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1945年のイラワジ会戦の再現にはOCS『Burma II』とOCS『South Burma』(仮)とOCS『Arakan』(仮)が必要……?

 北アフリカ戦でそれほど活躍しなかった英連邦軍のメッサーヴィ将軍について調べていましたら、この将軍が後にビルマ戦で大活躍したことが分かり、そこらへんについて手持ちの資料をさらに調べてました(「北アフリカ戦で見たことのあるMesservyという名前がビルマ戦にも出てくるなぁ」とは思ってはいました(^_^;)。

 その過程で、一応その存在は知っていた「イラワジ会戦」に関して興味深い記述があって、そこに出てくる地名がOCS『Burma II』のマップにあるかどうか調べてみました。


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 この画像の左上にあるガンゴウ(Gamgaw)は、当時日本軍側は「この場所を通って英連邦軍が攻勢してくることはあり得ない」と考えていたそうで、その場所を通ってメッサーヴィ将軍(当時、第4軍団長)は、日本軍の後方兵站地であるメイクテーラ(Meiktila)を目指したのでした。

 日本軍側は当時、イラワジ川(Irrawaddy River)の線より南を守るために、逆にイラワジ川を越えてその北側で攻勢作戦を行っており、その隙にメッサーヴィはニャウング(Nyaung)を渡河したのです。この作戦により日本軍は最終的に崩壊することになりました。


 以前、OCS『South Burma』(仮)&OCS『Arakan』(仮)のマップ割にTPCマップを重ねてみました (2022/02/05)で書いてました、新たに作ろうとするOCS『South Burma』(仮)とOCS『Arakan』(仮)と、OCS『Burma II』のそれぞれのマップの境目あたりをイラワジ会戦では作戦地域としていたことになり、このままではその3作が必要となるのだろうか……というのが興味深いところでした(赤い直線がマップの境目で、左側が『Arakan』、右側が『South Burma』になります)。

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多方面作戦に忙殺されるウェーヴェルと、ブレヴィティ作戦の実行(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)



 今回は、再び編成された西方砂漠部隊の司令官にベレスフォード=ピアース将軍が任命され、多方面作戦に忙殺されるウェーヴェルがブレヴィティ作戦を実行する辺りの話になります。

 ロンメルがトブルクを攻撃していた1941年4月14日、これまでのキレナイカ地域守備軍(その司令官であったニームはすでに捕虜になってしまっていました)に代わって戦時用の西方砂漠部隊が再び編成されることとなり、ベレスフォード=ピアースが司令官に就任します。

 ベレスフォード=ピアースはコンパス作戦の時には第4インド歩兵師団長であり、ニベイワ陣地への攻撃で大戦果を挙げて優秀な指揮官であるとの評価を確立していました。

 その直後ウェーヴェルによって第4インド歩兵師団はエチオピアへと転戦させられることになり、ベレスフォード=ピアースは師団長としてケレンの戦いに参加し、その名声を高めました。彼は「堅実で赤ら顔の、葉巻を吸う砲兵」と報道されて大衆の想像力をかき立て、同僚達の間では「ナポレオンに匹敵するほどの本当の大人物」として尊敬を受けました。

 ベレスフォード=ピアースは騎士の称号を与えられて1941年4月に西方砂漠に戻り、中将に昇進し西方砂漠部隊の司令官となります。

 ロンメルは4月16日と17日にもトブルクを襲撃するも撃退されます。その間、ロンメルの軍はエジプトに向かって進みました。4月28日にはリビア・エジプト国境に到達し、断崖絶壁のふもとにあるソルームとカプッツォ砦を占領します。1941年4月30日から5月4日にかけて、ロンメルは入念に準備されたトブルクへの攻撃を行うも、またしても撃退されました。


 ↓OCS『DAK-II』上でのソルーム、カプッツォ砦、ハルファヤ峠など(後でリンクを貼ってあるブレヴィティ作戦のエントリから)。

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 燃料を使い果たした枢軸軍はそれ以上前進できず、小康状態に入ります。

 国境地帯を守備していたイギリス軍の主力は第7機甲師団の第7支援グループで、指揮官は「ストレイファー」ゴット、副指揮官は「ジョック」キャンベルでした。


 ウェーヴェルはこの1941年4月から7月にかけて、なんと5つもの戦線の対処に忙殺されていました。それらはウェーヴェルが望んだものではなく、ドイツ軍の侵攻に対処するためであったり、中東での反英活動を許さないとするチャーチルが無理矢理、ウェーヴェルに命じて作戦活動を行わせたものでした。

 1941年初頭は北アフリカと東アフリカ(エチオピア)で勝利を収めたものの、4月には北アフリカでロンメルの攻勢が始まるとともに、ドイツ軍がギリシャに侵攻し、それへの対処を余儀なくされます。5月初旬にはロンメルがトブルク攻略を諦めて小康状態が訪れたもののイラクに介入する必要に迫られ、5月20日にはドイツ軍がクレタ島降下作戦を実行。この頃には東アフリカ戦線はようやく勝利の内に終結していましたが、ギリシャとクレタからは撤退を余儀なくされ、さらに6月初旬から7月中旬にはシリア・レバノンのヴィシーフランス軍に対する制圧作戦(エクスポーター作戦)の実行をチャーチルから強要されたのです。


【このエクスポーター作戦を再現したOCSゲームが『Reluctant Enemies』です。
OCS『Reluctant Enemies』お試しプレイ (2014/07/22)


 ただ、地中海艦隊司令官のアンドリュー・カニンガム提督は、このような時のウェーヴェルをこう評しています。
「物事がうまくいかないときにも冷静沈着で、ストレスが溜まっている時でさえ、助けにならない非常に苛立たしいメッセージに激昂することも絶対になかった。」

 しかし一方チャーチルは、ロンメルに席巻されてしまったキレナイカを再び奪取するため、消極的な帝国参謀本部を説得して、イギリス本国をほとんど丸裸にしても戦力をウェーヴェルに送ることを4月21日に決定しました。5日後、「タイガー」というコードネームで呼ばれる高速商船6隻からなる輸送船団がイギリスを出発。積まれていたのは238輌の戦車とその乗員、及び43機のハリケーンでした。

 しかしチャーチルはこれらの戦車と戦闘機が、ウェーヴェルの抱える戦力不足をすべて解消する万能薬になるという空想に溺れてもいたのです。

 チャーチルはこうウェーヴェルに電報を打ちました。
「もしこの輸送が成功すれば……6月末までにキレナイカからドイツ人を一掃しなければならない。」

 このような状況の中、北アフリカ戦線で5月15日に行われたのがブレヴィティ作戦であり、その一ヶ月後の6月15日にバトルアクス作戦が行われましたが、5つもの戦線を抱えるウェーヴェルにとってはどちらも充分な余裕を持って実行されたものではなく、失敗を余儀なくされるのです。


 まだトブルクを巡る激戦が続いており、タイガー船団の話も出ていなかった1941年4月19日の時点で、ウェーヴェルはドイツ軍に対する限定的な反撃を行う作戦の計画策定を開始するように指示していました。

 一方、ドイツ軍の参謀総長ハルダーは、ロンメルがトブルク攻撃で失敗を繰り返していることからそれを視察・制止させるために参謀次長であったフリードリヒ・パウルス(後にスターリングラードで第6軍司令官として降伏することになる)を派遣していました。

 5月1日、パウルスが観戦する中で行われたトブルク攻撃も失敗し、パウルスはロンメルに対して「キレナイカを保持するだけに留めるべきで、トブルクへの攻撃を続行してその任務を危険にさらすべきではない」との指示を出します。さらにパウルスはベルリンに対して、その指示内容の他、「北アフリカのドイツ軍はかなり疲弊していること」「補給物資の輸送が不安定であること」「第15装甲師団が到着するまではバルディア、ソルームより先には進まない」ことを強調した報告をドイツ空軍のエニグマ暗号で送信しました。ところが、このエニグマ暗号はイギリス側に解読されていたのです。

 この解読文を見たチャーチルは安堵すると共に、急いでウェーヴェルに対して、この状況に乗じてドイツ軍に対して反撃を行う事を促す電報を打ちました。

 ウェーヴェルもエニグマ情報を受け取っており、平静を装いながらこうチャーチルに返電します。
「ただちに第7機甲師団長クレイに対し、西方砂漠部隊司令官ベレスフォード=ピアースを訪問して、利用可能なすべての戦車を攻撃作戦に使用する可能性について話し合うように命じました。また、タイガー船団が無事到着した場合に備えて、できるだけ早い時期に西方砂漠で攻撃を行うよう、すでに命令を出してあります。」

 英連邦軍側も攻撃部隊として使用できる戦力は限られていたものの、ロンメルはトブルクを包囲することに全力を注いでいたため、リビア・エジプト国境地帯での枢軸軍の前線の守りは手薄になっていいました。

 ウェーヴェルは、ロンメルに2つ目の装甲師団(第15装甲師団)の全部が到着する前に、ソルーム付近のハルファヤ峠などの重要な国境陣地地帯を奪還し、またこの地域のドイツ・イタリア軍を消耗させるだけの準備的な攻撃作戦を行うことを決めました。これが「ブレヴィティ(簡潔)」作戦で、これに成功した後、奪取した陣地地帯をジャンプ台にして後続の作戦を行おうというものでした。その後続の作戦は当初、「ブルーザー(Bruiser:喧嘩好きな大男)作戦」と名付けられていましたが、後に「バトルアクス(戦斧)作戦」と名称変更されます。

 5月13日、ウェーヴェルはタイガー船団の到着を待たずに、利用可能な戦車を「ストレイファー」ゴット将軍の指揮下の臨時編成部隊に入れ、ソルーム付近の敵を攻撃するように指示します。この攻撃が成功すればウェーヴェルは、物資が許すのであれば、また作戦に投入される部隊が危険にさらされない限りにおいて、敵をトブルクの西へと追いやるつもりでした。


 ↓OCS『DAK-II』のブレヴィティ作戦シナリオセットアップ。

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OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオ研究 (2018/01/09)



 1941年5月15日早朝、ゴット率いる部隊は前進を開始し、当初はドイツ軍に対して奇襲をかけました。初日の英連邦軍の攻撃は順調に進み、ハルファヤ峠の上下の陣地、ソルーム砦、カプッツォ砦を占領します。しかしカプッツォ砦は午後になってドイツ軍の激しい反撃により奪還されてしまい、英連邦軍は大損害を被ります。

 ロンメルは英連邦軍がトブルクを救援しようとしていることを懸念して急遽、この地域の守備隊を強化すると共に、戦車大隊を増援に送ります。

 ゴットは、ドイツ軍の戦車部隊が側面に前進してきたため、側面から攻撃を受けること、連絡線が途絶することを懸念して、5月17日に攻撃を中止して撤退しハルファヤ峠の確保のみに努めることにしました。後方で全体を指揮していた第13軍団長ベレスフォード=ピアースは戦場に留まれという命令を出しましたが、ゴットはそれを無視し、ギリギリのタイミングでハルファヤ峠の確保に成功します。

 同日、ウェーヴェルは帝国参謀総長のディルに対して「ソルームとバルディア地域からの敵の排除を狙った攻撃は失敗した」と報告しました。しかし後日ベレスフォード=ピアースに会った際にはこのように述べたそうです。
「作戦はほぼ成功した。できるだけ早く虎の子(タイガー船団の積荷)を準備して再挑戦するように。その間は無防備のように感じられるかもしれないが、どうせ2週間とはかからない。これはごく普通のことだ。」

 チャーチルもまた、「戦闘の結果は我々にとって満足のいくもののようだ」と肯定的な反応を見せつつ、「虎の子を戦闘に投入する日取りはいつか?」と催促することを忘れませんでした。


 実はチャーチルはブレヴィティ作戦前の5月6日の時点で、ウェーヴェルの解任(そしてインド戦域軍司令官であったオーキンレックとの交代)という話題をごく近い人間に持ち出していました。

 チャーチルがウェーヴェルの解任までを考え始めたのには、これまでのウェーヴェルに対する不信(チャーチルの一方的な思い込みの面が大きかったのですが)に加え、1941年4月初旬にイラクで親独派のクーデタが起こった時のウェーヴェルとオーキンレックの態度の違いが大きな影響を与えていました。イギリスがイラクへ介入するために、イギリスの帝国参謀本部は中東戦域軍総司令官のウェーヴェルと、インド戦域軍総司令官のオーキンレックに対して、イラクにどれだけの部隊を派遣できるかと尋ねていたのです。この時、多くの戦線を抱えさせられていたウェーヴェルは当然ながら1個大隊すら割くことはできないと回答したのに対し、オーキンレックの方は1個旅団を転用できると返信したのです。

 チャーチルはウェーヴェルが背負っている重荷の大きさを理解しておらず、ウェーヴェルが戦力を出そうとしないのは優柔不断、無気力、そしてリスクを取りたくないからだと考えたのです。一方、オーキンレックは事態に対応した迅速な行動が評価されました。このように、チャーチルから見たウェーヴェルの評価がどんどん下がっていく中で、オーキンレックの前向きな姿勢と断固とした行動が首相の注目と賞賛を集めていたのでした。


 さらに、ブレヴィティ作戦直後の5月20日にはドイツ軍がクレタ島降下作戦を実行し、その対処にウェーヴェルは忙殺されるようになってしまいます。

 軍事的な状況の難しさの上に、チャーチルからとめどなく送られてくる相互に矛盾した、かつ限界を超えた要求などによってウェーヴェルの疲労は蓄積しており、ひどいめまいに襲われることもありました。ウェーヴェル自身も、自分が解任されるかもしれないという恐れを感じていました【私の個人的な考えでは、このように無茶な状況の中では仕事を投げ出せた方が楽であるようにも思えますが、ウェーヴェルはアレンビーへの憧憬や義務感、あるいは栄達を求める気持ちなどから、中東戦域軍司令官から外されることを望まなかったのでしょうか】。

 さらにその上にチャーチルは、ドイツの傀儡国家であるヴィシーフランスの支配下にあるシリアを制圧するための作戦行動をウェーヴェルに強要します。これはチャーチルにとって政治的ジャスチャーに過ぎず、ウェーヴェルはこの軍事行動案にずっと消極的だったのですが、チャーチルは大上段から決定を押しつけたのです。

 ウェーヴェルはやむを得ず5月25日に、シリアへの攻勢を行う「エクスポーター作戦」の計画を提出します。指揮官は「ジャンボ」ウィルソンで、その戦力は自由フランス軍などを含めて3,4000人。ヴィシーフランス軍側は3,7000人の戦力で英連邦軍側の方が劣勢の攻勢作戦でしたが、それがウェーヴェルが出せる兵力の限界だったのです。

 一方西方砂漠では、ブレヴィティ作戦でハルファヤ峠の重要性に気付いたロンメルが5月27日にスコーピオン作戦を発動し、ハルファヤ峠を奪取されてしまっていました。

 エクスポーター作戦は6月8日に開始されましたが、自由フランス軍の姿を見ただけでヴィシーフランス軍の兵士は歓呼で迎えてくれるはずだというド・ゴールなどの予想は外れて長期化し、7月14日までかかることになります。

 このような状況の中、西方砂漠でバトルアクス作戦の発動を強要された結果、戦力の分散を余儀なくされ、両方の作戦が不充分な戦力で同時に実施されることになったのです。その結果が、エクスポーター作戦が不必要に長引いたことと、バトルアクス作戦の失敗でした。後世、もしチャーチルが忍耐強く、この2つの作戦を同時にではなく順次行うことを許可していれば、リビアでもドイツ軍は撃破されただろうと評されています。

 ドイツ軍のクレタ島侵攻に対しても英連邦軍は敵し得ず撤退し、6月1日にはイギリス陸軍省がクレタ島からの退去を発表しました。チャーチルは予想される世論の激しい批判を抑えるためにすぐにスケープゴートを探し始め、まずは中東航空総監であったロングモアを解任。

 当然ウェーヴェルに対しても説明責任が求められ、チャーチルはウェーヴェルに対して、中東戦域軍司令官としての資質と実績が問われていること、そしてその地位に留まり続けるためには西方砂漠での再攻勢をすぐにでも行わなければならないと示唆します。

 当時、イギリス民衆の間ではドイツ軍のクレタ島への降下作戦を、イギリス本国への降下作戦の予行演習ではないかと考える人が多く、チャーチルの人気は著しく低下していたのです





「冷酷なミン」 レスリー・モースヘッド将軍がトブルクを守備し、ロンメルを撃退し続ける(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)



 今回は、第9オーストラリア歩兵師団を指揮してトブルクを守備し、ロンメルを撃退し続けたオーストラリア軍の「冷酷なミン」 レスリー・モースヘッド将軍についてです(調べていて、個人的に非常に興味深い人物だと思いました)。モースヘッドのその後も記述するため、トブルク戦だけでなく、エル・アラメイン戦や太平洋戦域の話までいきます。


 この後、北アフリカ戦線はトブルクを巡る戦いがしばらく続き、そして英連邦軍はトブルクを保持することに成功します。

 その戦いにおいて英連邦軍側で最も活躍したのがトブルクを守備した第9オーストラリア歩兵師団とその師団長であったモースヘッドであり、彼はロンメルに最初の敗北を与えることになりました。モースヘッドはロンメルと同様にエネルギッシュな人物であり、開けた土地での戦いにおいてはロンメルとドイツ軍装甲部隊に分がありましたが、要塞戦という状況においては、気質的にモースヘッドとオーストラリア兵達の方が適していたのです。


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 ↑「冷酷なミン」 レスリー・モースヘッド将軍(Wikipediaから)


 ↓OCS『DAK-II』の第9オーストラリア歩兵師団(登場時は訓練が完了しておらず、アクションレーティングが-1された状態です)。

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 レスリー・ジェームズ・モースヘッドは元々、オーストラリアで教師をしながらオーストラリア軍の軍事教練隊(青少年向けの組織で、民間の人々への軍への関心を高め、軍への支持を深めるためのもの)で訓練を受け、その大尉にまで昇進し中隊を指揮していました。

 第一次世界大戦が起こるとオーストラリア帝国軍に二等兵として入隊します。エジプトで訓練を受けたモースヘッドはこちらでも大尉まで昇進し、ガリポリの戦いなどで指揮官として優れた才を発揮しました。当時の彼を描写した記述によると、どんな状況でも明るくきびきびと動き、歯に衣着せぬ人物で、旧来の陸軍のやり方の中から価値のあるものとないものを見分けることができたとか。

 第一次世界大戦が終わると軍の任用を打ち切られたモースヘッドは、正規の軍人になりたいとも考えましたが、それは陸軍士官学校の卒業生に限られていたため諦めざるを得ませんでした。

 農業をやろうとして失敗などした後、イギリスの船会社のシドニー支社に入社して働きます。この間もモースヘッドは非常勤の民兵として活動し、旅団長にまでなります。彼はまた、世界大恐慌の最中の1931年に結成されたオーストラリアのファシスト準軍事組織であった「ニューガード」にも所属しました。

 モースヘッドは1937年に会社の仕事でイギリスを訪れた際に演習中のイギリス軍を視察して、近代的な機械化部隊のスピードに感銘を受けます。彼はまた、オーストラリア軍が人的・技術的資源の両面で大きく遅れていることを実感したそうです。

 ドイツ軍のポーランド侵攻に対してオーストラリアは、イギリスと同日の1939年9月3日にドイツに対して宣戦布告し、その約1ヶ月後にモースヘッドは第18歩兵旅団長に選ばれました。第18歩兵旅団は1940年5月にシドニーを出発し、最初はドイツ軍のイギリス本土侵攻に備えてイギリス南部の防衛に当たりましたが、年末にエジプトに派遣されます。1941年1月29日には先任の師団長の帰国に伴ってモースヘッドが第9オーストラリア歩兵師団長に任命されました。

 この時期のモースヘッドについて、こう記述されています。

「モースヘッドは、紛れもなく将軍となるのに相応しい人物だった。小柄な体格と一見穏やかな表情に隠された強烈な個性は、初対面の人でもすぐに感じ取ることができた。正確で鋭い話し方と、火のような鋭い目つきは、力強さ、毅然さ、断固たる意志の堅さといった印象を鋭く伝えていた。モンゴメリーが後に語ったように、戦いが意志の戦いであるならば、モースヘッドがその点で不足することはないだろう。」

 1941年3月31日にロンメルが攻勢を開始すると、第9オーストラリア歩兵師団は訓練も装備も不足し、実戦経験もまったくなかったにもかかわらず、戦闘の真っ只中に投入されました。しかし彼らは勇猛で部隊の士気も非常に高く、モースヘッドの指揮が優れていたこともあり、他の英連邦軍の部隊が総崩れになる中にあって非常に健闘します。

 ウェーヴェルは、ロンメルのエジプトへの進撃を牽制する最善の方法はトブルクを保持することだと判断していました。戦場での流れが戻るまでの間、トブルクを抵抗の島とするのです。地中海艦隊司令官のアンドリュー・カニンガム提督からもイギリス海軍がトブルクを支援できるという保証が得られたため、無期限ではないにしろ、トブルクを保持できる望みが持てました。トブルクを保持することは4月6日(オコーナーらが捕虜となった日の前日)に行われたカイロでの、ディルとイーデンとの三者会議で全員一致で得られた結論でもありました。

 4月8日(メキリが陥落し、ガンビア=パリーが捕虜となった日)、ウェーヴェルは第7オーストラリア歩兵師団長であったラヴァラック将軍を伴って、非常に揺れる不快な飛行機でトブルクに向かいました(ラヴァラックは元々オーストラリア軍のトップである参謀総長も務めた人物で、後にシリア・レバノンでのエクスポーター作戦(ヴィシーフランス軍に対する戦い)でオーストラリア軍を指揮して活躍しました)。

 トブルクにはオコーナーとニームの参謀長であったジョン・ハーディング(間一髪で捕虜になるのを逃れており、トブルクに司令部を設けていました)とモースヘッドがおり、彼らに話を聞いたところ、二人ともトブルクを守れると考えていました。

 トブルクを守れるかというウェーヴェルの問いに、ハーディングはこう答えました。
「はい、閣下。ロンメルが大量の重戦車を投入せず、イギリス海軍が補給を維持することができれば。」

 ウェーヴェルはこの時、
「よし。君たちができると思うなら、やった方がいいし、やってくれ!」
という印象的な言葉を発したといいます。

 ラヴァラックは当面の間キレナイカとリビアの全軍司令官に、モースヘッドはトブルクの主力部隊の司令官に任命されることになり、ウェーヴェルはモースヘッドに対して、他の部隊の再編成が終わり救援作戦を行えるようになるまで、2ヶ月間トブルク要塞を保持するように指示しました。

 トブルクにいたのは第9オーストラリア歩兵師団の他、第18オーストラリア歩兵旅団(この時は第7オーストラリア歩兵師団所属)、それに連合国の様々な国からの支援部隊で、退却の過程で多少の損害を被っていましたが将兵の士気は高く、指揮系統も効果的に機能していました。またドイツ空軍の熾烈な爆撃にもかかわらずトブルクの港湾機能は高い能力を保っており、エジプトからは弾薬や食糧などの補給物資が搬入されていました。

 ロンメルは4月中旬から5月初めにかけて複数回のトブルク攻撃を行いましたが、そのいずれにも失敗して甚大な損害を被ります。一つにはトブルクの防衛力が増強されていたためであり、地雷も使用され、縦深も深くなっていました。さらに、モースヘッドは戦車を含めて自身の予備を非常にうまく活用していました。

 トブルク要塞を保持するというウェーヴェルの決定によりロンメルは、自由奔放な機動戦で相手に混乱を巻き起こして勝利を得るという彼の得意な戦い方がまったく通用しない、固定的な陣地線を戦わざるを得なくなったのです。そして、英連邦軍は歴史的に、このような固定防御戦を得意としていました。


 かたや、モースヘッドはその本領を発揮していました。兵士達にはこう語ったといいます。
「ここにはダンケルクはない。脱出しなければならない時は、戦って脱出する。降伏も退却もありえない。」

 その後のウェーヴェルによるトブルク救援作戦(ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦)が失敗したため、モースヘッドは7ヶ月に渡ってトブルクを防衛し続け、それを成し遂げます。トブルク防衛のために彼が採った戦術は、今でも世界中の将校養成学校で、優れた機甲部隊に対する防衛をどのように準備し実行するかの実例として言及されているそうです。モースヘッドの戦術の要は、可能な限り攻撃的に行動するということでした。

 狙撃、砲撃、反撃を積極的に行い、要所要所で奇襲をかけ、ロンメル軍の体勢を崩し続けたのです。オーストラリア軍歩兵は無人地帯を支配し、情報収集のため、捕虜を取るため、敵の攻撃準備や地雷敷設作業を邪魔するため、さらにはトブルクでは入手できない物資を盗むために、枢軸軍の前方陣地を絶え間なく襲撃しました。そしてこれらの部隊は、適切な位置に配置された砲兵と、機動力のある戦車を含む予備部隊によってバックアップされていたのです。枢軸軍の兵士達は、このオーストラリア軍兵士のアグレッシブな活動を恐れるようになりました。

 モースヘッドの考え方はこのようなものでした。
「会戦や戦役に勝利するために必要なのは、リーダーシップだ。上級指揮官だけでなく、下級指揮官のリーダーシップも重要だ。それに規律、勤勉さ、そして経験から得られる知識……例えば、何をすべきか、どのようにすべきかを知ること。だが何よりも勇気だ。我々が“ガッツ”と呼ぶもの、勇敢さ。そして、義務への献身だ。」


 枢軸国のプロパガンダは彼らを「アリババ・モースヘッドと2万人の盗賊達」と表現し、トブルク守備隊は「トブルクのネズミ」であると蔑んでみせましたが、当の守備隊兵士達はこの「トブルクのネズミ」という蔑称をむしろ誇りにしました。モースヘッド麾下の兵士達は、厳格で、大変な努力を要求してくるモースヘッドのことを茶目っ気たっぷりに、「冷酷なミン」と呼びました(アメリカで1934年に始まった新聞連載漫画『フラッシュ・ゴードン』に出てくる主人公の敵である、惑星モンゴの冷酷な皇帝ミンのあだ名から)。しかし段々とこのタフな指揮官と兵士達との間の絆が深まるにつれ、「冷酷な」という言葉は外され、短く「ミン」と呼ばれるようになったそうです。


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 ↑『フラッシュ・ゴードン』。左下が「冷酷なミン」(少しモースヘッドに似ている?)(Wikipediaから)



 またモースヘッドは、イギリス側から第9オーストラリア歩兵師団の兵士達に規律がなく、軍内部のしきたりを平気で無視するという批判が起きた時、長い時間をかけて勇猛な部下達をかばい続けました。

 しかし、1941年7月になってくると、モースヘッドはオーストラリア軍兵士達が疲弊していることを確信するようになってきました。兵士達の健康状態は悪化しており、モースヘッドの努力にもかかわらず、士気と規律が低下していたのです。モースヘッドはオーストラリア軍最高司令官であったブレーミー将軍とオーキンレックに、彼らを交代させるべきだと伝えました。


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 ↑左がチャーチル、中央がモースヘッド、右がオーキンレック。1942年8月。(Wikipediaから)


 オーキンレックは、元々第7オーストラリア歩兵師団所属であった第18オーストラリア歩兵旅団に関しては、ポーランドのカルパティア旅団と交代させて元々の所属師団と合流させることを手配してくれましたが、第9オーストラリア歩兵師団がトブルクから引き上げることには難色を示します。このため、事はイギリス政府とオーストラリア政府間の問題にまで発展しました。オーストラリアの首相がチャーチルにこの問題を持ちかけましたが、チャーチルはこの交代によってクルセイダー作戦が延期されることになってしまうと反発します。しかし結局クルセイダー作戦は延期されることになりました。1941年9月から10月にかけて第9オーストラリア歩兵師団はトブルクから撤収し、代わりにイギリス第6歩兵師団がトブルクに入っていきました(この第6歩兵師団は10月10日、枢軸国の情報機関を混乱させるために第70歩兵師団と改称されました)。

 その後第9オーストラリア歩兵師団はシリアに移動して同地の占領部隊としての役割を果たすと共に、休息、再装備、補充人員の訓練などを行います。

 1941年12月に日本が参戦し、オーストラリア本国が侵攻の脅威にさらされるようになったため、中東にいた第6、第7オーストラリア歩兵師団は1942年初頭に太平洋戦域に移されました。モースヘッドは地中海戦域の全オーストラリア軍の指揮を任され、第9オーストラリア歩兵師団長のまま中将に昇進します。

 モースヘッドはこの時期、連合軍側で成功を収めていた数少ない師団長のうちの一人でしたし、英連邦軍全体のかなりの部分よりなるイギリス第30軍団の司令官代理を2度にわたって務めた経験がありました。第一次世界大戦時にもオーストラリア軍のハリー・ショーベル将軍が英連邦軍の軍団長になったことがあり、モースヘッドは自分も軍団長に任命されるのではないかと期待していましたし、多くの戦場記者達も軍団長としてモースヘッドが最適な選択だと考えていました。


 ↓OCS『DAK-II』の第30軍団司令部ユニット

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 ところがオーキンレックは、モースヘッドとの見解の相違からか彼に「気難しい部下」というレッテルを貼り、優れた師団長ではあるが軍団の指揮には向いていないと考えていました。さらに、第一次世界大戦で英連邦軍の軍団長となったショーベル将軍はオーストラリア軍の正規の将校でしたが、モースヘッドはそうではありませんでした。オーキンレックらが解任された後、イギリス第8軍の新司令官となったモントゴメリーは、予備役出身の将校は「軍団を指揮するのに必要な訓練と経験」を持ち合わせていないとして、モースヘッドよりも若く、また師団を指揮したことすらないイギリス軍の正規の将校であったオリヴァー・リースを軍団長に抜擢したのでした。モースヘッド同様、非常に優れた指揮官であった第2ニュージーランド歩兵師団長フレイバーグも軍団長に任命されることはなく、このようなイギリス本国の将校でなければ軍団レベルの指揮官に任命しないという姿勢は、英連邦諸国の国民を怒らせました。

 第3次エル・アラメインの戦いでモースヘッドの指揮する第9オーストラリア歩兵師団は多大な犠牲を払いながらもドイツ軍とイタリア軍に大きな打撃を与えて崩壊させ、最終的にロンメルを撤退させる働きをしました。軍団長となっていたオリヴァー・リースはモースヘッドにこう伝えたそうです。
「私は確信しています。この突破は、あなたの師団の戦区での、ホメーロスの如き戦いによって可能になったのです。」
 第3次エル・アラメインの戦いでは、第9オーストラリア歩兵師団の死傷者数はイギリス第8軍全体の実に22%にも及びました。

 エル・アラメインの戦いの後、モースヘッドと第9オーストラリア歩兵師団は太平洋戦域に移されます。この戦域で彼はオーストラリア軍の第2軍団長となりました。この時期のモースヘッドの指揮に対しては「地中海戦域での時の個人的なお気に入りを優遇しすぎる」という批判もあったものの、辛抱強く、また少ない死傷者数で目標を達成するなど、優れた指揮を見せました。


Morshead & MacArthur Labuan AWM 109060

 ↑1945年6月、マッカーサーと共に。(Wikipediaから)


 太平洋戦争末期、日本本土上陸作戦であるコロネット作戦に関して、イギリス政府は英連邦軍の軍団の指揮官をチャールズ・キートリー将軍(チュニジア戦で第6機甲師団長、イタリア戦でイギリス軍最年少の軍団長となった人物)とすることを提案しましたが、オーストラリア政府は日本軍と戦った経験のない指揮官の任命に同意するつもりはなく、モースヘッドを指揮官とすることを逆提案しました。しかし、この問題が解決する前に戦争は終結しました。





 


OCS『Sicily II』キャンペーン、序盤の枢軸軍側の反省事項

 オンラインでOCS『Sicily II』のキャンペーン(ハスキー作戦シナリオ)を、私は今初めて枢軸軍側でプレイしているんですが、序盤に関していくつか反省事項があるので、書き留めておこうと思います。


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 この画像で、まずは右下の□の部分について。この辺りにいるイタリア軍の沿岸防衛師団が降伏しなかった場合、そのままそこに留まれば連合軍の後方にプレッシャーを与えることができる一方で、もしその戦力を大事にするのであれば、このゲームの枢軸軍は戦略移動モードを使用できない(常に連合軍の航空阻止を受けていたという理由で)ため、戦力を引くのが大変難しいという問題に直面します。

 私はそういう問題があると認識していなかったため、大変苦慮しました(^_^;


 次に、画像上で東西に引いた赤い線ですが、そのすぐ上に鉄道線があります。この鉄道線のどこかが早期に切られてしまうと、特に中央部(の南側)への一般補給が通じなくなってしまうので、ある程度の期間は保持する必要があります(私はそれがちゃんと意識できておらず、退却しないことも選択できた場面で退却してしまったためにこの鉄道線の連絡線を失い、いらぬ苦労をしてしまいました)。

 また、その辺りのことと関連しますが、私は枢軸軍を初めてプレイするにあたって、「どんどん退却して守りやすい地形のところまで行ってしまえばいいではないか」と思っていたのですが、この鉄道線の件や、あるいは港湾を早期に放棄して(あるいは占領されて)しまうと、シチリア島へ運べたはずのSPの総量が少なくなってしまい、苦労するということが分かりました(まあ、なんでもバランスだということですよね……)。


 最後に、画像の赤い○のヘクスですが、ここに(移動モードが)自動車化移動の部隊を置いておくと、画像のようにその左右の首を絞められるように敵の戦闘モードのユニットで占領されてしまった場合、道路が南北方向に全然存在しないため、(特にDGにされていると)移動力が全然足りずに脱出できなくなってしまうことが分かりました。なので、このヘクスを守るなら、そこらへん気をつけた方が良さそうです。

 というか、地形上、この南へ突き出た小河川の線でもって守るべきではないですね……。もしどうしてもこの小河川の線を保持するなら、南ほど弱小兵力にし、根元を強く守らねばならないということでしょう(OCSの守備側は、「頭を重くしてはいけない(最前線を弱くし、中程と後方を強くすべき。そうでないと、中程や根元を突かれて、重い頭の部分が包囲され、補給切れで殺される)」というのがとりあえずの教訓としてあります)。


 このゲームの枢軸軍はプレイするのが大変難しいと思います(富山のKさんも同じ意見でした)ただまあやはり、一度プレイしてみれば体得できるものは大きいので、2回目以降はよりうまくプレイできるだろうという気がします。

OCSで攻撃側から遠ざかるわけではない退却はどんな条件なら可能なのか?

 少し前に、↓のようなエントリを書いてました。

OCSで敵のいたヘクスに退却できるか?(以前はできたけど、v4.3ではできなくなりました) (2021/12/31)
(「敵」と書いてますが、「敵の攻撃ユニット」とでも書くべきでしたね)


 今回、オンラインプレイをしていて↓のような状況で疑問が生じました。

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 中央のDGになっているドイツ軍ユニットが北西方向の3-3-14のスタックから攻撃を受け、AL1o1 Do1の結果が出ました。攻撃側のスタックは北西方向へと退却しました。攻撃側が退却したので防御側のドイツ軍ユニットはDo1を無視できるのですが、Do1を受けることもできます。プレイヤーはここで退却しておいた方が後々有利かもしれないと考えました。しかし、北東方向(30.18)は敵ZOCであるため、このDGのドイツ軍ユニットがそこへ退却するとステップロスしてしまいます。もし北方向(29.18)へ退却しても良いのであれば、損失を避けられます。しかし「退却は通常、直前の戦闘における敵ユニットから離れる方向に行われるべき」と規定されており、そのような退却は許されるのかどうか?

 ルールの規定はこうなっています。

9.12c 退却方向 ユニットの退却は、その軍のプレイヤーが行います。スタック単位でも、個々のユニット単位でも退却できます。退却は通常、直前の戦闘における敵ユニットから離れる方向に行われるべきですが、損失を避けるために、“局所的に後方へ向かった”と見なされるようなカーブを描いた退却も可能です。


 実はこの規定にすでに答があったのですが、我々は気付かないまま、富山のK氏がOCS Depotにそこらへんを解説してそうなpdfファイルがあるということなので、見てみました。

OCS 101 LearningのページCombat Results and Retreats

 6ページ目の右側にこういう画像と説明があります。

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 これを読んでいると、「基本的には緑色の○のヘクスへと退却すべきである。しかし、ステップロスを避けるためであれば、黄色や赤色の○のヘクスに退却するという選択肢もあり得る。」というような感じで書かれていました。つまり、「ステップロスするか、しないか」が重要なようで、改めてルールの規定を読んでみると、「損失を避けるために」という文があったのでした(^_^;

 逆に言えば、「ステップロスするかしないかに関係ない」のであれば、必ずできるだけ遠ざかるように退却しなければいけない、という風に言えると思います。


 このpdf画像の赤い○ですが、左側の赤い○の右下のヘクスや、右側の赤い○の下のヘクスも、状況によっては退却して良い場所になるのだと思われます(ルールの規定から考える限り)。なぜそこが選択肢として明示されていないのかは、このpdfの説明文やルールの規定からは分からないので、「この画像と説明文を作った人が、そこまでは思い至らなかった」からであろう、と我々は推測しました(^_^;


 まあもしかしたら、「いや、そうじゃない。なぜならば……」ということがあるかもしれません。とりあえずの解決法提示ということで……。


オコーナーやニーム達がドイツ軍の捕虜となる(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)



 今回は、ロンメルの指揮するドイツ軍の急進撃により、オコーナーやニーム達が捕虜となってしまいます。



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英語版Wikipeida「Philip Neame」から、捕虜になった3人のイギリス軍将官。中央がフィリップ・ニーム中将。左はジョン・クーム准将、右はガンビア=パリー少将。



 ↓OCS『DAK-II』のマップ上の、今回出てくる地名です。

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 ロンメルは1941年3月31日に攻撃を開始しました。ニームの前方陣地はドイツ軍に簡単に圧倒され、麾下の指揮官達は混乱に陥りました。

 ロンメルの本格的な攻撃の知らせを聞いて、ウェーヴェルは4月2日にバルチェ(Barce)に飛んできます。しかしこの後のウェーヴェルの介入は、むしろ悪影響を及ぼしてしまいます。

 ニームは第2機甲師団長ガンビア=パリーに対して、以前交わしてあった合意に基づいてアンテラット周辺の地域へと退避し、そこから砂漠を越えるメキリへのルートをカバーするように命じたのですが、ウェーヴェルがこの指示を取り消してしまったのです。なぜならウェーヴェルは、ロンメルは北アフリカに来て間もないのだからキレナイカ全土を占領できるような部隊を組織することは不可能である、と確信していたからです。急遽編成されたドイツ軍の目的はベンガジであることは間違いないので、ガンビア=パリーの全機甲部隊をそちらへ配備すれば阻止することができるだろう、と。しかも、ウィルソンの誤った報告によりこの時ウェーヴェルは、ベンガジの南の地形は寡兵で守るのに適していると信じていたのです。

 しかし、ニームの指令に反するウェーヴェルの命令が混乱の中で発せられた結果、機甲部隊は散り散りになってしまい、燃料も乏しくなってしまいます。支援グループの歩兵も方向を見失ったりした結果、戦力を失ってしまい、ガンビア=パリーはやむなくウェーヴェルの命令を無視して、砂漠の中のイギリスの師団長たちの間で今後18ヶ月にわたって増大していく習慣の最初の例となりました。つまり、上からの命令は従うべき命令というよりも、話し合いの対象としてのものであると苦々しく表現したのです。

 また、オコーナーの参謀長であったジョン・ハーディングは同じ立場でニームに仕えていましたが、ニームが戦闘をうまくコントロールできないことに心を痛め、ウェーヴェルに直談判し、オコーナーを再び呼び返してニームと交代させてくれるように懇願しました。そこでウェーヴェルはカイロの司令部に電報を送り、オコーナーに対してできる限り早くキレナイカ地域守備軍の司令部へ飛んでくるようにと連絡させたのです。

 オコーナーは4月3日1500時頃に、ベダ・フォムへの突進を指揮したジョン・クームも伴って、バルチェに到着しました。ウェーヴェルの説明を受けたオコーナーはしかし、ウェーヴェルに対して、ニームを司令官のままにしておくように説得しました。というのは、オコーナーはこの時点での現地の事情に精通していませんでしたし、戦いの最中に指揮権を奪われることほど不幸なことはない、と考えていたからです。しかし、オコーナーは、ニームから助言を求められた時にはすぐにそれができるようにニームの司令部に留まるようにする、ということには同意しました。

 この時、ウェーヴェルには冷酷さが欠けていたのかもしれません。ウェーヴェルには、自分に任命責任があった不適格者を排除することができない、ある意味寛大すぎる面があり、ウェーヴェル夫人でさえもが、後に、「自分の周りに長く居すぎた人達がいた」と言っていたそうです。

 ウェーヴェルはその後、さらなる増援部隊を編成し、部隊と装備のギリシャ派遣を直ちに停止するためにカイロに向かいます。

 4月4日、枢軸軍は放棄されたベンガジを占領します。

 オコーナーは4月4日正午に前線に到着し、キレナイカ地域守備軍の指揮官達と会談しました。ガンビア=パリーは、ベンガジを占領した枢軸軍はこれ以上前進しないだろうという見解を述べたものの、第2機甲師団は第9オーストラリア歩兵師団の撤退の側面を守るため、メキリに集中させることになりました。

 キレナイカ地域守備軍司令部でオコーナーは後方の陣地を手配し、ニームは戦いを指揮しましたが、指揮系統の乱れ、増大し続ける混乱の中で、第2機甲師団が孤立し、敗北を重ねていきます。ただし、第9オーストラリア歩兵師団の部隊は知性的な師団長モースヘッドが毅然として指揮しており、経験が浅いにもかかわらず枢軸軍の攻撃を幾度もはね返していました。

 オコーナーとニームは第3機甲旅団を再編成して枢軸軍の進撃を止めようと2日間試行錯誤しましたがうまくいかず、メキリにはインド軍部隊を増援として送り込んで保持することを決定しましたが、この時もまた後にオコーナーの述べる「まったく理解できない命令の不服従」により、麾下部隊が勝手に撤退してしまいます。

 4月6日、ニームは一日中、シャルルバ(Charruba:バルチェの南東)の東の地区でガンビア=パリーを探しましたが、見つかりませんでした。ガンビア=パリーはすでにメキリに退避していたのですが、ニームにはそれが伝わっていなかったのです。ニームは諦めてマラウア(Maraua:バルチェの東)にあった自分の司令部に戻りましたが、すべての戦線が東に後退していたので、司令部も移動すべきでした。オコーナーにはまだ正式な任命も役職もなく、移動用の車もあてがわれていなかったので、ニームがオコーナーとジョン・クームの二人を自分用の車(白いキャディラック)に乗せてくれることになりましたが、運転手が疲れていたのでニームがハンドルを握り、周りの車の流れと一緒になって出発しました。

 夕暮れ前になって、道を間違えて北側の道路に入ってしまったことが分かりましたが、どう考えてもこちらの方が安全だと思われたので、ニームは運転手に運転を引き継いで、このままデルナに向かって進むように指示しました。午前0時を過ぎた頃、後部座席で眠っていたオコーナーとクームが目を覚ましました。車は止まっていて、前方で叫ぶ声が聞こえます。クームが車を降りてみると、すぐに声の主がイギリス人ではないことに気付きました。実はその声の主は、驚くべき早さで進撃してきたドイツ軍部隊だったのです。

 この部隊は、ポナート中佐によって指揮された第8機関銃大隊の分遣隊で、デルナ周辺のバルボ街道を遮断せよとの命令を受けていたのです。彼らは砂漠を急いで横断し、6日の晩に到着したのでした。


 ↓OCS『DAK-II』のドイツ軍第8機関銃大隊ユニット(第5軽師団所属)。

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 オコーナーらは自動小銃を突きつけられて降伏を強いられ、ただちにドイツ軍の戦線へ連行されました。

 この知らせをウェーヴェルに伝えたのは、この時の中東戦域軍司令部の統合計画担当で、後にモントゴメリーの参謀長となるド・ギンガンドでした。彼は「ニームとオコーナーが捕虜になったという知らせは、総司令官【ウェーヴェル】にとって本当に衝撃的なことで、私はあれほど動揺した彼を見たことがなかった。」と述べました。

 『砂漠の戦争』でアラン・ムーアヘッドはこう書いています。
「彼【オコーナー】ほど洞察力のある戦略家を失うことは、いかなる軍隊にとっても耐えがたいことであり、この小柄なアイルランド人は、そのエネルギーと、そのすばやい気力のこもった態度と、その魅力で、砂漠の兵士たちに愛されていた。彼を失ったことは、たいへんな痛手だった。」

 オコーナーの同僚達や戦友達は、彼こそが「最も優れた砂漠指揮官」と言われるようになるはずだったのに、捕虜になってしまったことが悔やまれる、と考えました。

 一方でオコーナー自身は、自分が連れていたクーム准将がその有望なキャリアを突然縮小されたことを悲しんでいたそうです。

 身元が判明するとすぐに、オコーナーとニームはイタリアに飛行機で運ばれ、4月20日までにローマ近郊の捕虜収容所に入れられました。オコーナーは常に陽気にしつつ、何度も脱走を試みます。1943年9月にイタリアが休戦した時の6度目の脱走の試みで、収容所の演劇クラブの衣装を着て連合軍戦線まで南下することに成功します。

 オコーナーはイギリスへ帰国後、ノルマンディー上陸作戦後のカーン周辺の苦闘でイギリス第8軍団を指揮し、後にオルヌ川東岸のドイツ軍の防御線を突破してセーヌ川に到達するという成功を収めます。この成功は居並ぶ軍団司令官達の中でも最高のものであり、麾下のさまざまな部隊をまとめ上げる「強さの塔」とも評されました。しかしその後、1944年11月27日に軍団長の職を解任されてしまいます。この解任は参謀総長のアラン・ブルックが主導したとされていますが、当時上官のモントゴメリーは、オコーナーが「アメリカ人の部下に対して充分に冷酷ではなかった」という理由でこの動きを促したとか。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』のイギリス第8軍団司令部ユニット。

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 もし、オコーナーが捕虜になっていなければ、その有能さからしてそのまま北アフリカ戦線で活躍し、後に連合軍がノルマンディー上陸作戦を行った際には、史実でモントゴメリーが指揮していた第21軍集団を指揮することになったでしょう。そしてそうであったとしたら、オコーナーはモントゴメリーと異なりアメリカ軍とより協調したでしょうから、戦いはもっと連合軍にとって楽なものになったのではないでしょうか。


 一方ニームはイタリアの捕虜収容所で過ごしながら、脱走と回想録の起草を試みます(その他の時間は裁縫をしていたそうです)。1943年10月にイギリス側の戦線に到着したニームは再度指揮官としての復帰を熱望しましたが、何の仕事も与えられず、憤慨して暮らしたそうです(戦後にはケント州の州知事になったりしたものの、その回想録には軍事的な話はほとんど書かれていないとか)。


 オコーナーらが捕虜となった翌日の4月8日には、第2機甲師団長ガンビア=パリーも天幕の中で捕虜となってしまいます。東に向かって退却しようとした彼は、師団司令部の将校のほとんどと共に、降伏を余儀なくされたのです。



<2022/12/23追記>

 たまたま、ロンメルのあの有名なゴーグルは、ガンビア=パリーのものだったのをもらったのだ、というネット記事を見つけました。

Revealed: Desert Fox Erwin Rommel was given his legendary goggles by a British PoW in return for retrieving a stolen hat


Bundesarchiv Bild 101I-785-0287-08, Rommel with his aides Recolored

 ↑有名なゴーグルを付けたロンメル(Wikipediaから)


 この記事によるとこうなっています。

 第2機甲師団長のマイケル・ガンビア=パリー少将は、1941年、リビアのメキリでロンメルに、2000人の部下達と共に捕虜となった。
 ロンメルはガンビア=パリーを食事に招待し、友好を深めた。ガンビア=パリーの孫娘ライザ・ドノヒュー(67)によると、二人は美味しいワインを飲み、「素晴らしい葉巻」を吸ったという。
 この食事中にガンビア=パリーは、ドイツ兵に帽子を取られたと愚痴をこぼした。怒ったロンメルは、その帽子をガンビア=パリーに返却させた。
 その後、ロンメルがガンビア=パリーの将校用の車の中で彼のゴーグルを見つけた時、ロンメルはガンビア=パリーにそれを貰えないかと頼み、ガンビア=パリーも同意した。



 この件は、ロンメルの副官であったハインツ・シュミットによるとこうなっています。

 ロンメルは捕虜のイギリス軍将軍との短い会見を終わって、興味深げに車輌を視察した。イギリス軍の設備を取りはずした車を眺めていたが、取りちらかした廃物にまじって、大きな色眼鏡のあるのに目をとめた。気に入ったらしい。にこっと笑って、
「戦利品だ - 差し支えないね。貰うよ、将軍だけども」
 彼は金の打紐で縁取りした軍帽のひさしの上に眼鏡をかけた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P41


 「捕虜のイギリス軍将軍」というのはガンビア=パリーだったのでしょうね。ハインツ・シュミットの文だと、「貰うよ」というのは誰に言ったか不明で、部下達にでも言ったかのようですが、そこにガンビア=パリーはまだいて、そしてガンビア=パリーはロンメルに対して同意したのかもです。

<追記ここまで>



 この時期の第2機甲師団の失敗から、ガンビア=パリーに対しては「緊迫感と状況把握を欠き、予期せぬことに対処できない時代遅れの鈍重な将軍」であった、というような非難が浴びせられました。しかし歴史家のデイヴィッド・フレンチは、このような非難は「砂漠でのイギリスの機甲部隊の性能の低さを、機甲戦術をほとんど知らない将校のせいにしたもの」であり、それを無視してガンビア=パリーのみを非難の的にすることは難しい、と述べています。

 ガンビア=パリーは他の多くの捕虜と一緒にフィレンツェ近郊の捕虜収容所に送られました。彼は熱心な音楽家であり、日曜日の教会の礼拝では合唱隊を指導しました。スケッチの才能もあり、ある人は「第一級の贋作者として、間違いなく裏社会で安定した収入を得ることができるだろう。」と評しました。脱走しようとする者達のためには地図を写し、また非常に下手なポーカーをしていたそうです。1943年秋に解放された彼はしばらくヴァチカンに避難し、1944年夏にイギリスに戻って、同年に退役しました。




フィリップ・ニームがキレナイカ地域守備軍の司令官となる(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)



 今回は、ベダ・フォムの戦いの後、オコーナーに代わってキレナイカ地方を守備することになったフィリップ・ニームと、新たにこの地方に送られてきた第2機甲師団(ガンビア=パリー)についてです。


 ウェーヴェルは東アフリカ戦線の他に、イラクでのドイツの活動やシリアでのヴィシーフランス軍に対する計画も抱え始めているところに、マルタ島からトルコまでの地域、特にギリシャへの派兵に兵力の大部分を送るようにロンドンから指示され、それらに手一杯になっていました。

 新たに設置されていたキレナイカ地域守備軍の司令官であったウィルソンは、ギリシャ戦線の指揮を執るためにそちらへ向かうことになりました。ウィルソンが選ばれたのは、ギリシャの人々にイギリスが本気で支援をしたいと考えていることを納得させるために、地中海戦域で良く知られていた有能な将軍を遣わす必要があり、ウェーヴェルを除けば彼がその条件に最もあてはまっていたからでした。

 ただウィルソンはこの時、キレナイカの防備についてまったく誤った印象を与えたまま出発してしまいました。ウィルソンはベンガジの南に走っている斜面について、リビア・エジプト国境のハルファヤ峠周辺にあるような断崖絶壁であり、簡単に守れるいくつかの地点を除いては通れないようなものであると報告していたのです。だとすればわずかな兵力で守備できるということになるわけですが、この情報はまったく誤っており、後にロンメルの第1次攻勢の時にこの情報に基づいて配備されていた英連邦軍の守備が崩壊する一因となったのでした。

 オコーナーはベダ・フォムの戦いの最後の数日間、胃の病気に悩まされていたため、休息のためにパレスチナに戻りました(そこには彼の妻もいました)。その後オコーナーは、ウィルソンの後任としてエジプト駐留イギリス軍司令官に任命されることになりましたが、非常にがっかりしたことに、彼のよく訓練された経験豊かなスタッフ組織はすでに解体され、各兵科の担当参謀もギリシャやロードス島へと割り振られていました。ドーマン=スミスはパレスチナに戻っていました。

 オコーナーが司令官を務めていた第13軍団は解体され、第1オーストラリア軍団司令部がその役割と引き継ぐことになりましたが、この司令部もすぐにギリシャへと配置転換されることになりました。そのため防衛的なキレナイカ地域守備軍がリビアにおける英連邦軍支配地域を守備することになり、その司令官にはギリシャへ向かうウィルソンに代わってフィリップ・ニームが任命されました。


 ↓OCS『DAK-II』の第13軍団司令部と、第1オーストラリア軍団司令部(キレナイカ地域守備軍の司令部はありません)。

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 ↑フィリップ・ニーム(Wikipediaから)


 ニームは第一次世界大戦中はフランスで従軍してヴィクトリア十字章(イギリスの軍人に授与される最高の勲功章)を受勲、終戦時には王立戦車兵団で名誉昇進少佐の地位にありました。

 1924年にはパリオリンピックでイギリスの射撃競技チーム4人の内の一人として金メダルを受章し、ヴィクトリア十字章の受勲者の中で唯一の金メダル保持者となりました。

 1939年から40年にかけてイギリス大陸派遣軍の副参謀長、1940年に北アフリカで第4インド歩兵師団長を短期務めた後、同年パレスチナ・トランスヨルダン・キプロス駐留イギリス軍の司令官となります。

 そして1941年2月、新たに設置されていたキレナイカ地域守備軍の司令官として赴任したわけです。ウェーヴェルは後にこう書いています。
「私は彼のことを良く知らなかったが、彼は第4インド歩兵師団を指揮したことがあり、ジョージ・ギファードの後任としてパレスチナに来ていた。彼は工兵科で、参謀大学の教官であり、戦略に関する本の著者でもあったので、私は彼を熟練した教養ある軍人として受け入れた。彼はこの頃ディック・オコーナーの大親友であり、私は彼の判断に大いに敬意を表した。」

 しかし、どんなに優秀な軍人であっても、充分な戦力なしに、占領したばかりの地域を守備することはできなかったでしょう。彼の持つ兵力は帝国参謀総長のディルをして「鼻血も出ないほどのスッカラカン」と言わしめるようなものになっていきます。

 キレナイカでは1941年1月末から順次、部隊の撤退が開始されており、第2ニュージーランド歩兵師団と第6オーストラリア歩兵師団がギリシャに送られてしまっていました。また、イタリア軍追撃の主力を担った第7機甲師団も休養と再編成に入り、その兵士達は様々な任務でエジプト中に散らばって(経験豊富な兵士はいなくなって)しまっていたのです。

 ニームの元でキレナイカの防衛任務に就いたのは第9オーストラリア歩兵師団と、第2機甲師団の第3機甲旅団のみでした(同師団はもともと第1機甲旅団も持っていたのですが、それはギリシャへと派遣されてしまっていました)。しかも、この第3機甲旅団の戦車の半分は修理工場へ送られ、残りも装軌とエンジンの規定走行距離を大幅に超えていたため、一定期間毎の故障が避けられませんでした。機甲旅団の一部は捕獲、修理したイタリア軍戦車を使用しており、無線機がなく連携戦術が不可能だったものの、少なくともそのイタリア軍戦車は動き続けていたので、戦車兵達は比較的満足していたとか。

 両師団とも実戦経験はまだ一度もなく、装備、訓練、輸送手段、予備部品等において非常に不足しており、そして両師団の間には直接の通信手段もなかったのです。


 ↓OCS『DAK-II』の第9オーストラリア歩兵師団と第2機甲師団

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【OCS『DAK-II』のロンメルの第1次攻勢シナリオでは、第9オーストラリア歩兵師団は訓練完了にはほど遠く、ずっとアクションレーティングが-1された状態となります(しかし、後にトブルク戦で頑強に戦ったことを反映して、AR5などを擁しています)。第2機甲師団は最初の1ターン(3月31日ターン)だけはARが-1された状態ですが、第2ターンからは訓練完了でARが額面値になります。が、これは下記の歴史書の記述からすると違和感があり、ハウスルールを考えたりしました。
OCS『DAK-II』7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のサマリーと改造ハウスルール案 (2021/12/02)
 また、OCS『DAK-II』の第2機甲師団が第3機甲旅団でなくて第1機甲旅団を擁していることについてはこちら。
OCSユニットで見るイギリス軍の第2機甲師団(『DAK-II』) (2021/03/02)



 防衛用に送られてきた第2機甲師団の司令官人事にも不運がありました。イギリスを出発した時の師団長はJ.C.ティリー少将であったのですが、1月に急死し、急遽M.D.ガンビア=パリー少将が引き継いでいたのです。ガンビア=パリーはこの不完全な師団を、(控えめに言っても)非現実的な防衛システムに組み込まねばなりませんでした。


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 ↑一番左がガンビア=パリー(Wikipediaから:1941年1月のギリシャと連合軍の会議。真ん中はギリシャ王ゲオルギオス2世)。


 ウェーヴェルは多忙の中、時間を割いてキレナイカへと視察に向かいましたが、そこで彼はニームに不安を感じます。彼は後にこう書いています。
ニームは悲観論者で、私が持っていないようなあらゆる種類の増援を要求してきた。しかも彼の戦術的配置はまったく正気の沙汰ではなかった。彼はモースヘッドの第9オーストラリア歩兵師団の内の1個旅団をアゲイラとベンガジの間の何もない場所に配置していたが、両翼がむき出しな上に輸送手段もなく、全く役に立たないものであり、アゲイラを突破されたら装甲車の餌食になってしまうのは明らかだった。私はこの部隊を、少なくとも防衛可能な位置にあるベンガジの東の高台に退避させるよう命じた。私はニームに、先遣隊が退避した場合、ベンガジの直接防衛を試みるのではなく、機甲旅団をオーストラリア軍の左翼に引き戻すようにと伝えた。

 また、第2機甲師団の司令部の大きさと扱いにくさにも愕然とした。ガンビア=パリーはたった1個旅団しか扱っていないにもかかわらず、戦場での経験不足を埋めるために司令部のすべてを前線に出していた。攻撃されなければいいのだが、攻撃されると危険な足かせになる。

 私はこの訪問から不安と憂鬱を抱えて帰ってきたが、どうすることもできなかった。ギリシャへの動きが本格化しており、私にはもう何の手持ちもなかったのだ。しかし、悪い予感はしていたし、ニームへの信頼も揺らいでいた。

 ウェーヴェルはニームに対してだけでなく、第2機甲師団長ガンビア=パリーにも不安を抱きましたが、選択肢は限られていましたし、ガンビア=パリーは多くの上級士官から推薦されてもいました。

 ウェーヴェルにとって最も大きな危惧は、アル・アゲイラ周辺にまで進出してきていたドイツ軍でした。攻撃が迫っていることが感じられたのです。ウェーヴェルは、東アフリカとギリシャへの派兵のために、キレナイカで大きなリスクを犯しすぎたかもしれないと考え始めました。そこはトブルクから300マイルもの距離がありましたが、一方枢軸軍にとってもトリポリから400マイルもの距離で、補給物資の輸送においては大きな困難があるはずでした。

 ウェーヴェルはニームにこのように指令しました。
「敵にとっては、補給物資と補給路の問題が最も困難で不安なものであるはずだから、それをさらに悪化させるために全力を尽くすのだ。敵が前線近くに作る補給集積所は、その攻撃意図を最も確実に示すものであり、可能な限り航空活動によって攻撃すべきである。同様に、敵が前進してくる時には、敵の補給路を攻撃することが、敵を停止させるための最良の方法の一つだろう。時間は切迫しつつあり、貴官は必要なすべての移動と作業を遅滞なく行わなければならない。」
 ただしこの指令の最後は、このような言葉で締めくくられていました。
「しかし、少なくともあと1ヶ月は彼(ロンメル)が大きな努力をすることはできないと思う。」

 ニームはこの指示を実行しようと努力しました。とにかくまず、自分自身の補給の困難さが常に頭にあり、また友人のオコーナーが大進撃の際に前線の補給集積所を重要視していたことを知っていたので、ともかく使用可能な輸送手段を使って補給集積所、特に前線近くのバルチェ(Barce)、ベンガジ、エル・マグラン(El Magrun:ベンガジとベダ・フォムの間にある)のものを増強しました。一方、部隊の移動に関しては、戦場に残っていた膨大な量のイタリア軍の装備や物資を回収することが先で、そのために遅れていました。


 ↓OCS『DAK-II』のマップ(前回のエントリのマップに、エル・マグランのみを青い□で追加しました)。

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 カイロに戻ったウェーヴェルは、新たな敵司令官であるロンメル将軍の行動について情報を収集していました。ロンメル将軍についての報告はどれもが賞賛に溢れていましたが、イギリスから次々に届く詳細な情報を見る限り、ニームとその部隊にはまだ時間があるとウェーヴェルは判断していたのです。 

 ドイツ陸軍のエニグマはまだ多くが解読されていませんでしたが、ドイツ空軍のエニグマは解読されており、それを通じてイギリスの情報部はロンメルの戦力と展開、それにその後の増援について、かなりの全体像を構築することができていました。この情報源により、3月2日にウェーヴェルと彼の軍事情報部長はロンメルが夏まで攻撃に出ることはできないだろうと評価し、3月27日の時点でも、ロンメルは5月半ばまで攻撃に出られないと考えていたのです(ヒトラーがロンメルに命じていたのは、4月20日までにキレナイカを再征服するための計画を準備すること、そして5月頃の第15装甲師団の到着まではアジェダビアを越えて新軍しないということでした)。正統派の算定に基づけば、彼らの考えはかなり正しいものでした。が、残念ながらロンメルは正統派の将軍ではなかったのです。

 前線の主任情報将校であったジョン・シアラー准将からはウェーヴェルの元に、経験の浅いニームの分散した部隊が、敵司令官の大胆な行動によってすでに大混乱しているという情報がもたらされてもいました。しかしウェーヴェルにシアラーに対して「君は過度に悲観的になっている。君の証拠は決定的なものではない」と返答します。実際にはウェーヴェルの方が過度に楽観的であったのですが、ウェーヴェルは良心的な将校が、自分でも若い頃に時折作成してしまっていた様な「最悪の状況」報告を悲観的に提示したに過ぎないのだろうと考えたのです。



 

ベダ・フォムの戦いの前後の経緯(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)



 今回は、ベダ・フォムの戦いに至る流れと、その後の進撃を断念するまでです(指揮官人物伝ですので、指揮官に焦点を当てており、戦闘そのものに関しては最低限の記述です)。


 ↓今回出てくる地名を、OCS『DAK-II』のマップから。

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 1月21日、帝国参謀本部はウェーヴェルに対して、ベンガジを占領することが重要である旨を伝えました。オコーナーはロンドンの見方が再びギリシャに傾いてしまう前に、イタリア軍を打ち破り、大勝利を得ようと決心しました。

 イタリア軍は海岸沿いのバルボ街道*を撤退する部隊と、内陸のエル・メキリ付近のバビーニ戦車集団とに分かれていました。オコーナーは復帰した第7機甲師団長のクレイに対して1月25日、「バビーニ戦車集団は北へと撤退するであろうから、これを包囲し撃滅するように」と指示します。
【*バルボ街道……1930年代にイタリアによって作られた海岸道路で、リビア総督であったイータロ・バルボの名前を取って命名されていました。OCS『DAK-II』上では白い道路(一級道路)で表されています。】

 ところが包囲は失敗し、バビーニ戦車集団は北西方向へと逃げ去ってしまいました。この失敗に関して第7機甲師団長クレイは、地図の不備、メキリから北に延びる涸れ谷を装甲車で渡るのが難しかったこと、燃料が足りなかったこと、そして最後に、機甲部隊が夜間に行軍したがらなかったなどの言い訳を挙げました。

 これはオコーナーにとって初めての大失敗であり、彼は大きなショックを受け、激怒しました。しかし状況を再点検してみれば、むしろチャンスであるとも言えました。今やイタリア軍はキレナイカ地方の北側の山岳地帯にのみ存在しており、内陸の砂漠地帯にはまったくいなかったのです。もしこの砂漠地帯を突っ切って西進すれば、海岸沿いに撤退するイタリア軍を袋の鼠にしてしまえるかもしれません。

 ところがそのような西進をすぐに開始することはできませんでした。広大な砂漠を突っ切るのは、イタリア軍の戦車集団を相手にするよりも難事だと見込まれました。第7機甲師団は巡航戦車50輌と軽戦車95輌にまで減っていましたし、砂漠の中を長距離走るための充分な燃料も、また弾薬もありませんでした。

 弾薬の補充と、エジプトに到着していた第2機甲師団の2個連隊の到着を座り込んでただじっと待つ他なく、オコーナーにとってはジリジリする時間が続きました。こうしている間にも、イタリア軍はキレナイカから撤退を完了させてしまうかもしれませんでしたし、あるいはウェーヴェルがオコーナーに停止を命令し、部隊をギリシャへと送ってしまうかもしれません。

 トラックがトブルクからエル・メキリまで燃料、食料、ガソリンを輸送している間、オコーナーはイタリア軍がまだ保持していた海岸沿いのデルナへとオーストラリア軍部隊を送りこみ、主攻撃がそちらの方向であるとイタリア軍に思い込ませるようにしました。

 1月30日にデルナは陥落し、オーストラリア軍部隊はジョバンニ・ベルタへと前進します。しかし砂漠を突っ切る行軍のために必要な物資の準備には、まだ10日はかかると思われました。

 しかし、残り時間は急速に失われつつありました。グラツィアーニ元帥は2月1日、キレナイカ地方に残っているイタリア軍を撤退させ、トリポリタニア防衛のためシルテ(トリポリとエル・アゲイラの中間にある村)周辺に軍を集結させることを決定します。

 2月2日、英連邦軍の航空偵察はこの撤退の動きを察知しました。ところがオコーナーの補給集積所は、まだ半分しか集積されていませんでした。

 オコーナーの司令部はこの時期、ボンバ(Bomba:デルナの南東約60kmにある海岸沿いの村)に置かれており、1月29日にドーマン=スミスが司令部に合流していました。彼はウェーヴェルから、この戦役を研究し、その最後まで立ち合うようにという指令を受けてきていたのです。

 オコーナーは参謀長のハーディングやドーマン=スミスらと共にどうすべきかを議論していたものの、状況は良いとは言えませんでした。増援の機甲部隊はまだ到着しておらず、今ある戦車は機械的に動かなくなってしまう寸前でした。そしてもし進軍するならば持てる最高速度で150マイル(約241km)を行軍しなければならず、その経路は非常な悪路で満足な地図もなかったのです。

 しかしもしこの行軍を成し遂げることができれば、作戦上非常に有利になり、今キレナイカにいるイタリア軍全体を絶望的状況に追い込むことができるでしょう。燃料は、部隊の各戦車が満タンの燃料タンクで出発するのにちょうどな分量があり、食料と弾薬もそれぞれに自分達が運べる分だけがありました。後から追いかける段列トラックは、2日分の食料、水、ガソリン、それに戦闘2回分の弾薬を運ぶことができると見込まれました。しかしそれで全部でした。これ以上の物資も輸送手段もなかったのです。

 オコーナーは最終的に、すべてを危険にさらしたとしても、この試みに賭けるという決断をしました。オコーナーは作戦計画書をドーマン=スミスに持たせ、飛行機でカイロに向かわせてウェーヴェルの許可を求めることにしました。オコーナーはドーマン=スミスに頼みました。

「イタリア軍をメキリから逃がしてしまったことをどれだけ残念に思っているか、最高司令官に伝えてくれ。私はこのことに気が狂ってしまいそうなほどなんだと。」

 この伝言を聞いたウェーヴェルはドーマン=スミスに答えました。

「オコーナー将軍に、苛立つなと伝えてくれ。このような不運は、戦争というまったくいやな仕事には付きものなのだから。」

 ドーマン=スミスは次の日、ウェーヴェルの許可を携えてボンバの司令部へと戻りました。第7機甲師団長のクレイも司令部に来ていましたが、元気がなく、喉を痛めていました。

 クレイはこの時のことをこう書いています。
「物資が運ばれてくる10日間の間は、どうやら小康状態が続いていた。私と、何人かの部下達はカイロに飛んで数日は休養を取るべきだろうということになっていた。私達はボンバにあったオコーナー将軍の司令部で一晩を過ごした。翌朝の朝食後、オコーナーが私に言った。イタリア軍がキレナイカから退却中であるようなので、それを捕まえなければならない、と。私達はその場で話し合い、その後私は第7機甲師団司令部へ戻ってこの作戦の指揮を執ることになった。」
(ちなみに当時、第13軍団司令部ではイタリア軍の補給集積所から頂戴したパルメザンチーズや肉の缶詰、ワインなどを食事にしていたようです)

 イタリア軍の退路を塞ぐための先遣部隊として、急遽「クーム部隊」というものが編成されることになりました。指揮官はクーム中佐で、第11ユサール連隊を中核とした約2,000名の人員より成っていました。クーム部隊は2月3日早朝に出発します。

 2月4日の夜明けに、クーム部隊を追いかけて巡航戦車50輌と軽戦車80輌の第7機甲師団がエル・メキリからソルーチ(ベンガジの南約55km)に向かって出発しました。予想していたようにものすごい悪路でしたが、彼らは大いなる気概を持って進みました。クレイは後に書いています。
「私達はこの未知の土地を、声を張り上げつつ横断した。師団が砂漠の上をどんどん進んでいく姿はまったく興奮もので、刺激的な光景だった。砂漠の一部は非常に荒れた地形で、ゆっくりとしか進めなかった。そこで私は戦車よりも速く進める装輪装甲車を先行させることにした。この部隊を海岸道路に出して、師団の主力が活動を開始するまで、撤退する敵部隊を引き留めることになっていた。」

 4日の夕方、オコーナーはティミミ(ボンバの南約15km)で、飛んできたウェーヴェルと会って状況を説見し、ウェーヴェルからも「思い切ってベンガジの南でイタリア軍を遮断する」という決定が下されます。その後オコーナーはドーマン=スミスを連れて、自分の将官用車で第7機甲師団を追いかけました。オコーナーは第7機甲師団が最大限の力で進軍できるようにするために、自ら第7機甲師団を追いかけることに決めたのです。彼らはすぐに第13軍団司令部(同じく移動中でした)を追い越した後、ひどい悪路によって車が跳ねたり転がったりしながら進みました。

 しかし、この追跡中にオコーナーが感じたのは、自分が正しい決断をしたのか疑わせるものでした。オコーナーはめったにないことに、内なる不安を声に出して、ドーマン=スミスにこう言ったのです。
「何てこった。うまくいくんだろうか」

 第7機甲師団は最初の50マイル(約80km)を過ぎると道がやや良くなりましたが、砂埃がひどく、一部の部隊の行方が分からなくなったものの数時間後に再合流できました。4日午後3時、第11ユサール連隊がムススに到着しましたが、海岸道路まではまだ60マイル(約96km)ありました。夕方には第13軍団参謀長のハーディングがムススに着いていた第7機甲師団司令部に到着しました。ハーディングとクレイは、イタリア軍の退却が非常に速くなり始めているという報告について話し合い、オコーナーの指令に従って、自分達がソルーチに到達する前にイタリア軍がそこを通過してしまった場合に備えて、第2部隊を南西のアンテラットを経由して海岸道路に向かわせることにしました。

 4日の午後7時、クーム大佐に率いられた第2部隊が装甲車による前衛隊と共にムススからアンテラットに向けて出発しました。オコーナーも早朝、護衛用の装甲車を含めて3輌の車輌で第7機甲師団司令部を目指して出発し、無線で指示を出し続けていました。ところが途中で2輌が故障し、残った1輌のみで、部隊との連絡手段も失って不安が増大する静寂の中、走り続けることになってしまいました。その日の夕方、オコーナーの車は第7機甲師団の司令部に到着し、疲れて身体が固まっていたオコーナーは、クレイからの知らせを聞くために車を降りました。

 クレイの報告は嬉しいものでした。クーム大佐の部隊は5日の午前10時34分にアンテラットに入り、さらにベダ・フォムとシディ・サレハに向かって進軍。正午までには海岸道路に到達し、封鎖しました。そして30分後、北からイタリア軍のトラックの最初の隊列が現れ、ベダ・フォムの戦いが始まったのです。


【ベダ・フォムの戦いについては、昔作ったウェブページ「ベダ・フォムの戦い」を見ていただければ(ちゃんとしたものではありませんが)】


 第4機甲旅団は悪路に悩まされながらも午後4時30分にはアンテラットに到着しており、この頃クームが、海岸道路沿いにイタリア軍の大軍が押し寄せてきたことを無線で伝えました。クレイは即座に師団の一部にベダ・フォムの側面から攻撃するように、一部は北のソルーチでイタリア軍を遮断するように命じました。

 オコーナーはこう回想しています。
「海岸に到達せよと第7機甲師団に命じていたが、それは見事に達成された。場所は私が当初意図していたよりも南でだったが、それは彼ら(クレイとハーディング)の言っていた通りだった。」

 ベダ・フォムでの戦いは撤退中のイタリア軍部隊が次から次へと戦場へと入ってきて3日間続き、英連邦軍の兵力はほんのわずかに過ぎずいつ突破されてしまうかもしれませんでした。戦場へ増援を一刻も早く送りこむためにオコーナーは恐ろしいほど精力的に車で駆けまわります。ドーマン=スミスはこう書いています。
「オコーナーのエネルギーは凄まじく、ロンメルのそれをも凌駕していた。」


 2月7日の朝、オコーナーの尽力により第4機甲旅団やオーストラリア軍部隊が戦場に駆けつけ、いよいよイタリア軍は進退窮まりました。この日の朝9時までに、戦いは終わりました。オコーナーは稀に見る軍事的偉業を成し遂げたのです。

 オコーナーとドーマン=スミスはこの日、冷たいソーセージで朝食をとった後、車で第7機甲師団司令部へ向かいました。そして、イタリア軍降伏に関する詳細を確認した後、オコーナーはドーマン=スミスに向き直って言いました。
「敵を一人も逃がさなかったのだから、これは完全な勝利と言ってもいいだろうね。アーチー(ウェーヴェル将軍のこと)にメッセージを送った方がいいな。何と伝えよう?」

 ドーマン=スミスは、ウェーヴェルが好きな狩猟に喩えると喜ぶだろうと提案しました。そこで打たれたのが、「キツネが野原で仕留められました……」で始まる電報であり、ムッソリーニにもそのことを知らせるため、無電でカイロへと送られたのでした。

 この後ドーマン=スミスはオコーナーに、「こんなにも完全な成功を達成できる指揮官になるには、どうしたらいいんだい?」と聞きました。

 オコーナーはしばらく黙って考えた後、答えました。
「深刻な敗北を被り、長い撤退をした後の状況を回復させることができた後でなければ、完全に成功した指揮官とは見なせないだろうと、私は思う。」

 ドーマン=スミスはこの18ヵ月後、ガザラの戦いで8万人の兵力を失って260マイル(約418km)を後退していた第8軍の残骸の指揮を引き継ぐため、オーキンレック将軍に同行していました。その途中、オコーナーの司令部があったマアテン・バグシュに向かった時に、この控えめで賢慮に満ちた言葉を思い出すことになります。

 ベダ・フォムの戦勝で、2万人の捕虜、120輌の中戦車、216門の大砲、1500輌の車輌が捕獲されました。

 この作戦の終盤、オーストラリア軍の上級将校がオコーナーの幕僚の一人に言ったそうです。
「君達の将軍のことを我々が何と呼んでいるか知ってるかい? ザ・リトル・テリアだよ。彼は決して獲物を逃がさないからね」【テリア犬は小さいながら勇敢で勝気、活発で集中力があり頑固な性格の猟犬種。オコーナーの身長が低いことと、小型犬をかけている。】

 第7機甲師団長のクレイもまたオコーナーのことをテリア犬に喩え、イタリア軍を追うオコーナーを「ネズミを追うテリアのように熱心だ」と評していました。



 大勝利に興奮した英連邦軍の兵士達は、盛大な祝賀会を開いていました。オコーナーはすでに次の前進のことを考えていましたが、とりあえずまずは現在の状況に対する手当てが必要でした。

 まずオコーナーは、オーストラリア軍部隊が見つけられる限りのものを略奪してしまう可能性を憂慮し、第7機甲師団の支援グループの指揮官であったゴットに、彼らの北からの進撃をストップさせるために進発するよう命じます。また、大量の捕虜の食料や福祉の手配も行いました。

 その後、オコーナーはソルーチへ向かいました。そこにはイタリア軍の上級将校達が2つの大きな別荘に監禁されており、自由フランス軍部隊が警備していたのです。オコーナーは落胆しているイタリア軍兵士達の群れを押しのけて、イタリア語で「最も位の高い将校を呼んでくれ」と頼みました。

 出てきたイタリア軍将校は完全な正装を着ており、拍車まで付いたブーツを履いていたのに対し、オコーナーはいつも作戦中に着ている作業用衣服の生地のズボンに、革製の袖なし上着、格子柄のスカーフ、それに将校用の赤い帯のボロボロの帽子という格好でした。オコーナーはそのイタリアの将軍に向かってこう言いました。

「ご不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。きちんとした手配をする時間がなかったのです。」

 そのイタリア軍将校は丁寧な態度で答えました。
「ありがとうございます。あなたが急いで来てくれたのは分かっておりますから。」

 オコーナーはベダ・フォムの勝利を元に、トリポリタニアへのさらなる前進を実現するため、ウェーヴェルとロンドンの承認を得ようと考えました。

 オコーナーの構想はこうでした。まずはただちにシルテを奪取する。2月20日には、新たに到着していた第2機甲師団を含む中東戦域軍のほぼ全力でもってトリポリへと進撃し、同時に1個歩兵旅団を海岸からトリポリへと上陸させる。オコーナーは後に次のように述べています。
「私の考えでは、この作戦は可能だっただけでなく、陸海空の三軍のすべてが最大限の支援を行い、他の戦線への関与に振りまわされることがなければ、成功する可能性は充分にあった。」

 この作戦の許可を得るためまず、オコーナーはエリック・ドーマン=スミスをウィルソン将軍のところに送ることにしました。ウィルソンは新たに設置されたキレナイカ地域守備軍の司令官に就任したところだったのです。ドーマン=スミスは2月9日にバルチェ(Barce:ベンガジの北東約100kmの山地の中の村)でウィルソンを見つけました。ウィルソンは、さらなる前進の許可をウェーヴェルから得ることに賛成しました。彼らは電信文を考えましたが、この町には電信機がありませんでした。そこでドーマン=スミスはトブルクに向かい、そこでウィルソンの電信をウェーヴェル宛に送ってから2月11日午後にトブルクを出発してカイロに向かい、2月12日の午前4時に到着しました。午前10時に、彼は中東戦域軍司令官の地図室に入りました。驚いたことに、部屋から北アフリカ戦域の砂漠の地図はすべて消えており、ギリシャの地図に置き換わっていました。ウェーヴェルは新しい地図を指し示し、皮肉っぽく言いました。

「見ての通りだよ、エリック。春のキャンペーンを始めることになったんだ。」


 2月13日、チャーチルはトリポリへの進撃は許可しないと決定しました。オコーナーは自分達のキャンペーンが終了したことを知ったのです。


 2月12日にトリポリに到着したロンメルは、オコーナーがその構想通りに進撃していたら、それは英連邦軍の勝利に終わったであろうと書いています。
「2月8日、イギリス軍の先遣部隊がエル・アゲイラを占領した時には、グラツィアーニの軍は事実上消滅していた。残っていたのは、わずかばかりの輸送トラック段列と、丸腰で完全に大敗走中の兵士の大群に過ぎなかったのだ。ウェーヴェルがトリポリタニアへの進撃を続けていたとしたら、名ばかりほどの抵抗もできなかっただろう。」


 直後にロンメルがそうしたように、許可を得ずに前進するという方法もあり得たかもしれません。しかしそれはオコーナーの性格と義務感の双方に反することでした。彼はこの問題についての深い感情を抑えながら、冷静に服従したのです。

 もっとも後世の歴史家には、この時オコーナーがトリポリに進撃したとしても、補給事情などから見て成功したかどうかは確実ではない、と見る人達もいます。逆に、成功の可能性は高かったと見る歴史家もおり、意見は分かれているようです。

 オコーナーは常に2個師団以下でのみ遂行した10週間の作戦で500マイル(約800km)以上の距離を前進し、10個師団からなるイタリア軍を撃破し、約13万人の捕虜、400輌の戦車、200門の大砲、2つの大きな要塞を奪ったのです。自軍の犠牲者は戦死者500人、負傷者1,373人、行方不明者55人のみでした。

 チャーチルは放送演説で西方砂漠部隊を称え、コンパス作戦について、「すぐれた作戦の典型として長く研究されることになるだろう」と述べました。アメリカ陸軍のある軍事専門誌も、「このキャンペーン全体が奇跡としかいいようがない」とコメントしています。

 イギリス本国では、ノルウェー戦の失敗とダンケルクの敗退の後、「この見事なリビアでの作戦ほどイギリス人の士気を高め、戦い続ける勇気を与えたものはなかった」と同時代の資料に記されているのも、決して誇張ではありませんでした。

 おそらくそれ以上に重要なのは、このキャンペーンの結果イギリスに対する信頼が回復し、1941年2月8日にアメリカ合衆国の下院でレンドリース法案が可決されたことでしょう。戦争全体の帰趨を左右するほどのインパクトを、この戦勝は与えたのでした。



 次は、いよいよロンメルの指揮するドイツ軍が登場します(が、あくまで英連邦軍の指揮官のみを追いかけていきます(^_^;)。


OCS『South Burma』(仮)の最初の5ターンを試しに作ってみる……

 1942年のビルマ戦を再現するOCS『South Burma』(仮)ですが、とりあえず最初の5ターン分だけを試しに作ってみようと思い、そのための作業にかかり始めました。

 これまでの流れは↓をどうぞ。

OCSの物置2 1942年のビルマ戦のOCSゲーム



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 史実では、1942年1月20日にタイ側のメソート(Mae sot)を出発して国境(画像の薄紫色の破線)を越えた日本軍第55師団と第17インド師団がいくらか戦闘を交えながら西進し、第4ターン(1月31日)にモールメン(Moulmein)を第55師団が占領。少し遅れて進発していた第33師団はその北側を北西に進み、第5ターン(2月4日)にパアン(Pa-an)を占領しました。

 OCS『Luzon: Race for Bataan』の時は全5ターンだったのですが、OCS『South Burma』(仮)はラングーン占領までの前半戦が全15ターン(フルマップ1枚)、マンダレー占領辺りまでの後半戦が全20ターン(フルマップ2枚)になると見込まれ、すでにしてだいぶ大変な感じがします(他のOCSゲームの方がはるかに大変ですが)。


 集積していた情報からその5ターン分の戦闘序列の構築も始めてみましたが、集積してある文字量はかなりあるのに、細かいことがいまいち良く分からなくて困った感じです(>_<)

 ユニット規模は、OCS『Burma II』に倣って、日本軍はとりあえずすべて大隊規模でいこうと。一方、『Burma II』の英連邦軍は旅団か大隊規模で、『South Burma』(仮)でどうすべきか迷うところです。旅団にしたらユニット数が少なすぎ、大隊にしたらユニット数が多すぎるような……。しかし、守る側のユニット数が少なすぎるとゲームが崩壊してしまう可能性を感じるので、大隊規模かなぁ……。

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』を読了しました

 たまたま古本屋で見つけて買ってみた『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』を読了しました。




 2011年にNHKで企画、放映されたものの書籍版のようですが、その放送については見たのか見てないのか、全然記憶にありません(^_^;

 しかしこの本は読んでみて、個人的に非常に良かったです!

 というのは、満州事変などを現地で勝手に起こした石原莞爾などを陸軍が処分せずむしろ昇進などをさせた件について、ここ1、2年で数冊読んできた(主に半藤一利氏関連の人々の)本では「よくなかった」「けしからん」とは言うものの、陸軍がなぜそうした(あるいはそうせざるを得なかった)のかについて詳しく分析したものを見た印象がなかったのですが、この『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』では、「満州事変を日本国民が賞賛し、議会も賛成する動きになり、陸軍としてはその状況で石原莞爾などを処分すれば、逆に陸軍組織が非難されることになりかねなく、陸軍は自らの組織を守るためにも彼らをむしろ昇進させざるを得なかった」というような、「原因」について書かれていたのです。

 もちろん、この分析がどれくらい合っているかについては異論も全然あり得るとは思いますけども、個人的にはかなり腑に落ちましたし、だとしたらかなりの度合い、「しょうがなかった」という気もしました。

 そもそも個人的に、多くの事象において「できるはずだったのに」「できて当然だったのに」と非難しまくる態度よりも、「できなかった原因は何だろうか?」と真摯に探っていくことが重要で、その結果「そういう原因であったならば、確かにその時そうなるのはしょうがなかった。しかしこれからそうならないために何ができるだろうか?」と前向きに考えていくというような方向性の方が好きだということもあると思います。


 しかもこの満州事変の件が、もし本当に「日本国民が賞賛したことが原因で、陸軍が石原莞爾などを処分できなかった」のだとすれば、日本の行く末を誤らせたのは陸軍というよりも日本国民ということにもなるでしょう(日本国民が満州事変を賞賛したことにも、しょうがなかった事情が全然あるのだとも思いますが)。

 うがった見方をすれば、「陸軍の人事がよくなかった、けしからん」とひたすら責める論者は、もしかしたらその原因は日本国民の方にあったのに、それに言及すれば日本国民(つまり自分自身、あるいは読者自身)を非難しなければならなくなるから、それに「わざと」触れないで陸軍だけを責めているのではないか……? と思ったり。

 まあそこまでではないとしても、「けしからん」ことを「けしからん」だけで終わらせて、そのさらに向こうの真因を探ろうとしない論者よりも、「けしからんのはけしからんのだけども、その裏にはこういう事情があった」ということを探ろうとする論者の方が個人的にははるかに好感が持てます。


 
 この『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』は、そこらへんの事情を探っていく方向性がすごいように思われ、それらを読んでいると個人的にはかなり「なるほど、それは当時としてはしょうがなかっただろうなぁ」という印象を持ちます(私は割とそういう考え方をする人間であることもあり)。また、かなりのページを割いて、日本や外国の複数の専門家にそれぞれの方の見方を語ってもらうようにもなっており、それぞれの人の見方が少し異なっていたりするのも興味深いです。

 外交に関しても、日本が国際連盟を脱退したのは、国際連盟の中に日本がいれば非難決議を受けてしまうような行為を陸軍がしている(あるいはしようとしている)のに対して、陸軍は止められないのだけども、逆転の発想で「先んじて国際連盟を脱退してしまえばそもそも非難決議を受けることはなくなるわけだから、脱退したらいいんじゃない? お、うまい解決方法だ!」と思ってしまったのが原因(かなりデフォルメしてます)で、松岡洋右などはそんな方法論に最後まで抵抗していたのだけど、命令されて実行せざるを得なくなり、脱退宣言して退席する時に「失敗した失敗した……」とつぶやき続けていたとかいう風に書いてあり、なんかこう、現在でも日本の当局が「わりと思いつき」で何かをやり、失敗しまくるというのと完全に似た感じな……。

 国際連盟の脱退は、「強硬派であった松岡洋右(ら)が勝手にやった」という風に巷間知られているのではないかと思う(私もそう思っていましたし、あるいはしかしそういえば松岡洋右自身はそういう考えではなかったというのは昔読んだことがあったかも……?)のですが、そういえば先日『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』で↓のような記述がありました。



 ここらへんに関して、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』では、当時の日本は相反する思惑が混在していたのだけども、実際に行われる外的事象だけを外国の人達が見れば「日本全体が熱狂的に戦争に向かっている」と思わざるを得なかった、と書いてありました。確かに、だとすれば権力的に最高であるはずの日本のエンペラーが「開戦に否定的である」わけはなく、現在の外国の研究者でさえ、昭和天皇は開戦肯定論者であったという風に考えるのも当然ということなのかもです。


 この本はシリーズ本として他に2冊あり、入手してあるので、読むのが楽しみです。




 あるいはまた、私は「論争的」なのが大好きなので、このNHKの企画番組や本を見て、「いや、この見方は偏っている。なぜなら……」というようなご意見がありましたら、それらも聞かせてもらえると大変嬉しいです(^^)

OCS『South Burma』(仮)&OCS『Arakan』(仮)のマップ割にTPCマップを重ねてみました

 承前。(→OCS『Burma』のデザイナーズノートを和訳してみました&5万分の1の詳細な地図がネット上に! (2022/02/02)


 OCS『South Burma』(仮)のマップ割に、TPCマップを重ねてみました。また、アキャブ方面の戦いについて再度いくらか読んでみていて、そちらも連結して(あるいは単独で)いくのはアリという気がしたので、試しにそちらもマップ割に付け加えてみました。


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 上の方の明るい色のマップがOCS『Burma II』のマップ(雲南拡張マップ込み)です。その左下の縦長の赤い□が、アキャブ方面のマップ割。その右側の3つ(下2つは半分くらい重なっています)のマップ割が、OCS『South Burma』(仮)のマップ割です(今後変更していく可能性も全然ありますが)。

 そういえばですが、第1次アキャブ作戦は英語では「First Arakan Campaign」だそうで、英語圏では「アキャブ」ではなく「アラカン(山脈)」という地名を使用するもののようなので、ゲーム名は「OCS『Arakan』(仮)」でしょうか(「アラカン」という語の指す地域の範囲は非常に広いのですが、第2次世界大戦の作戦で「アラカン」という語が指すのは、アキャブ戦などの狭い範囲だったようです)。


 アキャブ方面のOCSゲームについてですが、今まで何度も何度も「OCSゲームにできるか?」と思って(初心者向け)資料を見てみるたびに「いや、やっぱダメか……」と思う……ということを繰り返していました。

 ところが先日、『ビルマの名将 桜井省三』(42年には第33師団長としてビルマ戦を戦い、44年から第28軍(アキャブおよびラングーン方面)司令官)という本があるのを知りまして、注文して読み始めてみますと、第2次アキャブ戦以降の、アキャブ方面からラングーンへ(を越えて)の撤退などについて立体的に書いてありまして、「これは連結していけるのではないか」という気がしました。また、アキャブでの戦いは範囲が狭すぎるのではないかと思っていたのですが、第1次アキャブ戦は結構広いですし、第2次アキャブ戦も焦点となった戦いは狭いけども、ギリギリOCSの1ヘクス5マイルスケールでいけるし、その周りの作戦はある程度広い範囲で行われていたという印象を持ちました。




 この本を読んでいて、1942年のビルマ戦の初期において無補給で数週間作戦していた時期があるはずで、「その間、補給物資はどうしていたのだろう……?」という疑問があったのですが、それが少し判明しました。作戦地域が農耕地帯で、米や鶏肉などは現地調達できたそうです。ただ、砲弾や弾薬などは完全に手持ちのものしか使えないので、かなり節約して、極力戦闘せずに迂回機動だけでなんとかする……ということだったようです。靴や軍服はボロボロになり、乞食の集団のようだった(が士気は旺盛だった)とか……。

 桜井将軍は人格的にも作戦眼的にも非常に優れた人だったようで、そこらへんも大変興味のあるところです(もちろん、貶す意見もあればそれも知りたいです)。


 尤も、ビルマ戦についてまったく知識のないところからなので、これから色々読んでいかないとどうにもなりません……(>_<)

 ただ、ゲームを作る上では、とりあえずざっとで作ってみて、どんどん修正していく(どうせ修正なしなんてことは絶対あり得ない)ものだと思って、あまり気負わずに作業していった方がいいんだろうかなぁ……と思ったりしております。

コンパス作戦の実行と、トブルク陥落まで(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)



 今回は、コンパス作戦の実行と、その後のトブルク陥落までです(指揮官人物伝ですので、指揮官に焦点を当てており、戦闘そのものに関しては最低限の記述です)。


 ↓これらの動画も参考にしてもらったら。





(今回は、2つ目の動画の途中までを扱うことになります。この2つの動画に関しては、後で色々間違いが発覚していますので、動画「ボードウォーゲームで見るイタリア軍大敗走」の間違いが色々発覚……(>_<) (2021/09/04)もあわせてご覧下さい……(>_<))



 ↓OCS『DAK-II』の「コンパス作戦からのキャンペーン」の初期配置(赤い□がそれぞれ、右からメルサ・マトルー、シディ・バラーニ、ビル・エンバ、バルディア、トブルク)。

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 コンパス作戦の当日、「訓練演習第2号」に参加していると思っていた兵士達に、これが実際の作戦であることが知らされました。ウェーヴェルからの下記のようなメッセージが読み上げられると、兵士達は大興奮の渦に包まれました。特に第4インド歩兵師団の兵士達はこれまでの防御的な役割に飽き飽きしており、「敵に向かって飛び出していく」ような状態だったといいます。

 ↓OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団。

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「西方砂漠でのこの戦いの結果は、この戦争の決定的な出来事の一つとなるだろう。イタリア軍の決定的な敗北は、世界中の軍事情勢だけでなく、自由と文明の未来にも計り知れない影響を与えるだろう。戦争を何ヶ月も短縮することができるかもしれない。この決定的な勝利を勝ち取るためには、我を捨てて自分の全力を尽くすということが、すべての人の確固たる決意でなければならない。

 数以外のすべての面で、我々は敵より優れている。我々は、より高度な訓練を受け、射撃もより正確で、より優れた装備を持っている。何よりも、我々はより強靭な心と偉大な伝統を持ち、より価値のある大義のために戦っている。イタリアは不誠実にも、安易な勝利を期待して、大義もないままに参戦してきた。我々は、彼らに厳しい高くつく敗北を与えることによって、彼らの間違いを示そうではないか……。

 我々は中東で長い間、雌伏していた。今、我々が激しく攻撃する機会がやってきた。専制政治と利己的な権力欲の手先に対して、我々がより強い打撃を与えれば与えるほど、我々は早く世界に平和と自由を取り戻し、我々自身の自由で平和な家庭に戻ることができるだろう。」


 コンパス作戦の実行中、オコーナーは最初の情報が入るまでは司令部に残っていましたが、すぐに前線へと赴きます。司令部には作戦計画を把握している参謀長ジョン・ハーディングを残しており、管理上の問題の処理は問題なく行えました。この指揮方法はドイツの装甲部隊においては一般的なものでしたが、イギリス軍では革新的なもので、後にモントゴメリーもこの方法を採用しました。

 オコーナーの戦術司令部は事務用トラック1台だけの小さなもので、ビル・エンバ(Bir Enba)とシディ・バラーニを結ぶ小道の分岐点に置かれており、ここから彼は将校用の車に乗って戦場に赴き、戦いを迅速に展開させました。

 第7機甲師団長であったマイケル・クレイは舌の膿瘍で2日前に入院してしまっていたため、「ブラッド(Blood)」と渾名されたカウンター(Caunter)准将が指揮しており、オコーナーは彼や、あるいは第4インド歩兵師団長であった頼りになるベレスフォード=ピアースに直接会って話し合い、指示を出して回りました。

 作戦の成果は海岸沿いで少し躓いたのを除いて非常に大きく、イタリア軍の大軍が各地で次々に降伏していっていました。イタリア軍は自軍後方にイギリス軍の空挺部隊が降りてくるのだろうと恐れており、それがイタリア軍の士気を下げる要因にもなっていたのですが、実はウェーヴェルは空挺部隊を持っていませんでしたし、また空挺部隊を受け取る見込みもありませんでした。

 しかしウェーヴェルは敵を欺くことの重要性を常に意識していたため、敵に空挺部隊がいると思わせることができないかと考え、コンパス作戦の前に諜報部に対してその方法を考えさせていたのでした。諜報部はニセの空挺部隊の腕章、療養中と思われる空挺部隊の制服を着た兵士、ダミーのグライダー、訓練中の空挺隊員などの写真を撮影し、それが載った雑誌を作ってイタリア軍側にそれを信じさせたのです。その雑誌には、パラシュート空挺大隊1つとグライダー降下大隊2つからなる「第1特殊航空部隊」が海路で到着し、トランスヨルダン砂漠で訓練を行っていると書かれていました。

 12月10日の夜になると、オコーナーは当初計画していた「5日間の襲撃」が信じられないほど成功していることを実感します。この夜、ある大隊司令部は、降伏してきた敵兵の数があまりにも多かったため捕虜の数を数えることができず、「将校が5エーカー、その他の階級が200エーカーほどだ」と報告してきました(ちなみに東京ドームが11.5エーカーほどだそうです)。

 ところが作戦3日目(12月11日)の朝早くに起きると、ウィルソンを経由してウェーヴェルから驚愕の電報が届いていました。「第4インド歩兵師団とその輸送手段をエジプトでの作戦から外し、できるだけ早く東アフリカ戦線へ転戦させる」というのです。その代わりに、装備が完了したばかりの第6オーストラリア歩兵師団をオコーナーの指揮に入れる、と。


 ↓OCS『DAK-II』の第6オーストラリア歩兵師団。コンパス作戦への投入時には、ルール上訓練期間が終わっていないので、アクションレーティングは1減った状態になっています。第6オーストラリア師団については色々と面白い逸話があります→第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦域のオーストラリア軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/04/09)

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 というのは、ウェーヴェルはロンドンからの強い政治的圧力により、東アフリカ戦域でも勝利しなければならなかったのです。東アフリカ戦域の状況が悪くなりかけていることから見て、ウェーヴェルは事前にこの強力な第4インド歩兵師団を東アフリカに送らなければならないと心を決めていたようです。しかも、スエズを通過して東アフリカへ向かう輸送船団の日程から考えて48時間以内に第4インド歩兵師団を引き上げさせねばならず、それができなければ東アフリカ戦域での作戦を再構築しなければならなくなるという事態だったのでした。ウェーヴェル自身も困難な決断を強いられていたのです。

 オコーナーは後に書いています。
「それはとてつもない衝撃だった。……それまで何の前触れもなく、青天の霹靂だった。私はこの件について何の通告も受けていなかったので、そのような不測の事態に対応する計画も立てていなかった。このような決定的な時点でのこの撤退は、困難な状況をもたらすだろう……。」

 オコーナーは戦力と輸送力の半分を失うことを念頭に置きつつ、第4インド歩兵師団長ベレスフォード=ピアースに「一緒にとどめの一撃をやろう」と提案しました。

 当初「5日間の襲撃」と予定されていた作戦は、3日間で大勝利の内に幕を閉じました。たった3日間の戦闘でオコーナーはエジプトに対するイタリア軍の脅威を取り除き、2つのイタリアの軍団を撃破し、4人の将軍を含む3万8,000名の捕虜、73輌の戦車、27門の大砲を鹵獲しました。英連邦軍の死傷者、行方不明者の合計は624名でした。

 オコーナーにとってこの時点での問題は、第4インド歩兵師団を失うということもありましたが、それよりも、当初のウェーヴェルの意図通りにメルサ・マトルーへと撤退すべきかどうかでした。もちろん、それが最も安全な方法でした。5日間の戦闘のためだけに備蓄されていた補給集積所は一部の物資がすでに枯渇していたので、もし戦闘行動を続行するなら、物資を補充するためにトラックを使用するか、あるいは戦闘のために部隊を移動させるのにトラックを使用するかの間で問題が発生するのは明らかでした。それに、リビアに残っているイタリア軍の兵力は非常に大きく、これ以上前進するのは自軍の強固な基盤を放棄することであったのです。

 しかし一方で、イタリア軍側に態勢を立て直す時間を与えず、常に敗走状態に置いて防御態勢や戦線を形成する時間を与えないことは明らかに好ましいことでもありました。

 ウェーヴェルはウィルソン、オコーナーと会議を開き、イタリア軍でひしめく西方へ部隊を前進させることを決定しました。第7機甲師団はトブルクへ街道を進んで、イタリア兵でいっぱいになっているバルディアの後方連絡線を遮断し、バルディアが陥落した場合、オコーナーはトブルクへ向かう準備をすることになりました。

 その夜、オコーナーは部下の指揮官達に第4インド歩兵師団が東アフリカ戦線へと引き抜かれることを告げ、同時に新たな命令を出しました。残りの兵力で敵を追いかける、と。

 撤退させられる第4インド歩兵師団の兵士達は困惑と怒りの表情を浮かべましたし、同師団は予定よりも60マイル(約97km)も西へ進出してしまっており、イタリア軍捕虜も大量にいたので撤退の手配は複雑で困難でしたが、やむを得ませんでした。


 一方、チャーチルは送られてくる勝利の報告に最初は反応せず、むしろウェーヴェルが獲物に対して積極的に対処していないと不満を漏らしていました。イーデンは12月12日にこう記しています。

「ウィンストン【チャーチル】は早朝に電話をかけてきて、我々が敵を追いかけていないことに不満を漏らし、機会損失ということについて長々と語った。私が怒って反論すると、夜のうちに送られてきていたさらなる計画の詳細について、彼が見ていなかったということが分かった。だが、これは彼の現地指揮官に対する不信感の表れであり、その不信感が一向に解消されていないことに私は失望を禁じ得なかった。」

 さらなる計画について知ったチャーチルの態度は、これまでとは打って変わったものになりました。チャーチルはウェーヴェルに心のこもった電報を打ち、勝利を喜ぶ議会の様子と、国王からの電報が届くことを伝えたのです。

 しかし一方で、高揚したチャーチルは意気揚々と自分のアイデアをウェーヴェルに送り続け、その中で「君の考えの中で、追撃が第一の位置を占めるだろう」と示唆しました。また、電報の中には聖書から引用したこのようなものもありました。

「聖マタイ第7章7節。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

 これに対してウェーヴェルはこう返電しました。

「ヤコブの手紙第1章17節前半。【あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。】 我々には対空砲がもっと必要ですから、あなたがそれをすぐに与えてくれるでしょう。追加の対空砲を切に求めます。




 イタリア軍はバルディア要塞に撤退し、オコーナーはそれを追いかけるだけでなく、先回りしてトブルクへの道もブロックするようにしました。

 しかし補給物資を前線に送る輸送力は不足しており、それが困難なだけでなく、心配として付きまとってもいました。オコーナーは捕獲したイタリア軍のトラックや、パレスチナから回されてきた大型トラックを補給段列に編入しましたが、未舗装の海岸道を走ることの摩耗や、トラックが砂漠にはまって抜け出せなくなったりすることから、12月末までに、西方砂漠部隊の車両の40%が失われていました。

 しかも大量のイタリア軍兵士が捕虜となっており、その取り扱いについても大いに苦慮することになります。彼らにも食事と水を与え、警護を付けて護送しなければならなかったのです。

 ウェーヴェルは第4インド歩兵師団の代わりに、完全戦力に達していない第6オーストラリア歩兵師団を与え、12月18日には前線に到着し始めたため、その再編成作業にも時間をとられることになります。第6オーストラリア歩兵師団の兵士達は非常にタフで士気も高かったのですが、充分な訓練は完了していませんでした。

 12月20日にウェーヴェルは再び西方砂漠を訪れ、オコーナー達と面会しました。オコーナーは、ウェーヴェルとの面会をいつも喜んでいました。オコーナーは後にこう書き記しています。

「ウェーベルの訪問が、私だけでなく、彼が訪問した他のすべての指揮官達や部隊に、どれほど大きな喜びと支援を与えたかは、言葉では言い尽くせない。彼は私たちの困難に辛抱強く耳を傾け、すべてをメモしてくれた。カイロに戻った彼からはいつも、私の多くの要求のうち、どの要求を満たすことができたかについての電報を受け取った。私は彼に最大の信頼を寄せており、どんな大胆な行動でも全力でサポートしてくれると思っていた。彼は無為無策とは無縁だった。私の指示はすべて彼から生まれていた。」

 シディ・バラーニでの勝利から3週間が経ち、ようやくオコーナーはバルディアを攻撃する準備ができたと考えていました。バルディア要塞を攻撃するためには新たに到着した第6オーストラリア歩兵師団を起用し、消耗していた第7機甲師団は追撃用に予備としていました。

 バルディア攻撃の直前の1941年1月1日、西方砂漠部隊は第13軍団と改称されました。同時に、これまでウェーヴェルとオコーナーの間にエジプト駐留イギリス軍司令官であるウィルソン将軍が挟まれていた指揮系統が変更され、中東戦域軍のすぐ下に置かれることとなりました。それまでオコーナーはウェーヴェルとウィルソンの両方から指示を受けることもあり、余計な労力が発生することもあったのですが、それが解消されたのです。

 ↓OCS『DAK-II』の西方砂漠部隊司令部ユニットと、第13軍団司令部ユニット。

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 翌2日、英空軍が終日バルディアを爆撃し、1月3日朝、第6オーストラリア歩兵師団がバルディア攻撃を開始しました。イギリス艦隊も要塞へ艦砲射撃し、要塞の周囲の様々な場所で陽動攻撃が行われる中、攻撃部隊が西側の一角に突入します。戦いは2日続きましたが、その最中にオコーナーは第7機甲師団をトブルクへと向かわせました。

 1月5日、バルディア要塞は陥落しました。イタリア軍は4万人以上の死傷者、捕虜を出し、大砲400門、中戦車13輌、軽戦車150輌、トラック706輌を失いました。

 しかしオコーナーの成功は、予想外の戦略的問題を引き起こしていました。

 一つはウェーヴェルにとっての問題です。中東戦域軍司令官としては、管轄内の様々な作戦のバランスを保たねばなりません。オコーナーがコンパス作戦の大勝利の成果を拡大しようとする中、ウェーヴェルはどこまでそれに引っ張られても良いのか? キレナイカ地方(リビアの東半分)にはまだ8万のイタリア軍がおり、トリポリタニア地方(リビアの西半分)にはさらに9万の兵力がありました。第13軍団に対する補給と輸送の困難さや、貴重な戦車の消耗を考えれば、ここでいったん充分に休むべきだという強い主張がありました。しかしオコーナーはすでにトブルクを包囲していましたし、またトブルクは非常に重要な補給港となるであろうことが見込まれました。最終的にウェーヴェルは、トブルク占領までの作戦延長を承認したのです。

 もう一つの問題は、それよりも遙かに大きい影響でした。バルディア陥落の1週間後の1941年1月11日、ヒトラーはイタリア軍を助けるため、リビアにドイツ地上軍を派遣することを決心したのです。つまりオコーナーの成功の大きさが、ロンメルを北アフリカ戦線に呼び寄せる要因となったのでした(ただし、ウェーヴェルやイギリス軍帝国参謀本部は、遅かれ早かれドイツ軍がやってくるだろうことは予期していました)。

 さらに別の、チャーチルが引き起こした問題もありました。前年10月にイタリア軍の侵攻を受けたギリシャが果敢に抵抗し、侵略者を苦しめているのにチャーチルは魅了され、深く感動していたのです。ギリシャを助けるために、オコーナーを支援していた航空部隊のいくつかがそちらへ移されたものの、陸上戦力に関しては内閣もウェーヴェルも、北アフリカ戦線を優先することで合意していました。ところが、ドイツがギリシャを含むバルカン地域に侵攻・介入する気配が出てきたため、ロンドンではバルカン地域の方を北アフリカ戦線より重視すべきであり、必要があればオコーナーの部隊をそちらに送るべきだということで一致し始めていたのです。

 オコーナーはギリシャへと兵力が引き抜かれてしまう前に最大限の成果を挙げようと、これまで以上に急ぎ始めました。トブルクに対しては1月9日から包囲が可能になったものの準備に時間がかかり、攻撃は1月21日からになりました。

 第6オーストラリア歩兵師団による1日半の攻撃でトブルクは陥落。追跡と機動戦のためにこの時も取っておかれていた第7機甲師団は、トブルクが陥落したという暗号を受け取るとすぐに、次の目標であるエル・メキリに向けて出発しました。

 トブルク陥落により、2万7,000人近くの捕虜の他、87輌の戦車、200台のトラック、2ヵ月分の缶詰がオコーナーの手に落ちました。英連邦軍にとって最もありがたかったのは、水の蒸留プラントと、1日4万ガロンの能力を持つ井戸でした。

 イタリア軍は港湾の破壊を試みていましたが損害は非常に軽微で、3日後にはトブルク港にイギリス船が物資を運び込み始めることができました。

 トブルクの陥落により、オコーナーは新たな大きな拠点を手に入れることができたわけです。しかし、いつギリシャへの介入が始まって兵力が引き抜かれるか分かりません。オコーナーはその前に決定的な勝利を手に入れたいという欲求に駆られていました。部隊は消耗しており、補給と輸送の問題は常に彼を悩ませていましたが、オコーナーはそのリーダーシップによって、今にも壊れそうな部隊でもって即興的な作戦を展開し続けたのです。

 オコーナーがずっと胃の不調に悩まされていたことを誰も知りませんでした。当然のことながら、彼の表情はずっと曇ったままでした。カウンター准将はこう回想しています。
「彼は滅多に笑わなかった。私が彼が笑うのを見たことがない。」



 大量のイタリア軍兵士捕虜についてなんですが、伝説の『The Campaign for North Africa』(SPI)では、捕虜に関してもそれぞれシート上で管理しなければならず、食糧や水を供給しなければならないそうです。自軍部隊の管理だけでも手一杯なゲームなはずですが、極めてリアルではありますね……(^_^;




洋書をDeepL翻訳で読む&情報蓄積することのススメと、その最低限のテクニック

 今までもいくらか書いていたんですが、改めて「洋書をDeepL翻訳で読むことのススメと、その最低限のテクニック」を書いてみようと思いました。


 DeepL翻訳の登場によって、(もちろんまだまだの面は色々あるとしても)外国語の本や文を読むハードルはだいぶ下がってきたように思います。

 が、洋書を読む上ではまだ(良くは知られていないであろう)ハードルがいくつかあるように思いますので、最低限そこらへんだけ突破できるテクニックを書いておこうと。


 洋書をパソコンを使用してDeepL翻訳で読む場合、大きく分けて以下の2つの方法があると思っています(OCRというのは、画面や紙の上の文字を、パソコン上で扱える文字データに変換することです)。

1.Kindle版などのパソコン上で読める文字をOCRしてDeepL翻訳にかける。

2.紙の本をOCRしてDeepL翻訳にかける。


 1の場合、Kindle上から直接文字をコピーはできるのですが、回数制限が20回とかってかかっており、本全体をその方法でDeepL翻訳にかけるなんて到底無理というのがハードルになっています。

 そこで、パソコン画面上の文字をOCRできる「Screen Translator」というフリーソフトで読むのがオススメです。このソフトはOCRと同時にDeepL翻訳(などの機械翻訳)にかけてくれる機能があるので、その意味でも良いです。ただし、導入や、改行を外すのにいくらか作業が必要になります。↓を参照してもらったら。

パソコン上の画面のOCR用のフリーソフトを「Screen Translator」に変更しました (2021/12/14)

 この方法は、Kindle版の洋書を買う(紙の本よりも安いことが多いです)値段以外のお金がまったくかからないので、そういう意味でも良いです。

(その他の方法として、Kindleの画面を全部画像としてキャプチャーしていき、それを後述の「Google Drive」などでOCRするという方法もあります。そっちの方がいいと思う人もいるかもです)




 2の場合は、まずスキャナを数万円払って買うのが現実的な選択になると思います(スキャナを買わないでなんとかする方法を私もいくらか試しましたが、効率が大変悪く、諦めました)。本をバラバラにしてしまってもいいなら破壊スキャン用のスキャナ、本をそのままにしておきたいなら、非破壊スキャナを買うことになります。



 私は↑を買ったんですが、なんか自分が買った時より値段が高いような? 「非破壊スキャナ」で検索すれば、いろいろピンキリで出てくると思います。使ってみた感覚は、いくらかうまくいかなかったりすることがあったりするものの、基本的には全然満足しております。

 で、このスキャンで得られた画像をOCRするのですが、その際にオススメなのは「Google Drive」です。「Google DriveでOCR」で検索すれば、やり方はすぐ分かると思いますし、非常に簡単です。この方法でのOCRは、画像が曲がっていたり、かなり判別しにくいようなものであっても、うまくOCRしてくれるので大変助かります。また、ドイツ語本とかでも全然ちゃんとOCRできます。無料です。


 で、その後のテクニックについては↓で以前まとめてましたので、そこらへん参照してもらったら。

DeepL翻訳の使用法についての私なりのコツ&活用しての今後の野望 (2021/01/02)



 あと、実はこの件を書きたくてこのエントリを新たに立てたのですが、「MultiReplace」というフリーソフトがありまして、これがDeepL翻訳した洋書の内容を蓄積していく上で非常にオススメです。

 DeepL翻訳では、固有名詞や用語などがその時その時で異なったように翻訳結果として出てくることがあり、翻訳結果を蓄積していく上で私はこれらが気になって自分でいちいち修正したりしていました(^_^;

 たとえば、「Smyth」という名前が「スミス」「スマイス」「Smyth」などと色々なパターンで翻訳されるのです。しかし「MultiReplace」でそれらの異なる翻訳結果を例えば「スマイス/スミス」と設定しておけば、スマイスと翻訳されたものはスミスに修正されます。しかも設定(置換)できる修正件数は無制限です(20のパターンに分割することもできます)。

 また、優れていると思うのがクリップボード内で置換ができることです。単に、「MultiReplace」の「クリップボード」ボタンを押しておき、そしてDeepL翻訳の結果をクリップボードにコピーした後に、「MultiReplace」の「置換」ボタンを押すだけです。それでCtrl+VでペーストすればOKです。

 DeepL翻訳では半角スペースが大量に入ってしまうというようなものもあり、それも「 /」と設定しておけばすべて除去できます。

 蓄積した翻訳結果を蓄積して、再度読み返す時にこれらの修正がされている方が、だいぶ読みやすいと思います。



 「洋書を読んでみたいのだが」という人が、これらの方法で(十全な和訳とは言えないまでも)洋書を色々読んでいくことができれば、それらの人達にとっても利益であるだけでなく、その業界等にとっても利益でないかと。具体的個人的には、ミリタリー洋書を読んでくれる人が増えて、それらをこの業界にいくらかでも再発信してくれれば嬉しいなぁ、と……(^_^;


OCS『Burma』のデザイナーズノートを和訳してみました&5万分の1の詳細な地図がネット上に!

 1942年のビルマ戦を扱うOCS『South Burma』(仮)を作ろうとしてみているんですが、可能なら既存のOCS『Burma』(『Burma II』)とマップやユニットやルールを(できる限りで)共通化できたらな、と思ったりしています。

 というのは、マップを連結して『South Burma』(仮)の扱う期間の続きをプレイしたりとか、あるいは『Burma II』の後の1944年から1945年のビルマ戦についても『South Burma』(仮)上でプレイできたり……という可能性もあるかも、と思いまして。


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 ↑背景の地図が1942年のビルマ戦のもので、上の方にある色の濃い部分がOCS『Burma II』のマップ。下の赤い□がOCS『South Burma』(仮)の現在のとりあえずのマップ割案で、フルマップ3枚、南の2枚は半分くらい重なっています。


 で、できるだけ共通化する上で、ちょっと前に「そういえばOCS『Burma』のデザイナーズノートを読んでみるのがいいのじゃないか」と思いつきました。サンセット和訳ではデザイナーズノートは訳出されていなかったので、自分で和訳してみました。

 ちなみに、OCS『Burma』(1998年)のデザイナーはDavid A. Friedrichs氏で、1995年の『Hube's Pocket』のデザイナーでもあります。あと、1994年の『Enemy at the Gates』のテストプレイにも参加。しかしその後クレジットに名前が出てこないので、現在はOCSにかかわっておられないのかもです。

 『Hube's Pocket』のプロジェクトをディーン【OCSシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏】に提出した直後、私は彼に「今後、何かぜひやりたいプロジェクトはあるかい?」と尋ねました。当時、私は北方軍集団について調べ始めたばかりでしたが、東部戦線の公文書記録に戻るという考えには、あまり気乗りがしていませんでした。ディーンは「1944年のビルマ戦線を調べてみたらどうか」と言いました。私の最初の反応は、このようなものでした。「ビルマだって??? ビルマで一体何が起こったっていうんだ?」 ところが、週末を利用してこの戦役について読んでみて、私は確信しました。この戦役には本当にユニークで興味深い作戦の数々が含まれており、是非ともゲーム化すべきだと思ったのです。

 当初から2つの基本的な難問がありましたが、我々は幸運にも(そしてOCSの緻密なデザインポリシーに照らした上でも)、どちらも同じ解決策に辿り着きました。

 一つ目の問題は、日本軍の師団についてでした。彼らは損害を受けても受けても、信じられないほど、まだ戦い続ける能力を維持し続けました。OCSに当てはめれば、これをシミュレートするためには10ステップ以上を持たねばならないでしょう。

 二つ目の問題は、日本軍とチンディット部隊(そしてより狭い範囲とは言え、米軍と英連邦軍も)は非常に広大な地域で活動し、激戦を戦うというよりは、浸透作戦を行っていたことです。解決策は明らかでした。基本的な行動単位となるユニットを、師団規模ではなく、連隊/旅団/大隊規模とするということです。師団をどこまで分解するかが、その親部隊がどの程度損失を受けても活動し続けられるかの決め手となります。最終的に、この方法によって歴史的に見ても正確な戦いが繰り広げられ、また戦闘序列に大きな彩りと特色が加えられることになりました。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍師団の例。

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 次に大きな問題であったのは、日本軍の師団の攻撃戦闘能力についてでした。小部隊で戦う場合、彼らほど優秀な部隊は世界でも稀なほどでした。しかし、より大きな編成での運用を求められると、特に攻撃においてはバラバラになってしまう傾向があったのです。これを解決したのが、大規模戦闘ではアクションレーティングが下がるというルールでした(元はルールはもっと厳しいものでしたが)。

 日本軍プレイヤーは、1つの師団の使い方について多くの選択肢を与えられています。史実でそうであったように、戦闘力より浸透力を重視することもできますし、戦力を集中することによってアクションレーティングは下がるものの、戦闘力を大きくすることもできます。例えば、日本軍の精強な師団(アクションレーティングは5や4)を10個ほどの行動単位(ユニット)にわざとばらけさせ、浸透作戦を行うことができます。ただし、師団全体で戦った場合には、22-4-3師団だということになってしまうでしょう(ただしそれでも、連合軍の師団ならば完全に崩壊してしまうほどの損害を受けても、依然として戦闘部隊としての機能を維持し続けることができます)。

 このゲームのリサーチ作業は(東部戦線に比べれば)比較的容易でした。このテーマに関する優れた書籍が何十冊もあり、多くの部隊史、数十冊の回想録、若干の学術的な著作、そして戦後の優れた研究論文もいくつかありました。にもかかわらず、相互に矛盾する部分もたくさんありました。そのため、何が本当に真実であったのかという判断は、しばしば私に委ねられることになりました。そのため、いかなる作為的な、あるいは不作為的な過失も、その責任は私にあります。

 このような状態であったため、戦闘序列は比較的容易に組み立てることができました。資料間での情報の齟齬は多くありましたが、広範で多様な情報源があったため、確認は簡単でした。

 唯一かなり面倒であったのは、英連邦軍と共に戦っていた「旅団に所属しない」大隊の数々でした。コヒマとジェサミの周辺やその後方地域に、多数の部隊が散在していたのです。それらは、202a LOC【連絡部隊】やアッサム連隊【実質的には大隊規模】などのユニットになっています。

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 いくつかの部隊は、主にその性質ゆえに、戦闘序列から除外されました。いくつもの大規模な部隊が、基本的にゲリラ部隊として活動していたのです。これらの部隊には、V-force、Chin Levees、Dah Force、Morris Forceなどが含まれます。これらの部隊が通常の歩兵として戦うように求められたこともありましたが、いずれの場合も悲惨な結果に終わりました。彼らは確かに連合軍の勝利に貢献したのですが、偵察、前哨、情報収集、破壊工作といった役割は、このゲームの規模では扱うのが難しいのです。一時期、私は連合軍プレイヤーが、これらの部隊が活動していた地域の敵スタックの中身を見られるようにしてみようかとも考えたのですが、その案は採用しないことにしました。

 この戦役が終わりに近づいた頃に、いくつかの部隊が戦場に到着していました。特に、第11東アフリカ師団がそうでした。しかしその到着は戦闘には間に合わなかったので、このゲームには含めませんでした。

 最後に、いくつもの部隊が統合されました。この方法は、戦闘序列を「整理」するために用いられたものです。例えば、戦闘タイプが機械化である自動車化歩兵大隊ユニットが数個あります。これらの部隊には、小さな機甲(戦車)分遣隊が半永久的に配属されていました。我々はそれらの戦車中隊を自由にさせるのではなく、一緒に行動していた大隊の方にその戦力と特性を組み込むことにしたのです。厳密に正確な戦闘序列からのもう一つの大きな逸脱は、英連邦軍の師団所属のもろもろの砲兵部隊をまとめて1つにしたことです。もちろん、これらの砲兵部隊はそのように編成されてはいなかったのですが、この戦場で砲兵を配置する時の制約の問題(柔軟な運用は、よくて困難というところでした)や、ゲームプレイから「余分な手間」を省きたいという考えから、この方法が必要だと考えたのです。

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 ユニットの能力値には特異なものが多数あるので、プレイヤーは注意する必要があります。その大部分は、困難な地形とそれが作戦に与える影響をより良くシミュレートするために採用されました。

 まず、これまでのOCSゲームでは多くの場合徒歩移動タイプであったユニットが、自動車化移動タイプにされています。例えば、大規模な砲兵ユニットや輸送ワゴンなど。これは、このゲームにおける山岳地帯での移動を困難にするために、意図的にそのようにカテゴライズされました。

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 第二に、砲兵(特に日本軍のもの)の射程の短さに目を奪われるかもしれません。これも意図的なものです。地形の厳しさが、その使用の柔軟性を大きく制限していたのです。さらに、日本軍の大砲のほとんど、特に師団砲兵は、直接照準射撃で使用されていました。日本軍の間接照準射撃は、よくいって粗末なものでした。このことは、日本軍のすべての砲兵ユニットが、移動モード時に1の射程しか持たないという風に反映されています。しかし、これらのユニットの多くは良好なアクションレーティングを持ち、また防御力1というのもこのレベルでは無視できないものです。彼らは一歩も引かずに、防御態勢を強化することができるのです。

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【下段が移動モードです】



 もう一つ大きな違和感を与えるのは、連合軍の機甲ユニットのアクションレーティングが異常に高いことでしょう。この戦場における様々な戦闘の回想録の数々は、これらの戦車部隊が連合軍の戦闘力にプラスの影響を及ぼしたことを継続的かつ一貫して示しています。日本軍側に有効な対戦車兵器がほぼ完全に欠如していたことが、連合軍の戦車兵達を大胆にさせていました。このことにより、高いアクションレーティングになっているわけです。

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 今回のプロジェクトで意外と苦労したのが、マップの作成でした。基本的にマップは、縮尺5万分の1のTPC地図から作成しました。もちろん、これは現代の地図であり、各種の地点や地形の特徴などは当時の地図や様々な資料から導き出さなければなりませんでした。また、異なる言語間での地名やスペルなどを確認するのにも苦労しました。それは控え目に言っても悪夢そのものでした。しかし今回も、ゲーマーズのネットワークが役に立ちました。ジ・ゲーマーズのウェブとメーリングリストの管理者であるスティーブン・グラハムは、ビルマ研究におけるある種の上級学位を持っていたのです。彼は快く、場所や地名を確認し、私の誤ったスペルや口語表現を直してくれました。その最中、私はスティーブに、ビルマの「良い地図」はないかと尋ねたのです。彼の答は「本当の問題は、調査団がアッサム州に向かっても、原住民が盛んに首狩りを行っており、ほとんどの人が帰ってこないことだ」というものでした。

 このゲームは意外なことに、4人プレイに適しています。実際のキャンペーンの緊張感を、以下のように指揮を分割することで大きく向上させることができるのです。

連合軍プレイヤー1……第14軍(インパール戦域)
連合軍プレイヤー2……空軍、チンディット部隊、ガラハッド部隊(メリルズ・マローダーズ)、中国軍
日本軍プレイヤー1……第33師団、第15師団
日本軍プレイヤー2……第31師団、第18師団、第24旅団

 連合軍側は、航空ユニットと補給の量、それにチンディット部隊の任務と割り当てについてのギブアンドテイクを常に争い、ダイナミックに調整していくことになります。日本軍側プレイヤーの分割は、インパール以外の作戦の要求が佐藤の第31師団に直接影響されうるという点で、さらにダイナミックなものになります(実際にはもう少し不確定要素が大きいですが)。さらなる争点を作り出すために、勝利条件を分割したり、各プレイヤーに何らかの合意したポイント数の責任を負わせるのも良いでしょう。



 首狩り族の話は、冗談ではないかと思うのですが……(^_^;

 ビルマ戦線における戦闘序列をユニット化する上での様々な話が語られていて非常に為になりましたが、それ以上に「うおおっ!?」と思ったのが、マップを作る上で「TPC Maps」の5万分の1の地図を使用した、という話でした。

 もちろん、何のことか分からなかったのですが、「TPC Map」で検索してみたところ↓のウェブページが引っかかり、そこには膨大な数の地図へのリンクが貼られていたのです!

Perry-Castañeda Library Map Collection - Tactical Pilotage Chart Series - World

 もちろん、ビルマの地図も複数枚あり、詳細な等高線が描かれていました。

 実は、OCS『South Burma』(仮)のマップを作るにあたって、一応陸戦史集の地図などを利用して作り始めてみたものの、ジ・ゲーマーズのその方面専門の方ならもっと詳しい地図にアクセスできるのかもと思って、OCS副班長のチップ・サルツマン氏に問い合わせてみた方が(結局は)いいのだろうか……? とも考えたりしていたのですが、聞くまでもなくデザイナーズノートに書かれていたのですね(^_^;


 また、これらの情報を元に作業をしていってみようと思います。

コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)


 今回は、コンパス作戦の準備について。

 コンパス作戦は、初心者向けのウォーゲームセットのド定番となっている現在の『ドイツ戦車軍団』の中にゲームが入っているので、それで知られた方も多いのではないでしょうか。このゲーム「コンパス作戦」は故・坂本拓哉(OMEGA7)氏がデザインされたもので、私は全然面識はありませんでしたが、当時MustAttack上での制作中だとかの書き込みは見せていただいておりまして、亡くなったとの知らせも、MustAttack上で知りました……。


 10月22日、ドーマン=スミスは、早期の攻撃は成功するだろうという意見をウェーヴェルに持ち帰りました。ウェーヴェルはいつものように無言のまま、ただ引き出しからウィルソンとオコーナーに向けて起草したばかりの指令書を取り出し、攻撃の準備をするように命じました。

 ウェーヴェルの攻撃作戦は「コンパス作戦」と名付けられました【なぜそのような名前にされたのかに関する記述は、私は見つけられませんでした】。しかし攻撃部隊に物資を供給できるのは4、5日が限界だとウェーヴェルは考えたため、その期間内の短くて迅速な、奇襲の要素を最大限に利用したものとするように指令されていました。そして、その攻撃が成功したとしても、撤退することが意図されていたのです。

 ですから指令書に書かれていた目標はごく控えめのものでした。オコーナー将軍はこう書いています。
「我々は単に、5日間の襲撃を行うように言われただけだった。これが実のところ、あのキャンペーンの始まりだった。」

 ウェーヴェル自身は一応、イタリア軍の両側面への攻撃計画を提案していました。それは機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調しつつ、海岸道路沿いに直接攻撃を行い、同時に南側を包囲するというものでした。

 オコーナーは将校達と、マアテン・バグシュの地下作戦室に籠もってこの問題を考えました。オコーナーは、イタリア軍の南側側面を旋回して包囲するというウェーヴェルの構想には問題があると考えました。オコーナーは書いています。
「この方法は地図上ではいかにもうまくいきそうだった。しかし、敵陣地の南側の地面は戦車には不向きだったので、それは検討されなかった。」

 また、オコーナーはウェーヴェルが提案したように部隊を分割することにも乗り気ではありませんでした。というのは、別々に前進するのは調整が難しいと思われたからです。より良い方法を見つけなければなりませんでした。

 オコーナーはイタリア軍の配置を偵察していて、一箇所非常に大きな隙間があることに気付き、発想力に富んだ大胆な攻撃を計画を思いつきました。

 オコーナーの攻撃計画は以下のようなものでした。ソファフィ陣地とニベイワ陣地の間の大きな隙間を夜間に隠密理に突破して北へとスイングし、イタリア軍前線の西側(背後)に回りこむ。そしてこの背後の位置から早朝に第7機甲師団が攻撃を開始する。部隊の一部はトゥマール(Tummar)とニベイワのキャンプを攻撃し、さらにシディ・バラーニを攻撃する。一部の部隊はブクブクまで進撃し、イタリア軍の連絡線を断ちきる。


 コンパス作戦の実際の動きについては↓もどうぞ。





 もともと、兵力的に恐ろしく優勢なイタリア軍に対しては奇襲作戦の他に勝利の望みはなく、オコーナーの作戦意図は敵の意図しない奇襲的な要素を最大限に高めようとするものでした。

 オコーナーの作戦計画をウィルソンはウェーヴェルに提出します。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、喜んでこれを、11月2日に激励のメッセージと共に承認しました。
「私は、この作戦の利点はそのリスクを完全に正当化するものであると考える。また、そのリスクが過剰だとも思わない。数以外のすべての面で、我々は敵より優れている。我々はより高度な訓練を受け、より良い装備を持っている。我々は土地勘があり、砂漠の環境にも慣れている。そして何よりも、我々はより強靭な心と優れた伝統を持ち、より価値のある目的のために戦っているのだ。」


 しかもウェーヴェルはこの時、もしコンパス作戦によって大きなチャンスが訪れたならば、それを最大限に活用するための精神的、管理的、そして道徳的な準備があるかどうかを確認したいという指令をも出しました。 

 これにより、「5日間の襲撃」は拡張される可能性が出てきました。そしてもともとオコーナーは、ウェーヴェルの意図を越える、イタリア軍に対する完全な勝利のための作戦案に熱中していたのです。

 実は、オコーナーと親密な将校達も志を同じくしており、あたかも一つの陰謀団を形成していました。彼らはコンパス作戦の詳細の立案の時から、オコーナーと一緒に練り上げていっていた者達でした。


 以下に簡単な戦闘序列を挙げます。

西方砂漠部隊(Western Desert Force)【実質は軍団規模】
司令官:リチャード・オコーナー
参謀長:ジョン・ハーディング
(エジプト駐留イギリス軍司令部の参謀長:アレクサンダー・ギャロウェイ)

第7機甲師団
師団長:マイケル・クレイ

第4インド師団
師団長:ノエル・ベレスフォード=ピアース


 ↓OCS『DAK-II』の西方砂漠部隊司令部と、第7機甲師団、第4インド師団。

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 まずは、中東戦域軍司令部の参謀から新たに西方砂漠部隊の参謀長へと就任していたジョン・ハーディング。彼は背が低く、キャンバリーの参謀大学に通っていた時には級友であったドーマン=スミスから「独立心旺盛なチビだな!」と感心されていたそうですが、この時には自ら自分達を「砂漠の小人族(ドワーフ達)」と呼んでいたとか。オコーナーも背が低かったので、そこに引っ掛けていたのでしょう。きちんとした身なりをして礼儀正しく、決断力があった点でもオコーナーに似た人物であったそうです。ハーディングは後に、ロンメルの第1次攻勢によってオコーナーやニームが捕虜になってしまった時、西方砂漠部隊の臨時司令官となり、トブルク保持の決定に関与します。その後、第3次エル・アラメイン戦の前の時期から第7機甲師団を率いるようになり、1943年1月のトリポリ攻撃の際に負傷してしまって本国に戻るまで、北アフリカで戦い続けました(戦後には元帥、帝国参謀総長にまでなります)。

Jharding

 ↑ジョン・ハーディング(Wikipediaから)



 次に、ホバートの後を継いで第7機甲師団長となっていたアイルランド人のマイケル・クレイ彼は魅力的かつ勇敢な人物であり、この西方砂漠部隊という小さなグループの仲間達と最高の関係にありました。が、後に英連邦軍の作戦規模が大きくなるにつれ孤立し、友人もいなくなってしまい、1941年6月のバトルアクス作戦失敗の責任をベレスフォード=ピアースと共に問われ、イギリス本国に召還されてしまいます。

 ノエル・ベレスフォード=ピアースはこの時第4インド歩兵師団長でした。彼は外向的な性格ではっきりと物を言う正統派の軍人で、レティキュール(引き紐付きの小物入れ袋)にインド製のチェルート(安価な両切り葉巻煙草)をたくさん入れて、いつもそれを吸っていたそうです。ドーマン=スミスによれば「B.P.(ベレスフォード=ピアース)はまったく本物の人格者だった」とか。彼はコンパス作戦において同師団を率いて優秀な指揮官であるとの評価を確立します。コンパス作戦直後に同師団は東アフリカ戦線に転戦を命じられ、そこで非常に大きな名声を得てエジプトに戻ってくるのですが、バトルアクス作戦を指揮して(恐らく自分にはどうしようもない理由によって)敗北し、責任を問われ解任されることになります。

 そして最後に、エジプト駐留イギリス軍司令部の参謀長であったアレクサンダー・ギャロウェイ准将(愛称はアレクサンダーの短縮形である「サンディ」)。彼はコンパス作戦のために西方砂漠部隊へと「貸与」されていました。若い頃からちょっと怖い人として有名で、「PR(Perpetual Rage:絶え間なく怒ってる)」という渾名で知られていました。この頃もせかせかして短気で頑固ではあるものの、辛辣なユーモアのセンスを備えており、鋭敏かつ有能であるために、評判は高かったとか。

Sir-Alexander-Galloway

 ↑アレクサンダー・ギャロウェイ(Wikipediaから)


 ギャロウェイは後にイギリス第8軍の参謀長となり、クルセイダー作戦中にロンメルのエジプトへの侵入に狼狽した第8軍司令官アラン・カニンガムが攻勢中止、撤退の命令を起草したのに対して独断で命令発出を遅らせ、中東戦域軍司令官オーキンレックに状況を確認するように提案。また、2人の軍団長と協議して彼らが攻勢を継続すべきと考えていることを確認するなどして、ロンメルを敗退させるきっかけを作ります。後に1944年にはモンテ・カッシーノの戦いを指揮し、また1944/45年の冬にはドイツ軍の封鎖によって飢餓に瀕したオランダにできる限り食糧を輸送する業務に携わりました。


 10月28日、ギリシャにイタリア軍が侵攻しました。元々北アフリカへ送られるはずであった戦車などの軍需品がこのギリシャ侵攻に振り向けられており、その分エジプトで停止していたイタリア軍は強化されないままに留まっていました。

 ウェーヴェルはこのイタリア軍のギリシャ侵攻を逆手に取り、攻撃予定のエジプトにいるイタリア軍がより油断するように策略を実行しました。あるルートを通じて、イタリア軍側に「エジプトの英連邦軍はギリシャへの援軍派遣によってさらに弱体化し、さらなる撤退が考えられているらしい」との情報が伝わるようにしたのです。

 ところがこの策略は思わぬ事態を引き起こしてしまいます。チャーチルによってエジプトの状況を調べさせるためにカイロに送り込まれていた陸軍大臣のアンソニー・イーデンがこの「ギリシャを急いで助けるためにエジプトから英連邦軍の一部を急いでギリシャに派遣する」という話を聞いてしまい、それを受け入れたばかりか、コンパス作戦用の部隊を引き抜こうとしたのです。

 ウェーヴェルは意に反してイーデンに、エジプトにいるイタリア軍に対する攻撃計画が進行中であることを明かさざるを得なくなりました。実はウェーヴェルは、コンパス作戦についてチャーチルから余計な口を挟まれないように秘密にしており、そのためもあって陸軍大臣にも作戦を知らせないでいたのでした。

 イーデンはチャーチルから、ウェーヴェルが攻勢を行わないつもりならその部隊を取り上げるつもりだと伝えられていたこともあり、むしろほっとしました。

 帰国したイーデンは11月8日にチャーチルにこのことを伝えましたが、その反応は予想よりもはるかに良いものでした。計画の詳細を聞くとチャーチルは同席していた誰よりも高く跳び上がって喜び、「6匹の猫のように鳴き声をあげ」ました。そして、このように言ったそうです。
「ついに我々は、防御という耐えがたい束縛から解放されるのだ。戦争は大きな意志の力で勝つものだ。これからは敵から主導権を奪い、我々の意志を押しつけるのだ。」

 そして、この作戦計画に関する秘密はロンドンでも必ず守られることをウェーヴェルに保証したのです。



 いよいよコンパス作戦の準備が始められることになりましたが、この攻勢計画がイタリア軍に察知されることを防がなければなりません。そのため、オコーナーは次のような厳しい指示を出しました。

1.この計画を知らされるのは、西方砂漠部隊の司令部では参謀のうち高位の2人のみ、2つの師団ではそれぞれ師団長と参謀長のみ、それに各旅団長と旅団副官のみに限られる。その他の者には、つじつまを合わせるための作り話が考案できないような具体的な行動が要求される場合にのみ、知らされる。

2.攻勢開始の数日前までは、この計画に関するいかなる文書も各機関に対して送付しない(ウィルソンに対するオコーナーの計画書でさえ、攻撃の4日前まで書かれていませんでした)。

3.戦闘部隊に対しては、攻撃開始の3日前の、すでに集合地域への行軍が始まった後の時点まで知らせない。

4.前線への補給集積所の形成は、純粋に予防的、防御的な動きであると説明する。

5.休暇の許可は、前線への行軍が開始されるまでは停止しない。

6.医療関係者には、通常の事故死や病気以外の事態を想定した通知を行わない。


 また欺瞞のため、作戦直前の12月7日にはウェーヴェルとウェーヴェル夫人がカイロで、20人程の上級指揮官達を招いて例年になく派手なパーティーを行うことが公に発表されました。

 そして、通常時の演習として11月26日に第1回が、その後12月はじめに第2回の演習を行うと発表されましたが、その2回目は実は本物の作戦だったのです。


 11月19日には、コンパス作戦のための重要な予備作戦が行われました。作戦のためにはニベイワとソファフィの間にイタリア軍部隊がいないことが重要であったので、オコーナーはイギリス軍部隊をその隙間に押しこんでいくつかのイタリア軍部隊を撃破して、この地域のイギリス軍の支配を確立したのです。

 さらに11月26日にはあくまで通常の訓練の一環として、その実ベレスフォード=ピアースが指揮する第4インド歩兵師団の攻撃の本格的なリハーサル「訓練演習第1号」が行われました。演習の内容は長時間の進軍、夜間の移動、砲兵隊と協力しての明け方の陣地攻撃などで、演習場も実際の戦場となるはずのニベイワのイタリア軍キャンプを模して作られていました。

 ウェーヴェルは、最も信頼し尊敬していたドーマン=スミスを連れて、この演習の様子を見に行きました。ドーマン=スミスはこの演習を観察して「砂漠の塹壕陣地に対する攻撃方法」と題したレポートを書きました。この見事なレポートはすぐにウェーヴェルに受け入れられ、実際の作戦命令の基礎となりました。

 コンパス作戦の計画は、敵の陣地線の隙間を越えて入った敵の背後をスタートラインとするという極めて大胆なものであり、戦史上もこれに匹敵するものはほとんどないものでした。

 オコーナーはこの作戦の準備にあたって、あらゆる種類の装備品の不足に悩まされましたが、特に、数年後の北アフリカ戦線では英連邦軍で用いられるようになった戦車運搬車がなかったことが大きな問題となっていました。戦車は常に自力で移動していたため、履帯やエンジンの寿命が短く、またわずかな損傷で動けなくなっても、すぐに修理することができなかったのです。輸送力も不足しており、兵員の輸送や、作戦終盤の補給の供給に問題が生じることが予見されました。

 作戦にあたってこの問題を解決するため、オコーナーはイギリス軍陣地とイタリア軍陣地の中間の開けた砂漠地帯に、燃料、水、食料、弾薬を集積することにしました。輸送手段は作戦開始まではこれらの補給集積所へ物資を運ぶために使用され、そして作戦中は部隊を運ぶために使用するのです。これもオコーナーの繊細さと大胆さの合わさったプロフェッショナルな技量の一例です。

 昼夜を問わずトラックが砂漠を走り、憲兵が管理する20エーカー(200m×400m程度の空間)に巨大な木箱や缶がスーパーマーケットのように積み上げられていきました。不用意な話を避けるため、これらの弾薬は次の演習で使用するためのものだとか、あるいはイタリア軍が前進を再開した場合に撤退を援護するためのものだなど、様々に説明されました。補給集積所は可能な限りカモフラージュはされていましたが、もし万が一イタリア軍が再び前進を始めれば、この補給集積所の物資のほとんどはイタリア軍の手に渡ってしまうだろうというリスクすらありました。

 また、イギリス軍陣地からイタリア軍陣地までは60マイル(約97km)もあったため、その接近行軍だけでも兵員と輸送力に大きな負担をかけることが見込まれました。そのためオコーナーは作戦直前の接近行軍を二段階に分けることにし、まず全軍が半分の行程を進み、そこで丸々一昼夜の間過ごし、その後に残りの半分の行程を進むということにしました。

 オコーナーが率いる西方砂漠部隊は第7機甲師団と第4インド歩兵師団の2個師団のみより成り、全兵力は3万6千人。半年間の訓練によって、この彼らは北アフリカ戦線においてその後の英連邦軍が二度と到達しないような技量に達していました。

 12月5日にウェーヴェルは西方砂漠部隊に対して正式に命令を出します。翌日、オコーナーは自ら最終命令を下し、依然として通常訓練の枠内であるとされた「訓練演習第2号」に向けての行軍が始まりました。

 正式な作戦開始日をウェーヴェルはまだ決めていませんでしたが、チャーチルから作戦開始の日取りを決めるように迫られていました。チャーチルは焦っており、コンパス作戦の詳細を知り、攻撃を急ぐようにメッセージを送り続けていたのです。

 ウェーヴェルは具体的な日付に縛られることを嫌い、なかなか答えようとはしなかったのですが、「天候が回復したら開始する」と簡潔に答えることにしました。しかしその返答の直後、これでは不充分だと思われる恐れを感じ、すぐに帝国参謀総長であったディルに電報を送り、12月9日を攻撃開始日としました。

 またウェーヴェルは、チャーチルが「イタリア軍をリビアへ追い返すだけでなく、リビアから完全に追放することを目指すべきだ」と考え始めているという話に危機感を抱き、ディルへの電報に次のように付け加えました。
「この作戦は襲撃のみを目的としたものなのに、過度の期待が寄せられているようです。我々は地上でも空でも大きく劣勢であり、砂漠を75マイルも移動してから、陣地が構築され始めてから3ヶ月も経っている敵を攻撃しなければならないのです。どうか、楽観論に希望を与えないようにして下さい。」

 チャーチルはディルにこのメッセージを見せるようにと強く迫り、そしてウェーヴェルのトーンに活気がないことにショックを受けました。チャーチルには活力こそが指揮官にとって最も必要なものだという思い込みがあり、そしてウェーヴェルにはそれが欠けているのではないかという、彼の偏見が裏付けられたかのように感じたのです。チャーチルはディルにこう言いました。
「このような困難な状況の中、ウェーヴェル将軍が小手先の対応をしているだけで、全兵力を思い切って投入していないのであれば、必要に応じた対応力に欠けているということになるだろう。私は行動については心配していないが、不作為についてが心配でならない。」



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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


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