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「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」から、ビルマ戦線の作戦戦術変化の概要まとめ

 承前。(マレー作戦に関する、指揮官の人物、作戦の分析と、それぞれの評価をメインとした論文2つ (2022/04/29)


 続けて、「軍レベルの指揮—ビルマにおけるスリム将軍と第14軍—」「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」を読みまして、大変参考になりました。


平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書
 軍レベルの指揮—ビルマにおけるスリム将軍と第14軍—
 ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ—1941~45年—
(ブラウザ上で見ると文字化けしているかもですが、ダウンロードしてファイルを開けばちゃんと表示されると思います)
 

 OCSでビルマ戦線全体を再現するという壮大な野望がある(企画倒れになる可能性も高いですが(^_^;)こともあり、この論文からビルマ戦線全体の作戦戦術の変化についてまとめ、またOCSシステムとの適合性も考えてみようと思います。

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(上の方の明るい色のマップがOCS『Burma II』のマップ(雲南拡張マップ込み)です。その左下の縦長の赤い□が、アキャブ方面の『Arakan』(仮)のマップ割。その右側の3つ(下2つは半分くらい重なっています)のマップ割が、OCS『South Burma』(仮)のマップ割です(今後変更していく可能性も全然ありますが)。)



 まずは、1942年の日本軍によるビルマ侵攻の頃について。

 【連合軍は】第一にビルマ進攻を予測していなかったため上層部は全く準備に欠けていた。このため守備に当たる地上軍は経験と編成において全く不十分であった。一部は砂漠戦用の装備ですらあった。連合軍の空軍に頼ることもできなかった。【……】連合軍と敵軍の指導部の差が悲劇であった。日本の指導部は自信をもっていた。「ばかばかしいほどに大胆で攻撃的であり、主導権を失ったことは1日もなかった」のである。連合軍の情報不足が日本軍の戦術的優位を決定的にした。敵が迂回したり、ジャングルを突破して連合軍の補給路を遮断したりすることに成功したため、英軍は劣等感を抱くようになった。
「軍レベルの指揮—ビルマにおけるスリム将軍と第14軍—」P79,80

 英軍司令部は、移動と守備のための道路網が貧困なことや、最初の数週間が過ぎてからは空軍の援護がなくなったため、ジャングルから浸透し、後方連絡線を遮断して側面包囲する日本軍の攻勢戦術に対処できなかった。日本軍が攻勢に出るたびに、英軍は道路の障害を啓開し、時には重装備を放棄して撤退した。この日本軍の戦術はマレー戦線でもビルマ戦線でも終始有効であった7。
「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」P130


 ただし、↓こういう記述もあることも注意しておくべきかと思われます。

 勇猛な日本兵はビルマ兵やインド兵を、後には中国兵を簡単に敗走させるが、機動力の不足から相手の退路を断つことができず、包囲殲滅は困難だったのだ。このことは後に重大な問題を惹き起こすことになる。
『帝国陸軍南方作戦』P114



 日本軍の「浸透・包囲」戦術はOCS『Burma II』が再現するインパール作戦(1944年)でも日本軍が多用し、ある程度の有効性を持ちます。というか、日本軍の攻勢時の強みはこの「浸透・包囲」のみにあるということでしょうか(太平洋戦争における日本軍が全部そうだったのか、ビルマ戦線ではそうだったということなのか……?)。

 対して英連邦軍は、ジャングルを恐れ、補給もトラック頼みだったのでトラックが問題なく通れる道路から離れることができませんでした。このことも『Burma II』で大筋は同様で、日本軍は司令部が徒歩移動タイプで受給・支給できるのですが、英連邦軍の陸上補給は自動車化移動タイプで受給・支給しなければならず、地形効果表が↓のようなものなので……。

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(小道が4/8/1などというとんでもないことになっています。ビルマの小道というのはトラック1台がギリギリ通れるか通れないかくらいの道でしかなかったということなのでしょう)

 英連邦軍は、平地でなければ全天候道路・良天候道路沿いにしかほとんど存在していられませんから、小道以下しかないジャングルや山岳に日本軍部隊が浸透してきて、後方を絶たれると困ったことになるわけです。



 この日本軍の「浸透・包囲」戦術は歴史上目新しいものではない(P131)そうで、対抗戦術はこうだ、と1942年7月(インドへの撤退完了)の時点でアレキサンダー将軍がこう述べたそうです。

 正しい防衛方法は補給物資と弾薬のストックを貯え、輸送の拠点と通路を確保し、その背後に機動力ある戦力を保持し、敵が包囲を試みた場合に反撃できるようにすることだと確信している。

 これらの戦術は縦深に機動予備を有する充分な部隊を必要とするが最初のビルマ作戦では英軍にそれがなかった。
「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」P131


 また、スリム将軍も1942年中頃と43年末に、このように考えたそうです。

 敵が後方に浸入【ママ】した時パニックに陥らず、包囲されているのは日本軍だと信じることだ。正面攻撃は稀であり、狭い前線では正面攻撃は行われない。
「軍レベルの指揮—ビルマにおけるスリム将軍と第14軍—」P80


 まさに、後方の守備と予備が重要なOCS的な話です! OCSのプレイではヨーロッパ戦線においても小包囲が起こりますが、包囲側ががっちり包囲環を保持できるような戦力を包囲環に配置できた場合には解囲は難しいものの、ギリギリの戦力で包囲を閉じているに過ぎない場合には、包囲された側の陣営も予備戦力で包囲環内の戦力の多くを救うことができる場合があります。

 ここらへんの話ですが、OCS(1ヘクス約8km、1ターン3.5日、大隊~連隊規模)の『Burma II』では再現されており、OCS『Arakan』(仮)やOCS『South Burma』(仮)でも再現できそうに思えますけども、フルマップ1枚以下でビルマ全体だとか、インパール作戦だけを再現するようなゲームでは再現できない話なのでしょうかね……?(他のゲームを全然やらないので分からないです(^_^;) もしそうだとすれば、OCSでビルマ戦線(全体でフルマップ6枚程度)を再現するというのはそういう意味でも貴重なのかも……?



 その後、英連邦軍は1942年末から1943年前半にかけてアラカン(アキャブ)方面で最初の反攻作戦(第1次アキャブ戦)を実行しましたが、

 戦闘隊形や各隊の指揮官も含めて、第1次ビルマ作戦の経験を活かしておらず、その作戦の教訓も見逃されるか無視された。すなわち依然としてジャングルでの技量が不足し、英軍士官の多くがいまだ道路を保持することに依存しすぎた。英軍の進撃は鈍重であり補給路を建設することに拘束された。それで、日本軍は英軍の動きを捕捉して兵力を増強し、反撃を加えることができた。【……】英軍の攻撃戦術は、日本軍の浸透と側面包囲の前例を軽視し、多大の犠牲を払って敗退した。【……】日本軍はジャングルでは依然、英軍より優勢であり、英軍は補給線を絶たれて撤退を余儀なくされた。
「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」P133


 第1次アキャブ戦の前半については、↓をご覧下さい。

シリアで活躍したが、ビルマ(アキャブ)では不運だった英連邦軍のロイド将軍について(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』『Arakan』(仮)) (2022/04/16)

 第1次アキャブ戦の終盤にはスリム将軍が指揮を執るようになり、

 作戦の後半に状況を把握したスリムは、包囲されている友軍が陣地を保持して戦っている間に機動力のある予備隊で敵の包囲環を攻撃することで、日本軍の包囲戦術を打破することの重要性を繰り返し主張した。これはアレキサンダーとキャメロンが以前に策定した戦術である19。しかし、必要な資源、訓練、強力なリーダーシップが欠けていることは明白だった。先に明記したジャングル戦の訓練、守備、そして士気の問題に加えて、有利な位置を占め堅固に構築され守備されている日本軍の陣地をどのようにして撃破するかという新たな問題が生じた。砲撃と爆撃では破壊できず、戦車・装甲車なしの歩兵の正面攻撃は多数の死傷者と士気低下を理由に退けられた。日本軍の浸透、側面攻撃、補給線遮断と背後からの攻撃を採用するのは一つの解決策だが、これは道路への依存を捨て、ジャングル戦の練達と自信を大きく改善しなければならない。これらの手法を用いられない場合、英軍は歩兵、砲兵隊、機甲部隊、空軍の活動を調整、決定的に重要な時機と場所に圧倒的な火力を集中するため、より優れた諸兵種連合戦術を開発しなければならなかった。
「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」P134


 引用の青字の部分ですが、先にアレキサンダー将軍が述べていた「守備隊・予備」の話は割と防衛的な話だと思うのですが、ここでスリムが主張している話は「日本軍の包囲戦術を打ち破って勝利する」という、最終的には勝利するためのものであるかのように思われます。そして実際に、1944年1月~2月の第2次アキャブ戦で、スリムはこの方法によって日本軍に対して勝利しました(「友軍が陣地を保持している戦っている間に」を可能にするのは、空中投下による補給で、この戦術がまた非常に重要でした)。

 第2次アキャブ戦については、↓をご覧下さい。

OCS『Arakan』(仮)で、第2次アキャブの戦いは一応再現可能か……? (2022/04/02)


 引用の最後の赤字の部分、「より優れた諸兵科連合戦術を開発しなければならなかった」という話ですが、英連邦軍はその後訓練を行っていき、P140にはこの「諸兵科連合戦術」がうまくいってインパール戦で日本軍に勝利できた、という話になっていました。元々英連邦軍は諸兵科がバラバラに戦う傾向がものすごく強い軍隊で、ヨーロッパ戦線ではモントゴメリーがその辺を以前より改善したものの、ドイツ軍の水準に追いついたわけではなかった、という話を↓で書いてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)


 しかしOCSをプレイする上では諸兵科をうまく活用して戦うのが当然であり、OCSゲームに「英連邦軍が諸兵科をうまく使えない」ような制限ルールは(恐らく)存在していないので、初期の『The Blitzkrieg Legend』や、特に『DAK-II』などでは英連邦軍が強すぎることになっているような気が個人的にしています。一応、『DAK-II』に関しては改造ハウスルール案を考えたりしていたのですが、全然うまい具合にできたとは思えてない状態です(OCS『DAK-II』7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のサマリーと改造ハウスルール案 (2021/12/02))。そこらへん、ビルマ戦線でどうすべきなのか、気になるところです。




 「浸透・包囲」や、あるいは「後方攪乱」ということは1944年には英連邦軍もある程度できるようになり、いくらか実行しました(ただ、1944年の後方攪乱作戦である第2次チンディット戦についてはどうも、投入戦力と効果を見比べると、その戦力を通常戦力として使用した方が良かったのではないかという見方の方が多いようです)。



 それから、非常に気になっていたのが、1945年の英連邦軍の進撃の遅さです。1945年初めにスリムは日本軍の裏をかいて奇襲的に後方のメイクテーラの攻略に成功し、日本軍は崩壊した、と言われます(→1945年のイラワジ会戦の再現にはOCS『Burma II』とOCS『South Burma』(仮)とOCS『Arakan』(仮)が必要……? (2022/02/26))。ところがその後、英連邦軍があっという間にビルマ全体を占領できたのかというとそんなことはなく、日本軍はボロボロになって退却戦を行いながらも、ビルマ南部のある程度の部分は保持し続けたのです。

 これに関して論文ではこう書かれていて「なるほど」と思いました。

 しかし、日本軍の頑強な決意と練達、軍紀は変らなかった。従って機動力と行動範囲の拡大にもかかわらず、歩兵と機甲部隊は日本軍陣地の攻略に手間取った
「ビルマ戦線における英国の戦術指揮とリーダーシップ」P142


 また、1945年には英連邦軍側も疲労や、任期終了?によって新兵が入ってきたことによって士気や練度が下がってきて、ということがあったそうです。

 ここらへんの時期、ゲーム化に関しては割と遠い話ではあるのですが、もし作るのであれば英連邦軍の増援表で同じ部隊のユニットが入れ替えられて、アクションレーティングや戦力が下がったものになるという方法が考えられそうですね。それに対して、日本軍側に有利なレーティングやルールはそのまま維持される、と(ただ、これは当時の日本軍兵士らのものすごい努力と根性でそうであり続けられていたという話であるわけです……)。


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マレー作戦に関する、指揮官の人物、作戦の分析と、それぞれの評価をメインとした論文2つ

 先日、

第1次アキャブ戦の時の英連邦軍側の指揮官について書いていこうと思います (2022/04/12)

 の中で、リンク先のリンク先として、「平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書」というページがありました。

平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書


 この中の論文でほんのいくつかだけは以前読んだのですが、その後日本軍関係の知識が増えてきているのでということで、今回「研究報告」の部分に関しては全部印刷して読み始めていました。

 読んでいる内に、マレー作戦に関して英連邦軍側からの視点と、日本軍側からの視点で書かれた↓の2論文を読んだのですが、「指揮官の人物、作戦の分析と、それぞれの評価」がメインとなってまして、非常に私の好みでした。興味のある方はぜひ読んでいただければなぁと思います。

指揮の危機—ベネット少将と1941·42年マレー作戦における英国軍の有効性—

マレー·シンガポール作戦—山下奉文を中心に—

(例によって、うちのブラウザ上で開いて見ると字が崩れているのですが、完全にダウンロードしてpdfファイルを開けばちゃんと読めると思います)



 まだマレー作戦について良くは知らず、地図も参照せずに読んだのですが、OCSマレーがさらに楽しみになりました。まあ、OCSで再現不可能な面も多数ありそうでありましたが……。

 OCSマレーは標準スケールの1ヘクス5マイルであれば、フルマップ3枚になると思うので、既存の(フルマップ1枚程度の)マレー戦ゲームよりも遙かに機動戦ゲームになるのではないかなぁ、と思っています。

He.177の1/144プラモデルを完成させました(付:OCS『Case Blue』『The Third Winter』)

 He.177の、塗装済み1/144プラモデルを完成させました。


 私はHe.177について何も知識がなく、駿河屋で中古が売っているのを見つけた時も「OCSでユニットになっている機種なら買いたいけど、どうせマイナーな機種で、ユニットになってないのでは?」と思って買わずにおいて、帰ってから確認してみたらユニットになっていたので、慌ててまた買いに行ったという(^_^;


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 ↑Wikipedia上の画像を見ると、垂直尾翼にハーケンクロイツが描かれていたりするのですが、プラモ上では配慮のため省略されているのかも。

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 ↓OCS『Case Blue』のHe.177

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 ↓OCS『The Third Winter』のHe.177

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 (3)-13 1/2Tというのは、He.111でよくある(2)-12 1/2Tよりも若干優秀ですが、いかんせん、両方のゲームに1ユニットずつしかおらず、割と大量にあるHe.111が目立ち、かつ便利使いできるのに対して数が少なすぎると言えます……。

 スターリングラードの戦いでは包囲環内への輸送機としても使われたそうですが、積載量はより小型のHe.111と同じ程度でしかなかったとか……。あと、「負傷兵の輸送機としても役に立たなかった」とWikipedia上で書かれていますが、これはそのための装置とか付けられなかったとかの理由でしょうか?




 それから、OCS上では爆撃機としても輸送機としても使えて大変便利なHe.111(He.177もそうですが)の1/144モデルが欲しくて、探してみたところ、塗装済みプラモデルもヤフオクで売りに出ていたのですが、その開始値でダイキャスト製完成品が買えたので、購入してみました。

OCSユニットで見るドイツ空軍のハインケルHe.111 (2019/05/14)



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 私はプラモデルがド素人で、継ぎ目とかも消せないので、そこらへんの問題からするとダイキャスト製塗装済み完成品とかも良いのかもです。



 あと、Ju.52が同スケールでぜひ欲しいのですが、塗装済みプラモデルでは出ておらず、ダイキャスト製のものは写真で見る感じあまり良さそうでないのに値段が割と高い……。Ju.88とかも含めて、将来塗装済みプラモデルで出るのを待ちたいところです。

戦史で、数的優位がなくても勝っている(局所的)戦闘があるのはなぜか?

 ボードウォーゲームでは、最低でも戦闘比で3:1以上とかが立たないと、攻撃しても成功が見込めない、ということがあります。1:1とかでは攻撃側が負ける目の方が多かったり。
(OCSではアクションレーティング差があれば全然勝てますが、それは別として(^_^;)

 ところが、戦史を見ていると、2:1や1:1、あるいはそれ以下と思われる戦闘比で勝っている戦闘が結構あったり、あるいはある都市とか丘とかが、短期間に何度も持主が変わる(つまり、いったん取られても反対側が攻撃して、勝っている)ということが結構見られます。


 それで私は以前から個人的に、「ボードウォーゲームの戦闘比方式は、もっと低比率でも勝てる方がいいのではないかなぁ……?」とか「都市や丘を一度取っても、その地形効果をすぐに使えないようにするとかの方法で、取り返される可能性が高いようにした方がいいのではないかなぁ(シモニッチのゲームにはそういうのがあるらしいです)」とか思ってました。


戦史の探求 【攻撃対守備兵力3:1の原則_統計データと米陸軍教範での考え方】

 ↑このブログエントリでも、3:1より低い比率でも攻撃側が結構勝っている戦闘があった、ということが書かれています。



 ところがそこらへん、『And We Shall Shock Them』という本を読んでましたら、参考になりそうな文がたまたまありまして、「……なるほど!」と思いました。



 ↑第二次世界大戦におけるイギリス軍の初期の失敗に焦点を当てて、そこから学ぶというような本です。

 3対1の攻撃側の比率という経験則が軽々しく使われることがある。このような公式は誤解を招きやすい。一般に、戦術的な状況、実際の戦場や接触では、攻撃側が数的優位を必要とすることは事実である。しかし、作戦上は、つまり部隊が行軍し、機動しているときは、そのような余裕は必要ない。攻撃側にはあらゆる利点がある。攻撃側は集中することができるが、防御者は自分が担当するすべての地域をカバーするために分散していることが多い。攻撃側は自分の努力のポイントを選ぶことができる。重要なのは、全体的な数の優劣ではなく、適切な場所と時間における優劣である。したがって、主導権を握る者が有利であり、前進して攻撃しようとする者は、最も成功した種類の戦争、しかも最も簡単な戦争を遂行しているのである。
『And We Shall Shock Them』P202,3


 これを読んで思ったのは、こんなことでした。

「私が思っていた、低比率でも勝てる、というのは結構短期間の局所的な戦闘の話であって、ボードウォーゲームでよくある、1ターンが2日とか4日とか1週間とか1ヶ月とかで1ヘクス数kmとか十数kmとかでは、結局やはり3:1なりが必要ということだろうか」

 そういうわけで、「もっと低比率で勝てる戦闘結果表の方がいいのではないか」という考え方は、それほどよろしくはないんだろうなぁという事がある程度得心できました(^_^;


 一方でまた、「主導権」とか、「適切な場所と時間における優劣」を(ボードウォーゲーム上でも)いかに作るかが重要であり、それがなかなか難しいことなんだろうなぁ、と思われました。

シリアで活躍したが、ビルマ(アキャブ)では不運だった英連邦軍のロイド将軍について(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』『Arakan』(仮))

 承前(第1次アキャブ戦の時の英連邦軍側の指揮官について書いていこうと思います (2022/04/12))。


 第1次アキャブ戦の時に、第14インド歩兵師団長であったウィルフリッド・ロイドについてです。

 写真はWikipedia上にないのですが、↓にありました。

Biography of Major-General Wilfrid Lewis Lloyd (1896



 ロイドは実は、OCS『Reluctant Enemies』上で特筆されている存在であり、その名前付きの旅団司令部ユニットが存在しています。

 ↓OCS『Reluctant Enemies』の第5インド歩兵旅団ユニット(その旅団司令部に「Lloyd」と彼の名前が書かれています)。

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(『Reluctant Enemies』がテーマとする、シリアで英連邦軍vsヴィシーフランス軍が戦ったエクスポーター作戦は参加兵力が小規模であったため、戦力値が通常のOCSの3倍換算となっています。また、濃い茶色がインド人部隊で、薄めの茶色はイギリス人部隊でした。)


 『Reluctant Enemies』のデザイン&デベロップノートに、以下のように記載されています。

ロイド - インド第5歩兵旅団司令部:
 W.L. ロイド准将はこの戦役で、並外れた頭脳を持ち、柔軟で機略に優れた指揮官であることを示しました。彼は生まれながらのリーダーだったのです。彼は何度も、自ら率いる部隊の力量を最大限に引き出しました。そして、疲れ切った兵士達を励まし、再び大いに戦う部隊に再編成することができたのです。この点に関して、彼の役割を軽視することはできません。ルージャンティオム将軍が腕を負傷して指揮が執れなくなった時、ロイド准将はためらうことなく指揮権を引き継いで、シリアにいるイギリス連邦軍全軍を率いて目覚ましい結果を残しました。彼はイギリス連邦軍の兵士達に積極果敢な攻撃を求め、彼らがそれまでに失っていた自信を取り戻す機会を与えました。これはダマスカスへの進撃に非常に大きな影響を与えました。OCS ゲームで、旅団司令部ユニットを設けるのは通常ではありえないことだということはもちろんわかっています。しかし、それでも『エクスポーター作戦』のスケールやロイド将軍の活躍を鑑みて、その司令部ユニットを設けるのは十分に正当なことであると私は判断したのでした。



 ロイドはインドのイギリス人公務員の息子で、第一次世界大戦ではフランスで従軍し、その後イギリス領インド陸軍に入ります。

 1939年にはイギリス領インド陸軍司令部の幕僚となった後、第4インド歩兵師団隷下の第5インド歩兵旅団長となりました。この師団は北アフリカのコンパス作戦に最初の2日間だけ参加して活躍しており、この時ロイドも指揮していたそうです。

 ↓OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団。

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 コンパス作戦開始の直後にこの師団は東アフリカへ送られ、イタリア軍相手に戦います。その後、第5インド歩兵旅団のみがシリアへ回されてエクスポーター作戦を戦ったのでした。

 シリアでの活躍により大英帝国勲章殊功勲章を授与され、インドに戻って軍事訓練局長を務めた後、新たに編成された第14インド歩兵師団長に任命されました。


 1942年5月にビルマからビル・スリム中将が帰還したことは、【インド】東部軍を戦争のために再編成するウェーヴェルにとって明るい兆しであった。アーウィンを東部軍司令官に昇格させ、彼は2つの軍団を編成することになった。そのうちの1つをスリムに与え、バラックポールで第15軍団を指揮するように命じた。スリムと同じくグルカ人部隊の将校であったジェフリー・スクーンズ中将は、第19師団長から昇進し、第4軍団の指揮を任されることになった。スリムは退却で疲れ果てて目もくぼんでいたが、重い身体を引きずってカルカッタとコミラに行き、非常に離れて配置されていた麾下の2個師団を視察した。彼は、その様子を見て愕然とした。2つの師団のうち、よりましな装備を備えていたのはウィルフリッド・ロイド少将の第14インド歩兵師団で、チッタゴンの北西90マイルに位置するコミラを拠点としていた。この師団は、2ヶ月前までクエッタで中東での任務に備えていた。ロイドは前年にシリアで部隊を率いてかなりの手腕を発揮したが、彼も隷下の指揮官達も兵士達も日本軍との戦いの経験はなかった。師団は人員も装備も不足していた。それでもアラカンを含むインド南東部のビルマ国境一帯の防衛を担っていたのである。装備や輸送手段は支給されたが、ジャングルでの戦闘訓練は完全にはほど遠いものだった。もう一つの第26インド歩兵師団はカルカッタに拠点を置き、クライブ・ロマックス少将が指揮を執るが、こちらははるかにひどい状態であった。この師団はベンガル州とオリッサ州の国内治安と沿岸防衛を担当していた。しかし、スリムは「移動手段も戦闘能力も全くなく、あらゆる輸送手段が極端に不足しており、どう考えても訓練された部隊とは思えなかった」と書いている。落ち込んだが負けずに、スリムは戦争のための準備に取り掛かった。
『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』P218


 チャーチルやウェーヴェルの反攻の意向もあり、スリムはロイドと一緒に、アラカン(アキャブ)方面への反攻作戦のための具体的計画を検討し、日本軍を翻弄、迂回しつつアキャブを目指すという優れた計画案ができたと思われました(少なくとも史実で実行されたものよりも)。ところが東部軍司令官アーウィンは自ら手柄を立てたいと考えたものか、麾下の軍団長スリムに対して「自分とスリムの任務を交換し、自分(アーウィン)が第15軍団麾下の2個師団を指揮し、スリムは東部軍の他の師団を編成・訓練することにする」と通告したのです。当然ながらこれは奇妙な決定でしたが、スリムやロイドにとってはどうしようもないことだったでしょう。

Noel-MacKintosh-Stuart-Irwin

 ↑ノエル・アーウィン東部軍司令官(Wikipediaから)


 アーウィンは第一次世界大戦の西部戦線で指揮した経験を持ち、その時の成功体験から「作戦のための綿密な事前の準備と、極めて細かな点にまで気を配った戦闘計画」が非常に重要であると確信していました。スリムがロイドと共に考案した作戦計画は破棄され、ロイドの第14インド歩兵師団はベンガル湾岸を南下してアキャブへと到達することが命じられましたが、そのための長大な(後方補給路ともなる)経路の道路事情は非常に貧弱であり、師団は道路の改善工事を行いつつ(当然ながら)非常にゆっくりと進みます。後知恵からすれば、アーウィンとロイドはこの時、道路工事よりも、補給に関して他の手段を見つけだして迅速に進むべきであった(実際、この時点での日本軍の守備兵は非常に少なかった)のですが、アーウィンもロイドも日本軍側の事情や能力に関する知識と理解はまさにゼロに等しいものであり、従ってこのやり方を改める必要はないと思われたのです。

 1942年9月21日にチッタゴンを出発した第14インド歩兵師団が、ドンベイクで初めて日本軍に攻撃をかけたのは1943年1月7日であり、それまでに実に3ヶ月半が経過していました。当然ながら日本軍は英連邦軍側の意図をその途中で察知しており、少ないながらもなんとか増援部隊を送り込んでいたのです(日本軍側も、ビルマの主戦線からアキャブまでの距離が遠く、道路事情が貧弱であることから、なかなか部隊を送り込めなかったのでした)。


 ↓OCS『Arakan』(仮)、『South Burma』(仮)等による、各地点の距離感(1ヘクス5マイル≒8kmです)。

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 1月7~8日の第1次ドンベイク攻撃は失敗したため、アーウィンは再度の綿密な準備とさらなる戦力の集中後の第2次攻撃を命じます。アーウィンだけでなく、ロイドもまた、戦力を集中しさえすれば攻撃は成功すると考えていました。しかし、1月18~19日の第2次ドンベイク攻撃も失敗しました。第一次世界大戦では有効であった、事前に充分時間をかけた砲爆撃後に歩兵が敵陣に突入するという戦術は、ドンベイクではまったく通用しなかったのです。
(その理由の一端としては、OCS『Burma II』で日本軍歩兵がノーコストでレベル1陣地を構築できる理由? (2022/04/07)


 第3次攻撃(2月1日)、第4次攻撃(2月18日)も失敗する中、ロイドは日本軍の反攻の危険性に気付き始めました。ドンベイクにひたすら努力を集中している内に、日本軍の別の部隊が後方に回り込み、後方連絡線を切断してしまうかもしれない、と。


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 ↑赤い矢印が日本軍の攻勢(三十一号作戦)の動きです。


 2月22日、ロイドはアーウィンに対して、ドンベイク攻略の最後の安全な時期が過ぎてしまったという警告を発しました。そして英連邦軍の細長い後方連絡線が日本軍の反撃作戦で切断されてしまうのを避けるため、5月のモンスーンが始まる前に第14インド歩兵師団を撤退させ、モンドウ(Maungdaw)とブチドン(Buthidung)の線で、堅牢な防御陣地を構築するように勧めたのです(モンドウとブチドンの間には、山間の東西連絡線となる貴重な全天候道路(画像の白い道路)が存在していました)。

 アーウィンはロイドの警告をしぶしぶ認め、上官であるウェーヴェルに書簡でこの撤退について説明しました。ところがウェーヴェルはこの撤退を「過度に悲観的」なものであると断じ、現在増援として移動中の部隊を足して、ドンベイクを必ず攻略するように命じたのです!

 アーウィンは状況のまずさを理解はしていたと思われますが、ウェーヴェルに反抗する勇気は持ちませんでした。アーウィンはロイドに対して、さらなるドンベイク攻撃を命じます。『A War of Empires』は、「ロイドの絶望感は察するに余りあるものであった。」と書いています。

 ロイドはやむを得ず攻撃計画を練り、アーウィンに提出しましたが、アーウィンはその計画を見て「前回の攻撃計画に似すぎているため、失敗する可能性が高い」として却下しました。ところが実際には、アーウィンの指摘は一部だけが正しかったに過ぎず、本当はロイドはこれまでにない、「準備砲撃をせずに、夜襲による奇襲をかける」という案を盛り込んでいたのです。

 アーウィンは、すべての失敗の原因がロイドにあると思い込み、ロイドを非難し、自分がドンベイクでの指揮を執ると宣言しました。ロイドの側でも、前向きに試行錯誤するという精神は失われてしまっていたように見えます。スリムがロイドの司令部へと派遣され、前線を見回ったスリムはロイドに対して、「船で海岸から日本軍を攻撃したり、側面のジャングルから日本軍の後方に出るという方法もあるのではないか」と助言しました。しかしロイドは、「海岸へと迂回上陸するための船もなく、哨戒隊から尾根とそのジャングルは側面攻撃では通れないと何度も報告を受けていたので、もう一度正面攻撃をする以外に方法はない」と断言したのです。

 スリムはこう書いています。「私はロイドに言った。君は1942年【の日本軍に対する敗北の時期】に私達の多くが犯した、どんなジャングルも通れないと考える誤りを犯していると思う、稜線の背骨に沿って旅団、あるいは少なくともその一部を確保するために大きな努力をする価値がある。」

 しかしスリムはこうも続けています。「ロイドは、自分はこのことについてよく考えたが、実現不可能だと判断したと答え、旅団の幕僚達もそれに同意した。マユ山脈の密に覆われた、ほとんど垂直の斜面を見ると、これを疑うのは難しいことであった。いずれにせよ、私はロイドの作戦をコントロールすることはできなかった【アーウィンに権限を奪われていたため】。彼の指摘によれば、計画はかなり進んでおり、アキャブ攻略のための時間を確保するためには、攻撃の日を遅らせて変更を認めることはできないということであった。」
(また、ロイドは娘を2月に失っており、この時期にもまだ悲しみにうち沈んでいたという話もあります)

 アーウィンが指揮(ロイドも下位指揮官として参加していました)した第6次(日本側の資料では第5次)ドンベイク攻撃(3月18~20日)も失敗に終わりました。3月20日、後方のモンドウでアーウィンはウェーヴェルと会談し、ドンベイクでのこれ以上の攻撃はひとまずしないことを認めます。しかし、今後のこととして彼らが決定したのは、ドンベイクからモンドウにかけての縦深を守れるようにするということであり、ドンベイクからの撤退は禁じたのです。

 しかし3月29日、日本軍の側面攻勢の脅威にさらされたロイドは、麾下の部隊に最低限の後退を命じました。アーウィンはロイドの決定を聞くと、命令違反であるとして直ちにロイドを解任し、自分が指揮を執り始めます。アーウィンはカルカッタからモンドウへと飛行機で飛び、その飛行機にロイドを乗せ、29日の夜にはロイドはニューデリーにいました。しかしこの後、4月1日にはアーウィン自身が撤退命令を出さざるを得なくなり、4月6日には、ロイドが撤退を命じていた部隊が日本軍に包囲されてしまいました。ロイドの命令の方が正しかったのです。

 スリムは解任されたロイドと一緒に、別れの夕食をとりました。その時のことをこう書いています。

 その夜、私は第14インド歩兵師団長から解任されたロイドと食事をして、ロイドの言い分を聞いた。彼は恨みなどもまったくなく自らの不幸を受け入れており、その態度は彼がシリアで成功した時と同じようであった。しばらくしての中東での彼の死は大きな損失であった。アラカンでの失敗にもかかわらず、もし彼が生きていれば、イギリス領インド陸軍が輩出した優秀な師団長としての彼の地位を取り戻していたであろうに。
『Defeat into Victory』P177



 ロイドはその後、第10インド歩兵師団長となりましたが、1944年1月にカイロ近郊で自動車事故死しました。後には未亡人と子供2人が残されました。


 ↓OCS『DAK-II』の第10インド歩兵師団(『DAK-II』は1942年までなので、時期的にはロイドが指揮するより前です)。

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 スリムの伝記を書いたルーウィンは、ロイドを「良心的だが不運な将軍」と書いているそうです。

OCS『Burma II』の私家版和訳を作成、公開しました

 最近、自作でOCS『Arakan』(仮)やOCS『South Burma』(仮)を作ってみようとしていることがあり、既存のOCS『Burma II』について通暁しておかねばならないということがありました。

 OCS『Burma II』にはサンセット和訳はありましたが、デザインノートが訳されていなかったとか、その後バージョンアップされてv2.2になっていたということもあり、自分で私家版和訳を作ってみてました。

 このたびようやくとりあえずの完成となりましたので、公開しました。↓からどうぞ。

『Burma』リプリントバージョン
(「『Burma』リプリントバージョン」というのは、『Burma II』の別名です。公式にも色々表記のされ方があって、一定していない感があります……(^_^;)

 割とページ数があるので、大きめのホッチキスがないと針が通らないかもしれません。その場合は、シナリオの部分が右ページ始まりの左ページ終わりになっている(たまたまですが)ので、そこだけ別に閉じるとかしてもらったら良いかもです。

 シナリオ上の細かい部分については【暫定解釈】として、私なり、あるいは尼崎会なりの解釈を書いてあったりします。

 ある程度以上チェックはしたのですが、まだミスであるとか、あるいは細かい疑問点なんかもあるかもしれません。もし見つけられましたら、コメント等でお知らせいただけると大変ありがたいです。


 これで以後、まだ手を付けていない『Burma II』上のシナリオやキャンペーンをやってみようと思っています。また、『Burma II』には「雲南拡張シナリオ(マップ)」というのがありまして、こちも今後和訳しまして、プレイしてみるつもりです(ただこの拡張シナリオは、細かい疑問点が多く存在していて、BoardGameGeekやfacebookを見てみると既に質問されている方がいるんですが、レスが付かない状態であるので、自分(たち)で細かい部分は補わなければならないだろうなと思っています)。

第1次アキャブ戦の時の英連邦軍側の指揮官について書いていこうと思います

 ビルマ戦における第1次アキャブの戦いについて調べていたわけですが、その時の英連邦軍側の指揮官達のありようについて大いに興味を持ちました。

 第1次アキャブの戦いは日本軍側が勝った戦いなわけですが、この戦いの時の英連邦軍側の指揮系統は以下のようになっていました。


イギリス領インド陸軍司令官
 アーチボルド・ウェーヴェル
 (私なりの以前のエントリとしては→北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)

(インド)東部軍司令官
 ノエル・アーウィン

第15軍団長
 ウィリアム・スリム
 (私が以前少しだけ言及したものとしては→インパール作戦関係書籍などをある程度読んでの感想 (2020/02/22)

第14インド歩兵師団長
 ウィルフリッド・ロイド
(英連邦軍側の師団は他にもいくつか第1次アキャブ戦に参加していますが、ロイドの第14インド歩兵師団のみがとにかくずっと最前線にいて、他の師団や師団長達は大して話に出てこないほどでしかありません。)


 この4人のうち、英連邦軍の第1次アキャブの戦いの敗戦に最も大きな責任があるのは明らかに東部軍司令官のアーウィン将軍で、もうそのポンコツぶりと傲慢ぶりと未練たらたらぶりは、日本軍のかの牟田口廉也の凄いひどさと比較しても遜色ないのではなかろうかと思われるほどでした。

 第15軍団長のスリムは名将なんですが、アーウィンは彼の権限を奪って別の仕事をさせており、ロイド師団長のやることに細かく干渉したのです。

 私は以前、牟田口将軍について云々する上で「牟田口とスリムの比較論」がぜひ必要なのではないかと書いていたんですが、「牟田口とアーウィンの比較論」もぜひ必要だと思ったほどです。

 スリムについては、私はまだまだ全然書ける状態でないのですが(興味のある方は平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書にある「軍レベルの指揮—ビルマにおけるスリム将軍と第14軍—」をぜひお読み下さい。ブラウザ上で開くと文字がおかしいかもですが、pdfファイルとして普通の開くとちゃんと読めると思います)、アーウィンとロイドはこの第1次アキャブ戦後すぐに解任されてしまっていて、短い人物伝なら書けそうなので、書こうと思いました。ウェーヴェルについても、この第1次アキャブ戦の時だけに関してまとめようかと思っています。


 メインの主役たるアーウィンなんですが、先日新たに注文した資料に、これまで読んだ以上の情報があるかもなので、少し後で。まずはロイドについて書こうと思います。




 以下、少し余談ですが、チャーチルの言葉として「エル・アラメインの前に勝利なし、エル・アラメインの後に敗北なし」というのがある程度知られていると思います。しかし、エル・アラメインの戦いは1942年7月~11月で、第1次アキャブの戦いは1943年1月~4月であり、第1次アキャブ戦で英連邦軍はある意味惨敗しているのです。チャーチルはこんな風に言っていたそうです。

 チャーチルは、困惑と怒りで、1943年5月21日にアラン・ブルック将軍に苦言を呈した。「この作戦は、この戦争で起こった中で最も期待はずれで、実に信用できないものだ。新しい指揮官を完全に揃えなければならない。士気が低下している部隊には厳しい規律を課さなければならない。インドにおけるイギリス軍全体が、この作戦の徹底的な大失敗によって、評判を落としているのだ」。唯一の救いは、「作戦の規模が比較的小さいため、世間の注目を集めなかったことだ」と皮肉った。
『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』P292


 「エル・アラメインの前に勝利なし、エル・アラメインの後に敗北なし」ですが、「ヨーロッパ戦線においては」ということなんでしょうかね……。

個人的に超絶好きなタイプの戦史本の種類について

 ビルマ戦の第1次アキャブの戦いのみについて『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』をDeepL翻訳で読んでいたんですが、大変興味深かったです。




 ↑この本は2021年に出版されたばかりで最新の見方によっているらしく、評価も高いようなんですが、どうも個人的に「私の無茶苦茶好きなタイプの本」であるらしいことが分かってきました。というのはこの本は、戦いを記述するに際して、師団長、軍団長、軍司令官、戦域軍(方面軍)司令官クラスの指揮官達の人物像や能力や作戦眼やエピソードを交えつつ、作戦的(オペレーショナル)な部分を中心として、分析的に書いていっているっぽいのです(1942年のビルマ戦のラングーン陥落までと、1943年の第1次アキャブ戦のところだけを拾い読みしてみた感想として)。


 戦史(ミリタリー)本にも色々あり、戦史好きにも色々な種類があるわけでしょうけども、とりあえず私はまず、メカニック的なことや、それらの造形にはそれほど興味がない感じです(その運用とか能力とかはやや興味あるかも)。尤も、少しは興味はあり、第二次世界大戦の1/144の塗装済みの飛行機や装甲戦闘車両を結構集めております。世の中のミリタリー好きの方は、これらメカニックの部分に特に興味がある方が多いのではないかと思います。

 それから、連隊規模以下の、大隊、中隊、小隊とかの具体的な戦闘シーンとか指揮とかにもそれほど興味がありません。パウル・カレルとか、そういうシーンが多いですが、それほど惹かれません……。最近「HOBBY JAPAN軍事選書」というのが刊行されていっているようで、素晴らしいなぁと思うのですけども、連隊規模以下とかの本が多く、個人的に手を出さないでおります。


 ちょっと変わったところでは、戦争で「どんなひどい目にあったのか」とか、「どんなにひどいことがあったのか(暴力とか性暴力とか)」だとか、戦争のおける文化的な側面からの話とか、逆にどんないいエピソードがあったのかとかの話は割と興味を持っています。

 ↓の本は、規模としては連隊以下の話が多いですが、そういう意味で個人的には非常に興味深い良書であったと思っているものです。






 さて、私が特に興味がある方向性として、一つには「分析的」というのがあります。作戦や戦力としてどうだったのか、というような話ですね。「論争的」と言ってもいいかもですし、あるいはまた、資料や著者の方向性が挙げられて述べられるのも好きです。そういう意味での良書として↓があったかなと思います。





 ナポレオニックですが、非常に論争的で個人的に大大大好きなのが、R/Dさんの↓のサイトです。

大陸軍 その虚像と実像


 ナポレオニックで「こんな資料本があって、このテーマなら必読書はこれで、他にこういうのとか、こういうのとか」と紹介する↓も超絶興味深かったです。






 それから、師団規模以上の作戦的(オペレーショナル)なもので、これは作戦級ウォーゲーマーにとっては自分の思考と重ねられる部分だと思います。オスプレイのキャンペーンシリーズはそこらへんをテーマにしてくれている非常にありがたいシリーズだと思うのですが、しかし個人的には、「何があったかに関する記述に偏りすぎのきらいがあり、私としては指揮官の性格や能力から来る作戦「意図」がどう組み立てられたかとか、どう挫折したり失敗したりしたかとかの作戦分析や、人物分析的な面がより欲しい」という感じでありました……。

 ただ、著者や本によっては個人的な好みにより近いものもあります。特にロバート・フォーチャイクという著者の本は私の好みに少し寄っている(そして、特筆すべきこととして英文が非常に読みやすい)ということがありました。あと、スティーブン・ザロガのカセリーヌ本も若干その気があります(この方はメカニック系で非常に有名な方らしいですが)。





 ただ、私は「指揮官のキャラクター像(指揮官人物伝)」的なことに非常に非常に興味があり、その点については第二次世界大戦本、特にヨーロッパ戦線ものでは、自分が欲しいような本には全然出会って来なかった感があります。もちろん、ロンメル関係であれば昔から「ロンメル人物伝」的な本は日本でもある程度出ていましたし、最近は大木毅さんがマンシュタインやグデーリアン単体の本を出されましたし、洋書で個々の指揮官の人物伝の本はたくさん存在しています。

 しかし私が欲しいのはどうも、単体の指揮官人物伝本ではなく、何十人とかの指揮官が綺羅星のごとく出てきて、それらの人びとのキャラクターや能力が織りなすような本であるようなのです。

 そのような本は実は、第二次世界大戦以外であれば、簡単に見つかる、というか、それこそが一つの強大なジャンルを形成しているかのようにも見えます。

 例えば、三国志もの。春秋戦国時代もの。日本の戦国時代もの。

 非常に人気のあるマンガである『キングダム』(秦の始皇帝の統一戦を描いている)なんか、まさにそういう感じです。

 それから、完全にフィクションではありますが、これも非常に人気のあった『銀河英雄伝説』。

 ナポレオニックにも『ナポレオン 獅子の時代』というコミックがあり、元帥達がそれぞれに個性的で、局地的に人気があったようです。

 南北戦争ものもそういう感じがあるのかなぁと思います。

 アニメの『ガールズ&パンツァー』なんかも、そういう方向性は若干あったと思うんですよね。


 しかし私は現状(OCSの影響で?)第二次世界大戦にこそ興味があるので、第二次世界大戦で、三国志や銀英伝のような本があればそれを読みたいしかしそういう本にはどうも、ついぞ出会って来なかった……(それで、自分でいくらかでも書けないだろうか、もしかしたらできるかも、と思って一時期努力してみたのが、北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官達を時系列で書いていった企画だったのですが、まあどうも「ムリダナ」と途中挫折に終わりました(T_T))。

 ところがこの『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』という本は、私が求めてやまなかった、三国志や銀英伝のような感じの第二次世界大戦本である、ような気がします(しかも分析的)。

 著者はRobert Lymanという人で、トブルク戦に関する本などはありましたが、トブルク戦だけだと師団長クラス以上よりは、未満の話になるかも……? とりあえず、『The Generals: From Defeat to Victory, Leadership in Asia 1941-1945』という本は注文してみました。山下、パーシバル、ハットン(1942年のビルマ戦の軍団長)、アーウィン(第1次アキャブ戦の時の軍司令官)、マウントバッテン、スティルウェル、牟田口、スリムが取り上げられているようです。





 もし他にも、三国志や銀英伝のような感じの第二次世界大戦本をご存じでしたら、ぜひ教えて下さい!


OCS『Burma II』で日本軍歩兵がノーコストでレベル1陣地を構築できる理由?

 OCS『Burma II』には、日本軍の歩兵大隊がノーコストで陣地を建設できるというルールがあります(通常は2SPものコストが必要です。古角さんなどは「陣地主義者」で、できるだけ陣地を作ろうとする傾向がおありですが、私は「反陣地主義者」で、自分から作ろうとすることはほとんどありません(^_^;)。

2.6c 堅固な守備  日本軍の戦闘モードの歩兵大隊は、移動フェイズの間ずっと移動しなければ(リアクションフェイズや突破フェイズには不可)、SPを消費することなくそのヘクスにレベル1の陣地を建設できます。1つのヘクスにいくつのユニットがいたとしても、建設に従事できるユニットは1つだけです。日本軍がこのレベル1の陣地を放棄した場合、それは除去されます。守備隊ユニットはこのルールを使用できません。

デザインノート:日本軍ユニットのアクションレーティングは非常に高く、彼らの装備の質、戦術の洗練度や訓練度から予想されるものよりも遙かに良い評価であるのは確かです。このレーティングの理由はドクトリンにあります。日本軍は第二次世界大戦時のどの参戦国よりも、数で勝る敵を倒すために局地的な奇襲と浸透戦術に重きを置いていました。また、防御面では、これほど粘り強い兵士達はいませんでした。ただし、大兵力を用いなければならなくなった時には、それぞれの部隊を連携させることに困難さを抱えていたのです。

2.6d 物資の不足  日本軍は局所的で比較的簡単な防御陣地を迅速に作ることにおいては長けていましたが、それらをより堅固なものにするための建築資材はほとんど持っていませんでした。このため、日本軍はレベル2以上の陣地を建設できません。連合軍は自由に陣地をレベルアップできます。


 デザインノートもあるんですが陣地の件については述べられておらず、私はこの陣地の件について「なぜなんだろう……?」と個人的に思っていました(それらしき話は知らなかったので)。


 しかし、ここ数日、第1次アキャブの戦いについて調べていて、そこらへんのことらしき記述を発見しました。

 第1次アキャブの戦いでは、ドンベイクという場所で日本軍の小兵力が50日間にも渡って英連邦軍の攻撃を撃退し続け、それがこの戦いにおける日本軍側の勝利に貢献したのですが、その場所での話です。

 ↓現在作ろうとしているOCS『Arakan』(仮)のドンベイク周辺。ドンベイクが(北から)抜ければ重要な戦略拠点であるアキャブ島までは指呼の間であり、日本軍側も必死に防衛したのでした。

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 ロイド師団【第14インド歩兵師団】がアーウィン【東部軍司令官】の目標である1月15日までにマユ半島を確保するという目標を達成することは、1943年1月10日までには程遠いものとなっていた。ドンベイクは深刻な問題となり、イギリス軍の進撃を完全に止めてしまった。日本軍の陣地は今や英印軍にとって伝説的な地位を築き始め、前年のマレーとビルマでの「超人」神話を強化し、壕は何か新しいタイプの装甲板やコンクリートで作られていると信じ込まれていた。【……】

 実際には陣地の壁や屋根は単なる丸太でできていたが、厚さは5フィート【約1.5m】もあり、地中深くまで掘ってあった。日中戦争での長い経験から、常にうまくカモフラージュされており、兵士が偶然見つけるまでまったく分からないことも多々あった。戦車による直接射撃の前に周囲の植物を焼くなどして壕の除去を成功させる戦術は、1944年まで存在していなかったのだ。

 ドンベイク壕の物理的な強固さに加え、日本軍の防御線は第14インド師団の兵士を驚かせるほどの粘り強さで保持されていた。攻撃の時の日本軍が革新的で自由奔放であったとすれば、防御の時の日本軍は不動であった。第14インド師団の限られた訓練では、このような断固たる敵を想定していなかったのである。イギリス軍の戦術では、兵力的に圧倒された敵は必ず降伏すると考えられていた。これは北アフリカ、イラク、シリアなどではそうだったかもしれないが、日本軍には当てはまらなかった。日本軍の陣地を占領するためには、すべての防御兵を殺すか無力化する必要があった。スリムは後に、「500人の日本兵が陣地を保持するよう命じられたとしたら、495人を殺さなければ我々のものにならない - そして、最後の5人は自決した」と述べた。この忠実さと獰猛さの組み合わせが、日本軍をどんな状態であろうと手強いものにしていたのだった。
『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』P273


 日中戦争での経験から日本軍は陣地(壕)を作る能力に長けており、それが英連邦軍側にとって驚異的であった、ということのようです。




 また、別の本にこういう記述もありました。

 この地点【ドンベイク】で50日間も、第14インド師団の数個大隊による度重なる攻撃に堪えた。これは一つには、宮脇【第33師団 歩兵第213連隊長】が注意深くマユの尾根と海岸平地一帯の偵察を行ったおかげである。卓越した地形眼を持ち、陣地の選定は完全であった。それにイギリス軍は【1942年中は】ずっと守備に回っていたため、日本軍の防禦陣地は、いまだかつて彼らが見たことのないものだった。それは掩蔽壕である。
 壕は天然資材を使ったトーチカで20人まで収容でき、地中に掘りこまれているが、地下水の水面が高すぎる場合には、地上180センチまで作れる。外壁は丸太か土で150センチの厚さがあり、屋根は砲爆撃に耐えられる。多くの壕は砲爆弾の直撃にも生き残ったし、また各壕は互いに火線網を作れるように配置されていた。これを攻める歩兵が一つの壕を目標に進むと、他の二ないしそれ以上の壕からの火線に入っていることに気づくのである。アラカン初期の戦闘で、イギリス軍砲兵隊は壕の建設にコンクリートが使われていると思ったほど、丸太の壁や屋根が非常に効果を発揮した。このような防禦法が、ロイドの攻勢を一度ならず次から次へと停滞させていったのである。
『ビルマ 遠い戦場 上』P133






 あと、まだ分からないこととして、↓のルールについてがあります。

2.6a 大規模戦闘  日本軍がユニット6個以上で攻撃をかける場合、それらのアクションレーティングは-1されます。


 理由については先ほどのデザインノートに少し書いてありました(「ただし、大兵力を用いなければならなくなった時には、それぞれの部隊を連携させることに困難さを抱えていたのです。」)が、より詳しいことが知りたいです。これについてご存じの方おられましたら、教えて下さい~。

<2022/05/17追記>

 この件について、『歴史群像』最新号(No.173)の「日本陸軍歩兵論」という記事を読んでいたら、まさにそのもののことが書いてありました。日本軍の通信機器の不足等の記述で……。
 


 【……】もし理想的な戦場で敵軍と対峙した場合であっても、既設の有線通信を利用できる防御戦ではともかく、攻撃に関しては、諸兵種協同に不可欠な通信機器の不足とその運用構想の欠落は、日本軍歩兵の戦力発揮を大きく制限したことが想像に難くない。
『歴史群像』No.173 P48


 なるほど、大変得心できる内容でした。

<追記ここまで>


 現在、OCS『Arakan』(仮)で第1次アキャブの戦いがある程度以上うまく再現できそうか、資料を読みつつ考えていってるんですが、少なくとも(OCS『Reluctant Enemies』と同様に)戦力換算値を3倍(本来2戦力の大隊を6戦力でユニット化)するのは必要で、他に細かい(かき集めた兵士達の)ユニットもある程度以上の数を入れなければならないように思われます。

 それでもうまくゲームになるかどうか分かりませんし、また、面白いゲームになるかどうか……?

 ただ、史実を調べていると、この第1次アキャブの戦いにおいては英連邦軍のアーウィン将軍(東部軍司令官)という人が自分の手柄のためにか、軍団長であった名将スリムが考案していた優れた作戦計画を無視し、あまつさえ権限を奪った上で現地の師団に直接指揮命令を出し続け、ドンベイクにひたすら固執して失敗したという側面が結構大きいようで、イギリス側の資料にはそこらへんのことが結構詳しく出てきます。

 そこらへん、まるでインパール作戦における牟田口中将のような話で、興味深いですし、「もしスリムの作戦計画が採用できていたら……?」というような面白さはあるなぁと思いました。

 他にも、この戦いで後半の指揮を取った古閑(こが)第55師団長が非常に人格的に優れた人であったようで、将兵達から尊敬されていたとか、あるいは当時の英連邦軍(インド人兵士達など)の士気が非常に低く、まるで今のウクライナ戦争におけるロシア軍兵士のようだ……とか、興味深い面がいくつか出てきています。

OCS『Burma II』のショートシナリオ4「佐藤中将のジレンマ」を研究プレイしました

 OCS『Burma II』のショートシナリオ4「佐藤中将のジレンマ」を、富山のKさんと研究プレイしてみました。


 ↓セットアップ時
(縦長なのは、その範囲だけしか使用しないためです。なお、VASSAL上では紙のマップには存在する一番南のヘクス列が描かれていないのですが、存在するものとしてプレイすべきだと思われます)。

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 このシナリオは1944年4月19日ターンに始まり、どうやら日本軍の最大進出線近くのようです。シナリオ終了は5月22日ターンで、全11ターンです。

 史実では日本軍はいったんコヒマを取ったのですが、英連邦軍に取り返されました。しかし、このシナリオの開始時にはコヒマ周辺を包囲しています。

 日本軍はインパール平原も包囲していますが、非常に重要なのはコヒマとインパールの間の全天候道路を遮断していることです。英連邦軍の補給源はコヒマの北西のディマプール方向にしかないので、インパールは完全に孤立しており、一般補給はSPを消費することによってしかまかなうことができません。

 インパール平原には英連邦軍ユニットが22.5RE存在しており、すべてに一般補給を食わせるなら、1ターンにつき3SPが必要。初期配置でインパール平原にあるSPは6SPでしかありません。

 ただし、英連邦軍は空輸でインパール平原にSPを運べます。1ターンに1回で、ダイスを1個振った目だけのSPが到着します(期待値は3.5)。

 今回、富山のKさんはインパール平原にいる英連邦軍のスタックを工夫して、一部はわざと補給切れにする(損耗チェックをすることになるが、損失が出たら砲兵から優先的に壊滅させる)ことによって1ターンの消費を2SPに抑えましたが、空輸できたSPは各ターン、2、1、1、3に留まり、赤字にはなっていました(^_^;(ただし、5や6が連続で出たら、貯金ができることになるでしょう)。


 最初に作戦研究で考えた時には、英連邦軍はインパールへ一般補給路を通すべく、全天候道路を開通させることが重要かと思われました。私は「3~4ターンで開通可能なのだろうか」くらいに思っており、英連邦軍は最初の2ターン、コヒマ方面で攻勢をとったものの、ダイス目が悪くて一方的に計3ステップを失う(しかも貴重なAR5のユニット)という体たらく。

 このシナリオにおける5ターン目(5月1日ターン)が開始時点のシナリオ(ショートシナリオ5)があったのでそれを試しに見てみたら、戦線がほとんど動いてなかったので「あ、そんなに急ぐものではなく、割と停滞しているのか……!?」と思いました。ただし日本軍、特にコヒマ周辺の第31師団は手持ちの補給がまったくなくなっており、しかも4ユニットほどが「Low(備蓄減少)」となっていたので、結構やばい状況でした(しかし史実を調べたところ、第31師団長の佐藤中将が命令違反の独断撤退を決意したのは5月31日であったということで、そこからまだ1ヶ月(9ターン)もそこに留まり続けたということで、なんという……(T_T))。


 当初、「このシナリオは英連邦軍の方がやばいのではないか?」とも思ったのですが、史実通り当然ながらそんなことはなく、日本軍の補給欠乏の方がやばいということが分かってきました。日本軍は「食料入手表(Forage Table)」を使用してかなり耐えることはできますが、長期的に見てユニットを補給不足の為に失っていくことは避けられないでしょう……。

 英連邦軍としては、すぐにでも攻勢をかけて全天候道路を開通させたくなるところではありますが、特に初期においては日本軍の抵抗力は相当のものがあり、攻撃が失敗してステップロスさせられまくる可能性があるので、どちらかというと自重して好機を窺った方が良さそうです。ただし、放っておくだけでは日本軍側に少しずつVPが貯まっていきますし、できれば空輸回数を全11回のチャンスのうち数回は実行しないことによって、VPを自軍有利にしておかないとまずいと思われます。

 日本軍側としては、全天候道路をできるだけ長い間遮断し続けることの他、パレル(Palel)をできれば攻略しようとするのが重要ではないかと思いました。パレルを攻略できればトータルで10VP分稼げますので、英連邦軍側も放ってはおけないはずで、攻略はできないまでも、英連邦軍に無理な行動や無駄な行動をさせて、勝機を作れる可能性があるのではないかと。


 このシナリオは、ユニット数的にはけっこうあるのですが、両軍とも「自重」がある程度セオリーではないかと思われ、ユニットの移動も戦闘も最小限しかないので、ペース的には見かけより早く進む感じではないかと思いました。


 また、ヨーロッパ戦域に比べてビルマ戦域の戦線の移動の遅さがこれまで「どういう理由なのだろう……?」と気になっていたのですが、今回そこらへんが少し分かってきたような気がします。


 OCS『Arakan』(仮)やOCS『South Burma』(仮)を作ろうという野望の件もあり、『Burma II』に関して熟知しておかねばならないので、今後も『Burma II』の研究プレイをやっていきたいです。

OCS『Arakan』(仮)で、第2次アキャブの戦いは一応再現可能か……?

 先日、↓というのを書いていましたが……。

OCS『Burma II』のマップ上で第1次チンディット作戦を再現するならば…… (2022/03/20)


 その後、第1次チンディット作戦について少し詳しく調べてみたところ、ダブルブラインドとかでシナリオとして作れないことはないかな、とは思いましたが、「プレイしたくなる面白さがある」かどうかというと、結構厳しいのではないかと思いました。

 というのは、(ちらっと読んだ限りでは)作戦的なかけひきの面白さというのはそれほどなさそうで、チンディット部隊が消耗して退却に至ったのも、戦闘よりも行軍をずっと続けたことによる疲労とかの方が大きかったようで……(尤も、史実よりも日本軍側の襲撃(待ち伏せ)がうまく行く可能性をかなり高めて、それで作戦が頓挫する恐怖感があるなら、シナリオ化もなしではないのかも……?)。


 まあとりあえず、この件は置いておくことにしまして、次の候補として第1次、第2次アキャブの戦いを再現するOCS『Arakan』(仮)が成立しそうかどうかを検証してみることにしました。

 ↓参考文献(洋書はまだ地図を参照しただけです)





 OCS『Arakan』(仮)のマップ割りについては↓をどうぞ。

OCS『South Burma』(仮)&OCS『Arakan』(仮)のマップ割にTPCマップを重ねてみました (2022/02/05)



 で、ネット上で見つけた地図や、手持ちの資料の地図から、まずは地名を書き込むところから始めてみました。

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 ↑画像一番下に「アキャブ(Akyab)」があります。



 で、一番の懸念は第2次アキャブの戦いの中の「アドミンボックスの戦い」をマップスケール的に再現できるかどうかであったので、そこを集中的に検証。


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 画像の黒い〇のところにいた日本軍陣地に対して英連邦軍が攻撃を開始(1944年1月19日ターン)。数ターン(4ターン)持ちこたえている内に日本軍は黒い矢印のようにして(移動開始は2月1日ターン(ここからシナリオを始めるとして、第1ターン))、赤い○の英連邦軍戦線の後ろに回り込んで包囲環を完成(2月8日ターン(第3ターン))させ、「これで(過去の経験から言っても)勝った」と、戦利品の洋酒で乾杯したとか。

 英連邦軍側の軍団長スリム将軍は、「過去の経験から言っても日本軍は後方に浸透してくるだろう」とは思っていたので警戒態勢を指示していたにもかかわらず、それを上回って奇襲的に後方に回り込まれたため、激怒したそうで、また、「日本軍指揮官が乾杯したのは当然であった」と回想しているそうです。

 史実的にも、OCS的にも、これで補給の切れた英連邦軍は数ターンしかもたないはずで、英連邦軍側としても危機的状況と考えていたそうなのですが、猫の額ほどの小さな盆地(シンゼイワ。赤い○4つの一番真ん中あたり)に集結して(事前の訓練通りに)空中補給を受けて抵抗を続けます。2月15日ターン(第5ターン)には北から英連邦軍の援軍が到着し始めました。

 日本軍は2月19日ターン(第6ターン)に総攻撃を予定するも準備が整わず延期。その間にも砲弾や糧食が欠乏し始めます。

 2月22日ターン(第7ターン)と2月26日ターン(第8ターン)には日本軍は包囲を諦めざるを得なくなり、撤退を開始しました。


 こうしてみると、8ターン前後で「アドミンボックスの戦い」を再現することになり、スケール的にはまあまあのような。また、画像の赤い○の英連邦軍戦線にはOCS『Burma II』でユニット化されている第5インド歩兵師団と第7インド歩兵師団がいたのですが、それぞれ3個旅団+砲兵1個ユニットで、あと第25竜騎兵連隊(戦車部隊)をユニット化するとして、7、8個のユニットがいたことになりますから、消耗を考えても結構いけそうな感じがします。あと、画像の右の方の川(カラダン川)沿いでも攻防があり、そことの戦力の融通などもあったようです。

 第2次アキャブの戦い全体や、第1次アキャブの戦いはより広範囲の戦いであったので、総体的にはいけそうですかね……?

OCS『Arakan』(仮)のマップ上の第1次、第2次アキャブの戦いの戦闘領域 (2022/03/03)



 元々は1942年の日本軍のビルマ侵攻作戦をフルマップ3枚で作り始めることを考えていたのですが、特に既存の『Burma II』(1944年3月~7月)との整合性、あるいは連結ということを考えると、より時期の近い第2次アキャブの戦い(1944年1月~3月あたり)を包含する『Arakan』(仮)に先に着手した方が楽ではないかと(1942年のゲームを作る時には、特別ルールも割と『Burma II』から離れたものを作らざるをえなくなるだろうという推測もあります)。

 それに、『Arakan』(仮)であれば実質使用されるマップの範囲がかなり狭くて済みます(^_^; 『South Burma』(仮)の場合には、どんどん戦線が移動していくのでマップを作るのが大変で、また増援等に関して資料から抜き出してきて適切な場所に置いていくのが非常に大変だという印象がありました。


 まあまだ、途中で諦めてしまう可能性もありますけども、一応OCS『Arakan』(仮)をまず作ってみようとする方向でいこうと思います。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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