでしょう。

 同大隊は、日本軍がシッタン川を渡ってしまうと、西方へ退却しました。


 ゲーム中でも、日本軍はパプンを経由してシッタン川渡河を図ろうとすることも可能でなければならないということだと思います。逆に、英連邦軍側も、このような内陸にユニットをポツンと置いていても一般補給などの上で問題は(ほぼ)ないという風にしなければなりません。『Burma II』の地形効果表そのままではそれは全然無理なのですが、一つの方法としてはビルマ小銃大隊は(日本軍と同様に)「食糧表」を使用して一般補給を得られる、とかでしょうか。ただ、食糧表はアクションレーティングが高くないとヤバいことになるのですがビルマ小銃大隊のそれは高くなく、そこらへん更に特別なルールが必要にはなります。


<2023/07/04追記>

 その後、『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』という英連邦軍大佐?による本を読んでいましたら、なかなかにこの本は英連邦軍の動向に関して詳細で(ただし日本軍に関しては詳しくなく、英連邦軍を「我々」と呼び、ビルマ人や日本軍に対しての偏見があるように感じられます(^_^;)、別のビルマ小銃大隊も内陸部の監視に当てられていたことが分かりました。



 ShwegunとKamamaungの渡し場は第4ビルマ小銃大隊が監視し、Salween川とDontami川【マルタバン近く?】沿いのパトロールも行った。後に第8ビルマ小銃大隊の中隊がKamamaungの駐屯地を引き継いだ。この場所とShwegunの分遣隊は、我々がSalween川の下流から撤退する際もそのままの位置に留まり、その後Papunで第2ビルマ小銃大隊の指揮下に入った。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79




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 また、この本を読んでいると、(モールメンを占領した)日本軍側は、多くの筏、川船、大きなボートを所有していることが分かっており、それらを利用してサルウィン川の上流のDagwin(画像の赤い□)や、海岸線上で英連邦軍の背後に上陸することも可能だと考えられたため、それらにも備えなければならなかったそうです。

 日本軍側にそれらが可能なようにできたら面白いとは思いますが、使用するルールは増えますし、あんまり日本軍が好き放題できても困るので、バランスが難しいところかなぁと思います。

<追記ここまで>






 ただ、パプンにそのような重要性があるならば、あることを諦めねばならなくなりました。


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 ↑この画像全体(赤い□内)がフルマップ1枚の広さです。一方で水色の□で囲った部分がハーフマップ1枚の広さであり、ラングーン占領までの第一段階については、このハーフマップ1枚でプレイできるのではないかと考えていたのでした。ところがくだんのパプンは赤い○の位置でして、パプンからシッタン川への小道はハーフマップの領域からはみ出てしまうわけです(^_^;

 ただ、青い○で囲った場所には中国軍の第200歩兵師団がいて、日本軍はシッタン川を渡ったものの、北方から有力な中国軍が南下してくるという情報もあって、ラングーン攻略を急がなければならなくなったという話もありました(『歩兵第百四十三聯隊史』P3)。しかし逆に、日本軍はシッタン川を渡って中国軍が近くにいる段階で、いっそまずは中国軍側に進んでそれに大打撃を与えようかという考えもあったそうです(どこで読んだか忘れました(^_^; また見つけたら書いておきます)。

 そういう様々な作戦案や、あるいはジレンマなどがマップ上で再現されるためにはフルマップ1枚でなければならないだろうという気もしますから、フルマップ1枚が必要ということで全然いいのかもしれません。

 ただ、西の方の1/4は全然関係なさそうなので、折ってプレイしても良いかもですね。この西1/4の領域は、1944~45年の戦いの時にはこの辺りに英連邦軍が上陸作戦を行ってラングーンを奪取してしまうのではないかという恐れがあっていくらかの日本軍部隊が置かれており、その中には非人道的超絶根性主義で味方兵士をも散々苦しめ自殺に追いやった花谷正中将もいました。44~45年の戦いもできればゲーム化したいので、その時には必要になってくるはずです。

第2次アキャブ戦で第55師団長であった花谷正中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました (2022/05/08)
『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました (2022/06/11)



OCS『South Burma』(仮)製作のために:第55山砲兵連隊の第2大隊と第3大隊について

 OCS『South Burma』(仮)の戦闘序列で、第55山砲兵連隊第2大隊と第3大隊に関して良く分からないので、備忘録&後に情報が見つかったら集積するためにブログに書いておきます。


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 第55山砲兵連隊のユニットが「55(-)」とあるのは、私の今までの推測では「ビルマ戦の初期にはこれらは大隊単位で運用されていたのではなく、抽出された大砲と人員で運用されていたのかな?」と思っていたのでこんな表記にしていたのでした。


 第55山砲兵連隊のうちの第1大隊は、南海支隊というのの一部としてグアム、ラバウル方面の作戦に参加していたので、ビルマ侵攻作戦には参加していません。第55山砲連隊は、「3大隊から成り、94式山砲27門を持っている」と『ビルマ攻略作戦』P45にありますので、1個大隊の門数は27÷3=9門(1個中隊3門)であると思われます(第33山砲兵連隊も同じ)。



 第55山砲連隊はビルマに入る際に、第2大隊と第3大隊の両方がほぼ同時に入ったのかもしれません。↓のような理由から。

1.『山砲兵第55連隊行動表』の「連隊本部」「第2大隊本部」「第9中隊【第3大隊所属】」の行動表を見ていると、すべて同じように行動し、1月末から2月初めにモールメンに到着している。

2.『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99のモールメン戦の記述に、「山砲の両大隊は」とある。

 山砲の両大隊は展開し夜明けに飛行場東端の聯隊観測所をみると、飛行場を丘陵に向かう歩兵主力がよく見えたが、あっと思う間に援護射撃の必要もなく丘陵に到達した。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99






 ただし、中隊の門数が1門、あるいは2門に減らされていたという記述があります。

 【第55師団】師団長は、諸隊を国境地帯に推進するに先立ち、車両部隊をすべて駄馬または駄牛編成に改め、特に山砲隊は携行弾数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした(64)。
『ビルマ攻略作戦』P84

 注64の内容は「第55師団参謀であった福井義介大佐回想」とありました。

 今になると聯隊長は小径もない渓谷づたいの長距離のあのジャングルのタイ、ビルマの山脈を横断していかにして山砲兵がモールメン前面に進出するかに苦心されていたのがよく分かる。このため3門編成の各中隊は2門とし残りの火砲と聯隊大行李を石黒築兵技軍曹以下に宰領させて追及を命じた。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P96

 こちらは、飯村茂聯隊指揮班長という方の回想です。


 さらに、こんな書き方をしている資料もあります。

4.第55師団は歩兵団本部の指揮下でグアムに行っていた第144連隊等を欠いていた。師団はヴィクトリアポイントに向かった第143連隊第2大隊と、タボイに向かった第112連隊第3大隊を欠いた状態でビルマに入った。両大隊はモールメンで再合流した。Their two remaining mountain artillery battalions each had six guns.
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372

 この英文の意味するところがイマイチ分からないのですがDeepL翻訳等は、「残る2つの山砲大隊は、それぞれ6門を保有していた。」という感じで訳してきます。この「残る(remaining)」というのが、戦場に来ている方なのか、あるいはバンコクに残されていた方なのか?


<2023/07/06追記>

 各大隊が6門を持っていたという記述を見つけました。

 【第55】師団の2つの山砲大隊はそれぞれ6門しか持っていなかった。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P56


 欧米ではこの「大隊に6門=中隊に2門」という捉え方が流布しているのかもです。ただその場合、価値が高いとみなされているらしい戦史叢書のうちの一冊である『ビルマ攻略作戦』の情報は無視されているということになりそうです。

<追記ここまで>




 さらに、よく分からないのがこの記述です。

6.【ラングーンを占領した後の3月の】第二段階では、第33師団と第55師団の山砲連隊が27門のフル装備になった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372

 第55山砲兵連隊の第1大隊はグラム、ラバウル方面に行っていたはずなのに、どうやって連隊定数の27門にするのでしょう……? Wikipedia「第55師団 (日本軍)」によれば、南海支隊の生存者200名がビルマ戦線の第55師団に合流したのは43年11月です。


 しかしそもそもが、「中隊は1門」「中隊は2門」という時点で(記憶に?)齟齬がありますし、間違いのない本なんてあり得ないと思いますので、27門というのは『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の勘違いなのかもしれません(あるいは、2個大隊で27門にしたとか、ラングーンで1個大隊増やしたとか、そういう方法がとられた可能性もあるのかも)。


 これらの件を一応頭に置いといて、今後資料を読んでいく中で情報が見つかったら、集積していこうと思います。

 実は、『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』と『山砲兵第55連隊行動表』は、私が奈良県立図書情報館で取るものも取りあえずコピーしてきた部分のしかないので、今回コピーしてなかった部分にそこらへんの情報が書かれている可能性はあるかもと思います。ので、色々調べるべきことを集積してから、また行こうと思います。



 ただ、とりあえずのゲーム的な解決方法としては、↓かなと思ってます。

 「その大隊の中に史実で欠があっても、定数で登場させる(後に欠が埋められていた場合には特に)」という1つのやり方(「史実で欠があったら減らす」という方法もあります)に従って、しかし、この件の場合、第2大隊と第3大隊の両方を定数の火力で登場させるのではなく、便宜的に、例えば第2大隊ユニットのみを定数の火力で登場させる。ラングーン占領後に第3大隊を増援として登場させ、山砲が追送されたことを表現する。


<2023/10/20追記>

 第55師団の山砲兵第3大隊のユニットをとりあえず作ってみました。ラングーンへの登場時期が不明ですが……。

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<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:最初のシナリオの設定案と、モールメン攻略戦の分析

 OCS『South Burma』(仮)の最初のシナリオの設定案を考えました。



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 今まで『Burma II』の地形の色に合わせていたんですが、『Burma II』では平地/ジャングル/荒地の間の色が似ていて非常に分かりにくいので、最近のOCSゲームの色合いに近いように塗り直してみました。

 東端のエントリーヘクスAの辺りから日本軍は進軍を開始し、第55師団は第5ターンにモールメンを占領。第7ターンにはその対岸のマルタバンを占拠し、また並進していた第33師団がサルウィン川の上流パアンから対岸のクゼイクに渡りました。ビルマ独立義勇軍のモールメン兵団もこのターン中にサルウィン川をその北方で渡っているようです。


 私は元々は、最初のシナリオ的なものは「第5ターン終了時にモールメン占領」だけを目指すものかと漠然と考えていたんですが、↓に書いてましたように勝利条件が複数あった方が絶対に良いと確かに思われるので、第7ターン終了時に「マルタバン、クゼイク(等の複数のサルウィン川西岸)を占領していること」にした方が良さそうだと思いました(あるいは、それらの複数ヘクスに勝利得点を設定し、その中にモールメンも含め、またモールメンの得点を高くしておくべきかも)。

OCSのシナリオの勝利条件改造 or 設定のために:勝利条件が複数あるとよい? (2023/03/21)


 シナリオ名は「サルウィン川渡河」でしょうか。




 また、モールメン攻略やその後に関して、先日コピーを取ってきた資料等にやや詳しい分析的記述があるのを発見しました。

 一月三十日夜から三十一日までのモールメンに対する師団の攻撃は、速やかに占領したという点では成功であったが、聯合国軍、ビルマ第二旅団(約三千名)を補足殲滅し得なかった点では失敗といえる。敵は市街東方の丘陵に陣地を占領する一方、撤退のための船を準備していた。また制空権はどちらにもなく、必要に応じ双方ともに、地上攻撃が可能であった。敵を殲滅し得なかった原因は先ず第一に敵の逃げ足が早かったことであるが、わが方の攻撃が統一されていなかったというか、一部隊が独断で敵陣地に突入したためといえる。問題は山砲部隊が敵の後退前か、その直後にモールメン東方丘陵に進出し、逃げる敵船を撃沈し得なかったことである。つまり三十日夜、師団司令部に出頭した私は、明三十一日払晩攻撃、山砲聯隊は前記丘陵東方の飛行場周辺に展開し、歩兵の攻撃を支援せよとの命令を受けた。ところが三十日夜、徳島聯隊【第143連隊】の第三中隊(土井茂俊中尉)は敵戦線に潜入して寡兵をもってサルウイン河に進出し、拠点をつくり同時にガソリンを含む敵補給物資に火をつけた。同時に丸亀隊の一部が丘陵上のパコダを白兵突撃で占領してしまった。敵はかくして逃げ始めた。山砲の両大隊【山砲第55連隊の第2大隊と第3大隊か。山砲第55連隊の第1大隊は南海支隊に配属されていました】は展開し夜明けに飛行場東端の聯隊観測所をみると、飛行場を丘陵に向かう歩兵主力がよく見えたが、あっと思う間に援護射撃の必要もなく丘陵に到達した。「しまった」と思い、同時に隊長は私に「単騎右丘陵に先行せよ」と命じられた。伝騎のみを連れて最大速度丘陵に達し崖を駆け上ると、山上に松田中隊が展開し、逃げる敵船とマルタバンを砲撃して一隻は漂流し出したが、その他の敵船は最大射程外にまもなく去り、マルタバン北方に列車のあげる煙りが見えた。松田中隊長の判断はさすがであった。戦闘後の聯隊長の反省は深刻だったが、私は結局敵の逃げ足の早さを予想せず、師団の行動を統一出来なかった師団司令部の責任だと思う。その後、隊長がいつも歩兵の大隊、時としては中隊の線まで聯隊本部を進出したのはこの時の教訓の結果と思う。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99



 あるいはこのような記述もありました。

 しかし、モールメンは南部ビルマの要衝であり、かつ、サルウィン河は南部ビルマ防衛のため、戦略上重要な価値を持っている点からみて、英軍はモールメンを固守するとともに、サルウィン河を利用して頑強に抵抗するであろうと考えられた。
『ビルマ攻略作戦』P90

 騎兵隊【第55捜索連隊】は行軍縦隊で前進中、1月30日夜【モールメン近郊の】標高183高地北方地区で、尖兵中隊が不意に衝突し、直ちに攻撃に移ったが当面の敵は案外軽く退却した。
 そこで川島大佐は、全般の状況は全く不明であったが、今が戦機と判断し、騎兵隊の全力を率いて一気に本道上をモールメン市街に突入し、払暁までに市街の一角を占領した。
『ビルマ攻略作戦』P93,4




 一方で、英連邦軍側からの見方では、このような記述が。

 【1月30日】午後になると、スミス【第17インド歩兵師団長】はモールメンの状況が深刻になってきたという結論に達し、ラングーンのハッ トン【ビルマ軍司令官】にその状況を報告した。彼は、マルタバンにいる第16旅団から2個大隊を引き抜いて守備隊を増援するか、【モールメンを守備していた】第2ビルマ旅団を撤退させるかのどちらかの選択肢しかないと考えます、と伝えた。11時に、増援を行うのは得策ではなく、成功する見込みもないと考えた彼は、必要と思われる時点で守備隊を町【モールメン】から撤退させることを提唱した。ハットンもこれに同意し、時期についてはスミスに判断を委ねたが、撤退後はマルタバンを含むサルウィン川沿いの線を維持しなければならないと述べた。
『The War Against Japan Vol.2』P32



 OCSゲーム的に考えると、↓こういう感じにできるかも?

1.早めのターン(例えば第5ターン)で、モールメンに急いで撤退してきた移動モード面の英連邦軍部隊がいる場合
 日本軍は補充能力が高め(『Burma II』のルールでも)ですし、日本軍側は損害上等で寡兵で攻撃をかけるとします。すると現状私はインド兵部隊ユニットの移動モードは自動車化タイプにしてあり、サルウィン川は大河川で自動車化では撤退できないので、もし退却の結果が出たらユニットごと失われることになります(ビルマ兵部隊ユニットは移動モードでも徒歩にしてます)。

2.遅めのターン(例えば第6ターン)で、モールメンのインド兵部隊ユニットが戦闘モード(徒歩タイプ)になっている場合
 日本軍は全力でもってモールメン攻撃をかけられるかもしれませんが、英連邦軍側もモールメンをより大きい兵力で守れますし、撤退においても大河川を渡れます。ただし、日本軍がモールメンの南北の2ヘクスに戦闘モードのユニット(つまりZOCあり)を置いてある場合、すべての退却ヘクスにZOCが及んでいるので、守備隊がもしDGでなければDGになり、もし戦闘前にDGであったならば1ステップロスします。


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 これはジレンマがあっていいかもです。




 あと、一つの悩みとして、史実で第55師団はモールメン攻略後、約1週間(OCSの2ターン)ほどモールメンで休養していたということがありました。BCSの場合は疲労が重視されるシステムなので休養の必要性も再現しやすいかと思うのですが、OCSは疲労は関係ないのでどうしたものかな~、と。OCSは補給が重要なシステムなので、補給状況を悪目に調整するという案は一応持っていましたが……。

 そこらへん、まさにそうすれば良いかのような記述を見つけました。

 東南アジアにおける他の戦場での物資の使いすぎと、海上ルートがまだ十分には確実でなかったので、迅速な補給ができなかったために生じた小休止の後、これらの師団はラングーンに向かい猛進を続けた。
『ビルマの夜明け』P163


 そうすると例えば、ゲーム上で第55師団のモールメン攻撃は内部備蓄を1~2段階消費して行われざるを得ず、モールメン攻略で得られる敵の補給物資(チャーチル給与)でも再備蓄に十分でなく、追送されてくるSPを待って1~2ターン程度は止まっていた方が安全……という風に調整すれば良いのかもです。まあ、LowとかExhaust状態でそのまま進撃してもいいのですが、そうすると敵に攻撃された場合に戦闘補給が入れられずに半分の戦闘力で防御せざるを得なくなるでしょう。


OCS『KOREA』「長津湖の戦い」&「龍の登場!」シナリオの両軍初動を研究してみました

 OCS『KOREA』5.7「長津湖の戦い」&5.8「龍の登場!」シナリオの両軍初動を研究してみました。


 5.7「長津湖の戦い」シナリオは、5.8「龍の登場!」シナリオの東半分だけを切り取ったもので、中国軍の第2次攻勢を扱ってます。この攻勢でアメリカ海兵隊は山岳地帯で包囲されかかりながら何とか脱出しましたが、戦線はかなり押し戻され、国連軍は38度線あたりまでの退却を余儀なくされました。「龍の登場!」シナリオは8.5ターンの長さで、2対2で2日程度で終了すると思われ、7月の連休のミドルアース大阪で2日連続プレイを予定しています。



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 実はこのシナリオは2月にVASSAL上で4人で第5ターンまでプレイしたのですが、その時の国連軍は最初の共産軍のダブルターンで完全に小包囲を完成されてしまい、どうしようもなくなって多くの戦力を失いながら、ほうほうのていで退却していくしかなくなってしまったのです。

 しかし7月のミドルアース大阪でのプレイでもそうなってしまっては困るので、研究してみたのでした。



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 まずは西半分から。共産軍は赤い○で囲んだ2つのユニットを壊滅させるか退却させて、矢印のように小包囲を狙うのがセオリーではないかと考えました。また、その西側でも矢印などのようにして、国連軍の一番西にいる2ユニット(あるいは1ユニット)を切り離すことも狙うだろうと思います。赤い□で囲った砲兵ユニットが、史実ではこの地域で使用されたようです。

 それに対して国連軍は、画像で5つの予備マーカーを置いてあるようにして予備を指定しておくのがとりあえずの案かと思いました(画像一番南の予備マーカーの下のユニットは移動モードにすべきでしたね)。小包囲を作られないようにするのが第一義的な狙いなので、戦闘モードのままで、相手の進撃を邪魔するようにリアクションすれば良いのではないかと思います(しかし一部は移動モードにしておいた方がいいような気がします)。

 予備モードにすると戦闘力が半減してしまうので、攻撃をかけられてしまう可能性もありますが、多分大丈夫なんじゃないかと……。




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 東半分(「長津湖の戦い」シナリオの領域)です。共産軍は第1ターンには基本的には、32.10にいる10-4-4と、35.12にいる9-3-3を、砲撃した上で全力攻撃というのがセオリーではないかと思いました。砲兵は「長津湖の戦い」シナリオでは9火力のものが2つ自由配置で、コラム的に、片方に1つずつ加配するのが良いと思われました。しかし「龍の登場!」シナリオの場合は、自由配置の砲兵がこちらにより数多く配分される可能性もあります。

 国連軍の予備マーカーは、画像のように置かれるのがとりあえず良いのではないかと思いました。リアクションフェイズに、10-5-4の海兵隊ユニットを33.10に移動させて共産軍ユニットが将来的にこのヘクスに入ってしまうのを阻止し、また興南(フンナム)で予備モードにしていた3ユニットは35.10に入れて、35.12にいる9-3-3が壊滅させられた場合でもこの道をブロックできるようにしつつ、33.12(☆印を付けたヘクス)に30火力で砲爆撃します(このヘクスに中国軍は大兵力をスタックさせざるを得ないのです)。

 海兵隊の砲兵ユニットと専用トラックは、予備のままにしておきます(共産軍がダブルターンを取った時のため)。




 あと、画像の左の方に赤い□で囲ったところの道路ヘクスが、ヘクスサイドで道路の種類が変わっています。通常はヘクスの中で道路の種類が変わるのですが。とりあえずこういう場所は、画像の例なら、右側からは1移動力→ヘクスサイド→0.5移動力。左側からは0.5移動力→ヘクスサイド→1移動力、ということにしようかと思いましたが、どうでしょうか。



 また、5.7「長津湖の戦い」シナリオの注意事項として、

1.サンセット和訳に対するエラッタ:
 国連軍の増援に、「追加のSPを日本から海上輸送することはできません。」という一文が抜けているのを発見しましたので、サンセット和訳をお持ちの方は書き加えておいていただければいいのではないかと思います。
OCS『KOREA』(v2.0)のサンセット和訳で反映済み以降のエラッタ(&エラッタまとめ) (2019/08/02)には追記しました)

2.またそれゆえ、このシナリオで国連軍は海上輸送力が2あるとされていますが、興南(フンナム)以外に港湾はないので、この海上輸送力には意味がないということになると思います。



 それから両シナリオ共に、

1.第3ターン(12月1日ターン)から小河川と湖は凍結します。

2.共産軍のイニシアティブのダイス目は、2.6bに従って+2されます。


OCS『The Third Winter』コルスン包囲戦シナリオをプレイする上での覚書

 OCS『The Third Winter』のコルスン包囲戦シナリオの第1ターンをVASSALで3人プレイしてました。その中で色々と、覚書にしておいた方が良さそうなことが出てきましたので、そこらへんのことを書いておこうと思います。



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1.まず最初に、申し訳ありません、私が訳した『The Third Winter』のサンセット和訳にミスが見つかりました(T_T)

 「サード・ウィンター シナリオ集」のP65(コルスン包囲戦シナリオの2ページ目)の頭、「VPが-4以下、または+19以上になった場合」とありますが、「-5以下」「+20以上」の間違いでした。belowとaboveなので、それぞれを含めないべきでした。単純なミスで申し訳ありません。サンセット和訳をお持ちの方は、赤ペンで修正を入れておいて下さい。


2.これは私が悪いのではなく原文での置かれている位置が悪いと思うのですが、同P66の「ソ連軍の増援」のうち、「44年1月29日ターン以降に5VPを払って使用可能」という増援が「44年2月1日ターン」と「44年2月5日ターン」の間に入っていて、「どういうこっちゃ」という感じになってます。赤ペンで囲んで、良さげな位置へ矢印を書いておいてもらった方が分かりやすくて良いと思います。


3.このシナリオではドイツ軍の大釜司令部はセットアップでマップ上に1 Pzのものがあり、それに加えて4 Pzのものが使用可能である、とエラッタにあります。ところが、OCS Depotの『The Third Winter』のページの(1つ目の)「Scenario Book」のリンクの後に、地の文でこう書かれています。

Scenario Book (Living Version 12 Aug 2021) - Note additional update 2 Sep 2021: In Scenario 8 (Scorpions in a Bottle), the Axis player has only ONE Kessel HQ which starts on the map. No second Kessel HQ is available.


 これを読むと、このシナリオで枢軸軍プレイヤーは大釜(Kessel)司令部を1個だけ使用可能で、2個目のものは使用可能ではないと読めるような気がします(そうでもない?)。しかし、エラッタの方が日付がより新しいのと、もし4 Pzが使用可能でないならば明らかにこのシナリオは破綻するので、4 Pzの大釜司令部は使用できるということで良いだろうと考えます。原文の2文目は、「セットアップ時には」という文言が省略されているという感じなのでしょうか?


4.このシナリオではマップ外ボックスには無限のSPはありません。しかし、シナリオ特別ルールで「プレイヤーは航空輸送任務のために、登場したSPをマップ外ボックスに配置することができます。」とあるので、それを運べます。第1ターンには両軍ともSPは登場しない(ソ連軍には増援でSPが来ますが、これは登場ヘクスが指定されているのでマップ外ボックスには置けません)ので、SPを航空輸送できるようになるのは第2ターンからです。


5.和訳には明確化で書いてありますが、このシナリオでの航空輸送は14.9e(航続距離の半分以内なら積載量2倍)に従って積載量を2倍にできます。ところがと言うか、今回、「マップ外ボックスに置いてあった戦闘機をマップ内に基地移動した場合、その戦闘機は非活動状態になるのだろうか? あるいは活動状態のままで良いのだろうか?(シリーズルールでは、航続距離の2倍までで基地移動して非活動状態になるか、(戦闘機のみは)航続距離内に基地移動して活動状態のままかのどちらか)」という疑問が発生しました。とりあえず、「積載量2倍」という明確化の話から類推して、活動状態のままで良いのだろうと考えました。


6.このシナリオではソ連軍の東側からの攻勢部隊と西側からの攻勢部隊が真ん中あたりで手を繋ぐわけですが、今回、例えば西側からの部隊が、東側から来た司令部からSPの支給等を受けても良いのだろうかという疑問が出ました。3.3bのE)によれば、正面軍の境界線マーカーを横切ってSPを受給したり支給したりはできない(一般補給に関しては制限なし)という話がありますが、このシナリオは境界線マーカーを置かないかのようなので、受給や支給も自由ということで良いのでしょう。


7.戦闘団マーカーはまったく隠して良いと思われます。→OCSでターン毎の補給や補充は非公開情報か、戦闘団マーカーは隠して良いのか? (2021/07/25)

<2023/07/09追記>
 ↑この件は、v1.2ではちょっと話が違ってくるかもということを認識しました。エラッタ等を和訳していってまた確認してみたいと思います。

 また、戦闘団マーカーは「移動フェイズ中にプールに戻して、即座に他のスタックに置く」ことも許されるようです。ただし、一度置かれた戦闘団マーカーを自分の意志でプールに戻せるのは「その後の移動フェイズ」という縛りはあるので、一つの移動フェイズ中に何度も置き換えはできないでしょう。


8.天候が「雪解け(Thaw)」になった場合、同時進行ターンがプレイされます。同時進行ターン中には先攻後攻は存在しなくなるため、雪解けターンでもイニシアティブは決定されるべきなのかということが我々の間で疑問点として出てきました。facebook上で質問したところ、「雪解けターンにも補給のダイスロールをし、イニシアティブを決定する。イニシアティブを獲得するために1SPを払うことができる」ということでした。

<追記ここまで>


 ここからは、ルール的な話ではなく、プレイ上のテクニック的な話です。

1.ソ連軍は歩兵で(損害度外視で)敵戦線に穴を開けて、その穴を通って戦車軍団等を前進させるべきなのでしょう。戦車軍団等で穴を開けて、しかもその戦車軍団等で包囲環を作るのは難しいだろう……との富山のKさんの見立てでした。なるほどです……!

2.ソ連軍は、コルスンから南に通る二級道路を封鎖して、ドイツ軍が逃げにくくすると良いかも。

3.↑のような方法で第1ターンに包囲環がかなり完成してしまう場合、ドイツ軍側はドニエプル川沿いに大釜司令部で一般補給が通せるユニットを確保して、VPを取りに行くべきなのでしょう。ただし、包囲環内の一部のユニットが小分けに小包囲されて、その時その時で補給が通らない状態にされて殺されるとソ連軍のVPになってしまうので、極力小包囲されないように。ドニエプル川沿いにいることによってドイツ軍が得られるVPは最大で20VP(4ユニット×雪解けでない5ターン)。

4.包囲環内に置く大釜司令部の位置は、第1ターン後攻増援フェイズ中の「自軍戦闘ユニットのいるヘクス」という縛りがあります。しかし、セットアップ時にドイツ軍ユニットがいるヘクス以外のヘクスに大釜司令部を置けた方が良い可能性がありそうです。ドイツ軍はセットアップの時点で予備マーカーを6つも持っているので、研究の結果「ここだ!」というヘクスがあれば、第1ターン先攻ソ連軍プレイヤーターンのリアクションフェイズ中に、そのヘクスにユニットを動かすというのはありかもしれないと思いました。


1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか?

 ↓で書いてました、「1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか?」ということが問いとして頭の中にありました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ進攻の要約 (2023/03/08)

 ↑から再度引用しますと……。

 この輝かしい成果【ビルマ攻略作戦の大成功】を前にして、二つのことが日本軍を驚かせた。一つは、なぜインド陸軍がこれほどまでに戦い続けたのかということである。同じアジア人なのだから、表向きは「残虐な主人」から自分たちを解放するためにやってきた人たちを歓迎するものと日本軍は思っていた。しかし、そのようなことはなかった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P338





 最近、(昔読んだ)『アーロン収容所』を読み返していたのですが、その中の記述でこの件に関してだいぶ分かってきた気がしました。






 以下、引用等は戦後の日本兵捕虜収容所まわりの話なわけですが、そこで見聞されたことは戦前、戦中でもほぼ同じことだっただろうと推察されます。



1.インド人はイギリス人を極度に恐れていた。

 イギリス本国兵は新兵でさえ、インド人に対しては士官であろうが下士官であろうが、まったく無視するような様子を見せていた。無理に軽蔑しているのでもなく、腫物にさわるようにふれないようにしているのでもない。インド兵の存在を全然認めないような態度である。私たち日本人にもイギリス兵が話しかけることは絶無に近かったが、インド兵とイギリス兵が、何かの公的な交渉以外に話を交わしているのも見たことはない。よくまあインド人はこのような最高の侮辱に耐えられるものだと感心するよりほかはない。
 【……】
 インド人はみんなイギリス人を「イングリ」といって極端に恐れる。黙って【日本兵捕虜の作業の】監督をしている【インド兵の】男でも、その付近にイギリス人が現れると途端に顔色が変る。その「イングリ」が自分の直接の上官であろうが、兵隊であろうが、それはどうでもよい。認めるやいなや「イングリ」とかれらは叫ぶ。それから「イングリ、イングリ、カモン、カモン」の連発である。近くに来て作業でも見ようものなら狂ったように私たちを督励しはじめる。立ち去ってしまうとやれやれという風に座りこんでしまうといった調子である。
 【……】
 インド兵はこちらの文句に対し口ぐせのように言った。
「自分はそうは思わないのだが、イギリス人がそうせよと言うのだ。仕方ない。やってくれ」
 私たちは捕虜である。仕方がない。しかしインド兵が心からそう思っているらしいのはまことに淋しかった。インド軍はイギリスから協力を要請されて戦ったのではないか。対等のはずではないか。インド人、それはイギリス人に対するとき、どうにもならないほど弱々しく、卑屈で不安気であった。
『アーロン収容所』P122,3


 最後の「インド軍はイギリスから協力を要請されて戦ったのではないか。対等のはずではないか。」という部分ですが、実際にはまったくそうではなく、完全に強制だったのだということなのではないでしょうか。そしてそれは、(当時の)イギリス人にとっては別にやましいことでもなんでもなく、インド人達を使役するのは自分達に「神によって与えられた権利」であり、インド人達(というか有色人種全体)を自分達と対等と見ることなどあり得ないという感覚だったのではないかと。

 というのは、『アーロン収容所』の最初のあたりにこういう記述があるからです。以下はイギリス人女性兵士に関する記述ですが、イギリス人男性兵士だったらよりマシだったということはなかったと思われます。ただし、スコットランド人部隊兵士がイギリス人の中ではいちばん紳士的だったというような話もあります(P85)。

 【……】私は捕虜の全期を通じ、たしかに私用だと思われる仕事をしたことがあっても、イギリス人からサンキューということばは一度も耳にしなかった。おそらくこのことばを聞いた【日本の】兵隊はいないであろう。
 しかも、【私用の礼としてたまにタバコを一本か二本くれる時でも】タバコを手渡したりは絶対にしない。口も絶対にきかない。一本か二本を床の上に放って、あごで拾えとしゃくるだけである。【……】
 この女たちの仕事で癪にさわるもう一つのことがある。足で指図することだ。たとえばこの荷物を向うへ持って行けというときは、足でその荷物をけり、あごをしゃくる。よかったらうなずく、それだけなのである。
 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女【イギリス人女性兵士】が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化も起こらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸い始めた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。

 【……】
 もちろん、相手がビルマ人やインド人であってもおなじことだろう。そのくせイギリス【人男性】兵には、はにかんだり、ニコニコしたりでむやみと愛嬌がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない。
 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。私はそういうイギリス兵の態度にはげしい抵抗を感じたが、兵隊のなかには極度に反撥を感じるものと、まったく平気なものとの二つがあったようである。もっとも私自身はそのうちあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人とおなじように、イギリス人はなにか別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。そうなってから腹が立つのは、そういう気分になっている自分に気がついたときだけだったように思われる。
 しかし、これは奇妙なことである。なぜ私たちは人間扱いにされないのか。しかも、なぜそのような雰囲気にならされてゆくのであろうか。もうすこし、いろいろの経験から考えてみる必要がありそうである。
『アーロン収容所』P47~51


 我々がたとえば(若い頃に)教室で水着にでも着替えていて、虫だとか鳥だとかウサギだとかが教室に入ってきても、恥ずかしいとは思わないでしょう。仮に猿が入ってきても、驚きはするでしょうが、恥ずかしいとは思わないでしょう。しかし、人間の異性(人種に関係なく)が入ってきたら「やべえ」と思うはずです。

 当時のイギリス人(白人全体?)にとって、有色人種は「猿」と同じような、裸を見られても恥ずかしい対象とは見られていなかったということなのでしょう。同書P46には、「イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。」とすらあります。


 戦前の日本は白人の植民地となることを免れていましたから、白人(イギリス人)による人種差別の話を色々聞いて普段から憤ることはあっても、実際に白人に支配された状態とはどういうことなのかは理解できていなかったということなのではないでしょうか(今の我々にとっては、当時の人よりも想像が困難であるだろうと思います)。


 この人種差別の感覚について、著者は下記のような推察をしています。ヨーロッパは土壌が痩せていて穀物だけでは生きていけないため、家畜を飼ってそれを屠殺したりして冬を越してきたこと等に関する話が関わっています。一方で東~東南アジアは、米の収穫量も栄養価も高いために動物をそれほど食べる必要はなく、むしろ大事にされてきました。

 かれらは多数の家畜の飼育に馴れてきた。植民地人の使用はその技術を洗練させた。何千という捕虜の大群を十数人の兵士で護送して行くかれらの姿には、まさに羊や牛の大群をひきいて行く特殊な感覚と技術を身につけた牧羊者の動作が見られる。日本にはそんなことのできるものはほとんどいないのだ。
 【……】
 しかし、生物を殺すのは、やはり気持ちいいものではない。だからヨーロッパではそれを正当化する理念が要求された。キリスト教もそれをやっている。動物は人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神によって創造されたという教えである。人間と動物の間にキリスト教ほど激しい断絶を規定した宗教はないのではなかろうか。
 ところでこういう区別感が身についてしまうと、どういうことになるだろう。私たちにとっては、動物と人間との区別の仕方が問題となるだろう。その境界はがんらい微妙なところにあるのに、大きい差を設定するのだから、その基準はうっかりすると実に勝手なものになるからである。信仰の相違や皮膚の色がその基準になった例は多い。いったん人間でないとされたら大変である。殺そうが傷つけようが、良心の痛みを感じないですむのだ。冷静に、逆上することなく、動物たる人間を殺すことができる。
『アーロン収容所』P68,9



 インドは第二次世界大戦の頃までに、300年くらいイギリスに植民地支配されていたのでしょうか。その間に、イギリス人に対する反抗精神を多くのインド人が失っていたのではないかと思えました。

 一方で、インド国民軍(日本軍に協力してインド独立を目指したインド人兵士部隊)に所属していた士官がイギリス側の理不尽な扱いに頑として応じなかったり、戦後も依然としてイギリスと戦っていたという話も同書に出てきました。ですから、インド人の中にはインド独立のためにイギリスと戦うということに命を賭ける覚悟を固めた人達もいたけども、「英連邦軍のインド人部隊」に加わったインド人兵士達は、「イギリスに逆らうことはできない」という感覚の中でいたのでしょうか。






2.日本軍がインド侵攻にまで成功したらインド軍部隊が寝返る可能性もあったかもしれないが、ビルマ侵攻成功だけでは無理だった。

 自動車部隊のあるインド人中尉は、水道工事をしている私たちに近よって来て言った。
「日本はよく戦った。えらい。ビルマからイギリスを追い払ったことで、私たちインド人もイギリス人と対抗できることを教えられたのだ」
 私は苦笑した。
「それならどうして君たちは日本と戦争したのか」
「それは君たちがあまりに自分の力を頼みすぎたからだ。君たちがビルマを征服したとき、すぐにインドへ来ればよかった。しかし君たちは傲慢になってラングーンで寝ていた」
 このインド士官は話がうまく、ここでいびきをかいてみせた。
「すぐ来たら私たちもイギリスに反抗したろうに。もうおそかった。
日本は世界中を敵にした。USA、イギリス、フランス、濠州、カナダ。私たちも勝つ方に参加する。そうしないと独立は得られない。【……】
『アーロン収容所』P150


 戦後の著者らの捕虜生活の中でさえも、インド人(ただしシーク教徒は除く)が日本人に友好的なことは、考えられないほどであったそうです。それはどうも、世界の支配者たることが当然なのであろうと自分達が諦めていた白人に対して、日本人は自分達で武器も飛行機も軍艦も作って一時はイギリス軍をさんざんに撃ち破ったとか、あるいは日本兵捕虜にしても何かを作ったり様々な技術を持っていたりすることに関して、感嘆の念を持っていた……ということにあるようです。

 ただそのような感嘆よりも、イギリスに対する恐怖が打ち勝っていたのでしょうね。


 また、もう一つ私が重要だと思うのは、インド人がビルマ人から非常に嫌われていたという話です。ビルマがイギリスによって征服された後、数十万のインド人がビルマ国内にやってきて色々あこぎな商売をやって金持ちになっていたりして、ビルマ人から蛇蝎のごとく嫌われていたそうです(それは「分割して統治せよ」というイギリスの政策であった側面もあったでしょうし、またビルマ征服の際の部隊もインド人部隊だったりしたのかもですね)。

 だとすると、ビルマ人は日本軍を歓迎していたけども、日本軍がビルマの領域に留まっている間は、インド軍部隊が日本軍側に立つのは極度に難しいでしょう。それこそ、引用したインド人中尉が言っていたように、もし日本軍がインド国内にまで入ってイギリス軍を散々に撃ち破っていれば、その時はインド人部隊が日本側に立つ可能性が、あったのかもです(後にビルマ独立義勇軍が、日本側から離れてイギリス軍側に立ったように)。




 一方で、戦中のインド人兵士がどのような気持ちで日本軍と戦っていたのだろうかとか、実際の作戦中のインド人兵士とイギリス人士官との関係性はどうだったのだろうかとか、そういうことに興味も湧くのですが、そこらへんが分かるような本が出てたりしないものでしょうかね……? インドのAmazonで検索したりしたら、そういう本が見つかったりするのでしょうか。


奈良県立図書情報館に、日本軍の部隊史本などが大量にありました

 先日、日本陸軍の「第○○聯隊史」のような部隊史本をネット検索で探しているうちに、奈良県立図書情報館という図書館にそれらが大量に蔵書されているということに気付きました。


 蔵書検索で、1942年のビルマ戦に関して記述がありそうなものを探しただけでこんなにありました(「聯隊」で検索して出てきたものと、1942年のビルマ戦の戦闘序列を見比べてチェックしました)。

歩兵第百十四聯隊史
歩兵第百十四聯隊の将兵達
火砲と共に : 山砲兵第五十五聯隊戦史
山砲兵第55連隊行動表
菊歩兵第五十六聯隊戦記
従軍回顧 : 輜重兵第三十三聨隊第四中隊(弓第六八二八部隊)(杉山隊), [ビルマ編]
砲煙 : 龍野砲兵第五十六連隊戦記
ビルマ戦線の追想 : 龍工兵第五十六連隊第二中隊
戰車第十四聯隊戰記
工兵第三十三聯隊戦記
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菊花清冽たり : 菊歩兵第五十五聯隊死闘のドキュメント
追憶 : はるけき戦場を偲んで


 図書館蔵書のコピーに関しても調べてみると、一冊の半分程度までなら許されるということで、1942年のビルマ戦に関してしか必要でないのでとりあえず問題なさそうでした。


 で、行ってみました。以前利用した大阪市立図書館の経験からすると、書名を検索してプリントアウトしたものを係の人に渡して出してきてもらうのだろう……と思い込んでいたのですが、これらすべてが本棚に並んでいました(「戦争体験文庫」というコーナーが割合としてかなり広く取られており、そこにありました)。しかも、同じ本が3冊ずつあったりとか。

 (一般的に?)コピーは係の人にやってもらう的な情報も見ていたのですが、ここは自分でやるという形でした。「本を出してきてもらう、コピーもしてもらう」だと結構時間がかかるような気がしていたので、そうでなくて良かったです。



 周辺には飲食店などは何もないのですが、館内にカフェがあってカレーやピラフなどが食べられ、また自動販売機で菓子パンなども売ってました。

 私は3時頃までに何とか、事前にチェックしていたもののコピーを取り終え、その後2時間ほどは実際に本棚を見回ってみて見つけた関係資料をコピー。

 すでに大枚はたいて購入してしまっていた部隊史本もあったりしましたが、一方でぜひ読みたい『第百四十三聯隊史』(第55師団所属で、ビルマ進攻作戦に最初期から参加しました)などはありませんでした(徳島県立図書館にあるのは確認しています)。


 また、「野戦重砲兵第○○連隊/大隊」や「独立自動車第○○大隊」というのが1942年のビルマ戦の戦闘序列に第15軍直轄として出てきまして、その戦闘序列に載っていた部隊の本はたぶん蔵書になかったと思うのですが、それ以外のそれらの部隊史の本をコピーはせずとも目を通して、「だいたいどういう部隊だったのか、編制はどうだったのか」を知る必要があるのかな、という気がしてます。他にも今回はチェックできなかったもので関係ありそうな本があるでしょうから、再度行くかもです。


 関西の人で部隊史本などに興味がある方は行ってみても良いのでは。私にとっては「1942年のビルマ戦に関してだけ情報が欲しい」ので、1冊の本に占めるページ数が少ないそれらを何冊もの本からコピーできるという点で大変ありがたかったです。

 なお、ヨーロッパ戦線に関する本は、古い本がほんの少しあるかな、という程度で、そちらに関しては大阪市立図書館の方がよほど充実していたと思いました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数

 砲兵ユニットですが、具体的な砲の種類と門数がいくらか特定できるケースがあることに気付きました。



 ↓第33師団の第3砲兵大隊ユニット。

unit8585.jpg


 このユニットは、↓で書いてましたように……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の各師団の砲兵戦力 (2023/03/25)
OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について (2023/03/28)


 75mm山砲(九四式山砲) 13.4ポンド 射程9800ヤード【約8961m】が、9門、ということになります(詳しく言えば史実では1個中隊欠で6門であったはずだけどもユニット化においては欠がないとして9門ではあるものの)。

 偶然ですが、1門で1砲爆撃力ということになってました。この換算は、OCS『Burma II』を参考に3倍スケールしたものなので、OCS『South Burma』(仮)を作っていく上で最も基本になる換算値であると個人的に考えています。




 次に、↓最初に日本軍とモールメンで対戦することになった英連邦軍側の砲兵である第12山砲兵大隊ユニットです。

unit8584.jpg


 この部隊はモールメン戦の時、榴弾砲4門であったそうです(この門数が定数かどうかは、まだ私は分かってません)。

 この榴弾砲は3.7インチであったそうなので、QF 3.7インチ山岳榴弾砲だと思われます。



 この日英の両方の砲のスペックを並べますと、

75mm山砲(九四式山砲)    射程 9800ヤード(約8961m)
3.7インチ山岳榴弾砲(94mm) 射程 5,899ヤード(5,394m)

 となります。


 実は、その昔ワニミさんがどこかで拾ったという「OCS_Unit_Calc_Sheet.xls」なるエクセルファイルがありまして、この中には大砲の口径ごとの係数が入っていました。それが参考にできるのではないかと、グラフを作ってみました。


unit8583.jpg



 エクセルファイルには94mmの項目はないのですが、このグラフで、だいたい0.28くらいではないかとあたりを付けることができます。


 これを参考にしますと、日本軍の75mm砲(係数0.257)は1個大隊に9門なので、

0.257 x 9 = 2,313

 で、砲爆撃力が2か3。OCS『Burma II』では3となっています。それを3倍したのがOCS『South Burma』(仮)の9という数値になります。


 このグラフがある程度参考にできるとすると、英連邦軍の3.7インチ榴弾砲(94mm:係数0.28あたり)が4門だと、

0.28 x 4 = 1.12

 で、3倍スケールだと、砲爆撃力3.36。まあ、3か、4かあたり。



 ただ、このエクセルファイルの出自も分からないですし、試しにOCS班長のチップ・サルツマン氏にメールで聞いてみました。

 すると、これらの係数は、OCSデザイナーの「出発点」を提供することを目的としたもので、その他さまざまな要因により砲爆撃力をデザイナーが決めていくことになる、ということでした。


 とすると、もちろん絶対的なものではないにしても、ある程度は参考にして良さそうです。


 今後、大砲の種類と門数がどれくらい判明するか分かりませんが、参考にしていこうと思います。




<2023/06/19追記>

 また、ミト王子さんがコメント下さいました!

 前に言及した「British and Commonwealth Armies 1939-43」によると、第12山砲兵大隊は特定できないものの旅団支援部隊の砲兵大隊は

 HQ(1 radio van,4 tracks, 4rifle secs,2AALMG)
  2 Troops,each:4×25pdr Mk2,5Quad tractors,radio van,2LMG
  OR 2 Troops,each:4×3.7″mountain guns,6 tracks,2LMG 

とありますから、第12山砲兵大隊も大隊としての定数は4×2の8門だったかも知れません。
 しかし「ビルマ 遠い戦場」では「第12山砲中隊の榴弾砲四門」としていますね。


 ありがとうございます!! 大変助かります~<(_ _)>


 とすると、山砲兵大隊の定数は、

0.28 × 8 = 2.24 を3倍して、6.72

 で、7か、あるいは8あたり。

 野砲大隊の場合だと、25ポンド砲が口径87.6mmだとすると、まあほぼ一緒なので、7か8あたりになりそうですね。


 モールメン戦の時は4門しかなかったとしても、とりあえず定数を基本とする方向で行こうかと思います。

<追記ここまで>


<2023/06/30追記>

 「Rangoon Field Brigade, R.A., B.A.F.」(ラングーン野砲兵旅団)の砲の種類と門数が分かる資料がありました。

Rangoon Field Brigade R.A. Burma Auxiliary Force.
(Armament, one Battery of four 18 pdr. guns)
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P24


 18ポンド砲は84mmだったということで換算でき、4ぐらいになりそうです。

 ところがこの資料で気付いたのですが、とりあえず無視することにしていたビルマ補助軍のものだったのですね。一応数値は変えた上で、オプションマークを付けておきます。

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ小銃大隊、ビルマ国境警備隊等をユニット化してみました

 続けて、OCS『South Burma』(仮)用のユニットで、ビルマ小銃大隊、ビルマ国境警備隊等を、見つけているものはすべてユニット化してみました。


unit8591.jpg



 中段と下段の、緑色のユニット(の、兵科マークの左側に「数字+Bu」とあるもの)がビルマ小銃(ライフル)大隊です。中段にあるものは序盤に前線に存在しているもので、下段に追加したのは、その他のビルマ全土に配備されていた1~14のビルマ小銃大隊です。キャンペーンの初期配置をするならば、それらもマップ上に置かれることになりますので……。


 ビルマ小銃大隊のレーティングに関する考察や、ビルマのどこに配置されていたかなどは↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:英印軍標準旅団の編成定員はおよそ3000名 (2023/03/06)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動 (2023/03/30)



 ビルマ国境警備隊(F.F.)もユニット化しています。それについては↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ国境警備隊(F.F.)について (2023/03/17)


<2023/07/15追記>

 その後、ビルマ小銃大隊やビルマ国境警備隊が強力すぎる気がして、全体に弱体化させてました。


unit8561.jpg


 また、『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』P404,5の1941年12月の在ビルマ英連邦軍の戦闘序列を見ていると、ビルマ小銃大隊の11、12、13、14は「Territorial(地域防備?)」用になっており、また9、10、14は編成中であったということだったので、それぞれ防御専用にしたり、弱体化させたりしてみました。


<追記ここまで>




 中段のインド人部隊(茶色のユニット)は、以前作っていたものをそのまま3倍の戦力にしただけです。

 中段のユニットは、所属の旅団名を兵科マークの右側に記載しているのですが、これ以前も、これ以後も、どんどん所属旅団や所属師団が変更されていたようです。なので、これらを書かない方が良いような気もしました。が、とりあえず現状ではセットアップ時などに分かりやすいので、このままにしておこうかと(消すのはすぐにでもできますが、また付けるのは面倒だったりしますから)。



 あと、ふと思いついて、第33師団の司令部の指揮範囲を8から10にしてみました。というのは、第33師団長の桜井省三中将は、第55師団長の竹内寛中将よりもはるかに優秀、かつ積極果敢だったと思われるからです(第33師団は中国大陸での実戦経験も豊富であったので、幕僚達のレベルも、実戦経験のない第55師団よりも優秀だっただろうと思います)。もっと差があってもいいような気もするのですが、テストプレイしてみてから……(第55師団の指揮範囲を狭くするべきかもです)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:3倍スケールでの日本軍ユニットを作ってみました

 OCS『South Burma』(仮)の、3倍スケールによる日本軍ユニットを作ってみました。


 3倍スケールに関しては↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)の1942年部分は、OCS『Reluctant Enemies』と同じ3倍スケールで (2023/03/01)




 ↓戦闘モード(表)面。

unit8596.jpg



 ↓移動モード(裏)面。

unit8595.jpg




 歩兵大隊の戦力値が、第55師団では6、第33師団では7の件に関しては↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について (2023/03/01)





 砲兵はOCS『Burma II』において1個大隊が3砲爆撃力で、ビルマ侵攻時には両師団とも大体1個連隊の1/3程度の砲兵力であったらしい(いまいち確定しきれてないですが)ので1個大隊程度あったものと解釈し、その3倍で9としました。そこらへん関係のこれまでのブログ記事は↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の各師団の砲兵戦力 (2023/03/25)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について (2023/03/28)




 第55師団のみは捜索連隊(実質は騎兵の大隊)を持っていましたが、定数からいくつかの部隊が抜かれていました。

25. 第55師団は、3個騎乗歩兵中隊、1個機関銃中隊、1個装甲車中隊、1個対戦車砲中隊を擁する捜索「連隊」【実質的には大隊】を有していた。彼らは自らを「騎兵」連隊(「最後の騎兵」)と称していた。1個騎乗歩兵中隊と機関銃中隊と対戦車砲中隊の一部はグアムへ派遣されており、この作戦には参加していない。

26. 騎乗歩兵部隊は、折りたたみ式銃剣を装着した軽小銃であるカービンで武装していた。両師団の軽装甲車中隊は、ラングーンが攻略されるまで到着しなかった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377

(この引用は、OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について (2023/03/28)から)

 一応、4個騎兵中隊+各種3個中隊のうち1個中隊+αが抜かれていると考え、仮に定数で6戦力だとすると抜かれて5戦力くらいかなぁ……とレーティングしました。

 アクションレーティングはOCSでは通常、捜索大隊とかは高めにされますし、日本軍でもそういう感じだろうと思いますので、第33師団は基本AR3なんですが、4に。OCS『Burma II』を見ると、第18師団と第56師団のみが捜索大隊(騎兵大隊)がユニット化されており、AR5ですが、両師団は基本的に歩兵大隊もAR5なのであまり参考になりません(^_^;

 あと、OCS『Burma II』では捜索大隊(騎兵大隊)の移動力は戦闘モードで4、移動モードで10になっていました。『South Burma』(仮)では現状、移動モードでは8にしてますが、どうでしょうね。10だと便利すぎるような気もするのですが、8でも大差ない?




 日本軍の工兵大隊に関しては、これまでのブログ記事での情報集積は(多分)していなかったようです。

 OCS『Burma II』では日本軍の工兵大隊もおおいにユニット化されているのですが、レーティングに関しては歩兵大隊とまったく同じとなっています(工兵能力もない、単なる歩兵扱い)。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍ユニット。

unit8597.jpg

 「Eng」(Engineer)とあるのが工兵です。



 OCS全体ではこういう扱いは希有なことで、工兵がわざわざユニット化されている場合には通常の歩兵よりは結構弱体で、工兵能力(架橋や建設)のために使用され、敵の襲撃に備えて他の歩兵ユニットを一緒にスタックさせておかないと危ない……という感じが多いかと思います。

 『South Burma』(仮)は3倍スケールですので、工兵に関して『Burma II』より細かい扱いをしなければならないでしょう(>_<)

 参考に、同じく3倍スケールのOCS『Reluctant Enemies』に入っている工兵ユニットは↓こうなっていました(OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍の工兵部隊について (2023/03/13)から)。

unit8636.jpg

 左のが「2/5+6」大隊で3戦力、右のが中隊で(2)戦力。どうも見ていると『Reluctant Enemies』では他の中隊(対戦車中隊とか歩兵中隊とか)でも2戦力となっているので、「大隊は6戦力、中隊は2戦力」というやり方になっているのでしょうか。

 前記の「2/5+6」大隊で3戦力というのは、「2/5」と「2/6」が合体されたものなんでしょうけども、それぞれが中隊? (4)ではなく3というのは、何らかの理由があるのかもしれません。


 日本軍の工兵部隊について改めて少し調べたところ、基本的には3個中隊で1個連隊(実質的には大隊)であったようで、かつ、この時の第33師団、第55師団の両方ともが1個中隊欠であったようです。そうすると4、あるいは(4)あたりが妥当なのかもですけども、個人的には工兵大隊が歩兵大隊とまったく同じように攻撃し、防御できるというのは違和感を感じるので、1減らして3にしようかと。で、日本軍の工兵大隊は防御専用の(3)ではなく、攻撃もできる3でも良いのではないか……(英連邦軍の工兵は防御専用とか?)。

 工兵能力は、ビルマ戦においては架橋に関して非常に重要であったようですので、ありで。ただし、普通の歩兵大隊よりは少し遅れてゲーム上に増援として登場し、後から追及してくるという感じのようです。もしかして、移動モードの移動力を少し悪目にレーティングするとそれっぽいかも?



 またいくらでも様々な理由によりレーティングは変更されることになると思うのですが、とりあえず。

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍は人道的で、現地民に何も悪いことをしなかったのか?

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を再びDeepL翻訳で読み進めてました。






 以前、『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』を読んでブログ記事を書いていた時に、「この本では、東部戦線のイタリア軍は現地民に(ドイツ軍がひどいことばかりしたのに対して)人道的なことばかりして、ひどいことはほとんどしなかった……という感じで書かれているが、本当だろうか?」ということが気にかかっていました。

 ↓そこらへんについて書いていたもの。

『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)

東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)

東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)

メッセ将軍率いるイタリア軍のロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)の人道的な態度まとめ(付:OCS『Case Blue』) (2019/10/06)



 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』にはそこらへんの分析も載っているということで楽しみにしていたのですが、ようやくそこまで辿り着きました。結論としては、イタリア軍兵士がひどいことを全くしなかったとは(当然ながら)言えないものの、そもそもイタリア軍にはどちらかと言えば人道的に振る舞う十分な理由があったということでした。

 ジュスティは、ドイツ軍とイタリア軍の行動の違いの説明として、占領の概念の違いを指摘した。ドイツ軍のレーベンスラウム【生存圏】・モデルが人種階層に基づく完全な【現地民の】服従と絶滅を想定していたのに対し、イタリア軍のスパツィオ・ヴィターレ【生存圏】は現地民を含めようとするものだったのだ。つまり、これは「文明化作戦」であり、「野蛮な」暴力が組織的に用いられたのでは、 うまくいかないというのである。 スコトーニとヴァーチュは、イタリア軍の占領政策における残虐性の低さについて同様の理由を挙げている。すなわち、イタリア軍の占領地域はそれほど広範囲ではなく、イデオロギーの影響は小さく、そしてプロパガンダによりイタリア軍兵士達はソ連国民(特にウクライナ人)を「概して肯定的に見るようになった」。要するに、兵士達の人間性がというよりは、イタリア軍の意図と目標が彼らの行動の基調となったのだと。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P244

それでもなお、イタリア軍は一般的に「戦争中にひどい略奪者とみなされることはなく」、また強姦をしがちともみなされていなかった(同様の証言はルーマニア軍とハンガリー軍に関しても見られる)。とはいえ、ドイツ軍は、長い冬の休息を終えて東に移動した第35軍団(旧CSIR)による「市民住民に対する行動に関して、かなり不快な事例」を報告しており、イタリア軍兵士は村を焼いたり、 罪のない人々を射殺したり、売春を強要したり、略奪をしたりなどの暴虐的な行動に関与したりもしていたのである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P246,7

 イタリア軍兵士達はヒトラーの兵士達のように犯罪行為への白紙委任を受けることはなかったし、ドン河での敗北後も「イタリア軍兵士が現地民に対してより暴虐になることはなかった」。実際、彼らを聖人君子と見るべきでないが、撤退時に襲撃するジャガーノート【恐ろしい犠牲を強いる絶対的な力や存在】でもなかった。ベルクホフによれば、「1943年夏に再びウクライナを通過した時でさえ、イタリア軍兵士達はドイツ軍が分け与えることを拒否したドイツ軍側の食料を略奪し、現地民のために仕事をして食糧を分けてもらい、食糧をもらうために歌ったり(このため、「やってくるテノール達」と呼ばれた)、ソ連軍側のビラを配布したり、あるいは自分達の武器まで売ったりしていた。都市住民は、自分達もほとんど食糧を持っていなかったのに、イタリア軍兵士達に食糧を分け与えたのだ。」という。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P248,9

 【イタリア兵の】回想録は、驚くべきことではないが、イタリア兵と原住民との間の友好的な関係の話で溢れている。しかし、学者がこうした文書を額面通りに受け取ることには注意が必要である。手記だけでなく、ソ連軍が捕獲した手紙であったとしても、資料としての有用性には疑問符を付けねばならない。民間人への虐待や、捕虜の射殺は、故郷の愛する人達との話題としては相応しいと言えないであろう。だが、スコトーニはロシア軍側の資料に基づき、アルピーニ軍団がヴォロネジ周辺の占領地で過度な強制による支配を行わなかったことを実証している。イタリア兵達は防御陣地を作るために民間人から物資を奪い、強制労働に従事させたが、【占領地での】日常生活を大過なく送るためには、現地の自治体との協力が不可欠だった。このやり方は、イタリアの占領地で一般的に行われており、代表者の選出、司法権の強化、衛生的・精神的な援助が含まれていた。実際、解放後のヴォロネジ行政区の市民に対するソ連側の聞き取りによると、市民、捕虜、パルチザンに対する略奪と暴力事件約175件のうち、イタリア軍の犯行はわずか5%だった(ドイツ軍が60%、ハンガリー軍が35%)。これにより、イタリア兵は戦争犯罪を犯さなかったわけではないが、同じ地域のドイツ兵やハンガリー兵よりもはるかに少ない頻度であったことが改めて明らかになった。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P249,250


 イタリア軍の補給状況は、ドイツ軍のみならず、もしかしたらより本国に近いハンガリー軍やルーマニア軍よりも悪かったのではないかとも思われるので、そんな中での難しさもあったのではないかと思ったりも。

 東部戦線のイタリア軍が現地民に対して基本的に人道的であったことに関して、手放しで褒めるわけにはいかないものの、しかし頻度においてそういう違いがあったということに関しては、より知られるべきではないかなと思います。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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