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SCS『It Never Snows』のシナリオ、専用ルールで気付いたことや疑問点

 先日、SCS『It Never Snows』をVASSALで触ってみまして、まったくルールが分かってないので恐る恐るでしたが、その専用ルールの部分について気付いたことや疑問点などを書き留めておきます。



 まずは『It Never Snows』について。フルマップ5枚でマーケットガーデン作戦を再現するゲームで、1ターン12時間、1ヘクス600m、ユニット840個でキャンペーンが全17ターンです。マップ的にはかなりのビッグゲームですが、ルール的には大して難しくないと思われます。

 なぜ9月の戦いで雪とは関係ないのに「Snow」なんて言葉がゲーム名に入っているのかというと、史実で空挺降下を見たドイツ軍側に、「あれは雪か? (季節的に)雪であるわけがない!(It never snows) 空挺降下だ!」という会話があったからとか? ↓の書名が元になっているのかもです。





 ↓マップ全景。

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 とりあえずまず、『It Never Snows』を初めてプレイしてみる上で、どのシナリオが良いのか探してみました。

 シナリオ5.1~5.4までは、開始時期が異なるキャンペーンゲームで、シナリオ5.5~5.8はマップの一部を切り取ったシナリオです。

 5.5と5.6はアルンヘム周辺での戦いを扱っており、少し範囲は異なっていますが非常に狭く(10×10ヘクス程度)、最初にやってみるのに良さそうです。ただしなぜか、5.6の方が早い時期(第2~7ターンの全6ターン)を扱っており、5.5がその後の時期(第8~17ターンの全10ターン)となっています。5.6の方がターン数も短いですし、5.6を先にプレイし、その後に5.5をプレイするのも良いかも?


 ↓シナリオ5.5の初期配置(VASSALでは右側が北になっています)。水色のヘクスの内側がシナリオの範囲で、左側には増援がそのターン毎に置かれています。

unit8879.jpg



 ↓シナリオ5.6の初期配置。

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 シナリオ5.7はナイメーヘンでの渡河から、その北方(画像の右側)への戦いを描いています。第6~14ターンの全9ターン。

 ↓シナリオ5.7の初期配置。

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 シナリオ5.8はマップCの2/3程度を使用し、フェーヘル(Veghel)周辺を目指すドイツ軍の反撃を扱うようです。第10~17ターンの全8ターン。

 ↓シナリオ5.8の初期配置(水色の左側がシナリオの範囲。右側に増援が置いてあります)。

unit8875.jpg




 今回はシナリオ5.7をやってみました。

 VASSAL上では、シナリオ範囲が一列間違っている(プレイには実質問題なし)とか、「w/i 2 B26.34」が「w/i 1」と表示されている(w/i 2が正しいと思われました)とか、指定の3ヘクスから1ヘクス以内なのが1ヘクスしか指定されていないとか、少々問題はありましたが、まあなんとか。

 それよりは、VASSAL上でマスクできない(戦場の霧ルールが再現できず、すべてのユニットが筒抜け)とか、ユニットが消えてしまったり、接続している他のプレイヤーには違うユニットが見えていたりするのが割と起こるという問題があり、そちらに気を配る必要がありそうです。

 あと、シナリオ情報には片側の陣営の「航空爆撃」について触れられていないことがあり(例えば5.7では連合軍の、5.8ではドイツ軍の航空爆撃についての記載がない)、BGGによると「記載がないということはつまり存在しないということです」だそうです。



 お試しプレイで気づいたこととしては……。

・移動フェイズの前に行軍移動フェイズがあり、行軍移動(スタック禁止で無限移動できる)した後にも移動できるので、戦線から離れたところにいるユニット(ドイツ軍側も)は初期配置でスタックさせないで置いておけば、行軍移動して移動できるので吉

特に突破能力を持つユニットは、行軍移動して、移動でスタックして攻撃し、戦闘後前進せずにEZOCに入らないようにして、突破フェイズになったら突破移動でオーバーラン……というのが良さそう。

・砲撃するには観測ユニットが必要だが、シークエンスが

 行軍移動フェイズ
 砲撃フェイズ
 移動フェイズ
 戦闘フェイズ
 突破フェイズ

 で、行軍移動では敵ユニットに隣接できないので、攻勢側(進撃側)は接敵していないような状況からは砲撃はできない。逆に防勢側は接敵されている状態から砲撃して、移動フェイズのオーバーランや戦闘フェイズ中の攻撃で敵から離れて、突破フェイズに移動やオーバーランが可能。




 また、今回出てきた疑問点。

 橋(Bridge)はスタック制限がユニット1枚で、移動中も遵守しなければなりません(1.5と1.13)。このスタック制限を退却中も遵守すべきなのか? ということが疑問点として出てきました。

 1.5と1.13によれば、あくまで「移動中も(「when units are moving」と「even during movement」)」っぽく、またSCS 4.0aによれば「戦闘結果(オーバーラン、通常戦闘)による退却によってスタック制限を超過した時には、次の自軍移動フェイズ終了時まで、スタック超過によるユニットの除去は行いません」とありますので、少なくとも退却時には「超過によるユニット除去」はしないのではないかと思われました。ただし、1.5に「退却した結果によってスタック制限を違反してしまったヘクスにいるすべてのユニットは、直ちに混乱状態になります」とあるので、混乱にはなると思われました。

 ただし戦闘後前進に関しては、SCS 10.0の最後に「戦闘後前進の終了時には、スタック制限が守られていなければなりません」とあるので、1枚しか入れないと思われます。


 次に、1.11には「連合軍の航空爆撃はワール川の南でのみ、ドイツ軍の航空爆撃はワール川の北でのみ行えます」というルールがあるのですが、厳密にどのヘクスでできる/できないのかが気になりました。この件についてfacebookで質問してみたのですが、返信がつかないので良く分からず。ただとりあえず、そのヘクスに南岸があれば連合軍は航空爆撃でき、そのヘクスに北岸があればドイツ軍は航空爆撃できる、ということで良いのではないかと思いました。ヘクスによっては両岸が含まれていることがあり、その場合には両軍とも航空爆撃できる、と。


 それから1.15に、工兵が渡河点(Ferry)を設置する/架橋部隊が架橋するために、それらのユニットが「Emplaced(配置)」されなければならない、というルールがあります。このEmplacedされたユニットが、「攻撃を行えるか?」「ZOCを持つか?」ということが気になりました。尤も、Emplacedされたユニットと敵との間にはシーラインヘクスサイドがほぼ必ずあるはずで、シーラインヘクスサイドを越えてはZOCは広がりませんし、攻撃はできたとしても戦闘力が半減であり、ごく稀にしかそれらの疑問点は問題にならないはずではあります。

 これもfacebookで質問してみたのですが、返信がないので分かりません(^_^; とりあえずどうするかですが、この件に関する規定はないようなので、とりあえず「攻撃できる」「ZOCを持つ」ということにすべきかなぁ、と。




 また何か、気付いたことや疑問点が出てきたら、ここに集積していこうと思います。

 何か間違い等に気付かれましたら、ぜひご指摘下さい!(^^)


 あ、あとちなみに、古角さんに『It Never Snows』の在庫がサンセットゲームズにあるかどうか尋ねたところ、少しあるということでした。


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第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かない?

 OCS『Arakan』(仮)を作れないかと思って、第1次、第2次アキャブの戦いをOCSシステムで作るということを試してみていたんですが……。

 第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かないのではなかろうか? という気がしてきました(^_^;


 ↓最近も資料を読んでマップを改訂したりしてました。

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 最大かと思われる要因は、第1次、第2次アキャブの戦いの両方とも、「攻撃側が成功するに違いない、と思って何回も攻撃していた場所が結局は抜けないで、攻勢作戦が失敗した戦いである」ということじゃないかと思います。

 それに対してOCSは、「必ず成功するような攻撃(戦闘比、AR差)を用意するのがセオリーであり、成功するかどうか分からないような攻撃はそもそもしないでいるべきシステム」なのです(SPの無駄がつらいから、というのがその理由の最たるものではないかと思います)。

 ここらへん、SCSをやってみて「SCSは低戦闘比率で、うまくいくかうまくいかないか分からない攻撃でも上等」だったりしたので特に強く思ったのですが、しかしSCSだったら第1次、第2次アキャブの戦いが再現できるかというとどうもそうではないような気もしました。




 第1次、第2次アキャブの戦いのボードウォーゲームはそれぞれ1作ずつしか出てないらしいのですが、そもそも有名な戦いではない以外にも、ゲームとして結構作りにくい戦いであるという要因もあるのかもです。

 でも同じように、「成功すると思ってやった攻撃が何回もになって、結局成功しない内に敗退」というような戦いやウォーゲームが他にあるかどうか考えてみますと、エル・アラメインの戦いとか、ガダルカナルの戦いとか……? 戦いとしては当然、存在するパターンでしょうし、ゲームとしてもなしではないとは思われますが、アキャブの戦いは第1次、第2次とも、ある地点で割と長期間止まったままで何回も(後知恵からすると無駄な)攻撃が繰り返されるという特色があって、そこがネックになっている可能性があるのかも。




 第1次、第2次アキャブの戦いがゲームとしてうまくいく場合はどのようなケースであるかを考えてみると、

1.敵の状況(兵力配置や増援状況)がかなり隠されるようなシステムであるならば、ある地点での攻撃がうまくいくかもしれない(あるいは最もうまくいきそうな場所を何とか探して、とにかく攻撃せざるを得ない)ということになるかも。
2.ビルマ中央部を基本的にプレイしており、その支作戦としてアラカン地方で攻勢(牽制)作戦をするという形であれば、どれだけアラカン地方に兵力を回すとか、回した兵力が間に合うかどうかなどに気を揉むゲームになり得るかも。

 ということが思いつきましたが、どちらも微妙に(かなり?)ハードルが高いような……。


 いやそういえば、ダブルブラインドシステム(GDW『8th Army』とかの)であれば、少なくとも第2次アキャブの戦いは割と短期間で終わるので、なしではないかも……? しかもチットプルシステムにすれば、日本軍の連携が取れないのも再現できるかも。マップはアドミンボックスの戦いの周辺だけを拡大し、ユニット規模は少なくとも日本軍は中隊規模で。

 補給のシステムは、エポック『エル・アラメイン』が強制的に第4ターンで終わっているのが「枢軸軍の燃料不足を表している」ように、単純に史実で日本軍が撤退した時期までに戦果を挙げられなければ終了するということで良いような気がします。



 それに対して第1次アキャブの戦いは長期間すぎ(1942年12月15日から1943年5月12日)、日本軍の増援が遅かれ早かれやってきて側面包囲するという史実のパターンを、うまく単体ゲームとして面白くする案が現状思いつかないです。ただし、前述2のパターンは結構面白そうな感じはします。ビルマ戦全体をフルマップ1枚とかで再現するゲームの一部としてなら……。一方で、OCS『Burma II』2枚+OCS『South Burma』(仮)3枚+OCS『Arakan』(仮)1枚の計6枚で再現するゲームの一部としてという案は、第1次アキャブの戦いの頃は他にビルマ戦線では戦いが行われておらず、それなのに全体の一部として第1次アキャブ戦を44ターンもプレイするというのは、規模的な問題としてあり得ないなぁという気がします。




 尤も、何か劇的にアイデアを思いついて「やはりOCSでいこう!」となる可能性もあるかもで、また考えていこうとは思いますが、とりあえずOCS『Arakan』(仮)は一時停止して、OCS『South Burma』(仮)に移った方がいいかな、と思います。『South Burma』(仮)は「OCSに向かない」とは現状思ってはいなくて、ただ単に「作業が(狭い範囲の『Arakan』よりも)大変」ということで先延ばしにしていたのですが、「やっぱり『South Burma』もダメだぁ~」とならなければいいなぁ……(^_^;


SCSシリーズルールサマリーを作りました&SCSとOCSの大きな相違点について

 先日、SCS『It Never Snows』の練習をしてみたのですが、その際にSCSシリーズルールサマリーを作ってみました。というのは、以前にもSCS『The Mighty Endeavor 2』などをやってみたことがあったわけですが、全然SCSのシリーズルールを頭の中で保持できていなくて、サマリーを作っておいた方がいいなぁ、と思ったので(^_^;


 ↓こちらに置いてあります。

SCS(Standard Combat Series)関係




 OCSとSCSの違いについても、ちょっとまとめてみようと思いました。

 最も大きいのは、ZOCの影響でしょう。OCSではZOCが移動に及ぼす影響は微々たるものに過ぎませんが、SCSではEZOCに入るのに+2移動力で、ZOCを持つユニットの割合も高い。
(SCSでは1攻撃力以上のユニットはZOCあり。OCSでは移動モードではZOCがないので、機動戦をやっている最中の部隊はZOCを持たない割合が高いです)。


 それから、

・SCSでは、オーバーランしたスタックはそこでストップ。オーバーランされるヘクスは1つのフェイズに1回しか目標ヘクスにならない。オーバーランは2移動力以下のヘクスに対して2移動力で行う。
(OCSでは移動力が残っているならいくらでもオーバーラン可能。オーバーランされる回数に制限はない。オーバーランは3移動力以下のヘクスに3移動力で行う。)

・SCSでは、防御側ユニットが2ヘクス以上の退却を要求された場合(それをステップロスに変換したり、途中で全滅しても)、攻撃側の突破能力を持つユニットは退却ヘクス数と同じヘクス数だけ戦闘後前進を行える。
(OCSでは戦闘後前進が2ヘクス以上できるというようなルールはない)

・SCSでは、退却は「元いたヘクス」から離れるようにして行う。
(OCSでは、退却は「敵のヘクス」から離れるようにして行う。)

・SCSでは、1ヘクスに違う道路がある場合、(多分)乗り換えできない(SCS 3.2b)。
(OCSでは、1ヘクスに違う道路があったらノーコストで乗り換えできる(OCS 6.2a)。)

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 ↑の画像で、24.02から25.03へと移動した際、OCSだと白い方の道路にノーコストで乗り換えできるのですが、SCSではそのような規定がないようなので、できないと思われます。なので、もし続けて25.03から26.03へ移動するのならば、ポルダーの移動コストを払わなければならないでしょう。




 それから、今回出てきた疑問点についてFacebook上のStandard Combat Seriesグループに入って質問してみました。

 SCSでは最初のステップロスは「攻撃側なら最も攻撃力の高いユニット」(防御側なら最も防御力の高いユニット)という規定となっています。

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 ↑の画像のように、ドイツ軍側が6-3-12と、DGで攻撃力が半減している8-4-12で攻撃して「攻撃側1ステップロス」となった場合ですが、回答によると8-4-12の方がステップロスする、ということです。というのは、ルールに「印刷された攻撃力が最も高いユニット」という風になってまして、一方でそれ以上の規定はないので、DGとかで攻撃力が下がっていても関係ない、ということで。


 実は元々この疑問が出てきた時の状況は、

6-3-12
6-3-12
6-3-12
DG状態の6-3-12

 で攻撃した時1ステップロスとなって、この時「DG状態の6-3-12」をステップロスでも良いのだろうか? という疑問だったのですが、回答の感じからするとそれでも良いのだろうと思われました。



 また、SCSはゲーム毎に(シリーズルールの上に乗っかる)システムやCRTなどが異なるので、「SCSは全部こう」とは言えないですが、これまで少しやってみた『The Mighty Endeavor 2』や『It Never Snows』を見ていると、2:1や1:1などの低比率の戦闘比でも攻撃をバンバンしかけていってOKという感じがしてます(OCSでは高比率か、AR差がかなりある、「確実な攻撃」しかやらない方がいいシステムです)。

 それからOCSではSPを消費することに決めた極めて限られた場所でしか戦闘や砲撃が発生しないんですが、SCSは多くのウォーゲームと同様、存在するすべての戦闘ユニットが攻撃を行える(のが基本な)ので、「低比率でもOK」ということと相まって、戦線全体でバンバン攻撃をやって、うまくいった場所を、予備にしてあった(EZOCに入らないようにしておいた)突破能力を持つユニットでもって抜いていくという感じなのかな、と思いました。

ハルダーによって送り込まれたものの、ロンメルに心酔し、ロンメルに最も長く仕えた参謀長、アルフレート・ガウゼについて

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ハルダーによって送り込まれたものの、ロンメルに心酔し、ロンメルに最も長く仕えた参謀長、アルフレート・ガウゼについてです。



Bundesarchiv Bild 183-1982-0927-502, Nordafrika, Navarini, Rommel, Diesener

 ↑クルセイダー作戦初期に、イタリア軍司令部で地図を広げて会議中の写真。中央がロンメル、右がガウゼ。左はナヴァリーニ(イタリア第21軍団長)。(Wikipediaから)



Bundesarchiv Bild 101I-718-0149-12A, Paris, Rommel, von Rundstedt, Gause und Zimmermann

 ↑1944年1月14日、パリのホテルで行われた将校会議。左からロンメル、フォン・ルントシュテット、ガウゼ、ツィンマーマン。(Wikipediaから)



 アルフレート・ガウゼは、第2次世界大戦中、エルウィン・ロンメルの部下の中で最も長く、約3年間にわたって彼に仕えた(ロンメルは仕事上の付き合いが長続きしなかったが、それは個人的な親しい友人関係がほとんどなかったことも理由のひとつである。また、部下をすぐに疲弊させてしまう傾向があった。)。 ガウゼは堅実だが、才気溢れるというわけではない参謀で、残念ながら回顧録を残さず、戦後にその経験を広く語ることもなかった。何よりも、彼はプロの軍人であり、陰謀や "処世術"には興味がなかった。彼の目標は、ドイツと、彼の上官として任命された司令官に仕えることだった。忠誠心が高く、忍耐力があり、有能であったからこそ、砂漠のキツネは彼を長く自らの元に留めたのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P95



 性格としては、快活かつ穏やかで礼儀正しく、見るからに落ち着きのあるしっかりした、思慮深く行きとどいた気質で、落ち着きがあってたくましい人物で、ポーカーフェイスで意味深なジョークを言うというユーモアセンスで知られていたそうです(^_^;



 アルフレート・ガウゼは第1次世界大戦が始まる5カ月前に士官候補生としてドイツ陸軍に入りました。基本的に工兵隊に所属して西部戦線で戦います。

 戦後も軍に残り、工兵、歩兵、砲兵など様々な部隊に所属しましたが、1927年に軍の試験で上位に入り、参謀将校の候補者に選ばれたことでキャリアが大きく飛躍しました。

 1937年に陸軍省軍務局に配属され、1938年に陸軍省がヴィルヘルム・カイテルを長とする国防軍最高司令部(OKW)となった後も、同局に留まります。上司らがナチスに染まる中、ガウゼはナチスに騙されることはありませんでした。しかし反ナチスというわけでもなく、彼は単純で非常に有能な参謀将校であり、それは戦争が終わるまで変わりませんでした。


 ポーランド戦には直接参加せず、フランス戦の時は第10軍団の参謀長でしたが、この軍団もほとんど戦闘を行っていないようです。

 パリ陥落後、ヒトラーはラントヴェーア部隊の数個師団の動員解除を決定し、ガウゼは陸軍総司令部(OKH)の動員解除支局長に任命されます。ここでガウゼは、参謀総長のハルダーと緊密に連携することになりました。この任の途中の3ヶ月間、ガウゼは一時離任して英仏海峡沿岸にいたフォン・マンシュタインの第38軍団の参謀長を務めます。この頃フォン・マンシュタインはイギリス本土上陸作戦(あしか作戦)の立案に携わっており、ガウゼもその立案に関わりました。

 ガウゼは自身の軍隊歴をロンメルに話した。彼の話でもっとも興味を惹いたのは、参謀将校の一人として、1940年のイギリス侵攻 - 「海象(あしか)作戦」の立案に参加したことだった。ガウゼ自身は心ひそかに、この作戦計画は実現しそうもないと、無視していたと語った。
「第一に」と彼はロンメルと私【ロンメルの副官のハインツ・シュミット】にいった。「利用できる船舶のトン数が決定的に不足していました。次に、イギリス上空の空中戦後、ゲーリングの楽観説にもかかわらず、航空掩護がたよりにならないのが明瞭になったのです。それにドイツ海軍はこの計画を支持したものの、必ずや強力なイギリス海軍は最後の一兵を賭してまで戦うにちがいない。そうなると彼我の艦隊の均衡に相違があるので、ドイツ海軍は全滅の憂目を見るのみだと主張したのです。結果は、ご存じの通りです」
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P112,3

(ハインツ・シュミットの回想録の古い文庫本の和訳のP109~113には、車内でガウゼがロンメルに昔の話を色々と聞くシーンがあります)





 ガウゼは1941年1月末にはOKHに戻り、5月までOKHに留まっていましたが、6月1日付けで北アフリカに送られることになりました。

 これは参謀総長ハルダーによって、ロンメルを掣肘するため(あるいはスパイとして)送られたのだという見方が多いようです。その前の4月から5月にかけてはフリードリヒ・パウルス(後に第6軍司令官となってスターリングラードで降伏。中隊長時代にロンメルと同僚で、かつこの時期参謀次長でした)がロンメルの元に送り込まれていたのですが、それほどの成果を上げず、その次の策として白羽の矢が立ったのでしょうか。

 ガウゼはまず、北アフリカのイタリア軍司令部との間のドイツ軍側の連絡将校の長に任命されます。ガウゼの幕僚達は、非常に曖昧な指示を受けてリビアに派遣されました。ロンメルに報告するのでもなく、ロンメルに従属するのでもなく、むしろロンメルのことをOKHへと報告するようにというのです。ガウゼの忠誠心を固めるためか、OKHは6月1日にガウゼを少将へと昇進させました。

 恐らく北アフリカへと出発する前にガウゼは、ロンメルと衝突しまくってロンメルに解任されたシュトライヒ将軍に会ったのでしょう。シュトライヒから、「あなたはあまり長い間、ロンメルとうまくやっていくことはできないでしょう」と言われたそうです。

 ガウゼはたまたま、バトルアクス作戦が開始された1941年6月15日にロンメルの所に到着したそうですが、この後の動向について、資料によってニュアンスが異なるように感じます。


 例えば、前述のハインツ・シュミットは、

 だが【新しく着任した北アフリカのイタリア軍司令官】バスティコと会ってからロンメルは新任の参謀長ガウゼ将軍を訪ねた。ガウゼは快活で礼儀正しく、見るからに落ち着きのあるしっかりしたひとで、新参謀部がロンメルに所属するようになるのを、はっきりと話した。
 こうしてアフリカ戦車集団が生まれ【……】
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P104

と書いているのですが、これだと「ガウゼはロンメルに初めて会った時に、その参謀部がロンメルの下に入る、と言った」かのようです(そうではない?)。


 デイヴィッド・アーヴィングの『狐の足跡』では、ガウゼがしばらくロンメルの指揮ぶりを見た後、「自分の判断で」ロンメルの下に自分の幕僚達を提供した、という書き方になっています。

 ロンメルの戦況の把握および戦闘指揮の能力に驚きの目を見張った彼は、"アフリカ軍団の司令官はきわめて巧みに事態に対処する"ことができると判断して、直ちに自分が率いていた将校43名、軍属20名、下士官・兵150名および車輛46輌から成るスタッフ全部をロンメルに提供した。
『狐の足跡』上P164




 サミュエル・ミッチャム氏の『Rommel's Desert Commanders』では、ロンメルがガウゼを下に入れると宣言したことになっています。

 ハルダーは自分の部下をひどく過小評価していた。というのは、アルフレート・ガウゼはイタリア領北アフリカで「策を弄する」つもりはなかったからだ。ガウゼがリビアに到着するやいなや、ロンメルは彼の「脚を固定した」のである。砂漠の狐は彼にはっきりと伝えたのだ。アフリカにおけるすべてのドイツ軍部隊は自分一人に指揮権があるのであり、その中にはガウゼとその幕僚部も含まれる、と。ガウゼの答えは、ロンメルに完全に従うということだった。(彼はまた、指揮系統の統一という軍事的原則を信じており、分断された指揮系統の危険性を認識していた。)  ガウゼは1941年9月1日、正式にアフリカ装甲集団の参謀長となった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P97




 それほどページ数が多くない多くの資料では、ここらへんの事情は曖昧な書き方になっています。


 大木毅氏の、最新学説によるという『「砂漠の狐」ロンメル』では、ガウゼがロンメルをしばらく観察してからの報告をハルダーが読んで、ハルダーの判断でガウゼの幕僚部をロンメルの下に入れたという書き方です。

 7月6日、在北アフリカ・イタリア軍司令部に連絡将校として派遣されていたアルフレート・ガウゼ少将の報告も、ハルダーの確信を強めた。同日のハルダー日記の記載をみよう。
「ロンメル将軍の特性とその病的な功名心が、人間関係に暗い影を投げている。信頼関係が求められているのだが、それは見当たらない。ロンメルの性格的な欠陥が、彼を望ましくない存在としているものの、誰も争おうとはしない。ロンメルの乱暴なやり方ならびに、彼が上層部からの支持を得ているためだ」。「こうした、あきらかに行き詰まった状況を打開し得るのは、指揮系統変更の折に(ロンメル装甲集団の設立) ガウゼの幕僚部の任務替えを行うことだけである」。
 かくて、ガウゼは9月1日に、アフリカ装甲集団参謀長に補せられた。同集団司令部も、彼のスタッフによって構成されることになる。優秀な参謀将校であるガウゼを筆頭補佐役に得たことは、結果的に、ロンメルには大きな助けとなった。
『「砂漠の狐」ロンメル』P182



 この4つの資料がすべて矛盾しないような筋書きを考えることも、不可能ではないような気もするのですが、しかし受ける印象が全然違いますね。


 そしてガウゼは、この頃に同じくロンメルの下の幕僚として派遣されたヴェストファル、フォン・メレンティンらと共に、非常に上手くロンメルを支えることになります。

 さしあたり、ロンメルは部下に恵まれていると考えてよかった。ガウゼによってロンメルに対する評価は目に見えて向上しており、猪突猛進の司令官と控えめな参謀長はうまくいくとよく言われるが、ふたりの関係はまさにその好例だった。軍事の識者というよりも部隊将校であるガウゼは、ドイツ人にしてはおおらかで、これまたドイツ人にしてはユーモアのセンスがあり、猛烈があたりまえの司令部では歓迎された。下級将校では、作戦参謀のジークフリート・ヴェストファル中佐が、その人柄と知性において抜きん出ていた。「厩舎のなかでもとっておきの馬」、のちの上官は彼をそう呼んだ。カール・フォン・メレンティンは戦後、装甲戦に関する著作で有名だが、砂漠では実に見事に装甲集団の情報収集を指揮した。残りの集団も評価カーブのはるか上に位置していた。
 また、彼らはロンメルに心酔するのではなく、皆、ロンメルとは最初距離を置いていたが、数週間のうちに、単なる献身よりもはるかに役立ったであろう良識ある忠誠心を見せたことは意義深い。その後の様子からも、ロンメルの軍事的才能と任務に注ぐエネルギーが大いに尊敬されていたことがうかがえる。それに応えてロンメルも、順調に仕事を進める参謀たちを高く評価していることを隠さなかった。彼らはますます軍というファミリーの役目も果たすようになっていた。ほとんどの時間をスポットライトの当たる中央舞台で過ごす男にとってくつろぎの源となったのだ。
『パットン対ロンメル』P229

 ロンメルの指揮権が装甲集団へと拡張されたのに伴い、その司令部も拡張されていた。この新たな司令部にやってきた完全な新参将校の一人に、ドイツからやってきたアルフレート・ガウゼ少将がいた。ドイツ軍では、戦場における司令部将校をゼロから訓練し、自給自足で育てて、チームとして働き、各自の役割と責任を果たしていけるようにしていた。ガウゼはロンメルの後ろで参謀長として管理業務と補給の責任を任され、ロンメルはイギリス軍に対抗するという重要な任務に集中できるようになった。ガウゼはこの砂漠でロンメルに大いに役に立ち、ロンメルがこの戦域を離れた後でさえ、1943年5月の最後の最後まで、北アフリカに参謀長としてとどまったのであった。
『Operation Crusader 1941』P22

  ロンメルは新しい友達を得た小さな少年のように、ルーシー夫人に絶えず、いかにガウゼが自分の好み会った人物であるか、ということを書き送っていた。ガウゼは東プロイセン出身の工兵の将軍で、優れた能力をもち、冷静かつ果断な参謀将校であった。ロンメルを信頼し、たとえば、シュトライヒが彼に、「あなたはあまり長い間、ロンメルとうまくやっていくことはできないでしょう」といったことまで彼に打ち明けていた。
『狐の足跡』上P176


 シュトライヒら、初期のロンメル麾下の指揮官達は全然ロンメルと上手くいかなかったわけですが、一方で彼らが解任されて別の人達がロンメルの下に来ると、目に見えて関係が良くなって上手くまわるようになったわけです。モントゴメリーも、北アフリカに着任してすぐにそれまで北アフリカで戦ってきた指揮官達を解任して、自分のお気に入りの人達を任命していたりします。

 山崎雅弘氏の『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』や、大木毅氏の『「砂漠の狐」ロンメル』は、シュトライヒとロンメルの衝突をかなり紙幅を割いて強調していると思うのですが、私は個人的に、その後のガウゼらや、フォン・ラーフェンシュタインらとのロンメルの関係が良好であったことにも同じくらい興味がある感じです。




 ただ、ガウゼはその後何度も、北アフリカでの厳しい生活やストレス、負傷などによって職務を離れざるを得なくなっています。

 初めに、ガウゼはロンメルの型破りな指揮スタイルに慣れる必要があった。当時の多くの装甲部隊指揮官と同様、前線から指揮を執ることが多かったロンメルであるが、他の指揮官とは異なり、前線へ赴く際に自分の参謀長を帯同するのを好んだのだ。これにより、ガウゼの仕事はより困難で危険なものとなり、そのリスクに相応しい利益はロンメル、ガウゼ、そしてアフリカ装甲軍にももたらされなかった。また、ロンメルとガウゼがその前線にいなくなって、ジークフリート・ヴェストファル中佐のような非常に下級の将校がしばしば軍司令部の責任者になっていた。このような下級将校は、時折現れるイタリアの上級の将軍を相手にするには、明らかに不利であった。また、ロンメルと一緒に前線に出ることで、参謀は通常よりも死傷する可能性が高かった。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P97

 その忠誠心と有能さから、ガウゼやヴェストファル達はロンメルの心を掴んだ。彼は自分の軍を上手くまわすには参謀将校達が必要であることを理解するようになり、参謀将校達に対する疑念と不信は次第に消えていったのだ。実際、ガウゼと砂漠の狐の間には友情のようなものが芽生えていたが、ロンメルは部下と親密になりすぎないように気をつけていた。彼はまた、参謀長や、しばしば他の参謀将校をも前線に連れて行き続けた。もちろん彼らは犠牲者になるかもしれなかったが、ロンメルは絶対に失う事のできない人はない、誰でも置き換えられうるのだと考えていたらしい。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P98

 ↑「参謀将校達が必要であることを理解するようになり」というくだり、「当然じゃん」と思われるかもですが、ロンメルは元々前線指揮官のあり方を非常に重要視していて、参謀将校をバカにしていただけでなく、第1次世界大戦の敗戦は参謀本部の無能なリーダー達によってもたらされたのだと思っていたのでした。それで、北アフリカ戦初期に参謀総長のハルダーに対しても「大馬鹿」とか言ったりしたわけですが、ガウゼやヴェルトファルの優秀さや、彼らのお陰でアフリカ軍団がうまく回るようになってきたのを見て、それまでの考え方を改めたのです。


 まずは、クルセイダー作戦後の撤退の頃、

 12月の英連邦軍によるガザララインへの攻撃の際には、枢軸軍陣営の中で踏みとどまるべきか、あるいはより良い位置まで後退するべきかに関して異なる意見が出た。ロンメルとナヴァリーニの両名は後退を主張し、ガムバラとガウゼは踏みとどまるべきだと主張した。ここでバスティコはキャスティングボートを握ろうとして、指揮権を行使した。その決断は撤退ということであった。
『Rommel's North Africa Campaign』P126

 軍団長以下すべての指揮官が休養と体力の回復を必要としていた。ガウゼ将軍はローマおよびドイツに向かった。表向きはヒトラーに報告するためということであったが、実際はすっかり神経が参ってしまっていたのである。11月末、多くの者が神経衰弱にかかったことが判明した後、第21戦車師団の幕僚全員が更迭されつつあった。クリュヴェルと同様に、ヴェストファル中佐も黄疸になっていた。「まもなく、私は最初から最後までこちらで戦っている唯一のドイツ軍の将校、ということになるだろう」とロンメルはいった。
 彼はひそかに開始した退却が進捗しはじめた1月2日、クリュヴェルのもとを訪れた。クリュヴェルの率直で少年のような顔は蒼白く、黄色みを帯びて暗い感じを与えていた。彼は黄疸で非常に衰弱しており、ベッドに寝たままであった。
『狐の足跡』上P219,220


 この時ドイツに帰ったガウゼはヒトラーに会った時に、「日本が参戦したと聞いたときには、私たちはほっとしました」と述べていたそうですが、小室直樹氏なんかは「日本がアメリカに宣戦布告しなければ、ドイツは勝っていたのではないか」とか書かれてましたね……。


 その後、ガザラの戦いの時期には……。

 【ガザラの戦いの攻勢作戦について】誰もが彼【ロンメル】と同じように自信に満ちていたわけではない。彼の参謀長のアルフレート・ガウゼは彼にいった。「閣下は自分の名声のすべてを賭けられることになりますよ」しかし、作戦主任参謀のジークフリート・ヴェストファル中佐は、結局彼らとしては攻撃するほかない、これ以上防御の態勢で待つことは、戦車軍全体を危険に陥れることになる、と主張した。
『狐の足跡』上P234,5

 この【死傷という】運命は、【ガザラの戦いの1942年】6月1日、ついにアルフレート・ガウゼを襲った。ゴット・エル・ウァレブの戦い(この戦いでイギリス軍の第150歩兵旅団グループは壊滅した)で、イギリス軍の対戦車砲弾がガウゼに当たりそうになった。爆風で後方に飛ばされたガウゼ将軍は、戦車の側面に当たって落ち、榴散弾の傷に加えて脳震盪を起こした。彼は数週間に及び活動不能となり、一時的にフリッツ・バイエルラインが彼の職務を代行した。

 南方総軍司令官のアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥が、地中海に面したデルナの病院にガウゼを訪ねた。「なあガウゼよ……このままではいけないぞ」とケッセルリングは断言した。「ロンメルは前線を歩き回ってはならないのだ。彼はもはや師団や軍団の司令官ではない。軍司令官として、彼に連絡することが可能でなければならない。君が彼にそれを理解させなければ」。

 ケッセルリンクは、ガウゼだけでなく、同じく負傷してガウゼの隣のベッドにいたヴェストファル大佐からも賛同を得られると考えていたかもしれない。ところがガウゼは答えた。「元帥閣下。上級大将(ロンメル)を抑えることはできません……。彼が、このアフリカで後方から指揮を執ることができるでしょうか? この地での戦争では、すべてが前線で決定されなければならないのです。」 ヴェストファルも参謀長の意見に賛同した。

 「いつか悲惨な結果になるかもしれないぞ。みんな。」と言って、ケッセルリンクは話を終わらせた。

『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P97,98



 ガウゼはドイツに戻って療養に入り、その間にほんの少しだけロンメルからの個人的な手紙を受け取ったそうです。8月にはガウゼは北アフリカに戻ることができました(その頃、戦線はエル・アラメインで膠着していました)が、常に頭痛に悩まされ、傷も完全には治っていなかったため、9月には再び治療のためにドイツに戻らなければなりませんでした。

 11月にはトーチ作戦が開始され、エル・アラメインからも撤退が始まりました。12月7日、ガウゼはローマで、リビア戦線とチュニジア戦線を扱う特別な参謀職の長に任命されます。彼の仕事は、ロンメルと、チュニジアで新たに活動を開始した第5装甲軍の司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニムに、必要な兵力と物資をすべて提供することでしたが、これは最初から不可能な任務であり、その困難さはいや増すばかりでした。

 一方、チュニジアにはアフリカ軍集団が創設されることになり、ガウゼは1943年3月1日にその参謀長となりました。その司令官となっていたロンメルは3月9日にヨーロッパに呼び戻されましたが、ガウゼはそのまま参謀長職に留まり、期待された通りの働きをします。ロンメルの後任としてアフリカ軍集団司令官となっていたフォン・アルニムはガウゼの働きぶりに尊敬と感謝の念を抱き、この才能ある参謀長が敵の手に落ちることがないように、5月初旬に口実を作って彼をヨーロッパに送り返しました。ガウゼが出発して間もなく連合軍の総攻撃が始まり、フォン・アルニムは降伏して捕虜となります。

 5月17日、ヒトラーはイタリアが崩壊した場合にイタリアを占領するために、ロンメルを司令官とする「ロンメル特別幕僚部」の設置を命じました。ロンメルはその参謀長にガウゼを選びます。この幕僚部は7月19日に「B軍集団司令部」となりましたが、最終的にロンメルはイタリア方面の司令官になることはなく、今度はロンメルとB軍集団司令部全体が、西部戦線に回されることになったのです。ガウゼはロンメルと共に、連合軍の侵攻に備えて準備をすることになります。


 この間、1943年8月23日に、初めてベルリンが空襲を受けます。

 帝国の首都ベルリンがはじめて大規模な空襲を受けたのは【1943年】8月23日であった。そして翌朝、ガウゼは自分の家その他すべてを失ったことを知った。ガウゼ夫人は東プロイセンから帰って来て、自分たちの家が廃墟となり、黒焦げになってくすぶっているのを見たのである。
『狐の足跡』下 P130,1

 空襲の件を知ったロンメルは、急いでルーシー夫人に連絡し、自宅にある大事なものを安全な場所に移すように命じ、その中には日本大使館から贈られた日本刀も含まれていたそうで、「ロンメルが日本刀に惹かれていた側面があったのかぁ!」と私は個人的に「へぇ~」と思った一方、その後、こんなこともあったそうです。

 あるとき、サン・マロ【ブルターニュ半島の北岸】にあるイギリス人のアルフレッド・モンドという実業家の別荘で昼食をとったことがあった。ガウゼがそこで見つけた壺を、いとおしむようにしてロンメルに見せた。それは有名なセーヴル産の磁器であった。するとロンメルが頬を紅潮させていった。「磁器か! マイゼ【将軍。工兵部長】、どうだ、地雷の容器に陶器を使おうか」
『狐の足跡』下 P161


 いやまあ、それよりも家を失ったガウゼ夫妻です。社交的(というかママ友?のボス格的な存在)であったロンメルの妻、ルーシー夫人がガウゼ夫人を自宅に同居させてあげるようになり、それは美しい話なのですが……。

 ロンメルはこれ【1944年4月15日】より一カ月前に、1941年7月以来、彼の目的の多くを共有してきたアルフレート・ガウゼを手離すという困難な決定を下していた。彼はガウゼを大事にし、信頼していた。しかし彼がその休暇をヘルリンゲンにおいて過ごしたときに、客として他家に長く滞在した人たちがよくやるように、ガウゼ夫妻は何ら自分たちが気づいていなかったことが原因で、ルーシー夫人と仲違いしてしまったのである。ガウゼがあるとき、ヘルマン・アルディンガー【ロンメルの副官】が庭造りの仕事にやってくるのが遅いことをとがめたことがあったし、ルーシーはガウゼ夫人と一緒にいるといらいらするようになっていた。結局、ルーシー夫人がロンメルに参謀長をガウゼ以外の人物と替えるように要求し、ロンメルはやむなくこれに従ったのである。3月17日、彼は夫人に書いている - 「すべて、その下のところで一線を画することにしよう……私はそうするつもりだ。おそらく、G【ガウゼ】はほかの地位につくことになるだろう。こんな時に自分の参謀長を替えなければならないと決定することは、もちろん私にとって辛いことだ」 ロンメルはシュムント【ロンメルの友人で、ヒトラーの首席補佐官】に宛てて親展の手紙を書き、戦車師団長の地位があいたときに、ガウゼを師団長にしてやってほしいと頼まなければならなかった。
『狐の足跡』下 P176


 デイヴィッド・アーヴィングは、その結果としてロンメルの参謀長がヒトラー暗殺計画に関与した(とされる)ハンス・シュパイデルとなり、それゆえにロンメルにヒトラー暗殺の嫌疑がかけられ、つまりはルーシー夫人がロンメルの死をもたらすという皮肉な結果となった……というようなことを匂わせています(『狐の足跡』上P52)。



 ガウゼは師団長に任命されることはなく、1944年6月15日、西方装甲集団の参謀長代理に就任します。西方装甲集団司令部は6月10日に連合軍に空襲されて壊滅しており、パリ近郊で再建されることになったのです。再建が完了するとガウゼらは西部戦線に赴きました。西方装甲集団は8月5日には第5装甲軍と改称されています。

 第5装甲軍の司令官が8月9日にハインリヒ・エーベルバッハからヨーゼフ・“ゼップ”・ディートリヒSS上級大将に交代し、ディートリヒが9月14日に「ラインの守り」作戦のために新しい任地に向かうことになったため、ガウゼはそれに同行しました。ところが、ロンメルに忠誠を誓っていたガウゼが反ヒトラーの陰謀の容疑者とされたものか、11月20日にガウゼは解任されます。

 その後、軍団長となるためのコースを履修した後、1945年4月1日に東部戦線の第2軍団の司令官に任命されましたが、同軍団はクールラントポケットに閉じ込められた状態にありました。1945年5月10日にポケット内の部隊は降伏し、ガウゼもソ連軍の捕虜となります。

 1955年に釈放された後、ガウゼは西ドイツのカールスルーエに引退し、歴史家に何かを語ることもほとんどなく、静かに暮らしました。1967年、ボンで死去しました。

『Anzio』(AH)にならったOCSの都市地形ハウスルール案?

 先日、↓という話を知りました。





 そのルール自体を見たいと思って、クロノノーツゲームさんのサイトで公開されている和訳を見たら、ありました。

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 OCSではほぼ一律で、小都市は中障害、大都市は重障害という非常に攻撃側にとって厳しい地形になってまして、防御側が一般補給を入れるためのSPを抱えて籠もると攻撃側が手も足も出なくて手こずるという問題がありました。

 一応、↓で何とかなるかもという考え方もありましたが……。

試論:OCS基本ルールへの尼崎会オリジナルハウスルール案4つは不要? (2021/01/29)



 史実を考えると、例えばスターリングラードでは非常に厳しい市街戦が長きに渡って続きましたから、「大都市=重障害」というカテゴライズ自体は必要だと思います。

 しかし一方で、第2次世界大戦において戦場に存在していた小都市や大都市の多く(70%とか30%とか)で市街戦が起こったのかというとそうではなく、ごく一部でしか起こらなかったように思われます(ブダペストとかアーヘンとか)。それどころか、都市があっという間に陥落したという例は枚挙にいとまがない(セダンとか、スモレンスクとか、ブリャンスクとか、ルジェフとか、ラングーンとか)。


 そこらへんから考えると、恐らくですが、

1)防御側は、基本的には都市戦(市街戦)をやりたくないのではないか?
(明確な理由を知らないんですが、「ドクトリンにない」とか「住民が犠牲になる」とか「住民のために必要な補給物資も大量で、割に合わない」とか「(今のOCSではルール上不可能ですが)補給集積所が砲撃や爆撃されると弱い」とか「兵士達が撤退せずに市街戦上等となる確率が低い」とか「地形的に入り口がたくさんあり、実は守りにくい」とか……?)

2)しかし、防御側が何らかの理由によって都市戦(市街戦)を選択することも少数ながらあり、その場合は激しい戦いとなる。
(「何らかの理由」というのは、例えばその都市の政治的重要性であるとか、地形的に後方補給路が確保されていて増援や補給を送り込めるとか、充分な戦力がすでに都市内にあってすべての入り口を封鎖できるとか、予め準備して補給物資を集積してあり弾薬も隠してあるとか、食料が少なくなっても代替品がある程度以上あるとか、機動戦的な時期が過ぎていて作戦的な意味でもこれ以上撤退することが許されないとか、敵の進撃能力がある程度以上落ちているからここでこの都市を保持し続けることに意味があると思われる時とか……?)

 ということではないか……?


 もしかして、史実からすると、市街戦は「敵の攻勢限界点あたりで起こっている」のでしょうか……? しかしながら、OCSのプレイ上では、「最序盤に、初期にこそ豊富にあるSPを大量に抱えて、なるべく戦線前方の鉄道結節点大都市に大兵力で籠もる」のが、敵に対するいやがらせとして最も有効である、とも考えられ……?(^_^; (その方が損だ、という見方ももちろん、依然としてあり得ますけども)

 もちろん、この「籠城問題」は、OCSでもゲームによってそれほど気にならなかったり、気になったりします。例えば『Smolensk:Barbarossa Derailed』や『KOREA』は恐らく割と大丈夫で、『The Blitzkrieg Legend』はヤバい。『Guderian's Blitzkrieg II』もちょっと、何とかなった方がありがたい、と思われます。

 大丈夫なゲームはいいんですが、大丈夫でないゲームがとりあえず何とかなってくれるハウスルール案が欲しい……という思いがありました。



 ある程度有力かな、と思っていた案が、↓というものでした。

 そのゲーム(シナリオ)で、史実で市街戦が起こった回数を調べ、その回数に応じた「市街戦マーカー」がプレイヤーに与えられる。プレイヤーが「市街戦マーカー」を消費したならば、元の地形効果が適用される。そうでなければ軽障害地形と見なす(オープンでも良いか?)。


 調べなきゃならないという問題はありますが……(^_^;


 今回このブログ記事を書いている途中で思いついたんですが、

 各小都市、大都市の地形効果は、移動セグメント毎に1回、1D6して決定する。1~4ではオープンとなる。5~6では元の地形効果。ダイスを振るためには、その都市に敵の攻撃可能ユニットが隣接していることが必要(移動中でも良く、オーバーランも可能)である。すべての条件を満たす都市について毎回ダイスを振る必要はなく、攻撃側が要求した時にダイスを振る。また、この時オープンとなった地形は、砲爆撃においてもオープンとして適用する。

というのはどうでしょうかね?

 個人的にはこれはこれで面白そうなんですが、これ「だけ」だとスターリングラードやブダペストがやばいことになるので、そこらへんは何らかの方法で調整しなければなりませんが。


 後者のハウスルール案ですが、シモニッチのゲームの中には、「一度占領したヘクスの地形効果を使用できるようになるためには1ターン(数ターン?)のタイムラグが生じる」というなルールがあるものがあるそうで?、史実で実際に結構あったと思われる「取ったり取られたり」が再現できていいなぁ、と思ってました。割とそのルールに似てるかもで、そういう意味でもどうだろうか、という気がします。



ロンメルの名声を回復させたもののロンメルを嫌い、SS大将にまでなったフォン・ヘルフについて(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ブレヴィティ作戦の時の戦いで大活躍してロンメルの窮地を救うことになったものの、ロンメルの下で戦うことを嫌い、帰国してSSに入り、SS大将にまで昇進したマクシミリアン・フォン・ヘルフについてです。


Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising - 26549

 ↑1943年5月(?)、2人のユダヤ人レジスタンスを尋問するマクシミリアン・フォン・ヘルフ(日本語版Wikipedia「マキシミリアン・フォン・ヘルフ」から)



 フォン・ヘルフの先祖は1814年に貴族に列せられたそうです。マクシミリアン・フォン・ヘルフは第1次世界大戦で二級と一級の鉄十字章を受勲。戦後も軍に残ります。

 戦間期には騎兵連隊や歩兵連隊に、ポーランド戦やフランス戦では第17軍団に所属していたようです。その後北アフリカで、第15装甲師団隷下の第115狙撃兵連隊長を務めることになりました。


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団。

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 マクシミリアン・フォン・ヘルフは北アフリカからベルリン宛に手紙を出していたとのことで、それをネタにして『狐の足跡』にある程度取り上げられています。その人物像については「気性が激しく、こっけいなほど気障(きざ)ではあるが勇敢であった」と書かれています(上P148)。

 第115連隊はまずはロンメルの指示による性急なトブルク攻撃に参加し、大損害を出しました。フォン・ヘルフの手紙にはこう書かれています。

「西方【フランス戦?】において、われわれはすでに1000名以上の将兵を失った。それから、輸送船が撃沈されたため、250名以上の将兵と、私の連隊の連隊砲中隊を失った。また、トブルクだけで、私はすでに450名近い損害をこうむった。第1回のトブルク攻撃のあり方は誰にも理解できない。要塞にこもった敵の兵力と、守備部隊については十分に判っているが、新たに大隊が到着するごとに、そのまま攻撃に使用された。そして当然のことながら、敵の陣地を突破することができなかった。その結果、トブルク戦線にいる部隊で大きな打撃をこうむらない部隊はひとつもなくなった。……われわれ下級将校には何のことだかさっぱり判らないもっと無理な命令が、アフリカ軍団から沢山出された
『狐の足跡』上P149,150



 トブルク戦については↓も参照していただければ。

「冷酷なミン」 レスリー・モースヘッド将軍がトブルクを守備し、ロンメルを撃退し続ける(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/23)



 その後、トブルクは包囲にとどめてエジプト国境あたりで戦線が静止していく中、4月22日前後に、ヘルフはロンメルからある命令を受けます。

 これ【5月22日】より1カ月前ロンメルはヘルフに、敵線のはるか後方に襲撃隊を派遣して、積極的かつ流動的な防御法をとるように命じていた。この大佐は大いに企図心を発揮した。彼は【国境地帯の?】陣地についてから訪れた最初の砂嵐を利用してイギリス軍に攻撃を加え、敵のトラックを奪った。彼は部隊に陣地を構築させ、約6000名の将兵よりなるドイツ軍とイタリア軍の混成部隊に訓練を施した。彼はイタリア軍を大いに称賛していた。数週間後に彼は次のように記録している。「辛抱強く、懸命に努力することによって、彼らを有用で勇敢な将兵に仕立て上げることに成功した。彼らは最後まで敵を阻止し、死を恐れることなく戦った」
『狐の足跡』上P153



 フォン・ヘルフが率いる第115狙撃兵連隊は、1941年4月末にハルファヤ峠を占領し、守備の任務についていました。その半月後の5月15日、英連邦軍はブレヴィティ作戦を開始し、ハルファヤ峠を含むリビア・エジプト国境地帯の陣地帯への攻撃を始めました。


 ブレヴィティ作戦については↓こちら。

OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオ研究 (2018/01/09)



 フォン・ヘルフは一旦退却したものの……。(以下、『狐の足跡』の記述は時系列が入り組んでしまっているので、時系列順に並べ直します)

 しかし、ヘルフは土地を放棄することになったが、敵の当初の攻撃を受けつつ後退し、次いで夜に入るとともに側方に身をかわして、翌朝、敵の側面に対して不意に攻撃を加える、というまことに適切な決心をしたのであった。ヘルフの話はつづく。「〔5月15日の〕午後になる頃には事態を収拾することができた。私はその晩、ドイツ軍の全部とともに後退し、16日早朝、戦車8輌とともに敵の側面に向かって逆襲した。夕刻までにハルファヤ峠を除いて、これまでに失った地域を全部奪回した」
 このサルームにおける最初の戦いはロンメルにとって危うい戦いであった。そして戦勢が一進一退しつつあった間、彼は2ないし3時間おきにベルリンに向けて報告電報を送り、巧みな表現でベルリンをなだめ、これに懇願し、安心させ、あるいは警告し、あるいは訴え、ヘルフが第8戦車連隊の1個大隊の支援のもとに事態を収拾すると、勝ち誇った報告を打電した。【これまでに】ロンメルがトブルクの攻撃にあたり、非常に多くの損害を出したことをめぐって抗議の手紙がベルリンに寄せられ、彼の指揮官としての能力はすでに疑惑の雲に包まれていたため、彼自身がこの戦闘の間あまりにも神経質であったことは、突然、彼がアフリカにおける任を解かれて本国へ召還されるということになりかねない事態を招いた。【……】
 幸いなことに、ロンメルがサルームに配置していた部隊の指揮官【フォン・ヘルフ】が逆襲を開始し、それがイギリス軍に大きな苦痛を与えたことが立証されたため、彼は威信を失墜せずに済んだ。
『狐の足跡』上P153,4

 5月22日にロンメルがこの戦線を視察したとき、フォン・ヘルフ大佐はイギリス軍に大きな打撃を与えて、これを撃退したばかりであった(「ロンメルが私たちのところを訪れたとき、彼は私たちを支援することができる手段を何ひとつ持っていなかったので、はらはらしながら身を堅くしていた、と私に語った」とヘルフは書いている)。
『狐の足跡』上P153

 イギリス軍は【ブレヴィティ作戦で枢軸軍から奪還した】ハルファヤ峠の守備隊として第22近衛旅団を配置していた。5月26日、大分遅くなってからヘルフは、再び第8戦車連隊の支援のもとに、翌朝この守備隊に対し奇襲攻撃を加える決心をした。「われわれは5月27日の午前4時30分〔黎明とともに〕攻撃を開始した」とヘルフはいった。「そして6時15分には峠はわが軍の手に落ちた。イギリス軍は海岸沿いの平地をシディ・バラーニに向かって退却した。わが軍は沢山の戦利品を得たが、そのおもなものをあげると、砲〔9門〕、戦車〔マチルダ型7輌、うち3輌は使用可能な状態にあった〕および、われわれが非常に必要としていたトラック等であった」
 これは急速に、しかも大幅にロンメルに対する評価を高めることになった。彼は【ロンメルを非難する】ブラウヒッチュからの電報に対し気負った喧嘩腰の返電を寄せた。【……】
 ドイツ本国ではロンメルの名声が高まりつつあった。
『狐の足跡』上P154,5


 これを読んでいると、ブレヴィティ作戦に対して枢軸軍が勝利を収めたのはフォン・ヘルフの功績であり、ロンメルは基本的に何もしていない(何もできることがなかった)のに、それまでの無謀なトブルク攻撃と大損害によって窮地に陥ってたロンメルの名声がそのお陰で急上昇した……というように見えます。

 ただし、『狐の足跡』を書いたデイヴィッド・アーヴィングは、この本でそれまでの称賛されまくるロンメル像を否定して話題になったのですが、その後歴史をねつ造するような人間であることが明らかになり、大木毅氏などはアーヴィングの著作は資料としてまったく使用すべきでないと考える、と書かれております。

 その見方からすると、ここまで引用した部分はまさに「ロンメルを貶める」内容であり、本当はロンメルはブレヴィティ作戦において自分の指揮で勝利を収めたのかもしれないのですが、私はロンメルがブレヴィティ作戦において自分で指揮したというような記述をどこにも見た記憶はない感じであります……。ロンメル神話関係の本3冊も今回、ちょっと見返してみましたが、そもそもブレヴィティ作戦に関する記述がほぼなかったり(→ロンメル神話に関する洋書3冊(の一部)を読んでの感想 (2021/09/21))。

 ただし、例えば大木毅氏の『「砂漠の狐」ロンメル』でも、5月26日のハルファヤ峠奪回に関してはロンメルが指示したかのように書かれています。アーヴィングがあくまでそれをフォン・ヘルフの決心であったかのように書くのとは異なる、と言えるかもしれません。



 Wikipedia等では、フォン・ヘルフは北アフリカで「フォン・ヘルフ戦闘団」を指揮し、1941年6月に騎士鉄十字章を受勲したという風に書かれています。

 また彼は、第15装甲師団長フォン・エーゼベックが負傷した後、13日間同師団の師団長代理を務めました(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』P170によれば、1941/7/14~7/25の12日間?)。


 フォン・ヘルフはしかし、北アフリカの気候と、ロンメルの指揮の両面について不満を抱いていたらしく、恐らくロンメルに解任されたわけではないのでしょうが、北アフリカを去ることになりました。

 まず気候についてのフォン・ヘルフの手紙から。

「こちらでは胃の調子がよくない者が多い。【夜が?】冷えるからだろう。それは月に一度くらい起きて、その間しばらくは非常に身体が衰弱する。最近、そのような症状が3日つづいたのち、とても気分が悪くて私は一日に3回も意識不明になった……しかし、軍医の診断を受けることなく、それを克服した。いずれにせよ、アフリカで戦っていたわれわれ軍人は、将校も下士官・兵も一様に、アフリカから去ることが嬉しかった。私たちはもう二度とアフリカなどには来たくない、といっていた
『狐の足跡』上P148



 そして、帰国してからの参謀本部からの聞き取りで……。

 フォン・ヘルフ大佐はロンメルの「誤った指揮」と「奇怪な決心」を批判するとともに、戦闘に際してその任務を達成し得なかった将校を、だれ彼なしに軍法会議に付するというロンメルの癖をうけいれ難いとし、「昔はドイツ陸軍ではこんなことはなかった。われわれは皆、それを恐れている」といっている。
『狐の足跡』上P166



 1941年11月、フォン・ヘルフは知り合いから、ハインリヒ・ヒムラーに紹介されます。どうやらヒムラーの提案にフォン・ヘルフが乗る形で、フォン・ヘルフはSSに入り、SS大佐となりました。

 その後フォン・ヘルフは1942年5月から敗戦までの間、親衛隊人事本部の本部長を務めました。親衛隊の12の本部の本部長達の中で、唯一の騎士鉄十字章の叙勲者であったそうです。この期間に、以前は単なるナショナリスト(愛国者)であると公言していたフォン・ヘルフは、狂信的なナチス信者となります。

 日記の中でフォン・ヘルフは、「最終的解決【ユダヤ人に対して組織的にホロコーストを行うナチス・ドイツの計画】」について知ってはいたが、自分はユダヤ人絶滅や強制送還の管理や実際の関与はまったくしていないと書いているそうです。しかし、英語版Wikipedia「Maximilian von Herff」によれば、1943年5月14~15日にかけてのワルシャワ・ゲットー蜂起の時にフォン・ヘルフはワルシャワにおり、ヒムラーの命令でその鎮圧を監督していたといいます。このブログ記事で最初に挙げたフォン・ヘルフの写真は、その時の写真である、と。

 1944年4月にフォン・ヘルフはSS大将へと昇進します。

 1945年5月にフォン・ヘルフは逃亡したもののイギリス軍の捕虜となり、イングランド北部の捕虜収容所に入れられ、1945年9月にその近くの軍病院で、脳卒中で亡くなりました。『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』には、「スコットランドの捕虜収容所で死亡していなければ、戦争犯罪人として有罪判決を受けていただろう」と書かれています。


 従兄弟のエーベルハルト・ヘルフは秩序警察としてミンスク・ゲットーでのユダヤ人の大量殺戮を指揮し、戦後ミンスクでの裁判で有罪となり、絞首刑に処されたそうです。


OCS『Arakan』(仮)の第2次アラカンキャンペーンシナリオ用に良天候道路を追加しました

 OCS『Arakan』(仮)ですが、第1次アラカンキャンペーンシナリオはそれはそれでテストプレイしていくとして、第2次アラカンキャンペーンシナリオの作成にも着手してみることにしました。


 というのは、第1次アラカンキャンペーンシナリオは、↓のような難しさがあるためです。

1)1942年12月15日ターンから1943年5月12日ターンまでという、44ターンにも及ぶ長期キャンペーンで、テストプレイが大変
2)通常の「旅団・大隊」規模では再現できないため、「大隊・中隊」規模にしており、そのためにシリーズルールをいじらなければならない面も強いと思われる。


 一方で、第2次アラカンキャンペーンシナリオは……。

1)1944年1月19日ターンから、あるいは2月1日ターンから、2月26日ターンまでの、12ターン、あるいは8ターンのシナリオになると思われる。
2)通常の「旅団・大隊」規模で再現がギリギリ可能と思われ、シリーズルールをいじらなければならない面が小さいと思われる。

 と、テストプレイや作成がより楽だと思われました。


 「じゃあ何で第2次から作らなかったのか」ですが、文献を読んでいって、地形等の事情を読み解いていく必要があり、そのためには第1次アラカンキャンペーンから読んでいかねばならないので、着手自体は第1次からやっていかないと却って面倒なことになると思われたからでした。

 しかし一応、そこらへんの地形等の事情はある程度以上これまで読み解けてきたと思うので、第2次アラカンキャンペーンシナリオも着手して同時並行でやってみようと。



 そこでとりあえず陸戦史集『アラカン作戦』の第2次アラカンキャンペーンの戦闘開始前の事情のところを読んでみたところ、第1次と第2次の間の期間に、3つの小道が良天候道路へと改修されていたことが分かりました。




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 一番上の赤い楕円形のところの良天候道路(二級道路)は……。

 第15軍団長、クリスチソン中将は、第1次アキャブ作戦の【日本軍に側面から回り込まれた】苦い教訓から、本作戦では外線の利を収めるため、当初から西アフリカ第81師団をカラダン河谷に派遣した。この師団は空中補給を受けて作戦する最初の正規師団であり、カラダン河谷に進出するため、チリンガからダレトメに至る120キロ間に、「アフリカの道」と呼ばれたジープ道を一ヶ月で作り上げた。
 空中補給を受けつつ1個師団が大規模な迂回行動に出るといった戦法は、日本軍の考え及ばなかったところであり、後日日本軍はこの師団のミョーホン北方進出に驚き、対策に苦慮した。
『アラカン作戦』P163




 真ん中あたりの小さい赤い楕円形のところの良天候道路は……。

 第15軍団長は、BM道【ブチドン~モンドウ道路。白い線の全天候道路】を日本軍が押えており、第7【インド】師団の攻撃のためにはマユ山系を東西に横断する一本の自動車道を必要とした。そこで第7師団に1943年(昭和18年)のクリスマスまでに道路の完成を命じた。
 第7師団工兵隊は2~3両のブルドーザと爆薬を使用して、BM道北方8キロのゼガンビン北方地域から、ナケドークに通ずる山道を改修し、12月25日までに乾期自動車道(ナケドークパス)を完成した。

 注 連日、異常なダイナマイトの爆発音は、日本軍陣地にも聞こえ、偵察に行った日本軍斥候は、このとき初めてブルドーザを見て驚いている。(辻本隊長回想)
『アラカン作戦』P163,4

(「乾期自動車道」という表現、分かりやすくていいですね。OCS『Burma II』の「Fair Weather Road」の訳語に悩んでいて、やむを得ず「良天候道路」というのを使っていましたが、今後「乾期自動車道」に修正していきましょうかね……)



 それから、日本軍側は一番下の赤い楕円形の辺りを最終区間(ミョーホン~アキャブ)として……

 アキャブ方面への舟艇による補給品の前送は、チタゴン方面から出撃する英空軍の執拗な攻撃で、大きく阻害された。舟艇の建造、整備修理等方面軍以下の努力で相当に改善されたがなお十分ではなかった。そこで【ビルマ】方面軍は、陸路兵站線の啓開を図り、ビルマ政府とも協議して、タウンガップ~ラム~タマンド~ミョーホン~アキャブ間の陸路(従来駄馬道程度)を自動車道に拡張することにし、非常な苦難の末昭和19年2月ようやく慨成するに至った。
『アラカン作戦』P147

とあるんですが、経路が不明なため、とりあえずまだ描き込んでありません。


 マップは第2次アラカンの時のものを基本とし、第1次の時のものは専用マップで提供する、ということになるんじゃないかと思います。


第15装甲師団長で、後にヒトラー暗殺計画に関与したとされるフォン・エーゼベック将軍について(付:OCS『tBL』『DAK-II』『GB II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、すぐに戦死したフォン・プリトヴィッツ将軍の後任として第15装甲師団長となり、後にヒトラー暗殺計画に関与したとされる、フォン・エーゼベック将軍についてです。



Hans-Karl Freiherr von Esebeck

 ↑男爵ハンス=カール・フォン・エーゼベック将軍(Wikipediaから)



 プロイセンの古くからの軍人の家系に生まれたフォン・エーゼベックは複数の士官学校で学び、1911年に精鋭部隊に士官候補生として入隊しました。

 第1次世界大戦では主に東部戦線で戦い、戦後も軍に残ることができました。1934年にはドレスデンの歩兵学校のスタッフになり、この時の教官仲間の一人がロンメルでした。

 フォン・エーゼベックはこの頃には政治に関心はなく、国のために尽くすことのみを考える、単純で慎み深い軍人でした。第2次世界大戦直前まで彼はずっと基本的に騎兵畑の軍人であり、1936年には第1騎兵連隊長となっていましたが、騎兵は時代遅れになるだろうと考えて騎兵部門を離れ、1939年4月1日、第1軽師団の第6狙撃兵旅団長となります。

 第6狙撃兵旅団長としてポーランド戦を戦いましたが、この時期、後にヒトラー暗殺事件を起こすことになる伯爵フォン・シュタウフェンベルクと出会い、個人的な親友となります。

 ポーランド戦の直後、第1軽師団は第6装甲師団へと再編されました。この第6装甲師団の初代の師団長が後にヒトラー暗殺失敗により逮捕・処刑されたエーリヒ・ヘープナー、補給参謀長がフォン・シュタウフェンベルクであり、第1軽師団時代にも彼らがそれらの役職を担っていてフォン・エーゼベックと関係を持ったのかもしれません。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第6装甲師団。

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 フォン・エーゼベックが指揮していた第6狙撃兵旅団は、第4狙撃兵(自動車化歩兵)連隊と第6オートバイ大隊から成っていました(『ドイツ装甲師団全史Ⅰ』P172によると、この第4狙撃兵連隊は元々、第4騎兵狙撃兵連隊という「一風変わった名称」だったそうです)。


 第6装甲師団はフランス戦で重要な役割を果たし、フォン・エーゼベックは1940年7月4日に騎士十字章を受勲します。

 フランス戦終了後、第6装甲師団は東プロイセンに送られてソ連侵攻に備えていましたが、1941年2月下旬にフォン・エーゼベックは第6狙撃兵旅団長の役職を降り、3月13日に第15装甲師団隷下の第15狙撃兵旅団長に任命されました。

 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団。

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 この内の、第104狙撃兵連隊、第115狙撃兵連隊、第15オートバイ大隊が第15狙撃兵旅団に所属していました。


 この、第6狙撃兵旅団長から第15狙撃兵旅団長への人事異動について、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』は、「間違いなくエルウィン・ロンメル中将が、彼の個人的な友人であったルドルフ・シュムント大佐(ヒトラーの首席補佐官)の協力を得て手配したものである。」と書いています(P33。証拠は挙げられていませんが、何らかの証拠があるのかもしれません)。

 フォン・エーゼベックの旅団は北アフリカへと移動するため、イタリアやシチリア島におり、ベンガジに向かう途中でした。ところが、フォン・エーゼベックが前線に到着する前に、第15装甲師団長であったフォン・プリトヴィッツがトブルク近郊で戦死したという知らせが届きます。ロンメルはフォン・エーゼベックを第15装甲師団長に任命しました。

 ロンメルは、トブルクの英連邦軍部隊が防御体勢を整える前にトブルクを攻略したいと考えていたため、フォン・エーゼベックらは到着するや否や攻撃を開始しました。しかし第15装甲師団は、何度も攻撃を行うもトブルクを攻略することができませんでした。指揮を執り始めてちょうど1ヶ月後の5月13日、フォン・エーゼベックはトブルク周辺で砲弾の破片を受けて重傷を負います。

 容態が安定した後、彼はヨーロッパに送り返され、2ヶ月以上の入院生活を送り、さらに1ヶ月の傷病休暇を得ました。現役復帰は1941年8月になってからでした(と、『Rommel's Desert Commanders』にありますが、『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』の第15装甲師団の項にはフォン・エーゼベックが重傷を負ったのは「夏」である、と書いてあり、また『装甲師団全史Ⅱ』P170によればフォン・エーゼベックは7月14日まで第15装甲師団長であったことになっています)。

 ただし、フォン・エーゼベックは北アフリカではなく東部戦線に送られました。この件について『Rommel's Desert Commanders』では「エーゼベックもロンメルも、彼が北アフリカに戻ることを望んでいたが、そうはならなかった。ロンメルの憎き敵、参謀総長のフランツ・ハルダー大佐がそれを許さなかったのだ。エーゼベックは代わりに東部戦線に送られた。」(P33)と書かれていますが、これは著者サミュエル・ミッチャム氏の思い込みである可能性も……?


 1941年8月24日、フォン・エーゼベックは第11装甲師団長に任命され、ジトーミル、ウーマニ、キエフ、モスクワなどの戦いで指揮を執ります。しかし1941年12月28日に負傷か病気になりました。(ただし、『装甲師団全史Ⅱ』P160によれば10月20日まで第11装甲師団長)

 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第11装甲師団。

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 その後、1942年2月17日から第2装甲師団長となり、ルジェフ突出部で戦います(5月31日まで第2装甲師団長)。

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 フォン・エーゼベックの能力について、『The Panzer Legions』は第2装甲師団の項で「優秀な装甲部隊指揮官であった」と書いていますが、この後の経歴は段々と前線部隊から離れていく感があります。


 1942年11月22日、中央軍集団の第46装甲軍団の司令官に任命され、1943年6月30日まで務めます。その後、第4、第8、第12の3個装甲師団と第10装甲擲弾兵師団を擁するフォン・エーゼベック集団の司令官を務め、クルスク戦にも参加します。

 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第46装甲軍団司令部ユニット。

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 その後西部戦線へ回され、1943年11月30日から1944年初頭までは、南フランスのトゥールーズ地域で占領任務についていた第58予備装甲軍団の司令官代理を務めました。1944年2月にはその司令官に、4月1日には総統予備となりましたが、ノルマンディー上陸作戦の翌日(『ドイツ軍名将列伝』によれば7月6日)、ウィーンの第17補充軍団長代理に任命されました。


 フォン・エーゼベックは反ヒトラーの陰謀を知り、それに同調していました。1944年7月20日のヒトラー暗殺事件に関与し、逮捕されます。彼は戦争の残りの期間を獄中で過ごしました。他の多くの人達のように死刑にならなかった理由は分からないとのことです。

 フォン・エーゼベックは戦争末期に解放されたものの、戦争の混乱の中で貧困に陥り、残りの人生を貧困の中で暮らしました。


 『ロンメル将軍』を書いたイギリス軍の将軍であったデズモンド・ヤングは、戦後、フォン・エーゼベックに会って話を聞くことができました。



 フォン・エーゼベック将軍はものしずかな老人で、最上階の居間兼寝室でひとり暮らしをしており、周囲の壁には17、8世紀の先祖の絵がかけてあった。彼は淋しそうなひとで、ゆくりなくも軍人のチップス先生(ジェームズ・ヒルトン作の小説の主人公、老教師)という思いがした。1941年トブルク付近で、砲弾の破片を受けて顔面に負傷し、恢復後ロシア戦線に派遣されたが、1944年7月20日の暗殺事件に加担した嫌疑で逮捕されて、強制収容所に入れられた。 生きているのは運がよいのか? おそらく、虚弱で早老の一将軍が年金もなく、また軍隊以外にやれる仕事も興味もなく、現在のドイツで生きていられるのは、幸運というべきであろう。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P112,3



 フォン・エーゼベックは1955年、ドルトムントで亡くなりました。



ミドルアース大阪でOCS『Smolensk』『Sicily II』インスト&今後しばらくはミドルでOCS『Smolensk』

 ミドルアース大阪で、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』と、OCS『Sicily II』でのインストしてました。



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 まずはしばたさんが購入された『Smolensk:Barbarossa Derailed』の練習シナリオで。関東でYSGAに良く参加されておられるBluebearさんも来られていて、OCSには興味があり、『Sicily II』『Burma II』などは少しやってみたことがあるもののまだ習得できていないということで、一緒に。

 しばたさんはルールは一読されたものの、どういう風にそれらが結びつき、また運用されるのかイメージができないということで、色々実例と共に説明、プレイしていきまして、結構頭に入ってきたとのことで、良かったです。

 今回の練習プレイでは、SPの節約はとりあえず脇へ置いておき、分かりやすさを優先するSP消費でプレイしていってみたところ、8ユニットほどかが「Low」になりつつ(あとは専用トラックに1SPが残っていただけ)も、ヴィテブスクの2ヘクスを占領することができ、「大勝利」となりました。



 まだ時間があったので、OCSのインストに最も向いていると私が推奨する、OCS『Sicily II』のシナリオ1「シチリア島西部」で、しばたさんにアメリカ軍をプレイしてもらいました。Bluebearさんはイタリア軍で。

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 しばたさんもある程度以上OCSのコツが飲み込めてきたと思われるのと、Bluebearさんがイタリア軍沿岸守備隊の降伏チェックで降伏の目を出しまくられたこともあり、どんどんアメリカ軍が進んでいきます。イタリア軍は、戦略移動中であったアメリカ軍のレンジャー部隊をオーバーランし、またアメリカ軍の進路にいくから嫌がらせをしたものの、すべての港湾都市と補給源を占領され、ジ・エンド。

 アメリカ軍側のプレイのコツとしては、イタリア軍部隊が自軍補給戦を切りに来られないように、経路に目配りして、ユニットをバラして置くということが一つあるかと思われました。



 BluebearさんもOCS熱が高まったということで良かったです。BluebearさんらはYSGAで、この「シチリア島西部」シナリオなどをプレイしてみることなくいきなりキャンペーンをプレイされたということで、「いやまずは小さいシナリオをいくらかやった後でキャンペーンをした方がいいのでは……」と思ったのですが、聞いてみると、他にも色々なゲームをプレイしている中で、例えば『Sicily II』をやるとなったら、じゃあせっかくの機会だからキャンペーンをやろうとなる、というようなことで、それは確かにその気持ちは分かるなぁと思いました(^_^;


 今後ですが、しばたさんとはMMP/The GamersのOCS、SCS、BCSを練習していってみましょうということになっているわけですが、しばらくは同じシステムを取り組むのでないと頭がこんがらがってしまうので、とりあえずしばらくはOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』を取り組もうということで。次回のミドルアース大阪は6月26日(日)で、キャンペーンシナリオの冒頭をやってみようということになりました(最後のシナリオとどっちがいいか悩んだのですが、最後のシナリオは全体に目配りせねばならない面もあり、キャンペーン冒頭は割とやることが定型化される面もあるので、キャンペーンからもいいかな、と)。

 ただ、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』は実は初心者には向かないとは思ってます。OCSで私が最も初心者向けだと思うのは圧倒的にOCS『KOREA』なんですが、サンセットゲームズにはまだ3個だけ、在庫があるそうです。OCS『Tunisia II』も悪くないと思うのですが、在庫なし……。

 あるいは、これもまだ在庫のあるOCS『Beyond the Rhine』は、キャンペーン冒頭から十数ターン程度は戦線がスカスカの状態なので、非常にプレイがしやすく、オススメだと思います(北側のフルマップ2枚だけとか、南側のフルマップ2枚だけとかでプレイできます)。



 あと今回は、初めて来られた見学者の方が2名おられて、喜ばしかったです。うち1名の方は非常に若い方で、色々興味深い話が聞けました(^^)




『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました

 以前、↓というブログ記事を書いてました。

第2次アキャブ戦で第55師団長であった花谷正中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました (2022/05/08)


 このブログ記事のコメントに、↓というのも頂いてまして、大変参考になりました。

 花谷中将は確かに非常に傲慢でパワハラ気質の軍人でありましたが、逆にそれが多くの兵隊に受けて尊敬されていたという話もあるそうです。ルイス・アレン氏の「イラワジ河脱出作戦」ては花谷中将の理不尽なパワハラに触れつつも「兵たちは日本の厳正な伝統を守るサムライとして、このタフな老人花谷を尊敬していたからである。」と述べていました。実際、花谷中将が離れたことで士気が低下した部隊もいたそうです。
 また能力に関してですが、第2次アキャブ作戦は失敗に終わりましたが、その後の防衛戦では戦力が低下した第55師団で4個師団からなるイギリス第15軍団の攻勢を跳ね除け、プチドン-モンドウ線で防衛に成功するなどかなりの活躍を示しているので指揮能力は高かったと思います。ビルマ方面軍参謀を務めていた前田博少佐は丸の「回想の将軍・提督」にて、第28軍参謀長を務めていた岩畔少将は「昭和陸軍 謀略秘史」にてビルマ戦線における花谷中将の指揮やその結果について非常に高く評価していました。ただ岩畔少将は「こんな乱暴な人は日本軍にもあんまりおらんのじゃないですか。」とも述べていました。
 パワハラ気質ではありましたが、タイ方面へ撤退する際に、置き去りになる将兵が出ないよう極力努力するなど全く兵隊に気を遣わない人ではなかったようです。ちなみにそれについての出典は高市章三氏の「ビルマ戦線の軌跡」です。





 その後、『戦死 インパール牽制作戦』を読んだのですが、花谷正 - ピクシブ百科事典に書かれていたパワハラ事案は、ほぼ全部この本から引かれてきたものではないかと思いました。が、本の方には百科事典に引かれてきたものの倍ほどは、パワハラ事案が書かれていたような感じを受けました……(T_T)




 もしOCS『Arakan』(仮)を完成させることができ、そのヒストリカルノートを書くことになれば、花谷正将軍のパワハラの件を「これでもかこれでもか」と盛り込んで、全世界に知らしめたいとも思いましたが、そんな分量を書くわけにはいかないって……(>_<)



 一方で、花谷正将軍が評価されていた側面についても、この本には何カ所も書いてあり、そこのところをまとめておきたいと思いました。
(著者の高木 俊朗氏は、Wikipediaでは色々書かれていますし、以前氏の『インパール』を読んだ後にインパール関係の洋書を少しばかり読んだ時には、バランスとしてどうなのかと思ったこともありましたが、『戦死 インパール牽制作戦』に関しては、個人的にはバランスは取ろうとされているのではないかと思いました)

 花谷正師団長の【第55師団への】着任の訓示も、人々をおどろかした。
「いかなる場合でも、最後まで抵抗をつづけよ。最後の一兵となり、弾丸をうちつくし、軍刀が折れた時、敵十名きたるとも、肉弾となって突入せよ。最後に天皇陛下万歳を高唱し、いさぎよく散華せよ」
 兵たちは“勇ましい師団長がきた”とうわさをし、“これはえらい目にあうぞ”と警戒をした。しかし、これは花谷師団長ひとりの信条ではなく、日本軍の戦闘精神の基本とするものであった。花谷師団長は、この強烈な実行者であった。陸軍部内で花谷中将が高く評価されていたのは、一つにはこのためであった。もう一つは、満州事変の計画者、推進者としてであった。
『戦死 インパール牽制作戦』P233

 花谷師団長は一部ではきらわれていたが、戦に勝つため、天皇陛下のおんためということになると、その強烈な指揮統率ぶりは最高の点数を与えられていた。『ハ』号作戦【第2次アキャブ戦】の時には、その痛烈な例が、連日のように見られた。
『戦死 インパール牽制作戦』P238

 この記述を読んで私は、この後に「戦に勝つための、最高の点数を与えられていた指揮統率ぶりの、プラスの側面の事例」が書かれているのかな? とも思ったのですが、書かれていたのは、「本当にやむを得ない理由で何とか退却してきたら、花谷中将に腹を切れと散々殴られるので、悔しさで、その後前線に出て再び帰って来なかった」というような事例でした……。で、

 こうした花谷師団長の指揮統率を、ビルマ方面軍司令部では信頼し、支持していた。それは、花谷師団長だからこそ、アキャブ方面の激烈な戦場を持ちこたえることができたというのだ。このことは一部の戦史にも受けつがれて書かれている。
『戦死 インパール牽制作戦』P241


 ここの高木氏の書き方は、皮肉だろうと感じます。「一部の戦史にも受けつがれている」という話は、この本の後の方にも出てくるのですけども、日本軍の公式戦史本では、そのようにしか書けないよね、まあ分かるけどね……というような諦め的な記述になってました。

 この本には書かれていない話なんですけども、ここでいう「ビルマ方面軍司令部」というのは実質上、その作戦課長であった片倉衷(ただし)なのではないかと。片倉衷は満州で、花谷正と共にパワハラで好きなように操った人物であり、自身もかなりのパワハラ気質で、ビルマ方面軍司令部でもものすごい発言権を持っていたようです。第55師団長に花谷を持ってきたのも片倉衷であり、その理由が、花谷のような人物でなければ今後見込まれるアキャブ方面での激戦を勝ち抜けないから、というものであり、そのために第1次アキャブ戦を勝利に導いた古閑武将軍は解任されたのでした(古閑将軍は部下に対する温情も深く、作戦指導も的確な人物であったと思われるのに)。

 また、ビルマ方面軍の司令官はあの河辺正三(かわべ まさかず)であり、牟田口廉也と関係の深い人物であったわけですから、その傾向は似たような感じがあったのでは。



 しかし、この時、【第55師団の高級部員(参謀?)の】山田少佐が隷下部隊の状況を“戦えるような軍隊でない”と見ていたのは正しかった。花谷師団長が自分の指揮統率に慢心しないで、山田少佐の言葉をうけいれたならば、『ハ』号作戦の悲劇は形を変えることができた。
 同じことは、ビルマ方面軍についてもいえる。方面軍の幕僚間では花谷師団長のことを『やせ馬にむちうつアラカンの虎』と批評した。花谷師団長の強引な指揮ぶりをさしていったのである。幕僚たちは冷静に、第55師団がやせ馬であり、むちうたれても動けない実状を見るべきであった。それをただ、アラカンの虎の猛威だけに期待をかけた。
『戦死 インパール牽制作戦』P254

 P325には、当時のビルマ方面軍参謀であった不破博中佐が記述した、戦史叢書『インパール作戦』の中の文が挙げられています。

 花谷師団長の激しい統率については、当時いろいろな話が方面軍にも聞こえてきた。余りにも峻厳冷徹で鬼のような師団長だという話であった。部下将兵の苦衷が察せられた。
 しかし、全般戦局が激しい統率を要求しており、インパール作戦が終結するまで、たとえ鬼となっても当方面の戦線を持ちこたえてもらいたいと思ったのは私ばかりではなかった》

『戦死 インパール牽制作戦』P325


 また、花谷師団長に最も殴られ続けた(一発や二発ではなく、数時間に渡って殴られ続けるので顔がボコボコに変形する……)栗田中佐は、若い中尉にこのように語っていたそうです。

「お前の気持ちはわかる。おれも陛下のおんため国のためなら喜んで死ぬが、花谷のためには死なんよ。あの男は一種の気ちがいだ。気ちがいのいうことを、まともに聞いていたんでは、命がいくつあっても足りないよ。おれが、なぐられながらも、エヘラエヘラしているのは、師団長に戦を勝ってもらいたいからだ。あの男は戦上手だ。日本は今、重大な危機に立っている。勝たなければならん時だ。師団長が戦に勝てるようにしてやるのが、おれたちのつとめだ。なぐって気が晴れるなら、なぐられてやる」
『戦死 インパール牽制作戦』P333


 しかし当然ながら、第55師団司令部内は異様な雰囲気になっており、発狂寸前になって後送されるものが出る状態でした。第55師団がアキャブ方面からヘンザダに移動した後……。

 第55師団司令部の内部が異常な状態になっていることは、ビルマ方面軍司令部でも気がついていた。これをよくするためには、師団長か【師団長に追従し、部下達を一緒にいじめていた河村】参謀長のどちらかを変えることが必要であった。しかし、ビルマの戦線が崩壊しようとしている時だから、花谷師団長を転出させることはできなかった。
『戦死 インパール牽制作戦』P342


 結局、河村参謀長が更迭され、代わりに小尾哲三大佐が参謀長に着任。小尾参謀長は、
「閣下、なぐったらいけませんぞ。師団長がおこったら、部下がいじけますぞ」
 と遠慮なく忠告し、花谷は部下を殴ることが少なくなったとのこと。これは、小尾参謀長の豪快な人柄などによるとP346にあるのですが、個人的には、もうだいぶビルマ戦線での敗勢がひどくなっていて兵士の数も少なくなり、花谷師団長自身が(自分の身を守るためにも)兵隊を大事にするという状態であったからではないかという気もします。

 この小尾参謀長は、「おれは師団長閣下を軍司令官にしてあげようと思っている。あの人は大将にはなれん人だから」と考えていた(P346)という話もあり、そうすると花谷将軍の指揮能力の高さを買っていたということでしょうか。「あの人は大将にはなれん人だから」の意味が良く分からないんですが(日本軍は、師団長、軍司令官、方面軍司令官あたりはすべて中将で、大将になれるのはよほどの場合であるもののようです)。



 一方で、個人的に非常に気になっていたのが、第55師団の直接の上位司令部であった第28軍の司令官であり、かつ温情で知られる桜井省三(せいぞう)中将が花谷師団長のことをどう考えていたのかでした。桜井中将の話はこの本で一箇所だけ出てきました。

 のちに【通称号】策第28軍の団隊長会同があった時、その席上で花谷師団長は棚橋大佐【第2次アキャブ戦で花谷師団長に反抗し、命令を無視して退却し解任された。戦後自決。】を非難した。名将といわれた軍司令官桜井省三中将は、
「言葉を慎め。貴官が棚橋を使いこなさなかったのではないか」と強く叱りつけた。棚橋大佐の苦衷を知る人もいたのである。
『戦死 インパール牽制作戦』P323


 尤も、桜井中将が花谷師団長を第2次アキャブ戦の時にもっとどうにかしてくれることはできなかったのだろうか……? と思ってしまうところなんですが、それは当時の様々な制約的に無理だった、ということなんでしょうかね~。

 一応、『ハ』号作戦の立案時に、花谷師団長(と、桜井徳太郎歩兵団長)は、英連邦軍の後方策源地に向かって突っ込むという作戦計画を立てていたものの、それを見た桜井省三第28軍司令官が、自軍の補給などを鑑みてある程度以内の作戦しか許さないようにしたという話があり、これはインパール作戦の時の牟田口廉也第15軍司令官と比較して語られることだったりします。




 当時の日本軍の精神主義に関して、第55師団の桜井徳太郎の長い訓示がこの本に挙げられていました。個人的に特に印象的だったところ等を引用してみます。

《【……】
 大和魂のこもった弾丸は必ずあたる、これが御稜威の御光であり、われわれの兵器である。火砲と運命を共にすることが、われわれの本領である。菊花のご紋章ある火砲より離れ去り、兵器を捨てるなどは、われわれの最大の恥辱である。魂の低さを物語るものである。
この本には、火砲を当てるのが非常に上手く、兵達にも慕われていた指揮官が、火砲と運命を共にして死のうとするのを部下達が必死に止めて、退却すれば他にも指揮すべき火砲があるから、と説得して、火砲を破壊して退却したところ花谷師団長に罵倒され殴られ、結局その指揮官は自決した、という話が出てきます。
 【……】
 決死玉砕して、最高度の魂の力を発揮せねばならぬ。これが、物的には、いかにも損害のごとく思わるるが、精神的には勝利である。
 【……】》
 この訓令に説いていることは、単なる桜井歩兵団長の考え方ではなく、当時の日本軍の基本の思想であった。同様のことは、政府が国民に対して、指導理論としていたといえる。この訓令にいっていることは、国家の主張であり、要求であった。いわば、これが大義名分であった。
 この限りにおいて、花谷師団長から自決を命ぜられ、あるいは無断撤退した者は、逆賊の行為とされなければならなかった。
 このように日本軍は、古風な精神主義で、第二次世界大戦の連合軍の新戦術と戦った。日本軍は、結果として、兵と肉体と生命を犠牲にするだけの戦いをつづけた。
それが持久戦の実相であった。
『戦死 インパール牽制作戦』P322,3



 ただ一方で、兵士を大事にした指揮官もビルマ戦線において結構いたという印象を持っています。桜井省三第28軍司令官(ビルマ戦初期は第33師団長)や宮崎繁三郎第54師団長(インパール作戦では第31師団歩兵団長)だけでなく、本多政材第33軍司令官や、あるいはビルマ戦後期にはとんでもない精神主義を振りかざす田中新一ビルマ方面軍参謀長も、フーコン谷で第18師団長をしていた頃には兵士を大事にして部下達にものすごく慕われていたようです。

 しかし問題は、(やはり?)その比率だということでしょうか。日本軍にも兵士を大事にした指揮官がいたけども、それは例えば2割とかで、4割は精神主義的、2割はとんでもない精神主義だった、とか……?(残り2割はどちらでもない勢で)

 一方で、イギリス軍やアメリカ軍は、基本的に、システムとして兵士を大事にしていたようです(例外はもちろんたくさんあるとしても)。

(↓この本の書評からの印象で)




 個人的には、「持たざる国」であった日本が戦争(戦闘)に勝とうとすれば、精神主義と兵士大事主義とどちらが有効であったのだろうか、ということに興味がありますが、どうなんでしょうか。兵士大事主義も、行きすぎればイラク戦争の時のラムズフェルド国務長官による「理想の組織」(アメリカ軍兵士を大事にするあまり、戦闘地域に留まらず、現地住民の尊敬も得られず、失敗した。現場指揮官達はその後、戦闘地域に留まり続けて自分達が犠牲になることも厭わない姿勢を示すことで現地住民に受けいれられ、成果を残せるようになった)に堕することがあるとは思いますけども。



 あとやはり、「花谷師団長のどのような指揮が、指揮官として上手かったのか」という実例が知りたいのですが、その例は『戦死 インパール牽制作戦』では見つけられなかった気はします。まあまた、今後注意しておき、実例が見つかったら追記していこうと思います。


『戦死 インパール牽制作戦』から、ビルマ戦線後期の配置等について(付:OCS『Arakan』『South Burma』(仮))

 『戦死 インパール牽制作戦』を読了しました。




 いくつかまとめておきたいことがあるんですが、まず、この本の中に出てきた、ビルマ戦線後期の配置や上陸作戦などについて。


 ↓OCS『Arakan』(仮)、『South Burma』(仮)の範囲。

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 第2次アキャブ(Akyab)戦において、シンゼイワ(Sinzweya)盆地周辺の「アドミンボックス(管理ボックス)」の戦いに敗退した後……。

 インパール作戦に敗れた後、ビルマの日本軍の形勢は急速に悪くなった。戦力を失った第55師団は、第28軍の命令で、姫路の第10師団と交代して、アキャブ地方を去って、ビルマ南端のイラワディ河の河口地帯に移った。
 【……】
 師団司令部はヘンザダに移った。ビルマ南部の交通の要地である。【……】
 ヘンザダ一帯はイラワジ河の河口の三角州で、広い平地が広がっていた。首都ラングーンにも近かった。そうしたことから、この地方には、英軍のグライダー部隊による空挺作戦が決行される危険があった。
 日本軍がインパール作戦を開始する直前、英軍は大規模なグライダー部隊を、中部ビルマに降下させて、日本軍の後方を攪乱して重大な影響を与えた。グライダー部隊が恐るべき戦力をもっていることを、ビルマ方面軍でも、このころ、ようやく気がついてきた。
『戦死 インパール牽制作戦』P329~331



 ↓ヘンザダ(Henzada)やラングーン(Rangoon)周辺の拡大図。

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 上部真ん中あたりにヘンザダがあります。確かに、ヘンザダの南のあたりは完全に平地っぽく、グライダー降下にはもってこいかもしれません。ただ、ヘンザダの東、ラングーンの北北西方向のあたりにもある程度の広さの平地があるように見えますから、その辺りと同等、あるいはより優先されるべきと日本軍側に見えた事情がヘンザダにあった可能性があるのかもです。推測としては、ヘンザダの南西方向には河口のバセイン(Bassein)まで鉄道線が延びていたようなので、英連邦軍がヘンザダ周辺にグライダー降下すると同時にバセインに上陸作戦を行い、補給線を繋げながらラングーン攻略を目指すとか?

 オスプレイの『Meiktila 1945』に載っている地図で確認してみたところ、史実ではヘンザダ周辺への空挺作戦は行われず、むしろ1945年5月1日にラングーン南方の海岸に上陸作戦が行われたようで、5月3日にはラングーンが陥落?






 もう一つ、最初の画像の大きい〇の中のラムリー島(Ramree Island)には、史実で上陸作戦が行われたとのこと。

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 それまで長沢連隊長の指揮する鳥取連隊は、アキャブ南方のラムリー島にいて、連合軍のこの方面からの上陸に備えた。
 ラムリー島は東西26キロメートル、南北80キロメートルの島で、戦略上の重要地点であった。昭和19年1月、鳥取連隊はこの島に移駐して以来、陣地を構築し、防備を固めていた。
 昭和20年【1月】21日、連合軍の空母1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻、 砲艦15隻、大型輸送船数隻、その他の艦艇20隻が島の北部にあらわれ、上陸作戦を開始した。
 その5日後、長沢連隊長は所属の第54師団命令で、対岸のタウンガッに移った。ラムリー島では、長沢連隊の第2大隊が、全滅を覚悟して防戦をつづけた。
 2月になって、第2大隊長の猪股力(いのまたつとむ)少佐から『総攻撃を敢行し、玉砕せんとす』の電報が入った。これに対し、長沢連隊長は『玉砕待て』の電報を送り、民船30隻を派遣する旨を伝え、小銃を捨てても脱出することを命じた。
 また、第54師団の師団長、宮崎繁三郎中将も電報で、猪股大隊に対し、その奮戦をたたえ、それにもかかわらず『かくのごとき悲況に追い込ませたる小官の徳の足らざるを衷心より謝す』とし、『軽挙をつつしみ玉砕を思いとどまるべし』と命じた。
 宮崎師団長はインパール作戦間、インパール北方のコヒマで激闘をつづけて、勇名をあげた。
 当時は、日本軍は、ことごとに死守、玉砕を命じ、後退を許さないのを鉄則としていた。まして、どのような時でも、小銃、火砲を捨てるような命令をだすことは、ほとんどなかった。
 長沢連隊長、宮崎師団長の温情の命令で、猪股大隊は脱出をはじめた。だが、上陸した英軍が島の要地を固めているなかを、数少ない民舟をこいで脱出することは困難であった。日本兵は殺され、水に流され、四散して隠れていた。脱出は失敗した。
『戦死 インパール牽制作戦』P336,7



 英語版Wikipedia「Battle of Ramree Island」によると……。

 この島が重要であったのは、その後の英連邦軍によるビルマ南部奪還作戦に使用できる航空基地と、港湾を確保するということにあったようです。航空基地はラムリー島ではなく、その南西にあるチェドバ(Cheduba)島を占領して建設されました。港湾は、ラムリー島の北端にあるチャウピュー(Kyaukphyu)が重要であったと。

 航空基地に関しては、こう書いてあります。
「【1945年】1月2日までに、第14軍(ウィリアム・スリム中将)の前進が間もなくインパールとアガルタラ【ダッカの東、チッタゴンの北】の航空基地からの範囲を超えることが明らかになったのでこの計画が準備された。チッタゴン、アキャブ、ラムリーでの代替が必要だったのだ。」

 もともと、アキャブには複数の9本の滑走路があったはずで、すでに英連邦軍はアキャブを占領しているはずですから、なぜその上にラムリー島(チェドバ島)を攻略しなければならないのだろう、とも思ったのですが、思い返してみるとインパール周辺にはいくつも航空基地があって、その総計は10レベルくらいにも達するほどであったので、アキャブに4とか6レベルくらいの航空基地があったとしても、それだけでは足りないから、ということなのかも(英連邦軍の航空戦力、やばすぎ)


 ……と思ったのですが、『戦死 インパール牽制作戦』P21に、「もし英軍がこの【アキャブの】飛行場を占領すれば、ビルマの中部南部はその戦闘機の至近の攻撃範囲になる。」と書いてあるのを見つけ、「あ、爆撃機ならビルマ中どこでも行けるだろうけども、戦闘機の航続距離はやや短めで、その範囲が重要なのかもしれない」と思ったので、調べてみました。

 OCS『Burma II』の英連邦軍の戦闘機は、1ユニットしかないスピットファイアが47ヘクス、5ユニットあるハリケーンが46ヘクスであったので、とりあえず各航空基地から47ヘクスの範囲を表示してみました(アメリカ軍の戦闘機はもっと航続距離がありますが、後期の戦いでは主力ではないと思われ?)。

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 この結果からすると、インパールやチッタゴンからではビルマ南部には全然届かず、アキャブからだと中途半端、チェドバ島からであればラングーンも航続距離に含むことができ、かなり良い、ということになりそうです。なるほど……!(ただ、当時、日本軍の戦闘機がどれだけいたのか、英連邦軍は戦闘機なしで爆撃機だけで飛んでいっても問題なかったのでは……? という疑問もありますけども)


 ただまあそうすると、現状OCS『Burma II』では航空基地を作る上での地形上の制限はなかった(滑走路には若干ある)のですが、ある程度以上、航空基地を建設できる場所を制限しないとまずいような気がしました。


 あと、Wikipediaによると英戦艦クィーン・エリザベスも参加しており、艦砲射撃をしていたそうです。

 シナリオ化というのも興味深く、また、『Arakan』(仮)と『South Burma』(仮)で今考えているシナリオは全部が全部、同じマップ範囲内で進撃局面と退却局面の両方を描けなければいけないという難しさがあるんですが、このラムリー島の戦いは一方通行なので作りやすいということはあるだろうと思います。しかし、戦いとしてはあまりにも一方的過ぎるでしょうね……(T_T)






 それから、非常に興味深い記述としてこういうのがありました。

 兵隊が食に飢えたのは、スィンズエユワ【シンゼイワ】の包囲戦になってからではなかった。『ハ』号作戦【第2次アキャブ戦】のはじまる前に、すでに飢えていた。これから考えると、桜井歩兵団長のいう“桃太郎作戦”で“とってくえ”というのは、さらに切実な意味があったと思える。
『戦死 インパール牽制作戦』P366


 第2次アキャブ戦では、日本軍の攻撃部隊は4日分の糧食を持って戦いに入り、そこから基本的に食糧の補給なしで約1ヶ月戦って退却に追い込まれました(→OCS『Arakan』(仮)で、第2次アキャブの戦いは一応再現可能か……? (2022/04/02))が、そうするとその「4日分の糧食」(1ターンだけSPで一般補給が入れられる量)というのはゲーム上ではなけなしのSPであって、あとはすっからかんであったということになりそうです……。

 というか、OCS『Burma II』では日本軍は1Tで10ユニット(つまり10個大隊)に一般補給を入れられるので、戦いの規模を考えると、そもそも第2次アキャブ戦を日本軍はたった2T程度(包囲環の北側で1T、南側で1T)しか持たずに始め、そしてその後1ヶ月(9ターン)にわたって、日本軍に届くSPは、1D6の1~3で0T、4~6で1Tとかっていう感じだったのかも……。

 日本軍はOCS『Burma II』の「食料入手表」で、補給切れになりつつも、補給切れから回復したりして戦うこともでき、インパール方面の場合はSPがなくなってからも二ヶ月間(約18ターン)に渡って戦い続けたわけです……。

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 もちろんそれは「白骨街道」だったわけですが、ウォーゲームでそれが目に見えるものとして表されることに意義もあることだと考えられます……。

 実はちょっと、私の中で「第2次アキャブ戦のシナリオは、作っても、プレイする気が起きないようなものになってしまうかも……」とも思っていたのですが、考えてみると、第2次アキャブ戦のシナリオは、「小型のインパール作戦シナリオ」としての価値があるのかも知れません……。実際、『戦死 インパール牽制作戦』の中でも「第2次アキャブ戦は小型のインパール作戦であり、しかもその第2次アキャブ戦がインパール作戦の前に行われていたのに、その戦訓をまったく取り入れることができなかった牟田口廉也に大いに問題がある」というように書かれていました。

 ゲーム上では、英連邦軍側のSPを日本軍が奪うことに成功し、それを活用して史実以上の奮戦を見せるという展開もあり得るかもしれませんから(その可能性があまりに高くても問題ですが)、シナリオ化というのはやはりありなのかもしれませんね。

補給(弾薬)集積所を作るのは重労働だった?(OCSの補給集積所関係ルール)

 OCSは補給(Supply Point:SP)が重要なゲームであり、SP(マーカー)を適当なヘクスに積んでいって「補給集積所」を作るのですが、SPを降ろせるヘクスには縛りがあります。

13.2f  積載と荷降ろし
荷降ろしのための条件:輸送ユニットからの荷降ろしは、自軍戦闘ユニット、港湾、航空基地、あるいは積載されていない補給集積所が存在するヘクスでのみ可能です。


 OCSをプレイしていると、「このヘクスにSPを集積したいけど、荷降ろし条件を満たしてないから降ろせない! しょうがないから、何とか戦闘ユニットをひねり出して、そのヘクスにまず置いておき……」ということが時々起こります。

 私はこの「荷降ろし条件」のルールは、いらないんじゃないかと思ってました。「どこにでも置けるようにすればいいじゃん! 補給集積所なんて、ただ荷物を置くだけでしょ?」と。


 ところが、『戦死 インパール牽制作戦』という、アキャブの戦いに関する本を読んでいたら、弾薬集積所を作るのはものすごい重労働だった、という話が出てきました。



 弾薬集積所を作るのは重労働であった。各中隊から、体力のある者を45名選びだした。これを板野中尉がひきいて、十数キロ後方のサバタに行った。
 板野隊の作業は、弾薬をいれる壕を掘ることであった。すでに雨季になっていた。毎日、雨にうたれながら壕を掘るのは、戦闘とは別な苦しさがあった。【……】
 【……】 道路に近いところには、10個ばかりの壕ができていて、弾薬がはいっていた。前任者の師団の兵器部員が作ったものであった。へたな作業で、上空からも地上からも見つかりやすかった。
「これは兵器部の者が作った壕です。私の方は、こんなものではありません」
 板野中尉は自信があった。密林の木や草を押しわけて、壕のところに案内した。そこには70の壕ができあがっていた。戦場の体験を生かして作った壕であった。人見中佐は感心もし、喜びもした。
 【……】
 のちになって、この【へたな作業であった方の】弾薬集積所が英軍の飛行機に爆撃された。
『戦死 インパール牽制作戦』P300,301


 これを読んで、「荷降ろし条件のルールなんていらないじゃん!」と思っていた私は恥じ入りました(>_<)

 なるほど~。弾薬集積所は見つかったら爆撃されたり、砲撃されたりするので、見つからないようにしなければならず、そのために人手が必要なわけですね……。ただしそれが、港湾だったり航空基地だったりすれば、そのための施設なり工夫なりがすでにされており?、またすでに補給集積所としての使用を始めている場所であれば、新たな手間はとりあえず要らないと見なせる……。


 他に、弾薬集積所や補給集積所を作る上での苦労話とかマニュアルだったりとかがネット上で見られたりしないかと思ってほんの少し探してみたのですが、全然見つからないので諦めました(^_^;

 一応、以前、コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)で「昼夜を問わずトラックが砂漠を走り、憲兵が管理する20エーカー(200m×400m程度の空間)に巨大な木箱や缶がスーパーマーケットのように積み上げられていきました。」というような話は本で読んで書いていたんですが、当時、それほど大変な作業とまでは思わなかったわけです。でも、物資管理とか、必要な物資を必要な場所へ運ぶための仕組みとかも当然必要なわけで、「補給集積所なんて、ただ荷物を置くだけでしょ?」なんていうバカな発言には、猛省を促す必要がありますね!?(T_T)


 OCSシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏(や、OCS副班長のチップ・サルツマン氏)には軍隊経験があるそうで、そういう人々にとってはごくごく当たり前の話なのかもしれませんが、軍隊と(ある意味極端に)縁遠い現代日本の市民には、分からないことだったか……。

 よく、デザイナーズノートが挟まれていて「このルールはこのような事実を反映している」とかって書かれていて非常に興味深いわけですけども、デザイナーズノートが挟まれてなくて、かつプレイヤーが「このルールは何を反映しているんだ?」と分からないでいる(けど、その事象を知る人にとっては当然必要なルール)というのも、結構あるでしょうね。


 以前書いてました、『補給戦』の新版(の本文部分)はまだ読んでないんですが、その中に補給集積所を作る上での苦労話とかも書かれている可能性もあるかもです。また注意して読んでいこうと思います。




北アフリカに来てすぐに戦死した第15装甲師団長フォン・プリトヴィッツについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』『DAK-II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、第15装甲師団長として北アフリカにやって来てすぐに、ロンメルにトブルク攻撃を急かされて突っ込み戦死してしまったハインリヒ・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン将軍についてです。

 写真は↓にありました。

Heinrich Von Prittwitz und Gaffron



 戦死への過程については、今までこのブログで何回か引用していました。

 1941年4月上旬の段階で、キレナイカに姿を現した第15装甲師団の将兵は、師団長プリトヴィッツと小規模な前面部隊だけだった。しかし、シュトライヒの「消極的な」姿勢に不信感を抱いていたロンメルは、追撃戦の主力を担う部隊が第5軽師団であるにもかかわらず、その作戦指揮を、到着して間もないプリトヴィッツに委ねた。
 この感情的とも言える決定は、当然のことながらシュトライヒをさらに立腹させたが、砂漠での戦闘にまだ慣れていないプリトヴィッツを攻撃部隊の指揮官に据えるというロンメルの判断は、間もなく悲劇的な事件を引き起こすこととなった。
 追撃戦の指揮権を任されたプリトヴィッツは、4月9日の午後、最前線で部隊を率いる第200特殊任務連隊長シュヴェリーンの指揮所を訪れ、状況を教えて欲しいと頼んだ。
「ロンメル将軍から指揮をとるよう命じられたが、私はまだアフリカに着いたばかりで、各部隊の状況については何も知らないのだよ」
 シュヴェリーンは、途方に暮れた表情のプリトヴィッツに要点を説明した。
 翌4月10日の早朝、ロンメルは副官のアルディンガーに、自らの状況認識と今後の方針を日誌に記録させた。前年の西方攻勢の場合と同様、彼はアルディンガーに作戦経過の一部始終を詳細に記録させ、あとで戦記として発表することを考えていたが、彼がこの朝口にしたのは、次のような言葉だった。
「敵は明らかに退却中である。我々は、全力を挙げてこれを追撃しなくてはならない。我々の目標は、スエズ運河である。そして、このことを〔部下の〕全員に知らしめなくてはならない」
 そして彼は、作戦の進展状況を確かめるためシュヴェリーンの指揮所へと出向いたが、そこにプリトヴィッツが居ることを知った彼は、すぐにトブルクへの攻撃を前線で直接指揮するよう、プリトヴィッツに大声で命令した。
「何をもたもたしておるか! 敵が我々の手から逃げようとしているのだぞ!」
 顔を赤らめて狼狽したプリトヴィッツは、シュヴェリーンの自動車と運転手を借りて、最前線へと向かった。

『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P224~7

 このときキロメーター16里程標の地点に進出していた機関銃大隊の将兵が、後方から街道を適法に向かって疾走して来る【プリトヴィッツの乗った】乗用車を見て驚き、街道にもっとも近いところにいた機関銃手のひとりが大声で警告した。「止まれ、止まれ」しかし、プリトヴィッツは疾走する車の中で立ち上がり怒鳴りかえした。「何をしておる。前進するのだ。敵は逃げてしまうぞ」その瞬間、イギリス軍の対戦車砲弾が彼の車に命中し、彼の身体を貫通して破裂し、彼と彼のドライバーは即死した。
『狐の足跡』上P131





 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団。

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 フォン・プリトヴィッツはプロイセンの古くからの名門軍人の家系に生まれ、1908年に士官候補生として軍に入り、その後参謀本部に入ります。第一次世界大戦で戦い、東部戦線で一級と二級の鉄十字章を受勲。1915年からは参謀として活躍しました。

 戦後も軍に残り、早くから装甲部門に転じます。ヒトラーが政権を取った1933年には少佐で、当時ロンメルよりも階級が上でした。

 1935年には新たに編成された第1装甲師団隷下の第2装甲連隊長に任命されます。1930年代後半にはフォン・プリトヴィッツは堅実な戦車指揮官として認められていたものの、極めて優秀というわけではなかったようです。第1装甲師団はオーストリア占領(1938年3月)とズデーテン占領(1938年9~10月)に参加します。

 1938年11月10日、フォン・プリトヴィッツは第2装甲師団の第2装甲旅団(第3、第4装甲連隊から成る)の指揮官に任命されます。彼はこの旅団を率いてポーランド戦において活躍しましたが、激しい戦闘で甚大な死傷者を出しました。

 第2装甲師団はフランス戦ではグデーリアン麾下で戦い、セダンで活躍します。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第2装甲師団。

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 その後、ダンケルクの戦いや、フランス南部の掃討作戦(赤の場合)に参加し、独仏国境地域のマジノ線で数千人のフランス兵を包囲しました。


 フランス戦の後、装甲師団を10個から20個に増やすことになり、フォン・プリトヴィッツはフランス戦での優秀な成績から、より大きな任務に就くことになりました。1940年10月1日、新たに編成されていた第14装甲師団の師団長に任命されたのです。

 フォン・プリトヴィッツは第14装甲師団の編成と部隊訓練を行いつつ翌年春を迎えました。ところが、第14装甲師団がバルカン半島での戦闘に参加することになったタイミングの3月下旬、かたやまったく同時期に北アフリカに送られることになっていた第15装甲師団の師団長であったフリードリヒ・キューン将軍と、フォン・プリトヴィッツとの間で、突如師団長職を交代することになったのです。

 この件に関して、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』の著者サミュエル・ミッチャム氏はこのように推測しています。

 プリトヴィッツとキューンがなぜ指揮を交代したのかは定かではないが、時期的に考えても極めて異例のことであった。第14装甲師団は4月6日からバルカン戦役に参加することになっており、第15装甲師団も4月の第2週までには北アフリカで戦闘に入ることになっていたのだ。このような状態の両師団の師団長を交代させるのは恐ろしく奇妙である。特に、戦争のまだ序盤のこの時期において。それに、キューンはバルカン半島に詳しかったわけではないし、プリトヴィッツも砂漠戦に特別向いている指揮官というわけではなかった。考えられる仮説は2つだけである。1)ロンメルがキューンを望まなかった、あるいは2)キューンがロンメルの下で働くことを望まなかった。2つ目の仮説の方が、はるかに可能性が高いだろう。参謀総長のフランツ・ハルダー【上級】大将は、確実にロンメルを嫌っていた一方で、自動車化部隊の専門家であったキューンに敬意を払っていた(その後1942年には、ハルダーはキューンを軍の自動車化部門の長に任命した)。そしてこの時期、ハルダーはロンメルのことを「気が狂った兵士」と呼んでいたのである。ハルダーは、必要があればロンメルの司令部を「スパイ」(OKHに忠誠を誓い、ロンメルに従わない将校)で埋め尽くすことをためらわないことを、すでに明確に示していた。キューンとプリトヴィッツの間の指揮の交代を発案したのが砂漠のキツネであったとすれば、ハルダーがそれを受けいれたわけがない。当然、これはキューンからの要請であったか、あるいはよりあり得ることとして、ハルダー自身の発案であったと思われる。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P30,31


 この推測の信憑性はもちろん分かりませんが、興味深い仮説であるとは思います。

 ハルダーとロンメルの間の関係性については、↓に書いてました。

ロンメルはハルダーに「大馬鹿」と面と向かって言った? ハルダーは無能だったのか有能だったのか (2021/06/14)



 4月10日戦死したフォン・プリトヴィッツは、デルナにあったドイツ軍の墓地に埋葬され、死後、4月1日付で中将に昇進しました。


第5軽師団の作戦参謀で、その後も各戦線で若き参謀として活躍し続けたハウザーについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』『DAK-II』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回はメイン資料の『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』から、第5軽師団の作戦参謀であったヴォルフ・リュディガー・ハウザーについて扱います。





 ハウザーは1906年生まれで、第一次世界大戦で戦うには若すぎましたが、1923年に士官候補生としてドイツ軍に入隊します。キャリアの早い段階で参謀本部に入り、1938年には大尉となり参謀本部(OKH)の作戦部長の副官を務めました。

 当時の作戦部長は、マンシュタインかハルダーだったのではないかと思われます(→ドイツ陸軍参謀本部の第一部(作戦担当)の歴代担当者 (2021/03/04))。


 ポーランド戦終了後、有能なハウザーは第68歩兵師団の作戦参謀に任命され、フランスで戦います。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第68歩兵師団。

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 そして1941年初頭、第5軽師団の作戦参謀に任命されました。

 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団。

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 この時期のハウザーについて、『Rommel's Desert Commanders』にはこのように書かれています。

 第5軽師団の上級将校達の中で、北アフリカにおけるキャリアにダメージを受けなかったのは、若き作戦参謀であったヴォルフ・リュディガー・ハウザーだけだった。
 【……】
 エルウィン・ロンメルは、第5軽師団の他の幹部将校達と異なり、ヴォルフ・ハウザーを気に入っていた。ロンメルが激昂して、シュトライヒとオルブリヒの決断力のなさを怒鳴りつけて、トブルクへの一斉攻撃を命じている最中でも、ハウザーは横やりを受けずに済んだ。彼はロンメルに、さらに12門の牽引砲を期待することを伝え、到着するまで攻撃を延期することを勧めた。ロンメルは止まって、同意した。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P23



 この話は、ロンメルの副官であったハインツ・ヴェルナー・シュミットの回想録によるもののようです。



 私は古い和訳の文庫本で持っているのみなので、そちらから引用します。

 「さらに移動砲12門が必要であります、閣下」と第5軽のIa【作戦参謀】ハウザー少佐は報告して来た。「攻撃開始前に到着することを期待しております」
 ロンメルはシュトライヒよりも、ハウザーをはるかに信頼していたらしい。
 「わかった、ハウザー。手配する」とロンメルは承諾した。

『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P53


 同書のそのすぐ後にも、ハウザーの名前が出てきていました。

 ……私は親切で思いやりのあるシュトライヒが好きだし、きわめて勇敢な人だと考えている。ハウザーも同様である。それだけに容赦なく扱われているのが気の毒でならない【シュトライヒだけが? ハウザーも?】。
 私は第5軽司令部の食堂でくつろいだ。シュトライヒのマンモス【ロンメルが載っていたことで有名な、英軍の装甲指揮車AECドチェスターを捕獲したもの。3輌のうち2輌をロンメルとその参謀が使用し、1輌を第5軽師団司令部用としてシュトライヒにロンメルが与えていた】の内部仕切りの上に、ボール紙で作った大きな騎士勲章があった。そのまんなかには鉤十字の代わりに、大きな黒蠅の絵が描かれていた。ハウザーの話では、この騎士勲章はマンモスの住人で、日中有害な砂漠の蠅を、最大多数「撃墜」したものに、毎晩ものものしく授けられるとのことだった。私にはこの愉しい気晴らしにふける気持がよくわかったが、同時に部下は敵を前にして、率先事に当り、積極的で、「非情さ」を示すべきだというロンメルの一本気な主張の良さも、認めはじめていた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P55



 ただ一方で、同じくロンメルの副官であったハンス・ヨアヒム・シュレープラーはこう書いているようです。



 ロンメルはすでにシュトライヒに対して激怒していたので、私はOKH(陸軍総司令部)への手紙を作成して、シュトライヒ、さらにハウザーを交代させるようにしなければならなかった。ただ、シュトライヒが翌日50歳の誕生日を迎えるという事実がロンメルを軟化させ、彼はしばらく待つことにした。
『At Rommel's Side: The Lost Letters of Hans-Joachim Schraepler』P85




 また、『Desert Fox: The Storied Military Career of Erwin Rommel』P89には、ハウザーはホルツェンドルフらと一緒にクビにされたと書いてあります。もしこれが事実なら、『Rommel's Desert Commanders』には「非常に有能なハウザーは、シュトライヒの後任であるフォン・ラーフェンシュタイン将軍の下で、師団の作戦参謀の地位に留まっていた。」とあるので、その後にクビにされた(あるいは単に異動された)のか。


 ハウザーは1941年9月に、東部戦線の南方軍集団に配属されていた第1装甲集団の作戦参謀に任命されました(いきなり!)。ドイツでの休暇の後、1941年11月21日に着任します(第1装甲集団は10月5日に第1装甲軍に改称されていました)。

 当初、第1装甲軍の指揮官はフォン・クライスト上級大将でした。第1装甲軍の作戦参謀として、ハウザーはロストフ作戦、1941年から42年にかけての冬のミウス川への退却、ドン川への進撃、スターリングラードの初期段階、コーカサスへの進撃などにかかわります。

 ハウザーが第1装甲軍に着任してほぼ1年後の1942年11月22日(天王星作戦開始の3日後)にフォン・クライストがA軍集団司令官へと昇進したため、それまで第3装甲軍団司令官としてコーカサスの油田攻略戦を指揮していたフォン・マッケンゼンが第1装甲軍の司令官に就任します。第1装甲軍はコーカサス地方から撤退し、マンシュタインの見事な「後手からの一撃」の戦いに参加します。それまでに、ハウザーは有能で、大いに期待できる参謀将校だという確固たる評価を得ていました。

 1943年11月、フォン・マッケンゼン将軍は、北イタリアで新たに編成された第14軍の司令官に任命されます。フォン・マッケンゼンはハウザーを参謀長として連れていきました(ドイツ軍の軍司令官や軍団司令官は、新しいポストに就く時にそれまでの参謀を連れて行くことが多くあったそうです。ロンメルも、北アフリカ戦時代の参謀長であったガウゼをそのままノルマンディーに連れていっていました。)。


 1944年2月、英米軍がアンツィオに上陸します。ハウザーは、連合軍の航空優勢にもかかわらず、いつものように優秀な仕事をして、脅威にさらされている戦区に増援を急ぎ、充分な補給を供給し続けました。一方、フォン・マッケンゼンはアメリカ第6軍団に対して無計画な反撃を何度も行い、最終的にケッセルリンク元帥に解任されてしまいます。

 しかしケッセルリンクはハウザーを非難しませんでした。ハウザーは第14軍の参謀長に留任し、その後も第14軍司令官(レメルセン、フォン・エッターリン、ツィーグラー、ヘール、フォン・ティッペルスキルヒ)の下で、アンツィオからポー川までのイタリアでの主要な戦闘(および撤退)のすべてにかかわりました。1944年9月1日にハウザーは少将に昇進しましたが、彼はまだ38歳になったばかりでした。

 1945年2月中旬にハウザーはイタリア戦線を離れ、今度は西部戦線で米仏軍の進撃から独仏国境の真ん中あたりの戦区を守備する第1軍の参謀長に任命されました。当初、第1軍の司令官はオブストフェルダー歩兵大将でしたが、2月28日にフェルチュ歩兵大将に交代します。フェルチュは若くて優秀なハウザーを参謀長に留任させ、ハウザーは5月8日にドイツが降伏するまでその任に就いていました。


 OCS『Beyond the Rhine』に第1軍司令部ユニットは見つかりませんでした(OCSは通常、軍団司令部までをユニット化し、軍司令部がユニット化されているのは例外的です)が、1945年4月29日ターンまでをプレイし、この第1軍の戦区もマップ上に含まれているので、その時期をプレイすることができます。


 ハウザーは様々な捕虜収容所で2年以上を過ごした後、釈放されます。亡くなったのは1965年でした。


OCS『Arakan』(仮)のテストプレイ用バージョン2のマップとユニット

 OCS『Arakan』(仮)の第1アラカンキャンペーンシナリオのテストプレイですが、少し前からある問題に悩まされていました。



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 ↑この画像で、黒い楕円で囲んだあたり(メインの戦闘地域)はある程度以上うまくいくようになったと思われたのですが、画像右側の南北に走る河川(カラダン渓谷)沿いが問題に。

 画像は1943年1月1日ターン頃の両軍のおおまかな配置ですけども、赤い矢印2本の先に、英連邦軍の2つの大隊ユニットが存在しています。ところが、これらのユニットに英連邦軍はどうやって一般補給を入れたらいいのか?

 赤い矢印に沿って存在している小道は、自動車化移動力で8移動力というとてつもない移動力を要求するので、司令部の支給範囲で一般補給を入れるのは無理です。実際上、徒歩移動力6を持つラバでのみSPを運んで、SPで一般補給を入れることになりますが、その場合OCSシリーズルールには「1Tで2RE(2個連隊相当)に一般補給を供給できる」というルールがあり、大隊ユニットは1/2REなので、毎ターン1Tをこれらのユニットにそれぞれ消費させるのは1Tの3/4が無駄になるということになります……。


 この「1Tで2RE」という話は、黒い楕円の地域でも実は問題を引き起こしていまして、現在のユニットスケールでは4ユニットで2REとなる感じなので、一本の進撃軸にちょうど4ユニット2REを進めるのであれば問題ないのですが、2ユニット1REとか、3ユニット1.5REとかを進めると、一部のSPが無駄になるということになります。プレイヤーとしてはそれはイヤなことですから、できるだけ2REぴったりにするか、あるいはまったくその進撃路にユニットを進めないかを選択したくなるだろうと思われました。


 この件について、色々案を考えつつもそれぞれに色々欠点があるなぁ、という感じで数日が過ぎたのですが、有望そうな案を思いつきました。

 1Tをさらに1/4にしたマーカーを作り、それを消費させればいいのです!

 ネーミングはとりあえず、1/4を意味するクォーター(Quarter)ということにし、マーカーも作ってみました。

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 4Q=1Tです。また、テストプレイ中にアクションレーティングや指揮範囲などを改訂していたため、それらも反映しました。

 それからルール的には、本来SPは港湾、航空基地、ユニット、SPがあるヘクスにしか荷降ろしできないというルールがあるのですが、それはこのシナリオではなしにしなければならないと思います(そうでないと荷降ろしできなさすぎるため)。

 「1Tで2RE」のルールにしても、本来OCSではユニットが大量にある状態で運用されるので問題がないのですが、このシナリオのようにあまりにユニット数が少なく規模が小さいと、色々問題を引き起こすのだと思われました。



 また、マップの方も、テストプレイでの改訂を織り込んで、山岳も一部描き込んでみました。

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 またおいおいテストプレイしていこうと思いますが、現状、史実通りに日本軍は河川沿いから一般補給を引けるので一般補給についてほとんど何も考えないで良い(ただし部隊の進出はかなり制限される)一方、英連邦軍側はとにかくすべての一般補給をマップ上のSPから消費しなければならないので「SP運びゲー」と化しています。

 「なんだかなぁ」とも思うのですが、SP(と補給路)によって制限されなければ英連邦軍は史実よりもはるかに早く進出できてしまうのも確かで、史実が補給によって縛られていた以上、それを再現できているのだから素晴らしいという考え方も……?(^_^;


 ただ、爽快感に乏しいのも事実で、機動戦を再現するOCS『South Burma』(仮)への郷愁?も募っています。

 幸い、OCS『Arakan』(仮)の作業でかなり飲み込めてきたコツも活かせるので、OCS『South Burma』(仮)の方の作業も再開しようかと思っています。


北アフリカで戦い、初代第116装甲師団長に任命されるも師団将校達から受けいれられなかったゲルハルト・ミュラーについて(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』)

 先日の↓で、ゲルハルト・ミュラーという将軍について少し書いていました。

ロンメルに解任されたわけではない?伯爵フォン・シュヴェリーン第200特殊任務連隊長について(付:OCS『DAK-II』他) (2022/06/03)


 しかし【第16装甲擲弾兵師団は】1944年1月から3月のニコポリ橋頭堡からの後退戦で大損害を被り、同年春に休養と再編のため、パリ郊外へと移送されます。同師団は再編されて同年3月28日に第116装甲師団となりましたが、この時どうも、長い間師団を率いてきたフォン・シュヴェリーンではなく、ゲルハルト・ミュラーという人物が新師団長に任命されたようで、しかもこのミュラーは師団長としての経歴はなきに等しい人物だったようなのです。

 これまでフォン・シュヴェリーンの下で戦い、彼に忠誠を誓ってきた第116装甲師団の司令部将校達や隷下部隊の指揮官達は、ほとんど前例のないことにこの新しい師団長に対して反旗を翻し、彼の命令には従わないことを宣言しました。OKWは、反乱を理由に師団の将校達を軍法会議にかけるか、ミュラーを師団長から外すか、どちらかしかありませんでした。そして後者の道が選ばれ、フォン・シュヴェリーンは5月1日付で同師団の第2代師団長に就任したのです。


 この話は『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』の第116装甲師団のところに載っていたのですが、このゲルハルト・ミュラーは北アフリカでも戦っていたようなので、せっかくなので取り上げてみようと思います。




 ↑第二次世界大戦のドイツ軍の全装甲師団とその指揮官達の経歴をまとめた本で、指揮官の話には面白いものがかなり転がっている印象を受けます。



 ゲルハルト・ミュラーは1916年に第154歩兵連隊に入ったとありますが、第1次世界大戦での戦歴については書かれていません。戦後、軍に残れなかった多くの将校と同様に1920年に警察に入り、1935年に大尉として陸軍に復帰しました。

 1938~41年にかけて第33対戦車大隊を指揮しました(と書いてありますが、大隊長になったのはその間の途中とかかも?)が、その間にこの部隊は第21装甲師団に編入され、アフリカに送られます。

 ……と書いてあるのですが、第33対戦車大隊は第15装甲師団隷下だと思われ、「第21」は「第15」の間違いか、あるいは第21装甲師団隷下には第39対戦車大隊があったので、「第33」が「第39」の間違い?


 ↓OCS『DAK-II』の第15装甲師団と第21装甲師団。

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 ミュラーは北アフリカで戦う中で装甲大隊をも含めて指揮することがあるようになり、後に第5装甲連隊(これは第21装甲師団隷下)を指揮してガザララインからトブルクにかけての戦いで何度か顕著な戦いぶりを見せました。しかしエジプトでの戦いで片腕を吹き飛ばされてしまいます。

 病院から退院後ベルリンに戻り、OKHの支局長を務めます。

(『砂漠のキツネ』P343には、チュニジア戦の時の記述として「中央には《戦車のミュラー》と異名をとったゲルハルト・ミュラー大佐の第5機甲連隊。」という記述がありますが、これが本稿のゲルハルト・ミュラーなのかどうか、分かりません)


 この後のこの本の記述には時系列に混乱があると思われるのですが、恐らく、その後の1944年3月28日に、最初に引用した第116装甲師団長に任命された時の件が来ます。5月1日にはフォン・シュヴェリーンが第2代師団長に就任。

 ミュラーは1944年6月~7月(『ドイツ装甲部隊全史Ⅱ』P164によれば5月28日~7月15)にかけて東部戦線の第12装甲師団の師団長代理を務めます。9月1日には少将に昇進。

 1944年9月2日(『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』P178によれば9月3日~9月20日)、西部戦線の第9装甲師団の師団長代理に就任。同書では第12装甲師団の件、第9装甲師団の件の後に第116装甲師団の件が述べられ、その後に(再度)第9装甲師団の件が述べられており、この2度目の言及の時に「(決定的な降格人事であり)、それ以上の重要な役職には就けなかった。」と書かれています。これは、第116装甲師団の正式な師団長に就任したにもかかわらず、その後師団長代理になったので、降格だということでしょうか……?(ただ、「師団長代理」と言っても、その時期に正式な師団長がいるわけではなく、「臨時師団長」という感じで実質は師団長の仕事をしているのだと思います)

 また、第9装甲師団の件の最初の言及の際には、「(しかし、この【第9装甲】師団はノルマンディー/ファレーズの戦いで多くの死傷者を出したため、戦術上、一時的に第2装甲師団と合併させられていたのである)」と書かれています。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第2装甲師団と第9装甲師団。

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 ↓OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンセットアップにおける第2、第5装甲師団の位置。

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 このゲームは1944年9月5日ターンから始まり、まさにミュラーが第9装甲師団の師団長代理に就任した時期に当たります。左の赤い○の中の2ユニットが第2装甲師団。右の赤い○のTrierの位置に第9装甲師団が5ユニットいます。


 ミュラーは終戦時にはピルゼン(現在のチェコにあるプルゼニ?)で副司令官を務めていました。

 亡くなったのは1977年でした。



 ↓安い!?



ロンメルに解任されたわけではない?伯爵フォン・シュヴェリーン第200特殊任務連隊長について(付:OCS『DAK-II』他)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回は、ロンメルに解任されたわけではない?フォン・シュヴェリーン伯爵についてです。「わけではない?」というのは、彼がロンメルに解任されたのだという明確な記述が見つけられなかったからです。

 というか、なぜかメインの資料としている『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』に、このフォン・シュヴェリーンに関する項目がありません。著者サミュエル・ミッチャム氏はもしやロンメル贔屓な故に、あまりにも反ロンメル的であったこの人物を取り上げなかったとか……? しかし今回調べてみると、東部戦線や西部戦線でのフォン・シュヴェリーンの働きや行動はかっこよく、ある意味、ぜひ取り上げられるべき人物であるという気がしました。




Graf Von Shverin

 ↑伯爵ゲルハルト・フォン・シュヴェリーン(Wikipediaから)


 プロイセンの貴族の家に生まれたフォン・シュヴェリーンは第一次世界大戦では西部戦線で戦い、その勇敢な行動により二級と一級の鉄十字章を授与されています。

 1920年から2年間は民間会社で働きましたが再び軍に復帰。1933年から35年にかけて、ベルリンのプロイセン陸軍士官学校で参謀課程に在籍します。1930年代末には陸軍総司令部(OKH)の将校となりました。

 英語版Wikipedia「Gerhard von Schwerin」の記述によると、1939年1月、フォン・シュヴェリーンは反ナチ工作の一環として極秘にイギリス政府に接触します。ヒトラーのポーランド侵攻の意図について警告を発し、イギリスが海空軍をバルト海やフランスに駐留させることで、ドイツ国内の反ナチス勢力を誘導できると提唱したのです。この戦略はチェンバレン首相にまで伝わりましたが、この時点では攻撃的すぎるとして拒否されたそうです。

 Wikipediaでの記述からすると、フォン・シュヴェリーンはポーランド侵攻が始まった頃にドイツに帰国したようであり、その間ずっと(あるいは頻繁に?)ロンドンにいたかのように受け取れます。OKHのフォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官ハルダー参謀総長はヒトラーに対する反乱を画策して(あるいはさせられて)いましたから、フォン・シュヴェリーンはその辺りの意も受けて行動していたのでしょうか……?



 フォン・シュヴェリーンは開戦時にはグロースドイッチュラント歩兵連隊の第1大隊長であったようです。同連隊はポーランド戦では戦っていませんが、フランス戦に参加します。英語版Wikipedia「Infantry Regiment Großdeutschland」によると、フォン・シュヴェリーンはフランス戦開始の時期に一時的に連隊長も務めたようです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のグロースドイッチュラント歩兵連隊。

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 超強いですが、1ステップロスの結果で全滅するので、プレイ中に単体で使うのは怖かったりします(^_^;


 
 また、1941年までに第86狙撃兵連隊を指揮したこともあるとか。探してみると、第10装甲師団にありましたので、これ?

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第10装甲師団。

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 1941年3月11日、北アフリカのトリポリに第5軽師団が揚陸されます。山崎雅弘氏の『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P207,8によると、そのうちの自動車化機関銃2個大隊から成っていたのが第200特殊任務連隊で、その連隊長がフォン・シュヴェリーンでした。

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 兵科マークに「MG(MachinGun)」とあるユニット2つ(2と8)が自動車化機関銃大隊ユニットで、この2つを合わせて第200特殊任務連隊と呼ぶもののようです。

 揚陸後まもなくの3月15日から独伊軍の混成部隊がトリポリの南方700kmにあるムルズークまで長距離行軍訓練を行うことになり、その指揮官にフォン・シュヴェリーンが任命されます。

 ロンメルは圭角【言語・行動がかどだって、円満でないこと。】の多い人物であるが経験に富む伯爵ゲルハルト・フォン・シュヴェーリン中佐に、この経路を前進する独・伊混成部隊の指揮をとらせることにした。
『狐の足跡』上P119

(『狐の足跡』の和訳本においては「シュヴェリーン」ではなく「シュヴェーリン」と記されているのですが、著作権法で引用においては勝手に修正してはならないというルールがあるので、そのまま記します。ドイツ北部にシュヴェリーンという都市や城があり、それが由来の名前?)


 その後、ロンメルは第1次攻勢によってキレナイカ地方を征服することになるわけですが、第5軽師団長のシュトライヒや、フォン・シュヴェリーンとの間にどんどんと軋轢がたまっていきます。

 【ロンメルは】前進が遅れている部隊の近くに着陸しては、敵が彼らの手から逃れつつあるといって、将軍や大佐、中佐の部隊長を叱咤激励した。あるとき、シュヴェーリンはシュトルヒが頭上を飛び回るのを見ていまいましそうに、「あれはロンメルに違いない」といった。
『狐の足跡』上P124


 4月6日、ロンメルはメキリの南方わずか15マイル(約24km)の地点にいたものの、アフリカ軍団は砂漠の中で動きのとれない状態にありました。シュヴェリーンとシュトライヒと何とか合流できたロンメルは、かんしゃくを爆発させつつ、

【……】ふたりに対して、午後3時からメキリの堡塁を攻撃するように命じた。シュトライヒはこれを拒否し、彼の師団の戦車その他の車輛は依然として、100マイルにわたって砂漠の中で分散したままであるだけでなく、フレームが折れたり、エンジンがオーバーヒートしたり、ガソリンが欠乏した状態にあることを指摘したのである。ロンメルはシュトライヒに向かって、卑怯者であると怒鳴りつけた。するとシュトライヒは 1940年にその勇敢な行動に対して授与された自分の騎士十字勲章をはずして怒鳴り返した。「これまで、私に向かってそんなことをいった者はひとりもいません。今、貴下がいわれた言葉を取り消してもらいたい。そうでなければ、私はこれを、貴下の足許にたたきつけます」 ロンメルは自分がいった言葉をとり消すといった。しかし、彼は真剣にそう思っているようではなかった。
 後にその日の午後、ロンメルが帰って来て時計を見るなりシュトライヒに向かって、大声で命令した。「今午後5時だ。貴官はシュヴェーリンの率いるグループといっしょに6時からメキリを攻撃して、これを占領せよ。イタリア軍の砲兵部隊に君たちを支援するように、私から命令しておく」そのとき、シュトライヒが持っていた兵力は軽高射砲をもっているトラック2輛だけで、ほかに何の兵器もなかった。シュヴェーリンは少しましで、おそらく軽機関銃数挺を持っていたはずである。いつものように突然、命令だといわれても、彼らは7時の日没までに15マイルも離れたメキリまで、どうして移動するのであろうか。そしてシュヴェーリンおよび、イタリア軍の砲兵はどこにいるのであろうか。シュトライヒはわずか2輛のトラックを率いてシュヴェーリンを捜しに出かけた。しかし、彼は捜し出すことができないまま道に迷い、暗くなって大分時間がたってからロンメルにその旨を報告した。しかしロンメルは何もいわなかった(彼もイタリア軍を捜したが、見つけ出すことができなかったのである)。その晩、ロンメルはわずか数個小隊の兵力をもって自らメキリを攻略しようとした。このことについて シュトライヒの作戦日誌はただ、「この作戦は失敗に終わった」と述べているだけである。ロンメル自身の手記はこのことには触れていない。
『狐の足跡』上P125,6


 1941年4月上旬の段階で、キレナイカに姿を現した第15装甲師団の将兵は、師団長プリトヴィッツと小規模な前面部隊だけだった。しかし、シュトライヒの「消極的な」姿勢に不信感を抱いていたロンメルは、追撃戦の主力を担う部隊が第5軽師団であるにもかかわらず、その作戦指揮を、到着して間もないプリトヴィッツに委ねた。
 この感情的とも言える決定は、当然のことながらシュトライヒをさらに立腹させたが、砂漠での戦闘にまだ慣れていないプリトヴィッツを攻撃部隊の指揮官に据えるというロンメルの判断は、間もなく悲劇的な事件を引き起こすこととなった。
 追撃戦の指揮権を任されたプリトヴィッツは、4月9日の午後、最前線で部隊を率いる第200特殊任務連隊長シュヴェリーンの指揮所を訪れ、状況を教えて欲しいと頼んだ。
「ロンメル将軍から指揮をとるよう命じられたが、私はまだアフリカに着いたばかりで、各部隊の状況については何も知らないのだよ」
 シュヴェリーンは、途方に暮れた表情のプリトヴィッツに要点を説明した。

 翌4月10日の早朝、ロンメルは副官のアルディンガーに、自らの状況認識と今後の方針を日誌に記録させた。前年の西方攻勢の場合と同様、彼はアルディンガーに作戦経過の一部始終を詳細に記録させ、あとで戦記として発表することを考えていたが、彼がこの朝口にしたのは、次のような言葉だった。
「敵は明らかに退却中である。我々は、全力を挙げてこれを追撃しなくてはならない。我々の目標は、スエズ運河である。そして、このことを〔部下の〕全員に知らしめなくてはならない」
 そして彼は、作戦の進展状況を確かめるためシュヴェリーンの指揮所へと出向いたが、そこにプリトヴィッツが居ることを知った彼は、すぐにトブルクへの攻撃を前線で直接指揮するよう、プリトヴィッツに大声で命令した。
「何をもたもたしておるか! 敵が我々の手から逃げようとしているのだぞ!」
 顔を赤らめて狼狽したプリトヴィッツは、シュヴェリーンの自動車と運転手を借りて、最前線へと向かった。そして、英連邦軍の部隊と銃撃戦を続ける第8機関銃大隊のところまで来た時、彼は味方兵士の制止を振り切って車を走らせ続け、英軍の対戦車砲が放った一弾がこの車を直撃、プリトヴィッツと運転手の身体は無惨にも吹き飛んだ。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P224~7

 シュヴェーリン将軍は直ちにこのことを知った。「私は激怒した」と、彼は【著者アーヴィングと面会した】1976年にいった。「私はすぐに、ロンメルがその司令部を設けていた有名な白壁の家へ行った。するとロンメルが車で帰って来たので、彼が前線に派遣したばかりの将軍がすでに戦死したことを報告した。彼が参ってしまったのを私が見たのはこのときが初めてであった。彼は蒼ざめてくるりと向きを変えると、ひとこともいわずに再び車で出かけた」
『狐の足跡』上P131


 トブルクへの攻撃がロンメルの命令により4月11日から始められましたが、大きな損害を受けてすべて失敗していました。そして恐らく4月13日に再度出されたロンメルのトブルク攻撃命令の時、

 フォン・シュヴェーリン伯爵は「私の屍を乗り越えて行きたまえ」といった。
『狐の足跡』上P140

と記されていますが、ロンメルに対して言ったのかどうか書かれていません。

 恐らくこの後の5月中(5月15~17日のブレヴィティ作戦を撃退した後)にロンメルによる麾下の指揮官達の解任は行われており、この時期にシュヴェリーンが解任されなかったのは後述のことから確実で、だとするとさすがに前記のセリフをロンメルに対して言ったのではない……?

 1941年6月22日、バルバロッサ作戦が開始されます。

 そのうちにロンメルは、ヒトラーがソ連に侵攻したことを知った。ロンメルの部下の指揮官たちはこのニュースに驚愕した。シュヴェーリンは自分の幕僚に対してひそかに、「大変なことをしたものだ。これでわれわれはこの戦争に負けてしまった」といった。ロンメルはいつものとおり楽観的であった。
『狐の足跡』上P165



 良く分かりませんが、この後の時期?、フォン・シュヴェリーンは北アフリカからドイツに帰還し、参謀本部の要員によって聴取を受けたようです(他の解任された指揮官達も聴取を受けていました)。

 シュヴェーリンは、トブルクは「ヴェルダンの小型版」と化しつつあると警告した。そして、現役の一個連隊をどこか他の方面で使用するようにと意見具申した。「当地においては将官や各部隊長が使い捨てにされる率が高いので、いつ私の順番がくるか予測することができる」と、皮肉な調子で書いている。
『狐の足跡』上P166




 ただしシュヴェリーンがロンメルに解任されたか否かに関して、例えば『狐の足跡』でもノルマンディーの頃に再びシュヴェリーンが登場した時に、

 シュヴェーリンは公然とロンメルの命令にそむいて本国へ送還されるまで、最初からロンメルとともにアフリカで戦った人物である。
『狐の足跡』下 P233


 と記述されていたり、5月中にロンメルに解任された指揮官達と並べて↓と記述している本もあります。

 ロンメルは第200【特殊任務連隊】指揮官であったゲルハルト・フォン・シュヴェリーン中佐も好きではなかった。彼はベルリンのOKHと強いコネクションを持ち、貴族階級の少しばかりお高くとまった人物であったのだ。
『Desert Fox: The Storied Military Career of Erwin Rommel』P72


 一方、同書の別のページでフォン・シュヴェリーンが自ら転属を希望したと書いてあるのを見つけました。

 第200連隊将校の伯爵フォン・シュヴェリーン大佐はロンメルが彼をクビにする前に転属を希望した。
『Desert Fox: The Storied Military Career of Erwin Rommel』P89





 1941年7月、フォン・シュヴェリーンは中央軍集団戦区の第20自動車化歩兵師団の第76自動車化歩兵連隊長に任命されます。

 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第20自動車化歩兵師団。

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 同師団はその後北方軍集団戦区へと回され、フォン・シュヴェリーンはヴォルホフ付近の攻防戦に参加。1942年7月には同じ北方軍集団戦区の第8猟兵師団長に任命され、解囲されたデミヤンスクへの回廊の北側を守って11月まで戦います。

 1942年11月13日、今度はコーカサス地方に展開していた第16自動車化歩兵師団長に任命されましたが、わずか6日後にソ連軍が天王星作戦を発動。スターリングラードが包囲される中、フォン・シュヴェリーンは同師団を巧みに指揮して第3次ハリコフ会戦、ミウス川防衛戦、ザポロジェ橋頭堡の防衛戦などを戦い、1943年5月17日に柏葉騎士十字章(シュヴェリーンのドイツ帰還時にベルクホフでの式典でアドルフ・ヒトラーが直接授与)を、さらに11月4日には柏葉剣付騎士十字章を受章します。

 ↓OCS『Case Blue』の第16自動車化歩兵師団。

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 同師団は1943年6月23日に改編され、第16装甲擲弾兵師団となりました。

 ↓OCS『The Third Winter』の第16装甲擲弾兵師団。

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 しかし1944年1月から3月のニコポリ橋頭堡からの後退戦で大損害を被り、同年春に休養と再編のため、パリ郊外へと移送されます。同師団は再編されて同年3月28日に第116装甲師団となりましたが、この時どうも、長い間師団を率いてきたフォン・シュヴェリーンではなく、ゲルハルト・ミュラーという人物が新師団長に任命されたようで、しかもこのミュラーは師団長としての経歴はなきに等しい人物だったようなのです。

 これまでフォン・シュヴェリーンの下で戦い、彼に忠誠を誓ってきた第116装甲師団の司令部将校達や隷下部隊の指揮官達は、ほとんど前例のないことにこの新しい師団長に対して反旗を翻し、彼の命令には従わないことを宣言しました。OKWは、反乱を理由に師団の将校達を軍法会議にかけるか、ミュラーを師団長から外すか、どちらかしかありませんでした。そして後者の道が選ばれ、フォン・シュヴェリーンは5月1日付で同師団の第2代師団長に就任したのです。

 5月には同師団は第179予備装甲師団を吸収。6月6日のD-Dayには同師団はセーヌ川北岸(パ・ド・カレー地区)にいましたが、ノルマンディー戦に投入されたのは7月下旬のことでした。『狐の足跡』にはこう書かれています。

 この師団は春以来、なすことなくイギリス海峡に面した地区において休養しており、反ヒトラーの陰謀関係者たちによって、来たるべきクーデターに際して使用するために控置されていたのである。
『狐の足跡』下P282

 第116戦車師団長であった男爵ゲルハルト・フォン・シュヴェーリン将軍もシュパイデル【当時ロンメルの参謀長で、ヒトラー暗殺計画に関与していたとされる】と同じように、ベルリンにおける反ヒトラー陰謀の中心人物であったベック大将を尊敬していた。【……】敵がノルマンディー上陸作戦を開始したとき、シュヴェーリンと彼の幕僚は師団がノルマンディーへ転用されないことを知ってほっとした。そのかわりに、不可解なことにDデー当日、彼らはノルマンディーから遠ざけられて、イギリス海峡に面した地区へ移動させられたのである。その途中、彼らがロンメルのシャトーの近くを通りかかったとき、シュヴェーリンは近くの森の中で止まって、自分の書記のゲルハルト・ラーデマン曹長にドイツの状況に関する覚書を口述し、筆記させた。彼はもはや絶望的であると考えており、政権を交代させることを提案していた。そして、彼の率いる第116戦車師団は彼だけに対して忠誠であることを匂わせていた。それから彼は、情報将校のアルトゥール・ホルターマン少佐に一ページだけのタイプした文書 - 彼はその写しを作らせないように命令した - を持たせてシャトーにゆき、それをシュパイデルに渡させた。そのときから、ホルターマンはシュパイデルとシュヴェーリンの間の秘密の伝書使として行動することになった。シュパイデルはシュヴェーリンに、彼の師団は計画中のヒトラー政権打倒に使用するため、予備隊として控置されていると知らせた。このようにして、ロンメルが必死になって、遠く独ソ戦場や南フランスからまで増援のための兵力を引き出そうとしていたときに、シュヴェーリンの率いる第116戦車師団は7月19日まで、何もしないでいたのである(もうひとつの反ヒトラーの戦車師団である第2戦車師団も使用することができなかった。6月12日、国防軍総司令部が直接命令して、この師団をノルマンディーの戦線へ移動させた)。
『狐の足跡』下P233



 1944年7月20日にシュタウフェンベルクらによるヒトラー暗殺事件が起こりますが、失敗。


 第116装甲師団はノルマンディーへと移動し第47装甲軍団の麾下となって戦いましたが、軍団長のフォン・フンクが、7月28日のVireでの反撃においてフォン・シュヴェリーンが消極的、臆病、無能であったと非難したそうです。ところがむしろフォン・フンクの方が徹底的に嫌われることになり(すでに嫌われていた?)、シュヴェリーンはいったん第116装甲師団長の地位を解任されたものの、その後まもなく再任されたのだとか。

 8月中旬に同師団はファレーズ包囲環に閉じ込められそうになり、必死の脱出を試みてなんとか離脱に成功した時には、わずか1個大隊程度の歩兵と12輌の戦車を残すのみとなっていました。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第116装甲師団。

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 ライン川を巡る攻防を中心に描くOCS『Beyond the Rhine』は1944年9月5日ターンから開始され、その時点では第116装甲師団は2ユニット(第156自動車化歩兵連隊、第116装甲偵察大隊)しかありません。残りのユニットはデッドパイルにあり、補充で復活させることができます。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』のキャンペーンの第116装甲師団のセットアップ位置とアーヘン。

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 アメリカ軍がベルギーとドイツの国境(マップ上の紫色の破線)を越えてくる中、シュヴェリーンの指揮する第116装甲師団はアーヘンの街に展開していました。しかし戦力はわずかしかなく、アーヘンを守ることはとてもできないし、またそのために戦うことは戦術的に無駄な犠牲を払い、街に残っている民間人(数千人がまだ避難できていませんでした)を危険にさらすことになると思われました。フォン・シュヴェリーンは、アーヘンは神聖ローマ帝国皇帝たちの古都であり、戴冠のための都市であったことも考慮して同市からの撤退を独断で決め、2週間前にディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍がパリに関して行ったような方法で、上層部の承認を得ることなくアーヘンを無防備都市と宣言することにしたのです。

 フォン・シュヴェリーンは、この宣言を通知し、残ったドイツ民間人を人道的に扱うように要請する公式声明を書き、それを街の郵便局に置いて、近づいてくるアメリカ軍司令官がそれを知ることができるようにしました。ところが、シュヴェリーンが街を放棄する準備をしていると、ドイツ軍の上級司令部から、アメリカ軍の進撃は再集結のために停止したようであり、アーヘンへの大規模な攻撃は差し迫ったものではないこと、それにアーヘンの防衛のための増援が向かっていることを知らせる情報が入ってきました。

 この時、アーヘン南西郊外にアメリカ軍の偵察部隊が現れ、シュヴェリーンはこれに反撃して街への進入を阻止するよう命令を受けたため、それに応じて第116装甲師団の装甲擲弾兵連隊に戦闘を命じ、撃退させることに成功します。状況が急変したためフォン・シュヴェリーンは郵便局に置いてきた無防備都市宣言の公式声明を回収するために将校を派遣しましたが、その時すでにアーヘンには、ドイツ軍将校団の揺れを監視するために親衛隊の保安警察が入っていたのです。

 公式声明を把握した保安警察はただちにフォン・シュヴェリーンを解任して逮捕し、軍法会議にかけることを検討しました。しかし、彼が柏葉剣付騎士十字章を所持していたため軍法会議は見送られ、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥とヴァルター・モーデル元帥の援助により、フォン・シュヴェリーンはアーヘンでの行動に関して厳しい叱責を受けただけで済みました。それどころかOKHにいたフォン・シュヴェリーンの友人達がこの事件をうまく処理し、別の指揮権を与えることに成功します。

 フォン・シュヴェリーンは1944年12月にイタリア北部で戦う第90装甲擲弾兵師団長に任命され、その後(資料によって記されている時期がバラバラです(^_^;)同師団を麾下に置く第76装甲軍団長に任命されました。1945年4月初旬には装甲兵大将へと昇進。これは異例のスピード昇進であって、ここでもフォン・シュヴェリーンの人脈が影響を与えていた、そうです。

 1945年4月25日(あるいは26日)、フォン・シュヴェリーンは上級司令部に無断で連合軍に対して降伏し、ケッセルリンク元帥の非難を浴びました。

 1947年に連合国から拘束を解かれ、1950年に西ドイツの軍事問題および安全保障政策に関する最高顧問に任命されますが短期で交代。その後、ドイツ自由民主党の軍事政策アドバイザーとして活躍します。

 フォン・シュヴェリーンは1944年9月にアーヘンからの撤退を最初に決定したことを理由として、戦後西ドイツの政治環境においてプロイセン将校の反ナチス的な信認を高めようと、自らを「アーヘンの救世主」と称するように努めました(ただし、彼が逮捕された後のアーヘンの戦いでは、この街はかなりの戦闘と破壊を受けました)。この物語はある程度受け入れられ、彼の名前を冠した「シュヴェリーン伯爵通り」ができ、彼には市民賞が授与されました。

 1976年に『狐の足跡』の著者デヴィッド・アーヴィングがフォン・シュヴェリーンをインタビューした時、彼はこう言っていたそうです。

 今日、シュヴェーリンは年老いて、バヴァリアのある湖のほとりにある大きな農場に住んでいる。シュパイデルと同じように彼も戦後、順調に過ごすことができた。彼は新生ドイツ軍の建設者となった。彼は私に、腹立たしいのは、シュパイデルが第116師団を控置していたという事実を認めなくなったことだ、と語った。「彼にもそれなりの理由があるに違いない」とシュヴェーリンは暗い表情でいった
『狐の足跡』下 P234



 フォン・シュヴェリーンは1980年に亡くなりましたが、その後2008年に、フォン・シュヴェリーンがアーヘンの軍司令官だった頃に10代の少年2人が掠奪の罪で即座に処刑されていたことを理由に通り名を変更すべきだという反対運動が起こり、シュヴェリーン伯爵通りという名称は廃止されました。




 今回はWikipedia等の他、↓などの資料も参照しました。

『ドイツ軍名将列伝』
『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』
『ドイツ軍装甲部隊全史Ⅲ』





ロンメルに解任されたフォン・ホルツェンドルフ第104自動車化歩兵連隊長について(付:OCS『DAK-II』『Smolensk』『GBII』)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺の指揮官について。

 今回も、早期のうちにロンメルに解任された第5軽師団隷下の連隊の指揮官である、フォン・ホルツェンドルフについてです。


 写真は↓にありました。

Holtzendorff, Hans Henning von - WW2 Gravestone


 ハンス=ヘニング・フォン・ホルツェンドルフは第一次世界大戦で戦いましたが、戦後の軍の10万人枠には選ばれず、1920年に大尉で退役。しかし1934年にヒトラーが軍拡を始めた時期に少佐として軍に復帰します。装甲部隊の可能性を感じた彼は、1938年に装甲部隊学校のスタッフになることができました。第2次世界大戦が勃発すると第561対戦車大隊長に任命され、この軍直轄の部隊を率いてポーランドとフランスの戦役で大きな成功を収めます。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第561対戦車大隊。
  (OCS『The Blitzkrieg Legend』には見つかりませんでした)

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 フォン・ホルツェンドルフは1940年9月に大佐に昇進し、1940年12月11日に第104自動車化歩兵(あるいは狙撃兵)連隊の指揮官に任命されます。

 で、メインの資料としている『Rommel's Desert Commanders』では、「同連隊は1941年2月に第5軽師団に編入され、3月には北アフリカに派遣された。」とあるんですが、他の色んな資料を見ていると、同連隊は元々第15装甲師団所属であり、1941年夏に第21装甲師団に移管された、とあります。フォン・ホルツェンドルフが第104自動車化歩兵(狙撃兵)連隊の指揮官であったことは他の多くの資料にも書かれていることなので、同書の著者サミュエル・ミッチャム氏が第15装甲師団を第5軽師団と誤解して記述したものでしょうか……?

 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団、第15装甲師団、第21装甲師団

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(詳しくは→OCS『DAK-II』ユニットで見る第5軽、第15、第21装甲師団 (2017/05/02)



 実はフォン・ホルツェンドルフの名前は、索引のある『砂漠のキツネ』や『ロンメル語録』には出てこないようで、私も正直その名前に印象はありませんでした(^_^; (オルブリヒなんかは「名前は見たことあるなぁ」という印象はありました) Google Booksでその名前を検索していたところ、

 ロンメルは、自軍の陣地を守り、兵力を温存し、これ以上の攻撃を行わないことを約束した。ロンメルは不機嫌そうに、第104野戦砲兵連隊長のハンスヘニング・フォン・ホルツェンドルフ大佐に、「当面はトブルク包囲を断念せざるを得ない」と敗北を認めた。
『1941: Armageddon: The Road to Pearl Harbour』

と書いてあるのを見つけたのがとりあえず唯一、彼が出てくる記述です(手持ちの本でも索引のない本に出てくる可能性は全然ありますけど)。ただこの本、部隊名を間違えている……?


 ロンメルの目には、フォン・ホルツェンドルフはシュトライヒオルブリヒよりも優れた働きをしていると映っていたようですが、満足させるには充分でなかったようで、1941年7月10日に同連隊長の地位を解任され、ドイツに帰国しました。


 数週間の無役の後、フォン・ホルツェンドルフは1941年9月に、別の自動車化歩兵連隊の指揮官に任命されました。東部戦線で戦っていた、第17装甲師団の第40自動車化歩兵連隊です。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第17装甲師団(このゲームは9月8日ターンまでを扱います)。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第17装甲師団。

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 この部隊は1941年から42年にかけての作戦で非常によく戦い、何十ものソ連軍部隊を撃破しました。しかしフォン・ホルツェンドルフは1941年12月18日に指揮権を手放し、ドイツに帰国します(理由は書かれていませんが、どうやら本人がそのように申し合わせたようだ……という様な書き方はされています)。


 フォン・ホルツェンドルフはそれ以後、実戦部隊の指揮を執ることはなく、1942年1月に装甲訓練学校の訓練部長に、1943年3月1日には自動車化部隊学校の校長に任命されました。

 このポストのまま敗戦を迎えてアメリカ軍の捕虜となります。この捕虜となっていた間、彼は『1941-1942年にアフリカでロンメルが成功した理由』という報告書を書きました(1947年)。この報告書は率直で偏りのないものであったらしく、「ロンメルの初期の砂漠での勝利はロンメルの性格、大胆な決断、強い神経、新しい戦闘方法を見つける能力、そして奇襲と即興の要素の活用に起因している」とし、特にイタリア軍の部隊から最大限の力を引き出すロンメルの能力を高く評価している一方、「確かに、彼は兵員や資材に極端な要求をし、部下の指揮官達は彼の頑固さや個人的な干渉にしばしば不満の声を上げた」と述べているそうです。それでもフォン・ホルツェンドルフはロンメルを高く評価し、世界史の中で彼に最も似ている指揮官はハンニバルであると考えていたそうです。

 フォン・ホルツェンドルフは1948年に捕虜収容所から出てハノーファーに住み、1982年に90歳で死去しました。



 今回、Google Booksで「hans-henning von Holtzendorff」と検索して上位2つ目と3つ目に出てきた本の記述も少し参照しました(検索結果)。Google Booksは非常に便利なので、ぜひ使ってみて下さい。



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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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