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OCS『KOREA』の5.3 洛東江攻防戦シナリオの、北朝鮮軍側の指針案

 今ミドルアース大阪で、超初心者のかわかみさんとOCS『KOREA』の5.3 洛東江攻防戦シナリオをやってみていってます。


 OCS初心者のしばたさんとかわかみさんはご近所だそうで、お二人でこのシナリオをやってみようとしてみたものの、まずは最初のターンに北朝鮮軍側が何をどうすればいいか分からなかった……という話を最初に聞きました。

 そこで、とりあえずの案を書いてみました。もちろん、これは一つの案に過ぎず、他の色んな案があり得ると思います。OCSは選択肢がものすごく広いゲームシステムですし。



 ↓OCS『KOREA』の5.3 洛東江攻防戦シナリオの初期配置。

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 まず、基本方針としては↓のような感じが良いのではないでしょうか。

1.削れる国連軍のユニットを削っていき、自軍はほぼ損害を受けないような戦闘比のみで攻撃するということを基本とする。ダイス次第の低比率攻撃はせず、また土地的な進撃も狙わない(というか、そんなことをできる強力な部隊群がない)。

2.基本的に、砲撃でDGにできた場所を攻撃する。DGにできなかった場合(よほど優位でなければ)攻撃しない。これによってSPを節約し、自軍の損害も最小化し、長期的に攻勢をかけ続けられる余力を確保する。

3.できるなら、(戦闘補給が必要ない)小包囲で敵ユニットを削る。

4.敵の強力なスタックは砲撃でDGにして、戦闘力や移動力を減殺しておく。

5.国連軍側は、北朝鮮軍後方の司令部などを踏もうと思えばそれができるだけの移動力の大きさ、戦力、補給の融通は持っているので、後方の守備は手を抜くべきではない。


 私自身は、このシナリオは北朝鮮軍にとっても国連軍にとっても「我慢が重要」であると思っています。ただもちろん、ダイス目でだいぶ変わりますし、派手なことが好きな方は多いですから、派手なことをやりあうというのも面白いでしょう。勝利条件のバランスとしては、史実で国連軍が確保していた場所を国連軍が確保していれば国連軍側が勝利しますし、北朝鮮軍が勝利するのは難しくなっているとは思います。



 また、北朝鮮軍はセットアップで6SPと2x輸送ワゴンを自由配置できることになっており、この配置も非常に悩ましいのですが、基本的には「(抽象的に)どこにでもある」ということにしておき、消費していくのが良いと思います。そのうちに「作戦上ここに置いておきたい」という案が思いつくようになったら、その時にそこに置けば良いでしょう。もしこのシナリオをガチ対戦することになったら、その時はちゃんと全部セットアップするようにしたらいいと思います。





 それ以外の、「こうするのが良いのではないか」という案を複数挙げておきます。


 鉄道輸送力が2RE(8T)分あり、最初の方のターン中は前線にSPが豊富でSPを運ぶ必要はないので、ユニットを鉄道輸送するとよいでしょう。鉄道輸送は移動モードでしか行えないことに注意して下さい。
 一つの案として、北西端の平沢(ピョンテク)(C33.35)にいる第9歩兵師団を、複線だけを通して金泉(キムチョン)(C44.24:Kumch'on)に運ぶとします。第9歩兵師団は3RE(12T分)ですが、OCS4.7b【移動モードの移動力が1~6の徒歩タイプのユニットは、輸送時のRE換算が半分になる】と、OCS13.3a【積載物が完全に複線だけを通る場合には、鉄道輸送コストが半分になる】により、半分の半分、つまり0.75RE(3T)分しか消費しません。
 西岸の群山(クンサン)(C28.22)にいる4-3-3分遣連隊は、南岸の順天(スンチョン)(C37.10)に送るのが良いのではないでしょうか(ただし群山(クンサン)は国連軍に占領されると補給源になり、大変なことになりますから、長期的には守備隊を置くべきだと思いますが)。1REがOCS4.7bによって半分になり、0.5RE(2T)を消費します。
 この2つを行った場合計1.25RE(5T)を消費しますが、依然として0.75RE(3T)分残っています。この残りの鉄道輸送力でこのターンに天安(チョナン)(C33.33)に登場させたSPを金泉(キムチョン)まで運ぶとすると、すべて複線なので半分で良いため、6Tを運べます。


 国連軍の初期配置のユニットの内、最も北西にいる韓国軍ユニット2つ(第6歩兵師団第2連隊と第1歩兵師団第15連隊)は、攻撃せずに補給源との連絡線を断ってしまうという方法があり得ます(ただしこの方法は気を付けなければならないことがかなり多いのに比して、国連軍側のダイス目によっては全然うまくいかないので、初心者の方はまったくやめておいた方がいいかもしれません)
 その際気を付けると良いこととして、以下のことがあると思います。
・韓国軍ユニットに隣接するヘクスにいると、韓国軍ユニットは戦闘モード(3移動力)でオーバーランが可能になるので、1ヘクス以上離れておくこと。
・平地は韓国軍のオーバーランが成功しやすくなるので、やや強めのユニットを置いておくこと。
・包囲環の中に閉じ込める際に、それらの韓国軍ユニットが5移動力で国連軍の司令部から一般補給が引ける場所には行けないように、東と南方向を完全に包囲しなければなりません。また、戦略移動モードの10移動力でも行けないようにすべきです。
 ダブルターンを取れた場合、より多くのユニットを小包囲できる可能性が生じますので、もし可能なら狙っても良いのではないでしょうか。ただし、自軍司令部のいるヘクスがオーバーランの対象になっても耐えられるだけの戦力をそのヘクスに置いておくべきです。



 北東端の盈徳(ヨンドク)(C59.28:Yongdok)方面では、盈徳(ヨンドク)の南西にいる4-3-3分遣連隊を壊滅(あるいは退却)させることで、盈徳(ヨンドク)にいる残り2ステップの歩兵師団を包囲できる可能性があります。
 この作戦は戦闘補給なしで敵2ステップを削れる可能性があるという点で魅力的ではあるのですが、最初の攻撃自体が失敗する可能性も結構あるのと、仮に包囲できても包囲環の中からオーバーランされたりして結局包囲環が破れてしまう可能性も高いものがありました。
 そこで現在、私はこの方面で包囲を狙うのはやめにして、その西の方のC54.27にいる3-2-3分遣連隊を確実に壊滅させるという方策が良いのではないかという案に傾いています(私はダイス目が悪いので、より確実な方を狙うということもあります)。この場合、その南方に固まっている国連軍ユニット群によって北朝鮮軍側の後方が狙われるのも阻めるので、その意味でも良さそうに思います。



 北朝鮮軍は馬山(マサン)(C49.13:Masan)を占領しなければなりませんが、もう一つの勝利条件都市である大邱(テグ)(C50.21:Taegu)を占領するよりも難しいだろうと思います。それどころかこの方面で反攻を受けて早期に、馬山(マサン)の占領どころではなくなる可能性もあると思います。
 それを防ぐためには、この方面に初期から増援を送ること、また、C48.13にいるアメリカ軍の5-3-3歩兵連隊は最初の国連軍ターンにアップグレードされてしまうので、それまでにできれば壊滅させることが重要なのではないでしょうか。
 また、馬山(マサン)の港湾は北朝鮮軍ユニットのZOCを及ぼしても一般補給源のまま(海上輸送はできなくなります)であり、もし完全包囲したとしてもOCS19.0aのプレイノートにより一般補給源であり続けますが、砲兵で対施設砲爆撃して港湾に1ヒットを与えれば、一般補給源ではなります(司令部で修復しない限り)。状況によっては狙ってもいいでしょう。



 北朝鮮軍は、橋(小河川を渡る二級道路)を確保することに関して、優先順位を高めにした方がいいでしょう。橋の両岸を占領できるなら、いくらか損害を食らっても構わないと思います。橋を確保すれば進撃路が開けますし、一般補給を通すのも楽になります。特に、大邱(テグ)の北西の橋と、永川(ヨンチョン)(54.22:Y'ongch'on)を早期に押さえられるかどうかはかなり重要ではないかと思いました。この永川(ヨンチョン)の初期配置は、ルールブックでは砲兵ユニットも置かれることになっていますが、これはミスで置かれないべきであるようなので、アクションレーティングが0ですから狙い目です。




 もし国連軍が、北朝鮮軍後方の司令部などを狙って攻勢(あるいは小戦力での突進)をかけてきた場合は、北朝鮮軍によって勝利条件ヘクスを狙うのをいったん放棄してでも、向かってきた敵部隊を全力で削るために方向転換するのが有効だと思われました。というのは、敵は地形効果の薄い場所に出てきてかつ補給線も長くなるのに対し、北朝鮮軍にとっては補給線が短くなって後方守備隊をも動員でき、そして敵戦力を削ることのできる絶好の機会であるからです。ちなみに、北朝鮮軍の2つの司令部のうちどちらか1つが踏まれるだけなら、それほどダメージにはならず、依然として全軍に一般補給を通し続けるのは難しくありません。




 北朝鮮軍が第2ターンのイニシアティブを取った場合(北朝鮮軍はずっと、イニシアティブのダイス目に+2できるので可能性は高いです)、悪天候(ノーフライト)であるならば第1ターン後攻・第2ターン先攻のダブルターンを取ればよいと思いますが、もし晴れ(フライト)であるならば、先攻を国連軍に取らせた方が良いと思いました。というのは、

第1ターン 悪天候(ノーフライト) 後攻:北朝鮮軍

 で始まるわけですが、この時点で国連軍の超強力な空軍はすべて活動状態です。この状態でもし、

第2ターン 晴れ(フライト) 先攻:北朝鮮軍

 とダブルターンを選択した場合、この先攻プレイヤーターン中、国連軍の空軍は「全部使わねば損」であり、全空軍力で北朝鮮軍の攻勢が邪魔されることになります。そして続けて、

第2ターン 晴れ(フライト) 後攻:国連軍

 のプレイヤーターンですべての空軍が活動状態にされ、ほぼ全力で空軍力が使用されるでしょう(空軍力をいくつか残しておくとしたら、第3ターンの先攻が北朝鮮軍となった場合のためにですが、先攻国連軍となる可能性もありますから、ほぼ全部使った方が国連軍側は得でしょう)。

 ところが、「晴れたらダブルターンは諦めて国連軍に先攻を取らせる」場合、

第2ターン 晴れ(フライト) 先攻:国連軍 → 後攻:北朝鮮軍

 という流れが確定しますから、もし国連軍側が自軍プレイヤーターン中に全力で空軍力を使用すれば、続く後攻北朝鮮軍プレイヤーターン中には空軍での邪魔がまったくできなくなります。逆に、邪魔するために国連軍プレイヤーが空軍力を残しておくことを選択すれば、自軍プレイヤーターン中には空軍力の使用を抑えなければなりません。

 北朝鮮軍側にとっての最大の敵は「暴威とも言えるほどの国連軍の空軍力」であり、天候はダイス目次第なのでしょうがないのですが、イニシアティブを取った場合にはこの方法で敵の空軍力の使用をなんと半分程度にまで抑えさせることができるわけです。

 「悪天候ターン」→「晴れターンでイニシアティブ獲得」となるたびにこの方法が使用できますから、基本的には(ダブルターンよりも)このやり方をした方がいいのではないかと思いました。



 あと、「対空軍力」という話で言えば、北朝鮮軍プレイヤーは「自軍の本当の主力」のスタックを高くするべきではありません。というのは、高いスタックは国連軍の砲爆撃の対象に選ばれやすいからです。むしろ、「本当は弱い高いスタック(ハイスタック)」を作ってそれがあたかも敵の重要な地点を狙っているように見せかけて、「自軍の本当の主力」は低いスタックにしておいた方がいいでしょう。
 基本的には、北朝鮮軍は低いスタックを広く展開させるのが基本だと思います。例外としては↑のような「囮」の場合と、「敵に狙われることが明らかで地形効果が少ない場合」、つまり司令部のいるスタックや、あるいは平地に自軍部隊を置く場合かと。





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『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を続けて読んでましたら、次の項目が「GERMAN RATINGS OF ITALIAN OFFICERS」であり、ドイツ軍側からのイタリア軍の上級指揮官達の評価が載っていました。

 私は個人的に、おおむね師団長以上くらいの指揮官の能力やキャラクター像に関して非常に興味がありまして、国籍に関係なくそこらへん好きですが、イタリア軍のそういう情報は希少で、「キター!」となりました(^^)


 とりあえずまず、東部戦線のイタリア軍の編成ですが、当初の「イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR)」(司令官はメッセ)が1942年5月に拡充されて「イタリア第8軍(「ロシア戦線イタリア軍(ARMIR)」とも)」(司令官はガリボルティ)となり、その麾下に3個軍団を持つようになります。しかし、1942年の12月中旬からの小土星作戦、1943年1月中旬からのオストロゴジスク=ロッソシ作戦で大打撃を受け、1943年3月に残余の兵士達はイタリアへ帰還することになりました。


 細かい部隊を除いて師団クラス以上だけ記すと、↓のような戦闘序列です。

第35軍団(元のCSIR)
 アオスタ侯アメデオ皇太子快速師団
 パスビオ(自動車化可能)歩兵師団
 トリノ(自動車化可能)歩兵師団

第2軍団
 スフォルツェスカ歩兵師団
 ラヴェンナ歩兵師団
 コッセリア歩兵師団

アルピーニ軍団
 トリデンティーナ山岳歩兵師団
 ジュリア山岳歩兵師団
 クネーンゼ山岳歩兵師団
 ヴィチェンツァ守備歩兵師団


 ↓OCS『Case Blue』の上記師団や司令部ユニット。

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 まずは、第35軍団の司令官であったメッセと、その後任のツィンガレスについてです。


Giovanni MesseGenerale Francesco Zingales

 ↑左がメッセ、右がツィンガレス(Wikipediaから)


 メッセは、東部戦線のイタリア軍将兵の中で最も有能であったと評されている。彼は、理解が速く、明確な命令を下し、自分が責任を負うことや、任務に適さないと思われる将校を追い出すことを避けない人物として描かれている。それ故、ある報告書はこう結論付けた。 「ドイツ軍の軍服を着ていれば、誰もが彼をドイツ軍の将軍と信じただろう。」 彼がイタリアに呼び戻された【1942年11月1日?】後、ドイツ軍の連絡将校は、彼の強い性格と統率力を部隊の者達が恋しがっていると指摘した(注205:付け加えて言えば、彼の参謀長や他の多くの経験豊富な将校も部隊を去ってしまっていたのである)。メッセの後任のフランチェスコ・ツィンガレスは野心家であったが「軍事能力は平均的」で、あまり親独的ではない人物であると見られていた。実際、1942年3月のイタリア軍の昇格審査会は彼を昇格させることに全会一致で反対票を投じていたのであり、ドイツ側も同様の結論に達したというわけである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P220


 メッセ将軍については以前、↓なども書いてました。

東部戦線におけるイタリア軍のメッセ将軍 (2017/05/22)
イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた) (2020/10/09)


 メッセ将軍は東部戦線からイタリアに帰った後、北アフリカ戦線で指揮し、最終的にはロンメルの後任(軍司令官)となりました。OCS『Tunisia II』で言うと、マレトラインの戦い以後の、リビア方面からの部隊を率いていたことになります。

 またツィンガレスの方は、最初に東部戦線に向かうイタリア軍の司令官となるはずだったところが病気になってその職をメッセに譲り、一時北アフリカで第20軍団を指揮して「イタリアのグデーリアン」と呼ばれたらしい(『砂漠のキツネ』P132)ですが、その後東部戦線でのメッセの後任となり、イタリアに帰って今度はシチリア島の戦いでイタリア第12軍団の司令官として戦ったそうです。今までゲームをプレイしていた時に、割と軍団長としてゲーム上にいたことになりますね……(^_^;





 次に、イタリア第8軍の司令官であったガリボルディと、その参謀長ブルーノ・マラグーティについてです。ガリボルディは北アフリカ戦線で初期にイタリア軍側の司令官を務めており、その頃のことを↓で書いてました。

イタリア軍のガリボルディ将軍とメッセ将軍とテレーラ将軍 (2017/05/27)
イタリア軍のガリボルディ将軍の解任の理由、その2 (2017/07/08)

ItaloGariboldiGen. Bruno Malaguti

 ↑左がガリボルディ、右がブルーノ・マラグーティ(Wikipediaから)

 ガリボルディは北アフリカ戦線で非常に非協力的なパートナーであったという評判を得ており、それはロシアでも追認されたが、以前の経験がドイツ軍の見方に影響を与えた可能性もある。1942年12月20日にカヴァッレーロは、イタリア軍内でさえも【小土星作戦による?】敗北をガリボルディのせいにする傾向があると指摘している。イタリア軍の撤退後、マラス将軍は1943年3月に戦線との間を訪問した。ドイツ軍のフォン・マッセンバッハ大尉が彼に同行しており、後にイタリア軍上級将校の印象を書き留めた。彼はガリボルディを「年老いた、白髪【原文はwhite-hearedだが、hairedだと理解して】の紳士で、非常に寡黙で、活気が全くなかった。完全に無気力で、諦めたような印象だった」と評している。しかし、彼の参謀長であるブルーノ・マラグーティは、非常に肯定的に広く評価されており、それは撤退後でさえも同じだった。マッセンバッハは彼を、誠実かつ非常に有能(重要な命令はすべて自分で起草する)であり、常に情報を集め意見を聞く、軍の人的管理の中心であったと評した。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P220,1







 次に第2軍団関係の指揮官ですが、Wikipedia上の項目は軍団長のジョヴァンニ・ザンギエリと最後に出てくるミケーレ・ヴァッカロのみのようで、Wikipedia上では写真は全然見つかりませんでした。

 第2軍団の司令官や幕僚は、あまり好意的な評価を受けなかった。軍団長のジョヴァンニ・ザンギエリは、悲観的な王政主義者で、無能な軍人だと思われていた。フォン・ティッペルスキルヒ【ドイツ軍側の連絡将校】は、彼を「まったく役に立たない、価値のない人物」とまで評した。ガリボルディも、ザンギエリの命令は分かりにく過ぎると考え、実際に実行されたかどうかを確認しなかったと言われている。ザンギエリはドイツ国防軍に対して協力する意志がなく、それは彼の参謀長であったウーゴ・アルミーチ大佐も同様であった。アルミーチはドイツ国防軍に対して「非常にイライラして」おり、ほとんど「敵対的」な態度をとっていると描かれている。第2軍団麾下の師団長達はより良い評価を受けていた。ラヴェンナ歩兵師団では、師団長のエドアルド・ネビアは非常に敏腕であると報告されており、彼の参謀長(後には師団長となった)であるフランチェスコ・デュポンは、このように評された。「活発、有能、意欲的な性格。優秀で思慮深い、まとめ役となる指揮官であり、ロシアでの他のイタリア軍師団長に比しても優秀であり、また彼はドイツ軍に特に積極的に協力する姿勢を示した」。非常に批判的なティッペルスキルヒでさえも、イタリア軍の撤退後(!)に他のドイツ軍将校達との話の中で、デュポンを「東部戦線で最高のイタリア軍師団長」と呼び、彼が兵士達の面倒をよく見たことを強調した。【……】

 スフォルツェスカ歩兵師団の師団長であったカルロ・ペッレグリーニ将軍は、軍人および植民地での将校として経験豊富であり、広く尊敬され、部下達にとって必要な存在であると賞賛された。彼の参謀長であるジョバンニ・フィオーレは、ファシスト四天王の一人であるチェーザレ・マリア・デ・ヴェッキの義理の息子であったが、あまり良い印象を持たれていなかった。ドイツ軍は、(砲兵出身であった)彼の歩兵部隊の扱いにある種の欠陥があることに気づいていたが、危機的状況において彼が堅固であったことを指摘している。【スフォルツェスカ歩兵師団の暫定指揮を執った】ミケーレ・ヴァッカロ将軍は、怠惰で肥満していたが、それでも勇敢な軍人であり巧みな戦術家であると見られていた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P221~3






 最後に、アルピーニ軍団関係の指揮官です。最後のマリオ・カルローニは快速師団隷下の連隊長だと思いますが、アルピーニ軍団と共に撤退戦を行ったのでここに書かれているのでしょうか。

Nasci GabrieleReverberi don gnocchi

 ↑左がアルピーニ軍団長のナッシ、右がレヴェルベリ(Wikipeidaから)


unit8611.jpgMario Carloni

 ↑左がバッティスティ、右がカルローニ(Wikipediaから)


 アルピーニ軍団の指揮官達は、評価の平均値がさらに高かった。【アルピーニ軍団長の】ナッシ将軍は、極めて有能で、兵士達とも身近に接し、1月の作戦【1943年1月13日からのソ連軍のオストロゴジスク=ロッソシ作戦】時の戦いは見事であったと評価された。レヴェルベリ将軍(トリデンティーナ歩兵師団長)は優秀な軍人として賞賛され、クネーンゼ歩兵師団長であるエミーリオ・バッティスティ(1889-1971)は模範的な指揮官であると評価された。彼は退却に際して騎乗して軍の先頭に立ち、その落ち着いた統率によって兵士達に自信を広めたのである。これは、兵士達がその将校達を全面的に信頼していたという主張を裏付けるものであろう。ナッシ、レヴェルベリ、バッティスティは、飛行機で脱出するのを拒んで兵士達と共に前線にとどまり、争奪戦の舞台となった村での反撃の指揮を自ら執った。マリオ・カルローニ大佐(当時)は、勇敢で優れた指揮官であると繰り返し言及されており、ドイツ軍に非常に協力的で、絶望的な状況においてさえ練達した指揮振りを見せた。カルローニが指揮するベルサリエリ第6連隊(快速師団隷下)は12月中旬から後衛を形成し、その後多くのアルピーニ部隊と共に戦った。撤退は混乱し、多大な損失を受けていたにもかかわらず、カルローニの部下達はドイツ軍部隊と共にまとまった部隊として戦い続け、秩序を維持したままゴーメリ(Gomel)まで辿り着いたのである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P223,4


 ナッシ将軍については、同書の少し前でも言及されていましたので、それも。

 1月の【ソ連軍の】攻勢前、アルピーニの防御施設は良好か非常に良好とみなされ、ナッシ中将は、 前線視察、戦術的なスキル、ドイツ軍との密接な協力で高く評価されていた。ドイツ軍の事後報告書には、1日12~15時間の行軍、300キロメートルにも及ぶだだっ広い地域、ほとんど食料も避難所もない退却中の苦しみが生き生きと描かれている。ナッシは、部下達を安全な地域に下げようとする行動と、ニコライエフカの戦いでのリーダーシップが評価された。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P216



 ナッシやレヴェルベリについては、以前↓で書いてました。

OCS『Case Blue』で見る、イタリア軍アルピーニ軍団トリデンティーナ師団の包囲環突破 (2019/08/30)
『雪の中の軍曹』で見るイタリア軍アルピーニ軍団の将軍3人+ドイツ軍の横取り行為について(付:OCS『Case Blue』) (2019/09/18)





 色々、優秀な指揮官がいたことが分かりますが、この本もまた、世界中で有名であるらしい「ヘタリア神話」に対抗して書かれた一冊であることもあり、最後にこのように書かれていました(なお、私は別に、『Axis Power ヘタリア』という作品等が悪いとは思ってません)。

 要するに、ドイツ軍の事後報告書やその他の多方面の評価書は、ガリボルディと第2軍団司令部を否定的に捉えているだけであり、上級指揮官達に関する他のほとんどの評価は肯定的であった。それにもかかわらず、イタリア軍の将軍達は堕落して、想像力に欠け、現実(および前線)から遊離していたという風刺的な見方が、いまだに神話的に語り継がれている。多くの場合、イタリア軍が軍事的に役に立たないピエロであったという「面白い」描写が、出典をきちんと検討することもなく、容易に額面通りに受け取られているのである。したがって、イタリア軍が軍事的に無能であったという主張は、それがドイツ軍側によるものであれ、イタリア人の回顧録によるものであれ、あるいは真面目な学者によるものであれ、再考されるべきである。【……】
 連絡将校達の事後報告書にあるように、イタリア軍の大隊長、連隊長、師団長達に対するドイツ軍側の見方は非常に好意的であった。一方で、イタリア軍の下士官や下級将校達はあまり好意的に評価されていなかった。実際、経験豊富なドイツ軍将校は【イタリア軍の】退却時の混乱した行動を1940年のフランス軍になぞらえており、退却時に規律を破る下士官や下級将校の多さをしきりに訴えていた。では、戦訓を学ばず、兵士達を失望させていたのは、これらの者達ではなかったのか。【……】
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P224,5


 この本によると、イタリア軍の師団長クラスは優れた人物が多く、(私の印象では)軍団長は半々くらいで、しかし下士官クラスの質が悪かった……ということであるようです。なぜそうだったのか、ということに興味が湧くところですが、そのことに関する説明はまだ見つけていません。

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍師団の評価

 以前半分くらいまで読んでいた『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』ですけども、体調が微妙くらいの時にDeepL翻訳で読み進めていこうと考えました。





 読んでいると、P209からP218までの「GERMAN RATINGS OF ITALIAN DIVISIONS」という項でイタリア軍師団に関するドイツ軍側からの評価がいくらか載っていまして、そこらへん個人的に興味あるのでブログ記事としてまとめておこうと。



 ↓OCS『Case Blue』のイタリア軍師団ユニット。上段は「アオスタ候アメデオ皇太子快速師団(略して快速師団と呼ばれます)」、下段は歩兵師団で、山岳歩兵のマーク(▲)があるのはアルピーニ軍団所属です。

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 12月以前であってもCSIR【イタリア・ロシア戦線派遣軍団】は賞賛と批判の両方を受けており、無用の長物とは判断されていなかった。1942年夏から第35軍団(旧CSIR)との連絡将校であったフェルマー少佐の報告書は、 ドイツ軍の評価におけるこの両義性を示している。彼は、イタリア軍の対戦車戦闘への未熟さ、武器の整備不良、コミュニケーションの悪さ、軍団将校が150人以上もいて多すぎることなどを批判した。しかし同じ報告書の中で、快速師団は「非常によく統率されている」と賞賛され、1942年7月14日のIvanovkaでの戦場での活躍を近隣のドイツ軍師団が称賛していることが記されている。スフォルツェスカ【Sforzesca】歩兵師団は行軍時の規律が非常に優れていることと戦いへの熱意を賞賛されたが、パスビオ【Pasubio】歩兵師団はどちらにも欠けていたようである。全体としてこの軍団はその価値を示し、攻撃的任務に適しているとみなされていたし、スターリングラードへの大攻勢に参加できなかったイタリア軍側の失望をドイツ軍側が書き留めてもいた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P209

 ラヴェンナ【Ravenna】歩兵師団はマモン橋頭堡の近くで(手痛い損害を受けたにもかかわらず)不動であったと褒め称えられた。混乱した退却の間、幕僚達は包囲された部隊に連絡を取ろうとし、ドイツ軍はフランチェスコ・デュポン将軍とその将校達がタリーで精力的に防御を確立しようとしたことを称えた。こうして、報告書はこう結論づけた。「ラヴェンナ師団は、特に(ドイツ軍の)第298歩兵師団がよく主張するように初日に「逃げ出した」のではなく、1942年12月11日から17日まで昼夜を問わず戦ったことが明らかである。ドイツ軍の師団ならば、より良い資材と装備によって数日長く持ちこたえたかもしれないが、結局同様に撤退せざるを得なかっただろう」。ドイツ軍側の報告書が、ラヴェンナ歩兵師団があまりにも簡単に【ソ連軍に】道を譲ったことを非難するのではなく、直面していた資材の不足と赤軍からの絶大な圧力を認識していたことは興味深いことである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P213

 【……】戦時中のイギリス軍による評価書も、同様の結論に達している。パスビオは「他のイタリア軍師団よりも活躍し、終始良好な成績を維持した」とされ、トリノ【Torino】は「良好な戦歴」、スフォルツェスカとラヴェンナは「平均的な水準」とされた。
 イタリア軍のすべての部隊の中で、コッセリア【Cosseria】歩兵師団はおそらく最も否定的な評価を受けている。報告書は、非常に強力な敵軍だけでなく、(塹壕と適切に連結されていない) 強固な防御地点の不足、自軍の兵器のカバーの少なさ、防寒の不十分さ、対戦車訓練の不足、砲兵用砲弾の少なさ、砲兵と歩兵の協力の悪さによって彼らの戦線が崩壊したと論じた。 従って、この師団の撤退自体が組織的でないと描かれ、兵士は指揮官の個人的勇気や努力にもかかわらず新しい防衛位置を設定できなかったとされる。対照的に、同じドイツ軍連絡将校は、コッセリアよりはるかに優秀な兵士で構成されていると思われるジュリア【Julia】山岳歩兵師団の戦闘力を強調している。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P215,6

 その後、ドイツ軍は2つの覚書を作成し、何が起こったかをまとめた。シュルベック少佐の報告は、主に第2軍団と第35軍団に焦点を当てたものであった。シュルベックは、ラヴェンナの対戦車兵の少なさ、歩兵と指揮官の連携の不十分さを批判したが、パスビオとトリノの12月19日の撤退命令までの激しい抵抗については心から評価している。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P216

 ザラツァー一等補佐官は、戦術的成功の大部分をDVKとドイツ軍の指導力のおかげとした。しかし、快速師団とトリノ、パスビオは撤退命令が出るまで戦線を維持したことを認めた。ひいては、批判的なザラツァーでさえ、「作戦中に生じたあらゆる欠点や欠陥にもかかわらず、イタリア軍がただ逃げただけだという主張を支持するのは、誇張されているだけでなく、明らかに間違っている」と付け加えているのだ。彼は特にトリノ、トリデンティーナ【Tridentina】、ジュリアを認めていた。彼は、イタリア軍師団はルーマニア軍やハンガリー軍のものと同様に、ドイツ軍師団よりも弱いと考えていたが、ドイツ国防軍と合同で(あるいは隣で)配置することでその価値を高めることが可能であると考えていた。イタリア軍が弱い理由として、彼は下士官達の質の悪さ、そして何よりも対戦車砲と対戦車訓練の不足を挙げた(これは、イタリア人の身体的、道徳的特性が劣っているという彼の人種的発言とは別にである)。それでも、ザラツァーは、イタリア軍による戦闘の多くの良い面、将校の英雄主義や兵士の粘り強さを認めるべきだと結論づけた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P217,8



 これらの評価を、言及された時毎に記してみると、こんな感じでしょうか。

快速師団 ○○
スフォルツェスカ ○△
パスビオ △◎○○
ラヴェンナ ○△
トリノ ○○○○
コッセリア ×
ジュリア ○○
トリデンティーナ ○

 否定的な意見と肯定的な意見の両方がある師団も結構あります。


 ↑の中で最後の2つ、ジュリアとトリデンティーナ(それからクネーンゼ)は山岳歩兵師団(アルピーニ軍団所属)であり、『Case Blue』でも、その前のバージョンである『Enemy at the Gates』でもアクションレーティングは4でした。(ただし、彼らは山岳戦に特化した編成になっており、山岳地形以外ではアクションレーティングがかなりマイナスされるべきであろうと私は思うということを、イタリア軍のアルピーニ師団の内実:強兵か、山岳戦以外には役に立たないのか?(付:OCS『Case Blue』) (2019/12/22)で書いてました)


 それ以外の歩兵師団は、『Enemy at the Gates』ではすべてアクションレーティング3だったのですが、『Case Blue』ではパスビオとトリノのアクションレーティングが4に上げられています。

 ↓OCS『Enemy at the Gates』のその他の歩兵師団ユニット。

unit00039.jpg



 『Case Blue 2』という話がないわけではないらしいので、その際にどうなるか……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻時の日本陸軍航空部隊の任務について

 以前、OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻時の日本陸軍の航空作戦について、その1 (2023/02/27)で、航空部隊の任務についていくらか推察していましたが、戦史叢書の『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』で当時の任務についてどう書かれているか見てみました。





 まず任務の大要としては、↓というものであったようです。

 【……】ビルマ方面の敵航空勢力を撃滅すると共に地上軍の作戦に協力する。また適時、敵背後連絡線を遮断し、戦(政)略上の要地に対する攻撃に任ずる
『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』P11


 とするとまず、航空撃滅戦と、地上軍への戦術爆撃の両方があったということですね。OCSで言えば前者は、

・制空戦闘後、あるいは戦闘機の護衛付きでの航空基地への対施設砲爆撃(航空基地レベルを下げ、敵爆撃機等の破壊を試みる)

 であり、後者は、

・(制空戦闘後、あるいは戦闘機の護衛付きでの)敵陸上ユニットへの爆撃(DGを狙う)

 ということになります。


 「敵背後連絡線を遮断」というのが何か分からないのですが、後方では補給活動などがあったでしょうから、それらを狙った爆撃ということでしょうか……? 今のバージョンのOCS上では、補給活動に対しては爆撃で大したことはできません。航空阻止(移動妨害)で輸送ユニットの移動を遅らせることはできますが、補給の受給と支給に対しては何ら影響はもたらしません。


 「戦(政)略上の要地に対する攻撃」というのも良く分からないのですけども、第二次世界大戦前に一世を風靡したというドゥーエの戦略爆撃理論では、戦略爆撃で敵国政府・国民の士気、戦意を破砕し、それにより早期に終戦に持ち込むことが構想されていたらしいので、それでしょうか。最初に挙げた以前のブログ記事でもそれらしき分析があり、そしてそれは「(ビルマにおいては)成功した」と書かれています。ただし、日本語版Wikipedia「戦略爆撃」によると、連合軍によるドイツ本土や日本本土への戦略爆撃は、士気を挫くという目的においては失敗だったという風に書かれていました。


<2023/06/30追記>

 日本軍による最初のラングーン爆撃で、ラングーンにおける港湾機能などがかなり停滞したことに関する記述を見つけました。

 ラングーンは12月23日と25日に敵機の空襲を受けた。いずれも物的被害は軽微で、爆撃機は非常に大きな損害を被った。しかし、最初の空襲で多数の民間人が犠牲になり、約2000人が死亡した。この死傷者の大半は、身を隠すことを怠った人々であった。その結果、ラングーンから多くの人々が脱出した。特に、労働力の大部分を担っていた下層階級のインド人が逃げ出した。港湾の作業はしばらくの間ほとんど停止状態になり、重要な貨物や軍需品の取り扱いが大幅に遅れた。船は荷揚げできなかった。そのため、他の船の到着も遅れた。避難には、実質的に市場の全住民と、多くの家事使用人や下働きが含まれた。病院では、必要なサービスを維持するのに十分なスタッフを確保することができなかった。

 1月の一時期、状況はいくらか改善されたが、さらなる空爆が差し迫り、ビルマ政府の代表者によれば、日本軍がラングーンを占領するという噂が流れたため、戻ってきた労働者の多くがさらに逃げ出した。日本軍は、ラングーン港が最も効果的な方法で機能することが不可欠であった時期に、ほぼ完全に麻痺させた。12月23日と25日の空襲は、物質的な被害はほとんどもたらさなかったが、遠大な影響を及ぼし、作戦初期の最も重要な出来事であったことは間違いない。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P54








 だとすれば、確かに日本軍による戦略爆撃は効果を持ったと言えると思います。

 OCSでは通常、港湾を目標として対施設砲爆撃(戦略爆撃)をすれば、港湾の機能を減少させていくことができます。ただ、通常のプレイ中では、後にその港湾を占領して自軍が使用するつもりならば、修理しなければならなくなって修理にかかるSPと時間がバカにならないので、占領するつもりがあるのであれば爆撃したくない感があります。

 しかし日本軍はラングーン等への爆撃を「後で自軍が使用できる施設に対する爆撃を慎重に避けながら」行ったという記述もあった(このブログ記事の最初のリンク先参照)ので、施設にダメージを与えずに人的恐慌だけを生み出して港湾能力を下げていったということでいいのかもしれません。だとすると、対施設砲爆撃においては通常のOCSルールに従うけども、いざ日本軍がラングーンを占領したならば、通常の修理のルールよりも回復させやすいというルールにするというのもありかもです。

<追記ここまで>


 OCSでは、例えば『Beyond the Rhine』では、当時行われていたドイツ本土爆撃の側面とそのための航空ユニットは一切カットされています。OCSはあくまで地上戦がメインであり、戦略爆撃は対象ではないからだと思います。余談ながら、ドイツ本土への戦略爆撃の是非について、↓は個人的に大変興味深かったです。
B-17 フライングフォートレスが登場するアニメと、戦略爆撃は是か非か論争(付:OCS『Sicily II』) (2019/03/13)


 OCS『South Burma』(仮)の場合ですが、仮に史実で「戦略爆撃担当の飛行戦隊」と「それ以外担当の飛行戦隊」が厳密に分けられていたならば前者をカットしていいと思うのですが、恐らくそうではないのだろうなぁと思われ……。そうするとOCS的によくあるのは、常に通常の使用ができる航空ユニット群と、時々使えるようになる航空ユニット群(サージ:増派)を分けてそれらを再現するという方法です。ぎゃー、リサーチがめんどくさい!(>_<)

 サージという方法を使わないならば、とりあえず全体として存在していたらしき日本軍の爆撃機の機数から、ドゥーエの戦略爆撃理論に基づいた戦略爆撃を行っていた機数や回数、割合などを推測して、その分を減らしてユニット化するという方向性でしょうかね……。




 『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』のP13,14には、ビルマ侵攻時の航空作戦について非常に簡単に書かれています(詳しく知りたいのですが……)。

 地上戦が始まる前の時期には、航空撃滅戦をしていたと書かれています。が、別の資料を見ていると、戦略爆撃もやっていた印象を持っています。

 1942年1月20日から地上戦が始まりますが、

 1月20日、第15軍は南部ビルマに進撃を開始し、第10飛行団は地上作戦に協力した。集団は1月23日以降、南部ビルマ航空撃滅戦を開始、3月8日地上軍のラングーン占領に接して同地区に進出し、飛行場群の急速整備に着手すると共に部隊を逐次推進した。

中北部ビルマ地上会戦協力
 3月7日南方軍は、蘭印作戦の終了に伴い、第7、第12飛行団等の有力な部隊をビルマ方面に転用し、第5飛行集団長の指揮下に入れ、一挙に同方面敵空地戦力の撃滅を企図した。
 3月14日、地上軍は北進を開始し、集団は21日から、まずマグエ、アキャブの航空撃滅戦を敢行、この方面の敵空軍を制圧、次いで地上軍のトングー、プローム攻略を支援した。
 4月上旬以降マンダレー方面地上会戦が開始され、集団は主力をもって戦場上空を制空するとともに、敗敵を攻撃し、制空権を完全に手中に収めて地上作戦の急速な進展に貢献した。
 5月中旬、ビルマ方面進攻作戦は終結し、敵空地兵力は支那及びインド方面に後退し、爾後は残敵を掃する段階となった。
『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』P14


 これを見ていると、戦術爆撃もやるのだけど、機会を捉えて?航空撃滅戦もががっとやっているという印象を受けます。どういう意図かとか、割合とかを今後何かの資料で見つけられるとありがたいのですが……。

 あと、アキャブに対する航空撃滅戦ですが、OCS『South Burma』(仮)にはアキャブ方面は入っていないので、その時期アキャブに向けられていた航空戦力は一時的に増援到着表上で「除去」を指示され、アキャブ方面での航空撃滅戦が終わった時期に戻ってくる、ということにすべきなのでしょう。


<2023/06/30追記>

 日本軍航空機による、敵の前線部隊に対する爆撃に関する記述を見つけました。地上部隊の侵攻が始まる直前頃の話です。

 1月中旬から、敵【日本軍】の偵察機や爆撃機が活発になった。キョンドーの船着き場は破壊され、幹線道路の陣地は毎日のように攻撃された。これらの空襲による我々の死傷者は少なかった。旅団情報部長のレイモンド・ホール中尉は、この地区で民間人として働いていたことがあり、この地区をよく知っていた。大規模な攻撃が迫っていることは明らかだった。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P61


 これを読んで思ったのは、「これはOCSで航空爆撃によって、これから陸上部隊が攻撃する敵部隊をDGにしようとする行動とは異なるよなぁ……?」ということでした。恐らくこれは、陸上での戦闘の前に少しでも敵部隊の損害、あるいは恐怖を与えようとするもので、OCSではルール化されたり、プレイされたりしない部分の行動なのでしょう。

 ただ、これまで日本側の資料を読んでいて、川を挟んでなかなか対岸に渡れないでいる場合に、爆撃機を要請して爆撃がなされたというような記述を読んだことはあります。これは、OCSにおける航空爆撃でのDGの例と言えるでしょう。

 だとすると、1942年のビルマ戦の資料で日本軍(あるいは英連邦軍も)の航空爆撃の例を読む時に、かなりOCS的な爆撃の例なのか、あまりそうでないのかをなるべく判別して読んでいった方が良いのではないかと思いました。

<追記ここまで>


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマにおける日本軍による「道路封鎖(roadblock)」について

 オスプレイの『Japanese Conquest of Burma 1942』を読み直していたら、日本軍による「道路封鎖(roadblock)」について分かりやすい記述がありました。





 物資が乏しくても耐えることのできる日本軍の歩兵達は、ジャングルでの生活、移動、戦闘における優れた能力をすぐに実証した。彼らは必要な物を自分達で運び、長年の戦闘経験と、軽歩兵としての訓練がもたらした機動性と、後方連絡線から独立して動くことを十分に活用し、相手を包囲したり浸透したりして、敵司令部や後方部隊を攻撃したり、機会があれば道路封鎖(roadblock)を築いて敵前方部隊をその外側からの支援から切り離したりしたのだ。これとは対照的に、英連邦軍は車両による最良の、あるいはそれより少し劣る程度の輸送手段によって道路に縛られており、それに依存していたのである。日本軍部隊が自分達の後方を道路封鎖し、脱出と後方連絡線を脅かしているのを発見すると、それを取り除くための激しい攻撃をしなければならなくなり、それが失敗すると、車両、装備、武器を急いで放棄し、その後、徒歩で必死に脱出することになるのだ。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P33



 OCS『Burma II』では、地形効果表は↓のようになっていまして……。

unit8617.jpg


 英連邦軍は(通常のヨーロッパ諸国のほとんどの部隊と同様に)補給路を「自動車化」の移動コストで引かなければなりません。そうすると、一番上の平地と、下の方の「乾期自動車道」「全天候道路」「鉄道」を通せるのならばいいのですが、「小道」ではいきなり移動コストが「8」になり、そして「ジャングル」「荒地」「山地」「沼」ではまったく補給路が引けないことが分かります。

 つまり、補給線が良好な道路に縛られており、ジャングル以上の地形に小道しかないならば、移動力の低いラバを何往復もさせて補給(SP)を運ばなければならないのです。空中投下という手もありますがその件は省略。

 それに対して日本軍は補給路を「徒歩」の移動コストで引けることになっているので、英連邦軍よりも遙かに柔軟に補給路を延ばせますし、「食糧入手表」を使用して現地調達で生きていくこともできます。


unit8616.jpg



 OCS『Burma II』は1944年を扱っていますが、OCS『South Burma』(仮)の扱う1942年時点では、英連邦軍はラバをより少なくしか持っていなかったようです。英連邦軍は1942年のビルマ戦で惨敗したことにより、道路に縛られないことが重要であることに気付き、ラバや空中投下によって補給を運べるように改善を図っていったのでした。


 ラバについては以前、↓でいくらか書きました。

チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』) (2021/04/26)




 私はOCSには、「小包囲」と「大包囲」があると思ってます(どんなゲームにもあるでしょうけど(^_^;)。

・小包囲……1~数ヘクスの敵前線部隊を包囲して補給切れにする。
・大包囲……数十ヘクスを包囲する。

 私は、「攻勢側による小包囲」が強力過ぎるのではないか……とも思うのですけども、それは防勢側が十分に配慮できていないからで、退却の仕方や、退却時の戦線の張り方、予備部隊の確保などに気を付ければ、全然大丈夫なのかもしれません。そこらへん、試行中です。うまく対処できるようになりたいものです(>_<)




 それはともかく、実際の1942年のビルマの戦場では、英連邦軍はジャングル以上の地形においては後方連絡線だけを道路封鎖(roadblock)されても(全周を小包囲されていなくても?)、どうしようもなくなってその道路封鎖に向かって攻撃せざるを得なかった……ということでしょうか。

 これまである程度第二次世界大戦関係の本を読んできたとは思うのですけども、「道路封鎖(roadblock)」という言葉がこれほど重要な言葉として何度も出てくるのを見るのは、この1942年のビルマ戦に関する資料が、私は初めてだという気がしています。「world war 2 roadblock」で検索してみるといくらか引っかかるサイトはありますけど、見てみても重要度が高いものだとは思えないものしか……?


 OCS『South Burma』(仮)上で、もし英連邦軍の歩兵ユニットを、戦闘モードでも移動モードでも自動車化にすれば、道路封鎖はやばいほど効いてくると思うのですが、OCSの歩兵ユニットで戦闘モードが自動車化なんてのは存在しないような……? まあ、『South Burma』(仮)では必要だということであればそうしてしまってもいいわけですけども。

 一方で、OCSでは通常そうであるように戦闘モードでの移動タイプを徒歩タイプにすると、道路封鎖は大して効かない、というか全然効かないという気もします……。全周包囲なら別ですけども、全周包囲でないなら、空いているヘクスを徒歩移動で抜けようとするでしょう。あ、でも、1ターンに1ヘクス(3移動力で、3移動コストが必要な1ヘクス)しか移動できないでしょうから、それで道路に隣接するヘクスに行けなければならない……?

 そうすると、地形次第でしょうか。できれば特殊なことをするのは少なければ少ないほどいいとは思います。


 英連邦軍側の(旅団)司令部の支給能力を、徒歩タイプにしないと英連邦軍は戦線さえはれないのではないかとも想像しているのですけども、よく分からない……結局、マップとユニットを試しに作ってみて動かしてみないと分からないですかね……(OCSは選択肢が無茶苦茶広いので)。

 道路封鎖が、OCS『Burma II』よりも効くようであった方がいいとは思うのですが、どうにもうまく動かせないなら、道路封鎖に関して無視するという方向でいくかもです(^_^;





<2023/05/16追記>

 先日神保町で新しく購入した『中国=ビルマ=インド』 (ライフ第二次世界大戦史) という本に、道路封鎖について詳しく書かれているのを見つけました(この書名を少なくとも私は以前なら奇異に感じたと思うのですが、欧米では「China - Burma - Ind」戦域、略してCBI戦域という言い方が広く知られているらしいです。)。



 日本軍はジャングルに慣れたが、イギリス軍はそうはいかなかった。この屈強な侵略軍は、再三にわたって防御側に痛棒をくらわせた。彼らはまた、軽機関銃や迫撃砲、軽戦車などを十分に装備し、これを効果的に使用した。イギリス軍は道路に執着し、ジャングルのなかに分け入るのをいやがってトラック輸送にばかり頼っていた。日本側は、この弱点を巧妙に突く戦略をほとんど完全なまでにつくり上げた。すなわち、路上にバリケードを築くのである。まず小人数の先遣隊が、ジャングルを素早くくぐり抜けてイギリス軍の先に回り、木を切り倒したり、壊れた自動車などを利用してそこにバリケードをつくる。 そしてその周辺に機関銃や臼砲や野砲を配置したうえで、本隊が正面攻撃を仕掛け、退却しようとするイギリス軍の退路を断つのである。はじめ日本軍はこの戦術を小部隊相手にのみ用いていたが、やがて連隊やついには師団規模の部隊にも用いて殲滅的な戦果を収めた。
 日本軍がこれほどまで簡単にイギリス軍の戦列に潜入したり先回りすることができたのは、大都市周辺に住む低地ビルマ人の多くが日本軍を自分たちの解放者であるとみなしたからであった。ビルマのイギリス人将校や植民省の役人たちは、あまりにも長いあいだイギリスの統治下で安逸な生活を続けていた。そのあいだに、彼らに対する深い恨みが多くのビルマ人の間に強まっていったのである。“アジア人のアジア”というスローガンを掲げてやってきた日本軍は、将来の独立を約束することによって、イギリス軍が圧倒的な武力に物をいわせなければ入れなかったビルマの村々に、歓迎されながら入っていった。
『中国=ビルマ=インド』P22


 「本隊が正面攻撃を仕掛け、」という文の「本隊」とはイギリス軍のそれか、日本軍のそれか判然としないのですが、まあイギリス軍のそれではないかと推測します。

 現地のビルマ人達の協力が非常に大きかったのは、日本側の連隊史本などを読んでいても感じます。そこらへんを考えると、OCS『Burma II』で3移動力が必要であったジャングルを、日本軍は2移動力とかってのは、史実的にはありなのかもですね……。OCSシリーズゲームにこれまでそういう例がなかったとしたら、そういう方向性での問題はありますけども。


<追記ここまで>

<2023/07/15追記>

 ネット上にPDFファイルが落ちてた『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の序論を読んでましたら、道路封鎖について書いてありました(この本の序論は作戦的な分析に溢れており、個人的に非常に好みです!)。

 しかし、彼らの戦いで最も特徴的だったのは、自軍の側面を守り、連合軍の前方部隊と輸送手段を遮断するために、頻繁に道路封鎖を行ったことである。道路封鎖そのものは、壊れた車両や伐採された木などで作られ、決して実質的なものではなかったが、常に強固に保持され、機械化部隊に対して効果的であった。日本軍の戦略は直接的で、相手部隊を分断し、順番に包囲して戦闘力を無力化することを目的としていた。地形と現地民の知識は、奇襲の要素を十分に利用することができる彼らの動きを助けた。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』Introduction xxxiii


 青字にした部分も非常に重要だと思われました。OCSで、細かく小包囲をおこなって敵前線を無力化していく方策と同じですね(OCSでは小包囲された環の中にSPがないと非常に苦しくなるので、他のウォーゲームよりも小包囲の効き目が強いと思われます)。

<追記ここまで>


追い出した……かもだし、建設的分派……かも

 以下、「國學院大學シミュレーションゲーム研究会の一OBとしての、内部事情に関する推測」という、非常にニッチな話なので、興味のない方はそっと閉じていただければ……。




 MustAttack上で、田村さんのブログ記事を見つけまして、田村さんの記事は面白いことが多いので期待して読んでみました。


ミニチュアウォーゲームを拒む輩


 最初に「※警告:罵詈雑言あり」とあったものの、「まあ田村さんはいつものことだし……(^_^;」と思いながら読み進めて、「なるほどなるほど……」と思いながら読んでいたら、最後の方で罵倒されていたのは私がかつて所属していた「國學院大學シミュレーションゲーム研究会」でした(^_^;


 田村さんの記事では、↓のように書かれていました。

・國學院大學シミュレーションゲーム研究会では元々、ミニチュアゲームをプレイしていた(2010年代?)
ところがそれを快く思わないOBがおり、ヘクスマップ至上主義のOBが現役生と揉めて、現役生が大量離脱して新たにミリタリーゲーム研究会を設立するという分裂騒動が起きた
・「端的に言って、とっとと死ねクソ老害、という感想しか無いし、そんなクソ老害を排除できない現役生も現役生だ。腐りきっている。」


 私はこのミニチュアゲームに関する分裂という話を全然知らなかったのですが、私が知っている他の事情から推測するに、事情はもっと複雑なのではなかろうかという気がしました。

 しかし私の推測が全然間違っていて、田村さんの捉え方が全然正しいという可能性ももちろんあるかと思います(^_^;

 とはいえ、私の知っている他の事情と推測を書いておくこともいくらか益のあることではないかと思いましたので、書いておこうと……。



 私が國學院大學シミュレーションゲーム研究会に所属していたのは1990年代前半頃でしたが、その時点で設立十何年だったのではないかと思います。OBの方も結構来られてました。それまでに会の分裂とかがあったという話は聞いたことがありませんでした。

 ミニチュアゲームは我々は存在も知りませんでした。ウォーゲームに限らず、TRPG、マルチも良くやってました。(多分当時はまだカードゲーム(MTGとか遊戯王とか)はなかったか、広く知られていなかった?)

 ただ、学祭でウォーゲームをプレイした後に、「ストリートファイターⅡ」大会をやろうとした(やった?)一部会員がいたりして、「ああいうのはどうか」という意見が(OBに限らず?)出ていたような気はします。

 一方で、私が卒業する頃でしたが、古いOBの中にファンタジーミニチュアゲーム好きな方々がおられて、そちらに会員が(無理矢理?)取られてしまう、ということが私が仲の良かったOBから少し問題視されてたりしたという記憶があります。

 あと、詳しく書くことはやめておきますけども、ゲーム以外の件でOBと現役を巻き込んだ派閥的なことも生じかけていたというようなことも聞いたような……(その後どうなったか全然知りませんけども)。


 大学を卒業した後私は帰郷しまして、東京に出ることもほとんどなくなったので、納会への誘いの往復はがきはもらってましたけども行ったことはありません。


 ただ最近、ほんの少し会について聞ける機会がありまして、その時聞いた話だと、私の卒業後、カードゲームをやりたいとか、ボードゲームもやりたいとか、艦これ勢とかの分派が何回もあったようです。平和裏か揉めてかはあまり聞かなかったですが、まあ両方あるという感じ?

 それで現在は、私の頃よりも遙かに狭い、「ヘクスウォーゲームしかやらない(それも、基本的に第二次世界大戦しかやらない?)」勢が、國學院大學シミュレーションゲーム研究会に残っている……というか、國學院大學シミュレーションゲーム研究会はそういう会である、ということにして、他の色々な類似サークルと共に活動している状態のようでした。確か、それら類似サークルをかけもちしている人もいるとか、サークル同士別に仲は悪くない(仲が良い?)と聞いたとも思うのですが、勘違いかも。それでも今の國學院大學シミュレーションゲーム研究会だけでも10人とか20人とか会員がいるということなので、別にそれでやれる、ということなのだと思います。


 そこらへんから考えると、分裂してできた「(國學院大學?)ミリタリーゲーム研究会」の方が私がいた頃の國學院大學シミュレーションゲーム研究会に近いような気がしますし、ミリタリーゲーム研究会の方が(名前は変わったけども)「多数派であり、昔からの本流だ」と(そちらに行った)OBともども考えて、私が卒業する頃にファンタジーミニチュアゲームをやっていたOBとかと一緒に活動している可能性もありそうではないかなぁ、と。「國學院大學シミュレーションゲーム研究会」という会は、名前は昔からのものを引き継いでいるけども、人数とかOBの継続性とかで言えばむしろ色々分派した中では少数派なのではなかろうかとも。

 社会人のゲームサークルでも分派の話はあり、例えば「A」というサークルに来てみた初心者に、そのサークルの方が「なるほど……聞いてみたところ、あなたの好みならうちのサークルじゃなくて、近所にあるBというサークルの方が合っているかもですね」と、昔分派したサークルを勧める、ということもあるようです。


 サークルの人数がずっと変わらない中で揉めて分派して、ミニチュアゲーム勢を追い出したのであればまあ、「視野狭すぎ」とも言えるとも思いますけども、サークルの人数がどんどん増えていって、サークル員のやりたいことが多様化して人の引っ張り合いが起こり始めて、派閥抗争が起こってきたならば、まあ揉めた上で分派して、平和裏に別々のサークルとして活動を始めるというのは、アリではないかなぁ……と思います。



 特に私は、私個人としては「ヘクスゲームこそがしたい勢」で、というか「ビッグゲームこそがしたい勢」で「OCSしかプレイできない勢」だったり(T_T)して、エリアゲームもポイント・トゥ・ポイントゲームもやりたいとは思わない勢ですし、大学4年生の時にOBから「ファンタージ-ミニチュアゲームに誘われるかもしれない(OB権限により無理矢理)」と聞いた時には正直、「イヤだなぁ……」と思ったほどですから、個人的嗜好からすれば、もしその場にいれば「分派してくれてありがたい」と思ったのではないかと思います。あるいは、もし私が揉め事の時OBとして納会に参加していれば、「分派するのがいいんじゃない?」という側に回っただろうと思います。

 私が一時期参加していた社会人サークルにおいても、マルチに毎回誘われて一応プレイしていたのですが、私は本当はヘクスゲームがしたかったので、そのうちそこにはいかなくなり、その後なんとか、ヘクスゲームができるサークルに行くことができるようになりました。

 でもだからといって、エリアゲームやポイント・トゥ・ポイントゲームやミニチュアゲームをやる人を排斥するわけではなく、ただ単に私は、私がやりたいゲームにこそ手間暇をかけたいということなわけです。



 ……というようなことを考えたのですが、改めて書きますけども、実際には「OBの視野の狭さ」により、ミニチュアゲーム勢が排除されたのかもしれません。

 まあでも、あまりこの件で当事者も巻き込んで論争が続くようなことになったりしても、良くないのではないかという気がしますので、曖昧な状態にしておく方が良いような気もしますけども……(^_^;


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻開始時の連合軍側の配置図

 陸戦史集の『ビルマ進攻作戦』を見ていたら、付図(本に付いてきている大きい地図)に連合軍の配置が書いてあるということだったので見てみましたら、確かにありました。


 付図第1が「作戦開始時における彼我の態勢 昭和17年1月20日」というもので、それに中国軍の配置もありました。マップの東側が足りないので、付け足しました。


unit8619.jpg


 中国国民党軍が、第6軍と第93師団ということですけども、付図上では第93連隊となってます。が、戦闘序列を見ても第93連隊というのはないので、第93師団の間違いであろうと解釈しました。

 英連邦軍側の配置は、1月20日時点というよりは、それより少し後の可能性もあるのではないかとも思うのですが、また今後調べていって適宜修正します。



 もう1枚、付図第2というのに、ラングーン攻略戦を含む時期の戦況図がありました。しかしあまり↑の画像と変化はないので、とりあえず文字で書くだけにしておきます。

 変わったこととしては、第1ビルマ師団と第1ビルマ旅団がもっと南下して描かれており、トングーとシッタン河口の中間地点くらいになってます。また、第2ビルマ旅団(元第17インド歩兵師団隷下)が、第1ビルマ旅団の南側にいるように描かれています(撤退でこちら方向に向かった?)。

 また、第13インド旅団の位置は変わってないのですが、その守備範囲が線で広がりをもって描かれており、タイ国境を超えて日本軍(あるいはタイ軍)がこちらの方面から出てくるのが警戒されていたのだな、というのが分かります。


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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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