fc2ブログ

OCSのVASSALモジュールで使用できる便利なコマンドまとめ

 OCSをVASSAL上でプレイし始めてある程度経ちました。

 OCSがある程度複雑なウォーゲームであるためもあってか、あるいはOCSチームVASSAL担当のJeff Coyle氏とHerman Wu氏の熱心な尽力があってのことか、OCSのVASSALモジュールには色々と便利な機能が付けられている印象があります。

 恐らく我々はまだその全体を掴んではいないのですが、とりあえず現状分かっていることをまとめておこうと思います(今後また新たに見つかったら追記します)。


 とりあえず、VASSAL自体については↓をご覧下さい(情報はだいぶ古いですが、基本的なことに関しては参考になると思います)。

VASSALについて




 OCSのVASSALモジュールは、マウスだけでも操作はできますが、キーボードを併用すると非常に便利です。


◆マップ全体に関する操作

・マウスをしばらく停止する……そのヘクスの、マップのアルファベットナンバーとヘクスナンバーを表示する
・右クリック(カウンターのない場所で)……クリックした場所を中心にマップが移動
・マウスホイールを上下……マップを上下にスクロール
・Shift+ホイールを上下……マップを左右にスクロール(上で左へ、下で右へ)
・Ctrl+ホイールを上下……マップを拡大縮小(上で拡大、下で縮小)
・カウンターを掴んだ状態でVASSALのウィンドウの端で停止……その方向に少しずつマップがスクロール
・Alt+左クリック……クリックされた場所を中心に赤い円がしばらく拡大縮小して表示される

最後のものは、攻撃箇所を宣言したり、作戦の検討時に活用したりできて非常に便利です。





◆カウンターの選択と移動

・Shift+左クリック……(すでに選択しているカウンターに追加して)カウンターを選択
・Crtl+左クリック……(すでに選択しているカウンターの)選択を解除
・左クリックしたまま範囲を選択してクリックボタンを離す……複数のカウンターを選択

・選択した状態+↑……スタックの一番上に移動
・選択した状態+↓……スタックの一番下に移動
・選択した状態で←……スタックの一つ下に移動
・選択した状態で→……スタックの一つ上に移動

【スタックを開くと左が下で右が上になるので、最後の2つはその感覚に合っていて良い感じです。それ以上進められない状態で矢印キーを押し続けると、マップが少しずつその方向にスクロールしてしまいます。】



◆カウンターに関する操作

【以下のコマンドはカウンター上で右クリックすれば、可能なものがすべて表示されて左クリックで選択も可能で、かつショートカットキーも表示されています。最初のうちはとりあえずカウンター上で右クリックしてから左クリックで操作しつつ、ショートカットキーの表示も見て、少しずつ覚えていって使用してみるのが良いでしょう。以下、覚えた方が良いであろう優先度の高そうなものから書いていきます。若干コマンドの統一感が損なわれているのが残念ではあります(>_<)。】


unit9141.jpg



・Ctrl+F 【Flip】……ユニットの表裏を裏返す/表返す(つまり、戦闘モードと移動モードの表示を入れ替える)
このコマンドはマーカーに対しては基本的に影響しないため、ステップロスマーカーや航空基地マーカーなどが混在していてもそれらが裏返されたりはしませんがLow/Exhaustedマーカーは影響を受けてしまいます……。


・Ctrl+C 【Clone】……マーカー(のみ)をクローン(コピー)する。
【ユニットや戦闘団マーカーなどの固有のものはクローンできません。予備マーカーもクローンできないので注意です(使用できる数が決まっているからでしょう)。SPマーカーや「OCS Markers」の一番上にある「×印(KTX)マーカー」をクローンするのに使うのが主な使い方だろうと思います。SPをクローンする直前には、今そこにあるSPマーカーの数と、自分が今から調整するSPの量を必ず頭に入れて忘れないようにして下さい。連続で押しても3回で止まるようになってます。一呼吸置けば、いくらでもクローンはできます。】


・Ctrl+Z ……マーカーの数値やレベルを増やす
・Ctrl+X ……マーカーの数値やレベルを減らす

【パソコンゲームではZとXのキーで何かを増減させるというのはよくあるような気がします。SPの数、陣地レベル、突破マーカーのAR値などを変更するのに使います。一周すると元に戻ります。航空基地マーカーだけはなぜか、Ctrl+Xでのみレベルを変更(しかも増やす方向で)でき、Ctrl+Zには全く反応しません……。


・Ctrl+P 【Pile/Pool】……デッドパイル/分遣隊プール/予備モードマーカープールに送る
壊滅したユニットは、とりあえずCtrl+Pすれば良いのが便利です(間違っても後述のCtrl+Dをすべきではありません)。予備モードマーカーもプールに戻せます(マップ上の手近な場所に置いておくのも良いですが)。】


・Ctrl+D 【Delete】……カウンターを消去する
【不要になったマーカーを消去するのに使います。ユニットでも消去されてしまいますから、注意して下さい。】


・Ctrl+A 【abandon】……「Moved」のマークを付ける/消す
【いったん移動させたユニットには「Moved」のマークが付きます。なので、移動させ終わったユニットであるかどうかを「Moved」マークのあるなしでチェックすれば良いのですが、一時的に動かして元に戻したユニットや、移動をやり直すつもりで元の場所に戻したユニットにも「Moved」マークが付きっぱなしになります。これをCtrl+Aで除去しておくのがオススメです。マーカーには基本的に「Moved」マークは付きませんが、SPマーカーには付きます(SPにはリープフロッグ制限があるので、そのチェックのためにも厳密に管理するのが良いでしょう)。クリーンアップフェイズにはVASSAL画面の右上にある「Moved」ボタンを押して、すべての「Moved」マークを消すことができます。「abandon((移動の権利を)放棄する)」で覚えるのが良い?】


・Ctrl+T 【Trail】……移動の軌跡(Movement Trail)を表示/非表示
【そのプレイヤーターン中の、そのユニットの移動の軌跡を見ることができます。これによって最初にいた場所等を確認できるので、やり直しなどに便利です。Ctrl+Aで「Moved」マークを消したり、VASSAL画面の右上にある「Moved」ボタンが押したりするとリセットされます。】


・Ctrl+M 【Mask】……カウンターをマスクする/マスクを外す
【OCSには「戦場の霧」ルールがあってスタックの一番上以外を隠すことができるので、ルール上隠しても良いカウンターをマスクするのに使います。マスクを使用してプレイする場合の注意点については→戦場の霧ありのVASSAL(つまりOCS)で複数人vs.複数人プレイをする方法について (2021/05/31)。CtrlキーとMキーは遠いので、キーボードの右側にCtrlキーがあればそれを、もしなければ、フリーソフトを使って普段使っていない右側のキーをCtrlキーにしてしまうのが良いかも。】


・Ctrl+[ ……左に60度傾ける
・Ctrl+] ……右に60度傾ける

【1ターンに一度しか撃てない艦砲射撃を撃ち終わった艦船ユニットを傾けておくとか、何か特殊な状態のカウンターを傾けておくと良いでしょう。後述の「警戒空域表示」をさせないよう、非活動状態の戦闘機ユニットはこのコマンドで(180度)傾けておくのが良いです(スタック上の位置に神経質になる必要もなくなりますし)。】


・Ctrl+G 【DG】……DGマーカーを上に置く
・Ctrl+S 【Strategy】……戦略移動マーカーを上に置く
・Ctrl+E 【Exploit】……突破マーカーを上に置く
・Ctrl+J 【injure】……ステップロスマーカーを下に置く
・Ctrl+O 【Out of Supply】……補給切れマーカーを上に置く
・Ctrl+L 【Low】……Lowマーカーを下に置く
・Ctrl+U 【Fueled】……給油済みのFマークを右上隅に表示する/消す
・Ctrl+1 ……司令部ユニットの上に給油済みマーカーを置く
・Ctrl+H 【Hedghog】……陣地マーカーを上に置く

Alt+U 【Train Busting】……航空ユニットの下(スタックの一番下)にInterdiction(Train Busting)マーカーを置く
【これらのマーカーをカウンター置き場から探してくるのは少し手間なのですが、これらのコマンドですぐに置けてしまいます。ステップロスマーカー以外は覚えやすいのもいいです。ステップロスマーカーは「injure(傷つける)」で覚えるといいです。】


・Ctrl+V 【variety】……SP、航空基地、予備マーカーの国籍を変更する
【SPや航空基地の持ち主が変わった時などに。私は「variety(様々な(国籍))」で覚えるようにしてます。このコマンドで「×印(KTX)マーカー」などの色を変えることもできます。】


・Ctrl+L 【Label】……マーカー類のラベルの内容を変更する
・Ctrl+Q 【quick memo】……ユニットのラベルの内容を変更する
【カウンターの上部にラベルを貼り、その中にメモを書くことができます。あるいは、「Other Markers」の中に「Label」というのがあり、その中身をこのコマンドで変更することができます。「何移動力消費したか」とか「このユニットは何ターンに退出する」とかってことをメモっておくのに便利です。ユニットの場合はCtrl+Lは「Low」マーカーを出すために割り振られているので代わりにQキーが割り振られたのでしょうか。私は「quick memo」ということで覚えることにします(今決めました(^_^;)。】


・Ctrl+N/Alt+N 【Patrol Zone】……(指定した戦闘機ユニットの)連合軍/枢軸軍の警戒空域を表示する/消す
【全戦闘機の警戒空域を表示するには、VASSAL上部の「Counter Highlights」→「Allied/Axis Patrol Zones」を押して表示させます。ところがこの機能、消す時に一部の警戒空域が残ってしまうことが多いです。その時、1つ1つの戦闘機ユニットの警戒空域を消すのにこのコマンドを使うと便利です(もちろん、右クリックからでもできるわけですが)。】


・Alt+A 【accompany】……(指定したユニットの)所属する複数ユニットフォーメーションをすべてハイライトする/消す
【同一の複数ユニットフォーメーションの一部が行方不明になってしまうことがよくあります。そんな時このコマンドで、ハイライト表示させられます。まあショートカットキーを覚えておくほどではなく、「そのような機能がある」ということだけ覚えておいて、右クリックでメニューから探せば良いでしょう。】


【カウンター上で右クリックすれば、他にもコマンド(ショートカットキー)がいくらかありますので、時々チェックしてみて便利に使うと良いでしょう。例えばゲームによっては、Ctrl+R(Replae)で、ゲーム特有の補充ボックスへユニットが送られたりしたりするようです。】



◆VASSAL上部のボタン

・「Undo」……一手順戻る
【ユニットを操作中、ユニットが行方不明になってしまうことがよくあります。そんな時、音声チャットで「ストップ!」と声をかけることにしておき、「アンドゥいいですか?」と確認を取って、一回ずつゆっくりと声をかけながらアンドゥすると良いです。】

・「Notes」……メモを記しておく
【「Scenario」「Public」「Private」「Delayed」の4つのタグがありますが、オススメなのは「Private」です。他の人には見えないので、ここに自軍の行動計画や作戦を記しておくと良いでしょう。複数人対戦している場合は、自陣営全員に見えます。改行しないまま書いていくと文が見えなくなるので、適宜改行しないといけないのが惜しい。Saveボタンを押すとボックスが消えてしまったり、Saveボタンを押さないと自陣営の人に内容が反映されないのも惜しい(^_^;

・「Counter Actions」……指定したマーカーなどをマップ上からすべて取り除く
【クリーンアップフェイズにはこのボタンのメニューから、DGマーカーや給油マーカー(や印)などを全部いっぺんに消せるのが便利です。処理によっては少し時間がかかります。】

・「Counter Highlights」……指定したカウンターをハイライト/警戒空域を表示する/消す
【警戒空域を全部いっぺんに表示したり、よく行方不明になる予備マーカーのある場所や、すべてのSPや航空基地をハイライトさせたりできるので便利です。警戒空域は、非活動状態であることを示す為に航空基地マーカーの下に置いていたとしても、表示されてしまいます。しかしユニットを傾けると表示されなくなるので、非活動状態の戦闘機ユニットは180度(あるいは60度)傾けておくのがオススメです(他の航空ユニットも、非活動状態なら180度傾けるというのがいいだろうとも思います)。】

・「Range」ボタン……指定したヘクス間のヘクス数を表示
【ボタンを押して、あるヘクスでクリックして押したままそこから離れたヘクスで左クリックを離すと、その間のヘクス数を表示します。航空ユニットの航続距離を測るのに便利です。オンラインプレイ中の他のプレイヤーには見えません。】




 一応、このショートカットキーだけをまとめたpdfファイルを作ってみました。
 ↓の「プレイエイド」の場所(の下から2番目)に置いてあります。

OCSの物置2




◆実装されていない(と思う)が、欲しい機能

・スタックをダブルクリックするとスタックの中身が拡がって表示されますが、1つのボタンでマップ上のスタックすべてがそうなるような機能が欲しいです。

・敵陣営には見えないようなKTXマーカーやラベルなどをマップ上に置けたら嬉しい(マスク機能がそれらに使えたとしても、そこに何かがあるのは敵陣営には分かるので、敵陣営にはまったく見えないようなものがあれば、それらを使って自陣営内だけで相談がやりやすいのです。)。

・尼崎会では黒いタイルをマップ上に置き、そこに複数ユニットフォーメーションの中身や、都市ヘクスの中身を置いていたりしました。VASSAL上でもそのようなタイルを、大きさ自由、色も変えられて、下のヘクスに影響されず、ラベルが付けられてその中身を敵陣営に秘密にできたら……。

(実は、要望したらそれがかなった事例があります。マスク機能を使用すると自陣営のユニットの左上1/4程度に自陣営のマークが付けられていたのですが、その状態だとユニット規模のマークが隠れてしまい、密集度修正のチェックの際にいちいちマスクを外さねばなりませんでした。そこで、マスクのサイズをもう少し小さくする方法はないかとfacebook上で聞いてみたのです。そしたら、OCSチームのVASSAL担当者の方がその作業をして下さり、しかもすべてのOCSモジュールもそのように仕様変更してくれたのでした。ところが、この変更によって敵陣営のマスクされているカウンターも小さく表示されるようになってしまい、まあ慣れてしまえばどうということもないのですが、以前のちゃんとしたサイズでのマスク状態をご存じの方には少し違和感がある状態になってしまったのは、私の責任ですよね、スミマセンということで……(^_^;)

スポンサーサイト



第7装甲師団第25戦車連隊長カール・ローテンブルク(プール・ル・メリット勲章受勲者)について

 ドイツ軍指揮官人物伝:キルヒハイム将軍(第5軽師団長)について (2021/05/14)で書いてましたプール・ル・メリット勲章の受勲者の話ですが、『狐の足跡』にはもう一人印象深い、カール・ローテンブルクという人物が出てきていました。


Bundesarchiv Bild 146-1972-045-08, Westfeldzug, Rommel bei Besprechung mit Offizieren

 ↑左から二人目がカール・ローテンブルク(1940年6月の写真)。中央はロンメル。



 1940年のフランス戦役の時の話です。

 ロンメルの師団【第7装甲師団】の主力打撃部隊は第25戦車連隊で、ベルリンは同連隊の連隊長としてカール・ローテンブルク大佐をロンメルに与えた。同大佐はもと警官であったタフな人物で、ロンメルと同じように、1918年に中隊長としてプール・ル・メリット勲章を授与されていた。彼はこのとき44歳で、ドイツ軍の中でもっとも優秀な戦車連隊長のひとりであった。彼はロンメルと同じく、自分は何度も死を免れてきたので、その後は余分な人生を送りつつあるのだと考えていた。死は彼に何の恐怖も感じさせず、こわいものは何もないといったタイプの人物であった。彼はこの翌年、独ソ戦場において戦死した。
『狐の足跡』上P80



 英語版Wikipedia「Pour le Mérite」の受勲者一覧(全員を網羅してはいないと思われるもの)には彼の名前は出てきていません。

 英語版Wikipedia「Karl Rothenburg」によると、「第二次世界大戦中は、第7装甲師団の装甲連隊長を務めていた。1941年6月28日、ソ連侵攻の6日後にベラルーシのミンスク付近で戦死し、死後に大将に昇進した。」そうです。

 どうもフランス戦のみならず、独ソ戦でも同じ第7装甲師団の第25装甲連隊長を務めていたのだと思われます。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第7装甲師団。

unit9142.jpg


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第7装甲師団(時期的にはすでにローテンブルクは戦死した後になりますが)。

unit9165.jpg


 第25装甲連隊はおっそろしく強力な連隊と言えるでしょうね……。

 しかし、キルヒハイム将軍のエントリでも書いてましたが、ロンメルの周りにはプール・ル・メリット勲章の受勲者が集められすぎじゃないでしょうか……? 参謀本部からロンメルが疎まれていたがゆえに、「お前ばかりが英雄ではない」とばかりにプール・ル・メリット勲章の受勲者が周辺に付けられた……というのは穿ち過ぎか(^_^;


ロンメルに降伏せざるを得なくなって憤慨したイギリス軍第51歩兵師団長ヴィクター・フォーチューンについて(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』)

 ロンメル関係の資料を収集していて、1940年のフランス戦の時にロンメルに降伏さざるを得なくなって憤慨したというイギリス第51歩兵師団長ヴィクター・フォーチューンという人物に興味を持ったので、少し調べてみました。


 このイギリス軍の第51歩兵師団というのは、OCS『The Blitzkrieg Legend』では非常に印象的なユニットだったりします。


unit9145.jpg

 ↑OCS『The Blitzkrieg Legend』のイギリス軍第51ハイランド歩兵師団。



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のセットアップ。

unit9144.jpg

 イギリス大陸派遣軍の茶色いユニットはドーバー海峡により近い、マップの左上を中心に存在しているのですが、1個師団だけ、マップの最も東側にぽつんと配置されていたイギリス軍ユニット(赤い□)がありました。これが第51ハイランド歩兵師団なのです。


 ヴィクター・フォーチューン将軍は1937年にこの第51ハイランド歩兵師団の司令官に任命され、同師団は1940年1月にイギリス大陸派遣軍に参加するためにフランスに到着しました。同師団が配属されたイギリス第2軍団の司令官であったアラン・ブルック将軍(後の帝国参謀総長)は新しく到着したフォーチューン将軍から良い印象を受けず、「必要な能力を備えている」かどうか疑っていたとか。

 当初はカレー方面にいた第51ハイランド歩兵師団ですが、4月にマジノ線のあるザールラント地域に送られ、フランス第10軍団の指揮下に置かれました。これは、その地域で特に活発だったドイツ軍の戦闘パトロールに対する戦闘経験を与えることを目的としていたそうです。

 5月10日にドイツ軍の攻撃が始まり、第51ハイランド歩兵師団は西へと撤退しましたが、他のイギリス大陸派遣軍の部隊はダンケルク周辺でドイツ軍に包囲されてしまい、合流することはできませんでした。フォーチューン将軍は「経験豊富で決断力に富み、非常に有能な指揮官」としてフランス軍の指揮下に入り、6月4日、アブヴィーユ(Abbeville:前掲画像の左側の赤い□のすぐ右)でドイツ軍橋頭堡への反撃に参加しましたが大きな犠牲を出して撤退します。



The British Army in France 1940 F4698

 ↑6月8日、師団司令部を置いていた建物内のフォーチューン将軍(Wikipediaから)。


 続く6月11日、ロンメルの指揮する第7装甲師団は第51ハイランド歩兵師団を含む英仏連合軍を海岸のサン=ヴァレリー(左側の赤い□の場所)に追い込みます。連合軍側には海上輸送によって待避する計画があったのですが、実行されなかったのです。ロンメルはこの連合軍に降伏を要求。フランス軍部隊は降伏を望みましたが、フォーチューン将軍は降伏を拒否。しかしまわりのフランス軍部隊が次々に降伏していく中、抵抗を続けることができなくなり、降伏のやむなきに至ったのでした。

 英軍側はこのような結果になったことに当惑していた。第51(ハイランド)師団の師団長ヴィクター・フォーチューン少将はこんな若い将軍に降伏しなければならないことが、いまいましくてたまらないという気持を、はっきりと態度にあらわしていた。
『狐の足跡』上P96


 その時のロンメルとフォーチューン将軍の映った写真が、例えば↓の一番下の方にあります(今回、このサイトの記述も参考にさせてもらいました)。

The 51st Highland Division St Valery-en-Caux June 1940



 フォーチューン将軍は戦争の残りの期間を捕虜として過ごし、イギリス軍の上級将校として、同じくドイツ軍の捕虜となっていた部下達の待遇改善に努めました。1944年に脳卒中で倒れるなどし、健康状態が良くないとして本国送還を3度に渡って許可されたにもかかわらず、それらをすべて拒否。1945年4月にアメリカ軍部隊によってようやく解放され、大英帝国勲章を授与されます。しかし健康状態は回復せず、1949年に自宅で亡くなりました。

 何人かのイギリス人作家は、第51師団がフランス戦においてフランス軍と共に留まったこと(の意義? 決断?)を疑問視しているとか。しかし、シャルル・ド・ゴール将軍は、「私としては、1940年5月から6月にかけてアブヴィーユの戦場で、私が指揮する栄誉に浴したフランス機甲師団と、フォーチューン将軍率いる勇敢な第51スコットランド師団との間で結ばれた戦友関係が、何があろうと最後まで連合国側で戦い続けるという私の決断に一役買ったと言える」と述べ、最後にスコットランド衛兵の古いモットーである「omni modo fidelis(あらゆる方法で義務を遂行する)」を引用したそうです。





 ↑英語版Wikipedia「Victor Fortune」の他に、この資料も今回使用しました(Kindle版が1100円で買えます。個人的に非常にオススメです)。

OCSの1ヘクス5マイルで1942年のビルマ戦をマップに収めるには……?

 以前から、1942年のビルマ戦をOCSで作れる可能性はあるのではないかと思っていたのですが、少し前からマップ割を考え始めてみていました。
 I've been thinking for a while that there might be a possibility to create a 1942 Burma battle in OCS, and I have started thinking about map allocation a while ago.




The proposal on the left is 5 miles per hex, OCS "Burma II" + 5 full maps (7 total).
The proposal on the right is 1 hex 7 miles (or 7.5 miles) and 3 full maps.
Hmmm, I think the idea of 3 full maps would be better. ......? (^_^;

Oh, yeah! I've got an idea.
A third idea. 5 miles per hex, 6 full maps. If we're sticking with 5 miles per hex, this is it or .......





I wondered how many OCS players, no matter how much they like big games, would want to play the theme of the Battle of Burma in 1942 on six full maps. ...... So I decided to use three full maps for now. .......
I think even 3 full maps is ridiculously large (^_^;



Reconsidered the map of the Battle of Burma in 1942. There seemed to be very little fighting around the northernmost map, and I thought it was unnecessary.
Also, the entire second phase of the advance on Burma would be put in one full map vertically, and the first phase (up to the occupation of Rangoon) would be added in 1/4 of the full map, so that it could be played with only the smaller map......




 その後、諸資料でもってラングーン陥落の頃までの戦闘経過を詳しく追ってみる中で、1ヘクス7.5マイルと1ヘクス5マイルとで見比べてみると、1ヘクス7.5マイルではちょっとキツイ気がしてきました。
 Later, as I followed the progress of the battle up to the time of the fall of Rangoon in detail with various documents, I compared the 1 hex 7.5 miles with the 1 hex 5 miles, and I felt that 1 hex 7.5 miles was a bit too small.

 というのは、OCSでは若干質の良い歩兵部隊の移動力が戦闘モードで3、移動モードで5、というのが定番で、この枠組みを崩さないようにするならば、1ヘクス7.5マイルでは無理なような気がしたのです(逆に、1ヘクスのマイル数や1ターンの日数は、各ゲームで色々変わっている感はあるのですが)。
 This is because in OCS, the standard mobility of a slightly better quality infantry unit is 3 in combat mode and 5 in movement mode, and I felt that if I wanted to keep this framework intact, 7.5 miles per hex would be impossible (On the other hand, the number of miles per hex and the number of days per turn varies from game to game).


 そういうわけでとりあえず1ヘクス5マイルだとし、また最後のツイートにあるように最初参考にしていた戦況図の北の方は実質戦闘と言えるほどのものはなかったらしいと考えてカットできるとすると、↓のようなマップ割があり得るかと思われました。
 So, assuming 5 miles per hex for now, and assuming that there was no real combat in the northern part of the battle map that I was referring to in my last tweet, I thought I could cut it down to the following map layout.

unit9149.jpg

 左上の方のやや濃いマップ画像は、OCS『Burma II』のマップです。その右下に3枚のマップの範囲が描いてありますが、真ん中のものと一番南のものは、半分くらい領域が重なっています(一番北のものは、『Burma II』のマップの領域を少し含んでいます)。
 The slightly darker map image in the upper left corner is the OCS "Burma II" map. In the lower right corner of the image are the ranges of the three maps, with the middle one and the southernmost one overlapping about half the area (the northernmost one contains a little of the area of the "Burma II" map).

 一番南のマップ(だけ)で、ラングーン攻略(1942年1月22日~3月8日頃)までをプレイできると思います(OCS通常スケールの1ターン1/2週間ならば、15ターン)。
 On the southernmost map (only), I think we can play through to the capture of Rangoon (January 22, 1942 to about March 8, 1942) (15 turns if you use the OCS normal scale of 1/2 week per turn).

 そして1942年のビルマ戦の第2段階である、マンダレー攻略(1942年3月中旬~5月初旬:20ターン程度?)までを、真ん中と一番北のマップでプレイできるのではないかと(もちろん、一番南のマップと繋げて1942年のビルマ戦全体を再現もできる……)。
  And I am thinking that we can play the second phase of the Battle of Burma in 1942, up to the capture of Mandalay, on the middle and northernmost maps.(mid-March to early May 1942: about 20 turns?) (Of course, you can also replay the entire 1942 Burma War by connecting it with the southernmost.....).

 日本軍側で言うと、ラングーン攻略までは2個師団で、その後2個師団追加されてマンダレー攻略までやっているので、この広さでたった4個師団しか出てきません。
 On the Japanese side, only two divisions existed until the capture of Rangoon, and then two divisions were added to carry out the capture of Mandalay, so only four divisions appear in this area.


 あるいはさらにまた、このマップ割で、もしかしたら1944年12月からのイラワジ河会戦からの、ビルマ戦線の崩壊局面も一応再現可能かも……。
 Also, with this maps, it may be possible to recreate the collapse phase of the Burma front from the Battle of the Irrawaddy River in December 1944......


 で、実際にOCSのマップのヘクスに合うようにして、より詳しい地図と重ねてみました。
 So, I actually tried to make it fit the hexes of the OCS map and overlay it with a more detailed map.

unit9146.jpg

 ヘクスが『Burma II』のマップとちゃんと合うようにしてあります。その下の地図は2枚とも、陸戦史集『ビルマ侵攻作戦』の付録地図です(今回戦史叢書の方の付録地図は、この目的に合わないような地図でした……)。
 The hexes are made to fit properly with the map in Burma II. The two maps below are both supplementary maps in the Rikusen Sisyuu "Burma Shinkou Sakusen" (the supplementary maps in the Sensi Sousyo was not suitable for this purpose......).

 東西南北は、資料を読み込んでいく中でいくらかずらす可能性もあるかと思います。
 The east, west, north, south, and southwest may be shifted somewhat as I read the materials.


 一応資料としては、以下の日本語資料を以前から集めていました。
 I have been collecting the following Japanese materials for some time.








 さらに、英語資料も以下のものを購入してみました。
 In addition, I also purchased the following English materials.



(↑なんか値段がえらく高くなってますが、私が古書でこの表示よりは安く購入した後、その次の割と高いやつが表示されてたりするものだと思われます……)
(↑The price is very high, but I think it's because I bought an old book at a lower price than this, and then the next more expensive one is displayed......)


 まだ資料は読み始めたばかりですが、最も簡単に読める歴史群像アーカイブの『帝国陸軍南方作戦』のビルマ侵攻作戦の記事は、大変興味深く、為になりました!
 I've only just started reading the materials, but the article on the invasion of Burma in "Teikoku Rikugun Nanpou Sakusen" in the Rekishi Gunzou Archive, which is the easiest to read, was very interesting and informative!

 その後、『ビルマ進攻作戦』と『ビルマ 遠い戦場』を同時並行的にチェックして時系列で何が起こったか等をアウトラインプロセッサに入力していってます。すでに『ビルマ進攻作戦』の時点で相当詳しく、各連隊等がどのように行動したかが書かれている印象を受けます。
 After that, I've been checking "Burma Shinkou Sakusen" and "Burma: The Longest War" at the same time and inputting what happened in chronological order into outline processor. I have the impression that "Burma Shinkou Sakusen" already contains a very detailed description of how each regiment and other units acted.


 OCS『Luzon: Race for Bataan』を作った時には、同じ1ヘクス5マイルでしたが実質ハーフマップ1枚の5ターンで終わるものでしたから、そんなに大変ではなかったのですが、今回はさすがに大変そうです(^_^;(尤も、東部戦線に比べれば全然楽だろうとも思いますけども)
 When I made the OCS "Luzon: Race for Bataan", it was the same one hex and five miles, but it was practically one half-map and took five turns to finish, so it wasn't so hard, but this time it seems to be really hard (^_^;). (Although I think it will be much easier than the Eastern Front.)

 とりあえずまずはラングーン攻略までのものだけを試しに作ってみて、テストプレイして、修正して……という風にしてみようと思ってます。
 For now, I'm going to try to make just the one up to the capture of Rangoon first, test play it, and then modify it and make it look like.......

 実は大きな問題がゲーム名です(^_^; 『BURMA』はもちろん使えませんが、『BURMA 1942』とかって、非常にOCSっぽくない……(シモニッチっぽいです)。1942年のビルマ戦だけを扱った、何かかっこいい書名があれば採用可能だとも思うのですが、それらしきものが見つからない……。1944年12月からのビルマ戦最終局面もゲーム化できれば、スリム将軍の自伝である『Defeat into Victory』を使うという方法もあるかもとは思うのですが……。
 Actually, the big problem is the name of the game (^_^; Of course we can't use "Burma", but "Burma 1942" is very un-OCS-like ...... (Simonitch-like). I also think that if there is some cool book title that deals only with the 1942 Battle of Burma, it could be adopted, but I can't find anything like that....... If the final phase of the Battle of Burma from December 1944 could also be made into this game, I think there might be a way to use "Defeat into Victory", the autobiography of General Slim......

北アフリカ戦で「生ける伝説」とまでみなされていたものの、その事故死によってヨーロッパ史を大きく変えたとも評されるイギリス軍の「ストレイファー」ゴット将軍について

 OCS『DAK-II』に出てくるイギリス軍の指揮官について先日、「ジョック」キャンベル将軍と、ジョック・コラムについて (2021/10/22)でキャンベル将軍について書いていました。

 もう一人の「ストレイファー」ゴット将軍についても一応書けたので、アップしてみます。

unit00437.jpg


 ゴット将軍は、北アフリカ戦において「生ける伝説」ともみなされていたものの、その不慮の事故死によってヨーロッパ史を大きく変えたとも評される人物です。

Brigadier W H E Gott


 ウィリアム・ヘンリー・ゴットは第一次世界大戦では西部戦線で戦い、戦間期にはインドで参謀職を務めたりし、1938年にはイギリス本国で編成された機動師団の中の第1KRRC大隊長となりました。

 ゴットの大隊は1940年にエジプトに移され、誕生したばかりの第7機甲師団の支援グループの核となります。ゴットは不撓不屈の精神と勇敢な行動で、まずコンパス作戦で活躍し、ベダ・フォムの戦いにおいては「ストレイファー(Strafer)」というあだ名を獲得しました。このあだ名は、イギリス陸軍の将軍達につけられたあだ名の中ではかなり凝ったものだったそうで、それだけにやや説明が必要です。

 「strafe」というのは英単語では「機銃掃射する」「猛爆撃する」というような意味で、語尾が「er」となればそれらを「行う人」という意味になります。ところがドイツ語にも同じ綴りの「strafe」という単語が「罰」という意味で存在しており、第一次世界大戦の時には「Gott strafe England(神よ、イギリスを罰し給え)」というスローガンをドイツ軍は使用していたのでした。そしてこの言葉の最初の「Gott」はドイツ語で「神」ですが、ウィリアム・ヘンリー・ゴットのゴットと綴りが全く同じなのです。

 成り立ちが複雑なため、日本語訳においても「Strafer」を「猛撃者」「懲罰者」あるいは「猛将」などとした様々な訳語が見られます。実は英単語としては「strafer」は「機銃掃射する操縦手」という意味が最初に出てくるようなのですが、ゴットはBf109戦闘機に地上で機銃掃射(あるいは爆撃)されて死亡したという説もあり、だとすれば非常に皮肉なあだ名になってしまったとも言えます。


 ゴットはベダ・フォムの戦いの後も第7機甲師団で参謀長、支援グループの指揮官を歴任し、1941年5月15日に開始されたブレヴィティ作戦では実行部隊の指揮を任されます。しかし作戦の2日目、ロンメルの反撃によって自軍部隊が危険に晒されたことに気付いたゴットはすんでのところで(上官の指示を無視して)退却の命令を出します。ゴットはハルファヤ峠は維持したものの、他のすべての占領地点は放棄することになりました。この後、上官であったベレスフォード=ピアース将軍は更迭されましたが、ゴットが責任を問われることはなかったようです。


 そして1941年9月には第7機甲師団長となります。

unit9306.jpg

 ↑OCS『DAK-II』のクルセイダー作戦時(1941年11月18日)の第7機甲師団。


 この頃のゴットは羨望の的となっていました。ハンサムで、「若くて、背が高く、エネルギッシュで、信心深くて、厳格で、ユーモアがあって、親切」な上に、「恐ろしいほどの有能さ」で、会議では最後にゴットが何と言うのかを皆が注目するほどでした。疲れを知らずに戦場を歩き回って弱った部隊を奮い立たせる「ストレイファー」ゴットは部下達、あるいは世界中から尊敬と愛情を集めていて、誰が見てもその影響力は非常に大きなものとなっていたのです。彼はまさに、「生ける伝説」であるかのようでした。

 ただし後世、ゴットは個人的な資質では大いに賞賛されていたものの、実際の軍事的なスキルには欠けていたとも見られています。兵士達からは絶大な人気があり、「地位の高い者も低い者も皆、助言や共感、助けや励ましを求めていた」人物であったものの、一方で「北アフリカでの彼の軍人としての活動を冷静に評価すると、見事な戦術を披露したり、傷つき疲れ果てた部下達をも従わせるロンメル風の生まれ持った力は見られなかった」とも言われます。

 当時ゴットの幕僚で、後にイギリス軍元帥、参謀総長となったマイケル・カーバー卿はゴットについてこう述べているそうです。
「本当に偉大な軍人となるためには、あまりにも良い人過ぎたのだ。」

 実際、1941年11月から行われたクルセイダー作戦では、それほど活躍したという話は見られません(同じく兵士達に人気のあった「ジョック」キャンベル将軍がシディ・レゼクの戦いで名を挙げ、ヴィクトリア十字章を受勲したのに対し)。

 1942年2月には第13軍団長へと昇進。しかし、1942年5月からのガザラの戦いの頃には、ゴットは部下の第1南アフリカ歩兵師団長ダニエル・ピーナールとの関係が完全に悪化していました(ただしこれは、ピーナールの方が強引で怒りっぽい人物であったのが原因ではないかと思われます)。他にも英連邦軍内では機甲師団長同士が反目していたり、ゴットら軍団長達が第8軍司令官であったリッチーに強硬に反対したりするなどの不和の中、ロンメルに敗北を喫してしまいます。

 トブルクが陥落し、エル・アラメインへと撤退していく途上、英連邦軍の士気は低下し、ゴットも疲れ果てて精神的に参ってしまっていました。ゴットのその姿はこの頃、意気消沈した兵士達に希望を与えるよりは、むしろ絶望感を与えるようになってしまっていたといいます。


(メルサ・マトルーの戦いを引き起こしたゴット将軍の誤認については、OCS『DAK-II』用の追加シナリオ「メルサ・マトルーシナリオ」を和訳してみました (2021/12/14)をご参照下さい)


 北アフリカで英連邦軍が敗北続きであった1942年8月、チャーチル首相は当時中東戦域軍司令官と第8軍司令官を兼任していたオーキンレック将軍の解任を決定します。第8軍司令官の後任としてチャーチルは、(かつての)積極的で果敢、快活で人当たりの良いゴット将軍が良いと考えました。彼の名は北アフリカ戦で知れ渡っており、中近東全体においても彼を司令官に推す声が高く、また第一次世界大戦でゴットと一緒に戦った経験のあるアンソニー・イーデン外相や、南アフリカ軍のスマッツ将軍らもゴットを推薦していました。

 一方で、ゴットの能力を高く評価していた帝国参謀総長のアラン・ブルック将軍は8月5日にゴットと面談して、彼が疲労し、意欲を失っていることに気付きます。またアラン・ブルックは、第8軍のような大きさの部隊の指揮官となるには、ゴットはまだ経験を積む必要があると感じた、とも記しています(この表現はもしかしたら、ロンメルがそう評されるように、「小部隊の指揮官としては良いが、大規模な組織の長には向かない」ということの婉曲的表現なのではないだろうか、とも個人的には推測したりするのですが、どうでしょうか……?)。

 ゴットは、同僚にこうもらしていたそうです。
「私は疲れている。我々はバッグの中からいろいろなクラブを使ってみたが、このゴルフは失敗だった。この任務には、新しい頭脳をもった者が出てほしい。古い仕事だけれど、新しい頭脳がいる。皆が私にやってくれというのだったら、自分としてもやってみよう。でも私以外にイギリスから新しい人材を求めるべきだと思う」

 オーキンレックもまた、ゴットを第8軍司令官とする案には難色を示していました。アラン・ブルックはゴットの代わりにバーナード・モントゴメリー将軍を推薦しました。しかしモントゴメリーは非常に頑固でつむじ曲がりであることで有名であり、またその冷静で熱狂ということを知らない性格は、積極性を何よりも重視するチャーチルの好みとは真逆でした。モントゴメリーはチャーチルの情熱的な言葉に反応を示さず、たえず政府に文句を言い、その非正統的な態度で兵士達から人気を博しており、チャーチルを怒らせてさえいたのです。

 チャーチルはゴットと会ってみました。身体の具合を聞かれたゴットは、「確かに疲れている」と答えました。「数年間見ていないイギリスで三ヶ月の休暇を取れれば、それ以上何も望みはない」とも。しかしなおも、「直接自分で何でもやり、任されたどんな責任でも取るつもりである」と断言したのです。

 結局、ゴットが第8軍の司令官として着任することになりました。ゴットは双発輸送機に乗ってカイロに向かう途中、乗機がドイツ軍のBf.109戦闘機2機によって撃たれてしまいます。エンジンが2つとも停止したもののパイロットは不時着を成功させましたが、Bf.109は地上に降りた輸送機に対してさらに攻撃し、脱出できなかったゴットら乗員は死亡しました。一説には、ゴットはいったん脱出に成功したものの、機体に閉じ込められた者を救おうとしている時に攻撃を受けたともいいます。ゴットには娘が二人いましたが、下の娘と会う前に亡くなったのでした。

 この知らせを受けたチャーチルは衝撃を受けましたが、代わりの人選について疑いはあり得ませんでした。帝国参謀総長アラン・ブルックが断固として推薦していたモントゴメリーを、第8軍司令官としたのです。

 ゴットの死は「彼と、彼を愛し尊敬していた人達にとって不幸なことだった」のは間違いありません。しかしゴットは自分が死ぬことで、モントゴメリーという真に「必要な人物」を「必要な瞬間に、必要な場所」に舞台に立たせるという最大の功労を果たしたと評する人もいます。ゴットの死は「彼の人生よりも遙かに、ヨーロッパ史における歴史的な出来事の起源となった」のです。



OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ7で、VASSAL習熟プレイを開始しました

 新しく参加されることになった富山のNさんが、OCSのソロプレイ以外は経験なしで、VASSALに関してはまったく触ったこともないということで、VASSALに習熟していき、少しずつ一緒にプレイしていきましょうということになりました。

 ゲームは色々検討した結果、『Smolensk:Barbarossa Derailed』のシナリオ7で。


 富山のNさんはご自分のデスクトップパソコンとディスプレイを車で富山のKさん宅に運び(!)、パソコンをセッティングして、VASSALの扱い方を富山のKさんから実地で受けられるようにしてプレイを開始してみました。

 プレイは松浦方式(片方の陣営をプレイヤー全員でプレイし、もう片方の陣営もプレイヤー全員でプレイする)で、ソ連軍は主攻勢軸たる中央イエルニャ方面を富山のNさんが、その北方を富山のKさんが、南方を私が持ちました。枢軸軍は、中央を富山のKさん、北方を私、南方を富山のNさんが担当します。



 ↓セットアップ時(枢軸軍はフリーセットアップが大量にあり、私がやっておきました)。

unit9152.jpg

 全員で「あーでもない、こーでもない」と相談しながら、ソ連軍をプレイしていきます。





 ↓リアクションフェイズ中のドイツ軍のオーバーラン

unit9151.jpg

 リアクションフェイズに富山のKさんは、ソ連軍の2個戦車師団(ただし両方とも1/3ステップしか残っていない)を2個突撃砲大隊でオーバーラン!(事前にHe.111でヒップシュートしてから)。2ステップを失わせ、敗走させました。

 ソ連軍側は舐めたプレイをしていたわけではなく、そのヘクスに3ステップも置いていたのですが、ヒップシュートされて近距離から戦闘モードで平地にオーバーランされてはいかんともしがたく……。




 ↓第1ターン先攻ソ連軍戦闘フェイズ終了時。

unit9150.jpg

 続く戦闘フェイズには砲撃の上で北方1箇所、中央2箇所で攻撃を敢行。北方(赤い太線の場所)ではダイス目が悪く、AL2(攻撃側2ステップロス)の結果に(ただし、ドイツ軍に2Tを払わせたので、それだけでもソ連軍の勝利(^_^;)。

 中央ではSPを大量に消費はしましたが、2ヘクスで戦闘に勝利し、小河川を渡河して今後の攻勢のための橋頭堡(赤い太線)を確保しました。


 時間切れでここまででしたが、今後も機会があれば続きをプレイしていって、最後までプレイしたいものだと思います(5ターンシナリオでやりやすいはずなのですが、今まではゲーム例会でしかプレイしたことがなく、最後までやったことがなかったと思います)。


 今日はまた、割と観戦に来られる方が来て下さり、少しOCSのルールについても質問をもらったり、ゲームの展開について文字チャットでやりとりしたりしました。良ければ、将来的にプレイに参加もしてもらえたら大変嬉しいです(^^)

 OCS初心者の方でも、一部の戦区だけ受け持ってもらって、アドバイスしたり、どんどん質問したりしてもらってプレイできますので~。

「ジョック」キャンベル将軍と、ジョック・コラムについて

 昨日のエントリOCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」3回目をハウスルール付きで開始しました (2021/10/21)で、英連邦軍の指揮官についてこう書いていました。

・ゴットとキャンベルの能力を3から4に変更にする(つまり1悪くする)。
【オコーナーは優秀な指揮官であると思われ、3のままでいいと思うのですが、ゴットとキャンベルは戦術的には優秀とは言えない単なる勇猛な指揮官に過ぎないと考えた方がいいと思うので】



unit00437.jpg

 ↑OCS『DAK-II』の指揮官カウンター



 オコーナー将軍については以前、北アフリカ戦線:イギリス軍のオコーナー将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』) (2020/04/10)でいくらか書いてましたが、ゴットとキャンベルについては当時私も良く分かってませんでした。

 その後、「もしかしてまとめて書いて発表できるかも」と思って調べつつ書いていた原稿で「ジョック」キャンベルについては結構まとめてあったので、ここに公開しようと思います(本にして出版するというのはかなり難しそう、かつ、それを目指すべきではなさそうだということが分かったこともあり(^_^;)。

 ゴットについてはまだまとめきれていないので、またそのうちに……。


「ジョック」キャンベル将軍と、ジョック・コラムについて



 1940年9月のイタリア軍によるグラツィアーニ攻勢の時、英連邦軍の撤退戦を指揮して頭角を現した「ジョック」キャンベルという将校がいました。


JockCampbell

 ↑キャンベル将軍(Wikipediaから)



 スコットランドで生まれたジョン・チャールズ・キャンベルは王立騎馬砲兵隊に入り、一流の馬術家かつ一流の砲兵隊士官となります。馬を愛し、ポロと狩猟の両方でトップレベルで、馬術のインストラクターも務めた彼は「ジョック」(騎手の意味。ジョッキーと同じ)とあだ名されていました。

 エジプトに侵入して停止したイタリア軍と向かい合っていた英連邦軍ですが、兵力差は圧倒的でした。そのため必要に迫られて、戦線後方で活動するバニョルドの「長距離砂漠挺身隊」以外にも、主戦場でイタリア軍を惑わせるための小部隊が複数編成されることになりました。自動車化歩兵1個中隊、野砲1個中隊、装甲車数台で構成されたこの小部隊は、両軍を隔てる地域での偵察・対偵察戦を支配して敵の偵察隊が味方の配置を発見するのを防ぎ、イギリス軍の意図を誤解させ、さらに敵に攻撃をしてはすぐに逃げるという嫌がらせをすることを目的としていました。

 このような独立の小部隊を率いてすぐに大きな成果を上げ、最も有名となった指揮官が「ジョック」キャンベルであり、それ故にこの小部隊は「ジョック・コラム」と呼ばれるようになります。

【ジョック・コラムの写真はこちらなど?】

 ジョック・コラムは小さく機動性の高い独立した部隊であり、敵に実際よりもはるかに大きな部隊と対峙しているように思わせ、大規模な作戦の合間に装備を節約するのにも役立ちました。

 1940年10月末までには複数のジョック・コラムが行動を開始し、下級将校達の間で独立した指揮を執ることができる理想的な機会として人気を博し、砂漠の英連邦軍の戦術システムの一部としてすぐに定着します。ジョック・コラムの活躍によってイタリア軍に対して士気の上での優位性を確立することができ、コンパス作戦後の数ヶ月間でも戦意喪失したイタリア軍の後方に追撃をかけるのに適していたことから、英連邦軍の勝利に大きく貢献することにもなるのです。

 キャンベルは、ジョック・コラムは2つのことを除いて何でもできると語っていたそうです。
「敵の土地を占領することと、敵による占領を排除することはできない。」


 しかしジョック・コラムは、イタリア軍に対しては非常に有効でしたが、ドイツ軍に対してはほとんど役に立ちませんでした。

 イタリア軍は戦意が低かったですし、有効な対戦車砲を持たず、諸兵科連合戦術も実行できませんでした。ところがドイツ軍は士気が高く、非常にスキルの高い諸兵科連合戦術を用いており、それに対してはジョック・コラムはせいぜい「厄介な存在」止まりだったのです。むしろ英連邦軍側の方が、乏しい人員と装備の一部をジョック・コラムに割かなければならないため、主戦場での決戦において兵力不足を来し、一方ドイツ軍は戦力を集中させて英連邦軍の主力を撃ち破っていきます。



 1941年5月、ウェーヴェルは先制攻撃を企図したブレヴィティ作戦や、一ヶ月後のバトルアクス作戦でもジョック・コラムを使用しました。しかし、敵集団に対する主攻撃に戦力を集中的に使用するのではなく、機甲、砲兵、歩兵戦力を小さなかけらへと分散させてしまったことも一因となって失敗に終わります。

 その後ウェーヴェルは解任され、代わって中東戦域軍司令官となったオーキンレックもジョック・コラムを使用したのみならず、ジョック・コラムが依然として大いに有用であると誤認し続けました。オーキンレックは手紙などの中で、こう書いています。
「【ジョック・コラムは】素晴らしい働きをして、敵の部隊と輸送隊にかなりの損害と死傷者を出させた。」
「このように、どんどん編成されているジョック・コラムは、まさに我々が求めていたものだ。我々の特殊な戦闘能力に合っているようだし、最高の喜びと活力をもって確実に敵に向かっている。」


 北アフリカにおける英連邦軍がいかに戦術を改善していったかに関する書物である『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa』によれば、クルセイダー作戦中にオーキンレックがジョック・コラムに対して大いに期待し、成功を確信していたことには、以下の5つがありました。



1.自軍戦力を集中させる行動をカバーリングして隠蔽すること。
2.バルディア、ハルファヤ峠、ガンブートに留まっているドイツ軍拠点の補給基地を破壊すること。
3.ロンメルがシディ・レゼクから東に移動するのを阻止すること。
4.戦場地域を制圧し、自軍戦力の側面と連絡線への脅威を取り除くこと。
5.敵への嫌がらせを続け、再び大規模攻撃が行えるようになるまで敵に休息を与えないこと。

 同書によると、これらのうち2に関しては結局ジョック・コラムは役に立たず、これらの拠点が降伏したのはロンメルが遠方へ撤退して補給物資が尽きてしまった後のことでした。3に関してはオーキンレックはジョック・コラムが阻止したのだと考えていましたが、その認識は誤っているとしています。その他の事項についての成否は同書に書かれていませんが、オーキンレックの期待と確信は大きすぎたのだという文脈なのでしょう。

 ジョック・コラムの有用性については英連邦軍内でも賛否が起こっており、クルセイダー作戦の途中から第8軍司令官となったリッチーはジョック・コラムは有用であると考えていましたが、トゥカー(第4インド師団長)やメッサヴィー(第4インド師団長、第7機甲師団長、第1機甲師団長などを歴任)は批判を口にしていました。

 1942年1月から2月にかけて、ロンメルの第2次攻勢によってイギリス軍がエル・アゲイラからガザラへと撤退する際、第1機甲師団長としてロンメルの進撃部隊への嫌がらせとしてジョック・コラムを使用したメッサヴィーはこう語りました。
「我々はあちこちにジョック・コラムを送り出してしまいがちだ。だが、彼らはほとんど成果を上げられないのに我々の砲の大部分を使って使用不能にしてしまうし、主戦闘にはまったく向いていないのだ。」

 1942年4月には、オーキンレックもジョック・コラムの編成と使用に関して、以前よりも限定的なものとする旨の方針を通達します。曰く、

 ジョック・コラムは嫌がらせや敵の弱い後衛への追撃には適しているが、非常に弱い敵軍に対するものを除いては、攻撃を深く打ち込むことはできず、短期間を除いては陣地を奪うこともできない。またその使用は、砲兵の支援を分散させ、部隊を「攻撃してすぐ逃げる」型の襲撃に慣れさせてしまったため、総攻撃や長期にわたる防衛を例外的なものと考えさせるようになってしまった。従って今後、ジョック・コラムは慎重に、相応しい任務に限って使用するように。例えば、襲撃、嫌がらせ、明確な計画に基づく防御陣地の前でのカバーリングと遅滞作戦、偵察中の装甲車の支援、そして最後に、特定の状況下での追撃などである。

 1942年の半ばまでには、人々の意見はジョック・コラムに対して批判的なものに変わってしまっていました。そして1942年8月にモントゴメリーが第8軍司令官に着任するとジョック・コラムは廃止され、将官達はその言葉を口にすることさえ禁止されたのです。


 オーキンレックらはなぜ、ドイツ軍に対してもジョック・コラムというコンセプトが有用だと考えたのでしょうか? 一つには、ジョック・コラムがイタリア軍に対して非常に有用であったという、成功体験の大きさがありました。また当時は、機動力、広域展開、小規模襲撃という戦術が有効であるいう考え方が、砂漠というロマンチックな雰囲気にも助けられて広まっていたということもあります。イギリス発祥の「私掠船(政府から許可を得た海賊船)」に似たものとして捉えられていたのです。このように小規模な部隊が独立して自由に、素早く、大胆に行動するというのはイギリス軍の一部の若き将校達にとって非常に魅力的であり、ロンメルもこの種の作戦行動においてはイギリス軍兵士達の方がドイツ軍の兵士達よりも優秀であると認めていました。

 もう一つには、イギリス軍が歴史的に、特定の任務のために「フォース」や「コラム」と呼ばれるアドホック(特定の目的のための、臨時の、暫定的)なグループを編成するという一般的な習慣を持っていたという背景がありました。しかもこれはイギリスの植民地であった、イギリス領インド陸軍で特に良く行われていたことであり、そしてオーキンレックやリッチーらはインド陸軍出身であったのです。『Fighting Rommel』は、「習慣というものは本当に恐ろしいものだ。」と書いています。ただし、先ほど挙げたトゥカーやメッサヴィーもインド陸軍で軍務に就いていた経歴を持っていました。

 『Fighting Rommel』には、学習プロセスというものに関して興味深いことが書かれています。

 効果的な学習プロセスでは、変化する現実に適応するために、新しいものを採用すると同時に、いくつかの古い手法を否定する必要がある。言い換えれば、学習プロセスには、以前はその価値が証明されていたが、状況が変わると役に立たなくなるいくつかのテクニックを放棄することも含まれるのだ。例えば、スリムの第14軍は、1944年後半にビルマ中央部の平原で機動戦を展開する際に(1943年にアラカンでのジャングル戦に有効であった)いくつかの技術を否定しなければならなかった。オーキンレックのチームは、グラツィアーニには有効だったが、戦争の形式を変えてしまったロンメルには役に立たない技術を否定することができなかったのだ。

 ただし、こうも釘を刺しています。

 イギリス軍が機甲部隊を誤って扱った責任をすべてジョック・コラムに求めるのは誤りである。例えば、バトルアクス作戦やクルセイダー作戦では、イギリスの将軍達は、機甲部隊を集中させる代わりに、歩兵師団を支援するために大量の戦車を使用していた。このようなコンセプトの失敗に対して、ジョック・コラムは悪役ではない。



 一方、「ジョック」キャンベルについてです。

 大胆不敵で冒険家肌、歴戦の勇士であった「ジョック」キャンベル将軍は、「ストレイファー」ゴット将軍と並んで兵士達に非常に好かれていました。彼らが抜擢され、昇進すると兵士達はみんな喜んだといいます。

 1941年9月にゴットが第7機甲師団長となると、キャンベルは准将代理として第7支援グループの指揮を引き継ぎました。

 1941年11月、クルセイダー作戦において、第7支援グループは第7機甲旅団と共にトブルクの南にあるシディ・レゼクの飛行場を占領しました。11月21日、彼らはドイツ・アフリカ軍団の2つの装甲師団から攻撃を受けますが、「ジョック」キャンベルはこのシディ・レゼクの戦いで伝説的な活躍をしたのです。

 従軍記者であったアラン・ムーアヘッドはその著『砂漠の戦争』の中でこのように描いています。



 東側ではドイツ軍が飛行場に反撃を加えており、ジョック・キャムベルはまさに獅子奮迅の活躍をしていた。装甲のないオープンの司令部用車に乗って戦車隊の先頭に立った、いかにもイギリス士官らしい、無骨ながらととのった顔立ちの巨漢は、風防ガラスをつかんで仁王立ちになり、部下を叱咤した。
「あそこにやってきたぞ。奴らをやっつけろ」
 そして、車が戦車よりおくれ始めると、傍らを追いこしていく戦車の脇にとび移り、そこから戦闘を指揮した。彼は敵の段幕をぬって麾下の25ポンド砲陣地に近づくと、もっとはやく砲弾をつめてもっとはやく発砲するように、兵士たちをうながした。そして、砲手に向って、「しっかりやっとるか?」とどなり、「最善をつくしております」という返事がかえってくると、ニンマリと笑ってどなりかえした。「まだたらんようだな」
 その日、彼はヴィクトリア勲章を半ダースはもらえるほどの活躍をした、といわれている。兵士たちはこの古武士の風格をもつ男を愛した。彼こそ海賊物語や大冒険物語の主人公の生れかわりであり、恐怖と勇気がはっきりあらわれる戦いの最中に、彼は勇気だけしか見せなかった。彼は笑いながら戦いにとびこんでいった。



 翌日も先頭に立って、敵の攻撃が続く中、兵士達を鼓舞しました。砲の射撃を自ら指揮し、負傷者の代わりに自ら銃を持つことも2度あったといいます。負傷していたにもかかわらず、ドイツ軍の最後の攻撃の際にも退避することを拒否しました。彼の指揮により兵士達の士気が維持され、敵に多くの死傷者を出したのでした。

 11月23日にも戦闘は続きましたが、第7機甲旅団が壊滅し、シディ・レゼクの南方で第5南アフリカ歩兵旅団も壊滅したため、キャンベルは第7支援グループの残存兵を南方へ撤退させました。キャンベルはこの戦いでの活躍により、ヴィクトリア十字章(イギリスおよび英連邦王国構成国の軍人に対し授与される最高の戦功章)を授与されたのです。

 後日キャンベルは、シディ・レゼクで戦った第21装甲師団長ヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン将軍(クルセイダー作戦中の11月28日に第2ニュージーランド歩兵師団の兵士によって指揮車両が待ち伏せされ捕虜となった)から、お祝いの手紙を受け取ったとも伝えられています。後に捕虜としてインタビューを受けたラーフェンシュタインはキャンベルの腕前に「最大の称賛」を惜しみなく述べたそうです。

 ただし後世の歴史家の中には、シディ・レゼクは「ずさんな戦い」であったと批判する人達もいます。

 クルセイダー作戦の結果、ロンメルは退却し、キレナイカが再び英連邦軍のものとなりました。この頃のこととして、アラン・ムーアヘッドはこう書いています。

 とくにゴットは愛されていた。ほんの何日か前に、私はベンガジで彼と会っていた。彼は破壊された通りをぬって病院へ向った。病院は破壊をまぬがれ、退却する敵に置き去りにされたイギリス軍の負傷兵でいっぱいだった。私が戸口に立っていると、悪臭のこもった不潔な病院から、ゴットが来るというささやきが起った。ゴットはジャック・キャムベルとともに現れた。ゴットとキャムベルがならんだところは、ちょっとした見ものだった。二人とも上背があり、がっしりとしている。二人とも、兵士たちと肩をならべて前線で戦ってきた古兵であり、二人とも、見たところ、傍らでどんな爆発が起ろうと平然としているような感じだった。負傷兵たちは片肘をついて体を起し、二人の指揮官がまわっていくと、ニンマリと微笑をうかべた。病院中を吹きぬけたこの感激の嵐……兵士たちは二人をりっぱな指揮官と考えており、もしできることなら、トリポリまででも進撃する気が充分にあったのである。


 1942年1月、再びロンメルが攻勢を開始します。2月にキャンベルは少将に昇進して第7機甲師団長となり、ゴットは第13軍団の司令官となりました。

 ところがキャンベルは昇進の3週間後の2月26日、乗っていたジープがハルファヤ峠の断崖で横転して投げ出され、即死しました。ジープを運転していたのはキャンベルの副官で、他の乗員と共に投げ出されて意識を失ったものの、無事でした。この副官は意識を取り戻して救援を待つ間、自殺を考えたことを後に認めているそうです。

 キャンベルはイギリス第8軍で最も優れた指揮官の一人とみなされており、イギリス国民が英雄を必要としていた戦争中の時期に、その条件を満たした人物でした。彼を失った衝撃は大きなものでした。

 ただし、キャンベルやゴットの戦い方は勇敢さだけに支えられた突撃戦術に過ぎず、兵科間や部隊間の連携のレベルが高かったドイツ軍にとってはいい鴨に過ぎなかったとする見方もあります。もしこの見方が合っているとすれば、キャンベルが、そして後にゴットも、大きな昇進をして戦いの指揮を執る前に不慮の事故死を遂げたことは、皮肉なことに大英帝国にとっても、そして彼ら自身にとっても、誠に幸運なことであったとも言えるのかもしれません。






OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」3回目をハウスルール付きで開始しました

 富山のKさんと二人でOCS『DAK-II』の「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」を始めてみており、これまで2回目のプレイをしていましたが、新たに3回目のプレイを始めてみました。

 というのは、プレイしていると英連邦軍が非常に強いと思われ、それはそれで枢軸軍のプレイがチャレンジングでいいのですが、英連邦軍の兵科間の連携の取れなさであるとか、ロンメルの第1次攻勢時の英連邦軍の前線の混乱状況であるとかに興味のある私としては、そこらへんの改造ハウスルール案を考えて試してみたいなという気持ちが湧いてきまして。

 とりあえず、以下のような改造ハウスルールでやってみました(プレイ中に色々変更したりもしましたし、今後も変更していくと思われますけども)。

・(セットアップを除き)英連邦軍は各フェイズ終了時に、兵科マークが歩兵、機甲の2種類の異なる兵科ユニットを一緒にスタックさせておくことはできない(ゆえに、一緒に防御することもできない)。
・歩兵と機甲は、同じ攻撃に参加できない。
・砲兵ユニットや航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対して、陸上ユニットは攻撃できない。
 ただし、独自の砲爆撃力を持つ支援グループ(歩兵)や旅団グループ(歩兵や機甲)等の、砲兵以外の砲爆撃によってDGになった敵ユニットに対しては、陸上ユニットは攻撃できる。
・これらのルールは、史実でモントゴメリーが就任したターンに廃止される。
【理由は北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか? (2021/05/05)の辺りから】

・ゴットとキャンベルの能力を3から4に変更にする(つまり1悪くする)。
【オコーナーは優秀な指揮官であると思われ、3のままでいいと思うのですが、ゴットとキャンベルは戦術的には優秀とは言えない単なる勇猛な指揮官に過ぎないと考えた方がいいと思うので】

・英連邦軍のセットアップのSPの量を半分にする(端数切り上げ)。
【元のままでは、SPが有り余って困るほどでした】

・シナリオ7.5のメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍の自由配置ユニットは、以下のように処理する。
1.塩沼には置けない。
2.移動モードでDGである。
【史実ではメルサ・ブレガ周辺の英連邦軍はシナリオが始まってすぐにダメージを負って撤退したのですが、シナリオの指定のままでは数ターンにわたってその周辺で粘れてしまいますし、枢軸軍はそこに手を出すことができません】

・イギリス第2機甲師団の訓練度は(「Training #2」ではなく)「Green」で7.5を開始する。つまり、第2ターン(4月1日ターン)には「Training #1」となる。
【どの本を見ても当時の第2機甲師団の訓練度はひどいものでしたが、ゲーム上では第2ターンには訓練が満了して強力な部隊になってしまいます】




 ↓セットアップ時。

unit9155.jpg

 英連邦軍の部隊は割と適当に置いてみました。慎重に探せば、もっといい配置があるかもしれません……。





 ↓第1ターン先攻枢軸軍終了時。

unit9154.jpg

 窪田さんはDGになっている英連邦軍部隊をほぼ放っておいて、できるだけ前進するという方法を選ばれました。ベンガジとムススが陥落しましたが、ベンガジは史実では4月4日(第2ターン)に陥落なので、やや早すぎるかもしれません。DGでセットアップした英連邦軍の部隊が移動モードなだけでDGでなければ、リスクを鑑みるとそこまではやらなかったかもしれず、DGはやりすぎだったかも……




 ↓第1ターン後攻連合軍移動フェイズ移動セグメント終了時。

unit9153.jpg

 DGでセットアップされた部隊をなるべく救出しようとしています。また、初期配置のSPを半分にしているので即反撃できるような状態ではなく、退却のためのSP程度しかなくてちょうど良い感じになっている気はします。

 前回のプレイで枢軸軍に取られてしまったデルナ港は取られないようにし、またメキリ周辺を強化しています。


 また今後プレイしていって、どんな感じか検証していきたいと思います。

OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」第3ターン終了

 富山のKさんとの、OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」の続きをオンライン対戦でき、第3ターン終了時までいきました。

 前回は↓こちら。

OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」2ターン先攻枢軸軍終了 (2021/10/13)




 第2ターン後攻連合軍プレイヤーターンに富山のKさんは、小規模な航空爆撃で「6、6、6」の目を出し、ドイツ軍第5軽師団の対戦車大隊が壊滅。さらに、小規模な対施設砲爆撃で6の目を出して、枢軸軍が獲得した貴重なレベル2航空基地のレベルを1に下げ(整備できる航空ユニットの数が減る)、ドイツ空軍の爆撃機が1ステップロスを食らいました……(T_T)




 ↓第3ターン先攻枢軸軍終了時。

unit9158.jpg

 ベンガジ周辺にいた部隊が長躯、連合軍部隊を迂回してデルナの港湾を確保。デルナは2T港湾なので、補給源にできます。

 内陸ではロンメルの指揮するアリエテ戦車師団のスタックが①、②と連続でイギリス軍の機甲ユニットにオーバーランをかけ、首尾よく両方を壊滅させました。拡張フェイズにロンメルはリアクティブロールに成功したので、矢印のようにしてメキリの南へ前進。これが失敗でした……。




 ↓第3ターン後攻連合軍プレイヤーターン、戦闘フェイズ途中。

unit9157.jpg

 画像のようにロンメルは連合軍部隊にボコ殴りにされ、結局2ステップを失い、しかも残った軽戦車大隊2ユニットは内部備蓄を使い果たしてExhaustになり、再備蓄のために2SPが必要という状態に……(ワニミさんならば、敵に突っ込ませて部隊ごと壊滅させるところでしょう(T_T))。


 真面目に反省すると、何よりもまずかったのはこの方面で使用できるSPがわずか1Tしか残っていない状況で、こんな不用意なことをしたことですね(T_T) 燃料用に4Tあれば逃げられた可能性は高かった(実際にはロンメルのリアクティブロールは失敗したのですが、失敗の確率は1/6しかありません)ですし、あるいは4Tあれば2回分の戦闘補給を払えました。

 しかも、ロンメルが最初考えていた位置から動いたばかりに、ベンガジ東方で半包囲を食らわせていた砲兵ユニットに燃料を入れられてしまい、逃げられてしまったという(>_<)

 今回、SPの運び方についてさらなる知見が得られたので、本来ならもうちょっとSP事情はましだったかもですが……(サマリーを鋭意作成中です。連合軍のサマリーも、富山のKさんに書いていただけるようお願いしました)。



 今回は、以前観戦しに来られていた方がまた来て下さいました。最初の戦線に比べて前線が非常に前進したことに驚いたと仰ってました(^^) どなたでも、観戦等歓迎ですのでお越し下さい~(挨拶は不要ですし、話しかけられるのが苦手という方もいらっしゃるでしょうから、こちらからは最低限の文字チャットしかしてないです。もちろん、色々聞きたい方はどんどんコミュニケーションしてきていただければ。観戦の仕方が分からないという方は、コメントいただければお伝えいたします。概略はこちら→VASSALについて)。



SCS『The Mighty Endeavor 2』、今回得られたプレイの指針

 下野守(しもつけのかみ)さんが来られて、SCS『The Mighty Endeavor 2』のシナリオ5.2を少しプレイしてみてました。

 両者ともルールを全く忘れていたので、ルールをチェックし、プレイの指針を探り探りで、時間もそれほどなかったので第1ターン終了時までしかいきませんでした。


unit9159.jpg




 忘れないうちに、今回獲得したプレイの指針を書いておこうと思います(ルールの認識間違いや、意見の相違などありましたら気軽にごコメント下さい!)。


1.第6ターンは両軍とも増援なし。補充はターントラック横に書かれているので、そのステップ分だけ、敵ZOCのものでも回復させられる。

2.ドラグーン作戦は史実通りビーチクラス3のヘクスにやるのが鉄板では。ステップロスしても惜しくない(おい)フランス軍歩兵ユニット×2で上陸作戦をやれば、最大でも2ステップロスなので必ず上陸に成功する。後続の4ユニットはその上陸ヘクスの隣に置かれたビーチポート上に置かれるので、スタック制限に違反しない。

3.航空優勢はノルマンディー地方では必ず。フランス南岸もありかも。

4.空挺降下をするなら、「敵ZOCに後退するとスタック毎に1ステップロス」&「敵を半包囲できる場所に降下して、敵移動フェイズ中に敵がZOC侵入の+2移動力を払わなければならなくなって最終的に逃げられなくなる」のを狙うべきか。

5.移動フェイズ開始時に敵ZOCにいたものはオーバーランの資格がない。また、オーバーランしたら必ず停止で、オーバーランは1回しかできないし、1つのヘクスは1回しかオーバーランされない(ここらへんはOCSとかなり異なる)。初期配置で移動フェイズ中にオーバーランでめざましいことをやるのは無理なので、突破能力を持つユニットを後方に下げて突破フェイズ中にオーバーランができるようにしつつ、前線には歩兵を入れて戦闘フェイズに殴るのが吉か。

6.突破フェイズにできるのは移動とオーバーランだけ(OCSと違って戦闘セグメントはない)。

7.自軍突破フェイズが終わった時点で、1ユニットだけで殴られやすい位置(突出してるとか、数珠つなぎの真ん中あたりとか)にいると、次のドイツ軍プレイヤーターンに殴られる可能性が高くなるので、そのような隙は見せない方が無難か。

8.ドイツ軍は、移動フェイズと戦闘フェイズに装甲師団で敵を殴って、その後(その敵を壊滅させるか後退させるかして)敵ZOCに入っていない状態になれば、続く突破フェイズにもう一度全力で移動できるので、恐らくそれを狙うべき。そしてその後戦線の一部となる(戦線の後ろにいるようにして機動予備となってみる、という方法は、前回の連続プレイではほぼまったくうまくいかなかった……)。

9.ドイツ軍は、とにかく北海沿岸の港湾を保持することが第一。その結果内陸をどれだけ進撃されようと構わない。連合軍が補給チェーンを伸ばすのにはかなり制約がある。




 あと今回、これまでVASSALに慣れてみると、大したことのない数のセットアップでも苦痛でしかたありませんでした(^_^;

 「下野守さんにノートパソコンを持ってきてもらって、こっちもノートパソコンで、対面でVASSALでプレイすれば良かった」と途中で思いましたが、よくよく考えてみると練習プレイなのだし、パソコン1台で2人で同じ画面を見ながら「あーでもないこーでもない」と検討しながらプレイすれば良かったのですね(^_^;(しかも、『The Mighty Endeavor 2』は一応戦場の霧ルールはあるものの、VASSALモジュールには(OCSのような)ユニットを隠す機能はない……?)


 ミドルアース大阪に行く場合でも、ノートパソコンを持参してVASSALでプレイするというのはありかも……(セットアップ作業はいらないし、セーブして続きをプレイできるし……)。

ドイツアフリカ軍団を本来指揮するはずだったフォン・フンク将軍について

 「ロンメル神話」関係で、3冊の洋書をDeepL翻訳で読んでいたわけですがその途中で、DAK(ドイツアフリカ軍団)を本来指揮するはずだった男爵ハンス・フォン・フンク将軍に興味を持ちました。


 フォン・フンク将軍の写真は、例えばこちら


 フォン・フンク将軍については、例えば山崎さんの本(P193)にも、大木さんの本(P155~7)にも、少し触れられています。




 当時、初代の第5軽師団(後の第21装甲師団)の師団長であったフォン・フンクは、リビアのイタリア軍救援作戦の事前視察に行き、ヒトラーに対して「第5軽師団だけでイタリア軍を救援するのは無理で、より大きな兵力が必要だが、それらを送ったとしても結局は間に合わないだろう」というような悲観的な報告をしたのでした。そして大木さんは、「フンクは、この悲観的な報告が災いして更迭され【……】ロンメルの後任として、第7装甲師団長に補せられ」た、と書かれています。


 一方、『Rommel: A Reappraisal』という本では(位置No.997)、




1.ハルダーが、リビア派遣軍の指揮官にフォン・フンク将軍を選んだ(selected)。
【注を辿っていったところ出典は究極的には恐らくHalder, Diaries, i. 769-70(1 Feb. 1941).】

2.ヒトラーはハルダーの反対を押し切って、ロンメルを代わりの指揮官に選んだ。他に経験豊富で優秀な将校が多数いる中で、ヒトラーの要請でロンメルが任命されたことは、ロンメルはヒトラーの庇護を受けてその地位を得ている「成り上がり」であるという多くの参謀本部将校達の偏見を強めることになった。

 と書いてありました。


 それで試しに英語版Wikipedia「Hans von Funck」を見てみたら、上記のような情報の他に、

3.1933年7月、フォン・フンクは参謀本部将校に任命されていた。

4.ヒトラーはフォン・フンクを嫌っていた。なぜなら彼は、ヒトラーに強硬に反対したフリッチュ陸軍総司令官が解任された時まで、フリッチュの第1副官だったからだ。

 とあって、フォン・フンクはほぼ完全に参謀本部人脈(派閥)の一人だと推測され、「ハルダー&陸軍上層部 vs. ヒトラー&ロンメル」という対立構図に、フォン・フンクも絡んでいた(絡まされていた)のではないか、と個人的に思いました

(その対立構図についての推測は→ロンメルはハルダーに「大馬鹿」と面と向かって言った? ハルダーは無能だったのか有能だったのか (2021/06/14))。



 ヒトラーがフォン・フンクを嫌っていたことについては、『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』の第7装甲師団の項には、「フォン・フンクが非常に優秀で経験豊富な装甲部隊指揮官であったという事実は、ヒトラーが貴族に偏見を持ち、フォン・フンクを個人的に嫌っていたという事実に勝るものではなかった。また、フォン・フンク男爵は1930年代初頭に離婚しており、ヒトラーはそのことを指摘していた。」ということも書いてありましたが、一方でこの本は、フォン・フンクがリビアに送られなかったのは、彼がその地位を望まず、またヒトラーにアフリカの状況を説明した際の印象が悪かったから、としています。また、フォン・フンクをその後第7装甲師団長に任命したのはOKH(つまりハルダー&陸軍上層部)であると明確に書いてあり、またその理由は「指揮する部隊を失っていたため、一種の慰めとして」としていました。






 男爵ハンス・フォン・フンク将軍は、「伝説的頭脳集団」であったドイツ参謀本部に入るくらいですから、学歴的な意味で(また血筋的な面でも)「超・優・秀・☆」だったと思われますが(そしてそれ故に、そこらへんにコンプレックスのあるヒトラーやロンメルには嫌われる素地があったわけだと思われますが)、第7装甲師団長になってからかなり長い間その地位にずっとあったようで、出世が早いというわけではなかったようです(尤も、同じくハルダー閥であったシュトライヒ将軍が2度にわたって解任されて出世の目が完全になくなってしまったのに比べれば、ずいぶんましです)。



 フォン・フンクは元々騎兵畑で、1939~40年初頭には第5装甲連隊長、1940~41年には第3装甲旅団長、1941年には第5軽師団長を務めました。

 前2者は第3装甲師団の一部であると思われ、第5軽師団は第3装甲師団の第5戦車連隊が抽出されて編成されたのでした。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第3装甲師団

unit9163.jpg

 この第5装甲連隊と第6装甲連隊を合わせたものが第3装甲旅団じゃないかと思われます。第3装甲師団はフランス戦ではベルギーの平野部で囮となり、アヌ-の戦車戦などでフランス軍を撃破しました。



 第7装甲師団はバルバロッサ作戦でホート将軍のもとで戦い、序盤のヴィリニュス戦での功績が認められてフォン・フンクは7月15日に騎士鉄十字章を受章。スモレンスク戦、タイフーン作戦、赤軍反攻に対する防衛戦を戦います。

 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第7装甲師団

unit9165.jpg


 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』、『Case Blue』の第7装甲師団

unit9164.jpg


 『Smolensk:Barbarossa Derailed』や『Guderian's Blitzkrieg II』をプレイしている時には、「おお~、ロンメルの第7装甲師団だ~。まあ師団長はもちろん違う人なわけだけど(誰かは知らんけど)」とかって思っていたのですが、このフォン・フンク将軍だったのですね……。


 『ドイツ装甲師団全史 I』の第7装甲師団の項にはこう書かれていました。



 10月にはモスクワ前面でティモシェンコの6個軍の包囲を第10装甲師団とともに最終的に完成させ、その南のブリヤンスク包囲と合わせて、66万人のソ連軍捕虜を得るという大会戦の勝利に大きく貢献した。
 【……】
 11月後半、師団はカリーニンとクリンの間の重要な道路を奪取し、「マントイフェル」戦闘団などを形成して戦闘を続けた。しかしモスクワの北約45キロの地点で前進は頓挫してしまう。その後師団残余はルジェフ戦などで「フォン・フンク」戦闘団として防戦に努め、1942年5月、再編のためフランスへと移動。
【マントイフェルは独ソ戦開始当時、第7装甲師団第7狙撃兵連隊第1大隊長で、その後第6狙撃兵連隊長、第7狙撃兵連隊長へと昇進したようです。】
 【……】
 1942年12月22日から43年1月5日にかけて、再びソ連へ移送され、スターリングラードの第6軍全滅後の混沌としたドンとドネツ戦域の熾烈な防衛戦に加入した。さらにその後、第40装甲軍団隷下でハリコフ東方での戦いに投入されるなど、南部戦区で苛烈な戦闘を続ける。
 同年夏のクルスク戦には、南翼のケンプフ軍支隊に配属され【……】
『ドイツ装甲師団全史 I』P175



 クルスク戦の後、1943年8月16日にフォン・フンクは負傷と疲労のために倒れたそうで、4日後にはマントイフェルが第7装甲師団長に就任します。

 フォン・フンクはその後1943年12月7日に第23軍団長に就任し、44年2月2日までその地位にありました。第23軍団が当時どこにいたのかを探してみたのですが、43年9月頃までスモレンスク戦に参加したらしいものの戦況図上には見つけられず。また、これもフォン・フンクがいなかった時期になりますが、44年春の時点ではミンスクの南にいたのを戦況図からは見つけました。

 さらにその後、1944年3月3日に第47装甲軍団長に就任します。第47装甲軍団はパリ北方に配置されていましたが、6月6日のノルマンディー上陸作戦に伴って西方に移動し、ノルマンディー戦中にはサン・ローとカーンの間の地区で戦います。

 途中、7月28日のVireでの反攻において、麾下の第116装甲師団長であった伯爵ゲルハルト・フォン・シュヴェリーン(この人は北アフリカ戦の初期に第5軽師団長シュトライヒの下で戦っており、シュトライヒと共にロンメルを批判していました)の消極性、臆病さ、無能さを非難したそうですが、実はこの頃フォン・フンクの方がそもそも完全に嫌われていたのだとか……?英語版Wikipedia「Hans von Funck」による)

 8月の反攻作戦(リュティヒ作戦)ではフォン・フンクの第47装甲軍団が主力となることになりましたが、作戦開始の4時間前にヒトラーから西方軍司令官クルーゲ元帥に対して、「この作戦の指揮からフォン・フンク将軍を外し、第5装甲軍司令官であるエーバーバッハが指揮をとるように」という命令が来て、クルーゲはOKWを説得して指揮官の委譲を延期させたそうです(注によるとアントニー・ビーヴァーの『第二次世界大戦』にその辺りのことが書いてあるらしいのですが、私は持ってないので事情が良く分かりません……。お持ちの方、教えて下さい!)。

 リュティヒ作戦はすぐに頓挫し、その後9月4日(戦線がフランスとベルギーの国境あたりの頃?)にフォン・フンクはヒトラーによって解任され、OKHの予備役に移されます。戦争末期に彼はソ連軍の捕虜となり、収容所で10年間を過ごします。亡くなったのは88歳の時でした。

OCS『DAK-II』「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」2ターン先攻枢軸軍終了

 OCS『DAK-II』の「ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーン」のオンライン対戦を、富山のKさんとプレイしました。

 富山のKさんが連合軍、私が枢軸軍です。

 また、同じシナリオを同じ陣営で第6ターン途中まではプレイしていたのですが、初めてで練習の面が強かったので、ツイッターだけで報告してましてブログでは書いていなかったのですが、2回目のプレイとなってある程度ましなプレイになってきたとも思われるので、今後ブログに書いていこうと思っています。



 ↓第1ターン先攻枢軸軍の移動フェイズ終了時。

unit9162.jpg

 枢軸軍の面前、アジェダビア南東にはイギリス第2機甲師団などがいるのですが、自由配置で塩沼等におり、非常にやっかいです。

 1回目のプレイでは私はそれらを完全に無視して3本の道路を抑えて補給切れにする方法をとりました(そしてベンガジ方向に向かったロンメルが殴られて2ユニットを失いました)が、その後の補給事情が大変厳しかったので、「初期配置でたくさん置かれている連合軍のSPを奪うべきなのではないか?」という話になり、今回はそれを狙ってみました。

 1つ目の矢印で進路を塞いでいた連合軍ユニットをどかすのに1ユニットを失ったものの、続けて2つ目の矢印でベダ・フォムにいた連合軍の捕獲イタリア軍戦車部隊を壊滅させ、捕獲チェックで最高の75%を出して5Tを獲得。



 ↓第1ターン後攻連合軍終了時。

unit9161.jpg

 1回目のプレイではそのまま一部が塩沼地帯に留まって枢軸軍の進撃の嫌がらせをしていたイギリス第2機甲師団(他)ですが、今回は赤い矢印のように退却してみました(以前の尼崎会では、「部隊が死んでも嫌がらせする方が良い」という考え方だったのですが、「嫌がらせするよりは、部隊を生き残らせる方が重要なのではないか」という方向に考え方がシフトしつつあります)。

 ベンガジにも1個旅団(2ステップ)が入り、それに対して枢軸軍側はリアクションフェイズにリアクティブロールに成功した2スタックがベンガジ方向に移動し、ベンガジを窺います。



 ↓第2ターン先攻枢軸軍終了時。

unit9160.jpg

 枢軸軍はベンガジの2ステップを壊滅させるために、完全包囲して南からオーバーランをかけるもAo1 DL1o1で損害を回避して退却。再度東方向からオーバーランを敢行し、なんとかベンガジを確保しました。これでベンガジを補給源として使用できるようになり、毎ターン2Tを上陸させられますし、ベンガジ東方のレベル2航空基地も使用できるようにしました。

 続けて拡張フェイズでは、3本の矢印のようにしてムススに戦力を集中させるも、どうしてもSPが入れられないので攻撃するなら内部備蓄でやらざるを得ず、戦闘結果表を見比べてみた感じリスクが高すぎると感じられたので、攻撃は見送ることにしました……。



 1回目のプレイよりはだいぶゲームになっている感じがします。

 このシナリオ(キャンペーン)をプレイする上での注意事項をまとめていきつつもあるので、適当なタイミングでまたブログに書こうと思います。

山崎雅弘さんと大木毅さんは、どちらが(個人的に)面白いのか?

 検索していて、たまたま↓のページを見つけて読みまして、興味深かったです。

パウル・カレルの著作について 附・大木毅と山崎雅弘の独ソ戦史読みくらべ


 前半の、「パウル・カレル本に代わる本」については、待っているだけでは全然ダメでしょうけども、少しでも良さげなミリタリー本は買ってこの業界を応援するとか、あるいは自分が発信できるものに関しては少しでもやっていくということじゃないかなぁ、と思ったりしてます。

 後半の「大木毅と山崎雅弘の独ソ戦史読みくらべ」が非常に興味深く、「へぇぇ~!」となりました。そういう見方もあるのか、と……。

 私は個人的には、山崎雅弘さんの記事や本は非常に面白みが少ないと感じてました。事実関係の羅列が多くて、抑制的で、面白いエピソードがほとんどない、と……。ただ、事実関係が時系列で割とバランス良くまとめられているので、そこらへんを確認するには大変助かります。

 一方で、大木毅さんの記事や本は、個人的に興味深くて面白いことが多いです。でも読んでいて「そうかなぁ……?」と思うようなことも少しあり、自分で細かい事実関係を調べてみると、大木さんが「こうだ(ろう)」と断定されていることの他にも色々な側面が見えてきたということもありました(尤も、あらゆる側面を織り込むのは限られた紙幅では無理であり、割と断定的に書くということはあると思います)。

 そこらへん比較すると、大木さんは興味深い話を出してきて断定的に「こうだ!」とやるので、惹きつけられるけど、バランスという視点からするとちょっと難がある場合もあるということかも……?


 大木毅さんに関する批評としては、↓のようなものを見つけてました。

琥珀色のノート  戦史・紛争史研究家 山崎雅弘の備忘録 2015年5月22日 [その他(戦史研究関係)]

テレサのだいあり~ 無責任な仮説 不必要な分析 お節介な提言 歴史群像2015年6月号におけるパウル・カレル批判への反論


 読んでいて、個人的に「ほほう……」と思うことは多かったです(すべてにおいて首肯するわけではないとしても)。



 一方、山崎雅弘さんに対する批評としては、右翼誌である『WiLL』の2016年9月号に掲載された記事がありました。



 しかし、まあこの記事は、偏向に対して偏向で返したようなものではあろうかとは思われます。


 ただ、この記事にも書かれているように、かつて山崎さんは大木さんに(擬似的に)師事するような関係であったものの、恐らく前掲の「琥珀色のノート」の書き込みにより、大木さんから絶縁され、大木さんの本で(実名は挙げずに)批判されるような状態に至っているのだと思われます。

 個人的には論争的なものが大好きなので、その後のお二方の間の「論争」に興味があるところなのですが、その後論争的なものがあるとは知らない状況です。


 ケンカとかは残念な気もするんですが、ドイツ軍や英米軍の将軍間の関係なんかもかなり軋轢ありまくりなんだなぁ、というのもあり、まあこれが普通なのかもです(^_^; (一方で、現役の英米の軍事史家の間でケンカがあるというのは私は現状知らないのですが、ないわけはない……? 少し前の軍事史家への批判本というのは少し知ってますけど)


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR