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外人部隊出身者が多く含まれた第361アフリカ(歩兵)連隊を指揮して活躍したフォン・バルビー中佐について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、外人部隊出身者が多く含まれた第361アフリカ(歩兵)連隊を指揮して活躍したフォン・バルビー中佐についてです。



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 ↑フォン・バルビー(Metapediaから)



 ハンス=レヴィン・フォン・バルビーは1917年に士官候補生として陸軍に入り、第一次世界大戦を戦いました。1919年に除隊し、州警察に入隊。1936年にはデュッセルドルフ市の警察隊長になっていましたが、その年の終わりに彼の指揮する警察隊がドイツ国防軍に編入されることになり、再び軍に所属することになりました。

 フォン・バルビーは第二次世界大戦の開戦5日前に、新たに編成された第254歩兵師団隷下の第474歩兵連隊の第3大隊長に任命されました。彼はこの大隊を率いて1940年のフランス侵攻作戦にも参加しましたが、初日の5月10日に脚を負傷して戦場から退いたようです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第254歩兵師団ユニット。

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 回復した後、1940年12月1日に第255歩兵大隊第3大隊の指揮を任され、この部隊は訓練を行っていたようです。彼のこの部隊は1941年4月初め(ただしドイツ語版Metapedia「Barby, Hans-Levin von」では6月11日。こちらの方が正しそうな……?)に北アフリカに送られ、その後、アフリカ師団の構成部隊の一部となったかと思われます。

 「アフリカ師団」というのは後に「第90軽師団」となる師団です。この師団は結構興味深い存在で、これを機会に次のブログ記事としてまとめておこうと思います。


 ↓OCS『DAK-II』のアフリカ師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』の第90軽師団ユニット(同じ部隊名で異なる時期のユニットもすべて貼っています)。

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 同年夏、フォン・バルビーは昇進して第361アフリカ連隊(後に第361歩兵連隊に改称)の連隊長となりました(彼がそれまで率いていた大隊はこの連隊の構成部隊になったのかもしれません)。ただしMetapediaによると、フォン・バルビーは1940年夏ではなく、1940年11月(11月18日からクルセイダー作戦が始まっているので、恐らくその最中)に連隊長であったグルント大佐が重傷を負ったため、同連隊の連隊長となった、とあります。


 この連隊には元は外人部隊に所属していた兵士が多く含まれていました。ロンメルはこの連隊の野営地に近づくと、いつも運転手にこう指示したそうです。
「スペアタイヤをロックしろ。361連隊に行くぞ」

(これがどういう含みかは書かれていないのですが、ロックしておかないとスペアタイヤを盗まれてしまうぞ、ということでしょうか?(^_^;)


 第361連隊は当初は自動車による輸送手段が不足していたため、移動しないで済むトブルク包囲の任務に回されていました。OCSのユニット上では、アフリカ師団の頃の第361連隊の移動モードの移動力は自動車化タイプの12で、第90軽師団時代の同連隊のそれは、低戦力の(古い)順から14、14、そして装軌の18となっています。

 同連隊は1941年秋から冬にかけて、いくつかの防御戦を戦って成功を収めます。フォン・バルビーはクルセイダー作戦での戦い中の1941年11月30日、シディ・レゼクでイギリス軍部隊を攻撃し、トブルク守備隊とその救援部隊との連携を妨げます。彼はこの功績で騎士鉄十字章を授与されました。


 1942年5月26日、ガザラの戦い(「テーゼウス作戦」)でフォン・バルビーは、クリューヴェル集団によるガザララインに対する陽動攻撃の先陣を切りました。不運なことに、彼は前線に近づきすぎて重傷を負いました。フォン・バルビーはその翌日、デルナの病院で息を引き取りました。


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北アフリカ戦線で型破りな行動で知られるも、有能であったバーデ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、北アフリカ戦線で型破りな行動で知られるも、有能であったバーデ将軍についてです。

 「型破りな行動で知られる」という話ですが、私は今回調べ始めるまで全然知りませんでした(^_^; しかし当時北アフリカでは有名だったんでしょうね(英連邦軍の「ストレイファー」ゴット将軍なんかも、現代日本ではほとんど知られてないと思いますけども、当時は連合国内で非常に有名だったのだと思います)。



Bundesarchiv Bild 101I-315-1110-09, Ernst-Günther Baade (cropped)

 ↑バーデ(Wikipediaから)


 エルンスト=ギュンター・バーデは裕福な家庭に生まれ、十代のうちから馬術の経験を積んでいました。愛国心が強く、冒険心が旺盛だったバーデは、第一次世界大戦が勃発すると17歳になる直前に陸軍に志願し、騎兵部隊に入ります。

 終戦後、バーデは軍に残ることを望むも受け入れられず、その後4年間自分の土地で馬の飼育をしていましたが、1924年に再び軍に入ることができました。1937年には少佐になっており、それまでにバーデとその妻は国際的な馬術競技で有名な存在になっていたといいます。

 ポーランド戦では第17歩兵師団に所属して戦い、1939年12月14日、第Ⅰ/22騎兵連隊の連隊長に任命されます。そしてこの連隊を率いてフランス戦とバルバロッサ作戦に参加しました(同連隊が第1騎兵師団に属していたのはバルバロッサ作戦時には確実だと思いますが、フランス戦の時のことはちゃんとは確認できませんでした)。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第1騎兵師団ユニット。

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 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第1騎兵師団ユニット。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第1騎兵師団ユニット。

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 ユニットではⅠ/22は大隊規模になっていますが、英語版Wikipedia「1st Cavalry Division (Wehrmacht)」を見ていると、少なくとも名称上は連隊のようです。

 『Smolensk:Barbarossa Derailed』と『Guderian's Blitzkrieg II』の第1騎兵師団は、燃料を必要とせずユニット数が多いので便利に使える印象があって好きですね。というか、「OCSでは騎兵が最強(燃料不要かつ、困難な地形でも移動力消費が少ないので)」という説もあり、『Guderian's Blitzkrieg II』で途中に第24装甲師団に改編されるために除去されるのは「装甲師団なんかいらんから騎兵師団を残しておいてくれ……」と思ってしまうところであります(^_^;(実際には騎兵部隊には色々問題があったことについては、こちら→第二次世界大戦で騎兵はなぜ廃れたのか?(付:OCS『Case Blue』) (2019/04/18)




 バーデは1941年8月15日に負傷してしまいましたが、10月15日には実戦に復帰し、同じく第1騎兵師団に所属する第1自転車大隊の指揮官に任命されました(兵科マークの○の中に白と黒の模様があるのが自転車部隊です)。しかし11月中旬に第1騎兵師団は第24装甲師団へと改編されることになり、東プロイセンに戻され、バーデの第1自転車大隊は同師団の第4オートバイ大隊へ改編されます。


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第24装甲師団ユニット(兵科マークで「/」の右下に小さく○○とあるのがオートバイ部隊です)。

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 ドイツ軍で唯一の騎兵師団がなくなってしまった為、バーデは自動車化部隊部門での昇進を目指しました。彼は東部戦線で第4オートバイ大隊を率いて上手く戦い、陸軍の人事部に影響力を持つ人達に自分が自動車化部隊を指揮する能力があることを納得させます。1942年4月に今度は北アフリカに派遣されたバーデは、第15装甲師団の将校達と短い訓練期間を過ごした後、第115狙撃兵(自動車化歩兵)連隊の連隊長に任命されました。



 ↓OCS『DAK-II』の42年1月22日(ロンメルの第2次攻勢)時点での第15装甲師団ユニット。

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 ↓OCS『DAK-II』の42年5月26日(ガザラ戦)時点での第15装甲師団ユニット。

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 バーデは騎士道精神を重んじる紳士であり、ロシア戦線よりも北アフリカ戦線の方が適していました。彼は最初から頭角を現します。ヘッカー将軍の指揮のもと、ビル・ハケイムでフランス軍の防御を崩す攻撃を指揮し、トブルク攻略戦ではさらに顕著な働きをしました。バーデはこの戦いの功績で騎士鉄十字章を受勲しています(最終的には柏葉剣付騎士鉄十字章にまでなりました)。

 個性的で型破りなエルンスト・バーデは、もちろん我が道を行き、スコットランド製の織物と大剣を携えて戦場に赴くことで、すぐにアフリカ軍団の誰からも知られる人物となった。戦場でいつも、タータンチェック【格子柄の織物】のリボンがついた黒いベレー帽をかぶり、ルガー拳銃の代わりに巨大なクレイモア(スコットランド高地人が使用していた両刃の大剣)を持ち歩いていたのである。彼は完璧な英語を話し、それでイギリス軍の砲兵に対して間違った方向への指示を出したり、あるいはただ、敵を呼び出しておしゃべりしたりした。バーデは信じられないほど勇敢で、しばしば敵陣の裏側へと潜入する襲撃を指揮した。ある時彼は、自軍との間にイギリス軍の地雷原がある場所に入り込んでしまった。地雷原を突破する時間がなかったので、捕虜にしたイギリス軍の工兵軍曹を説得して、地雷原を抜けられる道を教えてもらった。軍曹がそれに従い、バーデが地雷原を抜けたところで、彼は軍曹を釈放したのである。

 バーデの振る舞いは、他の戦場ならば問題になったかもしれないが、アフリカ軍団では賞賛を含んだ娯楽をもたらしただけであった。彼は戦場で優れた指揮官であったため、部下達からも上官達からも尊敬されていた(ロンメルは忠誠と戦果を求めた。他に何も要求しなかったが、それらの無い者は受け入れなかった)。 バーデの突拍子もない行動は、陸軍最高司令部の怒りと苛立ちを買っていたが、ロンメルはそれに動じず彼を庇った。その後もバーデは、シチリアではハンス=ヴァレンティーン・フーベ、イタリアではアルベルト・ケッセルリング陸軍元帥によって、ラステンブルグ【総統大本営】の苛立ちから守られたのである。バーデはナチスを刺激するのを気にしていなかった。大戦後期にOKWは南方総軍に電信で、バーデがイギリスの無線網に電信を送り、メリー・クリスマスと祝ったというのは本当なのかと言ってきた。ケッセルリングは、その噂は本当ではないと答えた。それは嘘だった。噂は本当だったのだ。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P76,77



 「クレイモア」というのは、↓こういうものだそうです(Wkipediaから)。邪魔でしょうがなさそうだと思うのですが(^_^;

ClaymoreHighlanderReplica


 ただし、Google Booksで検索していて見つけた『The Fall of Europe』という本の中では、結構違った感じで書かれていました。

 北アフリカの砂漠では、ズボンの上にキルトを身に付け、通常は予備のものを入れるためのポシェットを吊っておく場所に、ホルスターに入れたルガー・ピストルをぶら下げ、夜間の装甲パトロールの指揮を執った。ある時、イギリス軍の戦線の背後に入り込み、将校を拉致してイギリス軍の地雷原を安全に誘導させ、降ろすと握手して礼を言い、自軍の戦線に戻るように言ったこともあるという。敵の前哨部隊への夜間襲撃が終わった後には、イギリス軍の無線網に電文を発信することもあった。「撃つな。今、帰るところだ。バーデ」。敵がそれに対処せざるを得なかったことは一度や二度ではなかったという。昨年1月、バーデの軍団長だったフォン・ゼンガーに、OKWの副官から激昂した電話があり、バーデ将軍がカッシーノでの敵とのクリスマスディナーに招待されそれを承諾したのは事実か、と尋ねられた。もちろん、そんなことはない、とフォン・ゼンガーはOKWを安心させた。しかし彼は、バーデ将軍がしたことは、敵に新年の挨拶を英語で無線で送っただけだとは付け加えなかった。

 このような話の大半は、間違いなく作り話か、少なくとも脚色されたものであった。しかし、そのきっかけとなった人物は、明らかにそうではなかった。彼は、最高の軍人貴族であり、また、そのような才能のある指導者であった【……】



 また、他の資料で、「頻繁に前線を視察に訪れ、兵士達に人気があった」というようなことが書かれていました。









 バーデは1942年7月28日、第1次エル・アラメインの戦い中に重傷を負いました。軍務に復帰したのは12月になってからで、この時イタリア軍最高司令部付きのドイツ軍将校に任命されました。

 1943年4月にバーデはシチリア島に派遣され、チュニジア戦と将来見込まれるシチリア戦のための様々な部隊編成に携わりました。その中には編成時に「シチリア師団(後に第15装甲擲弾兵師団と改称)」と呼ばれていた部隊もあり、バーデはその編成過程で師団長を務めたようです(シチリア戦が始まる前の6月9日に他の師団長に交代。)。この師団はOCS『Sicily II』では4つの戦闘団(KG)に分かれて入っています。


 ↓OCS『Sicily II』の第15装甲擲弾兵師団にあたる4つの戦闘団ユニット。

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 バーデはその後ローマでの連絡業務に戻っていたのですが、7月10日に連合軍がシチリア島に上陸すると、ケッセルリング元帥はバーデを「メッシーナ海峡の司令官」に任命しました。


 ↓OCS『Sicily II』のメッシーナ海峡周辺。

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 左側がシチリア島の北東端で、右側がイタリア半島の「つま先」です。バーデはこの両岸のすべての部隊や船舶を管轄し、対空砲を整備し、この水路を渡ってシチリア島へと増援される部隊や、シチリア島から撤退する部隊を統制しました。

 マップ上で対空砲っぽい印の右上に「2」とか「4」とかの数字が書かれているのが対空射撃力修正で、しかも航空基地による対空射撃修正もあったりするので、通常は2D6で11以上で当たりなのが、5以上で当たりとか言われたりします。

 また、通常の「海上輸送力」に加えて、メッシーナ海峡の4箇所の青い「←→」の航路で、1ターンに計4RE分の部隊を運べます(SPは運べません)。

 コードネーム「レーアガング【教育課程】」と呼ばれたバーデのシチリア島撤退作戦は、戦術的にも傑作であった。イギリス軍の公式戦史までもがこの作戦を「輝かしい成功」と記述している。バーデとその部下たちは、6日間でドイツ軍39,569名(うち負傷者4,444名)、車両9,605台、砲94門(バーデが指揮していた砲も撤退に成功したが、それらは除く)、戦車47輌、砲弾1,100トン、その他の装備・物資15,700トンを撤退させたのである。しかもレーアガング作戦が始まる前に、12,000人以上のドイツ兵、4,500台の車両、5,000トンの物資がシチリア島へと送り出されてもいた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P80

 アメリカの著名な海軍史家、サミュエル・エリオット・モリソンは後にこう書いている。「このキャンペーンの最後のエピソードは、連合軍側の誰もがそれにこだわらなかったこともあって、適切な注目を浴びることはなかった。枢軸軍がメッシーナ海峡を越えてシチリア島を脱出したことだ。これはダンケルク、ガダルカナル、キスカと並ぶ、この戦争中の優れた海上退却であった。」 また、アメリカの著名な軍人であるマーティン・ブルーメンソンは、7月16日にはすでにドイツのフェリーが運航されていたとコメントしている。彼は、バーデが「イタリア当局が行っていた運営とはまったく別の、冷静で効率的な、機械の如きサービスを運営していた」と述べた。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P79




 撤退作戦完了後もバーデはイタリア方面の第14装甲軍団内に留まっており、重傷を負った第65歩兵師団長の代理を短期間務めたりしましたが、1943年12月20日に第90装甲擲弾兵師団(北アフリカ戦の第90軽師団が潰滅した後の後継師団)の師団長に任命されます。

 バーデはモンテ・カッシーノの戦い、ゴシック・ラインの戦い、アルノ川への退却で同師団を指揮しました。その過程で彼は優れた防御指揮官であり、部隊の扱いに長けていることを証明し、陸軍人事部もそれを認めて少将(1944年2月1日)、中将(8月1日)に昇進させました。

 バーデは1944年2月、モンテ・カッシーノ頂上でライダー少将のアメリカ軍第34歩兵師団に大恥をかかせた。カッシーノとヒトラー戦の防衛で高い評価を受け、第10軍司令官フォン・フィーティングホフ大将はバーデとハイドリヒを師団長として「ずば抜けている」と評した。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P179





 1944年12月9日、バーデ将軍は狙撃兵に撃たれました。治療のためにドイツ本国に戻って総統予備となり、軍団長となるための2週間のコースに参加します。さらに6週間の予備役期間を経て、1945年3月1日に西部戦線の第81軍団の指揮を任されました。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第81軍団司令部ユニット。

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 バーデは3月にケルンでアメリカ第1軍と戦い、この街を失ったものの、アメリカ軍がライン川の橋を渡る前にすべての橋を爆破することに成功しました。しかしこの頃までに、自分の発言に気を付けるということをしてこなかったバーデの反ナチス的な発言や態度が問題になっていました。親ナチスのB軍集団司令官ヴァルター・モーデル元帥はバーデに司令部への出頭を求めます。バーデは罠だと思ったものか、体調不良を訴え、3月13日に第81軍団の指揮を放棄しました。

 バーデは4月18日頃に呼び戻され、国民突撃隊(14歳以下の少年と60歳以上の老人が中心)の検査官に任命されました。しかしバーデは、(ミッチャム氏の記述によれば)自分が信じたことのない失われた大義のために、罪のない人々を犠牲にすることに興味が持てず、ほとんど何もしなかったといいます。

 ある資料によると、戦争末期にバーデはSSの高官に脅迫され、そのSS高官を撃って身を隠したといいます。4月24日頃、バーデは自分の領地の近くでイギリス軍の戦闘爆撃機に撃たれて瀕死の重傷を負います。彼は病院に運ばれましたが、1945年5月8日、終戦の日に亡くなったのでした。


ロンメルの下で戦闘団や工兵を指揮し、後に装甲師団長なども務めたヘッカー将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの下で戦闘団や工兵を指揮し、後に装甲師団長なども務めたヘッカー将軍についてです。



 写真は、↓にありました。

Hecker, Hans



 ハンス・ヘッカーは1914年に士官候補生として砲兵連隊に入りましたが、翌年工兵に転属しました。その年末に重傷を負って復帰は2年後になりましたが西部戦線で活躍し、勲章も授与されています。

 1919年に除隊しましたが1924年に工兵少尉として復帰し、工兵部隊の中隊長や自動車化の戦術・技術担当官、歩兵学校の教官、国防省職員、OKHの将校などを歴任しています。

 少佐となっていたヘッカーは1938年に第29自動車化歩兵師団の工兵大隊長に任命されました。この師団は「Falke-Division(隼師団)」とも呼ばれたドイツ陸軍の中でも優秀な師団であり、ヘッカーにとってこの師団での任務は貴重な経験となりました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第29自動車化歩兵師団ユニット(工兵大隊はユニット化されていません)。

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 ヘッカーはこの第29自動車化歩兵師団の工兵大隊を率いて、ポーランド、ベルギー、ダンケルクで大きな成功を収め、騎士鉄十字章を授与されました。その後のフランス征服作戦(「赤の場合」)にも従軍し、イギリス侵攻作戦に備えていましたが、バルバロッサ作戦に参加し、グデーリアン麾下で師団は活躍します。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第29自動車化歩兵師団ユニット。

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 しかし1941年10月下旬にヘッカーはドイツに呼び戻されて数週間の休暇を与えられた後中佐に昇進し、アフリカ装甲集団に将校として配属されることになりました。短いオリエンテーションの後、アフリカ装甲集団の「Pionierfuehrer」(英文ではchief engineer officer)に任命されます。(恐らくその役職に対して)階級が低めであったので12月17日に早めに大佐に昇進させられ、1942年1月30日にはアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍に格上げされ、ヘッカーは装甲軍の同じ役職に就いたそうです。

 「Pionierfuehrer」がどういう役職か分からないのですが、パウル・カレル『砂漠のキツネ』の和訳本では、ヘッカーは割と一貫して「工兵指揮官ヘッカー大佐」と記されています。装甲軍全体の工兵を管轄したりしつつ、必要に応じて前線指揮官も務めたものなのでしょうか。


 ガザラの戦い(テーゼウス作戦)の時にロンメルは、作戦の一部として小規模な上陸作戦も行うことを企図しており、その上陸作戦部隊の指揮官としてヘッカーを選出しました。この選出は、ヘッカーがイギリス本土上陸作戦に関わったことがあったからであったらしいです。


 ↓OCS『DAK-II』のヘッカー戦闘団ユニット(右側の3ユニットを統合して一番左のヘッカー戦闘団を作る)。

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 ガザラの戦いの時のヘッカー戦闘団およびヘッカー大佐の動きについては以前、OCS『DAK-II』:ガザラ戦で敵後方に上陸しようとしていたヘッカー戦闘団 (2018/07/30)でかなり詳しく調べて書いたので、そちらをご覧下さい。簡略に書けば、上陸作戦は中止されましたが、その後ビル・ハケイムの自由フランス軍部隊を撤退させるのにヘッカーは大きな力を発揮しました。
(そのブログ記事に今回『Rommel's Desert Commanders』のヘッカーの項からの情報で付け足せる情報もあるっぽいのですが、伝記的なものを書くことを優先して、やめておきます(^_^;)



 ヘッカーはガザラ戦中に負傷しましたが、その治療が終わるとアフリカ装甲軍の「Pionierfuehrer」としての任務を再開しました。トブルク攻略とエジプト侵攻では小さな役割を果たします。ロンメルが第1次エル・アラメインの戦いで停止させられた後、ヘッカーはイギリス軍の地雷原をドイツ軍の地雷原に変換したり、ガザララインから地雷を回収してきて歩兵を守るために新たに敷設する役割を担いました。

 パウル・カレル『砂漠のキツネ』には、このような記述があります。

 プファンツァーゲル少尉と中隊長ユンカースドルフ中尉は、ロンメルから呼ばれ、第433戦車歩兵連隊戦闘指揮所へ駆けつけた。前線指揮官会議に出席したロンメルが、自分のアイディアを熱心に説明していた。アラメイン陣地をふつうの地雷だけでなく、彼が悪魔の園と名づけた特殊な地雷原で守ろうというのだ。
 前線工兵はどう考えるかとロンメルはたずねた。自分【ロンメル?】は工兵指揮官ヘッカー大佐とすでにこの問題を話し、彼は、研究中であるーー。プファンツァーゲルとユンカースドルフは答えた。特殊地雷原敷設はべつに難事ではないーー。
「しかし閣下、その資材と地雷は、どうするのでありますか?」「なんとかする」とロンメルは言った。問題は敵が突破できず、敵の除去班にもどうしようもない悪魔の園を作れるかどうかだーー。
『砂漠のキツネ』P265

 毎日ロンメルは悪魔の園の構築を視察し、ヘッカー大佐からトリックの数々を説明されるたびに満足の意をあらわした。モントゴメリーの第8軍は絶対に突破できまいと自信をますます固めたのである。
『砂漠のキツネ』P268


 しかしこの「悪魔の園」は、英連邦軍の大量の爆撃機が爆弾を落として地雷を爆発させてしまい、結局突破されてしまうことになりました……(T_T)

 エル・アラメインからの撤退の時期には、ヘッカーは黄疸と赤痢になっており、結局ドイツに呼び戻されることになりました。その後、彼はOKHから選ばれて、将来の師団長になるためのコースに出席するように命じられます。


 ヘッカーがこのコースに参加している間に、以前彼が所属していた第29自動車化歩兵師団がスターリングラード包囲環の中で潰滅してしまい(1943年1月)、彼は同師団の再建業務(フランスにいた第345歩兵師団を元にして)を命じられました。この任務は1943年7月までに完了し、第29装甲擲弾兵師団と改称されて7月下旬にシチリア島での防御戦に投入されます(同師団はシチリア島、その後のイタリアでの戦いでも顕著な働きをしました)。しかしヘッカーはこの師団とともに戦場に出ることはなく、装甲師団の指揮を執れるようになるため、7月27日に装甲部隊を指揮するための学校に派遣されました。

 この訓練は10月8日に終了し、ヘッカーは少し延長された休暇を取った後、イタリアのC軍集団に出頭して1944年1月22日に第26装甲師団の師団長代理に任命されました(本来の師団長であるスミロ・フォン・リュトヴィッツはドイツで休暇に入っていました)。

 この任命の日はアンツィオ上陸作戦が実行された日であり、ヘッカーはアンツィオ反攻作戦で指揮を執って連合軍に痛撃を浴びせました。しかし2月20日に本来の師団長が復帰したため、今度は3月に第3装甲擲弾兵師団長に任命されました。

 同師団の元の第3自動車化歩兵師団も、スターリングラードで潰滅した部隊でした。新たな第3装甲擲弾兵師団は二流だと考えられていた第386歩兵師団を元に編成されたものでしたが、イタリアでの戦績は期待以上で、ヘッカーの下でもその傾向は変わりませんでした。同師団はフィレンツェまで撤退した後、西部戦線へ送られます。

 第3装甲擲弾兵師団が西部戦線へ到着したのは1944年8月で、ノルマンディー戦線が崩壊したところであり、同師団はまずパリ南東でアメリカ軍部隊と交戦しました。その後フランスから撤退し、第1次のメッツ攻略戦で防御戦を戦いました。

 OCS『Beyond the Rhine』はちょうどメッツ攻略戦が始まるタイミングからキャンペーンが開始されます。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第3装甲擲弾兵師団ユニット。

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 ↓OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーン開始時の第3装甲擲弾兵師団の初期配置位置周辺のマップ。

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 左側の○が第3装甲擲弾兵師団の初期配置位置(2ヘクス以内に自由配置)で、その北にメッツがあります。右側の○は後述のザール工業地帯です。


 同師団がまだザール工業地帯をカバーしていた1944年10月3日にヘッカーは師団長を離任しています。恐らく健康上の理由ではないかとミッチャム氏は書いていますが、ドイツ軍の人事書類は指揮官が病気や負傷で離任したのか、上級指揮官から解任されたのか、あるいはその他の理由なのかが必ずしも書かれておらず、時として非常に厄介なのだとのことです。

 ヘッカーが現役に復帰したのは数か月後の1945年4月1日のことで、今度は東部戦線の第4装甲師団長に任命されたのでした。『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』の師団長リストにはヘッカーの名前はなかったのですが、例えばネット上の↓には、ヘッカーが4月1日から5月8日まで第4装甲師団長であったと記されていました。

4. Panzer-Division



 当時、第4装甲師団を含む第2軍はダンツィヒの近くでボロボロの状態であり、しかも赤軍に包囲されて孤立していたそうです。ヘッカーが同師団長に任命された理由については明らかでないそうですが、ミッチャム氏の推測では、人事を差配する立場にあった陸軍人事局長は当時ヴィルヘルム・ブルクドルフであり、この人物はヒトラーとナチズムに忠実な将軍で、ロンメルに自殺を強要する使者にも立ったような人間であったから、かつてロンメルの下で戦ったヘッカーに対して含むところがあったのは確実だ、とのことです(もちろん、真実は分かりませんが)。

 5月8日に第2軍(と第4装甲師団)が降伏するまでの間にヘッカーは脱出したそうで、どうやら包囲環から兵士を運ぶ最後の船の一つに乗りこんだのではないか、ということです。

 最終階級は少将で、1979年に84歳で亡くなりました。


OCS『Smolensk』の無料公開ヴィテブスク記事のミスが判明しました(>_<)&プランサンセットVol.5印刷開始

 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のヴィテブスクシナリオの研究記事(OCSチーム副班長のチップ・サルツマン氏が書かれ、チャールズ・ロバーツ賞記事部門も受賞したもの)を私が和訳したものが↓で以前から無料公開されているのですが……。

『OCSスモレンスク』のヴィテブスク入門シナリオ研究記事を無料公開しています

オペレーション・コンバット・シリーズの商品案内ページ
(下線がなく黒色文字なので分かりにくいのですが、「★『OCSスモレンスク』のヴィテブスク入門シナリオ研究「スモレンスク:狂い始めたバルバロッサ作戦」 (21ページ-14.6MB)」とあるのがリンクです)



 知り合いの方が、ミスを見つけて教えて下さいました。

 図22のあるページ(P20)の本文、一番最後から8行目に「予備モー(ド)」とあるのは、「突破モー(ド)」の間違いでした。


 ↓そのページ。赤い□で囲っている部分が訂正箇所です(画像は修正後のものです)。

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 すでに印刷されている方は、赤ペンで修正していただければ……(>_<)

 ↓に、修正した無料公開版を置いておきます。

ヴィテブスク研究記事無料公開用22_08_23.pdf



 チェックはかなりやっていたのですが、まだミスが残っているかもしれません。見つけられましたら、些細なものでもご指摘いただければ大変ありがたいです。



 それから、この記事も掲載されている(ただしモノクロ版)プランサンセットVol.5が、印刷開始されました!

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 先ほどのミスに関しては、ギリギリ間に合ったので修正されています。


 これまでのプランサンセットは色々なゲームの記事が載っていましたが、今回は「OCS特集号」で、すべての記事がOCSに関するものか、あるいはOCS絡みのものになっています(OCS『DAK-II』との比較で、エポック『エル・アラメイン』とSPI『The Campaign for North Africa』に関しては結構詳しく紹介しています)。

 OCSに興味を持たれている方にはぜひ購入していただければと思います!



長らく称賛基調で書かれてきたものが、近年その嘘が明らかになってきているらしいバイエルラインについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、長らく称賛基調で書かれてきたものが、近年その嘘が明らかになってきているらしいバイエルラインについてです。


Bundesarchiv Bild 146-1978-033-02, Fritz Bayerlein

 ↑バイエルライン(Wikipediaから)



 フリッツ・バイエルラインに関しては、広く出回っている諸文献では称賛するものが基調となっていますが、それに対して、私が主たる参照文献としている『Rommel's Desert Commanders』の著者ミッチャム氏は大きな疑義を投げかけています

 一方で、バイエルラインの甥などに聞き取りをし、バイエルラインが残した大量の文書を参照したりして書かれたというバイエルライン本が存在していて、この本の紹介文では「バイエルラインはその失敗と成功についてよく引用され、また同様に批判もされている」とはあるものの、書評などを見た感じでは中立的・議論的というよりは称賛基調であるように感じられました。



 ↑この本が安ければ買って読んでみるという手もあるでしょうけども、ちょっと高いので、買わずに済ませようと(^_^;


 一方、疑義を呈しているミッチャム氏ですが、その著書の一冊で未購入だった『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』という本が5人の将軍の伝記になっていてその内一人がバイエルラインであり、経歴全般だけでなく、疑義に関してもある程度書かれているようなのでこれは買って読んでみました(値段としてまあまあでしたし、複数人を扱っていますし)。




 で、ミッチャム氏の書いているところを読んでいってみた感じとしては、ミッチャム氏の方もまた、バイエルラインを貶める方向に書くために、(複数の)自著の中でさえ少しニュアンスの違うようなことを書いているのではないか、という印象も受けました(元々ミッチャム氏にはやや、印象操作的なことをされる印象は持っていました)が、まあ致命的とまで思えるものは見つけられず、一方で、バイエルラインが称賛されるようなことも書いてあったり、疑義を提出するだけに留めている感もあって、ある程度は信頼できるような印象も受けました。

 そこで今回、ミッチャム氏の著作からの検討も挟みつつ、バイエルラインについてまとめてみようと思います(ただし、ミッチャム氏のニュアンスがその著作間で食い違っているエピソードに関してはもうややこしいので今回スルーしています)。



 とりあえずまずはミッチャム氏の主張する、戦後、バイエルラインがリデル=ハートやパウル・カレルが本を書くのに関わったことで「バイエルライン称賛」の基調が作られたことについて。

 バイエルラインの指揮官としての能力は、私の個人的見解では、英米の戦史家達に過大評価されていると思う。終戦直後、バイエルラインは西欧の戦史家達に協力し、当時ほぼ間違いなく最も有名な軍事史家であったB・H・リデル=ハートと親交を深め、ハートが『The Rommel Papers(ロンメル文書集)』を編集するのを手伝った。驚くに当たらないことだが、ハートはバイエルラインに感謝の念を抱き、そしてバイエルラインは自分が有能な指揮官、参謀将校であったと装うことができたのである。その後の欧米の戦史家達は、そのほとんどがハートに倣っている。しかし、当時のドイツ軍においてはこのような【バイエルラインが有能であるという】見方は決して一般的なものではなく、実際には少数意見であったように見える。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P165,6

 【戦後に】バイエルラインは、B・H・リデル=ハートの『丘の向こう側【和訳版は『ナチス・ドイツ軍の内幕』、改題『ヒットラーと国防軍』】』の執筆や『ロンメル文書集【和訳版は『ドキュメント ロンメル戦記』】』の編集にも協力した。また彼は、ハンス・カール・シュミット(通称パウル・カレル)の『バルバロッサ作戦』『砂漠のキツネ』『焦土作戦』『彼らは来た』の制作に協力した。これらの歴史家に影響を与えたことで、隠したいことのあったバイエルラインは、歴史を部分的に書き換えることに成功したのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P167



 また、ミッチャム氏の友人のフリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルク(クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの従兄弟)はこう書いているそうです。

 フリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルクは、「彼【バイエルライン】は私にとって不可解であった」と後に書いている。「私は彼が優れた指揮官なのだろうと信じて調べ始めたが、実際に彼に接した人々の数多くの目撃談から、彼が自分について語ったことの多くが、純粋なほら話か、まったくの言い逃れでしかなかったことがわかったのだ。」
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P219







 フリッツ・バイエルラインは1917年に士官候補生として入隊し、1918年には戦地に赴きました。戦後は機関銃中隊やオートバイ分遣隊などを指揮。1932年に試験を受けて参謀将校としての訓練を受けるのに十分な成績を収め、歩兵師団の幕僚や作戦参謀などを務めました。

 バイエルラインのここらへんの時期のことを、バイエルラインに戦後インタビューしたデズモンド・ヤングはこう記しています。

 フリッツ・バイエルライン将軍には、フランクフルトのアメリカ史料課事務局を通して、ずっと普通のやり方で面会したのだが、彼もまたひとかどの人物であった。ずんぐりとして頑健で小柄なテリア【狩猟犬】を思わせるひとで、元気潑剌としており、まだ50歳にすぎない。第一次世界大戦では16歳の時から、一兵卒としてイギリス軍と戦った。1918年3月のケメル周辺の攻撃や、ソンムの決戦、夏にはバボームやカンブレーをめぐる戦いに参加した。戦後最初は軍人をつづけるつもりがなかった。しかし適当な仕事が見当たらないので、1921年ふたたび軍籍にはいった。1932年から35年まで陸軍大学に在学し、そのあとで戦車部隊に配属となった。
 【……】
 あきらかに彼ほど北アフリカの戦争にくわしいものはいなかった。それなのにオーベル・ウルゼルのアメリカ軍尋問所の仮兵舎で、アジェダビアからアラメインに至るなつかしい砂漠の地図をひろげたとき、彼の語るには、戦後アフリカでのことを訊かれるのは、これが最初で、砂漠で戦ったイギリス将校に会うのもわたしが最初であったという。彼はまたロンメルのことにもくわしかった。彼は永い間ロンメルのそばで起居をともしたばかりでなく、1930年から33年までの間、ドレスデンの歩兵学校で、ロンメルと相識になっていたのであった。わたしたちはその日長いこと語り合い、「おぼえていますか?」という言葉を、数えきれないほどくり返した。ドイツの将軍連に好意をよせるのはなんとなくうしろめたい気持がする。そうしてはいけないかとも思う。しかし会見が終わるころ、わたしはバイエルラインが好きになった。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P115,6





 開戦時には第10装甲師団の作戦主任参謀でポーランド戦にも参加しましたが、予備部隊として後方で活動するに留まっています。

 フランス戦ではグデーリアン率いる第19(自動車化)軍団の作戦主任参謀を務めます。この時の参謀長は、のちにドイツ・アフリカ軍団長を務めることになるヴァルター・ネーリングで、彼とバイエルラインとはかなり親密な関係を築いていて参謀部全体が緊密な連携で運営されていたそうです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第19軍団司令部ユニット。

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 1940年10月下旬、参謀長であったネーリングが新編の第18装甲師団長に就任しましたが、ネーリングの後任参謀長には、それまで第10装甲師団の作戦主任参謀であったクルト・フォン・リーヴェンシュタインが就任しました。ミッチャム氏はこのことに関して「これはグデーリアンのバイエルラインに対する評価を示すものだ。なぜなら、バイエルラインを参謀長にする方が簡単なことだったのだから。」と書いています。


 バイエルラインは続けて独ソ戦でもグデーリアンの下で、その第2装甲集団の作戦主任参謀を最初の70日間ほど務めました(OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』がその時期を内包していますが、第2装甲集団司令部ユニットはないので、画像もなしで。しかし、このゲームの南半分のドイツ軍が全部第2装甲集団に当たることになります)。

 その離任の時について、ミッチャム氏はこう書いています。

 1941年6月22日にロシア侵攻作戦が開始され、バイエルラインは最初の3ヶ月間グデーリアンと緊密に協力して勝利の前進を遂げた。しかし8月30日、彼は別の役職に任命されることになってベルリンに戻り、代わりにヴォルフ少佐が着任した。グデーリアンは自著の中で、この離任についてコメントしている。実際にはこの頃までに、バイエルラインの欠点がいくつか表面化していたようである。グデーリアンは、自分が何かに気づいていたとは言っていないが、その後のコメントから、バイエルラインには問題があったようであり、1940年の作戦の時点ででもヴァルター・ネーリングは何か問題があると感じていたかもしれない。しかしもはや、バイエルラインはベルリンのOKHに出頭し、総統予備となった。したがってグデーリアンが事情を知らなかったことは明らかであり、戦後もバイエルラインはアフリカでの即戦力として呼び戻されたと信じていたのである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P221


 「離任について(の)コメント」はグデーリアンの『電撃戦(上)』P303に見つけまして、「その後のコメント」というのはその数行後とか数ページ後とかにでもあるのかな……と思ってさらっと探してみたのですが、分かりませんでした。


 その後、バイエルラインは北アフリカへ派遣され、アフリカ軍団の参謀長に就任します。その着任時のことに関して、アーヴィングは『狐の足跡』の中でこのように書いています。

 バイエルラインは追従的なところがあったが、立派な将校であった。グデーリアンの下にあって、モスクワに向かう弾痕だらけの街道上で戦車戦闘の経験を積んでいた。彼もまた、直ちにロンメルを信頼するようになったことが明らかであった。彼が着任した日、ロンメルはこう記している - 「グデーリアンと彼【バイエルライン】は、私がシュトライヒ【ロンメルに反抗した人物】との間で経験したのと同じようなトラブルを経験している【グデーリアンとバイエルラインが衝突したということ?】」 彼【ロンメル】はすぐにバイエルラインが好きになった。
『狐の足跡』上P176,7


 この言からすれば、少なくともバイエルラインの側はグデーリアンとの間に衝突があったと考えており、そのことをロンメルに語ったかのように見えますが……?

 ただし上記で、「」の中はロンメルが記したことなのでしょうけども、「」の外はアーヴィングの意見であろうとは思います。「追従的なところがあった」というのは、何らかの傍証があったのかもですね(アーヴィングの書いていることは1から10まですべて価値がない、という意見もあり得るとは思いますけども)。



 また、恐らく戦後のバイエルラインの影響を受けていない可能性が高いのではないかと思われる、ロンメルの副官であったハインツ・ヴェルナー・シュミットはこう書いています(最近新しく新書で出ましたが私が持っているのは古い文庫本で、そちらからの引用です)。

 はじめて参謀長バイエルラインをちらっと見た。「どんな方です?」と、彼を教えてくれた若い士官にきくと、「とても立派な方です」と彼は答えた。 - ドイツ軍人の口にする言葉で、最高の賛辞である。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P219







 バイエルラインは北アフリカで参謀長職などを歴任しましたが、資料によってその時期が色々違って書かれています。

『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』
 ドイツ・アフリカ軍団参謀長:1941年10月5日~1942年11月4日
 ドイツ・アフリカ軍団司令官代理:1942年11月4日~13日
 第1ドイツ・イタリア装甲軍参謀長:1942年12月7日~1943年3月

『ドイツ軍名将列伝』
 ドイツ・アフリカ軍団参謀長:1942年12月7日~
 独伊アフリカ装甲軍参謀長:1943年3月1日~

『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』
(この本は軍団司令官職のみで、また「司令官代理」との区別はされていません)
 ドイツ・アフリカ軍団司令官:1942年8月31日(のみ)
 ドイツ・アフリカ軍団司令官:1942年11月4日~1942年11月19日



 ↓OCS『DAK-II』のDAK司令部ユニット。

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 クルセイダー作戦の時には、すでにクリューヴェルの記事の時に引用したように、↓の記述が目を引くところです。

 その後の【クルセイダー作戦の】何週間かにわたる戦闘を通じて、ロンメルと新任のアフリカ軍団長クリュヴェル将軍との間の奇妙な関係が明らかになった。建前として、クリュヴェルは疑問をさしはさむことなく、ロンメルの命令に服従することを求められていた。しかし、事態は彼が何度も命令違反すれすれの独自の行動をとったことを示している。そして、今になってふり返ってみると、ロンメルがこのような行動を許容したことは驚くべきものがある。彼がクリュヴェルに対してこんなに控え目な態度をとったのは、彼自身の心の奥底にあったコンプレックスも理由のひとつであったかもしれない。クリュヴェルはいかにも騎兵将校らしいタイプの軍人であった。彼は教会向けの賛美歌の本の発行を独占していたドルトムントの裕福な印刷業者の息子で、知的な面においてはロンメルよりもはるかに抜きん出ていた。このことが、新たにクリュヴェルの参謀長となったバイエルライン - 彼に対して強い影響力を持っていた - の強烈な野心と相まって、戦車集団司令官であるロンメルを心理的に不利な立場に立たせていた。
『狐の足跡』上P192,3




 クルセイダー作戦で結局枢軸軍は撤退することになりましたが、その時のバイエルラインの、完全にパニックに陥っていたかのようなエピソードをミッチャム氏が記しています(ただしその後の活躍も)。12月8日夜から9日にかけて、エル・ドゥダ(トブルクのすぐ南東)を通過する撤退中の話です。

 通常の戦車に乗って軍団の命令書や書類を運んでいたこの無愛想な参謀長は、操縦手から、自分たちが従うべき適切な色の照明弾を確認するよう頼まれた。
 「頭がおかしいのか?」とバイエルラインは怒った。「お前は俺が他にやることがないとでも思っているのか! 俺がお前らのクソ照明弾の何を知ってるっていうんだ?」
 その結果、この戦車の戦車長は撤退の大きな流れについていこうと試みる他なくなったが、明かりもなく、いつの間にかイタリア軍の野営地に迷い込み、寝ている部隊の中を疾走したが、接地面に何か得体の知れないものが挟まった。
 その物体が装甲にぶつかる音を聞いて、戦車長は「止まれ!」と叫んだ。すると、戦車の奥からバイエルンが咆哮した。
 「このまま進め! ここから出ろ! お前らみんな頭がおかしいのかよ?」
 戦車長は、自分たちがイタリア軍の野営地の真っただ中にいること、戦車の接地面に大きな被害が出てしまう可能性があることを説明するために、後ろに声をかけた。
  「走り去るんだ!」と参謀長は叫んだ。「やつらを轢き殺せばいい! 俺の知ったことか! 俺は脱出しなければならない! 俺はここに機密書類の入ったバッグを持ってるんだ! 分からないのか!?」
 この戦車はそのまま走り続けた。乗員達は、この叫び声が彼らの通り道のイタリア軍を追い払ってくれることを願った。

 しかし対照的に、12月19日にベンガジに近づいた時には、巡航戦車とハニー戦車【M3軽戦車】を擁するイギリス軍騎兵連隊が延々と続く後退中のドイツ軍隊列に奇襲をかけたが、バイエルラインは先ほどの話と同じ戦車を徴発してドイツ・イタリア軍隊列の間を縦横無尽に走り回り、自走砲や野砲、大きな88ミリ対空砲を選び出し、慌てて後退をかけたイギリス軍側に大きな損害を与えたのである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P223


 このバイエルラインの逸話は相当ヤバそうには感じますが、人間パニックになったらこういうことはあるのではなかろうかと私は思います。しかもその後えらい活躍しているあたり、ある程度の優秀さはやはりあったのではないかと……。



 ガザラの戦いの時に関しては、このような記述を見つけています。

 【ガザラの戦いの時】「わたしははじめからこの計画が気にいらなかったのです」と、バイエルライン将軍は語った。「アフリカ軍団の参謀長として、わたしは絶えずロンメルに、そう進言していました。まずビル・ハケイムを陥落させずに進撃するのは、まったく危険だと、わたしは考えていたのです。6週間前、ロンメルはわたしに質問したものです。「きみがリッチー将軍だったら、戦車がどうでるね?」わたしなら、東に十分離れて、エル・アデム付近に待機させ、はじめは戦わないで、わが軍がガザラ拠点内にはいったところで、その側面を攻撃すると答えました。すると、彼は「ばかな! 敵はそんなことはせんよ」といいましたが、その癖、それはずばり彼がやりそうなことだったのです。事実、リッチー将軍の配備は立派なものだったと思います。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P152

 負傷したヴェストファルとガウゼの代わりにロンメルが前線で指揮を執らなければならなくなった。しかしガウゼと代わったアフリカ軍団のフリッツ・バイエルラインは、能力でも活力でも一歩勝っていた。ふたりはこの数週間先に最高のチームを組むことになる。
『パットン対ロンメル』P255




 その後、1942年の夏、このような状況になっていたとか……?

 この頃【アフリカ装甲軍参謀長の】ガウゼ将軍が復職し、【これまでガウゼの代わりにその職を務めていた】フリッツ・バイエルラインは【元のアフリカ軍団参謀長に戻って、軍団長の】ネーリングと業務を再開したが、ネーリングは【バイエルラインが不在の間に】シュテフェルトというより気の合う幕僚を見出していた。それでバイエルラインは、自分が浮いてしまっていることに気付き、軍司令部のガウゼ宛てに批判的な報告を送るのに自分の時間の大半を費やすことになった。こうして、砂漠の暑い夏が過ぎていった。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P226


 これはバイエルラインが悪いわけではないとは思うのですが……(T_T)



 第二次エル・アラメインの戦い(第三次まであると数えて)、いわゆる「アラム・ハルファの戦い」(エポック『エル・アラメイン』で扱われている戦い)の時には……。

 【8月30日?】この直後に私【ロンメル】が聞いたところでは、同じころ、ドイツ・アフリカ軍団は、〔アフリカ装甲軍〕参謀長のバイエルライン大佐の卓越した指揮のもと、英軍の地雷原封鎖陣を克服しており、東へのいっそうの突進にかかろうとしている。バイエルラインと情勢について協議した私は、攻撃を続行すると決定するに至ったのである。
『「砂漠の狐」回想録』P238

 「奇襲が不可能とわかるや否や」とバイエルラインは【戦後のインタビューで】語った。 「最初の朝、すでに彼【ロンメル】は戦闘を中止しようとしました。わたしが彼を説き伏せて戦闘をつづけさせたのです(当時バイエルラインは仮にアフリカ軍団の指揮をとっていた。ネーリング将軍が8月31日の夜、空襲で負傷していたのである)。アラム=エル=ハルファ丘陵の強固な防衛陣地に、まったくびっくりしました。わたしは占領できると確信して、その攻撃に時間をかけすぎてしまったのです。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P208




 この後、ロンメルが病気の為にドイツに帰国し、シュトゥンメ将軍がやってきます。シュトゥンメは自分の参謀長であったゲルハルト・フランツ大佐を引き連れてきていたのですが、

 フランツとヴェストファルは非常によく協力していたが、バイエルラインはこの二人に怒りをぶつけた。バイエルラインは、自分が無視されていると憤慨していたのである。いずれにせよ10月12日、バイエルラインは長期休暇をとってトリポリに行き、そこでケッセルリングの幕僚に援助を求めたのであると思われるが、不満のまま10月23日に休暇から戻った。それはちょうどイギリスが【エル・アラメインで】奇襲をかけてきた日であった【いわゆる第3次エル・アラメインの戦い】。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P228





 第3次エル・アラメインの戦いでは、ヒトラーの死守命令が出されました。

 ロンメルは総統に対する忠誠と、戦場における危機という現実の様相の間で板挟みになっていた。
 【……】
 ロンメルの幕僚特にバイエルラインは、このような命令を出すことに強く反対した。しかしロンメルはまだ、総統からの明確な命令に従わないようにすることを学んでいなかった。
『狐の足跡』下P40,41




 エル・アラメインからの撤退は、敗走となりましたが……。

バイエルラインが言うには、彼はこの難局に際してうまく対処したという。11月5日から21日まで、彼は一人で破滅的な状態にあるアフリカ軍団の秩序ある撤退の責任を負わねばならなかった。ようやくロシアから、ベルリン、ローマ、ナポリ、トリポリを経由してグスタフ・フェーン装甲兵大将が【アフリカ軍団の新たな司令官として】11月21日深夜に新たに設けられたメルサ・エル・ブレガ陣地に到着した時、バイエルラインは自分の軍団の2個装甲師団を劇的に立て直すことに成功していたという。この証言の唯一の問題は、フェーンが到着した時、バイエルライン大佐は11月9日以来、ずっと後方のメルサ・エル・ブレガに身を隠していたと【周りの目撃者達から?】断言されたことである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P232


 この話が、バイエルラインの証言と他の人の証言が明確に食い違う最初の例ではないかなぁ、と思います。

 ただし、フェーン軍団長とバイエルラインのコンビは非常にうまくいっていたとも書かれています(ロンメルはフェーンを高く評価していなかったらしいですが、ミッチャム氏はフェーンは非常に有能であった、と書いています)。



 次に引用するのは、チュニジアでの記述で、上2つの大木毅氏訳の『「砂漠の狐」回想録』はリデル=ハートが編集したものとは異なる、ロンメルの直筆のものらしいのですが、そこではロンメルはバイエルラインを称賛しています。

 結果として、私は、ジェリド塩沼と海のあいだにあるアカリトの陣地を押さえるように要請した。この陣地は迂回できない。ここでなら、われわれの自動車化されていない歩兵も、効果的に運用できるのだ。味方も自動車化団隊が、一方ではエル・ハンマ、またガフサ、さらにはマレト線全体の支援・保持に当たるには不充分であることも、とくに強調した。しかし、上層部は何の理解も示さなかった。けれども、イギリス軍がのちに、みごとに計画された迂回運動を実行してみせたのは事実であった。マレト陣地も、それによって無意味になったのだ。バイエルラインは、三方から突破の脅威が迫っていたにもかかわらず、軍麾下の機動力がある部隊を、ほぼ完全なかたちでアカリトにみちびくことに成功したが、最初からガベスの重点に築城資材を使っていたなら、もっと有利にことを運べたことだろう。
『「砂漠の狐」回想録』P369,370

 【1943年】3月7日にベニ・ゼルテンに戻った。ここで私は、ツィーグラー将軍ならびにバイエルライン大佐に別れを告げたのだ。後者は、ドイツ側参謀長として、メッセ将軍付に配属されていた。バイエルラインは、いかなる状況であろうと、最良の策をひねりだすだろうと、私は確信していた。
『「砂漠の狐」回想録』P401

 バイエルラインは、チュニジア陥落の直前に、病気でチュニジアから送還されていた。彼は、参謀将校としても部隊指揮官としても輝かしい記録を残していたが、その大部分はロンメルの指導のおかげだと思っていた。
『パットン対ロンメル』P314


 バイエルラインはこの間に少将に昇進しています。


 1943年10月10日、バイエルラインは陸軍人事局長であったルドルフ・シュムント(ヒトラーの筆頭副官との兼任)と面談しました。シュムントは、「一般的に少将には参謀の仕事はほとんどない。特に、少なからぬ人々を憤慨させてきた人物には……」とほのめかしましたが、一方、「北アフリカでの野戦指揮官としてのバイエルラインの活躍は、間違いなく戦場の指揮官として推薦できるものだ」と説明したそうです。

 結果的に、バイエルラインは10月16日から18日にかけて南方軍集団司令部に飛行機で飛び、20日にはフォン・マンシュタイン元帥から、第3装甲師団の指揮(最初は代行)にあたるよう命じられました。

 『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』P166によれば、その期間は以下の通りです。
1943/10/21~43/12/14 師団長代理
1943/12/15~44/1/4 第8代師団長



 OCS『The Third Winter』は1943年9月26日ターンから1944年4月26日ターンまでを扱っているため、バイエルラインが第3装甲師団長であった時期を完全に含むことになります。

 ↓OCS『The Third Winter』の第3装甲師団。

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 バイエルラインはこの第3装甲師団の指揮の最後の時期にキロヴォグラード周辺で戦ったのですが、この時期のパウル・カレル『焦土作戦』の記述について、ミッチャム氏はこう指摘しています。

 パウル・カレルはその著作『焦土作戦』の中で、キロヴォグラードの戦いについて説得力のある説明をしているが、彼はバイエルラインを少し信用し過ぎているようである。シュタウフェンベルクの研究では、1月4日から10日の出来事についてやや異なる見解が示されている。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P236



 『焦土作戦』の中の第Ⅵ部の「6 ドニエプル川中流の冬のドラマ」の冒頭あたりに、キロヴォグラード周辺でのバイエルラインの指揮に関して書かれています。

 その中でバイエルラインは、ヒトラーの死守命令を無視して包囲環から脱出することを、包囲環内の上級司令部との連絡もつかない幸運を活かして、部下が懸念する中、自分一人の決断で決めた……というように書かれています。ヒーロー然としたかっこいい描かれ方を、バイエルラインはしています。

 ところがシュタウフェンベルクが調べたところによると、この時包囲環内の上級司令部とは連絡が取れており、バイエルラインの部下に2人の有能な人物がいて、この2人が綿密に計画を練って包囲環内の他の師団長達も巻き込んで、上級指揮官に「脱出を試みるかもしれない」ことの同意を引き出した……というのが事実らしいというのです。

 ただし、バイエルラインはこの2人の有能な部下の意見を聞くというある意味褒められるようなことをしているわけですし、ヒトラーの死守命令に縛られることもなかったという点では褒められるべきだろうという感じでミッチャム氏は書いています。

 しかしバイエルラインの証言との差異は、もちろん気になるところです。この両書にはこの件についてそれぞれ2~3ページ程度の記述がありますので、興味のある方はぜひ見て頂ければ……。



 第3装甲師団は脱出に成功しただけでなく、ソ連軍部隊に打撃を与え、他の部隊が脱出する手助けをして、OKHの公式発表で称賛されましたが、ヒトラーの死守命令を無視したことからバイエルラインの名前は発表文にはなかったそうです。また、恐らくこのことが原因で、第3装甲師団の指揮も他の師団長に引き継がれたようです。

 1944年1月10日の時点でグデーリアンがすでに、バイエルラインをフランスで新設される装甲教導師団の師団長として要請し、そのための命令も発せられていたらしいですが、東部戦線の混沌とした状況のためにバイエルラインはなかなか移動ができず、ベルリンへの到着は1月末で、装甲教導師団司令部に到着したのは2月4日のことだったそうです。


 『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』によれば、バイエルラインの装甲教導師団長であった時期についてこう書かれていました。

1944/12/? ~ 45/1/19

 しかしこの着任時期はだいぶおかしいような気はしますが、どうなんでしょうね……?


 バイエルラインはノルマンディーからバルジの戦いの時期という非常に重要な時期に装甲教導師団を指揮し、パウル・カレルの『彼らは来た』をひもといてみると何回もバイエルライン師団長のエピソードが(かっこよく)出てきますが……。

 装甲教導師団の師団史の中に【その師団長であった】バイエルラインはほとんど言及されていないが、これはこの種の本では非常に奇妙なことで、他の師団長達は称賛されている。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P165,6


 だそうです。またミッチャム氏は『Defenders of Fortress Europe』P196で「(バイエルラインの)ノルマンディーでの装甲教導師団の指揮は優れたものではなく」と書いていますが、その根拠についての記述は、私が見た範囲では書かれていないように思えました。

 ただ、7月末にサン・ロー方面から連合軍に突破される頃の話として、『彼らは来た』の中でバイエルラインが死守命令に対して怒りに震え、「【フォン・クルーゲ】元帥閣下に伝えていただきたい、装甲教導師団は全滅したと。」と発言したということに関して、ミッチャム氏は「この頃の装甲教導師団はまだかなり強力な部隊であったことは、興味深いことである」と皮肉な感じで指摘しています。しかし私は、バイエルラインが「全滅」と言ったのは、「これから全滅します」という意味ではないかなぁと思いました。



 この後、装甲教導師団はドイツ国内へと撤退していきますが、ドイツ国内へたどり付いた頃、バイエルラインと相性の悪かった部下が離れていったり、バイエルラインが解任していったというようなことをミッチャム氏が書いています。


 この頃から、OCS『Beyond the Rhine』の時期に入ってきます(ノルマンディーの時期も、将来的にOCS『Cross Channel Attack』でカバーされることになるはずですが)。『Beyond the Rhine』は1944年9月5日ターンから1945年4月29日ターン(実質的に月末の30日まで)をカバーしており、後に述べるレマーゲン鉄橋を巡るバイエルラインの指揮の時期や、ルール地方で包囲され投降した時期も内包していることになります。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の装甲教導師団ユニット。

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 バルジの戦いの時(あるいはそれ以後)のバイエルラインに関しては、ノルマンディーの時やバルジ以前までに比べて、批判される度合いがひどくなってきているような気がします。

 クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの従兄弟で、【ミッチャム氏の】『シチリアの戦い』の共著者であり、装甲部門の権威であるテオドール・フリードリヒ・フォン・シュタウフェンベルクは、フリッツ・バイエルラインはバルジの戦いの終わりまで装甲教導師団の指揮を執ったが「まったくやる気がなかった」という。バイエルラインは第二次世界大戦直後、西側の一部の戦史家達からは人気があったものの、ノルマンディーでの装甲教導師団の指揮は優れたものではなく、バルジの戦いにおける彼の行動はといえば並外れてお粗末だった。彼は、連合軍側に立っていたベルギー人達からアメリカ軍部隊の戦力や動向について嘘の情報提供を信じ込んだだけでなく、道路案内においても騙されたのである。また、捕虜にしたアメリカ人看護婦を誘惑するなど、貴重な時間を無駄にしたこともあった。それに、第5装甲軍司令官ハッソー・フォン・マントイフェル男爵はバストーニュ郊外で完全に動けなくなっていた第47装甲軍団の司令官フォン・リュトヴィッツ男爵の解任を真剣に検討していたこともあったのだが、どうやら彼がこれを行わなかった唯一の理由は、バイエルラインが第47装甲軍団の中で最も先任の師団長であった【つまりリュトヴィッツを解任するとバイエルラインが軍団長になる】のだが、彼がリュトヴィッツよりもバイエルラインの方がさらに劣っていると考えていたからであるらしい(バイエルラインに低い評価を与えていたシュタウフェンベルクによると)。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P196,7



 「ベルギー人に騙された」の件ですが、『Panzer Commanders of the Western Front』にはもう少しだけ詳しく書いてあるのですが、個人的には別にバイエルラインの判断ミスが主因とまでは思えない感じでした。

 一方で「アメリカ人看護婦」の話はより信憑性がありそうです。バイエルラインは英語が堪能だったそうですから、その看護婦と一対一で話が十分できたでしょう。ミッチャム氏の書き方は↓のようなものですが、ソースについては明らかにしていません。

 12月18日(月)の日の出の後、圧迫感のある霧と低い雪雲がまだアメリカ空軍を飛行場にとどめている中、この装甲部隊指揮官【バイエルライン】は即席の捕虜収容所を訪れて、アメリカ人捕虜達と話をした。二つの全く別の報告(一つはアメリカ軍側、一つはドイツ軍側)によると、彼は美しい金髪のアメリカ人看護婦に強い関心を持ったという。ドイツ軍側の資料は真偽不明ではあるが、バイエルラインが一日の大半をおそらくは無駄に終わった誘惑に費やしてしまったことは確実だと主張していた。アメリカの戦史家も、軍事的観点から見てバイエルラインはこの日一日を無駄にしたと述べているが、バイエルラインの方はこの日の自らの努力が実を結んだとほのめかしている。
 どちらにしても、この将軍はとてつもなく貴重な時間を浪費した。実際のところ、装甲教導師団長の行動の遅れが、バストーニュを適時に攻略する機会を失わせてしまったのだ。この夜から、この師団はバストーニュへに対して続けられた攻撃にほんの少ししか関与していないと言えば十分だろう。
 バストーニュ攻略は、18日の夜遅くに前線に到着した第47装甲軍団司令官ハインリヒ・フォン・リュトヴィッツ男爵の管轄であったが、彼はそこでバイエルラインの指揮下にある部隊のどれもこれもが主体性を持っていないのに愕然とした。第5装甲軍司令官ハッソー・フォン・マントイフェル元帥とモーデル元帥からの強い圧力を受け、リュトヴィッツはバストーニュを歩兵に任せ、機甲部隊を攻勢全体の主要目標でありすでに予定より大幅に遅れているミューズ川横断に向けて前進させることを決意する。
 バイエルラインはきつい叱責を受けてひどく感情を害し、その後に反撃に出たようである。特に彼が不快に思ったのは、隷下の第901装甲擲弾兵連隊と砲兵部隊を剥奪されたことであり、そのためにバストーニュ攻略のための継続的な努力がもはや無駄になってしまったのである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P256~8


 一方、2014年に出たらしい『Snow and Steel: Battle of the Bulge 1944-45』という、かなり称賛され人気があり、また大部でもあるバルジ戦本で、以下のように書かれていました(『Panzer Commanders of the Western Front』の方は2008年出版です)。



 バイエルラインはマジュレで捕虜にした看護婦の一人に負傷者の世話を頼んだが、彼女が「若くて金髪で美しい」ことに気付き、彼女に「魅了された」ことを認めると、戦後書いている。45歳の未婚の将軍が、自ら認めているように、若い捕虜の気を引こうと貴重な時間を費やしている間に、装甲教導師団は何ら移動することなく、停止してしまっていたようだった。多くの戦史家がこの驚くべき話を繰り返して書いてはいるが、それを検証しようとした者はほとんどいない。だが、バイエルラインの伝記作家であるパット・シュペイドは、ウィルツ城に拠点を置いていたアメリカ軍第42野戦病院の小隊に所属する数名の従軍看護婦達が、撤退中にマジュレで捕虜になったうちの一部であるというところまで候補者を絞り込んだ。
『Snow and Steel: Battle of the Bulge 1944-45』P471


 「バイエルラインの伝記」というのは一番最初に挙げた本で、その本にも書かれていて、バイエルラインも戦後そのように書いているというのであれば、これはかなり確からしい話ということになるのかもです。バルジ戦ゲームでこういうイベントが起こるゲームって、もしかしてあったりするんでしょうか?(^_^;


 バルジ戦の後の1945年1月25日(ミッチャムによる日にち)、バイエルラインは装甲教導師団長を離任します。

 この頃にはバイエルライン中将に対する不満や批判の声が上層部でも聞かれるようになり、もし他にも装甲部隊指揮のベテランがいたならば、バイエルラインが総統予備に回されてそのまま現役に復帰できなくなる可能性もあり得ただろう。実際、彼よりもさらに評判の悪かった指揮官達は解任されていた。不名誉な陸軍元帥エルンスト・ブッシュ、ハンス・フォン・ボインブルク=レンズフェルト、7月20日の事件に関与した疑いのあるゲルハルト・フォン・シュヴェリーン伯爵などである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P259


 バイエルラインは1945年1月25日に【装甲教導師団長を】解任され、苦境に立たされていた第7軍の予備の装甲部隊指揮官に任命された。ここで彼は、敗残兵達をその場しのぎの部隊に編成することに従事した。ところが1945年3月6日、伯爵エドウィン・フォン・ロートキルヒ・ウント・トラッハ騎兵大将が誤ってアメリカ軍戦線に入り込んでしまって捕虜となった。【第7軍司令官の】ハンス・フェルバー将軍は先任の手空きの指揮官であったバイエルラインに第53軍団の指揮権を与え、レマーゲンのルーデンドルフ橋の奪回を命じた。バイエルラインの反応は遅く、失敗した。モーデル元帥はバイエルラインの能力に不満を抱き、第53軍団のすべての装甲部隊を、第74軍団のカール・ピューヒラー歩兵大将に移管した。
『Defenders of Fortress Europe: The Untold Story of the German Officers during the Allied Invasion』P197




 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第53軍団司令部ユニット。

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 この時の反撃に関して……。

 バイエルラインはこの時期についての小論で、【レマーゲン鉄橋を奪回するため、1945年3月】9日の午後と13日に活発な反撃を開始できなかったことについて、不当にモーデルを非難している。アメリカ陸軍の戦史家もモーデルを非難しているが、それはモーデルが自決してしまって弁明が出来なかったからだ。実際にはヘルムート・フーデル少佐率いる装甲教導師団の戦闘団は9日の正午までに第53軍団の周辺に到着し、攻撃の先陣を切る準備ができていたのだが、装甲教導師団の師団史によれば、バイエルラインがこの部隊への命令を放置していたとのことである。
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P262




 その後4月に入って、ルール地方でB軍集団司令官モーデル麾下の部隊が包囲されてしまった中にバイエルラインの第53軍団も含まれており、バイエルラインやその幕僚達は4月16日にアメリカ軍第7機甲師団に対して投降しました(『ドイツ軍名将列伝』によれば4月15日。モーデル自身は18日に自決)。ただし、バイエルラインの部隊の降伏はどちらかといえば遅めのタイミングであったそうです。尤も、この時第5装甲軍の参謀長であったフォン・メレンティンは脱出しようと努力し続け、結局5月3日に捕虜になっていますね。

 大木毅さんはこうも書いておられます。

 なかには、バイエルラインは戦争の敗北は避けられないと考え、いわば「投げていた」と指摘する向きもあるほどだ。【……】アルデンヌ戦後、第53軍団長となったバイエルラインは、1945年4月15日、麾下将兵のすべてを投降させ、部隊ごと降伏した最初の国防軍の将官となった(それまでは、指揮官個人、もしくは指揮官とその司令部が降伏するかたちを執っていたのである)。
『コマンドマガジン126号』P7




 バイエルラインは彼を捕虜にした側の米英側の人々とすぐに非常に親しくなったようである。4月30日以降のイギリス軍情報部による秘密監視記録には、この元第53軍団長と一緒に牢屋に入っていた他のドイツ軍兵士達のやや怒ったような反応が記されている。その中の一人で、アフリカ戦の時期からバイエルラインと相性の悪かったゲルハルト・フランツ少将は、バイエルラインの気取った自分勝手な態度に特に憤慨していた。
 この年内に、バストーニュの戦いに関する戦後初の戦史書の執筆に携わった有名な米軍のS・L・A・マーシャル准将は、この戦いに主に関わった三人のドイツ軍の将軍にインタビューする機会を得た。ずけずけ物を言うドイツ嫌いのマーシャルは、痛烈に批判している。
「バイエルラインは50歳の背の低い、しっかりした体格の男で、目鼻立ちはくっきりし鋭い目つきをしている。彼の動きはすべて活気に溢れており、会話の内外で見せる攻撃性はテリア【小型の狩猟犬】を思わせる[チャールズ・マクドナルドとハッソー・フォン・マントイフェルもこの最後の描写を共有している]。彼は露骨にリュトヴィッツを侮辱した。話がリュトヴィッツのことに及ぶと、バイエルラインは顔の前で手を振り、語り口がとげとげしくなった。「虫けらだ。虫けらだよ!」 ……だが記録では、バイエルライン自身の行動と判断によって、【リュトヴィッツの第47】軍団にとっての最高の機会が失われたことが示されている……自分の大失態を指摘されると、彼は顔を上げて奔放に笑った。まるで、その指摘が彼を大いに楽しませたかのように。」
『Panzer Commanders of the Western Front: German Tank Generals in World War II』P268~270



 バイエルラインはその優れた英語力で収容所にいた1947年までの間にドイツ軍の作戦に関して様々な小論を書き、釈放された時には英米側の戦史家の間ですでに人気を獲得していたそうです。

 北アフリカ戦の時にかかった肝臓の病気をずっと抱えていたそうですが、それでも1970年まで生き、ヴュルツブルクで亡くなりました。



 

DAK司令官として活躍したもののガザラ戦で捕虜となったクリューヴェル将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、DAK司令官として活躍したもののガザラ戦で捕虜となったクリューヴェル将軍についてです。


Bundesarchiv Bild 183-B17409, Nordafrika, Ludwig Crüwell, Fritz Bayerlein

 ↑左がクリューヴェル。右はバイエルライン(Wikipediaから)



 ルートヴィヒ・クリューヴェルは1892年生まれでロンメルよりも数か月だけ年少でした。1911年に士官候補生として騎兵部隊に入隊し、第一次世界大戦では東部および西部戦線で戦いました。大戦後半には参謀教育も受け、師団幕僚や参謀本部での訓練なども経験しています。

 戦後も軍に残ることができ、様々な役職を務め、研修を受けました。1938年には第3装甲師団の第6装甲連隊長に就任し、その後参謀本部第6課(兵站)課長となります。これはドイツ陸軍の補給・管理責任者としての任であり、非常に重要な役職でした。

 その間にクリューヴェルは頭頂部の髪の毛をすべて失っていました。サイドには髪の毛が残っていましたが、短く切っていました。

 1939年10月23日に第16軍(エルンスト・ブッシュ)の兵站担当参謀に就任。フランス戦ではアルデンヌを抜けていく同軍の3個軍団(第7、第13、第23。それぞれ歩兵2個師団)への補給を管理しました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第16軍麾下の3つの軍団の司令部の初期配置。

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 パリが陥落した後、クリューヴェルは第5装甲師団(ヨアヒム・レメルセン)に配属され、装甲師団の指揮について学んでいます。そして1940年8月1日、新たに編成された第11装甲師団の師団長に就任したのです。

 第11装甲師団はバルカン半島への作戦に投入されてベオグラードとサロニカを占領した後、ソ連への侵攻に参加。ジトーミル、ウーマニ、キエフでの初期の勝利に貢献し、クリューヴェルの勇敢さと機甲部隊を率いる手腕は大いに称賛されました。そんな中、クリューヴェルは北アフリカへの派遣を命じられ、8月14日に師団長職を離任します。9月1日に中将へと昇進し、それまでに得ていた騎士鉄十字章に柏葉を付与されました。そして9月15日に2代目のドイツアフリカ軍団長として指揮を執り始めたのです(ロンメルは新設のアフリカ装甲集団司令官に)。


 ↓OCS『DAK-II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 クリューヴェルがアフリカ軍団長に任命された理由に関して、『Rommel's Desert Commanders』の著者ミッチャムはこのような推論をしています。

 謹厳なクリューヴェルは、高い能力を持ち、堅実で頼りになる将校として装甲部隊中に知られていたが、アフリカ軍団の司令官への昇進は異例の早さだった。【中将へと】昇進していたとはいえ、その階級は通常の軍団長よりも一階級下であり、当時のドイツ国防軍で最も若い軍団長だったのだ。ではなぜ、彼はアフリカ軍団長に任命されたのか? ロンメルが彼を指名したという証拠は存在しない(ただし二人はフランスで短時間会ったことがあった)。一方で、クリューヴェルはOKH【陸軍総司令部】内で有名になっており、高く評価されていた。極めてありそうなこととして、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュと参謀総長ハルダーが、ハルダーの危惧するロンメルの軽率さとバランスを取るためにクリューヴェルを選んだのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼らはこの人選に非常に満足していたに違いない。出来事は彼らの計画通りに進んだのだ。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P46,7


(「軍団長は通常大将が指揮する」という件に関して気になったので、第二次世界大戦のドイツ軍の軍団長に関する著作である『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』で軍団長のリストを眺めてみたところ、確かに基本的には大将が軍団長なのですが、中将も2~3割程度はいる印象でした。しかしクリューヴェルのこの件は、「中将に昇進したばかり」なのに、という点で珍しかったのかもです)





 その後、1941年11月18日から12月4日にかけて、クルセイダー作戦の戦闘が行われました(ドイツ側はこの戦いを「冬の戦い」と呼んでいると、『Rommel's Desert Commanders』に書いてありました)。

 この時、ロンメルとクリューヴェルの考え方の違いが明確になったのですが、その違いについて下記の2つの資料は全く逆の評価をしているようです(前者は「違っていて両者が補い合った」、後者は「違っていてクリューヴェルはロンメルに反抗してダメだった」)。

 近代的機械化部隊の戦闘は、指揮官のねらいによって、ちがった展開をみせる。食うか食われるかの肉薄戦に勝敗をかける指揮官もいれば、一撃、全軍の戦闘行動をマヒさせてしまうような、敵の中枢への攻撃をいどむものもいる。この二つの戦法をたくみに組み合わせるのが統帥の妙である。
 ロンメルは、経験的にも、本能的にも後者をえらび、アフリカ軍団のクルーウェル将軍は、勝つためには撃破しなければならないから、物量的勝利をめざした。まことにおそるべきコンビであった。
『ロンメル戦車軍団』(第二次世界大戦ブックス)P67

 いわゆる「ガムバラ問題【イタリア軍のガムバラ将軍が救援要請に応じなかったこと】」がルートヴィヒ・クルーヴェル将軍から始まるというのは、何とも皮肉なことではないか? クルセイダー作戦の1ヶ月前に北アフリカに到着したクルーヴェル将軍は、ガストーネ・ガムバラ将軍と同じ特徴を多く持っていることが知られていた。著作家達はこのドイツ軍の将軍を「……横暴で、傲慢で、反抗的で、ロンメルの命令を何度も無視した男」と評している。
『Rommel's Italian Generals In North Africa 1941-1943』P41



 中立的な見方としてはこちら。

 ドイツアフリカ軍団長であったルートヴィヒ・クリューヴェル中将。クルセイダー作戦の戦闘中、彼はロンメルの決定にたびたび驚かされた。彼はロンメルがおこなったような、ドイツ軍部隊に戦場を行ったり来たりさせることに主眼を置いた戦い方よりも、もっと従来型の機動でイギリス軍機甲部隊に大打撃を与える戦闘を好んだ。
『Operation Crusader 1941』(写真のキャプション)P76

 クリューヴェルは彼らを追跡して捕まえ、壊滅させる許可を求めた。
 ロンメルはこれを拒否したが、それは彼が別の計画を持っていたからであった。彼は、アフリカ軍団の全部隊でもってシディ・オマールへ向けて東進し、国境の部隊にいくらかでも助けることを決定していたのだ。装甲師団両方と、イタリア軍のアリエテ師団、トリエステ師団がこの前進に加わることになっていた。ロンメルはこの強力な機動部隊を第8軍の後方へ解き放ち、その指揮に混乱を拡大させ、全軍を投入してバランスを変えられると考えた。このような大胆な機動は必ずやイギリス軍を狼狽させ、完全な後退を引き起こし、枢軸軍の勝利に終わるであろう、と。
 クリューヴェルはそのような行動はこの最も重大なタイミングにおいてまずい機動になるかもしれないと考えた。このアフリカ軍団長は、今はこの数日の間に得られた成功を拡張するべきタイミングであると確信していた。今が彼にとって、イギリス軍の機甲戦力を完全に撃滅してしまえる完璧なタイミングであったのである。驚嘆すべき戦車部隊を持っていた彼は、その時麾下の装甲部隊を集中して歩兵を壊滅させられるはずであった。彼は、この戦い全体の鍵はシディ・レゼク周辺での戦いになるだろうと考えており、アフリカ軍団が東へとやらされている間にイギリス軍がその戦力を回復してしまうのを見逃すのを嫌ったのだ。
『Operation Crusader 1941』P63




 (その偏向等を問題視されている)アーヴィングは、中立的かもしれないですが、大胆な?推論の混ざった見方をしていました。

 その後の【クルセイダー作戦の】何週間かにわたる戦闘を通じて、ロンメルと新任のアフリカ軍団長クリュヴェル将軍との間の奇妙な関係が明らかになった。建前として、クリュヴェルは疑問をさしはさむことなく、ロンメルの命令に服従することを求められていた。しかし、事態は彼が何度も命令違反すれすれの独自の行動をとったことを示している。そして、今になってふり返ってみると、ロンメルがこのような行動を許容したことは驚くべきものがある。彼がクリュヴェルに対してこんなに控え目な態度をとったのは、彼自身の心の奥底にあったコンプレックスも理由のひとつであったかもしれない。クリュヴェルはいかにも騎兵将校らしいタイプの軍人であった。彼は教会向けの賛美歌の本の発行を独占していたドルトムントの裕福な印刷業者の息子で、知的な面においてはロンメルよりもはるかに抜きん出ていた。このことが、新たにクリュヴェルの参謀長となったバイエルライン - 彼に対して強い影響力を持っていた - の強烈な野心と相まって、戦車集団司令官であるロンメルを心理的に不利な立場に立たせていた。
 当初、ロンメルとクリュヴェルの間の考えの違いは敵の企図に関するものであった。ロンメルは11月20日には依然として、敵は本格的にトブルクの囲みを解こうとして前進して来たのではないかと信じていた。しかし、クリュヴェルは騙されなかった。そして、アフリカ軍団の戦力を結集して、敵の3個旅団を逐次各個撃破することにしたのである。
『狐の足跡』上P192,3



 この戦いで、当然ながらクリューヴェルもまたいくつかの判断ミスをしているわけですが、トータルではクリューヴェルの判断の方がロンメルのそれよりも正しかった度合いが高く、「もしクリューヴェルがこの戦いの全指揮権を持っていたならば、枢軸軍側が勝利しただろう」と目されるようですらあります。また、史実においてもロンメルの命令を無視してクリューヴェルが取った措置にドイツ軍が助けられた側面は大きく、「クルセイダー作戦では、ルートヴィヒ・クリューヴェルが最も輝いていた」とミッチャムは記しています(『Rommel's Desert Commanders』P49)。この時のクリューヴェルの功績はより特筆大書されるべきなのでしょう。


 個々のロンメルとクリューヴェルの意見の衝突については、オスプレイの『Operation Crusader 1941』やフォン・メレンティンの『ドイツ戦車軍団』などにもある程度以上書かれていますが、頭一つ抜けて詳細で、しかもエピソード的に書かれているアーヴィングの『狐の足跡』から並べて引用してみます。

 翌日、これまででもっとも大規模な戦車戦が行われた。この11月の最後の日曜日は昔からドイツの戦死者たちを祀る日であった。"死者慰霊日(トーテンゾンターク)"と呼ばれ、11月23日に行われた戦闘はこの不吉な名前で知られることになった。
 それはクリュヴェル将軍の指揮に負うところが非常に大きいといえる戦いであった。彼と彼の参謀長のバイエルライン大佐は4日間もロンメルと会っていなかった。この戦闘はロンメルの命令を無視して戦い、勝利を得た戦闘のもうひとつの例となった。ロンメルは22日の午後10時30分、戦車集団司令官としてクリュヴェルに対して長文の指令を発令していた。それは要するに、アフリカ軍団の2個戦車師団をもって南下し、ビル・エル・グビから北上するアリエテというイタリア軍の機甲師団と合流せよ、というのであった。これらの前進する2つの拳の間において敵をとらえ、これを撃滅しようというのである。クリュヴェルはこの指令を無視した。そして午前3時、自分自身の命令を発令した。それは基本的には敵を包囲しようとする命令であった。ロンメルの命令が午後4時30分にクリュヴェルの手許に届いたことは明瞭であるが、彼はロンメルの発したこの冗長な命令を見ると、「全く見当はずれ」のことが多すぎると、手きびしいいい方をして、これを投げ棄てた。それから約1時間後、自分流のやり方で戦われる戦闘を見守るために、バイエルラインとともに出発した。
『狐の足跡』上P196,7

 そして3つの頭を持ったクリュヴェルのハンマーがロンメルが設けた北方の金床に向かって振りおろされはじめた。【……】
 【……】ハンマーはついに金床を叩いたのである。そして、敵の士気は完全に衰えてしまった。クリュヴェルがとった犠牲の多い放胆な強行戦法によって、イギリス軍の第7機甲師団の残りと、第1南アフリカ師団のほとんどが殲滅された。この大勝利のニュースは午後6時50分、ラーフェンシュタインの司令部にいたロンメルのもとへ届いた。彼は、自分が示した戦闘指導に関する指示にクリュヴェルがそむいたことについては何もいわなかった。
『狐の足跡』上P198

 彼【ロンメル】はまた、敵の態勢が乱れていることを過大に評価しており、自分の指揮下の軍が混乱状態にあることを見落としていた。
 戦場から帰って来たばかりのクリュヴェルはそうではなかった。【……】クリュヴェルは気力に溢れ、しかも思慮深い指揮官であった。彼は11月24日の日の出とともに、はじめてこのロンメルの向こう見ずな計画のことを耳にした。そして、同じ日にトブルク迂回路上においてロンメルが開いた会議の席に押しかけた。彼はロンメルの計画に反対し、先ずいつものとおり、掃蕩作戦を実施するように、といった。「われわれは戦場掃除をして、敵がやって来て持って帰る前に莫大な戦利品を回収しなければなりません」と、強く主張したのである。
 ロンメルはこれに同意しなかった。
『狐の足跡』上P200

 【鉄条網への突進の時に】「埃をかき立てよ」と彼【ロンメル】はいった(翌日、彼はクリュヴェルにも同じことをいっている - 「われわれはありったけのトラックと補給部隊の車輌を使用して、埃をかき立てなければならない。そうして、わが軍のほんとうの兵力について敵を欺き、敵を降伏させるようにするのだ」クリュヴェルはこれに対して「態度を保留する」という重大な決意を表明している)。
『狐の足跡』上P204

 クリュヴェルは再びロンメルの戦術的な構想を無視した。ロンメルはニュージーランド軍の部隊をその後方から包囲することを提案した。クリュヴェルはこのために自分の指揮下の戦車師団を分割することを避けたいと思って、これをひとつにまとめて、ニュージーランド軍部隊に対して東方から強力な攻撃を加え、これをトブルクの内部へ圧迫することにしたのである。翌日、クリュヴェルは一日じゅう地形の偵察に費やした。午後9時頃、ロンメルがクリュヴェルのもとへ新たな計画を送って来たが、彼は「手遅れ」であるといってこれを無視し、自分の指揮下の戦車師団長に彼の計画に従うようにさせるために、ノイマン=ジルコウとラーフェンシュタイン【第21装甲師団長】を翌日の午前8時に彼のもとへ来させることにした。
 【……】
 【11月29日】ノイマン=ジルコーの率いる第15戦車師団の前進は大いに進捗した。奇妙なことに、実際にはクリュヴェルの計画でなく、ロンメルの計画が実行されつつあった。ノイマン=ジルコーはロンメルがクリュヴェルに示した計画を前の晩に知り、これに従うことにしたのであった。アフリカ軍団は実に自由な精神の持主の集まりであった。
『狐の足跡』上P209,210

 敵を撃滅するための最後の攻撃にあたり、ロンメルとクリュヴェルはその方法について三たび劇的な違いを見せた。ロンメルはその部隊を二つに分けて、ノイマン=ジルコーの指揮のもとに両戦車師団の戦車以外の部隊をもって国境地区に配置されている部隊と交替させ、他の部隊はエル・ドゥダおよびはるかに南方の敵を攻撃させることを提案した。クリュヴェルはこれに強く反対し、何よりもまず、アフリカ軍団をもってトブルク南東方の重大な事態に対処するべきであるといった。彼はさらに皮肉たっぷりに、次のようにいったのである。「私たちは敵を完全に撃滅する前に、アフリカ軍団が何度も勝利を得た戦場を敵にあけ渡して、広地域に分散した新たな作戦を実施するという過ちをくり返すべきではない」しかし、もしロンメルが再びエジプト国境に向かう前進を敢行するだけの十分な理由をもっているならば、(修理の必要な戦車は別として)アフリカ軍団の全力を投入するべきである、といったのである。しかしロンメルはクリュヴェルの主張を無視し、翌12月3日、手痛い目にあった。彼は不十分な兵力で3つの作戦を企図し、そのいずれにも成功しなかったのである。
 ついにロンメルは現実に目覚めた。その日、彼は後ではじめてトブルクの東の地域をすべて放棄するという重大な決断を下した。
『狐の足跡』上P211,2

 12月14日の午後、退却のための【ロンメルによる】準備命令がアフリカ軍団に届いたときクリュヴェルは、彼らはイギリス軍に大きな損害を与えてあるので、今退却する「必要は全くない」と鋭く答えた。
『狐の足跡』上P216



 クルセイダー作戦中に、このようなエピソードもあったそうです(『ドイツ軍名将列伝』P180によれば、11月23日、ニュージーランド軍部隊と)。

 クリューヴェルは、数か月前にメキリで捕獲した英国製の大型装甲指揮通信車マンモスを駆って戦闘を指揮していた。ある戦闘の最中、クリューヴェルの乗るマンモスが前に出すぎて、イギリス軍の戦車群に囲まれたことがあった。イギリス軍は自分達の手の届くところに大きな獲物があることに気付いていなかった。ところが、そのマンモスに乗っているのは誰なのかと興味を持った一人のイギリス兵が、戦車から降りてバールでクリューヴェルの乗る車両のハッチをノックした。想像してみて欲しい。この将軍自身がそのハッチを開けて、兵士がアフリカ軍団の指揮官と対面した時の驚きを! まさにその瞬間、ドイツ軍の20mm高射砲がそのイギリス兵に向けて射撃を行ったが、そのイギリス兵はすぐに自分の戦車に逃げ込み、姿を消した。クリューヴェルのマンモスはその混乱の中を走り去った。この時のイギリス軍戦車はマンモスに対してまったく弾を撃たなかったので、弾切れだったのかもしれない。この事件では死傷者は出なかった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P50



 クリューヴェルの軍団司令官としての能力はこの「冬の戦い」で証明され、中将になってから4ヵ月弱の1941年12月17日(12月1日付け)で装甲兵大将へと昇進しました(これはだいぶ早いペースであるようです)。


 また、クルセイダー作戦後の退却の終盤にも、クリューヴェルは鋭い反撃を行いました。

 【1941年】12月28日およびそれから二日後、ロンメルは再び敵に反撃を加えて完全にこれを奇襲した。クリュヴェルはアジェダビアにもっとも近い位置にいる敵の2個旅団の間に乗ずべき間隙があることに気づき、第22機甲旅団に対してアフリカ軍団を投入した。2回にわたる巧妙かつ適切な攻撃により、ドイツ軍は第22機甲旅団が苦心して砂漠を横断させた同旅団の戦車のうち、その3分の2にあたる60輌を撃破した。
 ロンメルはイギリス軍にこのような打撃を与えた結果、ひと息つくことができた。
『狐の足跡』上P219



 ただしこの頃、クリューヴェルは黄疸にかかり非常に衰弱していたともいいます。

 【クルセイダー後の撤退の頃】軍団長以下すべての指揮官が休養と体力の回復を必要としていた。ガウゼ将軍はローマおよびドイツに向かった。表向きはヒトラーに報告するためということであったが、実際はすっかり神経が参ってしまっていたのである。11月末、多くの者が神経衰弱にかかったことが判明した後、第21戦車師団の幕僚全員が更迭されつつあった。クリュヴェルと同様に、ヴェストファル中佐も黄疸になっていた。「まもなく、私は最初から最後までこちらで戦っている唯一のドイツ軍の将校、ということになるだろう」とロンメルはいった。
 彼はひそかに開始した退却が進捗しはじめた1月2日、クリュヴェルのもとを訪れた。クリュヴェルの率直で少年のような顔は蒼白く、黄色みを帯びて暗い感じを与えていた。彼は黄疸で非常に衰弱しており、ベッドに寝たままであった。
『狐の足跡』上P219,220



 ロンメルの第2次攻勢は1942年1月21日に始められ、2月6日にトブルク西方のガザララインまで到達しました。ロンメルは上級大将へと昇進した一方、クリューヴェルはアフリカ装甲軍の副司令官に任ぜられました。『Rommel's Desert Commanders』にはこの任命は、「最高司令部【OKW?】が、クリューヴェルをいつか、いずれかの軍の指揮【an army command】を執らせようと意図していたことを示している」と書かれています。

 また、

 また、新たな攻撃に先立ち、指揮官の人事異動も行われた。体調を崩したクリューヴェルに代わって、ドイツ・アフリカ軍団長は、3月9日から元第18装甲師団長ヴァルター・ネーリング中将が努めることとなり、ロンメルの参謀として活躍したビスマルクは、2月11日付で第21装甲師団長に就任していた。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P275

という記述もあり、クリューヴェルは重大な責任がかかるドイツアフリカ軍団長の職から、責任の軽いアフリカ装甲軍副司令官に(一時的に)異動され……という理由もあったかのようです。

 クリューヴェルの後任としてヴァルター・ネーリングがドイツアフリカ軍団の司令官に就任しました。また、ロンメルは3月9日から19日までヨーロッパに赴いたので、その間クリューヴェルがアフリカ装甲軍の司令官代理を務めました。

 1942年3月20日はクリューヴェルの50歳の誕生日で、彼は以前自分が司令官であったアフリカ軍団司令部を訪れました。この人気の将軍のために、元パン屋の兵士達が何とかクリームとチョコレートタルトをこしらえ、ロンメルとネーリングが大きなバースデイケーキをしつらえさせたのです。隠されていた本物のフランス製シャンパンが持ち出され、将校と兵士達が一緒になって主賓に乾杯し、砂漠には幸せなお祝いの音楽が響き渡ったといいます。

 ところがその数日後、クリューヴェルのもとに悲痛な知らせが届きました。まだ34歳だった妻が猩紅熱で急死したのです。彼は急いで家に戻り、4人の子供が世話を受けられるように整えねばなりませんでした。そして、ロンメルの次の攻勢が始まる直前に北アフリカに戻ったのです。


 1942年5月26日からのいわゆるガザラの戦い(「テーゼウス作戦」)では、体力が回復していたクリューヴェルは西側からの大規模な牽制攻撃を指揮することになりました。5月28日、クリューヴェルはアフリカ装甲軍の砲兵司令官であったクラウゼ少将の司令部を訪ね、イタリア軍による攻撃のための援護射撃の計画を立てた後、前線へと軽偵察機シュトルヒで向かいます。シュトルヒが前線に到着するとそれを示すための照明弾が地上から上げられることになっていたのですが、その担当であった将校が直前に電話で呼び出されてしまっていて照明弾は撃たれず、気が付くとシュトルヒはわずか500フィート(約150m)の高度でイギリス軍の上空にいました。あっと思う間もなく敵の機関銃に撃たれたシュトルヒは、エンジンが破壊されて停止してしまい、さらに恐ろしいことに銃弾はパイロットにも命中しており、操縦席で死んでいたのです。

 シュトルヒは細い機体で、操縦席の真後ろにクリューヴェルの席があったため彼は自ら操縦することもできず、ただ死を待つことしかできませんでした。ところがこのシュトルヒは、まるで神の手に導かれたかのように、自力で着陸したのです。クリューヴェルは無傷のまま、イギリス軍の第150歩兵旅団(第50歩兵師団隷下)の捕虜となりました。


 この時の経緯について、『砂漠のキツネ』にはネーリング自身の回想が書かれています。

「5月28日の夜、ロンメル大将の命令が無線ではいりました。私の指揮下のイタリア軍を直ちに攻撃させよというのです。そこで、イタリア軍司令部に砲兵部隊長クラウゼを先に派遣しました。 彼にたのんで8時半から歩哨に信号弾を上げさせ、私のシュトルヒ機にイタリア戦線の位置を明らかにしてもらうようにしました。私は8時半ごろ離陸しました。パイロットはちゃんとした地図を持っていない。アフリカ空軍司令官フォン・ヴァルダウ将軍から、まずセニャーリまで飛びそこから東へ向かえと指示されていたのですね。そのうち機がいつまでも太陽にむかってまっすぐ飛んでいることに気づきました。パイロットは心配するなと言う。信号弾を見のがすはずはないそうです。しかし、そうじゃなかったんですね。そこはイギリス戦線上空だったのですよ。高度は150メートルほど。機関銃でやられました。まず尾部に一連射、次にエンジン、つづいてパイロットが致命傷を受けたのです。機が墜落しなかったのは奇蹟でした。ふわふわと下降してそのまま着陸したのです。脚は完全に壊れました。ものすごい音でしたよ。さいわいドアは開きました。そこはイギリス本国軍第150旅団の守るボックスの最前線でした。トミーが大勢走ってきて、捕虜にされてしまいました。一年後やはりチュニスで捕虜になったクラウゼ将軍から、あの信号弾が発射されなかったことを知りました。発射するはずの将校が、私が上空を通過したとき電話に呼ばれたのだそうですわ」
『砂漠のキツネ』P169,170



 落ち込んでいるクリューヴェルに対してイギリス軍は敬意を持って接し、すぐに巨大なステーキを振る舞ったそうです。彼はすぐに後方に送られました。数日後にロンメルはこの第150歩兵旅団を蹂躙し、クリューヴェルを捕虜にした者達を捕らえました。

 カイロで、当時世界で最も有名な一流ホテルの一つであったシェファード・ホテルの豪華な宿泊施設を見せられたクリューヴェルは《典型的なアフリカ軍団の精神》を発揮して、「これはロンメルのための素晴らしい司令部になるだろう」と言いました。この皮肉な言葉をヒトラーは大変気に入って世界中に放送させ、有名になったそうです。



 ……と、ここまでであれば「素晴らしい将軍だったのだなぁ!」と感嘆して終わりになるところなのですが、クリューヴェルがその後送られた、ロンドン北方にあった捕虜収容所トレント・パークでは、小型のマイクがいたるところに仕掛けられており、すべて録音され記録されていたのです。

 この盗聴記録が2000年に公開され、ドイツで2006年に『盗聴されていた』という史料集+解説本が、2011年にその分析本である『兵士というもの』が出版されました。後者は2018年に和訳も出版されています。

 そして前者の本を元に、2010年に大木毅氏が短い記事「収容所の中の戦争 盗聴されていたドイツ軍将校たちの会話」を書かれており、その中ではクリューヴェルの「残念」な面も……。
(この記事の初出はコマンドマガジン91号。私が持っているのは、同人誌?の『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』ですが、『ドイツ軍事史――その虚像と実像』に収められていると思われます)




 トレント・パークが特殊任務を与えられてから、最初に収容された将校は、1942年5月29日にトブルク西方で捕虜となったドイツ・アフリカ軍団長ルートヴィヒ・クリューヴェル装甲兵大将である。柏葉付騎士十字章の受勲者であり、勇猛をもって知られたクリューヴェルは、同年8月26日にトレント・パークに到着して以来、たちまち、純粋なナチと目されるようになった。CSDICによる評価は辛辣なもので、第二のフリードリヒ大王と見られたがっているようだとか、飽くことなくベオグラード征服の手柄話をしたがる、130人の先任中将を飛び越して大将に進級したと誇るとかいった発言が引かれている。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P29


 ただまあ、クリューヴェルの心情を推し量れば、捕虜という身になってしまったことからかつての栄光を語りたくなるということはあるのだろうとは思います。現代でも、大企業とかでバリバリ出世した人が、退職すると新しい趣味を見つけることもできずひたすら過去の栄光ばかり語って……というような話を良く聞くのと同じで、ある意味しょうがないことではあるという気も(私もなんか、非常に小さなことをネタに自慢話をしてしまったことがあるなぁと思って、ああ、今から考えれば恥ずかしい……(>_<)。


 一方、「純粋なナチと目されるようになった」の件ですが、こちらは『兵士というもの』の方に詳述されています。クリューヴェルは個人的に(も)「ヒトラーに魅了され」ていたようであり、またナチスの犯罪についても、それを正当化し、弁護する傾向が見られたそうです。

 結構な量があるので、印象的なところだけを引用してみます。

 ヒトラーに強い印象を受けたクリューヴェルは、総統との個人的な面識を、親密な近しさによって彼に近づいたことがある人間でなければ知りえないような詳細さをもって立証している。彼は明らかに「素晴らしく美しい」「繊細な」、とにかく特別な手の持ち主であり、語り方も並外れて丁寧かつ「静かな声」で、この将軍が想像していたのとはまったく違っていた。個人的な総統はしたがって、公的な、人を催眠にかける総統よりも魅力的な存在である。
『兵士というもの』P248

フォン・ヴァルデック もし我々が戦争に敗れることになったら、総統の功績もまた忘れ去られてしまいます。
クリューヴェル ですが、かなりのものは永遠に残るでしょう。数百年にもわたってね。それは道路のことではありません。それはそんなに重要なことではない。しかし残り続けるのは、労働者を国家へと引き込んだという点での、国家運営の組織です。彼は本当に労働者をこんにちの国家へと組み込んでいったんです。そんなことを今までに成し遂げた人物は一人としていません。
『兵士というもの』P250




 クリューヴェルは、1942年の夏という時点では、ヒトラーが指導するドイツが勝利することを確信しており、また、(当然ながら)そう信じたがっていたと思われます。そんな中、同じ捕虜収容所トレント・パークに1942年11月20日、非常に有能、勇敢であり、かつ極めてナチスに批判的で、エル・アラメインで総統の死守命令を受けて「狂気の沙汰」と断じたリッター・フォン・トーマ装甲兵大将が捕虜として送られてきました。

 最初の晩には午前2時頃まで話し合ったりしていたクリューヴェルとフォン・トーマでしたが、1週間後には早くも二人の亀裂があらわになってきたといいます。

 クリューヴェルは、トーマの態度を非難し、こう告げている。「貴官はまるで大ドイツ国中の不平不満を体現しているようだ。しかも、最初から自分にやらせておけば、はるかにうまくやっていたとでもいうような印象を受けるぞ」と。
 事実、トーマは、トレント・パークにやってきた当初から、敗北は決まったという意見を公然と表明していたし、ヒトラーとナチス党を批判していた。たとえば、1943年2月28日の盗聴記録には、「祖国は、あのルンペンのものであるのと同様に、私のものでもあるのだ」という発言が残されている。「ルンペン」とは、むろんヒトラーのことだ。ほかにも、トーマは、ソ連攻撃は誤りであるし、ドイツからのユダヤ人強制移送についても、「盲従の悲劇」だとまで言い切っている(1942年11月26日の発言、以下、盗聴の日付けのみを記す)。もちろん、これは、OKH、陸軍総司令部に勤務した経験もあり、戦争全体の流れをとらえる立場にあったトーマならではの分析によるものであり、いわゆる敗北主義などではなかったのだが、前線の猛将クリューヴェルには、こんな見解を受け入れられるはずもなかった。彼は、この戦争はまだまだ継続できるし、最終的には勝たなければならないもので、さもなくば「ドイツの終焉」が訪れると思い詰めていたのだ(1942年11月24日)。また、クリューヴェルは、ドイツ敗戦の場合、4人の子供の将来はどうなってしまうのだという不安も洩らしている(1942年11月20日)。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P29,30



 この1942年11月上旬にはエル・アラメインでの敗退も始まっていましたが、11月下旬にはスターリングラードが包囲されてしまいます。

 逆に、ヒエラルキーの中での地位が高くなればなるほど、失敗を認める能力も低下する。ルートヴィヒ・クリューヴェル大将は1942年11月(スターリングラードの第6軍に対する包囲が始まったことの知らせがまさに届いたとき)、こう表現している。「この戦争でふたたび数十万の人々が無駄に亡くなることになるのかね? それはまったく考えられない」。
『兵士というもの』P241



 1943年1月31日には、スターリングラードで包囲されていた第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥がソ連軍に降伏しました。

 ヴィルヘルム・リッター・フォン・トーマやルートヴィヒ・クリューヴェルのような将官たちも、パウルス元帥がスターリングラードで捕虜になったという記事をトレント・パークで目にして、異口同音に憤激を示している。「私だったら自分の頭に弾を一発撃ち込んだでしょうね。とにかく、これには大いに失望させられましたね! 大いに失望させられた」。クリューヴェルはこう述べて、さらに付け加える。「ようするに私が言いたいのは、あなたや私、我々が捕虜になったのとはまったく状況が違うということです。まったく比較になりませんね」。二人が強調しているのは、彼らは最後まで戦いながら敵の手に落ちたということだ。トーマは、自分の戦車が敵に撃破されてそこから這い出るしかなくなり、さらに敵の機関銃による一斉射撃で自分の帽子に穴が空いたことまで、几帳面に報告する。一方でパウルスが捕虜になったことには、何ひとつ英雄的なところがない。トーマとクリューヴェルの見解では、彼はふたつの点で規範に違反している。彼が降伏したということそれ自体以外に、この二人の将官が興奮しているのはその降伏の状況である。「兵士たちが死んでいるのに自分が生きる」というのは総司令官としてありえないことだと彼らは言う。
『兵士というもの』P287,8



 この時は大いに意見が一致したかのようなクリューヴェルとフォン・トーマでしたが、その後、1943年5月にチュニジアの枢軸軍が降伏して、アフリカ軍集団の高級将校たちがトレント・パークに集めらると、それからしばらくして集団はクリューヴェル派とフォン・トーマ派に分かれ、静かな(?)闘争を続けることになったそうです。

 フォン・トーマ派は敗戦はすでに必至であり、ドイツが犯した罪に関しても認めるべきだという立場でしたが、クリューヴェル派はそれに反対しました。クリューヴェルは捕虜のうち最も階級が上であったフォン・アルニム上級大将をかつぎ出しましたが、むしろ逆効果で、クリューヴェル派の方はどんどん少数派になっていきました。捕虜に許されていた屋外散歩の際には、アルニムに同行しようという者がおらず、やむなくクリューヴェルが自派の者に命じてお供をさせる始末であった、といいます。


 クリューヴェルは捕虜収容所で5年間を過ごした後、1947年4月に釈放されてドイツに戻りました。その後は引退して故郷の近くで暮らし、ドイツアフリカ軍団の退役軍人協会の会長を務め、1958年に亡くなりました。


第15装甲師団長となり、クルセイダー作戦終盤に重傷を負い死亡したノイマン=ジルコウ将軍について

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第15装甲師団長となり、クルセイダー作戦終盤に重傷を負い死亡したノイマン=ジルコウ将軍についてです。


 写真はWikipedia上にはないようで、検索すると色々出てきますが、全然別人のようなのも……?



 ヴァルター・ノイマン=ジルコウはプロイセンのユンカーであった父と、スコットランド人の母の間に生まれました。1912年に士官候補生として竜騎兵部隊に入隊し、第一次世界大戦に従軍します。

 1938年に第7偵察連隊長に任命され、1940年3月29日には第8装甲師団の中の第8狙撃兵旅団長となりました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第8装甲師団ユニット。

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 「8(s)」とある第8自動車化狙撃兵(歩兵)連隊ユニットと、ユニットになっていないような細かい砲兵部隊などをまとめたのがノイマン=ジルコウの第8狙撃兵旅団と呼ばれるものであったと思われます(第1装甲師団の編制からの類推)。


 同師団はフランス戦で活躍した後、ポーランドに移されます。そこで師団長エーリヒ・ブランデンベルガーの休暇中の約1ヶ月間(1941年4月15日から5月18日頃まで)、ノイマン=ジルコウは師団長代理を務めました。

 ブランデンベルガーが戻ると、ノイマン=ジルコウは北アフリカの第15装甲師団長に任命され、5月26日に指揮を執り始めました。
(と、ミッチャムの『Rommel's Desert Commanders』にはありますが、『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』P170によると7月25日からとなっています。ミッチャムは『The Panzer Legions』という著作の中では先代師団長のフォン・エーゼベックが負傷したのは「1941年の夏」だと書いており、混乱があるのかもしれません)

 ノイマン=ジルコウは若々しく、非常に有能で、部下からの人気も高かったそうです。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団。

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 1941年11月から12月にかけてのクルセイダー作戦の時には、ドイツアフリカ軍団長であったクリューヴェルと第15装甲師団長ノイマン=ジルコウの間のやりとり(意見の衝突)がいくらか資料に出てきて、興味深いです。

 シディ・レゼー飛行場から第7支援群を駆逐するのに失敗はしたものの、アフリカ軍団は11月21日夜、絶好の地点を確保した。軍団は支援群、英第4戦車旅団、第22戦車旅団のちょうど中間の地点を占拠して、各部隊を交互に攻撃できた。しかしクルーウェルは、第15装甲師団長ノイマン・シルコフ将軍との討議において「完全に自由な機動」を行うことを意図しており、アフリカ軍団を夜間、東方に移動させてガンブート地区で再編成する、と述べた(注12:ノイマン・シルコフ将軍は強硬に反対を唱えた。そして戦況は「第5および第8戦車連隊をもってする快速進撃によって好転できる」と述べた。アフリカ軍団をガンブート方面に機動させることにより、クルーウェルは英軍を側面から衝く好機の得られることを希望した。)。
 2240時、クルーウェルはロンメルの命令を受け、それに従って作戦計画を修正した。
『ドイツ戦車軍団』上P119(注はP128から)

 【11月23日】ノイマン・シルコフ将軍はクルーウェルに、南方への機動は中止すべきだ、と意見具申した。第15装甲師団は敵の混乱を利用し、南アフリカ第5旅団主力を攻撃、斜面の方向へ圧迫しようとした。クルーウェルはこの考えに「誘惑を感じる」ことを認めたが、アリエテ師団との協同作戦は不可欠であった。従ってその行動は中止され、第15装甲師団はアリエテ師団と合流するため南東へ進んだ。第5戦車連隊は出発が遅れ、正午ごろまで第15装甲師団に追及できなかった。
 ここでドイツ軍が好機を逸したのは疑いなく、また南アフリカ第5旅団と英第7機甲師団が協同して防衛態勢をとる前に攻撃を続行した方がよかったことには疑問の余地がない。
『ドイツ戦車軍団』上P123,4

 【11月28日】午後9時頃、ロンメルがクリュヴェルのもとへ新たな計画を送って来たが、彼は「手遅れ」であるといってこれを無視し、自分の指揮下の戦車師団長に彼の計画に従うようにさせるために、ノイマン=ジルコーとラーフェンシュタイン【第21装甲師団長】を翌日の午前8時に彼のもとへ来させることにした。
 【……】
 【11月29日】ノイマン=ジルコーの率いる第15戦車師団の前進は大いに進捗した。奇妙なことに、実際にはクリュヴェルの計画でなく、ロンメルの計画が実行されつつあった。ノイマン=ジルコーはロンメルがクリュヴェルに示した計画を前の晩に知り、これに従うことにしたのであった。アフリカ軍団は実に自由な精神の持主の集まりであった。
『狐の足跡』上P209,210


 最後の、ノイマン=ジルコウがクリューヴェルの命令を無視したのはかなり面白く感じます(^_^; 経緯を見ていると、ノイマン=ジルコウがクリューヴェルに不信感を持つようになってその結果として29日頃にはもうその命令を無視するようになったかのようにも推測できますが、もちろんそこらへんは全然分からず、ノイマン=ジルコウはクリューヴェルの判断力に信頼を置いていたもののその時にはたまたまロンメルの命令の方がより良いと感じただけだったのかもしれません。


 クルセイダー作戦の戦いは結局、枢軸軍の敗北に終わり、その最終盤の12月6日にノイマン=ジルコウはイギリス軍の砲撃を受けて瀕死の重傷を負い、9日に亡くなります。

 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』にはその数日前の微笑ましいエピソードが描かれており、長いのですがこのブログ記事の意図から全文引用させてもらいます。

 アフリカ戦線の勇士、第15機甲師団長ノイマン=ジルコウ将軍も戦死した。指揮戦車の砲塔に立っているところを直撃弾をうけて。彼は兵たちに敬われ、愛されていた。彼の死の数日前のエピソードは、誰でもが知っていた。

 拠点をめぐる戦いであった。イギリス軍補給拠点を奪わねばならなかったのだ。第15機甲師団の戦車は200メートルまで接近した。オートバイ部隊、車を捨てて突撃! 砲弾の雨を浴びる戦車のすぐ背後で、オートバイ兵は車をとびおり、攻撃に移る。ノイマン=ジルコウ将軍はいつものように最前列の指揮戦車に立って、ひらいた砲塔から戦況をながめていた。オートバイ兵の一人がどなった。「おい、蓋をしめろ!」 砲火のため指揮戦車も将軍もわからなかったのである。砲塔の男を曹長だと思ったのだ。最前列の戦車に敵砲火が集中して、ノイマン=ジルコウの戦車のわきにかけ込んだオートバイ兵は、また上を向いてどなった。「閉めろったら! やられちまうぞ!」 それを裏づけるように戦車のすぐ前で砲弾が炸裂し、心配屋の兵士はぴたりと地面に伏せた。砲塔の男は叫んだ。「前進しろ。そうすりゃ弾幕から出られる」「そいつは名案だ」 オートバイ兵は叫びかえした。「後で来いよ、獲物を分けてやる」

 拠点は占領した。ポタス伍長は《組織》の名手であった。拠点にまっさきに乗りこんでからは、彼の関心は戦利品だけにむけられた。それが彼の任務なのである。つまりどの中隊にも戦利品班というものがあって、オートバイ部隊のポタスはこの点でまさに天才であった。イギリスの新車、燃料、水、食糧に対し第六感をそなえている。集合命令がかかったときポタスはすでにいちばん上等なイギリス製トラックを満タンにし、荷台には山と積みこんでいた。ノイマン=ジルコウがやってきたのはその瞬間である。彼は第1中隊長を呼びよせて笑った。「きみの部下の一人のところに来いといわれているのだが。戦利品を受けとりに」「そいつはてっきりポタスだ」とブール少尉は考えた。 「ポタス、中隊長のもとへ出頭!」 ポタスはおそるおそる出頭した。こう呼び出された兵としては当然である。ノイマン=ジルコウにはすぐポタスがわかった。「伍長、約束の戦利品は?」

 いつものようにだらしがいいとはいえない態度のポタスは、もぐもぐと言いわけをした。将軍閣下とはわからなかったものでありますから……。しかし、ノイマン=ジルコウはそれをさえぎった。そして「そんなことはどうでもよろしい、伍長。わしは約束の獲物がほしいのだ!」

「は、ただいま、閣下!」

 すっとんでいったポタスは、仲間を三人連れてもどってきた。チョコレート、たばこ、肉の罐詰をかかえて。「きみたちにも十分あるのかね?」 ノイマン=ジルコウはたずねた。将軍たるもの、これほど驚いた兵士の顔を見たことはあるまい。その顔はこう語っていた。自分のが足りなくなるまで将軍に獲物を分けるほど馬鹿な兵隊がおりますでしょうか……。ノイマン=ジルコウは了解し、笑いながら包みをかかえて消えた。彼はチョコレートと罐詰をたのしむことは出来なかった。ポタス伍長も、6ヵ月後戦死した。1942年6月1日、ゼルヴァス少尉の自走砲を運転しているとき。ゴト・エル・ウアレブの近くであった。
『砂漠のキツネ』P95,6

ロンメルの宣伝に尽力し、後にハンガリーで戦死したベルントについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、(北アフリカでは部隊は指揮していませんが)ロンメルの宣伝に尽力し、後にハンガリーで戦死したベルントについて。


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 ↑ベルント(Wikipediaから)



 アルフレート・インゲマール・ベルントは1923年に18歳でナチスに入党し、20歳の時に突撃隊(SA)に入隊。1934年に突撃隊が粛清されると親衛隊(SS)に参加し、SS予備役の少尉に任命されています。

 フリーランスのジャーナリストとして生計を立てていましたが、その文章をヨーゼフ・ゲッベルスに認められ、1935年に宣伝省に雇われました。プロパガンダ(嘘も含めて)の才能を買われて順調に出世し、省のかなり高位にまで昇ったようです(その後細かくいざこざはあったようですが)。

 戦争が始まると(ゲッベルスから役職を外されたこともあり?)ドイツ国防軍の志願兵として入隊します。その際、「前線で従軍していない者は、プロパガンダに関わる資格はない」と述べたそうです。フランス戦では第605重戦車駆逐大隊の軍曹として戦い、二級鉄十字章、一級鉄十字章を続けざまに受章しています。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第605重駆逐戦車大隊ユニット。

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 1940年8月にベルントは宣伝省に戻り、パリに設けられたプロパガンダ庁の初代長官となります。その後、1941年5月に今度は、中尉としてドイツアフリカ軍団の幕僚になることになりました。『Rommel: A Reappraisal』第3章や第7章によれば、これはゲッベルスがロンメルを宣伝する意図で送り込んだもので、ゲッベルスは「良い写真と洗練されたコピーを確保させるようにした」といいます。一方ベルントは自身でもロンメルの知名度を上げることに個人的な関心を持ち、ロンメルの成功を優れたプロパガンダで広め、ロンメルの人気を高めることに大いに貢献しました。

 がっしりとした体格の持ち主で髪がちぢれ、褐色に近い色の膚をしていたベルントは熊のような歩き方をする男で、生理学上から見ても変わったところがあった。彼の片方の足には指が6本あったのである【引用者注】。彼は教育があり、魅力的な男で、いたるところに顔を出し、ロンメルの日記をつける任務を与えられていた。党から派遣された一種の目付役(コミッサール)としてロンメルの幕僚になる前から、彼はすでにタフで野心的で、熱烈なナチ党員であった。ベルントは図々しいほど率直なところがあったが、ロンメルはこれを大目に見なければ彼の気持ちをそこなう結果になることを恐れ、そのままにしておいた。たとえば4月のある日、ベルントは生意気な笑みを浮かべながら、「閣下、もし私があなただったら、前に出過ぎるようなことはしません」と助言した。しかし、ベルントは巧みにロンメルをめぐる逸話を作り出した。そして何かヒトラーを不愉快にするおそれのあることをいわなければならないとき、ロンメルはベルントを派遣した。勇気のある男だったからである。ベルントは1945年、自分が勇気あることを立証して、ハンガリーで死んだ。
『狐の足跡』上P155

(引用者注:念のために書いておきますと、多指症はそれほど珍しいものではなく、数百~数千人に一例の割合で存在するようで、偏見を持つべきではないでしょう。)

 『ヒトラーの電波(Hitler's airwaves : the inside story of Nazi radio broadcasting and propaganda swing)』という本の中では、ベルントは「著しく不愉快な人物:ゲッベルスや高官達は、ベルントのずる賢さ、抜け目のなさ、捏造、嘘に頻繁に愕然とさせられるのだった。」と描写されている。ヨーゼフ・ゲッベルスの個人報道官であったヴィルフリート・フォン・オーヴェンはベルントを「無節操で野心的だが、才能がないわけではない若者」と呼んでいる。
英語版Wikipedia「Alfred-Ingemar Berndt」






 ベルントは1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻するとゲッベルスに命じられてベルリンに戻り、プロパガンダ部門の責任者となりましたが、ロンメルが北アフリカを離れるまで、ベルリンのロンメルの司令部の間を定期的に往復し、「砂漠の狐」の伝説を育て、広めることに尽力しました。「Desert Fox」という言葉はイギリス軍側から出てきたものでしたが、ベルントとナチスの宣伝部はこの言葉を利用して、ロンメルをドイツ国内や占領地で最大限にアピールしたのです。

 また、ロンメルもベルントの才能と人脈を最大限に活用しました。ベルントは必要に応じてベルリンや総統府へ赴き、ロンメルの個人的な代理人の役割を引き受けたのです。ロンメルはベルントを利用することで、通常の軍の命令系統を無視して、有力なナチス高官に影響を与えることができました。一方、ロンメルは、友人である陸軍人事局の有力者ルドルフ・シュムントに影響力を行使して、ベルントを急速に昇進させたのでした。

 『狐の足跡』には、ベルントとロンメルの間の興味深いエピソードが何回か出てきます。

 【1942年】8月2日、彼【ロンメル】は全身に不快感をおぼえはじめ同月の半ばにはほんとうに病気になってしまった。【……】副官のベルントはロンメルに知らせることなく、彼のために料理の上手な兵を選び、毎日飛行機で新鮮な野菜と果物を届けてもらうように手配した。「そうでないと、閣下はあのような方ですから、特別な食事をとることを拒否されるでしょう」と、ベルントはルーシー夫人への手紙で説明している。そして、彼は心配のあまりゲッベルスに打電した。「一度ブラント教授〔ヒトラーの侍医〕をこちらへ派遣して、元帥の容態を診断させられてはいかがでしょうか」
『狐の足跡』上P283

 彼【ロンメル】は午後4時30分、副官のベルント中尉を飛行機で東プロイセンへ派遣し、ロンメルの軍を窮地に立たせている【エル・アラメインからの撤退不可の】命令を撤回させるように、ヒトラーを説得させることにした。ベルントは党の役員であったので、軍の参謀将校などを派遣するよりも、ヒトラーに聞いてもらえるであろうと思われた。
『狐の足跡』下P41

 彼女【ルーシー夫人】は頼りになるベルント - 「総統がわれわれすべてに望んでいるとおりのナチ党員そのもの」といった忠実で正直な人物 - のようなしっかりした人物が夫の身近にいることを喜んでいた。ベルントは総統に謁見してルーシー夫人のもとへ帰ってきたとき、【エル・アラメインでの】"勝利か死か"という電報を総統が打電させた背景には、多少の誤解があったようなことを匂わせた。
『狐の足跡』下P47,8



 ベルントはプロパガンダ部門の責任者として、スターリングラードの戦い、チュニジアでの降伏、あるいはカチンの森の(ソ連軍による)虐殺の跡の発見などに対処しました。また、1943年7月17日にはヒトラーから北アフリカ戦役への貢献に対し、ドイツ十字章金章を個人的に授与されました。


 ノルマンディー上陸作戦の直前の時期には、捕虜となっていたB-17乗員を路上でベルントが射殺したことがWikipediaに書かれています。

 連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功した後、ロンメルの司令部を訪れたベルントは、ゲッベルスに対して軍事情勢は極度に悲観的だと述べたそうです(詳しい事情は分かりませんが、ロンメル自身がその頃には軍事情勢の逆転はあり得ないとして悲観的に考えていましたから、その影響を受けたのかもしれません)。ゲッベルスはベルントを敗北主義者であると非難し、無期限の停職処分にしました。

 ベルントはこれに対し、前線での従軍を志願することにしました。1944年9月にベルントはベルリンを離れ、ヒムラーの仲介を得て武装SSに親衛隊大尉として入隊します。

 1945年初頭、ベルントは当時東部戦線で戦っていた第5SS装甲連隊の第2大隊の指揮を任されました。


 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』の第5SS装甲師団「ヴィーキング」。左から3つ目の「II/5」とあるのがそれだと思われます。

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 「ヴィーキング」師団は1945年1月1日からのブダペスト救出作戦(コンラートⅠ~Ⅲ)に参加し、目覚ましい前進を成し遂げましたが衆寡敵せず、西への後退を余儀なくされました。

 複数の目撃者によると、ベルントは第2大隊長として1945年3月28日にベスプレーム(Veszprém)でソ連軍の急降下爆撃機の攻撃を受けて戦死したということです。


 ↓OCS『Hungarian Rhapsody』のマップのベスプレーム周辺。

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(OCS『Hungarian Rhapsody』のキャンペーンは1945年2月26日ターン(実質的に2月末日)までであるため、厳密にはベルントが戦死した時期はゲームに含まれないことになります)



ロンメルの下の非常に優秀な情報参謀であったツォーリングについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの下の非常に優秀な情報参謀であったエルンスト・ツォーリングについてです(フォン・メレンティンのブログ記事で、北アフリカから離任する時の記述に1回だけ名前が出てきました)。


 写真は↓にありました。

Zolling, Ernst - TracesOfWar.com


 エルンスト・ツォーリングはフォン・メレンティンより1歳年長(1903年生まれ)でした。元々砲兵畑を歩んでおり、1937年初頭に参謀本部の予備試験に合格して陸軍士官学校で訓練を受けます。その後も砲兵部隊の幕僚を務めていました。

 ポーランド戦の時にはライン川下流域の警備を任務とする第27軍団の砲兵部隊の幕僚をしていました。

 1940年2月5日、ツォーリングはアイフェル(Eifel:アルデンヌのドイツ側の町)に駐留していた第8軍団の情報参謀となります。この時期にツォーリングは、自分が軍事情報関係の仕事が好きだということに気付き、その後のキャリアをこの専門分野のみで事実上過ごすことになりました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第8軍団司令部ユニットと、その麾下にあった第28歩兵師団、第8歩兵師団(OSPREY『Fall Gelb 1940 (1): Panzer breakthrough in the West』による)。

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 5月10日にドイツ軍はフランス侵攻を開始し、ツォーリングはリエージュ、アラス、カレーの戦いなどでその役割を果たします。その後第8軍団はB軍集団予備となりました。その間にツォーリングは試用期間を終え、7月20日に参謀本部から合格の通知を受け取ります。

 第8軍団はその後数か月間イギリス本土侵攻作戦の準備をしており、1940年末まで英仏海峡沿岸に留まった後、ドイツ占領下のポーランドのビャウィストクに移送され、ソ連侵攻に参加します。1941年11月まで中央軍集団の主要な戦闘の参加しましたが、軍団単位で深刻な数の死傷者を出していたため、再建のためにパリに戻されました(その後東部戦線に戻り、スターリングラードで潰滅しています)。

 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第8軍団司令部ユニット。

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 ツォーリングは北アフリカに転属することになり、1941年12月21日に砂漠に到着しました。アフリカ装甲軍の幕僚として6週間勤務した後、1942年2月15日にアフリカ軍団の情報参謀に就任します。その後、アフリカ装甲軍の情報参謀であったフォン・メレンティンが(1942年5月31日にヴェストファルが負傷したため)作戦参謀の任に就いたのに伴い、アフリカ装甲軍の方の情報参謀になっていたもののようです。
(「アフリカ装甲軍」はイタリア軍部隊も含んだ北アフリカにおける枢軸軍部隊すべてを指揮する軍規模の司令部で、その下に(主としてドイツ軍部隊が含まれる)「アフリカ軍団」や、イタリア軍の「第10軍団」「第20軍団」「第21軍団」などが存在していました)


 ↓OCS『DAK-II』のドイツアフリカ軍団司令部ユニット。

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 アフリカ装甲軍の情報部次長であったベーレントによれば、フォン・メレンティンが「現実的な洞察」に基づいて英連邦軍の意図を見積もったのに対し、ツォーリングは「論理」に基づいて推論していたそうです。しかもツォーリングは、敵の戦力と戦闘序列を明らかにする能力において、フォン・メレンティンを明確に上回っていました。そのために彼が主に参考にしたのは、ドイツ軍側が「グッド・ソース」と呼んだ、カイロのアメリカ軍公使フェラーズ大佐がワシントンに電報で送ったものでした。


 ただし例えば、Google Booksで引っかかった『El Alamein: The Battle that Turned the Tide of the Second World War』という本には、「エル・アラメインにおいて8月22日にツォーリング少佐は英軍戦車の数を350輌から400輌と推定したが、実際には700輌に近い数であった」というようなことが書かれていて、当然のことですがツォーリングの推定も百発百中ではなかったということでしょう。


 また、ツォーリングは防諜担当官としても優秀でした。イギリス軍の兵士は、捕虜になった時にどう行動すべきか、よく訓練されていました。すべてのイギリス軍兵士には「The Answer to this is Silence」という素晴らしいパンフレットが配られており、ドイツ軍やイタリア軍の尋問者がどのような質問をしてくるか、そしてどの質問には答えないようにすべきか(そのケースがほとんどでした)が指示されていたのです。ツォーリングが来るまでのドイツ軍指導部は、ドイツ軍兵士やイタリア軍兵士が捕虜になる可能性があるということさえ認めていなかったので、そのような指示も出していませんでした。そのため、枢軸軍の捕虜はあまりにも多くのことを話し、イギリス軍の情報将校達は彼らから大きな収穫を得ていたのです。ツォーリングは、この重大な手抜かりを是正しました。彼は「The Answer to this is Silence」を翻訳、修正した小冊子を作り、すべてのドイツ兵に給与明細と一緒に持たせるように命じました。その小冊子によると、尋問された時、ドイツ兵は自分の名前、階級、生年月日、出生地、居住地は答えることとするが、他の全ての質問には「それには答えられません」と答えること、となっていました。彼は、イギリス軍がこの答えを尊重することを知っていたのです。彼はまた、ドイツ兵が捕まった場合、イギリス軍は捕虜達が自由に会話できる場所に隠しマイクを設置するのが得意だということを警告しました。


 ツォーリングほど優秀な情報将校は希有な存在でしたが、ロンメルにとって不幸なことに、ツォーリングはエジプトからの撤退中にアメーバ赤痢のために北アフリカを去らざるを得なくなりました。

 ツォーリングは1942年11月23日に総統予備となり、健康を取り戻すのに6ヶ月を要しました。

 1943年5月15日にツォーリングは、ローマに司令部を置いていたケッセルリンク元帥の南方総軍の情報将校として現役に復帰します。彼は再び優れた仕事をし、1944年9月10日にフォン・ルントシュテット元帥の西方総軍の情報将校に就任するまでこの役職に留まりました。西方総軍の司令官は1945年3月10日にフォン・ルントシュテットからケッセルリンクに交代させられ、ツォーリングは再びケッセルリンクの下で働くことになりました。

 戦争末期、彼はアメリカ軍に降伏しました。戦後はドイツ連邦情報局で、エジプトにおける軍事顧問などを務めたそうです。



 今回、ネット上で簡単に検索した感じではツォーリングの情報はほとんどなかったので、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』をほとんど唯一の情報源とし、ただし戦後の経歴についてはネット上で出てきたものを使用しましたが、Google Books上で「Ernst Zolling」で検索すると、ケッセルリンクの裁判に関する記述らしきものでいくらかヒットします。

 戦後ケッセルリンクはイタリア戦中のパルチザンの処刑に関して裁判にかけられたようで、その参考人としてツォーリングが証言をさせられたもののようです。断片的なものしか読めないのですが読んでいる感じ、ツォーリングは(また、同じくケッセルリンクの下で参謀長であったヴェストファルも)人道上問題があるとは知りつつも上からの命令をそのまま処理したようにも感じます。難しい問題ではありますが、単に「ロンメルの下で活躍した」だけではなく、こういう問題もあったらしいということも、分かったのであれば記述すべきだろうと考えます(『Rommel's Desert Commanders』にはここらへんの問題は全然記述されていません)。




ロンメルの下で情報参謀を長く務め、その後の東部戦線での戦いなどを記述した『Panzer Battles』で有名になったフォン・メレンティンについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの下で情報参謀を長く務め、その後の東部戦線での戦いなどを記述した『Panzer Battles』で有名になったフォン・メレンティンについてです。


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 ↑フォン・メレンティン(Wikipediaから)


 ↓フォン・メレンティンの書いた『Panzerschlachten(英訳名:Panzer Battles)』の和訳本。





 フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・メレンティンの父は職業軍人で、その祖先は1225年までさかのぼることができたそうです。さらに、母の曾祖父はフリードリヒ大王の甥だったといいます。両親ともに息子達は軍人であるべきだと考えており、1918年に西部戦線で父が戦死した後も、母親が彼らを軍人にすべく教育を続け、3人の息子のうち2人が将軍にまでなりました(彼は三男で、最終階級は少将でした。6歳年上の兄ホルストは1945年に第38装甲軍団長、第11軍団長、第8軍団長を歴任し、砲兵大将にまで昇進しました)。

 フォン・メレンティンは1924年に騎兵連隊に一兵卒として入隊しましたが、その後士官養成コースで学び、1928年に少尉に任官されます。身長が168cmと低かったものの、スリムで、知的で、礼儀正しく、エネルギーに溢れていたそうです。馬術が非常に得意で、競馬や障害物競走、馬術競技などで多くのトロフィーを獲得していました。晩年も80歳を過ぎてなお、1日2時間は馬に乗っていたとか。

 フォン・メレンティンは参謀将校になるつもりはまったくなかったのですが、「不幸なことに」(と、自著で書いています)所属連隊の連隊長が事務仕事が大嫌いで彼にその仕事を押しつけたことがきっかけで、また資格試験の成績が上位であったため、参謀将校教育のために陸軍大学へ入ることを命じられます。

 卒業後は軍事パレードなどの業務に携わった後、ポーランド戦開始時には第3軍団の情報主任参謀を務めます。この時期に、ロンメル(ヒトラーユーゲントの軍事教練指導官に任ぜられていました)がフォン・メレンティンの執務室を訪れ、いくつかの問題について話し合ったことがありました。冬には彼は訓練中であった第197歩兵師団の作戦参謀となります。この師団はフランス戦では純粋に副次的な任務を果たしただけで、フランス降伏後にオランダに入り占領軍となりました。

 1941年3月から4月にはユーゴスラヴィアを占領するための第2軍の情報参謀を務めた後、イタリア軍との連絡将校に任命され、そこでイタリア軍の装備が旧式であることや、下級将校の訓練水準の低さに驚いています。

 5月末、ミュンヘンに出頭することを命ぜられました。新たに、アフリカ装甲集団の情報主任参謀に任じられることになったのです。ミュンヘンで同作戦主任参謀となる予定のヴェストファルと合流し、さらにローマで同参謀長となる予定のガウゼと合流しました。彼らはイタリア軍機に載ってシチリア島経由でトリポリへと向かいましたが、途中何度もイギリス軍の戦闘機が視界に現れ、超低空飛行を余儀なくされたそうです。

 【……】1941年4月、大勝利を収めて以来、彼【ロンメル】の責任は重大になったので、然るべき参謀がどうしても要ることになった。初めロンメル自身、物事をそんな風には見ておらず、だから彼がガンブートでわれわれを迎えた時の控え目で堅苦しい態度は忘れられない。われわれは皆いかにも参謀将校らしかったが、アフリカ事情に関しては明らかに新米ばかりだった。第一線の軍人としてロンメルはわれわれを疑問視した。その上、彼自身、参謀本部にいたことはないので、我々が彼を監視する気ではないか、自分を交代させるつもりさえもっているのではあるまいか、とおどおどしていたことは明らかだった。
 【……】
 実際問題として、ロンメルの指揮権についてわれわれが疑問を投げかけることは全くなかった。彼の役に立とうとアフリカにやってきたのであり、彼の方でもわれわれの助力がなくては、この大軍を指揮できないことに間もなく気がついた。
『ドイツ戦車軍団(上)』P84,5


 フォン・メレンティンは、1941年6月(バトルアクス作戦の頃)から、1942年9月15日(アラム・ハルファの戦いの少し後)までの15ヶ月間、ロンメルに仕えました(OCS『DAK-II』には、彼がいたアフリカ装甲集団等の司令部はユニット化されていないので、ユニット画像はなしで)。

 あるインタビュー記事でフォン・メレンティンは下記にように語っています。

 「ロンメル麾下の部隊は、ドイツ兵もイタリア兵も、彼の為に文字通り何でもした」とフォン・メレンティンは回想している。イギリス兵でさえおおっぴらにロンメルを称賛していたので、彼らの上級司令部は将校達に対して、ロンメルに関する話をしないように命令することを余儀なくされた。「しかしロンメルの真の素晴らしさは、必ずしも彼の幕僚達全員には受け入れられていなかった」とフォン・メレンティンは悔しそうに言い、こう続けた。「彼はジェームズ・メイソンが【映画『The Desert Fox: The Story of Rommel』、邦題:『砂漠の鬼将軍』で】演じたような親切で礼儀正しい人物では決してなかった。彼の下で働くには、鋼のような身体と、そしてそれ以上の強い神経を持ち合わせていなければならなかった」

 ロンメルは幕僚達と連絡の取れない日が何日にもなることがあり、毎日のブリーフィングに間に合うように司令部に戻ってくるのは稀だった、とフォン・メレンティンは言った。「彼は戦場から埃と汚れにまみれて到着すると、司令部に乱暴に入ってきてぞんざいに「Wie ist die Lage?」(状況はどうか?)と言う。ヴェストファル(作戦参謀)と私(情報参謀)はすぐに簡潔で明瞭な5分間の要約でそれに答えたものだった。砂漠の狐は、事実を分析し、それに基づいて行動を決定するのに30秒とかからなかった。そして、1週間分もの服すべき方針と命令を出すことも往々にしてあったが、それに修正が必要になることはほぼなかった」と彼は驚嘆と共に語った。
「Portrait of a German General Staff Officer」『Military Review 70(April 1990)』P74,75



 フォン・メレンティンは情報参謀として英連邦軍の兵力と意図に関し、詳細な評価を行う責任がありました。1941年10月中旬、彼は全部隊に配布するために情報分析を行い、近い将来、大規模な英連邦軍の攻勢が発起されるであろうと強調します。しかしロンメルは英連邦軍の攻勢の前にトブルクを落としてしまえると判断し、攻撃命令を発しました。攻撃準備は11月15日までに完了したものの、実施は月齢の関係で11月21日以降にならざるを得ず、そしてその前の11月18日に得連邦軍によるクルセイダー作戦が発起されたのです(トブルク攻撃に全力を傾けるためというロンメルの意図に従い、フォン・メレンティンはイタリア軍の将校に対しては、「英連邦軍の攻勢が発揮される可能性は少ない、と語っていたそうです)。


 ↓以下のクルセイダー作戦の時期の記述に出てくる地名を、OCS『DAK-II』のマップから(道路に沿って「Capuzzo」とあるのがカプッツォ道だと思われます)。

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 英連邦軍の攻勢が明らかになると、ロンメルはドイツアフリカ軍団長のルートヴィッヒ・クリューヴェルに「敵がトブルク攻撃に重大な脅威を与える前に撃滅せよ」と命令しますが、そのやり方は一任します(当時、ドイツアフリカ軍団には第15、第21装甲師団とアフリカ師団およびサヴォナ歩兵師団が配属されていました)。クリューヴェルはシディ・オマールに向かって主力を集中することにしました。しかし、その方面にはすでに敵は存在せず、第21装甲師団は見えざる敵を追い求めてついに燃料を切らし、燃料の空輸を求める狂気のような要請がアフリカ装甲集団司令部に飛び込みます。フォン・メレンティンらは全力を挙げて燃料輸送隊を編成するのに没頭しました。

 21日午後には、ガンブートにあったアフリカ装甲集団司令部に敵が危険なほど接近していることが分かり、ロンメルはその夜のうちに司令部をエル・アデムに移すよう命じました。

 その後、11月23日に起こった戦闘の勝利を過大評価したロンメルはいわゆる「(リビア・エジプト国境の)鉄条網へ突進」を企図します。その件について、フォン・メレンティンはこう書いています。

  【アフリカ】装甲集団司令部にあって私は、カプッツォ道沿いにニュージーランド第2師団主力が進撃している、という信頼すべき情報を得ていた。さらに、トブルク戦線の戦況は急を告げつつあった。ヴェストファル大佐と私はロンメルに対し、トブルクからアフリカ軍団を遠くへだてるのは危険であり、ばらばらに進撃してくるニュージーランド師団撃滅の絶好機を逸するおそれがあろう、ということを指摘した。
 事実、もしわれわれがアフリカ軍団をシディ・レゼー地区にとどめていたならば「クルセイダー」作戦に勝利をつかんだであろうという点について、私は確信を持っている。英第8軍は、その兵力を逐次投入するという、致命的な誤りを犯し、わが軍は、これを各個撃破することが可能であった。しかしロンメルの決断した国境地帯の鉄条網への進撃は、カニンガム将軍を著しく混乱させ、英第8軍を猪突猛進させることになったのは事実である。
『ドイツ戦車軍団』上P132,3


 また、フォン・メレンティンら幕僚は英連邦軍の物資集積所の位置を掴んでいたそうなのですが、ロンメルはそもそも敵野戦軍の撃滅を意図していて物資集積所には興味がなかったし、またフォン・メレンティンも一箇所の物資集積所を潰したとしても、英連邦軍には無限の兵器資材を持っていたから、英軍の攻勢が停止されたかどうかは非常に疑わしい、と書いています(しかし私自身は、そうでもないのではないか、フォン・メレンティンはロンメルに忠誠的であるために、全般的にロンメルにとって少し有利なような書き方をしているのではないか、という気もします)。

 ロンメルとの通信が途絶していた間……。

 エル・アデムの司令部として使っていた丸太小屋の中で、外套を投げやりに引っかけてヴェストファル大佐と私は不安を募らせつつ戦況を見守っていた。
『ドイツ戦車軍団』上P135




 1942年5月26日からのガザラの戦いの時にはフォン・メレンティンは、陽動作戦を行うクリューヴェル突撃群の先任作戦参謀に任じられていましたが、29日にクリューヴェル将軍の乗る飛行機が撃墜され英軍の捕虜になったため、一時的に指揮を執ることに。この時ケッセルリンク元帥が司令部に現れ、フォン・メレンティンは指揮を依頼します。ケッセルリンクは面白がったものの、元帥としてロンメルから命令を受けることはできないという点を指摘しました。しかしフォン・メレンティンは、この危険な時期にイタリア軍の将官にクリューヴェル突撃群の指揮を任せるのは適当でないと指摘し、ケッセルリンクは2、3日の間指揮を執ることに同意したのでした。

 その後、5月31日にアフリカ装甲軍作戦参謀ヴェストファルが負傷したため、フォン・メレンティンは装甲軍の司令部へ戻るように命じられ、先任作戦参謀の任を引き継ぎます。


 7月1日から第1次エル・アラメインの戦いが起こりましたが、10日に英連邦軍の限定的な反撃によってイタリア軍戦線が崩壊し、これをからくも食い止めたのがフォン・メレンティンであり、ロンメルは書簡の中で「英軍の攻撃をもちこたえたことについては、とくに、そのときフォン・メレンティン中佐に指揮された装甲軍参謀部に感謝せねばならぬ」と述べています(『ドイツ戦車軍団』上P235)。

 一方、オーキンレックはロンメルの軍勢が予想していたほど強力ではないことを察知したが、すぐに大規模な反撃に出ることはしなかった。その代わり、ドイツ軍よりも戦闘能力が低い、地中海沿岸のイタリア軍に標的を絞り、敵の陣形を崩す目的で、7月10日から15日にかけて、第30軍団による限定的な反撃を開始した。
 この攻撃の矢面に立たされたのは、サブラータ歩兵師団とトリエステ自動車化師団、ブレシア歩兵師団、パヴィア歩兵師団などで、とりわけ最左翼に位置するサブラータ歩兵師団の損害は甚大で、ほぼ壊滅状態となってしまった。これにより、枢軸軍の戦線には数か所で綻びが生じたが、ロンメル率いるドイツ軍の装甲部隊は戦線の右翼に展開しており、すぐに左翼のイタリア軍を救援に向かうことは不可能だった。
 そのため、アフリカ装甲軍司令部の情報参謀フリードリヒ=ヴィルヘルム・フォン・メレンティン中佐が、自らの判断でドイツ軍の後方部隊(通信部隊や輸送部隊など)をイタリア軍の救援に向かわせ、サブラータ師団の抜けた穴には、クレタ島から転進していた第382と第433の2個ドイツ軍歩兵連隊が急派された。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P297,8


 この時のことを、フォン・メレンティンは自著でこう書いています。

 その日の朝早く私は、数百のイタリア兵が狂乱状態に陥って装甲軍司令部のそばを駆けぬけてゆくのを見て驚いた。
 ロンメルは、その夜、はるか南のカレ・エル・アブド陣地で過ごしており、司令部の指揮は私に委ねられていた。司令部が危機に陥ったとき、まず本能的に、代替し難い装備、文書を移動し、その安全を図った。しかしサブラタ師団がすでに「潰滅して」いたのは明らかであり、直ちに西に向かう道路を閉鎖しなければならなかった。私は司令部にいた参謀や兵員を呼集して、急ごしらえの防御線を設置する一方、ちょうど到着した高射砲数門と歩兵を投入して、戦線を強化した。われわれはテル・エル・アイサの高地を奪取し、海岸道路へ突進するため、攻撃してきたオーストラリア軍をくい止めるのに成功した。だが不幸にも無電傍受隊長ボーゼーム中尉は戦闘中に戦死し、その部下の大半も失われた。
『ドイツ戦車軍団』上P217,8



 しかしこの時期フォン・メレンティンは何ヶ月もの間アメーバ赤痢に苦しめられていました。そんな中、ヴェストファル大佐が8月30日の夜に戻ってきて作戦参謀の任務を再開し、また以前のフォン・メレンティンの任務であった情報参謀の職務は2カ月前からツォーリング少佐が務めていたので、彼は余剰将校となったのです。軍医官は以前からフォン・メレンティンに対して治療のためにヨーロッパへ帰還することを強く勧めていたこともあり、9月9日、彼はロンメルに離任の申告を行い、数日後に北アフリカを出発しました。彼はこの時以降、ロンメルに二度と会うことはありませんでした。

 バイエルン山中の病院で治療を受けて健康状態がすぐに回復したフォン・メレンティンは、今度は包囲されたスターリングラード周辺の戦いに投入されることになり、第48装甲軍団(フォン・クノーベルスドルフ)の参謀長に任命されます。その直後の1942年12月にスターリングラード包囲環のすぐ西で行われたいわゆる「チル川の戦い」は、第11装甲師団長バルクとフォン・メレンティンが連携してソ連軍の大兵力を叩くことに成功し、「Panzer Battles」の代表的な名戦闘と見なされています(SCS『Panzer Battles』はこのチル川の戦いを扱っているのです)。

OCS『Case Blue』「チル川の戦い」シナリオ (2016/12/25)

 ↓OCS『Case Blue』の第48装甲軍団司令部ユニット。

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 メレンティンは、1942年11月29日から1944年9月14日までの間、ロシア戦線の南方で行われたほとんどの主要な戦闘に参加した。メレンティンは、クノーベルスドルフとその後任であるヘルマン・バルク将軍の下で絶望的な戦いの中で見事な働きをし、これらの戦いの素晴らしい記録を名著『Panzer Battles』に残し、この著作は1956年にオクラホマ大学出版局から初めて出版されて以来、何度も再版されている。彼は、ブロディの戦い(1944年7月)では第8装甲師団長代理を務め、1944年8月15日から9月14日までは、バルク率いる第4戦車軍の参謀長を務めた。1944年9月【21日】、バルクがG軍集団の司令官に任命されると、彼はメレンティンを連れて西部戦線に赴いた。メレンティンは、1943年5月1日に大佐に昇進していた。

 バルクとメレンティンは、ヴォージュ地方のロレーヌキャンペーンでアメリカ第7軍と第3軍およびフランス第1軍に対して、G軍集団(麾下は戦力不足の第1軍と第19軍であった)を見事に指揮した。G軍集団は【南】フランスからの撤退で大きな打撃を受けていた。例えば、第19軍は1,480門の砲のうち1,316門を失っており、また生き残った戦車は10輌のみであったという。バルクとその参謀長は、急いで(少なくとも部分的には)再建することができ、またメレンティンのアフリカ時代の旧友であるジークフリート・ヴェストファルを参謀長とする西方総軍からの助けも大きかった。その大きな戦力差にもかかわらず(装甲師団の中には、運用可能な戦車が5輌しかないようなものもあった)、彼らはかろうじて戦線を維持することができた。その理由の一つには、連合軍の補給が困難であったこともあるが。第1次メッツの戦いではパットンを阻止し、連合軍の西方防壁への攻撃を何ヶ月も遅らせ、1944年12月16日に西方総軍がアルデンヌ攻勢をかけられるようにしたことに大きく貢献したのである。しかし、連合軍を永遠に食い止めることはできず、パットンのメッツ攻略(11月21日)やフランス軍のストラスブール攻略(11月24日)を阻止することはできなかったのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P112


 G軍集団について調べてみたところ、ノルマンディー上陸作戦の時には南フランス(ロワール川より南)のうちの西部が第1軍、東部が第19軍の戦区となっており、その上位建成であったようです。

 当初このG軍集団はヨハネス・ブラスコヴィッツ将軍が指揮していてドイツ国境への後退を行っていたものの、麾下に入れられた第5装甲軍(マントイフェル)による9月12日の反撃計画が戦車の不足により延期され、9月18日にようやく実施されたもののきわめて小規模に留まっていることを知ったヒトラーはブラスコヴィッツには攻撃精神が欠如していると決めつけ、攻撃精神の鬼のようなバルクと交替させたのだとか(『ドイツ軍名将列伝』P148)。

 OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンゲームは1944年9月5日ターン(5日~7日)から開始ですが、メッツ攻略戦はそのターンの内に始まり、バルクとフォン・メレンティンがG軍集団に赴任した9月21日は第5ターンとなります(第4ターン中の9月17日にはマーケットガーデン作戦が開始されていました)。

 『Beyond the Rhine』におけるG軍集団の戦区が気になったので調べてみたところ、連合軍がベルギーに入る前の時点では、↓の黒い線の南側であったようです。その北側はモーデルのB軍集団の戦区となります(『Atlas of the European Campaign: 1944-45』から)。

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 赤い線は、その後の9月11日の時点における軍集団の境目で、少し南にずれたようです。


 ↓拡大したもの。

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 1944年11月下旬、参謀総長となっていたグデーリアンがG軍集団司令部に使者を送り、大砲の使用法についてアドバイスをしてきました。それを聞いた参謀長フォン・メレンティンは、そもそも大砲も砲弾もほとんどないのにと無遠慮な意見を述べました(フォン・メレンティンはこの時のことについて、自分は「いたずらっ子」であったと述べています)。使者はグデーリアンの元に帰って、フォン・メレンティンが自分を侮辱した上に無視したと伝え、怒ったグデーリアンは11月28日にフォン・メレンティンを陸軍本部へと召還し、徹底的に叱責した上で、なんと軟禁したのです!

 1週間軟禁されて解放されたものの、12月5日にフォン・メレンティンはG軍集団の参謀長の職を解任されてしまいました(『ドイツ軍名将列伝』P288によれば、「ザール川を敵に渡らせた責任を問われて、参謀長を解任された」とあります)。


 その後、フォン・メレンティンは第9装甲師団の第33装甲連隊の指揮を任されることになりました。『Rommel's Desert Commanders』によると、グデーリアンは冷静になった後、ヒムラーの陰謀によって12月中旬にG軍集団司令官を解任されていたバルク(フランス戦の時にバルクはグデーリアンの下で連隊長を務めており、長年の友情で結ばれていました)と会って彼を東部戦線の第6軍司令官とすることに成功し、その時にフォン・メレンティンの再任についても話し合ったのではないだろうか、とありますが、推測の域は出ないような気がします。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第9装甲師団ユニット。

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 軍集団参謀長が装甲連隊長に、ですから、「冷静」になって「再任」というのには何かほど遠いような気もしますけども、これまでに調べたドイツ軍の指揮官でも、大戦後期には降格人事的なものは見ましたから、当時はそんなものだったのかもしれません(>_<)

 フォン・メレンティンは1944年12月28日にB軍集団司令部に出頭し、翌日には第33装甲連隊の指揮を執り始めましたが、連隊には400名ほどしか残っていませんでした。彼は連隊を率いて、ウーファリーズの戦いやバルジの戦いの終盤で、アメリカ軍の攻撃を何度も撃退します。ロシアでの経験から、フォン・メレンティンは氷雪の中での退却方法を熟知していたため、第5装甲軍の後衛として貴重な働きを見せたのでした。

 『Rommel's Desert Commanders』によれば、バルジの戦いが終わる頃にはフォン・メレンティンとグデーリアンとの関係は修復され、1945年3月5日にはフォン・メレンティンは第5装甲軍の参謀長に任命されます。

 4月1日、B軍集団の第5装甲軍と第15軍はルール地方の巨大な包囲環の中に包囲されてしまいました。4月15日、B軍集団司令官モーデル元帥は、小さな部隊に分かれて東へ脱出を試みるように命じます(モーデル自身は18日に自決)。フォン・メレンティンは他のわずかな将校達と共に包囲環から抜け出そうとして、昼は隠れ、夜に移動を続けます。しかし5月3日、彼はアメリカ兵に捕らえられてしまったのでした。


 フォン・メレンティンはその後2年半を捕虜として過ごし、釈放された時には(東)ドイツにあった財産はすべてなくなってしまっていました。それからの3年間を西ドイツでホームレス難民として過ごしましたが、1950年に妻の祖父が移住していた南アフリカに移り住みます。彼は40代後半になっていましたが、そこから航空会社を立ち上げ、大成功します。フォン・メレンティンは後に、どんな仕事であっても「優れたスタッフワークと適材適所の選択が重要である」と語ったそうです。

 彼はNATOやアメリカ陸軍のコンサルタントをしたり、欧米の陸軍大学校で講演をしたりして晩年を過ごし、1997年に南アフリカで92歳の生涯を終えました。



 最後に、フォン・メレンティンの著作『Panzer Battles』について今では色々と批判的に見られているようで英語版Wikipedia「Friedrich von Mellenthin」にはそこらへんのことが書かれており、大変興味深いものでした。

 メレンティンの著書『Panzerschlachten』(英訳名『Panzer Battles』)は、彼が参加したドイツ国防軍の作戦を記録したものである。この本は1956年から1976年にかけてアメリカで6回再版され、ドイツ軍の戦いにロマンを抱く読者の間で今もなお人気がある。メレンティンの『Panzer Battles』やその他の著作の真偽は長年に渡って疑問視されてきた。歴史家のヴォルフラム・ヴェッテは、フェルディナント・ハイム、クルト・フォン・ティッペルスキルヒ、ヴァルデマー・エルフルトなどと並んで、メレンティンを第二次世界大戦に関する弁明的で無批判な研究を著したドイツ軍将官のグループにリストアップしている。

 批評家は、メレンティンがドイツ国防軍の失敗を軽視する傾向がある一方で、ドイツ兵の戦闘能力を賞賛していることを指摘している。歴史家のロナルド・スメルサーとエドワード・J・デイヴィスは、メレンティンの著作を、エーリヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアン、ハンス・ルーデル、ハンス・フォン・ラックの著作とともに、戦後の修正主義者の物語を支える「弁明的回顧録」というジャンルの一部として特徴付けた。メレンティンは、国防軍の敗北は単に人員と資材におけるソ連軍の優位性に帰するのだとして、赤軍を「巨大で無尽蔵とも見える資源を持っている冷酷な敵」として描写している。その結果、メレンティンによれば、「果てしない兵員と戦車の波」が、優位にあるはずのドイツ国防軍を最終的に「水没」させたのだ。

 東部戦線におけるドイツ国防軍の敵は、「ロシア兵の心理学」に捧げられたセクションを含め、一貫して軽蔑的で人種差別的な言葉で描かれている。メレンティンによれば、「ロシア兵」は「原始的存在」で、「精神的鈍重さ」によって特徴づけられ「宗教または道徳的バランス」が欠けている。メレンティンは彼らを「原始的な」「アジア人」であると述べている。

 『Panzer Battles』は、ソ連軍の記録資料が西側とロシアの歴史家にとって利用可能になった1995年まで、東部戦線の軍事行動に対するアメリカ人の見解に影響を与え、誤解を形成するのに役立った。歴史家ロバート・シティーノは、メレンティンの作品が、西側諸国における赤軍の認識が「顔も心もない大群」で、その戦争技術の考え方は「数、力、大きさによって行く手のすべてを粉砕すること」であると形成したことに影響力を持ったと指摘している。シティーノは『Panzer Battles』を「よく言えば信頼できない、悪く言えば意図的に誤解を招く」ドイツ軍将校の回顧録の中に含めている。



 このページの一番下にはグランツ氏による "American Perspectives on Eastern Front Operations in World War II"という論文(?)へのリンクがあり、そこには『Panzer Battles』に具体的にどう問題があるのか、少し書かれています(Wikipedia上での批判よりは、穏やかな批判に留まっているような気がします)。


新刊『牟田口廉也とインパール作戦』の感想

 新しく出版された『牟田口廉也とインパール作戦』を読了しました。





 正直、読んでいて気持ち悪いものがありました……。もちろん、個人的な感想に過ぎないので、この本を素晴らしいと思う人も一定数おられると思いますけども。

 自分なりの書評をどうしようかと思っていたんですが、読了後にAmazonの書評を読んでみたら、その1番目と2番目のもの(「誤解されるかも知れない作品」と「超無理筋な牟田口擁護論」)が特に、「うんうん、その通り」と思ったので、そこらへん自分の書評を書く必要はないな、と思いました(^_^;


 ただ、以前の広中一成『牟田口廉也ー「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)が個人的には、牟田口に関係の薄い歴史叙述を延々とするだけで牟田口に関係する記述が昔のインパール本よりも遙かに薄く感じ、しかも著者の主張も何も分からないという、自分史上最高に「買う価値と読む価値がまったくなかった」と思われたのに対して、この新刊『牟田口廉也とインパール作戦』の方は新しい聞き取りなどで得られたのであろう記述も多くあるようだし、述べられる興味深いエピソードに出典が書かれていて中にはどうも入手難なものもあるようだったりで、一般読者にとっての(二次)資料としての価値はかなりありそうだと感じました。




 また、その牟田口擁護論に関しても、私は納得できませんでしたが、「そういう見方もある」し、「その見方に納得する人もいる」のは確かなのでしょう。それから、牟田口を批判する側も、かつての「とにかく牟田口批判を重ねればいいのだ」という姿勢は問題があるということは自覚されるべきだと思いますし、その感覚は広がってきているように思われるので、慶賀すべきことではないかと。あと、個人的には、「(とりあえずの?)牟田口擁護論としては、こんな理屈しか取りようがないのか(他に牟田口を擁護できる材料はないのか)」と思った(思えた)ことも収穫ではありました。


 インパールの牟田口論争に関しては、これで一応、「多角的にインパール作戦を見るべきではないか」という笠井亮平『インパールの戦いーほんとうに「愚戦」だったのか』(文春新書)が出た後、「牟田口を擁護してみました」という本作が出ました。他にも切り口は色々あり得るでしょうし、ますますの活発な議論や出版を期待したいところです。





 個人的に一番興味があるのは、牟田口と他の将軍との比較論です。その筆頭は確実に、牟田口にとって戦域的にも期間的にも地位的にもずっと、最もライバル的な関係にあったスリム将軍でしょう。スリム将軍は部下達や一般兵達と密接にコミュニケーションを取り、その士気をものすごく上げていくことができたし、また部下を信頼してその判断に任せることができた指揮官であったようなので、牟田口との比較論は酷なものになりそうですが。

 また、本書でも結構触れられているウィンゲート将軍は上官や同僚達からは非常に嫌われていた一方で部下達、兵士達からは非常に慕われていたそうですが、その作戦(敵後方に降下して作戦する)は労多くして益は少なかったのだろうとされていますから、インパール作戦との比較もありでしょう。

 本書で言うところの「任務重視型軍隊」ということで言えば、第1次アキャブの戦いの時の(中東では名将であったと思われる)ウェーヴェル将軍や(ほぼ文句なく愚将であろう)アーウィン将軍は、牟田口とある程度似た「攻勢をやらなければならない」立場にあったように思われますから、そこらへんの比較も面白そうです。

 また本書では、スティルウェル(中国軍を改善したアメリカ軍指揮官。兵士達に非常に嫌われた)やシェンノート(フライングタイガースの指揮官らしいですが、私は全然この人物に関して知識がありません)は、牟田口と同じくらいの愚将であったとする意見がある(和訳もされている『ウィンゲート空挺団』の著者デリク・タラクの意見)ということが述べられていますので、そちらも興味のあるところです。






 日本軍においても、もし第15軍司令官が牟田口でなく、他の将軍であったならばもっとマシになり得たのではなかろうかという検討や、比較があり得ると思います。

 今の私の知識では、当時の牟田口の地位に就き得た、より良い将軍としては桜井省三将軍(当時アキャブ方面の第28軍司令官でしたが、ビルマ戦には牟田口よりも早くから第33師団長として戦っていました)が思いつきますが、「積極果敢」が第15軍に求められていたのでしょうから、その意味でやはり人選的に無理だったのか……。

 積極果敢で言えば、当時第18師団長(としては優秀であったと思われる)の田中新一将軍もまたやばいくらい積極果敢で、インパール戦後の状況でもビルマ方面軍参謀長として他の参謀達が困り果てるような無理無茶無謀な作戦案を声高に主張しまくっていたらしいですが、この人は東條英機にガダルカナル戦の時に「馬鹿野郎」と罵倒を浴びせてますから、東條-河辺ラインの下で軍司令官になる目はなかったか。

 そう考えていくと、東條英機がまずまあ問題で、河辺正三も大いに問題ありであり、ここのラインが何とかなってなければどうしようも……。しかしそもそも、大枠の太平洋戦争自体が「賭け」なので、当時東條英機がビルマで「賭け」をやらないくらいなら、そもそも太平洋戦争自体が始まってないよね、という議論になりそうで、すでに救いがないです。

 ただ、ビルマ戦の他の指揮官と牟田口の比較ということ自体は、益のないことではない、興味深い視点だと思います。



OCSの対戦プレイの防御側には、予備の予備が必要だ!?

 久方ぶりにOCS『Sicily II』のキャンペーンプレイの続きを始めたのですが、ひどい窮地に陥ってます(>_<)






 そんな中、最近思い始めた予備の重要性について。

 元々、尼崎会のプレイでは「予備はある程度重要なんだろうと思いつつも、我々はほとんどすべてのユニットを前線に出してしまうよね」ということをずっと言ってました。

 しかし、ここ最近の対戦プレイでは「相手がどんなことを、またどれだけのことをやってくるかが予想できないから、予備がやっぱ重要だなぁ……」ということが感得できてきたような気がします。

 一つには『Sicily II』が、OCSの中でもかなり攻撃側の動きを予想しにくいものであるような気もします(二次、三次上陸が可能だったり、侵攻ルートが多数あったり、ユニットはやや余り気味であるとか)が、そもそもOCSは選択肢が他のウォーゲームに比べても格段に広いため、必ずと言っていいほど予想外のことが起こるし、悩んで悩んで決断しても、必ずや後悔するというゲームであるということがあるだろうと思います。

 あと、「そういえば……!」と思ったこととして、尼崎会ではずっとずっと、「研究プレイ」が主であり、ガチの対戦プレイはほとんどまったくやってこなかったのです。だとすると、両陣営の事情を良く分かった状態でプレイするわけで、予想外ということはやや起こりにくく(それでも起こりますが)、そのために予備の必要性が非常に感じにくくなっていたのではないか!?


 また、ガチ対戦プレイの防御側に「予備が必要」として、「予備の予備も必要」という思いも抱きました。というのは、以前古角さんに指南してもらったこともあることなんですが、OCSでは敵ZOCにいると予備モードになれないので、「今、このユニットを予備に指定したい」と思ってもそうできない、ということが多々起こるのです。そのため、特にいったん前線から引き上げさせてきた師団などを「予備の予備(次のターンの予備)」とし、以前から予備にしようと思っていたユニットこそをこのターンの予備にする、ということが必要であろう、と。

 「OCSの防御がものすごく難しい」と思っていたのですが、ちょっと光明が見えてきたような気がします。まさか、「研究プレイである」ということが、防御方法をむしろ分かりにくくしていたとは……!

 もちろん、攻撃側も予備を持つのが重要で、特に『Sicily II』の今ターンには、連合軍が予備に指定していた突破戦力に無茶苦茶苦やられました……(T_T)


 今後また、より上手い防御法を体得できるよう、研鑽を積んでいきたいと思います。

1806年戦役の各軍団の1日毎の移動距離を調べてみました&審判制ゲームが欲しいです

 以前から1806年戦役の審判制ゲームが欲しいと思ってまして、少し前に試しにマップを作ろうとしてみてました。


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 ↑ 『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』のマップを1ヘクス5マイル(約8km)でハーフマップの領域に収めてみたもの。1ヘクス5マイルというのはOCSの標準スケールですが、別にそれにこだわるというものではありませんし、ハーフマップが個人的には最小としてもより大きいサイズ案とか、切り取り方とかは色々あり得ると思います。



 最近になって、このゲームの1ターンの期間について「日中を2ターンに分けるか、3ターンか、4ターンか……」というようなことをぼーっと考えていて、「あっ。実際に各軍団がどれだけ移動していたかを調べて、そこから逆算するのが良いのじゃないか」ということを思いつきました。


 そこで、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』の戦況図を複数重ねてある現在のヘクスマップ上で、だいたい何ヘクス移動しているかを数えてみました。

 それが↓になります。最初はマップが2日間毎で、10月13日に関しては1日の移動、10月14日がイエナ・アウエルシュタットの戦いのあった日です。数値に幅があるのは、存在していたヘクスが広がっていたとかのため。そしてさらに、1日毎に修正したものを下に作りました。

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 まず、ベルナドット軍団が最初からずっとスピードが遅かったのが分かりますが、これはベルナドット軍団が一番最初に戦場に突っ込む役割であったため、ある程度警戒しながら移動していたからじゃないかと。

 また、ダヴー軍団やランヌ軍団のスピードの速さが目に付きますが、ランヌ軍団が10日から11日にかけてスピードが鈍っているのは、ザールフェルト付近でプロイセン軍のルイ・フェルディナント公と戦っていたからでしょう。

 オージュロー軍団は後発であったので、前線にかけつけるためにひたすら戦略移動をしていた感じだと思われます。一方で、一部を除き12日、13日にかなりスピードが鈍っているのは、実際に戦闘をしていたとか、あと、イエナの会戦予定地域へと集結し始めていて、「着いてしまえば止まる」とか「密集して調整が必要になってスピードが鈍った」とかではないかと思われました(食糧についてはこの時点ではまだ手持ちでまかなえる状態だったんじゃないかと思います)。

 また詳しい事情は資料を調べてチェックしないとですが、印象としては、(OCSで使用されていて個人的にも良いシステムだと思っている)戦闘が起こりそうな時には遅くて強い戦闘モード(表面)、行軍速度をより重視する時は早くて弱い移動モード(裏面)にし、また、戦闘が起こるとは思えない地域でとにかく速度重視の時は移動モード(裏面)+戦略移動モードにしてさらに移動力をプラスする(そして戦闘力はガタ落ちする)、というやり方はアリじゃないかと思いました。

 あと、ダヴー軍団は基礎的な移動力も少し高めでいいでしょうし、また、ダイス目などによって移動距離がプラスされたりマイナスされたりするのもありだと思います。


 プロイセン軍の方ですが、初期の0というのは、それまで西進していたのが立ち止まって東進(というか撤退)に切り替わる時期であるので、それでしょう。また全体的な移動スピードはフランス軍に比べればかなり落ちる印象です。

 移動スピードを見ているとプロイセン軍の低さは明らかで、これで戦闘効率的にもこの時期の最強フランス軍には劣っているのですから勝ち目はないようにも思われますが、プロイセン軍贔屓の私としては、ザールフェルトの戦いでいきなりルイ・フェルディナント公が戦死したりせず、ブラウンシュヴァイク公やブリュッヒャーやリュッヘルが本来の強さをある程度以上発揮できた(ありていに言えば、ブラウンシュヴァイク公の部隊にぶつかったのがダヴー軍団でさえなければ)、もっといい戦いができただろうと思っています。ただし、ホーエンローエ公(とその参謀長のマッセンバッハ)には何も期待できないとは思ってますが(^_^;)



 「審判制ゲーム」で考えているのは、実際にそうであったように、直属部隊以外の軍団に対しては夜間ターンのうちに情報を収集して翌日の一般命令を与えておくが、その日の日中の行動に対してはプレイヤー(総司令官)が関与できず、審判が判定するというものです。その結果、狙ったように軍団が移動できなかったり(そしてそれを夜間ターンになってから知る)、思いも寄らない場所で戦闘が発生していて後でその結果を知る(アウエルシュタットの戦いのように)ということになるでしょう。また、早めの日中ターンに近くで砲声を聞いた軍団司令官が、戦場へ向かったり向かわなかったりも……。

 しかし私はどうも、既存のゲームシステム上で何かを作ることはできても、自分でシステムを作るのは無理なんじゃないかと思われ、ユーロゲームとかでもそういうシステムがないかとも思っていたんですが、最近また欲しい感が募ってきたので、進捗度合いによっては作って試してみるかもです。ただ、ゲームシステムは出来うる限りシンプルであるべきだろうとは思ってます。


 「審判制ゲーム」としては他にも、1941年のクルセイダー作戦、1815年のワーテルロー戦役が欲しいなぁとも。後者は「仏、英、普、審判」の4人ゲームとなって更に敷居が高くなりますが……。


 ゲーム会でプレイする上で「審判制ゲームは結構色々難しいよなぁ……」というのもずっとあり、例えば審判がプレイヤーに一部の情報を開示する時にそれを声で知らせないための工夫が必要だろうというのも懸念としてあったんですが、最近考えていて辿り着いたのが、「完全オンラインでいいじゃん」と。

 各人がマップとユニットを広げてプレイするにしても、各軍団の目的地を示すマーカー(BCSのOBJマーカーのような)を置いた状態のマップ全体をスマホで写真を撮って、審判にLINEとかで送ればいい。審判と一人のプレイヤーの間でのやりとりも、LINE通話とか、Discord上で一部の人間だけがある部屋に入ってやりとりすることができます。

 コロナ禍がまだ続いている中では、オンライン+審判制ゲームというのはもしかして結構ありだったりとか……?(^_^;


ロンメルが兵士達に好かれた理由について

 以前、↓のようなツイート返信をいただいていたので、ロンメルが兵士達に好かれた理由について調べてみました。




 調べて情報を集積してみると、まず「ロンメルは厳しかった(口うるさかった)、だが……」という文脈が多いので、まず「人に対して良く怒った」という件についての証言で、個人的に興味深かったものを挙げてみます。1944年の話ですが……。

 【1944年】4月5日、マルクス将軍はこのときの印象について、さらにつけ加えている。ロンメルは喧嘩早いし、よく怒る。そして部下の各級指揮官を驚かせる。毎朝、彼のところへ最初に報告に行く者が朝食がわりに怒られる。その後で行く者はあまり怒られずに帰って来る」【……】「彼は何か気に入らないことがあると、シュヴァーベン人らしい強情で粗野なところをまる出しにする」
『狐の足跡』下 P168



 以下、「……だが、このような長所もあったし、兵士達には好かれていた」という文脈の資料を挙げてみます。

 ロンメルは仕えやすい人ではなかった。自分に厳しいと同様、周囲の者にも厳しかった。ロンメルと共に勤務するには、鉄の身体と鋼の神経が必要だった。だが、これだけは強調しておきたい。確かにロンメルは時に古参の指揮官らに向かって、あけすけに物を言って当惑させることもあったが、自分の側近の者の有能誠実なことにいったん納得したら、決して彼らに向かって荒々しい言葉を吐くことはなかった。
『ドイツ戦車軍団(上)』P87

 若い兵隊や下士官などには、よく冗談口を利くので非常に人気があったが、部隊長などのやり方が気に入らないと遠慮なしに叱りつけるのだったしかし、こんな風に一方的な議論をしたあとは必ず随行した参謀に、運悪く槍玉に挙げられた者の弁護をさせ、それに耳を傾けるだけの度量があり、自分が叱責したのが不当だったとわかれば、ロンメルは次の視察の時に埋め合わせをするのだった。
『ドイツ戦車軍団(上)』P89

 彼【ロンメル】は配下の主任参謀達を容赦なく手荒に扱ったが、兵士達や捕虜達に対しては決して手荒なことはしなかった、とフォン・メレンティンは回想している。
「Portrait of a German General Staff Officer」『Military Review 70(April 1990)』P75

 しかしロンメルは、後の参謀長アルフレート・ガウゼによれば「妥協を許さず、厳格で、人間臭さがほとんどない性格」だった。彼は人をその能力によってのみ評価し、また上官や部下達から気に入られようと努力することはまったくなかった。彼の気遣いのすべては麾下の部隊に関して向けられており、そして彼は自分を「人気者」にするためのあらゆる手段を軽蔑していた。実際ロンメルは、日常的に接している部下達からはあまり人気がなかった。ロンメルの部下へと異動させられたことを懲罰であると考えた将校もいた。しかし、ロンメルと戦場でしか会わなかった兵士達は、気取らず、饒舌でなく、そして神秘的な彼に感銘を受けた。特に兵士達は、自分達が日々命を危険をさらしている戦場において、彼と会ったのだから。ロンメルの参謀長アルフレート・ガウゼは、ロンメルを生ける伝説としたその「何とも言い表せない相互理解」について、「すべての兵士達が、彼が自分達と共に戦っていることを感じていたのだ。」と語った。
『Mythos Rommel』P73,4


 このガウゼの証言について、2点、付け加えておこうと思います。

1.「人間臭さがない」「彼の気遣いのすべては麾下の部隊に関して向けられており」について
 ……ロンメルは持てる時間のほとんどすべて(あまり寝ないのでその時間もかなり長い)を軍事的な気遣い(前線部隊を見て回るとか)に対して割り振っていて、ロンメルが何か話をするにしても軍事的なことばかりだった、というような話をいくらか見ます。そこらへんのことを指しているのではないかと思います。

2.「彼は自分を「人気者」にするためのあらゆる手段を軽蔑していた」について
 ……ロンメルは人気取りの行動をよくしていた、という話はある程度知られていると思います。例えば、↓のような。

 アフリカの戦場にあった各部隊の前方指揮所はまもなく、ロンメルの機嫌をよくする方法は、フィルムがはいっているいないにかかわらず、彼がやって来る位置にカメラを構えた者を配置しておくのが一つの方法であることを知った。このように、他の注目をひくようなロンメルのやり方は、多くの将軍たちにとって軍人らしくない振舞いだとされ、恥ずべきこととされた。戦車のエキスパートであるグデーリアン将軍の個人的な文書の中に、彼がモスクワの戦線からその夫人宛てに送った次のような手紙がある。「私はどんなことがあっても、自分のことでロンメルのような騒々しい宣伝などさせない。お前の方も今までどおり、そんなことにならないよう、なお一層注意してもらいたい」
『狐の足跡』上P30

 それと矛盾する記述のようにも一見思われますが、恐らく、「戦場において兵士達から人気を得ようとはしなかった(下級兵士には気軽に接したものの、部隊指揮官に対してはきつくあたることの方が多かった)。しかし、本国向けの宣伝というようなものに関しては非常に熱心だった」ということじゃないかと。



 ロンメルが戦場の兵士達から人気があったことについては、彼が「多くの将軍達(特にイタリア軍の将軍)に比較してはるかに戦場の真っ只中に出てきて、自分の命を惜しまなかったからだ」ということがまず第一にあるようで、そこらへんの記述を挙げてみます。

 ロンメルと部隊との間には、説明も分析もできないような相互理解があったが、これは天与のものというべきである。ドイツ・アフリカ軍団はロンメルが指揮する限り、どんなに苦しくともどこまでも彼につき従った - それがシディ・レゼーでも、アジェダビアでも、さらにナイツブリッジでも、エル・アラメインでも、同じドイツ・アフリカ軍団で、しかも同じ3個師団だった。命を惜しまない点ではロンメルが筆頭だということを部下の兵は知っていた。自分たちの真ん中に立ち混じっている彼を見て将兵たちの感じは、こうだった。
「これこそ、おれたちの指揮官だ」

『ドイツ戦車軍団(上)』P91

 彼の指揮下にあった各級指揮官の中には不満を口にする者もあったが、一般の将兵は彼を愛していた。彼らは選び抜かれた精鋭な将兵ではなかったがロンメルは彼らに、自分たちがそのような精鋭な将兵であるかのような感じをいだかせていた。新たに彼の情報主任参謀となったフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・メレンティンという感じのよい騎兵将校はこのことについて次のように述べている。
「ロンメルと彼の指揮下の各部隊の将兵との間には、説明することも分析することもできないが、神から与えられたものともいうべき、相互の理解が存在していた。……将兵はロンメルが自分の生命を全くかえりみないことを知っていた。彼らは自分たちとともに弾雨の中にあって戦場を馳駆するロンメルの姿を見て、"この人物こそ自分たちの指導者である"と感じていたのである」
『狐の足跡』上P175

 イタリアの一般兵士は、前線で指揮官と顔を合わせることはないか、あってもごくわずかだった。北アフリカの枢軸軍最高司令官エットーレ・バスティコ将軍が、前線から2,500km離れた豪邸に住んでいることはよく知られていた。しかし、そのイタリア兵達が、ロンメルが自らを危険にさらし、そして自分達と同じ配給品を食べているのを見たのである。将校、下士官、兵卒がそれぞれ別のものを食べていたイタリア軍の習慣とは対照的であった。この行動により、ロンメルはイタリア軍の「ベルサリエリ」達から尊敬を集め、とりわけ、戦後には理想的な記憶に基づいてロンメルは「聖ロンメル」などとも呼ばれたほどだった。ロンメルのアフリカでの通訳であったヴィルフリート・アルムブルスターによると、ロンメルはイタリア兵達からその崇拝のほどを記した手紙を受け取っていたという。
『Rommel: The End of a Legend』位置No.1239

 彼の下で戦ったイタリア軍の将兵は彼を崇拝するようになった。彼らは戦場においてイタリア軍の将軍の姿を見かけたことがほとんどなかったからである。彼らはロンメルが、彼と衝突した豚のように太って冷淡なイタリア軍の将軍たちにそっけない態度で接するのを喜んだ。
『狐の足跡』上P157,8



 さらに、ロンメルが一般兵士と接するのが好きだった、などの話。

 その中に箱詰めのオレンジがあり、彼はそれを自分の車に積むと第一線へ行き、将兵に配った。「それが私の一番好きなことだ - 第一線の将兵のもとへ行くことだ」と、彼は書いている。「それは私に悩みを忘れさせてくれる。そして、生き生きとした若いドイツ軍の将兵に会えるからだ」
『狐の足跡』下 P69

 「ドイツ軍およびイタリア軍の将兵はロンメルがやってくると明るい顔をする」と【1942年】4月25日、アルムブルスターは書いている。
『狐の足跡』上P234

 Spitalerは、我々の知るロンメル像を裏付けるものである。将校達に対しては、ロンメルは「例外なく、すべての将校達(イタリア軍もドイツ軍も)に対して厳しかった……(そして彼は)自分が自分に要求することを将校達にも要求した。そしてもし彼が後方に将校達を発見した時には……ああ! 下士官や兵達に対しては彼は友好的だった」。Spitalerは兵士達についてこう述べている。「ロンメルが前線の部隊を訪れた時には兵士達は心から喜んだ。ベルサリエリもそうだった。彼はいつも何か、例えば手紙を持って行ったものだった。彼は砲兵の砲撃下でもひるまなかったが、人から聞いた話では、この戦争の後期には(敵の)戦闘機は恐れていたということだった。」
『Rommel's North Africa Campaign』P84



 ただ、これらだけであれば、「ロンメルは単に無鉄砲で、指揮系統を混乱させながら前線に出ていただけではないのか」という見方もできてしまうとも思います。しかしどうも、それ以上の「(フォン・メレンティンによれば)説明できない何か」をロンメルが持っていたようであるということについて。

 エルヴィン・ロンメル元帥も、それ以外の場合では国防軍兵士たちによってきわめてアンビバレントな存在として認識されることが多いが、彼の無鉄砲さは強い印象を与えていた。「彼は他の人間にたいして軍人として畏怖の念を起こさせることができた」、とヘッセ大佐は語る。「彼は偉大な指導者ではなかったが、真の軍人であり、恐れを知らない、きわめて勇敢な男であり、自分自身にたいしてもきわめて容赦なかった」。
『兵士というもの』P307

 【ノルマンディーに連合軍が上陸しても】彼らは事態を冷静に受けとめていた。毎朝ロンメルが戦場へ出かけるとすぐに、彼の幕僚はピンポン室へゆき、シュパイデルとルーゲは砲兵課長のラットマンおよび、ドイツ空軍のクヴァイスナー大佐ないしは、あまり上手でない工兵課長のマイゼ将軍を相手にピンポンに興じた。時には、シェパイデルは電話口に呼ばれることがあったが、そうでもないかぎり、彼らは上陸して来た敵に対する戦闘のことなど忘れることができた。
 ロンメルはそうではなかった。彼はアフリカで戦っていたときと同じように、じっとしていられない気持で、「絶えず自分で状況を確かめ」、絶えず自分の指で指揮下の軍の脈をとるとともに、各散兵壕の中にいる歩兵のひとりひとりが今後どこまで耐えられるかを知り、どこが砲兵の支援を必要としているか、どこへ増援の兵力と補給物資を送るべきかを知ろうという気持が、彼を何度も何度も戦場へ赴かせるのであった。ロンメルが第一線の指揮官たちと話し合うところを見ていたある従軍記者は後で次のように記している。「人間の知識や能力だけではもう限界に達し、それから先はその指揮官のもっている本能的な能力 - 超人的な知覚能力ないしは、その人物が生まれながらにして身につけている霊感および知覚能力――が力を発揮するというところがあるが、その辺の領域こそ名将がその真価を発揮する場面である。ロンメルはその能力を持っている」
『狐の足跡』下 P221

 また、従軍記者であったフォン・エゼベック男爵は一九四四年七月、次のように書いている。「私たちはエジプト国境に向かって急進しつつあったとき、いたるところで彼を見かけた。彼はいつも、末端の一小銃手にいたるまで、その指揮下の部隊に対して魔法のように不思議な影響力を及ぼしつつあった。兵は彼を"エルヴィン"と呼んでいた。ただそれだけである。"エルヴィン"というのは短くて、しかも適切な呼び名であった。彼らはロンメルの姓でなく名を呼ぶことによって、彼を軽んじようとしていたのではない。それは深い敬愛の念を表わしたものであった。自分たちの軍司令官を理解することができるからそう呼んでいたのである。ロンメルは彼らと話すとき、はっきりとものをいったし、彼は兵に接する場合、感傷的になることなく男対男として接した。そして、激しいいい方をすることが多かったが、同時にまた彼らを褒めたり、力づけたり、彼らに暗示することを知っており、難しいことを易しく判りやすくいう方法を心得ていた。もちろん、最初はごく少数のわれわれだけであったので、みんながお互いに知っており、そのため、お互いの間に砂漠で戦いつつある者としての戦友愛があった。一般の兵は自分たちの司令官であるロンメルの姿を見かけたし、ロンメルは兵の状態を見てまわり、リビアの砂漠で兵と同じように、代りばえのしない罐詰のイワシを食べた」
『狐の足跡』上P229



 ただし、ロンメルは兵士達に隠れて(?)パスタを食っていたという話もあります。

 短期間翻訳をした後、Spitalerはロンメルの傍に残り、彼によってイタリア軍の補給段列から食料を入手してくる権限を与えられた。これは、ロンメルがパスタ好きだったからであった! Spitalerは言う。「ロンメルは、司令部から外へ出て行った時にはパスタを食べた。彼が司令部にいる際には彼は兵士達と同じ様なものを食べており、その中にはラクダの肉などもあって時々我々はそれを不運にも受け取ったものだった。だが彼が外へ出る時には、私はロンメルのためにパスタ、トマト、パルメザンチーズ、それにオリーブオイルをたっぷり入手してきた。」
『Rommel's North Africa Campaign』P84




 それはともかく、恐らくロンメルが兵士達に好かれたのは、ドイツ軍の将校教育において最も重要だとさえされた(らしい)、「率先垂範」を高いレベルで現実化していたからではないでしょうか。

 ドイツ軍の将校教育において「率先垂範」が重用視されていたことをアメリカ軍が見逃していたということがメインテーマの『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』では、ロンメルはまったく無批判に優れた人物だとされているように思えるのですが、その中のドイツ軍の「率先垂範」に関する記述を挙げてみます。

 ドイツにおいては、人格を示すことと率先垂範は同義である。通常、最先頭で指揮すべし(機動戦の場合はとくに重要だ)という信条が、陸軍幼年学校で少年たちに叩き込まれた。十歳の新入生ですら、陸軍幼年学校の校長によって、彼らは、ここに死に方を習いに来たのだと、すぐに教え込まれる。こうした、戦場で英雄的な死をとげんとする姿勢は、ドイツ将校団に深く浸透していた。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P137,8

 階級の上下にかかわらず、部下将兵の面前こそが、ドイツ将校の死に場所なのだ。必要ならば、将校も彼らとともに戦う。ドイツ兵はそれを知っているからこそ、絶望的な状況でも士気を鼓舞されたのである。彼ら将校は文字通り戦闘で率先垂範し、後方で指揮を執ることなどしなかった。ドイツ将校自体、「われわれの勝利の土台にあるのは、徴集兵よりも将校のほうが危険に身をさらすことだ」と断言している。ドイツ軍将校における高い死傷率は、それによって信頼できる指揮官であることを証明しているのだから、「当然」だった。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P141,2



 そしてロンメルは、↓に記述されている特徴をかなり持っているように見られたと推察します(以下、引用においてドイツ語表記に関しては省略します)。

 そうした能力のうち最重要だったのは意志力だった。それは、将校の模範たろうとする意志、どんな任務でも達成しようとする意志、敢えて戦術的決断をなす意志、思ったことをはっきり言う意志、プレッシャーのもとでも泰然としていられる意志といったものをすべて含む。また、責任意識が他の領域をカバーする。おのが振る舞いが将校団とヴェーアマハトに対して責任を負うものであることを自覚し、いつ、いかなる状況にあっても将校として行動しようとする意識だ。それは同時に、非常に重要な観念、つまり部下に対する責任感を意味する。危機にあっては完全を要求する上官である一方、父が息子に接するように部下の面倒を見てやり、適切な扱いをする。つまりは戦友であり続けるのだ。また、それは何よりも、専門領域の実務で抜きんでるべく、学ぶ責任を意味する。最後に、士官候補生は戦士の精神を持たなければならない。どんなに不利であろうと戦い、戦闘を希求し、最先頭に立ち、必要とあれば死を恐れないことが必須なのだ。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P137



 私は割と、「(兵卒として)こういう上官の下で、戦って死にたい」というのに憧れがあり、そういう思いを抱かせるような旧日本軍の指揮官にも興味があるんですが、私がロンメルに(その欠点について調べつつも)惹かれるのも、そこらへんが理由なのかもしれません。そして実際に命を危険に晒しながら戦っている兵士達にとっては、本当にロンメルは偉大な指揮官のように見えたことだろうと思います。

 もちろん、そういう行動は師団長程度ならば良かったが、軍団長クラスになればすべきではなかった、というような話もありますし、ある程度それはその通りでしょうけども、実際に北アフリカでロンメルの下で戦ったドイツ軍兵士やイタリア軍兵士、あるいは英連邦軍兵士達にすら、ロンメルは輝いて見えたでしょうね。




 今回使用した資料は以下になります。




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DSSSM(松浦豊)

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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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