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OCS『KOREA』釜山橋頭堡シナリオの国連軍の方針は?

 ミドルアース大阪で、シバタさんとOCS『KOREA』釜山橋頭堡シナリオ(洛東江の戦いシナリオ)の続きをプレイ(兼インスト)しました。



 ↓開始時(第3ターン後攻国連軍ターン)。

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 ↑の画像で、DGになっているヘクスのうち下の方の馬山(マサン)が(勝利条件ヘクスであり)包囲されている状態で、割といかんともしがたかったため、シバタさんは北朝鮮軍の戦線後方に浸透する部隊を送り込み、「北朝鮮軍にそれに手間をかけさせる」作戦をとられました。




 ↓第3ターン終了時(2ユニットほどが北朝鮮軍の戦線の後方にいます)。

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 北朝鮮軍側の私としてはこの動きに、「ある程度以上苦しめられるのではないか(でも、国連軍としてはユニットを失わないようにした方がいいんじゃないかなぁ……)」とは思っていたのですが、第4ターン先攻で自分のプレイヤーターンをやってみると、実は補給路的にはほとんど全然苦しくないことが分かりました(浸透したユニットが移動モードであり、ZOCを持たないことが大きかったです)。

 ただ一方で、画像左端のアメリカ軍戦車ユニットには空輸でSPも届けられており、放っておけばその部隊は戦線後方で何でもできることが見込まれることから、可能なら撃破を、撃破できなくてもSPを使わせるために砲撃・攻撃を行ったところ、ダイス目が良かったため撃破に成功。



 ↓第4ターン先攻北朝鮮軍終了時。

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 この日のプレイ2回目の国連軍ターン。先ほどの馬山(マサン)が依然として包囲されており、天候不良でヒップシュートもSPの空輸もできないことから、やむを得ず国連軍は包囲環を破ろうとオーバーランを繰り返しましたが、北朝鮮軍を1ステップロスさせたのみで包囲環を崩せないまま自軍が4ステップロスすることに……。



 ↓第4ターン終了時。

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<2022/12/31追記>

 ↑の写真では馬山(マサン)に補給切れマーカーが置かれてますが、ブログへの非公開コメントで「補給切れにはならないはず」とのご指摘をいただきました。




 ミスを指摘していただけるの、大変にありがたいです。今後も、何かミスを見つけられたら、どんどんご指摘いただければ……!


 あと、田村さんの史実と勝利条件を読んでいたら、その中にエポック『朝鮮戦争』のマップ(と史実の北朝鮮軍最大進出線)の画像が出てきまして、そこでは馬山(マサン)自体が港湾というわけではなく鎮海(チネ)が港湾になっている、ということに気付きました。


 で、OCS『KOREA』のマップを再度見てみましたところ……。

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 こちらは馬山(マサン)自体が港湾になってまして、それはどうでもいいんですが、私は今度は「鎮海(チネ:Chinhae)のヘクス(50.12)まで北朝鮮軍が進出した場合、海が塞がれてしまうので一般補給が通じなくなるのか?」ということが気になりました。

 で、OCSシリーズルールを読み返してみたところ、このような記述が(19.0aのプレイノート)。

プレイノート:港湾は、敵戦闘ユニットあるいは敵ZOCがその港湾と海の間にあるヘクスをブロックしている時でも、機能し続けます(ゲーム毎の特別ルールがこのルールを上書きしていなければ)。


 とすると、とりあえずヘクス50.12を北朝鮮軍が占領したとしても補給源としては機能しそうです。

 ただ、北朝鮮軍は砲兵で(航空ユニットを持っていないので)馬山(マサン)の港湾施設に対施設砲爆撃を行うことができ、それで1ヒットを与えれば港湾能力が1SP未満になって補給源として機能しなくなります(司令部で修復しない限り)。

<追記ここまで>



 ダイス目の偏りもありますし、また、「とりあえず思いついた作戦をやってみてその結果を見てみよう」という話でもありましたので、これはこれでやっていこうということではあるんですが、一方で「(私が考えるところの)より良さそうな国連軍の方策は何だろうか?」ということも気になりました。




 参考に、今回のプレイで私は北朝鮮軍として、↓のような考え方でプレイしています。

1.削れる国連軍のユニットを削っていくのを第一とする。つまり、無理はしないし、土地的な進撃も狙わない(というか、そんなことをできる部隊がない)。

2.基本的に、砲撃でDGにしたところを攻撃する。DGにできなかった場合(よほど優位でなければ)攻撃しない。

3.できるなら、(戦闘補給が必要ない)小包囲で敵ユニットを削る。

4.敵の強力なスタックは砲撃でDGにして、戦闘力や移動力を減殺しておく。




 国連軍の方策としては、まずは↓があると思います(前回のプレイではこの策に思いが至らずシバタさんにアドバイスできなくて、むしろこの方策がされてないのをいいことに私は弱いユニットを狙いまくってしまってました(^_^;)。

・セットアップ時の国連軍は、アクションレーティングが非常に低いユニットと非常に高いユニットの格差がひどい。この状態では「アクションレーティングが高いユニットだけから成るハイスタック」は基本的に作るべきではなく、アクションレーティングが高いユニットを置いたハイスタックにはアクションレーティングが低いユニットももぐりこませるべき。
(この方策もデメリットがないわけではないですが、まあとりあえず)




 その上で(として)、今回シバタさん(&古角さん)が採用されていた方策は↓のようなものです。

1.最初から国連軍が持っている勝利条件ヘクス2個は、陣地化&ハイスタックで強固に防御する。

2.敵に対する嫌がらせとして、戦線後方にユニットを送り込む。



 一方で、↓のような方策もあり得るのではないかと思います。

3.勝利条件ヘクス2個は、守れるなら守ってもよいが、無理そうならいったん下がった戦線を構築し、後で取り返す。

4.(嫌がらせよりも)予備部隊をできるだけ指定し、敵に対してうまく予備部隊を送り込むことを重視する。


 ただ、この3と4が簡単かというとそうではなく、特に4はかなりテクニック的に難しいとも思います(^_^; 

 また、1と2、3と4は相反すると思いますけども、1と4とか、2と3とかって組み合わせはあり得るだろうとは思います。それにまた、1と2、3と4の、それぞれの間のうまくバランスの取れた(あるいはケースバイケースな)プレイが良いのかもしれません。


 あと、このシナリオの国連軍は少なくとも序盤は、ユニットが足りない感が強く、また兵科マークが白抜きのユニットは途中でどんどん強いユニットに置き換えられていくので、ユニットを失わないようにするプレイの方が良いのではないかとは思いますが、どうでしょうかね……。

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北アフリカや東部戦線で戦い、最後のドイツアフリカ軍団長として降伏、捕虜となった後、ドイツへ送還されカレー上陸作戦という欺瞞情報をヒトラーに伝えることになったクラーマー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカや東部戦線で戦い、最後のドイツアフリカ軍団長として降伏、捕虜となった後、ドイツへ送還されカレー上陸作戦という欺瞞情報をヒトラーに伝えることになったクラーマー将軍についてです。




Bundesarchiv Bild 146-1977-134-13, Hans Cramer

 ↑1941年のハンス・クラーマー(Wikipediaから)



 ハンス・クラーマーは第1次世界大戦が始まると士官候補生として陸軍に入隊して数多くの戦いに参加し、鉄十字章を受勲しています。1918年にイギリス軍の捕虜となりましたが、翌年釈放され、軍に志願して合格。1923年には歩兵科から騎兵科に転属し、1927年から1929年にかけて参謀本部の訓練を受けました。また、1930年代には第1騎兵師団参謀や騎兵学校の教官などを務めています。

 第二次世界大戦勃発時には騎兵訓練実験隊の指揮官で、この部隊を率いてポーランド侵攻に参加し、二級と一級の鉄十字略章を受勲しています。その後フランス戦にも参加。

 1940年11月には装甲連隊の指揮を割り当てられることになり、この任務に備えて陸軍人事部はクラーマーを第10装甲師団の参謀に任命し、非公式にこの任務のための指導期間を設けました。そしてその後1941年3月22日(英語版とドイツ語版Wikipediaでは25日)、ダルムシュタットで第15装甲師団の第8装甲連隊の指揮を執り始めます。第15装甲師団は北アフリカに送られることになったため、まずイタリア、そして船に乗ってトリポリへと向かいました。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット。「I-8」「II-8」を合わせたものが第8装甲連隊となります。

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 1941年5月のブレヴィティ作戦時には、クラーマー第8装甲連隊を率いて奇襲攻撃を仕掛け、イギリス軍の重要拠点であるシディ・アゼイズを占領、間髪入れずカプッツォ砦に向かいそこも制圧。その後、ハルファヤ峠の攻略にも大きな役割を果たします。ロンメルと第15装甲師団長のノイマン=ジルコウから推薦されて6月27日に騎士十字章を授与されましたが、その直前の6月24日にソルームへの攻撃を指揮している時に重傷を負っていました。

 英語版・ドイツ語版Wikipediaによると1941年9月には第8装甲連隊の指揮に戻ることができたとあり、ドイツ語版Wikipeidaでは10月頃から指揮官教育の一環として第10装甲師団(当時タイフーン作戦に参加していた)で装甲連隊の連隊長を務めたとありますが、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』では1942年1月のロンメルの第2次攻勢に参加したことになっています。一方、『Rommel's Desert Commanders』上の記述ではこの間ずっと入院していたかのような感じです(資料間のバラバラ度がひどすぎ(^_^;)。


 1942年4月1日にクラーマーは陸軍最高司令部の機動部隊(Schnellen Truppen:詳細はよく分かりませんが、ベルリン近くに置かれていた予備部隊?)の参謀長に任命され、11月には少将へ昇進しました。

 一方、この1942年11月にスターリングラードを包囲するソ連軍の天王星作戦が開始され、ソ連軍に北側からの突破を許してしまった第48装甲軍団長ハイムが職務怠慢で逮捕されることになり、クラーマーはその軍団長代理として派遣され、できる限りのことをしました(1942年11月20日~11月25日)。11月26日にはエーバーバッハと交代しましたが、彼が12月1日に重傷を負ったため、その後任の正規司令官とされたフォン・クノーベルスドルフが到着する12月10日までの間、再びクラーマーが代理指揮を執りました。


 ↓OCS『Case Blue』の第48装甲軍団ユニット。

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 『Rommel's Desert Commanders』によればその後、1943年2月までのクラーマーの居場所は明確でないものの、フォン・マンシュタインのドン軍集団の特務に就いていたのではないかとのこと。また、少将になってから2ヵ月程度の1943年1月22日に中将に昇進しており、非常に早い昇進だったそうです。

 その同日、クラーマーはドニェツ川流域でボロボロになっていた戦区を担当するクラーマー軍支隊の司令官に任命されましたが、2月10日にはその司令官職をエアハルト・ラウスに譲って総統予備となりました。


 ↓OCS『Case Blue』のクラーマー軍支隊司令部ユニット。

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20日間ほどしか存在しなかったクラーマー軍支隊の司令部ユニットがちゃんと入っているとはさすが『Case Blue』……。後継のラウス軍支隊司令部ユニットも入っています)




 短い休暇の後、クラーマーはチュニジアに派遣され、1943年2月28日頃(『Rommel's Desert Commanders』による。英語版Wikipediaでは「2月」。『Unknown Generals』と『砂漠のキツネ』によれば3月5日、日本語版とドイツ語版Wikipediaによれば3月13日。)にドイツアフリカ軍団の指揮を執り始めました。この直前の時期、前任のドイツアフリカ軍団司令官であったツィーグラーはマレトラインの東のメデニーヌへ向けてイギリス第8軍に対する一撃を企図しており、クラーマーはそれを受け継いで攻勢を指揮することになったようです。


 ↓OCS『Tunisia II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 ↓OCS『Tunisia II』のマレトラインシナリオのメデニーヌ周辺のマップ。
カセリーヌ峠の戦いの序盤でアメリカ軍機甲部隊に大打撃を与えるも、その他でそれほどぱっとしないツィーグラー将軍について (2022/11/03)から)

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 この時のこととして、『砂漠のキツネ』にはこのような記述がありました。

 クラーマー将軍が、第21機甲師団の戦闘指揮所へ行くと、師団長ヒルデブラント少将が予備戦車隊の横で砲火を浴びながら心配そうな顔をしていた。「進めないんだ」 クラーマー自身も前方は一面火のかべであることを知っていた。イギリス軍砲兵は進撃する戦車に気が遠くなるほどの砲弾を見舞った。
『砂漠のキツネ』P343

 3月6日16時になると、ロンメルにもその将軍たちにも、メデニーヌ=メタミュル地区でもはや勝利は得られないことがはっきりしてきた。クラーマー将軍は戦闘を打ち切ろうと提案し、ロンメルも同意した。これでドイツ=イタリア機甲軍最後の大攻勢も終わり、アフリカ戦の最期も重苦しくせまってきたのであった。
『砂漠のキツネ』P344




 その後、チュニジアとフォン・アルニム将軍と共に戦いますが衆寡敵せず補給も途絶し、1943年5月12日に降伏のやむなきに至ります。

 5月12日午後フォン・アルニム大将は兵団とDAKの本部を代表して降伏した。DAK最後の司令官クラーマー将軍は最後の無線連絡を行った。
「最高作戦司令部へ。弾薬を撃ち尽くし、兵器、装備類を破壊す。DAKは命令どおり、戦闘能力をうしなうまで戦えり。ドイツ・アフリカ軍団の再興を祈る。クラーマー」

『砂漠のキツネ』P352



 イギリス軍の捕虜となったクラーマーは、イギリスのトレント・パーク収容所に収容されました。

Bundesarchiv Bild 146-2005-0132, Trent Park Camp

 ↑1943年、英国の捕虜収容所トレント・パークに到着したハンス・クラマー将軍(中央)とハンス ・ユルゲン・フォン・アルニム将軍(左)(Wikipediaから)


 トレント・パーク収容所では盗聴が行われており、その内容や分析を記した『兵士というもの』の中の、ドイツ軍の高級将官達の間での勲章に関する悲喜こもごもについての章で、このように記述されています。

 アルニムとともに最後までチュニジアで戦ったハンス・クラーマー大将についても、トレント・パークのひそひそ話では、「彼[も]柏葉付を」もらえなかったことを「ひどく気に病んでいた」とされた。「すでに〔受章のための〕書類は提出されていたのだが、彼はそれを受け取れなかった。もらえないと分かったとき、彼は激怒した。それを何とかして手に入れようとして、彼はあらゆる手段を講じた」という。そしてゴットハルト・フランツ中将が1943年8月、チュニジアでのクラーマーの功績にたいして騎士十字章を授与されたという情報をもってトレント・パークにやってきたとき、国際赤十字を通じて勲章が送られてくる前であるにもかかわらず、すぐさま首のところに第一級鉄十字章を佩用した。この姿をふたたび家族にも見せたいものだ、と誇らしげに彼は書き送っている。
『兵士というもの』P319




 約1年後、クラーマーは(恐らく)持病の喘息が悪化したため、スウェーデンの赤十字を通じてドイツへの送還が認められることになりました。しかしこの際、連合軍は彼をノルマンディー侵攻に先立つ欺瞞作戦(フォーティテュード作戦)に利用したのです。

 送還前、クラーマーには「連合国軍がカレーへの上陸を計画している」という情報が断片的に与えられました。またモントゴメリーの第21軍集団がヨーロッパ侵攻の準備をしているのを見ることを許されましたが、それはパットンが指揮するアメリカ第1軍集団でありイングランド南東部を経由すると(カレーへ上陸するのであると示唆されるように)説明され、さらに、そのパットンとの夕食会にも招かれたのです。クラーマーはこの情報を信じ込んだままドイツへ帰国し、ヒトラーにも直接会ってこのカレー上陸作戦に関する一連の情報を個人的に報告。ヒトラーの思い込みを強化する役割を果たすことになってしまったのでした。


 その後、クラーマーはフランス戦線の西方装甲集団に特別要員として配属されました。部隊指揮は任されなかったものの、ロンメル元帥と連絡を取っていたそうです。1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が起きると、クラーマーは元捕虜であったことから共犯の疑いをかけられ、7月26日から8月5日までベルリンのゲシュタポ収容所で尋問を受けます。その後、ラーフェンスブリュック強制収容所の付属収容所に移され、9月14日にはドイツ国防軍から除隊されました。

 9月末からはベルリンの病院に入院し、12月24日からは自宅軟禁状態とされます。連合軍がドイツを占領した後、1945年5月から1946年2月15日まで、クラーマーはドイツ北部のホルシュタイン地方で捕虜となったすべてのドイツ軍の統括する役割をイギリス軍から与えられました。

 クラーマーは1968年に亡くなりました。




 ブログ記事としてずっと書いてきました「北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について」ですが、一応これでドイツ軍の将軍については終わりにしようかと思ってます(気が付いて追加で書くこともあるかもですが)。

 次は北アフリカ戦におけるイタリア軍の将軍について書いていくつもりなのですが、イタリア軍の将軍は私が手に入れられる情報が非常に少なく、どんな感じになるか分かりません。かなり断片的な情報のみになるかもです。

 その後は、北アフリカ戦における英連邦軍の将軍についてに移るつもりです(すでにクルセイダー作戦直前くらいまではある程度書いたので、その後がメインとなります)。

OCSの補給キャッシュマーカー「21.10b 糧食」は、司令部をローテーション等させて使用して良いか?

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のVASSALでの3人対戦プレイを継続していってますが、そこで、補給キャッシュマーカーについて疑問点が出てきてfacebook上で質問してみました。


 ↓補給キャッシュマーカー

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 補給キャッシュマーカーは基本的にはオプションルール扱いですが、使用が推奨されており、『Smolensk:Barbarossa Derailed』では絶対使用しなければなりません。


21.10b 糧食  補給フェイズにプレイヤーは補給キャッシュマーカーを消費して、1つの司令部の支給範囲内のすべての戦闘ユニットに一般補給を供給することができます。ただしいくつかの制限があります。
・糧食は、敵の行動によって司令部への一般補給が断たれた時にのみ使用できます。自軍の攻勢の先鋒に対して使用することはできません!
・糧食は、その司令部の一般補給が断たれた最初のターンにのみ使用可能です。その後もまだ補給切れ状態ならば、脱出するか、マップ上の補給を消費するか、損耗チェックを行わなければなりません。



 疑問点として↓のようなものが思い浮かび、facebook上で質問してみました。

1.1つの包囲環の中に、A、B、Cの3つの司令部があったとします。包囲された最初のターンに司令部Aが補給キャッシュを消費しました。次のターンにも包囲されていたので司令部Bが補給キャッシュを消費しました。3ターン目にも包囲されていたので司令部Cが補給キャッシュを使用しました。このようなことは可能でしょうか?

2.1つの包囲環の中に、司令部Dが1つだけあったとします。その司令部Dが補給キャッシュを消費したターンに、プレイヤーはその包囲環の中に無理矢理司令部Eを突入させました。次のターンにも包囲され続けていたので、プレイヤーは司令部Eに補給キャッシュを消費させました。このようなことは可能でしょうか?

3.1つの包囲環の中に、司令部Fが1つだけあったとします。その司令部Fが補給キャッシュを消費しましたが、次のターンには補給源から一般補給を引くことができました。しかし、3ターン目に再び司令部Fは包囲されてしまいました。この3ターン目に、司令部Fは再び補給キャッシュを消費できますか?




 この質問にJason Langloisという方(だけ)が回答して下さいまして、その答は、1はNo、2と3はOKということでした。

 この方がどんな方が私は知らなかったので、他のより詳しそうな方(OCSのベテランテストプレイヤーのPerry Andrus氏や、OCS副班長のChip Saltsman氏)から他に回答が付くかな? ……と思って待ってみたものの付かないようなので、Jason Langlois氏の回答で問題ないのかな、と。



 個人的には、2の方法が許されるというのは「ゲーム的過ぎるのではないか」という気もするのですが、一方でこの方法を禁じるための規定を作るのも難しい……?

 とりあえず、今後はこの見解に基づいてプレイしていこうと思います。



AH『Hundred Days Battles』のルール習熟プレイ開始&色々疑問点

 AH『Hundred Days Battles』のルール習熟プレイを開始してみたのですが、色々疑問点等もあるので、書いておこうと思います。分かります方、教えていただければ嬉しいです。



 まず、TACTICS(号数不明)と旧GJ42号のリプレイ記事に書いてある、コンポーネント上の件について。

 ナポレオンの能力値がAH版のカウンターは「5★4」となってますが TACTICSの記事では「5★4」のままと考え、GJの記事では「4★4」と考えています。GJの記事でそうしている理由は、

1.CoA『The Emperor Returns』では4になっている。
2.統率力値修整表に「フランス軍に5はない」と書かれている。

 というものです。

 また、OSG版の『Hundred Days Battles』のコンポーネント画像がBoardGameGeekにあるのに気付いたので見てみると、「4★4」になってました。OSG版の方が新しいのだとすると「4★4」説がより正しそうな気がしますが、古いのだとすると「わざわざAH版で5にした説」というのも出てきそうな……?(KMTさんに、OSG版の方が古いというご指摘を頂きました!)

 先日作った自作カウンターでは「4★4」にしたのですが、プレイヤーの判断とかゲームバランス上のこととかで「5★4」にすることがあっても良いような気もします。

AH『Hundred Days Battles』の自作カウンターを作ってみました (2022/12/10)


<2022/12/22追記>

 この件について、Чебурашкаさんからこのようなツイート返信をいただきました!



 この話からすると、AH版『Hundred Days Battles』のナポレオンの統率力値は5の方がいい説はかなりありそうな気がします。

 その場合、統率力値修整表にある「フランス軍に5はない」という文言が問題になりますが、これはOSG版のものを修正し忘れたという可能性?

 またナポレオンの統率力値を5とする場合、統率力値修整表の「5」と「5」が交差する場所は「・」となっている(これも修正し忘れ?)のですが、これは「3」とする、という案がTACTICSの記事で提案されています。

<追記ここまで>






 次に、一級道路(赤い線)と河川が交差している場所に関してなんですが、TACTICSの記事でもGJの記事でも、シャルルロアの南の一級道路が切れている件に関して(のみ)は「切れていないとする」という風に書かれています。ところが、AH版はコンポーネント上他のすべての地点でも切れているのです。

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 これは、二級道路(黒い線)がすべて切れていない事と比較して非常に奇妙です。試しに手持ちの『The Emperor Returns』と、BGGでOSG版のマップを見てみたところ、それらはすべて切れていないように描かれていました。そこらへんからすると、AH版でもこれらは「切れていない」とすべきなのでしょう(恐らく、印刷用データのレイヤーの重なり方を間違えて印刷してしまったのではないでしょうか)。(KMTさんにご指摘をいただきまして、この時代はレイヤーとかなくて、写植だそうです(^_^;)





 次に、第1ターンのフランス軍の登場について。

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 増援が登場してくるヘクスは、道路のあるヘクス、つまり0105、0107、0110となっています。が、GJ記事にあるようにナポレオンを司令官として従属指揮官のデルロン、ヴァンダム、ジェラールの軍団を隣接ヘクスに置きながら(スタック制限を守りつつ)移動してくるとすると、道路ではない0108からデルロンとジェラールは登場しなければならないような気がします。

 ただ、「部隊の最上位の指揮官」がそれらの道路のあるヘクスから登場しさえすればよく、従属指揮官は道路のないヘクスに登場するのでも良いのかも、とも考えました。

 あるいは、スタック制限は移動中は守らなくても良い(各セグメント終了時にスタックオーバーをチェックする)のだから、ナポレオン麾下の従属指揮官の4個軍団もすべて道路から、全部スタックしていっぺんに出てくるのだけども、移動を終了する場所を移動力の範囲内でうまく隣接ヘクスに置くようにバラけていけば良いのかも?





 次もこの「複数ヘクス部隊」に関してなんですけども……。

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 戦闘してダイスを振ってみたところ、追撃は4ヘクスということになり、ナポレオン(とレイユ)を4ヘクス追撃させました。で、GJ記事には「ナポレオンとの同一部隊としてデルロン、ヴァンダム、ジェラールも追撃する」と書いてあるので並んだまま追撃しようとしたのですが、問題が2つ。

 画像の白い破線のようにして追撃するには、

1.通過不可の一級河川を横切らねばならない。
2.ルール13.0で「追撃する部隊は、後退路から外れてはならない」と規定されているが、破線のルートは後退路そのものではない。


 恐らく、1は無視できないでしょう。2は、追撃する部隊が複数ヘクス部隊で司令官が後退路上を追撃する限りは、従属指揮官はその隣接ヘクスを追撃するのは許される範囲内のような気がします。


 で、とりあえず橋のない一級河川は横切らないようにするとデルロンは白い実線のようにして4ヘクス追撃することになりますが、この場合、戦闘をした時のようにナポレオンの東側に並ぶことができず、南東ヘクスに隣接することになります。とすると、残りのヴァンダムとジェラールのうちどちらかがスタック制限を守るために「ナポレオンの隣接ヘクス」から外れることになります。しかしこれは許されないでしょう。


 そこで思いついたのが、「追撃を途中で中止できる」という規定です。ナポレオン(とレイユ)が3ヘクスだけ前進(追撃)して0606で停止すれば、デルロンは4ヘクス追撃してナポレオンの東側に並ぶことができ、ヴァンダムとジェラールも隣接ヘクスに収まることができます。あるいは、これが可能であれば、ナポレオンが2ヘクスだけ前進してヴァンダムは4ヘクス前進し、ナポレオンを追い抜くというような配置も可能かも。

 良く分からないですが、しかしこれが不可能だとすると問題が生じると思うので、とりあえずこれが可能だと考えてプレイを続けてみようかと……。





 あと、どの少将がどのユニットを指揮しているのかとか、司令官がどの従属指揮官を指揮しているのかが分かりやすいように、指揮官カウンターだけを集めて、背景色を薄めたものを作ってみました。

AH『Hundred Days Battles』自作追加マーカー202212112.pdf


 ただ、このマーカーは、「少将がどのユニットを指揮しているか」に関しては使えるけども、「司令官と従属指揮官」に関してはスタック制限を確かめたり、戦力をメモしておくため、結局のところはノートにリストを書き込んだ方が良さそうだと思いました。


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OCSで離れた位置にいる同一フォーメーションにフォーメーション方式で燃料を入れるための必要条件

 タエさんから、OCSで離れた位置にいる同一フォーメーションにフォーメーション方式で燃料を入れるための必要条件についての質問をされまして、私も分からないし知りたかったので、facebookのOCSグループで質問してみました。



 ↓その時に作ってみた仮想の状況の画像です。

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 仮想なので「専用トラックも輸送トラックも動かせないという条件で」としていたのですが、良く考えたら単にそこにSPを置けば良かった(^_^;

 第10装甲師団の複数のユニットの間に小河川があり、小河川は+5移動力が必要ですから、受給のための5移動力+1では、すべてのユニットが一箇所から1SPを消費できない状況です。


 このような状況で例えば、

・専用トラックから3T、輸送トラックから1T
・専用トラックから2T、輸送トラックから2T

 とかなんとかかんとか……で、フォーメーション方式で給油してもいいですか? と質問してみたところ、答はダメだと。

 ルールにそう書いてあるよと示されまして、そこらへんちゃんと見ていませんでした(^_^;

OCS12.5b A)フォーメーション方式
 その複数ユニットフォーメーションに所属している燃料を必要とするすべての戦闘ユニットが1つの司令部を経由して支給される(あるいは同じ補給集積所から直接受給する)ことが不可能な場合、共通の補給を受けられないユニットには個別ユニット方式を適用します。




 とするとつまり、まずそもそもフォーメーション方式で入れるための必要条件には「タイミングは1回のみ」ということがある。数回、あるいは数カ所に分けて計1SPを入れてフォーメーション方式、というのはできない。



 そしてまた、司令部を使用しない場合には「1つの補給集積所で1SP」という縛りがあって

・1Tの補給集積所と3Tの補給集積所があって、それらを受給できる範囲内の複数ユニットフォーメーション。

 の場合にはそもそもフォーメーション方式で給油できない。



・1SPの補給集積所があるが、複数ユニットフォーメーションの一部のユニットの受給範囲がそこに届かない。

 の場合、「届く」ユニットにはフォーメーション方式で入れてもいいが、「届かない」ユニットには個別ユニット方式で入れるしかない。

(司令部を使用しないのであれば、輸送ユニット上のSPも、上記と同様に考えます)



 逆に司令部を使用する場合には、「1つの補給集積所で1SP」という縛りはなくていいから、

・1つの司令部の受給範囲に1Tと3Tの補給集積所があり、その司令部の支給範囲内に複数ユニットフォーメーションの全ユニットがある。

 なら、全ユニットにフォーメーション方式で給油できる。もちろん、その時点で司令部の支給範囲に届かないユニットに対しては、個別ユニット方式で入れるしかありません。



 今まで、フォーメーション方式で入れるために色々細かいテクニック(輸送トラックを走らせてバラバラの場所から計1SPを給油していくとか(^_^;)を考えたりもしていたのですが、それらは全然ダメだということですね。

 とすると、やはりとにかく同一の複数ユニットフォーメーションをバラバラに運用するのは避けるべき、ということになりそうです。





ドイツ海軍・陸軍・空軍を渡り歩き、降下猟兵に転属してエル・アラメインからの撤退やブレスト要塞戦で活躍したラムケ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ドイツ海軍・陸軍・空軍を渡り歩き、降下猟兵に転属してエル・アラメインからの撤退やブレスト要塞戦で活躍したラムケ将軍についてです。




Bundesarchiv Bild 101I-548-0725-28, Nordafrika, Bernhard-Hermann Ramcke (cropped)

 ↑北アフリカにおけるラムケ将軍(Wikipediaから)



 今回主な資料としたのは、ラムケに関する単独項目のあった
『German Commanders of World War II(2)』
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』
『Knights of the Reich: The Twenty-Seven Most Highly Decorated Soldiers of the Wehrmacht in World War II』
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』
の4冊です。








 ラムケ家は15世紀に北ドイツに定住した一族で、代々農業を営んでいたそうです。ヘルマン・ベルンハルト・ラムケ少年は身体は丈夫でなく細身であったらしいですが、小学2年生の時に教師からどんな職業に就きたいかと問われて、「提督か将軍」と答えたとか。

 ラムケは1904年に16歳でドイツ海軍に入隊し、巡洋艦や古い戦艦などに乗り組みました。第一次世界大戦が起こると海軍の陸戦隊に転属、西部戦線に従軍して大いに活躍し、二級と一級の鉄十字章に加え、イギリス軍の攻撃を3回にわたって防いだ功績により、プロイセン金十字章(下士官にとって最高の勲章で、士官におけるプール・ル・メリット勲章に当たる)をも受勲します。

 戦後、義勇軍に加わってバルト海沿岸でボルシェビキと戦いましたが、義勇軍がドイツ陸軍に編入され、そのままラムケは陸軍内で昇進。参謀本部での研修や、大隊長など様々な経験を積みました。

 ラムケが陸軍から空軍に転属し、降下猟兵を目指した理由について、『Defenders of Fortress Europe』でミッチャム氏はこう記しています。

 ラムケは、1940年1月、北ヴェストファーレンのソエストにある第69歩兵補充連隊長に任命された。1940年2月29日に大佐に昇進したが、ラムケは自分の昇進の程度に満足していなかったし、ノルウェーとフランスでの作戦に参加できなかったこと、ポーランドでもオブザーバーとして参加しただけであったことにも満足していなかった(ラムケ自身の気難しい性格と、部下としては要求が多すぎたことが一因であった。ロンメルは1942年の北アフリカでラムケの能力には満足していたが、降下猟兵部隊への特別待遇に対する彼の飽くなき要求に何度も苦言を呈した)。陸軍での昇進の見込みがほとんどないと考えたラムケは、1940年7月に降下猟兵部隊に転属し、51歳で空挺学校に通い、【……】
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P183




 フランス戦終了後の1940年7月19日にラムケはシュトゥデント将軍の空軍第7航空師団司令部に参謀として配属され、空挺学校に入学してパラシュート降下の訓練を受けました。ラムケは同年8月11日に正式に空軍へ移籍し、23日から第1降下猟兵連隊に参謀として配属されます。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7航空師団ユニット。

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 1941年1月1日にラムケは第7航空師団の上位司令部である第11航空軍団の降下猟兵補充大隊に所属することになり、その後昇進して大隊長になっていました。また、シュトゥデント将軍が部隊の視察に行く時に同行を命ぜられ、一緒に部隊指揮官らと話したりすることもあったようです。

 シュトゥデント将軍麾下の部隊によるクレタ島降下作戦は1940年5月20日から行われましたが、早々に困難な状況に直面します。シュトゥデントは、ラムケが断固とした積極的な指揮をとる人物であることを知っていたため、彼を臨時の地上作戦指揮官に任命しました。翌日に降下するというスケジュールのため、ラムケは自分の用意をととのえることができず、降下用のブーツではなく乗馬ブーツを履き、膝用のプロテクターもヘルメットもなかったといいます。緊急でかき集められた500人の増援部隊と共に、5月21日にパラシュートでクレタ島に降り立ったラムケは自ら多くの攻撃を指揮し、5月27日にクレタ島西部のカニアの町の占領に成功しました。

 このクレタ島での戦いの時の事としてラムケは、ニュージーランド軍が「(ラムケの考えによれば)野蛮な」マオリ族を使用したことや、クレタ島の住民が負傷したドイツ兵に対して行った残虐行為や身体切断について、辛辣なことを書いているそうです。一方でラムケは、降下猟兵の身体が切断された遺体が発見された村に対して報復を行ったことを認めているものの、民間人が行う残虐行為に対しては冷酷でなければならないとして、自分の行動を正当化しているのだとか(『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P122,3)。

 6月18日にはラムケは元の部隊に戻り、空挺学校と補充部隊に対してクレタ島作戦の戦訓を教えて回りました。そしてクレタ島作戦での功績により8月(『German Commanders of World War II(2)』と『Knights of the Reich』によれば21日、『Hitler's Enforcers』によれば23日)に騎士十字章を授与されます。



 1942年3月、ラムケはイタリア軍に短期間所属してイタリア軍の「フォルゴーレ」空挺師団の訓練を支援しましたが、すぐにベルリンに呼び戻され、マルタ島侵攻作戦に投入するために新たに編成されることになったドイツ空軍の降下猟兵旅団の指揮官に任命されます。

 しかしマルタ島侵攻作戦は中止されることとなり、シュトゥデントには北アフリカのドイツ軍を強化するために旅団規模程度の降下猟兵を派遣することが命じられました。シュトゥデントは特殊な作戦に使用すべき貴重な降下猟兵を、砂漠で歩兵として使用することに抗議しましたが受け入れられず、派遣部隊の指揮官にラムケを選任しました。

 ラムケの部隊は1942年7月から8月にかけて北アフリカに到着し、エル・アラメインの枢軸軍前線の南部に配置されます(ラムケ自身は9月8日~17日の間、一時的に第90軽師団の師団長代理を務めたこともあったそうです)。


 ↓OCS『DAK-II』のラムケ降下猟兵旅団の構成ユニット。

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 『Hitler's Enforcers』P223によれば、Krohの第2連隊第1大隊とHubnerの第5連隊第2大隊は両方とも以前東部戦線で戦っていた一方で、ブルクハルトとフォン・デア・ハイテ(vdH)の戦闘団は訓練中の兵士で構成されていたものの、将校や下士官達はベテランの者達でかためられていたそうです。

 8月初旬になると、空軍の精鋭部隊のひとつである第1落下傘旅団がロンメルの指揮下に入れられた。その旅団長のヘルマン・ラムケ将軍は身のこなしが柔軟で、けんか早い人物で、クレタ島攻略作戦の経験者であった。落下傘の事故で歯を失い、その歯のほとんどが金属の義歯であった。彼の率いる落下傘部隊は装備および訓練ともにすぐれていたが、空軍の部隊であって、陸軍ではなかったので、ロンメルはこの部隊のために時間を割いたことはほとんどなかったし、親しみを感じていなかった(第164軽師団の各部隊と同じように、ラムケの部隊にも、固有の輸送機関がなかった。第164軽師団は実際には自転車を持って来たが、それはすぐに放棄された)。しかし、彼らはドイツ軍であり、軍紀も厳正であったので、この頃、次第に濃密な配備ができあがりつつあった海岸から大凹地に至る防御陣地内に配置された。
『狐の足跡』上P280,1



 ロンメルの回想録には、ラムケ旅団との軋轢について書かれています。

 この旅団は何度もわれわれ【ロンメル達】を怒らせた。空軍の慣習に従い、ソーセージの追加配給を要求してきたからである〔降下猟兵は、おおむね空軍に所属している。ただし、この当時には空挺作戦に投入されることは、ほとんどなくなり、一種のエリート歩兵として運用されていた〕。空軍はまた、この特別な部隊を温存するために、一部を陣地から引き抜きたいと望んでいた。退却に際して、ラムケ旅団に自動車を与えなかったときには、空軍はかんかんに怒ったものだ。だが、そうはできない理由があった。一つには車両がなかったからであり、さらには、イタリア軍を放置しておきながら、ドイツ軍部隊のすべてを車両輸送で撤退させるわけにはいかなかったからである。
『「砂漠の狐」回想録』P323




 1942年10月23日にモントゴメリーによってエル・アラメインの大攻勢が開始されます。ラムケ旅団はイギリス軍の進出を一時的に阻止するのに成功したものの、11月4日にロンメルは総退却命令を発しました。ラムケの部隊の撤退は11月2日から始められていたものの、車両を持たないまま戦線の南方に配置されていたため、撤退するにしてもまずは北方の海岸道路まで、徒歩で移動しなければなりませんでした。


 ↓OCS『DAK-II』の第3次エル・アラメインの戦いからのキャンペーンの初期配置。

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 赤い○がラムケの部隊の配置ヘクスで、赤い□は後で地名の出てくるフカです。


 ラムケ旅団は最も近いドイツ軍陣地まで約25kmでしたが、11月3日にイギリス軍の戦車部隊がイタリア軍の戦区を突破してしまったため、後退距離はさらに長くなりました。その後送られてきた命令によると、ラムケ旅団はフカ峠に向かい、その海岸道路の両側に陣取るべしということでした。つまり、ラムケ旅団はイギリス軍部隊がうようよいる地域を120km、徒歩で突破していかねばならないのです。

 ラムケと彼の部隊の兵士達は、慎重に撤退しました。兵士達は太陽と砂のためにすぐに疲れ果ててしまうのでしたが、新しい陣地を掘ってイギリス軍戦車や装甲車を撃退し、行進し、掘り、そしてまた行進しました。敵は後ろにも前にもいました。他の枢軸軍部隊はすでにフカの位置から撤退してしまっていました。

 『Knights of the Reich』によれば、ある夜、彼らから数百メートル離れたところにイギリス軍のトラックの隊列が止まりました。降下猟兵達は3、4人の分隊になり、静かにトラックに忍び寄って乗組員を制圧し、その車両に乗って走り去ったといいます。ラムケは窪地に来ると停車を命じ、兵士達にトラックを調べさせました。トラックには水、食糧、燃料、それにタバコ他の贅沢品なども満載されていました。

 朝になるとスピットファイアが現れましたが、兵士達はそれに向かって手を振りました。車両にはイギリス軍のマークが描かれており、疑われることはありませんでした。

 撤退中に別のイギリス軍の隊列が向かってきたことがありました。降下猟兵達は飛び出して、彼らを捕虜にしましたが、そのイギリス軍の隊列はドイツ軍とイタリア軍の兵士を捕虜にしていたのです。ラムケは「ドイツ兵とイタリア兵が運転して、イギリス兵は降りろ」と命じました。イギリス兵は水だけを与えられて置き去りにされました。降下猟兵達は、解放されたドイツ兵とイタリア兵を連れて、さらに西へ西へと走り続けました。


 11月7日、ラムケはロンメルに追いつきました。

 午前10時近く、ラムケ将軍〔ヘルマン=ベルンハルト・ラムケ(1889~1968年)。当時、空軍少将で、第1降下猟兵旅団長。最終階級は、降下猟兵大将〕が、その旅団の将兵600名とともに到着の申告を行った。なにぶん、イギリス軍が、後退中のイタリア第10軍団を迂回し、フカ高地における短期間の戦闘ののちに、その将兵を捕虜としたという報せが入ったあとだったから、ラムケが部下たちとともに砂漠から現れようとは、そもそも信じられなかったのだ。降下猟兵の行軍は、素晴らしい戦功にひとしかった。彼らは、ごく少数の自動車しか装備していなかったが、イギリス軍の車両縦隊を襲撃し、奪った自動車を使ったのである。その際、ラムケが卓越した指揮を示したことはたしかだ。
『「砂漠の狐」回想録』P323

 ただひとつだけ喜ぶべき出来事は11月7日、思いがけなくラムケ将軍がロンメルのバスのところへ再び姿を現わしたことであった。ラムケはきびきびした動作でロンメルに敬礼すると、彼とその部下の落下傘部隊の将兵800名 - ロンメルによって11月4日、敵に撃滅されたものとみなされていた ― はイギリス軍のトラックの縦隊に待伏せ攻撃を加え、トラックを奪って敵中を突破し、ロンメルのもとへ戻って来たと、辛辣ないい方をした。ラムケの不気味な薄笑いを浮かべた顔には、喜びとともに、敵意が見られた。
『狐の足跡』下P48,9



 とはいえラムケ旅団の受けた損害と疲労は大きく、旅団は大休止ののち、休養・再編のために後方に送られていきました。


 一方で、恐らくこの後のラムケの告げ口によりロンメルが激怒していたことが『「砂漠の狐」回想録』の大木毅さんの注釈に書かれています。

 ロンメルはおそらく、ラムケに対して、いくばくかの偏見を抱いていた。彼が、ゲーリングを通じて、理由もはっきりしないまま、自分の旅団には自動車が与えられなかったとか、ロンメルが撤退に際して巨大な補給品集積地を放棄したなどと、ヒトラーに告げ口したからである。ラムケがこのように根拠のない誹謗をしたことに、ロンメルは激怒した。
『「砂漠の狐」回想録』P374




 しかしともあれ、この偉大な武勇伝によりラムケはドイツに呼び戻され、ヒトラーによって1942年11月15日に騎士十字章に柏葉が付与されます。12月にはラムケは中将に昇進しました。

 ラムケ旅団はアフリカから撤退した後、フランスのブルターニュ半島南岸の町オレーに送られます。ここでの再編成でラムケ旅団の生き残りや他の降下猟兵部隊などから1943年2月2日に第2降下猟兵師団が編成され、ラムケはその師団長に任命されました。この地域での住民との関係は良好で、ラムケはある日オレーの町長に、まだドイツ軍に捕虜として捕らえられている大家族の父親のリストを作らせ、それを国防軍総司令部の参謀に渡して解放を依頼したそうです。

 1943年5月に同師団はフランスのアヴィニョンに送られ、イタリアのドイツ第10軍の予備となります。9月8日にイタリア政府が連合国に無条件降伏すると、同師団はイタリアに送られてローマに移動し、イタリア占領作戦に参加しました。しかし、ラムケは乗っていた将校用の車がイタリア軍の戦闘爆撃機に轢かれて重傷を負い、ドレスデンに医療搬送され、5ヵ月間現役に戻ることができませんでした。

 英語版Wikipedia「2nd Parachute Division (Germany)」の歴代師団長のリストによれば、9月13日に第2降下猟兵師団は別の師団長に率いられ始めたことになっています。


 ↓そのリスト。ドイツ語版Wikipedia「2. Fallschirmjäger-Division (Wehrmacht)」では○月~○月という書き方になっていますが、ほぼ同様です。

February 2, 1943 Generalmajor Hermann-Bernhard Ramcke
September 13, 1943 Generalmajor Walter Barenthin
November 14, 1943 Generalleutnant Gustav Wilke
March 17, 1944 Generalmajor Hans Kroh
June 1, 1944 General Hermann-Bernhard Ramcke
August 11, 1944 Generalmajor Hans Kroh
November 15, 1944 Generalleutnant Walter Lackner



 ただし、「5ヵ月間現役に戻れなかった」のであれば、1944年2月頃には現役に戻ったということでもありましょうが、このリストではその頃にラムケが師団長に復帰したという形になっていません。色々な資料を見ているとラムケは少なくとも1944年2月には東部戦線には行って第2降下猟兵師団を指揮しているものの、その期間が細切れで短かったようです。


 ↓OCS『The Third Winter』の第2降下猟兵師団ユニット。

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 『Defenders of Fortress Europe』にはこう書かれています。

 【1944年】2月17日、彼【ラムケ】は第2降下猟兵師団の指揮に復帰したが、この師団はその時東部戦線にあり、ブークへの撤退作戦に従事していた。ラムケはこの作戦中に病気になり、師団の指揮をハンス・クロー中佐に譲り、3月17日にドイツに戻った。1944年5月5日か6日に任務に復帰した。この時、師団はケルン近郊のヴァーン作戦地域に駐屯していたが、翌月、Dデイ上陸作戦に伴いブルターニュに派遣された。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P184


 この本にはハンス・クローの略歴についても項目があり、そこではこう書かれていました。

 彼は1944年4月6日に正規の大佐になった。クローは同時に1943年11月20日から12月11日までと、1944年3月17日から5月初旬まで第2降下猟兵師団長代理を務めた。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P186


 一方、『Hitler's Enforcers』にはこう書かれていました。

 第2降下猟兵師団が東部戦線に移された時、その師団の構成部隊の多くは1943/44年の冬にキエフの西側で繰り広げられた激しい戦闘で使用された。東部戦線での数週間の戦闘の間、ラムケは最前線の陣地にいる部下を訪ね歩くことに多くの時間を費やした。同師団の損失は甚大で、ラムケはほとんどの部下を個人的に知っていたため、悲しみは痛烈であった。彼は2回ほど短期間師団を離れたが、彼が戻ってきた1944年3月に赤軍の反撃が始まった。彼がこの戦場で第2降下猟兵師団を率いるのは、もう長い期間ではなかった。彼はベルリンに呼び戻され、そして恐るべき損失を被って戦線から離脱した彼の旧師団を再編成し、訓練する任務を与えられた。1944年5月末に第2降下猟兵師団がケルン郊外の訓練地に到着すると、彼は再び第2降下猟兵師団の作戦指揮を執るようになった。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P125,6




 ↑に挙げましたように、資料により異なりますけども、1944年5月初め~6月1日の間にラムケはフランスで第2降下猟兵師団長に復帰したようです。

 1944年6月6日当時、第2降下猟兵師団は再建途上でまだ訓練を終えていませんでしたが、6月13日の命令により、ブルターニュ半島西部に移動して、連合軍がその地域に空挺降下してきたり、二次上陸してくる可能性に備え、また敵がブレスト(ブルターニュ半島西端の重要な港湾都市)の都市と港を占領するのを阻止することになりました。前線に向かう途中、ラムケはかつて再編作業を行っていたオレーの町を訪れ、そこで住民達から暖かい歓迎を受けました。彼らは、ラムケが依頼して解放された元捕虜達の家族でした。

 8月に入ってアメリカ軍がアヴランシュ(ノルマンディー地方からブルターニュ半島に入る箇所にある町)を突破すると、ラムケは分散配置させていた第2降下猟兵師団を迅速にブレストへと移動させるため、フランスの民間車両を徴用することにしました。しかし、その数は非常に少なく、師団は前線にいて徒歩行軍するグループと、雑多な車両の分遣隊に分けなければなりませんでした。

 アメリカ軍がブレストに接近すると、ヒトラーはブレスト周辺の地域にいたドイツ軍部隊に対し、最後の一兵まで戦うように命じました。8月8日までにアメリカ軍の先遣部隊がブレストの北西の飛行場にまで到達し、アメリカ第8軍団司令官ミドルトン将軍はブレスト要塞の降伏を要求しましたが、ブレスト要塞司令官のフォン・デア・モーゼル大佐はこの要求を拒否します。その後ラムケの師団がブレスト要塞に入ると、上層部の命令でより上位の階級であったラムケ中将がブレスト要塞の指揮を執ることになり、フォン・デア・モーゼルはその参謀長に、第2降下猟兵師団の師団長代理にハンス・クローが就任しました。この時、ブレスト要塞の中には第2降下猟兵師団の残余の他に、第343歩兵師団と海軍部隊など、計3万5千名がいました。

(余談ですが、ブレスト要塞の話で出てくるアメリカ軍の第8軍団司令官のミドルトン将軍は、有能であったそうですがこのブルターニュ半島での戦いの時期には上官であった第3軍司令官のパットン将軍が側面の危険を顧みずにミドルトンを飛び越して勝手に機甲師団などに命令を与えるのにあたふたしてブラッドレーに泣きついたり、パットンは進撃速度のみを重視したためドイツ軍戦力を撃滅するチャンスをふいにしてブレスト要塞にあたら戦力を逃げ込ませていたため、ミドルトンがその攻略に苦労することになってしまったり、あるいはバルジの戦いの時にはドイツ軍の攻勢を受ける軍団になってしまったりと、「気の毒」な将軍というイメージを私は持ってしまってます(^_^;)


 ブレストの町に住んでいた民間人は半分がすでに町を離れていましたが、ラムケは要塞を巡る戦いが迫っていることから、残りの4万人の住民も避難させようと考え、ミドルトン将軍と停戦の交渉を始めました。アメリカ軍側も同意し、ブレストの住民は4日連続で、ドイツ軍の車両で安全な場所まで運ばれました。

 ミドルトンはブレスト攻略のために、第2、第8、第29歩兵師団を呼び寄せました。ラムケとその部下達は、敵の大規模な部隊を拘束すべしという命令を遂行すべく、戦い抜く決意を固めていました。

 ブレストの戦いは熾烈を極めた。アメリカ軍は地上部隊の犠牲を最小限にするため、数で勝る大砲と航空優勢を存分に利用した。ミドルトンとパットンの間には摩擦が生じ、パットンはすでに深刻な補給問題を抱え、前線から200マイルも離れた守備隊に対して弾薬を使用するのを惜しむようになった。しかしミドルトンは、パットンが必要最小限の補給を保証するまでは攻撃を拒否し、最終的にはパットンが折れた。ブレストを制圧するためには、3万トンの弾薬(ほとんどが砲弾)が必要であった。
 ドイツ軍は強い決意を持って戦った。特に第2降下猟兵師団は、すでに素晴らしい評判を獲得していたドイツ軍降下猟兵部隊の評価をさらに高めていた。もちろん第343歩兵師団とモーゼルの雑多な部隊(何も期待されていなかった)は、ラムケの精鋭部隊と同じレベルには達しなかったものの、予想を大きく上回る善戦をした。このため、ハンス・フォン・デア・モーゼルは9月1日に少将に昇進した。ラムケはその2週間後に降下猟兵大将に特別昇進した。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P186,7


 9月1日にはブレスト要塞の全区域が包囲され、遮断されました。

 ある日、アメリカ軍の医療チームが道を間違えてドイツ軍の陣地に入り込んでしまった。ラムケ将軍はこの困惑しているテキサスの少年達を捕虜にせずにミドルトン将軍のもとに送り届け、ミドルトン将軍は無線でラムケに、人道的な扱いに感謝した。
 戦いは続いた。ブレストの守備隊は、圧倒的な優勢な敵の航空爆撃の波状攻撃、パルチザン活動、大砲の砲弾に対して要塞を守り抜いていたが、その間、他のドイツ軍から切り離されることを意識していた。1944年9月13日、ミドルトン将軍は3人の将校を使者として送り、ラムケ将軍に書簡を渡した。


 ブレストのドイツ軍司令官、ラムケ将軍へ宛てて
 ブレスト前面のアメリカ軍指揮官より

 戦争では常に、軍事的状況は、指揮官がこれ以上の血の損失と部下の犠牲を正当化できない地点に到達するものです。
 我々はブレストのドイツ軍部隊の状況について、我々によって捕らえられたあなた方の将校や兵士達と話をしました。全員が、現在の軍事的状況は希望が少なく、戦闘を長引かせても何も達成できないことを確信していました。したがって、ブレストの守備隊にはこれ以上戦いを長引かせる正当な理由がない、というのが我々の意見です。
 あなたの兵士達はよく戦いましたが、すでに約1万名が捕虜になっています。あなた方は自らの損失を知っています。さらに、あなたは多くの重要な軍事的装備を失っており、あなたの軍は小さな、限られた地域に包囲されています。すでに、あなた方は祖国に対する義務を完全かつ完璧に果たしているのです。
 以上のことから、私は一人の職業軍人として、あなたがこの一方的な戦いを終わらせてくれることを提案します。あなたが、立派に任務を果たした、責任ある指揮官として、この提案を好意的に考慮してくれることを望みます。

署名:トロイ・H・ミドルトン


 この手紙に対するラムケの返信は、簡潔なものだった。


 アメリカ第8軍団司令官 トロイ・H・ミドルトン将軍に宛てて

 あなたの提案を拒否します。

 署名:ラムケ

『Knights of the Reich: The Twenty-Seven Most Highly Decorated Soldiers of the Wehrmacht in World War II』P251~3

 3日後の9月16日、ラムケは司令部を【後方の】ラ・クロゾン半島に移すことを余儀なくされ、18日にはついにアメリカ軍の攻撃が要塞に押し寄せた。激しい戦闘は19日の午後まで続き、アメリカ軍第8歩兵師団の歩兵がカプサン岬にあったラムケの壕に到達した。この時の様子を、第8歩兵師団の史料は次のように記録している。

 完璧な英語を話す一人のドイツ人医師が、ラムケ将軍が司令部にいて、アメリカ軍側の将校と降伏条件について話し合うことを望んでいると伝えてきた。しばらくして、第8歩兵師団長代理のカンナム准将が、数人の将校と兵士と共に到着した。彼らは、ラムケ将軍が待つ深い壕の中に案内された。ラムケは通訳を介して准将に言った。
「私はあなたに降伏しなければなりません。信任状を見せてもらっていいですか。」
 カンナム准将は、部下の兵士達の銃剣を指さして答えた。
「これらが私の信任状です。」
 9月19日の午後8時、抵抗は終わった。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P127,8



 ドイツ本国との最後の無線交信を行った時、ラムケの騎士十字章に剣が付与されることが伝えられていました。また、『Defenders of Fortress Europe』には、カンナム准将はドイツ軍の降下猟兵にうんざりしており、この時怒って返答した……という風に書かれています。

 ラムケは捕虜収容所に入るために、すでに複数のスーツケースに荷物を詰め込んでいており、その中には釣り道具もあったとか。その後ラムケはアメリカ第8軍団司令部に連れて行かれ、ミドルトン将軍と話をしました。最後にミドルトンは、捕虜達のために何かできることはないかと尋ねました。ラムケは、「私の兵士達が、捕虜として良い待遇を受けられるようにして欲しい」と述べたそうです。

 ラムケは、最後に部下の兵士達に、彼らの忠誠心と勇気ある行動に対して感謝の言葉を述べました。彼が別れを告げた時、1000名のドイツ兵達が、「ラムケ親父! ラムケ親父!」と叫んだといいます。

 降伏後の9月21日、自身の騎士十字章にダイヤモンドが付与されていたことをラムケは知りました(全軍で20人目)。柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章は最終的にもわずか27名しか受勲しておらず、(ルーデルが受勲した黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を除き)実質上最高の勲章でした。捕虜収容所でラムケは、捕虜仲間のドイツ軍人達に対して、第一次世界大戦でも第二次世界大戦でもそれぞれ最高ランクの戦功勲章を受章していたことを自慢げに告げることができました。



 ブレスト攻略戦が連合軍側にもたらした影響について、第二次世界大戦ブックスの『猛将パットン』にはこう書かれています。

 結果として、【このブルターニュ半島攻略という】北西ヨーロッパ初の大規模な作戦で、パットンは広大な地域を確保したが、ドイツ軍の残存兵力がこの作戦の主要目的地ブレストに逃げこむまえに撃破できなかったために、米陸軍は1万人の犠牲をはらって、ようやく9月の第3週目、すなわちパットンがとっくに東にむかったあと、この港町を陥落させたのであった。
 この包囲戦で、第8軍団はとうぶん戦闘に参加できないほど痛手をおい、しかもパットンが補給物資の欠乏から、確実なエモノ - ライン川への進撃 - がとれないと苦情をいっているときに、ガソリンや重砲弾などの重要物資は、第8軍団に最優先で配分されていたのであった。
 さらにつけくわえておかなければならないのは、9月19日のブレスト陥落後、アイゼンハワーは、兵員の損失があまりに大きいのに驚き、パットンがまだ陥落させていなかった【ブルターニュ半島南岸の】2つの港町、サンナゼールとロリアンはそのまま放置するよう命令したことである。
 この両港は、けっきょく終戦まで降伏せず、それぞれ米軍1個師団と、かなりの自由フランス軍をクギづけにしたのだった。
『猛将パットン』P79




 ラムケはアメリカの捕虜収容所に入れられましたが、彼のミドルトン将軍への依頼はほとんど効果がなく、アメリカではドイツ軍の降下猟兵出身の捕虜達が非常に粗末に扱われていることを知りました。彼らの猛烈な闘いぶりから、降下猟兵達は熱狂的なナチ一派に違いないと広く受け止められていたのです。

 1945年のクリスマス前の頃、ラムケはアメリカの上院議員二人がこの問題の正当な解決に賛成していることを知りました。ラムケはこの二人の上院議員に手紙を書き、部下達が受けている状況を伝えようとしました。しかし彼らの送る郵便物は検閲されており、上院議員らにこの手紙は届かないだろうと考えたラムケは、収容所を脱走して民間の郵便箱から投函することを考えました。

 収容所の二人の兵士が協力してくれ、鉄条網をすり抜けることができましたが、郵便局が閉まっていて切手を手に入れることができませんでした。ラムケは自分が耳が遠く言葉が不自由であるかのように振る舞い、親切な人が金曜日に開いている薬局を案内してくれ、切手を手に入れ投函することができました。そして気付かれないうちに捕虜収容所に戻り、ちょうど夜の点呼に間に合わせることができたのです。

 ラムケはさらに、もう一度捕虜収容所を脱走して南米に向かうことを計画しはじめました。ところがその間に収容所の所長が、ラムケが件の二人の上院議員に手紙を出したのを知ったのです。ラムケは別の収容所に移されることになりました。アメリカからイギリス、ドイツ、そしてフランスの捕虜収容所に入れられ、そこで「ブレストの虐殺者」として戦争犯罪人として訴追されてしまいます。

 そしてラムケはフランスの捕虜収容所からも脱走して西ドイツにまで戻った後、自発的に捕虜収容所に帰ってきたのです。この脱走で5年の禁固刑を言い渡されましたが、わずか3ヵ月後に釈放されます(その理由は資料によって、「控訴して」「国際的な抗議を受けて」「捕虜として過ごした年月を刑期から差し引いて」など、様々に異なって書かれていました)。彼の脱獄と帰国は、フランスで捕虜になっていたドイツ兵達を解放するという、意図した結果をもたらしました。

 釈放後は、工業会社の主要な従業員として活躍し、1968年に死去しました。ラムケは2冊の自伝を執筆し、1冊は戦争中に、もう1冊は1951年に出版されたそうです。

 英語版Wikipedia「Hermann-Bernhard Ramcke」にはこう書かれています。

 1943 年に、ラムケは「キャビンボーイから空挺部隊の将軍にまで」というタイトルの回顧録を完成させました。この本は、ナチ党の報道機関であるFranz Eher Nachfolgerによって出版され、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは、すべてのドイツ国内の市長に購入するよう命じました。この本は計40万部売れ、ラムケだけでなく、出版社の大きなシェアを所有していたヒトラーも大いに潤いました。



 英語版Wikipediaには、ラムケが捕虜時代や釈放された後にナチスを公然と支持した発言をしたり、ブレストを破壊したことを自慢したりして警戒され、物議を醸したことなどが詳述されており、これらも興味深いものではありますが、このブログ記事としては割愛することにします(そろそろ力尽きましたし、あまりに長すぎても良くないので(^_^;)。

AH『Hundred Days Battles』の自作カウンターを作ってみました

 AH『Hundred Days Battles』ですが、カウンターの文字が見にくい(ここ数か月で完全に老眼になってしまいました……)とは思っていたので、自作カウンターを作ってみました。結構苦労してしまいました。



 ↓サンセットゲームズのブランクカウンターに貼ってみました(そして、結構貼り方がずれてしまい……以下略)。

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 マーカーなしでちょうど100駒でした。一番右下のDurutte師団ユニットは入れ忘れていたのに後で気付いて入れました(>_<)

 イギリス・オランダ連合軍ユニットは多国籍の軍で、オランダ軍などはフランス軍に似た軍服だったので分かりにくいのですが、ズボンの部分が白くないものがそうだということにしてあります。




 PDFファイルは↓に置きました。12.5mmサイズです。どこかミスなどありましたらご指摘下さい!

AH『Hundred Days Battles』自作ユニット20221210b.pdf





 基本的なデザインは、以前にワーテルロー戦役の自作ゲームを作ってみようとして完全に挫折した(^_^;)時のものを流用しました。

B4ワーテルロー戦役のユニット (2012/03/16)
イギリス連合軍とプロイセン軍のユニットを作ってみました (2012/03/17)
ハノーファーと近衛隊のユニットをいじってみた (2012/03/25)
ウェリントンとヒル卿のユニット (2012/03/27)



 当時、指揮官ユニットとしてナポレオン、ウェリントン、ヒル卿の軍服を模したものは作っていたのでそれを流用したいのはやまやまだったのですが、他の指揮官のものが全然ないのとのバランスが取れないですし、元の文字だけのデザインをそのまま使うことにしました。

 元のユニットには部隊規模(XXとかXとか)が描かれてまして、ゲームには関係してこないのですが、兵科マークの下にボタンのようにして描いておくことにしました。また、指揮官名は兵科マークの上に書き、兵科マークの左にそのユニットの名称(第何師団とか)、兵科マークの右には初期配置時の所属軍団(編成表上のどの軍団に入れられているか)を書いておくことにしました。


 この「所属軍団」は、例えばプロイセン軍のJagow旅団のように、「史実では第Ⅰ軍団に所属しているけども、配置においては離れて置かれていたので、ゲーム上では歩兵少将に率いられているから、軍団所属ではなくなっている」のだろうというものもある一方で、フランス軍なんかはワーテルローの戦いの当日の戦闘序列とは全然違う軍団にゲーム上では所属していて、「戦役開始時と、ワーテルローの戦い当日とでは配置替えがされたのかな?」というものもありました。


 実は手持ちの資料では、ワーテルロー戦役開始時(6月14日)の戦闘序列の資料がありませんで、ワーテルローの戦い当日(6月18日)の戦闘序列はむちゃくちゃ細かいのがありますし、カトル・ブラとリニーの戦い(6月16日)の時の戦闘序列もあったのですが、14日に関しては分からない状態です。以下、参考に、作業中に気付いたことを書いていこうと思いますけども、認識ミスなどもあると思いますので、見つけられたらご指摘いただければありがたいです!



 とりあえずまず、『Hundred Days Battles』のミスではないかと思われたのが、イギリス軍の第2師団と第3師団の指揮官名が逆ではないか、ということについてです。

 ↓AH『Hundred Days Battles』の第2師団と第3師団。

unit8717.jpg


 ↓CoA『The Emperor Returns』の第2師団と第3師団。

unit8716.jpg


 手持ちの18日や16日の戦闘序列では、第2師団がClintonで第3師団がAltenというのは一致しており、『The Emperor Returns』でも同様です。史実の14日の時点では逆だったという可能性は捨てきれませんけども、恐らくは『Hundred Days Battles』のミスではないかと推測し、師団名を直したものにしてあります。尤も、ゲーム上では何の関係もありません(^_^;

 また、この2つの師団について気になったのが、18日の時点の戦力が、Altenの師団が7,992名、Clintonの師団が8,091名だったらしい(『Waterloo:Companion』P40,43)のですが、ゲーム上ではAltenの師団が4戦力、Clintonの師団が9戦力となっていたことでした。これはどうも、Altenの師団にはハノーファー軍の第1ハノーファー旅団(3,315名)が入っており、これが『Hundred Days Battles』では別ユニットとなっているからではないかとその後気付きました。尤も、何か別の経緯があったのかもしれません。







 あと、これもゲーム上は何の関係もない点ですが、ゲーム上では軍団長は「Lt. Gen.(中将)」となってますけども、プロイセン軍の第Ⅱ軍団長のPirch Iは当時少将だったようです。「I」というのは、弟が「Prich II」と表記されて第2旅団長をしているのと区別されるためです。

 このプロイセン軍の「旅団」というのも、名称は「旅団」だったらしいのですが、戦力的には5,000~8,000程度あって、実質的には他の国における師団規模だったようです。

 史実的な興味としては、プロイセン軍の第Ⅳ軍団の第4騎兵師団長の「Wilhelm」というのは、当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男のヴィルヘルム(当時19歳?)で、後の初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世となります。



 それから、各ユニットの名称は基本的には指揮官名ですけども、フランス軍親衛隊の「1OG」は「Grenadiers(擲弾兵)」を省略した「Grenad.」、「2OG」は「Chasseurs(猟兵)」を省略した「Chass.」と表記されていることに気付きました。

 18日の戦闘序列(『Waterloo:Companion』P54)を見ていると、擲弾兵はFriant、猟兵はMorand(両方とも、元ダヴー麾下の師団長。ダヴー元帥の「不滅の三人」 (2015/11/21))が指揮してるかのようで、また『Hundred Days Battles』ではBarroisが指揮している若年親衛隊はDuhesmeという人物が指揮しているかのようなのですが、ここらへんも戦役開始時がどうだったとか、色々事情があるのかもです。

 指揮官名については、編成表上に指揮官名が書かれていて、これとユニット上の指揮官名が一致しないといけないので、軽々にいじるわけにはいきません。ただ、ゲーム上で省略表記はされていることがままあり、しかもその表記がユニット上と編成表上では一致しなかったりもするので「そこらへんは適当で良いのだな」と考え、自作ユニットにおいては省略せずに名前全部を表記しました。


 これでようやく、ソロプレイ(というかルール習熟プレイ)に入る予定です……。



AH『Hundred Days Battles』のサマリーできました

 ツイッターに書いてましたが、ほぼやったことなかったキャンペーン・オブ・ナポレオンシリーズをやってみたいと思い、とりあえずAH『Hundred Days Battles』のサマリーを作ってみました。


 ↓に置いておきました。

AH『Hundred Days Battles』サマリー20221208.pdf


 「読まなくても常識的に分かるだろう」という部分以外をそのまま抜き書きして、分かりやすく順番を入れ替えたりした程度のものです。とりあえずのものなので、今後またどんどん修正する可能性もあるかと思います。




 で、ゲームを広げてみました。

unit8718.jpg


 元のはハードマップですが、きれいに広げるのが難しいのでコピーしまして、編成表もそのままでは1マスに3ユニット重ねたりするのが分かりにくい気がして、200%程度に拡大してみました。



 TACTICSにリプレイ記事(コピーしたやつを持っていて、何号のか不明)があったんですが、旧GJ42号の研究記事によるとTACTICSの記事はルールを間違えているそうで、GJの方の記事をとりあえず参照しながらソロプレイしていってみようと思います。

OCS『Smolensk』キャンペーン:ソ連軍の守り方について

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーンのVASSAL3人プレイを継続していまして、第3ターン後攻ソ連軍のところまで来ています。




(↑の「移動力が足りなかった」件ですが、タエさんに指摘されたのですが実は予備モードにして1/4移動力使用しておけば十分届いたのだという。グデーリアン戦区全体をうまくいかせるために散々考えていた挙げ句、肝心なところでミスしてしまってました(^_^; まあそういうものですよね :p)



 今回は、富山のNさんが観戦に来られました。富山のNさんはVASSALで『Smolensk:Barbarossa Derailed』をソロプレイしているそうなのですが、ソ連軍の守り方が分からなく聞いてみたいということで、私なりの現時点での考えを説明してました。
(ただし! やはり今回のプレイでも「『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーンのプレイは超難しい!(楽しいけども)」と実感したので、初心者の方はシナリオ7あたりをプレイするか、OCS『KOREA』をプレイするか等のシフトをぜひご検討下さい)


 以前、ドイツ軍の初動に関しての私の現時点での考え方は↓で書いていたので、今回はソ連軍の守り方について、現時点での私の考え方を書いてみようと思います。

OCS『Smolensk』キャンペーンのVASSAL3人プレイを始めました&現時点での初動の指針 (2022/11/20)




1.ドイツ軍のハイスタックを航空爆撃/砲撃する。むりやり観測しにいって爆撃するのもアリだと思います。ドイツ軍側にとっては、強力なハイスタックをDGにされてしまうとかなり苦しいはずです。ただし、それを意識しているドイツ軍はスタックを適度にばらけさせるでしょうし、「囮のハイスタック(SPやトラック等でかさましして)」を作っているかもしれません。

2.第1ターン後攻ソ連軍のドニエプル川沿いについて。私は、オルシャの南とモギレフ周辺のそれぞれ5~6ヘクス程度については全部ソ連軍ユニットで埋めてしまい、その中間部分は空けておくのがとりあえず良いのではないかと思っています。その辺りをソ連軍ユニットで埋めておくと、ドイツ軍は「戦闘フェイズに徒歩移動タイプのユニットのみで1/2攻撃力で東岸ヘクスを空けてから突破フェイズ中に進撃を開始する」 or 「空いている中間部分に架橋して進撃を開始する」かの選択を迫られます(その中間やそれ以外の選択肢もありますが、大きくは)。前者ならドイツ軍の進撃は遅れますし、後者だとドイツ軍が使用するメインの2本の二級道路から距離が遠くなって無駄な移動力を使わせることになります。

3.スモレンスク周辺のフリーセットアップのユニットについて。スモレンスク市街に置くユニットは最小限にし、その北辺を(史実通りに)ホートに進撃されてスモレンスク東方を押さえられてしまうのを防ぐために、第1ターン後攻の移動で北上できるよう意識して置いておくのが良いと思います。戦車師団などは予備モードにしておいて、移動距離を稼ぐとか、予備部隊として使えるようにしておくとかも。

4.尼崎会では以前、「敵へのいやがらせのために前線部隊が死んでしまっても構わない」という方針でプレイしていたのですが、ある時「部隊を大事にする戦い方」との比較をしてみたところ、どうも後者の方が有効なのではないかという仮説に私は現在傾いています。もちろん要所要所でいやがらせはするし、実際に嫌がらせをした方がドイツ軍プレイヤーがその後のプレイで守備隊を厚くせざるを得なくなるという大きな効用があるのですが、しかし無駄死にはしないように重々気を付け、できるだけドイツ軍の邪魔になるような場所に下がったり、生き残れるようなムーブを意識した方がいいのではないかと。(とか書きつつ、私は「全部隊がいのちをだいじに」になりがちなので、毎ターン1箇所か2箇所で嫌がらせはする、と決めておくのが良いのかもですね) ヴィテブスクの北方やオルシャ周辺の部隊は、後退計画をある程度決めておかないと後で慌てても遅いということがあり得ると思います。

5.↑に関して補足しますと、OCSにおける防勢側が最も避けるべきなのは「小包囲される」ことなのじゃないかと私は思っています。攻勢側にとっては「小包囲して敵ユニットが損耗する」のが、戦闘補給も不要でSP効率的に最も良いと思われるのです(ただし、小包囲された側がオーバーランで包囲側を除去できるとか、包囲側に防御用の戦闘補給を払わせるという可能性はあります)。小包囲されないようにするための一つの方策として、ユニットを「数珠つなぎ」にする、あるいは「尻尾を付ける」というのがある程度有効なのではないかと思っています。



 もちろん、上記のことは私の個人的な、しかも現時点での考えで、人によって色々な考え方があるのは当然でまたそれが面白いのだと思います。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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