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OCS『Beyond the Rhine』のセットアップ時の注意点

 OCS『Beyond the Rhine』キャンペーンをソロプレイしてみようと思いまして、セットアップを完了しました。


 自由配置ユニットはまだばらけさせていませんで、スタックの上にダイスを置いて「何ヘクス以内」かを表示させています。
 

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 他のOCSゲームの各シナリオと比べると、かなりスカスカであるのが分かると思います。

 最後の画像は、右上がデッドパイル、左上は「ラインの守り作戦ボックス」で、この中にユニットなどを貯めていって、いきなり登場させて「最後の電撃戦」を行うことができます。右下は緊急事態の時に出せるユニットです。





 今回セットアップしていて、いくつかの「注意点」に気付いたので、書いておこうと思います。


・『Beyond the Rhine』のドイツ陸軍の歩兵師団には、同じ名称で額面値の異なる2つのユニットが存在するものがかなりありました

 具体的には以下の番号の歩兵師団です。

 59,159,176,180,189,190,245,346

 これらは、「16戦力」のユニットと、それ未満のユニットが存在しています。キャンペーンのセットアップだと、未満のユニットが使用されることが多かったです。気を付けた方がいいと思います(前回キャンペーンをプレイした時はこの件に気付いておらず、間違ってセットアップしていたものがあったのだと思います)。


・セットアップや増援登場表は、ゲーム同梱のものに大量のエラッタが出ているので、The OCS Depotにある最新のルールブックとブックレットを印刷して使用するべきです。

・ドイツ軍のセットアップ情報に「PzGr」とあるのは「装甲擲弾兵(パンツァーグレナディア)」で、多くのOCSゲームではこの名称だと「兵科マークは赤色で○と×が組み合わされたもの」ですが、『Beyond the Rhine』においては「自動車化歩兵の兵科マーク」でした。これは、この時代にはもはや「現実には自動車化歩兵部隊に過ぎないものが、名称としては装甲擲弾兵と呼ばれていた」ということでしょうか?(なんかそんな話があったような気がします)

・ドイツ軍のセットアップ情報に「Alarm Flak Bn」とあるのは、ユニットには「Alarm」ではなく「Alert」と書かれています。

<2022/09/30追記>

 『Beyond the Rhine』の英文ルールブック1.1では、イベントの発生の仕方が変更されていました。1.1での手順はこうなります。

1.まず、「高頻度イベント表」(サンセット和訳P63)のイベントを発生させます。

2.次に、以前と同じように「コモンイベント表」をチェックします。ここでイベントが条件を満たしていなかったために発生しなかった場合には、再度「高頻度イベント表」のイベントをチェックして発生させます。

<追記ここまで>




 また、最新エラッタを参照してみたところ、以前和訳していた時よりもバージョンが新しくなっていました。ただ、ちょっとチェックしてみたところ、今回キャンペーンをソロプレイしてみる上では何かを新しく訳出する必要はないのかな、と思いましたが、どうなんでしょう(今後またプレイしてみるうちにチェックして、何か訳出する必要に気付くかもですが)。

OCS『Beyond the Rhine』の最新エラッタを和訳してみました (2021/01/20)



 ルール部分に関してサンセット和訳に対して必要なエラッタ和訳は「ルール」と「明確化」のみかな、と思ったので、とりあえずその2つをA4用紙に印刷できるpdfデータを作って印刷してみました。

OCS『Beyond the Rhine』エラッタ和訳(抜粋).pdf




 今後、自由配置のもののセットアップを考え、ルールを読まなければなりません(さすがにほとんど忘れてしまっていますので(^_^;)。前回少しプレイした時の反省点を活かして、その時よりはかなりマシなプレイにできればと思います。

 ↓前回のプレイ時のブログ記事。

6.1 キャンペーンゲーム





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OCSの活動状態の航空ユニットのスタック制限は「常に」守らなければならない

 先日のOCS『Sicily II』のプレイ中に、活動状態の航空ユニットのスタック制限は「常に」守るべきなのか、それとも陸上ユニットと同様に「セグメントあるいはフェイズの終了時に」守るべきなのか、という疑問が提出されまして、facebookで質問してみました。


 関係項目は以下のようになります。

4.8a スタックオーバーとは、いずれかのセグメントあるいはフェイズの終了時に10RE を越える戦闘ユニットが1つのヘクスにいることを指します。1つだけ例外があり、増援フェイズには適用されません(13.6 参照)。スタック制限を超過していた場合、超過した分のユニットを、その所有プレイヤーが選んで除去しなければなりません。
 ユニットはオーバーラン時を除き、移動中は一時的にスタック制限を超過できます。オーバーランを行うユニットは、他の自軍ユニットも合わせて1つのヘクスで10REの制限を越えることはできません。

14.2a 航空ユニットのスタック制限 スタック制限に関してそれぞれの航空ユニットを1個と数えます(減少戦力面でも、完全戦力面でも)。最大で4個までの活動状態の航空ユニットが一緒に1つの航空任務を行えます。自軍航空基地では、4プラス基地レベルまでの活動状態の航空ユニットがスタックできます(つまり、レベル3航空基地では、最大7個までの活動状態の航空ユニットがスタックできます)。航空基地に置くことのできる非活動状態の航空ユニットの数に制限はありません。




 質問にはPerry Andrus氏(OCSの最ベテランテストプレイヤー)が答えて下さいまして、「航空ユニットのスタック制限は「常に」守らなければならない。」ということでした。14.2aの原文には「at one time」という文があり、この文によりそう解釈され得るのかもしれません。




 スタック制限に関して他に間違えやすいものとしては、「1つの師団は3REとして数えるのか?」という話があります。

10.0a 砲爆撃結果表  1つの師団は(複数ユニットフォーメーションでも)、密集度の判定においては最大でも3REであるとして数えます(3RE未満ならば実際のREを数えます)。


 この規定は「密集度修正においては」ということであって、スタック制限のREを数える場合には師団であっても普通にユニットの規模を数えなければなりません。

OCSにおけるカーチスP-36とP-40について

 先日、「P-39 エアラコブラ」についてブログに書いてましたが、続けてP-40について調べてみました。



 P-40の元になったのが「カーチス P-36 ホーク」だそうで、違いはエンジンだけだとか。

 P-36 ホークは全金属製引き込み脚でしたが高性能ではなかったそうです。しかし操縦性に優れ、頑丈な作りであったために海外から注目を集め、特に戦闘機が手薄だったフランス軍が発注して導入しました。その際にカーチス社は「ホーク75」(75というのは社内名称がモデル75であったため)という名で売り込んだそうです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍のホーク75ユニット。

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 ホーク75は、ポーランド戦が始まったばかりの1939年9月8日(英仏は9月3日にドイツに宣戦布告していました)にBf-109の編隊と遭遇戦を行い、2機を撃墜したそうです。




 アメリカ陸軍は戦争が近づく中、1939年1月に次期戦闘機の採用審査を行いましたが、この時大量発注を獲得したのが、P-36のエンジンをアリソンエンジンに換装しただけのP-40でした。

 その理由は高性能のためというわけではなく、機体がP-36そのままだったため、最も安価であり、ただちに量産、就役が可能という点にあった。これは陸軍が当時、いかに近代的戦闘機の取得を急いでいたかを示すものだが、もちろんP-40に満足していたわけではなく、XP-38、XP-39、XP-43(後にP-47に発展)にも増加試作型を13機ずつ製作するよう発注を行っていた。
『第二次大戦 世界の戦闘機』P93

 性能こそ凡庸だが、安価で作り易いため、常に大量に供給ができて、乗り易く丈夫で壊れにくいというP-40ならではの特質がなければ、【連合軍は】とうてい持ち応え【ママ】られなかっただろう。
 【……】P-40のニックネームだが、米陸軍ではウォーホーク、英空軍ではトマホーク(P-40Cまで)、キティホーク(P-40D以降)と呼ばれていた。
『第二次大戦 世界の戦闘機』P96


 愛称について、日本語版Wikipedia「P-40 (航空機)」では、↓のように書かれていました。

 アメリカでの愛称は、A型からC型までは「トマホーク (Tomahawk:インディアンが用いた斧)」、D型とE型は「キティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所)」、F型以降は「ウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指すスラング)」であるが、イギリスではF型以降もキティホークと呼ばれた。






 以下、P-40の方についてOCSのユニットを見ていこうと思いますが、まずはOCSルソンから。


 ↓OCSルソンのアメリカ軍のMixFユニット(テストプレイ用に作ったもののデータ)。

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 「MixF」というのは「複数の戦闘機機種の混合」という意味でして、このユニットは具体的にはP-40とP-35(後にP-47を作る会社のものですが、P-35はこの時期には完全に旧式化していたそうです)の混合です(グラフィック自体はP-40のもの)。というのは、リサーチした時にP-40とP-35が当時フィリピンにあったことは分かったのですが、OCSでユニット化するには1機種で約45機存在していたことが必要なわけですが、そもそもそれぞれの機種でそれほどの機体数がなく、両機種を合わせてようやく約45機に達する数だったためです。

 しかも、開戦劈頭の日本海軍機による航空殲滅戦でこのP-40とP-35はかなり地上等で破壊されたため、OCSルソンのセットアップ時にこのユニットはステップロスした状態(1-0)で配置されます(日本陸軍側は九七式戦闘機(2-0)ユニット1個が完全戦力面で出てくるためやや優勢ですが、ダイス目によってはこのMixFユニットに壊滅させられることもあるかもしれません)。



 次に、今デザイン中のOCS『South Burma』(仮)に、P-40を使用していた「フライング・タイガース」が出てこなければならないようです(今まで全然認識していなかったのですが、今回認識しました(^_^;)。

 【……】P-40は、零戦に対しては防弾装備や防漏タンク、それに機体の頑丈さなどを除けばほとんど良い所がない戦闘機だったが、このP-40を使用しながら日本軍相手に善戦した部隊があった。それがクレア・L・シェンノートが率いたAVG(アメリカ義勇航空群)通称「フライングタイガース」であった。
 シェンノートは米陸軍きっての航空戦理論家だったが、その理論が陸軍上層部に受け入れられなかった事と健康上の理由から退役していたのを、1937年に蒋介石夫人に請われて中国空軍の調査のため中国入りし、そのまま蒋介石の軍事顧問として中国に居残った人物だ。
 【……】
 3年以上も前から日本機の空戦能力の高さをじっくりと観察していたシェンノートは、AVGのメンバーに対し、日本機とは絶対に格闘戦と行わない事、2機ペアの一撃離脱戦法に徹する事、そして日本機の弱点である燃料タンクに射撃を集中する事などを徹底的に教え込んだ。
 【……】AVGのP-40Cはビルマが日本軍に占領されるまでその後も防空戦闘と対地攻撃の両作戦で日本軍を悩ませ続けた。
 日本側は旧式の九七戦が主力だったためP-40に対抗できず、一式戦「隼」一型を装備した飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊として有名)を派遣した。フライングタイガースはこの64戦隊に対しても善戦を記録しており、これまで連戦連勝を続けてきた同隊に手痛い損害を与えているのだ。

『第二次大戦 世界の戦闘機』P94,5



 普段一緒にOCSをプレイさせてもらっている富山のKさんに聞いたところによりますと、P-40は当初パイロットの練度もそれほどでなかったためうまく戦えなかったものの、戦術や練度が向上してくると(P-40自体の性能向上もあり)結構活躍できるようになったのだ、とのことでした。




 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍のP-40(キティホーク)ユニット。

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 「3-3」という性能は凡庸ではありますが、無視できない数値ではあり、ユニット数の多さも相まってやはり結構重要な存在だと思います。



 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のソ連軍のP-40ユニット。

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 ↓OCS『Case Blue』のソ連軍のP-40ユニット。

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 ↓OCS『Tunisia II』のイギリス軍とアメリカ軍のP-40ユニット。

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 「キティホークⅡ」というユニットが登場しており、空戦力が1上がっています。


 ↓OCS『Sicily II』のアメリカ軍とイギリス軍のP-40ユニット。

unit8783(Sicily-P-40).jpg

 こちらはすべてのユニットが「4-3」という数値になっています。



 ↓OCS『Burma II』のアメリカ軍のP-40ユニット。

unit8782(Burma-P-40N).jpg

 「P-40N」という名称になっており、「4-2」という数値です。


 このP-40Nについてはこう書かれていました。

 装備の追加による重量増加で低下してきた性能を挽回するため、K型、L型、M型と軽量型が作られてきたが、その決定版となるのがこのN型。軽量な機体にアリソンシリーズでも強力なエンジンを搭載したので、高度3200mで最大速度608km/hに達した。P-40シリーズでも最も多く生産されたタイプで全生産数の4割(5219機)を占めている
『第二次大戦 世界の戦闘機』P96




 OCSの多くのゲームでは空戦力が4あればほぼ一線級と言えるので、連合軍プレイヤーにとっては頼りにできますし、枢軸軍プレイヤーにとってはなかなかにイヤな存在であります。


OCS『Sicily II』の後方への上陸が結構やばい?

 ツイッターで書いてましたように、OCS『Sicily II』のキャンペーン終盤で枢軸軍の後方へアメリカ軍が上陸してきたため、補給切れで損耗チェックを強いられて大量のユニットを失ってしまいました(T_T)







 後方へ上陸された当初は、「(OCSではいつもそうであるように)後方守備隊をちゃんと置いておくべきだったなぁ!」と反省したものの、それほど深刻には考えていませんでした。

 ところが、状況をより詳しくチェックすると、かなり深刻であることが分かってきました。


 OCSで後方連絡線を断たれてしまった場合、「補給チェック」が入る前の移動フェイズ中にオーバーランで敵ユニットを飛ばしてしまうのがセオリーです。ところが、今回連合軍ユニットが入り込んだヘクスが、というかシチリア島北東部の海岸線自体が、オーバーランが不可能な地形だらけなのです。


unit8776.jpg

 ↑の画像で赤い○が今回連合軍ユニットが入り込んで居座ったヘクスです。OCSのオーバーランは橋や道路を使用できず、「川越えでは装軌と自動車化はオーバーランできない」のはいつものことなのですが、今回ヘクスが「山地(装軌と自動車化は進入不可、徒歩は全移動力でのみ進入可能)」であるため、川がなくても装軌・自動車化はおろか徒歩ユニットでも絶対的にオーバーラン不可能。また、居座っているヘクス自体が山地でない場合でも、直前のヘクスが山地であるならば装軌と自動車化のユニットはオーバーランできません。

 オーバーランできない可能性が非常に高いため、連合軍側は「後方に第n次上陸をやりまくれば良いのではないか」とさえ思いました(>_<)


 枢軸軍側としては、後方にかなり守備隊(特に沿岸防衛ユニット)を置いておくこと、それに、「入られてはイヤなヘクス自体にユニットを置いておく」ことが必要なのではないかと思われました(航空基地なんかが占領されると、空輸で補給を入れられてしまいます)。



 それから今回、「連合軍のLanding Craft(上陸用舟艇)を爆撃していくべきなのではないか」という話が出まして、色々検討してみました。ルール的には↓のようです(OCS『Sicily II』「ハスキー作戦」シナリオの連合軍用サマリーを作ってみました (2021/09/26)にも追記してます)。

・枢軸軍側は、連合軍のLanding Craftを爆撃していくという選択肢もあるかもしれない。前項のヒップシュートの機会を除けば、チャンスは移動フェイズ中の砲爆撃フェイズと、突破フェイズ中の砲爆撃フェイズ、リアクションフェイズ中の砲爆撃フェイズの3回で、その3回で砲爆撃結果表上でステップロスの結果を出す、あるいは複数以上のDGの結果を出さなければLanding Craftが沈むことはない(敵クリーンアップフェイズにDGは消える。ダブルターンならチャンスは6回)。そのスタックにもし駆逐艦などがいたら、対空射撃を受ける。対空射撃を生き延びたら、Landing Craft全体を対象として10ヘクス以内の修正以外の修正なしの砲爆撃を行う(海上ユニットへの砲爆撃なので砲爆撃力は倍になる)。DGの結果はそのスタックのLanding Craft全体に及ぶ(Landing Craftの性能には何ら変化は生じない)。DGが2個目になったら、Landing Craftの1ポイントが沈み、DGマーカーは取り除く。損害を食らう1ポイントはランダムに選ばれる(積み荷がどう積まれているかを明らかにしておくこと)。連合軍側はLanding CraftがDGになった場合、リアクションフェイズなどに10移動力でNRP(艦船解放ポイント)まで移動して船上部隊ボックスに入ってしまえば、それ以上砲爆撃されなくなる。



 枢軸軍側としては、Landing Craftが、

・NRPから11ヘクス以上離れている。
・連合軍航空ユニットの警戒空域内にいない。
 (英連邦軍は空母を持っているので、そちらも注意)
・駆逐艦や巡洋艦とスタックしていない。
 (ただし一番上の艦船ユニットしか明らかにしなくて良いので、スタックの下にそれらが隠れている可能性も。また、海岸ヘクスに艦船ヘクスがいる場合、陸上ユニットの下に隠れておくことができることに注意)

 などの条件のいくつかを満たしているならば、嫌がらせ、警告、あるいは実利の点でも、Landing Craftへの航空爆撃をやっていくべきなのではないかと思いました(艦船のスタックに砲爆撃を実行すると、やられた側はすべての艦船ユニットを並べて相手に見せなければなりません。ただし積み荷はまったく見せなくて構いません)。逆にそれをやらないならば、連合軍側は相当自由に第n次上陸ができるということになってしまうように思います。


 艦船への航空爆機は、雷撃機でなく普通の爆撃機や戦闘爆撃機でも全然できますし、観測ユニットなども必要ありません。ただし、ドイツ軍機とイタリア軍機が共同で爆撃任務をすることはできません。


OCSにおけるベルP-39 エアラコブラについて(OCS『Guderian's Blitzkrieg II』『Case Blue』)

 最新号の『歴史群像』の連載記事「蒼空の記憶」が、今回「P-39 エアラコブラ」でした(「エアコブラ」かと思ってました。日本軍の一部はそう呼んでいたそうですが)。





 私はアメリカ陸軍の戦闘機について、「P-38 ライトニング」「P-51 ムスタング」「P-47 サンダーボルト」あたりは一応区別ができているのですが、P-39とかP-40は、あるいはP-36とかP-35とかも含めて何が何だか分かってませんでした(^_^;


 しかし今回の記事で、P-39 エアラコブラは「エンジンを胴体中央(操縦席の後ろ)に置いて、空いたスペースの機首には37mm砲という大口径砲を置く」というアイデアで作られていたということで「すげぇなぁ!」と思いました。ただし、最初は付けられていた排気タービン過給器(ターボ)を外すように指示されたことで性能が落ち、日本軍機のカモになってその形から「鰹節」と嘲られたそうです(日本軍にとっては幸い……)。

 「蒼空の記憶」はエピソード的な話が頭に入ってきやすい面白さと割合で書かれていて、他の手持ちの資料本だと説明が短すぎるとか長すぎるとかするのですが、ちょうどいい分量で良いです(^^)


 で、OCS上でユニットを探してみました。米英軍では全然評価されなかったそうで、既存のOCSゲームには出てきてませんでしたが、ソ連軍にレンドリースされてそちらでは重宝されたそうで、ソ連軍機としてユニット化されていました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のP-39ユニット。

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 ↓OCS『Case Blue』のP-39ユニット。

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 『Case Blue』のものは色がオレンジ色になって、「親衛」となっており、ユニットの評価も上がっています。


 ソ連軍によるP-39の活用については、例えばこのように書かれていました。

 37ミリ砲は対戦車攻撃に適していたからその任務に多用されたのはもちろん、ソ連パイロットは空対空戦闘にも本機を大いに活用した。落とされた機体も多かったのは確かだが、ソ連エース2位ポクルイシキン(59機撃墜)、同3位レチカロフ(58機撃墜)といった猛者たちが、その戦果の大半をP-39で記録している。
『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』P156

 イギリスで失格の烙印を押されたエアラコブラは、約200機がソ連に送られた。またこれとは別にアメリカからも対ソ援助機として大量のP-39各型がソ連に送られ、総計4924機が送られた(うち137機が事故で喪失)。P-39の総生産数は9529機だから実に半数以上がソ連に渡った計算となる。
 失格戦闘機を大量に受け取ったソ連もありがた迷惑だったかというとさにあらずで、ソ連空軍ではけっこう重宝したのである。第一にロシア戦線では高々度の空戦はほとんどなく、対地支援が空軍の主任務だったから、低高度での運動性が良くて、しかも大口径砲を搭載するエアラコブラは水を得た魚のように活躍できたのである。
 ソ連空軍ではP-39を対地攻撃機とし活用しただけでなく、空戦においてもその性質を生かしてドイツ空軍に立ち向かっており、AI.ポクリュシュキン、GA.レチカロフ、PI.チェピノーガといったエアラコブラエースを多数輩出した。

『第二次大戦 世界の戦闘機』P91







 ただ、5000機近くも送られた割にはOCSでユニットになっている数が少ないような気はします(OCSの航空ユニットは約45機で1ユニット(2ステップ)となっています)。

 これは北アフリカ戦線においても同様かもしれず、OCS『DAK-II』ではP-39がまったくユニット化されていないようなのですが、このような記述があります。

 結局P-39は37ミリ砲を生かした対地・対艦船攻撃に転用され、その点は地中海戦線に派遣されたP-39部隊も同様だった。
『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』P156

 【エル・アラメインにおいて、枢軸軍にとって】とくに悪影響が目立ったのは、アメリカ製の新型戦闘爆撃機「エアコブラ【ママ】」だった。一例をあげれば、戦闘梯隊が持っていた鹵獲戦車がすべて、エアコブラ【ママ】によって撃滅されてしまったぐらいだ。
『「砂漠の狐」回想録』P279


(後者の本はロンメルによる回想録なので、ロンメル自身が「エアコブラ」と書いていて、大木毅氏が翻訳する際にその記述を尊重したのかもしれません。)




 一つの解釈として、OCSは航空機による対地支援の再現を重視していない(スケール上できない?)のかも……。それでP-39のユニット化が削られたり、見送られたとか。あるいは、以前はOCSには補給集積所に対する爆撃というルールが入っていたそうなんですが、それがバージョンアップで削られたりということもあります。

 ただし最近では『Hungarian Rhapsody』や『The Third Winter』では両翼に37mm砲を装備したスツーカによる戦車破壊のルールが入ってきましたが、それはそこらへんが無視できないほど強力だった(でもP-39のそれはギリギリ無視できる程度だった)とか……。


最後の第15装甲師団長としてカセリーヌ峠の戦いなどで活躍したボロヴィーツ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、最後の第15装甲師団長としてカセリーヌ峠の戦いなどで活躍したボロヴィーツ将軍についてです。


 写真は、↓ですとか。

Willibald Borowietz




 ヴィリバルト・ボロヴィーツは1914年に士官候補生として入隊し、西部戦線で従軍しました。戦後の軍には残れず、警察に入ります。

 1935年に再び軍に入り、1937年には装甲部隊部門に転属します。彼の妻はユダヤ人で、夫と3人の子供を「非ユダヤ化(アーリア人化)」するために1938年に自殺したそうです。

 ポーランド戦では第4軽師団隷下の第50対戦車大隊の指揮を執りました。第4軽師団は第9装甲師団に改編され、ボロヴィーツは引き続き第50対戦車大隊を指揮してオランダとフランスで戦いました(同大隊はOCS『The Blitzkrieg Legend』ではユニット化されていないようです)。

 さらにボロヴィーツはユーゴスラヴィアへの侵攻作戦で活躍し、1941年4月12日に戦場での優れた功績により陸軍総司令官表彰状を授与され、ドイツ国防軍の報告書にその名が記されました。

「4月6日と7日のウスキュブでの装甲師団の進撃の際、狙撃兵旅団長のアペル大佐と装甲猟兵部隊のボロヴィーツ中佐の活躍が際立っていた。」



 ボロヴィーツは1941年6月1日に第9装甲師団隷下の第10狙撃兵連隊長に任命され、ウーマニ、キエフ、ブリャンスク包囲戦、モスクワへの進撃で活躍します。1941年夏には彼の所属する旅団(第10狙撃兵連隊と第11狙撃兵連隊+αだと思われます)は一度の戦闘で敵の戦車92輌、砲12門、高射砲12門を破壊したそうです。この功績によりボロヴィーツは7月24日に騎士鉄十字章を授与されました。(またこの時期、前回扱ったテオドール・フォン・シュポネックが第11狙撃兵連隊長だったわけですね)


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第9装甲師団ユニット。

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 1942年に入るとヴォロネスク、オリョル、オルシャ、ルジェフ突出部などで戦います。1942年10月5日に指揮権を放棄し、いったん総統予備に編入されました(理由は書かれていませんが、休暇であったというのがありそうな事に思えます)。


 1942年11月に第10装甲師団に転属し、同師団隷下の第10装甲擲弾兵旅団長に任命されます。同旅団はイタリアに駐留しており、連合軍のトーチ作戦(1942年11月8日)で風雲急を告げるチュニジアに向けて出発することになっていました。ところが、エル・アラメインで戦っていた第15装甲師団長のフォン・フェールストが離任したため、ボロヴィーツは同月中に第15装甲師団長に就任します。
(この辺り、細かい日付やフォン・フェールストの離任の理由等が資料間で色々食い違いがあってどうにもならないので、↑の文はどの資料でもおかしくない範囲で記述したものになってます)

 ボロヴィーツはエル・アラメインからの第15装甲師団の退却を指揮し、チュニジアで戦い、同師団の最後の師団長となりました。1943年2月のカセリーヌ峠の戦いで活躍し、3月10日に騎士鉄十字章に柏葉を付与されています。チュニジアでの戦いについて、ドイツ国防軍はこのような報告文を出していたそうです。

「アフリカ戦域では、伯爵シュポネック中将が率いるアフリカ軽師団と、ボロヴィーツ少将が率いる第15装甲師団が特に際立っている。」



 ↓OCS『Tunisia II』の第15装甲師団ユニット。

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 チュニジアの枢軸軍が降伏してボロヴィーツはアメリカ軍の捕虜になり、ミシシッピ州の捕虜収容所に送られましたが、ドイツが降伏した後の1945年7月1日に浴槽で感電死して自殺したそうです。

第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍についてです。



 カール・アントン・テオドール・フォン・シュポネック伯爵はバーデンの古い貴族の家に生まれました。1912年に士官学校に入り、第一次世界大戦では西部戦線と東部戦線で戦い、二級と一級の鉄十字章を受勲します。

 戦後も軍に加わり、最初のオートバイ中隊の指揮官の一人となり、後にヨーロッパ全土で使用されるようになったドイツ軍のオートバイ用コートを開発したそうです。優秀であったため参謀将校のコースも受けることになり、ポーランド戦が始まった時にはホート将軍の第15自動車化軍団の作戦参謀を務めていました。

 フランス戦時には第9装甲師団隷下の第11狙撃兵連隊を指揮し、オランダ、ベルギー、フランスを進撃します。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第9装甲師団ユニット。

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 その後、バルカン半島の制圧に参加し、7月にはロシアに入ってウーマニ、キエフ、ブリャンスクの包囲戦で大きな役割を果たします。対ソ戦での功績により1941年9月12日に騎士鉄十字章を授与されましたが、11月1日にクルスクへの攻撃中、膝を負傷して数か月の回復期休暇を余儀なくされます。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第9装甲師団ユニット。

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 1942年9月にフォン・シュポネックは北アフリカに赴任し、負傷したウルリッヒ・クレーマンの代わりに第90軽師団の指揮を引き継ぎました。


 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(第3次エル・アラメイン戦時)。

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 1942年10月から11月にかけての第3次エル・アラメインの戦いでは、第90軽師団の激戦地への展開を幾度となく成功させる一方で、シュポネックは兵士の状態に配慮しながらフカ陣地への後退を指揮しました。敵軍の指揮官らでさえも、モントゴメリーをも含めて、シュポネックの部下に対する際立った配慮を何度も賞賛していたそうです。


 エル・アラメインからの後退時のこととして、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはこのように記述されています。

 へとへとで倒れそうになりながらも、シュポネック伯の率いる第90軽師団は、敵機甲軍の猛追撃を果敢に防ぎ、ドイツ=イタリア部隊の撤退を援護した。
 ハルファヤ峠で第90軽師団が壊滅をまぬがれたのは、司令官の注意力のたまものだった。峠を守るイタリア部隊が降伏してしまったので、敵機甲師団はそのまま西へ突破するところだったのだが、みずから偵察に赴いたシュポネック伯が早期に敵戦車隊を発見し、休んでいた師団に警報を発して、巧みにトミー【イギリス軍】の攻撃をかわしたのであった。
『砂漠のキツネ』P303,4



 
 テオドール・フォン・シュポネックは優れた師団長で、アフリカ装甲軍がエル・アラメインから撤退する際、第90軽師団はその後衛となりました。シュポネックはエジプトからチュニジアまでずっと後方を担当し、敵を遅滞させるために見事な仕事をします。彼は毎日のように他の部隊が脱出する間、必要に応じて待機したり離脱したりをくり返さなければなりませんでしたが、決してタイミングを逃すことがありませんでした。

 彼の活躍は、すでにロシアで獲得していた騎士鉄十字章に柏葉を加えるに充分であったと考えられるものの、兄のハンス・フォン・シュポネック(フランス戦で第22空輸師団長、バルバロッサ作戦で第22歩兵師団長、クリミア戦で第42軍団長を務めるも独断撤退して裁判にかけられていました。後にヒトラー暗殺事件の嫌疑をかけられて銃殺されました)がナチから嫌われていたため、それが授与されなかったのであろうとミッチャム氏は記しています。


<2024/01/27追記>

 ↑のハンス・フォン・シュポネックについて調べ始めたら、ハンスの父親は彼の生後8ヵ月で死去しており、テオドール・フォン・シュポネックとは父親の名前も全然違うことが分かりました(^_^; ミッチャム氏は「his brother」と記しているのですが、ミッチャム氏の認識が誤っていたのか、あるいは「brother」の意味するところが兄弟とは違うのかもです。

<追記ここまで>


(この兄のハンス・フォン・シュポネックは『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』にも項目がある将軍ですし、次に出版されるOCS『Crimea』に関係してくるわけでしょうから、将来的にまた調べてみたい気がしています)






 ↓OCS『Tunisia II』の第90軽師団ユニット。

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 1943年4月から5月にかけて、チュニジアの橋頭堡が瀬戸際に立ち、ボロボロになってついには崩壊した時、多くのドイツ軍上級将校が脱出の理由や口実を見つけたり、与えられたりしました。しかし脱出するための努力はせず、最後まで部下と一緒にいました。彼は5月12日に第90軽師団の兵士達と共にイギリス軍に対して降伏しましたが、チュニジアでの戦いについてドイツ国防軍はこのような報告文を出していたそうです。

「アフリカ戦域では、伯爵シュポネック中将が率いるアフリカ軽師団と、ボロヴィーツ少将が率いる第15装甲師団が特に際立っている。」


 1947年に釈放されて帰国後、しばらくは機械工場の営業部長として働きます。晩年はベヒンゲン城で暮らし、1982年に86歳で亡くなりました。

北アフリカ戦等で受勲されるも、東部戦線では規律を維持するために兵士を即決処刑しており、捕虜収容所ではロンメルを批判していたというメニー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカ戦等で受勲されるも、東部戦線では規律を維持するために兵士を即決処刑しており、捕虜収容所ではロンメルを批判していたというメニー将軍についてです。




Bundesarchiv Bild 101I-298-1780-27, Frankreich, Erwin Rommel mit Offizieren

 ↑1944年3月に北フランクフルトで会話するロンメル元帥とメニー中将(左がロンメル、右がメニー)(Wikipediaから)



 エルヴィン・メニーは1912年に士官候補生として陸軍に入り、第一次世界大戦で戦って二級と一級の鉄十字章を授与されました。戦後も軍に残ることができ、1930年初頭に装甲部門に転属します。1940年から41年にかけて第69狙撃兵(自動車化歩兵)連隊の指揮官となり、第10装甲師団隷下でフランス戦で指揮を執りました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第10装甲師団ユニット。

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 その後、1941年から42年にかけて北アフリカ戦線で第15狙撃兵旅団を指揮します。

 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット(2つの自動車化歩兵連隊+αが第15狙撃兵旅団だと思われます)。

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 クルセイダー作戦の終盤の1941年12月6日に第15装甲師団長であったノイマン=ジルコウが重傷を負うとメニーは短期間(12月6日~8日)第15装甲師団の師団長代理を務めましたが、すぐに元の第15狙撃兵旅団の指揮に戻りました。

 メニーはロンメルの第2次攻勢で活躍して騎士鉄十字章を受勲し、その後もガザラの戦いやトブルク占領の際に指揮を執っています。


 ツイッター上でのりっくさんから教えていただいた情報には↓のようなものもありました。





 1942年7月に北アフリカを離れ、今度は東部戦線の第18装甲師団の師団長となりました。その期間は、『Rommel's Desert Commanders』によれば1942年9月~1943年5月ですが、『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば1942年9月15日~12月31日となっています。ドイツ語版Wikipedia「Erwin Menny」は「恐らく12月末まで」としています。同師団は1942年11月からヴェルキエ・ルーキで戦っていたそうです。


 その後メニーは、1943年5月から7月中旬まで、第387歩兵師団長代理を務めます。「装甲師団長から歩兵師団長代理へ」という流れは降格にも思えますが、そこらへんについては諸資料には何も書かれていません。

 さらに第333歩兵師団長に就任し、ドニエプル川沿いのザポロジェまでの退却を指揮して11月初旬の解隊まで師団長職にあったそうです。OCS『The Third Winter』はマップにザポロジェを含んでおり、1943年9月26日からの開始なのですが、第333歩兵師団ユニットは入っていませんでした。

 さらに第123歩兵師団長を兼任し、1ヵ月足らずで第72歩兵師団長となった後、1943年11月20日に離職したといいます。ここまでは東部戦線での指揮であり、この2つの師団はOCS『The Third Winter』に入っていました。


 ↓OCS『The Third Winter』の第123歩兵師団、第72歩兵師団ユニット。

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 1944年2月10日からはフランスで新しく編成された第84歩兵師団長となり、同師団はノルマンディー戦に投入されましたがファレーズポケットに閉じ込められ、メニーは8月22日に捕虜になります。

 メニーはイギリス本国にあった捕虜収容所トレント・パークに入れられましたが、ここでは秘密裏に盗聴が行われていました。その盗聴記録によると、メニーは上官であったロンメル将軍の軍事的スキルについて繰り返し批判していたそうです。

 またメニーは、1943年の東部戦線において、即席の処刑によって部隊に規律を強制することもあったそうです。ソ連軍の攻撃で前線を放棄した兵士をその場で処刑し、翌日には規律を回復させ、その結果自軍の前線が再び安定したと本人が述べているのだとか。こういうことは初期のソ連軍においては良く行われたわけですが、ドイツ軍側においてどうだったのかほとんど記述を見たことがなかったので、貴重な情報であるような気がします




<2022/12/15追記>

 以前読んでいた『兵士というもの』に、その具体的な記述が載っていたのを発見しましたので、追記します。



 何人かの将官たちは、戦場における危機的な状況において兵士たちをただ「銃殺した」ということをもって、自分たちが勇猛果敢であったことを強調している。そして彼らは決して、死守論を叫んでばかりの狂信的なナチというわけではないのだ。エルヴィン・メニー中将はたとえば、1943年のロシアでの出撃について述べている。

メニー 私はちょうどある師団を引き継いだばかりだった。その師団はノルウェーから来たばかりで、つまり本来ならば消耗しておらず、よい状態だった。そのとき敵による突破が生じた。その理由は単純に、何人かの奴が逃亡したことにあった。当時私は厳しく言いつけてすぐに軍法会議の法務官を後方から呼んでこさせ(彼は恐怖のあまり膝が震えていた)、我々は突破された場所のすぐ後ろで人々を尋問し、すぐに有罪判決を下して、その場でただちに射殺した。その話が燎原の火のごとく広まって、その結果3日後、主陣地帯はふたたび我々に戻るという成功を収めた。その瞬間から師団は、非常にきちんとした秩序を取り戻した。
『兵士というもの』P311



 メニーが1943年に師団長を務めた4つの歩兵師団について検索したところ、4つともWikipedia英語版に項目があったのですが、ノルウェーにいたことがあると記されている師団は見つけられませんでした。

<追記ここまで>




 他にメニーは、武装親衛隊がカナダ兵を処刑していたことについても触れているそうです。


 メニーは捕虜収容所で日記を書いていたそうで、その中で「どんなことがあっても戦争をあきらめないのが将軍の義務である」という意見を書いていたそうです。

「それにしても、私が出会った40人以上の将軍達の中で、個人として最後まで戦った者がいかに少ないかに驚かされる。言うまでもないことだがすべての兵士達は、そしてもちろん、将軍こそが特に、状況が絶望的であってもあらゆることに挑戦しなければならないのだ。運が良ければ、不可能なことでも成功できる。地獄のような絶望的な状況から、全員がもう生きることを諦めてさえいたのに、私や私の部下達は何度脱出に成功したことか。そして今回、私達二人が激戦の末に無傷で済んだのは、偶然ではなく奇跡に近いものがある。私は敵に賞賛されなくても構わないが、むしろイギリスの新聞に、私は執念深く、信じられないほどの粘り強さでどこまでも戦い、捕虜から逃れるために死を求めたと書かれる方がいい。私は、将軍がどうして『降伏』できるのか、決して理解することができないだろう」

 メニーはこの意見と共に、手を上げて捕虜になることを自分は拒否したのだと書いているそうです。また、捕虜になったことで騎士鉄十字章の柏葉を受ける機会がなくなってしまったとも日記に記しているのだとか。


 個人的な印象としては、このエルヴィン・メニーという人物は、自己顕示欲が強い人という感じがしますね……(^_^;(ただ、目覚ましいことを成し遂げる人というのは、その推進力として自己顕示欲が強いことも多いのではないかという風にも個人的に思っていますので、良い面も大きいと思います)


OCS:今回facebookで質問した、2ヘクス以内の建設&航空基地上での空戦について

 先日OCS『Sicily II』をオンライン対戦していて出てきた疑問点をfacebookのOCSグループで質問してみました。その件について書いておこうと思います。




 まず一つ目は、建設について。


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 ↑の画像で、ヘクス37.21にいる工兵が、2ヘクス離れた39.21に航空基地を建設しようとしています。

13.8d 施設の建設 移動フェイズ中に(のみ)、工兵能力ユニットはその2ヘクス以内で建設を行えます(ZOC は無視できますが、地形は徒歩タイプを使用しているものとして影響を与えます)。



 ここで疑問になったのは2点。

1.工兵ユニットは5移動力以内で建設のための1SPが消費可能ですが、建設する予定のヘクスにSPを届かせる手段はありません。それでも建設は可能か?(画像では2Tしか見えてませんが、1SPあります)

2.「地形は徒歩タイプを使用しているものとして影響を与えます」というのは、例えば徒歩で渡れない、海岸ヘクスや湖ヘクスや通過禁止ヘクスサイドを越えた2ヘクス先とかには建設できない、ということです。画像の場合、工兵ユニットからは隣の38.20へは徒歩タイプで移動力「All」で通行可能であり、さらにそこから建設予定地の39.21へ移動力「All」で通行可能です。トータルでは徒歩タイプで行ける場所ですが、移動力「All」が2回必要なわけで、2ターンかけないとそこへ行けない場所です。それでも、建設は可能なのかどうか?


 facebookで質問したところ、OCS副班長のチップ・サルツマン氏が答えてくれまして、「可能」ということでした。要約すれば、「工兵ユニットにSPが届けば良いし、徒歩タイプでその2ヘクス先まで到達できるなら、それが2ターン後の場所でも構わない」ということになります。

 さらに私なりに一般化すれば、こういうことになるかと思います。
「ルール上要求されている最低限度のことを満たしているならば、現実には問題が起きそうであっても気にする必要はなく、可能だと考えればよい」(^^)





 もう一つの件は、航空ユニットの空戦についてです。


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 ↑の画像の真ん中あたりで、ハイスタックになっているところに航空基地があり、アメリカ軍の5-1戦闘機ユニットが存在しています。そのヘクスを目標として、イタリア軍の(2)-2 爆撃機が単独で爆撃しに来ました。

OCSのプレイでは通常、敵戦闘機がいる場所には味方戦闘機を飛ばして制空戦闘をし、敵の戦闘機がいない状態にしてから味方の爆撃機を飛ばして爆撃します。ところがOCS『Sicily II』のこのプレイでは枢軸軍の戦闘機がほぼ全滅させられてしまっており、枢軸軍プレイヤーはやむなく安全な本土にあった爆撃機を丸裸で飛ばして爆撃を敢行しまくっていたのでした……(>_<)


 今回の場合、「そもそも敵戦闘機が航空基地にいるヘクス自体に、爆撃機が単体で行った」ということが珍しい出来事でして、ルール上、またfacebookで確認したところ、その場合こういうことになります。

1.そのヘクス上で、どちらかに(活動状態の)戦闘機がいるならば、空戦が「必ず」発生します。(14.2fのC)、および14.3)
(つまり、戦闘機を持つ側が敵爆撃機を無視しておくことはできません。逆に両方に爆撃機しかいないなら、空戦は絶対に発生しません)

2.その空戦の「攻撃側(ダイスを振る方)」は、通常は「そのヘクスに航空ユニットを飛ばした側」です。しかし、その飛ばした側に戦闘機がない(あるいはいなくなった)ならば、戦闘機を持つ側が攻撃側になります。(14.3aおよび14.3c)

3.両軍プレイヤーは、自軍航空ユニットを平面に並べます。この時、両軍は少なくとも1ユニットを残して自発的な任務中止を選択できます。(14.3e)

4.空戦を解決していきます。空戦の結果として「任務中止」となった側は航空基地に帰還して非活動状態となりますが、空戦に勝った側が非活動状態になることはなく、活動状態のままです。

5.空戦の解決中、上記の件に従って「攻撃側」が入れ替わる可能性があります。お互いに爆撃機しかいなくなったら、空戦は終了します。

6.この空戦の結果、もし爆撃任務側が生き残ったならば、今度は警戒空域がそのヘクスに及んでいる敵戦闘機から迎撃を受ける可能性があります(迎撃側は、迎撃しないでおくこともできます。また、通常のルール通り迎撃は1回のみです)。

7.爆撃任務側がそれにも生き残ったら、今度は対空射撃を受けます。この場合、航空基地が存在するので+1修正があり、もし警戒空域内であるならば、(このケースの場合、味方戦闘機はそもそもいなかったので)+2修正が付いて計+3修正で対空射撃を受けることになります。

8.それでも生き残ったら、爆撃任務を実行できます。


 ……と、相当にリスキーです(>_<)

 今やっているキャンペーンの勝利条件上は「生き残っている航空ユニットの数」は関係ないので、枢軸軍の航空ユニットは終盤には全滅覚悟で突っ込まされる感がありますが、「キャンペーンの途中を戦っているようにプレイ」するならば、やめておいた方がいいでしょうね……。


 ただ、OCS『Sicily II』の枢軸軍はJu.88ユニットを結構たくさん持っているのですが、(2)-12の「防御のみの2空戦力」というのは単独で爆撃のために突っ込んでいっても迎撃側の5、あるいは4空戦力の連合軍戦闘機に対して落とされずに済む可能性がある程度あり、また12爆撃力も馬鹿にできないものがあります(ましてや敵がハイスタックであれば)。

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 そして、ドイツ軍機はこのゲームではヒップシュート可能なので、リアクションフェイズであっても何度も何度も同じヘクスを狙って爆撃が可能で、敵が迎撃に失敗するダイス目を期待することができます。ただし、ドイツ軍機が爆撃するためにはドイツ軍ユニットが観測しているのでなければならないことに注意が必要です。


 Ju.88いいですねぇ。1/144の塗装済みプラモデルが出されるのを期待しているのですが……。


OCS『Sicily II』キャンペーン、中盤の枢軸軍側の反省事項

 OCS『Sicily II』の2回目のキャンペーンプレイの中盤が終わりかけになってきました。

(1回目のキャンペーンは、枢軸軍を富山のKさん、英軍を私、米軍をタエさんが受け持ってプレイし、中盤の終わり頃で連合軍の勝ち目はないということが分かって終了しました。2回目のキャンペーンは、枢軸軍を私、英軍を富山のKさん、米軍をタエさんが持ってプレイしていってます)



 ↓第8ターン(1943年8月3日ターン)後攻連合軍移動フェイズ中。

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 ↓第10ターン(1943年8月10日ターン)先攻連合軍の移動フェイズに入ったところ。

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 今回のプレイの、序盤の反省点は書いていた↓んですが、中盤の反省点を書いておこうと思います。

OCS『Sicily II』キャンペーン、序盤の枢軸軍側の反省事項 (2022/02/22)



・史実での後退具合と比較すると、英軍との戦線は差がないが、米軍との戦線はだいぶ後退具合が遅い。そこらへんから考えると、シチリア島西部の部隊は第1~2ターンにもっと早く下がらせてしまっていいし、シチリア島南部や中央部の部隊ももっと全速力で下がらせるべきだった(今回、特に中央部の部隊を無事に回収するために全体の撤退が遅れている)。

アクションレーティングが高いユニットを敵との戦闘に当たらせ、そして2ステップ目の損失をアクションレーティングが非常に低いユニットから出せるようにしておく……という配慮をすべき(その配慮が今回、序盤に全然なされていなかった)。

・連合軍の後方上陸作戦は常に意識して、沿岸防衛ユニットを常に後方に後方にと下がらせておくべき(今回、前線での戦力に使用しすぎた)。



 あと、『Sicily II』に限った話ではなく、また、仮説的な思いつきですが……。

・予備部隊の作り方を、これまでユニット単位(1~4ユニット程度だけをばらばら)に指定する方向性に偏りすぎていたのかもしれない。それよりも、できれば2個師団程度を常に(ローテーションしつつ)予備に指定するようにしておけば、燃料の点でコストカットができる(リアクションフェイズ中に師団にまるごと燃料を入れるとかで)し、どこかの戦線が危なくなった時に戦力を向ける対処がしやすいのではないか?
(それはそれとして、前線でばらばらのユニットを予備に入れておくこともするべきか……?)

・また、予備部隊を、「前線への予備」の他、「後方への予備」という風に2段階に持っておくべきか……。予備が多すぎるかもですが(^_^;




 「守り方」「予備の持ち方」についてはまだまだ分からないでいることが多いので、特に研究していきたいと思ってます。


1941年の北アフリカ戦における最高のドイツ軍大隊長であったフォン・ヴェヒマールについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、1941年の北アフリカ戦における最高のドイツ軍大隊長であったフォン・ヴェヒマールについてです。

前回の後、ツイッターで教えてもらった情報などで書けそうな感じになってきたので、記事を立てました)


Dowódca batalionu rozpoznawczego Freiherr von Wechmar podczas rozmowy z oficerami (2-2037)

 ↑北アフリカ戦線で将校と会話中の偵察大隊長フライヘア・フォン・ヴェヒマール(騎士鉄十字章受章者)。(Wikipediaから)



 イルンフリート・フライヘア・フォン・ヴェヒマールの家はプロイセンの名家・地主であったらしく、資料によっては「男爵」と書かれています。1914年に第一次世界大戦が始まると15歳で砲兵部隊に入り、戦争が終結する少し前に2級と1級の鉄十字章を受勲しました。

 戦後すぐは志願兵部隊に所属しており、その後軍に残ることができました。しかし1922年にフォン・ヴェヒマールは軍を離れ、ベルリンでジャーナリストとして働き始めました。

 ナチが権力を握った後フォン・ヴェヒマールは再び軍に戻ります。ポーランド戦の前に偵察部隊の長となり、ポーランド戦とフランス戦を戦いました(ドイツ語版Wikipeida「Irnfried von Wechmar」での記載では「Aufklärungsabteilung 3」で、後の「第3装甲偵察大隊」なのかもですが、良く分かりません)。

 その後フォン・ヴェヒマールは第5軽師団の第3偵察大隊長として、ドイツ軍部隊としては最も早く1941年2月14日にトリポリに到着し、翌15日にはトリポリ市内でパレードを行います。そして急いで前線に向かい、26時間後には前線に到着したそうです。


 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』のドイツ軍戦闘団ユニット(右から4つ目がフォン・ヴェヒマールのもの)。

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 その後ロンメルの第1次攻勢において、第5軽師団長のシュトライヒ将軍が4日間の停止を求めた時(4月3日)、ロンメルがそれを拒否して進撃を続行するように命令したことがありました。この時ロンメルは、第3偵察大隊長であったフォン・ヴェヒマールにベンガジの攻略を命じ、フォン・ヴェヒマールの方は「喜んでこれに応じた。ベンガジは翌日陥落した。」と、ミッチャム氏は『Rommel's Desert Commanders』のシュトライヒの項で書いています(P18)。ただし「喜んで」というのは、その確証はないにも関わらずミッチャム氏の偏向により筆が滑ったものである可能性もあるような気も……。

 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはこう書かれていました。

 ロンメルはみずから、フライヘア・フォン・ヴェヒマール中佐のひきいる第3偵察大隊の装甲車で、ベンガジへ疾駆した。4月4日早朝、港に着く。イギリス軍には港湾施設を完全に破壊する時間がなかった。
『砂漠のキツネ』P19


 また、この後の4月14日頃、フォン・ヴェヒマールの第3偵察大隊その他の部隊はトブルクを素通りしてその東へ向かうように命ぜられた、という文章もありました(P21)。Wechmar, Freiherr von, Irnfried (Pz-Aufklär.Abt.3)というサイトには、フォン・ヴェヒマールは「バルディアを攻略した」と書かれているので、この進撃の際に占領したのかもしれません。

 その前にフォン・ヴェヒマール自身はベンガジを攻略した功績で4月13日に、アフリカで最初に騎士鉄十字章を受勲された人の一人になっていました。


 その後、有名な「業火の牧師」バッハ大隊長が1941年5月から1942年1月にかけてハルファヤ峠を任されて活躍しますが、ミッチャム氏は『Rommel's Desert Commanders』のバッハの項で「事実上、フォン・ヴェヒマール男爵を除いて、1941年のロンメルの装甲集団の中で最高の大隊長であった可能性が高い。」と書いています(P58)。そうすると、当時最高の大隊長はフォン・ヴェヒマールであった、ということになりそうですが、この本にはフォン・ヴェヒマールの項がなぜかないのです……。


 クルセイダー作戦の真っ最中の1941年11月25日頃の話として、『砂漠のキツネ』にはこのような会話が書かれています(混戦の中、第3偵察大隊のヴォルフ少尉の装甲車がイギリス軍の乗用車一台とその乗員を捕虜にしたつもりが、危うく自分らが捕虜になるかもしれなかった……という話に続けて)。

「やあ、ヴォルフ、お客さん【英軍捕虜】は誰だ?」
「調べるひまがなかったのであります」 ヴォルフ少尉はフライヘ・フォン・ヴェヒマール中佐に報告し、没収した部隊証明書と地図を渡した。
「とにかくわれわれと同じで、タフな連中であります」と一件を説明する。
「そりゃそうだ、軽騎兵、第11軽騎兵旅団ではな」 ヴェヒマール中佐は軍隊手帖を読んだ。
【第11軽騎兵は英第7機甲師団の中でも最も精鋭の部隊でした】


 ↓OCS『DAK-II』のクルセイダー作戦時の第7機甲師団ユニット。

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「で、どこから?」
「まっすぐカイロからであります。大佐【ママ】どの。イギリスへの休暇許可書をすでにポケットにしておりました。攻勢のことを聞いて引き返し、原隊に復帰するつもりだったのであります」
「それが運の尽きというわけか」 ヴェヒマールはいった。
「ではわれわれといっしょにいていただこう。お気の毒だが収容所にお送りするわけにはいかないので」
【……】
 ヴェヒマール中佐は隊の先頭に立ち、こう命令した。
「強力な敵軍にぶつかったら緑の信号弾を発射する。そうしたら全部隊は引き返せ。その場合は後衛のキール大尉が指揮をとる。キールが敵に出会ったら、やはり緑の信号弾だ。その場合も方向転換。車の間隔をつめて、おたがいを見失うな」
『砂漠のキツネ』P89


 
 クルセイダー作戦の戦闘の後枢軸軍は撤退しますが、その後ロンメルの第2次攻勢が始まる前の1942年1月16日にフォン・ヴェヒマールはドイツ十字章金章(一級鉄十字章と騎士鉄十字章の間の勲章)を授与され、アフリカからドイツに呼び戻されました。


 ジャーナリストとしての経験から、1942年1月から1943年までフォン・ヴェヒマールは陸軍の宣伝部門の責任者を務めたそうです。1943年に大佐に昇進し、1943年から1944年まで東部戦線で第147装甲擲弾兵連隊の連隊長を務めます。

 第147装甲擲弾兵連隊は第25装甲師団隷下で、同師団は1943年10月にフランスから東部戦線に送られ、11月2日にはキエフ周辺に到着して激戦に巻き込まれます。その後の撤退戦を戦うも、1944年3月から4月にはフーベ包囲戦(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)でほとんど壊滅状態となりました。


 ↓OCS『The Third Winter』の第25装甲師団ユニット。

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 1944年から終戦の1945年5月8日までフォン・ヴェヒマールはユトランド半島(デンマーク)のEsbjerg-Fanö地区の防衛指揮官を務め、イギリス軍の捕虜になります。

 釈放された後、フォン・ヴェヒマールは西ドイツでいくつかの主要な新聞のジャーナリストおよび特派員として働き、1951年にはドイツ兵協会の広報担当者などを務めたそうです。1959年に亡くなりました。
 

OCS『DAK-II』のドイツ軍の戦闘団(カンプフグルッペ)ユニットについて

 今回はOCS『DAK-II』のドイツ軍の戦闘団(カンプフグルッペ)ユニットについて。


 OCS『DAK-II』には、戦闘団(カンプグルッペ)ユニットが入っています(イタリア軍にも同様の「ラグルッパメント(イタリア語で戦闘団)」ユニットが入ってます。また、OCS『The Third Winter』などにも戦闘団ユニットがあります)。


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 北アフリカ戦における指揮官について情報を収集してきたんですが、その目的の一部として「これらの戦闘団ユニットの名前になっている指揮官についてもできれば知りたい」ということがありました。

 ユニットの内、一番左の「業火の牧師」バッハについてはすでに以前調べていました(→ハルファヤ峠を守備して「業火の牧師」と呼ばれたバッハ大尉について調べてみました(付:OCS『DAK-II』) (2021/07/14))。

 左から2番目の「クリューヴェル」というのはルートヴィヒ・クリューヴェルなのでしょう(→DAK司令官として活躍したもののガザラ戦で捕虜となったクリューヴェル将軍について (2022/08/16))。彼と同名の別の人物である可能性がゼロではありませんけども、この戦闘団ユニットが『DAK-II』上で始めて登場するシナリオがガザラ戦であるのは、この戦いでクリューヴェル戦闘群が西から牽制攻撃をかけることになっていたのと符合するように思います。


 左から4番目が前回記事にしたヴェルナー・マルクスです(→北アフリカ戦でマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)を指揮し、大戦末期には第1装甲師団や第21装甲師団を指揮したヴェルナー・マルクス将軍について (2022/09/12))。


 あと、右から3番目の「3 Aufk」というのは人名ではなく、第21装甲師団の第3装甲偵察大隊(3 Aufklarung)を表しているのだと思います。

 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団ユニット。

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 ところが、他のユニットの人名(でない可能性もありますが)については、これまで収集した情報からでは、苗字以上のフルネームや詳しいキャラクターなどが分からない状態です。

 左から3番目の「Gräf」というのは、ドイツ語の「伯爵」なのだろうかと思ったりしたものの、そもそも伯爵は綴りが「Graf」であるらしく……?

 左から5番目の「Schütte」というのはカセリーヌの戦いを扱ったBCS『Baptism By Fire』に、6番目の「Wechmar」というのはトブルク周辺の戦いを扱ったBCS『Brazen Chariots: Battles for Tobruk, 1941』に戦闘団として出てきますが、人物像が私は現状全然分かっていません。

 一番右の2つ、「Linau」と「Voss」に関しては現状さっぱり分かりません(「Linau」の方はどこかで見た気もするのですが……)。



<2022/09/13追記>

 ↓ツイッター上で、のりっく@泡沫戦史研究所様が情報を教えて下さいました! 埋め込んでおきますね。





 Wikipedia等の項目も見つけましたので、メモっておきます。

ドイツ語版Wikipedia「Irnfried von Wechmar」
(また、『砂漠のキツネ』P89には、部下との会話や命令の様子が描かれていました)

ドイツ語版Wikipedia「Erwin Menny」

Voss, Friedrich Wilhelm


<追記ここまで>



 『グランド・パワー 1996年9月号』(特集:ロンメル戦車軍団1942)には、かなりの数の戦闘団(戦闘支隊)の名前が挙げられているのですが、マルクス以外には『DAK-II』に出てくる戦闘団の名前は出てきていませんでした……。






 前回色々検索していて、ドイツ軍の戦闘団のみに関する本らしきものを見つけました。




 この本の中身がGoogle Books上で結構読めたのですが、戦闘団の戦術的な記述が主であるようで、その辺りに興味がある方にとっては非常に良いと思うのですが、私は「指揮官のキャラクター像」に興味が非常に偏っているのと、個人的に師団長クラス以上でないと興味が湧かないこともあり、購入して読むのはパスするということで……。



 あと、OCS『DAK-II』における「バッハ」「クリューヴェル」「マルクス」戦闘団の登場時期を調べてみたところ、少し違和感を感じることがありました。

 「バッハ」戦闘団は、史実でバッハが指揮を執っていたブレヴィティ~クルセイダーの時期にのみ登場し、史実でバッハが捕虜になった時期以降は出てきません。

 ところが、「マルクス」戦闘団はロンメルの第2次攻勢シナリオから、「クリューヴェル」戦闘団はガザラの戦いシナリオから登場するのは史実通りなのですが、史実ではクリューヴェルはガザラの戦いで捕虜となり、マルクスは第3次エル・アラメインの戦いの1ヵ月前に北アフリカを離れているにもかかわらず、両方とも第3次エル・アラメインの戦いまで(つまり実質『DAK-II』の扱う範囲の最後まで)登場し続けるのです。


 ただしこれは、グランドパワー誌にも載っていたように他に多数の戦闘団(あるいは戦闘支隊)が存在していたわけだから、それらの代わりに入れられているだけなのかもしれません。バッハはなぜそうされないのかという疑問はありますが(^_^;、「業火の牧師」バッハは恐らく中でも最も有名でしょうから、別格なのかもです。


北アフリカ戦でマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)を指揮し、大戦末期には第1装甲師団や第21装甲師団を指揮したヴェルナー・マルクス将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカ戦でマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)を指揮し、大戦末期には第1装甲師団や第21装甲師団を指揮したヴェルナー・マルクス将軍についてです。

(この関係記事は基本的に時系列順で書いていっているのですが、この人物は『Rommel's Desert Commanders』に項目がなく、そのことに気付いて急遽取り上げることにしたのでした(^_^;)



 写真は、↓ですとか。

Marcks, Werner


 北アフリカ戦においてマルクスは、特定の部隊の指揮官としてよりはマルクス戦闘団(カンプフグルッペ)の指揮官として知られている人物だと思われます。OCS『DAK-II』において戦闘団ユニットは、突破フェイズおよびリアクションフェイズに1D6で記載の数値以上の目を出すことで、「あたかも予備モードであったかのようにスタックを移動・戦闘させられる」能力を持ちます(強力です)。


 ↓OCS『DAK-II』のマルクス戦闘団ユニット。

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 【ドイツ軍は】高級将校が前線部隊にいることもめずらしくなかった。末期になると、ロンメルはいくつかのさらに小さな独立機甲部隊を作り出した。その中で有名なのが、彼自身の親衛隊と、マルクス部隊である。彼らは非常に迅速に走りまわり、着々と戦果をあげていった。
『砂漠の戦争』P231






 ヴェルナー・マルクスは第一次世界大戦が始まってすぐの1914年8月に士官候補生として歩兵部隊に入りました。戦後も軍に残り、1930年には騎兵部隊、1937年には装甲部門に移り、後に対戦車砲部隊に所属したようです。また、複数の文献で「熱烈なナチ信奉者であった」とあり、「brutal(厳しい、非情な)」な指揮官であったという記述もありました。

 ポーランド戦でも対戦車砲部隊で戦い、1940年には第64狙撃兵連隊の第1大隊長となり、ロシアで戦います(第64狙撃兵連隊がどの師団に属しているのか探してみましたが、分かりませんでした)。

 しかし1941年7月初旬には北アフリカに派遣され、第15装甲師団の第115狙撃兵連隊長となりました。1942年初めには第21装甲師団の第104狙撃兵連隊長も短期間務めます。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団ユニット(第15装甲師団から第104狙撃兵連隊が移管された後)。

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 OCS『DAK-II』上では、1942年初めのロンメルの第2次攻勢シナリオから「マルクス戦闘団」ユニットが登場します。ドイツ語版Wikipedia「Werner Marcks」によれば、マルクス戦闘団は第104狙撃兵連隊の第1大隊、第155狙撃兵連隊の第1および第2大隊、第605対戦車大隊と対空砲部隊から成っていたそうです。

 【ロンメルの第2次攻勢の際】この間に、マルクス集団は、豪雨をおかして、信じられないほどたくみな夜間行軍を強行して、ベンガジの港を見おろせる高地に進出していた。
『ロンメル戦車軍団』P98







 マルクスはこの功績で1942年2月5日に騎士鉄十字章を受勲しました。


 また、この第2次攻勢でガザラ・ラインに枢軸軍が到達してすぐの1942年2月9日から、マルクスは第90軽師団の第155狙撃兵連隊長となったそうです。

 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 ガザラの戦い(1942年5月26日~6月21日)の時には、マルクス戦闘団は非常に野心的な動きをしたようです。

 【ガザラの戦いの】二日目の夕方になると、戦いははっきりとした形を取り始めた。ロンメルは大胆きわまる手を打ったのだ。トブルク自体を急襲し、ただちにこれを奪還するという意図のもとに、麾下の将兵をイギリス軍拠点の真只中にたたきつけたのである。【……】彼の4本乃至5本の縦列は、人間の手の指のように開いた。その手は北に向かってのび、南からトブルクにつかみかかった最左翼の少数のドイツ軍戦車隊は、ガザラ・ラインのすぐ内側を北上し、デルナから一群の小型沿岸用輸送船が、補給品を積んで到着していた海岸に達した。最右翼のもう一本の縦列は、この前の冬期作戦で戦場となったエル・ゴビに向ったが、それははでな動きを見せただけのようだった。マルクスに率いられた第三の縦列はさらに野心的だった。エル・アデムをとおり越してまっすぐ北東に向って進撃し、トブルク外郭防衛線東方の高地にまで到達し、エル・ドゥダとシディ・レゼーグで、非常に重要な地点を確保した。
『砂漠の戦争』P164



 ↓OCS『DAK-II』のガザラの戦いシナリオの初期配置上での、上記の①~③の進撃路。

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 しかし、マルクス戦闘団は孤立し、撤退をやむなくされます。

 北よりのエル・ドゥダでは、マルクス大佐が危険にさらされたまま孤立し、イギリス軍がこれをたたくために急行していた。彼が生きのびるためには、ドイツ軍機甲部隊が強引に進出することがどうしても必要だった。
『砂漠の戦争』P166

 支援も補給もなく、どうしようもない場所に取り残されたマルクス大佐は、夜のうちにエル・ドゥダを撤収した。
『砂漠の戦争』P167




 ガザラの戦いの途中で、マルクスは一時的に第90軽師団の指揮を執ったようです。

 6月14日にオーキンレックはガザラ・ラインの放棄を認め、トブルク~エル・アデムのラインで防衛線を再構築することを命じました。6月16日にマルクスが指揮する第90軽師団はエル・アデムを攻撃しましたが……。

 しかしエル・アデムの抵抗は熾烈を極め、第90軽装甲師団をして、その防御は「異常なほど頑強」と言わしめたほどであった。ロンメルは、エル・アデム攻撃に戦車を投入するのを許さず、その日の午後に行われた、勝ち気な第90軽師団長マルクス大佐とのはげしい論争の結果、攻撃中止を受け入れた。
『ドイツ戦車軍団』上P187




 しかしマルクスは1942年9月末(第3次エル・アラメインの戦いの一カ月ほど前)に熱帯病で重病となり、ドイツに戻らなければなりませんでした。回復後、1942年10月から装甲兵総監に送られます(グデーリアンが1943年2月から就任した装甲兵総監と何らかの関係がある?)。

 その後東部戦線で、1944年1月2日から2月6日にかけて中央軍集団戦区の第20装甲師団の師団長代理を務め、さらに南方軍集団戦区で2月20日(コルスン包囲戦が終わった頃)から9月18日(ただし『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』によれば9月25日)まで第1装甲師団の師団長を務めます。この期間中、1944年3月から4月にかけてはフーベ包囲戦が行われ、第1装甲師団はこの包囲環の中に閉じ込められてしまいましたが、何とか脱出に成功します。


 ↓OCS『The Third Winter』の第1装甲師団ユニット。

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 OCS『The Third Winter』のフーベ包囲戦シナリオについては、こちら↓を見ていただければ。

OCS『The Third Winter』「フーベ包囲戦」シナリオのオンライン対戦を始めました (2021/08/14)
OCS『The Third Winter』「フーベ包囲戦」のソ連軍側の作戦を研究してみました (2021/08/18)



 ドイツ語版Wikipedia「Werner Marcks」によると、「マルクスはこの時脱出するように説得された。このために、彼を逮捕する計画さえされた。だが、マルクスは自発的に参加した。」と書かれていて、イマイチ意味が分からないのですが、マルクスは脱出することを一時拒否したというようなことでしょうか?(Google Booksで検索してみたりもしたのですが、関係ありそうな文が全然引っかからず)


 マルクスは第1装甲師団がハンガリーに移る頃に病気になったようで、指揮を放棄します。

 ドイツ語版Wikipedia「Werner Marcks」によると、マルクスは1945年1月10日、第21装甲師団(チュニジアで壊滅した第21装甲師団の後継師団)の師団長となったとあります。

 『ドイツ装甲部隊全史Ⅲ』の第21装甲師団長リストでは、45年1月24日までエドガー・フォイヒティンガーが「最終師団長」、1月25日から2月12日までヘルムート・ゾーレンコップが「師団長代理」となっており、それ以降の師団長が書かれていないのですが、ミッチャム氏の『The Panzer Legions』の第21師団長の項目にゾーレンコップの後にマルクスの経歴が書かれていることや、同じくミッチャム氏の『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』によるとフォイヒティンガーの後に「熱烈なナチ信奉者であったヴェルナー・マルクスが第21装甲師団長に任命された」等とあることから考えると、2月13日付けでマルクスは師団長となったのではないでしょうか(↓のGoogle Booksの結果は、検索で見られるようになったのが「February,」からで、その前にあるであろう日付が見られないのです(>_<))。

 恐らくこの第21装甲師団長になった時のことを、それまでボロボロになった同師団を率いていたハンス・フォン・ルーク(? Hans von Luck)という人物が回想録に書いているのをGoogle Booksで見つけました

【……】2月、新しい師団長としてヴェルナー・マルクス中将が着任した。私は北アフリカ戦線にいたので、彼を少し知っていた。彼は北アフリカで勇敢さゆえに騎士鉄十字章を授与され、1944年初めまでは深刻な熱帯病のために伏せっており、その後ロシアの第1装甲師団長として「柏葉」を授与されていた。その後、彼は再び重い病気にかかっていた。私は、マルクスのもとで仕事をすることになったが、まったく嬉しくなかった。彼は野心的で、頑固で、命令を実行する上で無慈悲な人物だと見なされていた。
 その点では、我々が今所属している中央軍集団司令官のシェルナー将軍に似ていた。
『Panzer Commander: The Memoirs of Colonel Hans von Luck』(ページ不明)







 マルクスは同師団を指揮してソ連軍に対してハルベの戦い、ソ連軍の下シレジア攻勢コトブス・ポツダム作戦の戦いに参加します。4月末にソ連軍の捕虜となり、1955年に釈放されました。

 『D-Day Encyclopedia: Everything You Want to Know About the Normandy Invasion』という本の第21装甲師団の略歴によると、ヴェルナー・マルクスが同師団の最後の師団長であり、4月に降伏した、とありました。





 マルクスは1967年に亡くなりました。



第164軽師団について、手持ちの資料から

 今回は、前回出てきた第164軽師団について、手持ちの資料からまとめておこうと思います。



 ↓OCS『DAK-II』の第164軽師団ユニット(左から2つ目の装甲偵察大隊を除き、時期の異なる同じ部隊が2つずつユニット化されています)。

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 ↓OCS『Tunisia II』の第164軽師団ユニット。

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 同師団の概略について手持ちの資料の中で一番良くまとめられていたのは↓かと思いました。

 この師団は1939年11月に第164教導歩兵師団と呼ばれ、1940年のフランス戦時は第30軍団の予備部隊だった。
 1941年に第18山岳軍団に所属してギリシャのサロニカに駐屯したのちに、クレタ島へと移動して「クレタ強化師団」とも呼ばれた。
 1942年7月に第164アフリカ軽師団となって北アフリカ戦線へ空輸されると、エル・アラメイン戦中の第90アフリカ軽師団を救援した。
 同年8月30日にオーストラリア部隊と激戦を行なったのちの、10月23日に英第8軍の総反撃を受けた。
 11月3日にロンメルのエル・アラメイン戦線からの撤退命令にしたがって西方へ敗走するが、この間に師団の残存兵力は戦車部隊の支援歩兵として分割配備された。
 そして、チュニジアへ撤退する前にトリポリで再編成されて、1942年12月初旬にチュニジア防衛部隊となった。翌1943年1月にかき集めた自動車両により自動車化師団となり、3月19日にイタリア第21軍団を強化するために配備されていたが、3月26日にニュージーランド部隊の攻撃を受けてチュニジアのアカリトへと撤退した。
 1943年4月中は随所で小規模戦闘に加わり、4月下旬に兵力は2500名に減じた結局【ママ。「結果」の間違いでしょうか?】、5月13日にイタリア第1軍ともにニュージーランド師団に降伏した。
『ロンメルとアフリカ軍団戦場写真集』P117









 英語版Wikipedia「164th Infantry Division (Wehrmacht)」の後半の記述も興味深いので、和訳引用してみます。

 1942年初頭、師団はクレタ島に移動し、要塞師団クレタとして編成された。経験豊富な第125歩兵連隊で強化され、1942年半ばまでここに留まり、その後北アフリカのアフリカ装甲軍に移籍した。この時、第164軽アフリカ師団となり、各連隊は2個大隊のみであった。この師団はエル・アラメインで戦い、奮戦した。この戦闘では連隊の内の1つが、前進する連合軍歩兵によるアフリカ装甲軍司令部の占領を阻止するのに貢献した。枢軸国の残存部隊と共に師団は徐々にチュニジアに後退し、チュニジアでの作戦の終盤はイタリア第1軍の一員として自由フランス軍と戦った。師団の最後の司令官であったリーベンシュタインは、ニュージーランド第2師団司令官であるバーナード・フレイバーグ中将に降伏した。




 以下、基本的に時系列順に手持ちの資料から並べてみます。

 一方、オーキンレックはロンメルの軍勢が予想していたほど強力ではないことを察知したが、すぐに大規模な反撃に出ることはしなかった。その代わり、ドイツ軍よりも戦闘能力が低い、地中海沿岸のイタリア軍に標的を絞り、敵の陣形を崩す目的で、【第1次エル・アラメインの戦いの最終盤の1942年】7月10日から15日にかけて、第30軍団による限定的な反撃を開始した。
 この攻撃の矢面に立たされたのは、サブラータ歩兵師団とトリエステ自動車化師団、ブレシア歩兵師団、パヴィア歩兵師団などで、とりわけ最左翼に位置するサブラータ歩兵師団の損害は甚大で、ほぼ壊滅状態となってしまった。これにより、枢軸軍の戦線には数か所で綻びが生じたが、ロンメル率いるドイツ軍の装甲部隊は戦線の右翼に展開しており、すぐに左翼のイタリア軍を救援に向かうことは不可能だった。
 そのため、アフリカ装甲軍司令部の情報参謀フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・メレンティン中佐が、自らの判断でドイツ軍の後方部隊(通信部隊や輸送部隊など)をイタリア軍の救援に向かわせ、サブラータ師団の抜けた穴には、クレタ島から転進していた【第164軽師団の】第382と第433の2個ドイツ軍歩兵連隊が急派された。
『ロンメル戦記』P297

 【第1次エル・アラメインの戦い中の】7月10日の激戦中、DAKの新部隊が北アフリカ砂漠にあらわれた。第164アフリカ軽師団である。車輌なしで空輸されてきたもので大半はザクセンの出身。マークはマイセン産磁器に描かれた交差する剣であった。そのうち第382歩兵連隊と第220工兵大隊は飛行場から戦場に直行し、ヘッカー大佐の支隊とともに敵の突破作戦を高射砲とわずかの戦車で阻止した。第382連隊のおかげで機甲軍北翼が敵に突破されずにすんだのである。
『砂漠のキツネ』P236

 一方ロンメルは第90軽師団の1個混成大隊と、新たに番号が付けられた到着したばかりの第164歩兵師団の第382連隊の一部を投入した。第164歩兵師団はクレタ島から到着しつつあるところで、車両を持っていなかった。第164歩兵師団はつい最近まで守備隊任務に就いていたのだが、特別に北アフリカの任務のために改編されていた。第90軽師団と同様に、対戦車砲が大量に増強されており、そのほとんどはロシア製の76.2mm砲であった。
『Rommel's North Africa Campaign』P197,8

 【1942年7月23日頃】これまでの数週間、歩兵部隊の補充がのろのろと、雨だれのように戦線に到着しつつあった。各部隊の尋常でないほどの人的損害はいまや、緩慢ではあったけれども、埋め合わせられていたのだ。が、あいにく、補充兵の一部は熱帯で勤務可能な人員ではなかった。第164歩兵師団の一部はクレタ島から空輸されたのだが、重火器と車両は運ばれてこなかった。きわだった印象を与えてくるイタリア軍空挺師団隷下のいくつかの部隊も、戦線に到着した。前線部隊は熱心に働き、防御線の強化を進めた。しかしながら、戦線後方に充分な作戦予備が用意されてこそ初めて、いかなる脅威をも排除したとみなし得るのである。
『「砂漠の狐」回想録』P221

 援軍が到着しつつあった。仰々しく第164軽アフリカ師団と改称されたクレタ島守備隊師団の一部と優秀な落下傘部隊の4個大隊からなる旅団が装甲軍へ配属になった。しかし両方とも歩兵部隊で、主にイタリア軍を安定させるためのものであり、北アフリカの環境で応戦態勢に入るには、順応するための期間が必要だった。落下傘部隊は選り抜きの兵士たちだったが、まもなく半数以上が暑さ、黄疸、砂漠潰瘍、粗悪な食事、さらに質の悪い水のために体調をくずした。
『パットン対ロンメル』P262

 ちょうど到着中であった第164師団およびイタリア軍フォルゴレ空挺師団の諸隊は自隊車両を持っていなかったので、これもほかの輸送部隊の負担になってきた。
『ドキュメント ロンメル戦記』P290

 わが第164師団には、その部隊がすでに第一線の戦闘に参加しているにもかかわらず、9月中旬になっても車両60両が着いていただけであった。
『ドキュメント ロンメル戦記』P291





 第3次エル・アラメインの戦いの初日(1942年10月23日)に関する記述には、こういうものもありました(他の資料とはニュアンスが異なるかもしれません)。

 朝には第164軽師団の他の2個大隊もイギリス軍の砲撃によって潰滅した。
『ロンメル語録』P277



 また、エル・アラメインから退却してハルファヤ峠あたりまで撤退していた時の記述としてはこういうものがありました。

 ハルファヤ=ソルム=バルディアの三角形の防禦線はおもにイタリア軍と、第164歩兵師団の数部隊が配置され、この部隊にはかなり年をとった予備兵と訓練不十分の新兵とが、多数含まれていた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P136





第164軽師団長として第3次エル・アラメインの戦いで奮戦したルンガースハウゼン将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第164軽師団長として第3次エル・アラメインの戦いで奮戦したルンガースハウゼン将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

Carl-Hans Lungershausen-1



 カール=ハンス・ルンガースハウゼンは第一次世界大戦が始まってすぐの1914年8月に士官候補生として軍に入り、東部戦線で従軍しました。戦間期の軍歴のほとんどを騎兵部隊で過ごし、1936~39年には第8騎兵連隊の第1大隊長を務めていました。

 第二次世界大戦が始まるとこの大隊は第18偵察大隊と改称され、第18歩兵師団の一員としてポーランドで戦います。

 1939年10月にルンガースハウゼンはB軍集団司令官であったフェドーア・フォン・ボック将軍の副官に任命され、フランス戦役で勤務し、イギリス本土上陸作戦の準備段階にも参加しました。

 1941年6月1日に第7装甲師団の第7狙撃兵連隊長に就任し、東部戦線を戦います。1942年4月1日には一つ上の第7狙撃兵旅団長となりました(ちなみにマントイフェルが、1941年5月1日~8月25日にかけて第7狙撃兵連隊第1大隊長であり、26日からは第6狙撃兵連隊長、1942年7月15日から第7狙撃兵旅団長で、ルンガースハウゼンの後任だったのかもです)。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第7装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第7装甲師団ユニット。

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 第7装甲師団は過酷な冬季戦で大損害を被っており、1942年5月にフランスへと移送されています(12月に再び東部戦線へ)。詳しい時期は不明ですがこの頃にルンガースハウゼンは北アフリカに派遣されることになったようで、まず1942年7月13日から8月10日の期間に第90軽師団の師団長代理を務めます。そして8月10日から、第164軽師団の師団長となりました。


 ↓OCS『DAK-II』の第164軽師団ユニット(左から2つ目の装甲偵察大隊を除き、時期の異なる同じ部隊が2つずつユニット化されています)。

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 1942年8月30日に開始された第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)で、8月31日に第21装甲師団長であったゲオルク・フォン・ビスマルク将軍が戦死したため、ルンガースハウゼンは第164軽師団長のまま、第21装甲師団の師団長代理をもしばらく務めます(『Rommel's Desert Commanders』によれば9月1日~18日。『ドイツ装甲部隊全史Ⅲ』によれば8月31日~9月17日)。


 1942年10月23日に第3次エル・アラメインの戦いが開始されますが、この時のルンガースハウゼンの司令部の様子がパウル・カレルの『砂漠のキツネ』に描かれています。

 それまで静かだった砂漠の明るい夜に雷鳴がとどろいたのである。第164軽アフリカ師団本部の戦闘指揮所、食堂、談話室となっていた大地下壕ははげしく震動した。将校たちは師団長ルンゲルスハウゼン将軍と夕べの酒をくみかわしていたところだったが、巨人の腕がテーブルをなぐりつけたように感じた。師団幕僚長のマルケルト大佐は階段を駆けのぼって指揮車にとびのろうとした。幕僚次長エルテリヒ少佐はかろうじて赤ぶどう酒の壜をおさえた。ゼルター水の壜がテーブルから転げ落ちた。ルンゲルスハウゼン将軍は目の高さののぞき窓から前線を見た。そこは、一面に火を吐いていた。師団戦区全面が猛砲撃を受けている。「モントゴメリーの攻勢だ」とルンゲルスハウゼンは時計に目をやった。20時45分。1942年10月23日。
 参謀本部の諜報組織、西方外国軍課の長リス大佐が5日前マウエルヴァルトからアフリカに来て、モントゴメリーが10月中に攻撃することはありえないと情報がはいったと語ったばかりではないか。ありえないだと!
『砂漠のキツネ』P276



 ↓OCS『DAK-II』の第3次エル・アラメインの戦いの初期配置(第164軽師団が北岸の5ヘクスに広がって、他の部隊ユニットと一緒にスタックしています)。

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 この戦いの時、ルンガースハウゼンの判断と指揮が非常に重要な役割を果たしたとミッチャム氏は書いています。モントゴメリーは攻勢の初日に大規模な砲撃を行いましたが、ルンガースハウゼンは砲兵に反撃するなと命じました。もし反撃していたら、師団砲兵も英連邦軍の砲撃を受けることになったと思われます。英第8軍が地上攻撃を開始した時、攻撃側は枢軸軍の砲兵は破壊されたに違いないと考えていたそうですが、ドイツ軍の砲兵の多くはまだ無傷で、英連邦軍の戦車や歩兵がよく狙える場所に来るまで砲撃を行わなかったといいます。このようにしてルンガースハウゼンは攻勢初日に第8軍を牽制する大きな役割を果たし、多大な死傷者を出しながらも第164軽師団は11月4日にロンメルが総退却を指示するまで陣地を維持しました。

 その後、11月8日に枢軸軍がカプッツォ砦(ハルファヤ峠の少し西)まで退却していた時に、ロンメルがルンガースハウゼンに語ったという話が『砂漠のキツネ』に載っています。

 1942年11月8日の夜、ロンメルは、第164軽師団長ルンゲルスハウゼン将軍の指揮車にいた。無線車からは、ミュンヘンのビュルガーブロイ酒場でのアドルフ・ヒトラーの定例演説がひびいてきた。総統は勝利を約束していた。だが、カプッツォ付近では第19軽師【ママ。第90軽師の間違いでしょう】、第164軽師、DAKの兵たちが疲れきって砂漠に横たわっている。【……】
 こういったことをミュンヘンの総統は知ろうとしなかった。だが、ロンメルは知っていた。その夜、彼は沈んだ声で、恐れていたことをルンゲルスハウゼン将軍に語った。「遠征は失敗した。アフリカは失われた。ローマとラステンブルク【総統大本営】が事態を正視せずに早く兵の救助処置をとらなかったら、最も勇敢なドイツ軍の一つが捕虜になってしまう。そうすればイタリアを誰が侵攻から守るか?」
『砂漠のキツネ』P302,3



 ↓は、ロンメル、ケッセルリンク、フォン・ルントシュテットの参謀長を務めた若き将校ヴェストファルについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』『DAK-II』) (2022/07/06)からのまるまるコピーです。

 退却の途中の12月1日、第164軽師団の師団長であったルンガースハウゼンが負傷か何かのために師団長職を降りたため、ヴェストファルが師団長代理を務めることになりました(枢軸軍はその頃、メルサ・エル・ブレガ付近にいたようです)。12月29日(エル・アゲイラとトリポリの中間地点より少し西のブエラトあたりに枢軸軍はいました)にルンガースハウゼンが師団長として復帰しましたが、ヴェストファルは短期間であっても自分が第164軽師団を指揮できたことを、死ぬまで非常に誇りに思っていたそうです(どういう意味で誇りであったかは資料に書かれていないのですが、実戦部隊としての師団を指揮できたということか、あるいは第164軽師団自体に思い入れがあったものか……?)。 



 しかしルンガースハウゼンの健康状態がまだ回復していなかったものか、1943年1月15日を最後に北アフリカを去りました。彼が現役に復帰したのは1943年5月23日で、チュニジアの枢軸軍が5月13日に降伏した後に連合軍の上陸が予想されたサルディニア島を守るため、その場しのぎで編成されたサルディニア師団長としてでした。ルンガースハウゼンは連合軍の航空、海上優勢にもかかわらずイタリア本土への撤退を成し遂げ、1943年8月1日に同師団は(第90軽師団の後継師団として)第90装甲擲弾兵師団と改称されます。ルンガースハウゼンは同師団の指揮を引き続き執り、イタリアが降伏した後、イタリア軍の武装解除を支援するためにイタリア北部に派遣されました。

 その後1943年12月20日から同師団の師団長はバーデ将軍が引き継ぎ、ルンガースハウゼンは総統予備となって6ヵ月間を過ごします。

 1944年7月1日、ルンガースハウゼンはケッセルリングの南西総軍に配属され、イタリア人部隊の検査官に任命されました。彼は1945年3月1日までこの役職にありましたが、この役職は廃止されたようで、本国に戻ります。それ以降、彼が役職に就くことはありませんでした。

 戦後はハンブルクに住んでいましたが、最終的に生まれ故郷のダルムシュタットに戻り、1975年に亡くなりました。

戦車戦の知識や勇敢さにおいて卓越するも、総統命令を「狂気の沙汰」と考えエル・アラメインで捕虜になったフォン・トーマ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、戦車戦の知識や勇敢さにおいて卓越するも、総統命令を「狂気の沙汰」と考えエル・アラメインで捕虜になったフォン・トーマ将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 146-1972-083-25, Wilhelm Ritter von Thoma

 ↑フォン・トーマ(Wikipediaから)


 ヴィルヘルム・フォン・トーマは1912年に士官候補生としてバイエルン王国陸軍に入隊し、第一次世界大戦で何度も負傷しながらも多くの戦いに参加します。中でも、1916年7月にフォン・トーマの連隊がオーストリア軍の司令部に到着したところでロシア軍の攻撃を受け、オーストリア軍のほとんどがあっという間に壊滅した時、フォン・トーマは自らの危険を顧みず冷静に司令部を守って戦い、それに感銘を受けたオーストリア兵達が集まってその後のロシア軍の3度の大規模な攻撃を撃退したことが大きく評価されました。フォン・トーマはドイツで最も高位の勲章の一つであるバイエルン・マックス・ヨーゼフ勲章を授与され、リッター(「騎士」あるい「勲爵士」。バイエルン王国の一代貴族の称号)の称号も与えられたのです。

 その後もフォン・トーマは指揮官として有能であることを示し絶大な信頼を得ましたが、大戦後期にアメリカ軍の捕虜となります。釈放されてからも義勇隊に入って「戦後の戦争」を戦いました。

 1921年に軍に戻り、1923年にヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆の鎮圧に参加しました。1925年という早期に自動車化部隊の中隊長となり、翌年にはソ連の戦車学校の運営および訓練にドイツ側代表の一人として参加します。1929年に自動車化部隊の大隊長となった時にはすでにドイツ軍で最も経験豊富な自動車化部隊将校の一人であり、1931年から34年には自動車化輸送担当官を務めました。

 1934年、フォン・トーマはドイツ軍で初めて完全な戦車部隊が編成されていたオルドルフ自動車化実証司令部に転属します。1935年10月1日に最初の3つの装甲師団が公式に創設され、フォン・トーマは第4装甲連隊の第2大隊長に任命されました(同連隊はグデーリアンの第2装甲師団隷下でした)。

 1936年にはスペイン内戦に派遣され、コンドル軍団の一員としてドイツ軍の実験戦車部隊を率いて赤軍と戦います。フォン・トーマはその中で実戦における戦車部隊の運用やドイツ製戦車の性能的限界などを調べ、報告します(この時の技術的な話題についても色々興味深い面がありますが、戦車のメカニック的な本で詳述されているであろう話でもあり、本稿では割愛します)。フォン・トーマはスペイン内戦で192回の戦車戦闘に参加し、その驚異的な勇気でスペインの最高勲章を受勲しており、フランコの最終的な勝利に貢献しました。

 帰国後、フォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官から装甲旅団の指揮を提示されましたが、フォン・トーマはこの時それより一段低い装甲連隊の指揮を希望したそうです。このことはフォン・ブラウヒッチュに悪い印象を与え、フォン・トーマのキャリアにダメージを与えた可能性もあるとミッチャム氏は記述しています。

 結局、フォン・トーマは1939年6月1日に第2装甲師団の第3装甲連隊長に任命され、ポーランド戦に参加して大きな成功を収めます。フランス戦の時には陸軍総司令部内の快速部隊総監という役職にあり、実戦には参加しませんでした。


 1940年9月にリビアのイタリア軍がエジプトに侵攻(グラツィアーニ攻勢)するもすぐに停止し、英連邦軍との小競り合いが起こっていました。この時期、フォン・トーマは北アフリカに視察のために送られています。

 ヒトラーはリッター・フォン・トーマ将軍を11月初旬に北アフリカを視察させたがそれは、9月にドイツ側が申し入れることを検討し始めた2個装甲師団をアフリカに送る件のためであった。さらに、ヒトラーは第3装甲師団をアフリカに送る準備を始めさせた。だが、フォン・トーマはそれを勧めなかった。戻ってきたフォン・トーマは、イタリア軍の指揮は水準に達しているとは言えず(彼はグラツィアーニは最高司令官としては不適格だと考えていた)、兵站、気候、それに地形の厳しさも大きな問題であるという感想を伝えた。彼は、もしドイツ軍がこの地域に関わるのならば4個師団であるべきだと明言した。それ以上の兵力であれば兵站的に困難である一方、それ以下では任務を達成できないであろう、と。この予測は恐らく正確なものであり、卓見であった。
『Rommel's North Africa Campaign』P28

 早くも1940年7月、最高司令部は装甲師団を北アフリカに配備することを提案しており、状況評価のために装部隊のエキスパートの一人であるヴィルヘルム・リッター・フォン・トーマ少将を送り込んだ。スペインでイタリア軍と協力した豊富な経験をもつトーマは、北アフリカにおける重要な機動作戦はすべてドイツ軍だけで行なうのが最良であり、少なくとも装甲4個師団が必要だろうと報告した。
『パットン対ロンメル』P211



 この件に関して興味深いのは、高梨俊一氏がデザインしたウォーゲーム『アフリカン・ギャンビット』のデザイナーズノートの中で、こう述べられていることでしょう。

 イタリア歩兵師団さえなくなれば枢軸軍の補給はきわめて楽になる。このことは、すでに1940年ドイツのフォン・トーマ将軍が言明している真理である。しかしこれはムッソリーニにとって政治的自殺に等しい。
『アフリカン・ギャンビット』P45




 ↓の動画でもその件について言及しています。






 その後フォン・トーマは、1940年12月には第17装甲師団の第17狙撃兵旅団(ただし『ドイツ軍名将列伝』によれば第17装甲旅団)長に任命され、バルバロッサ作戦ではブレスト・リトフスク、ミンスク、スモレンスク戦などに参加します。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第17装甲師団ユニット(↓の2つの狙撃兵(自動車化歩兵)連隊+αが「狙撃兵旅団」となります)。

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 第17装甲師団の師団長はハンス・ユルゲン・フォン・アルニム(後にチュニジア戦でロンメルと衝突し、捕虜になった後捕虜収容所でフォン・トーマ一派とも衝突することになる)でしたが、6月26日に重傷を負い、その後任となっていた騎士カール・フォン・ウェーバーも7月18日にスモレンスクの南で瀕死の重傷を負った(20日に死去)ため、フォン・トーマが9月14日まで師団長を務めました(9月15日からフォン・アルニムが師団長に復帰)。

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』は1941年7月8日ターンから9月8日ターンまでなので、最初の3ターンを除きずっと、フォン・トーマが師団長であったことになります。


 グデーリアンはこのように記しています。

 7月23日、スモレンスク南方15キロにあるタラシュキノに行き、リッター・フォン・ヴェーバー将軍に代わって第17装甲師団の指揮をとるリッター・フォン・トーマ将軍に会った。トーマ将軍は、最古参の経験豊富な生え抜きの戦車将校であった。その鉄のような意志力と卓越した勇敢さで、すでに第一次世界大戦およびスペイン戦争で名をあげ、今度の大戦でも名声を馳せた武人である。
『電撃戦 グデーリアン回想録(上)』P271




 フォン・トーマは第17狙撃兵旅団の指揮に戻りましたが、タイフーン作戦中の1941年10月14日に第20装甲師団長に(健康を害したシュトゥンプ前師団長に代わって)就任します。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第20装甲師団ユニット。

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 フォン・トーマは、モスクワの戦いとそれに続く1941~42年のソ連軍の冬の攻勢に対して戦い、その功績により騎士鉄十字章を受勲します。その後1942年6月30日に第20装甲師団長の職を離れて2ヵ月の休暇の後、ドイツアフリカ軍団長であったネーリングが負傷したためその後任として1942年9月1日にドイツアフリカ軍団の司令官に任命されたのです(ただし、彼が軍団司令部に到着したのは9月17日で、それまでアフリカ軍団はフォン・フェールスト将軍が代理で指揮を執っていました)。


 フォン・トーマの着任はロンメルによる攻勢であった第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)が終わってから2週間ほど経った頃で、もはやエル・アラメインにおいて枢軸軍の攻勢はあり得ず、英連邦軍の戦力的優位がいや増していた時期でした。

 この時期のことを、戦後フォン・トーマはリデル=ハートからのインタビューでこう語っています。

 ロンメルが自分の幕僚達に向って、いかにもスエズへ達する自信があるかのように語ったことが時々あるが、本当にそう思っていたのかと私【リデル=ハート】はトーマに聞いた。トーマは答えて「彼はそうは思っていなかったと私は確信する。彼はただ自分の軍隊――特にイタリヤ兵を激励するためだけにそう言ったものだ。彼はエル・アラメインでイギリス軍に阻止されると、それからすぐにその熱気は冷めてしまった。彼は英軍を動遙【ママ】させるためには奇襲が必要であることを知っていたが、アラメインでがっちり守られると、どうやって新たな奇襲が成功するのか分らなくなった。その上、彼は英軍が間断なしに増強されていることを知っていた。
 ロンメルは自分の乏しい兵力とその困難な補給線からして、余りに遠く来すぎたことを知っていたが、その成功が非常なセンセーションを起したために、後へ引けなくなってしまった。ヒトラーがそれを許さなかった。その結果、英軍の方で圧倒的に優勢な兵力を結集して彼を打ち破るようになるまで、そこに止らなければならなかったのである。」
 彼はこの事実の多くを、直接ロンメルおよびその主な部下達から聞いたと言った。トーマ自身がロシヤからアフリカへ行ったのは、漸く9月になってからであった。「黄胆を患ったロンメルに代って私が行くように命ぜられた時、私はこの仕事を希望しないと電話で話した。『私が二年前に書いたもの【1940年の報告】を見てほしい』と。けれども折り返し返事が来て、総統がこれを要求している、これは総統自身の命令であるというのであった。それでどうにも仕方がなかった。私は9月の20日にアフリカへ着き、数日ロンメルと情勢を検討した。彼はそれからウィーンのそばのヴィーナー・ノイシュタットへ治療を受けに行ったのである。二週間後にシュツンメ将軍が、アフリカ戦線全体の指揮を取るために着任してきた。それで私はエル・アラメイン地区指揮だけとれば良いことになり、それで結局、軍全体の組織の改善のようなことは私にはできなくなった。ところが、そのすぐ後でシュツンメは発作を起して死んでしまった。これらすべての事情からして、来るべきイギリスの攻撃に備える準備をこんがらかせたのだ。
 「私は困難な条件の下で味方の配備を改善するべく、できる限りのことをした。英軍の攻撃がはじまる前に撤退するという作戦は許されなかったからである。もっとも我々はヒトラーの命令にも拘らず、おそらく撤退せざるを得なかったろうが、それがそうならなかったのは、トブルクで君達【イギリス】の倉庫から取った物資で味方を養うことができたからである。これは我々を補給し続けてくれた。」
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P156,7




 この時期のフォン・トーマにキャラクターに関して私が見つけられたのは、このような記述のみでした。

 禁欲的でペダンティック【知識や教養をひけらかす。 学者ぶった。 衒学{げんがく}的な。】なリッター・フォン・トーマ将軍【……】
『砂漠のキツネ』P281

 【……】フォン・トーマ将軍--ロンメルは禁欲的で知識をひけらかすようなところがあったこの痩せぎすの将軍が非常に嫌いであった【……】
『狐の足跡』下 P26




 第3次エル・アラメインの戦い(1942年10月23日~11月5日)のことに関して、フォン・トーマはリデル=ハートにこのように語っていたそうです。

 それからトーマは私に、1942年10月23日からはじまった戦闘の印象についての話をした。英第8軍は、最初からすべての決定的な武器において、遙かに優勢だったから、戦闘がはじまる前から勝利はほとんど確実であった。「我々の方がほぼ1ダースぐらいに減っていた時に、君らの方は1200からの飛行機を持っているだろうと思っていた。攻撃がはじまってから1週間たってロンメルがウィーンから帰ってきた。もう手はずを変えるには遅すぎた。彼はやはりまだ具合が悪く、それがために神経症になっており、気分が常に動遙【ママ】していた。彼が戻ってきてからは、私は前線の一部分だけを受け持っていたが、彼は突然私に向って、自分の下で、部隊全部の指揮を直接とってくれないかと求めた。すでに英軍の圧力は増々重くなってきており、我々は緊張の極限にまで達していた。
 「英軍の追撃を食い止めることができないことが明らかとなった時に、我々は50マイル西方のダバのところの線まで、二段階に分けて撤退することにした。もしそれができたら我々は助かったかもしれない。撤退の第一段階は11月の3日の夜行われることになっていた。ところが、それが丁度はじまったばかりの頃にヒトラーから無電が来て、いかなる撤退も禁ずる、いかなる犠牲を払っても、もとの位置を固守すべしと命令してきた。これは事実上再び前進しなければならないことを意味していた。――敗北と決まっている望みなき戦を戦うために。それからトーマはどうして自分が捕虜になったかという話をした。彼は戦闘中戦車に乗って、何回も被弾しながら手薄なところをかけ廻っていたが、とうとう自分の戦車が発火して外へ放り出された時に捕えられた。「私はもう丁度良い、おしまいごろだと思った。」 彼は自分の帽子を私に見せたが、穴だらけだった――運が良かった証拠である。残念そうな調子で、彼は、この戦争中24回しか戦車戦に参加していない――ポーランド、フランス、ロシヤ、アフリカで――と私に言った。「スペインの内乱の時は192回戦車戦をやった。」
 捕虜になってから、トーマはモントゴメリーのところへつれて行かれた。そして夕食を共にしながら、その戦闘についての議論をした。「私には何も聞かずに、彼は自分の兵力、補給、配備についての状況などを私に話したがった。私は彼の知識の正確なこと、特に我々の方の欠乏状態、船舶の喪失等について正確に知っていることに驚いた。彼は我々の状態については私と同じように知っているらしく見えた。」
 それから彼は勝者 (モントゴメリー)の戦いぶりについて、「彼はいつも自分の圧倒的な優勢ということを考えながら、非常に用心深くやっていたと思う。しかし――」とそこでトーマは一寸止めて、それから強い調子で「彼は今度の戦争で、自分のやったすべての戦闘に勝った、ただ一人の元帥である。」とつけ加えた。 「現代の機動戦では、戦術は第一義的な問題ではない。決定的な要因は――その衝撃力を維持するために、味方の兵力、歩器【ママ】弾薬等を組織化することである。」と彼は結んだ。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P158,9




 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』や、アーヴィングの『狐の足跡』での記述はこうなっています。

 DAKの残余はフォン・トーマ将軍のもとで、二百台の戦車を先頭とする敵の攻撃を必死に防いだ。
 その早朝バイエルライン大佐がフォン・トーマ将軍に、エル・ダバ南方に後方戦闘指揮所を設けるよう上申したとき、彼は将軍が勲章を全部つけていることに気がついた。アフリカでは異例のことである。トーマは言った。「バイエルライン、総統命令は狂気の沙汰だ。死刑執行命令だ。どう部下に伝えたらよろしいのか」
 トーマは、バイエルラインをちらっと見て言いそえた。
「きみはアル・ダバに行きたまえ。私はここに残って、テル・エル・マムプスラ防衛の指揮をとる - ラステンブルク【総統大本営】の命のままに」 最後のところにはあきらめと皮肉がただよっていた。
 フォン・トーマが打ちのめされた気分でいることがバイエルラインの気になった。エル・ダバに出発するときもいやな予感がした。将軍は死ぬつもりだろうか?
 イギリス軍の攻勢はテル・エル・マムプスラに集中された。砂丘の周囲は地獄であった。リッター・フォン・トーマは最前線でDAKの先頭に立っていた。
 11時ごろ、フォン・トーマの連絡将校ハルトデーゲン中尉がバイエルラインの戦闘指揮所に到着して報告した。「フォン・トーマ将軍は自分と通信班を後送させました。もはや必要としないと申されております。テル・エル・マムプスラではわが軍の戦車、対戦車砲、高射砲は破壊されました。将軍がどうなられたかは存じません」 おどろいたバイエルラインは小型装甲車にとびのり東へ急行した。いきなり戦車砲の雨を浴びた。真昼間の陽炎を通して無数の黒い戦車が見える。車をとびおり、灼熱のなかを砂丘へ走った。そこには死があった。燃える戦車の残骸、つぶれた高射砲、砕かれた対戦車砲、見わたす限りの戦死者。重傷者が数名生きていただけである。バイエルラインは砂の穴にとび込み、あたりを見回した。200メートル前方に一台の戦車が燃え、その傍でリッター・フォン・トーマが弾雨のなかで仁王立ちになっていた。そのやせた長身は空を背景に幽鬼のように浮き出していた。
 リッター・フォン・トーマ。二度の世界大戦で20回負傷し、勇気の権化である。第一次世界大戦でバイエルン最高の勲章、マックス=ヨーゼフ勲章を受けて貴族に列せられた。スペイン内乱ではコンドル部隊で戦い、戦車でロシアの荒野を走り回った。数日前からアフリカ機甲軍司令官になった彼は、いま激戦のさなか、燃えあがる戦車の傍に彫像のように立っている。敵のシャーマン戦車はその周囲に半円を描いて停止している。砂丘にそそぐ阻止砲火は猛烈で、バイエルラインは生きて将軍の所まで行ける見込みがなかった。
 と、いきなり砲火がやみ、イギリス戦車群がうごきだした。トーマは身動きもしない。将軍なら誰でも持っている帆布製の日用品袋を手にしたまま、迫りくる戦車に顔を向けている。一台の小型装甲車がシャーマンを二台連れて走ってきた。第10軽騎兵連隊のグラント・シンガー大尉が機関短銃をかまえて乗っている。何かどなった。将軍は顔を上げると、装甲車に歩み寄り、乗り込んだ。バイエルラインは穴からとび出すと、ひた走りに西へ走った。【……】DAKの情報将校が傍受班のキャッチした敵の無線報告を持ってきた。第10軽騎兵連隊からモントゴメリーにあてた平文で、「いま敵将軍を一名捕えました。リッター・フォン・トーマと名乗っています。グラント=シンガー大尉」
『砂漠のキツネ』P287,8


 ロンメルは総統に対する忠誠と、戦場における危機という現実の様相の間で板挟みになっていた。
 午後2時28分、彼はアフリカ軍団長のフォン・トーマ将軍に電話した。するとトーマはいった。「私は今戦場から帰って来たところです。第15戦車師団には戦車が10輔残っており、第21戦車師団はわずか14輌、リットリオ師団は17輌持っているだけです」 これに対してロンメルはきっぱりといった。「貴官は全力をあげて戦闘を継続してもらいたい」 彼はヒトラーからの電文を読みあげ、トーマにアリエテ師団の戦車に対しても直接、命令する権限を与えたのち、もう一度くりかえした。「貴官はこの命令を将兵に徹底させられたい――最後まで戦うのだ」
 トーマは、これでは彼の率いる部隊は敵に撃滅されてしまうことは必至であると判断し、その戦車部隊を後退させて、態勢をととのえるようにと、意見具申した。これを聞くとロンメルは電話口で声を励ましていった。「それは許さない。総統の命令だ。われわれは最後まで現在地を確保する。退却してはならない」
 トーマは躊躇した。「よく分かりました」と彼はいった。「それはわが軍の全般的な方針です。しかし、われわれは少し後退しなければなりません」
 ロンメルはこのようなやり方を認可した。
しかしこの日の午後、彼が各地に分散していた戦車軍の各部隊に向けて発した電報は依然として、「最高のレベルからの命令」に基づいて現在地を確保することを命じており、各部隊には全く機動の余地を与えていない。
 ロンメルの幕僚特にバイエルラインは、このような命令を出すことに強く反対した。しかしロンメルはまだ、総統からの明確な命令に従わないようにすることを学んでいなかった。
『狐の足跡』下P40,41

 午後12時55分、バイエルライン大佐がこの壕へやって来た。彼はロンメルに、フォン・トーマ将軍が自分の持っているすべての勲章を佩用すると、現在地を死守せよという命令は「狂気の沙汰」だといって、戦車に乗り戦闘の真只中に向かって前進していった、と報告した。1時間後にバイエルラインがトーマ将軍の後を追って前進したところ、炎上している戦車と将兵の死体および、破壊された対戦車砲が散乱している墓場のような地点を見た。そこから200ヤード離れたところに、背が高く、痩せたトーマ将軍が、炎上しつつある戦車のかたわらに鞄を手にして立っており、彼に向かって、数方向からイギリス軍の戦車が迫りつつあるのを見た、というのである。ロンメルとヴェストファルはバイエルラインの話から、トーマ将軍が自ら進んで英軍に投降したことは間違いないものと判断した。ヴエストファルが大声をあげていった。「何ということでしょう、バイエルライン大佐。そのことは、あなたの胸の中に納めておいて下さい。でないと、トーマ将軍の家族全員が大変な目にあうことになるでしょうから」 それからまもなく、ロンメルの指揮下の無線情報中隊は、イギリス軍が報告しているのを傍受した――「われわれはドイツ軍の将官一名を捕虜にした。彼は自分がフォン・トーマであるといっている」 これで、アフリカ軍団長の運命については疑問の余地がなくなった。

 私【アーヴィング】はヴェストファル将軍と話したとき、このようなエピソードをすべて話題にした。すると彼は、陣中日誌等においては巧妙に伏せられていた事実を明らかにした。つまり、あとでロンメルの指揮下の部隊が鹵獲した英軍の文書の中に英第8軍の情報要約書があり、その中に、トーマ将軍が捕虜になった日の夕、モントゴメリーの「騎士道的な」招きを受け入れて食事をともにし、そのあとの会話の際に、ロンメルの今後の計画や兵力配置などについてすべてを語った、と書いてあった、というのである。「ロンメルはあの将軍が好きではなかった」とヴェストファルはいった》
『狐の足跡』下P44



 当時、イギリスの一部の報道機関は第8軍の司令官が「ナチス」の将軍を接待したことへの怒りを表明して、モントゴメリーを窮地に追い込もうとしたそうです。チャーチルはそれを許さなかったものの、こう述べたとか。
「私は、フォン・トーマ将軍に同情する。敗北し、捕虜となり、そして……(劇的な効果のために長い沈黙)……モントゴメリーと夕食を共にすることになろうとは」
(モントゴメリーの唯我独尊的な態度は有名で、チャーチルもモントゴメリーを長い間嫌っていました)

 戦後にチャーチルが出版した戦争関係の本の中で、特に戦略的な事柄についてフォン・トーマの意見を多く引用していることから、チャーチルはフォン・トーマの見識を高く評価していたと見られるそうです。



 その後、フォン・トーマはイギリス本国にあった捕虜収容所に送られましたが、そこでの会話は秘密裏に盗聴されていました。そこでフォン・トーマ(一派)がナチスに対して極めて批判的で、戦争はすでに敗北だと考えており、その見方に反対するクリューヴェルやフォン・アルニムらと反目していたことについては、クリューヴェルに関するブログ記事で書いていましたので省略します。がその他に、フォン・トーマは盗聴されていることを知らずにV1、V2ロケットについて話してしまい、それでロケットについて知った連合軍側は偵察機でその情報が確かであることを確認し、爆撃を行った……ということもあったそうです(この件について、複数の資料でフォン・トーマが非難されるような感じで書かれているのですが、むしろ情報がバレて良かったと考えた方が良いような気が個人的にしました)。


 フォン・トーマは収容所の中で健康状態が悪化し、片脚を切断しなければなりませんでした。彼と良好な関係にあったイギリス側の関係者達が、彼に義足を提供してくれました。1947年に釈放され、ドイツに戻ります。

 戦後すぐの時期にはドイツには十分な数の家がなく、モントゴメリーがフォン・トーマの家には彼の親族以外には誰も泊まらないようにはからったそうです(フォン・トーマは生涯独身で、子どもはいませんでした)。1948年に生まれ故郷の街ダッハウで、心臓発作により56歳で亡くなりました。

第90軽師団を率いて活躍し、後にハンガリーでフェルトヘルンハレ装甲軍団を率いたクレーマン将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第90軽師団を率いて活躍し、後にハンガリーでフェルトヘルンハレ装甲軍団を率いたクレーマン将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

Kleemann, Ulrich. - WW2 Gravestone



 ウルリッヒ・クレーマンは1911年に士官候補生として入隊し、第一次世界大戦では二度の重傷を負い、二級と一級の鉄十字章を受勲しています。

 戦後も義勇隊で戦った後、軍に残ることができました。1919年から1935年までのほとんどの期間を騎兵畑で過ごしていましたが、1935年に第1オートバイ大隊の大隊長に就任します。1938年には第3装甲師団の第3狙撃兵連隊長となりました。同年のズデーテンラント進駐に参加しましたが、この頃、同師団の第5装甲連隊長がヴァルター・ネーリング、第6装甲連隊長がルートヴィヒ・クリューヴェル(共に後に北アフリカ戦線で活躍した指揮官)でした。

 ポーランド戦で活躍したクレーマンは第3装甲師団の第3狙撃兵旅団長へと昇進し、フランス戦に参加します。そしてその役職のままバルバロッサ作戦、キエフ包囲戦、タイフーン作戦などを戦いました。
(「第3狙撃兵旅団」は、師団内の狙撃兵(自動車化歩兵)連隊+若干の砲兵などを統括する編制で、狙撃兵連隊が複数あればそれらすべてを指揮することになります)


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第3装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第3装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第3装甲師団ユニット。

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 その間、1941年10月13日には騎士鉄十字章を授与され、11月1日には少将に昇進しました。しかし1942年にかけてのスターリンの冬季攻勢の最中、クレーマンは負傷したり病気になったりしたため、1942年1月5日に旅団長の職を離れます。

 その後、回復したクレーマンは第90軽師団の師団長として北アフリカに派遣されることになり、1942年4月1日に指揮を執り始めました(ミッチャム氏は、ネーリングやクリューヴェルがクレーマンのことをロンメルに推薦したのはほぼ確実だが、証明はできない、と書いています)。

 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 クレーマンは第90軽師団を率いて、ガザラの戦い、トブルク攻略に参加します。第90軽師団は元々約15,000名の兵員を持っていましたが、わずか1,500名以下にまで減少していました。しかし6月21日にトブルクを陥落させるとロンメルは間髪置かずにエジプトへの侵攻を命じ、第90軽師団も前進。非常に大胆な指揮官であったクレーマンは、その時の兵力が1,600名しかなく、最も近くにいた枢軸軍部隊から15マイル(約24km)離れていたにもかかわらず、ほとんど無謀ともいえる突進で東に向かって走り、6月27日にメルサ・マトルーの東で英連邦軍の第10軍団(第10インド歩兵師団と第50歩兵師団)の後方を遮断することに成功しました。


 OCS『DAK-II』には、この時点から始まる追加シナリオがあります。

OCS『DAK-II』用の追加シナリオ「メルサ・マトルーシナリオ」を和訳してみました (2021/12/14)


 ↓このシナリオの初期配置のメルサ・マトルー付近。

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 シナリオは1942年6月26日ターン(26~28日)からで、まさに第90軽師団が後方の一級道路に入ったところから始まります。黄色いストライプが付いているのが第90軽師団所属ユニットで(1,600名というには多い様な気はしますが(^_^;)、ヘクス37.34のスタックは「1942年7月15日ターンまで移動不可」と指定されています。

 この時英連邦軍の指揮系統は混乱しており、メルサ・マトルーにいた英連邦軍部隊は翌日の夕方まで脱出を試みず、それまでに第90軽師団はイタリア軍部隊によって強化され、6月29日にクレーマンはメルサ・マトルーを占領したのでした(ただし英連邦軍側は完全に包囲はされておらず、史実では最終的にこの中から60%程度の兵員が脱出に成功したと見られているそうです)。


 その後の第1次エル・アラメインの戦いでも勇名を馳せましたが、1942年8月30日の第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)において、アラム・ハルファ高地の西で英第23機甲旅団に対する攻撃を指揮している最中に乗っていた車が地雷を踏んでしまい、重傷を負います。ミッチャム氏やドイツ語版Wikipeida「Ulrich Kleemann (General)」はその日時を9月8日としていますが、アラム・ハルファの戦いは9月3日までなので、『砂漠のキツネ』による8月30日の方が正しそうに思えますが、どうなんでしょうか。あるいはまた、英語版Wikipedia「Ulrich Kleemann」では11月1日まで師団長であったと書かれています。

 クレーマンは数か月入院し、現役に復帰したのは1943年5月28日、エーゲ海のロードス島に駐留する「ロードス」突撃師団の師団長としてでした。1943年9月にイタリアが連合軍に降伏するとクレーマンは現地のイタリア軍部隊を制圧し、イギリス軍が上陸してきたのに対しても反撃に成功して連合軍の企図を失敗させました。

 英語版Wikipedia「Ulrich Kleemann」等によると、1944年6月、ロードス島にSS将校がやってきてクレーマンとユダヤ人問題について話し、7月にはクレーマンはロードス島のユダヤ人を集め、約2,000人のうち1,700人をヨーロッパに移送(追放)せざるを得なかったそうです。また、その財産の没収もクレーマンの協力と権限を使用して実行されたとか。


 その後、1944年9月にドイツ軍はロードス島から部隊を引き上げ、1944年10月11日にクレーマンは第4装甲軍団長に任命されました。ただし、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によれば1944年9月2日となっています。同書によれば、同軍団の名称は↓のように変化したそうです。

Ⅳ ARMEEKORPS(1935年10月~1944年9月)
Ⅳ PANZERKORPS(1944年10月~11月)
Ⅳ PANZERKORPS FELDHERRNHALLE(1944年11月~1945年1月)
(『Rommel's Desert Commanders』によれば1944年11月27日から「装甲軍団フェルトヘルンハレ」に改称」



 同軍団はハンガリーとオーストリアで戦います。OCS『Hungarian Rhapsody』は1944年10月5日ターンから1945年2月26日ターンまでのハンガリー国内での戦いすべてを包含しており、同軍団は「第4装甲軍団フェルトヘルンハレ」という名称でユニット化されています(あるいは、「第4装甲軍団」と「フェルトヘルンハレ装甲軍団」の名称をまとめて「4 FHH」としているという解釈の方が正しいかも)。

 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の第4装甲軍団フェルトヘルンハレ司令部ユニット。

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 クレーマンは第8軍の司令官代理を務めた1944年12月22日から28日の期間を除き、残りの戦争期間中ずっとこの軍団を指揮しました。同軍団は非常に弱体な装甲軍団であり、しかもその戦闘部隊のほとんどがブダペスト包囲環の中に取り残されてしまいます。ブダペスト救出作戦(コンラートⅢ)が行われた1945年2月には同軍団は第13装甲師団、第2フェルトヘルンハレ装甲師団に加え、ティーガー戦車を装備した第503重戦車大隊と強力な戦闘工兵部隊を擁していましたが、ブダペスト包囲環へ到達することはできませんでした。

 その後もクレーマンは同軍団を率いてスロヴァキアと上オーストリアで戦い、終戦時には指揮権をイギリス軍に譲渡しました。ロードス島での件は戦争犯罪には問われず、1947年に捕虜収容所から釈放され、西ドイツに定住しました。1963年、自動車事故で70歳で亡くなりました。


重病のロンメルの代わりにアフリカ装甲軍司令官代理を務めるもエル・アラメインで心臓発作で亡くなったシュトゥンメ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、重病のロンメルの代わりにアフリカ装甲軍司令官代理を務めるもエル・アラメインで心臓発作で亡くなったシュトゥンメ将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 146-1980-009-34, Georg Stumme

 ↑シュトゥンメ将軍(Wikipediaから)



 シュトゥンメは1942年の「青作戦」直前に、敵に攻撃計画を漏らしてしまうという事件を起こしており、パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』の青作戦の部「第Ⅵ部 カフカスと石油」の第3章「洩れた攻撃計画」の前半がその経緯に当てられているのですが、その冒頭でシュトゥンメ自身についてこう詳述されています。

 シュトゥンメは優れた軍人だった。そして生活を楽しむすべを知っていた。小柄だがエネルギッシュ。青年騎兵将校だったころからモノクル【片眼鏡】をつけている。高血圧のため顔がほんのりと赤い。こういう肉体的・精神的特徴からくるあだ名はもう決まっている。司令部の将兵は密かに彼を《球雷(球形の雷光)》と呼んでいた。もちろん本人もそのことを知ってはいたが、知らん顔をしていた。たまたまそれを耳にしても反応を示さなかった。
 シュトゥンメは学者的な参謀タイプではなく、実際的な人で、戦術・戦略的チャンスをかぎつける本当の嗅覚をそなえていた。ドイツ軍装甲軍団の指導的存在で、理性的プランナー、即断の実行者。兵たちに愛され、兵のためには休むことなく働き、彼のエネルギーと嗅覚を賛嘆する将校から尊敬されていた。
 その弱点 - 優雅な弱点 - は、美食家ということだった。
「戦争=粗食! いや、諸君、そうではない!」。始終そう言っていた。そして司令部が調達してくる食物をいつも客たちと分けあった。

『バルバロッサ作戦(下)』P89,90


 また、英語版Wikipedia「Georg Stumme」にはこのように書かれていました。

 シュトゥンメの幕僚の一人であったフリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルクは、シュトゥンメが「和やかな」雰囲気を作り出す一方で、「一流の、良く統率された師団」を維持したと述べた。マーク・M・ボートナーによれば、
「背が低くユーモアのあるシュトゥンメは、慢性的な高血圧のため顔がずっと赤くなるのが悩みだった。部隊は彼を「火の玉」と呼び、モノクルをかけたこの小さな将軍はドイツ国防軍の基準からしても前線に立つには高齢だったが、戦術的な機会を捉える才能があった。」





 ロンメルより5歳年長のゲオルク・シュトゥンメは1906年に士官候補生として砲兵連隊に入りましたが、その後すぐに騎兵部隊に転属し、軍歴の大半を馬上で過ごすことになりました。第一次世界大戦に従軍し、戦後も軍に残り、ヒトラーが政権を取った時には中佐でした。

 ナチス政権下で急速に出世したシュトゥンメは1938年には中将になり、同年10月10日に第2軽師団長に任命されました(「軽師団」は自動車化歩兵師団と装甲師団の中間に位置する、やや戦車を強化された編制)。ポーランド戦で活躍した後、シュトゥンメは同師団を装甲師団として再編成する任務をあたえられました。

 1939年10月18日に同師団は正式に第7装甲師団と改称されましたが編成作業は続き、1939年末にフランス国境に再配置されます。そして1940年2月15日、第7装甲師団の指揮権をロンメル少将に譲ります。この時、ロンメルから装甲師団に指揮についてアドバイスを求められ、「より大胆な方策を選べ」と助言したそうです。

 シュトゥンメ自身は当時編成中であった第40軍団の司令官に就任します。1940年のフランス戦において第40軍団は当初予備部隊でしたが連合軍主力が敗北した後第6軍に合流し、掃討戦で小さな役割を果たしました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第40軍団司令部ユニット。

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 シュトゥンメは6月1日に騎兵大将に昇進。第40軍団は7月までにドイツに戻り、9月15日には自動車化軍団となりました。1941年4月と5月にはバルカン侵攻作戦に参加し、第9装甲師団やSSライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラーを率いてギリシャ征服に大きな役割を果たします。この作戦でシュトゥンメは、自分の将来は装甲部門にあると確信し、自分の「騎兵大将」の階級を「装甲兵大将」に変更してもらえるように手配したそうです。

 1941年6月末に第40自動車化軍団はオーストリアに移され、ソ連侵攻の初期には参加しませんでした。しかし8月に中央軍集団に合流し、歩兵2個師団を麾下としてトロペツ方面(ヴェルキエ・ルーキの東方)で戦います。さらに9月にはヘープナー将軍の第4装甲集団(後に装甲軍と改称)に移され、第2装甲師団、第10装甲師団、第258歩兵師団を与えられました。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第40軍団司令部ユニット。

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(ユニット上は「装甲軍団」扱いになっています。『ドイツ軍名将列伝』P446では同軍団は1940年9月に装甲軍団となったとありますが、『Rommel's Desert Commanders』では1940年9月15日に自動車化軍団、1942年7月9日に装甲軍団とあります。『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』P142によれば同軍団は1942年7月まで「ARMEEKORPS」であり、その月から「PANZERKORPS」となっています。)


 タイフーン作戦でシュトゥンメは本領を発揮しました。同軍団はヴャージマ包囲環の南側を形成し、追い詰められたソ連軍部隊が決死の脱出を試みて一時はシュトゥンメの司令部の至近距離での戦闘も起こります。モスクワへの突進では麾下の第2装甲師団が他のどの部隊よりもモスクワに近づいたのでした。

 この前進の際、T-34の反撃に会い続け、シュトゥンメは第10装甲師団長フィッシャー少将に「やれやれ、これでは強化された偵察パトロールに過ぎない!」と言ったそうです(『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P178)。


 モスクワの戦いの最終盤で第40自動車化軍団は第4軍(フォン・クルーゲ)に移され、そこでシュトゥンメは第19装甲師団と歩兵師団2個を指揮して1942年初頭の退却戦を戦います。その後、第40自動車化軍団は南方軍集団へと送られ、「青作戦」の準備を始めました。

 ところがその地で、シュトゥンメの軍歴を台無しにしてしまう事件が起こります。

 1942年6月19日(「青作戦」開始の4日前)、シュトゥンメ将軍はあるコミッサール(ソ連の人民委員)のものであったハリコフ近郊の別荘に司令部を置いており、そこで麾下の3人の師団長(第3装甲師団、第23装甲師団、第29自動車化歩兵師団の)と共にクリミア産のシャンパンで乾杯し、様々なごちそうに舌鼓を打っていました。軍団参謀長のゲルハルト・フランツ中佐を初めとする数名の幕僚も同席していました。その和やかな雰囲気の中に、緊急の知らせが入りました。第23装甲師団の作戦参謀であるライヘル少佐を乗せたフィーゼラー・シュトルヒ観測機が行方不明で、ソ連軍の陣地内に墜落したのではないかというのです。


 ↓OCS『Case Blue』の1942年6月5日ターン開始キャンペーンの初期配置におけるハリコフ近郊(青く塗られているヘクスがハリコフの大都市ヘクスです)。

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 シュトゥンメは青ざめました。ライヘル少佐はシュトゥンメの許可を得て「青作戦」の概要を記したメモと地図を持っていたのですが、この作戦の情報を文書にすることをいかなる将校にも厳しく禁じるという命令がヒトラー自身によって出されていたのです。シュトゥンメは直ちにそのシュトルヒの本格的な捜索を命じ、パーティーはお開きとなりました。

 歩兵部隊が、シュトルヒがソ連軍側の陣地に近い方に墜落したを目撃していました。すぐにパトロール隊が出動し、ライヘル少佐とパイロットが死んでいるのを発見しましたが、地図帳とブリーフケースはなくなっていました。ソ連軍側がすでに回収していたのです(ただし、この書類の話を聞いたスターリンはそれをただちに偽物だと決めつけてしまったため、青作戦の奇襲性は失われずに済みました)。

 シュトゥンメはことの顛末を上級司令部に報告せざるを得ませんでした。6月20日、総統大本営に事件の概要を記した報告書が届いてヒトラーは激怒し、ライヘル少佐の師団(第23装甲師団)長と軍団長(シュトゥンメ)を軍法会議にかけると息巻きます。

 その後の調査はOKWの総司令官であるヴィルヘルム・カイテルが行うことになりました。シュトゥンメとその参謀長フランツは6月26日に職務を解かれ、第23装甲師団長(フォン・ボイネブルク=レングスフェルト)は7月20日に解任されました。シュトゥンメとフランツは、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングを裁判長とする特別軍事法廷にかけられます。

 裁判は一日で終わり、二人は有罪となりました。シュトゥンメは5年、フランツは2年の禁固刑と宣告されたのです。しかし、ゲーリングはこの二人の態度に非常に感銘を受けていました。ゲーリングは裁判が終わった後、二人と握手して「君達は勇気を持って誠実に語り、まったく言い訳することもなかった。私は総統にそのことを報告しよう。」と言ったそうです。また、南方軍集団司令官のフォン・ボック元帥はヒトラーとの次の会談の機会に、二人のために直訴しました。それらの結果、ヒトラーはわずか4週間の拘禁で刑を免除し、二人を現役に復帰させました。彼らは二人とも北アフリカに送られることになりました。アフリカ装甲軍司令官のロンメルが重病(慢性的な胃痛と肝臓病、血圧障害など)を患っていて代わりの指揮官を要請していたため、シュトゥンメはその代理司令官、フランツはアフリカ軍団の参謀長に任命されたのです。


 シュトゥンメは1942年9月16日にエジプトに入り、19日にロンメルの司令部に到着して同日、イタリア軍のカヴァッレーロ元帥達と会談を持ちました。そして22日、ロンメルは装甲軍の指揮をシュトゥンメに委譲します。この時のことをロンメルはこう書いています。

 私が、英軍の大攻勢があった場合には、アフリカ戦域に戻るために治療を中断するつもりであると聞いて、シュトゥンメはあまり嬉しそうではなかった。私が彼を信じていないというように受け取ったのだろう。だが、それはまったく逆で、むしろ私は確信していたのである。もし、シュトゥンメが英軍のことをよく知らないとしても、エル・アラメイン正面に危機が訪れた場合に、このきわめて有能な装甲部隊指揮官が適切な決断を下せないことなどあるわけがない、と。だが、あいにく、どんな代理人に対してだろうと、自分の経験を言葉で伝えるのは不可能なのだ。
『「砂漠の狐」回想録』P262



 シュトゥンメが着任した後の頃のことを、アーヴィングはこう書いています。

 ロンメルの代理が着任したのは9月19日になってからであった。ゲオルク・シュトゥンメは大柄【ママ】で愛想のいい戦車戦の専門家で、先ず北アフリカの枢軸軍の間に新たな夢囲気を作り上げた。ケッセルリングはシュトゥンメがロンメルよりも情緒的に安定した人物であることを知り、ドイツ軍とイタリア軍の間および、指揮官とその部下の将兵との間の関係がそこなわれていたのを改めようとするシュトゥンメの動きを、好意的な目で見守っていた。
『狐の足跡』上P295



 しかし当時すでにエル・アラメインにおける英連邦軍の優位は絶大なものとなっており、しかも枢軸軍側は燃料さえ事欠いていました(ロンメルは後に、シュトゥンメが燃料の使用を厳しく制限していなかったために後に枢軸軍が恐るべき窮地に陥ったとほのめかしてもいます)。

 1942年10月23日、いわゆる第3次エル・アラメインの戦いが英連邦軍の攻勢開始によって幕を開けました。シュトゥンメは翌朝から前線へ偵察に出かけました。将校達は引き止めたのですが、シュトゥンメが聞かなかったのだといいます(『Mythos Rommel』P118)。またこの日、シュトゥンメはこう言っていたそうです。

 10月24日に出発する前、シュトゥンメは、ヴェストファルに対して、こう述べたという。ロンメルの復帰を請願したほうが目的にかなっていると思われる、自分にはアフリカ戦域の経験が少なく、英軍の図抜けた戦力と破滅的な補給の状況に鑑みて、この戦いを成功裡に遂行できるかどうか、確信できないからだ、と。
『「砂漠の狐」回想録』P278



 10月24日の経緯について、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはこう書かれています。

 最近アフリカに来たばかりの機甲軍代理総司令官シュトゥンメ将軍は勇敢な人物で、ロンメルの伝統に従い、みずから最前線で指揮をとらねばならぬと思い込んでいた。そこで軍情報部主任ビュヒティング大佐を伴っただけで《警報路》を通って前線へ急行し、28高地近くの激戦地へ向かい、そこでイギリス軍【『Mythos Rommel』P118によればオーストラリア軍】の機関銃と対戦車砲につかまった。
 ビュヒティングは頭部に致命傷を受け、運転兵は装甲車をめぐらして逃げようとした。とっさに道路にとびおりていたシュトゥンメは、疾駆する車にしがみついたが、運転兵が気づかぬうちに転落したまま動かなかった。彼を収容したのは【第164軽師団の】第125連隊第1大隊の斥候隊だった。第2中隊のホルツシュー曹長とキール伍長が発見したのである。将軍は息たえていた【『Mythos Rommel』P118によれば、夕方まで行方不明で、発見された時には遺体は掠奪されていたといいます。また、同書や他の資料でも一致して、心臓発作を起こして死亡したと記述されています】。
 軍司令部の交換手は、ヴェストファール大佐から参謀次長にあてたこの悲劇の報告をつなぐとき、接続スイッチを操る手がふるえた。彼は思い出していた。シュトゥンメ将軍の着任以来、ほとんど毎夜【エル・アラメインから少し西の海岸沿いの集落であるメルサ・マトルーに置かれていた】野戦バクテリア研究班につないだ会話のことを。はじめ彼は好奇心に聞き耳を立てたものだった。司令官が研究班になんの用があるのか? 彼が聞いたのは--
「ベルベルかい?」--「そうよ、おとうさま」
 シュトゥンメ将軍は娘と話していたのである。彼女はマルサ・マトルーのバクテリア研究班で働いていたのだ。最初の会話がすむと交換手はマルサ・マトルーの相手に言った。「おい、きいたか? 親子でアフリカだぜ」 マルサ・マトルーの相手はシュヴァーベン訛まる出しでこたえた。「なあ、気が遠くなるかと思ったな。一年ぶりのおなごの声だもんな」
 軍司令部交換台の上等兵は10月24日の夜、このことを考えないわけにはいかなかった。
『砂漠のキツネ』P279



 ロンメルはこう書いています。

 突如、心臓発作が将軍を襲い、彼は車から転がり落ちたのであった。……シュトゥンメ将軍は、ずっと前から高血圧で悩んでおり、熱帯勤務には向いていなかったのである。われわれはみな、彼の急死を悼んだ。彼は、軍をうまく動かし、昼夜を問わず前線を訪れるために、できる限りの努力を払ったのだ。
『「砂漠の狐」回想録』P278



 ただし、アーヴィングはこのようなことも書いています。

 10月25日、遅くなってからロンメルが彼の司令部のトラックへ帰って来たときには、すでにエル・アラメインの激戦が開始されてから四八時間以上経っていた。敵の砲声は耳をつんざくような激しさであった。そこでロンメルは、敵が攻撃準備のために集結しつつあるとき、どうしてわが軍の砲兵は敵に砲撃を加えなかったのかと訊いた。すると、フォン・トーマ将軍【……】とヴェストファルの両名が、亡くなったシュトゥンメ将軍がそのような射撃を実施するのは砲弾の浪費であるといって、これを禁じていたからであると説明した。それは致命的な失策であった、というのがロンメルの考えであった。そのおかげで敵は前哨陣地を蹂躙し、非常に少ない損害をこうむっただけで、ドイツ軍の地雷原を占領することができたからである。
『狐の足跡』下 P26


アフリカ装甲軍における最高の師団長と見なされていたが、エル・アラメインの戦いで戦死したフォン・ビスマルク将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、アフリカ装甲軍における最高の師団長と見なされていたが、エル・アラメイン(アラム・ハルファ)の戦いで戦死したフォン・ビスマルク将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 101I-784-0232-37A, Nordafrika, Erwin Rommel, Georg v. Bismarck

 ↑ロンメル(左側)と話すフォン・ビスマルク(Wikipediaから)



 フォン・ビスマルク家は1270年までさかのぼることのできる貴族の家系で、有名な「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクはその一族の者でした。

 ゲオルク・フォン・ビスマルクは1911年に士官候補生として入隊し、第一次世界大戦ではヴェルダン、カルパティア、イタリアで戦って二級と一級の鉄十字章と、ある峠を取った功績によりホーエンツォレルン家の剣付き勲章も授与されました

 敗戦後もシレジアで「戦後の戦争」に従軍し、1920年に軍に受け入れられます。1924年に第2自動車化歩兵大隊の中隊長となり、自動車化部隊の可能性をすぐに見て取った彼は、その後の軍歴を自動車化部隊、あるいは装甲部隊の指揮に捧げることになりました。

 1938年に第7狙撃兵(自動車化歩兵)連隊(当初の名称は第7騎狙撃兵連隊)の連隊長となり、ポーランド、ベルギー、ルクセンブルク、フランスで指揮を執りました。この第7狙撃兵連隊はロンメルが指揮する第7装甲師団に所属しており、ロンメルはフォン・ビスマルクの活躍に強い印象を受けたのです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7装甲師団ユニット。

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 フランス戦の後の1940年12月20日、フォン・ビスマルクは第20装甲師団の第20狙撃兵旅団(師団内の狙撃兵連隊2個をまとめた部隊単位)の旅団長に任命されます。彼は東部戦線でこの部隊を率い、ミンスク、ヴィテブスク、スモレンスク、ヴャージマなどの激戦を戦いました。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第20装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第20装甲師団ユニット。

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 ところが第20装甲師団長であったホルスト・シュトゥンプが東部戦線での心労で健康を害したため、1941年9月10日からフォン・ビスマルクが師団の指揮を引き継ぎます。彼は12月18日まで同師団を指揮していましたが、後任の師団長としてフォン・トーマ(後にドイツアフリカ軍団長などを務め、エル・アラメインで捕虜になった人物)が着任し、ロンメルの要請でリビアに派遣されることになりました。
(ただし、『ドイツ装甲部隊全史Ⅲ』によれば、シュトゥンプが10月13日まで師団長で、10月14日からフォン・トーマが師団長となっていました)



 フォン・ビスマルクは1942年1月5日(ロンメルの第2次攻勢の前の時期)、アフリカ装甲集団の参謀として着任します。しかし第21装甲師団長であったベットヒャーが体調不良を訴えて師団長を退いたため、2月11日(ロンメルの第2次攻勢がガザララインで落ち着いた頃)に第21装甲師団長に就任しました。


 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団(ガザラの戦いの頃)。

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 ガザラの戦いではトブルク占領(6月)に大いに功績を挙げます。


 フォン・ビスマルクは傑出した戦術指揮官であり、当時アフリカ装甲軍における最高の師団長と見なされていましたが、第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)が開始された翌日の1942年8月31日、アラム・ハルファ高地の近くで、乗っていた戦車が爆発して戦死しました。資料によって、対戦車地雷を轢いたのか、英連邦軍の戦闘爆撃や対戦車砲の攻撃を受けたのかなどに関して、見解は異なっているそうです。

砲兵畑の将軍でありながら見事な指揮を見せ、第21装甲師団長にもなったベットヒャー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、砲兵畑の将軍でありながら見事な指揮を見せ、第21装甲師団長にもなったベットヒャー将軍についてです。



Bundesarchiv Bild 183-B18239, Nordafrika, Rommel mit Generalmajor Böttcher.2

 ↑ロンメル(右)とベットヒャー(左)(Wikipediaから)



 カール・ベットヒャーは複数の士官学校で学び、1909年に上級将校として軍に入りました。第一次世界大戦では主に砲兵隊で部隊を指揮して戦果を挙げ、戦争中に砲兵学校の教官も務めました。戦争末期には砲兵大隊長となっており、戦後も軍に残ります。

 1920年代をポーランドからの侵攻が現実味を帯びていた孤立した東プロイセンでの軍務で過ごし、機動作戦の貴重な経験を積みました。その後は砲兵大隊長、砲兵連隊長、要塞の砲兵将校などを歴任します。

 ポーランド戦時には国境警備部隊にいましたが、1939年9月30日にポツダムの陸軍士官学校で編成されていた新部隊である、第104砲兵司令部(Arko 104)の司令官に任命されました。この第104砲兵司令部は司令部直轄の特別な砲兵(迫撃砲、重砲兵、それにロケット砲など)で構成されており、フランス戦で活躍し、1941年初頭にはアフリカ軍団が専門的な重砲の支援を必要としていたリビアへと派遣されます。

 春に北アフリカへと到着したベットヒャー率いる砲兵群は1941年のすべての主要な戦闘に参加し、トブルクへの進撃と包囲、イギリス軍によるトブルク救援作戦(ブレヴィティ作戦、バトルアクス作戦、クルセイダー作戦)などで活躍しました。砂漠の開けた地形では、爆撃機、急降下爆撃機、戦闘爆撃機などの総計よりも、砲撃によって最も多くの死傷者を出したそうです。

 ロンメルはクルセイダー作戦の最中に「鉄条網への進撃」を決断した際、ベットヒャーを敵を阻止する部隊の責任者に任じました。しかしベットヒャーに預けられた兵力はごくわずかなものでしかなかった上、ロンメルが行方不明になっている間に英連邦軍はトブルク方面に大規模な攻撃を仕掛けてきたため、突破されてしまうのは時間の問題だと思われました。

 双方共が大混乱で何が起こっているのか分からない中、ベットヒャーは見事な指揮で連合軍の攻勢を防ぎます。ロンメルがトブルク方面に戻ると、ベットヒャー麾下の部隊がかろうじて持ち堪えているのを発見しました。ロンメルは即座に英連邦軍に攻撃をしかけて撃退し、トブルク包囲環は維持されたのです。

 ベットヒャーは砲兵部隊だけでなく、非砲兵部隊をも非常に上手く指揮できることを証明しました。彼への騎士鉄十字章への推薦文には、「アフリカ軍団が到着するまで敵の突破を阻止できたのは、ひとえに彼の巧みなリーダーシップと、自ら先頭に立つ指揮によるものだった」と書かれているそうです。

 その2日後、1941年11月29日に第21装甲師団長であったフォン・ラーフェンシュタイン将軍が捕虜になってしまった為、ロンメルはその後任にベットヒャーを選びます。


 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団ユニット。

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 師団長に就任した初日(12月1日)、ベットヒャーはイギリス第7機甲師団の進撃を阻止するという重要な役割を果たしました。


 その後ロンメルは一時撤退を行い、ベットヒャーはロンメルから騎士鉄十字章を推薦され、1941年12月31日に授与されました。翌月にはロンメルは第2次攻勢を行って再びガザララインまで到達しますが、砂漠の過酷な環境でベットヒャーの体調は(他の将軍達と同じように)悪化しており、1942年2月10日に師団長職を離任し、2月18日に飛行機でヨーロッパに戻ります。

 その9ヵ月後、まだ完全には回復していなかった(完全に回復したのは1944年になってからだったそうです)ものの、1942年11月25日、編成中であった第345歩兵師団の師団長に就任します。この師団はフランスに送られ、スターリングラードで潰滅した第29自動車化歩兵師団の後継となる第29装甲擲弾兵師団となるための編成作業が行われました。同師団はシチリア島へ送られ活躍することになりますが、ベットヒャーはそちらへは行かず、1943年4月9日にフランス南岸の都市ナルボンヌで第326歩兵師団の副司令官に任命されます。

 5月8日には師団長が別の役職に就くことになったため、ベットヒャーが師団長となりましたが、彼は再び体調を崩し、5月31日に師団の指揮を放棄し、総統予備となりました(この師団は後にノルマンディー戦に投入され、壊滅的な打撃を受けました)。

  1943年10月にはオランダで第347歩兵師団長となりましたが、再び12月には総統予備に戻ります。1944年3月10日、ベットヒャーはクロアチアの第2装甲軍に所属する第305高等砲兵司令部を指揮することになり、対パルチザン戦や、後にソ連軍に対して戦いました。1945年3月10日には第4特殊任務砲兵司令部の司令官となり、終戦まで東部戦線の第2装甲軍を支援し続けます。終戦時、彼はソ連軍にではなく、ギリギリのところでイギリス軍に対して降伏することができました。

 1947年に捕虜収容所から解放されましたが、かつて住んでいた場所は鉄のカーテンの向こう側でポーランドに併合されていたため、西ドイツ側に住み、1975年に85歳で亡くなりました。

 

第15装甲師団長、第5装甲軍司令官を務めたフォン・フェールスト将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第15装甲師団長、第5装甲軍司令官を務めたフォン・フェールスト将軍についてです。



 写真は、↓ですとか。

General der Panzertruppe Gustav von Vaerst




 グスタフ・フリードリヒ・ジュリアス・フォン・フェールストはヴェストファーレンの旧貴族の家の出でした(ドイツ語版Wikipedia「Gustav von Vaerst (General)」では、「フリードリヒ」と書いていた部分は「フリッツ」となっています)。

 1912年に士官候補生として軍隊に入ります。第一次世界大戦では西部戦線、東部戦線で戦い、敗戦後も義勇騎兵隊に入ってポーランド人からドイツの国境を守るのに貢献しました。

 1919年11月に軍に受け入れられ、様々な部隊に所属し、戦術教官なども務めます。カービン銃の卓越した射撃技術で評判になり、表彰されたこともあったそうです。

 1938年1月、フォン・フェールストは第2装甲師団隷下の第2狙撃兵連隊長に任命されました。ポーランド戦時には第2狙撃兵旅団(恐らく第2狙撃兵連隊の他、若干の砲兵を含む)の旅団長となり、続けてその役職でフランス戦、ギリシャ戦を戦います。フランス戦時にはブーローニュ攻略の功績により、騎士鉄十字章を受勲しました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第2装甲師団ユニット。

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 その後、ドイツ語版Wikipediaによれば騎兵学校の副司令官に任命されたとありますが、『Rommel's Desert Commanders』では東部戦線でもそのまま指揮を執ったと書かれています。第2装甲師団長のファイエル将軍は、フォン・フェールストをこう評価していたそうです。
「自分自身に高い基準を課す、素晴らしい人物である。実践的で、明確で、冷静で、敵を眼前にして命令を出すリーダーシップと決断力がある!」

 1941年の終わり頃、彼はアフリカ装甲集団へ派遣されることになり、12月9日に第15装甲師団の指揮を執り始めます(クルセイダー作戦の主戦闘は12月4日頃に終わっていましたが、その後も小さな戦闘が起こっており、12月5日に先代師団長のノイマン・ジルコウ将軍が瀕死の重傷を負っていました)。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団ユニット。

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 ロンメルの副官であったハインツ・シュミットはこのように記しています。

 ノイマン・シルコウが戦死した後フォン・ファーエルスト少将が師団長となり、たちまち部下の信頼を得た【……】
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P164,5



 また、ロンメルの第2次攻勢の前の時期の逸話として、このような話がパウル・カレルの『砂漠のキツネ』に書かれています。

 もしこのイギリス将軍がその【1942年】元旦、第15機甲師団長フォン・ヴェルスト将軍について塹壕を視察していたら、全然別の電文を送ったかもしれない。どの塹壕からも軍規どおりの報告があったが、ただ一人の哨兵が双眼鏡をのぞいたまま報告しなかった。「これ、今年はしっかりやれよ」 将軍は、哨兵を元気づけた。「閣下もご同様に」 陽気な答えがもどってきた。老将軍は大声で笑ったのである。
『砂漠のキツネ』P121


(「老将軍」という書き方ですが、フォン・フェールストは1894年生まれでロンメルより3歳年少、この時48歳となります)



 翌1942年5月26日、フォン・フェールストはガザラの戦い(「テーゼウス作戦」)の初日に重傷を負い、師団長職を離任しました。しかし8月8日(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば7月8日)に師団長職に復帰し、第1次エル・アラメインの戦いで戦います。第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)の時には、途中の8月31日にドイツアフリカ軍団長ネーリングが負傷したため9月17日まで軍団長代理も務めました。

 第3次エル・アラメインの戦い(10月23日~11月5日)でも戦いましたが、11月11日に病気を訴えてヨーロッパに戻ります。


 その後回復したフォン・フェールストは、チュニジアでの戦いでこれまで第5装甲軍司令官であったユルゲン・フォン・アルニム将軍が在アフリカ枢軸軍全体の指揮を執るアフリカ軍集団司令官に就任することになったため、1943年3月9日に後任の第5装甲軍司令官となりました。


Bundesarchiv Bild 101I-787-0502-34A, Generaloberst von Arnim und General von Vaerst

 ↑フォン・フェールスト(左の後ろ姿)を迎えるフォン・アルニム(右)。(Wikipediaから)


 フェールストは優れた軍司令官であることを証明し、チュニジアで最大限の抵抗を続けました。しかし5月には補給線が完全に崩壊し、在アフリカの枢軸軍全体が降伏を余儀なくされました。



Captured German Senior Officers From the African Campaign Arrive at a Prisoner of War Camp in Britain, 10 June 1943 TR980

 ↑捕虜となったアフリカ戦線のドイツ軍上級将校達がイギリスの捕虜収容所に到着したところ(1943年6月10日)。収容所長のトップハム少佐と陸軍省代表がドイツ軍将校を出迎える。この中にフォン・フェールスト将軍も映っているそうです。(Wikipediaから)



 フォン・フェールストは1947年に捕虜から解放され、ドイツに戻って残っていた領地で隠遁生活を送ったそうでが、その地での赤十字の再建にも尽力したとか。亡くなったのは1975年のことでした。

北アフリカ戦で活躍した第90軽師団について

 今回は、北アフリカ戦で活躍した第90軽師団についてです。


 文献資料からだと色々とごちゃごちゃでややこしいので、基本的に英語版Wikipedia「90th Light Infantry Division (Wehrmacht)」の記述を元にまとめておこうと思います。



 1941年6月26日(バトルアクス作戦の少し後)、OKHはドイツ国内において「Kommando zbV Afrika(アフリカ特殊任務部隊)」の為の師団司令部幕僚の任命を命じました。この師団は、北アフリカに展開するDAKのバランスを調整する意図で、歩兵部隊を追加するためにアフリカに派遣する予定になっていました。

 1941年8月末から9月中旬にかけて編成本部がアフリカに送られ、ソルーム地区を指揮するようにされた上で、1941年10月15日に最初の部隊がいくつか配属されました。10月20日にはさらなる部隊(第155歩兵連隊、第900工兵大隊、第605対戦車大隊)が加えられて増強され、「Division z.b.V. Afrika(アフリカ特殊任務師団)」と呼ばれるようになります。


 ↓OCS『DAK-II』のアフリカ師団ユニット+α。

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 その後?(他に)第288特殊部隊と第361連隊もこの師団に配属されたようです。

 前者についてはこちら→OCS『DAK-II』の「第288特殊部隊」ユニット (2017/03/13)

 第361連隊は、その構成員のほとんど(300名)が元々「フランス外人部隊」に所属していたドイツ人達でした。1940年にドイツがフランスを征服しヴィシー政権が成立して数日後に、フランス外人部隊のドイツ兵達が強制的にドイツ軍に編入されたものだそうです。資料等に詳細には書かれていませんでしたが、フランスに忠誠を誓うフランス外人部隊に入るくらいのドイツ人ですから、ナチスに対して極めて批判的な人達ばかりだったのではないでしょうか。彼らをドイツ軍内に組み込んで軍務を与えるのは難しいと考えられていたのですが、ドイツ国防軍は絶え間ない追加兵力の必要性に迫られており、そのためにこのようなことになったのだとか。

 また他にも、フランス領北アフリカに置かれていたフランス外人部隊のドイツ人であるとか、ナチスに対して反抗的な政治犯が集められていた部隊からとか、「ニュージーランド軍の捕虜収容所から救出された500名」(『グランドパワー アフリカ軍団』P130)などの兵士達もこの師団に集められていたそうです。

 ロンメルの一団の中でも最も多彩で、服装は型にはまらず、ドイツ軍の標準からすれば軍規もゆるやかであったそうです(『パットン対ロンメル』P217)。


 1941年11月28日(クルセイダー作戦の真っ只中)に「第90軽アフリカ師団」と改名され、42年3月には「第90軽師団」と改名されます。この師団はその後5年間の存続期間中に何度も名称が変更されましたが、「アフリカ師団」という愛称でその後もずっと呼ばれ続け、ドイツ軍の師団の中で唯一アフリカで大部分が編成された師団でした。


 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 この師団は戦車をまったく持っていませんでしたが、比較的強力な火力を有し、最初の頃の自動車化の程度は低かったものの、後に自動車化歩兵部隊も強力となりました。シディ・レゼクの戦いなどで活躍し、頼もしい「北アフリカのドイツ軍の3つ目の師団」となったのです。ただし、第15、21装甲師団とは異なって防衛任務や牽制攻撃等に使用されることが多く、2つの装甲師団が所属していたドイツアフリカ軍団にではなく、アフリカ装甲集団やアフリカ装甲軍の中の別の軍団内に配属されていたことが多かったようです。また、エル・アラメイン戦の頃にはまた自動車の不足を来たし、素早い撤退行動ができず師団の一部がパニックを起こして崩壊してしまったりもしました。


 ↓このような話もあったそうで。

 ラルフ・ベネットの著書『ULTRAと地中海戦略』(著者はイギリスの有名な暗号解読家)によれば、イギリスの暗号解読スタッフの一部は、次第に第90軽アフリカ師団の「ファン」になっていったという。師団について詳しく知るため、連日のようにこの師団を調査するようになり、「時には(第90軽アフリカ師団が)勝利を収めた時でさえ、一緒になって喜んだ」のだという。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP28





 他の部隊と同様、第90軽師団もチュニジアに撤退して戦い続けました。


 ↓OCS『Tunisia II』の第90軽師団ユニット。

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 第2ニュージーランド歩兵師団(英連邦軍の中でも結構精鋭の部隊)は第90軽師団とリビア/エジプトで何度も何度も戦っており、第90軽師団を「特別な敵」だと見なしていたそうです。1943年5月にチュニジアの枢軸軍の退勢が明らかになってくると、第2ニュージーランド歩兵師団長のバーナード・C・フレイバーグ中将は第90軽師団にメッセージを送ったそうです。
「あなた達第90軽師団の状況は絶望的だ。第90軽師団と第2ニュージーランド歩兵師団は2年間戦い続けてきたが、我々はあなた達を全滅させるようなことはしたくないのだ。」
 それへの返信はこのようなものでした。
「あなたのメッセージはありがたいし、我々の状況が絶望的であることも理解している。しかし、我々には果たすべき義務がある」


 第90軽師団は第2ニュージーランド歩兵師団からの攻撃を阻止し、その後の第56歩兵師団からの攻撃も撃退し続けましたが、第6機甲師団の攻撃とイギリス空軍の大量の爆撃により、ついに制圧され、他の残存の枢軸軍部隊とともに降伏しました。

(その後、第90装甲擲弾兵師団が後継師団として編成され、イタリア戦を戦いましたが、第90軽師団時代の兵員がいくらかでも含まれていたのか、今回良く分かりませんでした)



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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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