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OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻時の日本陸軍の航空作戦について、その1

 OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻時の日本陸軍の航空作戦について、です。


 そもそも日本(陸)軍についても私は全然分かってない状態からだったのですが、(陸軍)航空部隊についてはさらにさっぱり分からず暗中模索がひどいです。

 とりあえずOCSで航空機をユニット化していくためには、航空機のレーティングの他に、機種毎の(実働)機数の数値が必要です。

OCS 14.1 航空ユニットの総則
 航空ユニットは特定の航空機(Bf-109のような)の集まりでまとめられており、機種、航続距離、空戦力、砲爆撃力、(時に)輸送能力がレーティングされています。航空ユニットはおよそ45機の航空機で構成されていますが、これらの現実の稼働率が100%を下回るのは当然のこととしてゲーム中に織り込まれています。


 また、OCSの航空ユニットには完全戦力面と減少戦力面があり、減少戦力面はおよそ20~30機という感じでしょうか? 最初から減少戦力面でセットアップすることも多々ありますから、20機程度あればユニット化されるということになります。単一機種で20機程度あればその機種名でユニット化され、複数の機種でまとめて20機程度に達するのであれば「MixF」(複数の戦闘機種)や「MixB」(複数の爆撃機種)でユニット化できます。


 ところが今までビルマ戦の資料を色々読んできたのですが、その時々での「機種毎の機数」がぱっと分かるような感じで記載されていないなぁ、という印象を持っています(OCS『Luzon: Race for Bataan』の時はすぐに分かるように記載されていたのですが)。なので、自分の中の理解度を増大させて分析していく他ないのかなぁ、と。

 ブログに書いていく(書こうとする)ことで自分の中の理解が深まるということもありますし、また、読まれている方で「いや、これはこうですよ」「その件に関してはこうでしょう」とかありましたら、ぜひお気軽にご指摘下さい!




 とりあえずまず、陸軍航空部隊の部隊呼称?について。陸軍だと師団-連隊-大隊のようなのがどういう規模でどう呼称されていたのかという話です。『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』P7,8にいくらか書かれていたのをまとめてみました。規模が大きいものを上の方に置きましたが、下から読み上げていった方が分かりやすいですね。

航空兵団(1942年6月以後は航空軍)
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飛行集団(1942年4月以後は飛行師団)
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飛行団(通常2~3個の飛行戦隊からなる。混成の場合も多々?あり、戦闘分科だけの場合に限って戦闘飛行団と呼称)
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飛行戦隊(略称:戦隊。通常、3個中隊からなる。戦隊本部に1機)
【仮に1個中隊に15機程度あるとすると、1個飛行戦隊で45機あることになり、飛行戦隊1個でOCSの航空ユニット1個(完全戦力面)となる? ただしもし機種がバラバラならそういうわけにもいかない……】
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中隊【飛行中隊?】
(各中隊は、第一線機12機、その他の分科が9機。第一線機は編制上は常時可動という建前であったが、別に戦隊に1/3の第一線予備機を、航空廠に1/3の後方予備機を保有することになっていた。しかし、そのような編制定数が完全に充足されたことは特殊の場合だけであって、欠数のあるのがむしろ常態であった。)


 ↑上記で、「第一線機」「その他の分科」とはどういうこと? とか、「戦闘分科だけ」というのは戦闘機だけということであって機種は混在しているのかなぁとか、「混成」というのは戦闘機と爆撃機が混ざっているとかってこと? とか、まだ色々分かりません。




 で、ようやく『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の「航空作戦」からです。

 ビルマで使用されたのは主に第5飛行集団であったが、激しい空襲を行うために第3飛行集団が補強された。

 第5飛行集団は当初、戦闘機、軽爆撃機、偵察機、輸送機を擁する第10飛行団と、1月22日までにフィリピンから移駐した戦闘機、軽・重爆撃機の第4飛行団の2個飛行団から成っていた。その後、オランダ領東インドでの作戦が終了すると、第3飛行集団からさらに2個飛行団が増援された。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P330


 この件ですが、『帝国陸軍南方作戦』の「基地推進作戦」という記事にはこのように記述されていました。

 第3飛行集団はマレー半島の航空撃滅戦を電撃的に成功させたのち、返す刀でビルマ方面の連合軍航空部隊に向けて作戦を開始。【そしてその後?】その任務をフィリピンの航空撃滅戦を担当した第5飛行集団(台湾・北部払印【ママ】から数千キロに及ぶ機動でビルマに転進した) に引き継ぐと、蘭印方面へと転戦している。広大な南方戦線のどこかで何かが狂えば作戦が破綻する、まさに紙一重の用兵である。
 そして勝利を重ねたとはいえ、損害も深刻であった。第3と第5の二つの飛行集団をはじめ、南方軍隷下の各飛行部隊は、開戦から3月までの4か月間に初期兵力962機(予備機除く)のうち588機を失うという激戦を繰り広げた。
『帝国陸軍南方作戦』P46


 また、第3飛行集団の開戦時の機数は、「定数459機、予備機153機、合計612機を擁する大兵力で陸軍航空隊の主力部隊であった。」ともありました(P44)。





 この最初の第5飛行集団の2個飛行団については、『ビルマ攻略作戦』にこう書かれていました。


 【1942年】1月25日ごろの部隊配置(地上部隊を除く)の概要は次のとおりである。
第5飛行集団司令部 バンコク

 第4飛行団司令部 ドムアン
  独立飛行第70中隊中隊(司偵) ランパン
  飛行第8戦隊(司偵 軽爆) ドムアン
  飛行第14戦隊(重爆) ドムアン
  飛行第50戦隊(戦闘) ナコンサワン

 第10飛行団司令部 ランパン
  飛行第77戦隊(司偵) ランパン
  飛行第31戦隊(重爆) ピサンローク
  飛行第62戦隊(軽爆) ナコンサワン(機動飛行場ドムアン)

『ビルマ攻略作戦』P116,7





 ↓前回挙げていた地図に加筆しました(この後の第3飛行集団が来た頃の地名も含みます)。

unit8650.jpg



 一方、『ビルマ進攻作戦』にはこのように書かれていました。

 昭和16年12月8日に始まった南方作戦は順調に進展し、マレー方面の航空優勢ははやくも日本軍の手に落ち、第3飛行集団は、機を失せず兵力をマレー方面に推進した。
 しかし反面、ビルマ方面の連合空軍はしだいに増加の徴があり、マレーにおける第25軍の背後線も、ようやく脅威が感じられるようになった。
 そこで第3飛行集団は、一部をもって依然マレー方面の作戦を支援しながら、航空優勢をとるため主力をもってラングーンの初空襲を実施した。
 すなわち12月23日、約120機の日本軍戦爆連合部隊は、飛行場・港・その他の軍事施設を攻撃し、次いで25、27の両日にも、ラングーンを空襲した。
 英印軍には高射部隊はあったが砲がなく、スピットファイヤー、トマホーク等の機種を主体とした米英軍の航空隊は激しく応戦したが、20機近い損害を出し、一方日本軍も十数機を失なった。
 ラングーンの市民は、空襲をみるのは始めてであった。多くの市民が防空壕にも入らず、路上に群をして物珍しそうに見物した。そのため2000人以上の死傷者を出した。
 この空襲に驚いたビルマ政府は、あわてて市民の避難計画を作り始め、不要な五分の一の市民を疎開することにした。しかし、必要な労務者までも一緒に逃げ出し、港の揚陸作業は早くも停滞し始めた。
 12月31日になり、やっとインドから高射砲2個中隊が到着し、ラングーンの防空に当たった。
 一方、比島方面の作戦を終わった日本第5飛行集団は、3個戦隊基幹の兵力をもって、かねての計により転進し、1月下旬から第15軍を支援する航空作戦を始めた。
『ビルマ進攻作戦』P26,7





 ビルマでの陸戦が始まったのは1942年1月20日からなので、↑で書かれていた空爆は陸戦が始まる前の話になります。

 で、陸戦が始まった後、あるいは始まる前から始まってからにかけて?の日本の航空作戦について『Burma, 1942: The Japanese Invasion』にはこのようにまとめられていました。

 彼らは【将来的に】自軍に有益となるであろう施設を爆撃しないように注意しながら、どうやら住民に強い印象と恐怖を与えるためにすべての主要な町を集中的に爆撃したようである(これは成功した)。結果として、撤退する英軍はたびたび空からの攻撃を受けて多くの死傷者を出したものの、攻撃される可能性があったほどには攻撃されなかったと言える。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P330


 ↑をOCS的に解釈すると、どうもビルマで日本陸軍の航空部隊は、英連邦軍部隊に対する戦術爆撃をあまりせずに、戦意を喪失させるための?戦略爆撃をメインとしてやったのかな、と。

 これまで色々資料を読んでいても、なんかその時の陸戦の前線近くで敵部隊に爆撃するというよりは、前線とは全然関係ない場所に対して、対施設爆撃をしている記述が多いように感じてはいました。


 また、もう一つの話として、そもそも日本陸軍の爆撃機は「航空撃滅戦」を基本としていたのだ、という話があるようです。これはどうも、空軍力が拮抗している状態でもって部隊に対する戦術爆撃をやるとかよりも、まずは空中と地上の敵航空戦力を撃滅することに全力を傾けるという話のようで、これに日本軍は(運の良さもあって)かなり成功し、地上の敵航空機を爆撃機で一掃してしまうことに結構成功しているようです。

 OCSで言えばやり方としては、

1.制空戦闘をしまくって、丸裸にした敵航空基地に対して対施設砲爆撃をする(敵の航空基地のレベルを下げ、地上で航空ユニットをステップロスさせる)

2.護衛機付きで爆撃機を敵航空基地に行かせ、敵戦闘機を撃破した上で対施設砲爆撃をする。

 のどちらかでしょうか。両者の違いは微妙ですが、自軍戦闘機の勝率が絶対的に高いなら2のやり方の方が効率がいいかなぁと思います。ただし勝率がそれほど高くない場合、2のやり方をして空戦で負けると自軍爆撃機がまとめて返り討ちになる可能性がありますね。史実の日本軍は2のやり方を基本的にしているように思えます。


 ここらへんを総合すると、どうも(ビルマの)日本軍爆撃機は、敵部隊に対して爆撃をするのではなく、固定された施設、あるいは航空基地に駐機されている航空機に対して爆撃するのがメインだったということでしょうか。素人考えでは、敵部隊に爆撃するよりも、動かない施設や航空機を狙って爆撃する方がいくぶん難易度が低そうに思えますが、そういうこともあるのでしょうか?

 OCSの爆撃機には「戦術爆撃機(T)」と「戦略爆撃機(S)」の区別がありまして、メインで使用されるのは戦術爆撃機です。戦略爆撃機はルール上、部隊を狙うとマイナス修正がひどいので、港湾、航空基地、航空阻止(移動妨害)にのみ使用される感じです。

 『South Burma』(仮)では日本軍の爆撃機を戦略爆撃機にして、航空基地への爆撃を主任務にさせるとデザイン上は良い感じでしょうか……。我々がOCSゲームをプレイしている時には対航空基地爆撃はあまり起こらず、対航空基地爆撃が好きなプレイヤー(富山のKさん)もいますが、それでも大して爆撃力をつぎこめるわけではないですし、地上で撃破される航空ユニットの損害はそれほど大きいとは言えない感じです(尤も無視できるとも言えず、じわじわ効いてきます(>_<))。

 しかしもし、日本軍の爆撃機を戦略爆撃機にして、ユニット数が多ければ、プレイヤーとしては港湾爆撃は多分したくない(後で自分が利用できるので)でしょうから、対航空基地爆撃がメインになるか……?(航空基地はレベル1より下にはならないですし、爆撃しまくっても後で自分が使うのにほとんど支障がありません)


 OCS『Burma II』では九七式重爆撃機が戦術爆撃機(T)で(0)-8というレーティングになっているんですが、戦略爆撃機(S)に変更するのは他のOCSゲームでもあることなのでOKでしょう。しかし8という爆撃力は対航空基地爆撃で地上機を撃破するには低すぎ、かつ、航空阻止には非常にちょうどいい爆撃力なので、上記の分析がもしある程度妥当で、かつもし史実ではこの時期に航空阻止をやってないようなら、「爆撃力を上げる(21以上に)」か「日本軍の爆撃機は航空阻止できない」かどちらかが必要な気がします。後者でしょうか。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍の航空ユニット(Oscar=隼(一式戦闘機) Tony=飛燕(三式戦闘機) Sally=九七式重爆撃機)

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 とりあえずビルマ侵攻時の日本陸軍の爆撃機が航空阻止(移動妨害)をやっていたかどうかについて、今後資料を読んでいく上で注意深くなった方が良いですね……。



 この後、ラングーン戦の頃の航空戦に関する記述について扱おうと思っていたのですが、分けた方が良さそうなので今回はここまでで。

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OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマの航空基地の位置

 「OCS『South Burma』(仮)製作のために」ですが、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末の次の項目は航空作戦についてです。

 が、航空関係(航空兵力)については分からないことだらけで資料を漁っているうちに、「ビルマ内の航空基地の位置」についての情報があるのを認識しまして、これも情報として集積するために書いておかないといけないと思いました(必要な情報が多すぎて大変です……!)。



 ↓『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』の付図第四「第三航空軍兵力配置要図」の一部に書き足したもの。

unit8652.jpg






 緑色で囲ったところが資料に出てきた航空基地で、地名がなかったものは書き足してあります。

 ビルマの空軍は、極東の他の地域と同様、非常に弱体であった。60(ブレナム)飛行隊は1941年の初めにミンガラドン飛行場(ラングーン)に到着し、小さな空軍司令部が設立されたが、その年の後半にはマレー半島に移された。日本との戦争が始まると、この国で唯一の空軍部隊は16機ほどのバッファローを擁する67(戦闘機)飛行隊となった。飛行場はヴィクトリアポイント、メルギー、タボイ、モールメン、ラングーン(ミンガラドン、ザヤトクウィン【Zayatkwin:ラングーン市内?】)、トングー、ヘホ、ナムサン【Namsang】、ラシオ、ロウインであった。最後の飛行場は、ラシオの北、中国側の辺境にあるアメリカ製の飛行場であった。これらの飛行場のすぐ東側には、ジャングルに覆われた山々が辺境に沿って続いており、有効な警報システムを確立するための十分なスペースがない。それでもビルマ政府は民間人による警報システムを組織したが、ラングーンを除いては、これらの飛行場への敵機の接近を予測することはほとんどできなかった。このほか、アキャブ、マグウェ、メイクティラ、シュウェボ、ミイトキーナにも飛行場があった。これらのいくつかはまだ建設中であったが、1941年12月には着陸場として使用できるようになった。ラングーンからシンガポールまでの距離は、当時の航空機が無給油で移動するには長すぎたため、ヴィクトリアポイント、モールメン、タボイ、メルギーの飛行場はマレーへの航空援護ルートにおける重要な拠点であった。したがって、これらは戦略的に非常に重要であった。

 中国は1941年4月、志願兵が搭乗するアメリカ航空隊(アメリカ志願兵グループ(A.V.G.)として知られるようになった)を中国での活動のために多数編成することに合意し、ビルマが攻撃されたらこのグループの一部を防衛にあてることを事実上約束した。6月、A.V.G.の最初の部隊がビルマに到着し、そこで航空機の組み立てとテストを行うことになった。11月までに、トマホーク(P.40)戦闘機の3個飛行隊がトングーに編成された。戦争が始まると、蒋介石総統は約束を守り、1個中隊はラングーンの防空を支援するためにビルマに残され、他の2個中隊はビルマ道の中国の端である昆明に移動させられた。
『The War Against Japan Vol.2』P10



 他にもモールメンのすぐ南のムドン(Mudon)という町にも航空基地があったとか、細かいものとしては他にも色々あるのだろうと思いますし、また↑はビルマ国内だけですが、ビルマ国外の日本軍や英連邦軍の航空基地の位置や配備状況も重要です(マップ外ホールディングボックスとして)し、また単に「そこに航空基地があった」だけでなくて、その航空基地がどれくらい使い物になるものだったのかによってOCSではレベル1~3航空基地の他に、レベル1よりも少し性能の劣る「滑走路(Strip)」というのもありますから、そのどれになるのかという設定が必要になります……うがあああ


 OCS『Luzon: Race for Bataan』を作った時には範囲も狭いし時期も短いし戦力も少ないで、リサーチ的にはそれほど苦労することなくできた(ただし日本軍機のレーティングに関してはぐちーずさんに頼んで、していただけました。本当にありがとうございました!(^^))のですが、『South Burma』(仮)は大変だなぁ、と……(尤も他のOCSタイトルの方がよほどビッグゲームで大変だろうとも思うのですが、あちらはあちらで経験値の蓄積がかなりあってとか、多人数で分担したりとかで結構すいすいできるようになっているのでしょうかね~)。



OCS『South Burma』(仮)製作のために:『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の「この戦役の教訓」から

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』の巻末に、色々と役立ちそうなまとめ情報があるっぽいので、そちらを(DeepL翻訳で)訳してみようと思いました。それでもって、その訳したものをただHDD上に置いていただけでは忘れてしまいそうなので、ブログに書いて、後に関係する情報があれば追記していくという方法でやっていこうかと。






 まずは、「この戦役の教訓」(P328,9)という項目からです。以下、DeepL翻訳の結果をそれほどちゃんと修正することなしに挙げます。

 第一段階での目標は、英軍と中国軍の重要拠点であるラングーンの攻略であった。しかし、日本軍の一部の主力部隊は、ラングーン攻略に熱中するあまり、敵への攻撃に十分な注意を払わなかった(注3:これは、ペグー(Pegu)とタウキャン(Taukkyan)の道路封鎖を放棄したことを指していると思われる。) 第二段階でも、前線部隊は軍司令部の具体的な命令にもかかわらず、敵を撃破することよりも、要所を占領し、資源を獲得することを優先する傾向が続いた。



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 「道路封鎖(Road Block)」というのは、私はまだ良く理解できていないのですが恐らく、英連邦軍が道路から離れて迅速な移動が難しい(自動車化されており、また道路から離れたジャングルなどで移動する訓練がされていなかった)ことから、主要道路上に阻害物を置いておくとそこから先へ英連邦軍部隊が下がれない……ということではないかと思います。あるいは、補給路を切断するということ……? 道路封鎖を置いた後、日本軍部隊はそこに留まることなく移動を再開する……?

 OCS『Burma II』には道路封鎖に関するルールはないと思いますが、今後資料を読んでいく中でこの道路封鎖がかなり重要そうであれば、それに関するルールを考えなければならないのかもしれません。尤も、なるべく特別ルールを増やしたくないので、無視できる程度であると判断すれば、入れない方を選択すると思いますけども。


 「敵撃破よりも、要所の占領を優先した」件については、『隠れた名将飯田祥二郎』にこのように書かれていました。

 その後のラングーン攻撃において、桜井は相手側と直接対決することを避けて、なんとかラングーンへ兵力をもぐりこませ進出せよと部下に命じた。このような浸透戦術は軽装備で補給に恵まれぬ軍勢にとって最善の手段であったろう。相手側は、日本軍が神出鬼没的に密林から出現するのをみて恐怖感に捉えられたという。いったんラングーンを手中にすれば、シンガポール陥落後には、海上からの補給を期待することができた。
 この時点において、15軍は参謀竹下らの提案によって両師団に対し、「会敵した場合には相手を撃滅せよ」との指示を出していた。桜井のような「もぐりこみ」作戦はこのような指示に明白に違背するものであったが、損害を少なくして実効を挙げる上に有益であることがやがて明らかになった。
『隠れた名将飯田祥二郎』P157,160,161


 実際問題としては、桜井将軍の第33師団はずっと無補給であったので、銃弾と砲弾を節約する必要があったとどこかで読んだような気がします。

 OCSにおいては、補給(SP)がなくても2回までなら内部備蓄で攻撃ができます。しかしその2回を使ってしまうと、SPなしでは攻撃が不可能になります。プレイにおいて、「戦闘を避けるのか、敵撃破のチャンスに攻撃をするのか」は悩ましい選択になるのではないかとは思います。



 再び『Burma, 1942: The Japanese Invasion』から。

 第一段階で最も心配されたのは、第15軍がラングーンに進攻している間に中国軍がトウングー(Toungoo)から 南下してこないか、ということであった。それを遅らせるために、日本軍がタイ北部からケントゥン(Kentung)経由でシャン州に進出してくるという噂が流された。この噂を裏付けるように、日本軍はタイ北部で欺瞞的な動きをした。鹵獲した中国語の文書から、この策略が成功したことがわかる。



 ↓英語版Wikipedia「Burma campaign」にあった地図にカラー部分を書き加えたもの。

unit8653.jpg


 「①」が「欺瞞的な動き」になります。

 この地図で、3つの丸く囲まれている中にあるのはすべて中国国民党軍部隊です。結構多いですよね……。日中戦争中の中国国民党軍がどうやってこれほどの部隊をビルマ方面に投入することになったのか、私は今までいくらか読んだのでしょうけども、全然頭に入ってきてません(^_^;

 「シャン州」というのはタイの北側にあるビルマの州で、元々英連邦軍はタイとビルマの国境のうち、既存の道路が最も良かったこの「タイ北部→シャン州(ケントゥン(Kentung))」という径路を日本軍が侵攻するのだろうと思い込んでいたという話もありました(実際には、道路のなかった方面から日本軍は、道路を建設しつつ侵攻したのでした)。

 日本軍がシッタン(Sittang)を攻略した後、ラングーンに向かっていた時に、トウングー方面にも日本軍部隊が置かれていたようです。ゲーム上でトウングー方面から中国軍が来ても困りますが、日本軍がそちら方面に全然戦力を割かないのもまずいでしょうから、そこらへんをいくらかルール化する必要がありそうです。




 次に、日本軍がラングーンを占領した後の第2段階の話です。

 ビルマの中国軍は、特にトウングー(Toungoo)とピンマナ(Pyinmana)で、上海での戦いに匹敵するような著しい戦闘力を初期に示した。中国軍とイギリス軍の協力関係は緩やかであった。

 第15軍は第 2 段階の重要な戦いは タウンギー(Taunggyi)-Pyawbwe(サジ(Thazi)のすぐ南)-エナンジョン(原文はYenanyaungとあるが、gが抜けている?) ラインで行われ、その後シャン州での決戦になると 予想していた。しかし、中国軍に対してはロイコー(Loikaw)とヤメチン(Yamethin:前出Pyawbweの南)で、英国軍に対してはエナンジョン(Yenangyaung)での戦闘で連合軍の主力を撃破し、予想以上にうまくいった。そして56師団によるラシオ(Lashio)攻略の快進撃は決定的なものとなった。

 戦車や自動車部隊を待機させ、主戦場が突破された時点で敵を追撃することが重要であることがわかった。このようにして、56師団のサルウィンへ川の進撃で行われたように、敵陣地の背後にある「真空地帯」を利用することができるのである。


 ここらへんの戦いについて、私はまだ全然よく理解していません。が、第56師団の快進撃(前掲地図の②)については一応うっすらとは理解していて、それをゲーム上でどう再現できるのだろうかという危惧は持っていました。

 しかし↑の文を読んで「なるほど!」と思いました。OCSでよくある、あるいはよく狙う、「敵前線に穴を開けて、予備モードにしてあった快速部隊を敵後方地帯に突っ込ませる」ということなわけですね。OCSは戦線の突破が非常に起こりやすいので後方守備部隊が非常に重要なのですが、史実では後方守備隊が置かれていなかった(置く余裕がなかった?)ということなんでしょう。

 ゲーム上では後方守備隊を置くこともできるでしょうけども、その分前線の厚みは薄くなりますから、ジレンマに立たされるだろうとは思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ人部隊の短所と長所

 以前書いてました↓の続きです。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年初頭の在ビルマ部隊の実情その1 (2023/01/14)





 史実で、ビルマでの戦闘が始まってみてから分かってきたビルマ人部隊の短所と長所について、諸資料に書かれていたのに気付いたのでその辺を。



 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)のビルマ人部隊ユニット。

unit8655.jpg


 第8ビルマライフル大隊(8 Bu)はビルマ人部隊の中では飛び抜けて頼りになった部隊だったそうですが、第3や第7ビルマライフル大隊は日本軍の攻撃の前にすぐに崩壊してしまったそうです。




 ビルマ人部隊は偵察や非正規戦闘では非常に有用だが、本格的作戦の戦闘で陣地を維持することにおいては信頼できず、したがって他の部隊にとって危険であることは明らかであった12。スミス将軍【第17インド歩兵師団長】はこのことをはっきりと認識し、ビルマ人部隊をゲリラの役割に転換するよう要請した。しかし、政治的な問題があり、ハットン【ビルマ軍司令官】は共感はしていたものの、そのような根本的な変更を行うには遅すぎると判断した。

注12. 1942年6月3日付のブルース・スコット少将【第1ビルマ師団長】からハットン中将への書簡。「ビルマ師団での我々の経験では、ビルマ連隊に入隊したビルマの原住民はほとんど皆同じように信頼できず、非常に残念なことだが、偵察と情報任務以外には決して使うべきではなかった。」 ハットン文書。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P79

 ビルマ連隊は、一、二の例外を除いて、期待はずれであった。決して勇気がないわけではないのだが、組織的な攻撃に耐えるだけの動機付けや訓練が十分でないことがすぐに判明した。したがって、彼らは防衛線に組み込まれたとしてもほとんど役に立たないばかりか、他の部隊を危険にさらすことになったのである。これにはいくつかの理由があった。一つは、イギリス人将校の不足である。もう一つは、ビルマ人の伝統的な戦闘方法は、森の安全地帯からのゲリラ活動であり、それは彼らが得意とするところであった。このことは開戦後すぐにわかったが、ビルマ人部隊の役割と組織を変えるには、政治的にも軍事的にも遅すぎたのである。もう一つの主な理由は、政治情勢である。日本がビルマ独立運動を支持したため、イギリス側の支持者は家族の安全を心配し、この理由のために武器を持って脱走する者が増えていた。ビルマに居住するインド人やグルカ人で構成されるビルマ軍大隊は、戦闘では安定していたが、同様に家族への脅威の影響を受けていた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P344






注1:ビルマ連隊は、一部の例外を除いて、敵の断固たる攻撃に耐えられないことが判明していた。しかし、彼らはジャングルの中を自由に動き回ることができ、現地の言葉を知っているという英印軍にはない利点があった。そのため、他の部隊と一緒に旅団を編成することになり、第17師団の旅団はそれぞれビルマ連隊の大隊を含むように再編成された。
『The War Against Japan Vol.2』P39






 これはしかし、ビルマ人の名誉のために書いておけば、イギリスがビルマ人による反乱が起きないようにするために、ずーっとビルマ人をわざと兵士として任用しないようにしていた(インド人部隊や、ビルマに流入させた在ビルマインド人などを兵士としていた)ことが理由として大きく、ビルマ人達はそのことに不満を抱き、ビルマ人部隊を創設するように要求したりしていたのでした。日本との戦争が近づいてきてようやくイギリスはビルマ人から成る部隊を創設したり拡充したりしたのでしたが、訓練や装備は非常に貧弱なものでした(これは別にわざとではないとは思いますが)し、またビルマで最も多いビルマ族出身者はほとんど任用されていませんでした(つまり、依然としてイギリスは、ビルマにおける少数民族に力を持たせるが、ビルマ族には力を持たせないという分割統治を継続していたわけです。ある意味では当然のことではあるわけでしょうけども……)。



 OCS『South Burma』(仮)への反映ということで考えると、ビルマ人部隊はアクションレーティングはかなり低めということでいいんでしょうけども、移動力に関しては若干高めでもいいのかもしれませんね! もちろん、あまりに高くしすぎると本当にゲリラ戦がでてきてしまったりとかするでしょうから、微妙な高さであるべきでしょうけども。

 もう一つの考え方としては、日本軍部隊とビルマ人部隊はジャングルでの移動力コスト(3)が低くて済む(たとえば1)……というルール案もあり得るかとは思うのですが、OCSで部隊によって移動力コストが異なる例というのはぱっと思い出せない(皆無ではない……?)し、OCS『Burma II』と異なるルールが少なければ少ないほど良いとは思うので、一応「他の手段ではうまくいかない時の最後の手段」として置いておくという感じかなと思います。



 以下、情報を集積しておきます。

 【1942年2月23日のシッタン川橋梁爆破の頃、シッタン川の】東岸の橋頭堡は第3ビルマ・ライフル大隊が固めているが、相次ぐ脱走兵で崩壊寸前だった。
『ビルマ 遠い戦場 上』P2

 タボイの隣の大隊までの飛行距離は1時間、ここには第6ビルマ・ライフル大隊がいたが、これは警官を集めてごく最近に正規軍に編入したもので、全く訓練がなされていなかった。
『ビルマ 遠い戦場 上』P33

 「これらビルマ・ライフル大隊の連中は信用できない」と1月26日、ウェイヴェルはロンドンの参謀総長に打電している。常識的判断としても、これはあまりに大ざっぱな見方である。ビルマ・ライフル大隊のある者は激戦を交えているし、ハットンも指摘しているように、のちにウィンゲートの両チンディット作戦でもよく戦っている。しかし第3、第7ビルマ・ライフル大隊の兵士の中には戦闘中に脱走しようとしたり、防衛戦最後の段階で、モールメン突堤に殺到し、連絡船に乗るのに先を争い、士官に拳銃で制せられて後に回された者もいた。
『ビルマ 遠い戦場 上』P46,7



<2023/05/16追記>

 『中国=ビルマ=インド』を読んでいると、広い意味での?ビルマ人部隊の中でも高地(少数)民族と、低地ビルマ人(大多数を占めるビルマ族?)とでは英連邦軍に対する忠誠心などにかなり違いがあったことが書いてありました。

 他方、第1ビルマ師団は、低地ビルマ人と、カレン、カチン、チンといった精強な独立心に富んだ山岳部族を中心とする3個旅団から成っていた。これらの山岳部族はそれぞれ非常に独立心が強かったが、勇敢で持久力も強くイギリス軍の将校に対して好意的だった。これは1つには、イギリス軍がビルマにとどまっているかぎり、彼ら山岳部族としては低地ビルマ人の積年にわたる支配から自由でいられるからであった。これに対して低地ビルマ人のほうは、自分たちの故郷の町や村が次々と日本軍の手に落ちてゆくと、 家族の安否が気になり、自分の家は自分で守りたいという考えから次々と部隊から脱け落ちていった。
『中国=ビルマ=インド』P23



<追記ここまで>

OCS v4.3の戦闘結果表が、v4.2までと1箇所異なっていました

 今回VASSALでのプレイ中、富山のKさんとタエさんが、OCSの戦闘結果表のv4.2とv4.3では異なるところがあるところを発見されました。


unit8658.jpg


 左のオレンジ色のがv4.2(まで)のもので、右の青いのがv4.3のものです。Open1:1の13のコラムが、v4.2では「Ao1 DL1o1」なのに対し、v4.3では「Ao1 DL1o2」になっています。


 この件についてfacebook上で質問してみたところ、OCS副班長のChip Saltsman氏が答えて下さり、「この変更は意図的なものかどうかは分かりませんが、公式にはv4.3の青い方が正しいものとなります。」というようなものでした。


 青いチャートになっても、変更点はないとどこかに書いてあったような気もするのですが……。まあとにかくそういうことらしいので、和訳判のチャートのこの部分を訂正したものをアップしました。

Operational Combat Series(OCS)の物置2

 ↑の見出し「シリーズルール」の上から3つ目の、↓というやつです(一応↓を直リンクにしました)。

OCSv4.3対応チャート類和訳版(青色で戦闘結果表と砲爆撃結果表に目安となるラインを書き加えたもの。グライダー降下の定義についても追記)




 v4.3のチャートについては、対施設砲爆撃の一番左下の結果が、v4.2までは「(6)*」だったのが、v4.3では「(6)」になっているという件もあり、それも修正されています。

OCSの対施設砲爆撃表で、v4.3チャートから爆撃力1のコラムで航空阻止ができなくなった件 (2022/01/27)



 すでに和訳版を印刷されている方は、一箇所の修正だけですので、赤ペンで修正されてもいいと思います。


OCS『KOREA』5.5「マッカーサーの勝利」シナリオのバランス改善案

 OCS『KOREA』の5.5「マッカーサーの勝利」シナリオ(仁川上陸作戦シナリオ)をやってみてました。富山のKさんが国連軍、タエさんが共産軍です(私は不調につき、セコンドをやってました)。


 このシナリオ、以前はバランスは良好だと思っていたのですが、これまでの経験を動員、色々検討し、またプレイしていると、国連軍が強すぎて共産軍プレイヤーターンがまわってくる前(国連軍のダブルターン終了時)にソウルの3ヘクスをすべて国連軍が占領してしまうということになってしまいまして……(史実では4ターンかかって占領してます)。


 そこで、「どうも国連軍に縛りを入れた方がいいのではないか?」という話になりました。


 具体的には例えば……。

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 ↑で、国連軍は赤い○を付けたヘクスからも上陸作戦を行えると思われるのですが、そうするとソウルまで小河川という障害物もなく、また東進して鉄道線を踏めば、ソウルの北朝鮮軍を補給切れにしてしまうことができます(以前はそういうことは思いつきもしてなかったのですが)。

 また、以前は「仁川(インチョン)には史実通りアメリカ海兵隊で海岸強襲(Beach Assault)しなければならないんだろうなぁ……」という思い込みがあってそのようにプレイしていたのですが、仁川(インチョン)はアメリカ第7歩兵師団に任せておき、海兵隊は別の海岸に上陸して移動力の半分を使ってソウルに向かってしまった方がいいよね、など……。


 そこらへん色々考えて、とりあえず出来た案がこちら。

 揚陸(ALT)は仁川(インチョン)から1ヘクス以内でしかできない。

 アメリカ海兵隊ユニットは第1ターンに仁川(インチョン)に海岸強襲(Beach Assault)しなければならない。

 LST(戦車揚陸艦)はなし。

 国連軍側の空挺降下は禁止。

 第2ターンのイニシアティブは、釜山橋頭堡が確保されているとして共産軍に+2修正を与える。第3ターン以降は修正なし。

 共産軍のセットアップに予備マーカー1個を追加する。



 これで試してみたところ、国連軍の部隊を上陸させる能力が足りず、上陸させられない部隊が続出する中、ソウルを1ヘクスも占領できませんでした(^_^;





 そこで、LST(戦車揚陸艦)はなしではなく、第2ターンの増援とすることにしました。また、この時のプレイの反省として、ソウルの北の道路に航空阻止をしておけばむざむざソウルに北朝鮮軍の部隊を入れられることもなかった、ということでした。

 で、今回での最終案がこちら。

 揚陸(ALT)は仁川(インチョン)から1ヘクス以内でしかできない。

 アメリカ海兵隊ユニットは第1ターンに仁川(インチョン)に海岸強襲(Beach Assault)しなければならない。

 LST(戦車揚陸艦)は初期配置にはなし。第2ターンの増援とする。

 国連軍側の空挺降下は禁止。

 第2ターンのイニシアティブは、釜山橋頭堡が確保されているとして共産軍に+2修正を与える。第3ターン以降は修正なし。

 共産軍のセットアップに予備マーカー1個を追加する。



 これでまた試してみましょうということで。


 あるいは、国連軍側にとって不利になるような何らかのルールを失念している可能性もあり、そこらへんのチェックも重々必要だとも思われます。


OCS『Burma II』の疑問点をfacebookで質問してみました & 私家版和訳を改訂しました

 先日のOCS『Burma II』のプレイの際に、いくらか疑問点が出てきたのでfacebookのOCSグループで質問してみました。


 『Burma』のHead Playtester & ProofreaderであったPerry Andrus氏が回答して下さり、OCS副班長のChip Saltsman氏はAndrus氏に「『Burma II』関係の質問はあなたにお任せします」と書き込まれていたので、事実上公式的な回答かと思います。



1.『Burma II』のシナリオにはそれぞれ、「Ground Condition(地面の状態)」(ショートシナリオ1にだけは「at start」と付けられている)というシナリオ情報があり、「Normal(通常)」や「Mud(泥濘)」とあったりします。一方、天候は第1ターンからダイスを振って決めることになっています。

 この「地面の状態」の指定を私は「第1ターンの地面の状態だけは指定する、ということだろう」と思ったのですが、facebookで質問したところ、「直前のターンの地面の状態」だということでした。『Burma II』の天候表は「直前のターンの地面の状態とそのターンの(ダイスを振って決まった)天候によって、そのターンの地面の状態を決定する」という仕組みになっているので、そのために使用するわけですね。





2.『Burma II』では飛行条件が「制限あり」になった場合「自軍航空基地から自軍航空基地への航空輸送任務だけを行える」ということになっています。疑問に思ったのは2つ。「航空基地(airbase)には滑走路(strip)も含むのか?」と、「警戒空域は有効なのか?」。回答は「stripは、特別ルールで記述されていない限りairbaseに含む」「警戒空域は有効だ」ということでした。警戒空域が有効であれば、警戒空域内への航空輸送は対空射撃を受けますし、警戒空域内へのハンプディバージョンは行えません。





3.『Burma II』の3.5cにはこうあります。

3.5c 積み荷の制限  OCS 14.10a【SPと小さな“パラシュート”マークが付いている戦闘ユニットだけが、空挺降下できます。(例外:14.10eにより、航空輸送を行えるすべての戦闘ユニットはグライダー降下できます)】に従い、連合軍の戦闘ユニットは(チンディット部隊も含めて!)空挺降下【パラシュート降下】を行えません。ですから、SP以外のすべての積み荷の空挺降下任務は、グライダーを使用してグライダー降下しなければなりません。


 ところが、連合軍には2つの「パラシュート」マークの付いたユニットがあります。これらはパラシュート降下できるのか? 回答は、これらの2つのユニットもパラシュート降下できない、ということでした。

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4.ショートシナリオ3「メリルズ・マローダーズ」のシナリオ特別ルールの5)を見ていると、連合軍の増援と補充、日本軍の増援に関しては言及があるのですが、日本軍の補充についての言及がありません。「日本軍の補充はない」と解釈するのが当然だとも思いますが、同時期のマップ西半分を扱っているショートシナリオ2を見てみると日本軍は補充のうちの「6-7」のダイス目の分を受け取らないと指示されているので、この分を受け取っても良いのでは? と書いてみました。するとPerry Andrus氏の返答は以下のようなものでした。

 この質問に答えるのはためらわれます。なぜなら、「6-7」の目で得たユニットは、チンディット部隊に踏まれてしまった重要な鉄道路線を確保するのに苦労している日本軍戦線に行く可能性が高いからです。


 とすると、公式な返答は難しいが、ゲーム的にまずいことになる可能性が高いからやめておいた方がいいのではないか、ということではないかと思われました。なので、とりあえず「日本軍の補充はない」とするのが良いのではないかと思われました。





5.これはfacebookで質問はしていないのですが……。『Burma II』の私家版和訳では、レド公路について以下のように記述していました。

レド公路(A35.35に繋がっている全天候道路)は、鉄道輸送力が3の「鉄道」として扱います


 この日本語文だけを読むと、「全天候道路としては扱わず、鉄道としてのみ扱う」とも解釈できるような気がしました。原文を確認したところ、「same as」とあるので、「「鉄道」としても扱います」と表記した方が良いと思いました。





 『Burma II』の私家版和訳を、これらの回答等を反映して改訂しました。↓に置いてあります。

『Burma』リプリントバージョン


 また、疑問点やミスなどを見つけられたら、気軽にご連絡下さい。


ビルマ攻略戦の第15軍司令官として、略奪行為などを禁じた飯田祥二郎中将について

 以前、↓というのを書いたのですが……。


日本軍は中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した? (2023/01/13)


 後になって、文からして略奪を禁じたのは第15軍司令官であった飯田祥二郎中将(最終階級も中将)だったのだろうなと思い至りました(^_^;

 中隊長から【ビルマに侵攻する予定の】15軍の厳しい命令の詳しい説明があったのは、タイ・ビルマ国境を通過したときだった。このとき、特に注意されたのは、中国での地域住民との愚行と失敗を繰り返さないよう、ビルマでは慎重に自重して行動せよということだった。そのため、日本兵が単独でビルマ人の家に入ることは禁止、住民からの食料と資材の購入は曹長以上の指揮のもとに行われ、略奪・収奪は厳禁だった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P21





 飯田中将については、これまで読んでいた本では大した情報を得られていなかったのですが、『隠れた名将飯田祥二郎』という本があるのを認識し、検索していたら大阪市立図書館にあるのが分かったので借りてきてみました(古本が高すぎたので。他に『ビルマ 遠い戦場』(中)(下)の古本も高すぎ、図書館にあったので一緒に借りました)。







 この本は飯田中将を褒める立場から書かれている(そうでない記述も少しはありましたけども)ことが明らかなので、そこらへんは少し割り引いて考える必要があるかもしれませんけども、これを機会に飯田中将についてとりあえずまとめてみようと思います。



Iida Shojiro

 ↑飯田祥二郎中将(Wikipedia「飯田祥二郎」から)




 まずは、以前収集できていた他の資料からの記述。

 日本軍の侵攻部隊の中心である飯田第15軍の第55師団は、1942年1月20日早朝にミャワディとパウクでビルマへの国境を越えた。飯田は歩兵畑で、地味ではあるが安定した評価を受けていた。彼は第4近衛連隊と第2近衛師団【実際には第2ではない近衛師団】の指揮官を経て、台湾やインドシナでの軍務経験があった。辻【政信】は彼を「真面目な人物で、(1941年7月からの)マレー作戦の【準備の】最初の2ヶ月間の計画の責任者だったが、山下と交代させられ、代わりに第15軍でのビルマ攻略というより地味な任務を与えられた」と評している。陸軍省は、山下の優秀さはマレーとシンガポールでより必要とされ、飯田の劇的でない資質はラングーン攻略の任務には十分であると考えたのだ【注23:出典は辻政信の『シンガポール攻略』の英訳版】。しかし実際には、飯田のビルマへの素晴らしい歩兵電撃戦と敵である英軍の急速な敗走は、後から考えると彼の才能が実際に与えられたよりもはるかに高く評価されるべきであることを保証するものであった。
『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』P112,3








 辻政信による評は、『隠れた名将飯田祥二郎』では褒めていることになっています(^_^;

 飯田の人物と力量に対しては、上司上官などに対して遠慮会釈のない批判を浴びせている名物参謀辻政信も、かれ飯田が謹厳実直で職務に忠実な将官であったと高い評価を与えている。また飯田の下でビルマ進攻時の参謀をつとめ、のちに大本営参謀に転じた竹下正彦も、飯田に対して、冷静・合理的で名を求めず勇気をもって是と信ずることを主張した知将であったという印象を述べている。
 竹下はまた飯田の後姿の中に、日露戦争当時の名将・乃木希典の姿に共通するものを見ている。これは決して偶然のことではない。というのは飯田の父飯田俊助は乃木の率いる第3軍麾下の師団長として日露戦争の奉天会戦を戦った経歴をもち、同郷人ということもあって、乃木と個人的に親しかったことが知られているからである。
 飯田とコンビを組んで一時期15軍参謀長を務めた片倉衷は、切れ者で政治家肌の軍人として知られているが、飯田に対して軍司令官としてはやや重厚さと威厳に欠けていると評している。しかしこの批評は、片倉がみずから恃むところはなはだ強い大変な自信家であったことを考慮せねばならない。また比較した相手が名将として広く知られている山下、今村両将軍なので、これもまた相手が悪かったと考えるほかない。
『隠れた名将飯田祥二郎』P11~13



 片倉衷による評に関しては、原文らしきものがこの本の後ろの方にありました。

 片倉は飯田と対面したときの印象として、「幕僚型の将軍で人物がよく智謀多いが、将に将たる大雅量の風格なく寺内【寿一大将】板垣【征四郎大将】山下【奉文大将】の諸将に及ばず。しかし同期【陸士20期】の吉本【貞一大将】木村【兵太郎大将】と比較すれば同期中の俊才」と冷静な判断を書き遺している。
『隠れた名将飯田祥二郎』P179



 ↑この片倉衷による文が、2022年に出版された『牟田口廉也とインパール作戦』(牟田口廉也をかばう(褒める?)という趣旨で書かれたと思われます)では、飯田将軍をけなす意味合いで引用されています。



 飯田軍司令官と牟田口師団長は熊幼の先輩と後輩の仲だったが、歳は同じだった。熊幼、陸軍士官学校では飯田が二期先輩に当たる。飯田は山口県出身で、父は飯田俊助陸軍中将男爵である。騎兵隊に入り、戊辰戦争で戦い、日露戦争では奉天会戦において第一師団長として指揮を執り、勇名を馳せた。そんな父を持ちながら、飯田は将たる器ではなく、「幕僚型の将軍」などと言われていた(片倉衷『インパール作戦秘史-陸軍崩壊の内側』経済往来社)。
 牟田口はそんな飯田とは反りが合わなかった。特に第18師団を率いてビルマへ転進、マンダレーへ進撃した際には、飯田が第18師団に替えて第56師団を先に前進させ、しばしば軍司令部の位置が相前後する事態も起きた。このため、牟田口は軍司令官の督戦、すなわち攻撃進展が遅いと非難されたと感じた(読売新聞社編『昭和史の天皇9』読売新聞社)。これはもともとあった感情的な疎隔をさらに招くことになり、牟田口は飯田のことを信用できなくなっていた。この二人の仲がうまく行っていないことは当時、南方軍でも有名な話だった(片倉『インパール作戦秘史』)。
『牟田口廉也とインパール作戦』P138,9


 まあ↑の文だけ読むと、飯田将軍が悪者で牟田口将軍は被害者であるかのように思われますが、この件に関して、『隠れた名将飯田祥二郎』ではこのように書かれていました。

 【仏印進駐の時期の飯田の日誌に】のちのビルマ進軍以降に密接な関係となる牟田口廉也の名前もしばしば現われるが、両者の信頼関係はこの時期から今ひとつだったようである。
『隠れた名将飯田祥二郎』P118

 新来の18師団はその後ラシオからシャン高原方向に進攻の矛先を向け、一時ケンタンへ進出しようとした。 師団長牟田口廉也は、従来から積極論者として知られていたが、飯田は日録において、この師団の動きを「やや積極的に過ぎる」 と書き記して懸念をあらわにしている。飯田のもった懸念は、当時同盟関係にあったタイ軍がケンタンからマンダレー方向への進出を図りつつあったので、これとの干渉がおきることを心配したためもあろう。また進攻作戦の途中で、軍とこの師団との間で行き違いがあったことが記録されている。
 日華事変中からマレー半島進撃、さらにビルマに転職してからの牟田口の豪勇ぶりとそ の勝ち方には定評のあるものであった。かれがこれらの経験からいささか神憑り的な「必勝の信念」をもつに到ったのも故なしとしない。
『隠れた名将飯田祥二郎』P167,8

 ビルマの中心部にあり、しかも王宮があるなど歴史が古く重要な都市であるマンダレーには、5月1日に18師団とともに55師団の一部が進攻し占拠した。飯田が同日夕刻に同市に入ったとき、ちょうど現地の水祭りの日に当たり市民たちの歓迎を受けたことが記録に残されている。このときも飯田は師団長牟田口と会見してその労苦をねぎらった。ただし牟田口は軍司令官自身が督戦のため来たのではないかと思ったという。
『隠れた名将飯田祥二郎』P171


 もちろん、どちらかの本の方が正しくて、片方は間違っているというものでもないものだと思います。


 また、飯田将軍がビルマのバー・モウアウンサンから評価されていたことも書かれています(飯田将軍はアウンサンの結婚式の仲人をしたそうです。その娘がアウンサンスーチー氏となります)。

 飯田のいま一つの大きな貢献は軍政面において見られる。かれはビルマ民族自身による独立を早期に達成すべきであると考えていた。これは一つにはかれが中国戦線において現地住民の「敵性」に悩まされた経験によるものであった。また一部日本人の利権漁りの行為にも批判的であった。それだけに、ビルマの軍政においても現地人指導者を活躍させることに意を用いた。このようなかれの軍政に対する姿勢は、戦後もビルマ側の指導者であるバー・モウ、アウンサンらによってもある程度評価されている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P18


 バー・モウによる評については、その文が引用されていました。

 バー・モウのこの著書【回想録『ビルマの夜明け』】の中には、飯田についてつぎのような記述がみられ、しばしば引用されている。
「幸運にも私は、軍司令官飯田と親密で暖かい関係にあった。かれは日本軍人の中では独特の性格をもち、人間的・父親的で理解に富んでいた。見かけは軍国的であるが、中身はそうではなかった。少なくともかれは相手側の立場からも物事を見ようとした。この点でかれは他の軍人たちと異なっていた。戦争の勝ち負けには多くの原因があるにせよ、全人民の敵意と抵抗をわき起こすことが、もっとも確実に敗北につながるということを充分わきまえていた。かれ飯田は、天皇と軍とその規律と国家に対して神秘的とも言える献身の点では武士であった。しかしかれのこのような献身は、同時に他の人々の同様な献身を理解し得るものであった」
『隠れた名将飯田祥二郎』P196





 あとは時系列で、飯田将軍のキャラクターが垣間見える文を引用してみます。

 その後飯田は、いったん仏山に帰還したのち昭和14年9月近衛師団長に任命され帰京することになった。近衛師団は、通常宮城 ― 皇居の警護を任務としていたもので、将校はもとより兵士に到るまでこの師団に選ばれることを名誉としていた。それだけに規律は厳正で、礼儀や服装などについても他の陸軍部隊より厳しく律せられていた。
 飯田がこの師団を預かる事になったのも、かれに対する信頼が然らしめたものであろう。かれは在任中に、当時の皇太后陛下 ― のちに貞明皇后と呼ばれた大正天皇の皇后・昭和天皇の生母 ― の信任を得て、度々陪食の機会を得るなど宮中の信頼は厚いものであった。
『隠れた名将飯田祥二郎』P96

 【1941年】10月に入って情勢は一段と緊迫することになった。10月1日岩畔豪雄 (30期)、辻政信両参謀が飛来した。 岩畔は以前は対米交渉にあたっていたが、開戦当時は近衛師団の連隊長として飯田の麾下にあって、全軍のさきがけとなってタイ国へ進駐することになった。のち25軍に転じてシンガポール攻略戦に参加して負傷し、そのあと対インド諜報機関 (光機関)の長となり、戦争末期には28軍参謀として桜井省三とともに戦争の最終段階でシッタン渡河作戦において活躍した。
 飯田は岩畔、辻両名から日米交渉が難航していることを聞いて落胆した。がしかし同時に両者が携えてきたマレー半島への進攻計画をみて、そのあまりの勇壮さに驚きを隠せなかった。しかしシンガポール攻略という破天荒な作戦を成功にもって行くためには、辻が中心となって基本案を作成し、のち実際に具現されたような放胆きわまる計画を採用して強力に推進するほかないであろうというのが、結局、飯田も同様に抱くようになった結論でもあった。ちなみにこの時点では、飯田はまだマレー作戦を担当する軍司令官であり、飯田が辻の持参した原案に対してかなりの修正を施したことが記録されている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P119

 【1941年】11月9日、当時の著名な少女小説作家・吉屋信子が飯田を訪れ30分ほど対談を行ったことが日録に記されている。その折の会話の内容は、吉屋の随筆「仏印・泰国の十二月 八日前夜」のなかで紹介されている。吉屋は軍の飛行機でハノイからサイゴンに飛んでいるが、ハノイは肌寒かったのに対してサイゴンは暑く、町中が日本軍の車両や兵隊で満たされていたと書き留めている。
 飯田は会談のとき、「白人種の中で日本軍が威風を増すためには、当方の毅然とした態度が大切である」旨を語ったと伝えている。それまでアジア人がヨーロッパ人の支配下に甘んじていた植民地にあっては、このような態度も必要と感じられたのであろう。
『隠れた名将飯田祥二郎』P124

 飯田が南方軍編成を正式に知らされたのは【1941】11月5日のことであった。 日録には「予期されしことなるも感無きにしもあらず」とそのときに受けた強い感懐について述べている。11月6日に、開戦の暁にはタイ・ビルマ方面の作戦を担当するため15軍が創設され、飯田が軍司令官に親補された。それまでかれの隷下にあった第25軍はマレー方面の作戦を担当することになった。その新任の軍司令官は言うまでもなく山下奉文 (18期)である。山下と参謀長鈴木宗作 (24期) ― のちレイテ島で戦死し大将に昇進 ― は11月中旬にサイゴンに到着した。
 しかし公式には15軍の存在は秘密とされ、表向きには従前通り25軍が活動していることになっていた。従って山下と鈴木は、飯田と同一の司令部に起居していたが、表面上は飯田が用事もないのに司令部に出勤して指揮を装い、内実では山下らが隠れるように建物に閉じこもって、密かにマレー作戦の計画を練るという奇妙な姿がしばらくの間続いた。飯田は、自分の指揮下から離れた部隊に通うことにいささか後ろめたさを感じたりしていて、この頃のことを案山子出勤とやや皮肉をこめて表現している。
 この時点で、飯田の率いることになった15軍麾下の2個師団は、はるか遠くの華北・徐州と四国・善通寺から移動中であり、近衛師団もやがては25軍に配属されることが決定していた。従って15軍は南部仏印進駐以来の諸部隊はいずれも他軍に転属されて、 徐州にあった33師団を除くと、55師団を始め新たに編成された部隊から成っていた。参謀辻政信は、かれの立てた作戦計画に対して飯田が示した高い評価に感謝するとともに、飯田がマレー作戦という重要で名誉ある任務を淡々として山下に譲ったことに対して感銘を受けている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P125,6

 しかしマレー方面の戦局が予想以上に順調に進展するのを見て、大本営の意向は急速に変化し、南方軍や15軍に対して、ビルマへの早期進出を指示することになった。そのさきがけとして開戦論者の一人であり、かつビルマ作戦についても積極論者として知られる大本営参謀服部卓四郎が早くも12月21日にバンコクにあった飯田の下に赴いてこのような方針を伝達した。
 この時期から、飯田をはじめとする15軍の態度は、参謀本部や南方軍からしばしば積極性を欠くと見なされ始めていた。また本人も認めているように、飯田はいったん決心すると容易に変更せず、上級指揮系統に対しても正論を主張する傾向があると見られていた。このような飯田の姿勢が、積極論が通りやすかった当時の陸軍統帥部において低い評価につながり、結局は方面軍司令官や大将への昇任が見送られる理由になったのであろう。
 戦史やあるいは飯田の日録をみて印象付けられるのは、上級司令部と15軍の間の見解の齟齬についての記述である。参謀本部と南方軍はしばしば早期の攻勢開始司令部の前方進出を指示し、それに対して15軍は現実に即して慎重論を唱えた。

『隠れた名将飯田祥二郎』P148

 飯田もこの【ビルマ侵攻作戦の序盤の】時期、ビルマ国境に近いタイ国内のラーヘンに軍の戦闘指揮所を前進させた (【1942年】1月17日より2月2日まで)。この移動はビルマ進攻を呼号する南方軍の意向を受けたものであろう。ラーヘンは山間にある人口三千程度の現地ではかなり大きな町であったが、 しかし前方のみならず後方にも難路を控え、通信連絡などの施設も整備されない村落で充分な指揮が執れないのも当然なことなので、やがてバンコクに戻ることになった。
 しかしその翌日の2月3日には南方軍 ─ 前述の通り当時はまだサイゴンにあった ─ が電報によって、軍司令部のモールメンへの進出を促した。その後もこのような事でしばしば上級司令部と意思の円滑な疎通を欠いて、飯田も度々憤慨する破目に陥ることになる。
『隠れた名将飯田祥二郎』P153,4

 シンガポール攻略戦が完了したので (2月15日)、ほぼこの時期から航空勢力がビルマに移動して制空権を確保することができ、日中の行動が可能になった。それまで攻撃部隊は、昼間は密林の中に隠れて夜間に行動することを余儀なくされていた。
 この時期の飯田について、時の15軍参謀竹下は次のように回想している。
「兵力我に倍する英印支の連合軍に対して決して生易しい戦をしていたわけではなかった。当時制空権はまだ敵側にあったので、日中は深いジャングルの中に隠蔽・分散してテントを張りその日を送っていた。軍司令官飯田は副官と二人で起臥していたがいつも平常心をもって全軍を統率していた」
『隠れた名将飯田祥二郎』P156

 当時の陸軍の中国戦線あるいは南方進攻にあたって、しばしば現われたのは「一番乗り」争いであった。飯田はこのようなことから起きる弊害をも配慮してラングーン入城にあたっては、両師団から代表的な部隊を同時に入らせることを指示した。しかしある33師団の将校子田市郎の著書によれば、それでもかなりの競争があって、結局33師団の方が先着したという。
 また飯田は大部分の兵員を都市に入れずに郊外に留め置いたが、これは次の北方に向けての進撃に備えるとともに、中国戦線における住民とのトラブルなどの苦い経験から来たものであった。ラングーンにおける入城式が陸軍記念日の3月10日に行われたという記録もあるが、これは正式なものでなく小部隊行進とビルマ総督官邸への日章旗掲揚といった程度のものであろうと考えられる。
 飯田は3月9日夕方、日本軍の進出の翌日にラングーンに到着した。その日に市内を巡視しているが、その翌日の「入城式云々」についての記述は日録には見当たらない。ラングーン市内はそれまでの日本側の爆撃によってかなり破壊されていたが、飯田はこのとき被爆した市街地の惨状を視察して、無差別的な爆撃に対して批判的な意見を吐いている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P157,160,161

 しかし以後の戦局は、あたかもこのような時間的制約にあわせたかのように順調に展開することになった。地図に示すように、55師団は鉄道と街道に沿ってトングーを経て最大の目標地マンダレーに向かい、33師団はプロームを経て最大の油田地帯エナンジョンに向かって進軍した。
 ここで55師団の向かった要衝トングーにおいて、正面に立ちはだかったのは中国から派遣された軍勢であった。杜聿明【トイツメイ】(1905-1981)に率いられた中国第5軍下の200師団は、蒋介石直系の精鋭部隊であり、当時重慶軍と呼ばれていた中国国府軍の中で、もっとも装備が良好で志気も高かった。
 飯田の日録にも中国軍の抵抗により55師団が難戦を続けたことについての記録とともに、師団の指揮ぶりにも問題ありとしている。同様な不満は、ラングーン攻略以前から 同師団が消極的で進攻速度が鈍いことなどについての記述が散見されているが、やがて参謀長・連隊長などが交代し、最後には師団長も代ることになった。
 これに対して33師団に対する感想が日録に記されている回数は少ないが、 これはその戦闘ぶりに満足していたためと考えられる。しかし桜井もラングーン陥落の直後、戦車にはほとほと閉口したと飯田に報告したことが日録に見える。桜井はその後に戦史に残る対戦車戦を経験することになるが、それまでの戦車相手の痛切な経験が役立ったものであろう。
 トングーにおいては3月26日から4日間にわたって激戦が続けられた。中国軍の戦意は非常に高く、中国大陸戦線ではほとんど経験したことのないものであったことが当時の参謀の残した記録 ― 前述の竹下のほか55師団参謀河内稔(42期)などの手記 ― からも読み取れる。味方の攻撃は先方の頑強な守備と反撃によって停頓していた。飯田も相手方の抵抗は敵ながら天晴れとその健闘ぶりを讃えている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P165

 飯田は、7月6日になって軍司令部を再びラングーンに移した。これはビルマ全土の攻略が終了したので、全土の軍政を有効に図ることを目的としたものであったが、しかしまたもや、はるか怒江対岸に退却した中国軍に対して加える圧力が減退することを憂えた南方軍の不興を招いたという。
 【……】
 それまでの戦局があまりに順調に進行していたために、陸軍首脳部の間でも戦局が峠を越したという楽観論がはびこりはじめていた。しかし飯田は決して楽勝ではなかったここまでの戦闘の経過と、連合国側の実力を知悉している人間の一人として、このような安易な考え方に対して強い警戒感を抱かざるを得なかった。

『隠れた名将飯田祥二郎』P167,7

 飯田、桜井【第33師団長】両者間の個人的な関係を裏付ける資料は不足している。日録をはじめとした 諸記録にも桜井の名前は頻出するが、感想あるいは批評に類するものは見当たらない。桜井の伝記(上条彰著)にも両者がともに戦った時期の記述は短いものとなっている。しかしいくつかの傍証から、両者の間に密な信頼関係があったことが窺われる。桜井は飯田より陸士の三期後輩であったが、「聖将」と仰がれることの多かった人格者の桜井に対して、飯田がある種の距離感をもっていたのではないかと感じられる節が見られる。
『隠れた名将飯田祥二郎』P184

 しかしよく知られているように、【占領国を独立させるかどうかについて】日本側にもいろいろの考え方があった。中には中国戦線などにおいてしばしば見られたように、「粛然とした軍政」の下に現地官民が一致して皇軍に全面協力するのがあるべき姿と考える人々もあった。
 この中にあって、飯田のとった立場は、当時の陸軍将官の中にあっては、もっとも現地人側の立場を尊重したと思われる種類のものであった。飯田は、事実上の敵地と化してしまった中国本土における経験から、現地住民の支持を得ることが戦争遂行の上に如何に重要なものであるかということを充分に承知していた。かれはまた、満州あるいは華北において進められていた日本人による開発方式に対して批判的な立場をとっていた。
 飯田のもっていたこのような意見は、いくつかのかれの書き遺したものの中に含まれ、その多くが戦史叢書はじめ多くの書物に引用されている。その代表的な部分を一ヶ所だけ ここに引用したい。
「軍政の実施にあたり心配したことは、満州や中国で行なったやり方を、根本において違うところがあるビルマにそのまま持ち込みはせぬかということであった。ビルマではそれまでの町村制を復活させねばならなかったのに、軍人で頭の転換ができない者がいるのはまだしも、司政官として来た人が満州式や支那式で占領行政をやるつもりでかかるので嘆ぜざるを得なかった。日本がビルマの資源活用を図るのは当然としても、ビルマ人に譲りえるものは移譲する方針の下に準備したかった。たとえばシャン州を日本に割譲させようという考えを持つ人には強く反対した」
 飯田の現地人に対する態度は、そのほか例えば敵性華僑の取り扱いにおいて現われている。シンガポールにおいては、大本営からの指示と称するものに従って厳正な処断が行われたが、ラングーンなどにおいては逮捕した敵性華僑をビルマ・中国国境から中国領内に向けて放逐するなどの方法を採っていた。相手側の「敵性華僑」からしてみれば、これは正に歓迎さるべき措置であったろう。

『隠れた名将飯田祥二郎』P188,9

 この時期に、陸軍部内の大異動が行われ、飯田は【1943年】3月付けで参謀本部付になり帰国することになった。この異動は二十一号作戦をはじめとしてインド進攻を狙いとした作戦に対する飯田の消極的態度が陸軍中枢部の不興を招いたものと考えられている。もとより飯田が引き続いて在職していれば、のちのインパール作戦についても最大限反対したであろうが、当然ながらこれは当時の中枢部の容れるところとならなかったのであろう。
 片倉はその著「戦陣随録」のなかに、方面軍の新編成についてのいきさつを簡潔に記している。それによるとこの方面軍編成は片倉の建言によるもので、3ヶ軍10個師団を構想したものであった。しかし河辺の赴任はまさに東条人事であると指摘し、全陸軍がこれによって東条一色となることを憂えている。まさに河辺【正三】とこの次の木村【兵太郎】の着任はこのような現われの典型といえるものであった。
 【……】
 新たに編成されたビルマ方面軍の司令官には、前述の通りそれまで中国派遣軍総参謀長であった河辺正三が親補されて、15軍司令官の飯田の後任には牟田口廉也が着任した。これとほぼ同時に33師団長の桜井は機甲本部長に転じた。飯田・桜井両者は同一の飛行機に乗り合わせて内地に帰任したという。ここで桜井の転任には栄転の意味があったが、飯田の場合にはそれとは異なった意味で離任することになったものである。
『隠れた名将飯田祥二郎』P207,8



 今後も飯田将軍に関する記述(特に貶す方向のもの)が見つかれば追記していこうと思います。

 とりあえず今の感想としては、恐らく飯田祥二郎将軍は良識のある優れた司令官であったと思われるのに、とにかく積極果敢であることを求める(積極果敢であれば何でも許され、そうでなければ何でも非難される)陸軍中央部の意向に合わず、実質左遷されたらしいことは残念という他……。



 あと、飯田中将が第15軍司令官であった間は、ビルマでの日本軍の軍規はある程度以上厳正であったんだろう(尤も、残虐行為が皆無であるという保証はもちろんないわけです)と思うのですが、飯田中将がビルマから離任した後の拉孟・騰越戦の時期には日本軍兵士による結構な残虐行為が発生していたことをとある資料で知りました。そこらへんはまた、(最初に挙げていた)↓に追記するつもりです。

日本軍は中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した? (2023/01/13)


OCS『Burma II』「メリルズ・マローダーズ」シナリオ序盤連合軍の指針

 ツイッターに書いてましたように、OCS『Burma II』のショートシナリオ3「メリルズ・マローダーズ」を初めて、富山のKさんとプレイしてみました。













 またプレイする時のために、私が担当していた連合軍側の反省点、指針的なものを書いておこうと思います。

 まずは、↓の画像で。

unit8661.jpg



 連合軍側も全然SPが足りない感がありましたので、無駄遣いにならないように気を付け、しかし本当に必要な場所とタイミングではSPの大量消費も許容するというバランス感覚が求められると思います。

 中国/アメリカ軍は基本的に大量の中国軍ユニット+アメリカ軍ガラハッド部隊の高いアクションレーティングで攻撃をかけることにならざるを得ないと思うので、攻撃のタイミングまでにはSPを蓄積しておかなければなりません。フーコン谷方面で、司令部を移動させて攻撃を実行できるようになるのは、早くて4ターン目と思われます。また、戦闘機は分散配置すると整備費がかかるので、(警戒空域は諦めて)レベル2航空基地の方に集めておいた方が良さそうです。

 あと、一番東にいるガラハッド部隊の2ユニットには、中国軍ユニットを1つは付けた方が良いのかも、と思いました。


 チンディット部隊はLowになってでも攻撃、という選択肢は大いにあるところですが、SPを倍返ししなければならないのは大変きついです。しかし必要ならば思いきってやり、(日本軍に2VPを献上する)ハンプディバージョンも最初は結構やるべきなのではないでしょうか。



 あと、細かいこととして……。

 レド公路の建設の「+1:同じヘクスにある工兵ユニット1個毎に」というのは、「Road」と付いている工兵も、普通の工兵も全部数えます(3.9aの例から)。工兵ユニットは建設したターンは移動できませんし、移動したターンは建設できないので、

・「Road」付きと「Road」なしの2個工兵ユニットを1ヘクス×2で、ジャングル(軽障害)なら必ず成功します。が、沼や山岳(共に中障害)では成功率が下がるのですが、全4ユニットでやれば必ず成功します。

・「2スタックの移動だけ」→「2スタックの建設だけ」→「2スタックの移動だけ」か、「1スタックは建設、1スタックは移動」の繰り返しかの方法がありますが、どちらにしてもペースとしては「1ターンに1ヘクスの延伸」になります。沼や山岳ではペースが半分になるかもです。



 シルチャールホールディングボックスの航空基地(1つのみ使用可)は、整備はノーコストでできますが、無限のSPはありません(OCSではホールディングボックスには無限のSPがあることが多いので注意が必要です)。無限のSPはむしろ、ハンプディバージョンで1D6分のSPを得ることによって得られます。


 チンディット部隊のための滑走路(Strip)を建設した第823工兵大隊は、鉄道線を実戦部隊が確保した後そこにいって1Tで滑走路を建設するのが良さそうです。1SPで航空基地を建設することもできますが、コストの大きさに見合うメリットはないでしょう。もしそれらも建設し終わって、チンディット部隊方面で用済みであるならば、輸送機でレド公路方面に運び、そこで工兵部隊の+1修正を得るために活用するという方法もあるかもです。その場合、オプションの「XYZ輸送任務」を採用していないならば、輸送機が滑走路まで飛んでそこで非活動状態になり、1Tを払って整備して、工兵大隊を空輸することになります。


 あと、フーコン谷方面には中国軍の戦車部隊ユニットが3つありますが、平地に出るまでは基本的に役に立たないと思います。なので予備マーカーを乗せて放っておくか、あるいはアクションレーティング3を提供する(2や1の中国軍ユニットに)くらいかなぁと思われました。



 日本軍側を担当された富山のKさんに聞いたところでは、チンディット部隊によって鉄道線を切られてしまった場合、ミイトキーナやフーコン谷方面へのSPは、ミイトキーナから南に延びる道路上を2Tトラックで運ぶしかないらしく、そこを航空阻止されるとすごくイヤだということでした。連合軍側としてはそれをしても良いのかもですし、整備費をケチるために何もしないというのもありでしょうし、あるいは制空戦闘や、対施設砲爆撃で航空基地を狙う(航空基地上で敵航空機の破壊を狙う)というのもありだと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ戦の時の日本軍の各歩兵師団の進撃速度

 『隠れた名将飯田祥二郎』を読んでいましたら、ビルマ戦の時の日本軍の各師団の進撃速度についての表がありました(P167)。








unit8665.jpg


 ↑の「日平均進度」というのを、OCSのスケールに合わせるため、x3.5(1ターン3.5日なので)÷8(1ヘクス約8kmなので)して、1ターンに何ヘクス進んだかを計算してみますと……。

第55師団 1ターン7ヘクス
第33師団 1ターン8.75ヘクス
第56師団 1ターン17ヘクス
第18師団 1ターン12.7ヘクス

 第56師団はシンガポール戦に参加した時に鹵獲した多数の自動車を利用していたので、実質は「自動車化歩兵師団」のようであったようですが、他の師団は徒歩移動ではないかと思います(第18師団もシンガポール戦でいくらか自動車を鹵獲していたり、第55師団と第33師団もラングーンとかで自動車などを得たという可能性もあるかもです。まだそこらへんまでちゃんと調べられていません)。

 あと、第18師団の師団長牟田口廉也はとにかく師団を急がせまくったという話があり、また戦闘回数も少なくすんでいますし、ゲーム上1/2移動力で進める二級道路を割と利用できたということもあるかもしれません。

 あと、「作戦日数」とありますが、例えば第55師団は作戦初期にモールメンで数日休止していた(というか休止しないとどうにもならなかった)という話があるのですが、そういうのも入っているかどうか。



 ただ、だとしてもすでに最初の5ターン分だけ見ても、ジャングルを(しかも航空優勢がなかったので夜間のみ)移動しているとしては驚異的な速さで移動しているっぽく、今後検証していく中で、通常のOCSの歩兵師団の移動力(戦闘モードで3前後、移動モードで5前後)では全然足りないという可能性があるのかも……と思って恐怖を感じています(^_^;


 対策としては例えば、「日本軍だけはジャングルを1移動力で移動できる(通常は3移動力)」というのはありかもですが、OCS『Burma II』との連結を視野に入れるならやりたくないところではあります……。しかし、連結はもうすっぱり諦めてしまう(マップの一部は借りるとかはあるとしても)というのもありでしょうね……。



<2023/02/07追記>

 『隠れた名将飯田祥二郎』の続きを読んでいたら、この件に関してさらに参考になることが書いてあったので、追記してみます。

 このようにビルマ進攻作戦は、他の三方面 ― マレー、フィリピン、インドネシア ー の作戦より多少遅れて開始されたが、進撃の速度が速かったため、狙い通り雨季に入る前に連合軍勢力を全ビルマから駆逐することに成功した。後年、防衛庁(当時)戦史室編纂官になった不破博(36期、一時期15軍参謀)は、この時期における15軍の韋駄天振りが、世界戦史の上でも例をみないものであったということを、数値を上げて説明している。 それを前掲の表(167ページ)に引用した(「偕行」235号・昭和46年1月)。この中で56師団の進撃速度が大きかったのは、進撃路が自動車道路でありシンガポールで入手した自動車を活用することができたことにもよる。また55師団の進撃が遅れたのは、トングー付近で中国軍のために悩まされ苦戦したことが関係している。
 参考のために、マレー作戦における進撃について、25軍の参謀、国武輝人の作戦日記から引用して同表に示した。この場合は、マレー半島における進攻の速度には非常に速いものがあるが、牙城であるシンガポール島内においては当然ながら進撃速度は急に低下して、逆に損害が急増している。
『隠れた名将飯田祥二郎』P174,176



 また、ビルマ攻略戦終了時に飯田祥二郎が感状を出した2個師団と3個連隊に関しても触れられていました。

 このとき【6月15日の慰霊祭】飯田は、顕著な功績を上げた二個師団と三個連隊に対して感状を授与した。感状は、当時の武人にとって最高の栄誉とされるものであった。師団としてその栄誉に浴したのは33師団長・桜井省三)と56師団長・渡辺正夫)であり、その麾下では33師団の歩兵第215連隊(長・原田棟(むなぎ)、27期、のち少将)と歩兵214連隊(長・作間喬宜(たかよし)、28期、のち少将)、56師団麾下では捜索56連隊(長・ 平井卯輔、のち少将)であった。
『隠れた名将飯田祥二郎』P181,2



 OCS『South Burma』(仮)を作る上では、これらの部隊は少しアクションレーティングを高目に設定してよいということかもしれません。第33師団の2個連隊に関してすでに、AR4か5で悩んでましたが、5で全然良いということかも……。

unit8664.jpg


<追記ここまで>


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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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「戦史物の物置」


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