fc2ブログ

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について

 今回は1942年のビルマで戦った中国国民党軍についてです。

 中国軍については後回しにしようと思っていたのですが、1942年1月頃から?中国軍が少しずつビルマに入り始めて、守備を任せられるようになった英連邦軍が南下するという流れがあったということで、中国軍部隊移動の記述を捉えるためには最初からやった方が良さそうだと思い直しました。


 中国軍については、『Japanese Conquest of Burma 1942』の記述がかなり詳細でした。

 イギリス上層部は当初、1941年12月に蒋介石総統がビルマ防衛のための国民党軍を一個師団を除いて提供することを拒否した。これは、ビルマに対する中国の長期にわたる領有権主張、英連邦軍によるビルマ防衛の政治的必要性、最後に兵站の困難さを考慮した結果であった。ラングーン陥落後、マンダレーに向かう日本軍を撃退しようと中国遠征軍が派遣されたことは重要だったが、ビルマにおける指揮系統全般は複雑で、蒋介石とアレクサンダーの間には、植民地における互いの長期的政治意図に対する誤解と相互不信があり、関係は暗礁に乗り上げていた。この相互不信の犠牲となったのは、緊密な連携と相互支援が必要なときに、英中両国がすべての指揮レベルで効果的な協力関係を築けなかったことである。

 ビルマにおける中国軍の総指揮は、蒋介石総統から、1942年3月4日に中国に到着した58歳の米陸軍上級将校ジョセフ・スティルウェル中将に委ねられた。スティルウェルは、アメリカ大統領の中国駐在軍事代表、中国戦線連合軍最高司令官としての蒋介石総統の参謀、アメリカが指定した中国-ビルマ-インド(CBI)地域の全米軍司令官、中国に送られるレンドリース物資の管理、ビルマ公路の管理など、さまざまな職務を担っていた。この発表は、ビルマにいるすべての中国軍をアレキサンダー将軍の指揮下に入れるという以前の合意を破るものであり、イギリス軍上層部を大いに混乱させた。最終的には、気難しいスティルウェル(その気難しい態度から「ビネガー・ジョー」と呼ばれていた)が3月24日にアレキサンダー将軍の「総指揮」の下に進んで身を置き、ビルマ軍との作戦を調整することで解決したのである。中国遠征軍(CEF)の指揮系統は実際にはもっとずっと複雑であることが、メイミョーに司令部を設置する際にスティルウェル自身が気付いた。アレキサンダーを訪れたスティルウェルは、中国第5軍司令官である杜聿明(Tu Tu-Ming:といつめい)将軍がすでに中国遠征軍の司令官であると名乗っていたことを知った(彼自身は最終的に羅卓英(Luo Zhuoying)将軍に取って代わられることになる)。トングーの防衛戦において、苦境にあった中国第200師団を支援するために中国第22師団を派遣せよというスティルウェルによる命令を杜聿明将軍が無視したため、スティルウェルの権限の限界がすぐに露呈された。実際、不運なスティルウェルは、自分が名ばかりの指揮官であり、命令を下す権限も執行する権限もないことにすぐに気づいた。陸軍、師団、連隊レベルの中国高官でさえ、「個人の軍隊」に損失をもたらすかもしれない行動を避け、総統が望んでいると考えられることと対立し、アメリカの命令を指揮系統に照会して承認してもらえないのである。重慶で総統と直接対決した後、4月6日、蒋とその妻はメイミョーに行き、集まった中国の司令官たちにスティルウェルの権限を伝えた。同時に、彼の指示を認証するための公印には、CEF総統ではなく最高顧問/参謀長としてスティルウェルを記した。このような変更にもかかわらず、アレクサンダー将軍とスティルウェルが出す命令は、林蔚(Lin-Wei)将軍を長とするビルマ軍本部の中国参謀団、そして最終的には慎重な蒋介石の同意を必要とした。さらに問題を複雑にしたのは、林蔚将軍が軍事情勢の悪化に伴ってしばしば独自の矛盾した命令を発し、1942年5月早々に事実上崩壊し、スティルウェルと羅卓英が部下に自らの運命を託しインドに退却したことであった。

 陸軍や師団レベルの中国軍将校の指導力は、実にまちまちであることがわかった。同盟国との戦闘経験を持つ者はおらず、通訳、連絡員、地図の不足により、英中将校間の効果的な協力はさらに困難なものとなった。

 CEFは1942年1月から4月にかけて徐々にビルマに配備され、7万から13万の兵力を有し、 国民党中国軍が利用できる最高の戦闘部隊で構成されていた。杜聿明将軍率いる第5軍(第200師団、第22師団、第96師団、戦車隊、砲兵隊)、甘麗初(Kan Li-Chu)将軍率いる第6軍(第49師団、第93師団、新編第55師団)、張軫(Chang Chen)将軍率いる第66軍(新編第28師団、新編第29師団、新編第38師団)である。この戦闘序列は紙の上では印象的であったが、ビルマで戦った中国国民党の師団の戦闘力の高さは、ある中国の歴史家によると、その部隊にはタフで頑健、自立した兵士(多くは最近日本と戦った経験がある)がたくさんいたものの、「寄せ集め」であり、「精鋭、普通、未熟の混合」であった。中国の軍隊や師団の戦闘能力は、指揮官によって大きく左右され、ある者は高度なスキルを持ち、ある者は指揮官という任務にひどく不向きであった。英語を話す第38師団の師団長孫立人(Sun Li-Jen)将軍は、その中でも最高の人物であり、イギリス軍からは「知的で精力的、かつ注意深い」と評されたが、作戦調整に関しては「時間感覚に乏しい」とされた。同様に、第49師団を指揮する彭壁生(Peng Pi-Shen) 将軍は有能で力強い指揮官と考えられていたが、上官達の許可なく攻勢に出ることは繰り返し拒否した。他の中国軍師団長は優柔不断で、無能で、全般的に指揮に適さないことが判明した。スティルウェルのスタッフは、例えば甘麗初将軍を能力も想像力もなく、不利な状況に直面した場合、取り乱してしまうことが多かったと評している。

 戦闘に慣れた中国軍第200師団(8,500人)は、軽戦車、自動車、米軍のレンドリースの75mm榴弾砲と105mm砲を保有し、中国国民党軍の師団としては断トツに優れていた。同様に、新編第38師団は、将校と兵士が欧米で高度な訓練を受け、欧米の武器を十分に装備し、共産党軍と日本軍の両方との戦闘にかなりの経験を持っていた。ほとんどの中国軍師団は約6000人の非常に弱い師団で、訓練も装備も不十分な歩兵で構成され、対戦車砲、野戦砲、その他の重火器がひどく不足していた。対戦車砲、野砲、その他の重火器も不足していた。新編第56師団【新編第55師団の誤りか?】のようないくつかの師団は新しく組織され、その不幸な、ほとんど訓練を受けていない徴兵は作戦開始後にライフル銃が支給されただけだった。多くの中国軍部隊は輸送手段がなく、徒歩で戦場に向かい、丸腰のクーリーに武器を持たせていた。しかし、車両は後にビルマ公路からアメリカの車輛を「借用」して供給された。組織的な補給管理システムは存在せず、英連邦軍のリソースで食料やガソリンを供給できない場合、中国軍兵士達は「イナゴがその土地を食い尽くす」ように、不幸なビルマの人々から自由に盗んで生活していた。悲しいことに、医療班も事実上存在せず、中国人は病人や負傷者の世話をイギリスのリソースとアメリカ人宣教師ゴードン・シーグラーブ博士が運営する医療班に頼っていた。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P21~24



 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの中にも中国軍に関する項目がありました。この本では中国軍がビルマに入り始めたのは3月となっていました。

2. 彼らは中国軍で最も優秀な部隊と言われ、確かに何度か非常によく戦ってくれた。しかし、彼らは時間に無頓着で、もちろん言葉の壁もあり、協力は困難であった。イギリス軍とインド軍にとって問題なのは、中国人と日本人(そしてグルカやビルマ人)を区別することであり、いくつかの不幸な間違いは避けられなかった。

3. 中国遠征軍のビルマへの移動は、それ自体が叙事詩のようなもので、ラシオの鉄道末端に到達するまでに、山間部を何百マイルも輸送された。ラングーンから反対方向に運ばれてくる弾薬、トラック、ガソリンなどのアメリカの戦争物資がなければ、論理的に不可能であっただろう。

4. イギリスは、ビルマにいるすべての中国軍に、彼らの主食である米と医療支援を供給することを保証した。ビルマ語を話すイギリス人連絡員を各編隊に配置する必要があった米の供給作業は、最盛期には1日に300台の大型トラックを使用する必要があった。

5. 中国には医療班がないに等しかった。負傷者や病人を近くの村に預ける習慣があり、自国の外で活動するのは初めてだったのである。イギリスは、自国の軍人と民間人の病人や死傷者のために医療支援を提供することで精一杯だった。ハットン将軍は、たまたまビルマにいたシーグラーブ医師率いるアメリカの民間医療団に、そのギャップを埋めるためにできる限りのことをするよう手配した。

6. 一般に、中国軍は軽武装で、迫撃砲も大砲も戦車もほとんど持っていなかった。どの編成においても、部隊の約3分の1が全く武装していなかった。非武装の隊員の仕事は、ポーターとして物資の運搬を手伝い、死傷者が出たときに武装することであった。スリム将軍の記録によると、中国の「師団」の規模は約8000人であった。しかし、全力でもライフル3000丁、軽機関銃200丁、中機関銃30~40丁を超えることはほとんどなかった。輸送手段は、1、2台の将校専用車と6台のトラック、そして数百頭の毛むくじゃらのポニーである。アレキサンダー将軍は、中国の大隊の戦力はイギリスの中隊の戦力とほぼ同じであると指摘した。したがって、中国の「軍隊」や「師団」と呼ぶのは、その有効戦力が英国や日本の全戦力の師団や旅団群とほぼ同じであるため、混乱を招く。したがって、この本では、中国の「軍」は「a/division」、中国の師団は「d/brigade」、中国の連隊は「r/battalion」と書くことにする。

7. スティルウェルはもともと蒋介石総統の参謀長だったが、総統からビルマの中国遠征軍総司令官にも任命された。そのため、アレキサンダー将軍のもとでビルマに赴任することになった。しかし、総統から肝心の指揮権を与えられていないことが判明し、すべての命令は副官の羅卓英中将を通じて伝達されることになった。さらに指揮系統は複雑で、ラシオには中国参謀本部があり、その長官は林蔚中将であった。彼は蒋介石総統のビルマにおける個人的な代理人であり、すべての重要な命令には彼の承認が必要であった。このような煩雑なシステムは、もちろん機動作戦には大きなハンディキャップであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P369,370





スポンサーサイト



OCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動

 前回の地図を元に、1941年12月末(あるいは27日)の戦闘序列による各師団、各旅団の隷下部隊を□で囲んだり、その後の移動についてメモ書きを書いたりしました。

 戦闘序列は、『The War Against Japan Vol.2』の付録1(P439)と、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の付録2(P360~)のものを使用しました。


unit8618.jpg



 第16インド歩兵旅団と第13インド歩兵旅団(両方とも第1ビルマ師団隷下)は、その司令部の記載を含む□の中の部隊です。

 第1ビルマ旅団隷下の部隊はわりと散らばっているため、□で囲って線で結んであります(実際にはこの時期にはより近い場所にまとめられていたのかもですが)。

 第1ビルマ師団の直属なのであろう部隊も散らばっているので、紫色の線の中に囲ってある&赤い□の中にない部隊がそうである、ということにしています。また、ラングーン守備隊も紫色の□の中に囲みました。


 第17インド歩兵師団司令部はこの後ビルマにやってきて、日本軍と最初に戦闘を交えることになります。第1ビルマ師団はその間、北の方に留まっていて、ラングーン陥落後の第二段階の時に日本軍と戦います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月1日時点でのビルマの英連邦軍の配置

 これまでの、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの分はとりあえず終わりました。

 今回は、『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』の巻末付録Aの、1941年12月1日のビルマの英連邦軍の配置情報からです。







 OCS『South Burma』(仮)は最初に戦闘が起こった1942年1月20日から始まるので、その50日も前の情報ではあるのですが、この資料は非常に詳細で、他にも色々な資料でその後の戦闘序列を見てみましたけども、これほど詳細な配置情報はありませんでした。ので、これを大元の配置情報として、その後の経緯を追っていくことにしようと思いました。


unit8625.jpg



 当時、あるいは実際に日本軍による侵攻が始まる直前くらいまで、タイからビルマへの日本軍の侵攻はまだしもマシな道路のある①の径路で行われるだろうと英連邦軍側は考えていました。①の矢印の後、北へ進んで、そこから西へ曲がってLoilemへ繋がるような道しかありませんでした。ですので、そちら方向にほとんどの部隊が置かれています。

 ②は、まともな道はなかったのですが、ラングーンへの最短距離ではあるので、一応少し部隊は置かれていたという感じだと思います。史実で日本軍は、第33師団の兵士に土木工事をやらせて、道を作って侵攻したのでした。

 当時ビルマに置かれていた師団は第1ビルマ歩兵師団だけだったのですが、その司令部が真ん中辺りのトングー(Toungoo)にぽつんと置かれているのが印象的であります。


 チェックしてみたところ、F.F.は1~5まで、Burma Rifle Bnは1~14まで、この画像上で全部確認できました。抜けていてもしょうがないんですが、揃っていて良かったです(^^)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、付録7「日本軍について」の中から、砲兵、戦車、捜索連隊について。



 砲兵に関しては、各種の砲の弾薬重量と射程について表になっています。

75mm山砲(九四式山砲) 13.4ポンド 9800ヤード【約8961m】
75mm野砲(九五式野砲) 14.3ポンド 12000ヤード【約10973m】
105mm重野砲(九二式十糎加農砲) 33ポンド 20100ヤード【約18379m】
150mm中榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲) 80ポンド 13000ヤード【約11887m】

OCSの砲兵には、1~4ヘクス程度の射程があるため、レーティングにおいて射程はある程度重要です。OCS『South Burma』(仮)は現状1ヘクス5マイル(約8km)であるため、8km程度ならば射程は1ヘクスとなるかもですけども、8kmを大幅に超えてくるなら2ヘクスということはありそうです。

 前記で、九四式山砲も九五式野砲も射程8kmを越えてはいるんですが、OCS『Burma II』(インパール作戦の頃のビルマ戦域全体を扱う)のデザイナーノートにはこう書かれています。

 第二に、砲兵(特に日本軍のもの)の射程の短さに目を奪われるかもしれません。これも意図的なものです。地形の厳しさが、その使用の柔軟性を大きく制限していたのです。さらに、日本軍の大砲のほとんど、特に師団砲兵は、直接照準射撃で使用されていました。日本軍の間接照準射撃は、よくいって粗末なものでした。このことは、日本軍のすべての砲兵ユニットが移動モード時に1の射程しか持たないという風に反映されています。しかし、これらのユニットの多くは良好なアクションレーティングを持ち、また防御力1というのもこのレベルでは無視できないものです。彼らは一歩も引かずに、防御態勢を強化することができるのです。


 OCS『Burma II』の師団砲兵は、大隊規模で3-3-1-1(1-3-1-3)というものが多いです(両面で徒歩で、師団毎に3ユニット。アクションレーティングが、弱い師団だと下がるものの、それ以外はすべて一律)。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍の師団砲兵ユニットの一例。

unit8630.jpg



 独立ユニットの「H(重砲兵)」は、射程が戦闘モードでは2ですが、移動モードでは1です。すべて両面で自動車化で、戦闘モードでは1移動力、移動モードでは9移動力。砲爆撃力に関しては、「3H」の1~3の大隊ユニット3つは戦闘モードで9、移動モードで3、「18H」の1~3の大隊ユニット3つは戦闘モードで6、移動モードで2でした。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍の独立重砲兵ユニット。

unit8629.jpg



 インパール作戦時の1944年に使用されていた砲が、1942年当時のものと型が同じ(かつ、編成とかも変わらない)なら、OCS『South Burma』(仮)でも同じ数値を使っても良さそうです。ところが、手持ちの資料(戦史叢書『インパール作戦』とか)でパラパラ見てみた程度では、型についても編成についても良く分からず。しかし、『第2次大戦事典②兵器・人名』で日本軍の砲の型の移り変わりについて見てみたところ、前記の大砲が戦中に別の型に置き換えられたということはなさそうだったので、一応「そのまま」でいけるという理解でOK……?


 また、↓こういう記述があり、日本軍はSPに余裕がないようにすることになる(一般補給は何とかなるとしても)ので、砲兵はほとんど使用されないだろうと思います(ただ、OCS『Burma II』で私は日本軍では砲兵射撃はまったくしない方ですが、富山のKさんはバンバン撃ってきます。人によってもちろん使用法は異なることでしょう)。

22. 日本軍は兵站上の理由から、砲兵の使用を控えめにしていた。また、特定の目標以外にはほとんど発射しなかった。彼らは「ブラケット」【英辞郎によれば、「敵艦に砲弾を接近させる手法。距離計に基づいて第一弾を発射し、第二弾をその400m遠方に、第三弾を400m前方に着弾させて、最も近い着弾点を見極め、発射角を決定するもの。」】を信じず、最初の一発も効果を与えるようにして発射された。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377






 戦車に関してはこう書かれていました。

23. この作戦では日本の37mm砲搭載8トン【95式】軽戦車と57mm砲搭載15トン【89式】中戦車が使用されたが、日本の装甲はほとんど中国軍に対して使用された。軽戦車3輌はペグーでイギリス軍に使用されたが、その砲はイギリス軍スチュアートの装甲を貫くことができず、すぐに破壊された。メイクティーラからキャウクセまでの3日間だけ、日本の中戦車とイギリスの戦車が決定的な衝突をした。このキャンペーンでは、日本の戦車は徹甲弾を持たず、スチュアートを撃破できたケースは例外的な場合だけであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377


 これまで読んできたラングーンまでの戦い(例えばペグー)では、日本軍は3輌とか全部で6輌とかってくらいしか投入していない(できてない)ようなので、ユニット化されるかどうかはギリギリかなと思っていますけども、1戦力(移動モードでは0戦力)でユニット化するのはありかもですね……。英連邦軍側は1ユニットで6戦力とかだと思いますけども(>_<)

 メイクティーラ云々の話は、まだ調べてない期間なので全然分かりません。





 偵察部隊に関してはこのように書かれていました。

24. 偵察に使用される部隊は、師団によって異なっていた。1941年に再編成された第33師団には、師団司令部に直属する騎乗歩兵小隊と軽装甲車中隊、各連隊本部に所属する騎乗歩兵小隊があった。

25. 第55師団は、3個騎乗歩兵中隊、1個機関銃中隊、1個装甲車中隊、1個対戦車砲中隊を擁する捜索「連隊」【実質的には大隊】を有していた。彼らは自らを「騎兵」連隊(「最後の騎兵」)と称していた。1個騎乗歩兵中隊と機関銃中隊と対戦車砲中隊の一部はグアムへ派遣されており、この作戦には参加していない。

26. 騎乗歩兵部隊は、折りたたみ式銃剣を装着した軽小銃であるカービンで武装していた。両師団の軽装甲車中隊は、ラングーンが攻略されるまで到着しなかった。

27. 第56師団の捜索連隊は基本的に第55師団と同様であったが、自動車化されており、騎乗歩兵中隊は自動車化歩兵の2個中隊に置き換えられた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377


 ここらへんは現状、細かい内容でユニット内容を変える必要はないかなと思っているのですけども、今後の課題ということで……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の各師団の砲兵戦力

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、付録6の日本軍の戦闘序列(P371,2)から、主に日本軍の各師団の砲兵戦力についてのみ扱ってみます。


 まず基本的に、少なくとも第55師団と第33師団の砲兵連隊はフルでは↓のような門数であったと考えています。

1個連隊:3個大隊(27門)
1個大隊:3個中隊(9門)
1個中隊:3門



 各師団は、山砲連隊または野砲連隊(あるいは山砲と野砲の混成)、工兵大隊、輸送連隊を持っていた。

第一段階
2.第一段階では、第33師団、第55師団ともに軽装で進攻した。それぞれ2個歩兵連隊のみであった。弾薬の消費量が多いため、両師団とも迫撃砲は持っていなかったが、擲弾筒は持っていた。しかし、すぐにイギリス軍の3インチ迫撃砲を捕獲して使用した。

3.第33師団は歩兵団本部(付録7参照)を残し、山砲1個大隊(9門)と、連隊段列から工兵1個中隊と馬2個中隊(各約400人、300頭)だけを連れていった。師団の残りはラングーンで第二段階に再合流した。また、対戦車砲中隊を1個連れて行ったがペグーで破壊された。マレーの第2戦車連隊から分離された軽戦車の支援小隊も同時に破壊された。


 第33師団の「山砲1個大隊(9門)」という話ですが、9門ではなく6門だったという話もありました(時期がずれていて、その間に3門失ったという可能性もありますけども)。

 その頃【第33】師団の戦力は、歩兵2コ聯隊、山砲1コ大隊基幹にしか過ぎなかった。砲は全部で6門、砲弾は1門あたり百発で、歩兵の弾薬にいたっては携行分しかない。補給路はまだ開設されていないので、この携行分を最も有効に利用するしか方法がなかった。
『ビルマの名将・桜井省三』P88,9


 しかし今回見つけた戦史叢書の記述によれば……。

 その後、1月17日になって【……】軍命令を受領した。
 【第33】師団は軍命令に基づき、歩兵第215聯隊(第3大隊欠-原田聯隊)、山砲兵第3大隊(第9中隊欠)をもって原田先遣隊とし、コーカレー北方に前進を命じた。
『ビルマ攻略作戦』P95


 この記述からすると、1個大隊は9門なのだけども、1個中隊欠なので6門であった、ということで説明はつきそうです。そうすると『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の記述は厳密には間違いであるという解釈になりますけども、まあゲームとしては、1個中隊欠くらいは無視して1個大隊のフル戦力で数値化されるだろうという気もします(^_^;




 次に、第55師団の砲兵について。

4.第55師団は歩兵団本部の指揮下でグアムに行っていた第144連隊等を欠いていた。師団はヴィクトリアポイントに向かった第143連隊第2大隊と、タボイに向かった第112連隊第3大隊を欠いた状態でビルマに入った。両大隊はモールメンで再合流した。それぞれ6門を持つ2つの山砲大隊は残されたままだった。


 「それぞれ6門を持つ2つの山砲大隊は残されたままだった。」というのが、もし「それぞれ9門」だったら良く分かる話なのですが……。以前書いていたものとして、

 山砲第55連隊は3大隊から成り、94式山砲27門を持っているというのですが、「山砲隊は携行段数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした。」【←は『ビルマ攻略作戦』から】


 というのもあったんですが、全体として色々曖昧な感じです。まあしかしここも、ゲーム上では最初1個大隊9門分の砲兵を持っていって、あとで18門分が合流ということでいいんでしょう。


<2023/06/22追記>

 ビルマに入った時の第55師団の砲兵について、『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』にいくらか参考になるかもしれない記述を見つけましたが、全体像が全然分かりません。とりあえず情報集積しておきます。

 ここ【ピサヌローク】に集結した聯隊は南海支隊配属の第一大隊を欠いていたが、徳島の宇野聯隊(歩兵第百四十三聯隊)に配属となりマレー半島上陸に勇戦した第四中隊(松田隊)が復帰して来た。しかし聯隊本部の坂本栄一中尉は独立小隊(第八中隊)を指揮して、バンコックから、マレー半島西岸のタボイ占領に向かう沖支隊に配属されていた。【……】今になると聯隊長は小径もない渓谷づたいの長距離のあのジャングルのタイ、ビルマの山脈を横断していかにして山砲兵がモールメン前面に進出するかに苦心されていたのがよく分かる。このため三門編成の各中隊は二門とし残りの火砲と聯隊大行李を石黒築兵技軍曹以下に宰領させて追及を命じた。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P96



<追記ここまで>




 以下、第二段階(ラングーン占領後)については、挙げておくだけにして今後継続集積で。

第二段階

6.第二段階では、第33師団と第55師団の山砲連隊が27門のフル装備になった。

7.第33師団は第21混成重砲部隊(105mm×4、150mm×4)、第26独立工兵連隊(水上輸送)、対戦車砲中隊と75mm対空砲中隊を増員した。

8.第18師団の山砲連隊は12門ずつの2個大隊と75mm野砲12門の1個大隊であった。Kyaukseでは第3重砲兵連隊の150mm砲8門(1個大隊欠)で増強されていた。

9.第56師団は75mm野砲大隊2個と105mm野砲大隊1個からなる野砲連隊を持っており、各大隊は12門の砲を有していた。




OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦のイギリス空軍の戦闘序列

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「イギリス空軍の戦闘序列」という項目から。


 今回は和訳を挙げるのではなく、抜粋の方が良さそうなのでそっちで。『ビルマ航空戦』による情報も【】で付け加えています。

 「飛行隊」と書いてあるのは「Squadron(飛行中隊?)」です。イギリス空軍等のSquadronがだいたい何機ぐらいなのかまだ分かってません(>_<)


 OCSの航空ユニットは45機で1ユニット(完全戦力面)であり、減少戦力面だと25機程度だということになるのかもですが、1942年のビルマ戦で可動していた航空機は機種毎では10機内外とかいう世界で、ユニット化に難があります。

 そこで、陸上ユニットを3倍スケール(通常では大隊が2戦力であるのを、6戦力とする)にするのだから、航空ユニットも3倍スケールにする、つまり15機で1ユニット(完全戦力面)とし、減少戦力面では7~10機程度とするのもアリではないかと考えました。また、OCSでは減少戦力面の航空ユニット2個をいつでも統合して完全戦力面にできるのですが、OCS『South Burma』(仮)の1942年用の航空ユニットは減少戦力面しかないようにして統合はできない、また補充も1ステップ単位であるということが分かりやすくするという案もあるかも(航空ユニットの補充は1ポイントで2ステップ分である、というOCSゲームの方が最近は多い気がするので、それらと混同しないようにするため)。

 念のため、3倍スケールであったOCS『Reluctant Enemies』で、航空ユニット、そして砲兵ユニットも3倍スケールであったのかどうか聞いてみた(サルツマン氏経由で、デザイナーのカーティス・ベーア氏に)ところ、いずれも「No」という返答でした(^_^;




1941年12月の戦闘序列(ミンガラドン飛行場周辺)
 イギリス空軍第67飛行隊(「バッファロー」(旧式の戦闘機)18機)
 ビルマ義勇軍航空隊(「タイガーモス」(通信連絡任務)11機)
 アメリカ義勇軍第3飛行隊(「トマホーク」または「P-40」21機)

 第60飛行隊(「ブレニム」)は名目上は戦力に加わっていたがマレーで訓練中で、ビルマに戻ることはなかった。




1942年1月7日
 第113飛行隊(ブレニム)が到着し、限定的な攻撃行動を開始することができるようになった。



(1月20日からゲーム開始)


1月末
 バッファローは4機しか残っていなかったが、3個飛行隊分のハリケーンが9段階に分けてイラクから空輸されてきた。



1月から2月にかけての増援
 イギリス空軍第17飛行隊(ハリケーン)
 イギリス空軍第135飛行隊(ハリケーン)
【↑1月28日にハリケーンⅡB型を装備する第135飛行隊の主力がミンガラドンに到着。代わりに第67飛行隊のバッファローはトングー飛行場へと後退】
 イギリス空軍第113飛行隊(ブレニム)
 イギリス空軍第28飛行隊(ライサンダー
 インド空軍第1飛行隊(ライサンダー)(これらの直協機(直接協同機)は軽爆撃機として使われることもあった)
【2月5日から3月12日まで、印度空軍第1飛行隊の全ライサンダーで日本軍の飛行施設、在地機への攻撃を3月12日まで継続
チェンマイ、チェンライなどの飛行場も。その後、インド第1飛行隊は飛行機をビルマ義勇空軍に引き渡し、人員のみがインドに後退】

【2月3日の時点でのビルマにおける戦闘機兵力(可動機)は、
 77戦隊九七戦23機
 50戦隊九七戦20機

 第17飛行隊ハリケーン7機
 第67飛行隊バッファロー4機
 第135飛行隊ハリケーン4機

 AVG第1飛行隊トマホーク12機
 AVG第2飛行隊トマホーク8機

 日本軍の戦闘機の数的優勢も危ぶまれる事態になりつつあった。しかし防御のため、兵力を分散せざるを得ない連合軍側に対して、攻勢をとる日本側には、まだ戦闘機を集中使用できる利点があった。】


【1941年12月11日~1942年2月24日の両軍損失
九七戦23機
一式戦2機
(連合軍の地上砲火や連合軍爆撃機との交戦で失われたものはない)

連合軍戦闘機17機
(連合軍戦闘機の損害には、地上砲火や日本軍爆撃機との交戦で失われたものは含まない)】


【2月27日時点のミンガラドン飛行場の連合軍戦闘機隊の可動兵力は
トマホーク5機
ハリケーン4,5機にまで減っていた

 日本側はこの日の飛行場攻撃で、航空撃滅戦をいったん終了し、しばらくは航空部隊の後方補給の充実と、戦力回復に力を注ぐことになった。連合軍は可動10機程度にまで落ち込んだが、【その後? 2月末から3月上旬ということ?】中東からハリケーンが逐次到着し、AVG(の?)第3飛行隊の一部が昆明からマグエに飛来したことで、可動兵力はトマホーク、ハリケーンを合わせて27機にまで回復した。】



3月上旬の増援
 イギリス空軍第45飛行隊(ブレニム)


 予備品や工具の不足、機体の酷使等により2月から3月上旬にかけての機数は、ブレニム6機、ハリケーン12機、トマホーク12機を超えることはなかった。【ただし、3月2日に第113飛行隊のブレニム9機がキャクトー、ビリン、タトン間の路上にいた日本軍車両を攻撃したという記述も】



【3月16日付けの連合軍戦闘機兵力は、
第17飛行隊ハリケーンⅡ型保有16機
第136飛行隊ハリケーン保有10機(Ⅰ型(訓練専用とされていた使い古し)9機、Ⅱ型1機)
AVG第3飛行隊トマホーク保有6機】




 これもまた、今後調査継続し、情報集積していくということで。


OCSのシナリオの勝利条件改造 or 設定のために:勝利条件が複数あるとよい?

 GJ16号を読んでいて、勝利条件設定について「なるほど……」と思う話が書いてあったので、今後のためにメモっておきたいと思いました。


 P54の対談中の、浅野竜二氏のご発言です。

 【……】複数の勝利条件がないと、勝利条件が一つでどこどこを取れば勝ちとするとどうしても単調になってしまうので、複数の勝利条件が最低限の条件でしょうね。勝利条件が二つあれば右を狙うように見せかけて左を狙う。必ず複数の勝利条件でブラフをかけながら駆け上っていくというのがいいゲームだなというのが、私の持論です。


 OCS『Luzon: Race for Bataan』の勝利条件ですが、そうなってないですね……(>_<) 一応、第5ターン終了時の勝利条件の他に、第3ターンまでにマニラを日本軍が占領したらサドンデス勝利というのがあるので、「勝利条件が1.5個ある」と見なせなくもない……?

 そういえば、先日勝利条件の改造を検討していたOCS『Tunisia II』のカセリーヌ峠の戦いシナリオは、元のが1つのヘクスを取っていることが絶対的に必要で、それで単調になっていると言え、改造案は5つヘクスの内の1つを取れればよいとしてはどうかというものでした。

OCS『Tunisia II』カセリーヌ峠シナリオの勝利条件改造案 (2023/01/09)




 OCSのシナリオの勝利条件は、「うまいな……!」と思うものもあるのですが(例えば私が初心者向けに一番にプレイを勧めるOCS『Sicily II』のシナリオ1「シチリア島西部」などは、4つの勝利条件ヘクスのうち3つを取る、というもので、シンプルな割にうまいと思います)、「うまくないと思う……」というようなものもあり、そういえばうまくないと思うやつは「とにかくある一つのヘクスを取ればよい」というようなやつだったりしたような気がします。

 そうすると、もしシナリオの勝利条件を改造するとしたら、勝利条件が複数あるように改造してみるというのが一つの手段である……?


 そしてまた、今後OCS『South Burma』(仮)上で勝利条件を設定する際には、勝利条件が複数あるようにしてみるというのがとりあえず良さそう……?

 他にも「勝利条件はこういうのがいいよ」とかあったら、ご意見いただければ大変助かります<(_ _)>




 あと、実はこの対談記事では「1~2時間でプレイできるゲームがいいよね」ということが言われてまして、OCSフリークとしては恥じ入るところなんですが、しかし逆に考えれば「OCSで2ターンで終わるような1つのゲームを作ってもいいということではないか」とも思ったり。でもそういうゲームが作れそうなテーマが全然分からない……占守島の戦いはいけそうではないかと思って少し調べたりしたんですが、ちょっと良く分からないままです。しかし以前は考えてなかったんですが、3倍スケール全然アリならいける……?


OCS『South Burma』(仮)製作のために:前方(サルウィン川沿い)で防御すべきか、後方(シッタン川沿い)で防御すべきか

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「作戦的な観点」という項目から。



 ↓今回の記述に出てくる地名等です。赤い矢印が日本軍の最初の進撃路。東側の赤い□が「コーカレイ」で、西側が「モールメン」。川沿いの赤い破線が、東から「サルウィン川沿いの防衛ライン」「ビリン川沿いの防衛ライン」「シッタン川沿いの防衛ライン」。その西の緑の破線が「ビルマ公路」です。

unit8631.jpg




 英連邦軍は、自分たちが遭遇することになる戦いの種類に対して、まったく準備ができていなかった。それはあたかも、イギリス軍の戦列歩兵が18世紀半ばに北米のインディアンと荒れ地で戦った時の困惑を、より激しくしたようなものであった。ウェーヴェルはこう総括している(注11:1948年3月11日付ロンドン・ガゼット紙への回答(28段落目))。

私達は、今まで見たこともなかった戦争に直面していることに気付いた。その敵は、独立した指揮で機動性をもって戦うという大陸【中国大陸?】のモデルで完全に整えられ、規律正しく訓練され、しかも濃密なジャングルからいきなり白兵突撃をしてくるといった異例の戦術を駆使していたのだ。我々の部隊が回り込まれ、混乱に陥るのも無理はなかった。

 この戦いの期間中の作戦的な論争が、主に2つあった。一つは、第一段階での方針についてである。ウェーヴェルは、日本軍とはできるだけ前方、つまりコーカレイからモールメンの間、それからサルウィン川のラインで戦うべきだと命じ、ハットンも忠実にそれに従った。その根拠は優れたものだった。つまり、日本軍を遅滞させることができれば予定の増援をラングーン港経由で送り込むことができ、ビルマを防衛できるだろうというのである。また、この前方防御により、イギリス空軍は十分な早期警戒を行い、輸送船団を航空援護することができるようになる。

 しかし、日本軍が侮れないことに気付いていたスミス将軍にとっては、このような方針は賢明とは思えなかった。【前方防御の前線までの】距離は遠く、彼の兵力は少なかった。日本軍はどこにでも優れた部隊を集中させることができ、彼の部隊は必然的に一つずつ確実に敗北することになろう。そこで彼は、ビリン川まで撤退して初戦を行った後、ラングーンを守るための主たる戦いをシッタン川のラインで戦いたいと考えたのである。

 ウェーヴェルは理論的には正しかったが、実際には部隊の未熟さのため、前方での作戦はあまり成功しなかった。遅滞はほとんどできず、多くの損害が発生し、士気の向上にはつながらなかった。もしビルマ小銃大隊が【より向いていた】ゲリラ的な役割を果たすように訓練されていれば、もちろんもっと成功しただろうが。あるいはまた、もしウェーヴェルがジャワ島におらず【当時ウェーヴェルは東南アジア戦域全体を指揮しなければならなず、ジャワ島のABDA総司令部にいた】、ビルマ戦での現実をもっと身近に感じていたら、違った見解を持っていたかもしれない。

 第二の論争は、プロームでのこと【第二段階の序盤】である。ウェーヴェルは、攻撃的な作戦が日本軍に対して効果的であり、日本軍がラングーン港に陸揚げさせる増援によって増強される前に局面を逆転できるだろうと強く信じていた。これも理論的には正しかったが、両軍の相対的な戦力や、道路に縛られる英連邦軍部隊に対して日本軍が柔軟に攻撃を行えることをまだ理解していなかったのである。これがシュエダンでの敗北につながり、トングーでの中国軍の敗北とともに、ビルマ中部の運命を決定づけたのだった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P345,6


 「第二の論争」についてはまた今後検討するとして、今回は「第一の論争」のみについて。


 この「なるべく前方で防御」か「下がってから防御」かの論争は各種資料でも興味深く取り上げられており、印象としては「下がってから防御」するべきだったという意見の方がかなり優勢であるように見えます。

 一方で、ゲーム上では「下がってから防御」した方が絶対に良いのでは、ある意味面白くなく、よろしくないような気がします

 私はこれまで、「なるべく前方で防御」しなければならないように勝利得点で縛るしかないかなぁ……(例えばモールメンを早期に日本軍が獲得すると、日本軍に大きめの勝利得点が入るというように)と思っていました。しかし今回のブログ記事を書こうとしている過程で思いついたのですが、ゲーム上では「前方で防御か、後方で防御かを、プレイヤーは自由に選べるが、どちらの選択肢にもメリットとデメリットがあり、悩ましい」の方が遙かに良いなと。

 もしかしてそのようにできるかもしれないので、資料に書かれている「前方で防御」と「後方で防御」のメリットとデメリットを書き出してみようと思います。



◆前方で防御のメリット

・政治的意義。英領マレー半島とシンガポールの失陥が迫り、米軍がバターン半島で粘り強く抵抗を続けている中、英領ビルマで自ら土地を差し出すことは許されなかった。モールメンは重要な、ラングーンとマンダレーに次ぐビルマ第3の都市であり、これを失う感情的・士気的な痛手も大きいと考えられた。

・撤退が中国に及ぼす影響があまりにも大きい。

・ビルマ公路を日本軍に遮断させないことが重要なのだから、ビルマ公路からできるだけ日本軍を遠ざけておくべきである。シッタン川のラインで守る場合、シッタン川沿いに長く延びるビルマ公路が危険に晒され、あるいは一部占領されることもあり得る。これではビルマを守る意義の大きい部分が果たされないことになってしまう。

・日本軍がビルマ東部の航空基地を手に入れれば、ラングーンとそこへ向かう輸送船が爆撃圏内に入ってしまう。
【ただしこの件に関しては、モールメンのかなり南方の複数の航空基地は守れる見込みはなく日本軍が容易に占領しています。しかしそれらの航空基地は規模が小さく、よりラングーンからは遠いということで、モールメン周辺の航空基地が保持できるのであれば保持した方が良いということでしょうか。また、日本軍は輸送船団を爆撃してないかもしれないのですが未確認で、しているのかもですし、英連邦軍側としては爆撃の可能性が増大するだけでも脅威だったということはあるでしょうね。】

【あと、「ラングーン(等)への爆撃」に関してですけども、私は「ビルマ人への爆撃」的な捉え方をしていたんですが、そうじゃなくて「ビルマの都市部でビルマ人を支配・収奪しているイギリス人やインド人の邸宅や施設を狙った爆撃」であったとすれば、なるほどそれは今まで私が想像していたよりも有効に機能したかもしれない、と思いました。】

・時間を稼ぐことが重要だったので、できるだけ前方で防御して縦深を確保し、遅滞防御した方が良い。時間が稼げれば、ラングーンからモールメン方向に部隊を派遣させられるし、シャン州の防御を中国軍に引き継いで(兵站的、政治的に複数の障害があったが)そこにいた部隊も向かわせることができるだろう。

・初めからシッタン川沿いのラインで守ろうとすると、初期の少ない戦力では結局そのラインを守ることができずに、なし崩し的にその防御ラインを失い、結果としてすぐにビルマ公路どころかラングーンをも失う事態になりかねない。




◆前方で防御のデメリット

・初期時点で前方に置けている部隊が少なく、敵が優勢なので「敗北が一つずつ重なっていく」ことが確実である。

・サルウィン川沿いの防衛ラインは長く、日本軍の展開を捉えられない中、あらゆる場所に兵力を派遣しなければならないが、それができるだけの兵力がない。しかも主要地点を押さえておいても、日本軍はそれを迂回してくる。また、ビリン川は小河川なので長期保持するのは難しい。シッタン川の下流は、河口にあるシッタン鉄道橋を爆破してしまえば、充分な準備をしても渡河が難しいほどの大河である。中流にも橋がなく、充分な渡河準備が必要。

・補給路が長い。途中、シッタン川両岸には良い道路がない部分があり、マルタバン【モールメンの対岸の町】とモールメンの間は船でしか荷物を運べず、モールメンから東には良好な道路は存在しない。
【ゲーム的には鉄道輸送力を小さくし、輸送トラックや輸送ワゴンの数も少なくすれば、かなり苦労することになると思います。】





 うーん、割と純軍事的には、「後方で防御」した方が良さそうな気がします(^_^; 一方で政治的には絶対許容できなかった。ですからやはり、勝利得点で縛るのはした方がいいでしょうね……。

 今思いつくものとしては、

・ある時期より早くモールメンなりビリンなりを放棄すると、中国軍の守備地域から引き抜いて来た英連邦軍部隊が増援として得られなくなる。

・ビルマ公路の遮断が早い時期に起こると、日本軍側に大きな勝利得点が入る。


 とかでしょうか……。



 これまた今後も情報集積、検討継続ということで。


OCSでユニットがDG(混乱)になる時、同じスタックの別のユニットも一緒にDGになるケースとならないケース

 先日、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のプレイで、ホート麾下の師団とグデーリアン麾下の師団が隣接していたためDG(混乱)になる……ということを処理しようとしました。



 ↓で、ホート麾下の師団はストライプ(この場合緑色)の上に白線が入っており、グデーリアン麾下の師団のストライプ(この場合紫色)の上には白線が入っていないので、見分けることができます。

unit8633.jpg



【『Smolensk:Barbarossa Derailed』】 3.4a 作戦境界線
 各フェイズの終了時に以下の状況にある複数ユニットフォーメーションのユニットはDG になります。
・もう一方の装甲集団のユニットとスタック、あるいは隣接している。



 この時、複数ユニットフォーメーション(つまり師団)以外の独立ユニットも↓に従って一緒にDGになるのでは? という話が出たのですが、分からないのでfacebookのOCSグループで質問してみました。

【OCS】 5.10a 混乱モードマーカーの配置 戦闘ユニットは、以下の状況に陥った時に混乱モードになります。
A)砲爆撃や戦闘の結果によって、DGの結果を被った。
B)ユニットが2へクス以上退却した(2ヘクス目のヘクスに退却した瞬間に混乱モードになります)。
C)敵ZOCに退却した。すでに混乱モードのユニットが敵ZOCに退却した場合、スタックは1ステップを失います(各ユニットが、ではなく)。ステップを失うユニットは、それを指揮するプレイヤーが選びます。
 混乱の結果が起こった時にそのヘクスにいたすべての戦闘ユニットは混乱モードになります(たとえ退却に参加したのでなくても)。



 先日新たにOCS班長に就任されたサルツマン氏がOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のデザイナーであるジョン・キスナー氏に確認して下さり、キスナー氏によるとこの場合、「複数ユニットフォーメーションだけがDGになり、その時同じヘクスにいた独立ユニットはDGにはならない。」とのことでした。

 サルツマン氏がジョン・キスナー氏にこの問題に関する意見を求め、まとめた?ところによると、「混乱の結果が起こった時にそのヘクスにいたすべての戦闘ユニットは混乱モードになる」のは、OCS 5.10aの3つのケースにおいてはそうなる、ということであり、それ以外のケースにおいてはこの規定は適用されないと考えるべきであろう、ということでした。

 「一緒にDGにはならない」ケースとしては前記のOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の場合の他には、OCS『Sicily II』などで1つのヘクスで複数のALT(揚陸)が行われる場合、1つのALTがDGになったからといって、別のALT(のLanding Craftやその積み荷)はDGにはならない、というケースをサルツマン氏は挙げておられました。

 また、「海軍ユニットはスタック内の他のユニットとは別にDGを被る(OCS 18.3d C)」というのもありますね……。『Sicily II』のケースについては↓でまとめていました。

OCS『Sicily II』「ハスキー作戦」シナリオの連合軍用サマリーを作ってみました (2021/09/26)




 ついでにまとめておきますと、上記の5.10aのケースで、

・「退却の2ヘクス目」
・「敵ZOC」

 に入った時にDGになるわけですが、その両方のケースで、その時そのヘクスにたまたまいた他の自軍ユニットも一緒にDGになります。そしてこれは、退却するユニットが退却以前にすでにDGになっていたとしても(あたかも新たにDGになったかのようにして)適用されます。

 詳しくは↓こちら。

今回出てきた、OCSシリーズルールへの解釈問題3つ (2020/03/11)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦の戦略的な観点

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「戦略的な観点」という項目から。



 ↓関係地名等を、『A War of Empires』のMap2を白地図化したものに記入してみました(緑色の破線がビルマ公路。赤い破線矢印は日本軍側の攻勢欺瞞。青い破線矢印は日本軍側が恐れていた中国軍の攻勢です)。

unit8635.jpg




 両軍とも、ラングーンがビルマの鍵であることを理解していた。最大の都市であり、唯一の主要港であり、産業の中心地であり、多くの熟練労働者の居住地であり、軍需物資の巨大な集積地であり、優れた飛行場群に近接しており、こことその海へのアプローチを押さえ、十分な増援があれば、ビルマを支配できることは明らかだった。英連邦軍の戦略は、できるだけ長くラングーンを保持することであったが、しかしラングーンを包囲されてもいけなかった。日本軍の作戦は、軽装備の部隊を最大限の速度でラングーン周辺に展開し、【ラングーン港から陸揚げされる増援によって】英連邦軍が十分に増強され阻止されてしまうようになるか、中国軍が集結して北翼が攻撃され始めてしまう前にラングーンを占領することであった。

 しかし、ビルマの英連邦軍は戦争への準備があきれるほど不足しており、指揮配置は拘束され、戦闘機や経験豊富な兵士が致命的に不足していたため、日本軍側の思うつぼになった。中国軍は、ビルマ公路に対する攻撃は【タイの北側の】シャン州南部を経由すると日本軍に信じ込まされ(それはかなりありそうなことであった)、マンダレーの南からの進出を躊躇した。だが、日本軍の勝利は際どいものだったのである。シッタン川の惨事【英連邦軍の撤退の前にシッタン川橋梁を爆破してしまい、多数の兵員と装備が失われたこと】がなければ確実に、そしてその後も恐らく、第17インド歩兵師団は第63旅団で増強され、それほど強くない【日本軍の】第55師団には勝利できただろう。もし、第7機甲旅団だけでなく、第7オーストラリア歩兵師団のような戦闘経験の豊富な1個師団と、航空機のそれなりの増援があれば、弾薬不足だった日本軍の両師団【第55師団と第33師団】は敗退して追い返されていたかもしれない。そこに中国軍が攻撃をかければ、日本軍は敗走した可能性さえある。その次に何が起こったかは推測に過ぎないが、このように日本軍に対して反転攻勢を成功させれば、東南アジアでの戦争とイギリスの威信に大きな影響を与えたことは確かである。

 しかし、優秀な師団を間に合うように送り込むことは不可能であることが判明し(注12:イギリス戦時内閣は、イギリス軍第18歩兵師団を【実際に送られた】シンガポールではなく、ビルマに転用することも検討していた。この師団は実戦経験がなく、中東での戦争のために訓練されたものだった。しかし軍事的な理由ではなく、主として政治的な理由で破滅的な決定が下され、運命的な航海を続けるよう命じられたのである。)、シュエダンへの最後の絶望的な打撃とビルマからのイギリス空軍の撤退の後、日本軍の戦力が急速に増加していたため、ビルマのどこかを保持できる可能性は低いことが明らかになった。中国軍が急速に敗北し、ラシオを失ったとき、チャンスはまったくなくなってしまった。そして問題は、インドに向かおうとする多くの民間人を保護し、モンスーンが来る前に彼らの後を追って撤退することだということになった。日本軍からの大きな圧力と、非常に困難な状況の中であったが、この撤退は実に巧みに行われたのである。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P346,7



 この記述からゲーム化において参考になることとして……。

1.日本軍によるラングーンの占領(あるいは包囲)が遅れれば、英連邦軍の増援がラングーンから続々と陸揚げされ、また中国軍が北翼から攻撃して来られるようになるようにすべき(?)こと。

 史実ではラングーンが包囲急襲されそうになったところで、英連邦軍(アレキサンダー将軍)はラングーンの保持を諦めて部隊を北方に脱出させたようです。しかしゲーム上では、恐らくラングーンには多くのSPもあるだろうことも相まって部隊を置いて籠もった方が有利なように思えます……。このケースにおいてなぜ英連邦軍はラングーンに籠もる選択をしなかったのか、今後継続調査で……。



2.「日本軍の勝利は際どいものだったのである」という記述は、ゲーム化においては良い話であるように思えます(^_^; 「それほど強くない【日本軍の】第55師団には勝利できただろう」というのは、「他に強い第33師団がいたが、これに対して第7オーストラリア歩兵師団のような強力な1個師団があれば……」というような含意があるのだと思います。

 第7オーストラリア歩兵師団というのは、隷下3個旅団の内1個がトブルクで、2個がシリアのエクスポーター作戦(OCS『Reluctant Enemies』)で戦った歴戦の部隊でした。日本の参戦によりオーストラリア本土の防衛戦力が必要となったため、船に乗せられてインド洋を航海中だったのですが、イギリス政府はビルマの防衛が危なくなったため、急遽第7オーストラリア歩兵師団をビルマに回せるよう、オーストラリア政府に要請したのです。が、オーストラリア政府はその要請を断ったのでした。

 一応、その一部が結局ジャワ島で日本軍と戦ったという話もあるのですが、ジャワ島はオーストラリア本土により近いですし、この戦いではオーストラリア軍はアメリカ軍、オランダ軍と共に戦っています。そもそも、それまでの中東での戦いで、オーストラリア軍部隊がイギリス軍から「消耗品のように使い捨てられる兵士」として使用されているとして、オーストラリア政府からのイギリス政府に対する反感が非常に大きくなってしまっていました(→第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦域のオーストラリア軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/04/09))。そこらへんを考えると、オーストラリア軍部隊がビルマに振り向けられる可能性は、ゼロではないとしてもかなり低そうではあります。

 しかしゲームとしては、史実でジャワ島に送られた部隊あたりをヴァリアントとしてユニット化しておくことはなしではないでしょう。それらの部隊は具体的にはWikipediaによると「2/3rd Machine Gun Battalion, the 2/2nd Pioneer Battalion, and the 2/6th Field Company」だったということで、前2者に関してはWikipediaの単独項目もあるどころか、OCS『Reluctant Enemies』でユニット化されています。最後のものも2/5中隊と一緒にされてユニット化されています。


 ↓OCS『Reluctant Enemies』上のそれらのユニット。

unit8634.jpg




 イギリス第18歩兵師団は、1個旅団がマレー戦の初戦前にマレー半島に送り込まれ、残り(2個旅団?)が1月29日から2月5日までの間にインドを出航してシンガポールに到着し、2月8日から15日のシンガポールの戦いの後降伏しました。

 このタイムスケジュールを見ると、シンガポールが陥落した頃でさえ、ビルマ戦はまだそれほど危ういとは思われていなかった(2月23日に「シッタン川の惨事」が起こり、急速に危なくなります)ので、政治的にイギリスがシンガポールを諦めたかのように思われることは許容できなかったこととも含めて、第18歩兵師団もビルマに送られる目はほぼなかったように思えます……。

 しかしもし一部の部隊でも可能性があるとすれば、何らかのトラブルが起こってシンガポールに送られなかった部隊が出たとか、あるいは深謀遠慮によって師団の全部がシンガポールに送られるのではなく、少しだけ控置されたとして……とかでしょうか。

 一応、ヴァリアントとして一部の部隊が入れられることがあってもいいのかもです。



3.「シュエダンへの最後の絶望的な打撃とビルマからのイギリス空軍の撤退の後、日本軍の戦力が急速に増加していたため、ビルマのどこかを保持できる可能性は低いことが明らかになった。」という記述ですが、シュエダンの戦いは第2段階のごく初期の戦いであるため、もしこの時点で「後は消化試合に過ぎなかった……」ということになれば、ゲーム化する上で問題ということになってしまいそうで怖いです(>_<) そこらへん今後調べていきますが、「可能性は低い」ということは「可能性は少しはあった」わけで、「中国軍が急速に敗北し、ラシオを失ったとき、チャンスはまったくなくなってしまった。」というようなことが起きないように連合軍プレイヤーは気を付ければ、ゲーム上は辛勝できる……という風にすれば良いのでしょうか。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦時のイギリス空軍について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「イギリス空軍」という項目から。


 陸軍と同様、ビルマにおけるイギリス空軍もイギリス政府の政策の犠牲となった。戦争が始まった時、彼らの作戦戦力は、低水準のバッファロー戦闘機1個飛行中隊のみで構成されていた。幸い、AVG【アメリカ義勇部隊:フライング・タイガース】はより近代的なカーチス・トマホークの1個飛行中隊を提供し、イギリス空軍の管理下で戦うことに同意してくれた。両者は、1つのレーダー設備と効率的なビルマ観測隊(注10:民間の郵便電信局で編成されていた)の助けを借りて、ラングーン上空の制空権を掌握することに成功したのである。1942年1月、イギリス空軍は中東から古いハリケーンを少しと一握りのブレニムで増強された。これらによって、彼らは日本軍の地上部隊に非常にうまく嫌がらせをしながら、圧倒的な敵の数に対抗してうまく戦うことができた。ラングーンに向かう重要な増援の輸送船団が一隻も撃沈されなかったことは、連合国両軍の航空部隊に大きな信用を与える事実であった。

 大英帝国の各地から集まったパイロット達は若く、大胆で勇敢であり、日本軍の航空部隊の遙かに多い数によく耐えたことは驚くべきことであった。イギリス本土とは異なり、彼らの問題は航空機よりもパイロットの数が多いということだった。これは地上スタッフの責任ではなく、予備機が絶望的に不足していたためであり、彼らは損傷した機体を使える状態に保つために、天才的な即興術を披露した。しかし、ラングーンを失い、敵の接近によってマグウェへの移動を余儀なくされたとき、イギリス空軍には十分な早期警戒装置が欠けていた。この弱点を克服するための適切な対策を講じることの緊急性は、おそらく十分に認識されていなかったのだろう。しかし、敵はそのことをよく理解しており、はるかに優れた空軍が彼らを排除する立場になると、すぐにそれを実行したのである。

 ビルマでの地上戦の成功には、他の地域と同様に航空優勢、あるいは少なくともその均衡が不可欠であり、1944年の重大な戦いと1945年のビルマ再征服は、まさに陸海空合同の作戦となった。しかし、1941~2年には、イギリス政府はビルマで防空に最低限必要なものさえ提供できず、イギリス空軍をひどく失望させたのである。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P345



 今回は全般的な話が主で、把握はしておくべきものの、細かいレーティング等にはそれほど関係しないかとは思いました。


 バッファローですが、これまでのOCSではユニットになっていないと思われるのですが、OCS『South Burma』(仮)においてもゲームが開始される1942年1月20日の時点では1ユニット(の減少戦力面)にも足りないと思われるので、「MixF(P40B/バッファロー/ハリケーンの混合)」として提供されるのではないかと思っています。でも、シルエットはバッファローのものにするというのはいいかもですね……。

 現状では、航空ユニットのレーティングはOCS『Luzon: Race for Bataan』の時のものを流用しつつ、こういう感じではないかなと思っています(イギリス空軍の爆撃機についてはまだ作業していません)。

 数値は、空戦力-爆撃力(航続距離)です。


P40B
3-3(37)

ハリケーン(Ⅱb?)
4-2(?)(46)

九七戦(Nate)
2-0 (40)
減少戦力面は1-0


九九双発軽爆 Lily
(0)-4 (150)
減少戦力面は(0)-2

九七軽爆 Ann
(0)-3 (106)
減少戦力面は(0)-2

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ国境警備隊(F.F.)について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「ビルマ人部隊」という項目から、ビルマ人(といっても、在ビルマのインド人やグルカ人?)によって編成されていた国境警備隊(F.F.)について。


 ビルマ人憲兵隊は平時には高く評価されていたが、戦時に広い範囲に広がった混乱に対処するには人数が足りなさ過ぎた。ビルマ人憲兵隊から編成されたビルマ国境警備隊【Burma Frontier Force units】は、哨戒、情報提供、補給集積所の保護などでよい働きをすることが多かった。しかし、ビルマ連隊と同じようなストレスにさらされ、末期には1つか2つの部隊が反乱を起こし、敵に寝返ったと言われている。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P344


 もし必要そうなら、キャンペーン終盤にはこれらのユニットの反乱チェックをして日本軍に寝返る……というルールを考えてしまうのですが、しかしそれを入れると合理的に行動する連合軍プレイヤーは中盤までにこれらのユニットをわざと壊滅させてしまうだろうということが容易に想像できます……


 この国境警備隊というのは英文資料では「F.F.」と書かれており、戦闘序列を見ると師団や旅団に組み込まれているように思えます(日本語資料では軍直轄になっていたりしますけども)。師団等の後方守備隊という感じでしょうか?


 『The War Against Japan Vol.2』の付録1(P439)には「F.F.」についての注記がありました(『ビルマ進攻作戦』P242にその和訳あり)。

1.国境警備隊は、本部、2個乗馬部隊、3個歩兵部隊(各約100名)から成っていた。それに付け加えて輜重のために若干の大型トラックがあり、第2国境警備隊は民船をいくらか持っていた。


 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の付録2(P361)にも注記がありました。

3. BFFの部隊は1941年に、ビルマ憲兵隊のインド人とグルカ人や、ビルマ在住であったインド人グルカ人で編成された。彼らは軍によって動かされたが、管轄は引き続き民政当局であった。彼らは、騎乗歩兵の2つの部隊と3つの歩兵隊に編成され、それぞれ約100人の隊員を擁していた。最初の役割は、敵の前進を妨害し遅らせることだった。






 以下、各時期の戦闘序列にどのように存在しているか書き出してみます。


1941年12月27日

1st Burma Division (Southern Shan States)
 F.F.1, F.F.3, F.F.4, F.F.5【『ビルマ進攻作戦』の1941年末の戦闘序列では軍直轄】

2nd Burma Brigade (Moulmein)
 F.F.2(Mergui)(注2:おおむね予備)



ビリン川の戦いの頃(2月下旬)

17th Indian Division
 F.F.2【前記の第2ビルマ旅団のが合流したもの】





1942年3月19日

1st Burma Division
 F.F.1, F.F.3, F.F.4, F.F.5

1st Burma Brigade【↑の隷下?】
 F.F.8

17th Indian Division
 F.F.2, F.F.6



 ユニット化においてですが、原則として約1,000名が6戦力で、国境警備隊が約500名なので人員数だけ見れば3戦力ですが、火器の火力において相当劣っていて実戦部隊ではないでしょうから、(1)【防御のみの1戦力】、アクションレーティング0あたりではないかと思います。ただ、移動力においては乗馬部隊が40%あって、ビルマ人部隊は現地の移動に困難がなかったという話があるので、少し高めにレーティングされるということではないでしょうか。


<2023/06/15追記>

 ↑で、「ビルマ人部隊は……」と書いていましたが、直前の引用で「グルカ人やインド人」とあるので勘違いでした(^_^; そうすると書いていた時の印象よりも少し強めだと思うので、戦闘モードで(2)、移動モードで(1)、アクションレーティングは1ということでとりあえずユニット化してみました。


 ↓戦闘モード面。

unit8593.jpg


 ↓移動モード面。

unit8592.jpg


 F.F.7が存在していたかどうか分からないのですが、ここらへんの部隊は欠番はないような印象を持っているのでとりあえず作っておいて、右肩に●を付けておきました。


<追記ここまで>



 あと、先ほどの『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P361とP366には「ビルマ補助軍(Burma Auxiliary Force:BAF)」に関する記述があり、こう書かれていました。

2. ビルマ補助軍(BAF)への従軍は、1940年に軍齢にあったすべてのヨーロッパ系大英帝国臣民に義務づけられることになった。

15. ヨーロッパ人、イギリス系インド人、イギリス系ビルマ人から集められた小さな義勇軍部隊は、ビルマ補助軍と呼ばれていた。彼らは装甲車部隊、野砲兵、HAA高射砲、その他いくつかの小さな部隊を持っていた。しかし、残念ながら、これらの部隊の精神と勇気は、その旧式の装備によってほとんど無効になってしまった。


 これまでにも「BAF」という表記は見ていて、意味が分かってなかったのですがようやく理解しました。ビルマ補助軍については、↓に詳しい説明がありました。

The Burma Auxiliary Force

 部隊規模は小さいようで、ユニット化するかしないかギリギリのラインくらいだと思うのですが、とりあえずはユニット化しない方向で無視しようと思います。

 あと、「RA」という表記も意味が分かってなかったのですが、「Royal Artillery」の略称らしく、英連邦軍の砲兵(対空砲とかも含め)にはこの略称が付けられたりするようです。



『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』読了しました:印象深かった記述

 『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』を読了しました。1942年のビルマ侵攻作戦のみを扱った、読みやすい戦記ものとして非常に良くて興味深かったです。個人的にお勧めします。



 購入を検討される方は、Amazonのはバカ高い(4万円台)ので、↓からどうぞ。

日本の古本屋



 著者は第33師団(桜井省三師団長)の第215連隊の連隊本部付の下士官で、本部業務も色々やるのですが、徒歩行軍も戦闘行動もやったりしていてそこらへんの苦労も書かれていますし、色々楽しかったことがあるのも書かれています(食べ物とか、イギリス人邸宅を接収して美術品を見たりとか、故郷の踊りとか)。勝っている時期なのでということもあるとも思いますけども、ビルマ侵攻作戦は現地の人達を味方にするのにかなり成功した戦いであったのだということもありそうです。


 以前、↓でこの本での気付きについていくらか書きましたけども、読了後ということでまた書こうと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』のパアン戦の記述より (2023/03/06)




 まずは、(捕虜にした)イギリス本土兵が刺青をしまくっていたというような件について。

 また、私の顔を見て、にやりと笑って行く白人兵もいた。見ると、白人兵は誰もが破けたシャツの間から、刺青を覗かせている。若い女の顔、赤いハートなど様々だが、日傘をさした日本の舞妓を腕に刺している者がいた。私を見て
「シガレット、シガレット」
 と、煙草を要求する。
「貴様たちはニュージーランド兵か?」
「ノー、英国本土だ」
 と誇らしそうに答える。赤茶けてよごれた、うす汚い頭髪と碧い眼が、憎々しい。捕虜の行列は、一進一退灼熱の丘を下りて行く。倒れたまま動かない英兵の肌に、たちまち蠅が黒く群がる。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P194


 印象として「偉そうだなぁ」という気がしますけども、「支配(側の)民族」であるからとか「白人優越主義」からとか……? あるいは、イギリスは貴族階級と庶民階級は全然違うらしく、貴族階級が刺青しているかなぁという気もするので、庶民階級の中で兵士になるようなやんちゃ?な人達だったとか、あるいは統治対策用の部隊とかでなく第7機甲旅団の中の兵士だったとかで士気が高いとか……?

 尤も、「偉そう」で言うと、著者の言動も基本的に偉そうだとは思いました。「東亜の新秩序」の理想に燃えて、それに邁進している日本軍下士官としては、当時それがまったく普通のことであったのだろうなぁ、とは思います。


 ビルマにおける支配層であったイギリス人(家族?)が現地に構えていた邸宅が、取るものも取りあえず逃げ出して贅沢なものがごっそり残っている状態で日本軍側に接収されるという話も複数出てきます。「世界の支配層である白人、なかんづくイギリス人」対「東亜の新秩序ということを信じて戦う日本兵」「支配者が変わっていくだけに過ぎないとしても、それを喜ぶ現地民」という構図が強烈にあったのだろうな、という気がします。


 イギリス兵用の設備と、インド兵用の設備について懸隔の差があったという件も書かれていました。

 駅に廻ると、救急列車が放置されて、おびただしい量の衛生材料が散乱していた。
 車内に入ってみると、英兵用とインド兵用との設備に、はなはだしい差別があり、むらむらと憎しみが湧く。病院らしい建物には、負傷者やコレラに罹ったインド兵、中国兵が無残な姿で置き去られて、既に屍となっていた。悪臭が鼻を突く。大きな蠅が群れて集まり、ぞっとするほどの鬼気を感じる。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P225








 あと、英連邦軍が退却していく時に現地の村を略奪していった例が2、3出てくるのですが、中国軍が退却する時にはその程度が比べものにならなかったらしく……。

 中国軍の退却した道路沿いの部落を通過するとき、実に憤慨に耐えないものがある。略奪し尽くすと必ず、その部落を焼き払っていくのだ。その上井戸水には、汚物が投げ込まれている。罪もない住民に対して、このような非道を行う彼らは全く鬼畜に等しい。焦土戦術と、彼らは誇っているのかも知れないが。
 そして、コレラ、ペストなどに罹った者や落伍した者は、持ち物を全部奪われて路傍に捨てられていた。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P229,230


 尤も極力客観的に考えれば、勝っている側としてはこれらはもちろん許せないことですけども、ボロボロに負けて退却する側としてはやむを得ない&合理的ではあるだろうとは思います……。後に日本軍がビルマから撤退する際にはどうだったのか、気になります(拉孟・騰越戦の前の頃の日本軍の非人道的行為についてはいくらか見つけてましたけども、ビルマからの退却期にそういうことがあったというのは私はまだ見つけてない気がします)。

 一方で、このビルマ進攻戦の終盤に捕虜にした中国軍の青年下士官が、著者が中国で戦っていた中国軍師団に所属していたことが分かり、懐かしさを覚えて筆談などをしている中で、「なぜ日本軍が戦争をするのか」という大義の問題であるとか、その青年が「人生最大の目的如何」とか「現在、世界の大勢および将来の予想如何に」などの質問をしてきてたじたじするとか、結局その青年を著者が帯同させることにして、色々機敏に働いたり、その青年が病気にかかった時に他の日本兵が見捨てろというのに著者がかくまって数日して回復してものすごく感謝されたとかって話があり(P238~)、そこらへん面白いなぁと感じました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:シッタン橋梁が破壊された後の第17インド歩兵師団の戦闘序列から、その定数について

 『The War Against Japan Vol.2』の巻末資料を見ていて、シッタン橋梁が破壊された後の2月24日の時点の第17インド歩兵師団の戦闘序列(P445)の中に、定数についての言及があるのを見つけました。


 それによると、(その時点でいた)3,484名は、定数の41%であったそうです。だとすると定数は、3,484÷41=84.97(1%の数値)、84.97×100=8497.56(100%の数値)で、「8497名」ということかと(計算の仕方、合ってます……?)。

 戦闘序列にあるのはすべて歩兵(小銃とかの)大隊で、1個旅団につき4個大隊で、12個あります。とすると、1個大隊は8497÷12=708名

 旅団は3個なので、1個旅団は8497÷3=2832名


 ただし、例えば4/12 Frontier Force Regimentや、ビルマ小銃大隊なんかは定数が少なめであった可能性もあるのではないかと推測してます。


 そうすると以前↓で、「1個旅団は約3000名で、だいたい3個大隊で1個旅団だから1個大隊は約1000名か」と書いてましたけど、1個旅団が約3000名(弱)だと決まっているけども、大隊が何名というのは割と違いがあって、1個旅団の定数を満たすために4個大隊を配属するとか、そういうことだった可能性も……?(全然分かりませんけども)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:英印軍標準旅団の編成定員はおよそ3000名 (2023/03/06)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍の工兵部隊について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「在ビルマの軍」という項目にあった、英連邦軍の工兵部隊について。



 国境とモールメンで目覚ましい働きを示すも、その後急速に戦力を減らした第1ビルマ野戦【工兵】中隊を除いて、ビルマの師団工兵はすべてインド人兵士から成る土木・地雷工兵であった。5つの師団野戦【工兵】中隊のうちの複数が、ほとんどすべての戦闘に参加した。彼らによる多くの破壊で日本軍の補給の追送を遅らせ、もし英連邦軍の退却が補助的な軸ではなく、マンダレーへの主軸に沿ったものであったなら、もっと大きな成果を上げることができたはずである。実際、彼らによる破壊はビルマ北部への物資の流れを遅らせ、日本軍が1942年から43年の冬にマニプール【インド】への進出を断念した重要な要因になったが、本来これは彼らにとって成功のチャンスがあったはずのものであったのだ。師団の後方では、土木工兵は非常に手薄であったが、ビルマ公共事業局【Burma Public Works Department】の積極的な援助により、空軍のための衛星的な滑走路、救急病院、難民のための給水、重要な道路や線路の整備を行うことができた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P343



 OCSの工兵は架橋と建設(航空基地、陣地、港湾の修復)を行えますが、破壊に関してはシリーズルールではルール化されていないですし、個別のゲームでも工兵が破壊に使用されているというのはぱっと思い出せないです(『Beyond the Rhine』には橋梁破壊のルールがありますが、見てみたところ工兵ユニットを使用するものではありませんでした)。

 また、他の大隊~中隊規模くらいのウォーゲームだと、工兵ユニットが普通の歩兵のように使用されるということが良くあるわけですが、OCSではデザイナーの「工兵は工兵の目的のために有用であるべき」というポリシーに従って、存在していた工兵部隊が何でもかんでもユニット化されるのではなく、(恐らく)工兵の目的のために使用される範囲でユニット化されている印象を受けます……。ただし、史実で工兵が戦闘行動を行うことは実際あったわけですから、そこらへんでいくらかユニット化されてもいるのかも……?


 そこらへん考えると、存在していた工兵をすべてゲームに登場させるべきというわけではないと思うのですが、一方で、一応ユニット化しておけば、ゲームバランスを取る時に入れたり出したりしてユニット数を増減できるので有用だという見方もあります(^_^;

 工兵が破壊を行えるという特別ルールを入れるかどうかについても、ゲームバランスを取っていく中で、どうしても必要そうなら入れるけども、できるなら入れないという方向性かと思われます。



 3倍スケールのOCS『Reluctant Enemies』の工兵ユニットは↓の2つでした。

unit8636.jpg




 以下、『The War Against Japan Vol.2』の巻末の戦闘序列から、工兵部隊のみを抜き書きします。


27th December 1941
 56th Field Company, S. and M.
 1st Burma Field Company, S. and M.
【以上、第17インド歩兵師団隷下】


Order of Battle of 17th Indian Infantry Division at the Bilin River Action【1942年2月下旬】
 24th Field Company, S. and M.
 Malerkotla Field Company, S. and M.
 60th Field Company, S. and M.
 6th Indian Pioneer【戦闘工兵】 Battalion
【先ほどと同じ第17インド歩兵師団隷下なわけですが、12月のものと全然違います……】



19th March 1942
 1st Field Company, Burma Sappers and Miners
 6th Pioneer Battalion, Indian Engineers
【以上、第7機甲旅団隷下。両方とも、一時期第17インド歩兵師団にいた工兵部隊?】

 56th Field Company, S. and M.(less two sections)
 Malerkotla Field Company, S. and M.
【以上、第1ビルマ師団隷下。両方とも、一時期第17インド歩兵師団にいた中隊?】

 24th Field Company, S. and M.
 60th Field Company, S. and M.
 70th Field Company, S. and M.
【以上、第17インド歩兵師団隷下。24と60はビリン河畔の時にもいました。】

 Two sections 56th Field Company
【以上、後方連絡線】



 前掲引用にあった「5つの野戦工兵中隊」というのがどれなのかですが、第6インド戦闘工兵大隊というのは「野戦工兵」でも「中隊」でもないので除外されているとみなし、また第56野戦工兵中隊が3月19日にはほぼ後方連絡線に回されているので除外されているとみなせば、あとは5つとなりますけども。


 見ていると、移管?のめんどくささであるとか、中隊総数が多くてユニット化に却って阻害要因になるという印象を受けました……。

 が、2個ずつのまとまりで移管されていたりする例があるので、『Reluctant Enemies』でも画像の左側のユニットが2つの部隊がまとめて1ユニット化されているようにすれば、ユニット総数が多くならずに済むということがあるかもと思いました。




 以下、情報を集積しておきます。

 メーラコトラ【土木・地雷工兵】隊は1941年11月、ビルマに送られ、シャン州のタウンギー駐留の第1ビルマ旅団に入れられていた。それが日本軍のテナセリウム侵攻と同時に、チャイトの第17インド師団への増強軍として、第1ビルマ師団から編成替えになった。【メーラコトラはインドのパンジャブ州の地名】
『ビルマ 遠い戦場 上』P50

OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍の砲兵部隊について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「在ビルマの軍」という項目にあった、英連邦軍の砲兵部隊について。


<2023/07/06追記>

 短くて理由等について分かりやすい文章を見つけたので先頭に追記しておきます。砲兵部隊に関する記述は、他の資料と合わない部分もあるかもですが……。

 インドはすでにマレーを強化するために野砲兵部隊を剥ぎ取られていたため、ビルマ軍のための砲兵増援はほとんどなかった。ビルマ軍はこの戦役のこの段階で、第27山砲兵連隊しか保有していなかった。第1ビルマ師団は2つの山砲兵中隊と砲兵連隊司令部を持ち、第17インド師団はその連隊の残りの2つの山砲兵中隊を与えられた。これは2個歩兵師団のためのものとしては弱い砲兵力であった。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P53



<追記ここまで>

 このキャンペーンでは、【英連邦軍の】砲兵は非常に困難な時を過ごした。その数があまりにも少なかったのである(注7:在ビルマの【英連邦】軍は、第一段階では野砲兵連隊が半分と山砲兵連隊2個、第二段階では野砲兵連隊が1.5個と山砲兵連隊1個を超えない支援しかなかった。これを、1945年にラングーンに進出した第14軍を支援した砲兵連隊が70個であったのと比較して欲しい。HQ ALFSEA, Some Facts about the Burma Campaign, 1944-45)。イギリス人兵士で編成されていた砲兵はRHA【Royal Horse Artillery】の第414野砲兵とRA【Royal Artillery】の第95対戦車連隊の砲兵中隊だけで、いずれも第7機甲旅団に所属していた。特に前者は、未知の環境の中でよくやった。第一段階でのビルマ人からなる補助的な2部隊を除き、野砲、山砲、HAA、LAA【高高度と低高度の対空砲?】のすべての砲兵はインド人で編成されていたが、対空砲兵にはイギリス人下士官もいた。山砲兵とLAA砲兵は、作戦の初期には非常に苦労した。当時の習慣で、兵士達の多くが個人の武器を持たず、近接戦闘では非常に不利な状況であった。山砲は急峻な丘陵地帯で使用するために設計されたもので、日本のすべての大砲に大きく劣るものであった。しかし、接近戦では非常に有効であり、ほとんどすべての戦闘に気迫を持って参加した。だが、ラバがないため多くの砲がトラックで牽引されており、道路封鎖の犠牲となったのは悲劇であった。キャンペーン後半で注目すべきは第1インド野砲兵連隊で、新参ながら多くの戦闘に参加し、Prome、Kokkogwa、Kyaukseで格別の活躍をした。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P343



 『Japanese Conquest of Burma 1942』の記述も挙げておきます。

 ビルマの陸軍は、作戦の初期には砲兵隊の支援が非常に弱く、試行錯誤を重ねた射程6,000ヤードの3.7インチ榴弾砲を装備し、バラバラに分解してラバで運べる山砲隊を4つ持っていただけだった。インド野戦砲兵第1連隊(ラングーンに上陸した最後の増援の1つ)は、高火力砲弾を13,400ヤードまで発射できる25ポンド砲16門を持参していた。25ポンド砲の1個砲兵中隊は第7機甲旅団の一部を構成し、さらに2ポンド対戦車砲を装備した対戦車砲兵中隊を構成した。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P19




 呼称についてなんですが、英連邦軍は他国の「大隊3つで1個連隊」というようなのを、「連隊3つで1個旅団」という風に呼称しているように思えます。だったら英連邦軍は「砲兵中隊3つで1個砲兵連隊。3個砲兵連隊で1個砲兵旅団」という理解でいいのか……というの疑問があったのですが、OCS『DAK-II』のユニットと『Rommel's North Africa Campaign』巻末の戦闘序列を比較検討してみた結果、恐らくその理解でいいのだろう……と考えました(もし問題ありましたらご指摘下さい!)。



 以下、とりあえず各種資料の戦闘序列から英連邦軍の砲兵部隊だけを抜き書きしてみます。高射砲はOCSではユニット化されないので省きます。英語は『The War Against Japan Vol.2』と『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末付録から。日本語は『ビルマ進攻作戦』の巻末からです。


27th December 1941/1941年末/昭和16年末
 27th Indian Mountain Regiment/第27インド山砲連隊
  2nd Indian Mountain Battery/第2インド山砲中隊
  23rd Indian Mountain Battery/第23インド山砲中隊
  5th Field Battery, R.A., B.A.F./第5野砲中隊【B.A.F(ビルマ補助軍)はユニット化しません】
【以上、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』では一番上に下3つが所属するかのように書かれています。『Burma, 1942: The Japanese Invasion』と『The War Against Japan Vol.2』では第1ビルマ師団隷下ですが、『ビルマ進攻作戦』ではビルマ軍直轄となっていました】

 12th Indian Mountain Battery(Moulmein)/第12インド山砲中隊
【第2ビルマ旅団隷下。『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P361の戦闘序列には出てきません】


 比較していると、今まで意味が良く分かってなかった「Field Park Company」というのは「砲廠中隊」という意味であることが分かりました。ということはユニット化する必要はない、と……。





 次は3月19日のものです。

19th March 1942/昭和17年3月19日
 414th Battery, R.H.A./第4ロイヤルフッサーズ砲兵大隊第4中隊
 'A' Battery, 95th Anti-Tank Regiment, R.A./第95対戦車連隊A中隊
【以上、第7機甲旅団隷下】

 H.Q. 27th Indian Mountain Regiment/第27インド山砲連隊
【12月27日の戦闘序列にはなかった「H.Q.」という表記が。下つをまとめたものが第27山砲連隊ということでしょう】
 2nd Indian Mountain Battery/第2インド山砲中隊
 23rd Indian Mountain Battery/第23インド山砲中隊
 8th Indian Anti-Tank Battery/第8インド対戦車中隊
【以上、第1ビルマ師団隷下。またここに、「56th Field Company, S. and M.(less two sections)/第56野砲中隊(1個班欠)」というのがあるのですが、英文の「S. and M.」というのは「Sappers and Miners(土木/地雷工兵)」のことではないかと思われ、『ビルマ進攻作戦』にあるように砲兵ではないのではないか、と思いました。というか、次の「Malerkotla Field Company, S. and M./マレコトラ工兵中隊」では『ビルマ進攻作戦』も工兵だと見なしていました……】

 H.Q. 1st Indian Field Regiment/第1インド野砲連隊本部
 1st Indian Field Battery/第1インド野砲中隊
 2nd Indian Field Battery/第2インド野砲中隊
 12th Indian Mountain Battery/第12インド野砲中隊【とありますが、山砲中隊でしょう】
 5th Indian Anti-Tank Battery/第5インド対戦車中隊
【以上、第17インド歩兵師団隷下。上の2つ(もしかして12山砲も含めて3つ?)が「格別な活躍をした」という「第1インド野砲連隊」ということでしょうか。

H.Q. 28th Indian Mountain Regiment/第28インド山砲連隊本部
【ここ、高射砲なので省略】
 Detachment Rangoon Field Brigade, R.A., B.A.F./ラングーン砲兵旅団分遣隊
【以上、軍直轄。注記によれば、第28インド山砲連隊の第5、第15、第28インド山砲中隊はマンダレーで再装備(再建?)中であったそうです。】

 2nd Indian Anti-Tank Regiment(less two batteries - no guns)/第2インド対戦車連隊(2個大隊【中隊】は砲なしで欠)
【ここ、高射砲なので省略】
 Rangoon Field Brigade, R.A., B.A.F./ラングーン砲兵旅団(一部欠)
【以上、連絡線部隊(後方守備隊?)。】




 『South Burma』(仮)上でのユニット化についてですが、「中隊ですべてをユニット化するか、あるいは大隊(実質。名称上は連隊)でまとめられる時には大隊でユニット化するか」でちょっと迷うところなんですが、最近のOCSゲームは以前よりも砲兵ユニットをまとめる方向性にあるのと、OCS『Reluctant Enemies』では対戦車中隊は中隊規模でユニット化されているんですが、砲兵は大隊規模でユニット化されているので、例外を除けばまとめていく方向性かな、と思いました。

 また、前掲の

 山砲兵とLAA砲兵は、作戦の初期には非常に苦労した。当時の習慣で、兵士達の多くが個人の武器を持たず、近接戦闘では非常に不利な状況であった。山砲は急峻な丘陵地帯で使用するために設計されたもので、日本のすべての大砲に大きく劣るものであった。しかし、接近戦では非常に有効であり、ほとんどすべての戦闘に気迫を持って参加した。だが、ラバがないため多くの砲がトラックで牽引されており、道路封鎖の犠牲となったのは悲劇であった。


 という記述からすると、山砲のユニットはアクションレーティング(防御戦闘で使用します)をかなり低めにし、また射程も低めということでしょうか?(ここらへん、日本軍の山砲は『Burma II』では射程1でその理由もデザイナーズノートに書いてあるのですが、1942年当時のイギリス軍の山砲に関する技術的な記述を見つけるまで保留した方がいいかもです)

 英連邦軍の砲兵の移動タイプは、移動モードで自動車化なのはもちろんですが、戦闘モードでも自動車化であるべきなのかもしれません。しかし、もし山砲ユニットの戦闘モードを自動車化にすると、『Burma II』の地形効果表上では小道では8移動力消費なのでそもそも急峻な地形に入って移動するのが難しい……?


 まだ分からないことだらけなので、これまた継続して情報集積で……。


<2023/06/16追記>

 英連邦軍の砲兵部隊をユニット化してみました。


 ↓戦闘モード面。

unit8589.jpg



 ↓移動モード面。

unit8588.jpg



 あと、第12インド山砲中隊ユニットもあるのですが、第2、第23インド山砲中隊と同じレーティングです。

 ラングーン野砲兵旅団以外は、結局中隊でユニット化してみました。砲撃力や移動力は、日本軍側の砲兵とのバランス、『Reluctant Enemies』『Burma II』『DAK-II』などを参考にしつつ、「とりあえず」の数値化という感じです……。材料が不足しすぎ!

 アクションレーティングと射程は、このブログ記事上の記述を参考にして、まあまあな感じになっているのではないかと……。

 いったんユニット化(に苦労)しておけば、今後また資料を読んでいったり、読み返したりする時に、「あ、ここに参考になる記述があった!」と見つけやすいのではないかと思うので、それに期待してます(^_^;


<追記ここまで>



<2023/06/30追記>

5th Field Battery, R.A., B.A.F./第5野砲中隊
Rangoon Field Brigade, R.A., B.A.F./ラングーン砲兵旅団

 ですが、とりあえずユニット化しないことにしていたB.A.F(ビルマ補助軍)のものであることに気付きました(^_^; なので、とりあえずオプションユニットのマークを付けておきます。


 また、ラングーン撤退前にラングーンに?上陸した砲兵の情報として↓のものを見つけましたが、色々情報が合いません。Kindle版なのでOCRミスという可能性もありますが、とりあえず挙げておきます。

すでに述べた対空砲に加え、次の砲兵増援がラングーン撤退前に上陸した:第8高射砲中隊R.A.、2つのインド対戦車連隊、1つのインド野戦連隊、29山砲兵連隊司令部、第15と第28山砲兵中隊。また、工兵、補給輸送、医療、その他の部隊も少数送られた。

In addition to the anti-aircraft Batteries already mentioned the following Artillery reinforcements were landed before the evacuation of Rangoon: 8 anti-aircraft Battery R.A., 2 Indian anti-tank regiment, 1 Indian Field Regiment, Headquarters 29 Mountain Regiment, 15 and 28 Mountain Batteries. There were also sent a few Engineer, Supply and Transport, Medical and other units.
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P48



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマで戦ったインド軍部隊について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回、ビルマで戦ったインド軍部隊について。



 まずは、『歴史群像』144号の山崎雅弘さんの「インドと第二次世界大戦」という記事から、当時のインド軍の概要について。



 1939年9月にヨーロッパで第二次大戦が勃発した時、インド軍は18個騎兵連隊と96個歩兵大隊、計19万4373人の人員を擁していた(そのうちの3万4155人は非戦闘員)。人員はすべて志願制で、地域ごとの郷土部隊として編成されたが、他国の植民地軍と同様、上級指揮官はすべてイギリス軍人で占められていた。
 イギリス軍の場合、出身地が異なるイギリス兵が同じ連隊にいても、特に問題はなかった。だが、インド軍の場合、マドラスの農民がパンジャブ連隊に編入されたり、イスラム教徒のベンガル人がシーク教徒の連隊に所属する ことはなかった。
 インド軍の各連隊や各大隊の起源は、 18世紀にまでさかのぼることができたが、連隊と大隊は、それぞれ同じ地域出身で同じ宗教の信徒から成る閉じたコミュニティであり、生活習慣や食事内容、禁忌の行為などが違っていたからである。
 大戦勃発から約2年半後の1942年2月の時点で、インド軍の総兵力は、 国内配備部隊が48万人、海外配備部隊が21万人の、計69万人に増大するが、最も多いのはヒンズー教徒(28万4000人)で、次がイスラム教(23万9000人)、三番目がシーク教徒(7万2000人)だった。 四番目に多かったのは、インドの隣国ネパールの山岳民族出身の傭兵(いわゆるグルカ兵)で、5万7000人がインド軍に所属した。
『歴史群像』No.144号P141



 グルカ兵については、以前↓で調べてました。

第二次世界大戦におけるグルカ兵について (2023/01/14)


<2023/03/31追記>

 『Japanese Conquest of Burma 1942』のインド軍に関する記述を追記します。

 ビルマ守備隊は 1941 年、帝国日本の脅威に対する懸念の高まりから、インド司令部から引き 抜かれた部隊によって大幅に増強された。アーサー・カーティス准将が率いる第13インド歩兵旅団は、1941年3月から4月にかけてラングーンに上陸し、1941年11月末にはJ・K・「ジョナ」ジョーンズ准将が率いる第16インド歩兵旅団がそれに続いた。日本軍のマレー侵攻後、インドからのさらなる援軍は、第17インド師団司令部と第46インド歩兵旅団、少し遅れて第48インド歩兵旅団などが、途中で派遣されたり、すぐに派遣されたりした。ビルマに送られたインド人部隊は、国王(インド皇帝)陛下に長く仕えた連隊の誇らしい称号を持つが、他の点ではほとんど異質であった。そのほとんどは、戦前の経験豊富で高度に専門化した正規軍の面影はなく、第二次世界大戦勃発以来、中東、マレー、香港での帝国のニーズに応えるためにインド軍が大規模に拡張された結果生まれたものであった。これは、正規軍部隊の「搾取」が繰り返され、その後、経験豊富な将校、下士官、兵士からなる「新」部隊が次々と誕生したことによって達成されたものである。この部隊は、経験豊富な将校、下士官、部下からなる「新」部隊で、勤続3ヶ月の若く未熟で、基礎訓練にひどく欠ける新兵とともに、「敵対行為専用」部隊を形成していた。このプロセスは何度か繰り返され、それに伴いインド陸軍全体の戦闘力は短期的に低下した。さらに、ビルマに送られた極端に弱い部隊は、インド軍が深く関与している中東の砂漠戦 用に組織、装備、訓練されており、ほとんどの部隊はビルマ南部のジャングルでの道路を外れた戦いに適さない追跡・車輪付き第一線輸送機を伴っていた。また、ジャングルの中で生活し、移動し、戦うための十分な専門的訓練を受けた部隊は皆無で、その戦闘能力は、英国のあらゆるレベルの指揮官によってひどく過小評価されていた日本の相手に対してであった。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P18,9



<追記ここまで>





 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』における、前回の続きの部分の記述は↓のようでした。

 インド義勇軍は、インド人(および現パキスタン人)とネパール人の2つの国籍で構成されていた。インド人からなる部分は数年で6倍に拡大していたため、この段階では最も弱い状態であった。ビルマに来た部隊のインド人兵士の約80〜90%は、数ヶ月しか勤務していない新兵だった。イギリス人将校の大半は、OCTU【Officer Cadet Training Unit? 士官候補生用の訓練部隊?】から来たばかりの者達であった。歩兵部隊は初期の戦いで、各大隊の3、4人の正規将校の資質に大きく左右された。ある部隊は非常にうまくいき、ほとんどはうまくいったが、1つか2つはあまりうまくいかなかった。いずれももっと訓練が必要だった。ネパールのグルカ兵は違っていた。ネパールは人口が少なく、部隊を倍増させたものの、それ以上の拡大は維持できなかった。その結果、グルカ兵の水準は常に高く、インドのいくつかの部隊のように強さが下がることはそれほどなかった。ほとんどの部隊は非常によく戦い、作戦期間中、衰えることのない勇気をもって戦った。さらに訓練を重ね、装備を充実させれば、日本軍の優秀な部隊にすら十二分に対抗できることは明らかであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P342



 私はこれまで、北アフリカ戦でのインド軍部隊の名称に関してはいくらか見ていたのですが、それらは師団/旅団規模のものでした。しかし今回、連隊/大隊規模のインド軍の名称を見ていると、特異なものであるのが気にはなっていました。

 例えば、OCS『South Burma』(仮)で最初に出てくる第17インド歩兵師団隷下のインド軍大隊の名称は、↓こんな感じになっています。

  第9ロイヤルジャート連隊第1大隊
  第7グルカライフル連隊第1大隊
  第12国境部隊連隊第4大隊
  第10バルーチ連隊第7大隊
  第17ドグラ連隊第5大隊
  第7グルカライフル連隊第3大隊
  第3グルカライフル連隊第1大隊
  第4グルカライフル連隊第1大隊
  第5ロイヤルグルカライフル連隊第2大隊(国境部隊)

 ↑の名称からすると、例えば一番上の「ロイヤルジャート連隊」は、少なくとも「第1ロイヤルジャート連隊」から「第9ロイヤルジャート連隊」までは存在するということなのか……?


 しかし今回、手持ちのKindle版の資料の巻末を探してみていたら、『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』の付録1にインド軍の歩兵連隊の名称が並べられているのを発見しました。



 1939年当時、インド陸軍の歩兵20連隊は以下の通りであった。

1st Punjab Regiment
2nd Punjab Regiment
3rd Madras Regiment
4th Bombay Grenadiers
5th The Mahratta Light Infantry
6th Rajputana Rifles
7th Rajput Regiment
8th Punjab Regiment
9th Jat Regiment
10th Baluch Regiment
11th Sikh Regiment
12th Frontier Force Regiment
13th Frontier Force Rifles
14th Punjab Regiment
15th Punjab Regiment
16th Punjab Regiment
17th Dogra Regiment
18th Royal Garwhal Rifles
19th The Hyderabad regiment/kumaon Regiment
20th Burma Rifles


 戦争中に以下のものが編成された。

The Indian Parachute Regiment
The Bihar Regiment
The Assam Regiment
The Sikh Light Infantry
The Mahar Regiment
1st Afridi Battalion
The Ajmer Regiment
The Chamar Regiment
1st Lingyat Battalion
1st Coorg Battalion


 各連隊には多数の大隊が含まれており、1940年にインド陸軍が拡張されると、その数は飛躍的に増加した。各連隊の各種大隊は略称で表示されていた。例えば、第1パンジャブ連隊の第5大隊は5/1パンジャブ、第6ラージプータナ連隊の第2大隊は2/6ラージプータナ連隊、といった具合に。


 11個のグルカ連隊は、以下の通り。

1st King George V's Own Gurkha Rifles (The Malaun Regiment)
2nd King Edward VII's Own Gurkha Rifles (The Sirmoor Rifles)
3rd Queen Alexandra's Own Gurkha Rifles
4th Prince of Wales's Own Gurkha Rifles
5th Royal Gurkha Rifles (Frontier Force)
6th Gurkha Rifles
7th Gurkha Rifles
8th Gurkha Rifles
9th Gurkha Rifles
10th Gurkha Rifles
11th Gurkha Rifles

『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』P696,7



 これを見て、連隊の番号が通し番号であることが良く分かりました。北アフリカ戦などに参加したインド軍旅団なんかも、大隊名まで見ればこれらのうちのどれかである、ということなのかもです(未確認(^_^;)。

 グルカ連隊はインド人部隊とは別の連隊通し番号が付けられています。この件に関して、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の「イギリス軍部隊の番号」という項目に書かれていました。

9.インド陸軍の歩兵連隊は18の連隊に編成され、各連隊は番号と名前を持っていた。平時には、各連隊は1個の訓練大隊と2~5個の現役大隊を持っていた。戦争になると、この義勇軍の連隊は拡大し、より多くの現役大隊を生み出すようになった。つまり、第7/10バルーチ大隊は、バルーチ第10連隊の第7大隊ということになる。また、第12フロンティアフォース連隊(12FFR)と第13フロンティアフォースライフル(13FFRif)という2つのフロンティアフォース連隊があるため、混乱が生じることもある。

10. グルカ部隊はインド軍の一部であったが、その同盟国であるネパールからの志願兵であったため、別の番号が付けられていた。彼らは10の連隊に分けられ、各連隊は2個大隊であったのから4個大隊へと拡大された。したがって、第1/4連隊は第4プリンス・オブ・ウェールズ・オウン・グルカ・ライフルズの最初の大隊ということになる。連隊の1つである第5連隊はロイヤルの称号を与えられていたため、第2/5Rグルカと略称される。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P365




 あと、↑で上げた部分の少し前にインド軍の砲兵(の名称規則)についても書かれているんですが、重要な役割を果たした砲兵部隊について書かれていたものの、忘れてしまいそうなのでここにも引用して少しでも忘れにくくしておきます(>_<)

6.砲兵部隊は、編成されるごとに種類別に連番が振られた。このキャンペーンでは、1st Indian Field Regimentと3rd Indian Light Anti-Aircraft Batteryが重要な役割を担った。

7.山砲兵中隊は、インド軍において長く輝かしい歴史を刻んできた。もともと連番で、1919年以前に作られた砲兵には、5 (Bombay) Mountain Battery のような名前がついていた。このキャンペーンでは連隊に編成されたが、独立部隊の形態を多く残していた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P364




<2023/06/29追記>

 インド人部隊の大隊が、4個中隊から成っていたらしき記述を見つけたので追記しておきます(ただ、2~5個中隊から成っていたという記述を見たような気も……)。

歩兵大隊は 3 個小隊からなる 4 個小銃中隊と、半ダースの専門小隊からなる司令部中隊を有していた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』のどこか



<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:6つのイギリス人兵士だけからなる大隊?について

『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「在ビルマの軍」という項目の2番目にあった段落について。


 ビルマに既に駐留していた2つのイギリス軍歩兵大隊と、作戦中に投入された4つの大隊のうち3つは、1つの例外を除いて、国内治安維持の任務に就いていたものであった。彼らは、戦争のための訓練を受ける機会も、森林地帯での戦い方を学ぶ機会もなかったのである。徴兵された兵士の多くは、非常に過酷な状況に耐えうるだけの体力を備えておらず、病気の発生率も高かった。彼らは日本軍を感心させ、勇敢に戦ったものの、訓練と経験の不足から多くの死傷者を出し、増援もなく、部隊の力はすぐに低下してしまった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P342


 この文の意味するところなんですが、恐らくイギリス人兵士だけからなる大隊に関する話なのではないかと思いました。

 というのは、「ビルマの国内治安維持のために既に駐留していた2つのイギリス人兵士だけからなる歩兵大隊」は、これまで資料を読んでいて、↓の2つであることが明らかだからです。

 【ビルマ人が独立を視野に入れた自国の運営を望むようになり、1937年にビルマ行政がインドから分離されると】同時に、ビルマ人は国政においてより大きな力を持つようになった。その結果、政治的な問題への関心が高まり、ナショナリズムが高まった。若いビルマ人の中には、教育を受けた優秀な者もいて、独立を主張するようになった。後述するように、日本軍はこの動きにいち早く乗じた。一方、イギリスは潜在的に内在するこの治安問題をよく認識していた。この問題に対処するため、ビルマにはグロスタシャー連隊第1大隊(1st Glosters)とキングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵【連隊】第2大隊(2nd KOYLI)の二つのイギリス軍正規部隊が配備されており、ラングーンとマンダレーにそれぞれ駐屯していた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P37,8




 ところが、「作戦中に投入された4つの大隊」というのは私には分かっていません(>_<)

 戦闘序列上の部隊名称からそれらしきものを探してみると、3つまでは候補が挙げられるのですが……。

 1st West Yorkshire Regiment
 2nd Duke of Wellington's Regiment
 キャメロニアン(Cameronians (Scottish Rifles)?)第1大隊



 ただし英語版Wikipedia「West Yorkshire Regiment」にはこうありました。

 ウェストヨークシャーの第1大隊と第2大隊は、ビルマの戦役を通じて極東で従軍し、イギリス第14軍に所属して戦いました。第2大隊は1940年11月から第9インド歩兵旅団に所属していました。


 この、第9インド歩兵旅団隷下であった第2ウェストヨークシャー大隊が4つ目なのかもですが、まだ確証がありません。


 また、「1つの例外(国内治安維持の任務ではなかった)」がどれかも現状全然分かりません。もし例外である大隊が特定できれば、そのアクションレーティングはやや高めにされるべきではないかと思います。

 これまた、今後記述を見つけたら追記していくということで……。




<2023/03/22追記>

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の付録2(P360~3)の戦闘序列を訳していたら、このあたり関係と思われることが書いてありました。

 1月下旬から2月上旬にかけて、インドから【下記の】3つのイギリス軍歩兵大隊が別々に増援として到着した。そのうち2個はほとんどすぐに戦闘に参加した。ウェストヨークシャー連隊第1大隊だけが恒久的に1つの部隊【第7機甲旅団?】に所属させられ、ラングーン陥落後に第7機甲旅団に歩兵支援を提供した。【ここで述べた3つの】大隊は以下の通りである。
 1st West Yorkshire Regiment (Marindin)
 1st Cameronians (Thomas)
 2nd Duke of Wellington's Regiment (Owen, Faithfull, Theyre)

【……】

 第7機甲旅団は軍司令部の指揮下にあった。第46旅団と第48旅団は第17師団の指揮下に入ったが、シッタン橋梁での大損害の後、第46旅団は解散し、到着した第63旅団が第17師団に編入された。第1/7グルカと第3/7グルカは合併され、第48旅団に合流した。

 ラングーンを失った後、ビルマの軍は空路以外での増援は不可能となった。3月末、さらに1つの主要な部隊が空輸された。それはこの部隊である。

ロイヤル・イニスキリング・フュージリアーズ第1大隊(コックス、マコーネル、クリフォード)
The 1st Royal Inniskilling Fusiliers (Cox, McConnell, Clifford)

 それ以上の主たる増援はもうなかったが、インドを拠点とするイギリス空軍第31爆撃機/輸送飛行隊が保有するわずかなDC2とDC3によって、ポツポツと増援が飛来してきた。この飛行隊はまた、負傷者や難民の避難に最も勇敢な働きをした。


 この「The 1st Royal Inniskilling Fusiliers」というのが、今まで私が認識できてなかったもう一つの「イギリス人兵士だけからなる大隊」かなぁと思いました。英語版Wikipediaにも、この第1大隊がビルマ戦に投入されたことが書かれていました。

Royal Inniskilling Fusiliers


 ただし依然として、「国内治安維持の任務に就いていたもの」でない1つがどれかは分かりません……。↑のWikipediaの記述を見ていると、この部隊は割と実戦部隊である印象を受けはしますけども……。

<追記ここまで>


<2023/06/17追記>

 これら、イギリス人歩兵による大隊をユニット化してみました。とりあえず「The 1st Royal Inniskilling Fusiliers」を実戦部隊であったと解釈することにし、その他はやや二線級扱いで、戦力や移動力はおおよそのルール(大隊は6戦力とする、とか)に基づいてます。


 ↓戦闘モード面。

unit8587.jpg



 ↓移動モード面。

unit8586.jpg


<追記ここまで>

<2023/06/30追記>

 3つの大隊の到着時期や場所について書かれている資料を発見しました。

 3つの未割り当てのイギリス人大隊もビルマに割り当てられた。ウェストヨークシャー連隊第1大隊、キャメロン連隊第1大隊、ウェリントン公連隊第2大隊である。最初のものは1月末にビルマに上陸し、他の2大隊は2月に上陸した。3月初め、ロイヤル・イニスキリング・フュージリアーズ第1大隊がビルマに入り、マグウェ飛行場まで空輸された。ラングーンはすでに陥落していた。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P48


 ただ、現状これらすべてを自動車化歩兵大隊(移動モードでは自動車化移動)としてあるのですが、ロイヤル・イニスキリング・フュージリアーズ第1大隊が空輸だけで到着したのであれば、OCSシリーズルール上空輸で自動車化部隊は運べないのだけど、というまあ割とどうでもいい問題が発生します(^_^; まあ、史実では自動車なども空輸で運んだのですかね~。

<追記ここまで>

<2023/10/08追記>

 facebookのOCSグループで『South Burma』(仮)について書いてましたら、ある方から(英語で)「イニスキリングがAR4なのか?」というような質問をもらいまして、このブログ記事上で書いていたことを返信してみてました。

 すると数日前に、その方から情報提供をいただけていました。
 
 大略、↓のような話でした。

1.イニスキリングはその後1943年のアラカン作戦に投入されたが、ルイス・アレンの『遠い戦場』には、同部隊のここでの活躍について否定的なコメントがいくつか引用されている。

2.キャメロニアンとデューク・オブ・ウェリントンは、1944年のチンディット作戦に抜擢するほど高く評価された。

 とすると、とりあえずイニスキリングはAR3にし、キャメロニアンとデューク・オブ・ウェリントンをAR4にするのが暫定的な案となりそうです。

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマにやってきた第7機甲旅団について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「在ビルマの軍」という項目の最初にあった、イギリス軍第7機甲旅団について。


 第7機甲旅団というのは元々、北アフリカ戦で活躍したイギリス第7機甲師団のうちの一部で、コンパス作戦、ベダ・フォムの戦い、ブレヴィティ作戦、バトルアクス作戦、クルセイダー作戦などで戦った歴戦の部隊でした。


 ↓OCS『DAK-II』の第7機甲旅団ユニット(2つあるのは、途中で置き換えられるためです)。

unit8639.jpg





 第7機甲旅団は太平洋戦争が始まると、マレー戦への救援に駆けつけるために船に乗せられ運ばれていました。ところが、(以前中東戦域司令官であった)ウェーヴェル将軍は、ビルマの戦場の乾期の乾田を視察すると、これは機甲戦にとって理想的な地形であると考え、海の上にあった第7機甲旅団をすでに敗色濃かったマレー戦域に投入するよりも、ラングーンに回航させてビルマ戦に投入させる方が良いと判断したのでした。

 ↓が『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の文になります。

 イギリス第7機甲旅団は、ビルマで唯一完全な訓練を受けた部隊であり、その将兵の半数以上が実戦経験者だった。彼らはラングーンに上陸して2日以内に戦闘に入り、即座に戦況に影響を与えた。ジャングル戦の知識はなく、西方砂漠【北アフリカ】の戦車兵達に敬愛されていた彼らがあたかも「新兵の部隊」となったかのようなコンプレックスを抱えながらの出発であったが、彼らは新しい状況に素早く適応し、歩兵と緊密に協力しながら、驚異的な精神力と果断さをもって戦った。彼らの無線通信は軍で唯一の効率的なもので、多くの戦闘で重要なリンクを提供した。彼らの自信に満ちた存在は、常に士気を大いに高めてくれた。彼らは日本軍にも大きな衝撃を与え、彼らがいなければビルマの陸軍がインドへの秩序ある撤退、あるいは他の形態の撤退を成功させることができたかどうかは疑問である。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P342



 日本軍の方も、この第7機甲旅団がビルマに登場した時期に前線に日本軍戦車を数両送り込んだのですが、あっという間にやられてしまってショックを受けたという話が出てきます……(ああ、第7機甲旅団がマレーに送られてしまっていれば良かったのに……バキッ!!☆/(x_x))



 以下、これまでに参照した各種資料の記述を集積していたものから、第7機甲旅団に関する記述を抜き出します(どの文献からかは集積の時に色分けしていて分かるのですが、ページ数までは記していないので、今回ページ数は省略ということで)。

 サルウィン河畔の防衛があやしくなりかけた頃、ハットン中将の計画は、到着中の増援とくに、2月21日入港予定の第7機甲旅団と中国軍が到着するまで、少しでも時をかせぐことであった。
『ビルマ進攻作戦』

 第7機甲旅団
 (1942年2月21日にラングーンに到着した。この部隊はゼネラルスチュアート型戦車で装備され、第7王女軽騎兵隊、ロイヤル戦車連隊第2大隊、英騎砲兵第414中隊、英国砲兵第95対戦車砲連隊砲兵中隊から成る)
『ビルマ攻略作戦』




 ↓以下の記述に出てくる関係地名を赤い□で囲んでいます。

unit8638.jpg


2月24日
 ハットン中将がペグーにあった第17師団司令部を訪ねる。当時第17師団はシッタン河で多大の損害を受け、ペグー地区で再建につとめていた。何分にも人員装備が不充分であったので、第46旅団は解散させ、第16、第48旅団を充実し、2個旅団基幹の第17師団を作った。
 また、当時第7機甲旅団がラングーンで揚陸中であり、そのうち第2ロイヤル戦車連隊の1個中隊がペグー地区に進出したので、パヤギー、ワウ地区を占領するよう命じた。それはもっと東方に進めたかったが、戦車がワウの運河を渡れなかったので、シッタン河近くへは進め得なかった。
『ビルマ進攻作戦』

 しかし、新たに到着した第7機甲旅団の115両の貴重なスチュアート軽戦車、24門の25ポンド砲を持つエセックス・ヨーマンリー(104騎馬砲兵)の大砲、そしてキャメロニアンの第1大隊が登場すると、その暗さは一掃されることになった。第7機甲旅団と第48インド旅団がペグーを維持するために戦う中、全戦闘中最も激しい戦闘が展開された。
『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』

 第55師団主力が渡河。まずワウに前進するよう命じられる。3日夜半にはワウ付近に集結。
 この頃第55師団長は、当面の英印軍は、その性能はよく分からないが、戦車装甲車約100両を含む約5000で、目下ペグーに集結しており、ペグー付近には軽易な陣地もあるとの情報を得ていた。
 ペグー付近の地形は、平地で見通しも良く、戦車の運用に適した地形である。師団長は英印軍が戦車を持ち、地形もまた戦車に有利であるという状況の特性に鑑み、相手戦車の活動を封じ、かつ我の近接突撃力を最大に発揮できる場所を自主的に選んで作戦するのが有利だと判断した。そこで師団主力はまず迅速かつ一挙にマンダレー街道を越え、ひとまずペグーに西側の密林中に戦力を集中し、錯雑したペグー山系の密林を背にして、ペグーの西側から、東南面して同地を攻撃しようと決心した。
 実は、当時ペグー方面には、英印第17師団主力および第7機甲旅団の主力がいた。第7機甲旅団はパヤギー地区に、また、集成された約5個大隊からなる第48旅団は、町の東側を掩護する配置についていた。
 また、第7フッサーズ隊は、第414軽騎砲兵中隊および第1ウェストヨークシャー連隊の1個中隊とともに、ペグーの東北方地区に警戒掩護部隊として派遣されていた。第17師団司令部と第16旅団、およびその他の一部は、別に軍命令によってレグ以西に移動していた。

3月4日
 第55師団がパヤギー付近に進出。
 たまたまこの日英印第7機甲旅団はワウを奪回せよというハットン司令官の命により砲兵の支援を得て反撃に転じてきた。部隊は地隙を利用して果敢な反撃を加え、たちまち対戦車戦闘がくりひろげられた。
 このころ、日本軍将兵が待ちわびていた戦車が、ようやく戦場に追及してきた。戦車第2連隊の軽戦車中隊(中隊長の指揮する1個小隊)は7.4トン、37ミリ砲を装備し、装甲12ミリ程度しかなかったが、雄々しく英印軍戦車にはむかった。しかし、日本軍の勇敢な戦車が撃ち出す必殺の37ミリ砲弾も、相手戦車に命中しても跳ね返って貫徹せず、反対に、英印軍戦車の弾丸は片っ端から日本軍戦車を貫き、次々に炎上してみるみるうちに中隊長以下全員が壮烈な戦死を遂げた。(注:英印軍戦車は、装甲は60~80ミリ(砲塔)で、砲は75ミリであった)
 日本軍戦車が苦戦していたころ、独立速射砲中隊も戦場に追及してきた。しかし、頼りにしていた速射砲の弾丸も、やはり英印軍戦車を貫徹できず、反対に蹂躙されて壊滅した。各部隊の将兵は歯ぎしりし、対戦車地雷やガソリンびんなどで、勇敢な捨て身の肉薄攻撃を決行した。苦戦の末ようやくこの戦車を撃隊はしたが、実は、英印軍戦車部隊は、戦闘に敗れて撤退したというよりは、上級司令部の計画により、予定の撤退をしたというのが真実であった。

『ビルマ進攻作戦』




 3倍スケールにするつもりなので、大隊規模(もしかしたら中隊規模も)の戦闘序列とレーティングが必要になってきます。

 『第2次大戦 イギリス機甲部隊』(P48)が、戦闘序列の移り変わりに関して詳しいので、そちらも参照しながらまとめていきます。名称は資料によって色々な書き方があるので、「/」で全部書いていきますが、同一の部隊のはずです。





2月1日(回航)
 第7クイーンズ・オウン軽騎兵(7th Queen's Own Hussars)連隊/第7王女軽騎兵隊/第7ユサール隊
 第2ロイヤル戦車連隊/ロイヤル戦車連隊第2大隊

2月21日(ラングーンに到着)
 英騎砲兵第414中隊、英国砲兵第95対戦車砲連隊砲兵中隊を持っている?
 カメロニアン(キャメロニアン?)連隊第1大隊(歩兵)が加配される

3月1日
 第3次改編機甲旅団の編成・装備に従って第7機甲旅団群(旅団グループ)に改編・改称された
(↑と『第2次大戦 イギリス機甲部隊』にあるのですが、同書P52には第3次改編についての表があるものの(中東戦域)とも書かれており、旅団グループについて以前調べたイギリス軍の「旅団グループ」とは?(付:OCS『DAK-II』) (2021/04/15)を再読してみても、これはオーキンレックが麾下の部隊に対しておこなったもののように思えます)

この時点での戦闘序列?
 第7クイーンズ・オウン軽騎兵連隊
 第2ロイヤル戦車連隊
 ウェスト・ヨークシャー連隊第1大隊(歩兵)
 (その後に、ユニットにならないような補給段列の類が書かれていますが略)


3月19日(『The War Against Japan Vol.2』P454から。日本語は『ビルマ進攻作戦』巻末P245から)
 7th Hussars/第7ユサール隊(大隊規模)
 2nd Royal Tnak Regiment/第2ロイヤル戦車連隊(大隊規模)
 414th Battery, R.H.A/第4ロイヤルユーサル砲兵大隊第4中隊
(↑は部隊名が一致しませんが、BCS『Brazen Chariots』を見ると「4 RHA」という||(-)規模のユニットがあります)
 'A' Battery, 95th Anti-Tnak Regiment, R.A./第95対戦車連隊A中隊
 1st West Yorkshire Regiment/第1ウェストヨークシャー大隊
 8th Heavy Anti-Aircraft Battery, R.A./第8高射砲中隊
 3rd Indian Light Anti-Aircraft Battery (less one troop)/第3インド軽高射砲中隊(1個班欠)
 1st Field Company, Burma Sappers and Miners/第1ビルマ工兵中隊
 17th and 18th Artisan Works Companies/第17~18職工作業中隊
 6th Pioneer Battalion, Indian Engineers/第6インド工兵大隊

(OCSでは高射砲は、88mm砲などの対戦車砲として使用できるものを除けばユニット化されないのが普通かなと思います。工兵はユニット化されたりされなかったりします)



 ユニットとしては、↓という感じでしょうか(レーティングはBCS『Brazen Chariots』、OCS『Reluctant Enemies』などを参考にしましたけども、最終的には適当です(T_T))。

 6-4-8(3-4-16) 7 Hus 機甲大隊(黄色)
 6-4-8(3-4-16) 2 RTR 機甲大隊(黄色)
 6-4-3(3-4-14) 1 Cam 自動車化歩兵大隊(加配分)
 6-4-3(3-4-14) 1 WY 自動車化歩兵大隊
 2~6-2-2-3(1~3-2-2-14) 414 RHA 砲兵中隊(無色or赤色?)
(↑『Reluctant Enemies』の砲兵は大隊規模ばかりで、4~6砲撃力でした。中隊だとその1/3程度?)
 2-3-7(1-3-14) A 95 (自動車化)対戦車中隊
(↑『Reluctant Enemies』にはこういう感じで対戦車中隊ユニットが入っています)
 (3)-3-3((1)-3-14) 6 Ind (自動車化)工兵大隊
(↑『Reluctant Enemies』を参考に、6 Indに他の工兵も混ぜてという感じで)


 OCS『DAK-II』の第7機甲旅団ユニットが7~8戦力なので、3倍スケールであれば合計21~24戦力となりそうですが、上記を合計すると(加配分と砲兵を除いて)20+(3)なので、大体その範囲に収まっている……? 今後修正するにしても、大体その範囲内になるのが望ましいと思います。


 とりあえずはそんな感じだとして、今後何か修正に足る記述が見つかったら、追記して修正ということで……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦時の英連邦軍の指揮官達の評価

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「上級指揮官達」という項目から、1942年のビルマ戦時の英連邦軍の指揮官達の評価について(P340,1)。

 今回の記述でまた理解が深まった感があって非常に良かったです。


 出てくる人物の中で、ウェーヴェル将軍とスミス将軍については以前、簡単にまとめていました。

ビルマ戦におけるウェーヴェル将軍について (2022/05/11)
ビルマ戦初期に第17インド師団を指揮し、解任された「ジャッキー」スミス将軍について(付:『The Blitzkrieg Legend』『Burma II』) (2022/01/20)



 アレクサンダー将軍も、ビルマ戦には全然触れてないですが、昔まとめてました。

サー・ハロルド・アレクサンダー将軍について (2017/01/21)




 シンガポール戦とは異なり、ビルマ戦の上級指揮官達は、イギリス軍が提供できる限りの優秀な人材だった。ウェーヴェル将軍ほど経験豊富な戦域司令官はおらず、明晰な思考と果断な行動力を持つ者もいなかった(注3:彼をイギリス軍で最も優秀な将軍と評価したのは、コーワン将軍だけではなかった。Smyth Papers, private letter. IWM Archives.)。ウェーヴェル将軍は報告書の中で、その初期段階での自らの判断について反省している(注4:「私がビルマへの脅威を深刻なものと考えていなかったことを認めます。私はビルマ国境の森林地帯の自然的な難しさを過大に評価していました。また、ビルマ人部隊の質に信頼がおけないことや、英印軍部隊の訓練不足にも気づいていませんでした。」)しかし、もし彼がもっと早くからビルマ戦域の指揮を執っていたとしたら、そのような誤判断はしなかっただろう。また、彼はビルマ軍から、日本軍を過小評価しているように見えると批判されることもあった。しかし、彼のそのような発言は、何度も敗北した後に兵士が敵を「超人」と見なす傾向に対抗するためのものだったと思われる。

 ハットン中将は非常に有能な人物であるが、彼の唯一の欠点はカリスマ性に欠けていたことであり、また有能そうにも見えなかった。しかし、ビルマに信頼できる軍隊を作り上げ、援軍が到着するまでの間、可能な限りのことをやって土俵際を守ったことは、大いに評価されるべきことである。ラングーンを維持できないことが明らかになったとき、彼はその避難と、さらに北での戦闘継続のための計画を成功させた。戦域司令官であったウェーヴェル将軍が2000マイル離れた司令部に異動し、まったく連絡が取れなくなったことは、彼の任務を不可能なほど難しくした。彼が解任され、後任にアレキサンダー将軍が充てられたのは、チャーチルが何か手は打っていると思わせるための政治的な動きであった。しかし、ハットンが後任の将軍と同じように撤退作戦を遂行し得なかったという証拠もないのである。

 アレキサンダー将軍については、当時、さまざまな意見があったが、彼の勇気と冷静さは誰からも賞賛された。彼は非常に難しい状況で差配したのだ。しかし、彼の偉大な評価は、彼がビルマで過ごした短い期間、それも回想録の中でわずか3ページしか割かれていない期間にあるわけではなかった(注5:ジョン・ノース、『アレキサンダー回想録』)。




 ビルマでの任務にスリム中将ほどふさわしい軍団長を、イギリス軍が他に見つけられたかどうかは疑問である。彼の誠実さ、知性、タフさは明らかで、彼はすぐに多言語部隊の兵士達の心をつかんだ。1945年、彼はビルマからの撤退を余儀なくされた時と同じように、ビルマを迅速に再征服することになる。

 ウェーヴェル、アレキサンダー、スリムの3人は、いずれも軍で大きな功績を挙げ、元帥となった。

 この戦役では、3人の指揮官が師団長を務めた。ブルース・スコット少将【第1ビルマ師団長】は開戦前にビルマに入り、現場に実戦の感覚を植え付けるために全力を尽くした。彼の師団の大部分を占めるビルマ人部隊は戦力にならなかったという不運があった。彼の師団は日本軍の第33師団には敵わず、エナンジョンで大敗し、マニワに回り込まれてしまった。彼は有能で人気のある指揮官であったが、この作戦での経験から完全に立ち直ることはできず、再び活発な指揮をとることはなかった。「ジャッキー」スミス少将(ヴィクトリア十字章受勲者)【第17インド師団長】は、洗練された、明瞭で、外向的な性格で、インド陸軍における傑出したスターと考えられていた。もし彼が健康であったなら、その評判はほぼ間違いなく正当なものとなっただろうが、そうではなかったのだ。彼の後任である「パンチ」コーワン少将は、有能な指揮官であり、驚くべき回復力と道徳的強さを持つ人物で、その後3年半の間、第17師団を非常にうまく指揮し、ほとんどずっと作戦行動をとらせることができたという他にない特徴を持つことになった。

 また、上級幕僚達も有能であった。ウィンタートン少将と「タフィ」デイヴィス准将はともに非常に優秀な作戦参謀であり、ゴダード少将は優秀な兵站参謀であった。上層部の将校達は、当時のビルマの状況下で完璧ではないが満足のいく程度の能力を備えていたのである。

 部隊の兵士達のほとんどが全くの「新兵」で訓練を受けていないため、旅団長達などの現場指揮官が頼りである部分も大きかった。インド軍はすでに中東に7個師団、マレーに3個師団を派遣していたのだ。部隊の正規の専門将校は非常に少数であった(注6:小規模だが選りすぐりであった。イギリス陸軍に比べ、昇進は早く、若い将校の責任は大きく、給与ははるかに良かった。空席を勝ち取るためには、サンドハースト【王立陸軍士官学校】を30位以内で卒業することが必要だった。インド軍に挑戦したモンゴメリー陸軍元帥は、結局合格することができなかった。ブライアン・モントゴメリー【モントゴメリー元帥の弟】、『A Field Marshal in the Family』)。ビルマにいるすべての旅団長や現場指揮官達が最高水準にあると期待するのは無理があるだろう。何人かは非常に優秀で、ほとんどは有能であったが、一人か二人は役立たずであった。上級将校達にも多くの死傷者が出ていたため、この状況は常に変化していた。






 ハットン将軍については、以前一度まとめようとしたもののうまくいかなかったのですが、もし可能なら再挑戦したい気はあります。かなり興味深いと思います。

 ブルース・スコット将軍も、活動した期間がそれほど長くないようならそのうちにまとめたいところです。スリム将軍についてまとめるのはかなり長い間無理だとして(^_^;、「パンチ」コーワン将軍に関してはそれより先にまとめたいです。

 参謀達ももし可能であれば……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:鉄道線の修復について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「ビルマ征服の完了」という項目の中にあった、日本軍の鉄道線の修復について(P327,8)。


 原文では改行されていないのですが、読みやすさを優先するため細かく改行し、分けて引用します。

 日本軍は、トラックや道路よりも少ない人員で輸送できる鉄道を頼みにしていた。第5鉄道工兵連隊の1個大隊がモールメンに投入された。短期的にはビリン橋やシッタン橋の修復はできなかったが、イェからビリンまでの鉄道を開通させることができた。第9鉄道工兵連隊(注1:この連隊は後にタイに移され、悪名高い泰緬鉄道建設のため、第25軍の指揮下に置かれた)に続いて他の2つの大隊が送り込まれ、さらなる成功を収めた。

 ラングーン近く【北東】のパズンダウン・クリーク(Pazundaung Creek)にかかる大きな幹線鉄道橋をイギリス軍が破壊できなかったことと、インセイン(Insein)【ミンガラドンの北西】の主要鉄道作業場の機械を撤去または破壊できなかったことにより、日本軍はトングーまでの幹線を迅速に稼働させることができた。




 ↓上記引用の関係地名。

unit8641.jpg


 シッタンの鉄道橋が破壊されただけでなく、ビリンの鉄道橋も破壊されていたのですね。モールメンと対岸のマルタバンの間は橋がないはずなのですが、その間は船でもって、鉄道輸送全体にとって問題がないくらい輸送がスムーズにされていたのかもです。

 OCSのゲームでは通常、占領した鉄道はすぐに使えるようになるのですが、『South Burma』(仮)においてビリンまでを日本軍が占領したとして、それを使って一般補給が引ける/鉄道輸送ができるためには、例えばイェ(マップ外南方)に補給物資が陸揚げされていて……というようなこと(情報)が必要だと思われます。が、今まで読んできた限りでは恐らくそんなことはなく、少なくとも序盤はビルマで良く使われていたという牛車で補給物資を運んでいたらしいです。

 ですからとりあえず、それらが実際にゲーム中で使用されるようになるのは、ラングーンを占領する時期のあたりからなのではないかと思います。




 ビルマにある機関車の85%が破壊されたり故障したりしたと記録されているが、第56師団の北への前進のために、最初は1日2本、最終的には3本の列車を提供することができた。北への幹線で破壊された鉄道橋のほとんどをかなり早く修復することができた。川の水位が低く、木材が豊富で、技術者もその使い方に長けていた(注2:飯田将軍は、もし連合軍が、中国軍が中国でしばしば行ったように、盛り土の鉄道線一部を撤去していたら、鉄道の修復はより困難になっていただろうとコメントした)。

 しかし、大きなミイトンゲ(Myitnge)橋は川が深く、修理に3週間もかかったので問題だった。幸いゴクテイック(Gokteik)の高架橋は破壊されていなかったため、5月30日にはラングーンからマンダレーを経由してラシオまでの610マイルの鉄道が開通した。イラワジ川以北の鉄道網はほぼ無傷で確保されたのである。しかし、アバ(Ava)橋の爆破は深刻な障害となった。橋が大きすぎて戦時中に修理することができなかったため、川以南の主要なネットワークと鉄道(または道路)を直接つなぐことができなかったのである。これと、イラワジ川の船団の大部分が破壊されていたことで、インド侵攻のための物資の増強は遅々として進まなかった。


 可能なら、1日2本/3本の列車でどれくらいの補給物資/部隊を運ぶことができるのか、知りたいところですが……。

 上記引用の後段の地名は、OCS『Burma II』のマップ上にもあるもので、かつ現状の『South Burma』(仮)のマップ北端のあたりとなります。

unit8640.jpg


 ↑で切り取ったのはOCS『Burma II』のマップの一番南東のあたりで、真ん中あたりに東西に延びる線が、『South Burma』(仮)のマップの現状の北端となります。ただ、第56師団のラシオまでの到達なんかを再現し、かつそれらの北側の連合軍側の配備状況を再現するべきであれば、その北側もマップとして同梱していくべきということになるかもしれません……(その場合、全部でフルマップ4枚ということになります)。


 破壊されたままであったAva橋は、OCS『Burma II』においてこうルール化されています。

1.4g イラワジ鉄道橋  B38.01にある鉄道橋は1942年に破壊されたままの状態で放置されていましたが、2つの鉄道ヘクスを結ぶ連絡船が運航されていました。ゲーム上、このヘクスサイドの鉄道線は繋がっているものとして扱います。






OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ進攻の要約

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。「要約」という項目の最後の方(P338)が興味深かったので、それを。



 第一段階では、村の小道に沿ってBIA【ビルマ独立義勇軍】の助けを借りて急速に前進する精強な歩兵が、英軍をおおむね圧倒し、常に優位に立った。一種の歩兵電撃戦であった。第二段階では、戦車と自動車化歩兵を使い、驚くべきスピードで前進し、中国軍の主力部隊を出し抜き、突き放すことができた。これは、よりオーソドックスな電撃戦であったが、同様に成功を収めた。


 「歩兵電撃戦」という表現は興味深いなと。実際、少なくとも地形の厳しさに比して、歩兵の移動が迅速であるように思います。

 ただ、早い時はむちゃくちゃ早いのですが、しばらく止まっている(止まらざるを得ない)時期も多々あって、ゲーム上でそこらへんを(全部を全部再現する必要はないし、無理であるとしても)うまくデザインしていくのが、もしかしたら難しいかもという気がしてます。

 第二段階(ラングーン攻略後)が「よりオーソドックスな電撃戦」で、それによって中国軍を出し抜いたという表現も「なるほど」と思いました。

 一方で、『帝国陸軍南方作戦』のビルマ進攻作戦の記事で、日本軍は1942年のビルマ進攻で、何度も「包囲しかかる」のだけども「包囲殲滅」には失敗し続け、それが日本軍の限界であった、という風に書かれています。それも「なるほどなぁ」と思っています。




 総合して考えると、中国軍に対しては「突破」「無人の後方を進撃」がうまくいって崩壊させたけども、英連邦軍相手にはそこまではうまくいかなかった……ということなんでしょうか。だとすると、ゲームとしては、日本軍がうまく「包囲殲滅戦」を完成させたり、英連邦軍に対しても中国軍に対しても突破戦を成功させれば日本軍の大勝利、それらを常に回避し続けて連合軍側が遅延しつつうまく撤退すれば連合軍の大勝利、ということになるのだろうと思います。




 陸海軍はよく連携していた。飯田将軍は、英軍の飛行場を攻略することの重要性を十分に認識していた。可能な限り早く、南方地域の2つの航空師団を集中させて、RAF【イギリス空軍】とAVG【アメリカ合衆国義勇軍:フライング・タイガース】を打ちのめすことに成功した。同様に、ラングーンへの兵員輸送船団の移動が必要になると、日本海軍はインド洋とベンガル湾に大空襲をかけ、その移動をカバーした。

 政治的な側面も巧みに処理された。ビルマの民族主義政党であるタキン党との連絡は、BIAの結成につながり、その活動は直接的に進軍を助けるとともに、日本が解放者であるとのイメージを植え付けることになった。その結果、日本軍が設立した軍政は、当初ビルマ人の協力を得て、多くの問題を解決することができた。


 ここらへん、何か信じられないほどうまくいってたんだなぁと……(^_^;

 ただ細かく見ると、日本軍はラングーン空襲で一時期多くの航空機を失い、しばらく航空作戦を控えた時期があったようで、その期間に連合軍側の航空戦力が回復したというようなこともあったようです。

 史実で戦略爆撃の方が多かったように見える件ですが、爆撃機のうち、戦略爆撃機ユニットにカテゴライズするものを多めにして、戦術爆撃機ユニットを少なくするという手法で、特別ルールを設けずに誘導できるのではないかと現在考えています。



 この輝かしい成果を前にして、2つのことが日本軍を驚かせた。一つは、なぜインド陸軍がこれほどまでに戦い続けたのかということである。同じアジア人なのだから、表向きは「残虐な主人」から自分たちを解放するためにやってきた人たちを歓迎するものと日本軍は思っていた。しかし、そのようなことはなかった。第二の不思議な事実は、事実上すべてのイギリス人捕虜が、最終的にはイギリスが戦争に勝つに違いないと言い続けていたことである。このことは、日本が迅速な成功を収めたことを考えると、不可解に思えた。非常に不可解なことであった。


 インド軍(インド人部隊)がイギリス側に立って戦い続けたことに関しては、言われてみれば確かに不思議です……。そこらへんに関する記述を読んだ記憶もありません。今後何か見つけたら、追記しようと思います。

 イギリス人捕虜が最終的にイギリスが戦争に勝つに違いないと言い続けた件ですが、日本人側が日本が勝つと思い、イギリス人側はイギリスが勝つと思うという身内びいきの面もあるとは思いますし、あるいは当時としては健在であった「白人優越思想」もあるとは思います。

 しかしごく客観的に見て、日本が(最終的に)勝てるわけがないというのは英米や、あるいは日本側にとっても明らかだったということなので、もしかしたら浮かび上がってくるのは日本軍の兵士達(ある程度の上層部も?)の、その「必勝の信念」はある意味カルト的な思い込みに過ぎなかったのだ……という、残酷な現実であるのかもしれず。

 いや、戦後のイギリス経済と日本経済を見れば、日本が勝ったことは明らかですし……(今後はまたどうなるか分かりませんけども)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年ビルマ侵攻作戦の日本軍の指揮官達の評価

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末まとめの続き。今回は日本軍の指揮官達の評価です。



 以前、↓のように指揮官毎にいくらかまとめていたのでそちらに分散追記という方法も考えたのですが、一冊の本の評価としてまとまっている方が分かりやすい面もあるかなと思いまして、今回はまとめてで。

ビルマ攻略戦の第15軍司令官として、略奪行為などを禁じた飯田祥二郎中将について (2023/02/13)
第33師団長であった桜井省三(せいぞう)中将と、第33師団について (2023/01/27)
第55師団長であった竹内寛(ゆたか)中将と、第55師団について (2023/01/27)


 日本軍の指揮官の多くは、高度な専門性を持ち、最新の【日中戦争での?】戦闘経験を持っていた。飯田祥二郎将軍は、輝かしい経歴を持つ献身的な軍人であった。彼はこの作戦でほとんどミスを犯さず、困難な行政上の問題にもかかわらず、ほとんど休止することなく前進の勢いを維持した。父に似て一流の軍人であり、強い意志で有名であっただけでなく、後継者の河辺将軍【河辺正三陸軍大将】とは違って、彼は広い視野と教養を持った人物であった。1942年6月、東京から派遣された300人の官吏の助けを借りて日本軍による軍政が発足したとき、彼は日本人の中でも有能な行政官であることを証明し、ビルマの政治家から賞賛と尊敬を浴びた。1943年3月、彼は東京の司令部に戻り、1945年3月、満州の第30軍を指揮することになった。彼は戦争末期の週にロシア軍によって捕虜となり、シベリアの労働キャンプで5年間を過ごした。他の多くの人とは異なり、彼はひどい状況を生き延び、1980年に92歳で日本で亡くなった。

 33師団長の桜井省三中将(52歳)もまた、傑出した存在だった。彼は陸軍大学を良好な成績で卒業し、その後、水陸統合作戦を専門にした経歴の持ち主である。1937年の中国侵攻で初めて使用された上陸用舟艇の原型を設計したのも彼であった(注9:後に連合軍はこのアイデアを模倣した)。彼はフランス語を話し、2年間パリの軍事担当官として過ごした。数々の指揮官を経て、1941年1月、中国で33師団を指揮し、包囲された日本軍の他の師団を救出したことが彼の最も有名な功績である。彼の師団は、1944年にインパールの戦いで壊滅するまで、ビルマで最も優れた師団であると多くの人に思われていた。この作戦では、彼の積極的な包囲戦術と、国土を横断する彼の師団の速さは、道路上での移動に縛られるイギリス軍に問題をもたらし、彼らはそれを解決することができなかった。1943年3月、桜井は陸軍機甲本部長として東京に戻った。1944年1月、彼は再びビルマに赴き、西海岸の第28軍を指揮することになった。1944/45年の戦闘で彼の軍は壊滅し、彼は1947年までラングーンの刑務所に収監された。戦後は非常に質素な生活を送り、元兵士達の福祉に生涯を捧げ、非常に尊敬された。1985年、95歳で死去した(注10:桜井将軍は、極めて謙虚で思いやりのある人物であった。あまり知られていないことだが、1942年8月、彼はエナンジョンに日本軍戦没者のための戦勝記念碑を建てるよう命じ、その横に、イギリス兵とインド兵の戦没者のための小さな記念碑も建てて部下達を驚かせた。そして、両軍の戦死者のための慰霊祭をそこで行った。このことが認識され、終戦時にイギリス軍の捕虜となった時、厚遇されたと言われている。(sugimoto eiichi氏らの証言))。

 桜井の部下達も優れていた。彼の部下であった4人の指揮官は、すべて後に昇進した。歩兵団長の荒木【正二】少将は中将に、原田大佐【原田棟(むなぎ):第215連隊長】、作間大佐【作間喬宜:第214連隊長】、宮脇大佐【宮脇幸助:第213連隊長】は少将になった。

 ビルマで大活躍したもう一つの師団は、56師団である。その司令官は渡辺正夫中将で、砲兵畑であった。新編師団ではあったが、自動車化されており、この戦役では第14戦車連隊の支援を受けていた。シャン州からラシオ、そしてミイトキーナへの進撃の速さは、中国軍を混乱させ、ビルマから撤退させることになった。飯田は、渡辺とその参謀である藤原武(たけし)大佐が非常に優秀であったと評価している。

 18師団を指揮した牟田口廉也中将は、マレーでの作戦やシンガポール攻略に参加していたが、18師団は主に予備的に使用され、この作戦では微力な活躍にとどまった。彼は陸軍関係者の間では押しの強い人物として有名で、中国との戦争のきっかけとなった北京郊外の盧溝橋での「事件」を扇動したとの説が有力であった。後に15軍の指揮官となった彼は、1943年、インドへの進出を視野に入れ、インパールとコヒマの占領を熱心に主張するようになった。これは悲惨な誤判断であった。しかし、1942年には彼はチンドウィン川を越えての進撃に反対していたのである。

 55師団はビルマでは中程度の戦績しか残せなかったとされている。竹内寛(ゆたか)中将の戦績は並程度に過ぎないとされ、1943年に退役した。また、参謀長と連隊長1名は、作戦中の不手際を理由にクビになった。55師団は最初から最後まで戦い抜いたが、飯田将軍から感状を与えられることはなかった。第1段階ではイギリス軍と戦い、イギリス軍が足元を固めようとする中、序盤にたやすく勝利した後、ペグーで48旅団に手こずらされた。第2段階では、トングーで中国軍と非常に激しい戦いを繰り広げた。死傷者は33師団に次ぐものであったが、飯田将軍は指揮官たちに積極的な精神が欠けていると感じていた。

『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P332~4



 とりあえず現状では、第33師団はアクションレーティング5、第55師団はアクションレーティング3という感じになっています。

 第18師団はマレー、シンガポールでの戦闘経験がありますし、師団長はアレだとしても、アクションレーティングは4あたりで良いような気がします。

 第56師団はしかし、新編師団だということなので、戦闘経験的にはアクションレーティング3あたりにしたいところですが、指揮官が優れていたとか、あるいは今後資料を調べていく中で兵士達も優れていたというような記述があったとしたら、アクションレーティング4はありという感じでしょうか……?


 第15軍司令部もユニット化するかどうか、ちょっと分からないですが、戦史叢書『ビルマ攻略作戦』や陸戦史集『ビルマ進攻作戦』を読んでいると、2月初旬に現地師団が独断で進撃を始めた後、それを知らなかった第15軍司令部が命令で前線部隊がすでに攻略していた場所に対する攻撃発起を後の日付で指定してきたため、前線部隊は命令をいぶかしむも停止せざるを得なかった……という話が出てくるんですよね。

 陸軍上層部は第15軍司令部が後方にとどまっていることに不満を感じていたという話もあるので、そこらへん考えると第15軍司令部の支給範囲は狭め、移動力も低め、とするとか……?(ゲーム的には司令部ユニットに上級も下級もないので、全然関係ないか(^_^;)

ブリュッヒャーがスウェーデン軍からプロイセン軍に移った経緯 & 欧米では専門性で組織間を横に移動する?

 ツイッター経由で、Haruichiさんの↓のブログ記事を読みまして……。


Haruichiban0707のウォーゲームのおと 『コマンドマガジン』169号(2023/01/20)を読んでみた



 その中で、このような書き込みがありました。

p.28 復讐を誓う老虎 アウエルシュタットのブリャッヒャー 大木毅

ブリャッヒャーのアウエルシュタットの戦いまでの半生。1742年ポンメルンの貴族の家に生まれ、1758年スウェーデン軍シュパルレ軽騎兵連隊に入隊。1760年捕虜となるが親戚が敵軍の連隊長だったためプロイセン軍に引き取られる。7年戦争後プロイセンのフリードリヒ大王の逆鱗に触れ軍を退いた。1787年大王死後、軍に戻る。1795年バーゼル和約が結ばれると軍を退いた。

フランス革命が起こると軍に戻り、イエナ=アウエルシュタットの戦いでは苦戦するが一番難しい退却戦で主力の後退を助け、リューベックで降伏し捕虜となる。

その後、ライプツィッヒ会戦やワーテルローの戦いで活躍する。

なんと浮き沈みの激しい人生だろう。スウェーデン軍に入隊し、プロイセン軍に移る、という点は、現代の国民軍の感覚からは、当時のヨーロッパの感覚がよくわからない。。


 「確かに」と思いました。それで、以前ブリュッヒャーの伝記である『The Hussar General』を訳したことがあったので、それをパラパラ見返してみて、↓のようにコメント付けてました。




 自分で書いた「「専門性」が大事で横の繋がりで移動する」という言葉なんですが、その後自分の中でじわじわと「そうか……! だから欧米人は自分のスキルを自分で上げて、どんどん会社を変わっていくということをするのか……!」と(ようやく)分かった気がしましてそして再度『The Hussar General』をじっくりひもといてみたら、話はそんなに単純ではありませんでしたバキッ!!☆/(x_x)




 ↑この本の信頼性については難があるということで、詳しくは↓こちら。

ブリュッヒャー本の評価 (2014/08/09)



 以下、『The Hussar General』をうまく訳しきれない面もあって確実な確認なしでだいたいで書いていきます。

 ブリュッヒャーは10人兄弟の末っ子?で、兄が8人、姉が1人だったようで、育った環境は当時スウェーデン領であった島に近いドイツ語圏だったもののようです。上の兄達の多くが軍隊に入っていて、彼らがプロイセン軍、ロシア軍、デンマーク軍などに入っていたのでしょうか。

 ブリュッヒャーの父は「もう息子を軍隊に入れるのはやめておこう」と考えたものか、ブリュッヒャーのすぐ上の兄とともに、彼らの姉が嫁いでいたスウェーデン領の島の義兄のところに送り、農場経営か何かを学ばせようとしたようです。ところが、身の回りで戦争が行われている中でこの2人も軍隊に惹かれ、反対されたものの、ブリュッヒャーはこう言ったと書かれています。

「自分は遅かれ早かれ軍隊に入るだろうし、そして早く軍隊に入った方が失う時間が少ないだろう」

 その後の地の文で、大略こう書かれていました。

 彼ら(ブリュッヒャーの兄弟達? あるいはこの時代のこの地域の人達?)は忠誠心の変わりやすさという事で特徴的である。どの軍に所属したかや、あるいはどういう理由で軍隊に入ったかにかかわらず、すべての者が専門性に憧れていた。ところが逆に、ナポレオン時代の激動が始まろうとしており、人々が激烈な愛国心を通して動機付けられる様になる時であったのだ。


 とすると、「専門性を持って、別の組織に移動する」というのは恐らく、この時代や今でも欧米では(日本よりもはるかに)あるんでしょうけども、フランス革命からナポレオン時代にかけて「国民国家」や「国民皆兵」というものが強烈な強さを発揮するようになり、むしろ軍隊というものにおいては国を移るということはそれ以後、それまでよりも少なくなっていく時期だったということかなぁ? と……。



 ブリュッヒャーがプロイセン軍の捕虜になって、プロイセン軍側に移った経緯ですが、『The Hussar General』では、ブリュッヒャーを捕虜にした連隊の連隊長(von Belling)が常に新しい兵士を探しており、そしてブリュッヒャーが兵士として非常に優れた人材であると思ったので説得したのだけどもブリュッヒャーは躊躇し、スウェーデン王への忠誠宣誓に縛られていると言ったものの、von Bellingは(ブリュッヒャーが捕虜であることに言及せずに)フリードリヒ大王にブリュッヒャーを準大尉として任命してもらえるように依頼書を送り、フリードリヒ大王から承認が来たのをブリュッヒャーに見せ、それでブリュッヒャーは最終的にいやいやながら従った……と書かれていました。

 しかしながらこのvon Bellingという人物は有能な人物で、ブリュッヒャーはこの人物から大いに薫陶を受け、それゆえに大成したという面が大きかったそうです。




 それはそれとして、「「専門性」が大事で横の繋がりで移動する」という話なんですが、良く考えてみると「横の繋がりで」というのはそうでもないかなと思ったので、「(日本以外の欧米とかでは)専門性が大事で、スキルアップしていって、その身に付けたスキルでもって最も自分の意向に合う(高給とか、やりたい仕事だとか)方向にどんどん組織を移動する」ということかな、と思いました。

 ところが日本社会は(私が好きな作家さんの一人である橘玲氏によると)「専門性」を持つ人物(を育成すること)が非常に嫌いなのだそうです。考えてみると、集団内での同調圧力で事を運ぶ日本組織は、外部から専門性を持つ人物がやってきて、その人物がまた別の組織に行ってしまうだろうに、その専門性で色々とくちばしを入れられるのは、イヤでイヤでたまらないことだろうなぁ……と想像が付きました(T_T)

 もちろん、日本の同調圧力ばりばりの組織にも長所はあり、それは目標が明らかで同調圧力がうまく機能している時には集団の力がものすごいパワーを発揮する、ということなわけです。しかし逆に、その組織のやり方がうまくいかなくなってきても、以前のやり方を変えることがなかなかできない……。

 ビルマでも、日本軍の迂回包囲戦術が、英連邦軍の円筒陣地戦術(円形になって包囲に耐えつつ空中補給を受け、内部と外部から包囲側を崩壊させる)によって破られてしまったことが第2次アキャブの戦いで明らかになった後も、インパール作戦で依然として迂回包囲戦術でうまくいくと思われていた……(尤も、うまくいくと思っていたのは牟田口中将だけだったとか、あるいはまた第2次アキャブの戦いとインパール作戦との間の時間が短すぎて、戦訓を受けて方向転換するのは無理すぎたとかというのはあるとは思います)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ独立義勇軍について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめからの続きです。


 次は「政治的浸透」という項目で、具体的には「南機関」という特務機関の長、鈴木敬司大佐が支援して誕生した「ビルマ独立義勇軍」がビルマ侵攻作戦においてどう関わってきたか、という話になります。ビルマ独立義勇軍がゲーム上無視できる程度の大きさであればデザイン上は放っておいていいのでしょうけども、これが、一応ユニット化した方がいいような感じであるのです(歴史的興味ということで言えば、非常に意義のあることですが、デザイン上の手間は増えることになります(^_^;)。



 まずは『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の記述(DeepL翻訳の結果をあまり修正していません)。

 1940年と1941年に鈴木大佐と南機関がビルマ独立軍を創設するために行った努力は、十分に価値があることが証明された。BIA【ビルマ独立義勇軍】が侵略者に与えた主な助けは、情報収集と行政支援であった。BIAのメンバーは地元住民と区別がつかず、日本軍に先駆けて移動し、日本軍のために森を通る道や痕跡を示した。その顕著な例が、215連隊がビリンからシッタン橋に至るルートである。彼らは、村長と日本軍を歓迎し、米や牛車を集めるよう手配し、村人からイギリスの居場所に関する情報を聞き出した。また、独立のプロパガンダを展開し、その結果、日本人は現地人に温かく迎えられることが多かったが、これは中国での経験とは大きく異なるものであった。また、BIAが英国にシンパシーを持つ者を敵視したため、ビルマに居住していた兵士は家族の安否を気遣うようになった。それが多くの脱走の主な原因であった。日本軍がラングーンに到着するまでに、BIAの兵力は約1万2,000人にまで増えていた。

 軍事的に彼らの大きな成功は、ペグ南方の待ち伏せ攻撃で、新しく到着した63旅団の司令官、旅団長、1大隊長が重傷を負ったことである。
イギリス軍との小競り合いでは、通常もっとひどい目に遭わされた。BIA の大部隊が補助的な戦闘に参加した Shwedaungの一戦では、インド人大隊の手によって大敗し、正式な戦闘で使用されることは二度となかった。ライフルと略奪品の魅力に惹かれた多くの強盗団が彼らの仲間になり、まもなく残虐行為で衝撃的な評判を得るようになった。多くの軍のはぐれ者、インド人難民、ビルマ人の英国へのシンパが BIA に殺害されたことは疑いない。作戦の終わりに、彼らはデルタ地域で一連の人種差別的な残虐行為を行い、いくつかのカレン族 の村の住民をすべて絶滅させた。15 軍が介入した。2 万人以上に達していた BIA は淘汰され、約1万人のビルマ防衛軍(BDA)に改編された。親日派というより親ビルマ派になったと思われる鈴木は、帰国させられた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P330,1


 1つ前のブログ記事で「日本軍が現地民に歓迎されていた」という件を書きましたが、ビルマ独立義勇軍の活動による影響があったのかもしれません。

 ビルマ独立義勇軍がShwedaunで大敗した、という話が出てきますが、Shwedaunというのは恐らくプローム(Prome)の南にある村で、プロームは3月下旬からのビルマ征服の第二段階の起点になった場所ですから、その戦闘というのは3月中旬とかに行われたのでしょうか?


 南機関やビルマ独立義勇軍に関しては、戦史叢書の『ビルマ攻略作戦』のP117からかなり詳しい記述が続きます。とりあえずまずユニット化されそうなそのうちの「モールメン兵団」の進路についてはすでにマップ上で地名を探していました。

unit8642.jpg


 『ビルマ攻略作戦』P132によると、モールメン兵団は2月7日にターソンヤンに着き、2月10日サルウィン川東岸のクゼイに達したとのこと。クゼイが他のマップ上で確認できないのですが、ターソンヤンらしき地名は発見したので書き込んであります。が、このターソンヤンという地名は村の名前かつ地域名でもあるらしく、『ビルマ攻略作戦』P133にある地図を見ていると私がマップ上で地名を見つけて書き込んだ場所よりも少し北を通っているような気もします。

 同P134によるとモールメン兵団はクゼイ付近で数日休養した後、2月14日にインパノン【位置不明】北方でサルウィン川を渡り、2月25日にはシッタン河畔のクンゼイクに進出したとのこと。2月末頃、モールメン兵団は1500人に膨れ上がっていたそうで、その後ペグーでの戦闘行動にも参加したわけでしょうから、アクションレーティングは0であろうとしても、いくらかの戦力を持ったユニット(しかも途中で増えていくという)であるべきだと思われます。


 日本軍部隊はこのモールメン兵団が通ったあたりには部隊を送っていませんでしたが、英連邦軍側はその辺りも日本軍が通ってくるかもしれないと警戒して小兵力を送らざるを得なかったという話が出てきますので、ゲーム上でもモールメン兵団の存在はいくらか効いてくると思われます。




<2023/06/15追記>

 モールメン兵団のユニットを作ってみました。


 ↓左が戦闘モード、右が移動モードです。

unit8594.jpg



 「アクションレーティングは0」と書いていましたが、訓練を受けていたり、(少なくとも初期は)士気も高かったと考え、1にしてみました(戦闘部隊としての性格だけを考えれば2でも全然良いのかもですが、募兵や宣伝の方により力点があったと考えれば1の方が……?)。

 最初、戦闘力は「?」にして途中で増えていくという風に考えてました。しかし資料を再度読み直してみると最初の200人に日本軍の武器が配られたらしいものの、それ以降武器を得るタイミングはなさそうだし、OCSの戦闘力は火力を基本にしているはずなので、2月末に1500人(1000人で6戦力というレーティングから考えると9戦力)いたとしても戦力値が増えていくというのは考えにくいかな、と。

 途中で戦力値が変わっていくというのもルールを増やす要因となるので、もう「大体4だ」ということにしてしまった方が簡便で良いだろうと考えました。

 移動力は、ビルマの地に慣れている人員ということからすると軽快であるべきのような気もしますが、史実での進行ペースを見ているとそれほど移動が素早いとは言えない気がしました。募兵しながらだったり、日本軍への協力を呼びかけながらだったりで結構時間を食っていたのかもです。ただ、一般補給に関しては現地調達ができるのではないでしょうか。しかし戦闘補給に関しては内部備蓄で戦うか、日本軍側から(SPでの)補給を受けないといけないだろうと思います。


<追記ここまで>


<2023/06/22追記>

 『ビルマの夜明け』にある程度詳しく、ビルマ独立義勇軍の行動について書かれていました。とりあえずまず、序盤の動きについて。





 モールメン兵団を率いていた鈴木敬司大佐は最初、第55師団と一緒に同じ径路でビルマに入ろうと考えていたそうですが、第55師団長の竹内寛中将に無線機を要求したところ、第55師団用にも十分な数がないということで断られて口論になり、鈴木大佐は憤怒し北上して独自の進路を進むことに決めたのだとか(P166)。鈴木大佐は喧嘩好きで独立心旺盛だったそうで、それゆえに後々ビルマ独立義勇軍は日本軍と衝突していくことにもなったとか……。

 また、モールメン兵団(そしてまた他の兵団も)は行く道々で、「人員の増加」と「イギリス側が放棄したすべての町を自分らの統制下に置いていく」ことに集中しており、どうも日本軍部隊がある程度止まっている間は自分達も止まってその間、遠くの町々にも行って占領、解放したりしていたそうです(P168)。

 とするとやはり、モールメン兵団の移動力は低めでいいでしょうし、また、日本軍が行っておらずまだ英連邦軍がいるような場所に単独で行ったりすることもできないべきなのかもしれません。ゲーム上でもしモールメン兵団ユニットが、便利に英連邦軍の後方連絡線を切ったりするために使用できそうなら、史実を鑑みればそれはできないはずであるという何らかの縛りを入れる必要があるかもです。

<追記ここまで>


<2023/10/17追記>

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』のP196~198に、シッタン川のラインからラングーン陥落あたりまでのビルマ独立義勇軍の動きについて書いてありました。

 読んでいると、モールメン兵団だけでなくタボイ兵団もユニット化しても良さそう(というか、こっちの方が兵力が多い(^_^;)とか、水上支隊というのがあってこれも兵力的にはギリギリユニット化できそうなれども船で移動しておりルールが増えるのでまあやめておこうとか、彼らは基本的に日本軍の外側で行動して日本軍の作戦計画を容易にする構想で、街道を押さえようとしたりしていたものの微力なためあまりうまくいかなかったというようなことが書かれていました。

 ここらへんからすると、今までは攻撃可能ユニットにしてあったのですが、そうするとプレイヤーとしては日本軍のアクションレーティングの高いユニットと一緒に攻撃をかけるのに使いたくなるはずなので、()付きの防御専用にしてしまおうと考えました。そうすると、史実のような使い方がされる可能性が高まるのではないかと。


 ↓新たにこういう風にしてみました(モールメン兵団が兵力1,500、タボイ兵団が2,500だったそうです)。

unit8516.jpg


<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』のパアン戦の記述より

 先日購入した『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』のパアン(Pa-an)戦のあたりまでを読みましたら、色々と発見というか、認識が改まる点がありました。



 Amazon上のものはメチャクチャな値段が付いているので、もし買うなら「日本の古本屋」というサイト↓からどうぞ。

灼熱の征野 記録・ビルマ進攻作戦の180日




 ↓OCS『South Burma』(仮)の関係地名のあたり。

unit8643.jpg




1.日本軍部隊が現地民から歓迎されていること。

 タイ国内に入った辺りまででは歓迎されている文を他で読んでいたのですが、ビルマ国内に入ってもこの本では歓迎されまくっているのにびっくりしました。もちろん、疑ってかかるならば「日本軍側にとって良いこと(良いように)ばかり書いて、不都合なことは書かない」という可能性は全然あり、そういう側面がまったくないと考えることはむしろ難しいとも思いますけども、具体的な記述が多いので、少なくともその具体例はあったのだろうなぁと個人的に感じられました。

 ちなみに、洋書を読んでいると、そっちはそっちで、やはりイギリス側に都合の良い記述が多いとは感じます。あるいはまた別側面からの疑いとしては、現地民としてはやってきた軍隊に関してはどこの国のものであろうととりあえず歓迎して、自分達の身を守るものなのだ、ということもあるでしょうね。

 一応興味深いところなので、以下、具体例を引用してみます。

 【1942年2月1日】22時、長さ3キロメートルもある細長いナヴ【Nabu:Dawlanの南東】の部落に入る。 「おやッ 電気が点いているぞ」と誰かが叫んだ。近付いて見ると、住民が瓦斯燈【ガスを燃料とする灯り】を道路に差し出して、われわれを歓迎しているのだった。
「ジャパン、ジャパン、ジャパン」と調子を合せ、沿道に群らがった住民が、盛んに拍手を送ってくれる。兵隊たちは疲れを忘れて、これに応えようと「オーイ」だとか、「ヨー」などと口々に叫んで手 を振りながら進んで行く。住民が喜んで、さらに「ジャパン、ジャパン」の叫びが湧き上がる。ある大きな家の前に集まっていた子供たちが、「アリガトウ、アリガトウ」と日本語で叫んでいたのには驚いた。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P37,8

 部落【ナンガロン:Naunglonの少し東の?】で小休止をしていると、住民が水を運んでくれたり、椰子の実をとってきてくれたりする。出発となると部落の外れまで、僧侶が先頭になって見送ってくれた。
 道案内を進んで引き受けた5人の若者は、何処までもついてきて、戻ろうとしなかった。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P40





2.日本軍の爆撃機が戦術爆撃をしていること。

 パアン(Pa-an)を日本軍が占領し、対岸のクゼイク(Kuzeik)の英連邦軍とにらみ合っている間、少なくとも何度か日本軍の爆撃機がクゼイクにいる英連邦軍に対して戦術爆撃をおこなったもののような記述が出てきました。『ビルマ航空戦』(戦闘機同士のやり取りが中心)の記述を読んでいると、日本軍の爆撃は戦略爆撃的なものばかりで、戦術爆撃的なものは稀にしか出てこなかったのですが、視点が違うからかもです。

 例えば具体的には、2月8日の10時20分頃に、16機の日本軍爆撃機が英連邦軍の陣地に対して爆撃をおこなったという機数なども含めた記述があり、他にも何度かあったようです。だとすると、別にゲーム上で日本軍側の戦術爆撃を禁ずる必要はないかのように思えました。英連邦軍側に関しても、何度も日本軍部隊に対して機銃掃射や爆撃をしてきたという記述がありますから、こちらも。



3.サルウィン川が思っていたよりも大河だったこと。

 パアンとクゼイクの間に走っているのがサルウィン川(上流では怒江といい、拉孟の目の前を流れる)なのですが、詳しい地図の印象から私はそのあたりではすでに小河川にしてしまっていました。が、川幅はこの地点で400メートルだったそうで、渡河には相当な困難が伴ったそうです。なので大河川にすべきですね……。

 実際、英連邦軍側はこのクゼイクを長期間保持するつもりでいたもののようです。ゲーム上の地形も厳しくした方が良さそうで、先日クゼイクの南西方向を平地にしましたけども、その時思っていたよりも短い狭い範囲が平地だったに過ぎないようだと思い直したこともあり、改めた方がいいかもです。




 あと、「おっ」と思ったのは、クゼイク攻略のために出発する時に、第33師団長の桜井省三中将と参謀が部隊の出発を見送って「武運を祈る」と短い言葉をかけていた、というような記述でした。それに対して第215連隊長であった原田大佐が緊張して「必ず、やっつけます」と答えたそうです(著者は第215連隊本部付けの作戦主任助手)。


 それから、結構いいものが食べられる時もあるけど、しばらく食べ物に困る(特に副食や野菜が手に入らず、米と塩だけで数日行軍を続けるとか)期間もあるとか、あるいは険峻な地形を夜間に迂回行軍する時の苦難とか、敵の猛射に対して撃ち返さずに遮二無二近づいて銃剣突撃するとか、もうホントに精神力で戦ってたんだなぁ、とか。

 この本、届いたのを見てみると結構字が大きくて、内容的には薄いのかなぁという気がしていたのですが、いや、結構助かりそうです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:英印軍標準旅団の編成定員はおよそ3000名

 また、ミト王子さんにコメントをいただけました! ありがとうございます!


OCS『South Burma』(仮)製作のために:いただいたコメントから、日本軍の大隊兵員数等 (2023/03/02)


 同じ資料からですが、南方作戦頃の第十八師団の歩兵連隊は、歩兵大隊3、歩兵砲中隊(陸戦史集では連隊砲中隊)、機関銃中隊、速射砲中隊、(+陸戦史集では通信中隊)
 各大隊は歩兵中隊4、機関銃中隊、(陸戦史集では+歩兵砲小隊)
 人員3,525名、馬匹429匹とのことです。

 第五十五師団の連隊が速射砲中隊を持たず連隊砲と混成に装備されていたのに対し、第十八師団は別々に中隊を持っています。

 原資料ではもっと色々書いてあったのかも知れませんが、10数年前に書きなぐった写しなので当時の私の興味をひかずに省略してしまっている部分があると思います。

 英印軍について陸戦史集で軽く記述がありました。昭和17年3月19日の編成表の部分で、
 「英印軍標準旅団の編成定員はおよそ三〇〇〇名であるが、当時、第十七インド師団の各旅団の兵力は、表記の順に二五〇〇、二五〇〇、一七〇〇であった。」
とあります。表記の順とは第16インド旅団、第48インド旅団、第63インド旅団の順です。


 とりあえず早急に必要な一番最後の英印軍の旅団の編成定員の部分で、「陸戦史集」ということであったので、「あれ、それは陸戦史集の『ビルマ進攻作戦』のことだよな……?」と思って見てみました。

 私、複数の資料でもってラングーン陥落のちょっと前あたりまでしか参照してない状態でして、3月19日といえばラングーン陥落後ですから、まだ見てない部分かな……と思ったのですが、巻末の戦闘序列が並んでいるところにありました(P247)。

 ここに定員とかが書いてあるということに全然気付いておらず、私一人で調べていたら気付くのがどれだけ後になってしまったか空恐ろしいものがありますので、大変ありがたいです!(>_<)





1.英印軍標準旅団の編成定員は、3000名であるが、当時、第17インド師団の各旅団の兵力は、表記の順に2500【第16インド旅団】、2500【第48インド旅団】、1700【第63インド旅団】であった。
2.第1ビルマ師団内のビルマ小銃大隊の兵力は、定員(編者註:およそ900名)を大きく下回っていた。
3.ビルマ軍団というのは、編成上の固有名詞である。また、第46インド旅団はシッタンの戦闘後廃止された。
『ビルマ進攻作戦』P247


 ↑の数値、大変参考になります。英連邦軍の旅団は通常、3個大隊で編成されるので(ビルマ戦の時には加配が結構ありますけど)、どうもやはり、1個大隊は約1000名ということで良さそうですね!

 ビルマ小銃大隊の定員900名というのも、1000名より若干低く、かつその内実からすると、定員がいたとしても3倍スケールにおける大隊戦力の標準である「6」よりは小さくするべきとなるような気がします。

 第46インド旅団がシッタンの戦闘後廃止されたというのもかなり重要ですね……。旅団司令部ユニットを入れる可能性がかなりあるのですが、第46旅団司令部はその時期に除去されるべきと……。経緯に関しては今後また精査で(シッタン橋梁爆破で東岸に残され、残余が他の旅団に吸収されたとかではないかと思いますけども)。




 他にとりあえず英連邦軍側で参考になる数値を探してみました。

3.国境警備隊は、本部、2個乗馬歩兵隊、3個歩兵隊(各約100名)、若干の輜重からなり、第2国境警備隊は、若干のモーター付民船をもっていた。
4.※は、実質上の兵力が大隊レベルに相当する部隊。
『ビルマ進攻作戦』P242


 国境警備隊は、「第12国境部隊連隊第4大隊」というのが初期のモールメン戦で出てくるのでユニット化しなければならないのですが、それとはまったく別物……? 今後継続調査で。

 ※印が付いているのは、イギリス人部隊であった第2キングスオウンヨークシャー軽歩兵隊【キングスオウンヨークシャー軽歩兵連隊第2大隊】と第1グルーセスターシャイヤー連隊【グロースターシャー連隊第1大隊】で、日本語(『ビルマ進攻作戦』)の書き方だと連隊規模のようかにも思えますけども、大隊規模であったと。



注:4月30日までに編成した各大隊の平均兵力は、約400名であった。
『ビルマ進攻作戦』P250


 ↑これは撤退の最終局面で英連邦軍が間に合わせで編成した大隊の平均が約400名であったという感じでしょうか?




 また調べていきます。

 まあ、ゲームとしてどうか、という面も非常に重要ですので、あまり肩肘張らずに……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:クンゼイク~サトン街道周辺の地形について

 OCS『South Burma』(仮)製作のために色々資料を読んでいるわけですが、自分がちらっと読んだものの出典場所を忘れて後で参照できない(あるいは探す)ということが頻発してます(T_T)


 そこで、ブログやツイッターを以前よりメモ的に活用することにして、出典を明記していこうと思いました。それらに書いておくと、後からでも結構探しやすく、また検証もやりやすい感があります。もちろん、アウトラインプロセッサーソフトを使って情報を集積していたりするんですが、それだけでは、特に散発的な(とっちらかった)情報は扱いにくい(処理しきれない)感がありまして……。

 読んでいる方にとってはうざいかもなので、フォローを外すとかミュートするとかしていただいて……(>_<) あるいは、これまたもし「それは勘違いしてますよ」とかありましたら、ツッコミいただければ。




 今回は、『歩兵第二一五聯隊第三中隊戦記 ― 中支作戦・ビルマ進攻作戦・インパール作戦・イラワジ会戦』を読んでいて出てきた地形に関する情報です。


 ↓今回見つけて書き加えた平地周辺の地形(右下のあたり)。

unit8644.jpg


【……】第3中隊は聯隊本部直轄となり【2月10日?】午後11時渡河に成功し、サルウイン川西岸のパコック附近【Kuzeikの南】に進出した。
 引続いて平坦な原野を枚【ばい】を銜【ふく】んで【声を立てず、息を凝らす。】粛々と西北進し、クンゼイク-サトン街道上に出てこの本道を確保し、クンゼイク方向からの敵の退路を遮断した。この道路際から北側は一面のジャングル地帯であった。
『歩兵第二一五聯隊第三中隊戦記 ― 中支作戦・ビルマ進攻作戦・インパール作戦・イラワジ会戦』P199


 ↑で「クンゼイク」とある地名ですが、「クゼイク(Kuzeik)」の誤りだろうと思います。「クンゼイク(Kunzeik)」という地名がこの周辺の北東、シッタン川の少し上流(画像の左上のあたり)にあってクゼイクよりも多くの地図に載っている地名なので、そことの混同が関係資料で起こりまくっているような気がします。私自身、混乱しまくりました。


 で、とりあえずクゼイク南方から、その北西に進んで、クゼイク~サトン(Thaton)街道のクゼイクからの退路になる部分に入るところまでは平地にして良いのだろうと考え、平地の色に塗ってみました。前掲画像で白い部分は、塗っていませんが(塗っていない限りは)ジャングルである、ということにしています。

 画像でより濃い緑になっているのは数百m~1500m程度の丘で、OCS『Burma II』の「荒地」扱いにしてます。ジャングル(軽障害)よりもさらにきつい(中障害)地形です。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:いただいたコメントから、日本軍の大隊兵員数等

 先日のブログ記事に、ミト王子さんからコメントを頂けました! 情報ありがとうございます!(^^)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について (2023/03/01)



 いただいたコメントについて、こちらに引用させてもらいます。

 「支那事変大東亜戦争における師団の編制」(山下義之)からの書き写しですが、

 ビルマ侵攻作戦時の第三十三師団の歩兵連隊は第二十一師団と同じとされており、歩兵大隊3、機関銃中隊、通信隊(陸戦史集では通信中隊)、乗馬小隊で人員3,190名、馬匹309匹。
 装備の詳細は記述がなかったと思いますが、S14年2~3月頃のそれは人員3,005名、馬匹188匹、九二式重機24、十一年式軽機72、九四式速射砲4、連隊砲3、九二式歩兵砲6、八九式重72、十年式擲弾筒4。

 第五十五師団の歩兵連隊は歩兵大隊3、歩兵砲中隊、通信中隊で人員2,933名、馬匹435匹、自動貨車11。
 装備は九二式重機24、九六式軽機81、九四式速射砲2、連隊砲2、九二式歩兵砲6、八九式重81、十年式擲弾筒4でした。


 1個連隊が3,190名と2,933名ということで、1個大隊は約1,000名(連隊本部とか連隊直轄とかもあるでしょうから、1,000名弱?)という感じで見てよさそうですね。

 前掲ブログ記事でも「55 師団の112連隊は作戦開始時に2933人」という数字がありました。一方で「18 師団の55連隊はラングーンに上陸した時点で4000人」という話もありましたが、これはまた今後の課題ということで……。


 実は、パアン~クゼイクの辺りの戦闘に関する記述で「敵(英連邦軍)は1個大隊約1,000名と見られる」といった記述を見た記憶(これまた今出典不明。記録しておかないとなぁ……)もあり、もしこれが正しければ「すわ、英連邦軍の1個大隊は約1,000名か!」となるところなんですが、文章からしてあくまで日本軍側の憶測でしかなさそうだったし、「1個大隊=約1,000名」というのは日本軍側がそうだったから英連邦軍側もそうだろうと日本軍側が思っていた、ということに過ぎないという考えもできると思いました。




 もう一つコメントいただいた、英連邦軍側について。

 イギリス側は「British and Commonwealth Armies 1939-43」にビルマ攻略戦時の基本的な編制がありました。特定の部隊を指している記述ではないので、あくまで「基本」のようです。
 sec、secsは班と解釈してみましたが、本部にライフル班が多いので少し疑問もありますのでご参考程度に。以下長文失礼します。

 インド大隊は本部(ライフル班4とLMG1)と歩兵中隊4、支援中隊(工兵小隊2、ルイス対空機銃小隊、場合によっては追加で3in迫撃砲小隊、偵察小隊)
 中隊は本部(13名のライフル班、2in迫撃砲1、ボーイズ対戦車銃1)、ライフル小隊3(本部6名、ライフル班3(各1LMGを持つ10名)

 イギリス大隊は本部(ライフル班2、スタッフカー1、トラック2、モーターサイクル5)、歩兵中隊4、支援中隊。
 歩兵中隊は本部(13名のライフル班、1ローリートラック)、ライフル小隊3(本部7名ライフル班、ボーイズ対戦車銃1、2in迫撃砲0~1、ライフル班3(各10名とLMG1、ローリートラック1)

 イギリス大隊でも守備隊の場合は、本部(ライフル班4)、歩兵中隊3、機関銃中隊(本部ライフル班2、機関銃小隊3各ビッカースMMG4)
 歩兵中隊は本部(ライフル班2)、歩兵小隊4(各本部ライフル班7名、10名とルイスLMG装備のライフル班2、LMGを持たないライフル班2)

 グルカ大隊は本部(ライフル班4)、歩兵中隊3、機関銃中隊(本部ライフル班、ビッカースMMG4を持つ小隊2)、対空機関銃小隊(ブレンAALMG4)
 歩兵中隊は、本部(ライフル班2)、小隊3(各6名の本部、10名のライフル班、LMG3)

 ビルマ大隊本部(ライフル班2、トラック1)、歩兵中隊3、砲兵中隊(3in迫撃砲0~2)、ビッカースMMG4を持つ機関銃小隊、ルイスLMG2を持つ対空機銃小隊。
 歩兵中隊は本部(ライフル班1)、歩兵小隊3(ライフル班3、LMG2、2in迫撃砲0~1)

 旅団支援部隊は
 旅団司令部(ライフル班4、スタッフカー2又はダイムラー装甲車1、ローリートラック3)
 司令部防衛小隊(ライフル班4、LMG3と2im迫撃砲1、ボーイズ対戦車ライフル1)
 インド砲兵中隊(無線車1、トラック4、対空LMG2を持つ本部、25ポンド砲4と無線車、牽引車5、LMG2を装備する小隊2又は3.7in山砲4とトラック6、LMG2を装備する小隊2)
 グルカ旅団のみ対空機銃小隊(ルイス対空LMG2)


 中隊の人数が割り出せれば、芋づる的に大隊の人数も分かるかも? と思い、少しやってみました。

インド
 中隊本部(13名のライフル班、2in迫撃砲1、ボーイズ対戦車銃1)【↓の99名+13+α?】
 ライフル小隊3(本部6名、ライフル班3(各1LMGを持つ10名)【36名?】

イギリス
 中隊本部(13名のライフル班、1ローリートラック)【↓の87名+13+4=104?】
 ライフル小隊3(本部7名ライフル班、ボーイズ対戦車銃1、2in迫撃砲0~1、ライフル班3(各10名とLMG1、ローリートラック1)
 【ローリートラック(大型トラック)が整備も含め4人くらい必要だとして、LMG(軽機関銃)1は10名という情報がインドのところにあり、ライフルは各10名。それを3倍する。本部にライフル7名、対戦車銃で4人、迫撃砲で4人くらい必要だと推定して、ライフル小隊の人数は(4+10+10)×3+7+4+4=87】


 ↑だと100名+αくらいになりますが、まだ色々抜けていると推測して150名くらい……?

 しかし実は前回のブログ記事で引用したものに「特筆すべきは、【日本軍の】中隊の規模がイギリスの中隊の約半分であったことである。」というのがあり、日本軍の中隊は180名が基準ということなので、もしかしたら300名くらいという可能性も? それでいて「【日本軍の】連隊の総歩兵力はまちまちであったが、イギリス軍旅団のそれを大幅に【substantially 実質的に?】上回るものであった。」という記述が前回ブログ記事引用にあり、いやいや、どういうことやねんと前回も思ってました……(>o<)


 でも今後も情報収集を続けていけば、今回コメントいただいた情報と照らし合わせて結構色んなことが分かるかもと希望も持てます。改めて情報感謝です!



 ちなみに、日本軍の中隊の内訳についてはこう書かれていました。和訳がおぼつかないので原文のまま。

8. Infantry companies, normally commanded by a Captain or Lieutenant, consisted of:

 Command unit
  Staff Sergeant... 1
  Sergeants  Orders from battalion HQ... 1
           Liaison with platoons ... 1
           Weapons and ammunition... 1
Supplies... 1
  Messengers...6
  Trumpeters...4
  Medical orderlies...3
  Three rifle platoons, each 53 ...159

  Total...177(plus 3 officers)
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P374,5


 ↑を見ていると、衛生兵とか通信兵とかが英連邦軍の資料から抜けている可能性はありそうですね(実質的な兵力ではないわけですけども)。

 日本軍側に伝令兵とトランペッターがいるのですが、英連邦軍側にもこういうのはあったんでしょうか……(遅れてる日本軍側だけ?)。



OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について

 OCS『South Burma』(仮)を3倍スケールで作るということにしたので、リサーチを、精度を上げてやり直さなければなりません(T_T)


 とりあえずまず、日本軍の第55師団は1個大隊が3個中隊、第33師団は1個大隊が4個中隊だったという話があり、3倍スケールなら戦力値が変わってくるのかの検証が必要かと思います。

 と、その前に「3倍スケールで1個大隊が6戦力という標準の部隊は、史実で何名、あるいはどれくらいの火力だったのか」という問題もあると思います。OCS『Burma II』では少数の例外を除けば日英両軍とも歩兵大隊は2戦力、歩兵旅団は6戦力となっているので、資料から史実で何か例外的な部隊であったという記述がなければ、3倍スケールでは1個大隊は6戦力ということで、とりあえずは行くという感じかと思います。ちなみに『Burma II』での例外としては、たとえば機関銃大隊は3戦力(おそらく火力が強いからなのでしょう)だったり、歩兵旅団で4戦力というのがいたりします。


 また、3個中隊の大隊と、4個中隊の大隊の、どちらを標準と見なして6戦力とするのか、という問題もあります。今回はとりあえず3個中隊の大隊を6戦力としてみようと思いますが、今後、特にイギリス軍側の大隊との比較が成功した時に、そこらへん全部話が変わってくる場合もあるかと思います(T_T)




 手持ちの資料の中では、『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』が、出版が1999年と比較的新しく、1942年のビルマ侵攻作戦のみを扱った本であり、またイギリス人と日本人との共著である等から、最も頼りにしたい本と考えてます。とりあえずこの本の巻末から。



3.日本軍の師団には2種類あった。1941年以前に編成された「旧」師団は、各歩兵大隊に4個の小銃中隊と1個の機関銃中隊を有していたが、1941年以降に編成された「新」師団は3個の小銃中隊と機関銃中隊を有しているだけであった。18師団と33師団は「旧」師団、55師団と56師団は「新」師団であった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P373


7. 歩兵大隊は、通常、少佐が指揮し、次のような構成であった。
 大隊司令部……103
 4(あるいは3)小銃中隊、それぞれ……180
 MMG中隊(8xMMG)……122
 歩兵砲小隊……45(2x70mm砲)
 計……990(or 810)
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P374


 ↑の最後の数値の「990」というのが4個中隊の大隊の兵員数、「810」というのが3個中隊の大隊の兵員数になります。

 990÷810=1.222...となります。

 仮に4個中隊の大隊の戦力値を7とした場合、7÷6=1.1666....(1.222...との差は-0.0555...)

 仮に4個中隊の大隊の戦力値を8とした場合、8÷6=1.333...(1.222...との差は+0.111....)


 すると、4個中隊の大隊の戦力を7とした場合の方が、乖離が少ないということになります。ですからとりあえず、戦力値7というのが落としどころでしょうか。





 また、「第33師団の1個中隊の兵員数は、180でなくて200であった(第55師団のそれは180であった)」という話もどこかで見たと思うのですが、その話の出典を今確認できません(T_T)

 一方で、今回こういう記述を見つけました。

 両師団【第55師団と第33師団】のもう一つの重要な特徴は、通常180人の小銃中隊が200人以上の兵力で作戦を開始したことである。これは死傷者と消耗を考慮してのことであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P48

10.特筆すべきは、中隊の規模がイギリスの中隊の約半分であったことである。実際には、日本軍の中隊の人数は様々で、作戦開始時には上記の数字よりさらに多いことがよくあった。例えば第55師団の第143連隊は200人以上の中隊を編成してタイ国境を通過している。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P375


 ↑からすると、第33師団だけが200であったという話は全然違うということになります。

 この20人以上の増員の件に関しては、戦力値に織り込む努力はやめておこうかと思います。





 それよりは、イギリス軍の大隊と、日本軍の大隊との戦力差が気になるのですが、こんな記述が。

6. 連隊の総歩兵力はまちまちであったが、イギリス軍旅団のそれを大幅に上回るものであった。「新」55 師団の112連隊は作戦開始時に2933人の歩兵力を有していたと記録されており、「旧」18 師団の55連隊はラングーンに上陸した時点で4000人であったと言われている。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P374


 日本軍の連隊と、英連邦軍の旅団は、ほぼ同等の組織です(それぞれ、通常、3個大隊で編成されていました)。

 ↑の記述からすると、日本軍のそれを強めに設定したくなるところですけども、英連邦軍のそれの方が「火力」において優越していたって可能性もあります(OCSの戦力値は、歩兵でも火力が基本になっているのだと思います)。これまで資料を読んできた印象からすると、英語資料では日本軍の火力が驚異的だったというような記述をしている傾向が強く、日本語資料では日本軍側は銃弾にも事欠いたとかってのをメインとしている印象があります(ぐあああ)。


 ビルマ戦に参加した当時の日本軍の師団とか連隊とか大隊とか、イギリス軍の師団とか旅団とか大隊とかの兵力数がどこかに書かれていればとも思うのですが、現状見つけられていない気がします。特に英連邦軍側の兵員数が全然分かりません(T_T)



 日本軍側の兵員数に関して、以前、第33師団長であった桜井省三(せいぞう)中将と、第33師団について (2023/01/27)でこう書いていました。

 第55師団が1万4千人程度だったのに対して、1万6千人程度を有していたとか(どちらの師団も1個連隊欠なのですが、その分を引いた数なのかどうか分かりません。『第2次世界大戦中の日本軍のタイ国内での展開 ―通過地から駐屯地へ―(上)』という論文のP19には「師団の構成人員から推測すると、仏印から鉄道で入ってきた第55師団主力は約1万人、船でバンコクに入った第33師団は約1万3,000人の規模であったものと思われる。」とあって、こちらは1個連隊を抜いた実数ということなのかも……)。



 今回見つけた、両師団を合算した数値としてこういうのがありました。

総兵力
 人員 35,440
 馬匹 701
 部隊輸送用車両 53
 トラック 570
『The War Against Japan Vol.2』P442


 時期は1941年12月となっており、第55師団の戦闘序列からは当時ビルマにいなかったものは抜かれているようですが、第33師団の戦闘序列には、当時ビルマにはいなかったのではないかと思われる第213連隊の名前がそのまま入っています(『ビルマ攻略作戦』P45によれば、同連隊は3ヵ月遅れでビルマに到着したそうです。具体的にいつ到着したのかまだ確認してません。)。


 で、上記の3つのパターンを総合すると……全然分からない(>o<)


 とりあえず宿題として、今後もし参考になるような記述を見つけたら、また集積していこうと思います。

どうしても縦割りになる日本は開戦せざるを得なかったし、どうしても独裁になるロシアは開戦せざるを得なかった

 最近、『世界史としての「大東亜戦争」』という新書と、『中央公論』誌(特集は「独裁が崩れるとき」)を読みました。





 それでいくらか、「なるほど……!」と思う文章があったのですが、そこらへん自分の中で簡潔にまとめようとして「どうしても縦割りになる日本は開戦せざるを得なかったし、どうしても独裁になるロシアは開戦せざるを得なかった」という表現を思いつきました。


 なぜ日本は対米開戦したのか。それは、縦割り組織が並列して足を引っ張りあう中で、対米開戦を避けるならば自ら(の組織)が、例えば「中国からの撤兵」「帝国主義的経済を諦めて国内だけで生きていく」というような(当時としては)最悪で、どうにもならないと思われる決断の旗振りをしなければならなくなるのに耐えられなかったからだと。それに比べれば、各組織にとって「対米開戦」はまだ、よりましな方向性だったのだ(『世界史としての「大東亜戦争」』P71)。

 なるほど……それは今の日本社会でも、同じ様な状況になったらまた同じようになるのでは……トホホ(T_T) 今度は逆に、もはや参戦を決断すべきなのに縦割り組織の中で参戦が決断できず、より悪い状況になるとかでしょうか。


 「縦割りの日本社会」ということに関して書かれた『タテ社会の人間関係』をパラパラと読み返してみたのですが、今の日本社会はまだ依然として縦割りのままだと思いました(いくらか変化の兆しはあるとはいえ)。属している「集団」がとにかく大事で価値があるのであって、集団は「機能」のための組織に過ぎないという感覚ではない。欧米とかでは、組織は機能のためにあるのであって、その機能をよく果たすために上部組織が作られて調整するのは当たり前だし、有能な将軍を一時的に抜擢して終わったら元の階級に戻すこともできる。でも日本社会ではそんなことはできない。





 別に当時の陸軍と海軍だけが縦割りで足を引っ張っていたわけでなく、日本社会はずっと同じ様であったし、今でも同じ様であるのだろうと思いました。




 一方でロシアは(あるいは中国とかも)、多民族からなる帝国を皇帝のカリスマ性で支配するという構造で、この論理で統治する以上、皇帝が率いる帝国は大国でなければならず、戦争にも常に勝たなければならない(中央公論2023年3月号P75)。

 『タテ社会の人間関係』に書かれていましたけども、こういう社会構造性というのは、他の面がどんどん変わっていってもなかなか変わらないそうで、日本社会もそれほどむちゃくちゃ変わったわけではないし、ロシアや中国もその傾向性がむちゃくちゃ残っていると見ることができるのでしょう。




 日本が縦割りの中で非戦の決断ができず戦争に突入してしまった件ですが、これは日本ではどれくらいメジャーな見方なんでしょうか? 一応、NHKスペシャルを本にしたやつ(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』)でもそんな感じで書かれていた記憶はあるのですが……(あるいは、こういう見方は異端であるとか?)。

 洋書をDeepL翻訳で読んでいると、昔の本だけでなく、ごく最近出版された本でも、「東條英機や昭和天皇が侵略戦争をしたくて、それで日本は戦争を始めたのだ」という風に解説しているのを見ます。思うに、日本人でも「縦割りの中で非戦の決断ができず戦争に突入してしまった」という理屈はかなり分かりにくいですし、欧米人とかでそんな理屈はまったく理解の外なのではなかろうかと思ったりも……。


OCS『South Burma』(仮)の1942年部分は、OCS『Reluctant Enemies』と同じ3倍スケールで

 OCS『South Burma』(仮)で1942年のビルマ侵攻作戦の部分を作っていこうとしてみているわけですが、OCSの標準スケールでの戦力値(連隊や旅団が6戦力)ではなく、3倍スケールにした方が良さそうだという考えに至りました

 この3倍スケールというのはOCS『Reluctant Enemies』で採用されていたもので、通常2戦力程度となるはずの大隊が3倍されて6戦力となります。このやり方によって、標準スケールだと0.5戦力とか0.3戦力しかないからユニット化できないような中隊もユニット化できたり、大隊ユニット間でも細かい差異が付けやすくなるわけです。



 ↓これまでのOCS『South Burma』(仮)のユニット案。

unit8647.jpg



 部隊ユニットはすべて大隊規模で、1個の例外を除いて2戦力でした。

 一応これでもゲームにならないことはないかな……とは思っていたのですが、心配なのは、登場ユニットが少なくて片側の陣営がユニットをある程度以上失うと勝敗が一気に付いてしまうのではないかということでした。これはまあ、OCS『Reluctant Enemies』や、OCS『Luzon: Race for Bataan』でも採用させてもらった「3ユニット失われるたびに1ユニット回復する」というシステムを入れればなんとかなるかもとは思っていたのですが……。

 しかし3倍スケールにすれば、より細かいユニットを入れられるのでもう少しユニットが増やせますし、またユニット間の差異が付けられてより味が出せるように思われました。例えば、日本軍の第33師団の1個大隊は4個中隊編成であり、第55師団の1個大隊の3個中隊編成よりも戦力値を高くすることができるでしょう。そう考えてみると、これまでの「(ほぼ)オール2戦力」は味気なさ過ぎましたね……(>_<)



 また、新たに図書館で借りてきてみた『ビルマ航空戦』で当時ビルマにいた戦闘機数を数えていると、10機程度しか可動していない機種が連合軍側に多いとか、最低でも20機程度ないとユニット化できないOCS標準スケールだと日本軍側が戦闘機ユニット2個、連合軍側が戦闘機ユニット2個とかで、史実で存在した航空基地の多さに比べてもユニット数が少なすぎるというような問題もありました。これも3倍スケールにすれば(『Reluctant Enemies』では航空ユニットは3倍スケール化されてないと思うのですが)、7機程度でもユニット化できますし、性能は劣っていたものの数は優越していた九七式戦闘機の数をぱっと見に表すこともできそうです。



 マイナス面として、他のほとんどのOCSゲームとの統一感は失われ、リサーチはより面倒になりますけども、3倍スケールにした場合の方がよりプレイしたくなるゲームになるように思われるので、そっちの方がいいかな、と思えました。

 ここ数日、ビルマ侵攻作戦の全体像に関しても読み返していたのですが、ラングーン陥落までの第1段階(ハーフマップ)では実質1.5個師団vs.1.5個師団程度でしかなく、ビルマ中部制圧の第2段階(フルマップ2枚)でも3.5個師団 vs. 3.5個師団程度しか存在しなかったのですね……。そこらへんちゃんと認識していたとは言えませんでしたバキッ!!☆/(x_x) この広さに対する実質部隊の少なさからすると、3倍スケールを採用せずになんとかするのは、不可能ではないとしても色んな面で無理があると考えるべきなんでしょう。

 しかし一方で、もし可能だったら同じマップを使って作りたいとも思っている1944~45年の中南部ビルマ戦役に関しては、史実で参加していた部隊数がかなり増えているので、標準スケールでやることになるだろうと思います。


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR