fc2ブログ

グラツィアーニ攻勢時のオコーナーと、「チンク」ドーマン=スミス将軍について

 北アフリカ戦におけるイギリス軍の指揮官人物伝の続きです。

 ここまでのものは↓でどうぞ。

英連邦軍の指揮官人物伝
(戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)以下)


 今回は、「グラツィアーニ攻勢時のオコーナーについて」と、その後オコーナーと一緒に密接に行動することになる「「チンク」ドーマン=スミス将軍について」です。

 1940年9月13日、グラツィアーニ元帥はリビア・エジプト国境を越えて攻勢を開始します(グラツィアーニ攻勢)。

【グラツィアーニ攻勢についてはこちらをどうぞ→1940年9月北アフリカのイタリア軍グラツィアーニ攻勢について (2017/08/06)

 しかし4日目の9月16日、イタリア軍は国境から60マイル(約96km)のところにあるシディ・バラーニで停止しました。メルサ・マトルーのイギリス軍からはまだ80マイル(約130km)離れていました。オコーナーはこう回想しています。
「我々はグラツィアーニがマトルーの近くまでやってくることを期待していた。なぜなら、私たちは自軍の全機甲戦力による反撃の準備をしていたからだ。我々はそのための訓練をこの場所で続けていたので、グラツィアーニが反撃を実行するのに充分なほど近づいてこなかったことに私は非常にがっかりした。

 1940年の10月と11月は、英伊両軍が離れたまま次の戦闘準備を行っていました。10月には2個戦車連隊の到着により第7機甲師団が強化されたものの戦車の予備部品は大幅に不足しており、第4インド師団も1個旅団と砲兵の大部分がまだ不足していました。西方砂漠部隊の背後には、マトルーとアレクサンドリアの間に第6オーストラリア歩兵師団のうちの1個旅団が到着し、彼らは熱意と勇気に溢れていたものの、あらゆる種類の装備が絶望的に不足した状態でした。また、以前からエジプトで訓練を続けていた第7機甲師団と第4インド歩兵師団の兵士達は充分に訓練された状態にありましたが、新しく到着した兵士達がこの新しい環境に慣れ、砂漠特有の戦い方を学ぶのにはまだ時間がかかることが見込まれました。

 西方砂漠部隊司令官のオコーナーに対する将校達や兵士達の忠誠心と信頼感も確固たるものとなっていました。オコーナーは常に冷静かつ論理的で、素早く確実に問題の核心を見抜く能力を持っており、また勇敢で優しく、さりげない惹き付けられる魅力がありました。それでいて繊細であり、公の場での態度は常に控えめで地味だったのです。

 オコーナーとモントゴメリーは両者とも参謀大学で教官を務めたことがありましたが、オコーナーは控えめであるが故に、講師としては優秀とは言えなかったそうです。当時ウィルソン将軍の参謀長であったギャロウェイ将軍は、オコーナーとモントゴメリーを比較してこう書いています。
「オコーナーとモントゴメリーの違いは、オコーナーは売名行為を嫌っていたのに対し、モンティは売名行為に生きていたということにありる。それどころか、モンティはそれを最初に始めた人物だった。」

 この時期、オコーナーと一緒に重要な仕事をすることになったドーマン=スミス将軍はこのように述べていました。
「彼には何か少年のようなものがある。彼はいつも湧き溢れるような機敏さがあり、じっとしている時でさえも、いきいきとしていて力強さがあった。」



 ドーマン=スミスについては、ウェーヴェルが伝説的な訓練を行った第6歩兵旅団の旅団副官として活躍したことに少し触れていました。【→「ザ・チーフ」アーチボルド・ウェ-ヴェル将軍について(イタリア軍参戦の頃まで) (2021/12/18)

 彼はオコーナーとも古くからの知り合いで、エジプトにおいて裏方の人間として、オコーナーと協力していくことになります。


British Generals 1939-1945 E15298

 ↑エリック・ドーマン=スミス将軍(左)と、アラン・ブルック帝国参謀総長。1942年夏のエジプトで。(Wikipediaから)



 アイルランドで生まれたエリック・ドーマン=スミスは、12歳の時にサセックス州(ロンドンの南にある州)の学校に通うことになりましたが、訛りと出っ歯のために目立ってしまい悪戦苦闘したとか。しかしその後の学生時代に、後にマーケットガーデン作戦の時の第30軍団長ブライアン・ホロックスと親しくなるなどする中、強い信念を持った人間だと周りから見られるようになりました。

 父の勧めでサンドハースト王立陸軍士官学校に入学。第一次世界大戦の半年前に少尉として下士官生活を始めましたが、その最初の夜に部隊の下士官仲間の一人が、インドからイギリスに戻る際に連隊が置いていかなければならなかったチンカラのマスコットに似ていると指摘したことがきっかけで「チンク」というニックネームで呼ばれるようになりました。(チンカラ……インディアガゼルとも呼ばれるインド周辺に住むガゼル種。ウシ科の一種ですが、外見的には鹿に似ています)

 第一次世界大戦では西部戦線やイタリア戦線で戦って3回負傷しています。1924年にサンドハースト王立陸軍士官学校の教官となり、リチャード・オコーナーと親交を深めました。ここで彼は、王立戦車兵団の隊員がかぶるベレー帽のアイデアを思いついたと言われています。

 1926年にはキャンバリーの参謀大学(1919年にホバートが、1920年にモントゴメリーが学んでいた)で学びました。在学中、戦略の論文で試験官のJ・F・C・フラーは彼に1,000点満点中の1,000点を与えたといいます一方、彼はうぬぼれと傲慢でも有名となり、当時教官をしていたモントゴメリーと何度も衝突し、卒業時にはこれ見よがしにその講義ノートを燃やしてしまったそうです。

 1931年7月に第6歩兵旅団の旅団副官に任命され、旅団長であったウェーヴェルの下で大きな力を振るうようになりました。ウェーヴェルはドーマン=スミスに、標準的なマニュアルを無視して、新しい戦術的アプローチを考案するように勧めました。

 1934年にオコーナーの推薦で陸軍省に務め、1936年にはキャンバリーの参謀大学で教えることになりましたが、断固たる機械化主義者で他の者達を「アマチュア」だと蔑視していた彼は、ここで自分がすでに時代遅れだと考えていた戦術の講義を行わねばなりませんでした。そこで余暇の時間には仲間と一緒に、補給、兵員の任務、戦術的処理などに関する最新の理論を考えるなどして過ごしていましたが、当時参謀大学の校長であったゴート卿に叱責を受けます。

 1937年から1938年にかけてはエジプトで王立ノーサンバーランド・フュージリア連隊の第1大隊長を務めましたが、ここでは部隊の者達から彼がポロ競技(馬に乗って行う団体球技)の訓練を軽視しているとして非難を受け、意見が衝突したといいます。もちろんドーマン=スミスは、この部隊が優れた部隊であるとはまったく思いませんでした。

 1937年後半、彼はメルサ・マトルーにあった陣地の再設計のために同地に赴きました。この時に周辺の地形を検分していたことが、後にリッチー将軍を解任した方が良いというオーキンレックへの助言に繋がりました。また、彼はこの時にエル・アラメインがエジプトにおいて決定的に重要な戦場となりうるということに気付いていたようです。

 1938年にはインドの軍事訓練部長(Director of Military Training)に任命されてフュージリア連隊を去りましたが、連隊の者達はこの別れを喜んでいたとか。

 インドでは隣の事務所の住人が当時参謀本部副本部長(Deputy Chief of Staff)であったオーキンレックで、彼らは親しい仲となり、毎日朝食前に一緒に丘を歩いていました。彼らは「軍事的後進性への恐怖」を共有しており、それぞれ独自のやり方で機械化を熱烈に支持していたのです。

 いよいよ1939年には戦争が勃発。1940年1月にオーキンレックはイギリス第4軍団長に任命されていったんインドを去りました。6月にフランスが崩壊し、イタリアが連合国に戦線布告をした後の1940年8月、ウェーヴェルがドーマン=スミスにパレスチナに来るよう依頼してきました。パレスチナのハイファにあった参謀大学(Staff College)の統轄者の地位を引き継いで欲しいというのです。

 その依頼を受けた直後の9月13日、いよいよリビアのイタリア軍がエジプトへ侵攻します。しかしイタリア軍の進撃は4日で停止し、その後は何もなく、長い時間が流れました。

 イタリア軍が停止してから約一ヶ月が経ち、ウェーヴェルはイタリア軍に対する攻撃の可能性を考え始めました。ウェーヴェルは毎日のように司令室に壁に固定された地図上で、報告された敵の防御態勢を調べていましたが、イタリア軍の陣地は広く散らばっており、相互に支援されておらず、襲撃が可能ではないかと思われたのです。

 そして10月18日、ウェーヴェルはドーマン=スミスに対して、オコーナーを訪問して西方砂漠部隊と数日を過ごし、現在の位置でグラツィアーニを攻撃できる可能性について調査し、報告するように命じたのです。




<2022/02/18追記>

 『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(上)』を読んでいたら、ドーマン=スミス将軍について書いてありました。まずフォン・ルントシュテットがフランス戦前の時期に参謀長(フォン・マンシュタイン)を助けたことについて書かれた後の註においてです。



 ルントシュテットにも批判されるべき点はあるかもしれない。だが、彼には、軍集団、そして戦役全体に利益がもたらされるように、自由におのれの構想を練っていくことをマンシュタインに許す賢さがあった。それこそが、本【フランス】戦役計画の発展におけるルントシュテットの最大の功績だった。彼は、参謀長に助けられるのではなく、あべこべに助けてやったのである。ドイツ軍にあっては、こうした古い流儀が機能し得た。連合軍では考えられないことだ。(44)
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(上)』P238

(44)第二次世界大戦中のイギリス軍には、おそらく、その例外となる人物が一人いる。「チンク」ことドーマン=スミス少将勤務大佐〔エリック・ドーマン=スミス。「少将勤務大佐」は、階級は大佐であるが、少将相当の権限を与えられる〕は、1942年8月に解任されるまで、中東方面軍司令官サー・クロード・オーキンレック大将の参謀長だった。「コンパス」作戦構想のかなりの部分は、彼の発案によるものとされている。1940年12月から1941年2月にかけての、この、目をみはるような英軍攻勢作戦は、イタリア第10軍を壊滅させた。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(上)』註38



 恐らく、オーキンレックが参謀長であったドーマン=スミスを助けたんだよ、ということなんだと思いますが、私はまだそこらへんの時期のことについて調べられていません。その後の文でコンパス作戦について書かれていますが、コンパス作戦にはオーキンレックはまったく関係がないので、いまいち文脈として分かりにくい感じはあります(^_^; コンパス作戦の時、ドーマン=スミスは誰かの参謀長ではありませんでしたが、ウェーヴェルやオコーナーの助言者のような立場ではありましたし、ウェーヴェルやオコーナーはドーマン=スミスの能力を引き出したと言えるとは思います。

<追記ここまで>


 次回からいよいよ、コンパス作戦の準備の話になっていきます。



スポンサーサイト



OCSの古いゲームのシナリオでゲーム的なプレイができてしまう場合の対処法案

 今日はVASSALで、OCS『Case Blue』の冬の嵐作戦シナリオ(The Stalingrad Relief Operation)を4人で研究プレイしていたのですが、枢軸軍が先攻を取った場合、結構ゲーム的なプレイが可能であることが気になりました。



unit9084.jpg

 例えば上の画像で、赤い□の箇所はアクションレーティングが1しかないため、スターリングラード包囲環の中からの脱出作戦でオーバーランするのに格好のヘクスであり、その右下には砲兵が1ユニットずつしかおらず、その右下の司令部も1ユニットしかおらず、その右下の赤い○のヘクスはエクステンダーとSPしかなく、ここまでドイツ軍がオーバーランのみで到達するのは割と容易です(リアクションフェイズより前に到達可能なため、ソ連軍は予備にしていたユニットをそれらのヘクスに入れるのも間に合わない)。

 まあここまではしょうがないかもと思われるのですが、その後、画像右側の赤い○には輸送ワゴンとSPしか存在せず、これも移動フェイズ中に踏むことができますし、しかもこのヘクスはこのシナリオではソ連軍唯一の補給源であるため、ソ連軍はその後(どうにもならないとまでは言えないとしても)かなり苦労せざるを得なくなることが予想されます。しかし史実では「そこに補給源があるからそこを踏もう」なんてことはあり得ませんし、史実ではあり得ない機動だという風に感じます。

 かてて加えて、画像左下の赤い○の補給集積所も大した防御力ではなく、もしこれも第1ターン中に踏まれることがあればソ連軍はマップ上のすべてのSPを失ってしまうことになります……(尼崎会では、セットアップ情報(のみ)は敵にも筒抜けであるとしてプレイしているのですが、もしかしたら世のOCSプレイヤー諸氏は、セットアップ情報であっても敵の情報は分からないものとしてプレイしているのかも……?)。


 ただし、このシナリオは先攻プレイヤーが指定されていないので、最初のイニシアティブのダイス振りでソ連軍が勝ち、先攻を選択すればそれらの危険は避けられると思われます。しかし、1/2の確率でイニシアティブを失いますから、枢軸軍に先攻を選択されてしまえば、だいぶ困ったことになるのは避けられないのではないかと。

 最近のOCSゲームのシナリオではほとんどこういうシチュエーションはありません(そうならないように調整されていると思われます)し、また「敵の補給源を踏む」ということについても「ゲーム的行為の禁止」として「敵の補給源ヘクスには入れません」とルール化されていることが多いです。しかし『Case Blue』の場合はやや古めのゲームではあり、そこらへんの配慮が足りていない可能性があると思われます。


 そこで、今回の研究プレイでは、それにどう自分達で対処するかを考えてみました。といっても、あくまで「とりあえず」の案ですが……。

 OCSのシナリオのセットアップの補給集積所や補給源を第1ターン先攻で踏みに行くことができて、シナリオが壊れてしまうようなものが見つかった(と思われた)時、以下のような対処法を試す。

1.敵の補給源ヘクスには入れないものとする。
2.セットアップのユニットやSPを配置換えして良いとする。1ユニットをその移動力内で配置換えにつき1T。補給集積所のSPを5ヘクス以内に自由に再配置できる。


 第2項で「移動力」というのは、もし移動モードでしか行けないのならば移動モードにしなければいけません。

 また、SPを自由に再配置できる件は、攻勢側が悪用できる可能性は考えられますし、ユニットの再配置にしても防御側がかなり重要なヘクスがセットアップ時に空である場合に、そこにユニットを置いてしまうという可能性も考えられるのですが、それを「やってはいけないだろう」と思われる場合と「それが必要だ」と思われる場合の両方があると思われます。なので、ケースバイケースで考えるということで……。

OCS『South Burma』(仮)に登場する日本陸軍師団について、『帝国陸軍師団変遷史』から(付:OCS『Burma II』)

 作ろうとしてみている、OCSの1942年のビルマ戦ゲーム関連の話です。

 このゲームですが、ツイッターで↓のように書いていたんですが、もうめんどくさいので『South Burma』(仮)で表記していこうと思います(^_^;




 それはともかく、1942年のビルマ戦に登場する日本陸軍の歩兵師団は下記のものです。

ラングーン攻略までの師団
第33師団
第55師団

その後加わってマンダレー攻略の頃まで戦った師団
第18師団
第56師団


 私はこれらの師団(というか日本陸軍の師団全部)について良く知らないので、どういう経緯とかでできた師団であるのかを知りたいと思って『帝国陸軍師団変遷史』という本を購入して読んでみました。




 この本では、師団が編成された地域や、戦時に新たに師団が増やされる時に元にされた常設師団(連隊)の傾向などが引き継がれることが多いという風に書かれてまして、それらの記述を抜き書きしてみました。


 まず、第33師団(通称号「弓」)について。

 【中国】進攻作戦が一段落して持久態勢に入ったこともあり、一定期間、独立して警備、討伐作戦を遂行できる戦略単位ということで編成されたのが、第32師団から第41師団までの10個師団で、昭和14年2月と同年6月の2回に分けて編成されている。【……】
 【……】
 この警備師団の編制は、ほかの三単位制師団と概略同じだが、人員は1万4000人でほかよりも5000人ほど少なかった。また、砲兵連隊などの段列、諸隊の小行李や大行李を欠いており、装備の質、量ともに常設師団よりも劣っている。【……】
 特設師団の場合と同じく、この警備師団も「師団は師団、戦略単位だ」とされ、常設師団と並んで進攻作戦に投入される場合も多くあった。しかも、部隊が軽いということで、翼側の山地帯に向けられる。そして進攻作戦が終われば討伐作戦に明け暮れるということで、この警備師団に勤務した者は酷使され続けたという気持ちになり、つい恨み節を口にするようになった。
 この警備師団は、中国戦線に止まらず、全戦線に投入された。
『帝国陸軍師団変遷史』P136,7


 第33師団は宇都宮(第14師団)の子部隊だそう(Wikipediaによると編成地は仙台だとありますが)で、その第14師団についてこの本で述べられている箇所(P111)では、強いとも弱いとも書かれていない印象です。

 編成後の経緯は、Wikipediaによると以下の通りです。

 編成後、ただちに中国戦線に投入、第11軍戦闘序列に編入され湖北省に在って、ほかの治安師団と同様に1939年夏以降に行われたさまざまな治安作戦に参加し、その後1941年(昭和16年)4月に華北に転用され山西省に駐屯した。
 太平洋戦争開戦後、第15軍戦闘序列に編入されビルマ攻略戦に参加、1942年(昭和17年)1月にバンコクからビルマに向かう、5月末には第15軍によりビルマのほぼ全域が占領された(第一次アキャブ作戦)。
 1944年(昭和19年)3月には、師団は第15師団・第31師団とともにインパール作戦に参加した。




 ↓OCS『Burma II』の第33師団。

unit9088.jpg

 これは当然、1944年のインパール作戦時のものであって、1942年の状況とは異なることになります。OCSゲームは基本的には連隊規模であり、このように1個師団がまるまる大隊ユニットばかりで構成されているのは珍しいのですが、デザイナーズノートによると「ヨーロッパ戦線では考えられないほどの日本軍部隊の粘り強さ」を表現するための措置のようです。

 第33師団はインパール作戦では最も南(左)側から、最初に攻撃を開始し、1942年の戦いでも最初の主敵となった第17インド師団を相手に戦い、インパールに迫りました。




 次に第55師団(通称号「壮(そう)」)と第56師団(通称号「龍(たつ)」)について。その編成の経緯について、『帝国陸軍師団変遷史』の記述は大して詳しくはありませんが……。

 戦略単位の増勢については、まず昭和15年7月に各地の留守師団を基幹として第51師団から第57師団の7個師団を新編した。番号順に編成地は宇都宮、金沢、京都、姫路、善通寺【第55師団】、久留米【第56師団】、弘前となっており、【……】
『帝国陸軍師団変遷史』P144,5


 第55師団の親部隊は(香川県)善通寺の第11師団ということになるのでしょうけども、この師団もあまり強い弱いは書かれていない印象でした(1個連隊が1県でまとまっている点で、まとまりが良いという風な記述はありました)。

 私事ながら、第55師団の中の第143連隊は徳島の連隊だそうで、私の父母(先祖)は両方とも徳島県の出身で、父方の祖父の兄弟だかで出征して戦死した人もいる(生きて帰ってきた兄弟もいる)と聞いており、少なくともこの第143連隊には私にとっていくらか縁のある人がいた可能性が高そうです(ビルマ戦には高知の第144連隊は参加しておらず、丸亀の第112連隊が最初から参加し、徳島の第143連隊はタイ南部の上陸作戦に参加していたため、少しだけ遅れて合流して戦いました)。

 第55師団の戦歴は、Wikipediaによると以下の通りです。

 師団は編成後当初は善通寺に在り、中部軍に属していたが、師団主力は太平洋戦争開戦に伴い動員され、第15軍に属しビルマの戦いに従軍した。第一次アキャブ作戦では多大な戦果を挙げた。
 1944年(昭和19年)1月、新設された第28軍に属し第二次アキャブ作戦に参戦したが敗退。イラワジ河に後退し、第38軍隷下となり仏印に移動。プノンペン付近で集結する中で終戦を迎えた。



 第55師団はインパール作戦の時には『Burma II』の扱う範囲の外であるビルマ西部のアキャブにいたので、ユニット化はされていません。





 第56師団と第18師団(通称号「菊」)はともに九州北部(久留米)を編成地としており、日本軍最強の座を北陸・東北の部隊や九州南部と争う部隊であるようで、『帝国陸軍師団変遷史』でも「ビルマ戦線の雄、「菊」と「龍」」という見出しで特筆されています(P191~198)。

 この本によると、九州北部は「威勢が良く、お祭り好きで団結する気質」(P46)であり、「また九州北部は炭鉱地帯を抱えているため、重労働を強いられる炭鉱就労者が多いことも、部隊の精強さにつながっていると語られていた。」(P191)とか。

 しかし九州北部の常設師団である第12師団は、関東軍の中核兵団であり続け、ほとんど実戦に参加しなかったようで、「いよいよ南方抽出となっても台湾に向かったため戦歴といったものがなく、「宝の持ち腐れ」と陰口を叩かれた。」(P192)とか。

 ところが、第12師団の子部隊となる第18師団と第56師団は各地を転戦の上、地獄と言われたビルマ戦線で戦い抜き、その文字通称号から『菊と龍』との小説にもなった。子部隊は親部隊を越えられないとは言われていたが、この第18師団と第56師団に限ってこの定説は通じない。終戦となり収容所生活になっても戦意旺盛、「俺たちを俘虜にしていると損になると思い知らせてやる」となかば公然と盗みはするし、破壊工作じみたことまでしたというから、これはもう北九州の土地柄というほかない。
『帝国陸軍師団変遷史』P192





 第18師団はビルマ戦までにも戦っていた有力師団で、第56師団はビルマ戦が初陣でした。第56師団は部分的に自動車化されていたこともあり、1942年のビルマ戦でも快進撃を見せたそうです。


 ↓OCS『Burma II』の第18師団と第56師団。

unit9087.jpg

unit9086.jpg

 第18師団も強いですが、第56師団なんか、AR5しかありません(砲兵を除く)。

 インパール作戦の時にはこの2つの師団はその北東戦域を守備しており、アメリカ軍に援助・訓練された中国軍による攻勢や、イギリス軍空挺部隊による後方遮断作戦に対して、長い苦闘を強いられました。

 私は全然知らなかったのですが、この時の第56師団の拉孟守備隊の戦いなどはその悲劇的かつ精強な闘い振りが伝説的にまでなって知られているようで、一応『壮烈拉孟守備隊―玉砕に殉じた日本軍将兵の記録』というような本も買ってみたのですが、まだ読んでいません……。



 『帝国陸軍師団変遷史』にもそこらへんのことが書かれていますが、非常に印象深かったところだけ。

 そんな絶望的な状況でも、【拉孟】守備隊は一切増援を求めないばかりか、空中補給をする航空機が対空射撃を浴びるのは見るに忍びないから、無理をしないようにと連絡して来る。これには全軍、粛然とした。そして激闘120日の末、拉孟守備隊は【1944年】9月18日に玉砕した。
 以上のような第18師団と第56師団の戦歴を見ると、巷間語られている「九州の部隊は初動の一撃には滅法強いが、防御に回るといまひとつ」という説が全く間違っていることがわかる。ともかくビルマ戦線の「菊」と「龍」、帝国陸軍の最強兵団だとしても異論はないだろう。
『帝国陸軍師団変遷史』P198




 OCS『Burma II』のマップには元々この拉孟(La-meng)は入ってなかったのですが、デザイナーが追加でマップとシナリオを発表しており、OCS Depotの『Burma』のページで公開されています。


 ↓追加マップを含めた最も長期間を扱うキャンペーンの初期配置。

unit9085.jpg

 右側に突き出た部分が追加マップで、その東端真ん中へんに拉孟があります。

 このキャンペーンシナリオ1with雲南はインパール作戦開始直前の1944年3月5日ターンから始まり、8月1日ターンまで続きます(インパール作戦の中止は7月5日)が、拉孟守備隊の玉砕は9月18日ですから、そこまでは続かない……?

 しかし、この追加マップだけを使用するシナリオもあり、最終ターンは可変でその勝利条件は「日本軍の全滅」になっていますから、玉砕までプレイすることになるのでしょうか……。


 これらのシナリオ(キャンペーン)もぜひプレイしてみたいものだと思います(史実も調べた上で……)。

OCSの対施設砲爆撃表で、v4.3チャートから爆撃力1のコラムで航空阻止ができなくなった件

 先日オンラインでOCS『KOREA』を対戦プレイしていて、OCSの対施設砲爆撃表で爆撃力1のコラムでv4.2までは航空阻止(Trainbusting/Interdiction)ができたのに、v4.3からはできなくなっていることに気付きました。


unit9093.jpg

 ↑上のオレンジ色がv4.2までのチャート、下の青いのがv4.3のチャート。爆撃力1のコラムの6の目がv4.2では「(6)*」となっていて航空阻止が成功するのに対し、v4.3では「*」が存在せず、航空阻止の成功の可能性がありません。


 これについて、「v4.3から修正されたのか、あるいは単なる作成ミスなのか」をfacebook上で聞いてみたのですが……。

 筆頭テストプレイヤーである(と勝手に私が推測している)Perry Andrus氏の返答は以下のものでした。

チャートが新しい色調に変換されたとき、このような変化が起こりましたが、なぜかはわかりません。
おそらく、爆撃力1の航空部隊の大群が航空阻止に有効すぎたのでしょう。


 その後、他の人の話の流れは「多分そうじゃない?」「ボクはv4.2のやつを今でも使ってるよ。こっちの方が使いやすい」「そうだよね。見た目的にもいいし」という風な方向に進んでいき、OCS副班長のチップ・サルツマン氏のコメントもつかなかった(他の件で投稿はされているので、一応このスレッドは見たのではないかと思われます)ので、公式見解は良く分かりませんが……。

 とりあえず、v4.2までとv4.3のチャートではそういう違いがあり、「どうもv4.3への修正は故意らしい」ということだけ押さえておく必要はあるかもです。

 実際、プレイにおいて爆撃力1の航空ユニットが大量に存在するというケースはある程度あり、その場合航空阻止ばかりに使われておかしなことになるという可能性はあるかとも思います。そこらへん考えると、v4.3の方を使った方が「より良い」のだろうと思います。


 チャートの和訳ですが、悩みましたが一応v4.3のものに合わせたものだけを公開する状況にしました。

OCSの物置2

 ↑の、「・OCSv4.3対応チャート類和訳版(青色で戦闘結果表と砲爆撃結果表に目安となるラインを書き加えたもの。グライダー降下の定義についても追記)」というやつです。

 今まで和訳版を使用されていた方は、くだんの「*」を赤ペンで消しておけば良いのではないかと思います。




OCS『Beyond the Rhine』ユニットで見るイギリス軍の爆撃機モスキート

 1/144スケールの塗装済みプラモデルのブラックウィドウとモスキートが完成しました。




unit9091.jpg



unit9090.jpg


 ブラックウィドウは銀杏さんから頂いたものでした。改めてありがとうございます!(^^)

 モスキートは中古で店で買ったもので、下面が黒く塗られていて「どういうことなんだろう?」と思っていたのですが、パスファインダー(夜間戦略爆撃で目標に目印を付けるための機体)型だったんですね。

 両方とも割と最近のモデルで、これまでに作ったものよりもピタッと入る感が多いような気がしましたし、特にブラックウィドウの方はキャノピーとかの透明パーツが多くてキレイで凄いなぁと思いました。

 ブラックウィドウは夜間戦闘機なわけですが、爆撃機(が基本)であるモスキートよりも明らかに大きくて、そこらへんも凄いなぁと(^_^;

 両方とも私は良く知らない機種ですけども、とりあえずWikipediaで読んだだけでも興味深かったです。

ブラックウィドウ

モスキート




 ブラックウィドウはOCSでユニットになっていないと思うのですが、モスキートは『Beyond the Rhine』でユニット化されています。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』のモスキート

unit9092.jpg

 数値は左が空戦力(括弧付きは防御のみ)、右が爆撃力ですが、『Beyond the Rhine』の中で見ると最も「尖ったところのない」低性能機ということになってしまいそうです(^_^;(実際には凄い「尖った」機種であったのだと思いますけども)


 ↓OCS『Beyond the Rhine』のイギリス軍の航空ユニットの一部

unit9089.jpg



 次は、先日中古の店で見つけて購入した1/144の塗装済みHe.177プラモデルを作るつもりです。


ビルマ戦初期に第17インド師団を指揮し、解任された「ジャッキー」スミス将軍について(付:『The Blitzkrieg Legend』『Burma II』)

 1942年のビルマ戦のOCSゲームを作ってみようと作業しているわけですが、『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』を読んでいると第17インド師団の師団長であったスミス将軍の人物像についてある程度以上の記述があり、興味を持ちました。





John-smyth-vc

 ↑スミス将軍(1973年の写真:Wikipediaから)


 ↓OCS『Burma II』の第17インド師団(1944年頃のものであり、スミス将軍の頃のものとは異なります)。

unit9095.jpg



 スミス将軍は1942年のビルマ戦で最初に日本軍と戦った第17インド師団を率いましたが、同師団は非常に弱体で装備も貧弱だったのにもかかわらず広大な領域を守備するどころか攻勢をとるようにさえ命令され、スミスは上官達と衝突しながらも部隊を指揮し続けましたが、ラングーンの手前のシッタン川での退却戦の時に、川の向こうにまだ大きな部隊が残っているのに橋を爆破してしまって部隊を大きく失うことになり、ウェーヴェル将軍の怒りを買って解任されてしまったのでした。

 スミス将軍は1979年になってから出版された自らの著書の中で、上官達に対して自分が初期からもっとマシな撤退作戦(最初からガッと引いて守るという策)を進言していたのにというようなことを書いたようで、戦後間もなく書かれた多くのビルマ戦本に比べて、新しい本ではそこらへんのことが反映された書き方になっているようです(去年出版された最新のビルマ戦本である『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941-45』は、ほぼ完全にスミスが正しく、上官達がそれを理解できなかったかのように書かれている印象を受けました)。





 以下、Wikipediaや『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』なども参照して、ビルマ戦中以外の時期のことについてとりあえずまとめてみました。







 フルネームはジョン・ジョージ・スミスで、「ジャッキー」とあだ名されたそうですが、どこからこのあだ名が来たのかの説明は見つけられませんでした。「ジャッキー」は「ジョン」の愛称でもあるらしいので、単にそこからかもです(ハナザーさんに教えてもらいました。ありがとうございます!)

 第一次世界大戦でヴィクトリア十字章(イギリスで最も高位の軍事勲章)、1920年にはインド軍に所属して戦功十字勲章(3番目に高位の軍事勲章)を受勲し、将来を嘱望されてキャンバリーの参謀大学で学び、教官も務めます(ちなみに、「インド軍」とはイギリス植民地であったインドの軍のことなわけですが、「イギリス軍」とは別の組織であったそうです)。

 イギリス軍の参謀総長も務めたゴート卿に気に入られ、ゴート卿から、ドイツとの戦争になった時に人事を差配できる立場にあればその時に指揮を執らせてもらえるという約束を得ました。1939年の夏にスミスはインド軍を退役して退役休暇でイギリスに戻るという賭けに出て、成功しました。ゴート卿はイギリス大陸派遣軍の司令官に任命され、スミスは派遣軍の中の第127歩兵旅団長に任命されたのです。この旅団は第42歩兵師団の一部を構成していました。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第42歩兵師団。

unit9094.jpg


 ダンケルクへの撤退戦を戦い、その活躍を賞賛された後、しばらくイギリス本国で旅団長を務めましたが、インド戦域軍司令官であったオーキンレック将軍からインド軍へ復帰を強く求められ、当時編成途中であった新しいインド師団の指揮を執ることになりました。1941年10月にその新師団である第18インド師団(後に第19インド師団と改称)の師団長となりましたが、その2ヶ月後、新たに(中東戦域軍司令官から異動されて)インド戦域軍司令官となっていたウェーヴェル将軍に急に呼び出され、長い面談の後、第17インド師団の指揮を任され、ビルマへ派遣されることになります。

 当時48歳であったスミス将軍は、傑出した勇敢さを持ち、高いレベルの軍事教育を修了した将校であっただけでなく、「明るく、元気で、親しみやすい小男で……若い将校達を安心させる素晴らしい能力を持っていた」そうです。第二次世界大戦においてすでに指揮官としての優れた経験もあり、困難な戦いを遂行するのに明らかに最適な人物であると思われたのでした。


<2023/01/12追記>

 オスプレイ『Japanese Conquest of Burma 1942』に↓のような記述を見つけましたので追記しました。

 強い信念を持ち、時に気難しい部下でもあった【……】「見た目は落ち着いていて、明るく、自信に満ちている」
オスプレイ『Japanese Conquest of Burma 1942』P16





<追記ここまで>

<2023/07/06追記>

 スミスは極端に自信過剰であったというような記述を見つけました。

 スミスは強烈な野心家で、ある種のショーマンだった。ラント大尉は日記の中で、スミスを「明るくて活発、気さくな小男で、私のような若い将校を安心させる素晴らしい能力を持っている」と評している。スミスの外向的な人柄は説得力があったが、軍隊の仲間は彼の違う面を見ることもあった。ラントは後年、スミスは「威張ったり、極端に自信過剰になる傾向があった」と振り返っている。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P52



<追記ここまで>



 ところが実は、スミスは当時、完全に体調を崩していたのです。彼は若い頃、名だたる運動選手で、常に体力に自信がありました。しかし、1941年の夏にマラリアにかかり、さらに悪いことに激痛を伴う肛門裂傷になってしまったのです。手術を受けたものの回復しきっておらず、かなりの、そして恐らく気が散るような不快感が残っていたに違いありません。また、当時は消化不良と診断されていたものが、後に軽い心臓発作であったことが判明した症状もありました。ただし、医学委員会からは「指揮を続けるのに適している」との推薦は得ていました。

 ウェーヴェルと面談をした時もスミスは体調を崩していましたが、当時地元で流行していたインフルエンザのせいだと言っていました。この面談の時、スミスは難しい立場にありました。戦地へ向かう師団の指揮を執るというのは職業軍人にとっての大望の一つの頂点であり、それを果たして拒否できるか、という事の他に、戦場で戦う部隊の指揮を拒むというのは、たとえヴィクトリア十字章受勲者であったとしても、あらぬ誤解を招くような行為であったからです。

 面談後、スミスは7日間ベッドに引きこもった挙げ句、部下達に連れられてビルマに向かいました。「その後の行動から、彼が黙って最善を尽くしたことは明らかである」と『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』は記しています。


 スミス将軍がシッタン川にかかる橋梁を早期に爆破して多くの将兵を失ったことについては様々な議論があるようですが、今は検討しないでおきます。ウェーヴェルに激怒されたスミスは師団長職から解任され、入院し、1942年11月に軍役も解除されました。

 しかしイギリスに戻ると、1943年から1946年まで軍事特派員として活躍し、好評を博しました。さらに1946年から1951年まではテニスの特派員を務め、BBCのウィンブルドン戦の解説も頻繁に行います。政界にも進出し、1945年には落選しましたが1950年に当選し、以後16年間保守党議員を務めました。1955年に男爵に叙任され、小説や戯曲なども書き、また自己を弁護する歴史書を書きました。彼の息子のうちの1人は、コヒマの戦いのジェイル・ヒルへの最初の攻撃で戦死したそうです。

チャーチルとウェーヴェルの最初の会談

 北アフリカ戦の英連邦軍の指揮官に関しての記事の続きです。前回は↓こちら。

オコーナーが西方砂漠部隊司令官となる&イタリア参戦(付:OCS『DAK-II』) (2022/01/15)



 今回は、イギリス首相となったチャーチルと、ウェーヴェル将軍の最初の会談についてです。悲惨な結果です。

Sir Winston Churchill - 19086236948 General Archibald Wavell


 このように切迫した状況の中、ドイツ軍がフランスに侵攻した日(1940年5月10日)にイギリスの首相となったチャーチルは、中東戦域軍司令官であるウェーヴェル将軍と協議すべき必要性を切実に感じていました。これまでチャーチルはウェーヴェルと一度も会ったことがなかったのです。ウェーヴェルは当時陸相であったアンソニー・イーデンの指令を受け、8月8日にイギリスに到着しました。

 この会談は二人の関係性にとって悲惨な結果となるのですが、その種はこれ以前に蒔かれていました。フランス軍のたちまちの崩壊を目の当たりにしたチャーチルは5月に、参謀総長【資料では誰か明示されていません。5月25日以前であればアイアンサイド。26日以降ならディル】に対し、イギリス本土の防衛を強化するため、中東から8個大隊を引き抜くように命じたのです。ところがウェーヴェルもまた、中東戦域での侵攻の脅威にさらされていたためこの指示に対して反対し、参謀総長もその判断を支持しました。チャーチルは自分の指示を取り下げましたが、ウェーヴェルが反対したことを決して忘れず、このことが二人の関係を最初から曇らせていたのです。

 6月10日にイタリアが英仏に対して宣戦すると、チャーチルはウェーヴェルに対して、「中立国にイギリスの戦闘力の強さを印象付けるために、イタリアと干戈を交える機会を無駄にしないようにすべき」であると明確に指示します。

 ところがウェーヴェルは、自分の努力も、自分の考えも、まったく連絡しませんでした。7月になるとチャーチルはますますウェーヴェルの中東戦域に対して指示を繰り返すようになります。

 そもそも、チャーチルはかなり強度の双極性障害(いわゆる躁鬱)であったことが知られています。ひどい鬱状態に陥ることもありましたが、そうでない時には基本的に躁状態にありました。自信とエネルギーに満ちあふれ、思考や行動が素早く、絶え間なく大きな声でしゃべり続け、いつも何かを考えており、いつも何かを企画してやむことがなかったのです。彼の案が良い結果を生み出すことも多々ありましたが、もちろんすべてが素晴らしいものではなく(後にルーズベルトは、「チャーチルは一日に100個ぐらいアイデアを思いつくが、そのうち4つぐらいはいいアイデアなんだ」と表現しました)、まわりの人間は彼を押しとどめるのに疲れ果ててしまうのです。ウェーヴェルに対して指図する電報を送りまくるというのも、そのような傾向性ゆえであったと考えられます。

 一方でウェーヴェルの方もまた、特異なパーソナリティを持っていました。その一つは謙虚ということで、これは他の多くの成功した指揮官達とは非常に対照的な性格でした。ウェーヴェルの伝記作家であるコネルはこう指摘しています。
「彼は自分の知的能力を少し疑っていたし、驚くべきことに、この自分だけの考えをずっと維持したままだった。彼は生涯にわたってその控えめな態度を維持し、それが常に自己を卑下する癖と結びついていた。」

 もう一つは寡黙ということでしたが、謙虚であるがゆえに寡黙になった面もあったと分析されています。ウェーヴェルは気心の知れた少人数の中では和気あいあいとした雰囲気でいることがありましたが、いっぽうで世間話はほとんどせず、部下や上司の詳細な説明にも「なるほど」という特徴的な反応しか返さないことがほとんどでした。そしてある意味まずいことに、意見が対立し議論になるような状況においては、彼は多くの場合完全に黙ったままになったのです。

 ロンドンに到着して以降の数日間、ウェーヴェルはアンソニ・イーデン陸相を交えてチャーチルと幾度か長時間の会談を行いましたが、首相が説明を求めたり叱責したりするのに対して病的なまでの沈黙を貫いたため、チャーチルを激しく苛立たせることになってしまいました。チャーチルはまた、軍事指揮官は積極性が最も大事であると考えていたため、ウェーヴェルのこのような特徴は戦場において受動性として働くであろうと推測し、ますます彼への評価を下げてしまいます。

 参謀総長のディルは親友であったウェーヴェルに、「アーチー、頼むから首相と話してくれ」と懇願しましたが、ウェーヴェルの口はますます頑なになるばかりでした。ディルはかなり神経質で心配性な人物であったため、このチャーチルとウェーヴェルとの会談の行方を案じて疲弊し、病気になってしまったそうです。

 しかしともかくも、エジプトでの攻勢にこだわっていたチャーチルは参謀本部との協議の結果、参謀総長と陸相の熱心な賛意もあり、早急にエジプトに150輌以上の戦車と多数の銃を送ることを決定しました。問題なのは、それを喜望峰まわりで送るか、危険を冒して地中海経由で送るかでしたが、チャーチルは遙かに短い日時で済む地中海経由を強く求めました。 

 ウェーヴェルがロンドンを去った後、チャーチルはウェーヴェルを「優れた、平均的な大佐というところだ」と評しました。ウェーヴェルに対するこの過小評価はその後も改善されず、ついにウェーヴェルを解任した後になって、チャーチルは自分の見方が一面的過ぎたのを知ることになるのです。



 双極性障害については以前、↓で書きました。チャーチルの症状についても引用があります。

『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』読了。南北戦争や第二次世界大戦のリーダーに興味のある人にも超オススメです! (2021/03/03)


 個人的にはナルシシズムと社会的成功との間の関係性についても興味があり、著明な将軍にもナルシシズムの持ち主が多いのではないかとも思っている(フォン・マンシュタインとかロンメルとかパットンとかモントゴメリーとか)のですが、ウェーヴェルはどうも逆方向の希有な例だったのではないかと思われます。


<2022/04/18追記>

 『Archibald Wavell: The Life and Times of an Imperial Servant』を読んでましたら、ウェーヴェルが寡黙であった理由について興味深い記述があったので、追記しようと思います。




 ウェーヴェルが中東戦域軍司令官から解任された後の一時期、イギリス本国の「特別情報センター」を良く利用するようになりました。その管理を任されていたジョアン・ブライトという若い女性とウェーヴェルは顔なじみになっており、ある日昼食に誘った時のことです(ジョアン・ブライトの回想)。

 そして我々が黙ったままセント・ジェームズ・パークを歩いていると、彼が突然、きしむような声で「ジョアン、どうして首相は私を嫌いなんだろう?」と言ったのをよく覚えています。でも、それは私の理解の及ばないことではありました。私はどう答えたらいいのだろうと考えました。「あなたは十分に語っていない。表現が足りない。彼は、ギリシャや中東の状況がどうなっているのか、あなたから聞きたがっていたのに、あなたは黙って座っている。彼は、あなたから何も聞き出せないで、イライラしてしまっているんです」。昼食の時に私は、「なぜ、そんなに自分を表現するのが難しいのか」と聞いてみました。彼は答えました。「うーん。子供の頃、応接間に連れて行かれて、そこに座らされて、みんなに質問されて、恥ずかしくなって、それからずっとこうで、治っていないんだ。とても難しくなってしまったんだよ」。
『Archibald Wavell: The Life and Times of an Imperial Servant』位置No.4910


 ウェーヴェルの子供時代にこのようなことが起こらず、もし彼が(性格上寡黙だとしても)最低限は応答できるようであったとしたら、歴史は変わっていた……?

<追記ここまで>



オコーナーが西方砂漠部隊司令官となる&イタリア参戦(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍指揮官について書いていっているものの、長距離砂漠挺身隊を創設したラルフ・バニョルドについて(付:OCS『DAK-II』) (2021/12/29)の続きです。

 今回でオコーナー将軍が出てきますが、オコーナーは、イタリア軍を打ち破った後わりとすぐにドイツ軍によって捕虜になってしまうまで、この記事の中でずっと主役級の人物であり続けます。


RichardO'Connor

 ↑オコーナー将軍(Wikipediaから)


 ↓以前一回まとめていたオコーナーに関するエントリです。

北アフリカ戦線:イギリス軍のオコーナー将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』) (2020/04/10)




 ウェーヴェルは各方面に優れた指揮官が必要としていましたが、リビア方面に関してはオコーナーを選ぶことにしました。オコーナーは大胆さと機転が効くことに定評があって、しかもウェーヴェル同様、部隊の機動力を重視しており、ウェーヴェルはその資質を高く評価していたのです。

 オコーナーは頭の回転が早く(しかも詳細を把握しつつ)、問題の核心を見抜く確かさを持っていました。重圧の下でも冷静で部下達を落ち着かせることができ、戦いに自らの意志を反映すべく、常に必要な時に必要な場所に現れました。機動戦理論を学んだことはありませんでしたが、機動戦の概念を理解する天性を持っていたのです。オコーナーの作戦上のモットーは、「可能なところであれば、どこでも攻勢を」というものでした。


 オコーナーはコンパス作戦とそれに続く対イタリア軍戦役を指揮し、エジプトに侵入していたイタリア第10軍を壊滅に追い込むことになります。




 軍人の息子に生まれたリチャード・オコーナー(愛称はリチャードの短縮形である「ディック」)はサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、第一次世界大戦に従軍して数多くの勲章を得ました。

 モントゴメリーと同じ1920年にキャンバリーの参謀大学で学び、1921~24年にはJ・F・C・フラーが指揮していた実験旅団の旅団副官を務めています。この旅団は歩兵や砲兵と共に、戦車や航空機を総合的に運用するための方法や手順などを実験するための部隊でした。

 その後、1925~27年にはサンドハーストで、1927~30年にはキャンバリーで教官を務めました。1930~32年にかけてはエジプトで大隊を指揮し、その後3年間は陸軍省で勤務。インドで旅団長を務めた後、1938年にはエルサレムの軍事総督と第7師団長を兼任して活発に活動します。これは重要かつ、露出の多い役職でした。また、当時パレスチナの北半分はバーナード・モントゴメリー少将が指揮する第8師団が駐留しており、彼らはアラブの反乱を鎮圧するために協力していたのでした。

 その後モントゴメリーはイギリス大陸派遣軍の第3歩兵師団を指揮することになり、病で予定より早く1939年5月に一度本国に戻りましたが、オコーナーはパレスチナにとどまり続けます。

 1940年5月にドイツ軍がフランスへ侵攻し、ダンケルクの撤退後の6月10日にムッソリーニは英仏連合国に対して参戦することを宣言しました。これまでずっと危惧されてきた、イタリア軍による英仏植民地への侵攻が始まる条件がいよいよ整ってしまったのです。イタリア参戦の翌日、オコーナーはエジプト駐留イギリス軍司令官のウィルソン中将から、カイロの司令部に直ちに出頭するようにという電報を受け取ります。その電報にはそれ以上のことは書いてありませんでした。オコーナーはすぐに出発し、翌日カイロで二人は面談しました。

 この時の様子を見ていた人がこう書き残しています。
「この二人は滑稽なほど、ひどく対照的だった。ジャンボ・ウィルソンは大柄で二重顎、声は低く、ほとんど荘重ともいえるほどのゆっくりした身振り手振りで、自分の椅子と机の上のスペースからはみ出しそうな感じだった。一方オコーナーは小柄で、可愛い小鳥のように椅子の端に座っており、まるで寄宿寮の寮長との初めての面談に臨む内気な中学生のように見えた。彼の声は軽やかではっきりしており、胸に付けた幾多の勲章のリボンだけが彼の穏やかな態度を裏付けていて、ここにいるのが30年もの間非常に立派な功績を残してきたプロフェッショナルな軍人だということに気付かせてくれるものだった。」

 ウィルソンはオコーナーに対して、すぐにメルサ・マトルーへと赴き、リビアとエジプトの国境地域の全軍を指揮し、イタリア軍の攻撃からエジプトを守る任務を引き受けるように命じたのです。

 この指示を受け取った時の感情について、オコーナーはこう回想しています。
「驚き、そしてもちろん、誇りに思った。」
 そして、こう付け加えています。
「私の記憶では、方針について非常に大ざっぱな指示を受けただけだった。私は異議を唱えなかった。実際、私は自分に一任されることを気にしなかった。」

 実際の所、当時イタリア軍がどのような意図を持っているかの情報は非常に乏しく、イギリスの地中海方面における軍機構もまだ大したものではなかったため、ウィルソンはほとんど具体的な指示を出すことができなかったのでした。

 ただしフランスの敗戦は確実であり、イギリスにとってフランスは、中東におけるイタリアの侵攻に対する防衛上のパートナーであったため、戦力バランスの逆転は避けられないと思われました。

 オコーナーはその日のうちにメルサ・マトルーに向かって出発します。司令部はマトルーの東約50kmの海岸近くの砂丘にあるマアテン・バグシュ(Maaten Baggush)にあり、オフィスは砂丘の下にうまく隠されて防弾構造になっていました。また、コンクリートの平屋建ての建物には上級士官の食堂が設けられており、寝泊まりは全員がテントでしていました。海水浴場も2つあったとか。


 ↓OCS『DAK-II』のメルサ・マトルーを中心とする地域。少し東にマアテン・バグシュ、東端にはエル・アラメインがあります。

unit9097.jpg




 リビア・エジプト国境では小さな小競り合いでイギリス軍側がイタリア軍側に損害を与えたり、捕虜を得るなどしている中、オコーナーは部隊を強化すべく活動を始めました。オコーナーは将校達とも緊密な関係性を築き、柔軟な指揮が容易になっていました。ただし、オコーナーは現地調査や偵察において自ら最前線へと出かけて自らを危険にさらしたことから、ある時には部下(第4機甲旅団長であったカウンター准将)から諫められ、謝罪したということもありました。もっとも、調査や偵察はどうしても必要であったため、それをやめるということはなかったようです。

 イタリア領リビアの総督であったバルボは、6月28日に乗機が味方の高射砲に撃たれて死亡していたため、グラツィアーニ元帥が代わりに赴任していました。

 1940年7月17日、麾下に第7機甲師団と第4インド師団を持つ西方砂漠部隊(Western Desert Force)が組織され、司令官にオコーナー少将が任命されます。第4インド歩兵師団は戦闘未経験ではありましたが、長年訓練されてきたインド軍の最上の部隊でした。

 オコーナーの最大の関心事は徹底した訓練を行うことであり、砂漠での戦いのために部下達と共に様々な試みをしていました。しかし訓練による車輌の消耗が激しく、部品の交換や補給の点での困難が予想されたため、7月末、大規模な戦闘に備えて戦車を撤退させることを決定します。前線には第7機甲師団の支援グループや機械化歩兵、大砲などが残され、カバーすることになりました。



 ↓OCS『DAK-II』の西方砂漠部隊司令部(軍団規模です。詳しくはこちら

unit9099.jpg


 ↓OCS『DAK-II』の初期の第7機甲師団(中期、後期についてはこちら

unit9307.jpg


 ↓OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団

unit9098.jpg


OCS『Sicily II』サンセット和訳の結構重大なミスが発覚しました……(T_T)

 OCS『Sicily II』をプレイしていて、私が作ったサンセット和訳の結構重大なミスが発覚しました……(T_T)


 枢軸軍補充表のダイス目「9」の箇所が「航空」となっていますが、正しくは「Pax」でした。

 申し訳ありません(>_<) お持ちの方は、赤ペンで修正しておいていただければ……。



 他に、ミスとまでは言えないとしても、より分かりやすく表現を直した方が良さそうな部分がありましたので、それらも書いておきます。こちらも赤ペンを入れてもらったら良いかと思います。


 「1.2c 使用可能な港湾」にある、それぞれの陣営の使用可能な港湾についての記述で2箇所、

(は含む)への範囲の【……】

 とありますが、ここを、

(それぞれを含む)の範囲の【……】

 と修正してもらったらと思います(元の和訳は、片方だけを含むかのように解釈できるものになっていました)。


 また、枢軸軍到着表と連合軍到着表のそれぞれの「14 July」の「このターンの最後に……」の直後に、

・いずれかの司令部に【……】

 とありますが、ここを、

・任意の司令部に【……】

 と修正してもらったらと思います(元の和訳では、国籍毎に1つずつと解釈される可能性がありました。実際には同じ国籍に2つ置いても構いません)。



 サンセット和訳を作った後に出たエラッタもありますので、↓もぜひチェックしておいて下さい。

OCS『Sicily II』の最新エラッタを和訳してみました (2018/11/17)


 また、シナリオ5「ハスキー作戦」用のサマリーは↓こちらです(他のゲームでの上陸作戦のサマリーにも使えると思います)。

OCS『Sicily II』「ハスキー作戦」シナリオの連合軍用サマリーを作ってみました (2021/09/26)


第二次世界大戦において「名将」と呼べる人物は……?

 先日、古本屋で『撤退戦の研究』(半藤一利 江坂彰 2015年出版)という本を見つけて買ってきました。




 この本、別に古今東西の「撤退戦」について研究した本というわけではなく、旧日本軍が撤退すべき時に撤退できなかったことや、バブル後の日本の産業界が撤退すべきなのに撤退できなくて苦境に陥っていることを色々批判している本です。


 その中に、江坂彰氏の方が語っている箇所にこういうくだりがありました。

 世界の名将として私が挙げたいのは、陸軍ではドイツのマンシュタインとロンメル、旧ソ連のジューコフ、海軍ではアメリカのニミッツとスプルアンスのどちらを挙げるか難しいところです。山本【五十六】は、名将の一歩手前で終わった将軍だと私は思っています。
『撤退戦の研究』P108


 海軍に関しては私は全然分からないのですが、陸軍でフォン・マンシュタイン、ロンメル、ジューコフというラインナップには興味を覚えました。私ならどう考えるか……?(こういうのは、人によって考え方が異なり、それで色々意見が分かれるというところが面白いものかと思います)


 フォン・マンシュタインは、驕慢で、非人道的行為を黙認したことについてほっかむりして、自己宣伝と自己弁護に努め……という話などは読みましたが、それらのナルシシズムなどはロンメルやジューコフやグデーリアンなども含めて、世の中の「成功者」には多く見られる特性であり、怖い面もあるが良い面も大きいという見方が最近の心理学の世界では言われるようになっており(例えば今検索して見つけた「成功者になりたければ「ダークトライアド」に学べ!? 厄介な彼らが持つ “意外といいところ”」とか)、私はこれらの特性については個々人を批判するよりも、「どうも広くそういうものらしい(もちろん例外もたくさんあるとして)」という風に理解した方が良いのではないかと思っています。

 フォン・マンシュタインの軍事的力量については最高の名将としか言いようがないのかな、と思います。尤も、マンシュタインが失敗した例についての分析を良く知らないだけかも……?(ただ、コルスン包囲戦の前段階でフォン・マンシュタインは自軍が包囲を行えるように突出部を残しておいたのだが、そこを包囲された……という話も読みましたが、大した失敗ではないということかもしれません)


 ロンメルについては最近集中的に諸資料を読んでいるのですが、「名将だと持ち上げられすぎた将軍」という評価がここ数十年では定まっている?そうで、確かにそうかもしれないとは思います。初期のトブルク攻略戦では思い込みで偵察などもせずに無理に戦力を性急に投入して失敗を繰り返し、クルセイダー作戦の時にはクリューヴェルの方が状況判断が確かだったりしたようです。ただ、北アフリカ戦の中期頃から、良い参謀将校を得て信頼するようになり(それまでは参謀将校を信頼していなかった)、それらに業務を任せることでより戦果を出せるようになったとか。ナルシシズムの側面はあり、自身が並外れてタフであることもあって麾下指揮官らへの要求も非常に厳しいという面もありますが、努力する指揮官は高く評価し、兵士達からは熱狂的に愛され、また非人道的行為に対して潔癖であるという長所もあります。

 フォン・マンシュタインが万能に巧いように見えるのに比べると、ロンメルは「意表を突く(ショック戦)」とか「撤退戦」が突出して巧いという気はします。一般にはロンメルは、フォン・マンシュタインをも凌ぐ第二次世界大戦最高の名将であるというような見方もされていた向きもあるかとは思うのですが、恐らくそこまででなく、一時期が高く評価されすぎていたのだとは思います。が、名将か名将でないかと言うと、人間的な高評価の面で加点され、ギリギリ名将の枠内に入るかもと思います。


 江坂氏から、グデーリアンの名前は出ないのだなぁ、と思ったのですが、グデーリアンはフォン・マンシュタインやロンメルのような、困難な状況をひっくり返して勝ちに持っていくというような場面に乏しい……?

 もう一人、ドイツ陸軍から名将候補を出せと言われたら、マントイフェルとかモーデルとか……? でも私はこの両名についてまだ詳しくありません(>_<)(まだ知識が大戦前半に偏ってます)


 ジューコフに関してですが、ナルシシズムは前記に則って置いておくとして、また部下や兵士に対して苛烈であることもしょうがないとして、精力的であることはいいと思いますが、戦いの技巧に関してうまいという印象を私は、これまで読んできた本からはあまり得ていません。むしろ、どちらかというと下手であった可能性すら……?

 例えば、『Moscow 1941 Hitler's first defeat』にはこう書かれていました。

 彼の攻撃は多くの場合連携度が低く、決定的な結果が得られるような大規模攻撃をおこなうよりも、多くの小さな師団レベルの攻撃で予備を浪費する傾向があった。
『Moscow 1941 Hitler's first defeat』P19


 もちろん、この評価が正しいかどうか分からないのですが……。


 個人的にはソ連軍では、ジューコフよりもヴァシレフスキーやチュイコフの方がその行動や思考に感嘆します(知的で我慢強い。ジューコフは、怒鳴り散らし処刑しまくりで、防御戦はともかく攻勢時には足すくわれすぎでは?)。ロコソフスキーもかなり良さげです。全体的なバランスからするとトップクラスの人物のような。しかし彼らについても私はそれほど良く知っているわけではないですし、巷間にはほとんど知られてないでしょうから、そこらへんの面で「私が名将だと思うランキング」に登場しにくいということはありそうです。


 他に名将として名前が挙がりそうな、あるいは自分なら挙げるのではないかという人物を考えてみたのですが、イギリス軍のスリム将軍は(まだ私も良く知りませんが)完全に名将の枠内に入る人物なのではないでしょうか。

 スリム将軍については、↓からのリンク先のpdfファイルの記事がオススメです。

インパール作戦関係書籍などをある程度読んでの感想 (2020/02/22)


 イギリスではモントゴメリー将軍よりもスリム将軍の方が評価されているらしいのですが、日本での知名度が低すぎなのではないかと思います。個人的には、日本人は牟田口廉也について云々するよりも、スリム将軍について分析した方がためにもなるのではないかと推測しているのですが……。

 あとイギリス軍では、オコーナーは結構名将になる可能性があったと思うのですが……。しかし、オコーナーはイタリア軍相手にはものすごい戦果を挙げましたが、ドイツ軍とロンメルに対しては大したことはできなかったか、何もできなかった可能性もあるかもです(というのは、イギリス軍のドクトリンが結構ダメすぎるという点がでかいとは思うのですが。モントゴメリーも、エル・アラメインではそれまでのダメすぎドクトリンをやや改善した上で、機動戦に乗らずに物量で勝負するという方法で勝利しましたが、その後あまりぱっとしなかった)。


 パットンやブラッドレーは、特定の領域で非常に優れた将軍であったと思いますし、私は結構好きなんですが、「名将」の枠に入るのかと問われれば、うーん、ちょっと得意領域の幅がそこまで及んでいないかな、という気はします。


 結論として、私が現状の知識で第二次世界大戦の「名将」を挙げるとすると(ある程度以上の上級指揮官に限るとして)、

1.フォン・マンシュタイン
2.スリム
3.ロンメル

 という感じでしょうか……。


 個人的に、ミリタリーの領域の中で「将軍」の能力や人物像の話が大好きなので、そこのところをもっともっと資料を読んでいきたいと思っています。

『戦略の世界史(上)』で個人的に価値のあった部分(付:OCS『The Third Winter』ネタ)

 少し前に出ていた『戦略の世界史(上)』をつまみ読み(興味のある所だけを読む)し終わりました(下は興味ないことばかりっぽかったので買っていません)。




 全般的に、総花的で難解な内容だったんですが、個人的に興味のあるテーマについて、いくらか非常に価値のある部分がありました。

 ナポレオン関係ではある程度既知なものもありましたが、いくらか「なるほど~」と思うことがありました。

 個人的な白眉は、南北戦争のあり方に関して1ページ弱でまとめられた文がものすごく「なるほど」だったことです(P236)。


 それから、電撃戦(ショック戦)の創始者的な扱いをされるJ・F・C・フラーやリデル・ハートがそれぞれに、思い込みや盗用や循環論法など、様々なウィークポイントを持っていたことがかなり多い分量で書かれていて、それが個人的に非常に興味深かったです。こういう、毀誉褒貶の両面を詳しく解説するものが個人的に大好きです(逆に、褒めるばかりとか貶すばかりとかの文は、個人的に好みでないです……)。




 あと、洋書でよくある、章の頭に何か本とかからの引用文を置いておくもので、↓というのがあったのですが……。

第12章
核のゲーム

たとえて言えば、瓶の中の二匹のサソリだ。それぞれ相手を殺す力を持つが、そのためには自らも生命の危険を冒さなければならない。
 - J・ロバート・オッペンハイマー
『戦略の世界史(上)』P296


 ここを読んで、「ああっ! これがOCS『The Third Winter』のコルスン包囲戦シナリオのシナリオ名の元ネタか!」と思いました。


 というのは、OCS『The Third Winter』のコルスン包囲戦シナリオのシナリオ名は、「Scorpions in a Bottle」というのですが……。

OCS『The Third Winter』のコルスン包囲戦シナリオのソロプレイを始めました (2021/07/23)
ミドルアース大阪にてVASSALでプレイ&OCS『The Third Winter』コルスン包囲戦シナリオ研究 (2021/11/09)

 シナリオ集を和訳する時に私は、「何か元ネタがありそうな言葉だなぁ……」とは思ったものの、元ネタが分からないので推測で訳すしかありませんでした。

 包囲戦なわけですから、ドイツ軍を「瓶の中のサソリ」に見立てている……というのが最初に思いついた解釈でしたが、問題は、「Scorpions」と、サソリが複数形になっていることでした。だとすると、そのサソリは2匹以上であることに疑いはないことになります。とすると、独ソ両軍を2匹のサソリとして見ているのだろうかとして、一時期は「瓶の中の2匹のサソリ」だとか「瓶の中のサソリ達」というような訳語案を色々こねくり回していました。

 しかしそれらの和訳だと、私も意味するところが良く分からないので、最終的に日和って「瓶の中のサソリ」という訳にしたのでした……。


 尤も、このオッペンハイマーの言葉が元ネタであるという確証もないですが……(良く考えてみると、OCS副班長のサルツマン氏に質問してみれば良かったのか……! その発想はなかった(^_^;)。

イタリア軍部隊に作らせたダミーの88mm砲にロンメル自身が騙された話&イタリア軍88mm砲部隊の画像や動画

 以前、イタリア軍が購入したドイツ製の88mm砲の部隊について書いていたことがありました。

OCS『DAK-II』に見る88mm砲を装備したイタリア軍高射砲大隊ユニット (2017/05/18)


 ↓OCS『DAK-II』のイタリア軍88mm砲ユニット(かもしれないもの)

0011.jpg



 恐らくそのイタリア軍の88mm砲部隊に関してだろうと思うのですが(違うかもですが)、ロンメルがイタリア軍部隊にダミーの88mm砲を作らせたのだが……という話を、『Rommel's North Africa Campaign』で読んで面白いと思ってました。




 クルセイダー作戦による戦いでロンメルが撤退を余儀なくされ、いったんかなり退いていた頃の話です。

 メルサ・エル・ブレガでロンメルは、残り少ない88mm砲(約1ダース)をイギリス空軍の攻撃から守るために、あるイタリア軍部隊にそのダミーを作るように命じた。イタリア人達の仕事があまりにも素晴らしかったため、数日後にロンメルが通りがかった時にそこで停車して、本物の88mm砲を航空攻撃の標的となってしまうような場所に置いておくとはどういうことだ、とその部隊の指揮官を叱りつけ始めたほどであった。その部隊は、いくつかの電柱で使ってこの仕事を成し遂げたのであった!
『Rommel's North Africa Campaign』P136



 アーヴィングの『狐の足跡』を読んでいたら、この件についてより詳しく書いてありました。



 彼【ロンメル】はアジェダビアには恐るべき威力を有する88ミリ高射砲 - 一門で戦車一個中隊を葬り去ることができたを - 12門たらずしか持っていなかったので、イタリア軍に囮の砲を作り、ちょうどハルファヤ峠の場合と同じように、本物の砲は壕の中に配置して十分に掩護し、その間隔を大きくとるように命じた。しかし数日後、再びこの地区を視察した彼は、88ミリ砲がはっきりと判るように配置されていて、猛烈な敵の砲火を吸引しつつあるのを見た。そこで彼は怒って、自分の命令に違反した責任者が誰であるか調べようとして車をとばして行った。しかし彼はきまり悪そうな顔をして帰って来て、「あれは囮だった」ことを認めた。「イタリア軍は電柱であれを作ったのだ。偽装のために塗られたペンキの色で、すっかりだまされてしまった」彼はその出来ばえをほめて、イタリア軍の指揮官に次のようにいった。「もし、われわれがもっと西の方へ退却することがあれば、そのときには、この囮の砲を持って行きたまえ。われわれが別なものを考え出すまで、これを敵の手に渡すことはない」
『狐の足跡』上P219



 これを機会に再度、イタリア軍の88mm砲部隊について少し探してみたのですが、文章的なものは見つけられませんでした。しかしその代わりに、画像と動画を見つけたので、紹介しておきます。

88mm Italian artillery in North Africa during WWII

Italian soldier in North Africa 1941–43

 ↑こちらはオスプレイの『Italian soldier in North Africa 1941–43』がGoogle Booksで引っかかったもので、本の内容の一部も読めます。




 ↑ロンメル視察下のイタリア軍砲兵部隊の様子のようです。


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR