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ミドルアース大阪でOCS『KOREA』釜山橋頭堡シナリオの完遂目標継続プレイを開始しました

 ミドルアース大阪でOCS『KOREA』釜山橋頭堡シナリオ(5.3 洛東江の戦いシナリオ。7.5ターン)の完遂目標継続プレイを開始しました。



 過去2回のインスト/練習プレイの様子は↓こちら。

ミドルアース大阪でOCS『KOREA』のインスト会やってました (2022/10/12)

ミドルアース大阪で、OCS『KOREA』インスト、釜山橋頭堡シナリオ2回目 (2022/11/07)




 今回の陣営は、私が北朝鮮軍、シバタさんが国連軍(韓国・アメリカ軍)です。

 私は前日のVASSALでの『Smolensk:Barbarossa Derailed』プレイで「いつも通り」ダイス目が悪く、夜寝る時に「明日の『KOREA』のプレイでもまたいつも通りダイス目が悪いのかなぁ……(T_T)」と思いながらだったりしたのですが。



 ↓第1ターン後攻北朝鮮軍終了時(このシナリオの第1ターンには先攻国連軍ターンはありません)。

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 このターンは「逆奇襲3コラムシフト」など、いくらか悪いダイス目はあったのですが致命的なものはなく、平均すればやや良いダイス目で、なんとか「まあまあ」という感じで終わらせることができました。


 次のターンのことまでは全然考えられてない状態だったのですが、第2ターン、シバタさんが天候のダイスを振って「飛行不可」に。国連軍はものすごい空軍力を持っているので、北朝鮮軍にとってはものすごくありがたい結果です。半分の確率で飛行不可となります。そして続けてのイニシアティブのダイス振りで私が勝利し、先攻を選択して「ダブルターン」をプレイすることができました。



 ↓第2ターン先攻北朝鮮軍終了時。

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 このターンもダイス目は悪くなく、いくつかの国連軍ユニットを撃破。ここまで北朝鮮軍は無損害でした。

 また、赤く囲った内側に韓国軍の4ユニット(計5ステップ)を小包囲することができましたが、続く国連軍ターンにこれらのユニットがすべてオーバーランを実行し、シバタさんの良いダイス目によって北朝鮮軍は2ユニットを失い、5Tを支払わされてしまいます……(ただし国連軍側も、Lowになった2ステップ歩兵師団を再備蓄せねばならず4Tが強制消費されました)。

 国連軍は基本的には戦線を下げたのですが、後知恵からすれば画像で青い○を付けたヘクスにユニットを入れて、赤い矢印のように北朝鮮軍が小包囲してくるのを邪魔した方が良かったようです……。しかし国連軍プレイヤーターン中には私もそのことには気付いていませんでした。




 第3ターン、今度は天候は「飛行可」になりました。北朝鮮軍からすれば「暴威」ともいうべきアメリカ軍航空ユニットが使用可能になります。イニシアティブは今度も私が勝利し、先攻を選択しました。


 ↓第3ターン先攻北朝鮮軍終了時。

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 画像でDGマーカーが置かれているのは両方とも勝利条件ヘクスで、北のが大邱(テグ)、南のが馬山(マサン)です。

 私は移動フェイズの終盤になって、「あれ、馬山(マサン)を包囲できるぞ……!」と気付き、「ううーん……包囲できるならした方がいいんだろうかなぁ……」と思い、そのようにムーブしてみました。

 リアクションフェイズに、包囲下の馬山(マサン)周辺について国連軍に何ができるかシバタさんと私で色々検討したところ、輸送機で補給物資をパラシュート降下させることが最も良く、またそれ以外のことは意味がなさそうというという分析に。シバタさんは4Tのパラシュート降下を試み、それぞれ2D6で5以上で成功だったのですが2Tのみ降ろせました。画像では1Tのみ見えているのは、その後の戦闘で防御のための戦闘補給1Tを支払ったためです。



 ↓第3ターン先攻北朝鮮軍終了時点での国連軍のデッドパイル。

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 私の戦術は、北朝鮮軍は機動力もARも期待できないので、多めのSPにものを言わせて砲撃でDGにし、基本的にDGにできたところだけを攻撃していく、というものです。ダイス目がかなり良かったので非常に善戦できていると思います(私にとっては非常に珍しいことです!)。


 シバタさんの側は、今回唯一来た国連軍側のプレイヤーターン(第2ターン後攻)中に、馬山(マサン)に入れたアメリカ海兵隊スタックで北朝鮮軍2ユニット(2ヘクス)を攻撃……という選択肢を考えておられました。最終的にシバタさんはこの企図を断念されたのですが、それは、その攻撃をやった場合残りのSPがゼロになってしまい、直後に北朝鮮軍プレイヤーターンが来て攻撃を受けた場合には「戦闘補給を入れずに半分の防御力で防御する」か、あるいは「Lowにして戦闘補給を入れて普通の防御力で防御するが、後でLowになった分のSPを倍返しする」の二択を迫られるためです。

 もし第3ターンのイニシアティブを国連軍が取れれば、先攻を取って先にSPを上陸させる……ということも可能なのですが、このシナリオは北朝鮮軍側にずっと、「イニシアティブのダイス目に+2」という修正があるので現実的ではないところです。

 北朝鮮軍側から見れば、その攻撃をされれば北朝鮮軍側は確実に攻撃された2ユニットを失ったはずであり、そうなれば「馬山(マサン)方面では撤退して守勢」という選択肢も全然入ってくるところでありました。お互いに本当にギリギリのところで戦っているという感じがします。




 継続プレイの予定なので、プレイ終了時に配置をメモっておきました。次は12月25日のミドルアース大阪で続きをプレイする予定です。

 12月25日のミドルアース大阪ではバザーも催されるので、ぜひ来てもらったらと思います。バザーの参加資格ですが、「ミドルアース大阪に参加したことがある、あるいは参加するかもしれない人」ということで、これまでミドルアース大阪に来たことがない方でもバザーをちらっと見に来られて、買い物して、会の様子を観察して帰るということでもOKということでした(^^)


 ↓去年のバザーの時の写真です。

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1806年戦役の審判制ゲームのマップ案:1ヘクス4マイルで60度傾けた場合

 1806年戦役(イエナ・アウエルシュタット戦役)の審判制ゲームが欲しいとずっと思っているのですが、以前のマップ案データを見ていて、スケールを少し変えてみようと思いました。


 ↓以前の、1ヘクス5マイルのマップ案等があります。

1806年戦役の各軍団の1日毎の移動距離を調べてみました&審判制ゲームが欲しいです (2022/08/03)



 これまで、1ヘクス5マイルと、1ヘクス3.5マイルというものを作ってみていたのですが、どうもその中間が良いのではないかと思い、1ヘクス4マイル(約6.4km)に調整してみました。また、これまではマップを傾けていませんでしたが、60度傾けてみました。


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 これで、北東の方ではライプツィヒとハレ(プロイセン軍にとって重要な後方拠点)を含み、西の方ではプロイセン軍の一部が一時進出していたフルダの辺りまで入ります。一方で、フランス軍の一部が最初(10月6日を想定)はマップ上にいないことになりますが、全体として結構良いマップ割ではなかろうかと思いました。



 で、前掲ブログ記事でやっていた「各軍団の1日毎の移動距離」をこのマップ上でも調べてみました(数字は大まかな「移動ヘクス数」です)。

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 構想では、日中ターンを2~4ターン程度に分けたいと思っていたのですが、↑の数値を見ていると、移動が遅くなっている時の移動ヘクス量が1~3程度、移動が早い時の移動ヘクス量が4~6程度になっているような気がしたので、日中を3ターンに分けるとちょうど良さそうではないかな、と思いました(つまり、1ターンの移動量が1か2ヘクス程度になる)。

 で、OCSのように戦闘モード(会敵を前提に、戦闘力を重視してその分移動力が減少した状態)と、移動モード(戦闘力を犠牲にして、移動力を増した状態)を設ければ、「史実での、移動量が多い日と少ない日」をうまく再現できるかな? と……(それが史実と比べて妥当なシミュレーションになっているかどうかはイマイチ良く分からないのですが、夜間ターンにモードを全軍指揮官が指定するというのは「コマンドコントロール」としてありだと思いますし、ジレンマとしては面白いんじゃないかと思います)。


 具体的には……。

 例えば、フランス軍の軍団指揮官に↓のような「移動値」を持たせます。()内は2D6してその数値以下が出る確率です。

ダヴーは10(91.6%)
ランヌは9(83.3%)
ネイ、スールト、ベルナドットは8(72.2%)
オージュローは7(58.3%)

 で、各ターンの移動チェックで「移動値」以下を出せば、戦闘モードならば1ヘクス、移動モードならば2ヘクス移動できる、と(移動モードの時は、チェックに失敗しても目の差が1なら、1ヘクス移動できる)。


 プロイセン軍は全指揮官が移動値8とか……。プロイセン軍は史実では、いつどこでフランス軍に攻撃されるか分からなかった(&移動力より戦闘力を重視していたと想定して)ので、ずっと戦闘モードでいたのだと考えてもいいような気がしました。

 あと、OCSでは移動モードの戦闘力は、戦闘モードの半分か端数切り上げなのですが、このゲームにおいては1/3くらいにするのがちょうど良いかもと思いました。移動モードで移動するのは、かなりリスクを抱えているのだという風に。


 また、戦略移動モードにすれば移動値+1とか、山や森では移動値にー修正が来るとか。



 あと、各軍団の戦力値ですが、↓のようなマーカーで管理しようかと(画像はBCSのステップマーカーですが、他のゲームでもこういうのは最近見ますね)。

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 裏面は「5 6 7 8」となってます。で、例えばある軍団の戦力がその時点で8だったら、指揮官ユニットに8の辺が「接する」ようにしてマップ上に置こうと。「下に」置くのが普通ですが、審判制ゲームなので対戦相手にステップマーカーを隠す必要はないし、常に見られる方が一覧性が良くていいし、このゲームの密集度であれば、指揮官ユニットの4辺のどれかに接するので良いのであれば若干ごちゃごちゃしてきても何とかなるでしょう(まじで密集してきたら、下に置いてもよいし)。

 で、戦力値が減少したら、残りのステップ数を表示するようにする。「9」以上「16」以下用のマーカーを作れば、それらの戦力でも容易に管理できるでしょう。



 あと、日中の3ターンを例えば「朝」「昼」「夕」に分けるとすると、「朝」ターンに戦闘が始まってもそれは全面的激突ではなく、お互いの戦力のごく一部しか投入されない。また、この時点で周辺の軍団は砲声を聞いて戦場に駆けつけようとするでしょうが、そうしない指揮官もいるでしょう(その判定には「イニシアティブ値」を導入すべきかもしれません)。「昼」になるとお互いかなりの戦力が投入できるようになり、「夕」がその日の最後の戦闘ターンとなります。


 それから、初期配置が史実通りか、そこからあまり離れないようだと結構「なるようにしかならない」と思われるので悩んでいたのですが、ゲームマーケットで買った『キングダム 盤上大戦』が、お互いの初期配置を見えないようにして自由にセットアップするようになっているのを見て、「あ、そうか! 1806年戦役でも、完全フリーセットアップもありくらいに思いきればより面白いのではないか」と吹っ切れました。もちろん、ある程度の(史実的)制限はかけるとしても、結構フリーセットアップに近いようにして審判制で相手の部隊の位置も意図も分からないようにしてプレイするというのは面白いのではないかと(史実も、というか、史実こそがそんな感じだったのです)



<2023/01/02追記>

 さらにいくつかルール案を思いついたので、追記しておこうと思います。


1.1ターンに1ヘクス移動にする。

 前述の案だと、1ターンに2ヘクス移動ということがあり得ましたが、それだと両軍が会敵するタイミングの処理が難しくなってしまうことに気付きました。なので、いっそ日中を6ターンに分けてしまった方がいいなと。それで、戦闘モード(日中に最大3ヘクス移動できる)の場合には、そもそも2ターンに1回の割合で移動可否をチェックする、と。

 あと、両軍が1ヘクス挟んだ位置にいて、同時に間のヘクスに入るような場合には、指揮官の移動値が高い方に優先権があるとか。



2.川越しで戦闘は不可

 第二次世界大戦だと川越しで守ると有利だったりしますが、ナポレオン戦争においては「川を挟んで守る」とかって存在しないような気がします。川を渡って部隊を展開させるのが難しくてどうこう、というのはありましたけども(アスペルン・エスリンクの戦い)。

 1806年戦役では、ザールフェルトの戦いでプロイセン軍はわざと川向こうで(町を避けて平原で)戦いましたし、イエナとアウエルシュタットの戦いでは両方ともフランス軍は渡河に成功してから川向こうで戦っています。そこらへん考えると、少なくとも1806年戦役では川越しでの戦闘は不可にして、ただ渡河移動にはマイナス修正が来て渡りにくい(街道の橋があればマイナス修正なし)ということにすれば良いかな、と。

 渡河点は自軍が先に押さえた方が得、ということにはなると思います。



3.テューリンゲンの森の中では戦闘不可

 1806年戦役では、初期配置のフランス軍とプロイセン軍の間にテューリンゲンの森が横たわっています。

 これも、第二次世界大戦ゲームの感覚だと地形効果が強くて、テューリンゲンの森の中の街道を小部隊で押さえてしまうのが良い、ということになりそうですが、1806年戦役の本を読んでいると、「敵が森から出てきたところで勝負する」という感覚だったらしく、森の中で足止めなんていうことは考えにないし、そもそもこの時代にはそういうことは不可能だったのかもです。

 これもどうしたら良いか悩んでいたんですが、森の中では戦闘不可ということにして、もし両軍が森の中で出会ってしまったら単純に兵力のでかい方が押し出していくということにでもしたら良いかな、と。兵力の小さい方はいくらか距離を取って離れられる処理は必要かもしれません。


<追記ここまで>


装甲部隊の理論家であり、東部戦線や北アフリカで主に軍団長として活躍したネーリングについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、装甲部隊の理論家であり、東部戦線や北アフリカで主に軍団長として活躍したネーリングについてです。



Bundesarchiv Bild 101I-784-0203-14A, Nordafrika, Bayerlein, Rommel, Nehring

 ↑1942年4月、トブルク攻略について話し合うロンメル達。右からネーリング、ロンメル、ヴェストファルバイエルライン。(Wikipediaから)



 ネーリングの著作は『ドイツ装甲部隊史: 1916-1945』として大木毅氏によって和訳されており、もしかしたらこの本の中にネーリングの経歴について書かれているのかもですが、私はこの本を持っていません。





 私が今回使用した資料は、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』と『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』が主なものになります。




 


 ネーリングの一家は、17世紀に宗教迫害を逃れてドイツに移住したオランダ人の子孫の家系だったそうです。ヴァルター・クルト・ヨーゼフ・ネーリングは西プロイセンで生まれ、幼い頃に一家がダンツィヒに移住しました。父親は教師でしたが軍の予備役でもあり、ネーリングは1911年に士官候補生として父親が所属していた第152歩兵連隊に入隊しました。

 第一次世界大戦でネーリングは主に東部戦線で戦い、二級、一級鉄十字章などを受勲しましたが、何度も負傷し、従軍期間よりも病院にいた期間の方が長かったそうです。

 大戦後は義勇軍に入り、1921年に軍に採用されました。軍の試験で高得点を取ったネーリングは参謀将校となるコースに進み、またゼークト将軍の「すべての帝国軍将校には専門分野を持たせる」という指示に従い、装甲部隊の編成と運用を専門とすることにします。この決断には、急速に個人的に親しくなったハインツ・グデーリアン少佐の影響がありました。

 1929年にネーリングは車両訓練部隊の第6大隊に配属され、ここで自分が培ってきた理論を実践する機会を得ました。同年秋に行われた演習でネーリングの戦術理論は非常な成功を収め、軍は他のすべての自動車化大隊に同様の訓練を行うように命じています。

 装甲部隊の創設に理解のあったルッツ将軍が1931年に自動車化部隊の長(*1)に任命されたことにより、ネーリングのキャリアはさらに大きく前進しました。グデーリアンが参謀長(*2)、ネーリングが作戦主任参謀となり、両名は多くの研究論文を書くと共に、装甲部隊の創設を精力的に提唱していくことになります。

(*1:『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』による訳語では「交通部隊監督局長」。 *2:同、「幕僚長」)





 グデーリアンの活動に比べて、ネーリングの活動はより、諸外国に赴いての視察と、理論的な研究に重きがあったようです。『戦車将軍グデーリアン』には、ネーリングが当時執筆した論文の具体的な内容が、「第二次世界大戦で実現されることになる構想に、すでにたどりついていた」ものとして紹介されています。

「装甲団隊の特徴は、強大な火力と装甲による掩護、路上および路外での高速性と機動性といったことの結合である。その移動能力は、機械にのみ頼っている。……装甲団隊は、戦争遂行を機動的にし、戦線膠着を防ぐのに適した、最高度の戦闘力を有する戦争手段を表している。」
「敵の側面および後背部に対する包囲的な行動こそ(他の緩慢な諸団隊は無視される)、装甲団隊の主任務となる。追撃に投入されれば、退却する敵の潰滅をみちびくことも可能だ。一方、獲得した土地を、引き続き保持することは不得手である。その任については、多くの場合、砲兵を有する自動車化歩兵の配属が必要となろう。」
『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』P135,6



 日本語版Wikipedia「ヴァルター・ネーリング」には、このような記述がありました。

1932年に少佐に昇進して国防省に復帰し、自動車部隊監察部作戦課長に就任、グデーリアン中佐の配下となった。以後3年間、装甲部隊育成に従事する。1932年末、兵務局教育部の要請により、「騎兵軍団運用における装甲旅団」をテーマとする研究をまとめ、装甲部隊の敵軍包囲や敵前線突破における重要性、防御における脆弱性と他兵科との協同の重要性、短期決戦での優位と長期戦での不利を指摘した。




 ネーリングは、1936年のスペイン内戦時にはスペインへの部隊装備の輸送と補給を担当しました。

 1937年10月にネーリングは、第3装甲師団隷下であった第5装甲連隊の連隊長に任命されます。この時、同じく第3装甲師団隷下の第6装甲連隊の連隊長であったのがクリューヴェルで、後に北アフリカでも同僚となります。

 1939年7月1日に、ネーリングは第19自動車化軍団の参謀長に任命されました(と、私が使用したメインの2つの資料は日付について一致して書いています)。グデーリアンはその2ヵ月ほど後の同年8月26日付けで同軍団の司令官になっており、『戦車将軍グデーリアン』P167の記述からするとグデーリアンは、独ソ不可侵条約が結ばれる8月下旬になってからヒトラーの意向の元、対ポーランド戦のために急遽この軍団司令官に任命されたかのように思えます。

 ところが一方、『Rommel's Desert Commanders』の著者ミッチャム氏は「グデーリアンはヨーロッパでの戦争が近いことを強く意識し、自分が軍団司令官となっていた第19軍団にかつての最も優秀な補佐役であったネーリングを参謀として異動させるよう手配した」(P84)という風に書いているのですが、時期的な問題や、他の資料の記述からすると、ミッチャム氏は「推測で筆が滑った」かのように思われるのですが、果たして……?(「推測で思い込んで筆が滑る」ことは大小ままあり、根絶はそれはそれで難しいとも思うのですが、ミッチャム氏はそれを疑わせることが多いような気がしています。あと、複数の自著の中で書いている細かい経緯が一致しないとか)


 1939年9月1日からのポーランド戦、1940年5月10日からのフランス戦の両方でネーリングは、グデーリアンの第19自動車化軍団の参謀長として装甲部隊の運用にかかわり、大きな成果を上げます。同年6月1日には3つの軍団を統括する「グデーリアン装甲集団」が編成され、ネーリングはこの時もグデーリアンの参謀長を務めます。フランスはその3週間後に降伏しました。

 続いて1940年10月25日にネーリングは、新たに編成された第18装甲師団の師団長に任命されます。この時点での第18装甲師団は武器、車両、装備等がいずれも不足しており、ネーリングが陳情してイギリス本土上陸作戦のために集められていた潜水戦車部隊が編入されることになったそうです。

 また、第18装甲師団長に任命されてそれほど経たない頃にネーリングは北アフリカへ赴任するように命じられたものの、その命令は取り消されたそうです。ミッチャム氏はこの件について、「クリューヴェル【前述のように1938年頃には第3装甲師団隷下の第6装甲連隊長を務めており、同第5装甲連隊長であったネーリングとは同僚で、この当時ドイツアフリカ軍団長になっていました】がネーリングを北アフリカで師団長の一人として呼びたいと考えていたのは間違いないし、彼はロンメルに大きな影響力を持っていたので、おそらくロンメルがネーリングの北アフリカ招致を要請したのであろう。しかしOKHのメンバー(もしかしたらヒトラーも)は、ネーリングをより重要な作戦であるバルバロッサ作戦に参加させたいと考えたのだ。」と書いています(『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P85)。

 第18装甲師団はソ連侵攻作戦において、グデーリアンの第2装甲集団の一員としてミンスク、スモレンスク、キエフ、ブリャンスクなどの包囲戦で大きな役割を果たします。1942年1月のソ連軍の反攻時には、包囲された第216歩兵師団の救出を命じられ、これに成功しました。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第18装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第18装甲師団ユニット。

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 ネーリングはそれから間もなくして北アフリカに赴き、ドイツアフリカ軍団長に就任することになりました。参照した2つの資料にはその理由等について何も書かれていないのですが、当時北アフリカではロンメルの第2次攻勢が成功した頃で、それに伴ったものかアフリカ装甲集団がアフリカ装甲軍に改編されており、役職の動きを見ると、

ロンメル:アフリカ装甲集団司令官 → アフリカ装甲軍司令官
クリューヴェル:ドイツアフリカ軍団長 → アフリカ装甲軍副司令官

 となっているので、空いたドイツアフリカ軍団長のポストに(今度こそ)ネーリングが連れてこられた、ということではないかと思います。そしてまた私が推測するに、これこそ「推測で思い込んで筆が滑る」かもしれませんが、独ソ戦開始前まではOKH(陸軍総司令部)が全戦線を担当しており、OKHのハルダー参謀総長はロンメルを嫌い、独ソ戦にこそ集中すべきであると考えて人事も行っていたようなのですが、独ソ戦が開始されるとOKHは独ソ戦のみを担当することになって他の戦線はOKW(国防軍最高司令部)の担当になったのでハルダーらの人事権が弱まったこと、それにロンメルが成功を収めるとロンメルやクリューヴェルの意向が通りやすくなったとか、そういうことが背景にあるのではないでしょうか。

 また、

 また、新たな攻撃に先立ち、指揮官の人事異動も行われた。体調を崩したクリューヴェルに代わって、ドイツ・アフリカ軍団長は、3月9日から元第18装甲師団長ヴァルター・ネーリング中将が努めることとなり、ロンメルの参謀として活躍したビスマルクは、2月11日付で第21装甲師団長に就任していた。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P275

という記述もあり、クリューヴェルは重大な責任がかかるドイツアフリカ軍団長の職から、責任の軽いアフリカ装甲軍副司令官に(一時的に)異動され……という理由もあったかのようです。


 第18装甲師団長からの離任の日時に関しては、次の師団長(フォン・テュンゲン)の就任が1942年1月26日としているのが『Rommel's Desert Commanders』と『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』で、『Hitler's Enforcers』は2月1日としています。

 ネーリングのドイツアフリカ軍団長への就任は、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によると3月8日、『ドイツ軍名将列伝』によると3月9日です。


 ↓OCS『DAK-II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 このすぐ後、クリューヴェルの誕生日パーティーが催され、ネーリングらが祝ったことについてクリューヴェルに関するブログ記事で書いていたので、再掲します(『砂漠のキツネ』P155に詳しい描写があります)。

 1942年3月20日はクリューヴェルの50歳の誕生日で、彼は以前自分が司令官であったアフリカ軍団司令部を訪れました。この人気の将軍のために、元パン屋の兵士達が何とかクリームとチョコレートタルトをこしらえ、ロンメルとネーリングが大きなバースデイケーキをしつらえさせたのです。隠されていた本物のフランス製シャンパンが持ち出され、将校と兵士達が一緒になって主賓に乾杯し、砂漠には幸せなお祝いの音楽が響き渡ったといいます。





 1942年5月26日からのいわゆる「ガザラの戦い」(「テーゼウス作戦)に関してネーリングは、ロンメルの「南から回り込んで北上する」という作戦案に対して、北上中にイギリス軍の反撃によって自軍がガザララインの東側に閉じ込められ、西側の補給基地から切り離されてしまうことを懸念していたといいます(『Rommel's Desert Commanders』P86)。しかしロンメルはその作戦案を強行し、そしてネーリングの懸念は的中してしまいます。

 この混乱の初期にネーリングの前線での指示が危機的状況を救った件について、『砂漠のキツネ』に詳述されています。その周辺を引用してみます。

 27日の夕刻、事態は由々しき様相を帯びるにいたった。北では戦車部隊が行きづまり、東では第90軽機甲師団が囲まれている。兵たちは疲れていた。補給はない。水もない。負傷者の手当ても後送も出来ない。彼らは砂漠に横たわったままであった。どうすればいいのか? 幕僚長ヴェストファールは、前線の戦闘部隊のところにいるロンメルと連絡がとれなかったので、無線班もろともネーリングのDAKに赴き、二人で事態の収集【ママ】につとめた。
 【……】
 こういう情況で全軍が壊滅した例はよくある。しかし、たった一つの大胆な用兵が敗北を救いそれどころか勝利に導いた例もないわけではない。この大胆な考えを思いつき戦史に新しい戦術例を加えた男はヴァルター・K・ネーリング、それを実行に移したのがアルヴィン・ヴォルツであった。
 ネーリング将軍と第135高射砲連隊長ヴォルツ大佐は視察の途中いきなりドイツ軍輜重隊の列にまぎれ込んでしまった。イギリス軍戦車を逃れてきたもので、方々の本部もまざっている。ヴォルツ大佐はこう話してくれた。「【……ドイツ軍の補給部隊やDAK司令部等がごちゃごちゃになってしまっているところにイギリス軍戦車部隊が何度も攻撃をかけてきて……】
『高射砲列だ』 ネーリング将軍が叫びましたよ。『ヴォルツ、砲をかきあつめて対戦車用高射砲列を作れ』 まことに時機【ママ】にかなった思いつきでしたな。さいわいなことにギュルケ少佐がもう一大隊を連れてきました。30分すると軍【アフリカ装甲軍?】の副官もロンメルがみずから率いていた高射砲1個大隊とともに到着。私は夢中で敵戦車前面に3キロにわたる高射砲列を築くことができました」
 【……】夜のとばりが降りると、高射砲列の前面では2ダースほどの敵戦車が炎々と燃えさかっていた。高射砲隊の指揮官【ヴォルツ?】が自分の部隊をまとめて対戦車戦に投入したのは、戦史上これが最初である。【……】
 ネーリングは高射砲列の後方1キロほどに戦闘指揮所を設け、この戦線の重要性を示した。【……】ここを突破されたらDAK全体がどうなるかわかったものでなかった。ついに天佑の砂嵐が吹きだし、すべてを砂のヴェールでおおい隠してくれた。
『砂漠のキツネ』P167~9


 「戦史上これが最初」というのは、88ミリ砲の対戦車砲としての使用についてロンメルが最初だとか最初でないとかって話があったりしますが、それとはまったく異なる、高射砲連隊がその指揮官の命令によってまるごと(3キロの)高射砲列を作ったという話なんでしょうか?

 『Rommel's North Africa Campaign』の巻末には割と詳しい戦闘序列が載っているので見てみたところ、ガザラ戦の時の第135高射砲連隊について、ドイツアフリカ軍団麾下の先頭に記載がありました。

第135高射砲連隊司令部(ルフトヴァフェ)
 第18高射砲連隊(ルフトヴァフェ)の第1大隊(88ミリ対空/対戦車砲4門を3個中隊と、20ミリ高射砲12門を5個中隊)
 第33高射砲連隊(ルフトヴァフェ)の第1大隊
 第617軽高射砲大隊(20ミリ自走対空砲12門を3個中隊)
 第605対戦車大隊
『Rommel's North Africa Campaign』P256







 OCS『DAK-II』でそれらの大隊を探してみたところ、全部ありました。

 ↓OCS『DAK-II』の第315高射砲連隊の構成部隊ユニット。

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 『DAK-II』は1ヘクス5マイル(約8km)なので、1ヘクスの半分以下にこれらの部隊が集中して……ということになりましょうか。かなり強力ではあります。



 ガザラの戦いの3日目にクリューヴェル将軍が捕虜になってしまったため、ネーリングが実質的にロンメルに次ぐ高位の指揮官ということになりました。ネーリングはその後のガザラの戦いにおいて重要な役割を果たし、6月22日にトブルクの攻略に成功します。

 この日、ネーリングとバイエルラインが海水浴をして危ない目にあったことが『砂漠のキツネ』に書かれています。

 地中海で泳ぐということは兵卒から将軍にいたるまでアフリカに戦うすべての者の夢であった。それでDAK司令官ネーリング将軍、その参謀長バイエルライン大佐は1942年6月22日、トブルクでのドイツ軍勝利の仕上げとして海水浴をやったのである。ところがとんでもない結果になるところであった。フォラー軍曹が乗用車を、見たところ無人の小さな石造家屋の前に停めると、二人のイギリス兵がとび出してきたのである。疲れきり餓死寸前の態だったが二人ともピストルを持っている。トブルクを脱走してここにかくれていたのだ。将軍も大佐も曹長もこの遊山に武器を手もとに置いてなかった。しかしネーリングはうろたえず、トミーたちに話しかけ、危険な瞬間を乗り切ったのである。話しているうちに無線車がやってきた。いつも将軍から離れないのだが、このときはゆっくりと来たのだ。ネーリングとバイエルラインはせっかくの遠足を、《捕虜護送》で台なしにするのはいやだったので、トミーからピストルを取りあげ、町へ行って捕虜収容所に申告せよと命じた。しかしイギリス兵は虜囚の恥をうけまじと決心しており、中途から砂漠にはいってしまった。こうしてイギリスの戦史は、海沿いに38日間歩きつづけたあげく友軍戦線にもどったベイリー少尉とノートン軍曹の冒険を載せることが出来たのである。
 話をトブルク海岸にもどそう。 ネーリングとバイエルラインの海水浴がすむかすまないうちに、二人は伝令によっ司令部へ呼びもどされた。元帥からすぐ出頭せよと連絡がはいったという。そこに待っていたのは、議論と賞賛と非難のまとにされていたロンメルの決断であった。トブルクの勝利後、息も入れずにアレクサンドリアへ進むのであった。
『砂漠のキツネ』P220



 トブルク占領の功績によりネーリングは7月1日に装甲兵大将へと昇進。ロンメルは自分が以前付けていた装甲兵大将の階級章をネーリングに贈ったそうです(『砂漠のキツネ』P196)。


 その7月1日からはエル・アラメインでの枢軸軍の最初の攻勢(第1次エル・アラメインの戦い)が行われましたが成功せず、8月8日にはイギリス第8軍の司令官にモントゴメリーが任命され、英連邦軍の戦力は日増しに増強されていっていました。この8月の頃のロンメルの判断について、ネーリングはこう語っています。

「ロンメルは」とネーリング将軍は私【パウル・カレル】に語った。「ロンメルはより大きな優位と注意をもって実施されるこの【モントゴメリーの】攻勢をじっと待つべきだったのか? それとも先手を打つべきだったのか? または有利な場所まで後退するべきだったのか? たとえば1941年にもちこたえたイタリア=エジプト国境まで? 今になってみれば、補給に有利な防衛空間に後退することが正しい解決であったと言わなければなりますまい。しかし、それは、《退却》とされたでしょう。ベルリンとローマはご存知のように退却を《政治的理由から好ましからず》とみなしていましたからね。だがこの種の決定とロンメルの機動的用兵に最も適い、その戦術的優位を発揮させたはずです」
 偏見のない情勢判断でしばしば他を怒らせてきた冷静なネーリングはこう回想している。
『砂漠のキツネ』P244,5



 1942年8月30日からは、枢軸軍の再度の攻勢(第2次エル・アラメインの戦い、あるいはアラム・ハルファの戦い)が開始されましたが、その2日目にネーリングは負傷してしまいました。

 夜半は過ぎた。8月31日になった。各師団は守りも固い広大な地雷原で戦いつづけ、 こうこうと照らし出された空からは重い爆弾が降ってくる。敵機は慎重に作戦中のドイツ軍機械化部隊に機銃掃射を加えて回っていた。その一機がタカのように明るい地表に急降下した。ネーリングの指揮車をめがけて。戦隊の火器はそれを迎えて火を吐いたが、トミーはかまわず、低空から爆弾を投下した。それは前車軸の横で爆発し、近くにいた将兵をなぎ倒した。破片が装甲板を砕き、ネーリングは血に染まって倒れた。バイエルラインとほかの乗員は無線機が盾になって無事だった。車の外では連絡将校のフォン・ブルクスドルフが致命傷を受け、軍団の古手計理将校ヴュルツブルク出身のヴァルター・シュミットもやられた。フランツ・フォラー軍曹が装甲連絡車をとばしてきて将軍を引きずり込むと包帯所に運んだ。こうして戦いの開始とともに四人の将軍のうち三人までが倒れたのである。バイエルラインは別の装甲車に乗りかえ、フォン・フェールスト将軍が来るまで軍団の指揮をとった。
『砂漠のキツネ』P251,2


 ネーリングはこの時に頭、腕、胴体に傷を負い、後方の病院からドイツに空輸されることになりました。


 ネーリングが本国で治療を受けている間に北アフリカの情勢はさらに悪化し、ロンメルはモントゴメリーの攻勢(第3次エル・アラメインの戦い)を受けてエル・アラメインからの撤退を11月2日に開始しました。そして11月8日に連合軍はトーチ作戦でモロッコとアルジェリアへの上陸を開始したのです。

 ヒトラーとケッセルリングは急いでチュニジアに、ドイツ軍部隊を送り込み始めます。

 一方、ドイツ本土では11月9日、ネーリング大将に電話が入った。
 将軍はエル・アラメイン戦で受けた傷をベルリンに近いヴュンスドルフの病院で治療していた。相手はガウゼ少将。彼もまたアフリカで負傷し、ベルリンの自宅で療養していた。ガウゼ宅での会談にはロンメルの連絡将校ベルント予備役大尉も同席した。
 ドイツ・アフリカ装甲軍の参謀長だったガウゼは、後退しているロンメル軍を受け入れる陣をトリポリタニアとの境に近いマルサ・エル・ブレガに構築する任務をネーリング【に】引き受けて欲しいと語った。ネーリングは【腕の傷が】完治していなかったが、これを受け入れ、11日にはローマに飛んだ。
 しかしそこで【南方軍総司令官の】ケッセルリングから受けた命令は、ロンメル支援のリビア行きではなく、チュニス行きであった。元帥は将軍に、兵をできるだけ西に進め、望むらくはチュニジアとアルジェリアとの国境線を確保して欲しいと告げた。さらに将軍には第90軍団が与えられると知らされた。名前は軍団でも兵力は一握り、司令部要員は作戦参謀のモル少佐以下数名という有様であった。
 14日、ネーリング大将はラ・マルサ飛行場に降り立った。従ったのはモル少佐、空軍の連絡将校ヒンケルバイン少佐、そして将軍の護衛将校のゼル予備役中尉であった。チュニスを視察後、将軍はビゼルタにも回った。13日、チュニジアの独伊軍はネーリングの指揮下に置かれた。【……】
 師団戦力にも満たない部隊の司令部として「軍団」を置いたのは、敵を欺瞞する目的だった。それが効を奏したのかは不明だが、ネーリングのチュニス一家はその役割を良くはたした。
『チュニジアの闘い:1942~43[上]』P6~9


 チュニジアでの最初の頃の移動は「チャーターしたフランス人のタクシーによるというありさま」だったそうです(『ルビコンを渡った男たち』大木毅 戦史エッセイ集2 二つの残光:「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い P21)。

 また、「当初、ネーリングが持っていたのは自分と、副官と、運転手だけだった。1日ほどしてから、彼はケッセルリングの司令部中隊の一部を手に入れた。彼はチュニジア人のタクシー【複数】を押収して、臨時の輸送隊を編成した。」(『Rommel's Desert Commanders』P88)という記述もありました。



 OCS『Tunisia II』は、チュニジアで最初に連合軍と枢軸軍の衝突があった1943年11月16日を含んでいる「11月15日ターン(15日~18日)」から始まります。


 ↓OCS『Tunisia II』の第90軍団司令部ユニット。

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 ↓OCS『Tunisia II』のマップ上の、チュニジアでの最初の戦いの頃の戦場地域(キャンペーンの初期配置。赤い線はおおまかな両軍の戦線)。

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 チュニジアでのネーリングの動きに関して、前掲の大木毅氏の「二つの残光」という記事が非常に分かりやすいので、抜粋引用してみます。

 11月9日、アルジェに到着したアンダーソン【イギリス第1軍司令官】は【……】慎重すぎた。枢軸軍の戦力を過大評価したばかりか、自軍右翼が弱体であるのを危惧し、主力の集結が終わるまで、前進を手控えると決めたのである。
 こうして生じた貴重な時間を無駄にするネーリングではない。まず、手持ち兵力を、2個戦隊にまとめ、それぞれチュニスとビゼルトの守備にあてる。ただし、ネーリングは、連合軍は二筋の街道沿いにこれらの地点の占領にかかるだろうし、テベサ経由で東海岸に突進し、退却中のロンメルへの補給路を遮断することを試みるにちがいないと読んでいた。こうした企図をくじくには、攻撃しかない。
 枢軸軍は、増援部隊の到着と集結を待たず、大胆にも、少数の部隊のみを以て、橋頭堡の拡大にかかる。最初に叩くのは、連合軍の到着を待って、枢軸軍と決別することを考えていたヴィシー・フランス軍。彼らは、急降下爆撃機に支援された降下猟兵によって早々に退却に追い込まれる。つぎなる段階で、連合軍との最初の接触が起こった。11月17日、ルドルフ・ヴィツィヒ少佐の降下工兵を基幹とする戦隊が、 英第36歩兵旅団の前衛とぶつかったのだ。この戦闘は、双方ともにかなりの損害を出したものの、いずれも、さしたる戦果を得られずに終わる。けれども、南方では、連合軍戦力が手薄であったこともあり、スース、スファックス、ガベースといった、ロンメルの退路を確保する上で重要な地点の占領に成功した。きわめて弱体な、ぎりぎりの戦力しか持たぬ部隊によって支えられた、糸のごとき戦線ではあったにせよ、枢軸軍の橋頭堡は確立されたのである。
『ルビコンを渡った男たち』大木毅 戦史エッセイ集2 二つの残光:「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い P21,22



 余談ながら、OCS『Tunisia II』をプレイしてみると、連合軍側は右翼が弱体すぎて「一体どうしたらよいのか」と途方に暮れるので、アンダーソン将軍の気持ちが良く分かります(^_^;

 一方で、右翼以外での連合軍の戦力は優勢(というか、枢軸軍の兵力が少なすぎる)で、枢軸軍プレイヤーがネーリングと同じような成果を獲得するのも、またなかなかに難易度が高いと感じます。

 それでも、優勢な連合軍部隊の突進を止めることはできなかった。25日の午後、米軍の先遣戦車隊がジェデイダ飛行場を急襲、地上にあった20機の航空機を炎上させる。高射砲部隊の防御射撃により、これは撃退できたものの、側面と後方をおびやかされたネーリングは、プロトヴィルからジェデイダを経てサンシプリエンにいたる線、すなわち、チュニス周辺部まで橋頭堡を縮小することを決意せざるを得なかった。この撤退は、支障なく実行されたが、 ケッセルリングは、かかる措置が取られたことに激高する。28日、自らチュニスを訪れたケッセルリングは、あらたに歩兵1個連隊を増強するとした上で、 時間をかせぐことの重要性を強調、「軍事的措置のみならず、持ちこたえようとする将兵の意志を鼓舞することこそが重要なのだ」 と、ネーリングを叱責した。
 ここまで言われては、ネーリングも橋頭堡の再拡大のために、反撃を実行せざるを得なくなる。砂漠の「古ギツネ」である彼の計画は周到なものだった。南で、装甲車を中心とする部隊に攻勢防御を実行させる一方、動かせるすべての部隊を投入して、西に向かって攻勢をかけ、テブールバを奪う。この主攻を担う部隊には、到着したばかりの第10装甲師団の一部が含まれており、戦車64両を使用することができた。
 12月1日、午前7時5分、攻撃は開始された。急降下爆撃機が、テブールバ北西チュイギ峠の連合軍陣地を叩く。前進を開始したドイツ軍は、たちまちジェディダ前面の敵を駆逐、連合軍機甲部隊の反撃をしりぞけて、橋頭堡を拡大した。 連合軍は、攻撃の成功に気をよくし、戦果を拡大しようとするあまり、分散しすぎていて、ドイツ軍の好餌となってしまったのだ。かかるドイツ軍の進撃は、12月10日にメジェズ・エル・バブ東方で、アメリカ軍部隊に阻止されるまで続く。9日に、解任されたネーリングの後任として - 一時的ではあったにせよ、チュニス周辺への後退を命じたことにより、ケッセルリングの不興を買ったのだ - チュニジアの枢軸軍最高司令官となったハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将は、防御態勢への転換を命じた。事実、攻撃を継続する必要はなかった。この日までに、ドイツ軍は、メジェズ・エル・バブの東12キロの地域まで主戦線を推し進めていたのである。
『ルビコンを渡った男たち』大木毅 戦史エッセイ集2 二つの残光:「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い P23



 ネーリングに対する「不興」についてですが、諸資料によるとケッセルリングの他にベルント、ゲッベルス、ヒトラーなども不興を感じていたという話が出てくるのですが、その理由付けとしては『Rommel's Desert Commanders』にあったこの話が説明能力が高いように思われました(『Hitler's Enforcers』の方にはこの話は出てきません)。

 しかしヴァルター・ネーリングは、チュニジアを防衛するという考えにそもそも公然と疑問を呈していたのだ。彼は、アングロサクソンの空軍力と海軍力がいつの日か枢軸軍の補給線の崩壊させ、第90軍団とアフリカ装甲軍の壊滅をもたらすことを予見していた。道徳的な臆病者でなかったネーリングは率直に、自分の意見をナチスとOKWに伝えたのである。彼はすぐにヒトラーから敗北主義者の烙印を押され、ゲッベルス博士【ゲッベルスは哲学博士号を持っていた】からは特に激烈な糾弾を受けた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P88



 恐らくこのネーリングの意見表明に対して、ゲッベルスの北アフリカの代理人であるアルフレート・ベルントが彼を「あからさまな悲観主義者」と呼んだ、ということが『Hitler's Generals』(C.Barnett)のフォン・アルニムの項に書かれています(P341。注によるとその原典はゲッベルスの日記のP281)。そのすぐ後には「ケッセルリングは【……】11月26日の連合軍によるジェデイダ飛行場襲撃からネーリングが「最も暗い結論を引き出した」と不満を述べた。」と書かれていて、ケッセルリングの方はむしろネーリングの軍事的退却の方に不満があったかのようです(注によるとその原典はケッセルリングの『ある兵士の記録』P169)。


 一方で、チュニスに近づいてきた連合軍を撃退するのに、ネーリングの判断が功を奏したという話もあります。

 だがここでもネーリングの冷静な頭脳が事態を救った。第20高射砲師団の88ミリを2門、町にはいる道路わきに配置しておいたのだ。これがネーリングの希望だった。2門はアメリカ軍偵察隊を撃ちすくめ、さらに本隊を猛砲火で迎えた。戦争の経験のないボーイたちにこれはこたえわれた【ママ】。しかし危険が去ったわけではない。
『砂漠のキツネ』P317




 また、ネーリングの方は自分が解任されることを知らされておらず、フォン・アルニムらが到着してその件を知らされた時にショックを受けたそうです。

 フォン・アルニムツィーグラーは、フラスカティ【ローマ近郊】からさらに旅を続け、12月8日にチュニジアに到着した。チュニス周辺の防御ラインを、空挺部隊とシチリア、イタリア、ギリシャに駐留していた部隊の断片を寄せ集めたわずかな兵力で作っていた第90軍団司令官ネーリング将軍と会談したのである。この二人の指揮官の到着は、交代を知らされていなかったネーリングに衝撃を与えた。ネーリングはすでに防衛線の面積を広げるための攻勢を計画しており、その戦闘計画をこの二人に見せた。二人はこの戦闘計画に同意し、詳細を確認した。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P27

 12月9日、ネーリング大将は指揮権をロシアから着任したフォン・アルニム上級大将(12月3日付昇進)に引き渡し、帰国して病院にもどった。将軍【ネーリング】は妻に、チュニジアを持ちこたえることは不可能であろうと語り、残してきた運転手と側近のことを心配していたという。
『チュニジアの闘い:1942~43[上]』P75




 ネーリングはドイツ本国に戻されましたが、この1942年の11月から1943年の1月末にかけて、東部戦線ではスターリングラード包囲戦が起こっており、優秀な彼をそのままにしておくことはできなかったと思われます。ネーリングは1943年2月10日に、第24軍団司令官に任命されました。この直前、第24軍団はソ連軍の攻勢(オストロゴジスク=ロッソシ作戦)を受けてイタリア軍のアルピーニ軍団と共に苦難の後退戦を戦っており、その司令官が次々に戦死したりして1週間に4人代わった後でした。

 → オストロゴジスク=ロッソシ作戦時のフェーゲライン戦闘団について(付:OCS『Case Blue』『GBII』) (2019/07/11)の最後をご覧下さい。


 ↓OCS『Case Blue』の第24装甲軍団司令部ユニット。

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 『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によると、1942年6月までは「第24軍団」で、6月から「第24装甲軍団」と名称変更されたようです。



 ネーリングは第24軍団を指揮してドニエプル川東岸の橋頭堡を確保し続け、フォン・マンシュタインによる「後手からの一撃」(第3次ハリコフの戦い)が成功したこともあり、ひと息つくことができました(当時同軍団はボロボロになっていたと思われ、「後手からの一撃」の攻撃自体には参加していないようで、守備部隊として留まっていたのではないでしょうか)。


 OCS『Case Blue』に入っているシナリオ/キャンペーンで最も時期の遅いものは1943年1月29日ターンから始まる「後手からの一撃」で、5月29日ターンまで続きます。


 ↓OCS『Case Blue』の「後手からの一撃」キャンペーンのセットアップにおける第24装甲軍団の位置周辺。

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 1943年7月5日からのツィタデレ作戦では、第24装甲軍団はフォン・マンシュタイン麾下で南側からの攻勢に参加することになっていました。しかし突破口は開かれず、それどころか南方のミウス川戦線に危機が訪れて同軍団はそちらに回されます。この戦闘でネーリングは負傷したものの、軍団司令官の職は継続したようです。

 ソ連軍のその後の反転攻勢においてネーリングの軍団は消防隊として使用され続けます。



 ドニエプル川の戦いでは、ブクリン橋頭堡を拡大しようとする1943年9月24日からのソ連軍の空挺作戦が移動中のネーリングの第24装甲軍団の真上に行われ、この空挺降下による橋頭堡確保の試みを失敗させました(結局ソ連軍は、ここからの突破を諦め、キエフの北に作ったリュテジ橋頭堡からの突破に成功しました)。


 OCS『The Third Winter』キャンペーンは、まさにこのカニェフへの空挺降下の時期(1943年9月26日ターン)から始まります。


 ↓OCS『The Third Winter』キャンペーンのセットアップ上の、第24装甲軍団司令部周辺。

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 ↓OCS『The Third Winter』の第24装甲軍団司令部ユニット。

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 その後の戦いでも、両翼の軍団が抜かれてしまっても第24装甲軍団の正面は抜かれずに維持し続けたことを、ネーリングは誇りに思っていたそうです。壊滅的な前線を塞ぎ続けるネーリングへの評価は高まり、ますます頻繁に救援を要請されるようになります。

 1943年末の短い停止期間にネーリングは短い休暇を取ることができ、クリスマスの少し前に前線に戻りました。彼が戻って間もなくソ連軍が攻勢を開始し、ドイツ軍の戦線に幅20kmの隙間ができてしまいます(場所が判然としませんが、ジトーミルとヴィニッツァの間の辺り?)。ネーリングは反撃部隊を編成し、この穴の突破を狙うソ連軍戦車部隊に対抗して激しく打ちのめして、戦線を再確保することに成功。この功績により1944年2月8日、騎士鉄十字章に柏葉を付与されました。


 さらに1944年春、ネーリングの第24装甲軍団はフーベ包囲戦(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)で包囲環に閉じ込められてしまいましたが、何とか脱出に成功します。


 ↓OCS『The Third Winter』の「フーベ包囲戦」シナリオの初期配置上の第24装甲軍団司令部周辺。

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 その後、ネーリングは第4装甲軍の司令官代理に任命されましたが、麾下の装甲部隊はバグラチオン作戦で崩壊の危機に瀕した中央軍集団に引き抜かれてしまっていました(ネーリングの第24装甲軍団司令官の離任は『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によれば6月27日、第4装甲軍の司令官代理就任は『ドイツ軍名将列伝』によれば6月28日、『Rommel's Desert Commanders』によれば7月2日)。ソ連軍の第1ウクライナ正面軍は第4装甲軍と第1装甲軍の接合部に攻勢をかけてきましたが、ネーリングは麾下の歩兵部隊を駆使して牽制します。

 1944年8月にネーリングは再び第24装甲軍団の指揮を命じられました(『Rommel's Desert Commanders』によれば8月8日頃、『Hitler's Enforcers』によれば8月下旬、『ドイツ軍名将列伝』と『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によれば8月20日)。しかし病気のために新しい任務に就くことができず、10月中旬になってようやく指揮を執り始めます。その時には同軍団はスロバキアに入っていました。

 この秋から冬にかけてネーリングは第1装甲軍司令官ハインリーチと協力して、第4ウクライナ正面軍の西方突破を牽制します。そして第24装甲軍団はポーランドへと北上し、A軍集団の予備となりました。しかし1945年1月、A軍集団司令官ハルペ上級大将は予備の第24装甲軍団を後方に配置するつもりであったのに、ヒトラーが戦闘地域近くに移動させるように命じてしまいます。


 1945年1月12日にソ連軍のヴィスワ=オーデル攻勢が開始され、前線から10マイル(約16km)後方に位置していた第24装甲軍団麾下の2個装甲師団の多くの部隊が反応する前に蹂躙されてしまいました。


 ↓ヴィスワ=オーデル攻勢の地図(クリックしていくことで拡大できます)。第24装甲軍団は第4装甲軍グレーザー上級大将(地図で真ん中少し下に「FOURTH」「GRAESER」とある場所)の麾下でした。

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 同じく第4装甲軍の麾下であった第48装甲軍団と第42軍団は壊滅状態となり、キエルツェ(Kielce)【前述の「FOURTH」の右下の場所に地名あり】周辺に陣地を築いていたネーリングの第24装甲軍団は、必至になってソ連軍の大軍を止めようとしました。

 1月12~13日の夜の間に、ネーリングは早くも麾下の部隊の掌握を回復させます。1月13日、ネーリングはキエルツェ~フミエルニク(Chmielnik)【前掲地図に地名なし。Kielceと、その下の方にある青字の「Vistula」との中間地点あたり】地区で巧みな防御を行い、ソ連軍の前進を大幅に遅らせました。これは第1ウクライナ正面軍の司令官であるコーネフ元帥を怒らせ、14日に彼は予備部隊を投入します。この日、ネーリング麾下の2個師団はソ連軍の第13軍、第4戦車軍、第13親衛軍に攻撃されました。翌日、第24装甲軍団の防御線はついに破られ、ネーリングは撤退を開始。周囲はソ連軍に囲まれ、ネーリング指揮下の部隊は「流浪のポケット」を形成しつつ、西への退却戦を続けることになったのです。

 この時のネーリングの退却について、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落 1945』に次のような記述があります。

 車載部隊を基幹とするドイツ軍大縦列もまた、本国めざして撤退し、ソ連軍集中地域の突破をこころみた。車両を横取りして走らせ、二度と使えぬよう火砲や装備を容赦なく破壊しながら、つぎつぎに包囲をすり抜け、一戦を交えて強行突破しようとする、いわゆる「移動する台風の目」である。なかでもいちばん手ごわく、有名だったのは、ネーリング将軍の装甲軍団を基幹とする一群で、敗残兵や敗残部隊を糾合し、故障あるいは燃料切れの車両を破壊し、戦車二両を犠牲にして橋を支え、橋が崩れ落ちるまえに軽車両をすばやく渡らせるという芸当までやってのけた。はからずもジューコフ軍とコーネフ軍の作戦地域の境界線にほぼ沿ったルートをえらんだことがさいわいして、ネーリングは大規模戦闘をなんとか回避できた。ネーリングは短時間の無線連絡でフォン・ザウケン中将のグロスドイチュラント軍団が合流をこころみると聞き、1月21日、濃霧にまぎれて合流に成功した。この混成軍団はその後1月27日にオーデル川西岸の安全地帯に撤退した。
『ベルリン陥落 1945』P95,6



 この時のネーリングと、ネーリング麾下の部隊の様子に関しては今回主要文献とした2つの資料にも詳しく書かれています。

 包囲を逃れた数少ない装甲軍団はネーリングの指揮下で「さまよえるポケット」を形成し、多数の歩兵部隊とともにドイツ主戦線へと復帰するための戦いを開始した。このポケットの戦いが成功したのは、ネーリングが指揮下の部隊をしっかりと把握したことに加え、兵士達に自信を持たせたからである。この「さまよえるポケット」はポーランド東部にいて、その行軍は当初クラクフ市から東北東に向かい、ウッジ市を目指した【クラクフ(Cracow)は前掲地図で、前述のVistulaの文字の南西に地名あり。ウッジ(Lodz)はそのはるか北方で、「NINTH」とある少し下に地名あり】。スタフカはこのポケットの存在とその方向に気付いており、脱出路を遮断するために部隊を移動させた。ネーリングはピリツァ川に架かる橋を思い出し、行軍路を北から西に変更して、その橋に到達した。この方向転換とドイツ軍の必死の攻撃がソ連軍のバランスを崩し、さまよえるポケットは赤軍の包囲環に穴を開けた。ネーリングはソ連軍の包囲環から脱出すると、再び突進路を変更し、再びウッジに向かって北上した。この11日間続いた250kmの行軍は、鬱蒼とした森を真冬に抜けるというものであり、夜は濃霧で兵士や部隊が互いの連絡が途絶するほどであった。

 1月22日、ポケットの先頭部隊は「グロスドイッチュラント」部隊と接触した。1月22日の夜に出されたネーリングからの命令書には、その行軍の緊張、困難、恐怖が短い文章で記録されている。「休息はほとんど、あるいはまったく取れず、弾薬と燃料は不足し、ひどい霜と雪の中、道路は凍り、強力で迅速な敵に囲まれつつ、困難な地形を横断し、橋のない川を渡っていく……これらのいずれもが、いつどこで敵と出会おうともそれを粉砕するという我々の決意を止めることはできず、我々は成功をつかみ取ったのだ。これらのことはすべて、我々の団結と連帯の精神によって可能になったのである……」。ネーリングはこの「さまよえるポケット」での指揮の功績により、柏葉付騎士鉄十字章に「剣」を付与された。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P116,7

 前線の全てに渡って、A軍集団は崩壊していた。ネーリングの北側面では、レクナゲル将軍が第42軍団の結集を図っていたが、1月15日にソ連軍の砲弾で死亡し、軍団の残骸は無秩序に散っていった。南側面の第48装甲軍団はほとんど消滅していた。1月17日の時点で、ネーリングは赤軍の最前線から何マイルも後方におり、ロシア軍の十数個の軍に囲まれていたのである。

 他のほとんどの将軍ならば、この時点で終わりであっただろう。しかしヴァルター・ネーリングは、この絶望的な状況を自分のテクニックと経験を総動員して克服した。彼は「流浪のポケット」を形成し、その境界線を維持しながら北西に退却していき、その間に散り散り、粉々になっていた師団、無傷の部隊、そして民間人を拾っていった。

 民間人は当然のことながら恐怖に怯えていた。赤軍は、望むままに強盗、殺人、強姦を繰り返していた。恐怖におののく両親の前で娘を輪姦した後にその娘を殺し、そして両親を拷問して死に至らせることも頻繁にあった。レイプの被害者には、12歳の子供や70代のおばあさんも含まれていた。このような運命から自分や家族を救おうと、パニックに陥った何万人もの市民が、ヴァルター・ネーリングに救いを求めたのである。追い返された人は一人もいなかった(ネーリングは、彼らの気持ちを理解していた。自分の家も連合軍の空襲で焼け落ち、家族は西のどこかにいて、家のない難民になっていたのだから)。 やがて、この流浪のポケットの中には、兵士の数よりも多くの民間人がいるようになった。

 ソ連軍は、ネーリングが持っていた防御のための師団数よりも多い数の軍で、この流浪するポケットを攻撃していた。ネーリングは毎日、数個軍から攻撃を受けた。彼はすべての攻撃を阻止した。赤軍はネーリングを停止させようとして、彼の退却路の先の西と北西にある橋を同時に爆破しようとしたものの、失敗した。一方、これまた信じがたいほど勇敢な装甲部隊指揮官であったディートリヒ・フォン・ザウケンが、グロスドイッチュラント装甲軍団を率いて西からネーリングに向かった。彼もすぐに包囲されたが、東に向かって進み続けた。1月22日、彼は第24装甲軍団と合流し、直ちに自らネーリングの指揮下に入った。この時ネーリングは、第24装甲軍団、グロスドイッチュラント装甲軍団、第56装甲軍団、第42軍団を指揮しており、その中には第291、第88、第72、第342、第214、第17歩兵師団、第45、第6国民擲弾兵師団、第16、第17装甲師団、第20、第10装甲擲弾兵師団が含まれていた。スターリンはこの流浪のポケットを壊滅させるよう命じた。7対1以上の戦力比があったにもかかわらず、赤軍にはそれに失敗した。

 補給も得られない厳冬の中、ネーリングはこの「さまよえるポケット」を北西に移動させ、その輪を守り続けた。彼はついにオーデル川まで戦い抜き、1月末にドイツ軍の前線へと到達した。彼は赤軍の真ん中を150マイル(約241km)も走り抜けたのだ。ハインツ・グデーリアンは、「ネーリングとフォン・ザウケンの両将軍は、この数日間、クセノフォン【敵中に孤立したギリシア人傭兵達の脱出行を描いた『アナバシス』の著者】が新たにペンを取ったのでなければ十分に表現できないような軍事的妙技を披露した」と感嘆の声を上げた。【……】 私の意見では、このキャンペーンはヴァルター・ネーリングが第二次世界大戦のドイツ軍指揮官達 - グデーリアンやロンメルをも含めて - の中で最高の装甲部隊指揮官であったことを証明している。これが少数派の意見であることは承知しているが、これが私の考えである。

 ヒトラーでさえもネーリングの偉業に感激した。ヒトラーは、ネーリングの【柏葉付】騎士鉄十字章に「剣」を付与し、ザウケン(すでに剣を持っていた)には「ダイヤモンド」を付与した。ヒトラーは少なくともある程度、ネーリングへの勘気を解いてプロフェッショナルだと認め、彼に上シレジアの第1装甲軍の指揮権を与えた(3月20日、司令官に就任)。しかし、ネーリングは上級大将への昇進はされなかった(し、生涯されなかった)。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P91,2



 その第1装甲軍司令官への就任の前に、↓のようなこともあったことが書かれていました。

 敗戦間近のドイツ軍の軍事情勢は、部隊や指揮官に休む暇を与えなかった。この「ポケット」の流浪が終了してから2日後の1月25日、ネーリングと第16装甲師団の司令部グループは、オーデル川沿いのグローガウ(Glogau)【前掲地図の左の方の、上下では真ん中あたりに地名あり】に送られ、進撃するロシア軍に対する街の防衛を準備することになった。グローガウへの移動は、赤軍の戦車が突破してきており、田園地帯を徘徊していたため砲撃を受けるなど、衝突必至であった。ネーリングの第24装甲軍団の守備範囲は、シュタイナウ(Steinau)【Glogauの南東。前掲地図に地名なし。GlogauとBleslauの中間あたり】からノイザルツ(Neusalz)【Glogauの北西。前掲地図に地名なし。】までのオーデル川沿いであった。この時「グロスドイッチュラント」はオーデル川の東岸にある重要な橋頭堡を守っていたが、ネーリングの指揮下に入れられることになった。

 ネーリングはまたもや困難な任務に直面した。「グロスドイッチュラント」に属する大量の車両とその装甲軍団の部隊を、この時まだ失われていなかった数個の橋で渡し、連れ戻さなければならないのだ。困難にもかかわらず、ネーリングは2月初めまでにこの不可能と思われた任務を達成した。ある場所では後退が攻撃に変更され、新たに第39装甲軍団と第57装甲軍団、および多数の歩兵師団からなる装甲集団が編成されてネーリングの指揮下に置かれた。彼はラウバン(Lauban)【現Luban。前掲地図に地名なし。左下の「A(CENTER)」とあるあたり】を奪還し、戦略的に重要な鉄道路線を再開通させよという命令を受けたのである。第二次世界大戦中のドイツ軍戦車部隊による最後の攻防戦となったこの作戦で、師団は目標の両側から突き進んだ。その進撃は町を保持していたロシア軍を罠にはめて包囲し、短時間の激戦の末に撃破した。
『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』P117



 『ベルリン陥落 1945』のP209には、恐らくこのラウバン占領の少し前に、レリュシェーンコの第4親衛戦車軍の補給線と後方部隊をグロスドイッチュラント軍団とネーリングの第24装甲軍団が襲撃し、2日間の戦闘でドイツ軍が後退したことが書かれています。また、その次のページにはラウバンの占領によってゲッベルスが驚喜し、町に乗り込んで祝賀演説を行ったりしたことが書かれていました。


 その後、ネーリングは上シレジアで第1装甲軍の指揮を執り始めました(『Hitler's Enforcers』によれば3月21日)。ネーリングの主な目的は、できるだけ多くの民間人を西へ逃がし、できるだけ多くの兵士をソ連軍ではなく西側連合軍の捕虜にするということでした。ネーリングはできるだけ多くの部隊を訪問し、部下に自分の姿を見せて戦意を高揚させたといいます。

 最後のソ連軍の攻勢は4月16日に始まりました。あまりにも強力で迅速な攻勢であったため、第1装甲軍がドイツに入る前にチェコで追い詰められてしまいました。ネーリングの司令部とわずかな部隊のみが、なんとかアメリカ軍に降伏することができました。


 1947年に捕虜収容所から釈放されたネーリングはデュッセルドルフに引退し、質素なアパートに住んでいました。1983年に死去しました。

 日本語版Wikipedia「ヴァルター・ネーリング」には、このような記述がありました。

ガルミッシュ=パルテンキルヒェン、ついでマールブルク・アン・デア・ラーン近郊のアレンドルフの捕虜収容所に収容されている間に、ネーリングはアメリカ軍の公刊戦史編纂に協力して文章を著した。1947年からはグデーリアンとともに戦史を執筆している。1948年5月に釈放される。1949年に西プロイセンの追放ドイツ人団体に加入し、西プロイセンについての論文を著した。デュッセルドルフの自動車会社に就職し、また趣味の狩猟の団体を組織した。1964年以降戦史に関する著書を著し、ドイツ国防軍関連の書類管理権がまだ西ドイツに無かった当時、軍事史学および軍事問題の第一人者とみなされるようになった。1955年には再軍備に備えたドイツキリスト教民主同盟の防衛委員会の顧問に就任している。これらの功績により、1973年7月にドイツ連邦共和国功労勲章第1等十字章を受章した。デュッセルドルフで死去した。




 今回使用した資料で、途中にリンクを挙げていなかったものを挙げておきます(私が持っている『ベルリン陥落 1945』は古い方なので、ページが異なっているかもしれません)。




OCS『Smolensk』キャンペーンのVASSAL3人プレイを始めました&現時点での初動の指針

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーンのVASSAL3人プレイを始めました。

 タエさんがホート、私がグデーリアン、富山のKさんがソ連軍です。



 研究プレイは今まで何回かしていまして、↓からそのブログ記事(複数)は読めますが、ある時の結論がその後否定されていたりで、頭がごちゃごちゃになってしまいます(^_^;

シナリオ1:スモレンスクキャンペーン




 そこで今回、「(現時点での)とりあえずの大体の指針」を書いてみようと思います。




 ↓第1ターン先攻ドイツ軍終了時のホートの戦区。

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 「ドヴィナ川の北岸に入ってそこで主攻をする」という案はとりあえずはやめておいた方が無難だと思います。

 ヴィテブスクの2つのヘクスのうち、ドヴィナ川北岸の方を取るべきか、無視して良いかですが、取っておいた方が良いだろうと思われます。航空基地を使用できるのがデカいです。

 また、第1ターン先攻のうちにその南東方向の二級道路を進んで、その先の小河川も渡ってしまうべきです。そのためにヒップシュート可能な航空機を残しておくと良いでしょう。

 この小河川を渡った後の第2ターン以降、史実通りヤルツェボ方面に向けて一躍東進するのか、スモレンスク攻略に向かうのか、あるいはスモレンスクの西でいったん包囲環を閉じるのか、あたりの決断をしていくことになると思います。




 ↓第1ターン先攻ドイツ軍終了時のグデーリアンの戦区。

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 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーン第1ターン初動研究「燃料ケチケチ作戦」ほか (2020/11/24)で書いてました、①②③④のソ連軍ユニットを処理することはやはり必須。また、オルシャの南にいるソ連軍の第1自動車化歩兵師団を観測して爆撃し、DGにすることも必須でしょう。

 モギレフの北にいる13-3-3をモギレフに入れないようにしてしまうのも重要だと思います(AR3の複数ステップをモギレフで利用させなくするため)。13-3-3の北のヘクスだけを開けておき(東側の2ヘクスに入られてしまうと渡河の邪魔になる)、退却させた方がいいでしょう。

 ↑のためには司令部の一つをモギレフ南西に移動させておかないと、モギレフの東に置いた自軍部隊に一般補給が届きません。


 西住流「燃料ケチケチ作戦」については、セットアップ時のランダム要素で師団が3ヘクス西に置き直されると、リアクションフェイズ中の半分の移動力ではドニエプル川まで到達できない可能性もあるので、移動力を数えておいて拡張(突破)フェイズ中までに移動させておいた方が良いケースもあることに気付きました。半分の移動力でドニエプル川沿いまで行けるなら、リアクションフェイズ中に燃料を入れるまで動かさないでいいと思います。


 
 ドニエプル川沿いに部隊をどういう風に配置するかですが、原則としては↓のようなことがあると思います。

1.第2ターンのドイツ軍プレイヤーターンの開始時までに、ドニエプル川沿いのどこかに司令部ユニットを1つ移動させておく(架橋のため)。モギレフの南西、あるいは北東あたりが有力案。

2.第1ターン先攻ドイツ軍終了時までにあまりにも大きなハイスタックを作ってしまうと、後攻ソ連軍プレイヤーターンにさすがに観測・爆撃されてしまうので、適度に分散させる方がいいです。

3.ドニエプル川沿いに置いた部隊は、第2ターンのドイツ軍プレイヤーターン中に「予備モードで1ヘクス移動で渡河、拡張(突破)フェイズ中に(装軌/自動車化による)全力移動」というのが恐らく理想ですが、そのためには架橋(マーカーか、司令部によるか)が必要なほか、架橋先にソ連軍ユニットがいてはいけませんし、また敵ZOCがかかっているならヒップシュートでDGにすることが必要になります。ソ連軍がドニエプル川沿いにユニットをベタっと並べるか、重要地点に入れてくるか等は予測不可能なので、ある程度適当にバラして並べるというのが良いのではないでしょうか。

4.オルシャの南では、既存の橋を確保するために第2ターンに攻撃、あるいはオーバーランをしていくのが主眼となるでしょう。自動車化歩兵連隊は川沿いから徒歩で渡河(移動力ALL)して攻撃を行うのもありかと。

5.グデーリアンの戦区で、司令部による架橋1個だけにとどめ、架橋マーカーを使用しないようにするというのは節約が過ぎるのでしょう。恐らく、司令部による架橋1つ、マーカーによる架橋1つというのが適切ではないかと。




 それから、今回新たに認識したこと。

 セットアップ時点でドイツ軍の航空基地は、マップ西端ヘクスに1つと、西端から1ヘクス東のボブルィスクにもう1つあります。Ju.52の航続距離は62で、マップの西30ヘクスの距離にあるというマップ外航空基地から、マップ西端ヘクスの航空基地にだけ31x2で2往復できる(元々1Tの空輸能力だが、2T運べる)と思ってました。

 ところが今回、マップ西端ヘクスが30ヘクス目であり、ボブルィスクにも往復できるのだ、ということが分かりました。


 


 あと、これも今回認識を新たにしたのが、補給キャッシュマーカーの使用法です。


 ↓補給キャッシュマーカー

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 補給キャッシュマーカーには、「砲兵砲爆撃のコストの2Tを肩代わりする」という機能がありますが、私はこれに関して「1回の砲爆撃につき1回のみ(つまり2Tまで)」と思い込んでいました。ところが今回プレイヤー間でチェックしていて、いっぺんに複数使えるということを確認しました。つまり、例えば6T必要な砲兵砲爆撃に、補給キャッシュマーカーを3回分使ってノーコストにできます。

 和訳文は21.10aの最初の「・」の、「砲弾は、マーカー1枚の消費につき1つの砲兵砲爆撃のコストのうち2Tを支払います。」というものになっています。和訳文の見直しも考えましたが、このままでも一応問題ないだろうということになりました。


 また、その続きの和訳文は「コストはゼロより小さくはなりません。」というものなのですが、原文ではむしろ「コストを0未満にしたとしても、超過分を返金されることはありません。」(例えば、3Tの砲兵砲爆撃に2回分適用して-1Tにして、その1TをSPの形で受け取る、ということはできないということ)というものだったことに気付きました。これも和訳分の修正を考えたのですが、でも現状の文でもプレイヤーは同じように解釈するだろうとも思われたので、とりあえずそのままで……(^_^;


『歴史群像』176号「比島攻略作戦」記事の感想

 『歴史群像』を毎号買ってまして(ナポレオン戦争に関する佐藤氏の連載目当て)、家で開けてみましたらメイン記事が「錯誤の戦場 比島攻略作戦」となってまして、『あ~、1944年からのアメリカ軍のフィリピン攻略作戦の話かなぁ』と思っていたら、1941年~42年の、日本軍によるフィリピン攻略作戦の記事でした(^_^;






 この戦い(の一部)に関しては、OCS『Luzon: Race for Bataan』を作る時に結構色々本を読んだので、その時に自分なりに考えたことを念頭に記事を読んでみました。そしたら、結構執筆者さん(長南政義氏)と私は見方が違うなぁ、と思いました。


 ↓OCS『Luzon: Race for Bataan』の制作中の頃のマップ。

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 もちろん長南氏はプロの方であり、私は素人に過ぎません。が、私自身の傾向として「ものの見方には色々なものがあるだろう(あるいは、あるべきである)」「色々な意見があるということが明らかになっている方がよい」とも思うので、せっかくなので本記事に関してどう思ったかを書いておこうと思いました。



 本記事で特徴的だなぁと思ったのは、フィリピン攻略作戦を指揮した第14軍司令官本間雅晴の「能力不足」という指摘でした。「野戦軍司令官としての本間は、戦局の推移を精確に予測する洞察力、状況の変化に即応できる柔軟性、決断力に欠ける将帥であったと評せざるを得ない。(P42)」「作戦期間を通じ、敵情判断を誤り続けたのみならず、強力なリーダーシップや作戦能力を発揮できなかった。(P49)」とし、フィリピン攻略作戦における失敗面の主因とされている感を受けました。

 ある程度それはあっただろう、と私も思います(特にバターン半島での戦いではそうかも。ゲームには関係のない部分なので、その時期のことは私はほとんど追いかけていないのですが)。

 しかし私の印象では、本間雅晴の能力・性格の問題はもっと小さいように感じています。以下、私の印象はあくまで「バターン半島の戦いより前の戦い(ゲームで再現した1941年12月22日~1942年1月7日まで)」に偏ってはいますが……。


 本記事では書かれていませんが、開戦前に杉山元参謀総長からフィリピン攻略を命じられた時、本間雅晴は「与えられた兵力で指定された期限内に攻略することは保証できない」として参謀総長に文句を言ったというような話があります(ただし、この話が実際にあった話なのか、もしかしたら作られた話なのかという問題はあるかも)。それでいて、マニラ攻略の期日とされた日よりも遙かに早くマニラ攻略に成功しているのです。

 本間雅晴は中国大陸における作戦でも、作戦立案能力は非常に高いが、慎重に過ぎる面があるという評価だったらしいです。頭の良さはすごい(陸大3位)わけですが、性格が優しすぎ、非情さが必要な軍人には向かず、教師などになった方が良かったと言われています。これは本記事にも書かれてますが、第48師団に急遽バターン半島攻略を命じるというのは師団長の土橋勇逸が「承知しないだろう」(ジャワ島作戦にすぐに向かう予定になっていたので)と本間雅晴が言っていた……というのは、私も「本間将軍優しすぎる……(T_T)」と思います。(本間雅晴の他の優しすぎる具体例について、『憎悪の世紀』読後感想(人種差別について+本間中将の逸話) (2020/06/08)の最後の部分をぜひ読んで下さい)。

 私が色々調べていた時の印象からすると、本間雅晴が責められるべきは、この「優しすぎる」面ぐらいだと思われました。しかし性格の問題をどうこうするのは無理でしょう。また、「マニラか、急遽目標を変えて敵撃滅か」が議題となった時、本間雅晴は「急に方針を変えて戦力を分割することは良くない」としてマニラ攻略を優先させたのですが、その判断は真っ当なものだったように私には思えます。

 土橋勇逸の「敵撃滅を優先すべし」という判断は正しかったようにも思えますが、我々は後知恵があるから「本間は無能で土橋は有能だった」と判断しているに過ぎないのではないか、という疑念が私には拭えません。土橋勇逸の言う通りにしていて虻蜂取らずの結果になった可能性は、マニラは無防備都市宣言されていたのでないのですが(おい)、言う通りにしていてさえいればうまくいったという保証があるのかといえば、どうだろうかと思います。

 運の要素も結構あったと私は思っていまして、山下奉文のマレー攻略戦は運が良かった面が強かったという話を読んだりしますが、フィリピン攻略戦も運が良かった面がかなりあったのです。劈頭の航空撃滅戦で大戦果を挙げたこと、リンガエン湾の上陸地点が南にずれてむしろ良かったこと、ラモン湾に第16師団が上陸したタイミングが米比軍にとって最悪だったことなど。また、マッカーサーがフィリピン軍が頼りにできると考えすぎていたことや、補給集積所を後方に移す決断ができなかったことなども、日本軍にとって運が良かった。逆に運が良くなかった面を考えるとすれば、部隊の上陸に予定よりもかなり手間取ってしまったとか、北部ルソン部隊司令官のウェーンライト将軍の指揮が極めて優れていたとか、マニラが無防備都市宣言と宣言されるも(当時はまだ無防備都市というものに米比軍側も慣れておらず)実際にはまだ抵抗活動が行われていることが偵察活動で判明しており、マニラ攻略に手を抜くということができなかったとかでしょうか。

 でもトータルとしては多分、予想外に運が良い面が多く、本間雅晴は「もっともっと手こずるはず」と考えていたと思われるので、性格的にも慎重を期したのはもう、しょうがないと私は思います。私の感覚では、これは本間雅晴が「無能」なのではなく「しょうがなかった」ことだと思われるのです。

 あるいは、能力がオールAの将軍が人材プールの中に豊富にいるのであればいいのですが、そんなことは実際上あり得ず、当然ながら凸凹の能力値ばかりの人材のプールの中から、なるべく良さそうな人を持ってこざるを得ないわけで、この時期の日本軍の南方攻略戦で山下奉文、本間雅晴、今村均という、人材プールの中では全体としてかなり優秀な人達を用意できたというのはむしろ幸運だったという見方もあるようです(なぜ彼らを用意できたかというと、彼らがある意味まともな人間で、すでに偏りまくっていた陸軍の本流から外れてしまってドサ回りをさせられていたのですぐ呼び出すことができたのだ、と『陸軍人事』という本に書いてありました(>_<))。




 本間雅晴に「戦局の推移を精確に予測する洞察力、状況の変化に即応できる柔軟性、決断力」を要求するというのは、例えば、ブラッドレーにパットンの要素を要求するようなものではないでしょうか。ブラッドレーは精密機械にも喩えられるような細かい処理能力に定評があって、それ自体が非常に得がたい能力であったためノルマンディー上陸作戦の時のアメリカ軍総司令官に選出されたのでした(→なぜブラッドレー将軍がノルマンディー上陸作戦時のアメリカ軍司令官に選ばれたのか?(付:OCS Normandy) (2019/05/31))。兵士の命を大事にした点だけでなく、処理能力の高さという点でもブラッドレーと本間雅晴は結構似た感じがあるような気がします。ブラッドレーはファレーズ包囲戦の時に果敢さに欠けてあたらドイツ軍を逃してしまったと批判されたりするようで、もしブラッドレーにパットンばりの決断力があればうまくいったのかもですが、ブラッドレーとパットンを合わせたような人材というのは、そりゃ、いたらすごいけど、実際問題としてはあり得ない、高望みに過ぎないのではないでしょうか。



 また、本間雅晴は「人間として運が悪すぎる」という話もありまして、ベタ惚れして結婚した最初の奥さんがとにかく奔放で浮気しまくりで、我慢して耐えたものの結局は離婚ということになったり、「バターン死の行進」の責任をひっかぶされて死刑になったのも、その行進自体を本間雅晴は知らなかったとか、死の行進ということ自体が言いがかりだとか、マッカーサーが自分を敗北に追い込んだ本間雅晴を絶対に許すまいと東京裁判の前に無理矢理死刑にしてしまったとか、「本間雅晴は本当に運が悪い。気の毒すぎる」と言われていたりするのを見ます。フィリピン攻略戦の失敗の責任を担わせられるというのも、その「運が悪い」の内の一つのような感じがします。

 フィリピン攻略戦の失敗面の責任の一端を本間雅晴が担わなければならないのは、その役職的にもしょうがない面はあるとは思いますが、私が思うには、本間雅晴以外の要因を十分以上に併記して、本間雅晴が要因である部分はその内のあくまで一部である、とするのが良いように思えます(本記事でも他の要因が色々併記されているのですが、本間雅晴の無能が主因であるという風に誘導されているという印象です)。



 ただ、「雑誌記事」ということからすると、本間雅晴を主因に持って来るのはやむを得ない、という気もします。何かを主因に据えなければ記事としては分かりにくいですし、「戦局の推移を精確に予測する洞察力、状況の変化に即応できる柔軟性、決断力」がもっと必要だったのだ、というのは記事として魅力的でしょう。また、実際その指摘が的を外しているとも私も思いません(ただ、本間雅晴に酷だよね、というだけで)。

 私の好みからすれば「結論は出さずに、可能性を併記するだけ」というのの方がいいのですが、それでは記事としてダメなのでしょう。また、米比軍側の錯誤であるとか、判断の良さとかってことももっと書くべきではなかろうかとは思いますが、今回の記事では紙幅的にそこまでは無理だった、というだけのことかもしれません(長南氏は日本軍のことが専門っぽいので、米比軍のことを調べて書くとしたら別の人になるかもですが)。


 実はOCS『Luzon: Race for Bataan』を作った時に、「ヒストリカルノートも書いておかないと、テストプレイを頼むにしても、史実なんて知らないんだけどと言われそうだ……」と思ってヒストリカルノートも書いてまして、そこに私なりの視点で、米比軍と日本軍を半々くらいで書きましたので、ゲームが出版されればそちらで読んでもらえれば、とも思うのですが、いつ出版されるのかなぁ(T_T)(冊子に同梱の形で出版されるという話になっているのですが、ゲームは完成しているのですが冊子に載せる記事が集まっていない状態らしいです)。


1940年のフランス戦の時、フランス軍の最高司令官であったガムラン将軍は梅毒による精神神経障害だった?

 個人的に、歴史上の人物がサイコパスだったりナルシストだったり双極性障害(いわゆる躁鬱)だったりした可能性についての話に興味があります。


 たとえば、↓ですとか。

『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』読了。南北戦争や第二次世界大戦のリーダーに興味のある人にも超オススメです! (2021/03/03)


 そこらへんの本として、『現代史を支配する病人たち』という本を見つけたので入手して読んでいましたら、1940年のフランス戦の時のフランス軍の最高司令官であったガムラン将軍は梅毒による精神神経障害だった、ということが書いてありまして、興味を持ちました。





Maurice Gamelin

 ↑ガムラン将軍(Wikipediaから)






 この本の、まずは梅毒による精神神経障害についての記述を引用してみます。

 ここでもまた、彼の言行の秘密を解く鍵は医療カルテである。ベニト・ムッソリーニと同じく、ガムラン将軍は神経梅毒患者だった。
 たぶん、彼もまた、全身的な動脈硬化にかかっていたのだろう。アルヴァレス病の弱い脳発作にもつぎつぎに見舞われていた模様である。こんなわけで、知力が失せ、分析が甘くなり、枝葉末節ばかりまわりくどく言い、判断力をなくし、評価を誤り、ペタンを頼りながら彼を批判し、記憶が混乱していたのである。ともかく確実なことが一つある。彼が死んだのは、医者が「P=G」と呼ぶ、梅毒末期の進行麻痺のためだった。1958年だった。
 【……】何年も前にペニシリンの使用が普及してからというもの、梅毒の重症患者はいなくなったので、教壇でも重症例は教えなくなっている。だが、前世紀末から今世紀初頭にかけて、梅毒は幻覚性脳病の筆頭だった。
 当時の梅毒患者たち(ガムラン将軍のように)の症状は、手遅れになった重い神経障害だった。精神障害も一緒だ。変則的な動作、トーヌス(筋の緊張)の消失、責任回避、性格の変化、多幸症、偏執、活動過剰(時々)、誇大妄想的贅言(常時)、批判力の喪失、支離滅裂な行動。
これら全体を称して医者は「進行麻痺」と言っている。
『現代史を支配する病人たち』P148,9



 1939~40年当時のガムランの状態に関してもこの本に色々書いてありますが、最もそれらしいところを2箇所ほど引用してみます。

 1939年当時69歳。やせて小柄な、物腰のやわらかな男である。彼は権謀術数に長けていた。フランス随一の戦術家だと評判だった。1914年マルヌ戦の成功した作戦計画にしろ、ジョフル元帥の下で実際に立案したのはガムランだった。ジョフル元帥から、その教義や才幹や経験を受け継いでいた模様である。明敏精緻な国粋主義者ガムランが、1935年から参謀本部の頭に立っていた。彼の秘密の手は、自分を孤立させておくことだった。「将官は些事雑事から遠ざかっているべきだ。そうでなければ、どうして責任重大な事をゆっくり考え抜けるだろう?」と彼は言った。ダラディエ首相は唯々諾々とそれを認めた。そしてフランスは従(つ)いて行った。
 しかし、仕事のことでガムランの部屋に入った者はぞっとした。外観の下に別の顔があるように思えた。ガムランはもう意志も考えもない人のようだったのである。「活動するとはどんなことかまだわかっているのだろうか? 身動きしない海馬(たつのおとしご)を見ているような気がした」と、その軍人たちは記している。
『現代史を支配する病人たち』P130,1

 やっとのことでガムランに会うところまで行った人々は、彼の言行の中の異様な断層を指摘している。身体のコンディションはよいようだった。が、話をすると、決して文章を最後まで言わない。言葉が考えに追いつかない人々が、よくこんなふうである。ガムランの場合は、意想散逸症でこうなっていたのだ。考えをまとめることもできなければ、明晰で精密な頭の働きにも無縁になっていた。絶えず矛盾したことを言い、色々なことを忘れ、支離滅裂な印象を与えた。ガムランに近づいた医者はごくわずかだったが、彼らはすぐに途方もない知的不全を見破った。
『現代史を支配する病人たち』P145



 1940年のフランス戦における、フランス軍上級司令部(特にガムラン)の無能ぶりについては関係書籍で色々触れられているので、それらで見ていただくとして……。結局ガムランは、ドイツ軍の侵攻開始(5月10日)からわずか10日目の5月19日に解任されてしまいました。


 個人的には、「なんであんなにも1940年のフランス軍はダメダメだったのか?」という疑問に対する一つの説明として、「最高司令官ガムランが梅毒による精神神経障害の状態にあり、まともな思考判断ができる状態ではなかったのだ」というのは、説明能力が高く、思わず惹きつけられる面が強いと感じます。

 一方で、この説に対する反対意見も必ずやあるであろうとも思われ、検索してみたら日本語のブログ記事でぱっと出てきました。

ガムラン将軍梅毒説の虚像


 私自身は「論争的なもの」が好きで(自分が論争したいわけではないです)、あらゆる言説は仮説であり、論争に開かれているべきだと考えています。

 が、今回の両論を読んだ感じでは、個人的には「反対論」の方の「さすがに梅毒症状が明らかな人物を軍のトップに据えておくほど、第三共和政の政治家たちが無能だったとは思えません。」とかは「いや~、別にそんな例は史上いくらでもあるような……?(日本軍の杉山元参謀総長とか、イギリス軍のイギリス大陸派遣軍司令官のゴート卿とかって、かなりやばいダメな言行が多かったと思う)」「あと、当時のまわりの人達はガムランが梅毒による精神神経障害だとは知らなかったのでは?」と思ったり、フランス語の論拠の方のガムランの回想録上の「5月19日に解任されるまでのフランス戦の準備と指揮の愚かなやり方に対して、そのすべてがよく考え抜かれ、理詰めで書かれているようで、読者を驚かせる。」なんかは、「だったら当時実際の行動として愚かだった(とされている)ことに関してはどう説明するのだろうか……?」とか、よりツッコミどころが多い様に感じました。


 ガムランは若い頃にマルヌ会戦を勝利に導いたように、もともと将軍としての能力は非常に高かったらしいです。

 私はOCSルソンを作った時に、ルソン戦で第48師団の師団長であった土橋勇逸の回想録を読んだのですが、彼はフランス大使館付武官を務めた時(1939年)にガムラン将軍と知り合って、その素晴らしい人物であることに感銘を受け、後に1940年のフランス戦でガムランが非難されまくったことに回想録中で異を唱えていました。もしガムランが梅毒による精神神経障害であったならば、土橋勇逸が会っていた時とは様変わりしていたことに対する説明能力が高いとも言えますが、果たして……?





 恐らく、フランス国内での最新の研究や論争こそを探してみるべきなんでしょうけども、まったく手に余る話なので、「そういう説もあるらしいが、論争があるようだ」ということで、それでもガムラン将軍に対する興味が深まるでしょうから、それは良いことではなかろうかと思いました。


『Special Ops Issue #3, Summer 2012』に同梱のOCSエラッタ等カウンターについて

 『Special Ops Issue #3, Summer 2012』には、OCSエラッタ等カウンターが60個付いてきています。これらについて私はそれほど詳しく分かっていなかったのですが、今回調べてみました。


 ↓OCS Depotの『Guderian's Blitzkrieg II』のページの、「Miscellany:」の1つ目にそれらのエラッタ等カウンターのPDFが、2つ目にその説明のPDFがあります。

Guderian's Blitzkrieg II (4-08)


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 先日のゲームマーケット2022秋では、『Guderian's Blitzkrieg II』の中古未切断のものを販売しまして、その中にこの『Special Ops Issue #3, Summer 2012』の『Guderian's Blitzkrieg II』用のものと思われるカウンターを入れておきました。買われた方がどなたか私分かってないのですが、もし見られていたら、こちらを参考になさって下さい。また、どうもその中の「ソーセージマーカー」までが『Guderian's Blitzkrieg II』用になっていたようなのですが、それを入れてないかもです(T_T) すみません。前記PDFで印刷はできるので、必要ならそちらで印刷してもらったら……(しかし詳しい説明を読んでも、ソーセージマーカーに関する言及はありませんでした)。


OCSの穴を修復する
この号に付いている60個のOCSカウンターは?
By John Kisner

 この号には、OCS用のカウンターが60個入っています。ほとんどはエラッタカウンターですが、いくつかはヴァリアントカウンターです。その内訳は……。

1.2011年に出版された『Guderian's Blitzkrieg II』【リプリントバージョン】のための37個のカウンターです。『Case Blue』を持っていない場合に必要です。詳細についてはこのページの説明をお読み下さい。

2.『Case Blue』のための2個のカウンター。ドイツ軍の第13軍団司令部と、ソ連軍の第5騎兵軍団マーカーです。『Guderian's Blitzkrieg II』を持っていない場合に必要です。

3.『Baltic Gap』のための、6個のエラッタカウンター、1個のヴァリアントカウンター、それに15個【実際には14個】の前方分遣隊(FD:Forward Detachment)カウンターです。詳細についてはこのページの後の説明をお読み下さい。ヴァリアントバージョンの第519対戦車大隊カウンターは、私の親友Marcus Randallや、このナースホルン部隊にAR5を付けるのは評価が高すぎると考える人のためのものです。(ただしこれは公式の変更ではないので、もしMarcusと対戦するのでなければ、対戦相手にこのカウンターの使用の同意を得なければなりません!)



 2001年に出版された『Guderian's Blitzkrieg II』は、その6年後に発売された『Case Blue』によって改良されました。ところが残念ながら、『Guderian's Blitzkrieg II』が2011年に再版された時、その戦闘序列と増援到着スケジュールの変更の多くが、ゲームのカウンターシートに反映されませんでした。『Case Blue』を持っていない方は、今回のエラッタカウンターで「無許可離隊」していた部隊を取り戻すことができます。ただしこのカウンター上の問題は、主に『Guderian's Blitzkrieg II』と『Case Blue』のキャンペーンが重なる部分(特にヴォロネジ戦域)に限定され、1942年なかば以降に発生するため、『Guderian's Blitzkrieg II』の主要な焦点であるモスクワを目指す戦いは大きな影響を受けません。

 この号では『Case Blue』から、分遣隊の置き換えを最低限にするために必要なユニットや、到着予定のユニットの不足を解消するためのカウンター37個を提供しています。シナリオに応じて、2つの異なる修正方法が提示されています。これらは『Guderian's Blitzkrieg II』キャンペーンゲームを念頭に書かれていますが、より小さなシナリオにも適用されます。


キャンペーン7.1から7.4

 これらのシナリオへの修正は2つのことがあります。キャンペーンの長さを短くすることと、「無許可離隊」カウンターのほとんどを提供することです。

1.1月26日から2月5日の間の、(全部で)3つのソ連軍ユニット((5)-1-1 UR Bde(153,156,159))がまだありません。デッドパイルには代用できるユニットがあるでしょうが、もしなければ、ないユニット1つにつき、1xPaxを得ます。

2.3月15日のソ連軍の12-2-2 Inf Div(416)がまだありません。これは純粋にデッドパイルのユニットで代用して下さい。

3.これらのキャンペーンは42年4月1日ターンに終了します。勝利条件は以下の通りです。

 ドイツ軍の勝利得点は、その(3月末の)最終勝利得点と、最も高い勝利得点(最も勝利得点が高かったターンの終了時の勝利得点)との間の平均です。その平均勝利得点が60点以上であれば、ゲームはドイツ軍の勝利で終了します。平均が50以下であれば、ソ連軍の勝利です。それ以外は引き分けです。


キャンペーン7.6から7.8

 これらのシナリオの修正は、「無許可離隊」カウンターのほとんどに対処するものではありません。その代わり、プレイ中のマップ面積を減らすことで、これらのカウンターを不要にします。

1.プレイ領域の南端を1/2ほど北へ移動させ、マップC/Fのxx.18(含む)から南は領域外とします。

2.ゲーム終了時の勝利判定では、ドイツ軍が領域外のVP都市(VoronezhとStaryy Oskol、合わせて8点)を保持しているとみなします。

3.両陣営の補給表のコラムをー1シフトさせます。

4.枢軸軍とソ連軍の陸上ユニットで、依然としてないユニット(この号の37個のカウンターに含まれていないもの)はすべて無視します。それらのユニットのリストは下記にあります。

http://www.gamersarchive.net/theGamers/archive/GBiisecondedi.htm
【現在はリンク切れ】




『Baltic Gap』の新オプション

 史実では、ソ連軍の縦深作戦の重要な構成要素が、この前方分遣隊(FD:Forward Detachment)でした。前方分遣隊は基本的に、狙撃兵師団の一部(およびいくつかの独立分遣隊)を自動車化し、主力の50マイル【約80km】程度前方で作戦行動を行えるようにしたものでした。様々な理由 - 主にカウンター数上の制限と、テストプレイ初期に試され(そして拒否され)たルールが上手くいかなかった - のため、この前方分遣隊ユニットは『Baltic Gap』には入れられませんでした。

 ところが数か月前、私のこの号にOCS用の60個のカウンター枠を与えられ、これらのユニットに取り組む新たな機会が与えられたのです。

 『Baltic Gap』の新しいオプションとして、ソ連軍プレイヤーは14個の前方分遣隊ユニットを使用できるようになります。これらは特定の親師団(前方分遣隊の部隊番号に基づく)から、分遣連隊と同じように1ステップロスさせることで作られ、分遣連隊と同様にステップロスしている親師団へと吸収され得ます。前方分遣隊は独立したユニットとして扱われ、再建不能です。


これらのカウンターの使用法:

1.利用可能な前方分遣隊の数は、キャンペーンの開始日や選択したV#によって異なります。計算式は「14-月+V#」です(「月」は7月なら7、8月なら8、など。「V#」は常に0から3の間であり、仮想的な援軍が到着する見込みを設定する方法です【?】)。6月開始のキャンペーンをプレイする場合、前方分遣隊の数は8から11の間になり、10月開始のキャンペーンをプレイする場合、その範囲は4から7に下がります。

2.プレイ開始前に、使用できる前方分遣隊を選択します。(事前計画が必要であったことを部分的に反映させるものです)

3.前方分遣隊が突進するにはトラックが必要でしたが、トラックの配属は一時的なものでした。そのため、前方分遣隊は作られたターンのみ移動モードとなり、それ以外の移動フェイズには戦闘モードの面にならなければなりません(除去、あるいは吸収されるまでそのままです)。



 それから、『Baltic Gap』の(前方分遣隊以外の)エラッタカウンター6個とヴァリアントカウンター1個ですが、『The Blitzkrieg Legend』に全部入っています。そしてなぜか、『Guderian's Blitzkrieg II』リプリントバージョンには、エラッタカウンター6個のうちラトヴィア軍(黄緑色)の2個を除く4個のみが入っています(ヴァリアントカウンターはなし)。

(↑これらも、手元に色々あって何が何だか分からないので調べてみたのでした)




 

ミドルアース大阪で、OCS『KOREA』インスト、釜山橋頭堡シナリオ2回目

 ミドルアース大阪でシバタさんと、OCS『KOREA』の釜山橋頭堡シナリオ(5.3)によるインスト対戦プレイをしてきました。

 同シナリオでのインストプレイは2回目で、前回はシバタさんが北朝鮮軍を担当されましたが、今回は私が北朝鮮軍で、シバタさんが防御を練習する、ということになってました。



 ↓初期配置。

unit8747.jpg



 私はまず、この時点で唯一残っている戦車大隊でオーバーランを仕掛けたのですが、あっさりAL1o1 Do1で自分が壊滅(敵ユニットを退却させることすらできずに)。いや、前回のプレイではシバタさんが全く同じオーバーランで成功されていたんですよ……。

<2022/11/28追記>

 ↑の件ですが、単純に移動力を間違えていて「できないことをできると勘違いしてやっていた(しかも2回に渡って(T_T))」らしいことが分かりました。

 6-4-6の戦車大隊(装軌)で、

 元いたヘクス ー 平地 ー 小河川 ー 平地 ー 平地上の敵をオーバーラン

 なんですが、小河川の追加移動力を(徒歩の)+1だと勘違いしてしまっていたっぽいです。そうすると、「1、1+1、3」で6に収まると。しかし正しくは装軌は+3で、「1、1+3」で、その時点で5移動力消費してますからオーバーランのための3移動力がない。

 まあ、移動モードにすればオーバーラン自体はできるのですが、戦力比が下がるので現実的ではないと思います(>_<)

<追記ここまで>



 東岸でのAR差なしの攻撃では逆奇襲5コラムシフトが出て、こちらも自軍に損害が……(T_T)


 後攻→先攻のダブルターンが+2の修正をもらってやりやすくなっているのですが、敗れて先攻を取られてしまいます……。



 ↓その時点での盤面と、その後のシバタさんの攻勢案。

unit8745.jpg



 通常、このシナリオでの国連軍側は防勢なのですが、シバタさんは赤い矢印のようにして攻勢をやってみたいということで、SPがうずたかく積まれた北朝鮮軍の司令部に向かって攻勢を取られました。

 私は内心ビクビクではありましたが、最初のターンではシバタさんはその司令部ヘクスに対して攻撃ができない程度であり、次の北朝鮮軍プレイヤーターンで私はある程度の手当てはできたし、敵の攻勢軸の後ろに部隊も送ったりしたので、「敵は結局大したことはできないだろう。それよりも攻勢を継続して金日成将軍様に大戦果を報告せねば!」と気が焦ってあくまで前進を継続。



 続くシバタさんのプレイヤーターン、シバタさんはあくまで司令部ヘクスへの攻勢を継続。私は「ええっ。いや……大丈夫……だろう」と思っていたのですが、国連軍の空母艦載機の爆撃の上、全周包囲での攻撃を食らい、ギリギリで攻撃側奇襲が成功、6コラムシフトとなって、ちょうど司令部ヘクスにいた4ステップが削られきり、捕獲チェックでこれまた6の目が出て4SP程度を取られてしまいました……。

 いや、ダイス目が……(T_T) 悪い目になるように念を送ったのですが……。

 シバタさんが有利になるようなアドバイスも色々してましたが、それはインストでもありますし、当然必要なことということで(^_^;






 反省としては、「ほぼ全力で攻勢継続」はさすがにまずかったとかですかね……。司令部に取り付き始めている敵ユニットを攻撃することのメリット(そして相手にとっての嫌さ)も、言われてみればデカかったはずなので、そうすれば良かった。

 


 次回ですが、再度このシナリオをプレイしていき、8ターンシナリオなので1日では終わらないと思われますが(超絶慣れていけばもしかしたら1日で終わるかもしれない規模ですが)、その日の終了時点でそれぞれのプレイヤーが自陣営のユニットのヘクス位置などをメモしておき、継続プレイしようということになりました。

 このシナリオはなかなかに面白いのではないかと思いますし、このシナリオでプレイに慣れていって、さらに大きなシナリオをプレイできるようになっていければと思います。


 OCSに興味がある方は、ミドルアース大阪に来ていただければ(恐らくいつでも)インスト等できますし、あるいはVASSALでのインストも割といつでもできますので、気軽にご連絡下さい(^^) 知り合いの方には、ミドルアース大阪でないゲーム会に一度インストに来てもらえればという話も伺ってたりします。

OCS v4.3和訳ルールを改訂しました:9.12g「退却を強制された」→「退却した」

 OCS v4.3の和訳に、また間違いが見つかりました(>_<) 申し訳ありません。


 これまでの和訳では、

9.12g 戦闘後前進

 で、

 もしすべての防御側ユニットが除去されるか退却を強制されたならば、攻撃をかけた側のユニットはその防御側のいたヘクスに入ることができます。

とあったのですが、

 もしすべての防御側ユニットが除去されるか退却したならば、攻撃をかけた側のユニットはその防御側のいたヘクスに入ることができます。


 が、正しい和訳でした(原文は、「If all of the defenders are destroyed or retreat,」)。


 例えば、「AL1 Do1」(攻撃側は1ステップロス、防御側は1ステップロスか1ヘクス退却を選択する)が出て、攻撃側が1ステップロスし(そして他のステップが残っており)、防御側が1ヘクス退却を選択した場合、攻撃側は戦闘後前進ができます。しかし元の和訳文では、「防御側は自分で1ヘクス退却を選択したのであり、強制されたわけではないのだから、戦闘後前進できないのではないか」と解釈できるものになってしまっていました(T_T)

 プレイ上ではこれまで尼崎会ではずっと、正しい解釈でプレイしていたと思うのですが、和訳文が良くない状態であったことに気付いていませんでした。


 すでに和訳ルールを印刷されている方は、9.12gの「を強制された」に赤線を引いて、「した」と書き入れておいて下さい。

 「OCSの物置2」上のpdfデータは、改訂したものになっています。



 今後もまた、和訳で少しでもおかしいと思われるものを見つけられましたら、どんどんご連絡下さい<(_ _)>

カセリーヌ峠の戦いの序盤でアメリカ軍機甲部隊に大打撃を与えるも、その他でそれほどぱっとしないツィーグラー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、カセリーヌ峠の戦いの序盤でアメリカ軍機甲部隊に大打撃を与えるも、その他でそれほどぱっとしないツィーグラー将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

General der Artillerie Heinz Ziegler



 ハインツ・ツィーグラーは1912年に士官候補生として軍に入り、第一次世界大戦では砲兵隊長として活躍して二級、一級鉄十字章などを受勲しました。

 戦後も軍に残ることができ、参謀将校や砲兵部隊指揮官、それに1925年から31年までは陸軍司令部の将校も勤めていました。ミッチャム氏は、「ツィーグラーは処世術に長けており、その才能を最大限に活かして自分の地位を高めた。また、重要な友人を容易に作ることができた。」と書いています。

 ポーランド戦の始まった1939年9月1日に陸軍補充局の参謀に任命されます。その局長は後にヒトラー暗殺事件との関わりで処刑されることになるフリードリヒ・フロム将軍であり、ツィーグラーはこの時からフロムと親密になって後に彼のために証言することになります。

 すぐ後の9月13日には第4軍管区の参謀長となり、1940年2月1日に第42軍団の参謀長に任命されましたが、同軍団はフランス戦では大きな役割は果たさず、その後ドーバー海峡沿岸で占領任務を務めました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第42軍団司令部ユニット。

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 1941年8月に同軍団は東部戦線に送られてレニングラード包囲戦に参加しましたが、秋(10月?)には同軍団はフォン・マンシュタインの第11軍の麾下へと移管され、クリミア征服に参加することになりました(フォン・マンシュタインが、それまでの麾下部隊だけでは兵力が足りず、追加の1個軍団をただちにクリミアへ投入すべきだと意見具申したため。『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P361)。





 ↓近々出版される予定のOCS『Crimea』の公開された画像。
開発中の様々なOCSタイトルなどの「OCSに関する現状報告(2022年3月30日)」を機械翻訳しました (2022/03/31)から)

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 ドイツ軍側のユニットの左上から2番目に、第42軍団司令部ユニットが見えています。



 ドイツ軍は苦闘の末ペレコープ地峡を抜けイシュンの防衛線をも突破しましたが、使用できる快速師団がなく、フォン・マンシュタインはやむを得ず雑多な部隊を集めて快速部隊を編成しました。その指揮官に任命されたのが第42軍団の参謀長であったツィーグラー大佐であったのです。

 【1941年】10月28日、彼ら【ドイツ軍】の対手【ソ連軍のイシュン陣地】はついに撃破された。いまや、ドイツ軍のクリミアへの追撃が可能となったのだ。

 LAHが去るとともに、マンシュタインは、ソ連軍が回復する前にクリミアに突入、戦果拡大を行う際に、すぐに使えるような決定的手段を無くしてしまった。よって、以前、フランスで第38軍団に関して使った、古い手立てをまた用いることになった。第22歩兵師団の捜索大隊、増強されたルーマニア軍の自動車化連隊、他の種々雑多なドイツ軍自動車化部隊から成る尖兵支隊を編合したのだ。マンシュタインは、この臨時編成の機動支隊をハインツ・ツィーグラー大佐にゆだね、南方、アルマ川に向けて猛進せよと命じる。 10月31日、ツィーグラー支隊は、セヴァストポリ・シンフェロポリ間の道路を遮断、翌日、このクリミアの政庁所在地[シンフェロポリ]を占領した。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P364




<2023/12/28追記>

 OCS『Crimea』が出版され、ツィーグラー支隊について調べてみたところ、その構成ユニットは↓のもののようでした。

unit8476.jpg


 マンシュタインは大きな装甲部隊を持っていなかったため、即席の「ツィーグラー支隊」(ハインツ・ツィーグラー大佐は、ドイツ軍第42軍団の参謀長でした)を、第190突撃砲大隊やルーマニア軍のコルーネ旅団(ラドゥ・コルーネ大佐は、ルーマニア軍の中で最も進取の気性に富んだ指揮官の一人でした)、その他の雑多な自動車化部隊によって編成します。彼らは素早く前進し、わずか2日でシンフェロポリ(F18.08)郊外に到達しました。
『Crimea: Conquest & Liberation Playbook』P22



<追記ここまで>



 ↓OCS『Case Blue』のクリミア半島マップ上の「イシュン」と「シンフェロポリ」。シンフェロポリの南東を走る川がアルマ川。

unit8750.jpg



 ツィーグラーは1942年春にベルリンに戻って再び陸軍補充局に務めることになりました。そして同年の年末に、彼の軍歴にもう一つの転機が訪れたのです。

 ヒトラーはフォン・アルニム大将とツィーグラー中将を東部戦線から呼び寄せた【ツィーグラーはベルリンにいたのだと思われますが】。アルニムより少し早く到着したツィーグラーは、すぐヒトラーに迎えられた。総統の話はこうだった。チュニジアに第5機甲軍を新たに作り、フォン・アルニム大将を司令官に予定している。ツィーグラーには《常任全権代理》になってもらいたい――。この《常任全権代理》という新顔の役目を説明したヒトラーの言葉はおもしろい。つまり、ロンメル元帥の轍を踏むようでは困るというのである。すべてが一人の司令官にかかってしまってはまずいのだ。軍司令官は同等の高級将校と話しあえるべきである、と言うのだ。それにこの新官職の第一の狙いは軍司令官が前線を視察中の場合――なにしろアフリカではヨーロッパの戦場と違って距離が膨大だし、もともと戦線というものがはっきりしていないので――いつも全権を持った代理が要るということなのであり、その結果いかなる場合でも決定をチュニスの総司令部から発せられるようになる――。
 ツィーグラー将軍は有能な軍人かつ冷静な現実家だったので、新機甲軍にはどんな部隊が加わるのかとたずねた。同席していたカイテルが答えた。三個機甲師団、三個機械化師団がチュニスに向かいつつあり、空軍の精鋭《ヘルマン・ゲーリング》師団もいる――。ツィーグラーは、さらに、それほどの大軍に地中海を越えて補給をつづける見込みはあるのかとたずねた。「もちろん」というのがヒトラーの答えであった。それならば北アフリカで攻勢に出ることも可能であろうとツィーグラーは考え、その計画をうちだした。ビゼルタ=チュニス地区から西進、可及的速やかにチュニジア=アルジェリア国境の山脈に達してボーヌ、フィリップヴィル両港を占領したうえ、その西のアルジェリア諸港に進む――。ツィーグラーはアラブ人がドイツ側について反乱を起こすことをあてにしており、この面からの支援があればオランまで進出できようと考えた。これは北アフリカ最後かつ最重要の港であり、ここを取られればアイゼンハワー軍も捕虜になるか、海路退却するかを選ばされることになる。しかし――とツィーグラーは強調した――そのための絶対的前提条件は補給が絶えないという保証であり、それにはふたたびマルタの占領が問題になる。とにかく今までからもわかるとおり、この島を奪うことが海上輸送のためのアルファでありオメガであるのだ。これは大胆な言説であり、大胆な計画であった。
『砂漠のキツネ』P323,4



 この《常任全権代理》という役職はドイツ軍に通常存在しないもので、その点でも珍しいものであったそうですし、また「装甲軍」の《常任全権代理》に、旅団より大きい部隊を指揮したことがない人物が就任するという面においても奇異なことではあったようです。


 フォン・アルニムとツィーグラーの関係性について、『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P27には「ヴォルフスシャンツェ【総統大本営】で出会ったフォン・アルニムとツィーグラーはその日の内にすぐに打ち解け、ローマ近郊のフラスカティにある南方最高司令官ケッセルリングに飛行機で会いに行った時には、お互いの信頼関係はより強固なものになっていた。」と書いてあります。

 一方で、『Rommel's Desert Commanders』P168でミッチャム氏は、「フォン・アルニム将軍は彼【ツィーグラー】があまり役に立たないことを知った。」と書いており、ドイツ語版Wikipedia「Heinz Ziegler」には「新司令官であるハンス・ユルゲン・フォン・アルニム将軍は、それまで旅団より大きな部隊を率いたことのないこの副官を高く評価していたわけではない。」と書かかれていました。



 1943年2月のいわゆる「カセリーヌ峠の戦い」で、フォン・アルニムの第5装甲軍側の攻勢作戦であった「フリューリングスヴィント (春風)」 作戦について、『砂漠のキツネ』にはこのように書かれています。

 フォン・アルニム大将、ツィーグラー将軍、およびフォン・クヴァスト大佐とポムトウ大佐を筆頭とする有能な軍本部は、計画を練った。【……】
 【……】《春風》作戦の指揮はツィーグラー将軍が第5機甲軍本部に支援されてとった。本部長はポムトウ大佐であった。
 ツィーグラーとポムトウがラ・フォーコネリーの戦闘指揮所で最後の準備に熱中していたうちに、ロンメル元帥から連絡をつけてきた。
『砂漠のキツネ』P333




 いわゆる「カセリーヌ峠の戦い」の最序盤にツィーグラーは、シディ・ブ・ ジッドの東側で米第1機甲師団の部隊を待ち伏せし、米軍戦車98両を撃破しました。この件について彼は大きく評価されているようであり、騎士鉄十字章を受勲しました。ただしその後のツィーグラーの動きは緩慢であり、『Hitler's Generals』(C.Barnett)には「ツィーグラー中将は装甲部隊の扱いに長けていたわけではなかった。」と書かれています(これを書いたのも『Rommel's Desert Commanders』と同じく、ミッチャム氏ですが)。


 その後の動向については『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』が詳しく、すでにフォン・アルニムのブログ記事で挙げていたのを再掲してみます。

 アルニムの副官であるハインツ・ツィーグラー将軍が、この【春風】作戦の指揮官であった。ツィーグラーは米軍の反攻を予期して、この【2月14日の】夜は部隊をシジ・ブ・ジッド近郊に止めることにした。ツィーグラーのこの細心な用心深さは、ロンメルの怒りに火を点けた。ロンメルはアルニムに電話を入れ、この成功を拡大するために今夜中にスベイトラに向けて進撃する旨、ツィーグラーを焚き付けるよう説得した。だが、アルニムはツィーグラーの慎重なやり方に同意しており、「クックックスアイ」作戦【フォン・アルニムが1月30日に発案していた、ピションから北西へ向かって向かって進撃する作戦案】の原案にある通り、ピションとさらに北へ向かう作戦とに備えて、兵力の温存を望んでいたのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P49

 【2月15日の】これほどの決定的な大勝にもかかわらず、ツィーグラーは勝利の拡大を図ろうとはしなかった。将軍はスベイトラへ向けて斥候隊を出し、米軍がもう一度反攻を実施するのか否かを探った。これを耳にしたロンメルは、せっかくの好機がみすみす失われていくことに激怒した。だがこの日、ケッセルリングは東プロイセンの総統大本営へと出頭していたので、仲介の労をとる人物がいなかった。アルニムは燃料の消耗を気にかけており、のちのフォンドゥーク【Fondouk:ピションの南】戦のために節約を図っていた。しかも当初の作戦目標であるA戦闘団の殲滅は達成されていたのである。
 ケッセルリングはアルニムの大勝利を2月16日になってようやく知った。ケッセルリングはイタリア軍最高司令部を経由して、アルニムに対しスベイトラを攻略するよう命じた。アルニムはなおも躊躇を続け、斥候隊に少数の戦車を付けて米軍が「カーンの十字路」【ファイドとスベイトラの間】と呼んでいた地点の近くにまで進ませるにとどまった。この逡巡により米軍は防備を固める時間を得ることができた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P51,2



 この、フォン・アルニムとツィーグラーの消極的態度に業を煮やしたケッセルリング、あるいはロンメルの要請を受けたヨードルは、ツィーグラーの部隊をロンメルの指揮下に入れてしまいます。


 ツィーグラーの方は、ドイツ・アフリカ軍団(DAK)の司令官になったという話がこの時期に関して諸資料に出てくるのですが、その時期と理由、人名などがバラバラで困ってしまいます。一応羅列しておきますと……。

 1943年1月15日に【DAK司令官であった】フェーン将軍が瀕死の重傷を負った後、ツィーグラーはこのアフリカ軍団を指揮する司令官の地位に就いた。ツィーグラーは、1943年2月28日にフェーン将軍の後任であるハンス・クラーマーがロシアから到着してDAKを指揮を受け継ぐまで、このポストを務めた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P168

 1943年2月20日、ツィーグラーは負傷したグスタフ・フェーン将軍に代わってドイツ・アフリカ軍団の指揮を執り、3月初旬にはアフリカ軍集団の下に移された。
ドイツ語版Wikipedia「Heinz Ziegler」

 【……】代理としてDAKの指揮をとっていたツィーグラー将軍【……】
 【……】3月6日【……】DAKの指揮はその前日【つまり3月5日】に、もと第8機甲連隊長の古強者クラーマー将軍が受けついだ。
『砂漠のキツネ』P342

ドイツ・アフリカ軍団司令官
【……】
フェーン装甲兵大将         42年11月19日~43年1月16日
フォン・リーヴェンシュタイン少将  43年1月16日~43年2月17日
ツィーグラー中将           43年2月17日~43年3月5日
クラーマー中将→装甲兵大将   43年3月5日~43年5月12日
『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』P162




 ↓OCS『Tunisia II』のDAK司令部ユニット。

unit8749.jpg



 カセリーヌ峠の戦いの後、ロンメルは東へ振り向いて、東からやってくるモントゴメリーのイギリス第8軍に対処しようとしました。その2月下旬から3月初旬にかけて、マレト防衛線の東にあったメデニーヌへの攻撃計画をツィーグラーが、DAK司令官として主張したことが『砂漠のキツネ』に書かれています。


 ↓OCS『Tunisia II』のマレトラインシナリオの初期配置(多くが数ヘクス以内自由配置となっています)。関係地名を赤い□で囲ってあり、またマレトライン沿いに赤線を引いてあります。

unit8748.jpg


 こういったことを考えあわせると、第8軍の大攻勢の場合、マレト陣地では抵抗が長つづきしそうもない。そのためにロンメルは、モントゴメリーを進軍中に叩こうと決心したのである。代理としてDAKの指揮をとっていたツィーグラー将軍は、敵の攻撃を探知せよとロンメルから命令された。
 準備をすすめるうち、攻撃方法について意見がはげしく分かれた。今日にいたるまでそれは論議の的で、「もしもああしていたら..…」という文句が絶えない。
 ツィーグラーは西からメデニーヌを襲い、マレト・ラインの南に布陣する敵を叩こうと主張した。この計画の弱点は敵の制空権下で機甲師団の進撃路が長すぎるということであった。ツィーグラー将軍の話によるとこうなる。「ガベス=マレト街道沿いの旅宿で重要会議をひらいたのです。ガウゼ少将を同伴して出席されたロンメル元帥は、かなり難色を示しはしましたが、メデニーヌを主要目標とする西方よりの攻撃に同意しました。元帥の希望する北からの攻撃が無理だということを、納得してもらうのは大変でしたね。さかんに意見が戦わされ、派手な一幕になりかけたこともありました。メデニーヌ攻撃方法そのものについても一悶着ありましたな。ロンメル元帥はメデニーヌの南に主力を向けることは危険が多すぎると考えていました。そこに投入される兵力は南から敵予備軍が急進してくれば後方との連絡を絶たれるかもしれないし、少なくとも釘づけにされるというのです。そういった危険を犯すつもりはなかったので、機甲兵力翼の主力をメデニーヌの北におき、メタミュル北の高地にあると推察される敵砲兵部隊に向ける計画をさらに検討するよう命令されました。この際、第10機甲師団もメデニーヌ北方のメタミュルを衝くことになっていました。この調査は3月3日にまでのばされ、それに第10機甲師団の進撃路が長く、また悪条件であることも加わり、またまた攻撃時期を延期しなくてはならなくなったのです。はじめの予定では3月4日だったのに、それが6日に延期され、これが悪い結果を生んだのですな」
 もやのかかった3月6日払暁、第15、21、10各機甲師団は行動を開始した。掩護はクラウゼ少将の砲兵隊、第90および164アフリカ師団、それにイタリア軍アリエテ機甲師団である。DAKの指揮はその前日に、もと第8機甲連隊長の古強者クラーマー将軍が受けついだ。
『砂漠のキツネ』P342



 OCS『Tunisia II』のマレトラインシナリオは1943年3月5日(5日~7日)ターンの枢軸軍プレイヤーターンから始まりますので、この攻勢作戦から始められます。尤も、過去にちょっとこのシナリオをプレイした時には兵力差が大きくて枢軸軍側が攻撃をかけるのは難しいと考え、第1ターンに攻撃などかけずにあくまで防衛的にのみ行動したものでしたが……(^_^;



 DAK司令官の職から離れたツィーグラーはその後、アフリカ軍集団の幕僚として責任の軽い仕事に携わっていたそうです。

 アフリカ軍集団の崩壊が近づくと、フォン・アルニムは口実を設けてツィーグラーをヨーロッパに送り返しました(あるいは、ツィーグラーの方が逃げ出したのかもですが)。


 チュニジアで壊滅した師団の中に第334歩兵師団がありました。5月24日にツィーグラーは、この第334歩兵師団を再編するためにフランスに到着します。

 1943年10月21日、ツィーグラーは今度は東部戦線の第3装甲軍団の司令官代理に任命されましたが、1ヵ月を少し過ぎた11月25日にフリードリヒ・シュルツ歩兵大将が彼の後任となりました(就任の日は、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』P125によれば10月20日)。

 1944年2月にツィーグラーはOKWで、経済参謀(恐らく占領地の物資の疎開、破棄、破壊などを管轄する仕事)に任命されます。

 1944年7月20日の暗殺後に知古のフロムが逮捕された後、ツィーグラーはフロムに有利な証言をしました(しかしフロムは1945年3月12日に銃殺刑に処されました)。

 ツィーグラーは最後にイタリアの第14軍の司令官代理を1944年10月24日から11月22日まで務めます。

 イタリアから帰ってきた後ツィーグラーは総統予備となり、復職することはありませんでした。戦争末期にはソ連軍の捕虜になるのを免れた(『Rommel's Desert Commanders』)そうですが、連合軍の捕虜にはなった(Wikipedia)ということなので、英米軍の捕虜になったのでしょう。戦後はゲッティンゲンに住み、1972年に亡くなりました。


東部戦線で活躍しチュニジアで指揮を執るも、ロンメルの邪魔をしたと批判されたフォン・アルニム将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、東部戦線で活躍しチュニジアで指揮を執るも、ロンメルの邪魔をしたと批判されたフォン・アルニム将軍についてです。



 資料としては、単独項目として最もページ数が多く詳しかった『Hitler's Generals』(C.Barnett編)を中心としており、その記述をこのブログ記事の主な地の文として採用しています。






Jurgen von Arnim

 ↑ハンス=ユルゲン・テオドール・フォン・アルニム(Wikipediaから)




 フォン・アルニム家は1388年に初めて歴史書に記録されて以来、ほぼすべての世代で将校を輩出した家系であったそうです。第二次世界大戦でも家系から10人以上が従軍し、4人が将軍になりました。

 ハンス=ユルゲンは1908年に士官候補生としてプロイセン軍に入隊。第一次世界大戦では西部戦線と東部戦線で戦い、歩兵大隊指揮官にまでなります。彼は参謀将校と前線指揮官の両方で信頼に足る働きをし、二級、一級鉄十字章を含む多数の勲章を授与されました。

 戦後、4000人の陸軍将校の一人として軍に残り、部隊指揮官や参謀将校として、あるいは国防省などで働きます。これらの勤務を経てフォン・アルニムは、有能で精力的な指揮官兼幕僚であり、温厚な性格で勤勉、そして決然とした考え方と行動力を持つ人物として軍関係者から高い評判を獲得し、また将来役に立つであろう多くの貴重な人脈を得ることができました。

 ハンス=ユルゲン・フォン・アルニムは、軍事的に名高い家系の末裔にふさわしく、気が強く、しかし部下に対しては極めて公平で、強い絆で結ばれている人物だった。彼は上官と議論をすることを好まなかったが、避けることもしなかった。意欲的で責任感が強く、冷静沈着で、決して取り乱すことのない人物であったと、軍歴時代の間ずっと評価されていた。ワイマール共和国軍に入隊した当初は、勤勉さと思考力、決断力のある人物と評された。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P19



 1935年に第23歩兵師団隷下の精鋭第68歩兵連隊長となり、その後(1938年か39年頃)、退任することになった師団長の後を継ぐことになっていましたが一転、兵站部への事実上の降格人事をされてしまいます。これは、上級指揮官(『ドイツ軍名将列伝』によると第2集団軍司令官?)であったフォン・ヴィッツレーベン将軍(反ナチであり、後にヒトラー暗殺計画に加担して処刑されました)が反ナチ派の人物を任命したがっていたのに対し、フォン・アルニムが非政治的な立場を取っていたためであったようです。ただし『Hitler's Generals』(C.Barnett編)でフォン・アルニムの項を執筆したミッチャム氏は、「フォン・アルニムはナチスには反対であったが、【当時のドイツ軍人が皆そうであったように】ヒトラーに忠誠を誓わされていたし、陰謀を図れるような人物ではなかった」という風に書いています。

 フォン・アルニムは新しい任務について不満を持っていなかったものの、OKHにいた彼の友人達は、彼が不当な扱いを受けたと感じていたそうです。1939年5月1日に彼は余剰将校としてベルリンに呼び戻され、ポーランド侵攻が始まるまでそこで待機させられました。同年9月1日にポーランド侵攻が始まると、12日にフォン・アルニムは編成中であった第52歩兵師団の師団長職を命じられます。しかし同師団は結局ポーランド戦には参加せず、フランス戦においても師団の一部が参加しただけでした。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第52歩兵師団ユニット。

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 その後1940年秋、フォン・アルニムは依然として第二次世界大戦中にまだ実戦経験がなかったにもかかわらず、第17装甲師団の師団長に任じられました(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば10月5日)。ところが彼はそれまで装甲部隊の訓練を受けたこともなく、装甲部門に関係もなかったのです。ミッチャム氏は「彼の任命は、彼の普段の有能さと、ベルリンの友人達によるものとしか説明できない」と書いています。

 第17装甲師団の編成と訓練中の1941年2月2日、第9軍団司令官であったヘルマン・ガイアー将軍はフォン・アルニムについて「バランスの取れた、冷静な人物。慎重で、組織作りと訓練においても思慮深い。」と報告しており、2月25日にはマクシミリアン・フォン・ヴァイクス将軍は「第17装甲師団はまだ編成を完了していないが、フォン・アルニムの“堅実で、自信に満ちた手腕”によって、基本的状態は良好である」とコメントしたそうです。

 第17装甲師団はバルバロッサ作戦に参加して大きな進撃を見せますが、6月27日(グデーリアンの『電撃戦』上P242によれば26日)にストルプツェ(ミンスクの南西)での戦闘中にフォン・アルニムは重傷を負い、急遽リヴォフ(現リヴィウ)に搬送されます。さらにより良い治療を受けるためにベルリンに送られ、療養期間を経て9月17日(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば9月15日)に第17装甲師団長に復帰しました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第17装甲師団ユニット。

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 フォン・アルニムはキエフ包囲戦の終盤で師団を率い、さらにタイフーン作戦序盤で第17装甲師団はブリャンスクの攻略に成功し、勝利に大きく貢献します。

 第17装甲師団(また、ネーリングの第18装甲師団も)を擁する第47装甲軍団司令官であったヨアヒム・レメルセン将軍はフォン・アルニムについて「精力的で、堅実で、積極的」「指導的人格」「絶え間ない危機的状況において、彼は決して休むことはなく、怖じ気づくこともなかった」「部下達を鼓舞し」「勇敢で恐れを知らない人物」「常に戦闘の中心にいて、連携が巧みであった」と述べているそうです。また、ヴァルター・モーデル将軍やエルンスト・ブッシュ将軍もフォン・アルニムについて「精力的で、自ら責任を引き受ける。将校達に良い影響を与え、部隊との関係も強固……予備にある時も、最も困難な状況な時も、彼は冷静で強い神経を保っている」と評価していたとか。



 11月初旬には装甲軍団長に就任することになり、11月11日にレニングラード南東で激戦中の第39装甲軍団司令部へ向かいました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第39装甲軍団司令部ユニット。

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 天候不良と吹雪のため、彼が司令部へ到着したのは11月15日でしたが、その2日後にソ連軍の大規模な反撃にあいます(ドイツ語版Wikipedia「Schlacht am Wolchow」)。援軍を得られず、壊滅必至の圧倒的な逆境の中、フォン・アルニムはチフヴィンで頑強に抵抗した上でヴォルホフまでの撤退を成功させました。これは彼の能力を上層部に認識させる事となります。

 1942年3月下旬に第39装甲軍団は戦線から離脱して短い休息を取りましたが、フォン・アルニムは今度はホルムで包囲されていたドイツ軍守備隊の救援を命じられました(日本語版Wikipedia「ホルムの戦い」)。彼は作戦を良く練った上で、5月9日に計画的に攻撃を開始し、激しい抵抗にもかかわらず同軍団の先鋒は包囲された守備隊に到達します。第16軍司令官エルンスト・ブッシュ将軍や北方軍集団司令官ゲオルク・フォン・キュヒラー将軍はフォン・アルニムの作戦を称賛し、彼を「ホルムの戦いで証明されたように、精力的で意志の強い性格の持ち主」だと評しました。


 ホルムを救援した後も第39装甲軍団はその戦線に留まっていましたが、1942年夏には戦争の焦点がスターリングラードやコーカサス方面に移ったため、比較的静かな状態になっていました。フォン・アルニムはこの状態に飽き足らず、友人の多い陸軍人事局に他の戦区への赴任を働きかけます。1942年11月30日、陸軍人事局長のルドルフ・シュムントから電話がかかってきて、フォン・アルニムは東プロイセンにあるラステンブルクの総統大本営に呼び出され、重要な新しい任務を任されることになりました。



 ラステンブルクに到着したフォン・アルニムは、チュニジアで編成中の第5装甲軍の司令官に任命されたことを告げられます。チュニジアでの戦いは11月中旬にすでに始まってヴァルター・ネーリング将軍が指揮していたのですが、ネーリングについてアルフレート・ベルントは「あからさまな悲観主義者」と呼んでおり、ケッセルリングは11月26日の連合軍の攻勢によってネーリングが「最も暗い結論を引き出した」(一時的にチュニス橋頭堡周辺まで撤退して、ジェデイダ(Djedeida)までも明け渡したことを指す)ことに不満を表明していたのです。ヒトラーはこれらの見方に同意し、ホルム救援作戦などで優れた指揮振りを見せたフォン・アルニムをネーリングの代わりに送り込むことにしたのでした。

 この時の任命に関して、軍事史家のデニス・ショウォルター氏はこう書いています。

 彼は気鋭の新人であるばかりか、プロイセン人とドイツ人の軍人一族という、ライバルたちの羨望の的となる家系の出身だった。客観的に見ると、土壇場の保衛作戦【ママ】には彼の方がロンメルよりもうまくやれそうであったし、上層部の命令にも反抗せず従う可能性が高いと考えられた。
『パットン対ロンメル』P282





 フォン・アルニムの主要な任務は以下の3つでした。

1.(まずは)英米軍によるチュニス占領を阻止する。
2.連合軍がチュニジア南部の海岸に到達するのを阻止し、エル・アラメインの敗北から撤退してくるロンメルのドイツ・イタリア装甲軍と切断されないようにする。
3.チュニジアの橋頭堡をできる限り拡大して、不足している縦深を確保する。


 新編成の第5装甲軍は雑多な部隊から成っていましたが、12月9日にチュニジアでの指揮とネーリングの反撃計画を引き継いだフォン・アルニムは重要な焦点となっていた290高地(連合軍は「ロングストップ・ヒル」と呼ぶことになります)を奪取し、そして維持し続けることに成功します。しばらくして天候が悪化する時期に入り、連合軍総司令官アイゼンハワーは「苦渋の決断」でクリスマス頃に攻勢を中止します。


 ↓OCS『Tunisia II』のマップにおける290高地(「ロングストップ・ヒル」)のヘクスの位置。ゲーム上でも非常に重要であり、史実では最終攻勢までここは抜けませんでした。ネーリングが一時的に連合軍に明け渡したジェデイダ(Djedeida)はチュニスからわずか3ヘクスの場所です。

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 その後、1943年1月中旬から2月初旬にかけてフォン・アルニムは、数的に優勢な相手に対して主導権を握ります。まず「アイルボーテ(急使)Ⅰ」作戦で1月18日からチュニス南方のフランス軍部隊を打ち破り、ポン・デュ・ファス(Pont du Fahs)から南方に至る高地帯を制圧することに成功。続けて1月31日からの「アイルボーテ(急使)Ⅱ」作戦でさらに南方のピション(Pichon)を狙いましたが、その占領にまでは至りませんでした。

 またそれとは別に、ロンメルのドイツ・イタリア装甲軍から先遣してチュニジア戦域に送られてきた第21装甲師団が1月17日から第5装甲軍に配置替えとなっており、フォン・アルニムは彼らにファイド(Faid)峠の確保を命じ、1月30日から開始されたこの作戦は成功裏に終わります。


 ↓OCS『Tunisia II』のマップに見る、(北から)「アイルボーテ(急使)Ⅰ・Ⅱ」作戦の進撃路と、ファイド峠攻撃作戦。

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 フォン・アルニムはこれらの作戦で重要な(決定的ではないものの)局所的勝利を収め、東部戦線でに引き続いて優れた指揮官であることを証明したのです。


 ……とミッチャム氏は書いていますが、この時期の攻勢について『カセリーヌ峠の戦い 1943』には、やや否定的に(?)こう書かれていました。

 ケッセルリングとイタリア軍最高司令部は、アルニムに対して大攻勢を発起して、ファイド峠を制して、ガフサ【Gafsa】盆地を占領、さらにテベサ【Tebessa】の米軍策源を攻略することを望んでいた。しかし期待に反してアルニムは1943年1月24日付で、より限定的な妨害攻撃の実施を命じた。それ以上の攻勢を実施可能な兵力が無いというのがその理由であった。アルニムの作戦構想では、第5戦車軍のいくつかの小規模な戦闘団をもってファイド地区のフランス軍守備隊を攻撃することにのみ限定し、これをもってこの緊要な峠を通過してのスファクス【Sfax:海岸の港町】を目指す連合軍の攻勢発起を阻害するものとされていた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P31



 しかし個人的には、上の文における「大攻勢」案は、2月14日からロンメルの部隊も参加して行われたいわゆる「カセリーヌ峠の戦い」の経過と結果から考えると、第5装甲軍の部隊だけで行うにはあまりにも遠大に過ぎ、フォン・アルニムの判断の方がより穏当だったのではないかと思います。ただしフォン・アルニムはロンメルに比べれば作戦構想が「保守的」(ミッチャム氏の表現)であったというのも、その通りだろうという印象ではあります。



 2月になってロンメル麾下の部隊がチュニジアに入ってくることになりましたが、それまでフォン・アルニムとロンメルは両者の行動を調整するために会うということをしておらず、ケッセルリングの強い希望で1943年2月9日にガベー(Gabès:チュニジア南部の海岸の港町)の空軍基地で両者の初会談が行われました。

 両者がその前に最後に会ったのはその18年前で、共に大尉でしたが、その時点でもお互いに好感を抱いていなかったといいます。フォン・アルニムは北ドイツの名門貴族の家系出身でしたが、ロンメルは南ドイツの教師の息子であり(しかもロンメルの生まれ育ったシュヴァーベン地方の人というのはドイツの中でも特異な、ケチで頑固な田舎者ということで今なお有名だそうです)、そしてロンメルは貴族階級を嫌っていました。(→ロンメルが参謀将校や貴族を軽蔑し嫌っていたことと、その背景について (2022/07/25)

 どうしてロンメルはその地位に執着したのであろうか。その理由のひとつに、彼がフォン・アルニムを非常に嫌っていたという事実がある。フォン・アルニムはすべての点においてロンメルと異なっていた。彼はシュレージエンの貴族で、将軍の息子であり、濃い口ひげをはやし、他から尊敬され、穏やかな口調で話すタイプの人物であった。
『狐の足跡』下 P83,4

 ロンメルが最後にアルニムと会ったのは18年前であった。そのときは両人とも陸軍大尉であった。彼はそのときアルニムが好きではなかったし、今では嫌っていた。
『狐の足跡』下 P85





 フォン・アルニムの側から見た場合、そもそも彼の周辺の生粋のプロイセン将校達はロンメルを、「職業的素養を欠いた成り上がり者にすぎないとみており、その賑々しい昇進ぶりはひとえにヒットラーの寵愛を得たことにより獲得できたのだと考えていた。」(『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P10)

 また、こういう事情もあったようです。

 ロンメルのドイツ=イタリア装甲軍がチュニジア南東部に到着すると、同軍と第5装甲軍の担当区域をどこで分けるかという問題が生じたが、第17装甲師団や第39装甲軍団を率いて東部戦線で数々の死闘をくぐり抜けた猛者のアルニムは、ヒトラーから直々にチュニジア防衛という任務を付与されたのは自分だという自負があり、たとえ階級が自分より上であっても【ロンメルが元帥でフォン・アルニムは上級大将】、ロンメルに対して譲歩する必要性を感じていなかった。
 そして、ドイツ本国から新たにチュニジアへと派遣された、アルニム麾下の装甲部隊指揮官の中には、エジプトからほうほうの体で逃げ帰ったロンメルを嘲笑する態度を示す者も存在したが、そうした話が間もなくロンメルの耳に入ったことで、ロンメルとアルニムの間には早くも指揮権をめぐる確執と、感情的な溝が形成されてしまった。
 そのため、2個装甲軍のさらに上位の司令部である南方総軍の司令官ケッセルリング空軍元帥は、なんとかこの二人の関係を取りなすよう努力を重ね、チュニジアに展開するドイツ軍部隊が分裂状態にならぬよう気を遣い続けなくてはならなかった。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P327



 この後のフォン・アルニムとロンメルの連携の取れなさについて、一般的にはフォン・アルニムの方に対する非難の方が強いようであり、恐らくはロンメル贔屓であろうミッチャム氏は「チュニジアの絶望的な状況にもかかわらず、アルニムはより有名なライバルと協力する気になれなかったのだ。この失敗は北アフリカでの枢軸軍の敗北に大きく寄与し、彼の軍事的名声に永久的な汚点を残すことになった。」と書いています(ただし、同記事の最後でミッチャム氏はフォン・アルニムを庇うようなことも書いています。後述)。




 ↓OCS『Tunisia II』のマップによる、この後出てくる関係地名。

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 この2月9日の会談については、資料によっていくらかの差異があるように感じられます(↓で1つ目の資料では「燃料がない」ことを、2つ目の資料では「兵力がない」ことをフォン・アルニムは理由としていたりとか。まあ、どっちもなのかもですし、あるいはそれらは単に言い訳に過ぎなかったのかもしれません)。

 ケッセルリングの計画はまさに、チュニジアにいるアメリカ軍を完全に壊滅させるというものであった。ロンメルが南のオアシスの町ガフサのアメリカ軍を攻撃し、機動部隊の大部分を率いるアルニムがスベイトラ【Sbeïtla:カセリーヌ峠の東】に同じことを行うことを提案したのである。山岳地帯を抜けたならばドイツ軍は北のボーヌ【Bône:チュニジア北岸】港に向かい、ロンメルの右翼への脅威を排除し、もしかしたらその北にいるアンダーソン【イギリス第1軍司令官】の後背を断つことすらできるかもしれない。ロンメルもアルニムもこの計画に熱心だったが、アルニムには重要な留保事項があった。ケッセルリングが想定しているような大規模な作戦を遂行するだけの十分な燃料がない、と言うのだ。重要なのは、フランス軍とアメリカ軍に大きな損害を与え、撤退させることだと彼【引用者注】は言った。彼は、自身の攻勢を12日に開始することを申し出た。ロンメルはその2日後に自陣での攻撃を開始すると約束したが、人差し指を立てて特徴的なジェスチャーをしながら、「重要なのは我々が得る土地ではなく、敵に与える損害だ」 と付け加えた。アルニムはこれに対して何も言わなかったが、これは含蓄のある沈黙であり、アルニムの保守的な性格がこの最初の時から現れていた。そしてロンメルではなくアルニムの方こそが、戦車の大部分を持ち、主たる任務を帯びていたのだ。ロンメルもケッセルリングも、アルニムの考え方や心中の留保がこの計画を脅かし、この2つの軍【第5装甲軍とドイツ・イタリア装甲軍】の作戦を危うくすることを(少なくとも当面は)理解していないようであった。
 次にケッセルリングは驚くべきことを言った。もしこの作戦が彼が思っていた通りに成功すれば、ロンメルをチュニジアの全軍の司令官にすることを約束する(彼はアルニムが、ライバルの離任を切望していることを知っていたのだが)。その後ケッセルリングが内緒でアルニムに話したのは、ロンメルの主治医であるホルスター教授に以前相談したところ、教授は元帥に対して2月20日にヨーロッパでの休養に出発するよう勧めていた、ということだった。「ロンメルがアフリカを離れる前に、最後の栄光のチャンスを与えよう」。ケッセルリングはアルニムにそう言った。
 「はい」。アルニムは笑顔で答えた。「栄光のラストチャンスだ……」と。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P344,5

(引用者注:ここの「彼(he)」がフォン・アルニムだとすると、後でロンメルが言ったこととまったく同じことを言っているので、文脈がおかしいような気がします。原文でこの「he」の前にある最も近い人名はケッセルリングなので、もしかしたらケッセルリングが言ったのかもと思い、GoogleBooksで検索などもしてみたのですが分かりませんでした。
 あと、ここらへんの逸話は『Kasserine: The Battlefield Slaughter of American Troops by Rommel's Afrika Korps』(Charles Whiting)という本から引かれたもののようで、同じ著者の『Disaster at Kasserine: Ike and the 1st (US) Army in North Africa 1943』P125にも載っているのをGoogleBooks上で発見しました。この本の他のページも眺めてみていると会話文があまりにも多くて違和感を感じます。もしかしたらこの会話文はこの著者の創作的なものである可能性もあるのではないかという気も……?

 2月9日、ケッセルリングは合意に達することを期待して、ガベーにおいてアルニムとロンメルに会談した。アルニムは在チュニジアのドイツ軍には、ロンメルの野心的な攻勢案に割く兵力の無いことを強調した。さらに限定的な攻勢を続けることにより、米軍を出血させ、英第1軍を脅かし続けることができると主張した。ケッセルリングとの議論の末、アンブローシオ【イタリア軍参謀総長】は2月11日に妥協案を差し出した。妥協案は、ロンメルの指揮する作戦のみに努力を傾注することをやめ、南北においてアルニムとロンメルが相互に補完する個別の作戦を実施するというものであった。アルニムはファイド峠の成功を、「フリューリングスヴィント (春風)」 作戦により、シジ・ブ・ジッド【Sidi Bou Zid:ファイド峠の西】へと打って出て米第1機甲師団のA戦闘団を殲滅することで拡大する。ロンメルはふたつ目の妨害攻撃となる「モルゲンルフト (朝のそよ風)」を発起して、96キロメートル南のガフサを奪取することで、マレト防衛線後背の憂いを断つというものであった。ロンメル軍は増援無しではこのような作戦を実施しえなかった。そこでアルニムの第5戦車軍は攻撃開始後、第21戦車師団をロンメル軍に戻し増援とすることとされた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P41




 フォン・アルニムがロンメルやケッセルリングの考える大規模な攻勢に乗り気でなかった理由については、このような記述を見つけてまして、個人的には結構フォン・アルニムの考え方に同情的になってしまったりするのですが……。

 フォン・アルニムとロンメルは、それぞれの立場について異なる見解を持っていた。フォン・アルニムは、橋頭堡を維持し、将来の作戦の拠点となる占領地を提供することが自分の任務であると考えた。その橋頭堡が破壊されるのを防ぐのが任務であり、そのために限定的な目標の攻勢を取ることで満足していた。ロンメルはより大胆な指揮官であった。階級的にはフォン・アルニムはロンメルより下ではあったが、自分の軍である第5装甲軍を率いているのであり、その権限と自分が指揮する装甲師団に対する支配権を失いたくないと考えたのだろう。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P30

 アルニムは、第5装甲軍には実質的な攻撃兵力が2個装甲師団(第10、第21)しかないことを鑑み、両師団で米軍の脆弱な箇所を突破した後、チュニス正面の英軍部隊に南から攻撃を仕掛け、チュニスに対する敵の圧力を排除するという比較的堅実な計画を構想していた。アルニムは、東部戦線での豊富な実戦経験から、敵の戦車部隊による機動的な反撃を警戒し、自軍の側面が脆弱となるような作戦は、最初からとるつもりがなかった。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P328




 いわゆる「カセリーヌ峠の戦い」の最中のロンメルとフォン・アルニムの齟齬については、『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』に結構書かれています。

 アルニムの副官であるハインツ・ツィーグラー将軍が、この【春風】作戦の指揮官であった。ツィーグラーは米軍の反攻を予期して、この【2月14日の】夜は部隊をシジ・ブ・ジッド近郊に止めることにした。ツィーグラーのこの細心な用心深さは、ロンメルの怒りに火を点けた。ロンメルはアルニムに電話を入れ、この成功を拡大するために今夜中にスベイトラに向けて進撃する旨、ツィーグラーを焚き付けるよう説得した。だが、アルニムはツィーグラーの慎重なやり方に同意しており、「クックックスアイ」作戦【フォン・アルニムが1月30日に発案していた、ピションから北西へ向かって向かって進撃する作戦案】の原案にある通り、ピションとさらに北へ向かう作戦とに備えて、兵力の温存を望んでいたのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P49

 【2月15日の】これほどの決定的な大勝にもかかわらず、ツィーグラーは勝利の拡大を図ろうとはしなかった。将軍はスベイトラへ向けて斥候隊を出し、米軍がもう一度反攻を実施するのか否かを探った。これを耳にしたロンメルは、せっかくの好機がみすみす失われていくことに激怒した。だがこの日、ケッセルリングは東プロイセンの総統大本営へと出頭していたので、仲介の労をとる人物がいなかった。アルニムは燃料の消耗を気にかけており、のちのフォンドゥーク【Fondouk:ピションの南】戦のために節約を図っていた。しかも当初の作戦目標であるA戦闘団の殲滅は達成されていたのである。
 ケッセルリングはアルニムの大勝利を2月16日になってようやく知った。ケッセルリングはイタリア軍最高司令部を経由して、アルニムに対しスベイトラを攻略するよう命じた。アルニムはなおも躊躇を続け、斥候隊に少数の戦車を付けて米軍が「カーンの十字路」【ファイドとスベイトラの間】と呼んでいた地点の近くにまで進ませるにとどまった。この逡巡により米軍は防備を固める時間を得ることができた。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P51,2

 16日の朝、アルニムは第21装甲師団の引き渡しを拒否した。ロンメルは第21装甲師団なしでガフサを占領したし、同師団はまだシディ・ブ・ジッド近辺で交戦中であるという理由であった。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P347

 米第1機甲師団のここ数日間【2月14~17日】の無様な戦いぶりを目にしても、アルニムには戦果拡張の意欲がわかなかった。2月17日の晩、将軍は攻撃軍の分割を決心し、第10戦車師団を北のフォンドゥークとピション峠へと向かわせ、第21戦車師団をスベイトラに残した。同晩のロンメルとの電話の中で、アルニムは燃料と軍需品の補給が思い通りにならないことを難じた。みすみす好機が放置されたことに怒ったロンメルは、2月18日、ケッセルリングに対して書簡を送り、アルニムの戦闘団を自分に引き渡してくれれば、カセリーヌ峠を進発して連合軍の主補給センターのある要衝テベサを攻略し、爾後はボネ【ママ。前出のチュニジア北岸のボーヌ港】の海岸まで達してみせると豪語した。ケッセルリングはアルニムよりもずっと、こうした大作戦に乗り気であったが、このような部隊と指揮権の大幅な組み替えを実施するには、その前にイタリア軍最高司令部となによりもムッソリーニとの会談の機会を持ち、正規の承認手続きを経ることでイタリアの面目を立ててやる必要があった。ロンメル案への認可が下りたという一報がチュニジアに届いたのは、18日から19日にかけての深夜のこととなり、こうした【ママ】また一日が無駄に費やされたのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P56

 枢軸軍高級司令部内の反目とコンセンサスの欠如により、スベイトラ陥落後、兵力は分散された状態にあった。【……】
 2月19日、ケッセルリングはアルニムにロンメル攻勢の支援を確約させるために、チュニジア入りした。驚いたことにアルニムは対案をもって迎えた。それは、ピション近郊の現在の陣地から第10戦車師団を出撃させて、チュニジアで全域攻勢を実施するというものであった。しかし、ケッセルリングはテベサ攻略をめざすロンメル案に同調的であり、またロンメルならば必ずこの大胆な作戦をやってのけてみせると確信していた。アルニムは「フリューリングスヴィント【春風】」作戦の完遂に確たる熱意を持っておらず、とりわけシジ・ブ・ジッド周辺から米軍を追い払ったあとはそれが顕著であった。ケッセルリングはロンメルが全権を掌中にし、テベサ攻略に邁進することを望んでいた。だが、ケッセルリングは訓令の中でそのことを明示していなかったので、ロンメルは、イタリア軍最高司令部がスビバ【Subiba:スベイトラの北】に向けて主攻勢を発起し、続いてル・ケフ【Le Kef:スビバの北】へ向かうことを望んでいると理解したままでいた。いずれへと攻勢目標が定められるにせよ、ロンメルはその暴露された左側面を、テベサを発した連合軍に衝かれることを防ぐために、カセリーヌ峠を抑えなければならなかったのである。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P57

 2月20日の午後、ケッセルリングはローマに戻る前にチュニスに立ち寄った。ケッセルリングはアルニムとの会見で怒りをあらわにし、アルニムが第10戦車師団の主力を手元に置いたままにしておくことで、命令を無視していると糾弾した。アルニムは当該部隊がなおも前線にあって戦場離脱が困難であると、やくたいも無い言い訳をした。しかもアルニムは、ロンメルがその軍による牽制攻撃が計画されているル・ケフではなく、テベサを狙っているのではないかという疑いを明言した。ケッセルリングはこの攻撃の必要を繰り返して説いた。ついにはアルニムも不承不承この案を受け入れたものの、攻撃開始を2月22日へと延期するとした。アルニムの反抗的態度に業を煮やしたケッセルリングはローマに戻ると、アルニムの第5戦車軍も含めた在チュニジア枢軸軍指揮の全権をロンメルに与えるよう上申した。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P62,3

 2月22日午後、ロンメルは今後の作戦計画に関し、決断を下さねばならなかった。カセリーヌ峠への攻撃は当初はうまく進んだものの、断固たる抵抗に直面し、頓挫する結果となった。【……】この数週間の戦闘における独伊軍の人的損失は比較的軽微であったものの、貴重な燃料と弾薬の消費は多かった。前線の戦車部隊用の燃料備蓄は航続距離250から300キロメートル分にまで落ち込み、弾薬備蓄も少なくなっており、マレト防御線を守る部隊の燃料備蓄はさらにこれを下回った。一連の攻勢作戦を前にしてアルニムが繰り返し主張したとおり、兵站能力こそが攻勢作戦に制約を課す基本的要素であった。【……】
 【……】ケッセルリングは未熟な米軍に対する戦術的勝利については満足していたが、その指揮下にある上級指揮官連中、なによりもアルニムの反抗的態度にいまもってなお腹を立てていた。ケッセルリングはイタリア軍最高司令部の承認を得て、枢軸軍の指揮機構の変革を処断した。在チュニジアの全枢軸軍はアフリカ軍集団の指揮下に置かれ、2月23日付でロンメルがその司令官となった。ケッセルリングはこれで上級指揮官の間に続いた反目と論争に終止符が打てるものと信じた。だがこの望みも長続きしなかった。ロンメルは病気療養のために、3月9日にチュニジアを離れることになったのである。
 アルニムが2月22日の実施を約束した、北部での攻勢が実現されることは無かった。英第5軍団がタラ【Thala:カセリーヌの北】へとあまりにも多くの部隊を派出していたので、アルニムは英軍防御が手薄となったこの機会を利用して、2月26日に攻撃をかけることを提案した【後述の「オクゼンコプフ(雄牛の頭)作戦」】。攻撃は急遽立案、実施されたが、英軍により手ひどくはねつけられた。ドイツ軍は戦闘と機械故障により戦車の大半を失ってしまった。
『カセリーヌ峠の戦い 1943:ロンメル最後の勝利』P69,70


 この「オクゼンコプフ作戦」について、別の本ではこう書かれていました。

 ところが翌日、ロンメルは正式にイタリア軍最高司令部よりアフリカ軍集団の司令官に任じられる。フォン・アルニムではなかったのだ。するとフォン・アルニムはすぐさま、自分がかつてやられたのと同じようにロンメルへの仕返しに出た。オクゼンコプフ(雄牛の頭)の意)という暗号名の由来となった動物なみの単純な作戦で、勝手に攻撃を開始したのだ。だがこれも、英米軍の決然たる防御の前に、あっさり攻撃停止に追い込まれた。
『パットン対ロンメル』P283




 ともあれ1943年3月9日、ロンメルの離任に伴ってフォン・アルニムは、アフリカ軍集団の司令官となりました。しかしその行く末は最初から絶望的でした。フォン・アルニムが持っていた兵力は12万でしたが、連合軍は25万以上を有していました。また必要な物資量は一カ月に14万トンでしたが1943年1月には4万6千トンしか到着せず、翌月には3万3千トンにまで落ち込んでいたのです。

 フォン・アルニムはアフリカ軍集団司令官となる2週間前にロンメルとメッセ(マレト防衛線方面のイタリア第1軍を指揮していたイタリア軍の名将)に状況報告を送っており、その中で「連合軍が攻撃しなくても、もし我々に補給が届かないなら、7月末までにチュニジアでのすべてが終わってしまうだろう」と書いていました。

 アルニムはチュニジアでの最後の戦いを、いつも通りの優れた戦術的手腕で指揮した。彼は、橋頭堡を可能な限り元の大きさのまま保持しようとした(それは北アフリカでの枢軸軍の崩壊を加速させる非現実的な決意であった)と非難されている。しかし、これはまったく事実とは異なる。この決定の責任は、ロンメルが言っていたように「バラ色のメガネですべてを見」ていたケッセルリングに主としてあるのだ。駐イタリアドイツ軍大使のフォン・リンテレン将軍も、ケッセルリングがチュニジアでの作戦について過度の楽観主義に陥り、判断を鈍らせたという意見を持っていた。一方アルニムは、連合軍の次の攻撃はマレト線の手前で停止していたモントゴメリーの第8軍が海岸沿いの平野で開始するであろうと正しく予見していた。それとほぼ同時に今や有能なジョージ・S・パットン中将に率いられるようになったアメリカ軍部隊が攻勢を開始し、アルニムの予備部隊を動けなくさせ、アフリカ軍集団を二つの塊に分断しようとするだろう。アルニムは北部の戦線を縮小すると同時に【メッセの指揮する】イタリア第1軍を海岸沿いに撤退させて橋頭堡の大きさを縮小することを望んでいたが、ケッセルリングがアルニムと激しく議論した後でもこれを許可しなかったのだ。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P349


 この状況について、ロンメルはこう書いています。

 戦略的な配置は絶望的だったから、ナポレオンといえども、なすすべはなかったであろう。楽観主義や無思慮なエネルギーなど、何の役にも立たないからだ。将兵は撃って、車行しなければならない。そのためには、弾薬とガソリンが必要なのだ。フォン・アルニムが置かれた状況は、とても羨むべきものではなかった。彼は、上層部の理性を取り戻すために、人間に可能なあらゆることを試みたが、それも無駄だったのだ。
『「砂漠の狐」回想録』P405

 その注にはこうありました。

 ロンメルは、第5装甲軍司令部宛の覚書で、その司令官のフォン・アルニム上級大将を批判したものの、彼を、人間、そして軍人として高く評価していた。ロンメルが解任されたのち、フォン・アルニム上級大将は、イタリア軍最高司令部ならびに総統大本営と争うだけの勇気を示した。そのことに、ロンメルは深い感銘を受けたのである。
『「砂漠の狐」回想録』P409



 ロンメルはフォン・アルニムの部隊の撤退を助けるべく、3月12日に「OKWもイタリア軍最高司令部も撤退を認めないだろうが、ヒトラーは自動車化部隊以外のイタリア軍部隊をマレト線の北のワジ・アカリト陣地に撤退させることは認めるだろう」と書き送ったそうです。フォン・アルニムは3月14日にそれらの部隊の撤退を命じましたが、2日後にそれを知ったアンブロジオ将軍は怒り心頭でこれを禁じます。しかしその直後の17日、アメリカ軍が攻勢を開始したのです。

 モントゴメリーも3月20日に攻勢を開始し、メッセは3月28日までにマレト防衛線の完全な撤退を余儀なくされます。一方フォン・アルニムは絶えず物資の補給を要求していました。29日、彼はイタリア軍最高司令部に、1日か2日分の弾薬しかなく、中型榴弾砲など特定の兵器の在庫ももうない。燃料の残りに関しても同様であり、大規模な移動はもはや不可能だ、と連絡しています。

 同日、ケッセルリングとアンブロジオは激しい議論を交わしました。アンブロジオは撤退許可に傾いていましたが、ケッセルリングは事前の退却承認がフォン・アルニムをして「退却志向」にさせるかもしれないという理由で反対しました。ムッソリーニがアンブロジオに同調し、アンブロジオはその命令をアフリカ軍集団司令部に伝達したので、ケッセルリングは自分の参謀長ジークフリート・ヴェストファルをチュニジアに派遣し、フォン・アルニム将軍にこの命令を「説明」させることにしました。

 このアルニムとヴェストファルとの会談は、何ら前向きの成果をもたらさなかった。アルニムは、ケッセルリングが提案した一連の反撃作戦を検討することを拒否した。ヴェストファルは率直に、アフリカ軍集団は常に「後方を振り返って、目を細めているのですよね」と言った。そうだ、その通りだ。彼らは到着しない補給船を待って地平線を見つめ続けているのだ、とアルニムは答えた。「以前のロンメルの軍と同様に、我々にはパンと弾薬がない。結果は必然的なものだ」。彼はこう言って会議を閉じた。その日のうちに、彼はシルヴィオ・ロッシ将軍(アンブロジオの作戦部長)に、ワジ・アカリト陣地がいつまで保持できるかを決めるのはイタリア第1軍ではなく敵であると、ありのままに報告した。彼は歯に衣着せずに、最高司令部は作戦を直接指揮しようとするよりも、北アフリカへの物資の輸送に専念するよう勧めた。翌日、彼は重要でない人員をすべて避難させるように命じた。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P350,351



 ワジ・アカリトへの連合軍の攻勢は4月5日に始まり、7日にはモントゴメリーとパットンは合流を果たします。フォン・アルニムは最終橋頭堡へ退却しました。4月13日にケッセルリングは、ヒトラーとムッソリーニからの、最後まで持ちこたえるようにという命令を伝達。また、援軍を約束しましたが、どのように送るか、いつ到着するか、どのように食糧を供給するかは明言しませんでした。

 4月22日、チュニジアの連合軍は最終攻勢を開始しました。アフリカ軍集団は激しい戦闘で燃料と弾薬をほとんど使い果たし、5月1日には砲弾は1発もなく、補給集積所は空っぽになっていました。補給担当官は、チュニジアで手に入った低級なワインや酒からなんとか燃料を抽出していたそうです。

 このとき彼が行った多くの人道的行為の一つは、枢軸国の航空機が戦闘任務に就くことを禁じ、そうしなければ消費するはずのガソリンを節約することであった。フォン・アルニムはその燃料を自分の軍集団の病人や負傷者の輸送に使ったのである。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P33



 またフォン・アルニムは何らかの口実(主として病気という理由)をつけて、マントイフェルや参謀長のガウゼなどの有能な人材を本国に送り返しました。一方で、チュニジアを離れる機会を与えられたにもかかわらず残ることを選択した者達もいました。第5装甲軍司令官フォン・フェールスト、第164軽師団長フォン・リーベンシュタイン、フォン・ブロイヒ男爵、第90軽師団長フォン・シュポネック、第15装甲師団長ボロヴィーツなど……。

 アルニムの長年の副官で、アルニムの一人娘エリザベートの婚約者であったハリー・フォン・カテン少佐は、最も厳しい強制的な命令でもって、渋々脱出を承諾した青年将校である。カテンは、1941年末にプファルツ地方のリーツに移住させたアルニムの妻と娘の世話をするためにドイツに戻るよう指示された。結局、カテンはほとんど体ひとつで飛行機に乗せなければならなかった。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P352



 5月6日朝、連合軍は最終攻勢の第二段階を開始しました。フォン・アルニムは抵抗を続けましたが、5月7日午後に重要な港を擁するチュニスとビゼルタの両方が陥落し、大量の兵士達の降伏が始まりました。第5装甲軍はこの日のうちに降伏します。


 ↓OCS『Tunisia II』のマップ上のチュニス、ビゼルタ、Ste Marie zu Zit(後述)の位置。

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 5月7日のこととして、このようなエピソードが伝えられています。

 チュニスのラ・グレット波止場に5月のはじめごろ、イタリアの補給艦〈ベルーノ〉が、700人のイギリス軍、アメリカ軍の捕虜を乗せて停泊していたところ、イギリスの爆撃機に襲われた。イタリアの乗員は退避し、港湾長ケラーは兵団司令部に電話して〈ベルーノ〉のために戦闘機を求めた。だが、友軍部隊を守るにもこと欠くというのに、連合軍捕虜を自国の爆撃機からまもってやる戦闘機などあるはずがない。ケラー大尉はポムトウ大佐に泣きついた。ポムトウはフォン・アルニムに残酷な情況を説明した。「アレクザンダーに連絡して、爆撃をやめさせるのだ」 フォン・アルニムは情報将校モル少佐に命じた。こうしてアフリカ兵団から平文の電文がチュニジア派遣イギリス軍総司令官でアイゼンハワーの代理アレクザンダー将軍にとどいた。「チュニス港の空襲を中止させられたし。被攻撃船中に英米軍捕虜700名あり」 アレクザンダーはすみやかに反応し、爆撃機は無線で呼び返された。
『砂漠のキツネ』P345



 5月9日、最後の3機のドイツ軍機がチュニジアに到着してドラム缶数本分の燃料と軽機関銃の弾薬を届け、負傷した兵士達を乗せて再び飛び立ちました。このドイツ軍機は、ヒトラーからの命令を置いていっていました。「アフリカ軍集団は最後の一発まで戦うべし」。フォン・アルニムは部隊に対し、「最後の一発」とは戦車攻撃の場合の最後の砲弾と解釈されるべきであり、それを撃った後武器を破壊し、各師団は敵に降伏すべし、と布告します。

 5月12日、Ste Marie zu Zitでフォン・アルニムはもはや無意味となったこの戦いを終わらせることを決意した。彼はイギリス軍司令部に使者を送り、その使者はイギリス第1軍司令官アンダーソン将軍の司令部に連行された。その使者の帰還を待つ間、ドイツ軍は残っていたロンメルの時期からの車両群を破壊する準備をし、ロンメルの最後の指揮戦車2輌はワジ(枯れ谷)に放り込まれた。フォン・アルニムは、ヒトラーからのドイツへの空輸の申し出を断っていた。何があろうと、自分が指揮する兵士達と運命を共にするつもりだったのだ。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P34



 5月12日、ついにフォン・アルニムはアフリカ軍集団司令部と共に捕虜となりました。彼は、部下と連絡が取れないという理由で、軍集団全体の代表としての降伏を拒否します。しかし翌13日の午後には残りのイタリア軍部隊等も降伏しました。その一時間後、連合軍の地中海方面軍司令官ハロルド・アレクサンダーはチャーチルに、チュニジアでのすべての戦闘行動が終わったことを知らせました。「我々が北アフリカ沿岸の支配者となったのです」と。

 【……】捕えられたフォン・アルニムを、アレグザンダーは迎えて - アイゼンハワーは会うのを拒んだ - たずねた。「閣下、ご希望がありますかな?」 アルニムには一つあった。「あのときの700名の埋めあわせをしていただきたい。わが軍の重傷者を700名、病院船でイタリアへはこんでいただければ幸いです」 アレクザンダー将軍は一瞬ためらったが、うなずいた。「承知しました」 そして実行した。
『砂漠のキツネ』P345




 捕虜になった後のことを、ミッチャム氏はこのように総括しています。

 フォン・アルニムは捕虜になった当時、西側の手にあるドイツ人捕虜で(ルドルフ・ヘスに次ぐ)第2位の高位の人物であった。彼は当初、大きな注目を浴びたが、すぐに歴史の表舞台から静かに消えていった。軍事史家達はこれまで、アルニムを厳しく批判してきた。1943年2月、特にカセリーヌにおいて、ロンメルがこの戦争で最も大胆な電撃作戦の一つをものにするチャンスを、アルニムが柔軟性に欠ける保守的な態度で台無しにしたのであり、この時の決定的な失敗の故に、チュニジアでの彼の指揮全体も失敗と判断されなければならないというのだ。しかし、歴史家は概してアルニムに対して厳しすぎるというのが、少なくとも筆者の見解である。確かに彼はロンメルではなかったが、多くの優れた将軍はロンメルほどの才能は無くても、アルニムほど厳しく扱われてはいないではないか。彼は戦略レベルでは確かに失敗したが、戦史上の記録は彼が優れた軍事指揮官であったことを証明している。実際、人間としての彼は失敗したわけではなかった。プロイセン最後の騎士の一人として期待されるような高潔な人格でもって彼は戦争を戦ったのであり、後に戦争犯罪で裁判にかけられたような多くの親ナチ派の将軍達とは異なっていた。この事実認識により、イギリスは彼を「ハンプシャーの美しい邸宅」に捕虜として収容した。1943年10月5日、彼の一人娘がプファルツ地方のグロッセ・リエッツの別荘でフォン・カテン少佐と結婚した時、イギリスはこの捕虜に、無線でお祝いのメッセージを送ることを許したのである。
『Hitler's Generals』(C.Barnett)P353



 捕虜収容所に関してですが、↑では「ハンプシャーの美しい邸宅」となっていますが、実際には(あるいは時期的にずれて?)盗聴器が仕掛けられていた「トレント・パーク収容所」にフォン・アルニムは入れられて、そこで、継戦派のクリューヴェル将軍に担ぎ上げられ、非継戦(敗北主義)派のフォン・トーマ将軍一派に対抗させられることになったことが、大木毅氏の『収容所のなかの戦争』という記事に書かれています(恐らく『ドイツ軍事史――その虚像と実像』に収録されています)。その中から特にフォン・アルニムに関する部分のみを抜粋してみます。



 かかる対立に際し、クリューヴェルは、「敗北主義」を押しとどめ、トーマ派の勢力を削ぐために、捕虜中、もっとも階級が上の、アフリカ軍集団総司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将をかつぎだした。アルニムも、それを受けて、1943年7月9日、捕虜たちに演説する。収容所内にあっても団結を維持し、他の戦友たちを困らせるような、悲観的な主張は控えよと要求したのだ。
 しかし、アルニムの演説は逆効果だった。トーマ派の多くは、かえってナチスに批判的な書物をおおっぴらに読むようになったし、BBC放送【イギリスの公共放送】を聴くなというクリューヴェル派の意見にも耳を貸さなかった。【……】こうした事態を打破しようと、アルニムは、8月15日と16日の二度にわたり、敗北主義的な話をするのは止めよと要求したが無駄であった。
 結局のところ、アルニムは、たしかに捕虜のなかで、最上級者ではあったけれども、おおかたの戦友たちから、チュニジアの敗戦の責任者とみなされており、作戦的な能力についても、腕のよい師団長程度と判断されていたのだ。なれど、しだいに多数派になりつつあったトーマ派が指示に従わないのをみたアルニムは、自らラジオをいじり、BBC放送からドイツの放送に周波数を合わせようとして阻止されるという小事件を起こし、孤立することになる。以後、捕虜に許された運動である屋外散歩の際、アルニムに同行しようというものはおらず、やむなくクリューヴェルは、自派のものに命じて、お供をさせる始末だった。やがて、アルニムは、ほとんどの時間を自室で過ごすようになり、将校食堂で食事をするのもまれになっていく。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P31



 捕虜としてイギリスで過ごした後、アメリカに送られたらしいですが、アメリカでは仲間が看守からひどい扱いを受けないように介入したそうです。その後、捕虜としてドイツでも過ごし、計4年の捕虜生活の後釈放されました。東ドイツにあった領地や資産はソ連に没収されていたので西ドイツで新しい家を建て、年金を支給されて過ごします。1962年に老人ホームで73歳の生涯を閉じました。

 ヴェストファル将軍は告別の辞でこう述べたそうです。「ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム将軍は、軍の上級将校としてあるべき姿を体現していました。すなわち、人間であり、人格者であり、そして紳士だったのです。



 ただし、一応見つけていた、フォン・アルニムの人物像に対する批判的な見方も紹介しておかねばならないと思います。『The Battle for North Africa 1940-43』という本を書いた元イギリス軍将校であったSir W. G. F. Jacksonという人はフォン・アルニムについて「気難しく、協調性がなく、笑顔のない、気難しい、秘密主義的な人物」(Jackson, 324, 333)と書いていたそうです(『The Biographical Dictionary of World War II』P14の引用文から)。




 また、パウル・カレルはこのように記しています。

 プロイセンの軍人フォン・アルニム - 《古いタイプの最後の軍人の一人》とポムトウ大佐が私【パウル・カレル】に語ってくれたが - は、みごとにその責をはたした。深慮と、勇気と、味方にも敵にも忘れられない人間性とをもって。
『砂漠のキツネ』P345





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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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