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ロンメルに解任されたオルブリヒ第5装甲連隊長について(付:OCS『DAK-II』『Case Blue』等)

 北アフリカ戦におけるロンメル周辺のドイツ軍、イタリア軍の指揮官達について手持ちの資料でまとめておきたいという思いがあったのですが、先日とりあえず収集の作業が終わったので、こちらもやっていきたいと思います。


 ロンメル周辺(麾下)のドイツ軍指揮官についてはこれまでに数人、ブログ記事を書きました(→ドイツ軍の指揮官人物伝)。

 その中の、第5軽師団長シュトライヒ隷下の第5装甲連隊長であったヘルベルト・オルブリヒについてです(「オルブリヒト(Olbricht)」と記載する場合もあるかのようなんですが、オルブリヒ(Olbrich)と書かれている場合の方が多いようです)。


 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団。

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 このうちの装甲大隊ユニット2つ(1-5と2-5)が、第5装甲連隊のうちの第1大隊と第2大隊ユニットということになります。


 オルブリヒは第一次世界大戦を戦って生き残り、軍の10万人の枠に残ることができました。1929年には工学博士号を取得。1938年にはヒトラー自らが国防軍を直接指揮するために同年創設された国防軍最高司令部(OKW)のスタッフに任命されます。

 ポーランドとフランスの作戦には参加しませんでしたが、1940年11月13日に第5装甲連隊の指揮官に就任します。第5装甲連隊はこの時点では第3装甲師団隷下でした。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第3装甲師団。

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 第5装甲連隊は、1941年2月18日に編成された第5軽師団へと抽出されました。第5軽師団が北アフリカへと派遣されることになり、第5装甲連隊は北アフリカに上陸。1941年3月末からメルサ・エル・ブレガやムススなどを攻撃しています。

 ただし、この時期の進撃中にオルブリヒの部隊は何度も道に迷って、ロンメルがそれにより時間を無駄にしたとイライラしていたことがロンメルの回想録に書かれています(『「砂漠の狐」回想録』P46,47辺り)。また、ロンメルが偵察もなしにトブルクを何度も攻撃して損害を出しまくり、麾下の師団長や連隊長達がトブルク攻撃を拒否する事態になった時、オルブリヒもその拒否の態度を支持しました。

 『Field Marshal: The Life and Death of Erwin Rommel』P262によると、このロンメルの第1次攻勢の時にはシュトライヒらがロンメルとよく衝突しており、オルブリヒもロンメルと口論になることが多かったそうですが、シュトライヒらが指揮スタイルや優先順位の違いで衝突していたのに対し、オルブリヒとロンメルの衝突は人格的なものが原因であったと見られる、とありました

 ロンメルはトブルク攻撃の失敗の原因を、シュトライヒとオルブリヒの2名のせいであるとし、他にも幾人かの更迭を上申します。

 ロンメルは、自分が選んだわけではない指揮官達や参謀将校達のグループを与えられていたのであったが、そのうちの何人かはロンメルに忠誠を誓うというよりは、陸軍総司令官のウォルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍元帥と参謀総長のフランツ・ハルダー大佐に忠誠を誓っていたのである。ロンメルは、それらの全員、シュトライヒ、オルブリヒ、アフリカ軍団参謀長クラウス・フォン・デム・ボルネ大佐、アフリカ軍団のIa(作戦主任参謀)エーラース少佐、第104狙撃兵連隊長ハンス=ヘニング・フォン・ホルツェンドルフらを交代させた。もちろん、ベルリンからは悲痛な叫び声が上がったが、この時点ではロンメルはヒトラーに非常に気に入られており、ハルダーは気に入られていなかったので、抗議の声は無に帰した。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P20


 フォン・デム・ボルネ大佐は以前から(第7装甲師団の時代から?9ロンメルの参謀長を務めており、穏やかで慎重な性格でしたが、仲違いしたのでした(『Monty and Rommel: Parallel Lives』P251によると、OKHがロンメルの無謀さを抑えるために、彼を参謀長にしたともありました)。エーラース少佐はアフリカ軍団の日誌の中で、もしロンメルが4月5日に思い上がって砂漠を横断し、メキリに向かうようなことをしなかったならば、途中で行動不能になることはなく、敵よりも先にトブルクへ到達することができたかもしれない、というようなことを書いていました(『狐の足跡』上P141)。



 オルブリヒはその後、1941年7月2日に、第4装甲師団隷下の第35装甲連隊長に任命されました。バルバロッサ作戦が始まったばかりの時期でありましたが、同連隊はすでにミンスクの戦いで大きな犠牲を出していました。

 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第4装甲師団

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第4装甲師団

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 オルブリヒは、ゴメリ、ブリャンスク、ビャズマなど、モスクワへの道中の激戦で同連隊を率いました。1941-42年の冬の戦いでは、少なくとも部分的には名誉挽回を果たします。



 オルブリヒはその後、1942年の青作戦に参加した第13装甲師団隷下の第4装甲連隊長に任命されました。 


 ↓OCS『Case Blue』の第13装甲師団。

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 第4装甲連隊は油田攻略の戦いの先頭に立ち、9月初旬にIscherskayaでテレク川を渡ることに成功。

 ↓OCS『Case Blue』の「世界の果て」シナリオの初期配置。

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 赤い○を描いたあたりにIscherskayaがあると思われます。その南東にグロズヌイ油田が見えます。


 渡河には成功したものの、第4装甲連隊はその後、ソ連軍からの激しい反撃にさらされます。同連隊は2日間で33輌のT-34やKV-1を撃破したものの、多くの死傷者を出し、その中には1942年9月10日に戦死したオルブリヒ大佐も含まれていました。OKHは、彼の死後、9月1日付でオルブリヒを少将へと昇進させました。




 メインの資料は『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』で、他にも『Field Marshal: The Life and Death of Erwin Rommel』、『砂漠のキツネ』、『The Caucasus 1942-43: Kleist's Race for Oil』、『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』などを参照しました。




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『昭和史の軍人たち』(秦 郁彦)の陸軍軍人だけ読了しました

 『昭和史の軍人たち』(秦 郁彦)の陸軍軍人だけ読了しました。





 もともと最近読んだ本で、ビルマ戦線で参謀(あるいは作戦課長)であった片倉衷(ただし)という人物が、えらく気迫のある人物で部下を怖がらせていたとか、第1次アキャブ戦の初期に作戦指導で飛び回っていたり、あるいは第2次アキャブ戦の時の「勇猛だがパワハラで部下を何人も死に追いやった」花谷正第55師団長を引っ張ってきたのだったとか、あるいは元々満州国を意のままに動かした人物だったのだ……というようなことを知って興味を持ちまして、片倉衷についての本を検索してみたら、この『昭和史の軍人たち』が引っかかって注文してみたのでした。


 この本は、海軍13人、陸軍13人の列伝形式になっております。扱っているのは↓の人物。

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 現状、陸軍にしか興味がないので、陸軍の軍人だけを読んでみました(小中の頃は海軍ファンでしたが)。

 すると、非常に私好みの叙述で、読むのが止まらないほどでした。つまり、両論併記で、中立的で、分析的。「かつてはこう言われていたが、現在ではこうも言われている。私は、~ではないかと推理している。理由としては~」というような叙述とか。

 宮崎繁三郎将軍に関しては、戦後しばらく全然有名でなかったのに、ある時から急に語られ始めて有名になったとか、あるいは宮崎将軍は政治的なことがとんと疎くて、そこらへんは無能力、しかし「こうこう、こういうことが大事で、こうやったうまくいくようだ」的な事を経験的に掴んで、それを朴訥と、不平も言わずにやっていく……というような人物だった、というような話が非常に興味深かったです。

 あるいは、石原莞爾の宗教的な側面について、その最終戦争論が日蓮宗的なものであったとの指摘は私は今までたぶん見たことがなく、「なるほど……!」と思いました。日蓮(的な人)ならそういうことは言いそうだし、日蓮に惹かれる超天才なら、そういうことは言うでしょう(^_^; もちろん私は石原莞爾については概論的な本の中の一部でしか叙述されているのを読んだことはなかったのですが、なんでこの人に当時もその後も惹かれる人が大量にいるのか全然理解できないでいた疑問が、氷解しました。(私は進化論やゲーム理論や脳生理学的なアプローチが大好きで、宗教的な見方に全然心惹かれない人間なので、理解できなかったのだと思います)


 著者の秦 郁彦という人は、「名前は見たことあるかな……?」くらいで全然意識していなかったのですが、手持ちの本を探してみると『昭和史の論点』という4人の対談形式の本の話者の一人であったので、今読み返してみています。



 ここのところ日本陸軍に興味を持って色々本を読んでいる中なので、以前読んだ時は分からないながらにただ読むだけ読んでいたことが、がばっと頭に入ってくる感じがあります。特に、二・二六事件が劣勢に立たされた皇道派の反撃の試みであったとか、皇道派には日本の国策において現実的なプランがないから劣勢に立たされるのは必然的だったとか、統制派の片倉衷が「皇道派を壊滅させるには暴発させるのが良い」と考えてその方向で綿密に事後処理のプランも立てており、二・二六事件で傷を負った後もそのプランを元に指示を出していたとか、って話を割とこの秦 郁彦という人が語っていて、「おおお……」と思ったり。

 一方で、Wikipedia「秦 郁彦」を読んでみると、色々批判もされているようで面白いです(私は、批判されない本や批判されない著者などというものはあり得ない、という、ポパー的な考え方をしています)。


 個人的にはこの本、オススメだと思いました。


BCSの戦闘について今回、識者諸氏がツイートしていただけたことまとめ

 BCSについて調べて書いていってますが、ツイッターにて、識者諸氏がBCSの戦闘についていくらかツイートしていただいてたので、そこらへんまとめてみました。



 まずは、↓から始まる一連のツイートで、N村さんとkimatakaさんのやりとりです。




 若干言葉を足したり、修正したりしています。

歩兵と戦車が共同して事に当たる場合、歩兵の規模を大きめにした方が上手くいく、というのが経験則です。例:歩兵中隊を戦車小隊が支援する、歩兵師団に独立戦車大隊が配属される、戦車師団は対戦を通じて次第に歩兵大隊の比率が増えてくる、等々。

もちろん機動戦を仕掛ける場合は戦車も集中運用した方がよいのですが、この攻防や諸兵科連合での使いやすい部隊規模の違いを、煩雑な中隊分割ユニットを使わずに「実はそこにもいた」でうまいこと胡麻化したのが支援のルールだと理解しています。

ちなみに戦車は1ステップ12両程度(中隊規模)を想定しているそうです(PLSデザイナーズノートより)。


射撃戦(Engagement)でサポート剥がしや、アシストできる位置【敵と味方に隣接できる位置?】に部隊を寄せて準備を整えて、通常攻撃(regular Attack)で相手歩兵大隊を排除(退却させる)する感じですかね

歩兵大隊はステップ数多いので、射撃だけでは時間掛かってしまうので。

【敵】歩兵大隊などを退却させたら、【敵】司令部とのSafe Pathをできるだけ遮断する

またはより前進して、相手HQを蹂躙できたらベスト(MSRの遮断とか)


サポートをはがした時点でAFVはすり抜けられますから、そのまま司令部と段列を蹂躙するとかありがちですよね。司令部下げれば、前線の部隊も指揮範囲で勝手に下がってくれますし。






 次は、↓から始まるN村さんの詳しい解説です。




 敵と味方の部隊名について、最初にまとめておきました。

守備側:A歩兵大隊にB戦車大隊(B分遣隊)の「支援(Support)」が付いている。

攻撃側:主攻のa歩兵大隊にc突撃砲大隊分遣隊(Red AV)の「支援(Support)」が付いている。その他に、b戦車大隊がいて攻撃を担う。

BCSにおける教科書的な戦闘例:守備側はB戦車大隊の「支援(Support)」を受けたA歩兵大隊。実際は「A歩兵大隊の陣地に、B戦車大隊X中隊が分遣されている」という状況。攻撃側の戦闘団司令部は、この陣地を本日の攻撃目標に指定(OBJマーカー配置)。

まず攻撃側のb戦車大隊が移動し、目標にヘクスに隣接(1-1.6km)して停止。B分遣隊の射撃ゾーンに侵入したため、B-b間で停止射撃戦(Stopping Engagements)が発生。順当にいけば「目標の支援喪失(Target Drop)」でB大隊の支援が解除される(B分遣隊が制圧または追い払われた)。

停止射撃戦に失敗した場合、続けて2回目の射撃で射撃戦(Engagement)を実施し、支援の解除を試みる(防御側に「支援」が残っていると、続く陣地攻略戦で防御側+1DRMを取られるので追い払っておきたい)。成功していた場合、A歩兵大隊への直接射撃(Attack by Fire)を実施して、敵ステップを削っておく。

攻撃側の主攻をつとめるa歩兵大隊(とこれを支援するc突撃砲大隊分遣隊(Red AV))が、b戦車大隊と目標の双方に隣接する位置に移動。敵陣地に突入する通常攻撃(Regular Attack)を実施。

この攻撃を歩兵直協の突撃砲分遣隊が支援(+1DRM)。また司令部へ制圧砲撃(Suppression Mission,+2)を要請。さらに突撃するa大隊の側面から、b大隊が戦闘を援護(Assist,+1)する。

A大隊が壊滅または後退すれば、主攻のa大隊が敵陣地に戦闘後前進して任務完了。練度(AR)が互角なら、攻撃側+4DRMで2d6の無修正7以上で防御側が後退。地形(防+1)で+3になってもいけるいける。本作のCRTは基本的に流動型で、本気で相手を殴るとわりと簡単に退却する。

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ただし防御側が準備防御(Prepared Defense,防+1)を済ませている場合、無修正10以下はステップロスで死守に変わるので結構きつい(11以上で強制後退)。これは陣地と砲兵との連携を済ませ、歩兵が気合を入れて守っている状況。こうなると撃って攻めてステップロスで削りきるしかない。がんばれ。

※b戦車大隊は2回目の射撃の代わりに、歩兵を待たずに単独で蹂躙攻撃(Shock Attack)を仕掛けることも可能。でもこれは戦車の性能(AV値)を無視し、攻防の練度(AR)だけで通常攻撃CRTを使用するので結構危険。ただ平地を屋根付き戦車(黄色)が蹂躙すると(+2)が付くので、うかつに平地で守ると死ぬ。

防御側に「支援」がない場合、いきなり歩兵で寄せて通常攻撃を仕掛けてもいいし、雑魚装甲車の直接射撃で延々削り続けてもいい。またAFVは「支援」のない歩兵ZOCを無視できるので、隘路でなければさらっと迂回してもいい。たった数両(門)でも、対戦車火力があるか否かがポイント。

普通の戦車は赤火力(Red AV)で、攻撃、防御のどちらでも支援+1をもらえる万能ユニット。白抜き火力(Limited AV)は、機動力がなかったり(牽引対戦車砲)、固定砲塔やドクトリン的(米戦車駆逐車)に待ち伏せ専門のユニット。撃ち返しと防御支援はできるけど、攻撃には使えない。

独軍突撃砲は面白ユニットで、大隊集中運用すると防御限定(白抜き)、歩兵支援に回すと赤くなって攻撃支援が可能。これは歩兵直協が主任務だったことの反映だと思うけど、単純な性能比べにとどまらない、なかなかうまい処理。ソ連のSUシリーズも、このへんの処理が巧みな設定になってる。

長射程AV(Stand Off AV)はv2.0で扱いが大きく変わったユニット。v1では支援でもホスト起点に射撃可能なチート。v2では単体でのみ射撃可能で、支援時は防御専門に。RedとLimitedの防御寄り中間みたいな感じ。まとめて攻撃に使うか、防御支援に使うかはお好みで。攻撃支援の効果はないので注意。

突破AV(Breakthrough AV)は、ブルムベア、虎I/II, IS-2, ISU-152みたいな人たち。名前は凄いけど、特殊効果はオーバーラン(Shock Attack)で地形を問わず+2DRMがつくだけ。強いことは強いけど、SSRなみのレアキャラかつ蹂躙にしか効果がないので、ざっと登場ユニットをチェックしたら忘れてもいい。

このシステムで古典作戦級ゲーマーが面食らうひとつが、1ユニットずつ行動を逐次解決するため、個々の戦闘では兵力の大小をほとんど問題にしないこと。攻撃側は援護ユニットで+1DRM、防御側は2ユニット(スタック上限)いれば+1DRMを得られるだけ。

このへんはサポートブックで「包囲攻撃と戦力集中の幻想」みたいな解説があるので、気になる人はどうぞ。


 この最後の「サポートブックで【……】」という話は、↓にあります。

BCSの『v2.0 Series Support Book』のデザイナーズノートをDeepL翻訳で和訳しました (2022/05/09)



 こういう話、大変ありがたいです(T_T) 今後、何度も読み返しつつまた調べていこうと思います。




BCS『Baptism By Fire』シナリオ5.2をVASSALで練習プレイしていってみる。その3

 前回↓の続きです。

BCS『Baptism By Fire』シナリオ5.2をVASSALで練習プレイしていってみる。その2 (2022/05/25)




 アクティベーションに入っていきますが、その前に勝利条件や増援のチェックをしようと思います。


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 このシナリオは4ターンで終了します。

 枢軸軍は、赤い○の3つのヘクスをすべて取った上で、オレンジ色の〇のうち1つを支配していれば勝利します。

 連合軍は、緑色の○の2つを支配していれば勝利します。それ以外は引き分けです。

 枢軸軍はマップ東端からある程度増援が出てきます。連合軍はシナリオ後半にマップ北端から結構多くの増援が来ますが、歩兵が多いです。

 連合軍プレイヤーとしては、最初からマップ上にいるアメリカ軍ユニットの内、北東にいたCCCが必要な勝利ヘクスの一つのスベイトラを押さえられるなら押さえ、南東にいたCCAが(結構厳しいでしょうが)勝利ヘクスのうちの一つのカーンの十字路を確保しようとするでしょう(あるいは、最も南東にあるシディ・ブ・ジットを確保し続ければ、少なくとも枢軸軍の勝利を阻止できます)。

 枢軸軍はできればカーンの十字路もスベイトラも両方、第1ターンか第2ターンの内に取ってしまいたいと思われますし、勝利のためにはそれ以上進撃しなければなりません。




 一方で、南東のCCAのユニットの一部には、特別なルールが規定されています。

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 赤い□で囲んだ3つのユニットは、この場所から移動しない限りは「Safe Path」を有しているとみなされます(3.3)。つまり、本来1つのアクティベーションの最後にはIsolation(孤立)しているかをチェックし、「Safe Path(≓5+5ヘクス)」やHQのCommand Radius(指揮範囲=5ヘクス)から外れていれば、どんどん損耗していくのですが、これらのユニットはこの場所に留まる限り損耗しない、と。
(ちなみに、一番北にあるユニットを指揮していたウォーターズ(Waters)中佐は、パットン将軍の娘婿だったそうです)



 ↓これらの3つのユニット+最北のユニットの南にいる機甲ユニット(すべて再建不能)。

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 ルールには、これら3つのユニットは史実での使用され方を反映して非常に低い移動力を持たされている、と書かれています。実際、これらのユニットは展開面で2、移動面で4移動力なんですが、通常のアメリカ軍歩兵ユニットは展開面で4、移動面で8移動力を持っているので、当社比2倍遅いことになります……。


 ↓で、史実を調べてみました。




 この本によるとどうも、これらの3ユニットは撤退をしたかったのだけども、遠方から現実を直視することもなく指揮を執っていたフリーデンドール将軍(アメリカ戦史上特筆されるほどのダメな将軍)が撤退を許さなかったようで、結果的に壊滅することになった……?(→チュニジア戦:米軍のフリーデンドール将軍について、まとめ(付:OCS『Tunisia II』) (2019/05/31)

 そうすると、ドイツ軍としてはこれらのユニットを壊滅させるべく何らかの努力をした方が良い……?(そのヘクスから追い出すとか?)



 また、史実ではドイツ軍はまず、シディ・ブ・ジットを包囲してCCAを壊滅させるように動いていたようです。ただし、アルニム将軍の副官であったツィーグラー将軍がこの作戦を指揮していたのですが、CCAをほとんど壊滅させることに成功した後、アメリカ軍の反撃を予期してシディ・ブ・ジット周辺に留まり続けたため、ロンメルは「すぐさまスベイトラに向かうべきだ!」と連絡を入れたそうです。ところがツィーグラー将軍(とアルニム将軍)はロンメルの主張を無視した、と……。


 スベイトラにどれだけ早く到達しようとすべきか、あるいはCCAをどう処理すべきか、そこらへんが悩みどころとなりそうという感じでしょうか……?


BCS『Baptism By Fire』シナリオ5.2をVASSALで練習プレイしていってみる。その2

 前回↓の続きです。

BCS『Baptism By Fire』シナリオ5.2をVASSALで練習プレイしていってみる。その1 (2022/05/24)




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 「Pre-Turn Pahse」の「◊ Assignment.」(支援の割り当て)からです。

 しかし実は、BCS 1.0gの「第1ターン」についての規定で、第1ターンには「Assingment Phase」はありません、とされています。

 あるいはまた、シナリオ上の状況的にそもそもどうも、(Assingmentの上の2つの小項目に書かれているような)「(分配可能な)Arty Point」も「Independent Unit」も存在しない? 良く分かってません(^_^;



 で、「第1ターンにはAssingment Phaseはない」ということなんですがしかし、増援が存在するのであれば、その増援内で「Assignment」が可能……らしいのです。ところが、その規定がどこに書かれているのか見つけられませんでした。また見つかったら(あるいは教えてもらったら)書き換えておきます。

 とりあえずそう理解しておいて、「◊ Assignment.」の中の最後の「◊ Units enter or exit Support.」(ユニットを支援に割り当てたり、外したりする)を行うことにします。



 「支援(Support)」とは何か? 私はその全体像をまだ理解できていませんが、とりあえずおおまかに言って、「歩兵部隊の対戦車防御能力を高めるために、自軍の対戦車砲や戦車を割り当てること」のようです。

 歩兵ユニットに「Support」が付けられていない場合、戦車に一方的に撃たれたり、ZOCを及ぼすことができず周囲を好き放題通り抜けられたりしてしまいます。逆に「Support」を付けておけば、戦車と交戦しても相手にダメージを与えられるかもしれないし、戦車が周りを好き放題通っていくことも避けられます。

 もちろん、だからと言って、「じゃあ、Supportは付けられるだけ付けよう」というわけにはいきません。部隊(フォーメーション)のユニットの中から、「これはSupportに割り振って歩兵の防御用に使う、これは割り振らないで攻撃部隊として使う」の配分をしていかなければならないわけです。


 ↓が、第1ターンに登場するドイツ軍のフォーメーションです(同一フォーメーション中の第2ターンに登場する分は除いてあり、また「表裏面」の内、関係してくるサイドを表にしています)。

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 ルール的には、「AV値(ユニット左下の数値)を持つユニットをSupportに指定すると、同一フォーメーションの中のAssault Arrow(ユニット左下の↑印)しか持たないユニットのSupportになれる」というものです(v1.1まではここの規定が全然違っていたようで、v2.0準拠でない記事等を読む時には注意が必要っぽいです)。

 AV値というのは、「砲」(戦車砲とか対戦車砲とか。大砲は含まない)の強さの値のようです。最低は0で、普通ぐらいの戦車部隊だと2というのが多く、『Baptism By Fire』ではティーガー部隊の展開面の5というのが最強(移動面では4)。『Last Blitzkrieg』のヤークトティーガー部隊なんかは展開面で8(移動面で7)もあります! 戦闘(射撃や攻撃)では、アクションレーティング(ユニット下部真ん中の数値で、部隊の質を表す。0~5で5が最強)と足して使用します。

 Assault Arrowは小火器や機関銃だけで戦う歩兵部隊である(を持つ)ことを表し、戦闘ではアクションレーティングの値そのままが使用されます。

(じゃあ、戦車ユニットはその足した値を、歩兵ユニットはARだけ書いとけばええやん、という気もしますが、ARだけで何かをチェックしたりすることもあるとか、展開面と移動面ではAV値だけが変わるとか、そういうことの為にそうなっているようです)


 この時、Supportに指定されたユニットは、もはやマップ上には置かれなくなります。つまり、同一フォーメーション内の歩兵ユニットに分散配置された、ということになるわけです(同一フォーメーションに大量に歩兵ユニットがあっても、それらすべてがSupportされていることになります)。


 ↓「Axis HQ Track」ボタンを押して、「Axis HQ Marker Track」ウィンドウを表示させたところ。

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 それぞれのHQ Marker Trackがあり、その中の一番下の2つが「Support」となっています。Supportに指定されたAV値を持つユニットは、ここに置きます。2ユニット(以上)をSupportに指定してSupportの枠を2つとも埋めると、「Multiple Supports」となり射撃戦で+1修正が来たりします。Supportに入ったユニットのAV値の色によって、Supportでも効果が変わってきたりします。

(紙のマップとユニットでプレイする場合、このHQ Marker Trackはゲームに付属していません。Board Game Geekなどで有志が作ったデータが公開されています。私も作ってみました。↓
BCS『Baptism By Fire』用のHQディスプレイシートを自作してみました(暫定版) (2021/01/08)
BCS『Brazen Chariots』用のHQディスプレイシートを自作してみました(暫定版) (2021/02/25)


<2022/05/26追記>

 ツイッターにてこのようなコメントをもらいました。なるほど~。



<追記ここまで>




 で、実際のプレイにおいてどのユニットをSupportに指定するかですが……。とりあえずシュテンクホフ戦闘団(Stnkoff)の、水色(ドイツ空軍)の88mm砲はSupportにしておいたらいいんじゃないか、というのは衆目の一致するところのようです。

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 シナリオの状況的にドイツ軍はこれから進撃していくところなのですが、「88mm砲部隊を進撃時の一部隊として運用する」のはあまりよろしくないのは想像できます。BCS上で具体的にどう良くないのか、私はまだ理解できてませんが(^_^; でも歩兵のサポート用に配属しておけば、歩兵が戦車等で攻撃された時に、88mm砲がうまく働いてくれるのでしょう。


 あと、マーダーの部隊(兵科マーク内にMdrと書かれている)をSupportに入れるか、あるいは攻撃部隊として使うか、は微妙なところらしいです。BCSでは、AV値(ユニット左下の数値)が赤くて兵科マークが黄色い「普通の戦車」が攻撃部隊として最強で、AV値が色なし(地の色が見えている)で兵科マークが白い「オープントップとか」は劣っており、史実的に考えてもどちらかと言えば防御に使った方がいい部隊なのでしょう。しかし、シナリオの状況的に見て、進撃局面なので、マーダー部隊も攻撃的に使うことにして、今回私はSupportに入れないことにします。


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 ↑HQ Marker Trackをマップ上に移して、88mm砲ユニットをSupportの枠に置いてみました。一応、AV値の種類の違いから来るSupportの種別を表す「Stand Off Support」マーカーを載せておいた方が(初心者には)いいようなので、そうしておきます(慣れている人はマーカーを置かなくても分かり、置かなかったりするようです)。

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 ↑「v2.0 BCS Support Book」P20の「ZOC Types and Effects Chart」から。



 増援もすでに「◊ Prepare Reinforcements.」の時にマップ上に置いた方が良かったようなので、置きました。増援のスタックには「FRESH」(疲労を全然してないことを表す)マーカーも付いてきたので、「Fatigue」の枠に置きました。アメリカ軍のCCAも同様にしてあります。ユニットを増援のウィンドウ上からマップ上に移すと、「Moved」という既に移動したことを表すマークが付いてしまうので、それは「Moved」ボタンを押して消しました。

(アメリカ軍側はSupportに入れるユニットを、セットアップ時にSupportに指定できないのだろうか……? と思ったのですが、BCS 1.0fのセットアップ時の注意の項に、「セットアップ情報に「in Support」と記してある場合のみSupportに指定でき、そうでないならばできない。」と書いてあり、セットアップ情報には「in Support」と書かれたユニットはないので、無理だということが分かりました。)

<2022/05/26追記>

 jinrinkiさんにコメント頂きました。『Baptism By Fire』1.6で、アメリカ軍とイタリア軍はAVユニットをサポートに指定できないと規定されている、とのことでした。ご指摘ありがとうございます!

 尤も、だとするとSupport面しかないようなユニットならばSupportになれるのかな……と思って探してみましたが、アメリカ軍とイタリア軍ユニットにはそのようなユニットが存在していませんでした(^_^;

<追記ここまで>



 とりあえずこれで、「◊ Assignment.」は終わりです。



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 次は「◊ Orders. [Optional]」ですが、これはオプションなので無視します。

 最後に、「◊ First player determination.」(先攻プレイヤーの決定)です。

 BCSはOCSと同様、各ターンの先攻・後攻がコロコロ入れ替わる可能性があります。両軍プレイヤーが2D6するのですが、OCSと異なり、大きい目を出した側の陣営が必ず先攻になります(OCSは、大きい目を出した側が先攻か後攻かを選べる)。
(尤も、OCSでは先攻はそのターンの前半ずっと動くわけですが、BCSの先攻はフォーメーションの1つを動かすだけで、次のフォーメーションは後攻、次のフォーメーションは先攻……となるわけで、OCSほどの重大さはないと思っても良いのかも)

 ただし、このシナリオはシナリオ情報で「First Player on Turn 1: Axis」と、第1ターンの先攻は枢軸軍であると指定されています。ですからダイスは振りません。



 これで、「Pre-Turn Phase」は終わりました。

 次からいよいよ、活性化に入っていきます。


 このエントリで何か間違いや、補足情報などありましたらぜひコメント下さい!(^^)

OCS『Arakan』(仮)の第1ターン先攻の日本軍が攻撃してきた場合をテストプレイしてみました

 OCS『Arakan』(仮)のテストプレイをおずおずと始めてみてます。


OCS『Arakan』(仮)の第1次アラカンキャンペーンシナリオの初期配置を考えてみました (2022/05/22)




 ↑の件ですが、戦闘モードより移動モードのARが低い場合(『The Blitzkrieg Legend』などで前例あり)、なるべく戦闘モードでいようとするのでその分進撃が遅くなっていのではないかと思います(尤も、補給事情の方がより苦しくてARなど関係ない可能性もあります)。


 英連邦軍の初期配置は、Bawli Bazar(↓の画像で司令部ユニットのいるヘクス)から2ヘクス以内ということに変更してみてます。

 ツイッターで、「日本軍が退却せずにとどまって、それを英連邦軍が殴った場合」について考えてましたが、今度は「日本軍がいきなり攻勢に出た場合」について考えてみました。


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 英連邦軍は、「軽障害にAR3」「中障害にAR2」「軽障害にAR3」の3スタックで、それぞれ12戦力の戦線。

 日本軍は、仮にAR2の方を狙って2ユニットが戦闘モードで攻撃しても、4:12で、中障害の最低コラムの1:3。「だったら、奇襲が起こりやすいオーバーランで行った方がいいじゃん?」と思い、1ユニットだけで移動モードでAR2のスタックにオーバーラン(移動力は3、3でギリギリ足ります)。

 すると、中障害1:3 +3のオーバーランで、平均的なダイスの目(7、3、7)で攻撃側奇襲が起こるものの結果はAo1 Do1ですが、良い目が出た場合には(Ae4) DL1o2はあり得ます。もしそうなった場合には英連邦軍の生き残った1ユニットは2ヘクス後退(たぶん司令部のいるヘクスに)して、そこでDGになる。日本軍に予備マーカー1個を持たせようかと思っていたので、その予備マーカーでもう1つの日本軍の中隊が1ヘクス前進して、突破フェイズ中に2ヘクス前進して司令部のいるヘクスを攻撃。中障害1:3 +4で、平均的なダイス目ではAo1 Do1ですが、良い目が出ればいきなりこの司令部がいたヘクスから退却させられ、そこにあったSPが踏まれる……(ただし、2ユニットで2回防御してるので、すでに1SPをそのヘクスで消費しているかも。後方のコックス・バザールから消費していた可能性もありますが)。

 だとすると、英連邦軍は先ほどのような12戦力ずつの3ヘクスの戦線もありだけど、そこから1ユニット削って、あるいは後方に下がったりしつつ、司令部に守備隊を置くべきかどうか悩むところではないか……。


 結構いい感じになっている気がしました(^^) 個人的にはかなり面白いです。

 気を抜くと英連邦軍もあっという間に窮地に陥る感じがあり、アーウィン将軍が慎重に慎重に事を運んだのもむべなるかな、という感じが出せそうです。


 日本軍は攻撃する時、戦闘補給を後方から入れることができない(SPが置いてあるアキャブが遠すぎるし、1Tラバを持たせようと思いますが、それでは前線にSPを入れられない)ので、Lowになりますが、Lowを再備蓄するとしても『Burma II』1.9により1Tでできます(通常は倍の2T)し、ユニットが壊滅したとしても補充で戻ってくる確率が連合軍よりは高率になる(する)と思われるので、前線で無理することの恐怖感は連合軍より少ないでしょう。


 そういえば、『Burma II』2.6bのバンザイアタックが使用できるのであれば、先ほどの日本軍の攻撃の成功率は格段に高くなりますね……。しかし1943年前半の時点では、まだバンザイアタックは普通ではないとして第1次アラカンキャンペーンシナリオでは使用不可にすべきか……? 第2次アラカンキャンペーンシナリオ(1944年前半)は、すでに日本軍は退勢にあるので、バンザイアタックはありだと思われます。


BCS『Baptism By Fire』シナリオ5.2をVASSALで練習プレイしていってみる。その1

 BCS『Baptism By Fire』をVASSAL上で練習プレイしていってみようと思います。

 シナリオは、一番プレイしやすいらしい5.2 Operation Spring Windで。



 実はこのシナリオのまるまる1ターンの「プレイの例」がBGGで公開されてます。

Baptism by Fire: Playing a Complete Game Turn

 ところがこれはBCS v1.0かv1.1によってプレイされているらしく、v2.0はその時代からかなり変更されていて、この「プレイの例」を見ながらプレイしてみると却って「訳が分からないよ」状態に……(T_T)

 やむを得ないので、基本線はこの「プレイの例」を参照しつつも、調べながらv2.0でプレイしてみようと。なるべく調べながら、自分にとっても他の人にとっても利益になるように詳しく書いていきますが、あえて後回しして調べないでおく部分もあると思います(Screenのルールとか)。これもまた、何か間違いを発見された方がおられましたら、ぜひぜひご指摘下さい!


 BCSに関する色々なブログ記事を↓にまとめてありますので、こちらもどうぞ。

BCS(Battalion Combat Series)関係




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 VASSALでシナリオを選んで画面が出てきた時点で、すでにセットアップはされています。

 ただし、BCSのユニットには(OCSと同様に)「戦闘力が高く移動力が低い面」と「戦闘力が低く移動力が高い面」(表と裏のどちらがそうかはBCSではユニットによって異なる)が存在しており、そのどちらの面で置くべきかについては(少なくともこのシナリオでは)指定されていません。紙のユニットでプレイした場合、表面で置くと「戦闘力が低い面」になっていることがままあるのですが、これはセットアップの時点でプレイヤーがどちらの面でも好きに置いていいようです(BCS v2.0 1.0fに「地形による制限に従いつつ、ユニットのどちらの面でもセットアップできます」と書かれています)。

 で、このセットアップにおけるアメリカ軍のユニットはまずは攻撃される側なので、「戦闘力が高い面」で置いた方がいいようです(Takuさんに聞いたところ、「戦闘力が低い面」で置くメリットはなさそうだ、とのことでした)。VASSAL上ではすでに「戦闘力が高い面」で置かれていました。



 ただし、セットアップについて、VASSAL上のデッドパイルに問題があるような気がします。

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 画像の赤い矢印で示したボタンが、デッドパイル(Graveyard:墓地)のウィンドウを表示/非表示の切り替えボタンです。デッドパイルにユニットが1つ置かれています。ところが、シナリオ5.2を包摂しているキャンペーンシナリオの5.1には「Dead Pile: Prov Arm Bn」と記載されているのですが、シナリオ5.2には記載されていません。エラッタ(16 March 17)にも言及はありませんでした。なので、これはプレイする際には取り除いておいた方がいいのではないかと思います(モジュールは現在最新の3.02でプレイしていますが、今後のモジュールでは修正されるかもです。もちろん、このユニットをデッドパイルに置いた状態でプレイするのが正しい可能性もあります)。



 で、もうプレイに入って良いようです。

 Battalion Combat Series Pageにある「BCS Series Tables v2.0」を見ながらやっていきます。


unit8947.jpg

 左側の「Sequence of Play & Activation Checklist」が、一番大きな枠組みになります。

 1ターンのまず最初に「Pre-Turn Phase」を処理し、その後「All Activations」で各フォーメーションの活性化に入ります(その内訳がチャートの真ん中の「Normal Activation」の部分です)。そしてすべてのフォーメーションの活性化が終了すれば、「Game Turn End」を処理して、1ターンが終わります。この大きな枠組みは、割と単純な気がします。




 では、「Pre-Turn Phase」を処理していきます。

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 まず、「◊ Reinforcements.」(増援)から。

 「◊ Weather Determination.」(天候決定)。

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 表にも「Weather is automatically No Rain on 14 Feb.」(2月14日の天候は自動的に晴れです)とあります(ルール上の記載は1.1)。このシナリオ(キャンペーン)は14 Febが第1ターンなので、自動的に「No Rain」です。


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 「Weather」のボタンを押すと、なぜか「Rain」になっているので、+あるいはーボタンを押して「No Rain」にします(ただし後述の「Turn Weather Track」では「No Rain」の方に天候マーカーが置かれていました)。

 「Rain」と「No Rain」のルール上の違いは1.1に書かれていますが、「No Rain」の場合は何もかも通常どおりなので、とりあえず何も気にしなくてOKです。あと、1.1には「Visibility(視界)」は常に4ヘクスである、と書かれていますが、これがどうゲームに関わってくるのか私はまだ理解していません(^_^;



 次に、「◊ Roll for Air Points and Replacements.」(航空ポイントと補充ポイントのダイス振り)

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 航空ポイントは連合軍が「1D6-2」、枢軸軍が「1D6」です。今回振ってみたら、連合軍が「5」だったので-2して「3」。枢軸軍は「6」でした。


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 「Piece」ボタンを押して航空ポイントマーカーを探すと、ありました。

 ところが、このマーカーをどこに置けばいいのか分かりません(^_^;

 とりあえず、連合軍と枢軸軍を分けて置ける場所を探してみると、「Turn/Weather Track」上の「Turn Record Track」に各ターンのSNAFUの修正を記している部分が「Axis」と「Allied」と書かれていたので、そこの上に置こうかと。

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 ポイントの数値はマーカーを右クリックして「Increase」、あるいはCtrl+Aで増加させられるのですが、なぜか5の次が0で、6が表示できない!(まあ紙のマーカーの場合、1か2しか表示できないわけですが) しょうがないので、3を2枚重ねておこうと思います(いっぺんに消費できるのは3ポイントが上限、という話をインストで聞いたりもしたので)。



 次に補充ポイントですが、表にも「Do NOT Roll for Repl Points on the first turn of any scenario.」(どのシナリオにおいても、最初のターンには補充ポイントのダイス振りは行いません。)と書いてあります(ルール上は1.7。シリーズルールでは2.2b)。なので、振らないことにします。

 ただ、表を見ていると、結構補充はやってきて、ステップを回復させられるようですね。



 次の「◊ Apply Replacements.」(補充の適用)は、補充ポイントがないのでパス。

 その次の「◊ Prepare Reinforcements.」(増援の準備)は、v2.0でこの用語を検索してみたのですが何も引っかからなかったので、単純に増援をチェックして、ユニットを準備する、ということでしょうか?

 v2.0のP11にある「2.0 GAME-TURN SEQUENCE」によると、「増援登場表に挙げられているエントリーする場所に、増援を置く。」と記されているので、とりあえずマップ上に置くべきであるようです。


unit8940.jpg

 「Axis Reinfs」ボタンを押すと、枢軸軍の増援がすでに準備されています。これらをマップ上の指定のエントリーヘクスの近くにとりあえず置いておくことにします(指定されたヘクス(複数)のうちのどのヘクスから実際に登場するかは、活性化した後に選べるはずです)。



 次は中項目?に戻って「◊ Assignment.」(支援の割り当て)ですが、これは割と話が長くなり、すでにこのエントリ自体が充分長いので、ここでいったん切りますね。



TakuさんにBCSインストしてもらいました&今回メモった内容

 ミドルアース大阪で、遠路はるばる中部地方から来て頂いたTakuさんにBCSをインストしてもらえました。ありがとうございます!(^^)





 かなり実りがありました。「v2.0は結構完成度が高くて、大幅バージョンアップはしばらくはないのではないか」とか「BCSは、ルールをミスしながら(少しずつちゃんとしたルールに近づけていきつつ)プレイしていてもそれほど問題のないゲームだと思う」というような話が聞けたのも良かったです。

 今回インストしてもらった印象でも、BCSは今までのウォーゲームとは全く異次元の、あるいは新しい世代のウォーゲームであり、今までの常識にとらわれないようにすべきだと思いました。「ディーン・エスイグ氏はすでに初老であるでしょうに、こんな新しいシステムを考えられるなんてすごいですよね」とTakuさんも仰ってました。

 厳密ではない、プレイヤーによって判断の異なってくるであろう要素(複数フォーメーションが現状「Mixed(混在)」しているか否かとか、退却方向の複数の優先事項が最大限満たされているのはどの経路なのか、とか)も結構あり、そこらへんはそういうものだと理解して取り組む必要があるようです。


 和訳は複数の方が作られていっているようなのですが、いつできあがってくるのか分からないので、とりあえず用語の問題は英語のまま理解しつつ自分なりに少しずつ慣れていこうかと。

 BCS入門用にぴったりのBCS『Arracourt』が出て、v2.0周りのプレイエイドも整い始めている今はBCSを始めるのに最適の時期であろう、という話も出ました。


 印象として、v2.0チャート表(Battalion Combat Series Pageからダウンロードできます)が結構よくできているようなので、基本的にこれを元にシークエンスや行動などをチェックしていくのが良さそうです。ただし、チャート自体に持主が赤ペンとかで適宜加筆していくのがいいと思います。

 あと、↑のページある「v2.0 BCS Support Book」のP19~24の表も印刷しておくと良いだろうと思いました。



 今回メモったこと等を、今後のためにも(また、これからBCSを練習プレイしていこうという人のためにも)書いておこうと思います。ただ、その内容に間違いがあれば問題なので、識者の方は間違いに気付かれましたらぜひご指摘下さいませ!(あるいは色んな意見とかもぜひ)

 ゲーム用語は英語のまま書くことにしますので、日本語で書いている用語は一般名詞的な意味合いです(でも一応、ゲーム用語の後に大体どういう性質のものか書くようにします)。


・スタック制限は「2ユニット」だが、ユニットが2つがスタックしていたら、一緒に退却する。Combat Train(輜重段列)とスタックしていたユニットが退却したら、Combat Trainも退却する(4.7h)。

・歩兵と機甲でスタックしていて攻撃をかけられると機甲だけが防御戦闘して、退却の結果になると歩兵も退却してしまうので、「歩兵+機甲」のスタックは、「そのヘクスで耐えたい」という意図においては意味がない。

・「機甲+機甲」も防御戦闘は1ユニットでしかしないから、スタックの意味は低い。それよりも防御においては機甲ユニットを縦に並べて縦深防御した方がいいだろう。ただし、全速力で移動中で敵に攻撃される可能性がなくて、移動力を無駄にしたくないという意味合いでスタックしておくのはOK。

・「歩兵+歩兵」のスタックは、ステップ数が増えて耐久力が増えるという意味ではなしではない。

・HQが踏まれてもそれほど大したデメリットはないので、HQには何もスタックさせない方がいいくらい。

・(防御的状況で)やられそうなユニットをHQの隣に置くべきではない。そのユニットが退却の結果になった時、どうなるかを「Retreat Executionの表」で見ていくと、「Combat Table」の「Automatic Retreat」の「No HQ Refuge」でいきなりマップ外に出されてしまうことがある(後で戻ってくるけども)。でもHQから2ヘクス離しておけば、「いきなりマップ外」は避けることができる(少なくとも3ヘクス以上退却してHQから1ヘクス以内になれるなら、「HQ Refuge」の結果になれる)。なぜこういうことが起こるのかを推測すると、たぶん「退却退却~! あれ、でもBCSでは退却は普通3ヘクスなので、俺たちも3ヘクス退却するけど、その退却の前半の時期に俺たちの司令部を追い越して退却してしまったぞ!? ってことは、俺たちの心の支えでもある司令部ももうダメだ! これはもう散り散りバラバラに逃げるしかない!」ってことじゃないかと。でもそれが「俺たちが3ヘクス退却したら、より前線に近い方向ではあるけども司令部がいた。危ないけど……まだ耐えられるかも」とかになるのでは。教訓:「司令部は、遠くにありて思うもの」。ってか、司令部が遙か後方にいたとしても「No Refuge」の結果であればいきなり3ヘクス以上退却して、司令部の1ヘクス以内に行くことができるので、司令部を離して置いていても問題ない(ただし、そのユニットが攻撃されたらこの項目の最初に戻る(T_T))。

・あと、防御側がごちゃっと固まっていると、OBJマーカーを2つ置かれたヘクスの2ヘクス以内にいるユニットの数が多くなり、攻撃側が+1修正を得られる目標スタックの数が多くなってしまう……。

・VPヘクスにはOBJ(目標)マーカーを置いていないと入れない。OBJマーカーを2個置ける権利が獲得できたとしても、1つのフォーメーションで二兎も三兎も追うとうまくいかない印象なので、目標は絞って、フォーメーションが複数あることを活かしていく。

・Combat Trainは移動すると裏(ゴースト)になる。だけど第2活性化とかで移動させなければ、表に戻る。

・1つの活性化の最後に「Isolation(孤立)」をチェックする。この時、HQのCommand Radius(指揮範囲)内にいないユニットは1ステップロス。Safe Path(指揮範囲+5ヘクスだがもうちょい複雑)にもいなければさらに1ステップロス。MSR(Main Supply Route:主補給路)がブロックされていたらさらに1ステップロス。このステップロスはユニット毎に起こるので、6ステップユニットが2個スタックしていたりとかしていても2~3ターンで溶ける。なにそれこわい。

・Isolationしてるユニットがいると、第2活性化をすると再びIsolationチェックのタイミングが来てしまう。だからあえて第2活性化はやめておくという選択肢もありかも。

・Barrage(砲爆撃)の表で「当たり」となったら1ステップロスだが、これはスタックの中のユニット毎に1ステップロスする。このことを考えても、スタックすることのリスクが結構ある。

・味方ユニットで敵ZOCを打ち消してHQは敵ZOCに入れる(補給路上とか)。

・行動中(行動後)のユニットには、StoppedとFinishedという状態があり、それぞれで可能なことが異なる。「Stopped/Finished Chart」があるので、慣れない内は毎回チェックした方が良さそう。例えば、Assist(他の味方ユニットの戦闘を助ける)という行為は、そのユニットがFinishedであった場合には不可能。

・Regular Attack(通常攻撃)は1アクティベーションにつき1ヘクスに1回のみ(準備してやるものだという感じ)。Shock AttackやEngagementは何回でもできる。

・Stopping Engagement(途中停止射撃戦)について、基本の表の中に何も触れられていないので分かりにくい。移動してきて、敵ZOCで停止させられてEngagement(射撃戦)になるのがStopping Engagementだが、Engagementの大部分はむしろこれであり、そうでないケースというのは例えば活性化が始まった時にすでに敵ユニットに隣接している状態で、それで射撃戦が始まった、とかしかない。解決は普通にEngagement Tableで行う。

・Attack by Fire(戦車等が、対戦車砲などで支援されていない歩兵等に隣接して一方的に撃つ)は、Barrage Table(砲爆撃表)で、他に比べて非常なシンプルなやり方で「当たった(1ステップロス)か外れたか」だけを判定するのでびっくり。一方的に撃てるのだが、あくまでステップを削るだけであり退却させることはできない。

・Barrage Table上で、オープントップでない戦車とか(Hard unit)が硬くて(1/6でしか当たらない)個人的にびっくり。据え付けられた88mm砲とか(Deployed Stand Off unit)も同等で、それはまあ努力して隠すだろうから理解できる。オープントップは1/2とか2/3で当てられたりするので全然違う。

・攻撃側のユニットが、複数の防御側スタックと隣接して戦闘を宣言すると、防御側が、隣接している防御側のどのユニットと戦闘させるかを選べる。

<2022/05/24追記>

 コメントで、この件についてTakuさんに補足していただきました! ありがとうございます!(^^)

補足です:
これは Stopping Engagement の場合です。
通常の Engagement では、攻撃側(Active)プレイヤーが目標(Target)ヘクスを指定します。目標ヘクスの中に複数のユニットがあれば、防御側(Inactive)プレイヤーが 5.2b ii) の優先順にしたがって戦うユニットを選択します。
Stopping Engagement では、移動してきた攻撃側ユニットのあるヘクスへ AV EZOC を及ぼすすべてのユニットの中から、5.2b ii) の優先順にしたがって戦うユニットを選択します。4.4b i) に本件記載されています。つまり、目標ヘクスを攻撃側が定める上記の場合と比べて、防御側の選択肢が増えることになりますね。

参考:
Dean Essig
“Generally, the Firer chooses the hex, target chooses the unit in it...with the added effect that Stopping Engagement targets are selected by the Targeted player regardless of the hex it is in.”

http://talk.consimworld.com/WebX?14@@.1dd349d6/14934

また、Engagement 以外の攻撃では、攻撃側が常に目標ヘクスを定めます。



<追記ここまで>


・補給源からCombat Train(輜重段列)まではCrossing(複数のフォーメーションの輜重段列が同じ補給路に重なっている)していても良い。Combat TrainからHQまではCrossingさせないようにした方が良い(悪い修正が来る)。

・アクティベーションした時に、OBJ(目標)マーカーを置ける権利があっても置かないで移動しかしないでおけば、Fatigue(疲労)度はそもそも上がらない。

・マップ上のボックスの下に隠れているヘクスも使用できる(小道ヘクスが数えられたりする)。

 ↓この右側のボックスの下にありそうに見える小道とか。

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 それから、今回の練習プレイでは↓の画像の丘の上にいるアメリカ軍歩兵ユニットを完全に無視していた場合、その左下のヘクス(21.07)に移動されて二級道路が敵ZOCで封鎖されてしまい、ユニットの撃破も結構失敗したりして困ったことになってしまいました(もちろん、何かルールミスしている可能性もあります)。

unit8951.jpg

 そこで試しに、BBGで公開されている「プレイの例」の画像を確認してみたところ、↑の画像のようになっていて、枢軸軍側がこのようにドイツ軍歩兵を置いた場合、このアメリカ軍ユニットは前述のヘクスに入ろうとしてもZOC to ZOCでできないので、なんとかなりそうだということが分かりました。


 また、今回、マップ南端から第1ターンに入ってくるドイツ軍フォーメーションの一部が第2ターンにマップ東端から入ってくることを分かっておらず……。

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 第1ターンの内に左下の矢印のようにしてだいぶマップ中央まで進出していたため、第2ターンに東端から入ってくるユニットは指揮範囲内に入れることができず、Isolationでステップロスしてしまうのか? と思われました。ところが、3.6bで、増援で入ってくるユニットはいったん所属フォーメーションの指揮範囲に入らなければIsolationのチェックはしない、ということで「なるほど」と胸をなで下ろしました(^_^;





 実は個人的にまだBCSの面白さが良く分かってないのですが(バキッ!!☆/(x_x))、OCSが数ヶ月のキャンペーンを再現するのに非常に適していて非常に面白いように、数日~十数日の戦いを再現するのであればBCSの方が圧倒的に向いており、OCSでは再現の難しいレベルの作戦戦術級的な部分が非常に上手くシミュレートできているのであろう……とは思います。それでもって個人的には、BCS『Brazen Chariots: Battles for Tobruk, 1941』のトブルク~ハルファヤ峠あたりのエリア内の数日~数十日の戦いに興味を持っているので、それらが上手くシミュレートでき、ややこしいところがまあ何とかプレイでき、面白いのであればなぁ、と思っております。


 ミドルアース大阪で今後、ある方とOCS、BCS、SCSを練習プレイしていこうという話にもなったので、ジ・ゲーマーズファンを増やすためにも、今後活動していければなぁと思っています。


OCS『Arakan』(仮)の第1次アラカンキャンペーンシナリオの初期配置を考えてみました

 OCS『Arakan』(仮)のユニットマップを印刷したので、第1次アラカンキャンペーンシナリオの初期配置を考えてみました。


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 1つの案として、1942年12月15日ターンから開始します。赤い円は、「2ヘクス以内に自由配置」という感じ。日本軍部隊がアキャブ周辺に密集しすぎに見えるかもですが、アキャブ島に英連邦軍が直接上陸作戦を敢行してくる可能性があると日本軍は考えていました(実際、英連邦軍はそのように考えていたのですが、舟艇の都合がつかなかったのでした)。前線に出ている日本軍2ユニット(2個中隊)はあくまで前線偵察という感じです。

 史実では日本軍の前線の2個中隊は、「英連邦軍の本格攻勢の開始初頭に各個撃破されてしまう可能性が高い」として撤退を開始。その直後に攻勢のために前進した英連邦軍はもぬけのからになったかつての日本軍陣地を発見したのでした。

 12月15日ターンの先攻は日本軍とし、日本軍プレイヤーは史実通り撤退するか、あるいはそのままそこにとどまるかを選択できる……ということにしようかと。


 あとは、史実での進展状況を確認しつつ、補給線の状態を設定していくことが重要だと思われます。OCSは補給がなければ何もできない(極端な場合、部隊の維持さえできない)システムであり、史実で英連邦軍はこの後、補給路を慎重に確保しながら割とゆっくりと前進したことが過失の一つされている(しょうがない面も大きいと思うのですが)ので、そこらへんが再現可能なように。

 恐らく連合軍は史実的に一般補給路をまったく引くことができず、キャンペーン中ずっと「マップ上のSPを一般補給のために消費する」のでなければならないと思われます。つまり、かなり「補給ゲー(ム)」的な要素が強いという、OCSの中でもややマニアックな性質のシナリオではなかろうかと……(^_^;


OCS『Arakan』(仮)の第1次アラカンキャンペーンシナリオの前半用のユニットを作ってみました

 OCS『Arakan』(仮)の第1次アラカンキャンペーンに関して、詳細な戦闘経過と戦闘序列について再び作業をやりまして、前半(1942年12月中旬から2月末までで、日本軍の反攻が始まる前)はある程度調べられたので、最後まで全部調べる前に、その前半だけでテストプレイしてみようと考えました。


 マップの方が厄介だと思われたので、先にユニットを作ってみました。

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 以前書いてましたように、OCS『Reluctant Enemies』と同様に、標準スケールより部隊規模を1段階小さくして日本軍は中隊規模、連合軍は大隊規模でユニット化し、戦力値は3倍換算しています。

 日本軍の部隊は資料では大隊長名で呼ばれることが多く、将来的にはともかくとりあえず書いておいた方が自分にとって分かりやすくて良いかなと思ったので書き入れてみました。

 しかしその途中で、現在開発中のOCSタイトルでは師団マークを所属ユニットの右上に描いておくのがトレンドになっているなぁということに思い至りましたが、まあ現状では第33師団の部隊しか出てこないし……司令部は第55師団のも用意しておいたので、それぞれに通称号も書いてみました。

 第14インド歩兵師団も検索してみたら、師団マークがWikipedia上にありましてびっくり。旅団のマークはなかったので、イギリス領インドの旗を使ってみました。

 レーティングはとりあえず適当です。日本軍の機関銃中隊(MG)は、出さない方がうまくいくなら省略していいんじゃないかと思ってますが、どうでしょうね……。有延大隊の山砲兵第5中隊は伝統的に連隊一の馬の良い中隊だったそうで、移動力を高めにしました。他の大隊の砲兵中隊の話は確認できてないのですが、存在している可能性も結構あるだろうと思ってとりあえずユニット化しました(それぞれが「第5中隊」という名前になるのかどうか……?)。



 次はマップなんですが、山岳(重障害)とジャングル(軽障害)の間の地形である荒地(中障害)をどういう基準で置いていけばいいかが全然分からないんですよね……OCS『Burma II』のマップを見ていても。まあ、とりあえず「適当」にやってみてかなぁ、と思ってます。

ビルマの前線近くに到着したばかりの第53師団「安」(京都師管)の様子(付:OCS『Burma II』)

 続けて『菊と龍』を読んでますが、その中で歴戦の第18師団「菊」のボロボロの兵士が、ビルマの前線近くにやってきたばかりの第53師団「安(やすし)」の兵達と出会った時の様子に非常に興味を持ちました。





 ↓OCS『Burma II』の第18師団と第53師団

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 第18師団はその多くがAR5です。第53師団は(砲兵を除いて)すべてAR3ですが、AR3というのはOCSにおいては「普通」であって、弱いわけではない感じです。ただ、AR4か5が当たり前という日本軍の中では割と弱い方であると言えるでしょう(ただしもっと弱い部隊として、独立混成第24旅団や戦車部隊はAR2となっています)。
(AR=アクションレーティング。部隊の質を表し、5が最強で0が最低)


 精強な第18師団については↓をご覧下さい。

OCS『South Burma』(仮)に登場する日本陸軍師団について、『帝国陸軍師団変遷史』から(付:OCS『Burma II』) (2022/01/28)



 第53師団は京都で編成され、京都・滋賀・三重・福井の四府県を徴兵区としていました。京都の第16師団を基幹として編成されましたが、『帝国陸軍師団変遷史』によると「壮丁の体格の問題、尚文【武力をたっとぶ尚武に対し、文教礼楽を重視する】の土地柄、さらには訓練環境に恵まれておらず、大きな演習場は滋賀県の饗庭野しかない。これら悪条件が重なり、第16師団は常に問題とされ」ていたそうです(P83)。


 ↓OCS『Luzon: Race for Bataan』の第16師団

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 しまった、だとするとOCSルソンの第16師団は強くしすぎたか(^_^; まあ、この本の記述よりも後の時代で、中国戦線での実戦経験もあったようなので許される範囲ではないかと……。



 以下、『菊と龍』での話です(P99~102)。

 1944年7月5日頃、モガウン(ミイトキーナの西約60km)周辺で第18師団のボロボロの一部隊が出会ったのが第53師団の一部隊(中隊?)で、真新しい軍服に、ピカピカの小銃を持ち、山砲4門まで持っていました(第18師団は山砲は中隊に2門のみ)が実弾射撃どころか、一発も撃ったことのない新参部隊だ、ということがわかりました。
 さらに彼らは、マラリアにやられたから入院させてくれとか、足にマメができて歩けないと泣き言を言ったりして、モガウンまで行軍してくる間に過半数の兵が落伍していたとか。

 彼らの武器を見て第18師団の兵曰く、
「ちきしょう。いいものをもってやがる」【と、標準語で書かれていますが、恐らく九州北部の方言であるべきかと】

 第53師団の兵達は第18師団の兵達の、軍服はボロボロに引きちぎれ、髭ぼうぼうで、目ばかりギョロつかせた風体を見て奇声をあげておったまげます。
「あきまへん、あきまへん」
 とおびえたような声であきまへんを連発する。

 その夜、第18師団の兵達は第53師団の宿営地を襲って、武器弾薬、糧秣をぶんどりました。第53師団の兵達はあっけにとられ、手も足も出なかったとか。

 この行動のため第18師団は後々まで「泥棒部隊」というありがたくないニックネームを頂戴することになったそうですが、しかしこれは、
『お前達のような腰抜けでは、連合軍に歯が立たない。だから武器を俺たちによこせ』という戦闘意欲のあらわれであった、と。

 むしろ第18師団の将兵達は、怒髪天を衝く思いだった。これだけの武器弾薬があるのなら、なぜ俺たちに支給してくれなかったのだ。兵糧さえ与えてくれたら、幾日でも頑張れた、弾丸さえあれば、フーコン谷でも勝てたのだ。そればかりではない、これらの物資があれば、助けることができなかった何百何千の戦友を見殺しにする必要もなかったのだ……。



 前出の『帝国陸軍師団変遷史』のP50~55には、農村部の多い北陸、東北、九州の兵が精強であり、都会の兵が逆の傾向にあることが述べられています。普段からどれくらい自分の脚で歩いているかもかなり違うし、農村部では粗食が普通であったのに対し、都市部育ちの人は良いものを食べていたりするので同じ兵糧でも満足度が異なるとか。

 個人的に特に興味深かったのは、馬との関係性の話でした。農村部だと馬が家族の一員のようであった一方、都市部で馬を飼っているのは高級軍人の家庭くらいしかなかったこの時代、都市部の人は馬に近寄るのも怖がり、手入れがおろそかになるから戦場であたら馬を死なせてしまう、と。それによって機動力も補給力も失ってしまうわけですが、農村部の部隊は馬を大事にするのでその点でも差は大きい……。

(尤も、京都を含んでいるから都市部の師団だと決めてしまうわけにはいきませんけども)


<2022/06/10追記>

 その後続けて『菊と龍』を読んでいたら、また第53師団について書いてありました。

 第53師団は、京都で編成されたもので、戦闘経験はまったくなかった。都会師団は耐久力に乏しく、粘り気がないというのが定評である。大本営もはじめから、『安』をあまり信頼せず、占領地のマレー半島警備にあたらせていた。それを、急ぎ北ビルマに注ぎこんだのである。
 剛勇『菊』『龍』と比較すべくもないが、『安』の弱いのは、イギリス軍でもよく知っていた。こんなことをいうのは元『安』兵団関係者に失礼かもしれないが、イギリス軍の撒いた謀略ビラには、こんな文句が刷りこまれていた。
『ー 弓は袋に祭はサヤに、強い菊、龍、弱い安、ボチボチ逃げる烈兵団』
 当時インパール作戦は、すでに破綻していた。佐藤中将の『烈』は戦わずして総退却をはじめ、『弓』、『祭』ともに崩壊の危機にあった。
 イギリス軍はそれを風刺して、こんな宣伝ビラを、空から撒き散らしたのである。
『菊と龍 祖国への栄光の戦い』P190,1


 また、第18師団(菊)が「泥棒部隊」であった実例がまた2ページほど書かれていまして、第53師団が飯ごう炊さんしていると飯ごうを盗んだり、牛車で米俵を運んでいると米俵を盗んだり、中隊長が蚊帳を張って寝ていると蚊帳を盗んでしまった……と。


 あとそれから、先日OCS『Burma II』のショートシナリオ4「佐藤中将のジレンマ」をプレイしていて、日本軍の増援を調べていた時に、インパール方面にこの第53師団のうちの第151連隊が増援としてやってくると書かれているのを見まして、「えっ、そんな史実あったの……?」と疑わしく思っていたりしたんですが、『菊と龍』のP188に「歩兵第151連隊は、インパール作戦に増派されていた。」と書いてあったのを見つけ、得心がいきました(^_^;

<追記ここまで>


<2023/01/18追記>

 『「戦場体験」を受け継ぐということ -ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』という本を読んでましたら、第53師団のことが記述されていました。




 この本では第53師団の通称号は「やすし」ではなく「やす」とルビが打たれています。また、下記で「祭」とは第15師団(インパール作戦で真ん中の戦区を担当した。愛知の豊橋と京都が編成・補充地)、「昆」とは第33軍(最強と言われた第18師団(菊)と第56師団(龍)を擁する)、「勇(いさむ)」とは第2師団(精強で知られたがガダルカナルで大損害を出した後、ビルマに派遣されていた)のことです。

 【第53師団の生存者の】平田さんは、龍兵団主力の雲南戦では支援部隊の安兵団の戦闘は看過され、記録も残されていないと訴える。
 戦時中、「安はやすやす祭りあげ、昆と勇でしのぎをけずる」と昆と勇の兵士らだけでなく中国軍からも謳われ、「ビルマ戦に安と祭が来たから負けた」と揶揄されたという。関西地方の安(第53師団)と祭(第15師団)は弱兵の代名詞のように酷評された。反対に、九州兵団の龍(第56師団)や菊(第18師団)は日本軍屈指の強軍と高評された。戦後になっても、このような兵団のイメージは払拭されず、平田さんは肩身の狭い思いをする一方で、戦死した安の戦友のためにも安の記録を残すことをライフワークにしている。
『「戦場体験」を受け継ぐということ -ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』P59,60




<追記ここまで>





 あと少し興味深いのは、『アーロン収容所』を書いた歴史学者、京大名誉教授の会田雄次氏が、この第53師団に所属していたことです(終戦をビルマで迎え、アーロン収容所に入れられた時の体験談がこの本)。



 この本を初めて読んだ時、アーロン収容所のイギリス人女性が日本人を人間と認識していなかったという描写に私は結構ショックを受けたものでした。

 今後またこの本を読み返そうと思っているのですが、ビルマ戦に関する知識が増えているのでより深く理解することができるのではないかと。



OCS『Burma II』の拡張として、初期のフーコン谷の戦いのシナリオを作ることができる?

 ビルマ戦関係の古本で安価に手に入るものをある程度買いそろえてあるんですが、その中から今度は『菊と龍』という本を読み始めてみました。




 菊は第18師団の通称号、龍は第56師団の通称号で、両師団とも九州北部出身者から成る兄弟師団かつ最強師団とうたわれた存在でした。両師団ともインパール作戦の時にその東側におり、フーコン谷の戦い、拉孟・騰越の戦いで激戦を戦いました。


 読んでますと、この本はまず第18師団のフーコン谷の戦いに関して書かれているのですが、その戦いの割とメインの部分がOCS『Burma II』のキャンペーンシナリオ開始前の時期から始まっており、かつその戦いもマップ上に入っていることに気付きました。


 ↓OCS『Burma II』の最も早い時期から始まるキャンペーンシナリオのフーコン谷周辺のセットアップ

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 キャンペーンの開始時期は1944年3月5日ターンで、インパール作戦開始の時期になります。第18師団はすでにマインカンとワローバンを失っています。淡い黄色が日本軍、緑色が中国軍(アメリカ軍の武器を装備し、アメリカ軍式の訓練を受けていた)、濃い緑色はアメリカ軍のガラハッド部隊(あるいは「メリルズ・マローダーズ」、ジャングル襲撃戦の特殊訓練を受けた部隊)です。


 ところがフーコン谷の戦い自体は1943年10月から始まったようで、場所的にはニンビンという場所の周辺だったようです。尤も、最初期は小規模なもの(日本軍が1個小隊とかしかない)のでそれはOCSでは再現できないとして、しかしどうも再現できる規模(日本軍が1個大隊程度)に11月くらいにはなったようです。

 そして、第18師団長の田中新一中将は、地形的に敵を抑えておきやすいニンビンの向こう側の隘路に敵を閉じ込めてしまうべく攻勢計画を練り、12月15日をもって開始することを考えていました。

 OCS『Burma II』のマップでも、ニンビンの左上のヘクスを日本軍が押さえてしまえば連合軍は出てきにくいだろう感じがします(マップ端だからではありますが(^_^;)。

 ところが12月初め、牟田口廉也第15軍司令官から「もっと下がってマインカン周辺で敵を迎撃すべし」という指令が来ます。牟田口中将の考えは「あまりに前に出すぎると自軍の補給が難しく、逆に敵の補給路は短くなり、圧倒的兵力の敵に飲み込まれてしまうだろう」ということだったらしいのですが、指令がいきなりだったことはともかく、「インパール作戦を推進したお前が言うか」という気も……?

 田中師団長は攻勢計画は中止しますが、河川を利用して遅滞戦闘を行うことにします。

 恐らく1944年の1月中、ユンバカ付近で日本軍は中国軍の1個師団?を三方から包囲し、これまでの経験からすればこの中国軍は壊走するものと思われました。ところがこの中国軍は空中補給によって戦力を維持しつつ反撃し、ついに日本軍は後退のやむなきに至ります。

 連合軍はこの初めての勝利をその後、合い言葉として戦ったそうです。また日本軍側はこのような空中補給による戦い方に関して、急ぎ各師団に通達したとか。
(空中補給によるビルマ戦線での連合軍の勝利は第2次アキャブの戦いでも起こりましたが、そちらは1944年2月のことで、フーコン谷の方が早いのかもです)

 その後、2月1日には日本軍はタイバカから撤退。2月中旬にはマインカン地区への撤退が命じられます。2月27日にはこの方面で初めてシャーマン戦車が登場しました(セットアップにも3ユニットほど機甲ユニットが存在しています)。3月4日にはマインカンにあった第18師団司令部が包囲される……。


 ここらへん、詳細な戦闘経過と戦闘序列が分かれば、マップはすでにあるしユニットも多分全部あるでしょうから、追加シナリオ化することはできそうな気がしました。元々、OCS『Burma II』はその前の時期や後の時期に関して拡張していける可能性があるのではないかと思っていましたし……(史実を全然知らないので、可能性があるのではということしか分かっていませんでした(^_^;)。

 問題は資料のあるなし、あったとしてどれくらい詳細が分かるか次第でしょうか……。今手持ちの資料だと無理っぽいです。

 将来的に資料が増えてできるかもしれませんし、あるいはどなたか作りませんでしょうか?(^^)


OCSユニットで見るイギリス軍のヴィッカース・ウェリントン爆撃機

 『歴史群像』最新号(No.173)の「蒼空の記憶」(第二次世界大戦の航空機を紹介する連載記事)で、イギリス軍のヴィッカース・ウェリントン爆撃機が取り上げられていました。





See How Your Salvage Helps a Bomber Art.IWMPST14695

 ↑国民から供出された金属や紙などが、どのようにヴィッカース・ウェリントン爆撃機に使用されたかを解説するポスター(Wikipediaから)


 ウェリントンは操縦性に優れ、頑丈であったので搭乗員の信頼が厚かったそうです。


 OCSでもウェリントン爆撃機は結構役に立ってくれる印象があります。

 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍爆撃機周辺のユニット

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 ウェリントンの爆撃力8というのは、イギリス軍の爆撃機の中では最強であり、最も価値が高い爆撃機ユニットだという気がします(航続距離も最長)。



 ↓OCS『Reluctant Enemies』のイギリス軍航空ユニット

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 このゲームだとウェリントンは非常に貴重だと言えるでしょうね……。



 ↓OCS『Sicily II』のイギリス軍航空ユニット

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 『Sicily II』のウェリントンは戦略爆撃機(TではなくS)にカテゴライズされており、通常の爆撃ができず、港湾や航空基地を爆撃したり、航空阻止をする専用となっているのがある意味残念。


 OCS『The Blitzkrieg Legend』、OCS『Burma II』やOCS『Tunisia II』、OCS『Beyond the Rhine』にはウェリントンは登場していませんでした。



 「ウェリントン」という名前は、この機種の前に作られた機種が「ウェルズリー」という名前であったことから、ナポレオン戦争時代のウェリントン公爵アーサー・ウェリズリーにちなんで名付けられたそうです。ウェリントン公爵については私も常々興味を持っていまして、今までにいくらかエントリを書きました。↓の一番下の4つあたりです。

戦史物の物置by DSSSM イギリス軍の指揮官人物伝


 ウェリントン爆撃機の名前がウェリントン公爵にちなむのかどうかは気にはなっていたので、今回確認できて良かったです(^^)

 また、結構優れた機種であったことも再確認できました。

OCS『Arakan』(仮)の第1次アラカンキャンペーンシナリオ(だけ)は戦力3倍換算で

 第1次アキャブの戦い(第1次アラカンキャンペーン)に関わった英連邦軍の指揮官達について調べて書いてきまして、この戦役にある程度理解が深まった気がするので、再度OCS『Arakan』(仮)における第1次アラカンキャンペーンシナリオを組み立てるための作業にかかり始めました。

(なぜ「アキャブの戦い」でなく「アラカンキャンペーン」シナリオという書き方かというと、ゲーム化されるならば英語表記される必要があり、そして英語では「アキャブの戦い」とは言わずに「アラカンキャンペーン」と呼称されるからであります)


 すると、以前から薄々思ってはいたんですが、第1次アキャブの戦いはOCSの標準スケールからすると参加兵力が少なすぎてユニット数的にまずいことになる、ということがはっきりしてきました。

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 第1次アキャブの戦いの前半に英連邦軍の進撃路(あるいは係争の軸)になったのは、画像の①~④の道路、あるいは河川沿いでした。

 ところが、この戦いの最初期には英連邦軍は2個旅団(計6個大隊)、日本軍側は2個大隊しかこの戦場に存在していなかったのです。

 スケール的にOCSは通常、連隊(旅団)~大隊規模で、OCS『Burma II』では日本軍はすべてが大隊規模(これはOCSでは希有なことで、ユニット数が増やされて粘り強さや浸透能力が表現されています)、英連邦軍は基本的に旅団規模(とある程度の大隊ユニット)になっています。

 OCS『Arakan』(仮)はOCS『Burma II』との連結が可能ならそうしたいので、ユニットの規模も同じにできればしたいという考えはありました。しかし、係争の対象となる軸が4つあるのに、両軍が2ユニットずつしかないのでは、ゲームになりません(^_^;


 何らかの特別なユニットやルールを入れる案は以前から考えていたんですが、しかしながら今回、「とりあえず」ユニットの戦力を3倍換算するのが良さそうだろう、という考えに落ち着きました。

 「戦力3倍換算」というのはOCS『Reluctant Enemies』で取られている手法で、こちらも参加兵力が少なかったため、OCS標準スケールよりも1段階ユニットの規模が小さくされ、戦力値はおのおの3倍されているのです。

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 ↑OCS『Reluctant Enemies』の第5インド歩兵旅団。OCSでは普通、旅団は6戦力程度ですが、3個大隊+αに分割されて各大隊が6戦力になっています。


 なので、英連邦軍は基本的に大隊規模、日本軍は基本的に中隊規模ということになります(中隊ユニットだらけのOCSというのは今まで存在してませんが……)。

 日本軍でこの戦いに参加したのは第33師団と第55師団ですが、第33師団は各大隊が4個中隊からなっており、第55師団は各大隊が3個中隊からなっていましたので、とりあえずその数分だけユニット化します。

 で、中隊の名称はどういう風になっていたのかが気になりました。例えば第33師団の場合、各大隊に第1~4中隊があるのか、第1大隊に第1~4中隊があり、第2大隊に第5~8中隊……という方法なのか、はたまた全然バラバラに名称が付けられるとか?

 調べてみたところ、この時期の第33師団で、第1大隊に第1中隊、第2大隊に第5中隊と第8中隊、第3大隊に第12中隊が存在していたらしいことが分かったので、上記の2番目の方法で名称が付けられていたのだと思われました。それでいいんですよね!?(^_^;



 また、OCS『Arakan』(仮)では第2次アラカンキャンペーン(1944年1~2月)シナリオも実装することになるわけですが、こちらは第1次よりは参加兵力が多いですし、可能ならばOCS『Burma II』と同じスケールでユニット化したいところです。というのは、第2次の方は直後にOCS『Burma II』で再現されるインパール作戦が行われており、第2次アラカンキャンペーンで戦っていた2個師団が空輸されてコヒマ方面で戦っているのですが、OCS『Arakan』(仮)とOCS『Burma II』を連結した場合、第2次アラカンキャンペーンで日本軍がその目的であった「敵戦力の誘引」に成功すれば、インパール作戦にその戦力が回されない……であるとか、あるいはお互いの戦場のうちのいくらかを別の戦場に回せるというオプションルールであるとかが可能になると思われますので。

 一方で、第1次アラカンキャンペーン(1942年12月~1943年5月)は時期的にかなり孤立した戦いであって、ビルマ戦域で何かと連結してどうこうという可能性は少ないと思われます。一応、トーチ作戦に史実で使用された船舶がもし第1次アラカンキャンペーンで使用されたならば……? とか、第1次チンディット作戦(ロングクロス作戦)で使用されたチンディット部隊がもし第1次アラカンキャンペーンで使用されたならば……? というようなオプションは可能かと思われますけども、それは「連結」でなされるというよりは、第1次アラカンキャンペーン用のユニットに追加ユニットを入れるだけのものになるはずですので。


 ……とかって、夢は広がりますが、まあ、実際にゲーム化に成功するかどうかが一番の問題であります……(^_^;

第1次アキャブの戦いを敗戦に導いた最大の責任者、ノエル・アーウィン将軍について

 承前、第1次アキャブの戦いを敗戦に導いた最大の責任者(と思われる)、ノエル・アーウィン将軍についてです。

第1次アキャブ戦の時の英連邦軍側の指揮官について書いていこうと思います (2022/04/12)



 ウェーヴェルについてはこちら→ビルマ戦におけるウェーヴェル将軍について (2022/05/11)

 ロイド師団長についてはこちら→シリアで活躍したが、ビルマ(アキャブ)では不運だった英連邦軍のロイド将軍について(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』『Arakan』(仮)) (2022/04/16)




Noel-MacKintosh-Stuart-Irwin

↑アーウィン将軍(Wikipediaから)



 ノエル・アーウィンは第1次世界大戦で極めて勇敢に戦って4つもの勲章を獲得し、第2次世界大戦前には第6歩兵旅団長となっていました。第6歩兵旅団は第2歩兵師団隷下であり、同師団はイギリス大陸派遣軍の一部隊としてフランスに送られます。ドイツ軍のフランス侵攻が始まった1940年5月10日にディール計画に基づいて第2歩兵師団はベルギーへ進みましたが、6日後の会議中に師団長が突然倒れたため、アーウィンが代理の指揮を執ることになり、その後のダンケルク撤退を行います(ちなみにこの時期に隣の戦区であった第3歩兵師団の師団長はモントゴメリーでした)。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第2歩兵師団

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 その後、1940年8月にはヴィシー・フランス軍が占領する西アフリカのダカール港への遠征の指揮官に任命されたものの、この遠征はうまくいかなかったようです。

 同年10月に第38歩兵師団長、1942年には第11軍団(ドイツ軍がイギリス本土に侵攻してきた場合に実質的な責任を持つ軍団)の司令官に任命されましたが、そのずけずけものを言う性格のゆえに同僚達と衝突。

 同年、イラクの第4軍団の司令官に任命されます。日本軍のビルマ侵攻に伴って第4軍団はインドに移されることになりました。

 この当時、ビルマ戦線における英連邦軍を統括するために「ビルマ軍団」が編成されており、その司令官を(未来の名将である)スリム将軍が務めていました。ビルマ軍団の兵士達はボロボロになりながらインドに撤退してきて、規律も低下していたため、その「無様な」姿を見たアーウィンは彼らに威張り散らし、皮肉を込めた態度を取ったそうです。


British Generals 1939-1945 IND3595

 ↑スリム将軍(Wikipediaから)



 第4軍団はビルマ軍団の部隊を吸収し、1942年5月20日にビルマ軍団は解体されました。この時、それまでビルマ軍団を必死に率いてきて消耗していたスリム将軍はアーウィンにこのように語りかけたそうです。

「ビルマ軍団が戦いの最前線から離れた今、休養と、いくばくかの正式な休暇の期間、そしてそれなりの快適さを与えてくれることをどんなに願っているでしょうか」

 ところが、それに対するアーウィンの返答は次のようなものでした。

「もちろん休養などさせないし、正式な休暇を取らせる余裕もない。快適さに関しても、彼らは今あるもの以外何も期待できないだろう。事実上何もないのだ」

 温厚なスリムもさすがにむっとして、こう言い返しました。

「私がこれから赴任することになる司令部の指揮官が、こんなに失礼な人だろうとは思いもしなかった」

「私が失礼だなんてことがあるか。私は君の上官なんだぞ」

 相当な知的才能がありながら、独裁的で自己中心的な気質の持ち主であったアーウィンは、このように言い返した。アーウィンは部下を、信頼にも配慮にも値しないクーリー(日雇い労働者)のように扱うところがあった。この自己中心的な性格の一つには、自分以外は信用できないから、自分がすべてを見なければならないとして分権化ができないことがあった。しかし、この複雑な性格には、鈍感さと融通のきかなさもある。つまり、想像力と共感力、建設的で柔軟な態度、人間性が必要とされる場面でのコントロールには、アーウィンは不向きだったのである。
『Slim: The Standardbearer: A Biography of Field-Marshal the Viscount Slim』P105



 その後、アーウィンはスリムに対して邪険な態度をとり続けますが、このやり取り以前からアーウィンはスリムを侮蔑していたという分析もあります。まずもって、当時のイギリス(本国)軍将校は一般にイギリス領インド軍将校に対して侮蔑感を抱いており、アーウィンとスリムはまさにそのような関係性にありました。それから、この「無様な」ボロボロで規律のないビルマ軍団を作り出したのがスリムに他ならないのだろうという見方をアーウィンがしていた可能性。そのためアーウィンは、スリムから学ぶようなことは何もないと考えていたとも思われます。また、以前東アフリカでの戦いでスリムが、アーウィンの友人を解任したことをアーウィンが恨みに思っていたのだろうという説もあります。


 イギリス領インド軍司令官であるウェーヴェルは、ビルマ戦線で反転攻勢することが重要であると考えており、そのために敢闘精神を持つ指揮官を探していました。ウェーヴェルはアーウィンにそのような性質を見いだしたのか、アキャブ(アラカン)方面で攻勢作戦を行う事になる(インド)東部軍の司令官にアーウィンを任命し、その麾下の第15軍団の司令官にはスリムを任命しました。

 しかし、アーウィンは身体的な勇気に関しては疑いなかったが、道徳的な勇気の否定しようのない欠如によって損なわれていた。彼の性格は、攻撃的な気質で、部下からの質問も反論も受け付けないという欠点があった。口が達者で、自己中心的、独裁的な彼は、部隊が直面する困難を理解する術を見出せず、物事がうまくいかないときに計画を調整するような柔軟な心も持ち合わせてはいなかった。それに辛辣な性格のため、部下の尊敬と忠誠を得ることは困難であった。またアーウィンは、軍隊の階級、権威、ヒエラルキーに対する畏敬が染みついていた。彼は保守的、復古的な傾向の人物であったのである。そのため、自分の紛れもない知性を駆使して命令や指示に異議を唱えることが必要な時でも、それができなかった。ウェーベルは、麾下の軍指揮官に敢闘精神のある人物を探したのは正しかったが、おべっか使いを任命して作戦を失敗させることになったのである。
『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』P148



 スリム将軍は、アラカン方面で攻勢を取ることがあれば自分の第15軍団がその担当であることを見越して、麾下の第14インド歩兵師団長であったウィルフリッド・ロイドと共に創造力豊かな攻勢作戦を練り上げました。ところがアーウィンは1942年7月、スリムに対して一方的に自分と職務を交換すると告げました。アーウィンがアラカン方面での攻勢作戦の指揮を執って第15軍団麾下の2個師団を指揮し、代わりにスリムが残りの東部軍の部隊を編成・訓練するというのです。

 奇妙な決定でしたが、アーウィンの何事も人任せにできない性格と、スリムへの信頼のなさを考えれば、当然であったという考え方もできるのかもしれません。もちろん、アーウィンは自分の戦功が欲しかったのだという見方もあり得るでしょう。

 アーウィンはスリムの計画案を見はしましたが、当然却下され、アーウィン自身の案が採用されることになりました。その作戦案と戦いの大まかな推移は↓を見て頂ければと思います。

『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』による、第1次アキャブ戦の総括と分析 (2022/05/03)

 ↑に書いてました、↓の件なんですが……。

「どうせ囮として引き付けて上陸作戦するのだから、ゆっくり無理せずでいいよ」
  ↓
「上陸作戦できなくなったから、敵が兵力を送り込む前に無理してでも進撃しなければならなくなった」

 『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』にはやや詳しく書いてあり、同じ著者ロバート・ライマンの『A War of Empires』ではより簡単な書き方で不明確でしたが、どうもやはり実際あったことのように思われました。そして『The Generals』では、このような感じで書かれていました。

「このように作戦案が変わったにも関わらず、ロイドの師団に与えられた命令は、補給路を十全に整えながら、迅速に進むべしというあまりにも過大な(あるいは相反する)ものだった。アーウィンは、作戦が変わったのだからその変更に必要な対応をすべきだったのにそうしなかったし、またその矛盾に気付きもしなかった。(アーウィンは、アキャブ方面の日本軍は極めて小戦力で、英連邦軍は陸上戦力も航空戦力も大きいのだから普通にやれば勝てる戦いに過ぎないと考えていたらしい)」

 個人的には、これはトータルとして納得できる話だなぁと思いましたし、また文献(の紙幅制限)によってはここらへんの話を出してくるのはややこしくなるので、スルーするのはあり得ることだと思いました。




 その後、英連邦軍はドンベイクに到達してそこで3ヶ月間に5回(あるいは6回)の攻撃をすべて日本軍に撃退されることになりますが、その理由をロバート・ライマンはこう書いています。

 アーウィンは、戦力を集中し、綿密な計画を立てれば、陣地は簡単に落とせると確信していた。第一次大戦中の西部戦線という厳しい教訓で育った彼の世代の多くがそうであったように、アーウィンも綿密な準備、周到な計画、緻密な戦場での振り付けのみが戦いでの成功をもたらすと考えていた。また、圧倒的な火力によって敵の戦意を喪失させ、陣地を確保することができると、暗黙のうちに武力の力を信じていた。アーウィンがドンベイクを迂回し、代わりにアキャブと日本軍の後方連絡線に打撃を与え、日本軍をその拠点から切り離すことを考えたことは、どの段階でもないようだ。徹底した準備をするというアーウィンの気遣いは、計画のさまざまな段階のリハーサルをするために数週間を必要とし、あらゆる不測の事態に対応するための十分な弾薬と備蓄の在庫を構築することを意味した。これに伴う驚きがなかったことと、いったん戦闘が始まると手続きが硬直していたことが相まって、日本軍はイギリス軍のあらゆる動きを容易に読み、先手を打つことができた。アーウィンの慎重さが日本軍に有利に働いた。アーウィンは、1942年1月にビルマに侵攻した際、日本軍がどのようにして成功を収めたのかを評価しようとは考えていなかったようで、その教訓を自分自身の状況に当てはめようともしなかった。
『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』P274



 どうしても作戦がうまくいかないことを、アーウィンはロイドの無能力や兵士達の敢闘精神の低さのせいだとウェーヴェルに報告していました(公正のために書けば、兵士達に敢闘精神がなかったのは事実でした。しかし、それを持たせるためにアーウィンがうまくやっていたとは言えないと思われます)。一方で、ロイドが日本軍による側面包囲の可能性が生じてきていると警告するとアーウィンは渋々ながらその正しさを認めて撤退を決め、ウェーヴェルにそのように連絡します。ところが依然として楽観的な見方に支配されていたウェーヴェルは撤退を認めなかったのです。

 この時、アーウィンがウェーヴェルに対してあくまで撤退の必要なことを説得し、撤退を実行させたならば、この第1次アキャブの戦いは「大敗」にはならなかったでしょう。ところがアーウィンはウェーヴェルの権威に即座に屈し、ロイドに対して撤退を禁止します。

 ロイドはしかし、現地の状況を鑑みて一部の部隊の撤退を命じ、それを知ったアーウィンは即刻ロイドを解任して自分が現地の指揮を執り始めます。ところが結局2日後にはアーウィン自身が撤退命令を出さざるを得なくなり、その4日後にはその部隊は日本軍に包囲されてしまったのです。


 逆境に立たされたアーウィンは、今度は敗北の責任をスリムに押しつけようとしました。もちろん、スリムにはこのアラカン方面での作戦に関して何の権限もなかったのにです(一度、なぜかアーウィンの命令でスリムが現地に派遣され、状況を報告するように言われたことがあり、スリムはロイドに助言を行ったりはしましたが、権限は何もなかったので結局何も変更されないままスリムは元の任地に戻っただけに終わっていました)。

 【1943年】5月26日、第15軍団の司令官スリムの副官であるナイジェル・ブルースは、スリム将軍に二つの電信を伝えるというつらい仕事をした。一つはデリーへの出頭を命じるもの、もう一つはアーウィンからで、その電信はスリムの戦闘行為を厳しく批判した後、彼の指揮が解かれるだろうとほのめかしていた。スリムはそれを読んで、ブルースに言った。「これで私はクビだな。私はイギリスでホーム・ガード【郷土防衛隊】に入ることになるだろうが、そこでアーウィンに会えるかどうか」。二人はスリムのバンガローに戻ってきた。近づいてみると、ベランダでタオル一枚を身につけただけの男が紙切れを振りながらくるくると踊っているのが見えた。それはトニー・スコットだった。近づくと、彼が叫んでいるのが聞こえた。 「神は善良なり! 神は善良なり!」 その紙は、スリムにデリーに出頭するようにという指示の前の時点での電信だった。それは、ギファード将軍がアーウィンの後任として東部軍司令官になったので、緊急に相談にのって欲しいという内容だった。
『Slim: The Standardbearer: A Biography of Field-Marshal the Viscount Slim』P123,4


 スリムはこの時、「もしあれば、ポートワインか何かのボトルを開けるしかないだろうな」と言ったと伝えられています。

 一方、アーウィンは……。

 アーウィン自身への解任通知は、アーウィンがインパールにあったスクーンズ将軍の第4軍団を訪れていた時に届いた。スクーンズの参謀長であったオウブリー・ロバーツが暗号将校から電信を受け取り、それをアーウィンに手渡したのである。アーウィンはすぐさま、スリムへの緊急文書を電信で打たせた。その内容は(ロバーツの記憶によれば)「お前はクビじゃない、俺がクビだ」というものであった。
『Slim: The Standardbearer: A Biography of Field-Marshal the Viscount Slim』P124


 この「お前はクビじゃない、俺がクビだ(You're not sacked, I am.)」という電信、もの凄く面白いと個人的に思います(^_^; この電信は「礼儀正しく」「男らしかった」と後世評価されているようです。


 アーウィンは病気休暇でイギリスに帰国しましたが、自分の運命に不満で、「長い赤痢歴」が自分のキャリアを台無しにしたと信じていました。戦争の残りの期間は無職で、1946年から48年は北アフリカの司令長官を務めた後、退役します。その後15年間ケニアで農業を営んだものの、妻の死後イギリスに戻り、サマーセットで残りの人生を暮らして1972年に亡くなりました。



 参考文献はこちら。




『戦争と飢餓』から、日本軍の(ビルマ戦線での)食糧事情について

 先日、↓を書いてました。

『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』読了&日本軍は現地住民から食糧をどの程度盗んだのか? (2022/05/12)



 その日のうちに、↓のようなツイートをしまして、この『戦争と飢餓』という本にそこらへんのことがいくらか書かれていることに気付き、再読してみました。





 日本陸軍は食糧の補給に費やす労力を最低限に抑える方針をとり、兵士たちは戦闘に出るさい、二、三日分の糧食しか持たされなかった。ビルマ防衛を指揮した連合軍司令官のスリム将軍は、日本兵がわずか九日分の食糧しか持たずに、数週間は続くことが明らかな戦闘に送りこまれていることを知って驚愕した。「天の思し召しで日本軍が勝つときは、何かが現れた。たとえば、敵が捨てていった食糧が」。実のところ、日本の指揮官は敵の食糧を手に入れることを偶然の拾い物とは考えず、補給計画の一要素とみなしていた。マラヤやビルマでは、1941年から42年の初期の戦闘で、連合軍の不意をついた日本軍が連戦連勝を飾った。だが、そうした華々しい勝利が兵站上の弱点を覆い隠してしまった。食糧補給にかかわる諸問題が、効率的な補給体系ではなく、連合軍の失策によって解決されたからだ。
 マラヤの日本軍は、たくみに築かれていたバリケードを回避し、通りぬけられないはずのゴム農園を軽戦車と自転車で通りぬけて、イギリス軍の指揮官たちを驚かせた。退却の混乱と慌ただしさのなかで、連合軍は大量に物資を置き去りにした。マラヤ北部ジトラの飛行場では、連合軍が残していった燃料と爆弾が見つかり、日本軍はそれらを用いて連合軍を攻撃した。その飛行場には「チャーチル飛行場」と名前がつけられ、連合軍が残していった食糧は「チャーチル給与」と呼ばれた。
『戦争と飢餓』P281


 この「チャーチル給与」は、1942年のビルマ戦を再現するOCS『South Burma』(仮)ではかなり必須の要素だと思われました。しかし、OCSでは敵が残していったSP(補給)を捕獲することができますけど、所有プレイヤーはSPを破壊することもできますから、これまでに別のOCSゲームでSPをごっそり敵に奪われてしまった経験があるプレイヤーほど用心深くSPを破壊しておく傾向があります(そう、私のことです。バキッ!!☆/(x_x))。

 しかしOCS『South Burma』(仮)において連合軍プレイヤーにそれを許すと、逆に日本軍側がもたないという可能性も。なので、日本軍が戦闘後前進するたびにSPが湧いてくるとか、それはそれで変なので連合軍側がSPを破壊できないようにルール化するとか、工夫が必要だとは思われます。

 一方で、『戦争と飢餓』のP298には、インパール作戦の時期には英連邦軍側もそれまでの経験から学んでいて、退却する際に食糧をすべて破壊してしまうようになっており、日本軍は(というか牟田口が)敵から物資を奪うことをあてにしていたのにその目算が大いに狂ったという側面があったそうです。なるほど……(インパール作戦初期のティディム道では大量の物資が一時的に日本軍の手に渡ったことがありましたが、あれはタイミング的に意表を突かれた面があったのでしょうね)。



 現地住民から食糧を掠奪する件ですが、この本では少なくとも中国では、日本軍兵士による勝手な掠奪が横行したと書かれていました。また、現地住民に対して「できるだけ多くの食糧を栽培するように強いた」という方向性もあったそうです。



 ↓この件は特に興味深かったです。

 日本軍とドイツ軍のちがいは、自給自足という原則の実践方法にある。現地に食糧が充分にない場合、日本兵は自分で栽培するよう命じられた。マラヤで実施された食糧増産計画は、現地の日本人官僚や企業人だけでなく、軍の将校や兵士も対象にしていた。そして全員が、週に数時間を作物の栽培に割くよう求められた。
 奧地の駐屯部隊は最低限の補給しか受けられず、自活を余儀なくされた。連合国の軍の場合、東南アジアのジャングルに部隊を派遣して現地で食糧を調達するよう命じることはまずありえなかった。第一に、そんなことをすれば、現地の兵士から、食糧供給の義務を放棄した職務怠慢とみなされた。第二に、西洋諸国の兵士は嗜好が洗練され、(たとえ農村の出身者であっても)文明的な暮らしを営んでいたので、自家栽培や略奪にはなじめなかった。日本兵は指揮官にそんな甘い期待は抱かず、とにかく食べられればよしとした。日本兵には、食べ物を手に入れる才能があった。人里離れたタイとビルマの国境地域でビルマ鉄道の建設を指揮していた阿部弘は、次のように述懐する。「昼食の時間が近づくと、10人くらいに蜥蜴狩りに行かせた。とんでもなく大きな蜥蜴がいた……きれいな桜色の肉で、味もよかった」。
 自家栽培と略奪を組みあわせて食糧を現地調達する方針は、東南アジアの大陸部では通用したが、太平洋の島々ではかなりむずかしかった。
『戦争と飢餓』P282,3


 拉孟や騰越でも、陣地内で兵士達が自家栽培をしていたということは『回想ビルマ作戦』に書かれていました。鶏を育てたりとか。『戦争と飢餓』によると、日本軍は食用のかたつむりを育てたりもしたそうです。ラバウルでは今村均司令官の下、青野菜、さつまいも、ナスなどを栽培し、「まるで日本みたいに美しい」畑が広がったとか。

 OCS『Burma II』では、日本軍ユニットは例外なく、「食糧入手表」という表で判定して(現地調達で)補給切れを回避できる可能性を持ちますが、連合軍側でそれができるのは基本的にそのための特別の訓練を受けていたチンディット部隊のみです。また、補給切れを回避できる可能性も日本軍の方が高率です。ただしこのルールは、デザイナーの書き方によれば、「わずかな食糧と、現地住民から買う/奪うでなんとかする」能力というもので、トカゲやヘビを捕まえて食べる能力?が織り込まれているのかどうか良く分かりません。

 ヨーロッパ戦線では『Guderian's Blitzkrieg II』で「木の皮スープ」で補給切れを回避できるというルールがありましたが、それくらいで、基本的に補給物資・後方補給が絶たれると容赦なく損耗します。

 しかし今の日本人は飽食ですし、私なんかは味音痴の気があって安物の方が好きなくらいですが、美味しいものしか受け付けない知り合いや子供とかを見ていると、「災害の時とか苦労しそう……」と思ったりしていました。災害時だけでなく、今後の世界がどうなっていくかという問題もあると思いますが……。

『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』読了&日本軍は現地住民から食糧をどの程度盗んだのか?

 『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』を読了しました。





 第33軍というのは(第15軍による)インパール作戦の時にその東側を担当していた軍です。OCS『Burma II』はインパール作戦だけでなく、その東側のチンディット作戦、フーコン谷作戦、拉孟・騰越戦(雲南拡張セットにより)をカバーしており、そのあたりを概観するのに非常に優れた文献だと思いました。

 参謀だった人の本なので作戦レベルであるとか、作戦的な話が多く、作戦級ゲームで大変参考になるだろうと思います。参謀業務的な話も興味深いですし、途中であの辻政信が(左遷されて)第33軍に配属されてくるのですが、辻政信関係の話も多くて大変面白いです。この本を読む感じでは、辻政信は確かにもの凄い能力、見通し、作戦能力を持った人物で、この人がいなければビルマ戦線の崩壊ももっと早くなった可能性が高いような気もしました。

 拉孟・騰越での戦闘については細かい話もかなりあり、落涙を禁じ得ません……。

 一方で驚いたのは拉孟には20人の従軍慰安婦が残って看護婦などをしており、それらの人達も残らず全滅したという話があったことでした。辻政信はこのことを知って激怒して、すべての女性をビルマの前線から後方に下げることを主張し、反対意見もあったもののその辺りの担当者であった著者は悩みに悩んだ末、辻参謀の言う通りにしたそうで、その後のビルマ戦線崩壊の際にはそれらの人達(のほとんど)が下げられていたことによっていくばくか助かったのだとか……。


 期間的にはOCS『Burma II』がカバーする範囲(1944年8月1日ターンのミイトキーナ陥落の時期まで)はこの本の前半だけになりますけども、地図がかなり多く、文も非常に読みやすいので個人的に強くお奨めします。後半のイラワジ会戦やシッタン作戦関係の部分は、OCS『South Burma』(仮)で再現できればとも思うのですけども……。



 また、個人的に気になっていたこととして、OCS『Burma II』の以下のようなデザインノートがあったのですが……。

デザインノート:このルールの意図は、部隊を維持するのに必要な補給物資を最小限に抑え、食糧入手の活動をシミュレートするということです。日本軍は特に、わずかな食糧配給と、その土地で得られる食糧のみで何とかやっていくことに長けていました。ただしほとんどの場合、それは現地の住人から食糧を買う/盗むということに限られていました。道路か小道にいる、あるいはそれらに隣接していなければならないという制限は、人がいる場所の周辺であるということです。


 知りたいのは、特にビルマ戦線で、

・現地住民から買う
・現地住民から盗む(畑のものを取るとか、殺して奪うとかも含めて)
・現地住民とはまったく関係なく、現地で取れるものを取る

 がどれくらいの割合だったのだろうか、ということであります(もちろん厳密な割合など分からないでしょうけども、概算として)。 

 この本には例えば、「拉孟・騰越地域は米の産地で、食糧調達は容易であった」というような文言があるのですが(そして辻政信の「断」作戦は、この拉孟・騰越地域の食糧に依存して、後方地域を切断されてもいいという思いきった作戦であったのだとか)、いやいや、米は年中そこらへんに生えていて取り放題とかではないわけですし、結局のところ買うのか、奪うのか(あるいは反英感情を利用して、もらうとか?)、そこらへんが書いておらず、もやもやが残りました。

 ただし、1945年のイラワジ会戦の後、ビルマ南部へと撤退する途中の記述としてこういうのがありました。

 ただ、住民はすでに難を避けて逃避していたので、徴発した物資の代金を払えなかった。したがって、結果的には掠奪にひとしいようなことになったのは遺憾であった。
『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』P298


 この記述をそのまま信用するとすれば、基本的には「買う」のであったので、「盗む」わけではなかったようではあります。しかし、代金を払うといっても軍票とか、結局の所換金できる見込みもないようなものであった可能性も考えると、どうなのかなぁ、と……。

 また、ラングーンを占領されてビルマ西部に孤立してしまった第28軍は東の方へ脱出突破していく際、

 将兵はできる限りの糧食を肩にして山中に入ったが、たちまち底をついてしまった。とくに食塩の不足による欠塩症に悩んだ。欠塩症にあると、膝がガタガタになり、腰が座らず、体に力が入らなくなる。
 将兵は蛇、とかげ、かたつむり、野草など口に入るものは何でも食べた。幸い山中は筍の最盛期だったので、無塩の筍粥が常食となり、飢えをしのいだ。
『回想ビルマ作戦―第三十三軍参謀痛恨の手記』P305,6


 とあり、以前読んだ『ビルマの名将・桜井省三』でも、割と現地住民とは関係なく現地調達していたような印象を受けていたので、それはあったのだろうなぁ、とは思いました。

 ただしこれも、現地住民から入手できない状態であるからこうしたのであり、だからこそ著者もわざわざ記述したのかもしれず、割合に関してはやはり参考にならない……?(奪うということが皆無とは考えにくいと思いますが、それが例えば70%ぐらいだったのか、30%ぐらいだったのか、あるいは10%ぐらいだったのかとか、知りたいなぁと)



ビルマ戦におけるウェーヴェル将軍について

 ビルマ戦線での英連邦軍の指揮官について書いていくつもり、と書いていたエントリがありました。

第1次アキャブ戦の時の英連邦軍側の指揮官について書いていこうと思います (2022/04/12)


 その後、資料がある程度揃ってきたので書こうと思います。

 まずはウェーヴェル将軍について。


General Archibald Wavell

 ↑ウェーヴェル将軍(Wikipediaから)




 ウェーヴェルは北アフリカ戦の初期における英連邦軍側の最高司令官で、ロンメルはウェーヴェルを最も高く評価していました。ウェーヴェルはチャーチルの無茶振りと過小評価により解任されましたが、そのまま指揮を続けていれば北アフリカ戦は史実よりも英連邦軍にとってより良い結果になったのではないかという気が個人的にしていますし、様々な資料でもそういう感じで書かれている印象を受けました。

北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)


 ところが、ビルマ戦におけるウェーヴェルに関して読んでいると、全体としてどうもダメダメな感じがします。これが同じ人物なのかと思うほどです。


 例えば、↓のように書かれています。

 アーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェル元帥は、第二次世界大戦で最も才能あるイギリス人指揮官の一人だったが、ビルマ撤退戦の際、日本軍の戦場での勇敢さと、それに比較して彼の指揮下のイギリス連邦軍が弱いということをほとんど把握できていなかった。
オスプレイ『Japanese Conquest of Burma 1942』P11(写真のキャプション)

 残念ながらウェーヴェルはビルマ戦域に関してほとんど知識がなく、かつ日本軍と自軍の弱点をひどく過小評価していたため、その命令は戦線を堅持し、可能な時にはいつでも日本軍に反撃せよと、繰り返すものとなった。
オスプレイ『Japanese Conquest of Burma 1942』P13





 ビルマ戦におけるウェーヴェルを貫いているように見えるのは、「楽観」と「敢闘精神の重視」です。

 「楽観」の中でも大きな割合を占めるのは、「日本軍に対する過小評価」であったようです。ただ、大体どの文献にも「ウェーヴェルは日本軍を過小評価していた」というような文言はあるのですが、具体的にどう過小評価していたのか、詳しい説明は見つけられませんでした。ただ、当時、日本軍にあそこまでのことができると思っていた欧米人は希有だったろうことを考えると、ウェーヴェルが特別な存在というわけでもないのだろうと思います。

 また、ビルマ戦における英連邦軍の大きな割合を占めていたイギリス領インド軍部隊に関して、ウェーヴェルがかつて管轄した北アフリカ戦や東アフリカ戦では第4インド歩兵師団や第5インド歩兵師団が活躍しており、ウェーヴェルはそのイメージでインド人兵士を捉えていたのだけども、第4、5インド歩兵師団は事前の訓練期間も長かった特別な存在で、ビルマ戦線におけるインド軍部隊は急造で質が低く、その点ウェーヴェルは誤解していたのだという説明があり、「なるほど」と思いました。


 ↓OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団

unit9746.jpg



 また、ウェーヴェルによるビルマ軍司令官の選任についても、「楽観」が指摘されています。

 ウェーヴェルが選んだのはインド軍参謀長であったハットン将軍でしたが、ハットンは軍部隊の組織化という方面においては一流でしたが、前線指揮官としての経験がありませんでした。ハットンよりも、ウェーヴェルの直前までのABDA司令部で参謀長であったパウナル将軍の方が前線指揮官としては良かっただろう、と述べている本もあります(『Archibald Wavell: The Life and Times of an Imperial Servant』)。

 しかしウェーヴェルは、日本軍がまだフィリピンやシンガポールで戦っている最中であるのにまさかビルマに侵攻するとは考えておらず、そのためにハットンが選任されたという記述が多く見られました。

 ところがそのまさかを、日本軍側はやったわけです。

 で、その「楽観」の結果ウェーヴェルがビルマ戦でどういうことを言いまくっていた(通信文で送っていた)かというと、「なぜ撤退しているのか、なぜ撤退するのか、理解できない。敢闘精神が重要だ」というような言葉でした。現場なりを全然見に行ってないというわけでもないのですが……。



<2023/02/24追記>

 関係資料を読み返していて、ウェーヴェル将軍が撤退を命じることができないような強力な政治的圧力があったという記述に気付きました。

 マレーやビルマでの日本軍の侵略を前にして、撤退しないようにというウェーヴェルへの政治的圧力は、間違いなく相当なものだったと思われる。ヨーロッパと北アフリカでの戦争はうまくいっておらず、マレーとビルマに配置されている部隊が日本軍との戦いに適していない【実際、それらは北アフリカや中東の砂漠戦のために準備されていたものが多く、砂漠迷彩のままだったりしましたし、ジャングル戦の訓練をまったく受けていませんでした】という認識は、撤退を考える理由としては不十分だったのである。ロンドンの軍事作戦部長は、「特にマッカーサーがフィリピンで戦い続けている【1942年1月~4月。ビルマでのこの戦いは2月でした】間は、撤退を世界に向けて正当化するのは難しかっただろう。また、やろうと思えばここを維持できたという批判に応えるのも難しかっただろう」と述べている。
『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』P96






 ウェーヴェルの認識が甘かった面もあるだろうとしても、この強力な政治的圧力の存在もまた、大きな要因として捉えておくべきなんでしょうね(OCS『South Burma』(仮)の英連邦軍プレイヤーに対して、「だぁ~っと下がってから戦うようなことは禁止です」と(必要があれば)言うことができる理由ともできるかもです(^_^;)。

<追記ここまで>


 で、ウェーヴェルは、撤退を続けるハットンを他の将官達の前で罵倒して解任、また、前線指揮官であったスミス師団長は解任しただけでなく即時退役させ、地位も年俸も奪ったのです。

 ハットンの代わりに新たに任命したアレクサンダー将軍に、ウェーヴェルはラングーンの保持を命じます。ウェーヴェルは北アフリカ戦においてトブルクを保持してロンメルを苦しめたように、ラングーンを保持して日本軍を苦しめようとしたのだと書いている文献もありました。

 当初ラングーンを保持しようとしたアレクサンダーはしかし、たった1日でその不可能を悟り、間一髪のところで脱出しました。このあたりのいきさつでも、ウェーヴェルはどちらかというと批判されているように思われます。ただし、ラングーンがパニックに陥っていた時にウェーヴェルがやってきて、落ち着いて楽観的に次々に的確な命令を出すのをまわりの人びとが見て、非常に頼もしげに見たということがあったようではあります。



 その後、ビルマ全体から英連邦軍は撤退のやむなきに至りますが、ウェーヴェルはその撤退の途中から日本軍に対する反攻計画を練り始めます。ただしこれはチャーチルの命じるところでもあったのであり、ウェーヴェルだけが先走っていたというものでもありません。

 様々な計画案を考えていたものの、使える兵力や船舶に限りがあり、まずはアキャブ(アラカン)方面での反攻作戦を実施することにしました。そしてその司令官(東部軍司令官)としてウェーヴェルは敢闘精神のある人物を探し出してきて任命しました。それがアーウィン将軍だったのですが、アーウィンは敢闘精神があり、肉体的な勇敢さについては疑いなかったものの、自己中心的で独善的であり、柔軟さに欠けていました。しかも間の悪いことに、軍のヒエラルキーには容易に屈する人物だったのです。


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 ↑アーウィン将軍(Wikipediaから)


 アーウィン自身さえもが作戦の遂行が難しくなったことを自覚してそのことをウェーヴェルに報告した時、ウェーヴェルは日本軍を過大評価し過ぎているとして、作戦の続行を命じました。するとアーウィンは自身の判断を翻して見込みのない作戦を続行し、そして結局、作戦は水泡に帰したのでした。


 ただしウェーヴェルは、アキャブ方面以外で一つの作戦を成功させ、それによって英連邦軍の士気を高めることに成功しました。それは、オード・ウィンゲート将軍による日本軍の後方攪乱作戦であり、ウィンゲート将軍はほとんどすべての同僚、上官達から嫌われる性格であったにもかかわらず、ウェーヴェルはその非正統的な作戦を好む傾向からその作戦を認可したのです。


Ordecharleswingate

 ↑ウィンゲート将軍(Wikipediaから)


 結局ウェーヴェルは、イギリス領インド軍司令官の地位を解任され、インド総督の地位に就きました。その後、新たに設立された東南アジア地域連合軍(SEAC)の総司令官にマウントバッテン卿が任命され、その後のビルマ戦線を勝利に導いていくことになります。



 ウェーヴェルには使える兵力がなかったとか、麾下の人材も豊富でなかった、ということはあるだろうと思います。その後のビルマ戦を勝利に導いた英連邦軍側の指揮官の多くは、ウェーヴェルの時代にはまだ下位指揮官でした。

 ウェーヴェルほどの能力があっても、当時としてはあれ以上のことは誰にもできなかった、という見方もある程度あるようではあります。


OCS『South Burma』(仮)とOCS『Arakan』(仮)のマップを4ヘクスほど西へ移動させることにしました

 OCS『South Burma』(仮)とOCS『Arakan』(仮)のマップですが、4ヘクスほど西へ移動させることにしました。


 この2作のこれまでの経緯については、↓をご参照下さい。

1942年から1945年にかけてのビルマ戦OCSゲーム



 今までのこの2作(とOCS『Burma II』)のマップの範囲は、こうなってました↓。

unit8966.jpg

 ところが、画像で「ここ」と書いて矢印を付けている辺りがカバーされていないのが気にはなっていました

 まあとりあえず気にしないことにして作業をしていたのですが、先日届いた『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』のP313に1945年の英連邦軍のビルマ奪還の時期のビルマ全体の地図があり、その中でこの「カバーされていない地域」をばっちり英連邦軍が通っていることが確認できました(まあ、地形的には当然ですが(^_^;)

 で、これまで作業してきた感じ、マップを西へ動かすのはありという気がしていたので、移動させることにしました。

unit8965.jpg

 4ヘクスほど動かしたかと思います。



 動かした後の、『South Burma』(仮)の一番南東の部分↓

unit8964.jpg

 紫色の点線が、タイとビルマの国境です。元々日本軍はタイ側のメソート(Mae Sot)という村から出発しており、そこから出発できた方がいいかな~と考えていたのですが、まあ全体の必要性の前では大した問題ではないかと。尤も、英連邦軍側の初期配置もマップ端ギリギリになってしまいますが……?

 今後また試行錯誤する可能性も全然ありますけども。

BCSの『v2.0 Series Support Book』のデザイナーズノートをDeepL翻訳で和訳しました

 ↓のツイートで興味を持ちまして、そのBCSの『v2.0 Series Support Book』のデザイナーズノートをDeepL翻訳で和訳してみました。





 『v2.0 Series Support Book』はBCSアラクールには同梱されているようですが、↓でダウンロードできます。

Battalion Combat Series Page



 和訳は、色々修正したところもあれば、全然DeepL翻訳の結果そのままのところもあります。個人的に「そうだそうだ!」と思ったり「なるほど……」と思ったり、全然分からないところも大量にある(そもそもBCSの全体をまだあまり理解していない)のですが、とりあえずぱっと挙げてみまして、自分なりに興味のあるところはまた別のエントリで書くかもです。

ところで、バスはどうやってこの停留所まで来たんだろう?

BCSの開発には長い時間がかかった。多くのプレイテスターのプリンターが、そして南米の森が、その遅れを取り戻すために大往生を遂げた。しかし、この努力の原点は何だったのだろうか。

当初は、「大隊レベルのOCS」の適応を想定していた。規模を変えるだけであり、より小さな部隊や戦闘を可能にしよう。何も難しいことはない、と思っていた。そう、その通り。

その作業がOCSからかけ離れたものになっていくのに、長くはかからなかった(大隊レベルは、作戦レベルよりも表現できることが、たとえ小部隊であっても遙かに多い)。私は他のシステムがやらないような、大隊レベルの正しい表現をプレイヤーに見せたいと思った。主に、私が始めた道が行き着く先まで続いていたからです。基本的に運用可能なルールセットを、より小さなスケールに押し込めたのです。

それが、とてもワイルドな旅の始まりだった。





特筆すべきアイデアの数々

あえて言わせてもらえば、私は30年あまりのデザインの仕事の中で、いくつか特筆すべきアイデアを思いついたと思う。どれも発表当時は「そんなのうまくいくわけがない」と騒がれたが、何らかの形で時の試練を乗り越えてきたものばかりだ。好きか嫌いか、それは人それぞれ。

これらはウォーゲームデザインの芸術における実際の進歩であり、「今流行っている巧妙なメカニック」以上のものをプレイヤーに実際に教える方法で戦争を見せるという努力に対する私の小さな貢献でもあると思う。

私はそれらをかなり誇りに思っている。

CWB/RSS/NBS/LoBの文書命令システム、TCSのグラフィック命令システム、OCSの奇襲判定、そしてあえて付け加えると、BCSのCombat Trains&Trafficシステムがそれである。(ただし、トラフィックルールは主として、作業量が増えるためにオプションになった)

これらのビッグアイテムの他にも、このレベルには達していないものの、私が誇りに思っているものがたくさんある。例えば、「究極のゲーム」(『DAK』、『Last Blitzkrieg』、それに『Last Chance for Victory』)、『Last Chance for Victory』でのゲティスバーグの分析、『Karelia』でのBoss Pointsシステム、『Heights of Courage』での勝利システムなど。しかし、これらは上記のようなトップレベルのコンセプトとは異なる。

では、BCSの「Combat Trains」や「Traffic」のような「小さな」ものが、様々なコマンドコントロールやOCSの奇襲判定と同じリストに入るのはなぜか? それは、それらが行うこと、そして見せることによる。

補給ルールは、そのほとんどが、設計努力の不毛の地である。ごく少数のものだけが、カードやチットプルのような「クールな子供」のメカニズムに向かう途中で、「追跡すればいい」という標準的なメカニズムをはめ込もうとさえしているのだ。これはデザイン作業の赤毛の継子なのだ。

直接的に見る場合、デザイナーはサプライポイントの有無、サプライの種類、サプライポイントの輸送などの細部に注意を払うかもしれない。全体として、これは「適切な種類のものが十分にあれば問題ない」ということになる。確かに、OCSはまさにそのような意思決定でキャリアを積んできた。

プレイヤーにとって合理的な範囲を超えようとしたゲーム(「北アフリカキャンペーン」)であっても、ある種のサプライポイントという会計ベースのシステムと、それを様々に組み合わせて特定の結果を得る(あるいは得られない)ための大量のメカニックを用いてそうしていたのです。しかし、それでも、ルーブ・ゴールドバーグ的なサブシステムをすべて取り除いたとき、SPがあれば、お金を払ってやろうとしていたことは何でもできたのです。必要なポイントのX倍のポイントがあれば、そのアクティビティをX回行うことができる、といった具合に。

もともとBCSは、OCSをそのまま移植したようなシステムでした。プレイヤーはSP(弾薬と燃料の2種類)を与えられ、文字通りやりたいことにお金を払っていました。1つ工夫したのは、マップ上のSPの輸送を無視することです。トラックもありません。その代わり、プレイヤーはSPをHQ(各HQは "Lift "能力を持っている)に支給しました。HQには好きなだけSPを持たせることができますが、HQが移動した場合、リフト値だけを持っていき、残りは無駄になって破壊されます。このアイデアは、戦争における兵站の主要な要素は無駄であることを示すことでした。予想通り、テスターはHQが移動できるSPだけを配置し、損失を避けるように反応しました。

その努力は、他のフォーメーションが大きく生きられるように、あるフォーメーションをねじ伏せる訓練となった。その上、燃料の支払いは裏で行われ、弾薬だけがマップに置かれることになり、プレイヤーは常に利用できるものに文字通りの限界を感じ、その制限に嫌気がさしました(特に「剥奪」されたフォーメーションの1つが防衛しなければならないとき)。

史実でも、これは問題になりました。アメリカ軍は、ほとんどの場面で、必要なものをすべて持っていると思い込んで、ロジスティクスを完全に省略してしまうほどの物量を持っていた。

ドイツ軍は2つの方法でポイントを与えることができます:スタート時に大量に供給し、毎ターン少しずつ供給する(かなり正確に起こったことです)か、スタート時に少量の廃棄をし、毎ターン大量に供給するかです。

どちらもうまくいきませんでした。

どちらも、自分たちが推進したのと同じ会計主義的な考え方に押しつぶされたのだ。ドイツ軍に巨大なゴミ捨て場を与えた場合、「歓迎されない」フォーメーションを飢餓食にすることで、「優良」ユニットは補給不足の影響を受けることはなかった(そして軍の多くはキャンペーンにわざわざ参加することはなかった)。小型のゴミ捨て場では、歴史的な初期活動ができず、依然として鈍重な者や弱い者の飢餓を助長することになった。

その過程で、文字通りのSPは抽象的な「LOG」(後にSNAFUとなる)のダイスロールに取って代わられ、一部のフォーメーションはプレイヤーの望みより少ない仕事を強いられることになった。このダイスは、ある状況下で、あるフォーメーションがプレイヤーの意図しない動きをすることを強いるものであったが、その仕事は完了したものの、あまりにも後景に追いやられ、兵站というものが、ゲームから消えてしまったように思われる。

私たちは、ゲーム内の他のシステムにも磨きをかけました(私の親愛なる友人であるロッド・ミラーの、偉大で常に洞察力に満ちた協力により、それらを非常に高いレベルで磨き上げ、輝かせることができたのです)。

その結果を見て、ある種の不安感が私に染みついてきた。BCSでもっと何かを見せたかったことを思い出して。それはダウンスケールした作戦級以上のものであり、多くのタイトルですでに見られる 「ZOCをぶっ壊す」 だけの単純なものではなかった。私は、BCSがその哲学的基盤の一部を失い、私が 「SCS with Engagements」 と呼び始めたものになってしまったのではないかと考え始めた。

その結果、「もっと何か」の魂を入れ直すという取り組みが生まれました。それが、OBJ、Traffic、Combat Trainsなどだったのです。

OBJは、プレイヤーの労力の一部を部隊の作戦立案に充てるだけです。このため、部隊が一度に管理できる方向性の数が制限され、展開されるイベントへの反応も制限されます。

以前は、フォーメーションが4つの向きに分かれて、いくつもの微細な仕事を一度にこなすことができました(もっとひどいのは、私の息子のジョンがやったように、私が「バブルオフェンス」と呼んでいるものを実行することです)。そのどれもが、本物のフォーメーションができること、あるいはできることとは似ても似つかぬものでした。

いくつかの実験の後、かなり単純な OBJマーカーの配置システムが、これらと他の多くの問題に対処しました。その上、部隊の重要な資産である、一部のユニットが活性化後に有用な場所を偵察する能力(進化する状況を利用するため)をプレイヤーが利用できるよう、簡単なシステムを提供することができました。

オプションの行軍OBJ(と、その後のより精巧な命令ルール)は、プレイヤーを特定の行動にさらにコミットさせるという、ささやかながら重要な仕事を引き出してくれるのです。

トラフィックは後から導入されたものですが、プレイヤーが懸念していた、2つの部隊がコーディネーションルールによって互いに干渉する一方で、ある部隊内では行軍の渋滞が問題になることはなかった、という問題に対処するためのものです。現在では(ユニットトラフィックオプションルールを使用する場合)、プレイヤーは後続のユニットの動きを妨げるような交通渋滞を引き起こさないよう、慎重に動きを調整しなければなりません。そして、それでもなお、不器用に「かろうじて勝つ」攻撃が、道を塞ぐ事態を招くと、マーフィーは醜態をさらすことになります。

この頃、ロジスティクスがシステムとして復活し始めた。Trainsは最初に追加されましたが、部隊の運用に必要な道路網の位置を押さえるにすぎませんでした(「MSRの混雑」についてのルールが生まれ、後に「現役」に戻る際の制限に変わり、「LOGの混雑」については後に「最適距離」と「小川の横断」となりました)。これらはうまく機能し、プレイヤーは「物事を正しく行う」ために必要な計画と注意によく応えてくれました。

Trainsを移動させると、Trainsは「out of service」(Ghost)側に反転し、部隊のSNAFUロールにDRMが発生する。プレイヤーはTrainsを移動させるタイミングと待機するタイミングを慎重に判断していました。これは良いことなのですが、まだ何かが足りないようです。その何かが、「Combat Trains」を単純なメカニズムから、それ以上のものへと昇華させたのです。

それは、「Logistics Inertia」と「Supply without Accountants」の追加である。






でも、ポイントは数えないとね!!!

ロジスティクスを気にするゲームに鍛えられ、プレイヤーはロジスティクスを会計士のように考えるようになった。プレイヤーは定量的かつ個別的な資源のプールを持っています。あなたはやりたい行動のために、ある一定のレベルでそれを引き出し、使い果たすまでそのプロセスを繰り返すことができます。使い果たしたら、また手に入れるまで終わりです。ロジスティクスとは、文字通り資源配分の問題であり、それ以上の意味はないのです。

紙の部隊ユニットは、使わないことを選択した場合、何も必要としません(感情もありません)。そしてあなたは、その部隊用の弾薬や燃料をすべて持ち去って、それを自分の好きなことのために使うことができます。それらのポイントを剥ぎ取られたユニットは、戦争が終わるのを喜んで待ちますが、その間、あなたには何のコストもかかりませんし、ユニットは両腕を下げてただ見ているだけです。

これは現実をうまく反映していない。

あなたのリソースは、流動的でその幅も分かりません。手持ちの在庫に誤りがあったり、腐敗が起こったり、部品のラベルを間違えたり、間違った部隊に行くトラックに載せたり、自分が選んだ部隊よりも使い道があると考えた部隊に当てにしていた物資が盗まれたり、あらゆることが原因で、明確な切り口が曖昧でわからなくなり、なかには想像もつかないような、完全に自分の手に負えないような事態になります。

どんな活動にもコストがかかるのは事実だが、その金額は一般論としてしかわからず、不測の事態やユニットの行動、無駄によって計画の数字が狂ってしまうこともある。4日間もつはずのものが2日で焼け落ち、4日間設置した別のものが永遠にもつかのように見える。また、病院のベッドに関しても、最善の推測が単純に間違っていたこともあります。

休止中の部隊は、食料、燃料、弾薬さえもまだ使っています。部隊には、近隣の部隊から盗んだり(「あれ、おいしいんだよね」)、死んだ車を修理に出さず、ブルドーザーで道路から落としてしまう悪い癖がある。スナッフィー二等兵が部隊の最終地点から持ってくるはずだった弾薬のケースがどうなったのか、誰も知らない。世界中の補給兵は、取引用と「雨の日」のために、個人的に資材の隠し場所を持っています。「2つも頼まれたのか?3つ持っていけば、何が出てくるかわからないよ」。まだ知られていない資源を継続的に利用しないほど不活発な部隊はない。また、彼ら(とその指揮官)は、「燃料をすべて○○に送っている間、あなたは無力になる」という考えには、あまり反応しないものです。

パットンならどう言うだろうか。

しかし、ゲーム供給システムは、これらの点のほとんどすべてにおいて、真逆の世界を呼び起こします。会計システムは、「正確さ」を最も粗い言葉でしか表現できないシステムを、正確に測定せずにはいられないのです。会計学は「ちょうどいい」思考に報いる。現実の生活は、できる限り速く、できる限り前進し、戦争に勝利するのを待つことで展開される。十分でないことによる失敗」と「やりすぎ」の間にある「ちょうどいい」がどこにあるのかわからないから、やりすぎのリスクを選ぶのです。

SNAFU(元はLOG)システムは、会計ゲームを回避する。典型的なプレイヤー主導のメインエフォートビジネスは、作れない(現実にはそれは不可能なのだから)。「本当に、本当に重要なところ」での結果の予測的確実性は、幻想的である。トラックは立ち往生するかもしれないし、まったく到着しないかもしれない。重要な場所ではなく、マーフィーの法則が言うように、おそらく最悪の場所に。デポにあるものは、地図上の活動量には反映されません。また、デポの埋蔵量の減少は、具体的な減少として現れるかもしれないし、現れないかもしれない。最終的には、『Last Blitzkrieg』でドイツ軍が見たように、その弱い物流システムは、全体的な効果の低下をもたらしますが、それでもプレイヤーはパンターのガス欠を防ぐために、いくつかのユニットを飢えさせないようにすることができます。

さらに、補給は「会計士無双」方式ででもなければ、プレイヤー自身がある部隊が必要なことをすべてやってくれると確信を持って言うことはできない。全体的な補給の状況は、マップ上の能力の分布に反映されますが、プレイヤーはどのような活性化も最善となることを期待することはできません。

その結果、より精密なSPベースのシステムよりも、より現実に即したロジスティクスを実現することができるのです。

もちろん、実際の指揮官は、ある部門から少ない資源を奪って、他の部門を助けようとすることができます。それは問題ではありません。ゲームモデルの問題は、そのような行動が標準的な行動としてとらえられ、現実には不可能な冷酷さと正確さで実行されることです。私たちは皆、ゲームにおいてこのことをよく目にします。プレイヤーは私に、あるユニットが非常に特殊な状況下で行ったある行動をカバーするルールを求めてきます。間違いなく、彼らは本当にそうしたのです。問題は、私がその行動をルールとして認めた場合、プレイヤーはその行動を頻繁に、そして現実でその行動が行われた理由ほど極端ではない状況で使用することになることです。だから、例外を認めるわけにはいかないのです。

時間が経つにつれて、「LOG」システムに摩擦や混乱、完全な失敗などの他の項目を挿入する必要が出てきたため、名前を「SNAFU」に変えました。もちろん兵站は、部隊に命じたことのすべては実行されない理由の重要な部分ですが、交通管制、指揮の失敗、その他無数の理由も同様で、これらもすべて「地図上ではとても簡単に見えるのに!」ということを実現させないようにする要素なのです。








何の不活性化?

Combat Trainsには、数段階の不活性化が組み込まれています。

Trainsが敵にジャンプされると、後方に跳ね返ったり(これは非効率)、完全なMSRが不可能な場合はマップ外に出てしまったり(これは大きな非効率)、フォーメーション側にとって最適とは言えない行動を引き起こします。

さらに、Trainsが移動して一時的に "Out of Service "になったり、"Ghost "になったりすると、より小さな影響があります。ゴーストになると、通信回線を確保するまでの間、SNAFUの問題が深刻化します。これは非常に穏やかなものですが、この効果を軽減し最小化するために時間をかけたプレイヤーに有利になるように、ずさんなプレイを悪化させる可能性があります。

いつ、どこに移動するかという選択が、プレイヤーの行動の自由を奪っているのです。完璧な世界であれば、Trainsの再確立のためにわずらわされることなく、必要な場所にただちに移動させることができるはずです。しかし、あまりに早く移動させると、物流網に支障をきたす恐れがある。遅すぎると(あるいはまったく動かさないと)、トレインが追いつこうとして追いつけなくなり、作戦のスピードが落ちる可能性がある。いずれにせよ、マーフィーは最悪の事態を最悪のタイミングで引き起こすと考えられる。

トラフィックのためにユニット同士がつまずくのと同様に、後方地域の施設(HQと列車)は他のユニットやフォーメーションの移動を妨げないように注意して配置されなければならない。







メカニカル・メカニクス

このシステムには、従来のウォーゲームのネタのあり方に反するような、かなり多くのメカニックが存在する。全ては、それらが示すべきものを示すために慎重に選ばれ、徹底的なテストによって鍛え上げられた。全ては、今まで否定されてきたこのレベルの戦争への洞察をプレイヤーに与えるという私の目標に貢献するものだ。

ターン内の交互フォーメーション(IGO-UGOフレームワークや完全なChit Pullとは対照的)は、IGO-UGOが可能にするよりも低レベルの相互作用(自陣の完璧なマップ間調整は不可能であり、特別な「不活性」フェイズやあるいは予備のルールは必要ない)を可能にし、かつ完全ランダムChit Pullよりもプレイヤーが(理論的には相対的重要度に基づき)何をしたいのかより多くの情報を得られるよう設計されています。

フォーメーション選択の順序は、デフォルトで、いくつかのフォーメーションは「待機状態」となっており、何が起こるかわからない状態です。彼らは、今すぐには状況に影響を与えないという代償を払ってでも、後で新しい状況を利用したいと考えます。同様に、最初の活性化の終わりに再活性化を選択することで、敵が干渉してくる前に、今行ったことを活用する機会を得ます。これは陣形の敏捷性を強く意識したものです(これを得るために必要なダイスを振っています)。シンプルで、とてもよくできていると思います。

再活性化自体が、フォーメーションが順番に (おそらく) より多くのことを行うことを可能にし、 その「おそらく」 は、フォーメーションがその足で考えて、事象に迅速に反応する能力に基づく確率で運に駆られることである。

最終的な交戦/攻撃/弾幕の戦闘システムは、このレベルの装甲と歩兵の戦闘の特徴に合わせたプレイアビリティのベストバランスを見つけるための、非常に長く複雑な試行錯誤の結果です(主に私の側で)。

残酷なほど単純化すると、装甲は射程距離で相手と拮抗し(時には敵のいるヘクスに直接突っ込む)、歩兵は敵の陣地に乗り込んで文字通り突撃し、砲兵は地域全体を破壊して損失を与えようとする、ということになる。

これらのうち、砲兵は最も単純であり、段階的な損失を与える機会を与えるものである。途中、いくつかの寄り道があった(大抵は様々な形の妨害に対処するもので、どれも簡単に悪用される可能性があり、それらを持つために必要なルールの重さに見合わないものであった)。

歩兵の地上攻撃もかなり単純なものでした。私たちは多くの修正順列を経て、保持すべき最良のものを選び、撤退と混在する損失のレベルが適切になるように表を調整し、最終形に向けて急速に発展させました。

交戦、AVユニットとそのサポートの相互作用、そしてそれらがどのように最終的なEZOCとAV EZOCのルールに集約されるかは、長く、そして複雑な問題でした。それについては、以下の「戦車!」のセクションでお話します。

「戦闘フローチャート」のアイデアは、システムの歴史の中で塵箱に忘れ去られるのが一番です。最終形への道のりは長かったと言えば、それで十分でしょう。何がベストなのか、(時には何度も)試されなかったアイデアなど、文字通り皆無に等しいのです。

基本的に戦闘比を使用しない戦闘システムと、ステップロスの効果がないように見えることは、これまでのウォーゲームの定石に完全に反しています。私は、これらのアイデアが、戦闘比のCRT、防御側を囲みつつある望ましい戦闘比を得ること、損失が蓄積されるにつれてユニットの強さが直線的に低下することを当然として育ってきたプレイヤー達をむかつかせるだろうことは理解できます。しかしこのようなウォーゲームにおけるこれまでの定石は、消耗戦の理論に深く根ざしているものだと私には思われます(読者はこの部分に下線を引き、自身のウォーゲームのイメージにどれだけ長い間大きな影響を与えたかを熟考すべきです)。BCS は、機動戦と消耗戦をそれぞれの適切な位置に融合させようとするものである。実際の戦争は、その両方が混在しています。私はそれをここで再現しようとしたのです。

それらのパーツを順番に見ていきましょう。

まず、スタックで防御側を囲み、本質的に4方向以上から同時に攻撃することは、現実には不可能です。これらの「余分な」方向は単なる固定力(ここでのアシストスタックと同様)であると主張することもできるが、そうであるならば、なぜそれらは「本当の」攻撃者と同じくらい戦闘力を増し、またなぜそれらのように戦闘後に前進することができるのか? いや、このデザインは、どんな規模のユニットでも防御側を囲んで円を作り、中心に向かって突撃するという(誤った)印象を与えているのだ。これは現実にはありえないことであり、「青と青の戦い」を演出する良い方法です。

戦闘比は厄介だ。もちろん、戦闘比にも意味があるのですが、問題はその見せ方です。通常、これは戦闘ごとに行われ、攻撃側(敵の干渉を受けない)は、文字通り近くの他の敵ユニットを無視しながら、完全なる知性で選ばれた一点に対してできる限り勝率を上げる(古臭い「ソークオフ」攻撃と強制攻撃要件はこの効果を緩和する試みである)。問題は、プレイヤーがこれらのシステムが報いる通りのことを行っていることでした。つまり、数回の戦闘から最大限の結果を得るために、非常に狭いゾーンで戦力比を急増させているのです。

もちろん、それが問題なのだ。このような大規模な戦力集中は現実にはありえない。なぜなら、望ましい(最良の)目標を適切に特定できず、その結果、狭い攻撃範囲では部隊が互いに躓くことになるからだ。例えば、戦後ロシアの攻撃は、突破口を開くために小さな線区に大量の兵力を投入しました。目標は地理的なものであり、特定の弱いドイツ軍部隊ではないため、「戦線の一部」というビジネスが重要である。また、「戦線の一部」というのは非常に大きな範囲であり、戦争末期には戦線の広大な範囲に広がっていた。

BCSでは、戦力比が重要な意味を持ちます。局所的に敵の数を上回れば、そのゾーンを通るより「完全な」攻撃を構築する余裕が生まれ、その結果を利用するための余力が生まれ、存在するあらゆる反撃の可能性から自軍を保護することができるからです。目の前の「A」大隊に対して「必要以上の良い仕事」をするのではなく、「A」とその左右の支援部隊を倒し、その後方に一気に突き進むことができるのです。

部隊戦力の直線的な低下もまた、消耗戦的なもう一つのおかしな話である。もちろん、消耗戦の理論そのものは、自分が破壊されるよりも早く敵を破壊し、最終的には容赦のない血の海で「勝利」するという考えに基づいている。損失、部隊の結束や統率の乱れ、これら全てが部隊を最終的に戦闘不能に陥らせる要因です。それは事実です(BCSにおいてもその通りです)が、問題は、典型的に表現される事態の直線的な性質にあります。5ステップの部隊が1ステップ減ると、20%弱くなるわけではありません。それは、その部隊が20%ほど戦闘不能状態(我々が良くゲーム用語でもって不正確に言うところの「死」)に近づいたのであって、そのユニットが以前に比べて20%減ったのではないのです。

このモデルは、私が25年前のTCSで示したもの(戦闘力は乗員有人兵器で決まり、部隊の戦力を奪っても最後まで火力が落ちない)を、少し後のOCSのもの(損失は瞬時に部隊の攻撃力を奪い、半減は守備力を低下させる)をより踏襲したものです。

OCSの場合は、BCSで見るのとはかなりスケールが違います。カウンター1個は通常BCS上のフォーメーション1個分ですから、OCSで1ステップ(4ステップのうちの)の損失を受けると、フォーメーションのユニットの25%が破壊されることになり、このままではフォーメーションの攻撃力と作戦回数が急速に低下してしまいます。フォーメーションの半分のユニット(OCSの次の層)を失った時点で、「半分の戦力で防衛している」と言えるでしょう(それ以上悪化しない場合)。

BCSでは、ステップ数はユニットの残りの「深さ」を表す指標となります。戦闘不能になる前に、どの程度のダメージを受けることができるかを示すものです。戦闘力を直接的に増加させるものではありません。

通常の物理的な砲兵ユニットの代わりに「Arty Points」を使用するのは、カウンター密度を抑制し、より高いレベルの砲兵ユニットの割り当て要件(およびその自然な慣性)をよりよく反映するためであり、さらに、これらの比較的無防備なユニットを狩るか非歴史的機能(便利な道路ブロックなど)に使用するという意味での「プレイヤーが行うゲーム」を避けるためであることは注目すべき点である。






指揮

BCSで示された「コマンド」の単純な枠組みは、デザインプロセスの中で比較的遅く追加されたものである。私は、移動と戦闘のメカニズムを打ち出すのに多くの時間を費やした後、それを追加しました。その必要性は、文字通り、私がそれらの基本的なシステムのテストで観察していたものから生まれたのです。

明らかな問題は、フォーメーションがあまりにも多くのことをでき、あまりにも機敏であったことです。一度に多方面に打って出る(敵ユニットを殺すだけで消耗戦を進めるため、弱い守備をゼロにする)。そうでなくても、目標Xへの進攻計画が先制攻撃の失敗で崩れれば、目標Yが瞬時にXを想定していなかったかのように代用されるほど、プレイヤーは瞬時に出来事に反応してしまう。大規模なユニットではこのような行動はとれません。

OBJマーカーはその不安を解消するものでした。どのような展開になるかを見る前に、プレイヤーは編隊がどこを走ろうとするかを決定しなければならず、目的地の近くにいる敵軍を攻撃することに限定されます。つまり、全体から見れば何の意味もないけれど、(完璧な情報に基づいて)単に殺せる弱いユニットを選ぶだけなのです。

OBJの開発は、複雑なバージョン(通常はルート制御と偵察アセットを含む)を経て、現在のかなり単純なシステムになっています。最終的に、移動経路はそれほど重要ではないと判断されました。なぜなら、あなたが行ける(そして何か大きなことができる)場所は限られており、それはあなたがそこに行くために選択する方法に間接的に影響するからです(他の経路は限られた用途にしかなりません)。より重要なのは、陣形の現在の計画を表す正直な(そして適度に柔軟性のない)進撃軸を開発することでした。

Coordinationは、Passage of Linesのもう少し複雑なルールから生まれたものです(Coordinationは技術的にPassage of Linesではない多くのトピックをカバーしているので、名称変更が必要でした)。その開発は、ゲーム思考と実生活のもう一つの違いに端を発している。プレイヤーは「罰を受ける前にどれだけ逃げられるか」という考え方でこれらのルールに取り組み、あるいは資源や労力の使用を最小限に抑えながら可能な限りそれを利用できるよう、線引きがどこにあるのかを見極めようとしました。ある程度、プレイヤーはこれらの(そして他の)ルールの周りでまだそのように行動しているが、古いPassageルールのプレイテストの際に行ったような邪魔な程度ではない。

一方、現実の世界では、参謀は隣接する編隊と日常的に「調整」を行います。この作業は、「線の通過」の度合いに応じて、「礼儀」から「主要な指揮機能」へと移行します。しかし、地図を見て、近くの部隊にどれだけ接近してOPを行うことができるかを考え、そのことを知らせずに逃げることはしません。

コーディネーションは、コントロール不能にさせなければ、些細なことです。SNAFUのDRMは、他のプランニングの失敗と重なったり、多数のユニットに影響しない限り、世界の終わりではありません。狭いスペースに多くのフォーメーションを詰め込むと、あらゆる混乱と交通の問題を招く。

敵の後方地域施設を(可能な限り)粉砕する努力において、機動モデル対消耗モデルがここでポイントになる。敵の通信網を破壊することのメリットはたくさんあります。兵站のマヒを誘発することができる。これは、通常のウォーゲームでの殴り合いにおいて、単に「相手のユニットを死ぬほど攻撃する」よりも効率的である場合があります。これらは必ずしも簡単に達成できるものではありませんが(特に、プレイヤーにやられた時の気分を味わってもらうと!)、やらないよりも早く大きな利益を与えることができます。

消耗戦が好きなプレイヤーはここでも存分に楽しめるが、操り方をマスターすることが勝利への近道となる。ベストミックスは最も効果的な遊び方です。泳ぎを楽しんでください。






戦車!

私は、ジム・ストラバースに大変感謝している。彼は、実際の装甲作戦に関する専門知識を、私のような頑固な老歩兵と共有することができた。たとえ、彼が私に理解してもらうために、小さな言葉と多くのクレヨンワックスを使わなければならなかったとしても。

機甲部隊のモデルは歩兵のモデルよりも詳細である。文字通り、機甲部隊は歩兵のモデルでは表現できない方法で戦場や他の機甲部隊、歩兵に影響を与えるからである。通常、デザイナーは歩兵モデルに機甲部隊を無理やり組み込み、期待通りのもの、つまり本当に強い(そして速い)歩兵のような振る舞いをする機甲部隊を手に入れることができます。

装甲は交戦表を使用して他の装甲と戦う(例:砲撃を交わす)か、直接交戦する(Shock Attackを使用する)ことができる。TAC MAユニットは一般的にショックアタックを使用することで、機動力によるテンポの良さを発揮することができる。

これらの仕事をどのように行うか、あるいは行えるかどうかは、集中的に装甲を使用するか、支援部隊に分割して使用するかという、一つの主要な決定に基づいています。

プレイヤーはしばしば「歩兵支援」の意味を混同するので、これには少し説明が必要です。この混乱は、歩兵支援として派遣されることが、1940年にフランスが行った機甲部隊のようなものだと考えていることに起因しています。

厳密に言うと、フランスのモデルは、BCSのプレイヤーが集中戦車ユニットを歩兵に積み、なぜサポート修正を受けなかったのかと私に質問してくるようなものです。

いや、それは違う。

効果的な戦車歩兵チームの開発は、米軍にとって戦争の大半を占めるものであった。戦車と歩兵のチームが効果的に機能するようになるには、米陸軍の戦車と歩兵のチーム が互いに「近く」で活動し、それぞれの行動を独立して行い、偶然に大なり小なり連合軍として機能 することがあまりにも多くあったのである。このようなコンバインド・アームズを正しく(そして最大の効果を得るために)行うには、両軍が頻繁に協力し合い、お互いに相手のできること、できないことを学び、車内の乗員と地上の歩兵司令官の間の通信手段(通常は戦車の後部に取り付けられた電話機)が必要である。

戦車と歩兵の混成がうまくいけば、攻守ともに単体の何倍もの効果を発揮するが、急速な移動作戦には限界がある(歩兵は装甲車を装備していなければ機動力に限界があるため)。

重要なのは、これらの能力を得るためには、トレーニングとスキルレベルが重要であるということです。

集中」(またはリアル)装甲は-もちろん集中し、「群れ」として行動します。そのため、たまたま周りにいた歩兵と密接な作業関係を持つことはできません(もし集中装甲に戦車と歩兵のチーム支援効果が認められていたら、歩兵が管理できない装甲速度で作業することになります)。むしろ、集中装甲は、彼らが振るうことができる巨大なハンマーを十分に活用するために、いくつかのCombined Armsの能力をあきらめるのです。もちろん、それは地形に左右されます。

AV EZOC はアーマーが打撃を交わす(またはヘクスの機能を停止させる)ことを要求するかもしれないが、範囲外のオーバーウォッチやオポチュニティファイアのルールは存在しない。まあ、文字通りの火災という意味ではありませんが、交戦地帯でのHQやトラックの移動に制限があることは無視できないでしょう。文字通りの火災を表示するか、ZOC や交戦区域のルールでアクティブプレイヤーの移動中の火災を「カバー」するか、様々な方法で比較的膨大な時間が費やされました。ここにあるのは、これらのルールを、プレイアビリティとシミュレーションの最適なバランスになるように最終的に抽出したものです。多ければ良いというものではありません。私たちはあらゆることを試し、多くのアイデアを何度も練り直しました。

さらに、一般的な戦闘範囲は、兵器システムが利用できる理論上の最大値よりはるかに小さいという問題があります。北欧では、丘や木などの細かい地形が、地図上ではクリアなLOSに見えるものを遮っていることが問題なのです。しかし、砂漠では事情が異なります。

基本的に、過剰なディテールと(実際には)過剰な損失というプレイ不可能な悪夢を避けるために、非アクティブプレイヤーの射撃は文字通り表示されない(ただし、Stopping Engagementで起こっていることは表示される)ことを意味する。通常、彼らは自分たちの活性化で射撃を行っている。

集中型か支援型かという大きな問題に加えて、装甲部隊は2つのモードのうちどちらを使うかという決断を迫られることがよくある。移動側と配備側である。移動」はそのユニットに最高のマップスピードを与え、その AV を下げ、そして(オプションのルールを使用した場合)マップの下流にトラフィックを作る可能性を提供する。配備」戦車はかわすことと織ることに忙しく、マップ上での速度は上がらないが、AVは向上する。

このうち、後者は非常に重要で、「初撃」に関する現在の考え方を示しており、必ずしも「最高の」車両が戦いに勝つのではなく、「最初の一撃」を放った者が戦いに勝つということである。AVのわずかな増加は、大したことないように見えるかもしれませんが、アーマー・エンゲージメントの結果に大きな影響を及ぼします。

展開側 vs 移動側は、「誰が走っているか vs 誰が標的を探しているか」の大まかな代用として、誰が最初の一撃を受けるかの指標にもなります。決して完璧ではありませんが、以前のアクティベーションで行われた動きを追跡するよりは良いでしょう



第2次アキャブ戦で第55師団長であった花谷正中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました

  『回想ビルマ作戦』という以前買っていた本を読み始めていて、第2次アキャブ戦の時の第55師団長であった花谷 正(はなや ただし)中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました。



 これよりさき、南西海岸【アキャブ戦域】正面では、昭和17年来から英印軍の攻勢をうけ、第55師団との間に激烈な戦闘を繰り返していた。師団長花谷正中将(26期)の過酷とも思われる峻厳な統帥によって、かろうじて敵を撃退したが、花谷師団長は血も涙もない鬼のような人だと、多くの部下からうらまれた。これは、花谷師団長の性格にもよるが、苛烈な戦況に対処するため、心を鬼にしなければならないところもあった。
『回想ビルマ作戦』P78,9



 花谷将軍については、『歴史群像』2012年12月号(No.116)のアキャブの戦いの記事で「勇猛果敢」「積極的」という記述は読んでいたのですが、「恨まれた」という話は全然知らず、興味を持ったのでネットで検索してみました。

 そしたら、なんと出るわ出るわ、とてつもないパワハラ将軍で、そのために部下が何人も何人も自決したり戦死したりし、花谷を暗殺しようとする者(計画)も何度もあり(成功すれば良かったのに……)、それでいて本人はとんでもない小心者で前線にもほとんど出向かず、行軍中には自分専用の待避壕を毎日作らせ、ビルマ戦後期に自分が死守命令を出されるとこれまでのパワハラ態度が豹変したとか……(T_T)


Hanaya Tadashi


花谷正 - Wikipedia

花谷正 - ピクシブ百科事典

【資料】花谷正将軍による極端なモラルハラスメント(長文)


 「ピクシブ百科事典」は私もサブカルチャー系の知らないワードを調べる時に良くお世話になるんですが、全然サブカル系ではない人物についてこれだけの長文が書かれているのは、執筆者の執念を感じました……。

 ただ、この記事によると「第2次アキャブの戦い」は最終的には日本軍側の勝利であったと書かれているのですが、私が今まで他の資料を読んでいた感じでは、第2次アキャブ戦はアキャブ方面に戦力を引き付けてインパール作戦を楽にするのが目的であったのに、アキャブで日本軍がいったん撤退した後そこにいた2個師団がコヒマ方面に転用されて非常に重要な戦力となっていて、結局引き付けるという目標は達成できてなく「実質負け(意味なし)」であったと思われ、だとすると花谷将軍のダメさぶりはもっと大きいことになるわけであります……。


 「ピクシブ百科事典」の記事は羅列だけでなく分析もあり、「なるほど」と思わされました。花谷は極端な例なのでしょうけども、当時の日本陸軍には花谷的な指揮官が大量にいて「精神主義」を振りかざしまくっていたのだと。

 でもその精神主義、根性主義って、その後もずっと日本にあって、徐々に減ってきてはいますけど、今でもまだ全然残っていると思います。先日もサッカー部の問題がありましたし、ブラック企業なんかもその類ではないでしょうか。

 私は学生時代、いわゆる「根性主義」が大嫌いで中高は運動部に入りませんでしたが、妹二人は運動部で指導者に叩かれたりしていたそうです(数年前に初めて知ったのですが。数年前にも体罰で問題になった市立尼崎高校バレー部です。男子の方は『ハイキュー!』の兵庫県代表校のモデルになったりしているんですけどね……)。

 石川県で臨時講師をしていた時には、同僚の先生達による部活の根性主義指導がイヤでイヤでたまりませんでした。それで自分の部活指導の際、科学的指導をしたいと思って色々本を買いまくって読んでましたが、そこで少し分かったと思ったのは、「根性主義(精神主義)」というのは、「楽に成果が(ある程度以上)出る」んですよね。態度をきつくすればいいだけなわけで。ところが、科学的指導だけをしようと思ったら指導者は色々調べたり研究したり、諦めずに丁寧にやったりしなければならない。根性主義の方が科学的指導よりも結果を出すこともままある。てっとり早く成果を出すにはある意味「なしではない」方法でしょうし、明治維新以来それが必要とされてもいたんでしょうが、日本社会(の指導者達)はそれに頼りすぎてきたのでは……。


 欧米では「精神主義(根性主義)」はどんな感じだったんでしょうね……? あー、ジューコフ将軍(やソ連軍)はまさにそれでしょうか。ジューコフ将軍が死に追いやった部下の数と花谷将軍が死に追いやった部下の数は、どちらが多いのでしょうか……(ロシアでは今でもしごき?で毎年100人の新兵が死ぬという話がありますね……)。

 ロンメル将軍も少しその気はあると思います。第15装甲師団長として北アフリカに着任したばかりのプリトヴィッツ将軍を戦死に追いやったのは、ロンメルの精神主義的な側面が一因ではあったかと(詳しくは↓こちら)。また、後の西部戦線の時の記述として、ロンメルは部下に怒って接することが多く、特に朝一番は必ず怒られたというような話もありました。

ドイツ軍指揮官人物伝:ロンメルを批判し解任されたシュトライヒ将軍(第5軽師団長)について (2021/05/13)

 ただ、ロンメルの場合の「精神主義」は、自分に体力があってワーカーホリックの気があって努力しまくる系の人間だから、(世の中には色々なタイプの人間がいるのに)「指揮官は前線で戦闘に立ってものすごく努力するのが当然で、そうしなければならない」と思い込んでいるということから来るものではないかとは個人的に思ってます。いわゆる「デキる系」の上司が、部下にもデキて当然だと思い込んでしまっているタイプ。あと、ドイツ軍全体に「指揮官は前線で率先指揮を執らなければならない」という行動原理が厳としてあったということも……。


 日本軍の指揮官で精神主義の人物でも、前線には行きまくったり、あるいは責任感で自決したりというような人物もある程度以上はいたわけでしょうから、そう考えるとやはり花谷将軍はひどい方ばかりに振れすぎなのではないかという気もしますね……(花谷将軍のこの点は有能だった、というような話があるなら、それは尊重されるべきだと思いますけども)。

 先日ツイートしてました↓安達二十三将軍などは、精神主義だったのではあるかなと思いますが、自決してます……。






 それから、花谷将軍について読んでいて思ったのは、敵の英連邦軍側の指揮官が逆に非常に兵士達に敬愛されていたことです。特に第2次アキャブの戦いの時に花谷師団長が包囲した第7インド歩兵師団長のメッサーヴィ、それにその上の第15軍団長のスリムがそうでした(メッサーヴィについてはまた情報が集まりつつあるので、加筆しようと思います→北アフリカとビルマで戦った、「髭男」フランク・メッサーヴィ将軍について (2022/03/14))。

 また、花谷将軍の前任の第55師団長であった古閑将軍や、花谷の上官であった桜井省三第28軍司令官(1942年のビルマ侵攻時には第33師団長)も敬愛されていましたし、能力も高かった。

 そこらへん考えると、もちろん牟田口や花谷が「当時の日本軍組織によって作られた(そして昇進し、任された)」側面も無視できないけども、個々人のキャラクターの問題もあるのでは……。あ、いや、英米軍ならば、牟田口や花谷のような指揮官は上官や組織から問題視されて首にされるか左遷されるのかな……。でも日系2世部隊であった第442連隊戦闘団を隷下に置いていた第36歩兵師団長のダールキスト将軍なんかはパワハラしまくりの無能指揮官だと思うのですが、別に左遷されたりしていないと思われ……。まあ、数とか比率とかの問題ということでしょうか。そこらへん詳しく知りたいですね……。


援蒋ルート、ビルマ公路について調べてみました(付:OCS『Burma II』)

 『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』を読んでいて、援蒋ルートについて改めて興味を持ったので、これを機会に調べてみました。

 ビルマの防衛状態に関するウェーヴェルの懸念は的確であった。ビルマは戦争に対する準備が全くできていなかった。日本軍の侵攻を予想していた者はほとんどおらず、南ビルマが日本にとっていかに戦略的価値のあるものであるかを認識していなかった。ラングーンの重要な機能は、雲南まで2400キロメートル続くビルマ公路の起点となっていたことで、それは苦境にある蒋介石率いる中国国民党軍の生命線だった。中国軍は当時、日本軍の戦闘部隊の約半分である20個師団を縛り付けていた。そうでなければ、これらの部隊が極東と太平洋でアメリカやヨーロッパの列強と戦うために使われてしまう可能性があった。1940年末には、ビルマ公路は中国軍にとって唯一の外部物資供給源となり、日本軍の野望をかなり妨げていた。ただし、ラングーンに到着したアメリカのレンドリース物資のうち、盗難や汚職のために3分の1しか重慶に届かなかったのではあったが。
『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-45』P99




 援蒋ルートに関する簡明な説明は↓こちら。

日本語版Wikipedia「援蒋ルート」


 ↑にある、複数の援蒋ルートの具体的な地図は、↓の一番上に分かりやすいものがありました。

小さな町の小さな橋の大役



 援蒋ルートの中の「ビルマ公路」については、Wikipedia上に地図がありました。

Allied lines of communication in Southeast Asia, 1942-43



 この中で、日本軍が占領していた地域が深く関わっている部分にOCS『Burma II』のマップを重ねたものを作ってみました。

unit8967.jpg


 元々はラングーンの港湾で荷降ろしした物資をラシオまで鉄道で運び、そこからはトラックで昆明、さらに重慶まで運ぶのが「ビルマ公路」でしたが、1942年に日本軍がビルマに侵攻してピンク色の領域を占領したため、このビルマ公路は使用できなくなりました。


<2022/05/08追記>

 『回想ビルマ作戦』という本を読み始めていたら、ビルマ公路について少し詳しいことが書いてあったので、追記引用してみます。



 道路は、ビルマ公路(別名滇緬(てんめん)公路)が唯一最大の幹線道路で、ラングーンを起点とし、マンダレー、ラシオを経て昆明にいたる道路で、全長2300キロメートル、幅員8~10メートルで、援蒋物資を輸送するために、中国政府が50万人の労務者を投入して、昭和12年末から一カ年がかりで完成したもので、重畳する【幾重にも重なる】山岳地帯を羊腸として【曲がりくねって】蜿蜒【うねり曲がって長く続き】昆明に通じていた。イギリスからの戦略物資の輸送に使われたもので、その輸送能力は昭和16年末において、月間1万5千トンに達していた。
『回想ビルマ作戦』P22,3

 【……】私はこの間、ラシオ~拉孟間の400キロに及ぶビルマ・ルートをパトロールして東奔西走した。ある夜は、ライトをつけて車を走らせていると、黒豹が驚いてとび出して、車をとび越えていったり、ある時は太さ30センチもある錦蛇が道路上にとぐろを巻いているのにぶつかったり、群鶏や群猿が嬉々として遊んでいるのを見たりして、南方に来たとの実感を深くした。
『回想ビルマ作戦』P30


 「月間1万5千トン」という数字ですが、OCSにおける1SPは3.3aによると1,500トンなので、「月間10SP」ということでしょうか。OCSは1ターンが1/2週間で、1ヶ月は基本的に9ターンからなりますから、1ターン1SP強。ヨーロッパ戦線の基準からすると貧弱かもですが、あるとないでは大違いで、少し届くだけでも中国軍は大変助かったことでしょうね……(ただしそれが盗難と汚職で1/3になるとすれば、また大変なことではありますが)

<追記ここまで>


<2023/01/18追記>

 『「戦場体験」を受け継ぐということ -ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』という本を読んでましたら、ビルマ公路を作る際に使役された民族の名前や、工事の様子が書かれていました。



 中国はこの公路を「われわれの生命線」と呼び、国民政府と雲南省政府は建設費を折半し、労力は雲南省政府が担って1937年末から建設(改築と舗装)を開始した。同政府は雲南に住む10の民族 - イ・ペー・タイ・ミャオ・リス・チンポー・アチャン・ドゥアン・回・漢の延べ20万人を動員した。道路建設用の機械がなかったため、工事には、鍬・ハンマー・つるはしなどの道具で、人々の血と汗による驚異的な早さで1938年8月に全線を開通した(石島紀之『雲南と近代中国 - “周辺”の視点から』青木書店、2004年、213頁)。
『「戦場体験」を受け継ぐということ -ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』P69,70


 これを読んで気になったのは、このビルマ公路の工事に動員された人々はどれくらい苦労したのか、あるいは潤ったのか、死者が出たりしたのではないのだろうか……? というようなことでした。

 日本軍は戦時中に泰緬鉄道(タイとビルマを結ぶ鉄道)を、捕虜や現地民を動員して建設し、その苛酷な労務から多くの死者を出したということで大きく非難されているわけですが、それと比較してどうだったのだろうかということが気にかかります。

 また、その後レド公路の工事でも約2万人の現地民が動員されていたそうで、こちらはアメリカ軍工兵700人と200台の建設機械が投入されていた(同書P74)らしいですが、こちらもどんな感じだったのか、可能なら知りたいですね……(アメリカ軍が主体なので、よりましだったのではなかろうかと想像はするのですが)。


 ↓日本語版Wikipedia「ビルマ公路」に、建設中の写真がありました。説明には「女子供が手持ちの工具でビルマ公路建設を行っている。」とあります。

Workers with hand tools building Burma Road2


<追記ここまで>


 そこで、やむを得ずヒマラヤ山脈の東端(連合軍パイロットが「ザ・ハンプ(尾根)」と名付けた)を飛んで空輸する、いわゆる「ハンプ越え」ルートを使用するようになりますが、この方法は非常な困難を伴うもので、多くの損害が出たそうです(594機の航空機の損失、行方不明、または抹消。1,659人の人員が死亡または行方不明)。

 しかし、1944年のインパール作戦の時期と同時、あるいはその後に、日本軍の占領地域を北から、あるいは東から押し戻す作戦行動が行われます。

 北からは中国軍とアメリカ軍(ガラハッド部隊)が攻勢を開始し、その占領できた地域に新しく「レド公路」という全天候道路を作っていきます。レドからミイトキーナ(Myitkyina)を通って、バーモ周辺の全天候道路まで繋げるというものでした(画像で点線になっている部分。また、OCS『Burma II』で元々全天候道路になっている部分は赤線にしました。それ以外は良天候道路です)。OCS『Burma II』ではこのレド公路を作っていくことが重要だとされているのですが、史実で開通したのは1945年1月であり、ゲーム中(1944年8月1日ターンまで)には実質上完成しないというエラッタ(明確化)が出されています(^_^;

 OCS『Burma II』のマップを見始めた時期には、「レド公路」と言われても何が何やら知らないので、どこらへんのことかも全然分からなかったのですが、ここに来てようやく分かってきました。

 また、東からは中国軍(雲南遠征軍)が攻勢を開始し、日本軍は拉孟(らもう)や騰越(とうえつ)で驚異的な粘り強さで戦うものの、最終的には玉砕しました……(9月7日と9月13日)。

 また、OCS『Burma II』の最終ターンである8月1日ターンにミイトキーナが陥落しています。



 個人的には、1940年末の時点でラングーンに到着した物資のうち、盗難や汚職のために重慶に届いたのは3分の1であったという話を非常に興味深く思いました。実は、北(レド公路)からの中国軍に関しても、OCS『Burma II』には↓のようなルールがありました。

3.1b 中国の軍閥  マップ外のレドホールディングボックスからレド公路へとSPを移動させるたびに、SPの半分を除去します(端数は切り上げます)。つまり、レド公路の「鉄道輸送力」の最大値である3SPをマップ上へ移動させた場合、1SP+2Tが到着するわけです。
デザインノート:連合軍がレド公路を南下する際に直面した、非常に不可解で困難な問題の一つが、一部の中国軍司令官達の職業倫理に反する行為でした。様々な軍閥が私腹を肥やし、私兵を養うために、物資や装備が消えてしまっていたのです。




 現在のウクライナ戦争でも、ロシア(軍)は腐敗・汚職がひどく、軍事予算が横流しされて権力者達が潤う一方で、兵器や防弾チョッキやタイヤや食糧物資などがとんでもなく底質なものになっているそうで、それがロシア軍苦戦の一因にもなっているそうです。

 日本や欧米でも汚職がまったくないわけではないですが、中国、ロシア、あるいは他の諸国では汚職があるのが超絶当たり前であるようで、「汚職が少ない国や文化」と「汚職が当たり前の国や文化」の違いが何なのか、最近非常に気になっております。

OCS『Burma II』の雲南拡張セットのルールを和訳しました

 先日、↓をアップしてましたが、その後、その拡張セットである「雲南(Yunnan)」のルール和訳をとりあえず完成させました。

OCS『Burma II』の私家版和訳を作成、公開しました (2022/04/14)


 OCS『Burma II』私家版和訳と同様、「OCSの物置2」の「『Burma』リプリントバージョン」のページに置いておきました。

『Burma』リプリントバージョン



 英文のものが↓に公開されています。

The OCS Depot - Burma (4-06)



unit8972.jpg


unit8971.jpg

 ↑4ページ目が余ったので、分かる限りで漢字(ふりがな)での地名等をマップに書き入れたものを入れてみました。



 この雲南拡張セットのルールには疑問点が結構あり、facebookやBGGで質問している方もすでにおられたのですが返答が得られていない状況であったので、今回私は「暫定解釈」として、「とりあえずこう解釈してプレイするのがいいんじゃないか」ということを書き込んであります。

 ただそれは、ルールを読んでいる時点のものに過ぎないので、一回試しにソロプレイしてみて再検討してみてからpdfを公開しよう……と思っていたのですが、ここ最近体調が悪くてできるかどうか分からないので、もう公開してみることにしました。

 ルールを見て、あるいはプレイされてみて、さらなる疑問点や問題点などを見つけられた方がおられましたら、コメント等いただければ大変ありがたいです(^^)


 ↓のVASSALモジュールにも収録されており、マップを印刷したりしなくてもプレイできます。

Module:Burma

『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』による、第1次アキャブ戦の総括と分析

 第1次アキャブ戦について手持ちの洋書をDeepL翻訳で読むことをしていましたら、イギリス軍の公式戦史本である『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』の総括的、分析的な記述が非常に分かりやすくて良かったと個人的に思ったので、まとめておこうと思います。




 まずは前提的な情報として、位置関係を。

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 争奪戦の的となっているのはアキャブ(Akyab)で、もともと大きな港湾と大きな航空基地があり、英連邦軍としてはアキャブを奪還すればビルマ方面の日本軍に対する反抗の足がかりとすることができます。

 英連邦軍の根拠地はチッタゴン(Cittagong)で、その少し南までは鉄道線がありましたが、そこから南は極端に貧弱な小道しか存在していませんでした。元々この地域では、南北の移動は船で行われていたのです。地図上のコックス・バザール(Cox's Bazaar)やモンドウ(Maungdaw)、そしてアキャブには港があり、荷降ろし、積載ができました(ドンベイク(Donbaik)は激戦地となった場所で、港はありません)。


 1942年9月21日、アキャブ奪還を目指して第14インド歩兵師団がチッタゴンを出発しますが、補給線となる道があまりにも貧弱なため(また船舶の余裕もなかったので)、道路の改善工事を行いながらであり、その南下スピードは非常にゆっくりとしたものでした。

 1942年10月に第14インド歩兵師団に与えられた任務は、モンドウ-ブチドン地域に到達して敵軍をアキャブから引き離し、その間に十分に訓練された水陸両用軍によってアキャブ島への海上攻撃を開始することだった。急ぐ必要はなく、兵站上の配慮から師団の進撃のペースが決定されることになった。
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』P356



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 モンドウ(Maungdaw)とブチドン(Buthidaung)の間には以前整備された全天候道路が存在しており、防衛線を引きやすいことから軍事的に重要な場所となっていました。実際、第1次アキャブ戦でも第2次アキャブ戦でもこの線が重要な防衛線となりました。

 『The War Against Japan Vol.2』の上記の説明は「陽動(囮)作戦」ということであり、私はこれまでそういう説を(多分)見たことがなく、「……なるほど!?」と思いました。


 しかしながら英連邦軍側にとって不運なことに、文章はこう続きます。

 ところが1942年11月、独立第29旅団とその上陸用舟艇の到着が遅れたため、ウェーヴェルは当初の計画をファウル岬【Foul Point】からのアキャブへの短距離攻撃に変更せざるを得なくなった。そして師団はマユ半島全体を占領し、ファウル岬までの道路を建設し、突撃を可能にするよう命じられた。そのため速度が最重要となった。
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』P356



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 ファウル岬とアキャブ島の間には船が(何隻も?)あり、日本軍側もそれらの船を利用してアキャブ島からマユ半島(マユ川の西側の半島)へと兵力を送り込んでいました。英連邦軍側も、ファウル岬まで占領すれば、アキャブ島へ兵力を送り込むのはそれほど難しくなかったということだと思われます。

 ところが史実では、そのファウル岬のすぐ北のドンベイク(Donbaik)に日本軍は兵力を送ることにぎりぎり成功し、結果的にここで英連邦軍は完全に足止めされてしまうのです。


 この、

「どうせ囮として引き付けて上陸作戦するのだから、ゆっくり無理せずでいいよ」
  ↓
「上陸作戦できなくなったから、敵が兵力を送り込む前に無理してでも進撃しなければならなくなった」

 という話は個人的にすごく面白いと感じたのですが、良く考えてみると、当然ながらこのイギリス軍の公式戦史本を参照している、歴史群像の2012年12月号の「アキャブの戦い」記事であるとか、あるいは最新の洋書である『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』などは、この話をまったく採用していないのです(東部軍司令官のアーウィン将軍であるとか、英連邦軍の特性として。ずっとゆっくり進み続けたという話になっているように思われます)。

 とすると、私が面白いと感じたこの話は後に否定されているのかも……?


 11月末、ロイド【第14インド歩兵師団長】はZeganbyin【モンドウの少し北】-TaungBazar地域に4個大隊を維持することができており、12月2日には、【モンドウ-ブチドンの線の】広がって脆弱な日本軍前哨部隊を攻撃することを提案した。しかし、自軍の訓練状態が悪いことを知っていたアーウィンは、最初の失敗のリスクを冒したくなかったので、2個旅団が集結し、後方連絡線が改善されるまで待つことにした。この時の彼の慎重さは、モンドウへの到達を2週間遅らせることになっただけでなく、日本軍が自ら選んだ場所に妨害されることなく撤退して再び主導権を握ることを可能にした。
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』P356,7


 その後、英連邦軍の最大進出線は↓のようになります。

unit8974.jpg

 英連邦軍が最も重視したのはドンベイク(Donbaik)であり、ここに戦力を集中し、1月から3月にかけて5回(あるいは6回)にわたって総攻撃をかけましたが、すべて失敗に終わりました。

 ドンベイクとラチドン【Rathedaung】で訓練度の低い部隊が数的優勢にもかかわらず失敗したのは、驚くことではない。ビルマ戦線では、圧倒的な砲兵力か戦車や航空機による近接支援がない限り、強固な陣地と巧みに配置された部隊に対する正面攻撃は成功しないのである。第一次アラカン作戦では、航空隊と砲兵隊の支援は常に弱かった。一度だけ戦車が投入されたが、戦車旅団長の戦術的な助言が得られず、歩兵との連携がとれないままの攻撃となった。さらに、部隊は後方連絡線に依存していたため、敵の防衛線を迂回しても、敵防衛線の後方にいることによる効果を発揮する前に呼び戻されてしまったのだ。
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』P357


 ↑の赤字の部分の件ですが、OCS上ではまずは英連邦軍の砲兵爆撃力と航空爆撃力を小さめにし、また日本軍側が陣地を割と建設できるようにしてDG(混乱)になる確率を下げるということになるだろうとは思うのですが、「たまたまDGにできた時には攻撃するが、DGにならない限りは攻撃しない」ということによって英連邦軍は成功の可能性を上げつつ、SP消費を低くすることが可能です。だとすると、「単なるDG確率ゲーム」になる可能性も……?(^_^; いや、史実に縛られることなく機動によって色々できるようにすればいいわけでしょうが……。


 その後、日本軍はドンベイク以外の地点で攻勢に出て、英連邦軍の後方連絡線を脅かす作戦に出ます。それに対して英連邦軍は、ドンベイク方面への進出線を下げたくないということに固執して、却って状況を悪化させたのです。

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 ドンベイクとラチドンでの失敗により、敵は増援を投入する時間を得て、1942年のビルマ攻略戦を通して戦った練度の高い師団で攻勢に転じることができた。古閑将軍【第55師団長】は正面攻撃を慎重に避け、中央の位置と河川の支配という利点を生かして、第14インド歩兵師団と後の第26インド歩兵師団を、その後方連絡線を狙った深く広い側面攻撃によって陣地から機動的に排除した。これには、イギリス軍司令官が数の力で成功すると信じて、ドンベイクでの突破を試み続け、マユ川東側から撤退して左翼が露出した後もマユ半島南端の保持に固執したことが大いに役立った。
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』P357,8




 第1次アキャブ戦について、この本は最終的にこのようにまとめています。

 最初の計画にあったように、アラカンへの進攻とアキャブ占領の試みが正しかったことは疑いない。しかし、作戦開始早々、主導権が敵の手に渡り、後方連絡線の増強に必要な沿岸船舶も迅速に提供できなくなったとき、ウェーヴェルは1943年のアキャブ攻略の試みを中止し、代わりにモンドウ-ブチドン地域の攻略と統合など、当時の管理能力の範囲内での限定的な作戦に満足して、将来の作戦に良い出発点を確保し、部隊に戦闘経験を積ませることができたかもしれなかった。しかし、経験の浅い部隊を、後方連絡線が寸断された場所での困難な作戦に投入したことが仇となった。

 2月18日から19日までの6週間、ドンベイクとラチドンの突破に何度も失敗し、士気が低下し始めた時にもウェーヴェルは、勝利すれば士気と威信を回復できるかもしれないとして3月にさらにドンベイク陣地を圧倒する試みをするように命じた。それは、災いを呼び起こすことになった。日本軍は強化されていて、アキャブの占領はもはや不可能であり、このような作戦から得られる戦略的価値はなかった。3月18日の攻撃が不可避的に失敗した後、半島でこれまでに獲得した地点をたとえ側面から攻撃されても保持しようとする決定は、それらの地点を真っ逆さまに敵の手に渡すことになり、1943年5月の英連邦軍は1942年10月に出発した地点に戻ることになったのである。
『The War Against Japan Vol.2 India's Most Dangerous Hour』P358


 OCSゲーム(シナリオ)上では、時々ありますが、引き分けをなくして、英連邦軍はドンベイク前面をシナリオ終了時まで保持できれば「限定的勝利」を得るけども、そうでなければ敗北、とかにすればなんとかなるような気がします。

アメリカ軍、イギリス軍の第二次世界大戦の公式記録(の一部)へのリンクページを発見しました

 OCS『Burma II』関連で検索しているうちに、アメリカ軍の第二次世界大戦の公式記録(の一部)へのリンクページらしきものを発見しました。

HyperWar: U.S.Army in World War II


 というのは、このページのリンクの内の「Stillwell's Command Problems」というところに辿り着いたのですが、これが先日私家版和訳をアップしたOCS『Burma II』の参考文献リストに挙がっていたものだったのです。

 ↓参考文献リストには以下のように書かれていました。

『Stilwell’s Command Problems by Romanus and Sunderland』: この作戦に関するアメリカ軍の公式記録です。中国第1軍の作戦、メリルズ・マローダーズ、スティルウェルとその麾下の指揮官たちとの関係性(またはその欠如)に焦点を当てています。地図も充実しています。
OCS『Burma II』私家版和訳P41



 このリンクページ内の「The Fall of the Philippines」という公式記録は、OCSルソンを作る時に参照していたのですが、その時にはこのリンクページの存在には気付かなかったか……。


 ただ、以前「HyperWar」というのは何かで見たことがあると思って、このブログのブログ内検索機能(ページの右上にあり、重宝してます)を使ってみたら、ここからリンクしてました。

HyperWar: United Kingdom in World War II

 こちらはイギリス軍の公式記録へのリンクですが、アメリカ軍のものよりだいぶリンクされている率が低いです。

 逆に言えば、アメリカ軍のものはかなりの数がネット上で公開されているわけで、かなり有用なのかもです。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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