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OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーン、現時点での4~6ターンあたりの指針

 ツイッターで書いていってますが、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のキャンペーンをVASSALで対戦していってます。富山のKさんがソ連軍、タエさんがホート、私がグデーリアンです。


 4~6ターンあたりを終えたので、そのあたりの得られた知見を書いておこうと思います。ただし私が担当しているグデーリアン関係のものだけですけども。



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 『Smolensk:Barbarossa Derailed』のキャンペーンでドイツ軍を担当する時にやっかいなものの一つが、エクステンダーをどこにいつ作るかです。私は今回、↑の画像の赤い○の位置にトラックエクステンダーを、そして黒い○の位置にワゴンエクステンダーを作りました。一つの案としてはまあまあアリではないかと思います。

 赤い矢印はトラックエクステンダーの「自動車化移動コストで20移動力+1ヘクス」の伸ばし方です。これはモギレフを落とせていないことが前提の径路であり、もしモギレフを落とせているのであればもっと東にエクステンダーを置くことも可能でしょう。

 赤い○に延びた黒い矢印が、ワゴンエクステンダーによる「徒歩移動コストで10移動力+1ヘクス」の伸ばし方です。ワゴンエクステンダーは小河川を2移動力で渡ることができるので、小河川の東側にぜひ置きたいところです。

 北西方向に延びている方の黒い矢印は、「トラックエクステンダーを外す」ために、ワゴンエクステンダーが利用できるであろう第2の径路です。そのために、マップの中央部を走る鉄道線のゲージ変換をしていかなければなりません(あと、降車可能ヘクスを作るために司令部ユニットが必要です)。


 ゲージ変換は1ターンに4ヘクスまでしかできません(OCS 13.3gのD)が、ドイツ軍には鉄道工兵ユニットが2つ増援で来ます。この鉄道工兵2ユニットを両方とも、マップ中央部の鉄道線の変換につぎ込むべきだと思われます(今回、試しにモギレフ方面に1個回して変換させてみていたのですが、意味がほとんどないことが分かりました(>_<))。

 画像の白い線が、1ターン分の変換距離です。1ユニットは当然西から変換していきますが、もう1ユニットは移動モード+戦略移動モードでスモレンスクの近くまで持っていってしまい、そこから逆方向にゲージ変換していくのが良いでしょう。ただし、スモレンスク近郊であるとか、オルシャの辺りがまだソ連軍ユニットによって保持されていることがままあるので、その分の調整が必要になるでしょう。
(また、ソ連軍側としては、鉄道工兵を航空爆撃してDGにしてしまい、1ターンに2ヘクスしかゲージ変換できないようにしてしまうというのもありかもしれません。ドイツ軍側としてはそうされないように、鉄道工兵がなるべく警戒空域内になるようにした方がいいかもしれません)


 あと今回分かったこととして、オルシャには航空基地があり、SPを航空輸送されてしまうとやっかいだということでした(一般補給を入れられてしまい、消耗しなくなってしまうので)。ヴィテブスク、あるいはオルシャの東に利用できる航空基地があるので、そこに活動状態の戦闘機を置いておき輸送機を迎撃できるようにしておくことが重要だと思いました(モギレフに関しても同じことが言えるので、マーカーで作れる滑走路でモギレフを警戒空域内にしておく、というのは一つの手段ではあると思います)。



 それから今回「失敗したなぁ」と思ったのは、イエルニャ周辺に突進した時に、予備モードの1/4移動力を忘れた挙げ句、自動車化歩兵連隊(専用トラック)を平地に置いてしまったことでした。しかも、突進させた時にはイエルニャ周辺の広大な地域に敵影がまったくなかったので全然いけると思っていたら、第3ターンのソ連軍増援としてスパス=デメンスクから3ヘクス以内に大量の増援が配置されたのです。(「ソ連軍増援到着表」を見れば一目瞭然ながら、このゲームのソ連軍の増援はマップ端だけでなく、いきなりマップ内に湧いてくるので注意が必要だなと思いました。かつてワニミさんと研究プレイしたりして知っていたはずなのですが、忘れてました(T_T))。

 結果として、あっという間にそれら自動車化歩兵連隊+専用トラックは赤い渦に踏み潰されてしまったのです……。イエルニャにはしかし、行かねばならないとは思うので、最低でも装甲師団1個、できればそれに+αぐらいを送り込むべきなのではないでしょうか。専用トラックは、踏まれて死ぬことが多いので、少し後方に置いておいた方が結局は良いような。



 今回のプレイは、それらいくらかのミスもありつつも頑張っているは思うのですが、それ以上に私は(いつもながら)ダイス目が悪くて戦力、SP、時間を大幅に失っていると思います。しかしプレイ自体は大変ながらも非常に面白く、プレイを継続していって、今後のための反省事項を収集していきたいものです。


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牟田口廉也将軍のキャラクター像について

 承前。牟田口廉也将軍のキャラクター像についてです。


牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる? (2023/01/28)



 ↑で挙げてました、↓がまず一つ。

 藤原【岩市】少佐が後年、牟田口の性格を評して「驍将の如く見える反面、気の弱い面があり、自意識過剰で思考が単純な嫌いがあった」と述べた
【驍将……①たけだけしく勇ましい大将。②中心になって力強く事を推進する人。】
『インパール作戦において牟田口廉也がインド進攻を主張し続けた要因 -ヒューリスティックとバイアスによる分析-』P46




 それから最近知ったのが、↓という牟田口の発言で、個人的には結構衝撃的でした。


 以下、(グロいため)閲覧注意です!

 【ビルマの拉孟では捕虜を生きたまま麻酔なしで生体解剖していたという記述の後】
 拉孟での生体解剖は一回きりではなかった。インパール作戦の最高責任者、牟田口廉也は「勇敢な兵士に仕立てあげるには、早く精神異常にすることだ」と言っている(品野前掲書、181-184頁)。
『「戦場体験」を受け継ぐということ - ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』P122


 この「品野前掲書」というのは『異域の鬼 拉孟全滅への道』という本で、購入して見てみたところ、↓のような記述でした。

 異常なほど捕虜をいろいろ工夫して殺すサディスティックな見習軍医もいた。高いところから落としてみたり、大きな石を落としかけたりして、致命傷の具合をみるというようなこともした。戦陣医学としては役立つデータが得られたかも知れぬが気違い沙汰としかいいようがない。牟田口中将がいった「勇敢な兵に仕立てあげるには、早く精神異常にすることだ」(後述)どおりに実践されたわけだ。その見習軍医は、学生時代に風呂屋をさがしては下宿し、番台に上がらせてもらって女風呂を覗き見するのが楽しみだったと噂されていた男だ。彼は騰越全滅で消えた。
『異域の鬼 拉孟全滅への道』P182


 で、「後述」というのでその後をいくらか探してみたのですが、関係記述を見つけられず……。細かい字で全414ページあり、全部見ていくとなると大変なので、また今後見つけたら追記するということで……。









 以下、これまでに収集していた牟田口廉也に関する記述を引用してみます。

 元来、帷幄にあって、沈思黙考するといったようなタイプではなく、勇猛果敢、孤軍重囲を破って還ってくるといった猛将タイプの牟田口は、このインパール作戦の戦場担当司令官として、自らの体験に裏付けられた戦術的結論を引き出し、断然、不退転の攻勢主義に全精魂を打ち込むに至っていた。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P356

 私はこの演習に参加して危惧の念をいだき、第18師団の池田参謀に、
牟田口さんは師団長としてはよいかも知れないが、軍司令官としては失格だ。何となれば、現代戦の要件である後方が全然わかっていない」と極言した。池田参謀もまったく同感であった。
 池田さんは、牟田口中将が第18師団長時代の後方主任参謀であったが、「中将は後方が無理解で、無理難題を幾度も押しつけられて泣かされたことがある」と述懐していた。
『回想ビルマ作戦』P70










 児島襄は、牟田口を「小心な性格」と分析したうえで、次のように述べた。
「小心な性格は、小心なるがゆえにしばしば果敢な行為を好み、著しい克己心をはっきし、また、自己にたいすると同様に他人にも厳しさを求め、性急な行動を好み、偏執的な思想傾向をもちやすい」(児島1971)。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P4,5

 軍歴のほとんどを陸軍中央で過ごした牟田口は、作戦部隊の実務に疎かった。そのため、牟田口は河邊から聯隊長としての心構えを一から丁寧に教わった(「ああ! 河邊正三-座談会-」)。牟田口は河邊を慕い、河邊もまっすぐに接する牟田口をかわいがった。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P84

 【中国第29軍との交渉で】牟田口の言動は、まるで勝者のような振る舞いであった。
 【……】
 中国人はメンツを重んじるという特徴があるといわれる。交渉での牟田口の尊大な態度や、中国人将兵らを並ばせて謝罪させるという行為は、彼らのメンツを著しく損なうものであった。また、中国人を軽んじて見ていた牟田口の中国観も、この交渉のやりとりから明らかとなった。
 【……】
 いちど許した相手から思わぬ反撃を受けると、とたんに冷静さを失い敵意を剥き出しにする。この牟田口の反応は、彼のプライドの高さに起因していたといえよう。この牟田口の特徴的な性格は、その後の彼の人生に決定的影響を与えていくことになる。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P87,8

 第18師団のある参謀は、牟田口から叱責されて不満を持った佗美に対し、「牟田口師団長は焦って来ると、気が狂った人のように怒鳴る癖があるから、あのような場合は急いで師団長の見えぬ所まで離れてから、処置すれば良いのだ」と語った。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P151,2

 牟田口は、マンダレー一番乗りを目指して師団将兵らに昼夜兼行で前進させた。前線部隊を率いたある中隊長によると、そのときの様子は「まるで牟田口師団長とのマラソン競走のようで、むしろ師団長乗馬の健在が恨めしかった」(伊藤1984)であったという。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P174

 人々の牟田口への批判は、彼の人格面にも及んでいるが、牟田口の一生を丹念にたどると、彼はきわめて恣意的で不合理な人事によって、望まない職責を負うことになっても、正しいかどうかはともかく、彼なりの職責を果たそうとしたことがわかる。このような点で、牟田口は一見無謀なようで、実はまじめで忠実な性格の人物であったといえよう。
『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』P261







 むしろ牟田口はそれまで「常勝将軍」と呼ばれ、多大な戦果を挙げていた。かつては陸軍を代表する勇将、あるいは猛将の誉に相応しい人物と思われていたのだ。
『牟田口廉也とインパール作戦』P4,5

 ここ【1927年、陸軍省軍務局軍務課】で牟田口は、柳田元三少佐と一緒に勤務する機会を得る。後のインパール作戦における牟田口の隷下師団長の一人である。柳田は陸軍士官学校を優秀な成績で卒業しただけではなく、陸軍大学校では恩賜の軍刀組の一人であり、エリートとして将来を嘱望されていた。柳田は要領も良く、合理主義者だった。周りの参謀たちからは、牟田口とは全く正反対の軍人だと見られていた。一方の牟田口は不器用だが実直に職務を遂行する、つまり合理主義を嫌う軍人だと考えられていた。
『牟田口廉也とインパール作戦』P63

 【庶務課長の】牟田口のところに人物評価が集約される。その結果、牟田口は人物の好き嫌いがはっきりした。さらには参謀の更迭も日常的に行われていたため、資質の劣る参謀には特に冷淡だった。それにより、恨まれることもあったという。
『牟田口廉也とインパール作戦』P68

 牟田口は皇道派の一人と目されていた。
 ただ、庶務課長に就くということは、牟田口は能吏であることに加え、軍閥に極端に身を置かず、さらに微に入り細に入りよく気が付く、気配りができる軍人だと考えられていたことの証左に他ならない。彼は本格的な補佐道を目の当たりにして育ったのである。
『牟田口廉也とインパール作戦』P70

 牟田口は陸軍大学校を卒業した後、陸軍省や参謀本部での勤務が長かった。そのため、指揮、作戦、後方支援などの部隊運用の基本的事項を、身をもって学ぶ機会を逸していた。また部隊勤務といっても、近衛連隊の大隊長であり、閑院宮参謀総長の庶務課長という点からも、典型的な軍人官僚の道を歩んできたと言える。それは実兵指揮や訓練指導能力の欠如となり、平時は良いが、有事になると部隊感覚を身につけている指揮官とは期待度が異なると思われた。
『牟田口廉也とインパール作戦』P71

 では部下たちは牟田口連隊長をどのように見ていたのか。ある中隊長が次のように語る。 昭和十二年の天長節、交民巻練兵場で閲兵式が行われた時のことだった。 牟田口は軍旗中隊長に「練兵場との往復は、なるべく支那人が少ない通りを通行せよ」と命じた。中隊長は それに従い、大街路を避け、裏通りを進んだ。すると牟田口は「中隊長、軽便主義をするんじゃない!」と一喝した。 中隊長はこれに承服しかね、連隊本部前でしばし佇立、その後も中隊長室で連隊長の心中を推し量って時間をつぶしていた。
 ほどなくすると、将校宿舎にいる大隊長から「連隊長が貴官に話があると言って来ておられるが、まだ帰らぬか」と電話があった。中隊長は急いで帰宅し、大隊長に問うと、 「連隊長は二十分ぐらい待っていたが、今さっき帰った。その際、『貴官を叱ったが、考えてみれば俺の方が思い違いをしていた。誠にすまんことをしたのでお詫びに来た』と伝えてくれ」 とのことだった。これを聞いた中隊長は「日本軍が創設されてから将校は十万にも及ぶほど生まれたであろうが、その中で連隊長が自らの非を詫びにわざわざ部下中隊長の宿舎まで出かけたというのは牟田口連隊長唯一人ではないか」と牟田口の誠意に胸をうたれるのだった。連隊長時代の牟田口は、将兵一人ひとりを大切にする指揮官だったという(支駐歩一会編 『支那駐屯歩兵第一聯隊史』)。
『牟田口廉也とインパール作戦』P78,9

 意外に思われることだが、この頃まで牟田口は「ムタさん」などと呼ばれ、気さくな一面も見せる陽気な性格だったと証言する者までいた。
『牟田口廉也とインパール作戦』P95

 【シンガポール戦で】牟田口は、そんなことがあっても少しも怯む様子はなかった。武田寿参謀長と二人きりで現地視察を行うこともしばしばで、多くの将兵は勇ましい将軍だと喜んだ。
『牟田口廉也とインパール作戦』P103~105

 『戦史叢書15 インパール作戦』の編纂官の一人である不破元大佐は、牟田口が自己の信念に捉われたことを次のように推測する(『戦史叢書15 インパール作戦』)。

 第一に、牟田口中将は信念の人であり、気性は積極果敢、ひとたび思い込めば、どこまでもやり通す性格である。第二に、牟田口中将は河邊中将の意図には服従するが、幕僚に言うことには深く心にとめない。
『牟田口廉也とインパール作戦』P303







<2023/04/15追記>

 『四人のサムライ』という本で取り上げられている4人のうち1人が牟田口廉也であったことを思い出したので、キャラクター像に関する記述を探してみました。著者はコヒマで戦った経験を持つイギリス人ジャーナリストです。

 彼は知的であろうなどと考えてもみず、物事を白か黒かに判断した。彼は本能で動き、しかも恐るべき速さで動いた。彼は反対者を憎悪した。そういう奴を跳ねとばすためならなんでもやった。彼の食欲、とくに酒と性は強かった。彼には粗い動物的な魅力があった。彼は兵たちとの神がかりの仲間としての連帯の中で、武士道への深い信仰をもっていた。近代性や西欧化は彼の軽蔑するところであった。彼に近い将官や参謀に限っていえば、彼を好くものよりも嫌ったもののほうが多い。しか全体的にいえば彼は尊敬されていた。
『四人のサムライ』P130





<追記ここまで>



 個人的な感想についてですが、こうしてまとめてみると、「後方の補給軽視」や「幕僚軽視」や「怒鳴る」や「自意識過剰」や「思い込みが強め」などはロンメルと似ているという気もしますが、しかしロンメルは(エル・アラメイン以後のしばらくの、重病を抱えながらの時期を除けば)「気が弱い」ということはなく、前線指揮能力に関しては抜群であったので、そこらへんは「比較することなどあり得ない」ほどだとも言えます(^_^;

 しかしまた、牟田口廉也は師団長としてまではギリギリ「アリ」の人物だったかもしれないけども、軍司令官になって「ピーターの法則」(ある人材はその組織内で昇進できる限界点に達する。人は昇進を続けてやがて無能になる)で無能、あるいは破滅をもたらしてしまった「真面目で小心な人物」だったのかもとも思いました(ロンメルもギリギリ師団長までだったということは言われますが、牟田口よりは遙かにマシだったのではないでしょうか)。


 私も、自分が40代になって「組織を指揮する立場はまったく自分の性格には向いてなくて、下っ端か、一番下から一つ上あたりが一番自分に向いているのだな」と気付いたような人間なので、まかり間違っていたら牟田口廉也のような大失敗をした可能性は全然あったのかも……。

牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる?

 たまたま↓という論文がPDFでネット上にあるのを見つけました。


インパール作戦において牟田口廉也がインド進攻を主張し続けた要因 -ヒューリスティックとバイアスによる分析-
(下の方にある「このアイテムのファイル:」という灰色のボックスの左下の「1-2.pdf」をクリックすると見られます)


 牟田口廉也がインド侵攻作戦を主張し続けたことを、心理学的に分析できる「思考の癖」や、そのような思い込みに陥りやすい状況や性格から読み解くというもので、今までいくらか牟田口廉也関係の本を読みましたけども、このアプローチは個人的に非常に好みで、また有益なものであると思われ、より広く知られて欲しいと思いました。

 こういうアプローチは、そういえばアリだなぁと思いましたが、私は全然思いついてませんでした(^_^; バイアスだとか、「脳は楽をしたがる」とかって関係の話も結構好きでそういう本も読んでいたのに……。


 「ヒューリスティック」という概念は全然知らなかったのですが、検索していくらか見ていると、「(時間や労力をかけないようにするために)過去の経験則から、ある程度以上正しそうな解答を素早く選択する」というようなことで、どちらかというと「わざと」利用するもののようです。

 一方「バイアス」は「(すべての人が持っている)認識の偏り」のことで、たとえば「確証バイアス(自分の直感に沿うような情報ばかりを採用し、逆の情報を無視してしまう)」とか「内集団バイアス(自分の属している集団の方が優れていると考える)」とか、他にもものすごくいっぱいありますが、意識せずそうなってしまうものです。ただし、自分にそのようなバイアスがあることに気付いてそれを修正することもできます。


 牟田口はインパール作戦を主張するにあたって、ヒューリスティック(経験則)を利用しようとしてバイアス(認識の偏り)にハマってしまった(と分析される)、ということがこの論文の要旨ではないかと思います。そして、そのようなことになりやすい状況についてこう書かれています(P45,6)。

 カーネマンは次の条件において、人間は利用可能性ヒューリスティックに基づくバイアスにかかりやすいとしている。
① 努力を要する別のタスクを同時に行っている。
② 人生の楽しいエピソードを思い出したばかりで、ご機嫌である。あるいは落ち込んでいる。
③ タスクで評価する対象について生半可な知識を持っている。
④ 直感を信じる傾向が強い。
⑤ 強大な権力を持っている。


 ①はつまり、やらなければならない他のことをたくさん抱えていると余裕がなくてヒューリスティックを利用しようとしてバイアスにハマる、というわけです。

 ②は「成功体験」に包まれている、あるいは「失敗体験」で落ち込んでいると、その体験にものすごく影響されやすくなってしまう、ということだと思います。

 個人的には、①はそれほど牟田口に影響を与えたとは感じないのですが、②は、牟田口はウィンゲート将軍の後方浸透作戦(チンディット作戦)をやられて、それが「失敗体験」となるも、それを自分も逆用できるという方向性に考えすぎたような気がします(論者はそういう考え方は書いてなくて、シンガポールやビルマで牟田口が成功していたから、という成功体験だけを挙げています)。

 この「失敗を成功に」という方向性は、「日中戦争を開始させてしまった」という(本人の中での)失敗体験があるから、「インパール作戦で成功しなければならない」という考え方になったのとも同一だと考えることもできると思い、個人的には牟田口の考え方として顕著なものであるような気がしています(同論文では、日中戦争を開始させた件に関しては当時としては的確な処置だった、と分析していました)。


 同論文にはかなり個人的にかなり興味深い、牟田口の性格に関する評が取り上げられていました(P46)。

 藤原【岩市】少佐が後年、牟田口の性格を評して「驍将の如く見える反面、気の弱い面があり、自意識過剰で思考が単純な嫌いがあった」と述べた
【驍将……①たけだけしく勇ましい大将。②中心になって力強く事を推進する人。】



 「自意識過剰で思考が単純」だから、自分の失敗を気にして、敵にある作戦をやられるとその成功を過剰に評価し、自分もそれをやる(やれる)のだと思い込み、思考が単純だからそれ以外のことが考えられなくなる……。

 ……うっ! ……ウォーゲームで自分もそんな風になっていることがあるなと思います……(. . ;)



 恐らく、誰しもが牟田口のこういう状況に大なり小なりなる可能性があるのではないでしょうか。ただし、「そういう失敗例がある」ということを知ればそれを避けやすくなるし、また、知識だけでなく性格によっても、牟田口のように非常になりやすい人もいれば、非常になりにくい人もいるのでしょう。



 「④ 直感を信じる傾向が強い。」に関連するのではないかとも思うのですが、個人的にはインパール作戦中の牟田口の「神懸かり的」「神頼み的」行動が気にかかっています。つまり牟田口の宗教的側面とも言うべきものですが、当時の大日本帝国は「天皇は神であり、日本は神国である」としており、かなり(結構?)多くの日本人がそれを信じていたのでしょうから宗教的であったのは牟田口に限らないのだろうとも思いますし、例えば第55師団の歩兵団長であった桜井徳太郎少将や、同師団隷下の第112連隊長であった棚橋真作大佐はかなり宗教的な考え方や雰囲気をまとっていたものの、両人ともかなり優れた軍人であり人格者であったように思われます。ところが牟田口はその宗教的側面が「神懸かり的」「神頼み的」な方向に行くばかりで、「優れた軍人」「人格者」となるにはバランスを崩しすぎていたように思われる……。そこらへん、どうだったのか。



 前述の「驍将の如く見える反面、気の弱い面があり、自意識過剰で思考が単純な嫌いがあった」という牟田口評の他に、個人的にかなり興味を引く牟田口の発言を先日見つけたこともあり、次は牟田口廉也の人物像に関する記述について、一回まとめようと思ってます。


第33師団長であった桜井省三(せいぞう)中将と、第33師団について

 承前。今回は第33師団長であった桜井省三(せいぞう)中将と、第33師団についてです。


第55師団長であった竹内寛(ゆたか)中将と、第55師団について (2023/01/27)


 これとは対照的に、高く評価されていた第33師団長の桜井省三中将(52歳)は、連隊長や参謀として中国で極めて優秀な成績を収め、すでに意欲と決断力、積極性で知られていた。1940年12月、桜井は中将に昇進し、翌年、中国第11軍に所属していた第33師団の指揮を執ることになった。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P26





Sakurai Shozo

 ↑桜井省三将軍(昭和19年正月、再びビルマに出征する前に撮影されたもの)(Wikipedia)


 日本語版Wikipedia「桜井省三」では「省三」を「しょうぞう」としていますが、『ビルマの名将・桜井省三』という本はわざわざ表紙にも、というか背表紙にさえ「せいぞう」というルビを付けているので、一応私は「せいぞう」でいこうと思います。ただ、「しょうぞう」という読みもされていたのかもです(土橋勇逸将軍の名前も3種類の読み方を見ますし)。






 桜井将軍は萩出身で、陸大軍刀組(上位6名)ですが、当時は長州出身者が徹底的に冷遇された時期で苦労したそうです。フランスに駐在後に陸軍の船舶関係の仕事を担当し、陸軍の上陸作戦の礎を作りました。

 桜井将軍はその12月に中将に昇進すると、翌16年1月に中支の南昌の安義というところに展開していた第33師団に、師団長として着任する。既に大隊長、聯隊長、歩兵団長、それに軍参謀長などを歴任し、指揮官としての資質に磨きがかかっていた。
「色白で長身、海外生活で身に付けた西欧風のマナー、初めてお会いしたときは大変若々しく感じた」
 将軍はもう52才だったが、大河内専属副官(只男、将二)の第一印象である。
「何しろ秀才で、第13軍参謀長だった剃刀のような将軍だという噂なので、着任のときはきびしい訓示があるものと思っていた。しかし閣下は、部隊将兵の今日までの功績を称え、私も諸子とともに負荷の大任を果したいとやかましいことは一切言われず、大変格調の高い含蓄のある言葉で終えられた」
 またその日常については、
「閣下は無言のうちに範を垂れ、典範令などにある精神徳目をことさらとりあげて云々されるようなことは一度もなかった。いわゆる巧言令色は最も好まれぬところだった」
 と語っている。
 第33師団は昭和14年2月、仙台で編成された三単位編成の1万5千人程度の軽師団だった。初代の師団長は甘粕重太郎【甘粕事件の甘粕正彦はいとこ】(18期)という士官学校の校長だった人で、大変真面目な将軍だったと言われている。編成以来大変苦労され、一年余で漸く戦場で活躍できる師団に育てた。
『ビルマの名将・桜井省三』P73~75

 ところが、そんなとき突如軍から命令がきた。
「直ちに第34師団を救出せよ」
 というものだった。全く寝耳に水だった。師団の首脳部は北支転進直前だったので困り果てていると、桜井師団長は一瞬のためらいもなく、
「よし、師団の各部隊は奉新を目標に集結せよ」
 と決断し、直ちに命令を出す。
第二次錦江作戦である。【……】
 【……】やっと第34師団を救出する。第34師団の大賀師団長(茂、21期)がこの素早い対応に大変感激されたという話が残っている。
『ビルマの名将・桜井省三』P77,8

 中井山砲大隊長(正、37期)は、
「降りしきる雨のなか、流水で寸断された悪路を退却中、私の部隊の横のくさむらの前に、マントを被り長い杖をついて誰かが立っている。よく見ると、何とそれが桜井師団長だった。当時我々にとっては師団長は雲の上の存在だった。まさかこんな豪雨のなかで、部下の行軍の状況などを見ておられるとは思いもしなかった。その黒い面影を、いまだにフッと思い出すことがある」
『ビルマの名将・桜井省三』P78,9

 第33師団はそれから北支に転戦したが、もう中原作戦は始まっていて、敵情も兵要地誌も十分に調査できないまま戦闘加入したため、時に苦戦を強いられ、第214連隊の1コ大隊が全滅するという悲運に見舞われる。
 中原作戦は、一応の成果を収めて終ったが、師団は幾度かの戦争体験を重ねるうちに、逐次精強な師団として仕上がっていった。
 そして、北支方面軍司令官岡村寧次大将から、最精鋭師団としてのお墨付きをいただき、師団の将兵にとっては大きな自信となった。

『ビルマの名将・桜井省三』P79,80




 次に、ビルマ侵攻作戦の時の話です。第55師団がモールメン(Moulmein)に向かい、その間に第33師団はその北のパアン(Pa-an)に進んでそこでサルウィン川の渡河をしようとしていました。その後ビリン(Bilin)周辺を抜け、シッタン(Sittang)川岸に到達します。

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 その頃【第33】師団の戦力は、歩兵2コ聯隊、山砲1コ大隊基幹にしか過ぎなかった。砲は全部で6門、砲弾は1門あたり百発で、歩兵の弾薬にいたっては携行分しかない。補給路はまだ開設されていないので、この携行分を最も有効に利用するしか方法がなかった。
 敵英印軍の正規兵は、戦車をもってサルウィン河の対岸に布陣していた。その頃の制空権は敵が握っていた。2月といってもビルマは乾季で物凄く暑い。覚悟はしてきたものの、先ずその暑さには辟易していた。従ってこの作戦は戦力的に見ても、その他の条件からしても、大変な困難が予想された。みなはとんでもないところに来てしまったと思っていた。
 しかし、中支の戦線で戦闘慣れしている師団の将兵の行動は早い。
『ビルマの名将・桜井省三』P88,9

 【サルウィン川は】河幅千メートルもある大河だったが、丸木舟20隻を集めて難なく渡河する。ここではクリークの多い中支での戦闘の経験が生かされていた。
 第33師団正面の敵は、印度第17師団に属する1コ大隊約千名ぐらいと見られているが、日本軍の神出鬼没の迂回、奇襲戦法にすっかり動揺し、これに敵主力方面も衝撃を受け、いち早く後退し始めていた。
 桜井師団長は、戦力的に劣る日本軍が敵に勝つためには、徹底した迂回、包囲作戦が必要だと考え、これが作戦指導の基本となっていた。制空権は敵が握っているので、昼間は密林に潜り、夜が来ると行動を起こす。夜行軍で山中を潜行し、敵の背後に先廻りして奇襲する。敵はどこから湧いてくるかわからない日本軍の攻撃に、すっかり動揺していた。

 補給がまったくないので、弾薬をはじめ、その他の軍需品も節約しなければならない。山砲の弾薬などは兵が一発ずつ担いで歩く。でも、勢いのついた師団の各部隊は、2月16日頃【第9ターン】には早くもビリン付近に進出し、22日【第11ターン】にはシッタン河畔に達し、敵主力を対岸に蹴散らしている。
 パアンからここまでの約百キロの進撃は、緒戦を除いては、殆ど師団長の指示なしに進行した。泰緬国境を越えての徒歩行軍の連続で、補給のない靴は破れ、軍服はボロボロ、あたかも乞食のようだが、士気は極めて旺盛だった。幸いこの南岸地区は農耕地帯で、物資も比較的豊富だった。それで米とか鶏肉などの食糧はほとんど現地調達で賄うことができた。
『ビルマの名将・桜井省三』P90,91




 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)用ユニット(上が戦闘モード、下が移動モード)。

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 第33師団のアクションレーティングは、↑では4としていますが、5も十分ありなのかもしれません……(4と5の混在とかもありか)。

 そもそも、この時の第33師団は1個大隊が4個中隊(第55師団は1個大隊=3個中隊)で編成されており、しかも1個中隊の人数が通常は180人程度なのに200人程度だったそうです。結果として、第55師団が1万4千人程度だったのに対して、1万6千人程度を有していたとか(どちらの師団も1個連隊欠なのですが、その分を引いた数なのかどうか分かりません。『第2次世界大戦中の日本軍のタイ国内での展開 ―通過地から駐屯地へ―(上)』という論文のP19には「師団の構成人員から推測すると、仏印から鉄道で入ってきた第55師団主力は約1万人、船でバンコクに入った第33師団は約1万3,000人の規模であったものと思われる。」とあって、こちらは1個連隊を抜いた実数ということなのかも……)。

「第2次世界大戦中の日本軍のタイ国内での展開 ―通過地から駐屯地へ―(上)」の検索結果(PDFファイルへのリンクがあります)
国立国会図書館サーチの「柿崎一郎」の検索結果


 そうすると、各大隊ユニットを「戦闘モードで3戦力、移動モードで2戦力」としても良いかギリギリの線にも思えますが、それはやらないでその分アクションレーティングの値を上げると考えると5は「アリ」どころか「必須」のレベルかも……?



 あと、「山砲兵第33連隊(第3大隊欠)、工兵1中隊は徐州付近に残置された(残置部隊は約3ヶ月遅れてビルマ戦線に追及した)。」とあって、この書き方からすると緒戦のビルマには山砲兵第33連隊の第3大隊のみが参加した、ということかと思われます(3-33と表記すべきですね)。『ビルマの名将・桜井省三』では「6門」とありましたが、第33師団も山砲連隊の定数は「94式山砲27門」らしいので、1/3より少ないです。しかしこれは、ビルマに入った時点で6門だったのか、パアンに行くまでに減ったのか等が全然分からないので、とりあえずユニットの数値はこのままか……(尤も、このユニットの数値はインパール作戦時のものそのままなのですが、そことの史実上の比較は全然できていません)。工兵1中隊が欠なのはまあ、誤差の範囲内ということで。

 それから、ユニットでは騎兵連隊(実質は大隊)が入ってしまってますが、実際には「捜索連隊は1941年の編成改正により廃止され、軽装甲車中隊だけが師団司令部の編成内に残された。」なので、このユニットはなしですね。




 補給状態に関してなんですが、ビルマ戦初期はかなりの期間、日本軍部隊は手持ちのものと現地調達だけで戦っていた(なので、戦闘は最低限にして浸透移動と奇襲と銃剣だけで何とかする)らしいので、OCS『Burma II』の「食糧入手表」をここでも使って部隊を維持するということになろうと思います。OCS『Burma II』では「道路か小道のあるヘクス、またはその隣接ヘクス」でしか使用できませんが、『South Burma』(仮)のこの序盤では、それに「平地」も加えないとダメかとは思います。

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第55師団長であった竹内寛(ゆたか)中将と、第55師団について

 最近出版されたオスプレイの『Japanese Conquest of Burma 1942』に、日本軍のビルマ侵攻作戦の時に第55師団長であった竹内寛(ゆたか)中将についてある程度書かれた文章があったので、ブログに書いておき、今後も情報を見つけたら集積していこうと思います(これまで竹内将軍の能力等についての記述はほとんどまったく見たことがありませんでした)。






 第55師団は、1936年から37年にかけて歩兵第49連隊長を務めた竹内寛中将が率い、その後参謀職を経て1941年4月に師団長に任命された。師団基幹は1941年10月に予備役と徴兵でフルに増強された。師団としての戦闘経験はなかったが、台湾のジャングルでいくらか訓練を受けた。しかし、ビルマ侵攻の際、その進撃が遅くて状況を難しくし、結果として指揮官の評判は悪化した。竹内が1943年に退役したのは、その意欲と決意の欠如(彼が指揮した部隊はそのような動きを見せた)が原因であろう。これとは対照的に、高く評価されていた第33師団長の桜井省三中将(52歳)は、連隊長や参謀として中国で極めて優秀な成績を収め、すでに意欲と決断力、積極性で知られていた。1940年12月、桜井は中将に昇進し、翌年、中国第11軍に所属していた第33師団の指揮を執ることになった。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P26



 『Japanese Conquest of Burma 1942』の著者が参照した資料の中にこんな風に書かれていたのかもしれず、参考文献一覧はまだ見てなかったのですが、チェックしてみようと思います。


<2023/02/03追記>

 『隠れた名将飯田祥二郎』という本を見つけて読んでいたら、この時期の第33師団が所属していた第15軍の司令官であった飯田祥二郎の日記(日録)にそれらしきことが書かれていたっぽいことが分かりました。



 55師団は鉄道と街道に沿ってトングーを経て最大の目標地マンダレーに向かい、33師団はプロームを経て最大の油田地帯エナンジョンに向かって進軍した。
 ここで55師団の向かった要衝トングーにおいて、正面に立ちはだかったのは中国から派遣された軍勢であった。杜聿明【トイツメイ】(1905-1981)に率いられた中国第5軍下の200師団は、蒋介石直系の精鋭部隊であり、当時重慶軍と呼ばれていた中国国府軍の中で、もっとも装備が良好で志気も高かった。
 飯田の日録にも中国軍の抵抗により55師団が難戦を続けたことについての記録とともに、師団の指揮ぶりにも問題ありとしている。同様な不満は、ラングーン攻略以前から 同師団が消極的で進攻速度が鈍いことなどについての記述が散見されているが、やがて参謀長・連隊長などが交代し、最後には師団長も代ることになった。
 これに対して33師団に対する感想が日録に記されている回数は少ないが、 これはその戦闘ぶりに満足していたためと考えられる。しかし桜井もラングーン陥落の直後、戦車にはほとほと閉口したと飯田に報告したことが日録に見える。 桜井はその後に戦史に残る対戦車戦を経験することになるが、それまでの戦車相手の痛切な経験が役立ったものであろう。
 トングーにおいては3月26日から4日間にわたって激戦が続けられた。中国軍の戦意は非常に高く、中国大陸戦線ではほとんど経験したことのないものであったことが当時の参謀の残した記録-前述の竹下のほか55師団参謀河内稔(42期)などの手記-からも読み取れる。味方の攻撃は先方の頑強な守備と反撃によって停頓していた。飯田も相手方の抵抗は敵ながら天晴れとその健闘ぶりを讃えている。
『隠れた名将飯田祥二郎』P165



 中国軍の第200師団はOCS『Burma II』にも出てくるのですが、アクションレーティングは1で精鋭とは思えない感じですが、1942年時点ではより質が高い精鋭部隊だったのかも……?


 ↓OCS『Burma II』の中国軍第200師団ユニット。

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<追記ここまで>



 あと、確か第55師団の中の連隊長だか大隊長だかの一人が、「戦果の誇大報告」か何かで解任されたという話を読んだ覚えがあるのですが今見つけられず、また見つけたら追記します。




 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)用ユニット(上が戦闘モード、下が移動モード)。

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 第55師団の通称号の「楯」というのは、後に「防御的で良くない」ということで「壮」に変更されましたが、この頃は「楯」でした。


 アクションレーティングを2にしてある第112連隊(丸亀)はビルマ侵攻作戦の時までまったく戦闘経験がなかったそうです。AR2というのはしかし、より低めにレーティングした場合であって、AR3でも全然許されるという気はしてます。悩んでます。

 AR3の第143連隊(徳島)は南部タイの上陸作戦に参加しており、少し遅れて合流しました。

 もう一つの連隊である第144連隊(高知)はポートモレスビーに派遣されており、壊滅的打撃を受けることになります。


 騎兵第55連隊は、乗馬中隊2、機関銃中隊1、戦車中隊(軽戦車2、装甲車6)1、速射砲中隊1から成っていたそうです。戦車を持っているといってもユニットに反映させるほどとは思われず、また日本戦車はおそらく緒戦では戦っておらず、いくらかラングーンに近づいた頃に(少数?)投入されるもあっという間に撃破されてしまったという話があったので、そもそも序盤ではユニット化もどうかというぐらいかも……。


 山砲第55連隊は3大隊から成り、94式山砲27門を持っているというのですが、「山砲隊は携行段数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした。」という話があります。

 ↓のようだったとすれば、つまり1/3の大砲を持ってビルマに入ったということになります。

1個中隊:3門
1個大隊:3個中隊(9門)
1個連隊:3個大隊(27門)


 OCS『Burma II』では日本軍の師団は3-3-1-1の砲兵大隊ユニットを3つずつ持っているのですが、この時の第55師団はその1/3を持っていたということになり、砲兵大隊ユニット1個を持っておけば良い、ということになるのだと思われます。


 あと、牛とか馬とかを連れてビルマに入ったという話もあるのですが、すぐにほとんど失ってしまったらしいです。でもラバ(馬)の輸送ユニットは、少し持っていても良いのかも……?


 ↓は、抜き書きしていた戦史叢書『ビルマ攻略作戦』からの記述です(ページ数はいちいち書かずに抜き書きしているので、パスで……)。

12月25日
 第55師団のうちの宇野支隊は歩兵第143連隊第3大隊をビクトリアポイントに残し、他の支隊主力を道々集めながらバンコクに向かい、12月25日から逐次同地に到着、師団長の指揮に復帰した。
 第55師団師団長は、諸隊を国境地帯に推進するに先立ち、車両部隊をすべて駄馬または駄牛編成に改め、特に山砲隊は携行段数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした。
 しかし牛は暴れて手に負えず、逃亡した牛も少なくなかった。結局、ビルマ側に出た時、部隊はほとんど牛を持っていなかった。
 馬も谷底に落ちるなどして、部隊がメソートに着いた頃には、約3分の1に減っていた。



OCS『South Burma』(仮)の最初の5ターンをテストするためのマップとユニットを作り始めました

 OCS『South Burma』(仮)の最初の5ターンをテストするためのマップとユニットを作り始めました。



 実は、ほぼ1年前にその作業に入るつもりと書いていたのですが、その後より作業が楽そうに見えたOCS『Arakan』(仮)に浮気した挙げ句、アラカンキャンペーン(第1次、第2次アキャブの戦い)はどうもOCSには向かなさそうという結論になったという……(^_^;

OCS『South Burma』(仮)の最初の5ターンを試しに作ってみる…… (2022/02/07)
第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かない? (2022/06/27)



 ただ、OCS『Arakan』(仮)の作業をしていた時に、それまで良く分からなかったOCS『Burma II』における地形の選定の仕方が分かってきたりもしたので、実りはあったと思ってます。↓のようなもの。

OCS『Burma II』における「山岳」とは、「そのヘクス全体が山岳であるようなヘクス」のことである。荒れ地、ジャングル、平地も同様。
1500m~2000m以上の山しかないようなヘクスを山岳ヘクスとし、
1500m以下で起伏のあるヘクスがほとんどであるようなヘクスを荒地ヘクスとし、

真っ平らな平地であることが確実な場所だけを平地ヘクスとする
それ以外は全部ジャングル




 で、改めてこの規定に基づいて『South Burma』(仮)のマップの作業をしてみたんですが、その結果(以前から思っていたことではありますが)移動コストが重すぎて全然史実通りの展開にできようがないことが改めて確認できました。

 しかしできれば『Burma II』の地形効果表のままで行きたいので、「じゃあ地形を一段階ずつ軽くしてしまおう」と。


 その結果が↓です。

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 画像の左下の部分は海です。陸の白い部分は「平地」で、それに接する薄い緑色の部分は「ジャングル」ですが、元は「荒地」のつもりでした。それに接する濃い緑色の部分が「荒地」ですが、元は「山岳」のつもりでした。メソート(Mae Sot)周辺は平地です(本来の平地の色です)。

 OCS『Burma II』における徒歩タイプの移動コストはこうなっています。

平地:1
ジャングル:3
荒地:3
山岳:All


 史実では日本軍はメソート(Mae Sot)周辺から出発し、最初期に少し戦闘をした後進撃して、第3ターンにはその西南西15ヘクスのモールメン(Moulmein)に接近、第4ターンにはモールメンで戦闘して占領しました。

 カウントしてみると、地形を一段階ずつ軽くして平地だらけにすると一応大体間に合うような感じになるのですが、元の規定のままジャングル以上しかないようにすると、全然間に合わないわけであります……。


 しかし実際の地形はジャングルだらけだったはずで、全部が全部ジャングルではなかったとしても、あたかも「ほとんど平地」であるかのように日本軍は進撃をしていたということ……?




 ユニットも一応作ってみました(上が戦闘モード、下が移動モードです)。

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 最も悩ましいのは、↓で情報を集めていたグルカ兵のレーティングだったのですが……(↑の「1-7 Gu」)。

第二次世界大戦におけるグルカ兵について (2023/01/14)


 史実上、ビルマ戦の緒戦でグルカ兵がどういう感じだったのかいくらか記述を追ってみたのですが、とりあえず強かったとか弱かったとかって記述を見つけられず、よく分からないので、本来ならAR4はないとダメだと思うのだけども、緒戦で英連邦軍自体が準備不足や装備不足などがあったとしてAR3として、必要ならセットアップではDGにしようかと。というのは、最初にグルカ兵らと戦闘に入った日本軍側の部隊は、それまで戦闘経験のない(ジャングル戦の訓練はしていた)部隊で、AR2くらいのレーティングが望ましいかと思われるので、グルカ兵のARを高くしてしまうと手も足も出なくなってしまうと思われるので……。


 日本軍全体のARを一段階ずつ上げるのもありかと思っていったんやってみたのですが、「いや、やっぱ高すぎてダメだ」と思ったので元に戻しました(^_^;


 まあ、ようやく端緒についたところで、今後いやになるほど修正が必要になると思いますので、あまり気負わずゆっくりとやっていく感じで……。


北アフリカや東アフリカで戦争犯罪に関わり、コンパス作戦の時に戦死したマレッティ将軍について

 北アフリカ戦におけるイタリア軍の指揮官について。

 今回は、北アフリカや東アフリカで戦争犯罪に関わり、コンパス作戦の時に戦死したマレッティ将軍についてです。





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 ↑マレッティ将軍(1940年以前)(Wikipediaから)



 マレッティ将軍はロンメルが北アフリカに来る前に、(英連邦軍による)コンパス作戦の時に戦死したのでロンメルとの関わりはないのですが、この企画はむしろ北アフリカ戦の最初から最後までを扱うという意図にしていますので……。

 一方、一部で有名っぽい人物としてバルボ将軍という有能らしい人も北アフリカに赴任していましたが、この人は北アフリカ戦が始まる前に事故死(暗殺死?)したので、私としては調べないでおこうと思ってます。

 ただ、OCS『DAK-II』ではバルボ将軍も指揮官ユニットになっており、「もしバルボ将軍が生きていたら」というオプションで使用できます。バルボ将軍を除けば、同ゲームでイタリア軍の指揮官ユニットになっているのはマレッティ将軍だけです。


 ↓OCS『DAK-II』のイタリア軍指揮官ユニット。

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 資料としては『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』の他、Wikipediaと、OCS『DAK-II』のヒストリカルノートは様々なマイナーな複数の項目を扱っているのですが、その中にマレッティの項目があるので、それを参照しています。








 ピエトロ・マレッティは志願してイタリア陸軍に入り、6年後に士官学校に入りました。第一次世界大戦中にリビアに送られ、1934年までの多くの期間、リビアの抵抗勢力の鎮圧戦に従軍します。1931年のグラツィアーニ将軍が指揮したクフラオアシス(リビア南東)の征服にも加わって戦功を挙げていました。

 1935年にはイタリアによるエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)に参加し、ソマリランド方面から進撃するグラツィアーニ将軍の軍の指揮下で自動車化部隊を指揮します。マレッティは退却する敵を追跡中、壕にこもったエチオピア軍部隊に出くわし反撃を受けます。マレッティは急遽撤退し、L3軽戦車3両を失いました(そのうち2両は河原で泥にはまって動けなくなったのでした)。エチオピア軍側も指揮官が負傷したため後退していました。グラツィアーニはこの戦闘を勝利だと主張しました。

 エチオピアが征服された翌年の1937年2月、グラツィアーニは公式行事の出席中に手榴弾を投げつけられて負傷しました。その報復としてグラツィアーニは調査途中の曖昧な文書に基づき、同年5月にエチオピアで最も神聖とされていたコプト正教会(東方正教会の一つ)の修道院に部隊を送って修道士達を射殺するように命じます。命令を受けたマレッティは部隊を「いつもの熱心さで*」指揮してその修道院他の施設に赴き、修道士達や巡礼に来ていた一般人など恐らく1500~2000人を射殺し、略奪の後火を点けたそうです(*はイタリア語版Wikipedia「Massacro di Debra Libanòs」にあった表現です)。マレッティは1938年6月、その功績により少将に昇進しました。

 またマレッティは、負傷していた捕虜の治療を拒否するなど、他の戦争犯罪でも告発されていたそうです(彼の部下達が、まだ生きていた捕虜達をわざわざ殺したというケースも少数報告されているのだとか)。


 1939年にはイタリアに戻り、シチリア島のパレルモで第28歩兵師団「アオスタ」の師団長となります(1939年4月24日から1940年6月9日まで)。


 ↓OCS『Sicily II』に登場するアオスタ歩兵師団ユニット。

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 イタリアは1940年6月10日に英仏に対して宣戦布告し、マレッティはリビアで、自身の名前が付けられた自動車化歩兵と戦車からなる戦闘団(イタリア語でラグルッパメント)を指揮することになりました(一般的には「マレッティグループ」という風に表記されるようなので、以下「マレッティ集団」と表記することにします)。


 同年7月8日に編成されたマレッティ集団は下記のような構成であったそうです。その時点では、リビア大隊の約半数は、訓練が不十分で士気も低い状態でした。

・リビア歩兵大隊7個(1, 3, 4, 5, 17, 18, 19)(第1および第5リビア連隊に統合されていました)
・サハリアノラクダ大隊1個
・Cannone da 65/17砲兵部隊(12門)
・Cannone da 75/27砲兵部隊(8門)
・M11/39戦車の1個中隊
・CV35豆戦車の1個中隊
・Da 47/32対戦車砲の2個中隊
・20mm対空砲の2個砲兵部隊
・工兵中隊2個
・ラクダ160頭
・車輌500輌


 ↓下記も参照していただければ。

OCSユニットで見る「リビア人部隊」と「サハリアーノ大隊」 (2017/03/29)
OCS『DAK-II』の「サハリアノラクダ大隊」ユニット(再) (2017/03/31)



 リビア総督に任命されていたグラツィアーニ元帥は再三のムッソリーニの命令に抗しきれず、1940年9月13日にエジプトへの侵攻を命じます。マレッティ集団はエジプト侵攻軍の最も南に配置され、主力の南側面を警戒しながら進むことになっていました。


 ↓『Beda Fomm』P42にあった地図を元に、OCS『DAK-II』のマップ上にこのグラツィアーニ攻勢の進撃を描いてみたもの。矢印の灰色の最も色の薄いものが14日、次の濃さのものが15日、最も濃いものが16日の動きです。

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 ↑いわゆる「第二次世界大戦ブックス(赤本)」のシリーズの、和訳されなかった一冊です。




 ↓OCS『DAK-II』のマレッティ集団の構成ユニット。

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 このいわゆる「グラツィアーニ攻勢」については、↓でいくらかまとめていました。

1940年9月北アフリカのイタリア軍グラツィアーニ攻勢について (2017/08/06)



 ↑でまとめていたものから、マレッティ戦闘団の動きについて抜粋してみますと、こうなります。

 当初、彼【グラツィアーニ】は内陸の砂漠から「砂漠の古狼」とあだ名されたマレッティ将軍率いる機甲集団を迂回させて英軍を包囲する作戦計画を意図していたのだが、肝心のマレッティ集団はリビア領内にいるうちから道に迷ってしまい、水も底をついたため、グラツィアーニはこの作戦をあきらめて正面攻撃に切り替えた。
『コマンドマガジン日本版 vol.44』地中海日報P47

 空を飛ぶイギリス軍パイロットはそこかしこに、ソルームへと向かって収束していく砂煙を見ることができたが、マレッティ集団がエンジンのオーバーヒートに苦しめられ、そもそも道を間違えていたことに気付くことはできなかった。行動を起こすはるか以前の、シディ・オマールの戦闘開始前のポジションに向かう時点で彼らは砂漠の中で迷子になっており、その遅延ゆえに、主攻撃のスタート - イタリア放送によって、全世界とイギリスに知らされることになっていた - を切るのが遅れることになった。
『Beda Fomm』P38


 ただしこれは「マレッティ(達)が無能だったから」とかではなく、そもそも砂漠の奥深くで活動するために必要な地図やナビゲーション機器を調達することができなかったからだったようです。そのため、イタリア軍は航空機を発進させ、部隊を所定の位置に誘導しなければなりませんでした。

 しかし一応17日までにシディ・バラーニ付近に集結し、マレッティ集団の進撃中の損失は軽微(12名)だったそうです(そもそも英連邦軍は大きく抵抗せずに後退していたのですが)。

 その後2ヶ月の間にマレッティ集団は、編成替えによる部隊の出入りを繰り返しつつ、トラックに乗ったイタリア軍部隊と、イギリス軍装甲車や軽戦車からなる襲撃部隊との間で小規模な戦闘を行っていました。


 そして1940年12月9日早朝に、英連邦軍によるコンパス作戦が実行されます。


 英連邦軍側から見たコンパス作戦については、↓を見ていただければ。

コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)
コンパス作戦の実行と、トブルク陥落まで(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/04)




 ↓OCS『DAK-II』のコンパス作戦シナリオにおけるマレッティ集団。

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 コンパス作戦で英連邦軍の襲撃を受けた時、マレッティは(多くの資料によれば)「驚いてパジャマ姿のまま、手にマシンガンを持って壕から出てきたところを撃ち殺された」という風に記述されています。

 ただし、Mario Montanariという人は、1985年に書いた『Sidi el Barrani, giugno 1940 – febbraio 1941』という本(論文?)の中で、↓のように書いているそうです(英語版Wikipedia「Pietro Maletti」から)。

 12月8日、マレッティはすでに近くのリビア第2師団にイギリス空軍による異常な低空飛行はおそらく機甲部隊の動きを隠すためであると正しく警告しており、12月9日の朝6時半(実際の本攻撃開始よりかなり前)には、マレッティはすでにリビア第1、2 師団両方の師団長と連絡を取っており、イギリス軍の準備の動きを報告していた。マレッティが死んだのは、ニベイワ陣地の北側の戦区で47/32対戦車砲の砲撃を指示している午前9時頃のことであったというのが真相である。



 ニベイワ陣地では砲兵隊とサハリアノ大隊が最後の一人まで戦って戦死しましたが、マレッティの死後、リビア大隊は戦意を喪失し、午前11時には戦闘が終了しました。

 コンパス作戦で勝利した英連邦軍は国境を越えてエジプトへと進んでいきますが、1940年12月24日にはマレッティ集団の生き残りを集めてデルナで第34リビア自動車化大隊が編成されたそうです。


 ↓OCS『DAK-II』の第34リビア自動車化大隊ユニット。

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 マレッティは戦死後、武功金賞を授与されました。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:第二次世界大戦におけるグルカ兵について

 OCS『South Burma』(仮)で最初に出てくるべき英連邦軍ユニットの中にグルカ兵の部隊があるのですが、そういえばグルカ兵はものすごく強いはずで、それなのにアクションレーティングを低く設定していたことに気付きました(これまで全然気付いてませんでした(^_^;)。


 で、良い機会でもあるのでグルカ兵について調べてみました。



 動画では、↓が非常に分かりやすかったですし、様々な画像も見られて素晴らしいです。






 日本語版Wikipedia「グルカ兵」には、↓のような記述がありました(抜粋です)。

一般的に、ネパールのグルカ族出身者で構成される山岳戦・白兵戦に非常にたけた戦闘集団であると考えられているが、実際にはグルカ族なる民族は存在せず、マガール族、グルン族、ライ族、リンブー族などの複数のネパール山岳民族から構成されている。

また「グルカ」とは「ゴルカ」(サンスクリット語発音:gau raksha)の英語訛りであり、イギリスが英・ネパール戦争当時、ネパールのことを「グルカ」と呼んでいた(当時のネパール王国を支配していた王朝がゴルカ朝だった)ことによる。なお、グルカの原義は『牛を守る者』である。

ネパール山岳民族特有の尚武の気性を持ち、白兵戦能力に優れ、宗教的な制約が少ない。一方でヒンドゥー教徒のインド人は宗教的な制約が多く、近代戦の兵士に向かず、運用に不自由をきたしていた。

後に発足した英印軍では、シク教徒・ムスリム系インド人・パシュトゥーン人などとともに重要な地位を占めた。

ネパールは英領インドの影響を受けながらも独立を維持したアジアでも数少ない国の一つであり、その要因の一つにグルカ兵の輸出による防衛戦略も挙げられている[2]。

グルカ兵は二度の大戦でもイギリス軍の兵士として活躍し、13名にヴィクトリア勲章が授与されている[1]。また第二次世界大戦では日本軍とも交戦した。竹山道雄著「ビルマの竪琴」の記述では「・・草色の服を着て、曲がった短刀を革帯にはさんだこの剽悍な土民兵は、森の木の上によじ登っていて、下を日本軍部隊が通ると、自動小銃で掃射を加えてくるのです。このグルカ兵が最もこわいので、日本軍はグルカ兵のいる村落を避けて回り道をしました」という。戦後はイギリス連邦占領軍として、日本の占領任務や朝鮮戦争にも従事した。

グルカ兵は山岳民族特有の小柄な体格(150cm前後)の持ち主が多い。性格は勇猛かつ敏捷であることを求められる。体力差については、イギリス本土の白人兵士との徒競走において、平地では大柄な白人兵が優位であったが、傾斜地でのそれでは白人兵はグルカ兵に全く歯が立たなかったとされる[6]。NHKの特集番組では訓練教官が、射撃姿勢に移るまで0.5秒で終わる、と証言している[6]。ヒマラヤでの山岳ガイドを行うシェルパ族には、元グルカ兵という経歴の者がしばしば見られる。

グルカ兵は「ククリ」「グルカナイフ」などと呼称される、刀身が内側に湾曲した独特な形状の刃物を携帯しており、イギリス陸軍グルカ・ライフル連隊では部隊章に使用されている。

また、ネパールはカースト制が緩やかなため、食事などに関するタブーが少ないことも近代的な兵士に向いているという。



 また、『World War II in Europe: An Encyclopedia』にはグルカ兵の項目があり、↓のように記されていました。

グルカ兵は、大英帝国に属したことのない独立王国ネパールから集められたという点で、インド軍においてユニークな存在であった。グルカとは、ネパールの後背地に住む勇敢な山地農民の種族の名前である。イギリス人とグルカ兵は1814年に敵として初めて出会った。彼らは強い相互尊敬を育み、それ以来、同じ側で戦うことに知恵を絞ってきた。1814年の戦争直後、フレデリック・ヤング中尉は東インド会社のために最初のグルカ連隊を創設し、その後、インドの反乱、2つの世界大戦、そして数え切れないほどの小さな紛争で、この勇敢な戦士たちはイギリスに貢献した。

「全能の神はグルカ兵を、最高の歩兵として創りたもうた。彼らは勇敢で、頑強で、忍耐強く、適応力があり、そして野外生活に必要な技術にも長けているのだ。」
 歩兵小隊から多国籍軍まであらゆる部隊を指揮したサー・ウィリアム・J・スリム元帥はこう語った。第一次世界大戦のイギリス軍将校、ラルフ・ターナー博士は、さらに強い賛辞を送った。
「君達は、飢えても、渇いても、傷を負っても、不平一つ言わない。そしてまったく冷静沈着なまま、恐ろしい激戦の煙の中へ突っ込んでいく。勇者の中の勇者、最も高潔なる者達。君達ほどの信頼できる友を持った国は、かつてなかった。」

 第二次世界大戦では、その勇敢さと高潔さ、そして友情が、再びイギリスの手に委ねられた。1939年当時、グルカ連隊は10個あり、それぞれ2個大隊から成っていた。ネパール政府の同意を得て、各連隊は少なくとも4個大隊に拡大された。ネパールの人口800万人のうち、約25万人がこの連隊に所属し、歩兵として従軍したのである。

 このような兵士たちを戦場で率いるのは、難しい仕事であった。戦前にグルカ連隊に配属されたのは、サンドハースト【イギリス陸軍士官学校】が輩出した優秀な将校だけであった。第二次世界大戦で輝きを放った指揮官としては、ビルマで第14軍を指揮したスリムや、北アフリカでインド第4師団を率いたフランシス・トゥカー少将などがいる。

 中東および地中海戦域において、グルカ兵部隊はイラク、ペルシャ、トブルク、アラメイン、チュニジア(ここでSubedar Lalbahadur Thapaはヴィクトリア十字章を受勲した)、そしてイタリア、特にカッシーノで活躍した。また、1944年に内戦を防ぐためにギリシャに派遣されたイギリス軍部隊の一部も構成していた。1945年12月にインドへと帰還した後も4年半にわたって10カ国で継続的に活動した第2グルカ・ライフルズ第1大隊は、その典型的な部隊であった。

 グルカ兵は極東でも活躍し、マレーやビルマで、また日本軍の戦線後方でのオード・ウィンゲート少将のチンディット部隊と行動を共にした。日独伊三国同盟の後、彼らはインドネシアとインドシナの平和を守るために派遣されたイギリスの遠征隊の一員であったのである。

 ネパールという小さな王国は、第二次世界大戦でイギリスという同盟国を支援するために高い代償を払わされた。すべての戦場の合計で7,544人のグルカ兵が戦死または傷病で死亡し、さらに1,441人が行方不明となり死亡したと推定されている。さらに23,655人のグルカ兵が重傷を負い、全体の13%という驚異的な死傷率になった。一方グルカ兵達は第二次世界大戦で約2,734の勲章を獲得しており、その中には【第二次世界大戦全体で】182個しか授与されなかった内の10個のヴィクトリア十字勲章(ビルマでも)も含まれている。
『World War II in Europe: An Encyclopedia』P685~7








 トブルク、アラメイン、チュニジアでも戦ったということなので、OCS『DAK-II』、『Tunisia II』のユニットを見てみたのですが、これらのゲームのインド部隊の歩兵は旅団規模でユニット化されているので、恐らく細かく分割されて大隊規模で入っているであろうグルカ兵部隊の名前を確認することはできませんでした。

 また、OCS『Burma II』でもそこらへんは基本的に同様で(一部大隊規模でもユニット化されています)、「Gurkha」の略称「Gu」が入っているのはチンディット部隊の2ユニットのみでした。


 ↓OCS『Burma II』のグルカ兵ユニット。

unit8684.jpg


 OCS『Burma II』には英連邦軍にも割と多くのAR5ユニットがいますし、当然ながらAR5になってますが、再建不能ですね。




 英語版Wikipedia「Gurkha」には、1947年までの各グルカ連隊へのリンクがあるので、それらを全部チェックしていけば、北アフリカやビルマでの各大隊の所属部隊も見つけられるだろうとは思います。労力が大変なのでやりませんけども(^_^;

 が、しかし、OCS『South Burma』(仮)でグルカ部隊を大隊規模でユニット化するかもしれないので、とりあえずそこに登場しそうなグルカ大隊に関しては調べなければです。

 初期の戦闘序列を見ると、第7グルカ連隊の第1大隊と第3大隊の名前がとりあえず出てきます。後期には他にも出てくるかもですが、とりあえず英語版Wikipedia「7th Duke of Edinburgh's Own Gurkha Rifles」の第二次世界大戦の項を見てみますと、↓のようでした。

 第二次世界大戦勃発時、両大隊【第1大隊と第2大隊?】はインド・アッサム州のシロンに配備されていた。第2大隊は1941年に海外での従軍に動員され、イラクに戻り連合軍の石油供給確保作戦に参加し、その後シリアでヴィシー・フランス軍を撃退した。その後、北アフリカの第8軍に再移動し、1942年にトブルクで他の守備隊とともに捕虜となる不運に見舞われた。その間第1大隊は、急遽編成された第3大隊とともに、ビルマに侵攻した日本軍と戦うイギリス軍に加わった。インドへの撤退の際、多くの死傷者を出したが、両大隊は試練を乗り越えた。第1大隊は再装備、再訓練を行い、1944年にインパールで行われた日本軍の進攻を阻止する大防衛戦に参加した。その後、ビシェンプール近郊での戦闘で、若いライフル兵ガンジュ・ラマが見せた勇敢な行動が認められ、ヴィクトリア十字章が授与された。第1大隊はその後、インドで【かつて】中佐として第2大隊を指揮したウィリアム・スリム将軍の指揮の下、第14軍が行ったビルマ再征服作戦に参加し、メイクティラ攻略の第一人者として活躍する。また、パラシュート部隊に改編された第3大隊は、ラングーン解放のための空挺攻撃に参加した。このように東南アジアで展開される中、イタリアの第8軍に合流するため、再び第2大隊が新設された。モンテ・カッシーノでの記念すべき戦いに参加し、マルケ州の丘の上の町を占領したことで【その町の名である】「タヴォレート」という戦いの栄誉名を得た数少ない大隊の1つであった。




 他にも出てきたのが分かったら、また追記するかもです。



<2023/05/16追記>

 『中国=ビルマ=インド』に、グルカ兵らがビルマ戦の初戦でそれほど強くなかった理由について書いてありました。

 第17インド師団の大多数は、グルカ兵のほかに、シーク教徒、ラージプート族その他のインド人各部隊から編制されていた。彼らは軍人としては第1級だったが、これまでもっぱら北アフリカや中東の高度に機械化された砂漠戦に向けた訓練を受けていたために、ビルマのような戦場では不利だった。
『中国=ビルマ=インド』P23


 確かに他の資料でも、ビルマ戦初期の英連邦軍の車両等は砂漠迷彩のままだったというような記述が出てきますし、砂漠戦用の訓練しか受けていなかったという話がありました。

 そうすると、それらの理由のためにたとえ「最強」と言われるグルカ兵といえど、ビルマ戦初期においてはアクションレーティングを低くレーティングされるのが当然である……と言えそうですね。(やった! 問題解決!(^_^;)


<追記ここまで>


<2023/06/21追記>

 『アーロン収容所』を読み返しているのですが、その中にグルカ兵に関して書かれているところがありまして、興味深かったので引用してみます。



 グルカ兵は馬鹿正直で勇敢で規律正しく剛健愚直の見本みたいなもので、戦争中も第一線に立ち日本軍をさんざん苦しめた。監視兵としてもイギリス人にはまったく忠犬といった恰好だった。個人的にはいい男ばっかりだったが、私たちにとってはとにかく難儀な代物であった。
『アーロン収容所』P124


 グルカ兵はどんなに暑くてもボタン一つはずさなかったそうで(一方、インド兵などは規律はあまりなかった)、グルカ兵の監視に辟易していた捕虜の日本兵達は、トイレ一つにも監視のためについてくるグルカ兵を弱らせてやろうと、頻繁に、しかもなるべく遠くのトイレに行ったりして、それにいちいち付いてきたグルカ兵は真っ赤になって汗だらけになってくたびれ果ててしまっていたとか。(P125)

 また、日本兵がさせられる作業の中に電気溶接をやるところがあって、グルカ兵がこういう珍しいものを喜んで眺めたがることから、うまく連れ込んで「面白いだろう」と見せているとグルカ兵が一時間くらい見続けて眼がおかしくなって倒れるので「ざまみろ」と思っていたとか(P126,7)。

 また、似顔絵を(下手ながらなるべく美男子に)描いてやり、勲章を赤鉛筆で塗ってやると顔をくしゃくしゃにしてあどけなく喜んだとか、そのうち監視のグルカ兵達が女の絵を描け、裸の絵を描けというので、著者が(下手ながら)なるべくゆっくり女の絵を描いてそれにグルカ兵達が釘付けになっているうちに、他の日本兵捕虜達が物資の泥棒をしていたとか(P128,9)。


 本当に純朴だなぁという気がします(^^)


<追記ここまで>


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年初頭の在ビルマ部隊の実情その1

 OCS『South Burma』(仮)の初期用のユニットを作ってみようと思ったのですが、そのために過去に集積した情報を読んだりしていると、まだちょっと「情報のまとめ」とかをして自分の中での理解度を増しておいた方がいいような気がしました。


 まずは、1942年初頭の在ビルマ部隊の実情について。

 ↓は前回のブログ記事に挙げていたものですが……。

 ビルマの人口は1941年に約1700万人で、その3分の2はビルマ族、残りはシャン族、カレン族、チン族、カチン族など、さまざまな少数民族で構成されている。イギリス植民地時代には、イギリス人が最上級の支配階級を占め、その下の支配層に中国人華僑やインド人、さらにその下の郵便局員や巡査などにカレン族などの少数民族を使った。経済活動においても、地主や金貸しはほとんどインド人が占め、流通業は主に華僑が握っていた。こうして多数民族のビルマ人は最下層の百姓と労働者に抑えこまれ、少数民族と対立させる分割統治が厳格に行われていた。英国傘下の現地軍(開戦時のビルマ師団)は少数民族やインド出身のパンジャブ族が主となって構成され、ビルマ族は兵員の2%に過ぎなかった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P9



 ビルマ人(全般)に関してこのような記述も見ていまして、興味深いところです。

 我々のようにビルマから帰還した者や、その後ビルマの国を初めて訪れた人々の中で、ビルマ人に接触の機会が多ければ多いほど、ビルマ人の人情のこまやかさ、暖かさに触れ、いちように懐かしい想い出を抱き、深い感銘を受けて、いわゆるビルキチ(ビルマ気違い)とか、ビルマメロメロになってしまうというように、実に不思議な魅力に取りつかれてしまうのである。
 【……】
 まず挙げられることは、おおらかで明朗快活な国民性にあるだろう。
 次に考えられるのはビルマ人の義理堅さかもしれない。【……】
 彼らはプライドがいたって高いが、誠意をもって接すればどこまでも親切で、時には身を犠牲にしてでも協力してくれる誠実さと熱意をもっている。ひとたび恩義を受ければ、いつの日かはお返しをせねばという律儀さを持っている。

『ビルマ戦とビルマ -ビルマを愛する一兵士の記-』P2,3




 ↑この本にはビルマ史についてもある程度書かれており、イギリス支配期の記述で目に付いたビルマ人側の独立運動としては1930~32年頃の「サヤー・サンの反乱」というものがありました。

 僧侶の前歴を持ち、医者で星占い師のサヤ・サンは民衆に叛乱を説いて歩いた。タラワディへ行くと、農民は叛乱する寸前で、同調者が集まっていた。だが村の長老は武器も持たぬ彼らの旗上げを危惧し、税金の棒引、できぬなら納税延期を交渉するから、起を待てとさとした。長老達は懸命に嘆願したが、取りつく島もないような返事しか帰ってこなかった。
 サヤ・サンはビルマ王を名乗り、刀や棍棒で武装した農民と、英政庁の出先機関を襲った。最初のうちは一笑に付していた英国側も、事態の重大さに気付き、軍隊を出動させて鎮圧に当らせ、村を焼き村民を射殺し、サヤ・サンを逮捕したが、叛乱は燎原の火のように拡大し、下ビルマ、中ビルマ、上ビルマ、シャン諸州へと拡がった。軍隊などに殺されたビルマ人は1万人にのぼり、投獄された者は9000、絞首刑に処せられた者はサヤ・サンを含めて128名と記録されている。サヤ・サンの弁護人はバ・モウ博士であった。
 悲しいことに英国はこの叛乱の原因が何であったか、知ろうともしなかった。叛乱は絶望のための叛乱である。坐するも死、叛乱するも死という農民の切実なる気持など、全く察するすべもなく、英国人は討伐に行き農民を射殺して、ラングーンに帰ると享楽にふけるという有様で、全く真相を知ろうともしなかった。
『ビルマ戦とビルマ -ビルマを愛する一兵士の記-』P80




 この治安問題のためにイギリス軍部隊が駐屯しており、またビルマ族から部隊を編成するにも積極的になれないという状況であったようです。

 【ビルマ人が独立を視野に入れた自国の運営を望むようになり、1937年にビルマ行政がインドから分離されると】同時に、ビルマ人は国政においてより大きな力を持つようになった。その結果、政治的な問題への関心が高まり、ナショナリズムが高まった。若いビルマ人の中には、教育を受けた優秀な者もいて、独立を主張するようになった。後述するように、日本軍はこの動きにいち早く乗じた。一方、イギリスは潜在的に内在するこの治安問題をよく認識していた。この問題に対処するため、ビルマにはグロスタシャー連隊第1大隊(1st Glosters)とキングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵【連隊】第2大隊(2nd KOYLI)の二つのイギリス軍正規部隊が配備されており、ラングーンとマンダレーにそれぞれ駐屯していた。

 ビルマには小さな軍もあった。このビルマ軍の将校は、イギリス軍とインド軍から出向してきた将校が務めた。しかし、ビルマは長い間、軍事的な僻地とみなされていた。ビルマへの赴任は、野外スポーツや楽しい生活に興味がある人には好都合だが、キャリアアップに興味がある人には何の価値もないと考えられていたのだ。そのため、野心的な陸軍士官でビルマに行くことを選択する者はほとんどいなかった。ビルマ軍総司令官への任用は、定年退職を控えたインド陸軍将校のお偉方の最後の赴任先となるのが通例であった。しかし、1938年から1941年後半にかけて、イギリス政府からビルマで戦争が起こる可能性は非常に低いと何度も聞かされていたにもかかわらず、ビルマで何が起こるかわからないと考え、最善を尽くした人々がいたのである。4個あったビルマライフル大隊を8個に拡張する合意が得られ、ビルマ工兵中隊が創設され、一方政治的圧力に応えて中央ビルマのビルマ族も採用されるようになった。人口の大部分を占めるこれらの低地出身者は、それまで入隊していた丘陵地帯の人々ほど忠誠心や信頼性があるとは考えられていなかったが、それが証明されることになった。これらの新しい部隊の将校や教官は、以前からあったビルマライフル大隊や2つのイギリス軍大隊から抽出された者達であった。1940年11月には、ビルマ補助軍【Burma Auxiliary Army】(植民地軍に似たもの)への入隊が、軍歴のあるヨーロッパ系イギリス人に義務付けられ、この国と言語に関する知識を持った経験豊かで有能な若者の貴重な供給源となった。

 この軍のほかに、市民統制下で強力な憲兵隊であるビルマ憲兵隊があり、その一部は後に分割されてビルマ国境部隊と呼ばれる部隊が編成された。後者の部隊は、ビルマに居住するインド人とグルカ人が中心となって構成されていた。平時の憲兵隊は評判がよく、ビルマ国境部隊は有用な情報源であり、前哨部隊として多くの場合に役立った。しかし、正規部隊を持つ敵との正式な戦闘のための訓練は受けておらず、当然ながらあまり役に立っていない。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P37,8


 ビルマで上級司令部や師団長に選任されたイギリス人将校達は、一流の相手と戦うにはほど遠い編成と部隊を与えられ、日本軍の攻撃からこの植民地を守るために必要な強さ、装備の規模、何よりも訓練に大きく欠けるものであった。1941年、複数の戦域の需要が競合していたため、極東地域はイギリス本国の防衛、中東の保持、ソビエト連邦への戦争物資の供給という差し迫った必要性の陰で、最後になってしまったのだ。マレー司令部は、極東におけるイギリスの植民地支配の主要な盾として、利用可能な援軍の大部分を依然として指揮しており、ビルマ軍は、日本軍からの「脅威」の高まりにもかかわらず、信頼できる防衛を行うのに十分な人員と物資が決定的に不足していた。この植民地【ビルマや極東地域?】での軍事活動のテンポは徐々に速くなり、1940年から1941年にかけては幾分煮え切らないながらも、深刻な資金不足にもかかわらず、工兵2個中隊の追加措置等の、守備隊を戦時態勢にするための措置が取られた。ビルマライフル4個大隊が追加で編成され、連隊の兵力は倍増したが、これはイギリス軍部隊から将校と下士官を引き抜き、ビルマ人と在ビルマインド人を入隊させたものだった(1939年には、ビルマ防衛軍にはビルマ族472人と、カレン族、チン族、カチン族の3,197人だけだった)。ビルマ国境部隊の戦力も増強され、テナセリムとシャン州の部隊が軍の指揮下に置かれ、小さな快速部隊や分遣隊(馬に乗ったものもある)に編成されて、飛行場の警備、要所の守備、正規部隊の側面の保護、侵入部隊への対処などの任務に就いた。残念ながら、これらビルマ人守備隊の急速な拡大は、短期的には軍事的効果を低下させ、武器、弾薬、装備の不足が訓練の妨げになった。武器、弾薬、車両、医療品、その他の防衛のための備品、なかんづく大砲、対空砲、対戦車砲の在庫は存在しないままであった。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P17,8





 とりあえず今、OCS『South Burma』(仮)の最初の5ターンを再現するために必要な英連邦軍側の部隊ユニットとしては以下のものがあります。部隊名の下の数値等はユニット案で、「戦闘モードの能力」「名称」、そして括弧内が「移動モードの能力」です。

第16インド旅団(ジョーンズ准将:第17インド師団所属)
 第7グルカ連隊第1大隊【国境沿いに配置】
  2-1-3 1-7 Gu Inf Bn (1-1-4)
 第4ビルマライフル大隊【稜線上に配置。マラリアで2/3。警官を集めたもので、まったく訓練されていない】
  1-0-2 4 Bu Inf Bn (0-0-3)
 第9ロイヤルジャート連隊第1大隊【コーカレイに配置】
  2-1-3 9 Ja Inf Bn (1-1-4)
 第12国境部隊連隊第4大隊【モールメンを守備する第2ビルマ旅団に配属されなおしていた】

 第2ビルマ旅団【モールメン守備:第17インド師団所属】
(元々、モールメン、タボイ、メルグイ地区守備)
  第3ビルマライフル大隊(2個中隊欠)【3個中隊で1個大隊?だとすると、存在しないに等しい?】
  第7ビルマライフル大隊(第16インド旅団から?)
   2-0-2 7 Bu Inf Bn (1-0-3)
  第8ビルマライフル大隊(最初からモールメンにいた)
   2-0-2 8 Bu Inf Bn (1-0-3)
  第12国境部隊連隊第4大隊(第16インド旅団から)
   2-1-3 4-12 FF Inf Bn (1-1-4)


 個人的には、8個のビルマライフル大隊の民族構成が気になるのですけども、上に上げた引用でも、

「1939年には、ビルマ防衛軍にはビルマ族472人と、カレン族、チン族、カチン族の3,197人だけだった」
「英国傘下の現地軍(開戦時のビルマ師団)は少数民族やインド出身のパンジャブ族が主となって構成され、ビルマ族は兵員の2%に過ぎなかった。」

 とある程度で、しかもその2つは数値的には整合性がどれほどかという気もします……。ただ、OCS『Burma II』の例に倣えば、これらのビルマライフル大隊はビルマ軍(人)ユニットの緑色ということになるでしょう。


 ↓OCS『Burma II』のビルマ部隊ユニット。

unit8686.jpg




 一方で今回、国境部隊(Frontier Force)について認識を深められたのは良かったです。第12国境部隊連隊第4大隊というのはOCS『Burma II』でも第17インド歩兵師団の中に存在しているのですが、ビルマ戦の最初の時のそれと同じ部隊なのでしょうか……?


 ↓OCS『Burma II』の第12国境部隊連隊第4大隊ユニット。

unit8685.jpg



日本軍は中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した?

 最近、ビルマ戦関係の本を読んでいて、日本軍のビルマでの軍律に関する記述が興味深かったので、ちょっと書いておこうと思います。


 私は基本的に、日本兵は(というか、他のあらゆる国の兵士達も)「ひどいこと」もしただろうし、「良いこと」もしただろう、どちらかだけなんてことはないだろう、と思っているのですが……。

 【人類学の調査のために1954年にコヒマを訪れた中根千枝】氏は土地の青年によってかつての激戦地に案内される。ナガ族の青年は途々賞賛をこめて語りかけるのである。日本兵が勇敢であったこと。彼らは英印軍の圧倒的に優勢な武器をものともせず、戦車に銃剣一つで立ち向かっていった。死を少しも恐れていなかった。そして、なかんずく軍律が厳しかったという事実を。
 戦後しばしば聞かされていた日本陸軍の、中国大陸やフィリピン、マレーでの非人間的な戦争犯罪の話を思いだし、思わず「軍律が?」と中根氏は尋ねた。青年は答える。
「日本の兵隊は私たちの婦女子にけっして悪いことをしませんでした。……英印軍のなかには私たちの婦女子にずいぶんひどいことをしたのも少なくありませんでした。私たちは、敗けたとはいえ、日本軍のあの勇敢さと軍律の厳しさを、今でも尊敬しているのです」と。
『列伝・太平洋戦争(下)』P9,10



 余談ながら、中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』は、日本社会がなんでこんな社会なのか(だったのか)ということに関して本当に示唆的で「……なるほど!」と思わされる本なので、興味のある人はぜひご一読されることをお奨めします。(ただし、出版からかなり経って、日本社会も結構変化しているとも思いますが、まあ日本社会の古い面の分析として)






 それはさておき。

 この『列伝・太平洋戦争』という本は、日本軍に批判的な半藤一利氏が(若い頃に)書いたもので、そういう意味で上記のような記述はやや意外という感を受けるのですが、この文は列伝(形式)の中の(コヒマに突進した)宮崎繁三郎将軍の項にあるもので、読み進めていくとこのような記述も。

 宮崎少将の指揮は厳格であり、「後退は一歩もならぬ」というのが少将の信念であった。しかし、原住民に対しては細かく心をくばった。集落を発見すれば、ただちに宣撫班をやり、進軍の意図や心配のないことを説明させ、村の入口には歩哨を立てた。
『列伝・太平洋戦争(下)』P15


 とすれば、あくまで宮崎繁三郎将軍が(例外的に?)軍律に厳しかったかのように受け取れなくもありません。






 しかしその後、『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』という本を読んでいて「なるほど」と思いました。

 中隊長から【ビルマに侵攻する予定の】15軍の厳しい命令の詳しい説明があったのは、タイ・ビルマ国境を通過したときだった。このとき、特に注意されたのは、中国での地域住民との愚行と失敗を繰り返さないよう、ビルマでは慎重に自重して行動せよということだった。そのため、日本兵が単独でビルマ人の家に入ることは禁止、住民からの食料と資材の購入は曹長以上の指揮のもとに行われ、略奪・収奪は厳禁だった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P21

(ちなみにこの体験談は、ビルマに最初期に入った第33師団所属の兵長のもので、宮崎繁三郎将軍はこの師団と関わりはありませんでしたし、まだビルマに入っていませんでした)



 ↑ビルマ戦線における日本兵など(看護婦も含む)の体験談61話(全部違う人の?)を時系列で並べて記述したもので、玉山和夫という方がまず英語版をイギリス、そしてアメリカで出版して好評を得て、その後日本語版も出版されたというものだそうです。



 「中国での地域住民との愚行と失敗を繰り返さないよう」という話を読んで思ったのですが、そういえば何かの本に日本兵の各戦場での振る舞いが数ページ羅列されていて、その中では中国戦線では日本兵は結構ひどいことをしているのですが、その他の戦線ではそれほどではないなぁ……という印象を受けたことがあったのです。


 また『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』には、こういう解説文(体験談でなく)もありました。

 ビルマの人口は1941年に約1700万人で、その3分の2はビルマ族、残りはシャン族、カレン族、チン族、カチン族など、さまざまな少数民族で構成されている。イギリス植民地時代には、イギリス人が最上級の支配階級を占め、その下の支配層に中国人華僑やインド人、さらにその下の郵便局員や巡査などにカレン族などの少数民族を使った。【……】こうして多数民族のビルマ人は最下層の百姓と労働者に抑えこまれ、少数民族と対立させる分割統治が厳格に行われていた。英国傘下の現地軍(開戦時のビルマ師団)は少数民族やインド出身のパンジャブ族が主となって構成され、ビルマ族は兵員の2%に過ぎなかった。
『日本兵のはなし ビルマ戦線-戦場の真実』P9



 これもまた興味深い話で、イギリス人がビルマで現地人に対してどういう態度だったのかも色々知りたいですし、あるいは在ビルマの英印軍の詳細について今後調べていく時に、それぞれの部隊が何族でどこから来ていたのかもより詳しく知りたいものだと思いました(日本軍の各連隊がどこの都道府県出身だったかとかも含めて)。



 ともかく個人的に以前から、特にビルマ戦線で日本兵が現地人に対してどうだったのかということに結構興味を抱いていまして、そこらへんまた、ブログ上でとりあえずまとめ始めて追記とかしていきたいと思っています。


<2023/02/14追記>

 先日、ビルマ攻略戦の第15軍司令官として、略奪行為などを禁じた飯田祥二郎中将について (2023/02/13)に書いたのですが、「中国戦線での失敗に学んでビルマでは略奪を禁止した」のはどうも、ビルマ侵攻時の第15軍司令官であった飯田祥二郎中将であったように思われました。

 この中にあって、飯田のとった立場は、当時の陸軍将官の中にあっては、もっとも現地人側の立場を尊重したと思われる種類のものであった。飯田は、事実上の敵地と化してしまった中国本土における経験から、現地住民の支持を得ることが戦争遂行の上に如何に重要なものであるかということを充分に承知していた。かれはまた、満州あるいは華北において進められていた日本人による開発方式に対して批判的な立場をとっていた。
 飯田のもっていたこのような意見は、いくつかのかれの書き遺したものの中に含まれ、その多くが戦史叢書はじめ多くの書物に引用されている。その代表的な部分を一ヶ所だけ ここに引用したい。
「軍政の実施にあたり心配したことは、満州や中国で行なったやり方を、根本において違うところがあるビルマにそのまま持ち込みはせぬかということであった。ビルマではそれまでの町村制を復活させねばならなかったのに、軍人で頭の転換ができない者がいるのはまだしも、司政官として来た人が満州式や支那式で占領行政をやるつもりでかかるので嘆ぜざるを得なかった。日本がビルマの資源活用を図るのは当然としても、ビルマ人に譲りえるものは移譲する方針の下に準備したかった。たとえばシャン州を日本に割譲させようという考えを持つ人には強く反対した」
 飯田の現地人に対する態度は、そのほか例えば敵性華僑の取り扱いにおいて現われている。シンガポールにおいては、大本営からの指示と称するものに従って厳正な処断が行われたが、ラングーンなどにおいては逮捕した敵性華僑をビルマ・中国国境から中国領内に向けて放逐するなどの方法を採っていた。相手側の「敵性華僑」からしてみれば、これは正に歓迎さるべき措置であったろう。

『隠れた名将飯田祥二郎』P188,9



 一方で、たまたま見つけたネット上の論文に、ビルマにおける日本軍側からの残虐行為について書かれているのを見つけました。

「戦場の社会史 ビルマ戦線と拉孟守備隊」の検索結果

 ↑直リンクを貼るのが難しかったので、検索結果のページを貼りました。一番上のリンクが「後編」で、二番目が「前編」になっていると思います。


 N村さんが探してくれた書誌情報のあるページへは↓こちら(ありがとうございます!)。

戦場の社会史 : ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月-9月(前編)
戦場の社会史 : ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月-9月(後編)



 この論文は遠藤美幸氏という女性研究者の方が戦場体験者からの聞き取りなどから書かれたもので、この論文の後、『「戦場体験」を受け継ぐということ - ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』という本も出されていて、その中にも日本軍側の残虐行為について(ほぼ論文内と同様に)書かれています。





 論文の方は無料で読めますので、興味のある方はぜひ読んでいただければと思いますが、具体的な残虐行為についてここに引用しておけば、例えば以下のようなことが書かれていました(もちろん、信憑性については色々議論があろうと思います)。

 松山(拉孟)付近で陣地構築が開始された1942年5月以前から,日本軍は現地住民を松山付近から強制的に退去させようとした。中国史料によると, 731部隊が細菌を松山付近の竹子坡村で散布し,その後現地で「鳥の巣病」と呼ばれる風土病が流行し, 多くの部落民が死亡したという記録が残されている。 「鳥の巣病」の症状は,ハルピンでのペスト菌による症状と酷似していたので,後に「ペスト」だと断定された。1942年5月から9月までの5ヶ月間,拉孟陣地に最初の観測所を形成した野砲兵の関昇二中尉によれば,「拉孟の周辺には人気のない廃屋はあったが, 住民の姿はなかった」と証言していることから,日本軍は陣地構築以前から現地住民を強制的に退去させていたと考えられる。 品野によれば, ペスト菌などによる汚染の諜略は,日本軍撤退後の混乱を狙うために用いられたが, 陣地構築前に実施された可能性が指摘されよう。 伊香によるペスト被害の事例では,「撤退時に日本軍に敵対的であった村人にはペスト菌入りの黒い注射をし, 維持会のメンバーで日本軍に協力的な村人には白い注射をした。 黒い注射をされた者の9割はペストの伝染病で死亡した」とある。
 松山周辺の竹子坡村の場合は,1942年に日本軍が突然村にやって来て怪しい行為を行っている。 ある者は土地を測量すると言ってやって来て, 村の山の上に簡単な旗を立てただけで実際に測量はしなかった。また別の者は,肩に大きな箱を担いで木製の人形劇をすると言ってやって来たが,彼らは何のためにやって来たのか,本当の目的がわからなかった。日本軍は1942年5月から竹子坡村の周辺にある山, つまり松山に拉孟陣地を構築したが,そこは以前に怪しい者がやって来て旗を立てた場所であった。
 日本軍は進駐後の1942年9月から1943年3月頃まで、拉孟の周辺部で敗走できなかった中国軍の残兵に対して大規模な掃蕩活動を展開した。この期間に現地住民に対する集団虐殺や村全体を焼却するなどの行為も度々行われたようである。
戦場の社会史:ビルマ戦線と拉孟守備隊1944年6月-9月(前編) 106(540),107(541)


 最後の文の1943年3月というのは飯田祥二郎中将がビルマから離任した時期なので、だとすれば飯田中将が司令官であった時期にも集団虐殺はあったということになりそうです(なかったとも考えにくいわけですけども。また、現地指揮官が勝手にやったことで、飯田中将はそれを禁じていたという可能性ももちろんあるでしょう)。


 あるいは例えば、『回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀 痛恨の手記』という本には、著者とその上官が拉孟・騰越地区で作戦行動中に奇襲を受け、「これはあの村が糸を引いたに違いない」と早合点して村を焼き払って帰って来たら、実はその村は苦心惨憺懐柔して情報収集の拠点としていたところで、参謀長に散々叱られたという話が出てくるのを見つけていました(P41,2)。




<追記ここまで>



ロンメルの強さの理由について

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)
ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について (2023/01/06)
ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである? (2023/01/07)
ロンメルの(細かい)軍事的短所は? (2023/01/08)



 今回のまとめの最後として、「ロンメルの強さの理由について」まとめようと思います。

 対比的な記述で分かりやすいのは、↓の文じゃないかと思います。

 近代的機械化部隊の戦闘は、指揮官のねらいによって、ちがった展開をみせる。食うか食われるかの肉薄戦に勝敗をかける指揮官もいれば、一撃、全軍の戦闘行動をマヒさせてしまうような、敵の中枢への攻撃をいどむものもいる。この二つの戦法をたくみに組み合わせるのが統帥の妙である。
 ロンメルは、経験的にも、本能的にも後者をえらび、アフリカ軍団のクルーウェル将軍は、勝つためには撃破しなければならないから、物量的勝利をめざした。まことにおそるべきコンビであった。
『ロンメル戦車軍団』P67

 古来名将といわれた人は、戦場の地形および相互に関連のある状況、個々の戦況と全般状況との関連を即座に把握するきわめてすぐれた能力を持っていた。ロンメルはこの点においてもずばぬけた才能を持っていた。北アフリカの戦場においては、戦況が迅速に推移する機甲部隊の戦闘の特質、および同戦場にあった部隊の大きさがほどよいスケールのものであったことから、このような指揮官の能力は大きな意味を持っていたのである。
 【……】奇襲的な方策を考案し、敵が予想すらしなかった行動に出ることによってその心理的なバランスを崩すという【……】
 指揮官たる者は敵のバランスを崩すにあたり、かえって自己の側のバランスを崩すようなことになってはならない。【……】「実行の可能性についてのセンス」つまり、戦術的、戦務的に実行可能なことと、不可能なことをはっきりとわきまえる能力が必要である。
『ドキュメント ロンメル戦記』P15



 私なりの理解でより付け加えていきますと……(これがまた、OCSのようなシステムでなければなかなかロンメルのようなプレイは不可能ではないか、とも思われるのですが)。

 ロンメルは、前線の敵部隊を撃破するよりも、敵戦線の後方へと突破機動したり回り込んだりして、敵が襲撃を予測していないような敵の中枢(司令部など)を突いて制圧してしまって敵を麻痺させたり、あるいは敵の大半を恐慌状態に陥らせたりして勝利を掴むということを狙ったし、またそれに長けていた。

 ということではないかと。
(OCSで、地形の特質をうまく利用しつつ、敵の意表を突いて司令部を踏んだり補給集積所を踏んだり、あるいは後方へと進撃して相手プレイヤーにパニックを起こさせるようなプレイが非常に得意な人……という感じでしょう。私もやられまくりましたし、あるいは私自身これを可能な限り狙っている面はあります(^_^; OCSのシリーズデザイナーであるディーン・エスイグ氏は、OCSを北アフリカ戦ゲームのために作ったかのような面もあります(未確認情報)。OCSに不慣れだと守備隊等を置かずにプレイして、相手にロンメル的なプレイをされて投了する可能性は高いだろうと思います。)

 これは、ロンメルが第1次世界大戦の後半に、大隊程度の部隊指揮官として大戦果を挙げてプール・ル・メリート勲章を得ることになった戦いなどで成功した戦い方であり、ロンメルはこの方法論で(もちろん色々修正しつつも)その後も戦っていったわけです。


 ただしその短所として、前線で即興でそれをやる傾向が強く、部隊を分割させてしまいがちだった(マンチネッリの意見)。また、特に第1次攻勢のトブルク攻略戦などで、スピード(タイミングの早さ)さえ早ければ敵を制圧できると思い込むあまり、情報収集がおろそかだったり、部下達への要求が苛酷で、失敗の原因を部下やイタリア軍のせいにして(後知恵からすれば)拙劣な襲撃を何回も繰り返させることになることもあった……。



 以下、収集していた他の、ロンメルの強さに関する記述を挙げていきます。

 ロンメルは、機械化部隊の戦闘というものは、たえず動いていることが必要である、という信念をもっていた。そして守勢にあるときでも、全般的な防御というワクのなかでなら、局地的な攻撃行動もゆるされるものである、と信じていた。
『ロンメル戦車軍団』P16


 ドイツは冷厳にして有能な将軍を、数多く生みだしているが、その間に伍してロンメルがひときわ目立っていたのは、彼がドイツ軍人精神に固有な剛直さを克服し、機に臨み変に応じる才能のひとだったためである。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P3

 【……】予想される危険を無視して、情況をぎりぎりのところまで利用する、ロンメルの臨機応変の巧妙さを示している。この特性は彼をたびたび思いもかけず危険な立場においたが、それでいながら、ことに不決断な敵に対して、徹底的に彼を有利にしたものである。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P41,42

 彼はこの【ポーランド戦の】実地教育で現代戦の技術について学ぶのを忘れなかった。地上部隊と空軍との密接な協力、低空飛行による〈地上攻撃〉の重要性を知った。【……】また後方地区に混乱を拡大することが、死傷者を与える以上に、しばしば敵の士気を阻喪させるのを学んだ。機械化戦ではしゃにむに急進し、敵地深く浸透に成功することが必要で、たとえ切り離されたり、敵の抵抗拠点を素通りして、その敵を後続する歩兵部隊にゆっくりと処理させるように残したりしても、さしつかえないのを学んだ【……】
 戦車は集団として使用し、"細かに"分散してはならないのを知った。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P79

 ロンメルは指揮官として、大胆不敵になる理由のない場合には、きわめて慎重だった
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P93

 もしロンメルが顕著な特性にめぐまれているとしたら、それは弾力性であった。おきあがり小法師のように、彼は倒れるや否や、またも立ち上がっていた。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P146

 決断こそはロンメルのものであって、優柔不断はそのとるところではなかった。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P159


 フリッツ・バイエルラインは戦後、イギリスの軍事評論家B・H・リデル=ハートとの対談で、砂漠の兵士には「身体的能力、知性、順応性、度胸、けんか早さ、大胆さ、冷静さ」が必要だと述べている。指揮官は、これらの資質すべてにおいてさらに優れていなければならず、「精神的に強く、部下に愛情を持ち、地形と敵を判断する本能を持ち、反応が早く、意気込みがある」ことも求められる。ロンメルはバイエルラインが知るどの将校よりも高いレベルでこれらの特徴を併せ持っていた、と彼は断言している。ロンメルはまた、クルセーダー作戦の際に師団から師団へと飛び回っていたのとは対照的に、この【ガザラの】戦闘ではエネルギーを一点に集中し、参謀には自分の居所をほどよく知らせておき、前線にいるときはほとんどいつもひとつの部隊、マルクス戦闘団にとどまっていた。
『パットン対ロンメル』P247


【バイエルラインの証言】「われわれはこう攻撃するつもりだったのです。ラムケのパラシュート旅団、第90軽師団、イタリア第20機械化軍団が、扉の翼のようにアラメイン戦線から北方へ進出する一方、DAK各機甲師団の任務は敵第8軍を包囲し、背後から戦車で殲滅することでした。これがロンメル得意の戦術です。トブルク、マルサ・マトルー、ガザラでもこれで勝ってきました。アラメインでも成功するはずだった。心理的効果の狙いもかなりありましたね。戦線が突破されてドイツ軍が背後にいるとなると、これまでの経験では敵は恐慌を来たしたものです。もちろんDAK機甲師団は戦いながら大きく迂回するのですから、大量の燃料がいります。そればかりでなく、奇襲と急進撃が必要だった。敵にこの作戦に対応して移動するひまを与えないために。つまり成功は燃料と奇襲とにかかっていたのですよ」
『砂漠のキツネ』P249



 また、フォン・メレンティンの証言によると、ロンメルによる状況把握能力、決定の速さ、そしてまた命令を出しておく能力も驚異的であったそうです。

 ロンメルは幕僚達と連絡の取れない日が何日にもなることがあり、毎日のブリーフィングに間に合うように司令部に戻ってくるのは稀だった、とフォン・メレンティンは言った。「彼は戦場から埃と汚れにまみれて到着すると、司令部に乱暴に入ってきてぞんざいに「Wie ist die Lage?」(状況はどうか?)と言う。ヴェストファル(作戦参謀)と私(情報参謀)はすぐに簡潔で明瞭な5分間の要約でそれに答えたものだった。砂漠の狐は、事実を分析し、それに基づいて行動を決定するのに30秒とかからなかった。そして、1週間分もの服すべき方針と命令を出すことも往々にしてあったが、それに修正が必要になることはほぼなかった」と彼は驚嘆と共に語った。
「Portrait of a German General Staff Officer」『Military Review 70(April 1990)』P74,75




 改めて書きますと、OCSでもこういう戦法を「狙えばできる」というものでは全然なく、経験、あるいはセンス、能力が非常に必要だと感じます。もしロンメルばりの能力を持った人とOCSを対戦するとなれば、ボコボコにやられまくって「(ロンメル)恐怖症」になるんじゃないでしょうかね……。


ビルマ戦線:ABDA総司令官ウェーヴェルから、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿への流れ

 以前から何度か触れていました、第二次世界大戦の日英戦についての研究報告書をまとめた「平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書」に再び目を通し始めました。(OCS『South Burma』(仮)の作業に再び取りかかり始めるため&パソコン作業していると目がしんどいので、少しでも楽な印刷物に逃避するため)


平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書



 その中で、良く分かっていなかった、ビルマ戦線の連合軍側の最高司令官であった「ABDA総司令官ウェーヴェルから、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿への流れ」ということについて、分かりやすく書いてあったことを再認識したので、そこの部分だけ抜き書きし、また他の情報も探して付け加えておこうと思いました。

General Archibald Wavell

 ↑ウェーヴェル(Wikipediaから)


Lord Louis Mountbatten Visits Malayan Contingent, Kensington Gardens, London, England, UK, 1946 D28023

 ↑ロンドン・ケンジントン宮殿のマレー人の兵士を閲兵するマウントバッテン卿(1946年)(Wikipediaから)



 その会談【アルカディア会談:1941年末から42年初頭】では、世界的な戦時意思決定機関を設立することも同意された。それを受けて、合同参謀本部(CCS)が設立され、日々の戦争行動が調整され、連合国の戦略の調和が図られた。アジア・太平洋地域に関しては、日本の攻撃の脅威にさらされる地域全体を対象とする米・英・蘭・豪軍の包括的な司令部として、ABDA(米、英、蘭、豪の略)を設立することが同意された。英米とも、日本がその戦域を自由に占領し、連合軍がさらなる危機に陥ることを認識していたので、報われないABDA の司令官に自国軍人を推薦しようとはしなかった。結局、インド駐屯軍司令官であった陸軍大将(のち元帥)アーチボルド・ウェーヴェル卿がその任に就いた。そして、予想されたとおりウェーヴェルは、オランダ領東インド諸島、マレー、シンガポール、ビルマで連合軍の一連の敗北を目撃し、ABDA の司令部はその目的を完全に失ったのである。1942年3月始めにABDA は解散し、派手で議論好きな米国のダグラス・マッカーサー大将の下、南西太平洋方面連合軍司令部として1942年4月に再構成された。
『サキ・ドクリル 対日戦に関する英国の大戦略』P47(平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書)



 日本語版Wikipedia「ABDA司令部」には↓のような記述もありました。

 ABDA司令部の総司令官には、マーシャル米陸軍参謀長の推薦により、イギリス人でインド駐留軍司令官のアーチボルド・ウェーヴェル陸軍大将が任命された。副司令官にはアメリカ陸軍航空軍のジョージ・ブレッド将軍が任命された。この南西太平洋方面連合最高司令部の設置はアメリカが主導権をもっており、「敗戦の責任をとりたくないので、アメリカ人以外を最高責任者に据えた。」という見解もある。 実際、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官はニミッツ提督(太平洋艦隊長官)に「第一優先事項:アメリカ大陸~ハワイ諸島~ミッドウェー島の補給線を確保せよ(ハワイの維持)」「第二優先事項:アメリカ大陸~サモア諸島やニューカレドニアを確保する(オーストラリアの維持)」を命令しており、アジア方面は二の次であった。彼等はアジアの連合国軍が崩壊して日本軍が同方面を全て占領することを計算にいれており、ABDA部隊は「全滅するまでに、少しでも日本軍の進撃速度を遅らせる」ことを期待されていた。

 イギリス軍とアメリカ軍を指揮することになったウェーヴェル最高司令官は「赤ん坊を引き取る羽目になった男の話は聞いたことがあるが、これは双子なんだからね」と躊躇したが、チャーチル首相の説得に応じて任務を引き受けた。1942年1月7日、ウェーヴェル総司令官はシンガポールに到着した。



<2023/07/06追記>

 ウェーヴェルがABDA司令部を引き受けた時の軍の同僚の感想などの興味深い記述を見つけたので、追記しておこうと思います。

 12月29日、チャーチルはデリーにいるウェーベルにこう電信した。「これほど多くの戦場を一度に扱える経験を持つのは君だけだし、我々も君を支援する。君は最善を尽くすことだろう。この状況がいかに暗く困難なものかは誰もが知っている」。ウェーベルが赴任の知らせを受けたとき、軍の同僚はこう日記に書いた。「彼(ウェーベル)がこれまでに与えられた不公平な扱いや、魔法の杖も振らずに奇跡を起こすよう求められてきたあらゆることの中でも、このABDA司令部は最悪の例だ。」
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P49



<追記ここまで>




 ウェーヴェルの役職の細かい期間は、日本語版Wikipedia「アーチボルド・ウェーヴェル(初代ウェーヴェル伯爵)」によると、

1941年7月11日~1942年1月16日:インド駐留軍司令官
1942年1月15日~1942年2月25日:ABDA司令部司令官(2月25日に司令部が解散)
1942年3月6日~1943年6月20日:インド駐留軍司令官(再任)
1943年10月にインド総督リンリスゴー侯爵が退任すると代わってインド総督に就任

 1942年のビルマ攻略戦は1月20日頃に開始され、5月頃に終わっています。その後、1942年9月21日から第1次アラカン作戦が始まり、1943年5月頃までに終わりました(共に、雨季が始まるため)。ですから、ウェーヴェルはビルマ戦を、最初は(数日前に任命された)ABDA司令部司令官として指揮し始めたものの、1ヵ月後くらいにはABDA司令部自体が解散され、その後再任されたインド駐留軍司令官として指揮し、第1次アラカン作戦(また、第1次チンディット作戦も)をその立場で指揮したということになりそうです。


 ↓そこらへん関係の過去ブログ記事です。

ビルマ戦におけるウェーヴェル将軍について (2022/05/11)
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』による、第1次アキャブ戦の総括と分析 (2022/05/03)
インド人300万人を死に追いやったチャーチルvs.ウェーヴェル将軍の戦い (2018/05/13)





 一方、こっちはまだ全然調べたこともない、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿について。

 マウントバッテン卿は、それまでに例えば、ディエップ港奇襲作戦を指揮したりしていました。

 1942年8月19日にはノルマンディー上陸作戦のリハーサルとも言うべきディエップ港奇襲作戦を指揮。作戦そのものは大損害を蒙ったものの、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想している。
日本語版Wikipedia「ルイス・マウントバッテン」


 英国は、対日戦における目的の真摯さを米国に示し、東南アジアにおける英国のイメージを回復させるために、1943年の夏に海軍提督ルイス・マウントバッテン卿が率いる東南アジア連合軍(SEAC)を設立することを提案した。マウントバッテンの任務は、ビルマ、マレー、および東南アジアのその他地域から日本軍を一掃し、ビルマ北部を通って中国に至るルートを再開させることであった。
 キングジョージⅥ世の従兄弟であり、英海軍最年少の中将であったマウントバッテンは、1943年8月に東南アジア連合軍の総司令官の任に就いたときは42歳であった。副総司令官にはスティルウェル中将が就任した。SEACに派遣された米軍将校の多くは、居心地の悪さを感じた。アジア人からは、東南アジアの大英帝国を取り戻す活動にアメリカ人が手を貸していると見られる可能性があったからである。米軍将校たちは、SEACを「Save England's Asiatic Colonies―イギリスのアジア植民地を救え」と呼んだ。SEACは、連合軍の優先順位リストの比較的下位に位置していた。マウントバッテンは、その軍事目的の達成に必要な資源と兵士を何度も奪われた。恐らく、東南アジア戦域は、英米が共同で戦った戦域のなかで、最も失敗が多く、政治的に分断されていた戦域であった。
『サキ・ドクリル 対日戦に関する英国の大戦略』P54(平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書)




 また今後、ここらへんのことに関して理解が深まったら、追記していこうと思います。


OCS『Tunisia II』カセリーヌ峠シナリオの勝利条件改造案

 VASSALでOCS『Tunisia II』のカセリーヌ峠シナリオをタエさんとプレイしていました。


 






 私が枢軸軍側で、ダイス目が割と良かったのでテベッサ(Tebessa)の攻撃までは行きましたが、最終的には(史実通り)敗北しました……。

 史実的に考えても枢軸軍の勝利は非常に難しい(SP的にも)と思われるのでそれは別に全然構わないと思うのですが、ちょっと気になったのは勝利条件設定が良くないのではないかということでした。


unit8688.jpg


 赤い線が大まかな最初の戦線で、青色の矢印が史実の攻勢です。勝利条件ヘクスは赤い○の5つで、北端の4つが連合軍補給源、そしてテベッサ(Tebessa)です。

 勝利条件は、枢軸軍がテベッサと補給源1つを占領すること。連合軍がテベッサを持っていることです。

 しかしそうすると、どうしてもテベッサが最重要(というか他はどうでもいい)ということになり、テベッサでガチンコで殴り合うことになります。今回そうなりました。これはなんかしら、勝利条件を改造した方が面白いのではないかと。


 タエさんにも意見を聞いてみたところ、バランスとして連合軍の方が有利すぎるし、「枢軸軍は勝利条件ヘクスの5つのうち1つを占領していれば勝ち」でも良いのではないか、そしてその方が連合軍としても枢軸軍としても色々選択肢が広がったり、配慮すべきことが増えるのではないか、ということでした。(連合軍は「それを阻止すれば勝利」でしょうか)

 私も「それはアリかなぁ」と思いました。私の記憶では、ロンメルはそもそもチュニジア北岸へと突破してチュニス方面の連合軍を補給切れにすることを狙っており、別にテベッサを占領することが目的ではなかったと思いますし。


 もちろん、それでプレイしてみるとまた何か問題点が発覚するかもなのですが、一つの案として、とりあえずブログに書いておき、また機会があればプレイして検証できればなぁと思います。

OCS:司令部が戦闘モードの支給範囲内の全独立ユニットに給油した後、移動モードになって移動して良いか?

 OCSの燃料給油関係で最近迷うことが多かった問題に関して、念のためfacebook上で質問してみてました。


 OCS12.5cのB)司令部方式に関してです。

B)司令部方式 司令部毎に1SPを消費して、その司令部自身と、その支給範囲にいるすべての独立ユニットに燃料を供給します。この給油状態は、次の自軍クリーンアップフェイズまで持続します。司令部の上に給油状態マーカーを置いてこの状態を表します。12.5e参照。
【エラッタ:独立ユニットが移動のためのこの“フリーの燃料”を得るためには、フェイズ毎に給油状態マーカーを載せた司令部の支給範囲内にいるのでなければなりません。また、12.3b(D)のため、そもそも給油状態マーカーを載せる時に消費するSPは、その司令部が直接受給の形でSPを使ったのでなければなりません。】




unit8689.jpg


 画像左下のハイスタックの中のイタリア軍司令部(戦闘モードで8-0)が司令部方式で1SPを消費すると、同じスタック内の自身を含む独立ユニット(ストライプのないユニット)5つと、2ヘクス上の独立ユニット1つと、赤い矢印のようにして8移動力+1ヘクスで独立砲兵ユニット1つに給油できます。最後の1ユニットは、戦闘モードでないと給油できません(移動モードだと支給範囲が5になってしまうため)。

 で、その給油後に司令部が移動モードになってしまって、移動して良いのか? というのが気にかかっていた点でした(ものすごく厳格な方向に考えると、「移動モードになる(つもりがある)のならば、給油も移動モードにおいてやらなければならない」可能性があるのかもという懸念があるかな、と)。しかしルール上はそれを禁じるような文言は見つけられないので、他のプレイヤーに「いいですよね?」と毎回断ってやっていたのですが……(^_^; もう、もやもやを一掃する意味でも質問してしまおうと。


 するとやはり、「問題ない」ということでした。懸念を払拭できて良かったです。



 この司令部方式に関してまとめておきますと、

・給油(1SPを払って)は、移動フェイズ、突破フェイズ、リアクションフェイズのどの最中でも可能です。リアクションフェイズ中の給油は、司令部も独立ユニットも、予備マーカーが載せられていたかどうかにかかわらず実行できます。
(↑は司令部方式に限った話ではないですが)
 →OCSでのリアクションフェイズ中の給油(移動できない、させないユニットにも給油できるか?)について (2021/09/13)

・ただし(当然ながら)モードを変更できるのは移動フェイズ中のみです。ですから、「戦闘モードで給油」「移動モードになって移動」というのは移動フェイズ中にしかできません。

・ちなみに、戦略移動モードの司令部は補給を支給できません(OCS 5.8b)ので、その司令部を戦略移動モードにした場合、後述の、突破フェイズ中やリアクションフェイズ中に給油状態マーカーを載せた司令部から「フリーの燃料」を得ることはできないということになります。

・さらに付け加えるならば、前ターンに戦略移動モードであった司令部をこのターンに移動モードで移動させる、という場合、「戦略移動モード」から「移動モード」への変更であるため、その間に戦闘モードを挟むことはできず、「戦闘モードで給油、その後移動」ということはできません。

・いったん給油状態マーカーを置いた司令部からは、クリーンアップフェイズまでは、その後の移動フェイズ、突破フェイズ、リアクションフェイズ中にもその司令部の支給範囲の独立ユニットは「フリーの燃料」を得ることができます。ただし、OCS 12.5eに「移動前の位置から支給するか、移動後の位置から支給するかを選択しなければなりません」という規定があるので、その点に注意すべきです。

・(これはルールの規定の話というわけではなく、プレイしやすい方法を選べば良いということだと思いますが)
 移動前に給油状態マーカーを置いた場合、facebook上では「その司令部は最後に動かすべきだ」(なぜなら、支給範囲等を明確にしておくため)という風に言われたのですが、私は個人的に「その司令部を割と早く移動させてしまって、補給チェック時の一般補給範囲を確認したい。ただし給油状態マーカーは移動前の位置に置きっぱなしにしておき、移動後の位置から給油はできないということを表す(移動前の支給範囲の数値は記憶しておく(^_^;)」という風にしています。


ロンメルの(細かい)軍事的短所は?

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)
ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について (2023/01/06)
ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである? (2023/01/07)




 今回は、ロンメルの軍事的短所についてです。

(あらかじめ書いておきますと、私は「人間は長所も短所もあるのが当たり前」「完璧な人間など存在しない」と思います)



 ロンメルの欠点としては、「戦略的見地のなさ(軍団長以上としては不適格)」「補給の軽視」「自己顕示的」あたりが有名だと思いますが、そこらへんは山崎雅弘さんや大木毅さんの著作に詳述されていますので、今回メインにしたいのはそれら以外のより細かい短所についてです。以下、引用の都合で短所だけでなく長所も混じっていますが……。

 マンチネッリによれば、ロンメルの戦術指揮所はよく管理され、機動性があり、迅速な作戦のために訓練されており、数分で(時には前触れもなく)実行に移るのであった。また時にそれは、ロンメルの車の後ろに付き従っていた者達だけによって行われたという。これらの動きは、常に戦闘の展開と効率的に関連していた。しかし、ロンメルとイタリア軍司令部との間の緊急連絡を繋ぐことを唯一の任務としていたマンチネッリにとっては、この指揮スタイルは常に絶望感を生み出すものだったし、また「ロンメルの軍事的欠点の一つ」となっていた。

 ロンメルは、戦闘の経過を追うために、常に参謀長やマンチネッリらを同行させ、適切なタイミングで適切な措置を取れるようにしていたのである。このような状況化で、ロンメルは、まさに「死を恐れず、獲物を逃したら怒る巨大な狐」のような存在だった。

 防衛戦では、ロンメルはまた異なった様子であったとマンチネッリは言う。ロンメルは軍団司令官達に敵を封じ込める防衛策を作らせ、自分は敵の作戦計画を確認し、攻撃の重心を見極め、反撃の判断を下すのであった。マンチネッリの指摘によると、ロンメルはせっかちな性格なので、頻繁に前線に出て自分の目で状況を確認していた - 1個軍を指揮する将軍のようにではなく、あたかも特殊部隊の指揮官のように - という。

 マンチネッリは、ロンメルは防御側になった場合、攻撃側とおなじような能力を発揮できなかったと述べている。しかし、ロンメルは防御する場合でも砂漠の広い空間を利用して、常に機動的に行動しようとした。また、ロンメルは圧倒されそうになったその端から、常に反撃を開始する用意ができていた。マンチネッリによると、ロンメルは「……危険に対する絶妙な感受性」に支えられた無自覚な勇敢さという個人的特徴を持っていたが、適切な航空支援がない場合には無力さを感じ、イギリス空軍の空襲がロンメルの決断の一部に影響を与えていたという。

 【……】

 マンチネッリの意見では、ロンメルの北アフリカでの「指揮の技巧」には、議論の余地のある要素が1つだけあった。具体的には、ロンメルは戦闘を即興で行うことに頼り、ドイツ軍が連携して一緒に戦う訓練を高度に受けていたにもかかわらず、小さな、相互に代替可能でないような混成の孤立した集団に分けてしまうことで、砂漠の軍全体の戦闘効率を低下させたというのである。ロンメルの指揮スタイルにおけるこの傾向は、一時的な状況、つまり攻撃的または反攻的な状況を解決するものではなかった。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P67,8

 それにロンメルは完璧ではなかった。恐らく彼が犯した最も大きな過ちは、彼が命令に従わなかったことだった。ロンメルはソ連との戦いが近いことを知らなかったが、彼の行動はその後2年以上にわたってドイツ軍の力を減じさせ、理念的政治的な観点から言って「真の戦争」であった対ソ戦からヒトラーの注意をそれさせたのである。だが、ロンメルがドイツ国民の英雄となったのは、彼の不服従がもたらした結果のひとつであった。
 もう一つのロンメルの欠点は、陸海空の統合作戦を理解しなかったことであった。例えば、彼は1941年初頭に彼が有していた小規模な空挺部隊や、陸海空軍共同能力をまったく活用しなかった。彼の欠点として、部隊を集中運用しない傾向にあったことも挙げられる。北アフリカ戦役中にロンメルは何度か、部隊を非常に遠い距離に展開させてしまい、集中することができずに勝利を逃していたのである。彼が士官学校の出身ではないということが、北アフリカ戦において最も重要であった補給将校との密接な連携ができない要因となっていたのかもしれない。後にドイツ軍を指揮して地中海戦域で指揮したケッセルリング元帥は、ロンメルは短気すぎ、イタリア軍との連携する方法を学ぼうとしない、と感じていた。それゆえ我々はこう言えるであろう。ロンメルは並外れた戦術家であり、兵士達に熱狂的に尊敬されたが、戦略家としては無能であり、またこの非常に重要な戦域で彼が望んだ、あるいは必要としていた支援を受けることは決してあり得ないことであった、と。
『Rommel's North Africa Campaign』P47

 彼の一層明確な欠点と思われるものは、戦略の執行面を無視する傾きがあったこと、および細かなはしばしに至るまで完全ではなかったということだ。同時に彼は権限を委譲する方法を知らず、それが彼の部下の指揮官達を非常に悩ませたのである。彼は万事を悉く自分でやろうとしただけでなく、すべての場所へ自分で行こうとしたために、度々司令部からの連絡がつかなくなって、何か大事な決定のために参謀が探している時に、彼は戦場を自ら乗り廻しているというようなことがあった。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P48,9



 ウォーゲームのプレイにおいても、「即興での細かい部隊運用で相手を翻弄する」のが得意、あるいは好きという人はいるかと思います(特に、OCSのようにユニットが多め細かめで移動力も大きくできるゲームにおいてはそれがかなり可能でしょう)。

 一方でクリューヴェルなどはむしろ「敵を撃破できるチャンスで部隊を集中運用して撃破してしまう」ことに重きを置いた指揮官であったようです。これらは個々の指揮官が「どこに重きを置くか」「好きか」というような話にすぎないのではないかとも思うのですけども、ただ、マンチネッリらが思うのは、「集中するのも良い(時もある)だろうと思うのに、ロンメルは分割運用に偏っていた」ということなのでしょうね。



 上陸作戦については、ガザラの戦い時にロンメルは、計画・準備はしたのですが、結局実行されなかったようです。

OCS『DAK-II』:ガザラ戦で敵後方に上陸しようとしていたヘッカー戦闘団 (2018/07/30)



 空挺作戦も、1942年7月にイタリア軍の「青年ファシスト」部隊によって行われたという話があるようなのですが、これはロンメルが指示したものではなかったということなのかもです。

 1942年の夏にはこの師団はエジプトのシワオワシスを占領したが、その目的はエル・アラメインを攻撃する枢軸軍の部隊の南にイギリス軍からの軍事行動の可能性を阻害するためであった。実際、1942年7月にはドイツ軍のJu.52輸送機がこの戦略的に重要なシワオワシスを攻略するために「青年ファシスト」の1個大隊を輸送し、アフリカにおいて枢軸軍による最大規模の空挺降下作戦をおこなった。師団の残りもすぐに駆けつけ、来なかったのは第4対戦車大隊の2個中隊だけであった。シワオワシスは連合軍の長距離砂漠挺身隊がリビア国内に襲撃するための中間準備地域になっており、今や枢軸軍側がやり返す機会が来たのであった。イタリア軍の計画立案者達はナイルへ繋がる道を切望していた。
英語版Wikipedia「136th Armoured Division Giovani Fascisti」



ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである?

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)
ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について (2023/01/06)



 この後、ロンメルの軍事的長所と短所についてまとめようと思っているのですが、その前に「ロンメルが北アフリカで強かったのは、英連邦軍の上級指揮官達が無能すぎたからである?」という説について(^_^;

 ロンメルが輝いて見えた理由の一つは、英連邦軍の質が低かったからであった。活力的な枢軸軍およびロンメルと相対した英連邦軍にとって、砂漠はためになる学習体験であった。多くの並外れた英連邦軍部隊が存在したにも関わらず、オコーナー将軍が捕虜となった後の英連邦軍のトップのリーダーシップは貧弱なものであった。多くのイギリス軍将官の無能さが際だったものであったために、それがロンメルをして良く見せることに繋がったのである。イタリアの歴史家Emilio Faldellaは述べている。
「ロンメル伝説は、イギリス軍によって作られた。彼らは彼らの敗北の原因を、敵陣営の側に並外れた将軍がいるからだとして正当化し、ドイツ軍やイタリア軍の将官達の方が質的に優秀であることを認めることを拒んだのである。」
『Rommel's North Africa Campaign』P46,47

 第8軍の指揮環境はといえば、これら【ドイツ軍の指揮環境】すべてからほど遠かった。上級将校は互いを嫌って信用しないのが普通で、命令がもとで議論が始まったり、協力したとしてもその場限りということが多かった。
『パットン対ロンメル』P257

 【……】アフリカ軍団はしっかりと組織された戦闘部隊であり、その指揮官達は共通の戦術ドクトリンと、規律の高さを誇っていた。対照的に、幾人かのイギリス軍の指揮官達の間の人間関係 - 特に機甲師団の間での - が最悪であることは皆が知っていることであり、しかも議論を元に命令を出すという一般的な傾向があった。
-南アフリカ軍公式戦史
『Rommel's North Africa Campaign』P150

 ガザラの戦いは北アフリカにおけるロンメルの最も偉大な勝利であった。彼の手綱さばきと、彼がイギリス第8軍に加えた執拗な圧力が、彼を傑出した機甲指揮官となさしめたのであった。対照的に、リッチー中将は優勢な戦力を持ちながらイニシアティブをまったく握ることも、アフリカ装甲軍に打撃を与えることもできなかった。この戦いは、ロンメルの機動にイギリス軍の将軍達が振り回される形で戦われたのである。
『GAZALA 1942』P14

 ロンメルは、フランスで機甲部隊を扱った経験を多く持った状態で北アフリカ戦域にやってきた。彼は大胆な機動と痛烈な攻撃を会得しており、大胆さと戦場における決断が常に敵の平衡を失わせるのだと考えていた。ロンメルは砂漠で相対したイギリス軍指揮官達が機甲戦術において劣ることにすぐに気付いた。彼らはめったに危険を冒そうとせず、敵をすり潰せるほどの圧倒的な戦力が集積できるまで待つ傾向があった。
『GAZALA 1942』P17

 彼【ロンメル】の勝利は戦車のみでなく、兵器と部隊の特長を把握し、それらを有効に組み合わせることにより成しとげられた。彼の戦術により、アフリカ軍団は常に優勢な敵と戦いつづけることができたのである。
 彼は機動戦というより攻勢防御の専門家であった。彼の部隊の移動は非常に早かった。そのスピードは、攻撃のためよりも、むしろ戦いに有利な場所に位置するために発揮された。敵が攻めなければならない位置に移動して守りを固める。これが彼の得意な戦法だった。イギリスの将軍たち、特にゴットやニームたちは、ロンメルの陣地に正面から攻撃をかけ、敗れ去っていった。彼らは、ロンメルに対し、中途半端な見敵必戦主義が役に立たないことが理解できなかったのである。
 ロンメルに対抗するためには、2つの極端なパーソナリティのうち1つを持たなければならない。
 1つは、ロンメルが有利な場所に移動する前に攻撃する。
 もう1つはロンメルが守りを固めても攻撃に出ない。そして、自分に有利な条件がそろうまで、じっくり待つ。
 この2つである。前者がパットン、後者がモントゴメリーを表している。ロンメルは北アフリカ戦の最後で、最もやりにくい相手と戦ったのである。
『アフリカンギャンビット』P18,9


 今回まとめてみたのは、英連邦軍の「指揮官」についての記述ですが、英連邦軍の「戦術」が良くなかった件については以前、↓でまとめてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)




 ただ、英連邦軍の上級指揮官が良くなかった件ですが、一番上の「中東戦域軍司令官」であったウェーヴェルオーキンレックは決して無能ではなく、(欠点はもちろんあったにしても)むしろ有能であったと評されていると思います。しかしこの中東戦域軍司令官というのは、エジプトとリビアの戦場だけでなく……どころか、中東を中心とするものすごく広大な戦域を統括する役職であったので、北アフリカ戦にだけ関わっていることはできませんでした。

 で、そのすぐ下の、いわゆる「第8軍」(初期は時期によって「西方砂漠部隊」「第13軍団」「キレナイカ地域守備軍」などがそれに当たると思われます)の司令官が、超絶優秀なオコーナーが捕虜になってしまって以降、モントゴメリーが就任するまで皆無能だった……。

 全員並べるとこういう面々になります。

オコーナー
ニーム
ベレスフォード=ピアース
カニンガム
リッチー
オーキンレック(直接指揮)
ゴット(実質的な指揮期間はゼロですが)
モントゴメリー


 それ以外でも、ゴットと並んでイギリス軍兵士達に人気のあった「ジョック」キャンベルも上級指揮官としてはロンメルにまったく敵わなかったであろうと目されていますし、軍団長、師団長クラスでも優秀な人物がいなかった(何ならほとんどみんな能力が劣っていたし、連携も全然取れていなかった)ようです。

 師団長の中では、第9オーストラリア歩兵師団長のモースヘッドや第2ニュージーランド歩兵師団長のフレイバーグなどはかなり優秀であったと思われますが、イギリス本国軍を率いていなかった(というか、イギリス本国軍指揮官達から蔑視されていたオーストラリアやニュージーランド軍部隊の指揮官であった)ことから、昇進できなかった面があるようです。


 結局、モントゴメリーが就任した後、それまで北アフリカで戦っていた上級指揮官達のほとんどがモントゴメリーによって解任され、モントゴメリーが連れてきた参謀や指揮官達によって、(もちろん物量もあって)ようやく最終的な勝利が勝ち取られたのでした。


ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について

 承前。


ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について (2023/01/05)


 今回は、「ロンメルの、反対意見に対する態度と、部下に対する態度について」です。



 例によって、マンチネッリの記述から。

 ロンメルは、ケッセルリング、カヴァレロ、バスティコの各陸軍元帥に非難されると激しく反応を示したし、他の誰でも(イタリアの将軍を含む)に反論されると手に負えなくなった。しかし、イタリアの将軍達を祝福する時の彼は大いに人間味があった。ただ、恥ずかしがり屋で、また決して言葉を飾り立てたりはしないことでその人間味は分かりにくくなってはいたが。

 ロンメルは、戦場では大いに柔軟性を発揮したのに、自分の見解に疑問を呈するような発言には柔軟に対応することができなかった。マンチネッリ自身は、ロンメルとは良き友人であったし、お互いに尊敬し合っていたと主張している。

 彼はロンメルと何度も議論する機会があったが、マンチネッリはそのような状況の中では、「ロンメルが自分の堅固な要塞に引きこもって、1ミリたりとも動かない」のを目の当たりにした。

 一方ロンメルが並はずれて高く評価したのは、彼に個人的な献身を示し、「疑問を持つことなく行動する確固たる意志を持って」彼の命令に従ったイタリアの将軍達だった。

 マンチネッリによれば、この中にはイタリアの将軍達の大半も含まれていたという。ロンメルは、ドイツ軍のであれイタリア軍のであれ、部隊指揮官達にこれらの条件が欠けていれば、その代わりを見つけることに執念を燃やした。

『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P65


 これを読んだ感じでは、今の日本社会の感覚からすると「とんでもない中間管理職」という感じがしますが……(^_^;


 ↓こういう記述もあります。

 【ロンメル】将軍はその姿を見せる至るところで、全将兵の熱意と気力を、ふるい立たせた。彼は自己と同じような熱意と行動力を欠く部下を、黙認しておくことができなかったし、率先してことに当る勇気のないものは何ぴとといわず、仮借なく取り扱った。出て行け! 即刻ドイツへ送り返されてしまった。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P52

 彼【ロンメル】はまた、部下ひとりひとりが彼の切迫感を共有すれば、いかなる問題でも順調に解決すると考えていた。その心構えを受け入れて自分のものにしなかった者が重要な地位に長く残ることはめったになかった。ロンメルはおそらく自分が参謀としての訓練を欠いていたことを反映してか、参謀とは用心深いものだと考えていた。鉛筆をとがらせて作戦上の問題点を述べ、好機ではなく問題点ばかりに目をやりがちだというのである。指揮官は管理部門の判断を鵜呑みにするのではなく、独自に兵站業務上実行可能な見積もりを作り、それにしたがって要求を示すべきだ、とロンメルは反論した。
『パットン対ロンメル』P220,1

 アフリカ装甲軍のロンメル以外の司令官も、優秀な者が多かった。ロンメルは自分と波長の合わない者の代わりに、彼が望む機動戦を理解する者を部下に据えた。このことにより、アフリカ装甲軍は、非常にスムーズに作戦を遂行することができた。というのも、ロンメルがベルリンなどへ飛んで不在の時でも、彼の部下と参謀たちは、ロンメル流の機動戦を展開することができたからである。あるいは、そのような部下や参謀たちだったからこそ、ともすれば粋すぎるロンメルの行動に、歯止めをかけることもできたのだった。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP28



 実際、ロンメルの第一次攻勢でトブルクの攻略に失敗した時期にはロンメルの部下達の多くがロンメルに反発し、彼らはその後ロンメルによって更迭されています。しかしその後、ロンメルの求める条件に合うような部下が揃ってくると、第一次攻勢の時よりも高いパフォーマンスが出るようになってきたようです(ある意味、当たり前の話ではありますが(^_^;)。

 ただし、ロンメル自身が自分に厳しい人物であり、部下(部隊指揮官)にもそれと同等の水準を要求した、ということであります。

ロンメルが兵士達に好かれた理由について (2022/08/01)



 ところがイタリア軍は、貴族出身者が上級部隊指揮官となって贅沢し、責任逃れするというのが常態であったため(ドイツは第一次世界大戦敗戦時に貴族制度が廃止。貴族出身者への優遇やサークル意識はそれ以後も続いたものの、イタリアは第二次世界大戦時も依然として王国であったので、貴族優遇の度合いが強かったのだと思われます)、イタリア軍の下級指揮官達や兵士達にロンメルはものすごく敬愛されたのでした。

 また彼は活動的な若干の将校に、彼らの真価を発揮する機会を与えたのであるが、それは年功序列制で固まっている将軍達では、到底やれないようなことであった。そのため、彼は若手から非常な尊敬を受けた。この感情は、実は多くのイタリヤ将兵にも感染した。彼らは安全第一主義の、耄碌したような自国の司令官に較べて、なんと決定的に違うものなのかと感じたのである。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P48,9

ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた? &服装、健康関係について

 北アフリカ戦のロンメル周辺の指揮官について、今度はイタリア軍指揮官についてまとめていこうということで、以前ざっと目を通していた『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』の情報をまとめる作業に入っていたんですが、その中でイタリア軍のマンチネッリという独伊軍間の連絡将校がロンメルについて書きのこした文章が面白く、ロンメル関係のそこらへんについて一度まとめておこうと思いました。






 まずは、マンチネッリの主張する(?)「ロンメルは24時間365日、軍事関係のことだけを考えていた?」ということについて。

 彼【マンチネッリ】が思い出すのは、軍事教育しか受けていないロンメルとの会話は、いつも非常に堅苦しく、軍事的な話題から外れることはなかったということであった。マンチネッリは、ロンメルが夜も昼も(おそらく寝ている間も)考えていることは、部隊への気遣い、戦況の解釈、敵の研究、将来の作戦の計画などに関係することだと確信していた。

 マンチネッリ自身の言葉によると、

「私が北アフリカでの軍務に就き始めて間もない頃、ロンメルが思わず発した感嘆の言葉にひどく驚愕したことを覚えている。私達はマルマリカ【トブルク周辺のリビア東部地域】の荒涼とした風景の前にいたのだが、ロンメルは私に『君達は素晴らしい植民地を持っている!』と言ったのだった。私は彼の顔を見て、皮肉を言っているのかと思ったが、彼の様子は真剣なものだった。ロンメルの目にはあの広大な砂漠が、機械化軍団で機動戦を行うのに理想的な場所と見えていたのだ。そしてその景色は彼にとって、地球上の他のあらゆる誘惑よりも素晴らしいものだったのだ。」
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P64




 この説を補強するような逸話として思いつくのは、ノルマンディー戦の前段階の準備を色々しているある時フランス貴族の邸宅かどこかで、参謀長のガウゼが素晴らしい芸術的な陶器を見つけ、「ほら、これ素晴らしいですよ!」とロンメルに見せたらロンメルは「陶器か、素晴らしい! 陶器を地雷にするという方法もあるな!」と叫んだとか、ガウゼの後に参謀長になったシュパイデルが、司令部にしていた邸宅で交響曲のレコードを大音量で流していたのだけどロンメルはそれに腹を立てていた(が、シュパイデルが言うことを聞かないので諦めていた)とか、連合軍がノルマンディーに上陸した後も参謀将校達は卓球をしたりして気晴らしをしていたのだけど、ロンメルは寸暇も惜しんで部隊を回っていた……とか。

 一方で、反証として思いつくのは、ロンメルは自宅が爆撃を受けるかもしれないと荷物を避難させる時に、日本大使からもらった日本刀をその中に含めるように指示したとか、フランスで(国民的英雄であったので)女性達からものすごくちやほやされた時喜んでいたとかいう話もあります(恐らくすべて、『狐の足跡』に挙げられていたエピソード)。




 それから、そこらへんに付随して、ロンメルの北アフリカでの外見(身なり)に関して。ここでも割と、実際の有効性が重視されていたのかなという印象を受けます。

 ロンメルは、頑丈で素朴な覆いのない車に乗っているところを、毎日のように戦場のあちこちで目撃されていた。マンチネッリによれば、ロンメルは夏でも冬でも決して脱がなかったという黒革のレインコートを着ていた。ロンメルは、戦場では妙に目立つ黄色いチェックのスカーフ[1]を首に巻いていた。彼が述べる、ロンメルの典型的な姿とは、頭からつま先まで砂ぼこりにまみれ、風や日差しで唇が荒れ、砂漠の風景の一部として溶け込んでいるというものだった。しかしひとつだけ例外があり、危機的に重要な状況においては枢軸軍の部隊に対してより目立つように、ロンメルは大きくて派手な緋色の将官用カフスを身につけており、少し遠くからでも彼だとはっきり分かった。

[1]この印象的なサフランイエローのスカーフは、ロンメルが愛称として「トゥルーデ」と呼んでいた娘のゲルトルート【ルーシーの前につきあっていた女性との間の子】が、ロンメルのために作ったものだった。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P66



 ここで書かれている「黄色いチェックのスカーフ」の写真を探してみたのですが、例えば↓の最初のロンメルの写真とか?

Revealed: Desert Fox Erwin Rommel was given his legendary goggles by a British PoW in return for retrieving a stolen hat





 それから、北アフリカにおけるロンメルの食事や睡眠について。

 マンチネッリによるとロンメルの戦場での生活は、テントや自動車の中で一人で寝て、イワシ缶やソーセージ缶、パンなどの下士官用の糧食を食べ、煙草も吸わず酒も飲まず、できることなら毎日日没とともに眠りにつくという、原始的で最大限にシンプルなものであったという。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P65

 ロンメルそのひとは食事に関して控え目で、食べものにも不平をこぼさなかった。彼は兵隊と同じ割当てで生活しているものと思っていた。だいたい、食卓に出るものは、罐詰のイワシ、まずい罐詰のソーセージ、パン、それから例の「おいぼれ【MA】」のほかには、ほとんど何もなかった。唯一のぜいたくといえば、交際上特別の場合に、一杯のブドウ酒を飲むぐらいのものだった。煙草は全然吸わなかった。事実、彼とその好敵手モントゴメリイとは、質実剛健な生活態度の点で、不思議なほど相似ていた。
 ロンメルは好んで早寝をしたが、いつも早起きで、そして仕事に打ちこんでいた。狩猟が好きで、時々、気晴らしに、砂漠でカモシカ猟をやった。そういう時、感情を表にださない彼の外観の下から、狩猟本能が鋭くほとばしりでるのを、ひとは知った。さもなければ彼はもう一つの休養をとっていた。- 蠅叩きである。毎日昼の食事時間に、できるだけ数多くこの害虫を退治するため、規則正しくこの仕事に励んでいた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P89

 それ以外の身体的環境も同じく質実剛健で、汚れた靴の将軍を尊敬する兵たちは、彼にあこがれを抱いた。オーキンレックはロンメルを見習い、参謀が厳しい環境におかれるような司令部を故意に作って彼への敬意を表したが、不必要なほど質素に抑えるロンメルの生活様式が、砂漠という外界の過酷な状況よりも彼の健康を損ね、彼の能力を低下させたのはほぼ間違いない。モントゴメリーの言葉を借りれば、「どんな大馬鹿野郎でも体を壊す」のだ。
 ロンメルの専属スタッフたちは、できる限り出しゃばらないようにしながらも、新鮮なタンパク質を用意するために釣りや狩りに出かけたり、卵や鶏をもらってきたり、果物や野菜を飛行機で届けてさせたりして彼の面倒を見た。それでもやはりロンメルは誰が見ても弱っており、本人もひとしきり耐えていたので、このときには参謀長として任務に戻っていたガウゼが徹底的な健康診断を受けるよう主張した。ヴュルツブルク大学の消化器専門医で、ロンメルが長年にわたって健康の問題を打ち明けていた医師は、ロンメルは消化器系の病気と低血圧で衰弱しており、次の攻撃を指揮する健康状態にないという診断を下した。勧告された治療は長期療養だった。……ロンメルのような人物にとって、生まれて初めて体がいうことを聞かなくなると、終生強靭な体力を誇ったことのない人間よりも、心に与える影響は大きかった。増えつつある凶兆に、新たに加えられた一項目だったのである。
『パットン対ロンメル』P265,6




 ただし、ロンメルは兵士達に隠れてパスタを食っていた、という話(説?)もあります。

ロンメルは隠れてパスタを食っていた!? (2013/12/11)





 北アフリカ戦後期における「ロンメルの病気」というのはどの本にも書かれていますけども、症状としては(痛みのために?)気絶するほどのものであったそうで、そこらへんまではほとんど書かれていないわけですが、その辺りの具体性は個人的に重要な気がしています。

 ところが北アフリカ戦の前半においては、ロンメル以外の参謀や指揮官達が次々に黄疸など(今調べてみたところ、症状としては発熱、重度の腹痛、血の混じった嘔吐、血便などだそうで……)でドイツ本国に療養の為帰らざるを得なくなったのにロンメルはピンピンしていて寸暇を惜しんで前線をまわっており、とにかく人生においてずっと健康と体力に自信のあったロンメルは、健康が悪化しても限界まで我慢した挙げ句、(第3次エル・アラメインの戦いの前の時期に)いったんドイツに帰って療養せざるを得なくなったということだったんでしょうね。

 そしてエル・アラメインから退却する間中ずっと、ロンメルは超絶悲観的な考えに支配され続け、(過度に)楽観的なケッセルリングや、退却することがイタリア(ムッソリーニ)にとって政治的ダメージになることを恐れるイタリア軍上層部から非難されまくります。ここらへんも、「ロンメルの自信の崩壊」(あるいは、ヒトラーへの信奉の崩壊も?)と関係があるのではないかと個人的に思っているんですが……(ただし、何の裏づけもありません(^_^;)


OCS『Hungarian Rhapsody』のドイツ軍&ハンガリー軍の第1騎兵軍団(第1ハートネック騎兵軍団)について

 承前。

OCS『Hungarian Rhapsody』のハンガリー軍の「聖王ラースロー」師団ユニット他 (2023/01/02)


 ↑で挙げてました「ユニットよもやま物語」で、「ドイツ騎兵軍団」というのも非常に興味深く思いまして、少し調べてみようと。

 時代遅れとして騎兵師団を装甲師団へ改編した陸軍だったが、中央軍集団のクルーゲ元帥は43年夏に、地形や天候に関わらず多目的任務の行える騎兵連隊3個を新編し、その機動性を発揮して湿地や冬季森林地帯において軍集団の危機を何度も救った。これを知った総統は「奇跡の騎兵」と絶賛し、騎兵師団群による騎兵軍団の編成を約束。戦局悪化で44年5月に騎兵旅団2個 (45年2月に名前だけ師団に昇格) しか作れなかったが、 StG44突撃銃を多数装備して快速で追随できる騎兵は、重戦車大隊にとって理想的な側面援護役となった。
『コマンドマガジン第100号』P39




 ドイツ軍が騎兵を時代遅れとみなした理由等については↓でまとめてました。

第二次世界大戦で騎兵はなぜ廃れたのか?(付:OCS『Case Blue』) (2019/04/18)




 ハンガリー戦に登場する騎兵旅団2個というのは、第3と第4騎兵旅団です。


 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の第3と第4騎兵旅団ユニット。

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 結構頼りになる部隊だと思います。うまく運用したいところです(以前『Hungarian Rhapsody』をプレイした時にはかなり無為にこれらのユニットを失ってしまって悔やんだ記憶が……(>_<))。



 フォン・クルーゲ元帥絡みの話は『The Cavalry 1939-1945』に少し詳しく載っていたんですが、そもそもこの時クルーゲ元帥の部下で騎兵部隊復活に関わったフォン・ベーゼラーガー兄弟というのは、1943年2月にスモレンスクでフォン・クルーゲの下でヒトラー暗殺を実行しようとしており(フォン・クルーゲの指示により中止)、その後1944年7月20日のヒトラー暗殺の際には騎兵部隊を率いてフォン・シュタウフェンベルク大佐を支援しようとベルリンに向かうも、暗殺の失敗を聞いて再度東部戦線に帰ったのだとか……。

≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟≫


 騎兵部隊復活の核となったのは兄のゲオルク・フォン・ベーゼラーガーの方でした。


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 ↑ゲオルク・フォン・ベーゼラーガー(Wikipediaから)



 騎兵大尉であったゲオルクは以前からドイツ騎兵を復活させたいという漠然とした思いを抱いていたのだそうですが、ある晩、スモレンスク郊外の森の中にあった中央軍集団司令部の炉辺で弟のフィリップ(フォン・クルーゲ元帥の武器担当将校だった)とその話をしていたら、フォン・クルーゲ元帥が言ったそうです。
「よかろう、ベーゼラーガー。騎兵中隊を前線から撤退させるから、それらを使って騎兵部隊を、ベーゼラーガー騎兵部隊として編成しなさい。」
(『The Cavalry 1939-1945』P221)





 翌年の春までにその騎兵部隊は3個大隊から成る騎兵連隊となり、北方軍集団と南方軍集団でも踏襲されて各1個騎兵連隊を持つようになったそうです。

 1944年5月に中央軍集団の騎兵連隊から第3騎兵旅団を、南北の軍集団の騎兵連隊から第4騎兵旅団を編成する命令が出され、6月末に第3騎兵旅団の編成が完了しました(その指揮官はゲオルク・フォン・ベーゼラーガー)。

 そして7月には第3、第4騎兵旅団と第1ハンガリー騎兵師団を指揮する第1騎兵軍団(第1ハートネック騎兵軍団)司令部が作られたそうです。


 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の第1騎兵軍団司令部ユニットと、第1ハンガリー騎兵師団ユニット。

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 これらの騎兵部隊の任務は、ドイツ軍歩兵部隊が後退するのを遮蔽し楽にするという(彼らとしては)不本意なもので、馬で移動して下馬して待ち伏せして敵と交戦して敵の行動を遅らせ、また装甲車や自走砲と連携して行動することも多く、戦線の安定化に大きく貢献したそうです。

GDW『Operation Crusader』が同時移動システムでなければならなかったわけ&他のテーマは?

 GDW『Operation Crusader』ですが、デザイナーズノートがあることに気付いたのでDeepL翻訳にかけ始めてみました。が、半分弱ほど訳したところで、自分的に最も知りたいことが出てきたので、そこで満足しました(^_^;





 ↑このゲームの存在を知ったのはコマンドマガジン第53号で紹介されていたからで、フルマップ5枚、1ターン1時間でフルプロットで同時移動するという「狂気」のゲームというものでした(^_^;





 その個人的に最も興味ある部分は1段落だけだったので、デザインノート全訳だと色々まずいかもですが、引用の範囲内ということでいけるのではないかと思います。

 まず、同時移動ゲームを嫌う皆さんに同情します。私【フランク・チャドウィック】もその一人です。私は同時移動ゲームをプレイするのが非常に嫌いなだけでなく、デザイン的な観点からも、少なくとも陸戦ゲームにおいては、そのコンセプト全体がシミュレーションのテクニックとして非常に疑わしいと思っています。しかし、クルセイダー作戦では、実際の戦闘を見れば見るほど、同時移動システムを使用するしかないような状況であったことに私は気付きました。というのも、このゲームの対象レベルでは、ほとんどの行動が、2つの軍がぼんやりとしか相手の状況を掴んでいない中で同時に移動して会敵するというものだからです。機甲部隊は攻撃もしますが、それよりも艦隊がある海域を巡回するように、その地域で「攻撃的に活動」することが多いのです。部隊はある場所から別の場所に移動するだけでなく、ある軸に沿って攻撃的に活動するのです。同時移動でなければ、どんなに詳細な戦闘解決や巧妙なゲームメカニズムも、1941年のトブルク周辺の砂漠地帯の戦闘の本質を捉えることはできないでしょう。




 私は審判制ゲーム(当然移動はプロットする)に興味を持っているのですが、それはこういう、「ぼんやりとしか相手の状況を掴んでいない中で、同時に移動して会敵する」ことが、戦争ではかなりあり、それが普通のボードウォーゲームではなかなか再現しきれないのだけども、いやいやそこが重要なんじゃないか……! という思いがあるからだと思います。


1806年戦役の各軍団の1日毎の移動距離を調べてみました&審判制ゲームが欲しいです (2022/08/03)
1806年戦役の審判制ゲームのマップ案:1ヘクス4マイルで60度傾けた場合 (2022/11/27)



 個人的には本当は、OCSもダブルブラインドの審判制にしたら(プロットの同時移動は無理としても)、より面白いのではないかと思わないでもないのですが、まあそれは無理として(^_^;


 審判制、あるいはプロット同時移動でこそプレイしたいテーマとしては、クルセイダー作戦というのは実際かなり有力だと思います。フランク・チャドウィック氏はダブルブラインドシステムで同じクルセイダー作戦を扱った『8th Army』を作っていますね。同じシリーズ(同じデザイナー)でマーケットガーデン作戦のもあって、先日バザーで格安で購入させていただきましたが、マーケットガーデン作戦がそういうテーマであるのかどうか、現在全然分かっていません(^_^;

 あと、『Across the Potomac』(ポトマック河を越えて)という南北戦争のダブルブラインドゲームもあって、コマンドマガジンのユニットなし付録ゲームになってました。このゲームと『8th Army』に関してはプレイしてみたいとずっと思っていたんですが、全然プレイできていません。

 他にダブルブラインドのウォーゲームを私は知らないんですが、あったら教えていただきたいです!



 ダブルブラインド/審判制/プロットのゲームとして、個人的にぜひ欲しいのが、1806年戦役(イエナ・アウエルシュタット戦役)なんですが、1815年戦役(ワーテルロー戦役)もかなりアリだと思っています。

 この2つとも、わずか10日以内くらいで勝負がついてしまった戦役なんですが、両軍に「戦場の霧」の驚きのあった戦いだと思っています。

 ゲーム化する上では、1806年戦役の方は史実通りの初期配置にすると、その時点で勝負が決まってしまった感があるとか、作戦の選択の余地がないのが問題だと思っています。なので、そもそも初期配置を史実と大幅に変えられるのがデフォルトという風にしなければならないだろうと、現時点では思ってます。1940年フランス戦役なんかでそういうのありますけども、「シミュレーション」というよりは「ゲーム」寄りになるような気がしています。

 1815年戦役の方は、フランス軍の動き出しを普通のワーテルロー戦役ゲームよりも南に(つまり時期的に早く)すれば、作戦の選択の余地はあるとは思います(実際、ウェリントンは史実よりも西の方向にフランス軍が攻めてくると思い込んでいました)。ただ、どうせ作るならイギリス連合軍とプロイセン軍は別のプレイヤーにしたい(つまり、プレイヤー3人、審判1人)ところで、そうすると4人で同一マップを広げて、それらがお互いに隠された状態にして、審判が動き回って処理しなければならないので、そこのところでプレイが煩雑になってしまうよなぁ、と……。

 いや、LINEで、各自が自分のマップをスマホで撮影した写真を審判に送って、審判はノートパソコンとかでキーボード入力で各プレイヤーに情報を伝えるとかすれば……。


 なんかごちゃごちゃ考えているだけでなく、とりあえず1806年戦役の方のは試しに作り始めてみた方が良いのかもしれません。



 他にも、審判制ゲームに向いたテーマはないかなぁとも思うのですが、思いついてません。南北戦争は良いのかもですがとりあえずパスして(^_^;、ナポレオニックか第二次世界大戦で向いてるんじゃないかというテーマがあれば、ぜひ教えて下さい(^^)


OCS『Hungarian Rhapsody』のハンガリー軍の「聖王ラースロー」師団ユニット他

 コマンドマガジン第100号の付録ゲームが1944~45年のハンガリー戦役を扱ったものでして、OCS『Hungarian Rhapsody』の参考になるかと思って「ユニットよもやま物語」を読んでいて、ハンガリー軍の「聖王ラースロー」師団に興味を持ちました。


コマンドマガジン第100号『ハンガリー戦役1944-45』



 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の「聖王ラースロー」師団ユニット。

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 ブダペストの戦いの直前という危急の時期に、ハンガリー人から敬愛される聖王ラースロー(1世)の名前から付けられた「精鋭」(となるべき)師団でしたが、師団規模で戦ったことはついぞなかったそうです。

 『Hungarian Rhapsody』上のセットアップで見ても、3ステップユニットであるのに必ず2ステップロスの状態で出てきます(T_T)が、その構成部隊の一部はハンガリー軍の空挺部隊(2個大隊)であった(なので、同師団は空軍と陸軍の混成)そうで、さすが精鋭でその奮闘に当時ドイツ軍の参謀総長であったグデーリアンが感状を送ったとか。また、その後イギリス軍相手に降伏した時、イギリス軍側はこの師団に敬意を表して、(師団がどうなるかの最終決定まで?)拳銃を保持することを許可したとか。


 ハンガリー人のほとんどを占めるマジャール人はモンゴロイドだということで、日本人としては親近感を持つ感があるのですけども、周辺の白人と混血していてモンゴロイドの遺伝子は低頻度でしかないそうです(^_^;



 「ユニットよもやま物語」に書かれていた内容で個人的にかなり興味を持ったのは、当時ハンガリーの政権を持っていたという極右政党「矢十字党」というのが、「大ハンガリー主義」というのを標榜していて、その内容が「ハンガリーはドナウ河流域を支配するだけでなく、欧州を文明化するための光明であり、模範となるべき特別な使命がある」というものだった……という話でした。

 最近私は、「プーチン(周辺)はなぜあんななのか」という事が気になって関係書籍をいくらか買って読んでみたりしたのですが、「ロシアには聖なる使命がある」とか「この偉大なるロシアこそが周辺地域を征服して文明化しなければならない」という考え方がロシアにはある時期からあって、その影響はかなりあるんじゃないか、という話には結構得心するものがありました。


 ↓その本。





 また私は、「陰謀論になぜハマってしまうのか」ということにも興味があってテレビや新聞でいくらか解説を見聞きしたんですが、それらの中で最も個人的に納得できたのは「陰謀に対する正義のヒーローに、自分がなれるから(気持ちがいいのだ)」というものでした。

 そこらへん考えると、ロシアも、旧統一教会も、また(民主主義を押しつける)アメリカも、あるいは大日本帝国なんかもそういう類のものであると理解しやすいのかも……と思ったり。日本の戦前、戦中のいわゆる「軍国主義」も、旧統一教会ばりの洗脳状態であったのだろうか……と(人間の脳はそもそもものすごく洗脳されてしまいやすいそうで、橘玲氏などは「人間がなぜ洗脳されてしまうのかが不思議なのではなく、なぜ洗脳されない人間が中にはいるかの方がよほど不思議だ、と考えるべき」というようなことを書かれています)。


 ただ一方で、最近一つ気になっていることとして、当時の日本人があれほど米英への勝利に熱狂した要因の一つに、当時の「白人による人種差別」の存在があっただろうことを改めて思い出しまして、そこらへん調べたい気持ちになっているのですが、中立的な本が乏しそうで難儀しております。


 ↓を読んでいるのですが、偏っていると思われ……。








 閑話休題。

 「ユニットよもやま物語」のハンガリー軍関係でもう一つ興味深かったのが、「ブダペスト市街戦では、工科大の学徒兵2個大隊が特筆すべき奮戦をしており」というものでした。

 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』のブダペスト学生部隊ユニット。

unit8695.jpg


 アクションレーティングが2と、評価が高いとは言えないのが残念……(せめて3ならば……)。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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「戦史物の物置」


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