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OCSで敵のいたヘクスに退却できるか?(以前はできたけど、v4.3ではできなくなりました)

 OCSは退却方向に関する規定が割と曖昧な印象があります。というのは、基本的にこういう感じの規定なので。

9.12c 退却方向 ユニットの退却は、その軍のプレイヤーが行います。スタック単位でも、個々のユニット単位でも退却できます。退却は通常、直前の戦闘における敵ユニットから離れる方向に行われるべきですが、損失を避けるために、“局所的に後方へ向かった”と見なされるようなカーブを描いた退却も可能です。


 ところが先日の『KOREA』オンライン対戦で、↓のような状況になったので質問してみました。

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 中央のアメリカ軍ユニットは全周6ヘクスから包囲された上で攻撃され、AL1o1 Do1の結果が出ました。北朝鮮軍は2ステップロスさせ、33.05が空きました。アメリカ軍ユニットはDo1を満たさなければなりませんが、33.05に退却しても良いのかどうか?

 facebook上でOCS副班長のサルツマン氏が教えてくれたのは、以前のOCSシリーズルールではこのような退却は許可されていたのですが、v4.3では9.12fという項目が追加され、それが不可とされるようになったということでした。

√9.12f 敵ユニット 戦闘の開始時に敵戦闘ユニットのいたヘクスを通って退却はできません(そのため、攻撃側のユニットがステップロスやオプションを満たしたために空になったヘクスを通って退却することはできません)。非戦闘ユニットや航空ユニット、艦船ユニットを通る退却は、移動時と同様に処理します(9.14に従って)。


 私が訳したんでしたが、まったく分かってませんでした(^_^;

 以前、v4.3を総ざらえで和訳したのはあまり意味がなかったかなぁとも思っていたのですが、v4.3の時点でこのような重要な改訂があったのであれば、必要なことだったと言えそうですね~。

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長距離砂漠挺身隊を創設したラルフ・バニョルドについて(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝についての記事で、ウェーヴェル将軍についての続きです。


 長距離砂漠挺身隊(LRDG:Long Rage Desert Group)を創設したラルフ・バニョルドについてですが、どちらかというとウェーヴェル将軍を称揚するものになっていると思います。


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 ↑ラルフ・バニョルド(Wikipediaから)



 ↓OCS『DAK-II』の長距離砂漠挺身隊ユニット(一番左のもの)

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 記事は、創設の経緯についてのみで、その後については日本語版Wikipedia「長距離砂漠挺身隊」で見てもらったら(私が書いたものとWikipedia上で情報の相違がありますが、私が書いたものは参照した洋書による数字になります)。

ラルフ・バニョルドと「長距離砂漠挺身隊」の誕生


 ウェーヴェル将軍は中東戦域で大兵力のイタリア軍に寡兵で対抗するため、欺瞞や特殊作戦などの非正統的な手段をも大いに活用することに努めます

 そのうちの一つが、長躯砂漠を横断して敵後方に破壊工作を行う「長距離砂漠挺身隊(Long Range Desert Group)」でした。これを考えたのはラルフ・バニョルドという地質学者兼、砂漠探検家で、彼を1939年10月初旬という早い時期に一本釣りしていたのがウェーヴェルだったのです。


 ラルフ・バニョルドの父は工兵科の軍人で、1884-85年にハルツームへのゴードン将軍救援遠征に参加した経験がありました。

 バニョルドは王立陸軍士官学校で学んだ後、父も在籍した王立工兵学校に入ります。第一次世界大戦では西部戦線で従軍。

 戦後は工学を学んで修士号を取得した後、1920年に再び陸軍に入り、エジプトとインド北西部で軍務に就きました。彼はその両方の場所で、休暇の多くを地元の砂漠の探検に費やします。1920年代後半から1930年代にかけて、バニョルドと彼の仲間達は、砂漠を探検するためにA型フォードやトラック型のフォード車などの自動車を使用した先駆者達となりました。

 バニョルドは1932年にはリビア砂漠の東西横断を初めて達成し、有名になります。その後も彼は何度も砂漠を奥地まで探検し、太陽コンパスを改良したり、柔らかい砂漠の上を走る際にタイヤの空気圧を下げる方法や、大きな砂丘の上をより安全に走る方法を考案したりしつつ、その行動範囲を2000km以上にも広げていたのでした。

 1935年に再度陸軍を退役していたバニョルドですが、1939年9月3日にイギリスがドイツに対して宣戦布告したため召集され、ケニア戦線に配属されることになります。ところが任地への移動中、乗っていた船が10月初旬に商船と衝突してしまったため、バニョルドは別の船に乗り換えてエジプトのポート・サイードに到着し、そこでケニア行きの船が来るのを待つことになりました。

 エジプトは彼にとって旧知の土地でした。船を待つ間、バニョルドはエジプトの旧友らと会おうとカイロまで列車で移動し、知人の一人と高級レストランで食事をしているところを、新聞社のゴシップコラムニストに目撃されます。その新聞の一報によってウェーヴェルはバニョルドがカイロにいることを知り、直ちに将校を派遣してバニョルド探させました。

「この男だ!」
 将校がバニョルドを見つけた時、こう言ったそうです。

「ウェーヴェル将軍が、あなたにすぐに会いたいと言っています。」

 ウェーヴェルに初めて会った時のことを、バニョルドはこう書いています。
「私が会ったのは、非常にがっしりした男だった。厳格な、幾多の困難に耐えてきた顔つきで、その片目はとても輝いていた【ウェーヴェルは第一次世界大戦で左目を失明していました】。彼は明らかに私のことをすべて知っており、私にエジプトで軍務に就く気はないかと尋ねた。私はぜひそうしたいと答えた。それでおしまいだった。陸軍省はその2日後には私の配属先を変更した。」

 バニョルドはメルサ・マトルーへと送られました。彼はそこで、イギリス軍が所有していたリビアの地図の最新のものが、1915年という古いものであることを知ります。彼はまた、イタリア軍によってもたらされる脅威に対する上級将校達の無関心さに愕然としました。彼らは敵がメルサ・マトルーに対して全戦力でもって攻撃をするだろうし、そしてそれは簡単に撃退できるだろうと信じていたのです。しかしバニョルドは、1920年代のリビア砂漠探検の時に何人かのイタリア人に出会ったことがあり、イタリア軍が秘密裡に内陸の砂漠地帯を横断して、南側面からイギリス軍を奇襲する可能性があると考えていました。

 そのため、バニョルドがまず構想したのは、エジプトとリビアの国境線700マイル(約1127km)をパトロールするための小規模な偵察部隊を編成することでした。ところがこの案は直接の上司から却下され、1940年1月に再び提出するも同じ処置を受けてしまいます。上司から煙たがられたためか、翌月にはバニョルドは別の部署へと異動されてしまいました(ただしこの却下は、イタリアとの開戦前にムッソリーニを刺激するようなことはすべきではないということが理由だった、とする資料もあります)。

 しかしバニョルドは諦めず、1940年6月10日にイタリアがイギリスに宣戦布告した後、自分のアイデアを軍幹部に納得させるために次のような文を追加して3度目の上申を行うことにしました。
「各車両には3人の乗組員と機関銃、3週間分の食料と水、それに軟弱な砂漠を2,500マイル(約4,023km)移動するためのガソリンを載せることとする……各パトロール隊は無線機、航行用機器、その他の装備、医療品、予備部品、その他の道具を携行する。」

 今回は、バニョルドは友人のディック・ベイカー准将に、提案が直接ウェーヴェルの手に渡るようにと託すことにしました。ベイカーは首尾良く4日後の6月23日にそれを成し遂げ、バニョルドは再びウェーヴェルと会えることになりました。

 バニョルドはこう回想しています。
私はそれと知らされてから、たった一時間でウェーヴェル将軍と会うことになった。ウェーヴェルは一人だった。彼は私に、肘掛け椅子に座るようにと手を振ると、私の提出した書類を手に取り、「これについて、もっと教えてくれ」と静かに言った。」

 バニョルドは軽車両によるパトロールについて話しました。
「小規模で自給自足型の、特別に訓練を受けた部隊が、リビアとの国境の無人地帯を調べます。そして敵の攻撃準備の跡を発見することによって、イタリア軍攻撃の警告を出せるようにするのです。」

 ウェーヴェルは少し懐疑的な様子で尋ねました。
「もし、そのような攻撃準備がなされていなかったらどうするのかね?」
 バニョルドはこう答えました。
「砂漠の中で海賊行為をするというのはどうです?」
 海賊行為という単語で、ウェーヴェルのそれまで険しかった表情が、あっという間に喜色満面の笑みに変わりました。逡巡すらせずに、彼は言いました。
「6週間で準備ができるかね?」


 そしてウェーヴェルは参謀長を呼んで、バニョルドの物資の要求に即座に、そして疑いなく従うことを命ずる、言わば「護符」を口述しました。バニョルドの考えをいくつか聞いた後、ウェーヴェルはまたいくつかの質問をしましたが、彼がよくそうするのと同様、詳細な指示は与えませんでした。

 ウェーヴェルは言いました。
「準備ができたら作戦命令書を書いて、直接私のところに持ってきてくれ。私が連署するから。」

 バニョルドはこう回想しています。
「なんて人だ! 私はまったく仰天してしまった。瞬時の決断で、彼は私に、私が最善だと思ったことは何でもできるように、全権を与えてくれたのだった。」

 ウェーヴェルはこの準備中に何度もやってきて、進行の度合いを視察し、初期の活動報告を聞いてその数を2倍にするように指示しました。ただし、この長距離砂漠挺身隊員の数は200名を越えることはありませんでした。ウェーヴェルは彼らのことを、「蚊の軍隊」と呼んでいたそうです。



OCSの空挺降下(空中投下)の「クリア」の定義をずっと間違って理解してました(>_<)

 OCSの空挺降下(空中投下)の「クリア」の定義をずっと間違って理解していたことが判明したので、ご報告と新しい和訳データについてです。


 OCSで空挺降下(あるいはSPを空中投下)する時には、航空輸送判定表というのを用いますが、そこでの「クリア」の注釈は以下のような和訳にずっとしてました。

「クリア」とは、平地、および村と航空基地のある平地のことを指します。それ以外は「障害」です。


 ところがその原文は「‘Clear’ is Open or Village, or any hex with an airbase; otherwise ‘Closed’.」というもので、タエさんが「航空基地があれば、他がどんな地形でもそのヘクスは「クリア」なのではないか」とご指摘に。確かにそうだと思われ、また平地や村に関しても、もしかしたらそれらの地形が(少しでも)ありさえすれば「クリア」である可能性もあるかもしれないと思って、facebook上で質問してみましたところ、最終的にこういう答でした。

「クリア」とは、平地だけのヘクスと、村か航空基地のあるヘクス(他にどんな地形があったとしても)を指します。それ以外は「障害」です。


 航空基地や村があれば、そこには空挺降下ができるだけのある程度広い平地があるとみなすことができる、ということのようです。だとすれば、ヘクスの中に平地が少しでもあればそこには空挺降下ができるだけのある程度の土地があるとみなせるのではないかとも思ったのですが、それはダメだそうです(^_^;


 OCSチャートの和訳でもそこを修正しましたが、(めんどくさいので)青色で色々書き加えてあるもののみを修正しました。↓で公開してます。

OCSの物置2

 今まで、青色で色々書き加えていないバージョンも公開してましたが、そちらはもう更新する気になれないので公開停止しました……。

 もし印刷されるのであれば、1ページ目だけを印刷して差し替えてもらえればと思いますし、あるいは赤ペンで修正でも良いかと……。


北アフリカ戦に登場する「フィラエニのアーチ」について(付:SCS『North Africa』、OCS『DAK-II』)

 SCS『North Africa』の翻訳作業を始めたのですが、1.3cに「Acro dei Fileni」という項目があり、何のことか気になったので調べてみました。


 ↓SCS『North Africa』の「Acro dei Fileni」

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 ↓OCS『DAK-II』を見てみたらまったく同じように書かれていましたが、今までまったく気にしていませんでした(^_^;

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 検索してみたところ、英語版Wikipedia「Marble Arch (Libya)」というのがひっかかり、写真を見て、「あっ、北アフリカ戦の写真集か何かで見たことある!」となりました。


Arch of the Philaeni 01

 ↑「1937年3月のフィラエニのアーチ」(Wikipediaから)



Bundesarchiv Bild 101I-782-0009-01A, Nordafrika, Panzer III

 ↑「1941年3月、キレナイカでの枢軸軍の反攻を開始するため、アーチの下を進むアフリカ軍団のドイツ軍戦車。」(Wikipediaから)



 由来としては、ファシスト政権下でリビア総督であったイータロ・バルボの要請によって作られたもので、リビアの中のトリポリタニア地域とキレナイカ地域のほぼ境目のところにあった、カルタゴの伝説的な?兄弟である「フィラエニ兄弟(故郷の国境を守るために生き埋めになることを選択したらしい)」の祭壇の場所に作られたものらしいです。

 これはイタリアによるリビア支配の象徴と見られたらしく、それを嫌ったリビアのカダフィ大佐によって1973年に爆破されたとか。

 このアーチにしろ、兄弟のことにしろ、日本語のページには全然ヒットしないので、日本では両者とも全然知られていない(少なくともウェブ上では話題になっていない)もののようです。


 かく言う私も、OCS『DAK-II』でさんざん、このアーチのあるヘクス(A19.35)にユニットやSPをやりとりし、何度も何度もこのヘクスを見ていたのに、「Acro dei Fileni」「Marble Arch」という表記をまったく気にしていませんでした(^_^;


 せっかくなので、できればこういう事も楽しみながらゲームができればと個人的に思います。


「ザ・チーフ」アーチボルド・ウェ-ヴェル将軍について(イタリア軍参戦の頃まで)

 北アフリカ戦における英連邦軍の指揮官人物伝についての記事で、「ホーボー」ホバート将軍「ジャンボ」ウィルソン将軍に次いで、ウェーヴェル将軍についてです。


Archibald Wavell, 1st Earl Wavell

 ↑ウェーヴェル将軍(Wikipediaから)



 ウェーヴェル将軍については以前、↓のようなエントリを書いてました。

インド人300万人を死に追いやったチャーチルvs.ウェーヴェル将軍の戦い (2018/05/13)
北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)
OCSユニットで見るウェーヴェル将軍が訓練したイギリス軍の第6歩兵旅団(『The Blitzkrieg Legend』、『Burma II』) (2021/01/14)


 今回は、より読み物っぽくしたもので、かつ、イタリア軍参戦の頃まで(グラツィアーニ攻勢がまだ始まってない時点)です。なぜなら、ウェーヴェルがバトルアクス作戦後に解任されるまでに、他の人物(オコーナーやニームなど)が絡んできて、ウェーヴェルに関する記事がやや細切れになっているからです。


 北アフリカ戦に関して調べている時はウェーヴェルはとにかく有能で、何冊もの洋書を参照してもけなす記述はほとんど見なかったのですが、実は今日、ビルマ戦についての最新の洋書である『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』で日本軍のラングーン攻略のところまでを読了しまして、バトルアクス作戦で解任された後インド方面で指揮をとることになったウェーヴェルは、この本ではまったくいいところなしどころか、「戦力もないのに精神論だけで勝てる勝てると言うだけの無能な上司で、下級指揮官を自分の無能のせいで作戦に失敗させておきながらその指揮官に激怒して解任するというとてつもないダメ指揮官」として描かれており、個人的にかなりショックでした(^_^;




 インド・ビルマ方面指揮官としてのウェーヴェル将軍に関しては、今まで本は持っていても読んでなかったのですが、今後また色々な本を参照してみようと思います。


「ザ・チーフ」 アーチボルド・ウェーヴェル

 ウェーヴェルは学生時代に文学、古典、歴史、芸術などへの大きな興味と才能を示しましたが、軍人であった父親(最終的には少将にまで昇進)の意向に沿い軍に入ることになりました(ただし校長が父親に対し、「他の人生を歩むのに充分な能力を持っている」ので彼を陸軍に入れる必要はない、と忠告したそうです)。

 第一次世界大戦ではまず西部戦線で第9歩兵旅団副官に任命され、歩兵の状況を改善するために努力します。ウェーヴェルは模範的な態度、どんな状況にも動じない冷静さ、比類なき任務への献身と明らかな強靱さで、すぐに信頼を得ました。第2次イープルの戦いの最中に砲弾の破片で左目の視力を失う一方、この戦いでの士官や兵士達の戦死者の多さにも衝撃を受け、特別な訓練を受けた部隊でもって秘密裡に移動し奇襲をかける構想などを抱くようになりました。

 一時期ロシア軍との間の連絡将校を務めた後、1917年6月には帝国参謀総長サー・ウィリアム・ロバートソンによって、エジプト遠征軍司令官であったエドモンド・アレンビー将軍との間の個人的な連絡将校に任命されます。アレンビーが目覚ましい活動でトルコ軍に対して数々の勝利を重ねるうちに、ウェーヴェルはアレンビーの熱烈な信奉者となり、自分の師であるとみなすようになりました。ウェーヴェルがアレンビーから学んだのは、奇襲、欺瞞、健全な作戦計画の重要性、それに砂漠における水やその輸送などの兵站への細心さなどでした。また、パレスチナでの作戦からウェーヴェルは、機動力を持つ良く訓練された歩兵ならば、塹壕戦のような膠着した戦いを打破するような、重要な役割を果たすことができるはずだという考え方を強化しました。

 一次大戦が終わった後、1926年には第3歩兵師団の幕僚として実験的な機械化部隊の立ち上げに参加。1930年に第2歩兵師団に所属する第6歩兵旅団の旅団長に任命され、翌年に旅団副官としてエリック・ドーマン=スミスが配属されると、ウェーヴェルはこの副官と共に第6歩兵旅団を「最も優秀でプロフェッショナルな歩兵部隊」とするべく、後に伝説とまでなった訓練を施していくことになりますドーマン=スミスについては後述しますが、非常に興味深いエピソードにあふれる人物であり、オーキンレック将軍にも大きく関わってくるので、この名前をぜひ覚えておいて下さい)。

 ウェーヴェルの願いは、部下の指揮官と兵士達を、第一次世界大戦の歩兵戦のような失敗と混乱が二度と起こらないように鍛えることでした。彼にとって、ミスがないように部下を過大に監督して行う訓練などは訓練ではなく、当事者自身がミスから学び、そして当事者自身がそれを避けることを考えていくべきものでした。

 二人の作り上げた訓練方法はリアルで、兵士達の興味を惹くように設計されていました。また輸送部隊や砲兵部隊を機械化したり、迫撃砲や対戦車砲などの重火器をいかに歩兵大隊に組み込むかについても工夫が凝らされました。ウェーヴェルは、マニュアル上で必要とされていた6人ではなく、2人だけの乗組員で装甲車に機関銃を搭載して運搬する構想を作成したため、「健全ではない逸脱者」扱いされたりもします(このアイデアはブレン・ガン・キャリアーという形で残ることになりました)。しかしこれらの努力により第6歩兵旅団は「実験旅団」に指定されることになり、二人の熱意もさらに燃え上がりました。

 第6歩兵旅団の演習は、ウェーヴェルが不確実性と戦場の霧を再現しようとしたため、本当の戦場のようだと有名になりました。夜間の行軍に続いての早朝の攻撃や、敵の司令部に対して背後から攻撃をかけるなどの方法は、二人が考案した演習を通して探求された新しい戦術の一つであり、後にコンパス作戦で大きな威力を発揮することになります。演習ではウェーヴェルは特に、軍事的訓練、精神的訓練、そして士気を高めることに集中する一方、ドーマン=スミスの方は部隊の装備、機動性、組織化の方を担当しました。二人の最終的な目標は「高度な訓練と高い士気に加え、迅速な機動性と最高の装備でもって、戦場における歩兵部隊を正当な地位に回復させること」でした。つまり、彼らはあくまで歩兵部隊に主眼を置いていたのであって、その点、戦車部隊の可能性に熱狂するホバートやフラー、リデル=ハートらとはあくまで異なっていたことになります。

 1932年後半には旅団演習に続けて師団演習も行われ、この時にウェーヴェルは大きな名声を得ることになりました。戦場で情報を積極的に収集するだけでなく入念に精査し、あらゆる相手側の策略に細心の注意を払い、欺瞞と奇襲を駆使することによって大仰な敵大部隊を翻弄した挙げ句、5日間の予定の演習期間をたった2日で終了させてしまうことが多くあったほどだったのです。この圧倒的な成功により、1933年10月には旅団長のまま少将へと昇進します。ウェーヴェルは後に振り返って、この時の演習が、後の自分のキャリアを決定づけたと回想しています。

 ウェーヴェルはそれまでにも、非常に寡黙であることや、頭が良いこと、またずんぐりとした体格ながら強面であることでも知られていましたが、この演習で「我々の中で最も刺激的な戦術面の指導者」との評判を築き上げ、優れた部隊の訓練者として認識されるようになりました。

 またウェーヴェルは自分の考えを若い軍人達と共有することが好きでもあり、数多くの講演を行いました。彼は寡黙ではありましたが、講演の時には優れた話者、講演者であったのです。またウェーヴェルは、麾下の下士官達とゴルフをするのが好きで、下士官達と知り合いになるだけでなく、彼らから兵士達の様子や兵舎での生活について良く知ることができました。同僚達からは親しみを込めて「アーチー」と呼ばれていたウェーヴェルは、部下の指揮官、将校達、兵士達からは尊敬の念を込めて「ザ・チーフ」と呼ばれました。

 1935年3月には第2歩兵師団長へと昇進。1937年には友人のジョン・ディル中将(後に帝国参謀総長となる人物)の後を継いで、パレスチナ・トランスヨルダン駐留イギリス軍の総司令官に就任します。イギリス委任統治領であったパレスチナでは当時、ナチスから逃れてきたユダヤ人の大量移民と大規模な土地購入が相次ぎ、不満を高めたアラブ人のユダヤ人入植者への襲撃事件が頻発し、同時にイギリスの植民地支配に対する反乱が進行中でした。

 ここでウェーヴェルはオード・ウィンゲート大尉という、戦史上の異端児に出会います。ウィンゲートはアラブの反乱に対抗するために、手榴弾と小火器で武装したユダヤ人とイギリス軍兵士を組ませた小規模な特別夜間部隊(Special Night Squads、SNS)を設立して情報収集と積極的な襲撃を行うという構想を持っていました。ところがウェーヴェルにアポイントメントが取れず、大胆にも路上でウェーヴェルの車を止めて乗り込み、「重要な提案があります」と言って、その構想を披瀝したのでした。ウィンゲートの大胆さと熱心さに感銘を受けたウェーヴェルは彼の話を聞き、後にこの計画を承認したのです。ウェーヴェルは常に、このような非正統的な戦術に強い好みを示し、ウィンゲートはこの後も1940年に東アフリカ(エチオピア)戦線で、そして1943~44年にかけてビルマ戦線で、ウェーヴェルの下で敵戦線後方での近代的なゲリラ戦を行うことになります。

 他にもウェーヴェルがパレスチナで発掘した下級将校には、後で述べるリチャード・オコーナー、ラルフ・バニョルド(Ralph Bagnold:長距離砂漠挺身隊の創設者)、ダドリー・クラーク(Dudley Clarke:欺瞞作戦の考案者)などがいました。

 1937年に陸軍大臣となったレズリー・ホア=ベリシャは、ウェーヴェルを帝国参謀総長に任命しようともしていたのですが、この時は結局、その地位はゴート卿に割り振られることになりました(面接の時にウェーヴェルが口下手であったことからこの時は選ばれなかったとも言われます)。その代わりにウェーヴェルは1938年4月にイギリス本国の南部地域守備軍(Southern Command)の司令官に就任しましたが、この地位は当時少将であった彼が他の中将達の上の地位に立つということを意味するものでした。1939年1月には中将へと昇進します。

 翌1939年2月、ウェーヴェルはケンブリッジで「指揮官と指揮能力」というテーマで講演を行いました。この講演はドイツ語を含む多数の言語に訳され、すぐに世界的に高い評価を受けることになります。

 この年、当時すでにヒトラーのおべっか使い(ラカイ)とひっかけて「ラカイテル」とも呼ばれていたヴィルヘルム・カイテル将軍がウェーヴェルを絶賛した文章を書きました。曰く、
「今のイギリス陸軍には、優れた将軍は一人(ウェーヴェル)しかないが、彼は比類のないほど優秀である。他のイギリス軍の将軍達は機械化された戦争の方向性について適切な概念を持っていないが、この将軍は1928年以降、このテーマについて研究しており、今後5年以内のどのような戦争においても、彼が主要な人物として立ち現れてくる可能性が高いだろう。」

 とはいうもののそのカイテル自身が当時、「機械化された戦争の方向性について適切な概念」を持っていたかどうかは良く分かりませんが……。ただ、資料には、カイテルが1939年にこの文章を書いたということが分かるのみで、ウェーヴェルの講演を読んだ(あるいは聞いた)かどうかまでは書かれていません。一方、後にウェーヴェルと戦うことになるロンメルは、この講演のドイツ語訳のコピーを北アフリカの戦場でも常に持ち歩き、自ら書き込みまでしていたといいます。ロンメルは自分が戦った将軍達の中でも、ウェーヴェルを最も高く評価し、尊敬していました。



ウェーヴェルが中東戦域軍司令官となる

 ヨーロッパでの緊張の高まりと、イタリア軍による攻撃の可能性が見込まれたことから、イギリス軍は1939年6月に新たに中東戦域軍(Middle East Command)を創設しました。その目的は、地中海・中東地域に拠点を置いていた既存の3つの軍司令部(エジプト、スーダン、パレスチナ・トランスヨルダン)のために、戦時に中央集権的な指揮機構を提供することでした。

 ウェーヴェルはもともと、もし戦争が勃発すれば自分はイギリス大陸派遣軍の第2軍団司令官になるのではないかと考えていました(この職には結局、アラン・ブルック将軍が任命されました)。ところが中東戦域軍の司令官職を打診され、その就任に心が傾きます。

 Jon Diamondは著書『Archibald Wavell』の中で、その理由を4つ挙げています。

1.彼は大陸の塹壕戦と、それに伴う殺戮が繰り返される可能性が低い戦場を望んでいた。
2.第一次世界大戦や戦間期に中東で活動した経験から、将来の戦争においてこの戦域がいかに重要であるかを痛感していた。
3.師と仰ぐアレンビー将軍はパレスチナで名声と栄光を得たのであり、その足跡を辿ることになる。
4.広大な砂漠で、自分の構築したアイデアと戦術を試し、機動力の戦いを行うことができるだろう。

 ウェーヴェルは当時の帝国参謀総長であったゴート卿に、このような手紙を書きました。
「前回の戦争は西部戦線で勝利しました……次の戦争は地中海で勝敗が決まるでしょう。地中海の実質的な支配権を確保するのに時間がかかればかかるほど、戦争の勝利は難しくなります。中東戦域軍の任務は、それゆえに、海軍・空軍と連携して、単にエジプトの防衛と中東での我々の利益だけでなく、我々と我々の同盟国が可能な限り早い時期に地中海を支配することを可能にするような攻撃手段を計画することでしょう。」

 ウェーヴェルは一時的に大将の地位を与えられて中東戦域軍司令官へと就任。カイロに到着したのは8月2日のことでした。

 中東戦域軍が統轄するのは先ほど述べていたエジプト、スーダン、パレスチナ・トランスヨルダン、それにキプロスのすべてのイギリス陸軍でしたが、1ヵ月後の1939年9月3日に英仏がドイツに対して宣戦布告して戦時へと移行すると、さらにイタリア領東アフリカ(エチオピア)に接するイギリス領ソマリランドとアデン湾周辺、それにイラクとペルシャ湾岸などへも拡大します。そしてこれは、1940年6月からのイタリアとの戦争につれてエチオピア、エリトリア、リビア、ギリシャ、クレタ島へにも及んでいくのです。

 ウェーヴェルの任務は、戦域全体の戦争計画を作成し、重要な戦線を戦略的に強化し、多くの駐屯地に兵力や物資を分配するということの他に、イギリスの海軍や空軍と協議したり、戦域の各国(この地域のフランス総督やその軍も含む)の代表と会談し調整を行うというようなことも含まれていました。これらの任務のためにウェーヴェルに当初与えられたスタッフはわずか5名に過ぎませんでした。

 そしてその戦力も、2個歩兵師団、2個旅団グループ、戦力の整っていない1個機甲師団、64門の野戦砲、そして500名のラクダ部隊に過ぎなかったのです。

 1939年の秋、ウェーヴェルはエジプトを30万人規模の部隊の基地とすることを目標にエジプトのすべての港湾、交通機関、その他の施設の調査を開始しました。ただしこれはあくまで彼個人の考えであり、イギリス政府はまだ結論を出していませんでした。最終的にイギリス政府が1939年12月、9個師団のための基地となれるよう準備を始めるように命じてきた時には、彼の調査は完了していたのです。

 最も差し迫った軍事上の脅威はリビアに配置されている兵力10万以上と目されるイタリア軍がエジプトへと侵攻してくる可能性でしたが、イギリス政府がこの件に関するスパイ活動をムッソリーニを刺激しないようにということで禁止したため、ウェーヴェルにはイタリア軍の動静について大した情報を得ることができませんでした。

 この状況にもかかわらずウェーヴェルは、エジプト駐留イギリス軍司令官であったウィルソン将軍に対して、リビア侵攻のための計画を準備するように指示したのです! しかも、砂漠での補給問題について新たな解決法をも模索するようにと特に断り書きをつけて。

 1939年から40年にかけての冬、ウィルソンはウェーヴェルがなんとか取っておいた部隊の残り滓から軍を作り出そうと努力し、他の部隊からトラックを剥ぎ取って機甲師団の輸送力を補うなどの必死の策を施しました。1940年の晩春までに、ウィルソンは第7機甲師団、王立騎馬砲兵2個連隊と、機械化された哨戒兵などからなる部隊をメルサ・マトルーに集めていました。

 1940年の5月から6月にかけてフランスが大敗を喫し、イタリアが英仏に宣戦するに至って、いよいよ中東戦域軍が統轄する地域に対するイタリア軍の脅威が現実のものとなってきました。イギリス軍はリビアだけでなく東アフリカの長大な国境線でもイタリア軍と向かい合っており、ウェーヴェルはそれらに沿って一握りの部隊を配置していただけでした。

 ウェーヴェルの置かれた状況は苦しいものでした。イタリア軍はリビアに13万、さらに東アフリカには8万もの軍を置いており、それに対してウェーヴェルが持っていたのはエジプトに3万6,000、東アフリカ方面に2万強に過ぎなかったのです。ただ、イタリア軍は植民地相手の戦争では勝利できても、英仏のような国の軍隊に対してはより劣位にあると思われましたし、ウェーヴェルは少なくともイタリア領東アフリカ総督アオスタ公アメデーオとリビア総督のバルボ元帥が同時に侵攻作戦を開始することはないだろうという期待はしていました。




ウェーヴェルと兵士達

 中東戦域には少しずつ各地から兵士達が集まってきており、その士気は基本的には高いものでした。ウェーヴェルは兵士達の健康状態を気遣い、陸軍省に郵便物の配達を早めるように働きかけたり、国王の秘書官には国王からの励ましの言葉を録音した蓄音機の製作を提案したりして、より士気を高めようとしました。

 兵士達の間では、ウェーヴェルに関する噂話も流れ始めます。

 ある日、ウェーヴェルが新しく到着したオーストラリア軍部隊を視察した時のことです。彼はいつものように片眼鏡を付けていたのですが、オーストラリアの片田舎から来ていた若者達はそのようなものを今まで見たことがありませんでした。

 翌日、ウェーヴェルは別のオーストラリア軍の大隊を視察したのですが、その時、兵士達全員が片目に何かしらの眼鏡や小銭を挟んでいたのです(オーストラリア人兵士達は本能的にイギリスの将軍達に対して好意的ではなかったということからでしょう)。

 ウェーヴェル自身はだからといって何も態度を変えることなく、兵士達が前線に向かって行進し、視察が終わろうとした時でした。ウェーヴェルは自分の片眼鏡を外して投げ、空中で回転させたのを目で受け止めて元のように挟み、「お前達には出来ないだろう?」と言ったというのです!

 ウェーヴェルは公の場でも大抵の場合、感情を表に出さなかったですし、この逸話はウェーヴェルの性格からはかなり外れており、物理的にも難しいと思われます。しかしこの話は中東だけでなく、後にウェーヴェルが赴任したインドでも広く知られていたということです。

 このような話も流布する中、大多数の兵士は自分達の最高司令官であるウェーヴェルを見たことがありませんでしたが、ウェーヴェルに関する話を聞いただけでも自信と楽観主義が湧いてくるかのようでした。



 次回は、ウェーヴェル将軍が発掘した人材、ラルフ・バニョルドが「長距離砂漠挺身隊」を編成した話です。

VASSALでウォーゲームライフが激変!

 このエントリはHAさん主催の「ウォーゲームアドベントカレンダー2021」の12月17日分の記事にもなっております。


 少し前から、週2、あるいは週3でビッグゲームを継続プレイしています(週3というのは、コロナの影響で仕事が減って休みが増えていたりするため)。しかも、プレイヤーは兵庫県、大阪府の他、富山県、広島県などの遠方の方もいます。

 当日、参加者全員が朝9時前に自宅のパソコンを立ち上げて「すっ」とプレイを開始し、お昼休憩ののち、だいたい午後4時頃までプレイして「じゃあ、またよろしくお願いします~」と終了し、続きを翌週プレイとかするのです。

 言うまでもなく、遠隔通信対戦ツール「VASSAL」のおかげです(VASSALについてご存じない方は、12年前に作った「VASSALについて」というウェブページをご参照下さい)。


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 VASSALには日本でプレイされ始めた頃に興味を持ち、モジュール作成もやったりしましたが、その後対面でのウォーゲームライフがある程度以上充実してきたこともあってか、触れなくなってしまいました。

 さらにその数年後、ビッグゲーム揃いのOCSばかりをプレイするようになりましたが、「OCSはVASSALでプレイするには複雑すぎる」という思い込みがあり、「自宅で置きっぱなしプレイ」環境を充実させるため、家人の減った自宅の応接間をゲーム部屋として整備したり、机や椅子を買いそろえて週1ペースなどでプレイしてきました。同じ市内在住のワニミさんと2人で、ということが多かったですが、大阪府内の方が時々来てくれたり、あるいは富山のKさんが年1くらいで来られたりとか。

 ところが今年1月、別にコロナとは関係なしに、「ゲーム部屋に置きっぱなしで置いてあるプレイとは別に、第1ターンから作戦を試したくてウズウズする」という理由でVASSALでもってOCSをソロプレイしてみたら、「あれ……VASSALでOCSできるんじゃね?(^_^;」となりまして……。

(ただし、12年前だと17インチディスプレイのみとかが普通だったと思われるのですが、今だと27インチとかマルチディスプレイとかが割と普通になっていること、それからOCSのVASSALモジュールが昔はシナリオのセットアップも自分でやらなきゃいけないとか、今なら右クリックからやショートカットキーでできるようになっている様々なことがまだできるようになってなかった……など、ここ10年でVASSALでのプレイ環境がかなり良くなっていたことも大きな要因だと思われます)


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 しかし、すんなりプレイ仲間とVASSALへ移行できたわけではありません。富山のKさんはパソコンにあまり詳しくなく、スマホも持ってないのでLINEでスムーズな連絡もできない……とか、ワニミさんはVASSALでのプレイに懐疑的で……など。しかもOCSの対戦プレイのためにはユニットを隠す(マスクする)ことができなければならないのですが、そのために必要な条件が分からず当初は大混乱があったり。

 しかしそれらの問題が段々と解消され、また各人がVASSALでのプレイに慣れてくると、劇的な違いが出てきました。

1.VASSALでのプレイが楽すぎて、紙製のウォーゲームをするのがもはや面倒に!
(セットアップが不要で増援ユニットなんかもちゃんと用意されていたり、ユニットやマーカーを探すのに便利な機能があったり、ターン終了時にマーカー類を取り除くのも自動でやってくれたり、アンドゥ機能でさかのぼってやり直せたり……最初は懐疑的であったワニミさんもすっかりVASSAL信者に(^_^;)

2.遠方だったり身体が弱い人ともいくらでも頻繁にプレイできる!
(遠方で今まで年1だったり、身体が弱くて月1だった人とも、あるいはまったく面識のない人とでも、オンラインでなら非常に頻繁にプレイできます。移動時間も移動経費も必要ありません)

3.セーブしてキャンペーンを完遂できる! 参加人員毎に別々のゲームを同時並行もできる!
(「セーブして続きを後日プレイ」で、先日初めてOCSのフルキャンペーンを(無理なく)完遂できました。あるいは参加人員のパターン毎に別々のゲームをプレイし、セーブすることもでき、これは「置きっぱなしプレイ」ではちょっと不可能なことです)



 もちろん、対面でのゲーム会はゲーム会の良さがあり、先日もミドルアース大阪にお邪魔して夕食時に色々面白い話が聞けたりして非常に有意義でしたが、ゲーム自体はパソコンとディスプレイを古角さんが持ってきて下さり、セットアップの苦労なく、またやり直しも問題なくできて、「対面ゲーム会でもVASSAL」はアリだな、と(^_^;

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 恐らく、ビッグゲームのような「広い場所がいる、時間がかかる、プレイヤーを集めるのが難しい」ゲームは、VASSALでプレイするのがより良い、あるいはプレイを進めるためにはかなり現実的な選択肢になってくる(いる)のではないでしょうか。『Campaign for North Africa』とか、特に。もちろん、練習プレイなどは対面で実際のボードウォーゲームを用いてやるのも良いと思います。

 コロナが今後どうなるか分かりませんが、対面せずにプレイできまくるというVASSALの強みはもちろん大きいです。

 あるいは、インストを遠方の詳しい人にオンラインでやってもらったり(我々もBCSを中京の方にVASSALでインストしてもらえる予定です)、遠方のゲームクラブの人と交流ゲームをしたり、ASLのように世界中で何度もプレイされているゲームであれば海外の人とプレイしたり……。


 正直、「なんでもっと早くにVASSALでのOCSプレイを始めておかんかったんや……」と悔いることしきりなんですが(T_T)、しかし今後、VASSALでもって今までよりもさらに豊かなウォーゲームライフを楽しむことができるような気がしています。本当に、この2021年は激変の年でした。

 唯一といっていい問題は、ここ最近ディスプレイを見すぎで眼精疲労がひどく、VASSALプレイはその一因になってしまうことです(>_<) かといって、眼精疲労しないように紙製のウォーゲームをソロプレイするにしても、セットアップがめんどくさくてやる気になれないという……バキッ!!☆/(x_x)



 最後に、VASSALで(特にOCSを)プレイする上での役立ち情報的なエントリへのリンクを並べておきます。

OCS『Case Blue』+『GBII』のVASSALモジュールでマップ表示が常に遅れるのを防ぐ方法 (2021/03/26)
VASSALとDiscordで、OCSオンライン対戦をやってみました (2021/04/12)
戦場の霧ありのVASSAL(つまりOCS)で複数人vs.複数人プレイをする方法について (2021/05/31)
OCS『Guderian's Blitzkrieg II』+『Case Blue』VASSALモジュール上のセットアップ情報の方がより正しいとのこと (2021/06/14)
OCSでroadはtrackを含むのか、鉄道末端マーカーが置かれているヘクスは変換されているのか? (2021/07/24)
OCS(特にVASSAL上)での航空ユニットの置き方について (2021/08/01)
VASSAL複数人プレイ時に画面中心が勝手に移動するのを、個々人の設定で防ぐ方法(2021/08/08)
OCSのVASSALモジュールで使用できる便利なコマンドまとめ (2021/10/30)




OCS『DAK-II』用の追加シナリオ「メルサ・マトルーシナリオ」を和訳してみました

 OCS『DAK-II』には元々20のシナリオ(とキャンペーン)が入っていますが、The Gamersの機関誌であった『Operations』の46号で追加シナリオ「メルサ・マトルーシナリオ」が発表されており、それが「OCS Depot」上で公開されています。

 このシナリオは1942年にロンメルがトブルクを攻略した後の進撃で、エル・アラメインに辿り着く前に行われたメルサ・マトルーの戦いを再現するもので、以前北アフリカ戦ものの本を読んでいてこの戦いは興味深いなぁと思っていたので、いつかプレイはしたいものだと思っていました。

 訳してみると、先日その人物伝を挙げていた「ストレイファー」ゴット将軍の誤判断についても詳しく書いてあり、その点についても興味深かったです。

 OCRしたものをそのままコピペしたりもしましたし、その辺りでのミスや、誤訳などありましたらぜひご指摘下さい。


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 ↑VASSALモジュールにもこのシナリオがちゃんと用意されています。赤い□が、左からメルサ・マトルー、フカ、エル・アラメイン。点線は特別ルールに出てくる「Rahman Track」です。


OCS『DAK』用の新シナリオ
「ギャンブラーの最後の一手」
by Mike Stohlmeyer

メルサ・マトルーの戦い - アラメインへの退却と追撃

 南アフリカ軍の北アフリカ戦公式戦史である『Crisis In The Desert』は、1942年7月1日を「この砂漠戦における決定的な日」と表現している。【イギリス】陸軍元帥(当時少佐)であるカーヴァー卿は、ロンメルのアラメインの線の突破への努力を「ギャンブラーの最後の一手」と呼んだ。この日、弱体化したアフリカ軍団の残余がアラメインで返り討ちにあい、ロンメルがエジプトを攻略できる可能性は急速に失われていく。そして数日後には勝利の可能性は完全に失われたのだった。そのわずか数日前のメルサ・マトルーでの戦いは、ロンメルが進撃で得た最後の成功であり、最終的な成功を手にするために状況を有利にすることのできる最後の機会だった。

 マトルーの戦いは、戦史の中でも最も驚くべき戦いの一つであることは間違いない。敵【英連邦軍】の相対的な強さと、司令官【ロンメル】の無謀な行動によってより弱い方の軍が絶望的な状況に陥ったことを考えれば、その結果には驚くばかりだ。英連邦軍は8個歩兵旅団とそれらを支援する砲兵を配置していた。第1機甲師団は160輌の戦車を配備し、そのうち60輌は強力なグラントだった。一方、ドイツ軍の戦力は危険なほど消耗していた。

 必然的に主力の攻撃部隊として使用されたアフリカ軍団は、2つの装甲師団で60輌の戦車があっただけで、そのうちグラントに匹敵するものは15輌しかなかった。偵察用の装甲車はわずか15輌で、歩兵は1,500人もいなかった。第90軽師団の兵力は約1,000人。ドイツ軍は種々雑多な種類の大砲を330門保有しており、不足はしていなかったが、豊富というほどではなかった。それに加えてイタリア軍が、価値があるかどうかともかく3個軍団で6,000人の歩兵を持っていた。

 ロンメルの準備なしの進撃は、情報が不正確で偵察が不充分であったこともあり、自軍が完全に壊滅させられなかったのが奇跡と言えるほど絶望的な戦術的状況に陥った。もし、英連邦軍の現地指揮官であった「ストレイファー」ゴット将軍が状況を正しく把握していたら、本当にそうなっただろう。しかし彼は状況を把握できていなかった。その結果、ロンメルはトブルク攻略の時の半分以下の数の戦車で英連邦軍の2つの軍団を壊走させることができたのである!

 ドイツ軍装甲部隊はマトルーを奪取しようとして危うく完全に壊滅するところであった。『Crisis In The Desert』には、枢軸軍側の動きの結果が書かれている。「6月27日の終わりまでにロンメルは自分の司令部を、敵側が望み得なかったほどの最大限の危機的状況に追い込んだ」。ところが、アフリカ軍団はその状態から脱しただけでなく、6月30日の終わりまでに英連邦軍側に驚くほどの大打撃を与え、何千人もの兵士を捕虜にし、車両や物資を豊富に獲得した。マトルーでの屈辱的な敗北は、エジプトをパニックへと追い込み、第8軍をアラメインへと退却させることになったのである。

 この見事なほどの運命の逆転をもたらした要因を詳しく調べてみると、ロンメルはメルサ・マトルーにおいて、思いがけない(当たり前とは言えない)チャンスを掴み、自分に不利な状況を大きく覆すことができたことが分かる。それらのことから考えると、第8軍の兵士達の多くが無事にエル・アラメインへと退却できたことは幸運だったとさえ言える。もしドイツ軍がマトルーで英連邦軍の大部分を事実上壊滅させることができていたら、アラメインですべてを勝ち取ることができたかもしれない。このように、エジプトがとてつもない危機に瀕していた歴史上の瞬間が、今回の『DAK』用シナリオの背景である。

 6月20日、21日のトブルクでの大勝利の後、ロンメルは麾下の疲れた兵士たちをすぐにエジプトへ進め、国境を越えさせた。ドイツ軍に新たに誕生したこの元帥は、第8軍が後退して混乱している間に彼らに打撃を与えることに熱中した。6月26日、ロンメルはマトルーで彼らに追いついた。英連邦軍の配置には、翌日に重大な結果をもたらすことになる一つの決定的な弱点があった。第8軍の2つの軍団の間には6マイルの隙間があり、互いに独立した状態であったのである。

 枢軸軍には、防衛線上の英連邦軍を倒すだけの戦力はそもそもなかった。機動によって敵を上回るしかなかったのである。ロンメルが急遽立てた計画による攻撃は、ドイツ軍の3個師団を危険な形で孤立させる結果となった。もしこの時点でゴット将軍がその全力で攻撃をしていたら、アフリカ軍団と第90軽師団は圧倒されていただろう。イギリスの第1機甲師団長のラムズデン将軍は、ドイツ軍を殲滅する機会が失われたことを後に悟った。「我々は多数を撃破できたはずだったのだ」 しかし信じられないことに、ゴットはそうせず、退却を命じたのである。なぜか?

 イギリス軍の情報部は、DAKの戦車を100~120輌と推測していた。6月25日に第8軍の指揮権を自分で持つことにしたばかりのクロード・オーキンレック将軍は、敵の戦力についてこのような大きな誤解をした状態でスタートした。部下達が計画を立てるにあたって妥当な慎重さを持たせようとしたオーキンレックは、念のために撤退という選択肢に言及した。それが意図せずして、戦いが始まる前にゴット将軍の心に撤退という考え方の種を植え付けてしまったのだ。

 第13軍団の司令官ゴットは、6月27日にニュージーランド師団の司令部を訪れた際、激しい砲撃に巻き込まれた。ゴットはニュージーランド師団の輸送部隊が敗走するのを見て、師団全体が巻き込まれたと思ったのだろう。これは、指揮官が局所的な状況と全体像とを混同した典型的な例である。ゴットは西方砂漠戦役において度重なる敗北に疲れ果て、弱気になっていた。マトルーでの彼は、事態をまったく把握できない状態になってしまっていたのだ。

 敗北を確信したゴット将軍は、ラムズデンにメッセージを送った。「すべてが終わった。ニュージーランド師団はもはや存在しない」。しかし、ニュージーランドの2つの旅団は、まったくそのような状態にはなかった。ナポレオンの格言には、士気は戦力の三倍重要だというものがある! このような誤認状態の中で、ゴットは機甲師団に交戦を中止して退却するように命じ、歩兵を事実上放置してしまったのだ!

 第13軍団の機甲部隊が単独で撤退すれば、第8軍に大惨事がもたらされる可能性があった(そしてほとんどそうなった)。その夜、ニュージーランド師団は師団まるごとが捕虜になるのを避けるために乱戦の中で第21装甲師団を突破した。一方、第10軍団に対して、第13軍団の戦友達がアラメインへと退却していることを知らせる必要性に誰も思い至らなかった。その結果、第10軍団はマトルー周辺に取り残されてしまった。第10軍団は第90軽師団による包囲網をなんとか突破し、慌てて砂漠の中を退却した。ロンメルの戦闘司令部をも巻き込んだ混乱した絶望的な戦いの中で、各旅団グループはフカに向かった。彼らは、第13軍団が断崖絶壁を押さえて通過できるようにしてくれていると期待していたのだ。

 しかし、そのはずの場所まで辿り着くと、そこにはアフリカ軍団の部隊が待ち受けており、彼らは驚愕した。ロンメルの絶え間ない督促により、機動力のある第21装甲師団の先鋒隊は彼らを追い越していたのだ。6月28日の夜にフカに到着したドイツ軍は、そこに残されていた第29インド歩兵旅団の後衛を追い払っていた。Antony Brett-Jamesはインド第5師団の歴史に光を当てた『Ball of Fire』の中で、完全に客観的ではないものの、これらの出来事を鮮明に描写している。

 最終的に第10軍団の兵士達の多くは無事にアラメインまで辿り着いた。軍団長のホームズ将軍は、60%の兵士が辿り着いたと見積もっている。しかし、何千人もの兵士がドイツ軍の捕虜になった。南アフリカ軍の戦史家は、このように多くの兵士が捕らえられたことで、「第8軍の士気低下が決定的になった」と述べている。フカの惨事の本当の重大さは、英連邦軍の歩兵達がもっと多く失われていた可能性があったことだ。もしそうなっていたら、ギャンブラーがすべてを賭けたその最後の一手は、大きなリターンをもたらすことになっただろう。



新シナリオ:

 マトルーとフカの間で起こることが、エル・アラメインでの両軍の運命に決定的な影響を与える可能性がありました。

 OCS『DAK』用のこのシナリオは、2つの「第1次エル・アラメインの戦い」シナリオ(7.15と7.16)の開始の2ターン前から始まります。このシナリオは、キャンペーンあるいはマップ1枚バージョンに追加することができます。基本的にはどちらのシナリオにも2ターンが追加される形となりますが、その2ターンが非常に重要です。マトルーとフカの間で起こることが、エル・アラメインの戦いが始まったときの両軍の相対的な戦力に大きく影響するでしょう。ドイツ軍プレイヤーの目標は、英連邦軍の歩兵旅団のかなりの部分がアラメインの防衛線に到達するのを防ぐことです。もちろん、英連邦軍プレイヤーは可能な限りすべてのユニットを救おうとするでしょう。シナリオ開始時には、第13軍団の機甲部隊はすでにマトルー陣地から撤退していました。指揮官同士の種々の連携がほとんど失われており、アフリカ装甲軍を相手に歩兵が孤立している状態です。


共通の情報:

先攻プレイヤー:枢軸軍
最初のターン:42年6月26日
最後のターン:42年7月26日(マップ2枚バージョン)
ゲームの長さ:11ターン(マップ2枚バージョン)
使用マップ:CとD

あるいは

最後のターン:42年11月29日(キャンペーン)
ゲームの長さ:48ターン(キャンペーン)
使用マップ:すべて(キャンペーン)

 シナリオ7.15と7.16の共通の情報に記述されているルールをすべて使用します。

 以下に挙げられているもの以外は、それらのシナリオの通常のセットアップと同じです。

メルサ・マトルーの英連邦軍のセットアップ:

C38.01: 12-0 Corps HQ (10), 50 Inf Div (69 Inf Bde (-1 step), Organic Truck (Full)), 5 SPs

C37.02: 50 Inf Div (151 Inf Bde (-1 step))

C39.03: 10 Ind Div (21 Ind Inf Bde, Organic Truck (Full)), Level 2 Airbase

C38.04: Level 1 Hedgehog, 10 Ind Div (25 Ind Inf Bde)

C37.04: 4 Ind Div (5 Ind Inf Bde)

D35.33: 2-4-8 SA Arm Car Bn (6 SA)

C34.03: 2 NZ Div (4 NZ, 5 NZ Inf Bde), 1 SP

D33.34: 5 Ind Div (9 Ind Inf Bde (-1 step), Organic Truck(Full))

D35.29: 5 Ind Div (29 Ind Inf Bde (-1 step))

枢軸軍のセットアップ:

C36.03: 90 Le Div (4-5-8 Arm Recon Bn (580)), 3-3-3 AA Bn(606)

D37.34: 90 Le Div (6-4-3 Inf Rgt (155), 6-5-3 Inf Rgt (361), 5-5-3 Pioneer Bn (900), 361 Arty Bn, 190 Arty Rgt), 4-3-3 AA Bn (612)

C35.06: 14-0 Corps HQ (DAK), 4-5-8 PJ Bn (605), 6 SPs, 2T Truck Points

C30.05: 21 Pz Div (3 Arm Recon Bn, (4)-4-3 PJ Bn (39 PJ))

C34.05: 15 Pz Div (33 Arm Recon Bn, 6-5-8 Pz Bn (1-8), 4-5-8 PJ Bn (33 PJ), 4-5-3 Pioneer Bn (33), 33 Arty Rgt, Organic Truck (Full)), (7)-5-3 Luftwaffe Flak Bn (1-33)

C34.02: 21 Pz Div (6-5-8 Pz Bn (1-5), 10-5-8 PG Rgt (104), 4-5-3 Pioneer Bn (200), 155 Arty Rgt, Organic Truck (Full)), (7)-5-3 Luftwaffe Flak Bn (1-18)

C35.02: Rommel Leader, 3-5-8 Pz Co (KStA), Littorio Arm Div (12 Brs Inf Rgt)

C33.06: 8-0 Corps HQ (20 It), Ariete Arm Div (4-3-6 Arm Bn(10 Med), 8 Brs Inf Rgt, 552 AG Bn, (6)-4-3 AT Bn (AT))

C32.05: Trieste Div (65 Inf Rgt, 11 Med Arm Bn, 21 Arty Rgt)

C36.05: 5-4-3 Inf Rgt (9 Brs), 12-3-3 Inf Div (Pavia, -1 step)

C37.07: 8-0 Corps HQ (10 It), 12-3-3 Inf Div (Brescia, -1 step), 3-4-3 Assault Engineer Bn (31), 7-3-3 Arty Rgt(1 Cel)

C39.07: 8-0 Corps HQ (21 It), Trento Div (62 Inf Rgt, 46 Arty Rgt), 5-4-3 Inf Rgt (7 Brs), 8-3-3 Arty Rgt (3 Cel)

 キャンペーンシナリオ7.15でMersa Matruh(C39.03)にいる枢軸軍ユニットは、Sidi Barrani (C43.19)でシナリオを開始します。



特別ルール

 ゴット将軍は第13軍団の大部分をアラメインの防衛線に直接退却させるよう命じました。事態を単純化するために英連邦軍のユニットは、前記のものを除いては、シナリオ7.15または7.16の指示通りにセットアップします。すでにマトルーから撤退した様々なユニットが、アラメインに向かう途中で東の砂漠に散らばっていると想定しています。ニュージーランド師団と第10軍団は撤退を知らされておらず、シナリオ開始時にはまだメルサ・マトルーにいます。

 「ストレイファー」ゴット将軍の精神状態を表すために、彼は通常の指揮官が持つアクションレーティングを+1修正する能力を持たないものとします。リアクティブロールを行う能力は持っていますが、AR修正は0ということです(尤も、-1の方が真実に近いかもしれませんが)。

 24 Aus Inf Bde (9 Aus Div) は7月5日ターンにAlameinに移動することができます。

 26 Aus Inf Bde (9 Aus Div) は7月8日ターンにAlameinに移動することができます。

 6月26日と6月29日のターンの間、エル・アラメイン地区にいるすべてのユニットは、Rahamn Trackの東側に留まらなければなりません(彼らは防衛線を構築中なのです)。


勝利条件

 下記のオプションの勝利条件を試してみるのでなければ、勝利条件は元のシナリオと同じです。


オプションの勝利条件

 作戦、ハッタリ、心理的要因の組み合わせが、ロンメルにメルサ・マトルーでの勝利をもたらしました。彼はエル・アラメインでも同じ方法を当てにしていました。史実として、この時までにアフリカ装甲軍はすでに満身創痍になっており、ゆえにロンメルが英連邦軍をアラメインの陣地から追い出すためには、マトルーにおける潰走を繰り返させるしかなかったのです。第8軍の弱点は、兵士達の力量にではなく、その指揮官達のトップ陣にありました。この時期、彼らは西方砂漠戦役を終わらせるチャンスを何度も逃していました。ロンメルはそのようなチャンスを逃しませんでした。

 ゲームの中で個々の指揮官の個人的な心理をシミュレートしようとするのは難しく、非常に主観的であることは理解しています。このオプションの勝利条件は、その時の英連邦軍指揮官の士気と視点を反映しようとするものです。もしドイツ軍プレイヤーが英連邦軍部隊を孤立させるためにアフリカ軍団と第90軽師団をアラメイン陣地を突破してその背後に送り込むことができれば、第8軍のナイルデルタへの即時撤退が引き起こされることになるでしょう。キャンペーンシナリオでは、その状態からゲームを続けます。マップ2枚バージョンをプレイしている場合には自動的に枢軸軍の勝利となり、ムッソリーニは白馬に乗ることができるでしょう。


プレイヤーノート

 ドイツ軍プレイヤーは、英連邦軍の退却路を切断するために、どれだけのユニットをすぐにフカに送り、どれだけのユニットをマトルーに残してそこにいる歩兵旅団を攻撃してできればSPを捕獲するかを決めなければならりません。枢軸軍が補給において危機的な状況になれば、もちろんその決断に影響を与えるでしょう。

 英連邦軍プレイヤーは、直接東に突破するか、あるいは南下してから東に転進するか(史実では多くの部隊がそうしていた)を選択しなければなりません。ゴット将軍のおかげで、アラメインにいる部隊からの助けは得られません。しかし、【英連邦軍の】砂漠空軍があります!







パソコン上の画面のOCR用のフリーソフトを「Screen Translator」に変更しました

 以前、Kindleの洋書をPC画面上ですぐにOCRしてDeepL翻訳にかける方法 (2020/09/04)というエントリで、パソコン上の画面をOCRする(画像から文字データにする)ためのフリーソフトとして、「Capture2Text」というのを紹介していました。

 が、最近、同様のソフトとして「Screen Translator」というのを知りまして、使い比べてみるとこちらの方が文字認識のミスが少ないので、乗り換えることにしました。「Capture2Text」は、非常に状態の良い文字(例えばKindle上の文字)でも認識ミスすることが結構あったのです。

 ただし、「Screen Translator」の方は文字列データを改行なしにする方法を見つけられなかったので、ブラウザの検索窓に一回ペーストして改行のない状態にしてからCtrl+Cを2回押してDeepL翻訳にかけることになります。実は「Screen Translator」には一発でDeepL翻訳にもかける機能があるのですが、そちらは独自のウィンドウに翻訳結果が出される等、私には使い勝手が悪いものだったので使わない方向で。


<2022/02/03追記>

 「改行のない状態でDeepL翻訳にかける方法」について、コメントをいただけました。ありがとうございます!

 以下、こちらにも転記しておきます。

こんにちは。
「Screen Translator 改行無し」で検索するとこちらが出てきたのでコメントさせてもらいます。
翻訳はTranslate設定のTranslators pathにある~.jsファイルを介して行われるので、これを編集することで改行を無くしての翻訳が可能です。
具体的にはdeepl.js等をmy_deepl.jsのような適当な名前でコピーしテキストエディタで開きます。
function translate(text, from, to) {
の行の下に
text = text.replace(/\r?\n/g, ' ').replace(/ +/g,' ');
という行を追加し保存します。(改行をスペースに変換し連続したスペースを1つにまとめるコード)
最後にTranslate設定でこの編集したファイルを選択します。
参考になれば幸いです。


 で、やってみました。

 「deepl.js」というファイルを自分で見つけることができなかったのですが、Cドライブに対して全検索したら見つかりました。で、「ファイルのある場所を開く」「コピー」「貼り付け」(deepl コピー.jsだかのファイル名になります)して「my_deepl.js」に名前を変更。「メモ帳」で開きまして、指示通り追加して保存。

 設定画面の「Translation」で、「my_deepl.js」を選択して「deepl.js」はチェックを外す(起動したままで上記の作業をやった場合、選択肢が出てこないので一度終了して再度起動すればOK)。この画面で私は「Translate text」のチェックを外していたのですが、これは付けないと結果が出ません。

 で、やってみたところ、確かに改行なしの状態になってDeepL翻訳の翻訳結果が出てきました!(以前は改行ありの状態で翻訳されていたので、文がメチャクチャになっていた) ただし、翻訳の時点で改行なしにされるのであって、原文自体は改行ありの状態のままではあります。

 でも、翻訳結果をちらっと見たいだけなら絶対いいですし、私のように和訳文(時には原文も)を蓄積していく人間にとっても、一手間省ける感がありますから、ありがたいです(というか、デフォルトでそのように設定しておいてくれるべきだとも思いますが(^_^;)。

 このようにコメントいただけるの、大変ありがたいです! ありがとうございました~(^^)


 あ、あと、「Screen Translator」について、導入にややハードルがあり、まあ検索したら解説してくれているページがあるのですが、その一例を一応貼っておきます。

【TIPS】海外フリゲを自動翻訳しながら遊ぶ手順(Screen Translator, PCOT)


<追記ここまで>



 これで、Kindleからなら「Screen Translator」、実際の本なら非破壊スキャンしてGoogleドライブに入れてGoogleドキュメントにして文字データにして、DeepL翻訳(+みらい翻訳)、という方法でかなり早く洋書が読めます。興味のある方はぜひやってみて欲しいと思います。洋書への敷居が下がれば、ミリタリーの業界(に限りませんが)がより情報豊かになると思うので……。


 あとは、DeepL翻訳で文がまるまる飛ばされる現象だけでもなんとかならないものですかね~(あと、Kindleで注番号の非表示ができると嬉しいのですが)。

北アフリカ戦における「娼館」について(付:OCS『DAK-II』)

 今回は北アフリカ戦における「娼館」について、これまで集積していた情報から引用してみようと思います。


 OCS『DAK-II』には↓のようなイタリア軍の移動娼館ユニットが入ってまして、OCS『DAK-II』の「移動娼館」ユニットと、占領された後のシチリア島の慰安所 (2017/03/31)でその辺りについて書いてました。

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 今回まず挙げるのは、「移動」でない娼館についてです。

 【ドイツ軍の】内務規定では、トリポリにある多くの売春宿のうちどれを利用するかが指示されていた。
『パットン対ロンメル』P216

 長い間戦火にさらされたキレナイカの首都ベンガジは乱雑な波止場と騒がしい露天の市場および、いつも開いている売春宿をもち、不規則に広がるだだっ広い町である【……】
『狐の足跡』上P217,8



 でもって、The Gamersの機関誌であった『Operations』の27号(1997年?)に、イタリア軍の娼館と「移動娼館(部隊)」について書かれた記事がありまして、「The OCS Depot」公開されています。それを翻訳してみました。

オペレーショナル・コンバット・シリーズ
歴史のゴミ箱から:娼館

by Mauro de Vita

 少し前にThe Gamersのリストサーバーで、OCS『DAK』におけるイタリア第10軍の移動娼館に関する特別ルールについて質問した人がいた。いくつかのユーモラスな回答を除いて、この話題はそれ以上議論されなかったが、そのような「部隊」がどのように編成され、利用されたのかをお伝えする時が来たようだ。以下の情報は、イタリアの戦史雑誌「Giorgio Rochat Storia Militare」に掲載された記事からのものである。その情報源は、陸軍の歴史局からのいくつかの文書である。

 回収された文書には、独伊軍がエジプト方面に進出した後の1942年3月から10月にかけて、キレナイカ地方に新しい娼館(正式名称は「Case di tolleranza」【イタリア語で「売春宿」を意味する】)を開設するようイタリア軍司令部に要請するものが数十枚含まれていた。いずれにせよ、同様の組織は、イタリア軍のプレゼンスが大きな影響を与えかつ安定していたすべての地域に存在しており、そのような地域には1940年から1943年の全期間を通じて存在していた。

 1942年6月28日、ピアッティ・ダル・ポッツォ将軍【英連邦軍の長距離砂漠挺身隊に対抗するイタリア軍特殊部隊を編成した人物】が指揮するGebelic司令部が発行した文書では、バルチェ(Barce)の娼館を5つの異なる等級に細分化している。


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 ↑OCS『DAK-II』のマップ。黄色い□が左からベンガジ、バルチェ、(後で出てくる)ベルタ。赤い□はロンメル暗殺作戦で襲撃されたベダ・リットリオ。

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 第一等級、第二等級、第三等級の娼館には、ヨーロッパ人の「プロフェッショナル」が配置されていた。第五等級を除くすべての娼館は、ヨーロッパ人の客のためのものだった。

 バルチェでは8つの娼館が営業しており、その営業時間は以下の通りであった。

 ヨーロッパ人向け:9時~12時、15時~20時、21時~24時

 リビア人向け:9時~12時、14時~19時。

 文書には非常に明確に「交戦のルール」が定められていた。それによると、

1.将校専用のものを除けば、ヨーロッパ人のための娼館の場合は、昼間は下士官用の待合室、夜は将校用の待合室を確保しなければならない。

2. 将校は将校専用の娼館で夜を明かすことができ、民間人もヨーロッパ人の「プロフェッショナル」の娼館すべてで夜を明かすことができる。一晩の料金は決まっておらず、客とテヌタリア(マダム【娼館の女性経営者】)の間で決定される。

3. 上級将校は、将校専用の娼館から来たプロフェッショナルと自宅で一晩過ごすことができるが、プロフェッショナルは正午以前に娼館を出ることはできない。一晩の費用は決まっておらず、客とマダムの間で決定される。

4.コンドームの使用は必須である。コンドームはマダムが用意し、「作戦」の料金に含まれることとする。

 このような複雑な組織は、前線から離れた地域でのみ可能であった。前線近くの場所では、それほど複雑ではない「部隊」が利用可能であった。例えば、1942年3月2日、CAM【機動】軍団の司令官ジンガレス将軍【「イタリアのグデーリアン」と呼ばれ、北アフリカの他東部戦線やシチリアでも軍団を指揮した】は、ベルタ(Berta【デルナの西方、Giovanni Bertaのことか?】)で少なくとも1,500人の需要を満たせる「軽装備の部隊」の編成を要請した。

 すべての娼館の「司令官」は、「テヌタリア」または「メトレッサ」(「部隊」内のすべてを管理する女性)だった。彼女はプロフェッショナルを募集し、特定の場所に「部隊」を設置する許可を求めた。警察は、軍隊の司令官と相談して許可を出した。

 許可が下りると、軍隊は部屋と輸送手段を、テヌタリアは衣装を提供しなければならなかった。衛生面のチェックは非常に厳しかった。医療関係者が不足している場合、その娼館はすぐに閉鎖された。憲兵隊は警備のための部隊を提供しなければならなかった。

 一般的に、どの娼館もテヌタリア(40代の女性)が一人、「プロフェッショナル」(20~30代の女性)が2~3人、そしてコックが一人で構成されていた。

 プロフェッショナルに対する警察の管理は非常に厳しかった。1942年5月28日【ガザラの戦いの真っ最中】には、バルチェの一人のプロフェッショナルが恋人の家に行くために許可なく娼館を出たため、イタリアに送還された。1942年9月末【エル・アラメインで両軍がにらみ合っていた頃】には、テヌタリア一人とそのプロフェッショナル一人が、メルサ・マトルーを2日間無許可で離れたものの、イタリアへの送還は免れた。なぜなら、彼女らはシワの守備隊の「問題」を解決するためにイタリア空軍の飛行機によって運ばれたことを証明できたからである。


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 ↑上方左からトブルク、メルサ・マトルー、エル・アラメイン。下にあるのがシワ・オアシスで、小さな守備隊が配置されていました。


 有名なアリエテ師団も、現地での例外ではなかった。(いや、アリエテ師団内に娼館部隊ユニットは入っていないが!) 1942年9月22日、アリエテ師団の上級将校の一人が、同師団のすぐ後の後方地域で「従軍」する意思のある少なくとも2人のプロフェッショナルを要請した。9月26日に同師団の参謀長は、軍司令官にアリエテ師団に必要な娼館を設置する許可を求めた。結果として、バルチェでアリエテ師団の将校たちは2人のプロフェッショナルを採用することができた。これで、『DAK』におけるアリエテ師団のアクションレーティングの高さの理由が理解できるだろう!


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 ↑OCS『DAK-II』のアリエテ戦車師団の全ユニット。時期によってユニットが入れ替えられていくので、一時期にこの全ユニットが出てくるわけではありません。


 軍司令部はこれを10月7日に許可した。10月10日、アリエテ師団の参謀長は、輸送手段、複数の部屋(テントであるが)、医療補助、警備分遣隊を提供した。10月13日、2人のプロフェッショナルはメディカルチェックを受けなければならなかった。10月17日には、彼らの「適性」の確認まで進んだ。

 ただ残念ながら、モントゴメリーとのエル・アラメインの戦いはすぐ近くに迫っており、アリエテ師団の兵士たちはこの部隊を長く楽しむことはできなかっただろう【エル・アラメインにおける最終決戦が10月23日から始まったため】。


 このエル・アラメイン戦の時期には、その前段階からアリエテ戦車師団を含むイタリア軍は崩壊の兆しを見せていたという話もあり、あるいはそれゆえにこの時期にこういう要求が必要だったのかもですね……。


 なお、前掲表の「スタッフ」のうちの「イスラム教徒のプロフェッショナル」についてですが、日本語版Wikipedia「ヒヤル」には以下のように書かれていました。

イスラムにおいて婚前交渉は厳しく禁止されており売春は重罪である、特に異教徒との関係は禁止されており、既婚女性が不倫を行えばジナの罪として死刑になる。 しかし、売春は古くから行われてきたようで現代でもインドネシアやマレーシアなどではイスラム教徒の女性でも売春を行っていることは珍しくない。

現在のインドネシアで行われている方法としては、売春斡旋業者に女性の紹介を依頼すると斡旋業者が「アラーを唯一の神と信じるか」と聞いてくるのでYESと答えれば、 客はイスラム教に改宗したことになる(偽装改宗)。次にミシャー婚の手続きを行う書類にサインすれば合法的にイスラム教徒同士の夫婦となるため性的関係を持つことは合法となる。イスラム教では結婚する場合にはマフルを支払う必要があるので客は女性に金銭を渡す。 売春が終われば今度は離婚届けにサインして夫婦関係を解消する。本来イスラムでは雄牛章 228節により離婚後の再婚を規制しているが、一部の国または地域ではそれが守られていない。

同様の方法は古くからエジプトでも行われていたようで、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征で大勢のフランス人がエジプト人女性を買っている。


 エジプト遠征でナポレオンの義理の息子(ジョセフィーヌの連れ子)であったウジェーヌ・ド・ボーアルネが買った女奴隷の話については、ウジェーヌがエジプト遠征の時に買った女奴隷の話 (2018/07/15)で書きました(そういう行為があったかどうかは分かりませんけど、まあ……)。





『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』読了しました&独米日の陸軍人事

 『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』を読了しました。





 第二次世界大戦(以前から)のドイツ軍とアメリカ軍の陸軍の将校教育や人事の背景文化を比較し、ドイツ軍のそれが非常に優れていたのに対し、アメリカ軍は非常に失敗していた……ということをメインテーマとしています。

 この本は2015年出版で、存在は知ってたんですが当時興味を惹かれず放っておいてました。しかし読んでみると、私のメインの興味である「指揮官の人物像」ということに非常に関係のあるテーマで、「必読」であったなぁと思いました(^_^;


 とりあえずまず衝撃的だったのが、当時のウェストポイントなどのアメリカ陸軍の軍関係の学校の教育内容が非常にお粗末(数学を叩き込むばかりで軍事関係の知識も実務もほとんど扱わない)であったこと&上級生による最下級生に対するしごきが非常に厳しく(それがイヤで辞めてしまった優秀な人材も多くいただろうし、マーシャル参謀総長なんかはこのしごきで危うく死んでしまいそうになり、超絶貴重な人材を失うところだった)、その結果「自主性や独創性」などはまったく育たず、「規定(ドクトリン)」をただ遵守するだけで敢闘精神などなく、ただ後方で出世だけをコネなどで狙うような上級指揮官を大量に生み出した……というような話でした。

 だとすれば、旧日本陸軍のそれと比べてさえ、アメリカ陸軍の教育は質が低かった、ということなのでは……?


 このブログでこれまでにアメリカ軍のアレン将軍やコリンズ将軍を取り上げてましたが、彼らはアメリカ陸軍における非常に例外的な人物であったようなのです(そういえば、日系2世部隊であった第442連隊戦闘団が一時的に所属したアメリカ第36歩兵師団の師団長ダールキストなんかは非常に無能で出世ばかり気にしていたという話があり、「なるほどなぁ……」と思いました)。

アメリカ第1歩兵師団、第104歩兵師団を指揮した「テリブル」テリー・アレン将軍について(付:OCS『Tunisia II』『Sicily II』『Beyond the Rhine』) (2021/11/21)
太平洋とヨーロッパの両方で戦い高く評価された米軍の「ライトニング・ジョー」コリンズ将軍について(付:OCS『Beyond the Rhine』) (2021/12/03)


 一方ドイツ軍の方は、古くは軍学校でのしごき等はあったものの根絶され、将校の率先性(兵士達の先頭に立って戦い、死ぬことが重要だ)と独創性(戦争の技術に絶対の正解などなく、指揮系統の上下にかかわらず結果を出せるやり方をその場その場で考えることが重要で、勝利の為に必要であれば上官の命令に反抗して自分の判断で戦うことも大いに賞賛される)が非常に重要視され、軍事や将校に対する尊敬の念も大きくて軍事的知識の鍛錬において飛び抜けており、その結果ドイツ軍はまさに「プロフェッショナルな軍隊」となっていて、戦争の後期にドイツ軍全体がボロボロになっていてさえ依然として士気も高く、アメリカ軍にとって非常な強敵であり続けた……というようなことでした。


 アメリカ陸軍の指揮官の質が低かったという話も驚きでしたが、ドイツ軍がなぜあれだけ強かったのか(『Beyond the Rhine』で英米軍はAR5のユニットは3つしかないが、ドイツ軍には依然として55個ものAR5ユニットがある……)がなるほどと得心できました。

 一方でこの本によれば、当時のドイツ軍の弱点は最上層部(つまり参謀本部や参謀総長)の質が低下していたことで、ハルダーなどは非常に批判されています(とはいえ、グナイゼナウや大モルトケがあまりに偉大すぎで、それより低下するのはしょうがないのではと私は思ったりもするのですが……)。ハルダーは実戦指揮の経験がまったくなかったらしく、そこらへんも良くなかった一因ということになっているのですが、しかしそれはハルダーが自主的にそうしたわけではなく、当時のドイツ軍の最上級の将校にはそれが割と良くあることだったという、システム(あるいは将校文化や人事)の問題であったとはされてます。

 結果として、この本の感じからすれば、ロンメルとハルダーを比較すれば、ロンメルは素晴らしく、ハルダーはダメダメであったということになります(一方でこの本の訳者の大木毅さんはその著『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』で、ロンメルに対する批判を、ハルダーの言葉を頻繁に引用して行われている感を受けます。まあそこらへんは色々な見方があるということでしょうね~)。



 また最近、日本陸軍の人事や将校教育などに関する↓などの本を読んだりもしていたんですが……。





 これらの本を読んでいると、日本の陸軍大学での教育は、まあ色々問題はあるものの、ウェストポイントでの教育よりはよほどマシであったという印象を受けます(^_^; でももちろん、ドイツ軍のそれには全然かなわないでしょうね……。

 また、人事に関してなんですが、日本陸軍は陸大での成績順が超絶重要とされつつも(それ自体どうかという気はしますが)、卒業年度を追い越してはいけないとかの縛りがきつくて抜擢などが全然できず、あるいは超成績優秀な良識派が疎まれてドサ回りとかさせられていて、初戦の時に山下奉文、本間雅晴、今村均というような成績優秀かつ良識的な人物が東南アジア侵攻作戦の軍司令官にすっと任命できたのは、つまり彼らはそれまで重要な役職から外されていたからだったのだ、というような話がなかなか悲しい……(しかし恐らくここらへんは今ですら、日本では根本的には変わってないように思います。文化的にかなりしょうがないのでしょうね。尤も、これからはそうでもなくなるかもという気もしますが……)。

 一方で第二次世界大戦の時のアメリカ陸軍は、将校の数がそもそも少なく(アメリカ軍は元々、戦時にはがっと大軍隊を作るけども平時にはかなり縮小してしまう軍隊)、お互いが見知った関係だったので、昇進するかどうかは上級指揮官と知り合いでコネがあるかどうか、認められるかどうかにかなりよっていたそうで、結果として戦地の師団長とかは「部隊を前線で率いる」とかでなく、後方で色々運動して出世を狙ってばかりだったとか。そのためアメリカ軍の兵士は「指揮官を前線で見ることなどない」ということになったそうで(イタリア軍も同様)一方でドイツ軍は末期戦ですら将校が先頭に立って戦うのが当たり前であったから、兵士の士気が全然違っていたとか……。

 実際、マーシャルやアイゼンハワーやブラッドレーの個人的な推薦や抜擢によって、アメリカ陸軍の戦地での指揮官が昇進するという話を良く見るような気がします。一方で日本陸軍は、戦地での昇進が戦地での司令官によってなされるという例はほとんどまったく?なく、あくまで内地の人事局が管轄していて現地ではどうにもならない……(山下奉文がある時、これだけはと話を持ち出したという例が『陸軍人事』にありましたが)。

 一方で降格については、アメリカ陸軍も日本陸軍のように、ばっと辞めさせることができず、目立たないように色々たらい回し人事になっていたそうです……(フリーデンドールなんかもそう)。ただしアメリカ軍の場合には日本陸軍ほどの「復活人事」はなかったんじゃないでしょうか。


 ドイツ軍は、昇進はあくまで戦場での活躍による。上級指揮官に不適格だと判明したことによる降格もかなり果断に行われる(ハルトリープとか)。ただし、貴族や参謀本部将校の昇進が優遇されるという傾向が第二次世界大戦の少し前からその途中までかなりあった(派閥人事的なものか)そうで、その点はよくなかっただろうと評されていました。

 またそこらへんは、関係エントリに情報を集積していきたいと思います。

太平洋とヨーロッパの両方で戦い高く評価された米軍の「ライトニング・ジョー」コリンズ将軍について(付:OCS『Beyond the Rhine』)

 『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』を読んでいて、米軍のコリンズ将軍について興味を持ったので調べてみました。



(なお、『コマンド・カルチャー』は第二次世界大戦の頃のアメリカ陸軍のウェストポイントなどの将校養成機関が、敢闘精神と独立性を持った指揮官を育成するのに大きく失敗したということがメインテーマになっており、その文脈で語られています)



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 ↑コリンズ将軍(1948年、アメリカ陸軍の副参謀総長の頃)(Wikipediaから)


 戦時において、合衆国陸軍の枢要な地位に就くべき優れたリーダーを見つけだすのは、容易なことではなかったと思われる。指揮官たちの書簡や回想録では、ある地位に必要な能力を持っているのはごくわずかの人材しかいないということが、しばしば論じられている。とくに、実戦に強い指揮官は稀だとみなされており、そうした統率力や攻撃精神を有する少数の者は、繰り返し切所【難所】に投入され、上陸作戦や突破、救援作戦にあたる部隊を指揮した。ジョー・ロートン・コリンズには、そのような人物であるとの定評があり、太平洋戦域からヨーロッパ戦域にまわされることさえあった。コリンズの能力が切望されていたためでもあり、また、現にヨーロッパで戦っていたり、合衆国に配置されて待機している将校たちのなかに、そういう人材がいないことは明白だったからだ。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P261



 検索してみたところ、英語版Wikipedia「J. Lawton Collins」に、詳しくはないですがある程度コリンズの人物について書かれていました。

 コリンズは、1941年から1942年までハワイ局で参謀長を務め、「Tropic Lightning(南国の稲妻)」の異名を持つ第25歩兵師団の師団長として、オアフ島をはじめ、1942年から1943年にかけてのガダルカナル、1943年7月から10月にかけてのニュージョージアでの対日作戦に従事した。任命されたとき、コリンズはアメリカ陸軍で最年少の46歳の師団長だった。コリンズが「ライトニング・ジョー」の愛称で呼ばれるようになったのは、この作戦でのことである。


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 ↑ニュージョージアにおけるコリンズ将軍。



 その後、コリンズは欧州作戦地域(ETO)に赴任し、第7軍団を指揮して連合軍のノルマンディー上陸作戦と西部戦線で従軍し、1945年5月にヨーロッパの戦いが終結するまで活躍した。コリンズは、戦前、陸軍歩兵学校でコリンズと一緒だったオマール・ブラッドレー中将(当時、在英第一軍司令官)によって、ブラッドリーのウェストポイント時代の同級生で第7軍団の初代司令官だったロスコー・B・ウッドラフ少将の後任として選ばれた。ウッドラフはコリンズよりも年長だったが、水陸両用作戦の経験はなかった。コリンズは、ブラッドレーと連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍との間の、彼の戦闘経験についての短い面談で、太平洋での戦術的アプローチを「常に高地を狙って攻撃する」と要約し、任命された。ブラッドレーはアイゼンハワーの方に向き直って、コリンズは「我々の言葉で話す」と主張したのだ。これにより、47歳のコリンズはアメリカ陸軍で最も若い軍団長となった。ノルマンディーでコリンズの指揮下に入った部隊の中には、1917年にウェストポイントを卒業した仲間であるマシュー・リッジウェイ少将が指揮する、歴戦の第82空挺師団があった。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第7軍団司令部ユニット。

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 第7軍団は、1944年6月のノルマンディー上陸作戦と、その後のコブラ作戦を含むノルマンディーの戦いで大きな役割を果たした。コリンズは第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー将軍に気に入られており、グッドウッド作戦の後、1944年7月27日にコブラ作戦で第7軍団を脱出させるための道筋をつけた。 コブラ作戦の後、ファレーズポケットの戦いでノルマンディーにおけるドイツ国防軍の掃討を完了し、その後、パリの解放とパリからライン川までの連合軍の進撃に参加した。9月上旬、第7軍団はモンスポケットの戦いで約25,000人の捕虜を獲得した。 その後、ジークフリートラインを突破し、ヒュルトゲンの森の戦いで激しい戦闘に耐えた。第7軍団はその後、第二次世界大戦中の西部戦線における最大の戦闘であるバルジの戦いで主要な役割を果たし、最終的に連合国軍の西部ドイツ侵攻に参加したのである。第7軍団は「コブラ作戦」で主導的な役割を果たしたことでよく知られているが、コリンズがその計画に貢献したことはあまり知られていない。


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 ↑1944年7月、ブラッドレー(左)にシェルブールをどのようにして攻略するかを説明するコリンズ将軍(右)。



 ヨーロッパと太平洋の両方で、それぞれドイツ軍と日本軍と戦った数少ないアメリカの上級指揮官の1人であるコリンズは、2つの戦争地域における敵の性質を対比させた。

 ドイツ軍は日本軍よりもはるかに高い戦闘技能を有していました。私たちが戦った日本軍部隊のほとんどは、熟達した兵士を持っていませんでした。その指揮官達も、熟練とは言えなかった。しかしドイツはプロフェッショナルな軍隊を持っていた……日本軍は……我々と同じように諸兵連合(砲兵と歩兵の連携)を扱う方法を知らなかった。だが、彼らは勇敢な兵士達でした……。彼らは非常に、非常に激しく戦ったが、ドイツ軍ほど巧みではなかった。しかし一方で、ドイツ軍兵士達には日本軍兵士達のような粘り強さはありませんでした。

 コリンズは1945年4月に一時的に3つ星の中将に昇進しており、6月には(一時的でない)准将になった。コリンズの上官であるオマール・ブラッドレー将軍からの評価は非常に高く、ドイツ軍の多くの上級指揮官達も、第8軍団を指揮していたトロイ・H・ミドルトン中将とともに、コリンズを西部戦線における最高のアメリカ軍団指揮官の一人と考えていた。ブラッドレーは「もし我々が欧州戦域でもう一つ軍規模の部隊を編成していたら、その若さと指揮年数の短さにもかかわらず、コリンズは間違いなくその司令官に指名されていただろう」とコメントしている。戦時中の功績により、コリンズは陸軍特別功労賞を3回、銀星章を2回、レジオン・メリットを2回受賞した。


 日本軍兵士に関する言及が、日本人としては泣けます……(T_T)

 ドイツ軍がプロフェッショナルな軍隊であったゆえんについても、『コマンド・カルチャー』では詳しく述べられており、大変興味深かったです。



 さらに、『コマンド・カルチャー』の序文で言及されていた『Eisenhower’s Lieutenants: The Campaigns of France and Germany, 1944-1945』のKindle版を購入してみたので、そちらでコリンズ将軍について検索してみましたら、以下のような話がありました。



 1942年5月、コリンズは2つ目の星を獲得し、第25師団長となった。1943年の初めには、この部隊はガダルカナルの第1海兵師団を救援し、そこで自分自身の最初の攻撃を開始していた。第25師団は心許ない由来を持つ部隊だった。この師団は戦前のハワイ師団(現在の第24師団)から引き抜かれた基幹部隊を中心に編成されたのであるが、ハワイ師団は正規の陸軍部隊ではあったものの、明らかに第一線の部隊ではなく、長らく守備隊に過ぎないと考えられていたものだったのである。それなのに第25師団は、ガダルカナルで第1海兵師団の後任を務めなければならなかったのだ。だがコリンズによる訓練と、彼の指揮のおかげで、恥じることなくその役割を果たすことができたのである。師団のコードネーム「LIGHTNING」は、コリンズ自身を連想させるものであった。
『Eisenhower’s Lieutenants: The Campaigns of France and Germany, 1944-1945』P119

 【1944年6月10日頃?】ブラッドレーと彼の幕僚達が第7軍団を訪問した際に感じたのは、「非常に活気がある」ということだった。若くてハンサムなコリンズ将軍は、「ネクタイをしていなくても身なりが整って見え、厳格な感じがした」とある日記に書かれている。また他の日記には「自主性と活気に溢れ、素早く、有能で元気いっぱいだった」とあった。
『Eisenhower’s Lieutenants: The Campaigns of France and Germany, 1944-1945』P117

 「ライトニング・ジョー」 コリンズの軍団指揮のスタイルは、個人的なリーダーシップを大いに発揮するというもので、軍団司令部を前線近くに置き、偵察車でもってある師団の連隊、大隊から別の師団や大隊へと急いで移動しながら諸問題を直接解決していき、全体の前進を促すというものだった。コリンズの第90師団への対応【第90師団の6月初旬の戦いぶりが良くなく、コリンズが師団長と2人の連隊長を解任したこと】は、彼の短気ではあるが大きな活力が、フィリップ・H・シェリダン将軍のように、自分よりもやる気のない指揮官に対する冷酷な不寛容さを秘めていることを示唆していた。それに加えて、コリンズがフィル・シェリダンのような大きな攻撃性を持っているというこの初期の徴候が成長していけば、ポトマック軍とは異なり、ヨーロッパにおけるアメリカ第1軍は、その作戦の初期にシェリダンを発見した幸運な存在となるかもしれない。
『Eisenhower’s Lieutenants: The Campaigns of France and Germany, 1944-1945』P119


 シェリダン将軍というのは、南北戦争の北軍の非常に敢闘精神の高かった、北軍ではある意味例外的な指揮官で、東部戦線における北軍(ポトマック軍)は特にそういう指揮官が全然おらずに苦労したので、「ノルマンディーにおけるアメリカ軍は初期のうちにシェリダン将軍のような敢闘精神の高い指揮官を得て幸運だった」というようなことかと思います。

 南北戦争やシェリダン将軍については、昔々に私が旧GameJournal誌に(南北戦争に詳しい方に教えてもらいながら)書いたヒストリカルノートをこちらにて公開していますので、見てもらったよいかもです。


<2022/03/21追記>

 『狐の足跡』にコリンズ将軍について書いてあるのを見つけたので、引用してみます。

 しかし6月22日になると、【ドイツ軍の】防御部隊は絶望的な状態になった。アメリカ軍の指揮官は猛烈な勢いで防御部隊を追撃して、これまでアメリカ軍と戦った経験のあるドイツ軍の将官全員を驚かせた。ロートン・“ジョー”・コリンズというハンサムで機敏で、しかも頑張り屋の少将は、1940年に同じ道路を北に向かって敵を急追したエルヴィン・ロンメルを生き写しにしたような人物であった。
『狐の足跡』下 P242





<追記ここまで>


 他にも、第82空挺師団長のマシュー・リッジウェイ将軍(朝鮮戦争では軍司令官として中国軍の攻勢を押し止め、反撃した)なども、米軍の優秀な指揮官として『コマンド・カルチャー』では何度も言及されており、そこらへんの知識が増えてくると、ウォーゲームをやる上でも個人的により楽しめるので嬉しいです。

OCS『DAK-II』7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のサマリーと改造ハウスルール案

 ツイッターで主にアップしてましたが、ここ最近、富山のKさんとずっと、OCS『DAK-II』の「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」をプレイしていました。


 プレイしていて、色々気をつけるべきことがあって、サマリーをちまちま作っていたので、公開してみます(細かい疑問点も色々あったのですが、facebook上で質問して解決してあります)。

◆注意点

 シシリーボックスにセットアップされる航空ユニットがオフボードボックス内にあるので注意。

 VASSALでシナリオ7.5をプレイする場合、セットアップされている英連邦軍のエジプト軍部隊のうち、鉄道工兵と港湾工兵以外はオプションを使用する場合以外使わないので、除去するとよい。

 連合軍のカイロから1ヘクス以内のセットアップできるユニットは、E23.20に置いておけば、第1ターン後攻連合軍移動フェイズに無限のSPを入れられるので、エル・アラメインあたりまで戦略移動すると良い。次のターンにまた、エル・アラメインから無限のSPでトブルク周辺まで移動する(最初のリアクションフェイズにこのスタックを移動させると、無限のSPが使用できなくなるので、やめておいた方がよい)。
(VASSALではE23.20に最初から置かれているRoyals Arm Car Bnは第1ターンの増援なので、最初のリアクションフェイズ中、並びに第1ターン中に動かしてはいけないことに注意↓)。
c3.6dの規定により、両軍とも登場した増援はそのターン中は移動(輸送)させることはできない。次のターンから移動可能。

 連合軍の指揮官マーカーは、リアクションフェイズ開始時までにはセットアップ位置から動かせないことに注意。つまり、最初のリアクションフェイズには指揮官で前線近くの部隊を動かすことはできない。

 ポーランド軍カルパチア歩兵旅団と槍騎兵大隊は41年8月22日ターンから駐留区域(Restriction Zone)から出ることができない。あるいは枢軸軍がメルサ・マトルーに隣接したら制限は解除される。それまではそこに留まらなければならない。

 FKのJu.87は、最初Ju.87bだが、41年12月にJu.87dへと変換される




◆プレイ中のタイミングに関するまとめ

ターン開始時
 ギリシア作戦状況表(Greek Campaign Status Track)に、ギリシア作戦の進行状況を記録する
(増援到着表を見て「Change Roll」が記載されているターンだったならば、2D6しそれ以下ならStatus Trackが1つ進む。そうでないなら、Progress Trackが1つ進む。Automaticより前に一つ進んだら、Automaticのターン(含む)までチェックしない)

 ギリシア派兵進行表(Greek Campaign Deployment Progress Track)上で、マーカーをひとつ先へ進める。トラックに部隊名が記されていたら、それらを4ターン以内に移送しなければならない)

・天候決定
・イベント決定

 マルタ島影響表は、枢軸軍移動フェイズ開始直前にダイスを振る(c4.3b)。

月初め
・月初めのターンの開始時:
 連合軍の訓練マーカーを進める
 トブルク対戦車壕が完成する(1941年4月1日)

・月初めのターンの枢軸軍プレイヤーターン開始時
 トリポリにあるSPの1/4を取り除く
 FKの投入を決定する


 枢軸軍の港湾修理は、各月の1日ターンと15日ターンだけ


ターン終わり
 尼崎会改造ハウスルールの指揮官死傷チェック



◆『DAK-II』特別ルールで特に大事なもののサマリー

・トリポリボックスとシチリアの中身は、普段は秘密にするものである(航空ユニットも可能な限り隠してよい)。イベント(あるいはシナリオ開始時に有効になっているイベント)によって公開情報にされる可能性あり。
・フォーメーションマーカーで隠せない可能性について、イベントに注意
・マルタ島影響表の判定と結果は、デフォルトでは秘密(イベントで公開させられることあり)
・ヒップシュートは最初のうちはドイツのみで、ドイツ軍の観測ユニットが必要
・41年10月1日から、ドイツ軍は砂漠に順応し、イギリス軍がヒップシュート可能になる。
・小道も1/2移動力
・司令部方式の燃料の入れ方は使えない
・旅団は2ステップ(イタリア軍にわずかながら旅団規模の砲兵があることに注意)
・指揮官はどの自軍フェイズにでも(補給フェイズや増援フェイズでさえも)移動できる(しかし敵のフェイズには移動できないことに注意)
・戦闘団マーカーはユニットから離れて存在できない
・2T以上の港湾は補給源
・両軍とも、増援が登場したターンにはその増援を移動させることはできない(c4.3b)。つまり「Old」に置かれたユニットはすぐには海輸できず、次のターンに海輸可能になる。
・「Old」ボックス上で積載物が空の輸送ユニットは、そこでSPを積んでからトリポリへと海上輸送できる
・輸送トラックは19.35からトリポリまで20移動力、トリポリで5移動力を消費してSPを積載し、20移動力で19.35まで戻って来られる
・ガチ対戦(に近いなら)、OCS全部の補給表、補充表のダイス目も秘密にするということを考えて良い


◆英連邦軍側の特別ルールサマリー(富山のKさん作)

c5.3b タイガー船団の登場時期の選択
 キャンペーン7.4、7.5、7.20のみ、キャンペーン開始前に決定。
 クレタ島失陥後は到着せず。
 到着ターンにEQ×5、次のターンにハリケーンⅠ型×Ⅰを増援として受け取る。

c5.4a~c 史実に基づく転出か可変転出か選択
 キャンペーン7.18を除き、キャンペーン開始時に決定。
 可変転出は、各ターン可変増援判定(和訳49ページ)の後に判定(和訳52ページ)。

c3.11b ギリシア作戦の進行状況チェック
 1941年2月5日から始め、連合軍増援到着表の「ギリシア作戦状況変化ロール」と記されている各ターン開始時に判定。
 2D6でその数値以下が出たら「ギリシア作戦状況表」を1つ進める。「Automatic」は自動で進める。
 「Automatic」より前で進んだ場合、「Automatic」のターンまで判定を行わない。
 「ギリシア作戦状況表」が「準備期間」になったら、「ギリシア派兵進行表」の1の欄に「ギリシア派兵進行マーカー」を置き、「ギリシア作戦状況表」が「実行」になるまで毎ターン1つずつ進める。
 マーカーの入った「ギリシア派兵進行表」の欄に派遣する部隊が記載されている場合、それらの部隊を4ターン以内にいずれかの港湾からギリシアボックスへ移送する(輸送力は消費しない)。
 「ギリシア作戦状況表」が「終了」になったら、ギリシアボックス内の各ユニットについて「ギリシア帰還表」(和訳49ページ)で判定。

3.1g トブルク対戦車壕
 1941年4月1日ターン開始時に完成。

3.9b エジプト国軍ユニット
 オプションルールなしの初期配置は、鉄道工兵大隊×3と湾港工兵大隊×1(リビア国境以西へ進入不可。c5.5f)とグラジエーター×1(スエズ運河から25ヘクスを超える飛行、基地変更は不可。c5.5j)。
 湾港工兵大隊は湾港の修復のみ可能。鉄道工兵大隊は工兵能力を持たない(3.9f)【つまり鉄道工兵大隊ユニット3つは、戦闘力のない、ステップでしかない】。

c3.1h 鉄道線
 西方砂漠鉄道線(WDR)は鉄道境界線(RR Boundary)の制限なしで使用可。SPの輸送も可能。
 ナイルデルタ鉄道線は鉄道業界線を含む東側でのみ使用可(c3.1h cの和訳は間違い)。SPの輸送は不可。
 同一フェイズ中に両方の輸送力で同じ積載物を輸送できない。
 輸送能力は和訳49ページを参照。

c3.1i イギリス軍未完成鉄道線
 鉄道末端にいるニュージーランド鉄道工兵中隊のみが延長可能。移動フェイズに行い、SPの消費は無し。
 敵ユニットに隣接するヘクスへは延長不可。ニュージーランド鉄道工兵中隊が敵ユニットに隣接している、混乱状態である、そのターンに移動している場合も延長不可。
 延長を行うのが1ユニットの場合、1d6の6で成功。2ユニットの場合は自動的に成功。
 成功した場合、延長に使用した全ユニットと鉄道末端マーカーを未完成鉄道線ヘクスに沿って1ヘクス前進させる。

3.6d 増援の登場
 登場ヘクスの指定されていない英連邦軍の増援は、ナイルデルタの港湾に港湾能力内で登場(c5.3e)。
 港湾能力を超えた増援ユニット、任意で登場を遅らせたいユニットは、ワールドボックスに置く(c5.3e)。
 次ターン以降に移動、輸送が可能(これは枢軸軍のトリポリへの増援についても同様でした)。
 航空ユニットは活動状態で、任意の航空基地あるいは滑走路に登場。

3.7d イギリス軍補給の中心地
 アレクサンドリア、ポートサイド、スエズは2ヒット以下の損傷状態であり、敵ZOC下になく、前二者はスエズ運河が運行可能な場合、無限の補給集積所として機能する。これらの各ヘクスは港湾能力の有無に関係なく、1対空射撃力を持つ。
 スエズ運河(c3.1L)は、英連邦軍プレーヤーターン終了時に2戦力以上の一般補給下にある枢軸軍戦闘ユニット(複数ユニットでも可)がスエズ運河に隣接したヘクスを占拠していた場合、次のターンからスエズ運河は運行不可能となる。
 スエズ運河が運行不可能となった場合、英連邦軍の地中海の港湾は一般補給源にできず、スエズ運河を通過する沿岸航路輸送は不可。アレクサンドリアとポートサイドは無限の補給集積所でなくなる。
 無限の補給集積所からは輸送トラック、沿岸航路輸送力、西方砂漠鉄道線を使用したSP の積み出し、航空ユニットの整備と燃料で使用するSPの消費は無制限。砲撃と戦闘で使用するSPは、1ターンにつきその港湾能力分まで供給可能。

3.9d 2ステップ旅団
 すべての旅団規模のユニットは2ステップを持つ。
 完全戦力では1RE。1ステップ損失で0.5RE、戦闘力および砲爆撃力は半減。燃料、戦闘補給は両者とも1ユニットにつき1T。

c3.12 砂漠挺身隊
 連隊規模未満のコマンド部隊ユニット。
 砂漠挺身隊のみが参加する戦闘でない限り、そのARを攻撃防御で使用不可。
 6ターンの間、非補給にならず損耗もしない。
 移動の際、進入するヘクスごとに移動コストを徒歩か自動車化を選択可能。

5.1 ヒップシュート
 1941年10月1日以降、全ての英連邦軍航空ユニットはヒップシュート可能。

5.2a ヘクスA19.35
 ヘクスA19.35には、連合軍陸上ユニットは進入不可。空爆、砲撃、戦闘は制限なし。

c5.3a 名目上の司令部
 連合軍支配下の都市と村ヘクスでは補充ユニットが存在すれば、実際の司令部なしでユニットの再建が可能。
 連合軍の補充ユニットは、1941年4月26日以降登場判定する(和訳49ページ)。

5.5a 師団編成の保持
 連合軍の複数ユニットフォーメーションには、補給源統一の罰則(シリーズルール12.6f)が適用されない。

5.5b 第7機甲師団
 第4、第7機甲旅団と第7支援グループは、それらが分割された大隊規模の機甲ユニットと支援ユニットが除去か解散されるまで再建不可。

5.5c 旅団グループと支援グループ
 旅団グループルールは1940年9月12日から1942年8月26日まで、未熟ユニットを除き適用。適用期間中、全ての英連邦軍歩兵旅団は、射程1ヘクス、戦闘モードの完全戦力で5(1ステップ損失で3)、移動モードの完全戦力で3(1ステップ損失で1.5)の固有の砲撃力を持つ。旅団が予備モードにいればその恩恵を受ける。
 第4インド師団は1941年1月1日から適用し、そのときに師団所属砲兵旅団を除去。
 支援グループユニットは、ユニット上の黄色い枠内に記載された固有の砲撃力を持ち、射程は3。
 機甲旅団グループルールは1942年2月8日から1942年8月26日まで適用。適用期間中、歩兵旅団グループと同様の砲撃力を持ち、兵科記号が「黄色」のものは「赤色」となる。
 旅団グループ適用期間が終了した時点で、英連邦軍の各師団には師団所属砲兵が配属され、ユニット固有の砲撃力は失われる。機甲旅団グループの兵科記号は「赤色」のまま。
 ユニット固有の砲撃力にもSPの消費が必要。

c5.5d 部隊の訓練
 訓練中マーカーが「通常」ボックスに無い師団のユニットは未熟ユニット。
 未熟ユニットはARが1減少、旅団グループの適用外、砂嵐の間は移動不可。
 固定されていない訓練中マーカーは、各月の最初のターン開始時に訓練トラック上を1つ進む。

c5.5h 空挺降下
 空挺降下能力を持つ英連邦軍ユニットは存在しない。






◆第1ターンの枢軸軍の輸送トラックの使い方。
・45移動力を持つ輸送トラックは、1つの経路トラックに入るのに4移動力消費。
・輸送トラックが経路トラック1に入った時点で移動力がまだ1以上残っていれば、その次のトリポリボックス/19.35に0移動力で入れる。経路トラック1に入った時点で移動力が0になっていれば、経路トラック1に留まり、次のターンの移動フェイズにその次のトリポリボックス/19.35に0移動力で入れる。
(http://www.ocsdepot.com/images/contentfile/DAK2_Tripoli_Transit_Examples.pdfによる)
・19.35でSPを荷降ろしする際、燃料に対して使用するなら、降ろさずに、つまり5移動力を消費しないでおくことができることに注意。
・専用トラックは予備モードになれるから、移動フェイズ開始時に19.35にいるのであれば、11移動力までを消費して前方で燃料や戦闘補給(つまり戦闘フェイズや、拡張フェイズ中にマップ上にいて)を入れてから、拡張フェイズ中に19.35まで戻れる。

 セットアップ時点で積載状態を選べる。20移動力で19.35に行き、荷降ろしのために移動力を消費しないように燃料として消費し、20移動力でトリポリに戻り、残りの5移動力でSPを積載することができる。

 第2ターンには20移動力で19.35に行き、第1ターンと同様にするか、あるいは、
1.5移動力で19.35でSPを荷降ろしし、20移動力で経路トラック1まで戻る(次のターンの開始時にトリポリボックスに0移動力で入れる)。
2.残り25移動力を使用してマップ上のどこかにSPを荷降ろしするか、あるいは荷降ろしせずに燃料として使用し、移動フェイズ中に19.35にまで戻ってくる(次のターンにトリポリボックスへ向かう)。
 というような選択肢がありうる。




◆枢軸軍プレイの指針?
 第1ターンはFKは投入できない。マップ上の連合軍のSPをとにかく奪いまくるのが良い?
(ベダ・フォムを踏み、1T港湾1つを手に入れるくらいか)
 第2ターンにFKを投入できる。大胆にやるなら全投入はありか。ベンガジ近郊と、アクダル山地の中にレベル2航空基地があるので、それを取れば整備能力的には結構いける(連合軍が破壊する可能性がないではないが)。He.111がトリポリ等から1Tを運べない等の効率を考えると、全投入よりは+0の投入が良いかも。

 ベダ・フォムに最初のリアクションフェイズに到達可能な連合軍ユニットは、MsusにいるBIM Bnを移動モード面にして予備モードにしている場合のみ。ここに予備マーカーが置かれていないようならば、枢軸軍プレイヤーはベダ・フォムを占領してそこのSPを捕獲した後、そこに守備隊を置かずにさらに移動を続けることができる(例えば有力な枢軸軍部隊を一箇所に集めておき、そこにロンメルを置いておいてリアクティブロールの成功を狙うなど)。

 第1ターンの先攻枢軸軍の移動フェイズ中に占領することが可能な1T港湾であるZuetina(A30.19)に、1Tを海上輸送するのではなく、いきなり1RE分(ただし1ユニットで)の陸上ユニットを海上輸送してしまうという手があり得る(この拡張フェイズ中にベンガジを取れる可能性はあるが、どうせ拡張フェイズ中に海上輸送はできず、移動フェイズ中に1RE分の海上輸送力全部を有効活用するということ)。
 候補としては、7 Brs Rgtか。他に大隊規模(2T分)でもっと強い部隊や、燃料のいらない徒歩部隊(1T分)もあるが、それらは第2ターン以降にベンガジを占領していたとしても、トリポリ~ベンガジ間は海上輸送力半分で運べるので2T分が1T分に。そしてZuetinaに大隊規模ユニット(2T分)を運び、さらに1T分が余ることになる(Apollonia:B62.33に1T運べる)。

 DAK司令部を予備モードにしておいて、拡張フェイズにアジェダビアまで持って行けば、Msusを殴ることができる。

 4月中は沿岸輸送力が1SP分しかないので、ベンガジ(2ヒットを食らって2T港湾となっている)を港湾修理するのは無駄に思えるが、5月には沿岸輸送力が3SPになるので、枢軸軍が港湾修理を行える毎月1日と15日に司令部や工兵(戦闘工兵や突撃工兵でも良い)で修理しておく方が良いかも。




 また、この7.5「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」は、非常に枢軸軍側にとって厳しいバランスになっていると感じます(ただし、チャレンジングで良い、という面もあるとは思います)。

 『DAK-II』には数多くの公式オプションルールがあり、その中から枢軸軍をほんの少し救済できるような、入れた方が良さそうなものとしては以下のものがありましたので、使用をオススメします(連合軍側のものも一応チェックしましたが、バランスを度外視しても、入れた方が良さそうだと思われるものは見つかりませんでした。また、クルセイダー作戦の頃までに関するものしかチェックしてませんのでご了承下さい)。

6.2g ドイツ軍の専用トラックの解放
【ドイツ軍の専用トラックに対して、荷降ろしができないという制限をなくす】
6.2L イタリア軍トラックの再編(史実)
【イタリア軍の歩兵師団2つまで(プレイヤーが指定)の移動モードを、14自動車化移動力とする。ただし経路トラック上では、次ターンのために選ぶことはできないと考えるべきだとは思われます(そのターンは移動できなくなる等を考慮すると)】
6.2p 装甲車両による補給段列(史実)
【ドイツ軍は装軌移動コストで補給できる】




 しかし、これらを入れてもこのシナリオに関しては焼け石に水だと思われ、非常に大胆に改造ハウスルールを入れた方が良いだろうと思われました。以下に、我々が試してみてある程度以上はうまくいったと思われる改造ハウスルール案を書いてみます。

・英連邦軍のセットアップのSPの量を半分にする(端数切り上げ)。
【そのままではSPがあまりにも多過ぎ、英連邦軍プレイヤーが持て余したり、あるいは何でもできるほどの量がありますが、史実ではこの時期の英連邦軍の対処能力は非常に限られたものでした。】

・シナリオ7.5のメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍の自由配置ユニットは、以下のように処理する。
1.塩沼には置けない。
2.すべてのユニットは移動モードで置き、さらにこの時点でARが3のユニット2つはDGとする。
【この時期の英連邦軍側の混乱を表すものです。】

・イギリス第2機甲師団の訓練度は(「Training #2」ではなく)「Green」で7.5を開始する。つまり、第2ターン(4月1日ターン)には「Training #1」となる。
【そのままではシナリオの第2ターン(4月1日ターン)に、第2機甲師団は高めのARを持ってしまいます。しかし史実では4月においても第2機甲師団の状態はひどいもので、あっという間に壊滅してしまいました。】


 また、枢軸軍の補給能力が非常に低くて苦労するのですが、他のシナリオとも比較検討した感じ、一応何もいじらないでおくのが良さそうに感じました。『DAK-II』のシナリオ全般が悪いわけではなく、あくまでこのシナリオだけがやたらめったら枢軸軍にとって厳しすぎるのではないかという印象です(もちろん、我々が何か勘違いしてしまっている可能性は充分にあります……)。


 また、指揮官の死傷チェックやARを+1できるケースについて改造ハウスルール案を考えていました。これも個人的にはオススメします。

OCS『DAK-II』の指揮官死傷チェックの改造ハウスルール案 (2021/06/13)



 さらにまた、当時の英連邦軍が諸兵連合しないドクトリンで戦っていたことや、イタリア軍の能力が低かったことについて改造ハウスルール案を考えていましたが、これはほとんど検証できておらず、使用は全然オススメしませんが、一応挙げておきます(^_^;

・(セットアップを除き)英連邦軍は各フェイズ終了時に、兵科マークが歩兵、機甲の2種類の異なる兵科ユニットを一緒にスタックさせておくことはできない(ゆえに、一緒に防御することもできない)。
・歩兵と機甲は、同じ攻撃に参加できない。
・例外:英連邦軍の機甲ユニットのうち、戦闘モードでの移動力が3と4のもの(マチルダ歩兵戦車だと思われるもの)は、歩兵とスタックして良い。また、それらの機甲ユニットは戦闘モードでなら歩兵と一緒に攻撃できる。しかし、移動モードでは歩兵と一緒に攻撃はできない。
・砲兵と旅団グループ歩兵の砲爆撃力を一緒にして砲爆撃はできない。
・砲兵ユニットや航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対して、陸上ユニットは攻撃できない。
 ただし、独自の砲爆撃力を持つ支援グループ(歩兵)や旅団グループ(歩兵や機甲)等の、砲兵以外の砲爆撃によってDGになった敵ユニットに対しては、陸上ユニットは攻撃できる。
・独立戦車大隊は、常に歩兵師団の歩兵旅団に対して1対1で配属させなければならない。敵機甲部隊からの防御時には独立戦車大隊がARを提供する部隊にならなければならず、攻撃時には歩兵旅団がARを提供する部隊にならなければならない。
・これらのルールは、史実でモントゴメリーが就任したターンに廃止される。

 これらの英連邦軍関係の改造ハウスルール案の元としたのは、↓のような内容です。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)
イギリス軍の歩兵戦車は、ドクトリン上どのように運用されていたのか?(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/16)


・イタリア軍のHQユニットは、戦闘モードでも移動モードでも0戦力である。
・イタリア軍が参加する攻撃では、イタリア軍のユニット毎にAR+2し、1D6でそれ以下の値を出した時のみ、そのユニットは攻撃に参加できる。ただし、その攻撃がイタリア軍単独によるものだったら、AR+4で判定する。砲兵による砲爆撃も同様に判定する。それぞれ、参加した分だけSPを払えば良い。事前に充分なSPなしで攻撃/砲爆撃は宣言できない。

 これらのイタリア軍関係の改造ハウスルール案の元としたのは、↓のような内容です。

北アフリカ戦で英連邦軍は諸兵科連合できない(しない)……でもじゃあ、イタリア軍は諸兵科連合できるのか?(付:OCS『DAK-II』改造ハウスルール案) (2021/11/02)

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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