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ドイツ軍陸軍総司令官であったフォン・ブラウヒッチュ将軍について

 ちょっと前に『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)という、古い和訳本(1979年初版)があることを知りまして、購入して読んでみてなかなか面白かったです。







 その中で、「一応名前は知ってるけど詳しくは知らない」陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ将軍の描写が、非常に無能で情けなくも面白かったので、大いに興味を持ちました。

Bundesarchiv Bild 183-E00780, Walther von Brauchitsch

 ↑フォン・ブラウヒッチュ将軍(Wikipediaから)



 一応、以前↓の動画でブラウヒッチュについて少し調べて紹介したりはしてましたが……。






 『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)の中の、1939年のポーランド侵攻作戦の時の話です。

 軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ将軍は、その時間のほとんどを、野戦の各軍および各軍団の司令部を訪問してつぶしていた。従って、作戦指導の責任は、ツォッセンにいるハルダー将軍にかかっていた。それにもかかわらず、ブラウヒッチュは旅先から、参謀総長の仕事にたえず干渉し、重要な決定を行なう際にはツォッセンにもどっては口を出していた。
 【……】
 陸軍総司令官であるブラウヒッチュは、その巡察旅行中に、各地から作戦実施について、いたずらに混乱させるだけの、しかも矛盾に満ちた指示を、しばしば送っていた。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P111,112



 次に、フランス侵攻作戦案について。

 ボックは日記の中で、ブラウヒッチュとハルダーが、この【ヒトラーの対仏戦で南旋回するという】野心的な計画に「完全に不意を」衝かれて、どれほど驚いたかを述べている。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P117



 さらに、1939年11月に、ヒトラーがフランス侵攻を命令するのに対しそれを止めるためにブラウヒッチュが反対の議論を行った時の話……(この時、ブラウヒッチュはハルダーらの後押しを受けて、ヒトラーに対するクーデタ的な企てを行おうともしていたようです)。

 だが、このヒトラーとの会談は、惨めな結果に終った。ブラウヒッチュは、攻撃反対の側の議論を繰り返し、ヒトラーのポーランド作戦介入を批判し、次いで最も悪いことに、ドイツ軍部隊に訓練と攻撃精神が欠除している点を指摘したために、ヒトラーを激怒させてしまった。ここでヒトラーは、ハルダーと共に控えの間で待機していたカイテルを、大声で呼びつけた。カイテルは入って行ったが、そこにはヒトラーが、あわれな陸軍総司令官に対し、悪口雑言と脅迫的な言葉を浴びせかけている「身の毛もよだつような光景」が展開されていた。
 "ツォッセンの精神"は、無惨にも踏みにじられようとしていた。ヒトラーは大声を張り上げ、ポーランドでの陸軍の失敗を持ち出し、これについては全く弁解の余地のないことを、ブラウヒッチュに無理矢理に言明させた。そしてドアを叩きつけるようにして出て行ってしまった。ブラウヒッチュの顔は「蒼白になり、表情は引きつっていた」という。
 ハルダーも恐怖におののいた。ヒトラーの脅迫的言辞を聞いて彼は、自分の陰謀がヒトラーの耳に入ったと思い、あらゆる証拠を完全に隠滅しようと決意して、ツォッセンに帰って行った。
 こうして、クーデター決行のあらゆる構想は忘れ去られたのであった。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P123



 この時ヒトラーが激怒した理由等に関しては、『Hitler's Field Marshals and Their Battles』の記述がより分かりやすかったので引用してみます。

 ヒトラーは、フランス侵攻の日程を1939年11月12日と決めた。11月5日の正午、ブラウヒッチュはヒトラーと会談し、自らの軍歴に致命的な傷を負わせた。彼は、陸軍の準備ができていないこと、冬の雨天が装甲部隊の前進を妨げ、ドイツ空軍の活動可能な日照時間を制限することで防衛側に有利に働くことなど、極めて妥当な指摘をした一方で、ポーランドでのドイツ軍歩兵は攻撃にあまり気合が入っていないという、なんとも愚かな発言をしたのである。さらに、一部の部隊では「反乱」が起きているとか、前線では規律が守られていないとか、1939年の陸軍の状態を第二帝国が崩壊した1918年の状態と比較するような発言もしている。

 これらの最後の主張は全く真実ではなかった。ヒトラーはブラウヒッチュが嘘をついていることに気づき、かんしゃくを起こし、たちまち真っ赤になって激怒した。彼はその部隊の名前を教えるよう要求した。彼【ブラウヒッチュ?】はまさにその日に彼らのところへ飛んで行って調査したものだと叫んだ。ヒトラーはブラウヒッチュ将軍のメモをつかんで金庫に投げ込んだ。このようにして総司令官がどのようにして全軍の評判を落とすことができるのか、私には理解できないと彼は叫んだ。「前線の指揮官の誰一人として、私に攻撃精神の欠如を指摘などしなかった!」と彼は怒鳴った。彼は、ブラウヒッチュにこの問題に関する詳細な報告書と、それらの結果の死刑判決の写しを提出するよう要求した。最後に彼はドアから出て後手に強く叩きつけて閉め、フォン・ブラウヒッチュは青ざめ震えていた。その日遅くツォッセンに戻った後でさえ、フォン・ブラウヒッチュはしばらくの間、まともに話すこともできなかった。ヒトラーは後に、この報告全体が嘘だらけだと一蹴した。

 この11月5日の会議で、ブラウヒッチュは完全に敗北した。

 それまでの彼は、ヒトラーへのクーデタに対する態度で揺れ動いていたが、二度とクーデターを支持するようなそぶりを見せることはなかった。

『Hitler's Field Marshals and Their Battles』P64,65



 ここらへんの記述から強く印象づけられるのは、1939年11月5日にフランス侵攻作戦の是非についてヒトラーvs.ブラウヒッチュ&ハルダーの対決があって、ヒトラーの側が完全勝利したこと。そしてそれ以前にはブラウヒッチュはヒトラーを止めようといくらか努力をしていたものの、これ以後にはその気力を失ってしまったということです(ハルダーらを焚きつけた人物も背後にいたようですが、それは置いておくとして)。


 手持ちの資料を探してみると、ブラウヒッチュに関する独立した人物伝は、『Hitler's Field Marshals and Their Battles』(Samuel W. Mitcham Jr.)と『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)にのみありました。前者がブラウヒッチュに対して非常に辛辣で批判的なのに対し、後者は一部擁護的であるのが興味深かったです。




 他にも、↓のような資料を参照しました。





 以下、一応総合的に、フォン・ブラウヒッチュ将軍について簡便にまとめてみたいと思います。


 フォン・ブラウヒッチュは、古くからのプロイセンの軍人の家系の出身であったそうです(「フォン」も付いてますし……)。

 砲兵との関わりが深く、88mm砲の開発に大きな役割を果たしたといいます。また1920年代に航空機と機動部隊との連携をテストする作戦を計画するなど、新しいアイデアに熱心でした。

 性格的には非常に温厚な紳士であり、名誉を重んじ、正義感が強く人に対する思いやりの念があり、同僚や後輩達から非常な信頼を得ていて、各方面から人気があったそうです。軍人としても彼は、健全で進歩的であると一般に見られており、また、戦車についても大部分の上級将官以上にその潜在的な能力を評価していました。

 政治的にはワイマール体制に熱心な忠誠を示し、ナチスの政策に対してはこれを公然と非難していました。演習で不品行を働いたSS部隊を追い出したことがあり、ゲッベルスが彼の私生活について不名誉な噂を流した時にはブラウヒッチュは彼に決闘を申し込んだともいいます。戦前、ナチスと険悪な関係にあったドイツ陸軍において、ブラウヒッチュは砲兵大将にまで昇進し、すべての機械化部隊を指揮する立場にまでなっていました。

 ところが、(ブラウヒッチュに批判的な『Hitler's Field Marshals and Their Battles』が詳述するところによれば)ブラウヒッチュは当時、不倫関係を続けている女性がおり、現在の妻とは離婚して、その愛人との結婚を望んでいたといいます。しかし離婚のためには莫大な慰謝料を請求されており、また不倫の果ての離婚と再婚というのは、公にされてしまえば当時のドイツではあらゆる名誉と公職を失ってしまうような性質のものだったらしいのです。この状況にブラウヒッチュは悩んでいた、と(擁護的な『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)にも少しだけこのことに関する記述はあり、荒唐無稽な作り話というわけではなさそうです)。

 一方でヒトラーは1938年、ナチスに対して批判的であったフォン・フリッチュ陸軍総司令官を首尾よく罷免に追い込んだものの、後継者の選定に苦心していました。できれば極度に親ナチスであるフォン・ライヒェナウ将軍を陸軍総司令官にしたかったのですが、陸軍に大きな影響力のあったフォン・ルントシュテットらがそのような人選はあり得ないと拒否していたのです(ライヒェナウは陸軍内で非常に不人気でした)。そんな中で出てきたのが、フォン・ブラウヒッチュの名前でした。ブラウヒッチュならば陸軍全体からも好意的に見られており、もちろんナチス側からはこれはやむを得ない妥協の産物であったのですが、温厚で気取らないブラウヒッチュならば御しやすいであろうとも思われたのです。

 ブラウヒッチュが呼び出され、彼の側の条件などが検討されました。この後も様々な駆け引きや、ブラウヒッチュの息子や妻や愛人(ナチスの熱狂的な支持者だった)まで巻き込んだ策謀が繰り広げられた結果、最終的にブラウヒッチュは1938年2月4日に陸軍総司令部(OKH)の陸軍総司令官に任命されました。そして同時にブラウヒッチュは、カイテルをドイツ軍の最高司令官とする新しい指揮系統(国防軍最高司令部:OKW)の創設を異議なく受け容れたのです。ブラウヒッチュはナチスの財源から巨額な現金を受け取って離婚を成立させ、秘密裏に再婚を成就させたようです。

 ブラウヒッチュを批判する論者からすれば、これは彼が自分の私生活のために、ドイツ軍がヒトラーの下に入ることを許容したという、とんでもない行為であったということになります(もちろん、これらの説が信頼できない可能性もあります)。

 続けて、ブラウヒッチュの同意の下に、ヒトラーの意に沿わない陸軍の多数の将官が大量に罷免、左遷されました。この時、訓練担当参謀次長であったフランツ・ハルダーも罷免リストに入っていましたが、カイテルの個人的な介入によって救われます。一方、ルントシュテットは最初の粛清は免れたものの、11月には他の反ヒトラー派の将官とともに退役を余儀なくされました。全部で16人の上級将官が退役させられ、44人が左遷されました。それらの後任には、親ナチスの人物が充てられたのです。

 ただしこの後もブラウヒッチュは、ハルダーの助けも得て、ヒトラーを何とか掣肘しようとします。しかしそれは結局うまくいきませんでした。その理由としては、ヒトラーの非常に強い性格とブラウヒッチュの弱い性格(誰にもヒトラーを手なずけることなどできなかったでしょう)、それに1938年から1940年にかけてヒトラーの破天荒で常識外とも思える政策のほとんどが成功し続けていたこと、軍人にはヒトラーに対する忠誠が要求されていたこと、さらにナチスに傾倒していた新しい妻の影響が大きかったと思われます。

 最終的にはブラウヒッチュは、フォン・マンシュタインの言葉を借りれば、「国家元首の軍事顧問の地位から、まったく疑義を挟まずに服従する下位指揮官の地位に降格」したのだと言えるのでしょう。

 しかしブラウヒッチュは陸軍総司令官として、様々な意味で広い視野を持ち、また伝統的な宗教的態度を維持しようとしていました。陸軍以外の人や同僚に対しても礼儀正しく、部下に対しても暖かく理解を示し、部隊の福祉や設備や食事にも気を配りました。その結果、部下達は彼の下で働くことを好みました。例えば、北アフリカ戦におけるロンメルに対する態度にしても、ハルダー参謀総長のそれは居丈高な雰囲気を感じますが、ブラウヒッチュはあくまで丁寧にロンメルに対していた感じを受けますし、ロンメルと様々な軋轢を起こした多くの将官がロンメルに解任されてドイツ本国に戻ってきた時、ブラウヒッチュは「あちらでは暑さがひどいから、貴官ら全員が互いに苛立っているのか」と聞いたそうで、根本的な人の良さを感じます。

 一方でブラウヒッチュは、1940年9月9日に、イギリスを占領した後には17歳から45歳までのすべてのイギリス人男性を大陸に移送して労働をさせるというヒトラーの指令書に署名しており、もはやヒトラーに対して抵抗する意志を失って、良識を犠牲にせざるを得ない状況にもあったとも思われます。

 バルバロッサ作戦についてもブラウヒッチュは、ソ連侵攻の必要性や有益性を一度もヒトラーやOKWに問うことはありませんでした。侵攻作戦で軍集団を率いることになった3人(フォン・レープ、フォン・ボック、フォン・ルントシュテット)は3人ともブラウヒッチュに抗議しましたが、彼は「不安を共有しているが、何もできない」と答えただけだったといいます。ヒトラーが陸軍に「哀れみを持たず人種戦争」を起こせと命じた時も、赤軍の政治将校は降伏しても射殺せよというコミッサール指令を出した時にも、ブラウヒッチュは何も言いませんでした。何人かの将校がヒトラーに抗議するように要求しましたが、ブラウヒッチュは総統の怒りを買うとして、要求を受け容れませんでした。彼は完全に諦めてしまっていたのです。

 ブラウヒッチュはヒトラーの命令に屈辱と恐怖を感じつつも、自らの良識とのせめぎ合いの中で苦しんでいたのでしょう。ハルダーは1941年7月28日の日記の中で、ブラウヒッチュはもう限界だ、と記しているそうです。11月10日にブラウヒッチュは最初の心臓発作を起こしました。11月中旬には仕事に復帰しましたが、タイフーン作戦が行き詰まり、ドイツ国防軍の最初の大敗北のスケープゴートにされることを覚悟したのか、12月6日に辞表を提出します。ヒトラーは10分ほど部屋を行ったり来たりした末、「今、陸軍総司令官の交代を認めることはできない」と答えました。ブラウヒッチュは何も言わずに立ち上がって部屋を出て行ったそうです。

 12月16日にヒトラーは副官から、ブラウヒッチュがフォン・ボック、フォン・クルーゲ、グデーリアンらと限定的な撤退について話し合っていたことを知らされます。3日後、ヒトラーはブラウヒッチュを解任しました。ヒトラーとブラウヒッチュの最後の会談は険悪な雰囲気の中2時間続き、最後にヒトラーは「ナチスの精神を陸軍に植え付けることのできる将軍がいないので、自分が陸軍の指揮を執る!」と叫びました。しかし彼は、優しい声で「我々は友人であり続ける」とも言ったそうです。

 ブラウヒッチュはひっそりと引退しました。1944年のヒトラー暗殺事件の際には、ヒトラーに「自分はまったくこの事件に関与していない」旨の文書を送り、再び協力することを申し出ます。しかし、ブラウヒッチュが現役に復帰することはありませんでした。

 1945年5月初旬、ブラウヒッチュは自宅でイギリス軍により逮捕、投獄されます。ほとんど目が見えず、健康状態が悪化していたにもかかわらず、2人用の部屋に5人で押し込まれ、戦争犯罪人として裁判を受ける予定でしたが、1948年10月18日、ハンブルクのイギリス軍の軍用病院で心不全のために死亡しました。

 『Hitler's Generals』の著者であるリチャード・ブレット=スミスは、「参謀将校が他国を攻撃するための緊急事態計画を準備しなければならないのは当然であるということを考えれば、ブラウヒッチュが有罪になったとは考えにくい。また彼は、ドイツ軍の古い伝統を維持し、彼が嫌っていたSSの過剰な行為を防ぐために最善を尽くしていたのだ。」と記しています。

 「フォン・ブラウヒッチュがヒトラーに立ち向かわなかった弱さを批判するのは安易である。」ともブレット=スミスは記していますが、私もそうだろうと思います。ただし、ブラウヒッチュが「並外れた能力」を持っていたとも言えないのでしょう。

 ブラウヒッチュ自身が、前任者であったフォン・フリッチュの言葉を引用して、自身の苦悩を最も端的に表現しているそうです。
「ヒトラーはドイツの運命であり、この運命を止めることはできなかった。」

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北アフリカ戦における英連邦軍の名脇役、「ジャンボ」ウィルソン将軍について

 北アフリカ戦の英連邦軍指揮官について書いていたものを公開するものの続きです。

 前回は↓こちら。

戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/11/18)



 今回は「ジャンボ」ウィルソン将軍についてなのですが、ウィルソンについては以前ブログで紹介していたことがありました。

北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』) (2019/01/14)


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↑ウィルソン将軍。1944年4月30日、イタリアにて。(Wikipediaから)


 今回公開するのは、あくまで、前回のホバートの章の続きで、次のウェーヴェルの前に挟み込む位置でのウィルソンに関する記述……といったていのものです。

 ホバートの解任に関してはあたかも「悪役」であるかのように見えてしまうウィルソンですが、どの資料を見てもその人物像について「物腰が柔らかく、優しい性格」であったと記述されています。人柄が良いだけでなく頭脳が明晰であり、部下達からは尊敬され、またチャーチルからは絶大な信頼を得ることになります。

 軍人の家に生まれ、イートン校とサンドハースト王立陸軍士官学校で学んだウィルソンは、南アフリカ戦争に従軍し、エジプトとインドに赴任した後、第一次世界大戦では西部戦線で戦って軍功を挙げました。

 1919年にキャンバリーの参謀大学の一期目を卒業した後、1921~23年にサンドハースト王立陸軍士官学校で教官を、1927~30年にインドで大隊長を、1930~33年にはキャンバリー参謀大学の校長を、1935年からは第6歩兵旅団長(ウェーヴェルの後任)を務めます。そして1939年6月にエジプト駐留イギリス軍司令官に任命されたのでした。

 大柄な体格で「ジャンボ」という愛称で呼ばれた彼は、野戦指揮官としてではなく、綿密かつ堅実な軍事的管理者としてや、多国間同盟の繊細な状況における外交を司る能力に非常に秀でていました。組織にとって必要不可欠な歯車であり、必要なものを調達し、供給するという非常に重要な役割を、極めて細部まで行き届くような配慮で遂行することができたのです。また彼は、困難な状況においても健全な判断力を維持し、優れた軍事的判断を行うことができました。

 ただしもちろん欠けていた面もあり、「独自性やひらめきは欠如していた」とも評されていますが、これはウィルソンの得意な方向性とは真逆の性質ですから、ある意味当然と言うべきでしょう。余談ながらウィルソンはスポーツ好きで特に乗馬が大好きだったそうですが、その大柄な体格のため周囲からは「乗馬には向かないのに」とも言われていたそうです。

 ウィルソンは中東・地中海戦域のイギリス軍になくてはならない人材でした。対ロンメルで野戦軍を指揮したことはついになかったものの、その周辺の戦域で活躍し続け、最終的には元帥にまで昇進するのです。




 この後に公開していく予定のオコーナー将軍のところでは、ウィルソンが非常に大柄であるのにオコーナー将軍が非常に小柄で、面白い対比の記述が出てきたりします(^_^;

 あるいは、ウィルソンは対ロンメルということではずっと脇役なのですが、OCS『Reluctant Enemies』で取り上げられるエクスポーター作戦においては英連邦軍側の総司令官ですから、そちらをプレイする時にはプレイヤー自身がまさにウィルソンの立場に立つことになります。


OCS『Reluctant Enemies』お試しプレイ (2014/07/22)


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アメリカ第1歩兵師団、第104歩兵師団を指揮した「テリブル」テリー・アレン将軍について(付:OCS『Tunisia II』『Sicily II』『Beyond the Rhine』)

 大木毅さんが訳された『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』という本を読み始めているのですが、その中でアメリカ軍のテリー・アレン将軍という人物に興味を持ったので、調べてみました。




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 ↑テリー・アレン将軍(Wikipediaから)



 この本で、ドイツ軍の将校は兵士達の先頭に立って模範を示す戦いをするように教育され、そしてそれを実行していたのに対し、アメリカ軍においてはそうではなかったということが語られています。

 ある調査で、「最良の戦う軍人」の特徴を訊かれたアメリカのベテラン歩兵たちは「戦闘でいつも部下とともにいて、自ら模範を示す」将校だと指摘している。だが、そうした将校が希少なのは明白だった。徴集兵の四分の三は、「たいていの将校は、良い仕事をするよりも、自分の昇進に関心がある」ということで一致している。この数少ない将校の一人は、「小官は、自分も泥まみれのフィールドで濡れたボールを追うことぐらいしか、諸君に約束してやれない。しかし、諸君とともに必ずそこにいる」と、おのが部隊に告げた。そして、この約束を実際に守ったから、部隊の尊崇もおのずから得られたのである。*102
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P142,3


 この約束をした将校がアレン将軍で、その注102には以下のように記されていました。

 102. Astor, Terrible Terry Allen, 257. 残念ながら、この本も、アメリカの将軍伝の多くと同様、アレンの人生を聖人伝的に描いたものである。アレンは第二次世界大戦の第1歩兵師団長、おおいに物議をかもした人物で、飲酒で問題を起こしたり、自慢たらたらの演説をしたことで知られている。だが、彼が、おのれの部隊とともに前線にあったという事実には、異論の余地がない。アレンは、さまざまな問題を起こしたかどで解任されたが、のちにヨーロッパ戦線で第104歩兵師団の指揮を執った。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P353






 ここらへん読んでかなり興味を持ったので、とりあえず検索してみたら、英語版Wikipedia「Terry de la Mesa Allen Sr.」にその人物像がかなり詳しく記述されていました。

 あと手持ちの『The Battle of Sicily』に少し記述があったので、その2つとOCSのユニット等を交えながら、紹介してみたいと思います。





 まずはテリー・アレン将軍が「テリブル(ひどい)」テリーというニックネームを付けられていたことですが、その由来については参照した資料からは分かりませんでした。が、結構破天荒な人物であることと、「テリブル・テリー」と韻を踏んでいるからであろうとは思います。

 フルネームはテリー・デ・ラ・メサ・アレンですが、「デ・ラ・メサ」というのは母方の祖父がスペイン系であったことに由来しており、その祖父は南北戦争で戦い、軍人の家系であったようです(アレン将軍の息子はベトナム戦争で戦死したそうです……)。

 戦間期までの経歴は省略しまして、まずはWikipedia上の「コマンドスタイル」の項から。

 すべての報告が、アレンが第1歩兵師団の将兵達、特に下士官達から尊敬されていただけでなく、心から好感を持たれていたことを示している。戦中の多くの期間にアレンの上官であったジョージ・パットン将軍のように、アレンは通常、司令部をできるだけ最前線に近い前方に置いていた。ただしパットンとは異なり、アレンは自分の軍人としての見映えに大いにこだわるというようなことはなく、多くの場合軍服は汚れたままで、散髪もしてない状態であった。また彼は、ヨーロッパや北アフリカ戦線で、折り畳み式ベッドや据え付けのベッドではなく、地面で寝ることを好んだ唯一のアメリカ軍の将官であったともいう。しかし自分自身の外見への無頓着な態度にもかかわらず、アレンは指揮下の部隊のだらしなさや無能さを許さなかった。彼は兵士達が武器と装備を完全に機能する状態に保つことを要求し、常に戦闘準備ができているように部下達を訓練した。

 後に戦闘に巻き込まれて死亡した従軍記者アーニー・パイルはこう書いていた。
「テリー・アレン少将は私が好きな人物の一人だ。彼が、状況が最悪だろうが最高だろうが気にしないこと、彼が他の人達よりも生き生きしていることや、空軍以外で私が唯一ファーストネームで呼べる将軍であることなどが理由だろうか。彼がこの世界で何のために生き、存在しているのかと言えば、それは戦うためだ。彼は前の大戦で撃たれまくったが、再び撃たれることを少しも嫌がっていないようだ。彼にとってこの戦争は理性的な戦争ではない。彼はドイツとイタリアを、害獣のように憎んでいる。」

 第1歩兵師団が敵と最初に遭遇する時に備えるためにアレン少将は、基本教練や軍事セレモニーなどではなく、リアルな戦闘訓練、武器への習熟、それに野外での肉体的コンディションを重視した。アレンは、部下達が実戦に近い戦闘訓練に多くの時間を費やせば費やすほど、高度に訓練されたプロフェッショナルなドイツ軍との戦闘に備えることができると考えていた。アレンは夜襲を明らかに好んでいたが、それはその方が死傷者が少なくて済むと彼が考えていたためであり、また中隊や大隊規模の夜間移動に多くの時間と労力を費やしたものだった。


 第1歩兵師団はイギリスに送られて上陸作戦の訓練を行い、1942年11月8日のトーチ作戦でアルジェリアのオラン【アルジェリア北岸でかなり西の方にある町】周辺に上陸し、その後東進してチュニジア戦、さらにシチリア侵攻作戦に参加します。


 ↓OCS『Tunisia II』のアメリカ軍歩兵師団(初陣であり、まだ全体的にARは高くありません)。

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 ↓OCS『Sicily II』のアメリカ軍歩兵師団(第1歩兵師団だけがAR4になりました)。

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 北アフリカの連合国最高司令官ドワイト・D・「アイク」・アイゼンハワー将軍は、1943年3月3日【カセリーヌの戦いの少し後の時期】にマーシャル陸軍参謀総長に宛てた手紙の中で、第1歩兵師団の2人の指揮官に対する信頼を表明している。
「テリー・アレンは満足のいく仕事をしているようだし、ルーズヴェルト【アレンの副官を努めていたセオドア・ルーズヴェルト元大統領の息子】もそうだ。」

 アレンの成功にもかかわらず、第2軍団司令官【1943年4月から】オマール・ブラッドレー少将は、アレンとルーズヴェルトの指揮スタイルを強く批判していた。ブラッドレーはこう書いている。
「【1943年5月にチュニジアでの戦いに勝利して】連合軍が礼儀正しくチュニスをパレードしている時、アレンの乱暴な第1歩兵師団は、自分達のやり方でチュニジアでの勝利を祝っていたのだ。アルズー【第1歩兵師団がトーチ作戦で上陸したオラン近郊】からチュニジアまでの道すがらのすべての町々で、第1歩兵師団はワインショップを掠奪し、町長達を憤慨させていた。しかし、この師団が本当に暴走したのはオランでのことだった。その問題は、オランに長く駐留していた補給部隊が、前線からの戦闘部隊に対してクラブや施設を閉鎖したことから始まった。この排除に苛立った第1歩兵師団は、“二度目の解放”のために町に押し寄せたのだ。」
【『The Battle of Sicily』位置No.1824によると、この時彼らは酔っ払ってオランの多数の酒場を破壊し、第1歩兵師団の「Big Red One」と呼ばれる腕章を付けていなかった者達を多数入院させたという。】

 ブラッドレーは続けている。
「テリー・アレンも、副師団長のセオドア・ルーズヴェルト・ジュニア准将も、戦闘指揮官としての(並外れた)才能はあっても、規律を守るという強い動機を持ち合わせていなかった。彼らは規律を、能力の低い、人当たりの良い指揮官が使う松葉杖に過ぎず、歓迎されざるものだと考えていたのだ。」
 にもかかわらず、ブラッドレーはこう認めていた。
「予測不可能なテリー・アレンに勝る部隊指揮官はいない。」

 ブラッドレーのアレンに対する怒りは、シチリア島でのアメリカ第7軍司令官パットンの感情とは対照的だった。パットンとアレンは、特に戦術やリーダーシップについて議論した際にはしばしば口論となり、侮辱し合うこともあったが、パットンはアレンの、戦う師団を作り上げる能力を評価していたのだ。連合国軍最高司令官アイゼンハワー将軍が講話で、アレンの第1歩兵師団の「規律の悪さ」に触れたと聞いたパットンは、彼に反論した。
「俺はやつに、あんたは間違ってるって言ったんだ。それに、とにかく、戦いに送り出す前に犬を鞭打つなんてことをすべきじゃない、ってな。」
 また、連合軍によるシチリア島上陸作戦の中で最も困難であろうとパットンが正確に予測していたジェラへの上陸戦闘を、第1歩兵師団に担当させることにパットンはこだわった。ジェラへの上陸戦闘にフレッド・ウォーカー少将の第36歩兵師団(以前アレンはこの師団で、ウォーカーの副師団長を務めていた)が使用されることを知ったパットンは、アイゼンハワー将軍に抗議した。
「俺はあのクソッタレ部隊(第1歩兵師団)のやつらが欲しいんだ。あいつらなしでは俺はやらん!」
 パットンの要求は受け容れられた。

 パットンが、メッシーナから退却しようとするドイツ軍への対応と、下士官兵を平手打ちにしたことに関する公式調査に忙殺されていたため、ブラッドレーはこの機会にアイゼンハワー将軍に、アレンとルーズヴェルトの両名の解任の許可を求めた【この時期、パットンは第7軍司令官で、ブラッドレーはその麾下の第2軍団司令官であり、第2軍団の麾下に第1歩兵師団が配属されていた】。ブラッドレーはこの要求を表向きには、第1歩兵師団のトロイーナ(Troina)への最初の突撃が失敗したため、上級指揮官の交代が必要である、と正当化していた。実際には、トロイーナへの最初の攻撃は、その数日前にアレンの第1歩兵師団に一時的に配属されていた第9歩兵師団の第39歩兵連隊が行っていたのである。しかしこれはアレンを解任するための格好の口実であり、彼の横柄で独断的な指揮スタイルは、確かに効果的ではあったが、ブラッドレーの理想の指揮官像とは相反するものであった。さらに悪いことにブラッドレーの考えでは、「師団全体がアレンの横柄な態度を当然とみなすようになってしまっている」のだった。

 ブラッドレーは自分の行動がアレンの解任の原因になったと考えていたが、最近の研究では、アレンのアメリカ合衆国への帰国はシチリア作戦が始まる前にアイゼンハワーとパットンによって計画されていたことが示唆されている。実際、アイゼンハワーの個人的な書類には、この問題に関する意見がはっきりと記されていた。
「アレン将軍が不手際のために解任されたとほのめかすのは、彼に対してひどく不公平だ。この件に対する答は、アレン将軍が再び師団長となることを私は歓迎するということだ。」

 1943年8月7日【シチリア島での戦闘が終わる10日前】、アレンは第1歩兵師団長をクラレンス・R・ヒューブナー少将に引き継いだ。




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 ↑OCS『Sicily II』のトロイーナ(Troina)周辺。中央にTroinaがあります。


 捕捉として、『The Battle of Sicily』位置No.4662によると、実際にトロイーナ周辺の激しい戦闘で第1歩兵師団は人員の40%にもあたる死傷者を出して士気も規律も低下したため、ブラッドレーはこの状況を容認できないと考え、パットンの許可を得た上でアレンを解任してヒューブナーを後任に任命したとなっています。

 パットンはルーズヴェルトの解任にはあまり乗り気でなかったものの、最終的にはブラッドレーの意向を受け容れたそうです。『The Battle of Sicily』位置No.1824によると、パットンは第1歩兵師団には大きな信頼を寄せていたのですが、その指揮官であるアレンをあまり信頼していなかったということが書いてあるので、「シチリア戦の前にアレンを本国に戻すという合意がアイゼンハワーとパットンの間でできていた」というのは、そこらへんの関係なのかもしれません。


 アメリカ本国に戻されたアレン将軍ですが、マーシャル参謀総長の力添えで、新たに第104歩兵師団の指揮官に任命されました。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第104歩兵師団(『Beyond the Rhine』の連合軍は特殊部隊を除いてAR5は存在しないので、AR4は実質上最高ランクですが、他にもAR4の歩兵師団はたくさんあるのはあります)。

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 1943年8月9日、アレンは『タイム』誌の表紙を飾った。1943年10月15日、彼は「灰色オオカミ」師団として知られる第104歩兵師団【師団マークが灰色オオカミだった】を率いる新しい指揮官に就任した。第1歩兵師団の指揮権を剥奪されたにもかかわらず、アレンは自分自身のスタイルでリーダーシップを取り続けた。第104歩兵師団の退役軍人たちは、アレンのことを「自信に満ち溢れ、頑固で、決断力に富み、活動的だった」と回想している。一方で、アレンはティンバーウルフ師団において「モールディンズ」【モールディンというカートゥーン作家の描く、ボロボロに疲弊しているアメリカ軍兵士達】と呼ばれるような、無精ひげを生やした、だらしのない部隊は許さないと指令を出した。

 アリゾナ州とコロラド州で第104歩兵師団を訓練しながら、アレンは戦闘に勝利するための自分の原則を強調した。「やつらを先に見つけ、戦力を集中し、ぶちのめせ」「まず高地を取れ」「自分たちの死傷者を最小限に抑えながら、敵に最大のダメージを与えるんだ。それは夜襲、夜襲、夜襲だ。」 同師団は、敵の砲撃や機関銃による死傷者を減らしつつ、敵に最大限のショックと混乱を与えるために、夜間攻撃作戦を徹底的に訓練した。

 約34,000名の兵士がアレン率いるこの師団に所属し、1944年9月7日にフランスに上陸してから195日間連続で戦った。この師団の最初の実戦は、1944年10月、オランダのアフツマールとズンデルト【オランダ最南部の隣接する二つの村】の奪取だった。その後、ジークフリートラインを通過してライン川まで進み、インデ川を渡ってケルンに入った。この師団を指揮している間中アレンは不服従の態度を示し続け、戦闘準備を妨げる「臆病な」規則の数々を心底軽蔑していたが、その特質は今や、上官を怒らせるものではなくなっていた。第104歩兵師団が新しい戦線を確保した後、ドイツのケルンに到着したアメリカ第12軍集団司令官ブラッドレーはアレンに会って言った。
「テリー、君の率いる若い灰色オオカミ達【第104歩兵師団】が、第1歩兵師団や第9歩兵師団と並んで欧州戦域で最も優れた攻撃師団として位置づけられているのを見て、私は驚き嬉しく思っているよ。」
 アレンはこう答えたという。
「ブラッド、第1と第9はマジやべぇやつらだぜ」

 同師団はその後、ルール包囲環の完成に貢献した。最終的には、連合軍による西部ドイツ侵攻の一環として、ドイツの中心部にあるミュルデ川までの約350マイルの掃討作戦を行った。西部戦線での戦いで、第104歩兵師団はいくつかの作戦で夜戦での強さを発揮した。

 1946年6月、ヨーロッパ戦勝記念日とヨーロッパにおける第二次世界大戦の終結から1年以上が経過した後、第104歩兵師団はアメリカに戻り、活動を停止した。



 アメリカ陸軍の師団長クラスの人間を私はまだほとんど知らない状態ですが、この人物は大変興味深いですね!

 『Tunisia II』、『Sicily II』、『Beyond the Rhine』をプレイする上でも、今回のようなエピソードを知っていればより楽しめそうです。

戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦の英連邦軍の指揮官達について書いていた原稿を、時系列順に公開していこうと思います。

 まずは、戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍についてです(しかしそれよりは、ノルマンディー上陸作戦に参加した様々な改造戦車を擁する第79機甲師団長としての方が有名でしょうけども)。


Percy Hobart

 ↑パーシー・ホバート将軍(Wikipediaから)


 ↓OCS『DAK-II』の初期の第7機甲師団。

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 当時の第7機甲師団に関する高評価については、OCS『DAK-II』の第7機甲師団:初期と後期 (2021/06/27)をご覧下さい。


 パーシー・ホバートは1885年に英領インドで、インド高等文官の息子として生まれました。1904年に王立陸軍士官学校を卒業し、当初はごく正統派の軍人としてキャリアを始めます。1906年にはインドの精鋭部隊に配属されましたが、知性が鋭いながら、唐突に口喧嘩をよく引き起こし、すでに異端の雰囲気を醸し出していました。

 第一次世界大戦ではフランスとメソポタミアで従軍。上級将校達の重大な管理ミスに大きな嫌悪感を示し、反抗と不服従を繰り返しますが、昇進後に自分が行ったスタックワークでは優れた仕事で評判を高めました。

 大戦終結で大英帝国においても軍事予算が大幅に削減される中、ホバートは特に優秀であるからと指名されてキャンバリー(ロンドン南西50kmにある、王立陸軍士官学校を中心とする町)の参謀大学の最初のコース(1919年)で学ぶことになりました。この時の同級生には、アラン・ブルックゴート卿メイトランド・ウィルソンバーナード・フレイバーグなど、後にイギリス陸軍で活躍するそうそうたる顔ぶれがいました。ちなみにバーナード・モントゴメリーはこの時指名されず、自ら上官に運動して、次の年(1920年)に参加がかないました。

 1923年にホバートはそれまでの工兵科から戦車科に移る決心をし、クエッタ(英領インドの町。現在のパキスタン)で戦車に関する機械的な知識、その取り扱いについて熱心に学びました。ホバートは探究心が強く、卓越した知性を持っており、戦車による機動戦の提唱者であるJ.F.C.フラーと文通もしながら、未来の戦争においていかに戦車が重大な役割を果たすだろうかという構想を学んでいったのです。1928年の終わりまでには、ホバートは独創的な考え方と優れた計画性で評判となり、イギリス軍の戦車科の中では知らぬ者はいないほどとなりました。しかし他国と同様、いや他国以上にイギリスでは伝統的な騎兵科と新参の戦車科の間の軋轢は甚だしく、ホバートは周辺から危険な野心家であると疑われるようになりました。

 ホバート自身、チームの一員として仕事をするのが苦手な気質で、彼のせっかちと配慮のなさが、仲良くしておくべき同僚達を敵に回してしまった側面がありました。しかも議論においても自分の正しさを主張して絶対に譲らず、また自分の意見の間違いを指摘されると、自分の全人格を否定されたように受け取ってしまうという面もあったようです。


 ただし、ホバートやフラーを批判する者達にも行きすぎた面があったとも思われます(もっとも、論争というものは常にそうなのでしょうが)。反戦車論者達は、ホバートやフラーらは「戦車万能論者」であり、歩兵も砲兵もない、完全に戦車だけの軍を作ろうとしていると批判したのです。しかしホバートもフラーも、戦車と歩兵、砲兵の協調の重要性は理解しており、また航空機と戦車の協調などについては非常に先進的な考え方を持っていたとも言われます(ただし、戦車とその他兵科との「比率」に関しては、戦車偏重に偏りすぎていたことが後に実戦で明らかになります)。


 またそれだけでなく、ホバートは1928年に、女性関係でイギリス軍全体に知れ渡るほどのスキャンダラスな存在となりました。ホバートはクエッタでの教え子のある士官の離婚裁判に証言者として出席し、離婚の成立後わずか数ヵ月で、その元妻と結婚したのです。細かい事情までは参照した文献に書かれていませんが、当時のイギリス社会の価値観では、かなりショッキングな出来事であったようです。軍ではホバートの名を知らぬ者などいないほどになり、のちにウェーヴェル将軍がホバートを解任したことに関して、ウェーヴェルの妻がこの離婚事件でホバートに嫌悪感を抱いていたことが理由の一つになったのではないかと指摘するものもあります。実際ホバートは、彼を敬愛する部下達からは「ホーボー」という愛称で呼ばれましたが、軍の誰しもからそうやって愛称で呼ばれたわけでは決してありませんでした。



 一方、少し脱線しますが、このほぼ同時期である1927年にホバートの妹エリザベス(ベティ)が、将来のイギリス陸軍元帥モントゴメリーと幸せな結婚をしていた(悲しい別れになるとはいえ)ことに関してもここで触れておきましょう。

 ベティはもともと、1911年にオズワルド・カーヴァという人物と結婚して二人の息子をもうけていたのですが、夫のオズワルドが1915年6月にガリポリで負傷して亡くなってしまい、未亡人となっていました。

 モントゴメリーの方はというと、ずっと女性に無関心、社交的なことが嫌いで、軍人としての職務一筋の生活を送っていました(第二次世界大戦の後期、モントゴメリーは戦場に女性がいるのを極度にいやがるということが広く知られていたそうです)。

 モントゴメリーがカーヴァ夫人(ベティ)とその二人の息子たちと出会ったのは、1926年、彼が38歳の時に休暇でスイスを訪れた際のことでした。パーシー・ホバートを介してというわけではなく偶然であったようです。彼はまず、その12歳と7歳の男の子たちと仲良くなりました。その理由についてモントゴメリーは回想録の中で、「私は【中略】若い子らに力を貸すのが好きだったが、多分それは、自分の子ども時代が不幸だったせいかもしれない。私はその子どもたちとすぐ仲良くなり、その母親とも懇意となった。」と書いています。モントゴメリーの「子ども時代が不幸だった」というのは、彼の母親があまりにも厳格で、非常に強い恨みを抱くほどであったということを指しているかと思われます。

 翌年も再びこの一家と会い、休暇が終わる頃にはモントゴメリーはカーヴァ夫人への恋心でいっぱいになっていました。1927年に二人は結婚しましたが、連れ子の弟の方であったディック・カーヴァは後に、モントゴメリー中佐が2人の子どもを持つ未亡人と結婚するということは当時「非常に勇敢なことだった」と書いています。

 結婚生活は非常に仲睦まじく、幸せな毎日で、翌年に息子デイヴィッド(後の第2代アラメイン子爵)が生まれました。ところが結婚から10年後、1937年にベティは敗血症のため亡くなってしまいます。砂浜で虫に刺されたことが原因で、徐々に容態が悪化し、闘病生活の末にモントゴメリーの腕の中で息を引き取ったのです。妻の死は当時准将であったモントゴメリーを激しく打ちのめし、しばらくは何も手がつかないほどでした。

 連れ子の兄の方であるジョン・カーヴァはモントゴメリーの死後、こう書いていたそうです。「義父は非常に変わり者で、極端に独善的で、人に対して不寛容で懐疑的でありましたが、最高司令官になる可能性を持つまでの間、私の母は、それを社会的に許される範囲にとどめておいてくれました。そうやって母は、祖国のために貢献したのです。」

 モントゴメリーの義理の息子達は二人とも第二次世界大戦に従軍し、最終的にはそれぞれが大佐にまでなりました。弟の方のディック・カーヴァは第3次エル・アラメイン戦の時に第8軍の幕僚の一人として勤務しており、ドイツ軍が退却を始めた後、第8軍司令部の新たな位置を選定するために前線に送られてメルサ・マトルーで捕虜となってしまいました。モントゴメリーは義理の息子がどこで拘束されているかを赤十字を通じて照会し、小包を送るように依頼しました。多くのイギリス人捕虜と同様にディック・カーヴァも、イタリアが戦争から離脱しドイツ軍がイタリアを占領するまでの短い期間に脱走し(後で触れるリチャード・オコーナー将軍もこの期間に脱走しました)、最終的に1943年12月5日にイギリスの戦線に到達しましたが、モントゴメリーは彼をイギリス本国に送って療養させたそうです。




 さて、話をホバートに戻しましょう。

 ホバートはイギリスに戻って1931年に王立戦車兵団(Royal Tank Corps)の第2大隊長となり、自分の部隊を思うように訓練できる立場となります。彼はフラー流の機動戦の感覚を大隊の全員に植えつけるために、厳しくも合理的な訓練を課し、尊敬を得るようになりました。

 1934年にイギリス陸軍は乏しい予算の中から最初の戦車旅団(第1戦車旅団)を創設し、ホバートはその旅団長に任命されます。しかし当時、イギリス陸軍内では依然として騎兵科が強い発言力を持っており、限られた予算の配分を巡ってホバートは彼らと大きく対立せざるを得ませんでした。

 同年にこの第1戦車旅団の参加する大演習が行われたのですが、その際に反戦車派の審判官達は戦車部隊に著しく不利になるような制限を付けたり、判定をごまかしたりし、ホバートは激怒しました。そしてこの時の審判長が、後にエジプトでホバートの上官となるウェーヴェル少将であったことも、後の軋轢をもたらした一因であった可能性が指摘されています。

 イギリス陸軍における戦車推進派は次々に閑職へと回され、J.F.C.フラー少将とリデル=ハート大尉も疎まれて軍を辞職してしまっていました。しかしホバートは不動の姿勢を貫きます。ホバートはこの時までにヨーロッパにおける機甲戦の第一人者となっており、ドイツにおける装甲部隊の父ともされるハインツ・グデーリアンはホバートの機甲部隊を賞賛し、ホバートへの乾杯の音頭を取ったとも言われています。

 しかしそもそも、イギリスは島国でしたから軍全体の中で海軍と空軍の予算が優先されており、最も後回しの陸軍の中でさえも、戦略爆撃に備えての対空防御やインドの防衛の方が戦車部隊よりも重要だと考えられていました。イギリスは第一次世界大戦や戦後の戦車開発、ドクトリンでトップを走っていたのでしたが、1930年代の10年間にその地位から転落していきます。しかしそれにはそんな必然的な理由もあったのです。

 1937年に陸軍大臣に就任した野心的で精力的、かつ異端児であったレズリー・ホア=ベリシャはしかしホバートを応援し、イギリス初の機甲師団(当初の名称は「機動師団」。後の第1機甲師団)長に彼を任命しようとしました。ところが保守派が強硬に反対し、結局その師団長には戦車を扱った経験がまったくない、砲兵畑の人物が任命されることになりました。ですがある意味幸運なことに、1938年9月のミュンヘン危機でヨーロッパが戦争か平和かの瀬戸際に立たされたことからホバートは急遽、イタリア軍による攻撃が予期されたエジプトへと派遣され、イギリスの2番目の機甲師団となる「機動師団(エジプト)」(後の第7機甲師団)の司令官に任命され、その編成と訓練を任されることになったのです。

 9月25日に帝国参謀総長のゴート卿からエジプトへの派遣を知らされたホバートは、切迫感を抱いて飛行艇に乗り組みました。飛行艇にはアイアンサイド将軍(1939年から1940年にかけての帝国参謀総長)や他の上級将校達も乗っていました。



 1938年9月27日、ホバートはアレクサンドリアに到着します。当時はまだ「中東戦域軍(Middle East Command)」は設置されておらず、在エジプトの最高司令部は「エジプト駐留イギリス軍(British Troops in Egypt)」であり、その司令官はゴードン=フィンレイソン中将でした。

 ホバートがやってきたのを見て非常に驚いたゴードン=フィンレイソンの第一声はこうだったといいます。
「君が何をしにここに来たのか知らないが、私はまったく君を必要としていない」

 ゴードン=フィンレイソンは1928年にスキャンダラスな結婚をしたホバートを個人的にひどく嫌っていたのです。また、この当時のエジプト駐留イギリス軍司令部では、午後はあまり仕事をしないという古い習慣が続いており、ホバートはその雰囲気を妻に宛てた手紙の中で「現状にまったく危機感を持っておらず無気力だ」と表現しました。

 在エジプトのかつての騎兵部隊の兵士達の中にも色々な見方がありました。3つのユサール連隊のうち、第11ユサール連隊は機械化され始めてから10年を経過していましたが、残りの2つは前年に馬を引き渡したばかりで、馬との別れに未練がありました。実際多くの年輩の騎兵将校達は機械化されなければならなかったという事実を嘆き、変化への対応に消極的であることを隠そうとしませんでした。しかし幸いなことに、若い将校や兵士達の拒否反応は少なめで、機械化の概念を熱心に受け入れた者達もいました。

 ホバートが指揮することになった「機動部隊(Mobile Force)」は当初、「動けない茶番(Immobile Farce)」とまで揶揄されており、ホバートに対する見方は好奇心と懐疑の念が入り混じったものでした。しかし、将校や兵士達がすべての活動において予想外のスピードを要求されることにだんだんと慣れてくると、ホバートの類い稀な資質とリーダーシップによって得られるであろう利点が評価されるようになってきます。

 ホバートはメルサ・マトルー(Marsa Matruh)を拠点にこの師団に訓練を施しました。メルサ・マトルーは以前はほとんど知られていないちっぽけな村だったのですが、それまでフカ(Fuka)が終着点であったアレクサンドリアからの鉄道線が1936年2月にここまで延長されると、イギリス軍の重要な軍事基地として運用されるようになっていたのです。


 ↓OCS『DAK-II』のマップ。中央にメルサ・マトルーがあり、その少し東にフカがあります(クリックして拡大できます)。

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 1938年の秋から冬にかけては戦争が起こらないままより多くの兵員と装備が到着し始め、まだ師団規模には足りないまでも徐々に部隊が形を整え始めました。

 ホバートも徐々に将校達の協力を得られるようになってきて、1939年3月には大規模な演習を行い、それを見たゴードン=フィンレイソンも満足を表明しました。ただしこの時点でも師団訓練プログラムは、基本的な面をカバーしなければなりませんでした。例えば戦車部隊指揮官と乗員達はあらゆる停止の機会毎に即座に降車して車両を点検し、油の漏れやボルトの緩み、その他の小さな問題を大問題になる前に発見して直すことができるようにする必要がある……というような。機械化部隊へ改編したばかりの騎兵乗り達がこのようなメンテナンスの重要性を認識するまでには時間がかかりましたが、ホバートはあらゆる機会にこのことを強調しました。

 ホバートはこう書いています。

 私は今シーズン、分散性、柔軟性、機動性に集中することに決めました。機械化によって可能になったスピードと広い前線に慣れていない部隊には、このような問題はかなりの難題です。
 砂漠の中で必要とされる間隔の広さにより個々の部隊の孤立が避けられないので、方向を維持したり、部隊の進む道を指し示したり、コンパスなどによって現在地点を割り出したり、小さな印を見逃さないようにし、蜃気楼に惑わされずにしっかりと目を使うことを学んだりする必要があります。


 兵士達のほとんどは、砂漠の真っただ中での活動に消極的だっただけでなく、恐れてさえいました。しかし、砂漠の中で長期間活動することができればできるほど、奇襲を得るためのより大きなチャンスがあるのだと、ホバートは力説しました。連続した戦線のどこかにつけ込むことは難しいが、砂漠では敵側面が開けっぴろげなのだ、と。ただし、砂漠の奥深くで作戦を行うには、補給を確保しなければなりません。これに対するホバートの答えは、軍団規模の部隊をまかなえるような大規模な補給集積所をいくつか設置し、そこから大型トラックで物資を運べるようにするというものでした。このような補給集積所は1940年12月に行われたコンパス作戦で重要な役割を果たしましたし、後のノルマンディー上陸作戦では各軍団の後方兵站線の標準的な要素となりました。

 ところが、砂漠の中での激しい訓練は車両に負担をかけ、ホバートとエジプト駐留イギリス軍司令部の間には摩擦が生じるようになっていました。ある時、砂漠での使用を想定されていない新型のトラックが送られてきて様々な障害が発生したことから、司令部は「陸軍省規定の輸送手段を大きく誤用したもの」とホバートを批判しました。ゴードン=フィンレイソンのホバートへの嫌悪感も何ら解消しておらず、むしろ司令部の幕僚達の中にもその反感が広がってしまっていました。ゴードン=フィンレイソンは、ホバートが司令官からの指示なしに機動師団のための物資を要求し、訓練を計画、実施することを「司令官を軽んじるものだ」と不満を漏らしていました。ところが、近代戦を理解していないゴードン=フィンレイソンとその幕僚達は、否定的な指導をするばかりで何ら前向きな指示をできなかったため、ホバートとしては国家の非常時という危機が迫る中、まったく何もしないか、あるいは反感を食らってでも事を進めるかしかありませんでした。そして、何もしないというのはホバートの性格的に全くあり得ないことだったのです。

 機動師団の各部隊は徐々に、それぞれの付くべき位置をはっきりと自覚し、役割を果たし始めました。ユサール連隊は正面と側面に広いスクリーンを形成して、敵の威力偵察に対して最初の遅滞行動を行い、砲兵隊は攻撃が行われる前に脅威となる敵部隊を打ち砕くために行動を起こし、戦車部隊は攻撃または反撃を行います。歩兵は占領した地点を確保し、あるいは司令部を守備するのです。

 弾薬や無線機などを含めて、あらゆるものが深刻なほど不足していましたが、ホバート麾下の部隊は今やどんな状況にも即応できるようになり、協同して行動することが可能になっていました。そして1939年の半ばまでに「機動師団(エジプト)」は、アフリカで最強の打撃群と言えるまでに成長していたのです。

 【1939年6月?】ゴードン=フィンレイソンが陸軍副総監に就任するためにイギリス本国に戻ることになったため、ホバートにとっては状況が改善するかとも思われました。ところがゴードン=フィレイソンはイギリスに戻ると、ホバートの指揮官としての適性を批判する機密報告書を書いたのです。曰く、「一緒に仕えたり理解したりするのが難しい」「司令官として持っているべき自信に満ちた態度がなく、判断が衝動的で一貫性がない」「最高の指揮権や任命を受ける資格がない」「他人の意見に耳を傾けることに著しく消極的であり、将校達に対してイライラしている」「他の兵科に大きな価値を置かない印象を与える」「不安を引き起こし、司令官としての彼の立場を揺るがしている」「その結果、彼は部下から協力的な態度を得られず、彼らを不幸にし、損なっている」「ホバート将軍による将校や部下を管理する方法は最高の結果をもたらすものではない。私は彼を昇進にふさわしい指揮官とは思えない」などなど……。

 ゴードン=フィンレイソンはエジプトから去りましたが、彼のその後についてもここで触れておきましょう。陸軍副総監に就任した後、彼は次にイギリス大陸派遣軍司令官への就任が内定されていたのですが、最終的にそのポストはゴート卿に割り振られ、その代わりに彼は内地の西部地域守備軍(Western Command)司令官に任命されました。この人事に彼は抗議し、また彼の妻が「陰謀」があったと主張したため、退役軍人名簿に載せられてしまいます。彼はそれからの2年間というイギリスにとって真に深刻な時期に、より高い勲章とポストを求めて周りの人間を困らせました。アラン・ブルック参謀総長は彼について「インド戦域軍司令官になりたいがために、(陸軍省を)嗅ぎまわっていた」と表現したそうです。


 さて、ゴードン=フィンレイソンの後任として1939年6月15日、メイトランド・「ジャンボ」・ウィルソン将軍がカイロに到着しました。ウィルソンはかつてホバートと参謀大学で同級生だったことがありましたから、ホバートとエジプト駐留イギリス軍司令部との関係改善が期待されました。そして、実際最初はそのように見えたのです。

 7月末、ウィルソンは機動師団と共に砂漠で3日間を過ごし、装備の質はともかく、訓練の水準に感銘を受けます(ただしウィルソン自身には、戦車に関する知識はあまりありませんでした)。演習の閉会式では演習を絶賛し、ホバートの指導を支持します。このすぐ後【8月2日?】、ホバートは休暇で妻と共にイギリスへと出発しました。

 その同じ日【8月2日】、ウェーヴェル将軍が1939年6月に新たに創設されていた中東戦域軍司令官としてカイロに到着します。しかしその管轄範囲は広大で、ウェーヴェルはあらゆる方面に目を配らなければならなかったため、在エジプトのイギリス軍と対リビア(イタリア)方面はウィルソンに任されていました。4ヵ月後の11月になってもウェーヴェルはリビア戦線も、メルサ・マトルーに司令部を置いていた彼の麾下の唯一の機甲師団も視察していなかったのです。

 ホバートが休暇を過ごしていた1939年8月には独ソ不可侵条約の締結(23日)という衝撃的な事件があり、またドイツ軍がポーランド国境へ集結し、ポーランドとは英仏両国が相互援助条約を結んでいたことから、戦争は避けられないものと思われました。ホバートは休暇を切り上げてエジプトへ戻るように命じられ、メルサ・マトルーで機動師団と合流します。9月1日にドイツがポーランドへと侵攻、そして9月3日の英仏両政府による対独宣戦によって戦争は現実となったものの、イタリアは依然中立の立場を維持していました。

 その後の不安な数ヵ月間、エジプト・リビア国境でパトロールが行われ(ただし、ムッソリーニを刺激はしないよう、回数は抑えられていました)、高地で演習と訓練が続けられます。しかしそのうちに線路や車両の摩耗、消耗が代替品の量に比してあまりにも早く進んでいることが分かってきました。イタリア参戦の切迫度が薄れてきたこともあり、ウィルソンは一度機動師団をナイルデルタへと撤退させ、兵士の休息と装備の整備をさせることに決定。ただその前に、師団の訓練状態をテストするために砂漠で通信部門の演習を行うことにしました。

 ところが、ウィルソンはこの演習計画の内容についてホバートと話し合っていなかったのです。ホバートはこの演習を師団の全部門に対するものだと思い、演習担当者達によって設定された状況に対して、彼が実際に行うであろうように対処することにしました。そしてその結果として、担当者達にもホバートの意図が分からないままになってしまいます。

 演習が始まると、ホバートが(ウィルソンが想定していた)後方からではなく前方で部隊を率いていたため、重要なコードキーの場所が分からなくなって通信が完全にできなくなり、大混乱が発生。無線コードを流出させるわけにはいかないため、ウィルソンは砂漠の中にあるホバートの司令部と自ら連絡を取るため、飛行機に乗らなければなりませんでした。案内役を付けるようにという申し出を断ったウィルソンは一人の副官と共に出発しますが、この副官は地図を読み、コンパスを参照して理解することができず、結果として道に迷った二人はホバートの司令部に着くまで何時間もかかってしまいました。そして恐らくは自分のイライラのためか、ウィルソンは機動師団の将校達の前で、ホバートを激しく批判したのです。


 ホバートはウィルソンが提起した批判に対して反論する手紙を書きましたが、問題の解決には結びつきませんでした(ホバートを主人公とする資料では、この手紙はあくまで弁明のために書かれたかのように記されている一方、ウェーヴェルを主人公とする資料では、逆にこの反論の手紙によってより二人の間の関係が悪化した、つまりホバートがウィルソンを批判したかのような書き方になっています)。11月10日にウィルソンはウェーヴェルに手紙を書き、その中には「ホバート中将の能力でこの機甲師団を満足に指揮できるかどうか、私には自信が持てません」「私はそれゆえ、機甲師団に新しい司令官を任命することを要請します」と書かれており、これがホバート解任の決定的な理由となりました。また、ウェーヴェルがイギリス本国から中東へと出発する際、ゴードン=フィンレイソンからあの機密報告書を見せられていたようだとする資料もあります。もしそうだとすれば、それは国王規則(軍内部で守るべき施行規則)への重大な侵害であったのですが……。

 ウェーヴェルは11月中旬【15日? 16日には代理師団長が任命されているので】にホバートと面会し、機動師団の指揮権を引き渡すように命じました。ホバートが解任されるということを知った機動師団の将校達の間には瞬く間に大きな失望が広がります。部下達の中でも、ホレス・バークス将軍(1940年には第7機甲師団の中の第4機甲旅団の副司令官。一時期本国に戻ってホバートを助け、その後第10機甲師団長となってエル・アラメインの戦いに参加)と「ストレイファー」ゴット将軍(第7機甲師団長、第13軍団長を歴任し、第8軍司令官に任命された直後、乗っていた輸送機が撃墜されて死亡した)は、ホバートに対してこの解任命令と戦うように勧めました。

 あるホバートの伝記本には、こう書かれています。

 できることは何もないと、ホバートは知っていた。彼はここに留まることができないので、品位を保ったまま去るのが最善の方法だった。結果的には、彼は勝利のうちに去ることになった。なぜなら、彼の車が彼の司令部から滑走路までの1.5マイルを走った時その沿道には、彼の師団の男達、砲兵、歩兵、騎兵、戦車兵が並んでおり、全員がみずから自分達の司令官を激励し、忘れられない別れになったからだ。彼らは誰一人として、なぜホバートが去っていくのかを知らなかった。ただ、司令官が去っていくのであれば、彼らは去っていく司令官に対して、自分達が彼に対して完全な信頼と親愛の情を抱いていることを示して見送らなければならないと思ったのだ。ホバートとその妻には、全部隊の将校達から彼の去就に対する衝撃と落胆を表す手紙が殺到し、また、これまでホバートとの協力関係を築き、緊密に協力してきたリチャード・オコーナー少将からは、機動師団について「今まで見た中で最高の訓練を受けた師団だったのに」という悲痛な手紙が届いた。


 結局ホバートは40年以上勤務した軍を退役し、イギリスに戻りました。鬱になりがちでもあった彼の当時の心情は察するにあまりあります。

 しかし彼の祖国への奉仕はそれで終わりになったわけではありませんでした。1940年5月14日、ドイツ軍に侵攻されたフランス軍の戦線が突破された日に、アンソニー・イーデン陸相が民兵防衛組織への志願を呼びかけるラジオ演説を行いました。この「地域防衛義勇隊(後のホーム・ガード)」に志願したホバートはただの一兵卒から、すぐれた組織作りの才能が認められて瞬く間に昇進。その後紆余曲折を経て第79装甲師団長となって様々な改造戦車を開発し、義弟モントゴメリーの指揮下で対ドイツ戦を戦うことになるのです。


 一方エジプトではその後、1940年2月16日に「機動師団(エジプト)」は「第7機甲師団」と改称されます。この師団の、ホバートの薫陶を受けた将校や兵士達は、何か事ある毎に「ホーボーはいつもこう言っていた」と語ったそうです。

 また、改称とほぼ同時期に、師団のマークが元の「赤地に白の円」から、「砂漠のネズミ」のマークへと変更されています。この時の師団長であったマイケル・クレイ将軍の妻がカイロの動物園で砂漠のトビネズミをじっくり観察してデザインしたマークを将校達や兵士達が見て気に入ったのです。また、最終的に戦車や車輌、軍服などに使用されたデザインは、後にリビアで戦車の中で戦死したケン・ヒルという兵士が描いたものでした。この新しいエンブレムは人気を博し、第7機甲師団の兵士達が自分達を「砂漠のネズミ」と呼ぶようになったのみならず、北アフリカで戦った他の連合軍兵士達も、自分達をそう呼ぶようにさえなるのでした。

7th armoured division insignia 1944 3000px

 ↑「砂漠のネズミ」のマーク(Wikipediaから)






 色々な資料を参照しましたが、↑をかなり詳しい資料として使用しました(ただし当然ながらホバートを褒める立場から書かれているので、扱いには注意が必要なんだろうと思います)。

イギリス軍の歩兵戦車は、ドクトリン上どのように運用されていたのか?(付:OCS『DAK-II』)

 以前、イギリス軍の「戦車単独万能論」ドクトリンに従って、OCS『DAK-II』のイギリス軍に改造ハウスルールを付加する案などについて書いてました。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)


 しかしその後気になってきたのが、マチルダMk.IIのような歩兵戦車の存在です。巡航戦車は「戦車単独万能論」に従って単独で突っ込んでいっていたとしても、歩兵戦車はむしろ歩兵との協調を重視した使用法をされていたはずで、だとすれば改造ハウスルールで「機甲ユニットと歩兵ユニットはスタックできず、一緒に攻撃もできません」で終わらせるわけにはいかないと思われました。


 そこで、以前購入していた『Desert Rats: British 8th Army in North Africa 1941-43』に編制関係の詳しいことが書いてありそうだと思って、ひもといてみました。




 まずは、「戦車単独万能論」的な話があり、その後に歩兵戦車部隊関係の話が出てきます。

 第二次世界大戦が勃発する前、イギリス軍の戦車推進派の間では、(J.F.C.フラー少将とバジル・リデル・ハート大尉の先見性のある理論に触発されて)戦車の優位性と「純粋な」機甲戦という信念が深く浸透しており、これが北アフリカ戦の初期段階において、英国の機甲師団(砂漠戦の性質上、第8軍で最も重要な部隊)の編成方法に反映されていた。この考え方によれば、将来の戦いは主に戦車同士の戦いとなり、機械化された部隊の機動力、作戦行動、分散による敵へのショック効果を活用することになる。機甲師団の主な役割は、機動力を最大限に活用しながら作戦行動を行い、敵装甲部隊を単独で探し出して撃滅することである。このような戦いでは、戦車が常に主たる役割を果たし、他の兵科は非常に従属的な位置を占めることになる。西方砂漠での初期の【イタリア軍に対する勝利の】経験は、このことを証明しているように思えた。オーキンレック将軍は、司令官に就任した直後にチャーチルにこう伝えている。

 歩兵師団は、どんなによく訓練され、装備されていても、この【砂漠という開けた】地形で敵の装甲部隊を相手にした攻撃作戦には不向きであることは、私には明らかです。歩兵部隊は、敵の装甲部隊が無力化され破壊された後、防御された地域を保持するために必要であり、今後も必要となるでしょうが、主な攻撃は、自動車化された部隊に支援された機甲部隊によって行われなければなりません。

 戦前、機甲戦の性質について上記のような仮定をしていたため、中東で軍務に就いていた様々なタイプの高速で軽装甲な巡航戦車を装備した機甲師団の戦時編制は、極めて戦車が多いものだった。実際、この考え方は西方砂漠で、装備が貧弱で指揮官も劣悪であり、また決して危険を冒そうとしないイタリア軍を相手にして成功したことで強化されていた。機甲師団は、その戦時編制に従って、通常2つの完全な機甲旅団を持ち、それぞれが3つの機甲連隊を持ち、合計330両のAFVを保有していた。その他の支援装備はすべて支援グループに集中されていた。しかし、これは25ポンド砲を装備した野砲2個連隊、2ポンド砲を装備した王立砲兵対戦車連隊1個、主に40mmボフォース軽高射砲を装備した高射砲1門、そして2個の機動歩兵大隊だけで構成されていたのである。支援グループは通常、戦闘時には独立した機動部隊として扱われたが、実際にはこれらの部隊の一部は機甲旅団に配属されて運用された。例えば、クルセイダー作戦の際、第7機甲旅団は歩兵1個中隊、25ポンド砲16門、AT・LAA砲1門を装備して戦闘に臨んだ。このように他の武器の装備が非常に少ないのは、常に戦車が戦闘に責任を持ち、残りの部隊ははるか後方に置いておく - それらの残りの部隊は、夜間に味方を保護するなどの防衛任務のためにのみ前方に出てくる - という、広く行き渡っていた考え方を反映したものだった。

 独立戦車旅団は編制上、重装甲で動きが遅く、行動半径が非常に限られた歩兵戦車を装備しており、軽量で高速な巡航戦車を装備した旅団と似ている部分もあるが、全く異なる役割のための組織、装備を持ち、訓練を受けていた。各戦車旅団は、旅団本部と3つの戦車連隊で構成されていたが、他の部隊を直接支援するためだけに配備されていたため、支援火器は一切持たなかった。通常、完全編制の1個戦車旅団が、攻撃作戦を行う1個歩兵師団に配属され、例えば歩兵1個旅団ごとに戦車1個連隊が配属されたりしていた。実際、北アフリカ戦においては歩兵部隊指揮官は敵の機甲部隊からの保護を常に要求していたため、歩兵戦車は歩兵編成に長期にわたって留まることが多かった。その結果、この2つの兵科のそれぞれに密接な関係が生まれ、戦場での他方の能力を大幅に向上させることができた。この密接な関係により、北アフリカ戦では歩兵戦車と歩兵の協力関係がうまく機能した。実際、王立戦車連隊の優秀な部隊との連携に慣れた優秀な歩兵旅団は、多くの点で本格的な装甲旅団グループに相当するものだった。

 北アフリカ戦では、第8軍の歩兵師団の組織変更が最も少なかったと言えるが、すでに述べたように、攻撃において歩兵をどのように使用するか、ひいては歩兵をどのように組織し、装備すべきかについては、常にかなりの不確実性が存在していた。北アフリカ戦のほとんどの期間、歩兵の主な任務は、砂漠の固定陣地の防衛と、他のあらゆる支援火器を駆使して敵が待ち構える陣地へ攻撃を行うことであった。
『Desert Rats: British 8th Army in North Africa 1941-43』P13~15


 上の文で「連隊」という用語は、イギリス軍に独特の例えば「Royal Tank Regiment(王立戦車連隊)」というような「部隊名」的なもので、実質的には大隊規模です。OCS『DAK-II』でもそれらの部隊は「RTR」という名称で大隊規模のユニットになっていたりします。


 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍の独立戦車連隊(実質大隊規模)等(上の画像が戦闘モード、下が移動モード)

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 クルセイダー作戦時の戦闘序列を見ていると、RTRとあったり、40番台、50番台の戦車大隊が、それぞれ1個ずつ、歩兵師団の歩兵旅団に配属されていたようです。

 戦闘モードでの移動力を見ると、(地雷除去戦車である「S」の付いたスコーピオン戦車部隊が2であるのは別格であるとして)3や4のマチルダMk.II戦車の部隊があります。


 改造ハウスルールを考えるとするならば、「独立戦車大隊は、常に歩兵師団の歩兵旅団に対して1対1で配属させなければならない。敵機甲部隊からの防御時には独立戦車大隊がARを提供する部隊にならなければならず、攻撃時には歩兵旅団がARを提供する部隊にならなければならない。」とかでしょうか……?

ミドルアース大阪にてVASSALでプレイ&OCS『The Third Winter』コルスン包囲戦シナリオ研究

 ミドルアース大阪に行きまして、古角さんが持ってきて下さったノートパソコンと32インチディスプレイで、OCS『The Third Winter』のVASSALプレイをしてみてました。


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 まわりの人の反応は「これいいですねぇ!」という感じで、思いのほか良かったです(^^)

 大きなディスプレイの良さや、あるいはオンライン対戦(のこちら側)で一人だけでプレイするのは抵抗感があるけど、同じ画面を見ながら複数人で盛り上がりながらプレイするのはいいかも、などなど……。

 セットアップの時間もかかりません(パソコンの用意は必要ですが、比較にならない早さで終わるでしょう)し、やり直しのための巻き戻しも非常に容易で、また、セーブして後日に続きをプレイすることもできます。ショートカットキーなどを駆使できればマーカー類を乗せるのも楽ですし、警戒空域や航空基地の位置などを(ハイライト)表示させたりできるのも良いです。

 一方で今回、私は久しぶりに通常のゲーム会に参加して、ミリタリー系同人誌をやりとりする話とか、OCS『KOREA』の対戦に興味ある方と話とか、あるいは夕食を一緒してゲーム関係の色々の話とかできたので、やはり通常のゲーム会に出席するのも意義があるよなぁ、と。

 将来的にはWi-Fiで富山の方々とかとも繋げてミドルアース大阪でオンライン対戦する……というようなこともありかもしれません(^_^;



 さて、プレイしていたOCS『The Third Winter』コルスン包囲戦シナリオの話です。

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 以前、第1ターン終了時まではソロプレイしたことがあったんですが、今回古角さんがソ連軍を担当して第2ターン終了時あたりまでプレイできて、様々な気付きがありました。

 古角さんは、画像の①の箇所が弱いことからここも突破して、ドイツ軍の東南の戦線も崩壊させました。するとドイツ軍側はそのすぐ近くの補給源から補給(やSP)を引けなくなるだとか、東南戦線のユニットがいくつか小包囲されて失われてしまうだとか、結構苦しい状態に追い込まれてしまいました。

 また、②の箇所にあった大釜(Kessel)司令部が単独でいるのを壊滅させ、ドイツ軍の北西戦線を大幅に下げさせたことも、ドイツ軍の抵抗力を削ぐことになったと思います(写真のここのドイツ軍戦線はしかし、本当はもう少し東方面にも伸ばせていました)。

 ドイツ軍はこれらに対処する為、セットアップ時にフリーセットアップできる警戒大隊2個を置くか、あるいはリアクションフェイズ中に装甲部隊を乗せに行く方が良いのかもしれません。しかしそうした分だけ、他の場所への対処ができなくなることになります……。

 また、ソ連軍側は、第1ターン中に航空基地を1箇所、あるいは2箇所新たに建設してそこに戦闘機を置いておけば、ドイツ軍側が制空戦闘をしてコルスンの航空基地に輸送機でSPを入れるのを難しくすることができることが分かりました(ただし、空戦の結果如何によっては、建設への投資が無駄になる可能性もゼロではありませんが)。



 一方、このシナリオのドイツ軍は、第1ターンから第2ターン先攻ソ連軍ターン(必ずソ連軍が先攻ではないですが、1SP払って先攻を取れるので、恐らく取る)までの1.5ターンの間、セットアップで置かれている6SP+2T(+専用トラック上の1SP)のみで凌がねばなりません。6SPというと充分なように思えますが、これが全く足りません!

 そのため、「砲撃はまったくしない」「防御用の戦闘補給を入れない場所も検討する」などの節約策を検討する必要もありそうです。

 で、節約した分、何にSPを使用する(べきな)のかなのですが、燃料です。

 ソ連軍は恐らく、第2ターン先攻終了時までに包囲環を完成させます。その時、包囲環内にドイツ軍の装甲部隊や司令部がいても、包囲環内にSPはなく、まったく役に立ちません(というか、動けないので厄介者にしかなりません)。しかし、包囲環外に出しておけば、第2ターン以降毎ターン平均5SPの到着が見込めるため、大いに役立ちます。司令部もまた、包囲環外の補給源(やそこに置かれるSP)から支給するために非常に有用となります。なので、ドイツ軍は第1ターン中に装甲部隊や司令部をできるだけ全部、包囲環となりそうな場所の外側に移動させておくべきだと思われます。

 ドイツ軍側にはその後、コンスタントに装甲部隊の増援が到着します。ソ連軍側にも増援は到着しますが、ドイツ軍ほど強力ではない感じがあり、そして毎ターン届くSPは同じくらいなので、ARの優越がある分、ドイツ軍側の方が強力に行動できると思われます。


 感想として、このシナリオはだいぶ面白そうだと思いました。ぜひとも、全8ターンかあるいは終盤まではプレイしてみたいものです(今回プレイした分をセーブすることは可能だったわけですが、第1ターンのドイツ軍に改善の余地がありまくりだったので、もうセーブもしませんでした)。



 あと、今回出てきたルールの疑問点をfacebook上で質問してみました。

 『The Third Winter』3.4aで「砲兵砲爆撃マーカーで任意の2ヘクスに砲爆撃を(ノーコストで)行える」という話ですが、「もしかしてこの2ヘクスへの砲爆撃は、使用できる砲兵の全力で1ヘクスに砲撃し、もう1ヘクスにも全力で砲撃できる(つまり砲撃力を二重に使用できる)という意味ではないか」という話が出て、今回そのようにプレイしてみていたのですが、それは正しくはできませんでした(^_^;

 また、コルスン包囲戦シナリオのVPに関して、「一般補給が引けないドイツ軍ステップ1つを壊滅させる毎にソ連軍に1VP」なのですが、この「一般補給が引けない」というのはその戦闘なりの時点で判定すれば良いのか(あるいは「補給切れマーカー」が置かれている状態でなのか)を質問してみたところ、その時点の判定で良い、ということでした。

 この点、大釜(Kessel)司令部で一般補給が入っていればその部隊を壊滅させても意味がないことになりますから、ソ連軍としてはコルスンの包囲環は当然作るとしても、その「大包囲環」以外に「小包囲」を数多く作って、そこでドイツ軍部隊を壊滅させるべきだということになりそうです。逆にドイツ軍側としては、小包囲を作られるのが一番まずく、コルスン包囲環内はまとまってやられないようにし、包囲環の外側でも切り取られたりしないように気をつけつつ行動する方が良いのかもしれません。


 またぜひ機会を作って、プレイしてみたいと思います。

北アフリカ戦で英連邦軍は諸兵科連合できない(しない)……でもじゃあ、イタリア軍は諸兵科連合できるのか?(付:OCS『DAK-II』改造ハウスルール案)

 北アフリカ戦における英連邦軍が「諸兵科連合できない」……というよりは、ドクトリン上「諸兵科連合しない」のであったらしい、ということに関して、北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)で書いていました。

 ここらへん個人的に非常に興味あることもあり、OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」3回目をハウスルール付きで開始しました (2021/10/21)で、英連邦軍に「諸兵科連合できない」ようにする改造ハウスルールを考えてみてました。

 しかしそこで、一つの疑問が。英連邦軍は諸兵科連合できない(しない)……でもじゃあ、その英連邦軍にボコボコにやられたイタリア軍は諸兵科連合できるのか?


 もしイタリア軍もまた史実において諸兵科連合できなかったとしたら、イタリア軍にも同様のルールを付けなければならないでしょう。


 そこらへん気になったので、先日読んで大変興味深かった、『Hitler's Italian Allies: Royal Armed Forces, Fascist Regime, and the War of 1940–1943』(のDeepL翻訳による訳文をアウトラインプロセッサに保存していたもの)をチェックしてみました。




 この本は言わば、「なぜイタリア軍は弱かったのか?」ということを、その文化的、政治的背景も込みで分析したもので、個人的に非常に面白かったです(→第二次世界大戦におけるイタリア軍に関する洋書を2冊見つけました (2021/08/28)。ここで書いていた『Mussolini's War: Fascist Italy from Triumph to Collapse, 1935-1943』も読んでみたのですが、こちらはイタリア軍の戦歴について時系列で述べたもので、個人的には特に面白いとは思いませんでした……(^_^;)。

 『Hitler's Italian Allies』を読んでいて、「あれ、これどこかで読んだことがある内容だな?」と何回か思ったので、手持ちの資料をチェックしてみたところ、大木毅さんの「ある不幸な軍隊の物語」という記事(初出:『コマンドマガジン』第89号、2009年。私は同人誌的な「明断と誤断」という冊子で持っているのですが、『ドイツ軍事史――その虚像と実像』にも収録されているはずです)にこの本の内容が結構紹介されており、参考文献一覧にも名前が挙げられていました。





 チェックしていたら、イタリア軍の諸兵科連合についてずばり書いてある文がありました!

 そしてイタリア軍は、その様々な欠点にもかかわらず、少なくとも英連邦軍にはない兵科の連携に関する概念を持っていた。英連邦軍は、【第一次】エル・アラメイン戦の時点でも、歩兵部隊主体と機甲部隊主体の2つの軍団を効果的に連携させることなく、狭い攻撃回廊に同時に送り込もうとしていた。砂漠でのロンメルのキャンペーンで一緒に戦ったイタリアの機動部隊は、機甲、砲兵、歩兵が作戦上も戦術上もチームとして機能しなければならないという教訓を、イギリス軍よりもはるかに早く学んでいた。ドイツ軍による手本は決定的であったが、それ以前からイタリア軍のドクトリンは、その作成者がイギリス軍の全戦車理論【戦車単独万能論】家達の研究を聞いたことがなかったこともあり、すでに統合の傾向にあった。 イタリア軍のドクトリンは必然的に歩兵の絶対的な優位性を宣言し、「戦闘の決定的な要素であり、歩兵が前進すれば全軍が前進し、歩兵が後退すれば全軍が後退する」としていた。しかし、歩兵と砲兵の協力が当然必要であることも強調されていた。 1941年まで、そしてそれ以降もイタリア軍が支援兵器と見なしていた機甲部隊も、同様に歩兵と連携していた。戦場では、通信機器の貧弱さ、不充分な訓練、そして大砲が1914年から18年にかけて作られた古いものであったことなどが、攻勢時の諸兵科連合の効果をどうしても制限してしまい、イタリアの砲兵は歩兵をカバーできず、通信もできないことが多かった。しかし、エル・アラメインで最後の絶望的な戦いに臨んだアリエーテ師団の指揮官は、集中的な指揮を重視するイタリアの砲兵が、モントゴメリーによる1918年的な戦い方においては、分散的なドイツの砲兵よりも効果的に他の武器と連携していたと、もっともらしく主張することができた。
『Hitler's Italian Allies: Royal Armed Forces, Fascist Regime, and the War of 1940–1943』位置No.1343


 ということは一応は、英連邦軍に対してのような「諸兵科連合できないようにする改造ハウスルール」を入れる必要はなさそうです。尤も、史実でイタリア軍がバリバリに諸兵科連合できたのかと言えばそうではなさそうです。

 そういう「微妙な諸兵科連合できなさ」もルール化すべきなのかもですが、どうしたものか……?

 とりあえず、同書にイタリア軍の陸海空軍の連携度は低かったというような記述はあったので、英連邦軍と同様に「イタリア軍航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対してイタリア軍ユニットは、ユニット毎に1D6して1~3では攻撃できず、4~6では攻撃できる。」とか……?

 また、非常にルール化しやすそうなものとしては、同書に「イタリア軍の後方支援部隊や司令部要員は(ドイツ軍と異なり)歩兵としての訓練を受けておらず、敵の襲撃を防ぐための全包囲的な防御を確立しようとしなかった。この原則は北アフリカでは危険であり、ロシアでは致命的だった。」(位置No.1314)というものがあり、ルール化するならば「イタリア軍のHQユニットは、戦闘モードでも移動モードでも0戦力である。」とか。



 『Hitler's Italian Allies』を見ているとイタリア軍の様々な欠点が書かれていますが、なかなかルール化しにくいようなものが多いです。OCSにおいては基本的には、ARを低くすれば良いとは思われますが、一方で(この本にも書かれていますが)イタリア軍のエリート部隊はドイツ軍が驚くほど良く戦った、ということもあります。

 イタリア軍のARを一律で-1にするというのは、『Case Blue』のスターリングラード戦以後のイタリア軍に対しては有効だとも思われる(スターリングラードでドイツ軍が包囲されたことや、厳冬によって士気が非常に低下していた)のですが、北アフリカ戦ではうまくいかない手のように思えます。

 案を考えるとしたら、「イタリア軍が参加する攻撃では、イタリア軍のユニット毎にAR+2し、1D6でそれ以下の値を出した時のみ、そのユニットは攻撃に参加できる。ただし、その攻撃がイタリア軍単独によるものだったら、AR+4で判定する。砲兵による砲爆撃も同様に判定する。それぞれ、参加した分だけSPを払えば良い。事前に充分なSPなしで攻撃/砲爆撃は宣言できない。」とか……?(↓で紹介している、シモニッチの『The Legend Begins』のイタリア軍ルールを参考にしました)




 とりあえずは、英連邦軍に関する改造ハウスルールを入れてプレイ(テスト)する時には、上記のイタリア軍に関する改造ハウスルールも入れてプレイしてみるべきですかね……。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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