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旧日本陸軍が兵士の命を軽く見る「精神主義」になった理由は、リスクとメリットを考慮しての上だった?

 以前、↓で旧日本陸軍の精神主義についてより知りたい旨書いてました。

『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました (2022/06/11)

 個人的には、「持たざる国」であった日本が戦争(戦闘)に勝とうとすれば、精神主義と兵士大事主義とどちらが有効であったのだろうか、ということに興味がありますが、どうなんでしょうか。兵士大事主義も、行きすぎればイラク戦争の時のラムズフェルド国務長官による「理想の組織」(アメリカ軍兵士を大事にするあまり、戦闘地域に留まらず、現地住民の尊敬も得られず、失敗した。現場指揮官達はその後、戦闘地域に留まり続けて自分達が犠牲になることも厭わない姿勢を示すことで現地住民に受けいれられ、成果を残せるようになった)に堕することがあるとは思いますけども。



 そんな中、昨日たまたま本棚の『歴史群像』誌を漁ってましたら「日本陸軍大特集」の号を見つけまして、読み返していてかなり疑問が氷解しました。




 瀬戸利春氏の「日本陸軍 用兵思想史」という記事で……(P57とP64)。

 その一方で、日露戦争の結果は日本陸軍を「火力主義」から「白兵主義」へとシフトさせる結果をもたらした。日本側の砲弾不足、急造砲弾の威力不足、野戦築城の発達により、砲撃の威力が相対的に低下したことなどの要因は、日本陸軍の砲兵に対する評価を減じさせることとなった【……】
 【……】平時から多数の砲兵を維持し続けたり、砲弾製造能力を増大させたりするのは、日本の工業力では困難と考えられた。一方、敵砲撃による直接的な損害は意外に少なかった【……】ことから、砲撃を受けてもくじけない精神力を持てば戦闘続行は可能と考えられたのだ。
 【……】
 この白兵重視、精神主義的傾向は、日露戦争の戦訓と、その後の第一次大戦が総力戦となったことで、国力がない日本陸軍が編み出した苦肉の策だったといえよう。

 【ソ連軍の「作戦術」のような】キャンペーン概念は明治期には存在していたが、国力のなさから来る長期戦は不可能、それゆえ短期決戦を行うしかないという強迫観念は、日本陸軍からキャンペーン概念を消し去った。


 私も元々、「当時の日本は国力がなかったから、精神主義になったのですよね」ということについては納得できるものがありましたが、でも「国力がないなら、なおさら兵士(や武器)を大事にするという方向性もあり得るのでは?」という問いもあり得ると思い、そこらへん気になってました。

 しかし今回読み返した記事でかなり納得できたのは、

・国力がないから兵器も食糧も少ない
・だから短期で勝たなければならない(そうでなければ敵の兵数や兵器がどんどん増大する)
・敵からの砲撃などである程度削られても、精神的にくじけないで戦闘を続行できれば敵を制圧できる可能性を持てる(だろう)

 という、「タイムリミット」の存在と、「リスクは取っての上での選択」である、ということでした。


 ゲーム(OCS)上で言えば、例えば3ターン以内に結構離れた目標ヘクスを取らなければ勝てなく、敵はどんどん増援が来るが、自軍は戦車も砲兵も補給も少ない。歩兵はある程度はある。そして、プレイヤーがユニットに対して怒鳴り続ければ(おい(^_^;)、アクションレーティング(部隊の質)を高めたり、ステップ数を(分割して)増やしたり補給チェック時の耐久性を高めることができる。ただし、怒鳴り続けることによって逆にステップロスが起こったり、アクションレーティングが下がる場合もある。

 だったら、そりゃプレイヤーはユニットに対して怒鳴るよね、と(>_<) 「怒鳴らずにユニットを大事にしつつ戦う」というプレイ方法ももちろんあるわけですが、じり貧になるだけで勝率は低いだろうという気がします。

 もちろんこれは、のるかそるかの賭けなわけですが、太平洋戦争はそもそも賭けであったわけですし、ビルマ戦線においてまさにじり貧がやってくるタイミングであった第2次アキャブの戦いの時期において、「超精神主義」指揮官であった花谷正に期待がかかり、実際に超絶殴られ続けていた人でさえ、花谷将軍が日本軍に勝利をもたらしてくれることを期待していた、というのはなるほど、得心がいくな……と思いました(でもインパール作戦における牟田口廉也の場合は、部下や同僚は全然無理だと思っていて、期待していたのは牟田口廉也 - 河辺正三 - 東條英機というラインだけだったのでは? という気がしてまして、現今得心はできないかなぁ……)。


 あと思いついたのが、非常に一般兵士に対する思いやりが深かった指揮官として、本間雅晴中将がおり、本間中将はその作戦能力も非常に高かったものの、ただし兵の命を大事にするあまりか慎重すぎるという批判も多かったという話がありました。

 本間中将の一般兵士に対する思いに関して、↓の最後の引用部分だけでもぜひ読んで欲しいです!

『憎悪の世紀』読後感想(人種差別について+本間中将の逸話) (2020/06/08)



 また、阿南惟幾大将も兵士を大事にする思いがかなりあったように思われるのですが、しかし作戦能力が結構低かった?

 一方で、桜井省三中将や宮崎繁三郎中将、あるいは師団長時代の田中新一中将は、兵士を大事にしつつも作戦能力も高かったような印象を個人的に持っています。それでもってまた、田中新一中将は精神主義的な側面も非常に高い……。

 そうすると例えば、

・作戦能力
・精神主義
・兵士を大事にする

 というようなパラメーターがあるとして、当然指揮官毎にその高い低いがあり、花谷正中将はどうも、「精神主義」のパラメーターが超絶高くてそれによるメリットもでかいけど、デメリットもでかい。そして、もちろんそれらのパラメーターがどれも全部高い指揮官がいいわけだけども、指揮官プールには当たり前ながら限られた選択肢しかない、と……。

 そのような中で花谷中将がアキャブ戦域に送られ、そこに居続けたのも納得できる気がします。

 ただ……どうもその後も資料を読んでいると、花谷師団長の下の歩兵団長であった桜井徳太郎少将が上記の3つのパラメーターのすべてにおいて非常に高い人物であったように感じるので、「花谷中将への高い評価」というののかなりの部分が、実は桜井徳太郎少将によってもたらされたものなんじゃないか……という疑念を現今持ってます。

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日本軍の(輜重)輸送中隊の輸送能力について

 先日、新しく『牟田口廉也とインパール作戦』という本が出版されまして、すでに入手してありぜひ読もうと思っているのですが、NHK取材班の『責任なき戦場インパール』という少し前の本も入手したので、まずそっちに目を通し始めました。






 すると、当時の日本軍の(輜重)輸送中隊の輸送能力について具体的なことが書いてありました。

 これまでOCSの自作ゲームを作ろうとして戦史叢書などを読んでいる時に、「輸送中隊 〇個」などという記述は見つけていたのですが、輸送中隊の輸送能力を知らなかったのでその情報を活かすことができませんでした。なので、今後のためにメモ的にブログ記事に書いておこうと思いました。


 同書P72からの記述によると……。

 インパール作戦で使用された輸送兵力は、

 自動車輜重 23個中隊
 駄馬輜重 12個中隊

 だったそうですが、当時の陸軍の各輸送中隊はいずれも約40トンを携行し、車両中隊は1日50km、駄馬は1日24kmを運ぶのが基準であった、と。その約40トンというのは、↓のようなことだったそうです。

 車両中隊 1.5トン×27両=40.5トン
 駄馬中隊 50貫×180頭=9000貫(40トン弱)

 1貫は3.75kgだそうで、9000貫は33.75トンとなり、「40トン弱」とするには少なすぎるのでは、という気もするのですが、まあとりあえず(^_^;

 「そういえば」と思って本棚から取り出してきた『日本陸軍の基礎知識 昭和の戦場編』にはもっと色んな編成パターンの細かいことが書いてありましたが、細かすぎてわけが分からないので、『責任なき戦場インパール』のものは「大体こう(あるいは、その時はこう)」ということではなかろうかと思います(『日本陸軍の基礎知識 昭和の戦場編』の方に、輸送距離について書いておいてくれると助かったのですが、書いてないようです)。





 また、「ただし各隊の自動車は、長い間内地からの部品補給が受けられず、長期損耗のため、その稼働率は3分の2以下に低下していた実情に注意しなければならない。」ともあります。

 それから、これまたかなり助かる情報として、1個師団に必要な1日あたりの弾薬、糧秣が、

 弾薬:90トン
 糧秣:一人当たり2kg×2万人=40トン
(旧陸軍の一人一日基準定量は最大1980kg【ママ】)←これは「一人一日1980g」の間違いだと思います(^_^;

 というのがありました。ただし「これは、当時としては、そうとうぜいたくな補給量と思われるが、供給量も多めに見積もっているので、この数字を目安とする。」と書いてありました。

 実際には日本軍の場合には、食糧の補給は相当少なくしても(なっても)一応継戦能力は維持できたし、少なくされたと思います。というのは、(今も日本社会のかなりの部分がそうであるように)ブラックだからです(T_T)(また、現地調達にもある程度以上長けていたという面もあります)。欧米の部隊においては、食糧等の補給量が少なくなるとすぐに士気も継戦能力も維持できなくなるのが普通で、ゆえに補給を重視するのは当然であったらしいですが。



 OCSの場合は、1SPは約1,500トンの物資(燃料、砲弾、日常消耗品など)を表すということになってます(OCS 3.3a)。1SPは4分割して1T(トークン)にすることもできます。

 輸送用のユニットとしては、輸送トラック、輸送ワゴン(荷馬車)、ラバ(他にも水牛、象、ポーターなど)があり、基本的には1SP単位ですが、1T単位などのものもあります。


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旧日本軍の、陸軍大学を出ていない名将について

 先日のブログ記事(ロンメルが参謀将校や貴族を軽蔑し嫌っていたことと、その背景について (2022/07/25))で、こう書いてましたら……。

 ロンメルは日本軍でいうならば「陸大出身でなく、ほとんど戦場での指揮のみで元帥にまで達した(そして陸大出身者らを批判していた)」というような人物だと理解すれば良いでしょうか(そういう人物は実際にいたんでしょうか?


 ありがたいことに、↓のようなコメントを頂きました(ありがとうございます!)。

 大日本帝国陸軍にて陸大出身でなく、ほとんど戦場での指揮のみで元帥にまで達した軍人は、自分が調べた中では奥元帥が挙げられると思います。陸大出身ではないが元帥まで昇り詰めた軍人は他にも野津元帥や上原元帥などがいましたが、いずれも参謀経験や中央経験が結構豊富にあるように見受けられました。



 早速Wikipediaで見てみたところ、人物像(エピソード)がすごいですね……。


日本語版Wikipedia「奥保鞏」

佐幕側であった小倉藩出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた立場であったにもかかわらず、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。後年、薩長・皇族以外の出身者としてはじめて元帥となったが、この時も異論を唱えるものが誰もいなかったと言う。
・日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけだった。奥は難聴であったが、指揮采配に支障をきたすことはなく、司令部では幕僚と筆談で意見交換を行ったと言われている。
生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。日露戦争終戦後凱旋した際、日の丸を揚げてバンザイを叫ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(多くの将兵を戦死させてしまった自責の念と思われる)と呟いたという逸話が残っている。天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした(第5師団長時代、桂太郎が台湾総督を辞任した際に後任を打診されたが断った事もある程)。それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。



日本語版Wikipedia「野津道貫」

・野津は日清戦争に当初第5師団長として従軍し、山縣有朋が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は奥保鞏)。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた明治天皇などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。
・日露戦争開戦となり、満洲軍総司令官として当初は大本営を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。
・日清戦争までの野津は奇襲を得意としていたが、肉弾戦だけに味方の被害も少なくなかった。日露戦争になるとその時の教訓を活かして、無理攻めは極力せず相手の隙をついての一気強襲という作戦で一貫した。結果、日露戦争終期の奉天会戦においてもっとも戦力を保持していたのは野津第4軍であり、満身創痍の黒木第1軍に代わって会戦の主力となった。



日本語版Wikipedia「上原勇作」

日本における工兵技術の育成に熱心に取り組み、ポケットマネーを払って大工や鳶職を自宅に招き、実演させながら基礎作業教範を書いたという逸話がある。そのため、工兵監になってからも演習へ出向いては兵卒の作業まで自分でやって見せ、工兵将校たちは戦々恐々としていたという。
一方で、自分が酷評したある工兵将校が「兵監の言うことは間違っておられる」と反論した際、他の将校は上原が激怒するのではないかと心配したが、しばらく考えた上原は「ただいまの講評、勇作の誤り」と述べて自分の誤りを受け入れるなど正しい意見はきちんと聴くところもあった。
・副官をつとめた今村均によれば、軍事書を中心に読書を好み、フランス語の原書を読み、軍事以外にも幅広く理解があったという。口やかましく周囲から疎ましがられたが、それは広大な知識から発せられたものであり、感服すべきものだったと述べ、副官時代を詳しく語っている。また、1931年(昭和6年)ごろには、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたと伝えている。



 特に奥保鞏元帥が素晴らしいと思いました。↓が伝記だということで、注文してみました。







 それから、少し前に読んでいた↓に、「旧日本陸軍で、陸軍大学卒業ではないけども昇進(活躍)した将軍」について少しばかり書いてあったところがあったような気がしたので、探してみました。





 すると一応こういう例が。

 さらに太平洋戦争を観ると、例えば、アッツ島で玉砕した北海守備第2地区隊長の山崎保代中将(陸士25期、戦死後二階級特進)、ペリリュー島作戦の第14師団長井上貞衛中将(陸士20期)、拉孟、騰越作戦の第56師団長松山祐三中将(陸士22期)などは陸大を出ていないため人事的には必ずしも順境にあった人たちではなかったが、それぞれの作戦では勇猛果敢、卓抜の指揮・戦闘手腕を示したこともこれを如実に物語っている。
 【……】
 余談になるが、マッカーサー元帥が、日本の軍人の進級は、戦場における勇戦敢闘などには関わりなく、長い間の封建的な通弊によって昇進していくようであるといい、従って、日本の兵隊は極めて強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐るるに足らない、と指摘したことは、以て銘すべきであろう。
『陸軍参謀 エリート教育の功罪』P131


 余談が……(T_T)

 宮崎繁三郎中将などはどうなのかなと思って調べてみたら、陸大出でした(中程度の成績であったそうです)。


 そもそも陸軍大学を出ていれば大して能力がなくても少将ぐらいにはなれて、いっぽう陸大を出ていなければ一般的には中佐止まりだった(前掲書P124)そうです。また陸大出身者でも、「前の期の一番昇進している人を、次の期の一番昇進している人は追い越せない」という慣例が厳格に守られていたそうで、そりゃあ大抜擢のやりようがないですよ。

 米軍(英軍も?)では「高い役職に就かせる時に一時的に階級を上げ、その役職が終わったらまた階級を下げる」ということが行われていましたが、日本軍はそんなことは絶対にできない。ドイツ軍の場合は、ヒトラーが(後期になればなるほど)昇進させるかどうかの権限を持っていて、ロンメルやモーデルなどを抜擢したり昇進させたりした、ということがあったようです。


 年功序列、学歴主義(キャリアパス制度)は、「出る杭は打たれる」の嫉妬心渦巻く日本社会では、平時には有効でしょう(私もあんまり競争主義的な社会は殺伐としていてしんどいと思う)けども、非常時にも平時のやり方を根本的に改めることができないのは何とかした方がいいと思います……(日本社会は、非常時にも平時のやり方で何とかしようとしてしまいがち/することしかできない社会なのだそうです)。



 ところで拉孟・騰越作戦の第56師団長松山祐三中将(陸士22期)ですが、同じ陸軍士官学校22期にはあの牟田口廉也がおり、こちらはもちろん陸大出です(あと、ビルマ戦最終盤を頑張った本多政材中将が牟田口と陸士、陸大とも同期でした)が、他に彼らの陸士同期で陸大に行っていない人物として相沢三郎というのがいまして、彼は自分が陸大出でないために出世できず地方でこづき回されるというやりきれない気持ちを抱いており、それもあって陸大次席でエリートコースまっしぐら、超絶優秀であった永田鉄山を惨殺したのではないか……と前掲書P116には書かれているのですが、どうなんでしょうね。もしそうだとしたら、ロンメルばりの「エリート大嫌い」パターンの一種かもですけども、もし永田鉄山が生きていたらその後の日本陸軍はよほどマシであっただろうにという記述を良く見るので、「ああああああ~……」という思いが(>_<)


 「エリート大嫌い」の例としては、前掲書P115には二・二六事件の革新派青年将校の中心的人物であった大蔵栄一がなぜ青年将校運動をやったかについて、こんな風に話したということが書かれていました。
自分が所属することになった陸大出の連隊長が、傲慢、非常識、無慈悲で、士官候補生として抱いていた夢がいっぺんに吹き飛んだ。陸大出の連隊長に代表される軍上層部に、ことごとく楯つくことを決心した。だからなぜ私が青年将校運動をやったかというと、むずかしい理論などない。ただ一言、反骨である

 この連隊長というのは大家徳一郎(陸士13期、第19師団参謀長)という人だったそうですが、Wikipediaの項目などもないようです。ただ検索していて、陸大出身者の人物伝として、資料としては怪しいが興味深く読めそうだという↓の本を見つけまして、これも注文してみました(同じ本で、左がハードカバー版、右が文庫版)。




 エリートの態度ですが、ドイツでは日本のこういうのとは異質な感じがします。『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』によると、ドイツの幼年学校、士官学校などでは創設初期には上級生のいじめなどもあったそうですが、早期に根絶され、エリートがエリートたるのはその人格と能力による、という風になっていたそうです。一方で、アメリカ(陸)軍の軍学校では上級生のいじめ、しごきがもの凄く、それは1990年代になっても残っていたそうで(日本の防衛大とかどうなんでしょうね?)、だとするとアメリカの軍部隊においてはそこらへんどうだったのか興味がありますが、しかし旧日本軍の場合はそこらへんがひどすぎ、しかも未だに学校現場でもしごき的なものが全然残っているのが残念でなりません(T_T)


ロンメルが参謀将校や貴族を軽蔑し嫌っていたことと、その背景について

  北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について書いていってますが、直近は、ロンメルの下で非常に有能な参謀であったガウゼヴェストファルを扱っていました。

 次も参謀将校であるフォン・メレンティンなんですが、フォン・メレンティンの書いた『ドイツ戦車軍団』には、ロンメルが彼ら参謀将校達を最初「疑問視していた」ことが書かれていました。




 【……】1941年4月、大勝利を収めて以来、彼【ロンメル】の責任は重大になったので、然るべき参謀がどうしても要ることになった。初めロンメル自身、物事をそんな風には見ておらず、だから彼がガンブートでわれわれ【フォン・メレンティンの他、ガウゼやヴェストファル】を迎えた時の控え目で堅苦しい態度は忘れられない。われわれは皆いかにも参謀将校らしかったが、アフリカ事情に関しては明らかに新米ばかりだった。第一線の軍人としてロンメルはわれわれを疑問視した。その上、彼自身、参謀本部にいたことはないので、我々が彼を監視する気ではないか、自分を交代させるつもりさえもっているのではあるまいか、とおどおどしていたことは明らかだった。
 【……】
 実際問題として、ロンメルの指揮権についてわれわれが疑問を投げかけることは全くなかった。彼の役に立とうとアフリカにやってきたのであり、彼の方でもわれわれの助力がなくては、この大軍を指揮できないことに間もなく気がついた。
『ドイツ戦車軍団(上)』P84,5



 ロンメルに関する本を読んでいると、そもそもロンメルは参謀将校(そしてその多くの構成要員でもあった貴族)を嫌っていたことが所々に出てきます

 ロンメルが参謀総長ハルダーに対して「大馬鹿」と言ったことに関しては↓こちら。

ロンメルはハルダーに「大馬鹿」と面と向かって言った? ハルダーは無能だったのか有能だったのか (2021/06/14)


 もともとロンメルは平民出身であり、第1次世界大戦終盤に一度軍団の参謀部付きになって書類仕事を短期間やったことがありましたが性に合わず忌避するようになり、また陸軍士官学校や陸軍大学などのエリートコースも歩んでいないというハンデを持っていました。

 ロンメルは陸軍大学を軽蔑し、そこで教育を受けた優秀な卒業生である参謀将校を軽視し、彼らがもっている情報、兵站、通信、人事、および作戦に関する能力を利用することなく戦おうとした。
『狐の足跡』上P29

 ロンメルは事実上、政治には無関心であった。それでも、どちらかといえば社会主義者的な傾向があった。これは、実戦に参加した軍人として、悲惨な戦いを招いた責任があると彼が考えている無情な上流階級に対する典型的な反応であった
『狐の足跡』上P57

 彼ら【教え子の士官候補生たち】はロンメルが、赤い【線の付いた】ズボンをはいた参謀将校に対して、畏敬の念をもっていないのを見て、彼を敬愛した。「あの連中は大理石のようなものだ」と、彼はプロイセンの歴史について講義したとき、クルト・ヘッセにいった。「外側がすべすべして冷たく、腹は黒い」 彼の教え子の士官候補生が、彼に向かってクラウゼヴィッツの言葉を引用すると――クラウゼヴィッツの言葉は参謀将校にとって、金科玉条であった――ロンメルはぴしゃりといった、「クラウゼヴィッツがどう思ったかは問題でない、君はどう思うのか」 事実、ロンメルが尊敬していたのはナポレオンで、彼も行動の人であった。
『狐の足跡』上P59

 彼は当時における一般の風潮と同じように、特権階級や貴族に対して軽蔑の念を抱いていた。
『狐の足跡』上P62,3

 ヒトラーは将軍たちに対して非常に批判的であったし、参謀本部のことを口をきわめて罵倒した。ロンメルはこのようなヒトラーの言葉のすべてに賛成であった。
『狐の足跡』上P76

 【1940年のフランス戦中に】ロンメルはヘッセの姿を見つけると大声でいった。「この戦争では指揮官の位置はここだ。第一線だ。私は安楽椅子にかけている連中が考え出す戦略など信じない。そんなことは参謀本部の連中にまかせておけばいい」 ヘッセがそれを書きとめると、またロンメルがいった。「今はザイドリッツツィートヘンの時代が再現されたようなものだ。私たちはこの戦いを騎兵の戦闘と同じように考えなければならない - 戦車師団をかつての騎兵集団と同じように使用しなければならない。そしてそれは、かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、移動する戦車の上で命令を発するようにしなければならない、ということだ」
 彼のこのような戦術は参謀本部を驚かせ、総統大本営を憂慮させた。
『狐の足跡』上P89,90

 【1940年】8月になってフリードリヒ・パウルスカール・クリーベル - 両名とも戦前からのロンメルの友人であった - が中将に昇進すると、【フランス戦での活躍にかかわらず少将のまま昇進させられないでいた】彼は再び自分が軽んじられたと感じたが、その後、参謀将校2名が昇進してこの二人が追い越されると、そのことが特に強い刺激を与えた。「われわれ第一線部隊の軍人は例によって、敵の弾丸の餌食にされるための者にすぎないようだ」と、彼はその手紙の中で述べている。「このような連中が上の地位を占めている限り、事態は変わらないだろう」
『狐の足跡』上P102


 ここまですべて、その信憑性が大木毅氏によって酷評されているアーヴィングの『狐の足跡』からですが、氏のご指摘の通り「大部であるがゆえに」この本にしか載ってない、あるいはこの本が一番詳しく書かれている……という側面はあるかと思います。


 他の本からも一応。

 ロンメルはおそらく自分が参謀としての訓練を欠いていたことを反映してか、参謀とは用心深いものだと考えていた。鉛筆をとがらせて作戦上の問題点を述べ、好機ではなく問題点ばかりに目をやりがちだというのである。指揮官は管理部門の判断を鵜呑みにするのではなく、独自に兵站業務上実行可能な見積もりを作り、それにしたがって要求を示すべきだ、とロンメルは反論した。
『パットン対ロンメル』P220

 彼が総統に気に入られたのは、南ドイツ出身でプロイセン人らしくないことと、参謀教育を受けていない軍人であることが理由だった。彼の軍事哲学は、貴族的な価値観を否定し、戦場での勇敢さと前線からのリーダーシップを尊ぶものであった。
『Rommel: A Reappraisal』第1章 ロンメルとナチスの興隆 結語(位置No.509)



 興味深いものとして、先日から読み返していた『第二次世界大戦紳士録』というマンガ本の、ドイツ軍関係に関してコラムを書かれている山下英一郎氏の記述がありました。参謀本部に対して非常に批判的です。



 その神話とは、参謀本部は常に無私で国家の事のみを優先している(中立)、カネを受け取らない(清潔)、貴族出身者で最高の教育を受けた者から選抜された優秀な集団(高貴)であり、参謀本部に任せておけば万事上手く行く、というのである。すなわち、ドイツ国民にとって軍は神であった。
 勿論、この間に実際は第一次世界大戦に敗北しており、これは軍備制限をともない、総力戦に敗北した点からも参謀本部には壊滅的な失敗だったのだが【……】第一次世界大戦前の栄光の座を夢見る参謀本部はあきらめては居なかった。自分達が軍事面で偏るあまり敗戦を招いた事は一切忘れて、とにかく無条件で尊敬され裕福な暮らしができた時代と貴族同士の超然的な閉鎖された集団である参謀本部を取り戻したかったのである。そのため、さまざまな右派勢力に食指をのばし、将来の可能性も探っていた。
『第二次世界大戦紳士録』P26

 【1944年7月20日のヒトラー暗殺事件の】シュタウフェンベルク一味は殆どが貴族や軍高官で陸軍参謀本部系である。【……】
 7月20日事件ではロンメル元帥等の国民に人気のある将官が協力しなかった事が敗因というが、ロンメルが陸軍参謀本部に協力する訳がない。ヒトラーユーゲント総裁【バルドゥール・フォン・シーラッハ】にすら前線部隊勤務を強要したロンメルである。後方にいて、きれいごとを言う輩が大嫌いなのだから。そして軍できれいごとを言う最大勢力こそ、7月20日事件の首謀者達だったのだ。
『第二次世界大戦紳士録』P36




 もう一つ、この件について興味深い本が『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』です。この本はドイツ軍の「指揮官率先教育」の重要性をアメリカ軍が取り入れることに失敗していたことをメインテーマとしているのですが、ドイツ軍の参謀本部が貴族優先主義に染まっていたことに関しても記述されています。



 理屈の上では、将校は、隊付と幕僚指揮勤務とを交互に等しく経験していくべきである。たとえ、大参謀本部のメンバーだったとしても、だ。現実には、ドイツ参謀本部のシステムは、デスクワークのみで実兵指揮を行ったことがないのに、大きな権限を持つ高級将校を生み出すことがしばしばであった。彼らは一般に、第一次世界大戦の戦闘体験を持たないか、ごく短い期間のそれしか持たず、前線の困難や窮乏、戦争の現実について、はなはだ無知だった。*82
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P51

82.ドイツ軍のそうした例として、中央軍集団司令官フェドーア・フォン・ボック元帥、国内補充軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将、西方総軍司令官アルベルト・ケッセルリング元帥、第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥(最終階級と職名を付した)。

 【……】フリードリヒ【大王】は、貴族の息子には【平民出身者よりも】さらなる動機付けを期待できると考えていた。家名、とりわけ父親の名誉といった、幼少期から覚え込まされた何かを辱めまいとする動機だ。このような誘因は、現代の将校の家庭にも残っている。
 原則として、【当時のドイツ】陸海軍の最高統帥部は、ただ「有能な階級【貴族など】」のみから将校を取ろうとした。ところが、軍隊の拡張により、そうした諸階級のキャパシティでは、ますます増大していた、資質ある人材の需要をみたすことができなくなってしまった。結果として、将校団に入った者の相当数が「平民」階級の出自ということになる。上流階級の多数の者にとって、この現実は、ドイツ軍人の高い指揮統率レベルを保証してきた、それまでの「基準」を確実に損なっていくものであった。【……】第一次世界大戦後、あらたに軍の指導者となったハンス・フォン・ゼークトが、他の多くの案件よりも優先的に実行したのは、「よい生まれである」という古い基準を回復することだった。【……】こうした抜きんでた階級が、将官や大参謀本部将校といった地位を思うがままにしていた。一般的にいえば、古い「基準」は1942年になって、ようやく消える。にもかかわらず、特権階級の家系に属する者は再び、将校団の上位部分、とくに参謀本部の職を独占することになる。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P122,3

 【ドイツの士官学校における】貴族出身の生徒は、平民出身の級友に対して有利であり、公平ではなかった。冬季、彼らの多くは、皇帝の宮廷に勤務する小姓に選ばれた。こうしてえこひいきされた者は羨まれたし、また貴族の生徒であれば、操行【平素の行い】や学業の成績はまったく問題にならなかったから、なおさら不公平だった。【……】学校の幹部や平民の生徒たちは、これは、持てる手段のすべてを使って、すみやかに解消されるべき問題だと考えた。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P146



 他にもこの本の中の、ドイツ軍では指揮官が先頭に立って指揮し死ぬということの重要性を叩き込まれていたという話にロンメルが適合していた、というような話も非常に興味深いところですが、そっちの方向性もやっていくと長くなるので省略で。



 今でもヨーロッパでは貴族が尊敬というか優遇される雰囲気が随所にあるそうですが、そこらへんは日本人には分かりにくいことであるような気がします。

 一方で、旧日本陸軍で陸軍大学校卒業生(とその成績優秀者)を特別なエリートとして出世させまくり、そうでない者をなかなか出世させなかったことに関して色々批判があったり、また指揮官よりも参謀が好き勝手するという問題もありましたから、ロンメルは日本軍でいうならば「陸大出身でなく、ほとんど戦場での指揮のみで元帥にまで達した(そして陸大出身者らを批判していた)」というような人物だと理解すれば良いでしょうか(そういう人物は実際にいたんでしょうか? 日本軍に関してはまだ学び始めたところで、全然分かっていません)。


 指揮官が参謀を持つのは師団規模からのようなので、ロンメルは第7装甲師団長であった時に参謀がいたわけですが、この時もロンメルは参謀に対して不満を持っていたようです。ドイツアフリカ軍団の初期の時の参謀にもロンメルは満足しなかったわけですが、1941年夏にガウゼ、ヴェストファル、フォン・メレンティンという、ロンメルに付いていける有能さと忠誠心を持った参謀達をロンメルが(ハルダーの元々の意図に反して)手に入れると、ロンメルは今までの参謀将校に対する蔑視を改めたようで、この頃以降のロンメルに関する記述には、参謀将校に対する不満の話は出てこない感じがします。

 この3人の中でフォン・メレンティンは貴族出身で陸軍大学を出ていますが、ガウゼとヴェストファルは貴族出身でもなく、陸軍大学も出ていません。そこらへんはロンメルはやりやすかった面はあるかもですね。ただ、非常に貴族的であった第21装甲師団長フォン・ラーフェンシュタインとロンメルは非常に気が合ったということもありました。一方でこれまた非常に貴族的であったフォン・トーマをロンメルは嫌っていたので、フォン・ラーフェンシュタインは率先指揮というような点などでロンメルの目にかなうものがあったのかも。


 じゃあ参謀本部に関してはどうだったかですが、ハルダーのOKH(陸軍総司令部)は独ソ戦の開始以降東部戦線だけを管轄するようになったので、ロンメルとの関係がなくなってしまって、当然ながら全然話が出てこなくなります。代わりに戦争後半、ロンメルが常に文句を言っていた対象はOKW(国防軍最高司令部)の総長であったカイテルでした(^_^;(カイテルは貴族出身ではないようで、第一次世界大戦で実戦に出ましたがすぐに傷を負って、その後は実戦に出ることはなくひたすら事務屋であったようです)

SCS『It Never Snows』の追加シナリオ5.9~5.12とエラッタを和訳しました

 SCS『It Never Snows』の追加シナリオ5.9~5.12とエラッタを和訳しました。

 ↓に置いてあります。

SCS(Standard Combat Series)関係



 追加シナリオは『It Never Snows』の公式ページに公開されているものですが、元々はSpecial Ops Issue #4に発表されていたもののようです。



 元々『It Never Snows』のシナリオは、開始時期が異なる4つのキャンペーンゲーム(すべて、マップ5枚を使用)と、マップの一部のみを使用する4つのスモールシナリオでした。(→SCS『It Never Snows』のシナリオ、専用ルールで気付いたことや疑問点 (2022/06/28)

 この追加シナリオでは、3つの空挺師団のそれぞれの戦域のみを切り取ったフルキャンペーン(17ターン)シナリオと、第30軍団の最初の突破を扱ったフルマップ1枚(6ターン)のシナリオを扱っています。


 ↓その領域。黒線はそれぞれのフルマップの境目。一番上の赤い領域が英第1空挺師団のシナリオ、次の赤い領域が米第82空挺師団のシナリオ、次の赤い領域が米第101空挺師団のシナリオ。最後のシナリオは一番下のマップ(E)を使用します。

unit8870.jpg



 あと、この画像を切り取ってきたVASSALモジュール上では、マップEの北東隅と北西隅に少し領域が追加されているのが分かります。北東隅のものは、エラッタにある、「E62.00 の東のヘクスは完全なヘクスであるとみなし、E62.00 とD1.16 の間の道路は使用可能です。」のものです。

 北西隅のものは、これまた公式ページにある「Best Area Map Addition」のものです(Bestという名前の町が入る様なマップになっています)。この追加マップが提供された意図についての説明をどこにも見つけられなかったのでfacebook上で質問してみたところ、Carl Fung氏(『It Never Snows』のリサーチ担当で、BCS『Arracourt』のデザイナーなどもされている)から「Bestの町がマップに入っていないことに不満を持つプレイヤーがいたために作られたもので、プレイに必須というわけではありません。」という返答を頂きました。



 とりあえず『It Never Snows』のプレイ環境は整ったかと思うので、少しずつプレイしていけたらとも思うのですが、最近あまり頭が働かないのでなかなか進みません……。

SCSシリーズルールのオーバーランは、目標ヘクスでストップするのか?

 ブログの(管理者しか閲覧できない)コメントで「SCSシリーズルールのオーバーランは、目標ヘクスでストップするのでしょうか?」という質問をもらいました。

 というのは、SCSでは戦闘結果で防御側が2ヘクス退却、3ヘクス退却などとなった場合、攻撃側は2ヘクス戦闘後前進、3ヘクス戦闘後前進できるというルールがありまして……。

10.0 【……】防御側ユニットが2ヘクス以上退却している場合、攻撃側の突破能力を持つユニットは、防御側ユニットが退却した数と同じだけのヘクス数を戦闘後前進できます。防御側ユニットが要求された退却結果をステップロスに変換した場合でも、戦闘後前進は要求された退却ヘクス数と同じヘクス数だけ行えます。【……】
10.0a 防御側ユニットが要求された退却結果を満たさないまま除去された場合でも、その要求された退却ヘクス数と同じ数のヘクス数だけ戦闘後前進できます。



 それに対して、私の和訳したSCSシリーズルール ver1.8では、オーバーランの戦闘時の規定が↓こういう書き方になってました。

6.2a オーバーランしたユニットは戦闘後前進できますが、戦闘結果にかかわらず、それ以上は移動できません。


 これだと、「オーバーランした攻撃側スタックは、目標ヘクスでストップしなければならない」ような感じがしました。そうでもない? しかし微妙ではある気がします。

 しかし原文を見てみますと……。

6.2a Overrun attackers can Advance After Combat, but regardless of the result the overrun ends the regular movement for them.


「戦闘後前進できるが、しかしその後通常の移動はできない」、ということなわけでした。

<2022/07/11追記>

 ツイッター上でkimataka氏から、↓のようなコメントをもらいまして……。


 この「(or trauverse)」という部分について私は、意味を理解しきれていませんでした……。kimataka氏のご指摘で「なるほど……!」と思いまして、その部分についてもルールブックやサマリーを修正しました。大変ありがとうございます!

 続けざまの修正、申し訳ありません(T_T)

 また他にも色々ブログの表現を修正しています。

<追記ここまで>


 ということは、オーバーラン戦闘で防御側が3ヘクス退却したら、オーバーランしたスタックは3ヘクス戦闘後前進できると思われました。そしてしかし、その後は通常の移動はできない、と。


 和訳が良くなかったことが自覚できたので、文を「6.2a オーバーランしたユニットは戦闘後前進できますが、戦闘結果にかかわらず、それ以上通常の移動はできません。防御側ユニットが目標ヘクスからいなくなった場合、オーバーランしたユニットは目標ヘクスに必ず進入(あるいは通過)しなければなりません。」と修正することにしました。

 その点を修正したpdfデータを↓に置きました。古角さんにも送ってありますので、そちらもその内置き換えしてもらえると思います。

SCS(Standard Combat Series)関係

 同ページには、先日作っていた「SCSシリーズルールサマリー」のこの点について修正したものを置きました。


 すでに印刷されていました方にはご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません(>_<)


 しかしまた、ミスや不明点などもあることと思いますので、何か見つけられましたら教えていただければ幸いです!

ロンメル、ケッセルリンク、フォン・ルントシュテットの参謀長を務めた若き将校ヴェストファルについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』『DAK-II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルの作戦主任参謀として着任してその有能さを発揮し、その後ケッセルリンクやフォン・ルントシュテットの参謀長をも務めた若き参謀将校、ジークフリート・ヴェストファルについてです。



Bundesarchiv Bild 183-B20800, Nordafrika, Rommel und Westphal schieben Auto

 ↑手前がロンメルで、その後ろがヴェストファル(Wikipediaから)
(これはプロパガンダ写真で、また撮影されたという時期とヴェストファルとの着任時期が合わないらしいですが)



 ウォーゲーマーや戦史好きの人であれば、クルセイダー作戦の時にロンメルが行方不明になってしまい、司令部に残っていた若き参謀将校が危機的状況において自分の判断で装甲師団に引き返すよう命じ、激怒したロンメルが帰ってきたものの戦況図を見るとその参謀の判断を追認した……というエピソードをご存じでしょう。その判断をしたのが今回のジークフリート・ヴェストファルです。

 極めて有能であり、戦争後半にもフォン・ルントシュテットの西方総軍で参謀長を務めるなどして活躍し、これまでこのブログで取り上げてきたロンメル周辺の有名でない指揮官達とは異なり、『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』と『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)の2冊にはその項目が設けられていました(ただし後者には半ページほどだけ。『ドイツ軍名将列伝』にも載っているかと思ったのですが、載っていないようです)。






 ロンメルはヴェストファルが負傷し【て戦場を離れざるを得なくなっ】たことを「痛恨の極み」とし、「私にとって彼の助けは、彼の並外れた知識と経験、決断の速さによって、常に極めて優れた価値を持っていた」と書いている。ケッセルリンクは、「ヴェストファル以上の参謀長は望めなかっただろう。イタリア戦で、私は彼と大いに力を合わせた。」と述べている(ケッセルリンクは1945年春にドイツに戻った時に、再び彼を参謀長とした)。ロンメルもまた、イタリア戦でのケッセルリンクとヴェストファルの素晴らしい指揮に言及している。フォン・ゼンガー将軍はヴェストファルと旧知の仲で、シチリアの司令官に彼を自ら推薦し、こう評した。「厩舎の中のとっておきの一頭。ヴェストファルは恐ろしく頭が良く、非常に精力的であり、素早く仕事をこなし、常に最も重要なことが何かを深く理解しています。無能な将校に対する彼の態度は時に非常に冷酷で、それは彼の人気に繋がらないものではありますが……。
 しかし、優秀な将校や上官、同僚達の間では、ヴェストファルは非常に高く評価された。ルントシュテット、ケッセルリンク、ロンメルといった3人の指揮官から選ばれたのも、彼が一流の人物でなければ、ありえなかったことだろう。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P180




 ジークフリート・ヴェストファルは1918年に士官候補生隊に入隊するも、すぐに休戦協定が結ばれて実戦に出ることはなかったようです。戦後も軍に残ることができ、1930年前後には資格試験を受けて優秀な成績で合格し、連隊勤務から参謀将校コースに入りました。

 第2次世界大戦勃発時には第58歩兵師団の作戦参謀で、フランス戦の時には第26軍団の作戦参謀を務めます。第26軍団はオランダを迅速に降伏させるために長躯オランダ西部へと進撃する役割を持った第9装甲師団とSS特務師団を麾下に持ち、わずか5日間でオランダを降伏させることに成功しました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第26軍団司令部と、軍団麾下の部隊のユニット。

unit8872.jpg

(私は今までOCS『The Blitzkrieg Legend』で何度もオランダ戦をプレイしており、わずか2個快速師団でオランダを降伏させるのがいかに大変か身にしみているので、ヴェストファルの苦労がしのばれました(^_^;)


 その後ヴェストファルはフランスとの休戦委員会の仕事に携わり、その職に1941年6月まで留まります。

 ドイツ軍は北アフリカで1941年3月末から戦い始めており、アフリカ軍団の戦力が増強されていっている時期にヴェストファルは健康診断を受けるように命じられました。これは彼がアフリカでの任務に適しているかどうかを判断するためのもので、大動脈が弱いことが判明し、アフリカへ行くか、ヨーロッパで戦うかの選択を迫られます。ヴェストファル自身は、ロンメルがぞんざいで部下にひどい仕打ちをすると聞き及んでいたようで、北アフリカに行くことには気が進まなかったのですが、妻の勧めに従ってアフリカに赴くことにしたのだそうです(ヴェストファルの奥さんがどういう理由でアフリカに行くことを勧めたのか興味が湧くところですが、参照した資料には記述がありません)。

 1941年の夏にヴェストファルはロンメルの司令部に作戦参謀として赴任しました。

 新たにロンメルの戦車集団司令部の作戦主任参謀に任命されたのは、貴族で傲慢であるが、背が高くて上品な39歳のジークフリート・ヴェストファル中佐であった。1945年に彼に対する尋問に任じたアメリカ軍の将校は彼のことを、典型的な軍事専門家で非常に高い知性をもち、自負心の強い人物であった、といっている。「戦争が彼の専門」であった。
『狐の足跡』上P176



  他の人たちと同様、ヴェストファルも、厳しく大きな努力を求めるロンメルの下で働くのは大変なことだと感じることになりました。しかし、彼は徐々にロンメルを尊敬するようになります。「課せられた責任の大きさに比例して、人間として大きく成長することができた」とヴェストファルは戦後に回想しているそうです。ロンメルの方もヴェストファルが有能であることを認識し、トブルク攻略作戦を策定するように命じます。


 英連邦軍の反攻作戦(クルセイダー作戦)の兆候はありましたが、ヴェストファルは1941年中には敵の準備は完了しないだろうと考えていたそうです。しかし実際にはクルセイダー作戦は1941年11月18日に開始されたので、ヴェストファルの判断は間違っていたことになります。

 開始されたクルセイダー作戦はしかし、初期に英連邦軍側が大きな損害を被り、ロンメルはそれを好機と考えて敵後方を突くための進撃(いわゆる「(リビア・エジプト国境の)鉄条網への進撃」)を企てます。ヴェストファルはこのロンメルの案に対しては、アフリカ軍団の装甲師団はそのような企図を成功させるほどには強力でなく、トブルクを包囲している独伊軍部隊も英連邦軍の攻撃に耐えられないと強く主張しました。またヴェストファルは、ハルファヤ峠の戦区とトブルク包囲環の戦区の両方で危機が発生し、枢軸軍は両方の危機に耐えられなくなる可能性があるとも警鐘を鳴らしています。

 しかしロンメルは2日以内に戻ることを約束して(いつものように)参謀長のガウゼを伴って出発し、その間の司令部の責任は若い作戦主任参謀であるヴェストファルに委任されることになりました。そしてロンメルは戦況について重大な思い違いをしてしており、ドイツ軍部隊を危険なほど分散させてしまい、トブルク包囲環の枢軸軍部隊も危機的な状況に近づいていたのです。

 ヴェストファルの部下の情報担当の将校であったメレンティンは回想している - 「エル・アデムでわが軍の司令部として使用されていた木製のバスの中で、ヴェストファルと私は外套にくるまって身を寄せ合いながら、ますます憂慮しつつ状況を見守っていた」
『狐の足跡』上P200



 この時期、軍事的状況が絶望的であると考えたイタリア軍とドイツ軍の上級司令部は、全軍が失われる前にアフリカ軍団がトブルク地区から撤退するよう勧告さえしました。しかしヴェストファルは、「我々はここに立つ」という言葉を用いて撤退命令を出すことを拒否します。彼は、枢軸軍が撤退すれば助からないことを理解していました。英第8軍の戦車部隊に対抗するための戦車がなく、もし撤退していたら、追撃され、捕まり、壊滅させられていたでしょう。

 そして4日以上にわたってロンメルとどうしても連絡をつけることのできなかったヴェストファルは、いよいよの段となって、自分自身の責任で第21装甲師団と第15装甲師団に引き返すように命令する決断をしました(ロンメルはヴェストファルの必死の電文の束を見てはいたものの、気にとめていなかったともいいます)。この命令を知ったロンメルは「これはイギリス軍が仕掛けた罠だ。あるいは、あのいまいましいヴェストファルからの命令であれば、軍法会議にかける」と言ったそうです(『Mythos Rommel』P82)。

 39歳の一中佐であった彼として、並たいていの勇気でできることではなかった。
 【……】
 彼【ロンメル】はエル・アデムにあるヴェストファルのバスへ帰りついたときも、依然として激しい怒りに燃えていた。「彼は誰とも口をきかなかった」と、ロンメルの側近のひとりがこのときのことを回想している。「そして無言のままつかつかと、作戦室として使用されていたバスの中へはいっていくと状況図を見た。ガウゼはロンメルの後ろに立っていた。私たちはヴェストファルが下した決定についてロンメルに説明してくれるように、ガウゼに合図した。しかし、そんな必要はなかった。ロンメルは突然、疲れたからしばらく横になる、といったのである」 再びトレーラー・ハウスの中から姿を現わしたとき、今度のことについてはもう何もいわなかったので、皆がほっとした。
『狐の足跡』上P206,7


 『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』によると、ロンメルはヴェストファルの処置が適切であったことを認識した後、彼を騎士鉄十字章に推挙したそうです。最終的にはこの時は騎士鉄十字章ではなく、その下のドイツ十字章金章が授与されました。


 クルセイダー作戦後の撤退の時期にはヴェストファルは黄疸にかかっていたそうですが、その後メルサ・エル・ブレガ(エル・アゲイラの少し東)の陣地が保持できるかどうか危うくなっていた頃に、ロンメルに大胆な逆襲計画を提案しました。

 ヴェストファル大佐は絶望的な状況の中で、非常にユニークな計画を立て、ロンメルは一瞬の逡巡の後、これに同意した。イギリス軍の部隊が最終的な攻撃のために隊列を組む前に、先制攻撃でそれを阻止することになったのだ。この計画は「絶対的な奇襲」を基本とし、すべては敵を欺くために作られていた。ロンメルは念のためイタリア軍の上層部にも報告せず、極秘裏に準備を始めた。
『Mythos Rommel』P84

 ロンメルはヴェストファルの論理に説得され、新たな攻勢を準備するよう命令した。イギリス軍の航空偵察機と陸上の哨戒部隊を欺くため、ヴェストファルは日中の間、枢軸軍の車両はすべて西の方角、すなわちトリポリ方面への移動のみを行うよう命じた。夜間は両方向の通行が可能であった。こうしてイギリス軍司令部では、枢軸軍が首都トリポリへのさらなる退却を計画しているとの考えが広まった。さらに、第8軍を欺くために、古い汽船といくつかのはしけを燃やした。これは、枢軸軍が退却しようとしているという話をイギリス最高司令部に確認させるための行為であった。

 逆転が始まっていた。1942年1月19日、ロンメルの戦車を100輌以上に増強するのに十分な装甲戦闘車を積んだ輸送船が到着し、さらにイタリア軍は90輌を持っていた。そして、わずか数日後、攻勢は開始された。ロンメルとヴェストファルは、イギリス軍戦線を突破した戦闘団の先頭を行く数個中隊と一緒にいた。ベンガジに到着したこの二人は、第2機関銃連隊の攻撃小隊と一緒になって、同市の攻略に参加した。この頃ロンメルは再びヴェストファルを騎士鉄十字章に推薦したが、再度推薦を却下され、代わりに参謀将校としては珍しく常日頃から前線に立っていたことが認められ、銀色の戦車突撃章が授与された。ロンメルはヴェストファルにアフリカ装甲集団の参謀長という新しい役職も提示したが、その役職にいたガウゼ将軍が当時アフリカにいなかったため、自分がその役職を受ければガウゼの不在を利用していると思われかねないとしてこれを辞退した。
『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』P270




 1942年5月からのガザラの戦いの直前には、アフリカ装甲軍参謀長ガウゼとドイツアフリカ軍団参謀長のバイエルラインが攻勢に対して否定的であったのに対し、ヴェストファルは結局自分達としては攻撃する他はない、これ以上防御の態勢で待つことは、アフリカ装甲軍全体を危険に陥れることになる、と主張します。

 しかしガザラの戦いの最中、ヴェストファルは負傷して戦場を離れることになりました(その時のことをロンメルが、冒頭のように「痛恨の極み」と書いていたわけです)。

 ロンメルとヴェストファルは1942年5月31日にも意見の相違があり、そのためにこの時はヴェストファルの命が失われそうになった。ガザララインの戦いの最中、ヴェストファルはロンメルとともに装甲車でゴット・エル・ウアレブ・ボックスの偵察に出かけ、急降下爆撃機のスツーカが正しく攻撃しているかどうかを確認していた。些細なことでヴェストファルとロンメルの意見が合わず、それに対してロンメルが鋭い言葉で言い返した。イギリス軍の砲撃を受けたのは、彼らが装甲車の装甲の弱い部分から状況を観察している時であった。ロンメルは装甲に厚くカバーされた部分に飛び込み、ヴェストファルにも同じことをするようにと叫んだ。しかし、作戦主任参謀のヴェストファルは不機嫌になっており、まるで命令を聞いていなかったかのように従わなかったという。突然、大きな爆発音が聞こえた。ジークフリード・ヴェストファルは鳥のように空を飛び、大腿部に大きな破片を受けて砂漠に落ちた。運転手は死亡していた。ヴェストファルは幸いにもキューベルワーゲン(ドイツ軍におけるジープのようなもの)に拾われて司令部に運ばれ、そこからデルナの病院に送られた。間もなく、彼は大きな治療を受けるためにヨーロッパに戻された。個人的に親しかったF・W・フォン・メレンティンが一時的に彼の役職を代行することになった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P102



 ヴェストファルは手術を受け、またトブルク陥落によりロンメルは元帥に、ヴェストファルは大佐に昇進します。

 北アフリカでは1942年7月に第1次エル・アラメインの戦いが行われており、その次のアラム・ハルファの戦い(8月30~9月5日:エポック『エル・アラメイン』が扱っている戦い)の直前(8月30日の夜)にヴェストファルは復帰しました。この攻勢に関するロンメルとケッセルリンクの会談に同席したヴェストファルは燃料の不足について言及し、ケッセルリンクが空輸によってそれを保証すると述べたのに対してその不可能なことを指摘したのでケッセルリンクに疎まれ、退席するように求められています。

 結局アラム・ハルファの戦いは燃料不足のために行き詰まります(ケッセルリンクの約束は果たされませんでした)。


 その後もエル・アラメイン前面でのにらみ合いが続きますが、この時期に下記のようなことがあったそうです。

 知られている限りでは、外国軍人の中のドイツ人移民を殺せというヒトラーの命令も実行されなかった。重傷を負って6月1日にはすでに戦線離脱していたジークフリート・ヴェストファルによると、この命令は焼かれたという。その4ヵ月後にも同様の手順で別の殺人命令が出されていることも、この事実を裏付けている。1942年10月18日、ヒトラーは、ドイツ軍の後方で特殊任務を遂行していたイギリス兵を中心とした、いわゆるコマンドー作戦の参加者を「戦闘中または飛行中に最後の一人まで切り捨てる」よう命じていた。受け取ったヴェストファルは、国際法に反する命令であることをロンメルに伝え、「すぐに燃やすように」と勧めた。「ロンメルはうなずいた」とこの作戦参謀は回想録に書いている。ヴェストファルはストームライターで通信文に火をつけた。
『Mythos Rommel』P92

(多くの資料では、ヒトラーの指令を無視したのはロンメルの意志によるもののように書かれていると思われるのですが、ヴェストファルの回想録によると、ヴェストファルが勧めたことであったということになるのでしょう)


 同じ1942年10月(初旬?)に、アフリカ装甲軍の参謀長であったガウゼが治療のために再びヨーロッパに戻った(9月)ため、ヴェストファルがその後任として参謀長に任命されます。ただし彼がこの役職にいた期間は長くはありませんでした。10月23日、第2次エル・アラメインの戦いが始まって枢軸軍戦線は崩壊し始め、11月4日にロンメルは総退却を命じます。

 この頃までにロンメルは再びヴェストファルへの騎士鉄十字章を推薦しており、11月29日に授与されました。

 また、12月初旬にロンメルはヒトラーに会いに行っており、この時ヒトラーに「指揮下の最も優秀な将校は誰か」と聞かれたロンメルは即座に「ヴェストファルです」と答えたというエピソードもあるそうです。

 退却の途中の12月1日、第164軽師団の師団長であったルンガースハウゼンが負傷か何かのために師団長職を降りたため、ヴェストファルが師団長代理を務めることになりました(枢軸軍はその頃、メルサ・エル・ブレガ付近にいたようです)。12月29日(エル・アゲイラとトリポリの中間地点より少し西のブエラトあたりに枢軸軍はいました)にルンガースハウゼンが師団長として復帰しましたが、ヴェストファルは短期間であっても自分が第164軽師団を指揮できたことを、死ぬまで非常に誇りに思っていたそうです(どういう意味で誇りであったかは資料に書かれていないのですが、実戦部隊としての師団を指揮できたということか、あるいは第164軽師団自体に思い入れがあったものか……?)。


 ↓OCS『DAK-II』の第164軽師団(後期のユニット構成)

unit8871.jpg

(ただしヴェストファルが指揮していた頃には相当ボロボロになっていたはずですし、また『DAK-II』自体は1942年11月29日ターン(つまり11月末)までを扱っているので、厳密に言えばゲームの扱う時期の外ということになります)


 しかしこの頃にヴェストファルも北アフリカを離れ、そして二度とその地に戻ることはありませんでした。ヴェストファルがこの時期北アフリカを離れた理由について、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』は病気のためとし、『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939-1945』は新しい役職に就くため(あるいは休暇を取るため)であったとしています。


 ヴェストファルはドイツに向かう途中、ケッセルリンクに会って報告し、また一緒にムッソリーニに会いに行ったりもしたようです。ケッセルリンクは以前、ヴェストファルと意見の相違があったりはしたものの、彼を自分の幕僚に迎えることを希望していました。

 ヴェストファルは1943年2月1日にケッセルリンク元帥が司令官を務める南方総軍とC軍集団の作戦主任参謀に就任し、また3月1日には少将に昇進しました。ヴェストファルはチュニジアで枢軸軍が最終的に1943年5月に降伏するまで、その地に頻繁に飛んで様々な配慮をしたそうです。

 一方でヴェストファルは、チュニジアに送られる予定で南イタリアに大量の兵士が置かれていたのを、ケッセルリンクの許可を得て、部隊に編成して英米軍の次の目標であると思われたシチリア島に代わりに送り込みました。6月15日にヴェストファルは南方総軍の参謀長に就任します。

 7月9日にはシチリア島上陸(ハスキー作戦)が始まり、7月25日にムッソリーニが失脚するとイタリアは連合国との単独講和の動きに入ったため、ロンメル指揮下のB軍集団がイタリアに進駐を開始します。イタリア軍は自国の領土をドイツ軍に侵されたことに憤慨し、ヴェストファルはかつての同盟国の将校達との間に生じた問題を解決するのに多大な時間を費やしました。

 その後ヴェストファルは、イタリア半島での戦いの準備と戦闘に忙殺されます。ヴェストファルは1944年4月1日に中将に昇進しましたが身体を壊し、ドイツに戻って手術を受けました。


 ヴェストファルは8月末まで療養し、1944年8月31日にヒトラーのもとを訪れ、そこで会ったフォン・ルントシュテット西方総軍司令官の参謀長に任命されます。ヴェストファルの最初の仕事は、この頃フランスから退却してくる大量のドイツ軍兵士達の混沌の中に秩序を作り出すことでした。彼はライン川西方に強固な前線を形成することに成功し、ヒトラーはこの成功を奇跡と評しました。
OCS『Beyond the Rhine』はまさに、ライン川に向かって怒濤のごとく迫ってくる連合軍に対して、ドイツ軍が強固な防衛線を形成できるかどうかというタイミングの9月5日ターンから始まりますので、ヴェストファルのこの仕事を体験できるということになるのかもしれませんね(^_^;)

 その後もヴェストファルはジークフリート線の戦い、バルジの戦い、ライン川への退却戦などで、豪華な司令部からほとんど離れることのなかったフォン・ルントシュテット元帥を助け、誰が見ても前任のギュンター・ブルーメントリットよりも優れた参謀長であるとみなされたそうです。フォン・ルントシュテット元帥は自分の参謀長に満足し、ヴェストファルの昇進を推薦、1945年2月1日にヴェストファルは騎兵大将となりました。


 ヴェストファルがヒトラーと、ジークフリート線防衛の有効性について激しい応酬を繰り広げていた1945年3月6日、ライン川にかかるレマゲン鉄橋がアメリカ軍によって占領されると、ヒトラーはフォン・ルントシュテットを退役させ、より楽観的、精力的でナチス寄りのケッセルリンクを後任に据えました。しかしできることはほとんどなく、ケッセルリンクとヴェストファルはその後まもなく降伏します。


 戦後まもなくニュルンベルク裁判が始まります。『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(下)』には、フォン・マンシュタインが妻に宛てた手紙の中の以下のような記述があります。



 ジュネーヴ協定の捕虜に関する規則は、ここではまったく適用されていない……。軍服でやってきた将校全員の階級章が剥ぎ取られたのだ。ヴェストファルや他の者が抗議すると、独房に入れられ、二日間食事抜きで過ごさなければならなかった。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(下)』P255



 ヴェストファルは、フォン・マンシュタインらと共にドイツ国防軍を弁護して、いわゆる「国防軍潔白神話」を形成するのに寄与します。

 その後ヴェストファルは、アメリカ軍のヨーロッパでの戦史部で、主にイタリアでの作戦に関する多くの原稿を書きます。また彼は、北アフリカで自分の部下だった兵士達の運命に関心を持ち、アフリカ軍団退役軍人協会やその他の元軍人団体を設立しました。


 1973年にヴェストファルは、イギリスのドキュメンタリーシリーズである「The World at War」に目撃者として出演しました。探してみたところ、↓が見つかりました(他の回でも出ているのかもです)。






 1975年に、デイヴィッド・アーヴィングがヴェストファルに会って話を聞くことができました。この時のことをアーヴィングは↓のように書いてます。

《「ロンメルがしたことは間違ってはいない」1975年10月、私がジークフリート・ヴェストファルに会ったとき、引退しながらも北部ドイツにおいて豊かな生活を送っていたハンサムなこの元大将はいった。【……】ヴェストファルは将校として、今では思い出の中のロンメルに対し非常に強い忠誠心をいだいているため、現在の自分が記憶していることが1942年に書かれた日記と食い違う場合、ためらうことなく、自分の記憶の方が正しいし、日記の内容が間違っている、といいきるのである》
『狐の足跡』下P31




 ヴェストファルは、1982年7月2日に80歳で亡くなりました。


パソコン(Kindle)上の画面のOCR→DeepL翻訳用のフリーソフトを「PCOT」に変更しました

 以前、↓というのを書いてました。

パソコン上の画面のOCR用のフリーソフトを「Screen Translator」に変更しました (2021/12/14)


 が、先日↓というページをたまたま見つけまして……。

Kindle for PCで洋書をDeepL翻訳を使ってスラスラ読む方法


 この中で紹介されている「PCOT」という「OCR→DeepL翻訳」のフリーソフトを試しに入れてみました。結果として、個人的に「Screen Translator」よりも使い勝手が良いかもと思われるので、乗り換えることにしました。



 個人的に、「Screen Translator」の短所として以下のものがありました。

・OCR結果を改行させないことはできたのですが、そのOCR結果はコピーできず、直接DeepL翻訳させたものはDeepL翻訳の窓を別に開いて翻訳させたものよりも訳の精度が低い感じがして、結局改行されたOCR結果をShaperに入れて翻訳していた。

・その結果、Kindle画面の中で実際に「改行、一字下げ」されているような部分は、段落毎に分けてOCRするのでなければ繋がった状態で処理するしかなかった(段落毎に分けてOCRすればいいわけですが、手間暇がかかり、特に「読み飛ばしていってもいい部分」に関しては繋げて処理した方が楽です)。



 それに対して、「PCOT」では……(前記ページの設定によって)。

・Shaperを通す必要は全然なく、しかもKindle画面上で「改行、一字下げ」されている部分がDeepL翻訳上でそのまま「改行、改行、一字下げ」と見やすい状態で出てくるので大変ありがたいただし、原文で改行されていないにもかかわらず行末が「.」であったりすると勝手に「改行、改行、一字下げ」されてしまう、つまり段落が分けられてしまうという短所があるのですが、そうされないよりはされている方がマシだと個人的に感じております)。

「連続翻訳」機能はすごいと感じたものの、5,000字制限に引っかかってどうして良いか分からなくなるので、結局毎回OCR範囲を指定する方法で(個人的には「Screen Translator」のデフォルトのCtrl+Alt+Zで範囲指定というのがやりやすかったので、その設定にしました)。


<2022/11/13追記>

 「連続翻訳」機能の有効な(当たり前の?)使い方ようやく気付きました!

 私は普段、一段落毎にPCOTでDeepL翻訳にかけているわけですが、Kindleだとか、スキャンした画像上で一段落が別のページにまたがっている場合、「別々にPCOTでOCRして、その結果を手動で繋げて、そこからDeepL翻訳にかける」という面倒な方法でやっていました。

 ところがPCOTの連続翻訳機能を使えば、

1.2ページにまたがる段落に出会ったら、Ctrl+Shift+Cで「連続翻訳」モードにする(ショートカットキーは変更できます)。

2.前半の文をPCOTで読む。(前半の文だけで一度DeepL翻訳にかけられますが、それは無視する)

3.後半の文をPCOTで読む。

 そうすると、自動的に前半の文と後半の文が繋げられて、一段落がまとめてDeepL翻訳にかけたものが出てきます。

 で、それが終わったら、またCtrl+Shift+Cで「連続翻訳」モードを終わらせます(そうでないと、その後PCOTに読ませた文がどんどん累積していきます)。つまり、2ページにまたがっている時だけ「連続翻訳」モードにすれば良いわけですね。


 これが当たり前の使用法なのかもですが、分かってなくて今までどれだけ労力を損してきたことか……(T_T)

<追記ここまで>



・まだ試していませんが、OCRで毎回ミスするorミスしやすいものをPCOT上に登録しておいて望む結果に出力する機能があるようで、これも便利だと思います。



 個々人で色々好みはあると思うので、こういうフリーソフトが色々開発されているのは大変ありがたいです(T_T)

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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