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戦場の霧ありのVASSAL(つまりOCS)で複数人vs.複数人プレイをする方法について

<2021/07/22追記>
 以下、OCSのVASSAL担当Jeff Coyle氏に詳しく教えてもらった知見を元に、色々書き換えています。
<追記ここまで>


 VASSALのOCS『Guderian's Blitzkrieg II』+『Case Blue』モジュールを4人でプレイしようとしたのですが、問題にぶち当たりました。

 というのは、陣営の選択において、「Axis」を選択できるのは1人のみ、「Allied」を選択できるのも1人のみだったからです。
(ついでに書きますと、「Solo」を選択できるのも1人のみで、「observer」には何人でもなれます)

【上記の件は、厳密には「パスワードが一人一人違うならば」という前提条件の時の話です】





 とは言っても、多くのVASSALウォーゲームでは「陣営の選択(Choose side)」の機能自体がないかもしれません。OCSのモジュールでも、陣営の如何に関わらず、「Solo」でも「observer」でも、どのユニットでもマーカーでも動かせます。陣営が重要なのは、Mask(隠匿)機能のためです。


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 画像は、ソ連軍陣営でプレイしているところです。ドイツ軍のスタックの下部のユニットにはドイツ軍のマークが付いていて、どんなユニットか分からないようになっています。ソ連軍のスタックも、分かりにくいですがマスクがかけられており、ユニットの左上がソ連のマークになっています。これらのユニットは、ソ連軍側には見えますが、ドイツ軍側からは内容がまったく分からないようになっているわけです。

 OCSには元々「戦場の霧」ルールがあって一番上のユニットしか見ることができないのでこうなるわけですが、このマスク機能は自動的にVASSALモジュール側で処理してくれるとかいうものではなく、持ち主側のプレイヤーがいちいちマスクをかけたり外したりしています(^_^;(ユニットを選択して右クリックして「Mask」を選ぶ。あるいは、ユニットを選択した状態でCtrl+M)

 ちなみに、Maskをかけてある状態では、「Solo」はすべてのマスクが外されて見え、「observer」はすべてのマスクがかかって見えます。


 一度VASSAL上でOCSをマスクなし(戦場の霧なし)でプレイしてみたのですが、普段との違和感がすごく、「これはマスク機能を使わないとダメだ」と思いました。ところが陣営を1人ずつしか選べないとなると、OCSで割と必須な、一陣営多人数プレイができないということになってしまうのです! また、松浦方式(片方の陣営を全員でプレイし、逆の陣営も全員でプレイする)でのプレイもできません。


 この件は我々にとって非常に重要であったので、OCSのVASSAL担当者であるJeff Coyle氏にメールで何度も問い合わせまして、ようやく解決法が分かりました(本当にありがとうございました!)。


 以下、同じことをしようとする方々のために、ある程度詳しく書いてみます。


■パスワードについて

 ここで言う「パスワード」とは、そのモジュールを最初に立ち上げた時に要求される「Real Name」(リアルとあるが、ハンドルネームでOK)と「Password」のそれです。User's Guideを見ていると、オンライン対戦の時の「Room」を「Rock」するとパスワードが設定でき、そのパスワードを入力しないとその「Room」に入れない……というような話があるのですが、そのパスワードではありません(私がやってみた範囲では、そのようなことはそもそもできなかったですが)。

 で、このパスワードはいつでも変更できます。「File」→「Preferences」→「Personal」タブすると、NameとPassword(「・」で表示でなく、ちゃんと見ながら打てるようにもできる)の設定画面があります。ここでパスワードを変更すると、そのモジュールに対してはその後ずっとそのパスワードということになります(モジュールの名前が一緒であれば、細かいバージョンが異なっているモジュール間でも、同じパスワードを持っていることになるようです)。





■陣営とパスワードの紐付けについて

 我々は最初、「パスワードを全員一緒にすれば、AxisもAlliedも選び放題なんだろう」と想像していたのですが、それは大間違いでした。パスワードは陣営と紐付けされるのです。

 全員同じパスワードにしていて、まず最初に入った人が「Axis」を選択したとします。すると、その後に入ってきた人は入ってきた時点で「Axis」になっています。その状態から、ある人が「Retire」ボタンを押して、新たに「Allied」を選択したら、全員一気に「Allied」に陣営が変更されるのです。


 しかし、Jeff Coyle氏に伺ったところ、複数人プレイでゲーム中(マップを広げている状態)に「Retire」ボタンを押して陣営を変更するのはやめておいた方が良さそうです(observerから別のものに変える時には構わないと思われますが、他のケースは絶対やめた方がいいでしょう)。

 以下、Jeff Coyle氏推奨の方法を書いていきます。

(前提として、プレイヤー間でどの陣営がどういうパスワードを使用するか、決めておいた方が良いと思われます。尼崎会では、枢軸軍は「ax」、ソ連軍は「so」、ソ連軍以外の連合軍は「al」、ソロは「solo」としています。observerも「ob」とします。すべて小文字です。)


 まず、とりあえず問題なくプレイできているとします(全員がパスワードを同じにして全員でソ連軍をプレイしている、など)。


1.陣営を変更しようとする人は、「File」→「Close Game」でゲームを閉じます。シンクロナイズしている状態でいきなりCloseして大丈夫です。disconnectする必要はありません。

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2.すると、マップのない、シナリオが選択されていない状態になります。

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3.この状態で「File」→「Preferences」→「Personal」でパスワードを(次に自分が選択したい陣営のものに)変更します。

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4.オンライン対戦中の他のプレイヤーの誰かとシンクロナイズします(シナリオを選択する必要はありません)。



5.この時に、自分のパスワードがいずれかの陣営に割り当てられていれば、自動的にその陣営になります。そうでなければ、陣営を選択することができます。

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 重要な話として、

・「Solo」も、パスワードと紐付けされます。「observer」は紐付けされません。

・紐付けのリセットはできないようですが、使用されているパスワードの種類が限られていて、上記の手順を遵守している限りにおいては、既知のパスワードのいずれかに各陣営が紐付けられるわけで、プレイ上はなんとかなります(その時たまたま紐付けられているパスワードを割り出し、それを上記の手順で選択すればよい)。

・逆に言えば、パスワードの種類がたくさんあったり、他人に教えてはまずいようなパスワードを使用している場合には、「紐付けられたパスワードが分からない」「紐付けられたパスワードは分かるが、教えるとセキュリティ上よくない」という理由によってゲーム続行が不可能になる可能性があります。

・ですから、そもそもOCSのモジュールを初めて立ち上げてパスワードを入力する時には、「ob」「ax」「al」「so」「solo」のうちのどれか(とりあえずobserverを選択するべきなので、「ob」推奨)しか入力しないべきです。普段自分が使っているパスワードを入れるのはもっての他ということになります(そもそも、VASSALのパスワードが破られても何も困らないと思われます)。




 以上のことから、プレイにおいて我々は↓のようにしておいた方が良さそうです。

・VASSALでソロプレイする時には、陣営はとりあえずobserverでプレイする(それで支障はない。)。

・オンライン対戦する時は、まずはobserverでゲームを起動し、シンクロナイズまでして良い。パスワードを(プレイヤー間で)確認し、陣営を選択する。

・「Retire」ボタンは、自分が今選択している陣営は何かを確認するためだけに使用し、対戦中はそれを使って陣営を変更することはしない。現在の陣営は真ん中に表示されているグレー地に書かれている文字ではなく、その上に「Your current side is ○○」という形で書かれているので注意。

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 その他にも、今回得られた知見を書いておきます。

■陣営内だけで話をする場合

 VASSAL上でオンライン対戦をしている時の「Room」に表示されている名前を右クリックすると「Private Msg」というのがあり、これでその相手とのみテキストチャットをすることができます。

 あるいは、Discord上でボイスチャットをしている部屋?の「+」というボタンを押すと、さらに部屋が作れるので、それで私は「連合軍」「枢軸軍」という部屋を作りました。ワンクリックでそれらの部屋に移れ、ボイスチャットできます。内緒の相談がある場合はそちらに移れば良いわけです。逆側の陣営は、テキストチャットで「こっちに戻ってきて下さい」とかメッセージを送ることができます。


■「Orphan Units」とは?

 今回、火星作戦シナリオ(7.8)のVASSALのセットアップボックスを見たら、「Orphan Units(みなしごユニット)」と指定されているユニット群がありました。リアルのセットアップ情報にはそのようなものはなく、「なんだこれは……?」と思っていたのですが、Facebook上の「Operational Combat Series」部屋で検索して、大体の事情が分かりました。

 OCSのVASSAL担当者の一人Herman Wu氏(メールのやりとりも時々させてもらって、お世話になっております<(_ _)>)は『Case Blue』等の第2作(『Case Blue II』?)の出版ができれば……と考え、そのために現状の『Case Blue』『Guderian's Blitzkrieg II』等の戦闘序列の整理をしておられるようです。その過程で、ある時点のセットアップやその後の増援登場表に出てくるのに、その後の時点でスタートするシナリオでセットアップにもデッドパイルにもないユニットを、「みなしごユニット」としてセットアップボックスに置いてある……ということのようです。

 これはまあ、事情を知らなければ「なんだこれは?」以外の何ものでもないのですが、この作業のおかげで『Case Blue II』が出版される可能性が高まるのであれば、ありがたいことでもあります(ただし、その出版はかなり難しいようです……(T_T))。


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SCS『The Mighty Endeavor 2』8月1日開始シナリオの第6~7ターンをプレイできました

 SCS『The Mighty Endeavor 2』8月1日開始シナリオの第6~7ターンをワニミさんとプレイできました。ワニミさんが連合軍、私がドイツ軍です。



 ↓第6ターン終了時。

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 ドイツ軍はオランダで防衛ラインの前に出る反撃を2つ行ってみました。より南の矢印のものは敵スタックを壊滅させることに成功したので突破フェイズ中に防衛ラインの内側に帰ることができたのですが、より北側のものはダイス目が悪くて壊滅させることができず、敵ZOCに入ったままになったので突破フェイズ中に移動できませんでした。

 結果として、連合軍に3ステップロスを与えたものの、次の第7ターンに攻撃を受けて4ステップロスしてしまったので、採算の合わないものとなりました……。ダイス目が良ければ防衛ラインの内側に帰れたのですが。

 ここまでのプレイでも、枢軸軍の装甲軍団スタックが相手側に踏み込んで殴って帰る、というプレイはどうもうまくいかない可能性が一定以上あると思われていたのですが、やはりそうである気がします。なので、「後方に予備の装甲軍団スタックを作っておく」よりも、戦線に装甲師団をバラして置いてしまった方がいいような……?

 戦線南方ではそのようにして、ジークフリートライン(オレンジ色の破線)沿いにユニットを並べてみました。






 ↓第7ターン終了時

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 連合軍は最も手薄であったアルデンヌの森の中に攻勢を行い、ジークフリートラインが2ヘクス取られてしまいました(T_T)

 ドイツ軍ターンになって、一つの選択肢として「アルデンヌの森の中にかたまった米軍機甲師団群の補給線を切ってしまえないか」と考えたのですが、連合軍側がEmergency Attack(緊急攻撃)を使用すれば問題なく補給線を回復できるであろうと思われました。

 そこで、連合軍が手薄となった南方で、ジークフリートラインより前に出て敵ユニットをできるだけ壊滅させる&連合軍の戦線後方で補給切れになってしまっていたユニットに(無限の)補給線を繋げるという作戦をとりました。結果、補給線を繋げることには一応成功したのですが、このターンに行った4~5回の攻撃のダイス目がことごとく悪く、自軍に大きな損害が出る結果にも……。



 ↓補給線を回復したドイツ軍ユニット。

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 ドイツ軍側は敵ZOCに邪魔されない無限の長さの補給線があればよく、2ターン連続で補給切れになるのでなければ壊滅(降伏)はしないので、1ターンの間補給切れであったものの補給を回復してまた完全に活動できる状態になりました。

 尤も、これらのユニットが将来的に戦線の内側に戻って来られるかというとそれは無理だと思うのですが、敵戦線後方で敵のユニットを1:1等で殴ってもほどほどのダイス目で敵ユニットを壊滅させることができるのです(実際私は今回、このやり方でかなりの数の米軍ユニットを壊滅させていました。主戦線の方では全然ダイス目が振るわないのに(^_^;)。



 まだ全然SCSや『The Mighty Endeavor 2』に慣れていなくてかなり手探りなのですが、とりあえず現状、この「戦線後方に取り残されたドイツ軍ユニットを連合軍側はどうすれば良いのか?」というのが一番の疑問になっています。シークエンス上、これらのドイツ軍ユニットは1ターンの間は完全な能力を持ったままで戦闘を行え、その扱いに連合軍は手を焼いている感じです。

 色々考えてみたのですが、とりあえず以下のような選択肢があり得るかな? と。

①連合軍側は、それらのユニットを軽く包囲したままにしておくのではなく(その場合、ドイツ軍側の攻撃によって包囲が破られてしまう可能性が高い)、かなり全力で殴るべきなのかもしれない。その際、Emergency Attackを活用しても良いのだろう。

②逆に、これらのユニットから絶対に殴られないような場所にしか自軍ユニットを置かないようにするという方法もある。特に相手が1ユニットだけである場合には、移動力を見て完全に対応できる。そしていったん補給切れになってしまえば、そのユニットは大したことはできない。

 また、ドラグーン作戦による南仏からの押し上げなども活用しつつ、主戦線の方での戦線構築に注意して、後方に補給が絶対に通らないようにしておく、というのも重要だろうと思われます。



 他にも、今回の経験からすると多分こうではないか? と思われることを書いておきます。

・戦線は「2ユニットスタック-空ヘクス-2ユニットスタック」というような組み方が良いのかもしれない。

・ドイツ軍は2:1程度の戦力比の攻撃を回数多く実行することを狙うのが良いのかもしれない。というのは、戦闘結果表で攻撃側ステップロスの結果を半分以上?の確率で無視できるので。それで敵ユニットを減らすというのが有効なのかも。

・港に関して、ル・アーブルを取られるのを遅らせるのはかなり重要だと思われる。ブーローニュ、ダンケルクを取られるのを阻止する(遅らせる)のもある程度重要で、それらを取られると連合軍のトラックのチェーンが短くなってしまう。ただ、アントワープとなると、それほどまでに重要でないかも?



 今回の『The Mighty Endeavor 2』のプレイはとりあえずここまでにしておいて、いったんこれらの「プレイの指針」をVASSALでのソロプレイなどで検証してみようということになりました。


 次回以降の対面尼崎会は、OCS『Hungarian Rhapsody』のデブレツェンシナリオをやってみようということになりました。置きっぱなしでこのシナリオをできるのは初めてですし、こちらも楽しみです(^^)



オーストラリア軍のラヴァラック将軍とブレーミー将軍について(付:OCS『Reluctant Enemies』、『DAK-II』)

 北アフリカ戦線のオーストラリア軍関係について調べていて、ラヴァラック将軍とブレーミー将軍というのが出てきて、ちょっとそこらへん簡単に自分の中で押さえておかなければいけないようだったので、Wikipediaからまとめてみました。


Sir John LavarackGeneral Sir Thomas Blamey

 ↑ラヴァラック将軍とブレーミー将軍(Wikipediaから)




 より興味があるのはラヴァラック将軍の方で、『Reluctant Enemies』では司令部ユニットに名前が書かれています(『Reluctant Enemies』は司令部ユニットに必ず将軍の名前が書かれているのです)。


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 組織名的には第1オーストラリア軍団です。


 ↓OCS『DAK-II』の第1オーストラリア軍団司令部ユニット。

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 『DAK-II』の時期の第1オーストラリア軍団の司令官は最初ブレーミーで、後にラヴァラックが就任しました。



 ブレーミー将軍の方が基本的に上役であり、ブレーミーは第二次世界大戦におけるオーストラリア軍の最高司令官と言って良いようです。

 二人は第1次世界大戦の時、西部戦線で戦ったオーストラリア第1師団の司令部で一緒になり、この時からずっと続く相互反目が生じたのだとか。

 第二次世界大戦前、ラヴァラックはオーストラリア軍の参謀総長(軍のトップ)を務めていましたが、政府が英国海軍に過度に依存し、オーストラリア軍を軽視しているとして大きな摩擦を引き起こしていました。そのためもあって、戦争が起こった際の最高司令官としてはブレーミーが選ばれます(ブレーミーには人格的な懸念も持たれていたものの)。

 対独戦に参戦が決まって新たに編成されることになった第二次オーストラリア帝国軍の最初の師団である第6歩兵師団の師団長にブレーミーが就任します(麾下の旅団長には後に第9オーストラリア歩兵師団長としてなどで活躍するモースヘッドなどをブレーミーが選任)。

 1940年2月には2つ目の師団である第7歩兵師団が編成され、第6と第7を第1オーストラリア軍団の麾下に入れることとなりました。そして第1オーストラリア軍団の司令官としてブレーミーが就任し、第6師団長にはラヴァラックが検討されたのですが、ブレーミーが「性格の欠陥」を理由に任命を拒否。代わりにラヴァラックは新編の第7師団長になりましたが、ブレーミーが言い出したに違いない少将への降格も受け入れます(なぜ第6を拒否して第7へは認めるかというと、第6の方が装備や訓練がより充実していたからということなんでしょうね)。



 ↓OCS『DAK-II』のオーストラリア軍部隊。

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 規定では、オーストラリア軍全体をまとまった部隊として維持すること、オーストラリア政府の事前の同意なしにオーストラリア軍を展開、交戦させないことになっていました。しかしブレーミーは融通の利かない人物ではなく、真に軍事的必要性がある場合にはオーストラリア軍の部隊を切り離すことも認めていました。中東戦域の情勢は次々に移り変わっていずれも危機的であったため、オーストラリア軍の部隊は大きく散らばることになってしまいます。しかし、危機が去った後には、ブレーミーは部隊を元の編成に戻すことを望みました。

 1940年8月に中東戦域軍司令官ウェーヴェルとチャーチルが第16オーストラリア歩兵旅団をエジプトに移動させるように命じたのがその最初のケースで、ブレーミーは旅団がまだ完全に装備されていないことを理由に拒否しましたが、最終的に妥協し、すぐに第6オーストラリア歩兵師団の残りの部分と合流することを条件として派遣に応じました。

 この後、第6オーストラリア歩兵師団は対イタリア軍の戦闘で活躍し、第7オーストラリア歩兵師団もエジプトに到着し始めます。

 第1オーストラリア軍団は1941年2月15日にキレナイカ地域の責任を負うことになりましたが、数日後にブレーミーは自分の部隊がギリシア遠征に派遣されることを知らされました。この時、彼は第7オーストラリア歩兵師団ではなく、ベテランの第6オーストラリア歩兵師団を最初に派遣することを主張し、その結果ウェーヴェルと激しい口論となりましたが、ブレーミーが勝利します。ブレーミーはギリシア遠征の成功の確率について幻想を抱いておらず、すぐに避難計画を準備しました。

 ブレーミーはギリシア遠征で先見性と決断力によって多くの兵士の命を救ったものの、自分をギリシアから脱出させる飛行機の残り1席に息子を選んだことで信用を失ったとか。この作戦では、リビアの対イタリア戦では気付かなかった、オーストラリア軍の訓練、リーダーシップ、スタッフワークの欠陥が露呈しました。ブレーミーの指揮振りに関して、それを非常に批判する意見もありましたが、その意見は広くは受け入れられておらず、ウェーヴェルは「ブレーミーはこれらの作戦で立派な戦闘指揮官であることを示し、高位の指揮官として相応しい」と報告しました。

 一方、ラヴァラックはエジプトに残っており、(Wikipedia上にはタイミングについて詳しく書かれていませんが、恐らく)ロンメルの第1次攻勢によりキレナイカ地域守備軍司令官ニームや、かつて西方砂漠部隊の司令官であったオコーナーが捕虜になってしまった後、ウェーヴェルからトブルクへ向かうように命じられます。ラヴァラックはトブルクを保持できると判断し、第9オーストラリア歩兵師団長モースヘッドに対してトブルクの防衛を命じてその維持に成功します。

 ウェーヴェルはラヴァラックに西方砂漠部隊(後のイギリス第8軍に繋がる組織)の指揮を依頼しましたが、ブレーミーに「ラヴァラックは高位の指揮官には不向きである」と言われ、また困惑することになりました。しかし、シリア・レバノンでのエクスポーター作戦(OCS『Reluctant Enemies』で扱われる作戦)で第1オーストラリア軍団を指揮して活躍します。

 1941年4月にブレーミーは、中東戦域軍の副司令官に任命されました。しかし、司令官のウェーヴェルに何かあった場合にブレーミーに指揮権が移らないように、イギリス政府は6月にウィルソン将軍を昇格させました。直後、ウェーヴェルは解任され、オーキンレックが中東戦域軍司令官に就任します。

 ブレーミーがギリシアにいた間にオーストラリア軍部隊はキプロス島に展開したり、トブルクで包囲されたりと、広く散らばってしまっていました。しかもトブルクで頑張っていた第9オーストラリア歩兵師団は疲労が甚だしく、トブルク救援や部隊の交代に関してブレーミーはオーキンレックと衝突します。結局オーキンレックとチャーチルは譲歩を余儀なくされ、その結果、トブルクにいたオーストラリア軍部隊の代わりに、イギリス軍の第70歩兵師団がトブルクに入ることになりました(枢軸軍側に知られないように、秘密裏にトブルク港を使って交代したのでした)。


 日本の参戦に伴ってオーストラリア軍の大部分は太平洋地域に移されることになり(最終的には完全に移送)、ラヴァラックもブレーミーもそちらで戦います。特にブレーミーはオーストラリア軍の最高指揮官としてマッカーサーと共に戦い、日本が降伏した時にはオーストラリア全権として出席しました。

 戦後、ラヴァラックはブレーミーに邪魔されて積極的に指揮を執ることができなかったことへの不満から早々に軍を退役します。ブレーミーの方はオーストラリア軍史上唯一の元帥にまで昇進しました。




 Wikipediaでの書きぶりからすると、個人的には明らかにラヴァラックの方が有能で、人格的にも良いように思われますが、どうなんでしょうね?



<2023/01/13追記>

 『憎悪の世紀(下)』を読み返していたら、ブレーミー将軍による日本軍(兵士)に関する発言について書かれていたのを認識したので、追記してみます。

 ドイツ人はロシア人を「人間以下(ウンターメンシェン)」とみなしがちだったが、連合国も日本兵を同じようにみなすことが多かった。ニューギニアでオーストラリア軍を指揮したサー・トマス・ブレイミー将軍(1884~1951)は兵士に、こうさとしていた。相手は「人間とサルの雑種」、「害虫」、「原始的な生物」なのだから、「文明社会」を守るために「抹殺」しなければならない。
『憎悪の世紀(下)』P326


 尤も、この『憎悪の世紀』というのは、20世紀(の少なくとも前半)は世界中で人種差別が行われていたのだ……という本で、日本軍による人種差別も、連合軍による人種差別も、同じくらいの分量で記述されている本です。日本人も当時、「鬼畜米英」と言っていたわけですし。




<追記ここまで>




OCS『Guderian's Blitzkrieg II』火星作戦シナリオのルールサマリー

 今後、VASSALオンライン対戦でOCS『Guderian's Blitzkrieg II』の火星作戦シナリオ(キャンペーン)をやることになったので、それ向けのサマリーを作っておこうと思います(追加、修正などあるかもしれません。適宜)。



 ↓VASSALでの火星作戦シナリオの初期配置。

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 2007年発売の『Case Blue』、2011年発売の『Guderian's Blitzkrieg II』リプリントバージョンですが、両方のルールが統合されて2015年の『Case Blue』v2.04ルールとなっており、両ゲームを連結する時のみならず、単独でプレイする場合にもこのルールを使用すべきということになっています。このルールはOCS Depotでダウンロードできます。





・『Guderian's Blitzkrieg II』のマップ全域を使用。1942年11月19日ターンから開始で、最終ターンは43年3月22日、ゲームの長さは37ターン(まあ、最後までやらないですが……)。

・枢軸軍の第1プレイヤーターンはすでに終了しており、ソ連軍の第2プレイヤーターンから始まる。ソ連軍の「本格攻勢(3.1)」が宣言されており、飛行条件はソ連軍プレイヤーが決めてよく、この第2プレイヤーターンの枢軸軍のリアクションフェイズは存在せず、第2ターンのイニシアティブはソ連軍が自動的に獲得する。

・42年11月19日のドイツ軍の増援(20-4-3 Inf Div (337))はすでに到着済みで、セットアップはマップ南端からドイツ軍ゲージで繋がっており、一般補給が引ける任意の降車可能ヘクスに行う。

・ソ連軍の予備マーカーは12、残りの本格攻勢は2、樹皮スープは7。

・枢軸軍の予備マーカーは24、樹皮スープは3、ソーセージは10。それぞれの専用トラックが満載かどうかはセットアップ表に記載されている。緊急増援あり。

・7.8の勝利条件は、Rzhev(A38.05)、Vyazma(B34.25)、Velikiye Luki(A4.11)のすべてを保持している側の勝利。どちらの側もこの3つを保持できていないならば引き分け。6.8の勝利条件である、マップ上の[2]などの印刷されている勝利得点を数えてドイツ軍が28点以上持っていればドイツ軍の勝ち、というを採用する手もある。

・両軍とも「重点(1.5a)」はEatGマップセットにあり、GBIIマップセット上での特典はなし。

・ソ連軍の補給源は、マップセットの北、南、東端の鉄道線と道路、小道。

・枢軸軍の補給源は、マップセットの西端の鉄道線が繋がっているヘクス。

・増援とSPが登場可能な都市は、VASSAL上では水色に塗られている(ただし、それぞれに鉄道線が敵ZOCに邪魔されることなく繋がっていなくてはならないなどの条件あり)。枢軸軍側は、スモレンスク、コノトプ、クルスク、ヴェルキエ・ルーキ。ソ連軍側はモスクワ、ヴォロネジ(ただしシナリオ開始時は枢軸軍に占領されているので使用不可で、ソ連軍が占領した場合でもそのヘクスへ鉄道輸送が可能な状態でなければならない)。


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・「樹皮スープ(1.10)」。敵ユニットによって包囲されて一般補給が引けなくなった時にのみ使用可(進撃によって一般補給が引けない時には使用できない)。樹皮スープマーカーを置いたヘクスから5ヘクス以内にいる、移動モードでの移動タイプが徒歩であるユニットをすべて一般補給下とできる(ただし戦略移動モードには不可で、経路に敵ZOCを含むことができない。敵ZOCは打ち消せない)。樹皮スープマーカーは敵戦闘ユニットのいない、あるいは隣接していない森(Heavy Woods)ヘクスにのみ置ける。使用したら相手にマーカーを渡す。


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・「ソーセージ(1.11)」。枢軸軍プレイヤーは自軍の補給フェイズ開始時に、大都市か小都市にのみソーセージカウンターを置ける(進撃によって一般補給が引けない時には使用できない)。ソーセージから、あるいはソーセージから受給した司令部が支給して、いくらでもユニットに一般補給を与えられる。ソーセージマーカーから徒歩移動タイプで5移動力+1ヘクス範囲内で2Tを消費できるなら、1D6して1~3ならソーセージマーカーは除去される。4~6ならソーセージマーカーはプールに戻る。


・鉄道輸送力は、枢軸軍は5、ソ連軍は10(鉄道輸送力表による)。


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・列車砲は移動フェイズ中にのみ移動可能。自軍が使用可能な鉄道ヘクスを通ってのみ、無制限の距離を移動でき、鉄道輸送力を使用しない。移動したら裏返して移動力がrrの面にする。クリーンアップフェイズに表返す。

・補充は、両軍とも補充表で2D6し、得られたポイント毎に1D6して1-2の目で獲得できる(Booklet,Revisedでは1-3だが、エラッタで1-2に変更されている)。ドイツ軍のトラック損耗の結果は適用する。航空ユニットはEqで補充できない。

・補給は、ソ連軍のサプライステータスは4(基本値5から、スターリングラード輸送の-1を適用?)。枢軸軍のサプライステータスは5(こちらは43年1月からは4)。

・ドイツ空軍の航空ユニットだけがヒップシュートできる。

・枢軸軍プレイヤーは、補給切れになったユニットの近くにある大都市/小都市に対して要塞化を宣言できる(2.4)。範囲はそのヘクスから10ヘクス以内。補給線が再び設定されたら効果はなくなる。効果は、再備蓄不要、内部備蓄で砲爆撃可、航空基地毎に1個の戦闘機を整備可、防御時の戦闘補給不要。

・ハンガリー軍司令部はハンガリー軍ユニットとドイツ軍ユニットに補給を与えられる。ドイツ軍司令部はハンガリー軍ユニットに補給を与えられない。


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・警戒大隊(2.6e)。ソ連軍が本格攻勢を宣言した後の最初の2ターンの間中の増援フェイズに、枢軸軍プレイヤーは2D6してその数まで(ただし7以下)の警戒大隊ユニットを生成する。警戒ユニットのダイス振りはこれ以外のタイミングでは行えない。警戒大隊ユニットはドイツ軍司令部、枢軸軍航空基地、ドイツ軍が占領している村/都市ヘクスか、その3ヘクス以内に配置する。上記の場所毎に1個のみ(例えば、司令部と都市の両方が存在するヘクスでは最大2個)。ある地点から散開して置く場合、その経路は敵のいるヘクスや通行禁止地形を通過不可。また、本格攻勢が宣言された最初のターンに、枢軸軍は「警戒大隊司令部」を1つ受け取り、新しく配置された警戒大隊のあるヘクスに追加される。

・ソ連軍の航空ユニットはヒップシュートできず、リアクションフェイズには活動できず、制空戦闘、砲爆撃、航空阻止任務はその航空基地から20ヘクス以内でしか実行できない。空挺降下(空中投下)任務は、補給下のソ連軍司令部のいるヘクスから10ヘクス以内の範囲にしか行えない(判定は計画時点と実行時点)。

・「Abn」という部隊名であっても兵科マークに空挺の印がないものは空挺降下できない(ということだと思われる)。

・親衛航空ユニットへ転換は、空戦力の括弧のありなしが同じという条件のみで、差し替える(減少戦力面のものでもよく、親衛航空ユニットは完全戦力面で到着する)。転換された親衛航空ユニットは常に非活動状態で置く。

・親衛ユニットへの転換は、同じユニットタイプでかつARの差が2以内で行う。元のユニットのステップロス、内部備蓄、補給切れ、DGはそのまま引き継ぐ(ユニットのステップ数が変わったとしても)。元のユニットはデッドパイルへ送られ、後に再建もできる。

・親衛騎兵軍団、親衛戦車軍団、親衛機械化軍団ユニットへの転換は、除去されるユニットが指定されている。元のユニットのステップロス、内部備蓄、補給切れ、DGはそのまま引き継ぐ。


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・モスクワ軍管区空軍(白い×印の航空ユニット)は、モスクワの大都市ヘクスから5ヘクス以内の航空基地にしかおれず、モスクワの大都市ヘクスから5ヘクス以内でしか航空任務を行えない(警戒空域と迎撃を含め)。モスクワ軍管区空軍のユニットがステップロスした場合、最優先で補充しなければならない。

・モスクワ軍管区空軍でない航空ユニットをモスクワの大都市ヘクスから5ヘクス以内の航空基地に置いている場合、モスクワ軍管区空軍の制限が適用される。この制限はモスクワ軍管区から離れるまで適用され、離れた航空ユニットは基地移動した先の航空基地で非活動状態となる。

・ソ連軍の戦車軍団は、その所属ユニットすべてとスタックあるいは隣接していなければならず、これが守られていない移動フェイズ終了時にその軍団のすべてのユニットはDGとなる(たまたまスタックしていたユニットも含め)。このDGはソ連軍の移動フェイズの終了時に制限が守られるようになるまで回復しない。

・同一目標を砲爆撃するソ連軍の砲兵は、すべて一緒にスタックしていなければならない。


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・NKVD国境守備連隊(のみ。「Bdr」と書かれていないNKVDは含まない)は、防御時にそのARをスタックに適用しなければならない(攻撃ARには影響なし)。ただし、すべての防御オプションはステップロスに適用しなければならない(攻撃側が退却したなどの理由で通常は受けなくてよいものも含む)。また、そのNKVDユニットはそのヘクスでの最後のステップロスでなければならない。さらに、そのNKVDユニットが1つのヘクスに単独で存在している場合には、ARを0にして防御する。そのNKVDユニットが損耗チェックの時にARを提供するユニットとして選択された場合、ARは0とみなす。

・パルチザンは月初めに増援登場表で得られる。


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・スターリンユニットは、建設や再建のために司令部のように使える(架橋できるかどうかは良く分からない)。スターリンユニットを踏んだら、ドイツ軍プレイヤーは自慢できる(おい)。


・尼崎会で今回使用するオプションルール、ハウスルールは、21.2「ステップに比例した戦闘力」、21.8「空ヘクスへの攻撃」、21.10「補給キャッシュマーカー」、HR-10「最低限の燃料」。補給キャッシュマーカーは、セットアップ時点で両陣営とも3個ずつで、両陣営とも増援フェイズに1D6して3以下の目で追加のマーカーを得られる。

VASSALオンライン対戦でOCS『Case Blue』「世界の果て」シナリオ第4~6ターンをプレイできました

 VASSALオンライン対戦でOCS『Case Blue』「世界の果て」シナリオ第4~6ターンをプレイできました。






 前回のエントリは↓こちら。

VASSALオンライン対戦でOCS『Case Blue』「世界の果て」シナリオを開始しました (2021/05/03)




 ↓第4ターン終了時。

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 包囲下にあるソ連軍支配の村(モズドク)には、毎ターン輸送機で2Tを空中投下しています。

 その南でソ連軍は突出活動を繰り返していまして、脅威を与えていたつもりだったのですが、頭でっかちになっていて(攻勢軸の先端が強く、真ん中が非常に弱い)、真ん中を切られることへの警戒感が弱すぎましたね……(T_T)




 ↓第5ターン終了時。

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 黒い矢印のようにしてドイツ軍から攻撃を受けて、先端が包囲を食らってしまいました。そのため、モズドクへの空中投下分をそちらへ回し、脱出攻撃を敢行してそれには成功します。





 ↓第6ターン終了時。

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 実は第6ターンの開始時にソ連軍がイニシアティブを獲得したため、ダブルターンを選択すれば脱出を完全に成功させられる望みがありました。しかし私は考えた挙げ句、長期的に攻勢側であるドイツ軍にダブルターンの可能性を与えるようなことはすべきではないと判断して、後攻を選択。でもこのターンが終わってみれば、「ダブルターンを選択しておけば良かった……(>_<)」という感じでしたね。

 ドイツ軍に「×」印のところで包囲を食らい、そこはもう見殺しにせざるを得ませんでした(空中投下できる輸送機が1ユニットしかなく、1箇所にしかできないため)。モズドク周辺でドイツ軍が砲兵でカーペットを敷いていたため、1:1±0でオーバーランを敢行しましたがAo1 Do1でこちらが壊滅。

 また、黒い矢印のようにしてコサック騎兵に突入されてしまい、今後が不安な状況です。

 南西では44戦力を動員してオープン11:1+1という攻撃を敢行しましたが、ダイス目が悪く自軍は退却……(ただしドイツ軍の20-4-3歩兵師団の基幹ユニットを壊滅させました)。



 ワニミさん曰く、「ドイツ軍はソ連軍と戦っているのではない。貧弱なSP事情と戦っているのだ」ということで、途中ワニミさんが攻勢準備のために投下した1Tをソ連軍側が拡張(突破)フェイズに踏んだり、その後もワニミさんの準備砲撃が失敗したりと、ドイツ軍側は割とSPを無駄にしている感もあるのですが、しかしソ連軍側も何しろARが貧弱で、あと司令部が1個しかないとか、地形が守りにくいとかがしんどいです。まあ、お互いにしんどいわけですが……(OCSあるある)。




 今回は富山のKさんとタエさん(とタエさんのお友達)が観戦されてまして、もうお二人もVASSALは操作できるということで、3人以上集まるようなら複数人でプレイできるシナリオをオンラインでやろうということになりました(もし2人なら「世界の果て」)。

 で、とりあえずOCS『Guderian's Blitzkrieg II』の火星作戦シナリオをやってみようと。ただ、本来ならば全員でソ連軍をやって、次に全員でドイツ軍をやって……とやりたいところではあるのですが、VASSAL上では陣営に分かれて敵に見えないはずのでカウンターにマスクをかける作業があり、そこらへん考えるとソ連軍がワニミさん+その他の参加者全員、ドイツ軍が私+その他の参加者全員、という形でやるのかなぁと思います。ただ、このシナリオをやるのは我々初めてですし、全員で検討、アドバイス、チェックしながらのプレイになるのではないかと思います。


 今後の予定としてはこんな感じです。参加、見学歓迎です(コロナ対策しつつ)。

5/28(金) 対面尼崎会(SCS『The Mighty Endeavor 2』)
5/30(日) オンライン尼崎会(OCS『Guderian's Blitzkrieg II』火星作戦シナリオ)……ワニミさん、タエさんと
(この間もあり)
6/12(土) オンライン尼崎会(OCS『DAK-II』「コンパス作戦-練習シナリオ#1」)……富山のKさんと


VASSALオンライン対戦でOCS『Burma II』の練習シナリオ「黒猫vs.白虎」をプレイできました

VASSALオンライン対戦でOCS『Burma II』の練習シナリオ「黒猫vs.白虎」をプレイできました。

 富山のKさんが日本軍(第33師団=白虎)、私が英連邦軍(第17インド歩兵師団=黒猫)です。インパール作戦の初頭の南方戦線だけを描く易しめのシナリオです。


 全5ターンで、英連邦軍が3ユニットより多くを壊滅させられてしまったら、日本軍の勝利です(補給切れも壊滅扱いです)。


 ↓セットアップ時

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 英連邦軍が街道上で半包囲を食らっています。ここから左上の方向に脱出していかなければなりません。





 ↓今回のその後の展開。

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 英連邦軍がダブルターンを取れたこともあり包囲からは抜け出したのですが、日本軍が補給線を切り、補給源ヘクスにも隣接します。

 補給線を切られた私(英連邦軍)は、それまでに前線の補給を無駄遣いしていたことを悔やんだのですが、Kさんから「ハンプディバージョンができますよ」と指摘され「ああ、なるほど!」と。シナリオ中1回だけ、ハンプディバージョンを宣言すると、1D6分のSPを空中投下できるのです。

 出た目は3で、3SP(12T)を空中投下して結局1SP(4T)だけを投下成功し、SPからの一般補給にギリギリ足りました。もしハンプディバージョンのダイス目が1だったら、この時点で負けが確定していたことでしょう(^_^;

 その後はなんとか補給源周辺のヘクスへと退却に成功し、失ったユニット数は1個のみで英連邦軍が勝利しました。


 このシナリオを複数回ソロプレイされたKさんとタエさんによると、英連邦軍の方が勝率が高いとのことです(史実通りですね……)。

 小さいシナリオなので天候(飛行機が飛べるかどうか)やイニシアティブのダイス目の比重が大きいですけども、今回私がプレイした英連邦軍は勝率は日本軍よりも高いかもしれませんが、常に「あちらが立てばこちらが立たず」のギリギリの薄氷を踏む決断を迫られ続ける、タフなシナリオという印象でした(OCSはまあ、常にそうですが)。


 Kさんと私との対戦は早めに終わったので、その後、観戦されていたタエさんとKさんが同じシナリオを対戦されてました。



 Kさんとは次回、6月12日(土)に、OCS『DAK-II』の「コンパス作戦-練習シナリオ#1」をプレイ予定です(Kさんが英連邦軍、私が枢軸軍)。


SCS『The Mighty Endeavor 2』8月1日開始シナリオの第4~5ターンをプレイできました

 尼崎会で、ワニミさんとSCS『The Mighty Endeavor 2』8月1日開始シナリオの第4~5ターンをプレイできました。

 今回もいくらかルールに関する知見が得られたので、↓に追記しています(05/22のもの)。

SCS『The Mighty Endeavor 2』のエラッタや、和訳の改善点等 (2021/05/09)





 ↓第4ターン終了時。

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 先攻連合軍終了時の写真は撮り忘れました(^_^;

 ドイツ軍は続けて撤退していってますが、パリ周辺と、画像左下あたりのロワール川周辺で半包囲をくらったため、そのあたりにいたユニットが下がりきれずに突出してしまっています。





 ↓第5ターン先攻連合軍終了時。

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 連合軍が前進し、パリの東に残ってしまっていたドイツ軍部隊を包囲してしまいました。また、海岸線ではブーローニュも包囲されています(港があるのでなるべく占領されるのを遅らせる様に、守備隊を置いています)。

 ブーローニュの東では、ドイツ軍が放棄したダンケルク(ビーチクラス2)に対して連合軍が上陸作戦を行い、上陸戦闘部隊2個+後続部隊3個を陸揚げしました(赤い□の場所)。これで戦線のごく近くに一気に5ユニットを上陸させられたわけで、そうでなければノルマンディー海岸やシェルブールに陸揚げして、そこから移動させねばならないのでした。……ということは、ドイツ軍側はできるだけダンケルクも保持しておかねばならないですねぇ……(史実ではダンケルクにドイツ軍守備隊が立てこもり、ドイツ自体が降伏した1945年5月まで持ちこたえていたのです)。




 ↓第5ターン後攻ドイツ軍終了時。

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 ドイツ軍はさらに戦線を後方へ下げましたが、どのように戦線を組むかの決断がこれまでで一番ハードでした。どこもかしこもやばそうな感じがします(T_T)

 パリの東で包囲されていたドイツ軍ユニット2個は、どうせ脱出もできるわけはないと思って手近なアメリカ軍歩兵師団(赤い×印のところ)を殴ってみたところ、1:1で[A1]:D2r1という結果が出て、ドイツ軍は攻撃側ステップロスを無視し、防御側が壊滅する事態に! しかも、赤い点線のように実は補給路(無限の長さで引ける)が繋がっていることが判明! ここまでドイツ軍はよほどのオッズが立つのでなければ反撃はしていなかったのですが、もっと反撃していいのでしょうかねぇ(シチュエーションにもよるのでしょうけども)。


 ドイツ軍の装甲軍団スタックによる反撃は、ここ数ターンの撤退局面では、オーバーラン/攻撃後に敵ZOCに入っている状態だと逃げられないことになるので、いわゆる「浮いた駒」を刈るのでなければやりにくい面はあるとは思われます。連合軍側としては、「浮いてない(他の味方ユニットと接している)」状態にするのが重要ですが、一方でそればかりでは戦果を拡張できないということもあるだろうと思われます。

 守備の方法としては、OCSよりもよほどZOCが並んでいることが重要で、ZOCが空いている場所がないようにしなければならないようでした(OCSではZOCが連続していることにそれほど意味はないのですが)。


ドイツ軍指揮官人物伝:フォン・ラーフェンシュタイン将軍(第21装甲師団長)について

 ドイツ軍指揮官人物伝として、これまで北アフリカ戦線の第5軽師団長のシュトライヒ将軍キルヒハイム将軍を扱いました。今回はその次の師団長であった、フォン・ラーフェンシュタイン将軍についてです。



Johann von Ravestein2

 ↑フォン・ラーフェンシュタイン将軍(Wikipediaから)
 (騎士鉄十字章の下にプール・ル・メリット勲章が見えます)



 資料は前回と同様で、基本的に引用ではない形式で書いていきます。



 が、のっけからですが『Rommel's Desert Commanders』上で彼についての書き出しのところの文が非常に印象的だったので、引用させて下さい。

 教養のある貴族で反ナチスの政治的背景を持っていたラーフェンシュタインは、遠慮のない(そしてやや無神経な)平民であり1941年には親ナチスと見なされていたロンメルとうまくやっていけるとは思われなかった。ところが意外にも、彼らは非常に効果的なチームになったのである。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P35



 また、『The Panzer Legions』には「シュトライヒよりもはるかに有能で攻撃的な将校で、1941年の北アフリカでロンメルに次ぐ名声を得た。」ともあるのですが、その1941年末のクルセイダーの戦いの途中で捕虜(第二次世界大戦中のドイツ軍の将軍として初の)になってしまうのです。



 ヨハン・テオドール・フォン・ラーフェンシュタインはロンメルより2歳年長で、父と母の双方が軍人の家系でした。父方の曾祖父はブリュッヒャーの副官の一人であり、ワーテルローの戦いでウェリントン公との連絡将校を務めたとのこと(ただし、ブリュッヒャーの詳細な伝記や、プロイセンびいきのワーテルロー本の索引を探してみましたが見つけられませんでした)。母方の先祖は、7年戦争の時のフォン・ザイトリッツ将軍の副官だったそうです。

 彼が生まれてすぐ、父親が馬から投げ出されて脳に障害を負い、父親は家の財産を次々と友人に譲ってしまったり、息子や娘に残酷な仕打ちをしたそうで、母親は離婚して子供達を養うために努力したとか……(脳のある部位にダメージを負って、それまで温和な性格だった人物が刹那的な人物に変わってしまったというような症例があったので、そういうものの一種だったのでしょうか)。

 ラーフェンシュタインは牧師になりたいと考えていましたが学資がないため、ユンカーの子弟が無料で入れる士官学校に10歳で入学します。士官候補生の時には皇帝ヴィルヘルム2世とその客の小姓を務める機会があり、ラーフェンシュタインが王室への愛着を持ち続けるきっかけとなりました。

 第一次世界大戦では大胆な行動で評判になり、どんどん昇進して参謀本部へのコースにも参加しました。ところがラーフェンシュタインは、他の兵士達が死んでいく中で安全な後方勤務をすることに不満を感じ、前線に戻ることにします。

 そして1918年に彼が率いた大隊の行動で最終的に1,500人の捕虜と、30門以上の野砲などを獲得してプール・ル・メリット勲章を受勲します。

 戦後もポーランドの攻撃からシレジアを守るための活動に協力したものの、軍には残らずに除隊。困窮はしていましたが大学に入って学んだ後、電気会社に入りました。その後、ヒンデンブルクと大統領候補として争ったこともあるヤレス博士から路面電車システムの責任者に任命され、素晴らしい仕事をします。ところがヤレス博士は1933年にナチスによって失脚させられ、そのためラーフェンシュタインも職を失ったのです。

 ラーフェンシュタインは反ナチで知られており、この1933~34年の時期にはまだ捕まるほどの情勢ではありませんでしたが、雇用主は反ナチの人間を雇うことは恐れるような状況でした。一方、軍隊はまだヒトラーの支配下にはなく、ラーフェンシュタインの復帰を軍は歓迎してくれました。

 軍での生活には問題ありませんでしたが、ラーフェンシュタインは他のドイツ人達よりも遙かに早くからヒトラーが悪であり、犯罪的であることを認識しており、ドイツの進む方向に苦悩していました。彼は死ぬまで敬虔なキリスト教徒で、ドイツがプロイセン的でキリスト教的で保守的であった時代に戻ることを切望していたのですが、できることはありませんでした。

 ポーランド戦では第1軽師団の第4狙撃兵連隊長として参加し、その後同連隊は第6装甲師団に配備されました。フランス戦では同連隊長として非常に優れた戦果を挙げます。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第6装甲師団。

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 その後、ラーフェンシュタインはバルカン半島やルーマニアに派遣され、この時期に一度だけヒトラーと会いました。ヒトラーはプール・ル・メリット勲章を付けた貴族であったラーフェンシュタインに大きな感銘を受けたようであったといいます。

 北アフリカで、第5軽師団長であったシュトライヒが解任され、ラーフェンシュタインその後継師団長となることになりました。その時ブルガリアにいた彼は早速ベルリンに飛んで必要な健康診断を受け、5月31日に北アフリカに到着しました。

 6月15日には英連邦軍によるバトルアクス作戦が始まりましたが、ラーフェンシュタインは迅速に行動してイギリス軍戦車隊を粉砕し、その後方に突入します。この戦いは枢軸軍側の勝利に終わり、士気は高まりました。

 この後、第5軽師団は第21装甲師団へと改称されます。


 ↓OCS『DAK-II』の第21装甲師団。

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 バトルアクス作戦からクルセイダー作戦の間には5ヶ月間の休止期間がありましたが、この時期のこととしてロンメルの副官であったハインツ・シュミットが、ラーフェンシュタインについて詳しくその著書に書いています。

 フォン・ラーフェンシュタインはバルディア西方の海沿いの地区に、その司令部を移していた。彼は美しいものが好きで、そのマンモスは椰子の木の茂みに囲まれた絵のようなところに駐車していた。椰子の木はアフリカ軍団の象徴なのだが、この地域ではめずらしいことにかけては、女性と同様である。到着したのは夕方だった。フォン・ラーフェンシュタインとその幕僚たちとは、食堂に使っている装備のよい大天幕で、いましも食卓につこうとしていた。彼らは手厚く私たちを迎えた。
 北アフリカにある司令部食堂で、ロンメルの司令部のように装備といい食事といい控え目なのは、どこにもないのを見て、私はいささかうらやましくなった。ここにはおいしいものがいろいろとあった。夢にも思わない新鮮な卵もあれば、冷たいビールもある。この前新しい卵を食べたのはいつだったかなと、私は嬉しさに自分の卵を磨いた。磨き終った時、フォン・ラーフェンシュタインが目をばちばちさせたのに気づいた。「どうだね、おいしいか、シュミット?」といっているのだ。
 私たちは知り合いの仲だった - もっと正確にいえば1937年以来私はフォン・ラーフェンシュタインを知っていたというべきだ。そのころヴェストファリアのイーゼルホーン【イゼルローン】で彼は大隊長を勤めていたが、その隊で若き士官候補生の私が平和時の訓練にいそしんでいたのであった。フォン・ラーフェンシュタインは黙ってテーブル越しに、手をつけない自分の卵を私の方へ押してよこした。私は遠慮したが、彼が親切にすすめるので、とうとうちょうだいしてしまった。私は将軍の卵を賞味したのである。
 食事後私は星の輝やく夜をしばらく散歩した。フォン・ラーフェンシュタインがいっしょになって、私たちは砂丘の上にのぼった。「わたしは晩になるとよくここへ来る」と彼はいった。「そしてあたりの美しさと静けさを楽しむのだよ」彼は新鮮な砂漠の空気を胸いっぱい吸って、「明るい月光に照らされて、砂丘がまるで雪でおおわれたようになる」
 私たちは黙って景色の美しさにひたった。私はよく知っている砂漠の二将軍が、まるで違った性質なのに思いをはせた。フォン・ラーフェンシュタインは、美しさ、やさしさ、人間らしさ、思いやりを愛する人で、彼にとって人生は詩であった。これに対してロンメルはきわめて実質的で、厳しく、他人の個人的問題については無関心で、人々との関係も彼の軍事的目的に影響する範囲内に、留められていただけである。彼にとって人生は淡々とした散文だった。
 正確に根本的な相違はあったけれども、二人の将軍はたがいに相手をよく理解していて、戦争計画に関してはまったく一致していた。このことは翌朝の会議ではっきり示された。フォン・ラーフェンシュタインは融通がきき、機略に富み、しかももっとも困難な問題に対しても、自信をもってぶつかった。彼は敗北を許さず、つねに障害を乗り越える方法を考えた。会議中、ロンメルに匹敵する将軍がいるのを、私は感じた。ロンメルが彼を高く評価していたのはいうまでもない。
 力を併せて二人はいくつか新計画を生みだした。
私たちはイギリス軍がソルム前線に前進無電監視哨を設けたのを知っていた。また前線地区を絶えず偵察している装甲車のために、砂漠のなかに秘密補給集積場をつくったのを、察知していた。二将軍の計画によると、フォン・ラーフェンシュタインは9月の半ば、戦車と数門の高射砲の掩護を受けて、きわめて機動力に富む自動車化戦闘部隊をもって、前方地区に強力な奇襲を敢行することになった【真夏の夜の夢作戦】。
 奇襲はハルファヤ峠の南になる戦線から出動する予定であった。奇襲ということが欠くべからざる要素で、この作戦を成功させるには電光石火のスピードが必要だった。戦闘部隊は、兵力は、およそ一連隊の半ばで、すばやく目的物を破砕し、敵が体制【ママ】をととのえて反撃に出る前に、捕虜を連れて引き返すのである。ロンメルとフォン・ラーフェンシュタインとは、まるでいたずらを考え出した少年のように、夢中になっていた。「わたしもいっしょに行く」とロンメルはいった。
「ただ、一つだけ念をいれる必要がある。 - イギリス軍の空中偵察にくさいなと思わせる、事前の徴候を見せないことです」
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P118~121


 この「真夏の夜の夢(ゾンマーナハトシュトラウム)作戦」は、英連邦軍の補給物資獲得を目的とする限定攻勢でしたが、英空軍の空襲によって戦車が損害を被ったため、すぐに中止されてしまいました(9月14~15日)。



 クルセイダー作戦では、ラーフェンシュタインは師団長として最初の行動で敏腕ぶりを発揮しました。彼が率いる第21装甲師団は、11月22日の戦闘でイギリス軍をまる一日攻撃し続け、シディ・レゼクから追い出したのです。ロンメルは死の少し前、息子に「ラーフェンシュタインは最も優秀な将軍の一人だ」と語ったそうです。



 また、フォン・メレンティンはこのように書いています。

 11月19日夕刻、フォン・ラーフェンシュタイン将軍は電話で報告してきた。彼は、装甲師団は合流すべきである、と示唆し、敵の配置と意図が明確になるまで大規模な作戦を発起すべきではない、と考えると述べた。彼の示唆は完全に正しかった。
『ドイツ戦車軍団』上P115



 ところが11月29日の朝、ラーフェンシュタインはニュージーランド兵の捕虜となってしまいました。第15装甲師団司令部で行われる会議に出席するために車で出発したところ、ニュージーランド軍のある中尉が仕掛けていた待ち伏せに遭ってしまったのです。タイヤはパンクし、ラジエーターは撃たれ、車内には銃弾や金属片が飛び散りました。ラーフェンシュタインは車から飛び出して地面に身を投げましたが、すぐに3人のニュージーランド兵士に囲まれ、降伏するしかありませんでした。


 捕虜になった経緯について、パウル・カレルの『砂漠のキツネ』ではこう書かれています。

 ラーヴェンシュタインは装甲指揮車で【クリューヴェルの指揮車から】去った。膝の地図にはバイエルラインが鉛筆で十字のしるしをつけておいてくれた。第15機甲師団はそこにいるはずである。あと16キロメートル。ベルリン=オーバーシェーネヴァイデ出身のハンス・クレンツケ伍長は昔流にコンパスとタコメーターをたよりに走った。助手は18歳のペルテル機銃手。ベルリンのパン屋で、師団でも有数の道捜しの名手 - アフリカでは《フランツァー》と呼ばれている - であった。しかし、時にはどんな《フランツァー》でもしくじることがある。
 明け方、地平線に車両が見えた。地図によるとバイエルラインが十字でチェックしておいた地点である。第15機甲師団だな、とラーヴェンシュタインは考えた。が、いきなり銃声がしたのである。20メートル先で機銃がはげしく火をはいた。車は停まり、燃えだした。クレンツケは負傷した。車を出ろ、伏せるんだ! しかし、手遅れだった。みごとに偽装したニュージーランド軍陣地のまっただ中だったのである。「手をあげろ!」 朝食をとっていたフレイバーグ【第2ニュージーランド歩兵師団長】は、恐怖のまとであった第21機甲師団のラーヴェンシュタインが自分の捕虜になったことを知った。
『砂漠のキツネ』P86,7





 ラーフェンシュタインはすぐにトブルク要塞へと送られます。まだ戦闘が続く12月5日にイギリス兵を中心とする負傷者400名と一緒に輸送船に乗せられてアレキサンドリアへと運ばれることになりましたが、イタリア軍雷撃機の攻撃を受けてこの船が沈没。しかし辛くもラーフェンシュタインは一命をとりとめます。

 紅海から南アフリカへ向かう輸送船の中では、「業火の牧師」と呼ばれたバッハらと共に、船を奪ってシンガポール(日本軍が占領していた)に回すことを計画しますが、バレて独房に入れられてしまいました。

 その後彼は、エジプト、南アフリカ、カナダ、イギリスなどの捕虜収容所に入れられていました。この時のことか、あるいはまだ北アフリカにいた時のことか分かりませんが、シディ・レゼクの戦いで対峙していたイギリス軍の「ジョック」キャンベル将軍がこの時の敢闘でイギリス最高の勲章であるヴィクトリア十字章を受勲したことに関して、キャンベル将軍にお祝いの手紙を送ったともいわれます。捕虜としてインタビューを受けたラーフェンシュタインは、キャンベルの指揮振りに「最大の称賛」を惜しみなく述べたそうです。

 1943年10月1日、捕虜であるにもかかわらず、中将に昇進。ラーフェンシュタインの家はイゼルローン(ルール工業地帯の少し南東にある街)にありましたが、連合軍がその街に入った時、モントゴメリー元帥の指示により、彼の家は徴発されることはありませんでした。

 1947年に捕虜収容所で心臓病を発症した彼は、すぐにイゼルローンの家に戻れることになりました。

 その後ラーフェンシュタインは元働いていた市政局から仕事の依頼を受け、定年退職するまで務めます。その間に歴史と文学の博士号を取得。エジプトのファールーク国王は、ロンメルの麾下の将軍であったラーフェンシュタインがエジプト軍を率いてイスラエル軍に対抗することを期待して、彼にエジプト軍の指揮を依頼しましたが、彼はそれを断りました。

 引退後もラーフェンシュタインはルーテル教会での活動や獣医や園芸の団体で活躍します。1962年3月26日の夜、教区で熱心にスピーチをしている最中に突然心臓発作を起こし、亡くなりました。




 人物像的にも興味深いですが、北アフリカで指揮を執り始めて半年程度で捕虜になってしまったのが大変惜しまれます……。ずっと指揮を執れていたら、どれだけ活躍したか……(尤も、クリューヴェル将軍やイギリス軍のオコーナー将軍なんかもそうなわけですが)。


<2021/06/22追記>

 その後、『Wavell in the Middle East, 1939-1941』にほんの少しと、デズモンド・ヤングの『ロンメル将軍』に戦後彼に会った時の長文の、ラーフェンシュタインに関する記述があったので、引用追記しておきます。

 「砂漠の狐」と呼ばれ、1941年から1943年まで西方砂漠で戦うことになったドイツのエルヴィン・ロンメル将軍は、砂漠での戦争を「憎しみのない戦争」と呼び、部下のヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン少将は「紳士の戦争」と考えていた。2
【脚注】2. Rommel and von Ravenstein, quoted in Ludovic Kennedy, introduction to Roger Parkinson (i), The War in the Desert (London. Book Club Associates, 1976), 7.
『Wavell in the Middle East, 1939-1941』1746



 フォン・ラフェンシュタイン将軍は、通りの向かい側に住居があり、同じように優秀な厩舎からでた駿馬だったが、毛並みが非常に異なり、境遇も非常に異なっていた。痩せぎすできりっとした近衛将校タイプで、50歳を越しているとは思えない若さである。立派な服をきちんと着こなし、ピカピカの靴、真珠のタイ・ピンをした姿で、ロンドンの近衛兵クラブか騎兵クラブに姿を見せれば、誰しもそくざに若い気鋭の将軍と見なすことだろう。二度の痛ましい戦争の後なのに、彼は肉体的にも精神的にも、もう一度戦場で十分に指揮をとれるように思われた。両大戦で彼は立派に戦った。1918年6月、ロンメルよりも18ヵ月遅れて、彼は戦功に対してプール・ル・メリット勲章を授けられた。両大戦にはさまれた期間、彼は退役し、デュイスブルクで、なんとニューズ通信社の社長になったが、後にナチスによってその職を追われた。1939年に大佐として再度軍隊にはいり、ポーランドで戦車隊を指揮した。その後1941年の3、4月を、ブルガリアとギリシアで闘い、それから砂漠に赴いて、第21戦車師団の1個連隊の指揮をとるようになった。6月のハルファヤ峠=ソルムの戦いの前に、師団指揮官となった。
 フォン・ラフェンシュタインこそ、1941年11月14日、25日の両日に、ロンメルの有名な突破作戦の先陣に立ったのである。彼の砂漠での経歴は突然、断絶されてしまった。11月28日の未明、彼は偶然にもニュージーランド師団のまっただなかに、突入してしまったのである。
「たいへんなことでしたよ」と、彼はわたしに話した。「なにしろ全兵力の配備を書き込んだ参謀長用地図を所持していたし、それを破棄するひまもなかったのです。逃れようがないとなると、わたしはシュミット大佐と名乗ろうと心を決めました。わたしの階級章に気づかなければよいがと、そればかりを祈っていました。やがてわたしはフレイバーグ将軍のもとへ連れて行かれた。ご存じのようにわれわれドイツ軍人は紹介を受けると、姓名を告げる習慣があります。わたしは踵をカチッと合せて敬礼し、しまったと思う間もあらばこそ、口にしてしまったのですよ。フォン・ラフェンシュタイン将軍ですと」(フォン・ラフェンシュタイン将軍を師団司令部へ連行した第6ニュージーランド旅団の連絡将校がわたした語ったところでは、将軍の身分について捕えたのは大物にまちがいなしと思っていたという)。

 フォン・ラフェンシュタインは最後にカナダに送られた。その途中彼は輸送船奪取の計画をたて、まさに成功の寸前まで行ったが、いよいよというときになって、船長に発見されてしまった。元捕虜で、収容所でしばらく脱走係をやっていたので、わたしはその計画を考えた彼に満点をつけた。1948年になってからやっと彼は帰国したのだが、彼は不平一つこぼさなかった。彼は格別よい待遇を受けたわけではなかったのであった。戦後彼は完全に自由の身となった。
デズモンド・ヤング『ロンメル将軍』P113,4



<追記ここまで>

SCS『The Mighty Endeavor 2』8月1日開始シナリオの第2~3ターンをプレイできました

 前回、SCS『The Mighty Endeavor 2』を初めて少しプレイしてみました (2021/05/09)の続きをプレイできました。


 今回は下野守さんも来られて、ワニミさん、私の3人でプレイしました。練習なので松浦方式で、片方の陣営を全員で、逆の陣営も全員ででプレイ。連合軍側は下野守さんが英連邦軍、私が米軍、ワニミさんがドラグーン作戦担当。ドイツ軍側は適当で(^_^;



 ↓第2ターン先攻連合軍終了時。

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 ビーチポートを1つ追加し、攻勢司令部を4つ宣言して全力で攻撃するも、ダイス目が非常に悪く、進捗は望んだほどではありませんでした。しかしそれでも6~7個ほどのドイツ軍ユニットを壊滅させて前ターンよりは食い込み、不完全なポケットを形成しました。




 ↓第2ターン後攻ドイツ軍終了時。

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 半ポケットからの脱出を検討しましたが、歩兵師団3つほどがどうしても逃げられません。「2ターン連続で補給切れだと壊滅」なので、1ユニットを補給を繋げるために置いておき(赤い○の場所)、他の部隊は下がって新たな戦線を形成します。




 ↓第3ターン先攻連合軍終了時。

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 このターン、最初に存在していたビーチポート(マルベリー)3つが消滅し、使用できるのは前ターンに置いたビーチポート1つだけになったため、攻勢司令部は1つしか宣言できません。英連邦軍と米軍のどちらに攻勢を行わせるべきか、皆で色々と相談した結果、直近の港であるル・アーヴル(Le Havre)(赤い○)を奪取するのが重要であろうということで、英連邦軍の司令部1つに攻勢を宣言させ、奪取に成功します。

 ところが米軍側も青い○のヘクスにいたドイツ軍の1-2-2ユニットが非常に邪魔で「うがあああああ!」となっていた(しかし攻撃ができない)のですが、ワニミさんが気づきました。「そうか、Emergency Attackをやればいいんだよ!」

 このシナリオでは連合軍に6つ(ドイツ軍には2つ)「Emergency Attack」マーカーが与えられており、使用を宣言すると攻勢司令部がない場所でも攻撃が行えます(使い捨て)。「そうか、こういう時にこのマーカーは使うのか! なるほど、これは緊急攻撃ですね~」と非常に納得し、また、やはりルール把握のために練習が必要だなぁと思ったのでした。

 包囲環の中のドイツ軍は、米軍から攻撃はできないので、ZOCで囲んでおく感じにしました。




 ↓同ターン、ドラグーン作戦担当地区。

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 実はこのシナリオの第1ターン、第2ターンも連合軍はマルセイユ(港がある)に対して上陸作戦を敢行していたのですが、どちらもA1D1で上陸部隊も壊滅していたため、作戦失敗していたのでした。このターン、三度目の正直でようやく上陸に成功します。





 ↓第3ターンドイツ軍終了時。

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 ドイツ軍は河川に沿った線へと退却し、新たな防衛線を形成しましたが、ドーヴァー海峡の海岸線からも戦力を引き抜いており、連合軍がそちらへ二次(三次?)上陸する危険性も増大しました。包囲環内にいたドイツ軍ユニットは全力で米軍1個師団を攻撃したのですが、ダイス目が悪く攻撃側2ステップロス……。しかしダイス目によっては米軍に大きな損害を与えられる可能性もありました。このゲーム、「5:1なら攻撃側に損害はもう生じない」とかではなく、どのオッズでもダイス目による振幅が激しいです。

 黒い線がゲーム上の(8月31日時点での)戦線ですが、青い線が史実での(8月25日時点での)戦線です。ドイツ軍は港であるル・アーヴルに連合軍を近づけさせておらず、一方内陸では米軍がかなり突き進んでいます。

 しかしドイツ軍側にとっては、連合軍に港を取らせないのは非常に重要であると思われるので、史実のように、「港は絶対に取らせない! 内陸は進んでもらってもいいよ」という風にプレイすべきなのかな、と思われました。


 また今後、この練習プレイを続けていくつもりです。

(今回の練習プレイからの新しい知見を、SCS『The Mighty Endeavor 2』のエラッタや、和訳の改善点等 (2021/05/09)に追記しています)

ドイツ軍指揮官人物伝:キルヒハイム将軍(第5軽師団長)について

 承前。次は、シュトライヒ将軍の次に第5軽師団長に任命されたキルヒハイム将軍についてです。


HJB10 – Kirchheim

 ↑キルヒハイム将軍(Wikipediaから)




 資料としては、英語版Wikipedia「Heinrich Kirchheim」がえらい充実していました。『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』には数行程度。

 Google Booksで検索してみたところ、以前のエントリで紹介したことがあった『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』がヒットし、かなり詳しかったです(Wikipediaと同程度)。同書は買っていなかったのですが、ある程度以上良さそうだと思ったので今回注文してみました。





 以下、これらの資料から、引用ではなくまとめて紹介します。


 キルヒハイム将軍は1882年の生まれで、ロンメルの9歳年上にあたります。同じ年の生まれとしてはフォン・クルーゲ元帥がいました(フォン・ボック元帥より2歳年下)。ですから第二次世界大戦当時としては、ちょっと年かさの人物であったということになるでしょう。

 1904年にドイツ領南西アフリカ(今のナミビア。南アフリカの北西にある)に派遣されて反乱の制圧に従軍します。反乱は1907年に終結したのですが、キルヒハイムは1914年初頭までその地に留まり、その過程で彼は熱帯・砂漠戦の専門家として知られるようになりました。

 第一次世界大戦が勃発するとキルヒハイムは西部戦線で戦うなどして大いに活躍しプール・ル・メリット勲章(第一次世界大戦終結までのプロイセン軍における最高の名誉勲章)を受勲しています(この勲章は常に付けていなければならないそうで、上のキルヒハイムの写真でも付けています)。

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 この勲章をもらった人の数は多くなく、英語版Wikipedia「Pour le Mérite」で第一次世界大戦のドイツ陸軍での有名な受勲者一覧から、私が名前は知ってる程度の人のみ挙げると、

ロンメル、ヒンデンブルク、ルーデンドルフ、ブロンベルク、フォン・ボック、マッケンゼン(こちらの父親)、小モルトケ、ゼークト、シェルナー(二次大戦後期にヒトラーに絶対の忠誠で兵士達を犠牲にしまくって出世した人物!)、キルヒハイム、ラーフェンシュタイン(次に取り上げるつもりの、キルヒハイムの次の第5軽師団長)

 という感じで、「えっ……。第二次世界大戦当時にドイツ陸軍で指揮を執った人物としては(私が名前も知らない人と、このリストに載っていない人を除けば)、ロンメル、フォン・ボック、シェルナー、キルヒハイム、ラーフェンシュタインくらいしかいないってこと!?」という非常に驚きの結果に……。

 戦場でこの勲章を付けている人はめちゃくちゃレアだったでしょうし、目立ったでしょうねぇ……。

 キルヒハイムは第二次世界大戦時にしか存在しなかった騎士鉄十字章も受勲しており、そういう人物はまたレアだそうです(さっき挙げた5人くらいしかいない?)。

 ちなみに、↓はロンメルの写真(Wikipeidaから)で、騎士鉄十字章の下にプール・ル・メリット勲章があります。
(ロンメルはプール・ル・メリット勲章欲しさに凄くごねた、という話もありますが、逆にこの勲章をもらえるかもしれないのに全然ごねない人がいたら、それはそれでどうなのかという気も(^_^;)

Bundesarchiv Bild 146-1985-013-07, Erwin Rommel


 第5軽師団って、すげープール・ル・メリット勲章受勲者に関係していた、むちゃくちゃレアな師団だったんですね……。



 さて、キルヒハイムですが、戦間期も軍に残り、いったん50歳頃に退役したりしたものの呼び戻されて訓練大隊長をやったり、ラインラント進駐後の軍事地域を管理したりしてました。1939年12月1日(ポーランド戦後)にドイツ西部で編成された第169歩兵師団長に任命され、フランス戦の前半(黄色作戦)においてはOKHの予備となり、後半(赤色作戦)には掃討戦などをやったようです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第169歩兵師団。

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 14-3-3というのは同ゲームの歩兵師団としては割と弱めですが、少数ながらアクションレーティング2というようなのもいますから、それよりはましという感じでしょうか。



 ドイツ軍をリビアへ送ることが決まると、OKHは熱帯(砂漠)戦の専門家とみなされていたキルヒハイムを、リビア特別幕僚のリーダーとして送ることにしました。リビア特別幕僚の者達の任務は北アフリカの様々な状況を調査することであり、これまでにアフリカでの軍務経験を持つ将校で構成されていました。

 ところがロンメルは、この特別幕僚を解散させて戦力不足の野戦部隊を強化することを選択します。キルヒハイムはブレシア歩兵師団に付けられたドイツ軍側の将軍となり、ロンメルの言葉によれば「精力的に差配し」(『「砂漠の狐」回想録』P50)、ベンガジを抜いてデルナにまで進撃させます。一方、『Rommel's Desert Commanders』によれば「ロンメルは彼らのスピードに不満を持っていた。」とあるのですが、ブレシア歩兵師団は完全徒歩の部隊ですし、当たり前のような気が……(徒歩としても遅かったということでしょうか?)。


 ↓OCS『DAK-II』のブレシア歩兵師団。

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 ブレシア歩兵師団によるトブルク攻撃はうまくいかず、ロンメルはブレシア歩兵師団の勇気とキルヒハイムの指導力に不満を抱きますが、キルヒハイムは負傷しながらも指揮を執っていたのでした。ただしロンメルは、前回のエントリで扱ったシュトライヒ(第5軽師団長)よりはキルヒハイムの方がより良いと思っており、第5軽師団からの第5装甲連隊、第2と第8機関銃大隊、2個工兵中隊、対戦車砲、砲兵その他などからなる戦闘団の指揮官に、キルヒハイムを任命します。つまり、シュトライヒの部下のほとんどをキルヒハイムの下に配したのです。しかしこの戦闘団によるトブルク攻撃も失敗に終わります。


 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団。

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 ロンメルはシュトライヒを解任した後、キルヒハイムを第5軽師団長としましたがこれは一時的なもので、すぐにフォン・ラーフェンシュタイン将軍が到着して交代しました(『The Panzer Legions』によれば、キルヒハイムは5月16日就任、ラーフェンシュタインは5月20日就任。『Rommel's Desert Commanders』によればキルヒハイムは5月後半就任、ラーフェンシュタインは5月31日就任)。ロンメルはキルヒハイムに騎士鉄十字章を授与し、ヨーロッパに送り返します。


 ロンメルに解任されたキルヒハイムでしたが、この頃の参謀総長ハルダーらはロンメルと衝突していたので、キルヒハイムには不利になりませんでした。キルヒハイムはOKHにおける熱帯地域に関する顧問に就任し、中将に昇進します。

 1944年7月20日に有名なヒトラー暗殺未遂事件が起こり、その秋にキルヒハイムはこの法廷のメンバーに任命されます。『Rommel's Desert Commanders』はこの時キルヒハイムが「ロンメルに復讐する機会を得た。」と書き、「シュパイデルは有罪であったが、キルヒハイムは砂漠の狐への間接的な復讐の機会を逃した。キルヒハイムは、シュパイデルを除名せずに釈放することに賛成した。そのおかげで、シュパイデルの命が救われたのである。」とも記述しています。この文の含意するところがどういうことであるのか、判断が難しいような気がしますが……。



<2021/10/27追記>

 キルヒハイムが「ロンメルに復讐する機会を得た。」の件ですが、アーヴィングの『狐の足跡』に、キルヒハイム夫人がロンメル夫人(ルーシー)と仲が良かったらしい記述を見つけました。なので、「キルヒハイムはロンメルに復讐したかっただろうに」というのは著者のミッチャムの推測、あるいは思い込みに過ぎない可能性が結構あるのかもです(尤も、ミッチャムが『狐の足跡』を読んでいない可能性もまた、低そうではありますが、逆に、アーヴィングは史実を歪曲していたことで有名であるので、この件もまた歪曲である可能性も……?)。


 以下、引用します。ノルマンディー上陸作戦が行われた1944年6月6日、ルーシー夫人の誕生日の話です。

 ロンメルは、赤い線のはいったガウンにスリッパという恰好で、ルーシー夫人のお客のひとりであるヒルデガルト・キルヒハイム(彼女はロンメルがアフリカにいたとき、その初期に彼の部下であったハインリヒ・キルヒハイム将軍の夫人である)に手伝ってもらいながら、満足げに贈り物を整理していた。
 【ロンメルに電話がかかってきて、慌ただしく彼が出て行く】
 ヒルデガルト・キルヒハイムは回想している - 「その電話がかかってきてからルーシーが部屋へ入って来て、非常に興奮した状態で、エルヴィンはもうフランスに向けて出発したと私にいうまで、30分ほど経っていました」 彼女はまた、そのとき、ルーシーが例の靴【ロンメルが夫人のためにパリで買った贈り物】をはいてみようとしたが、足に合わなかったことを憶えている》
『狐の足跡』下P215,6


<追記ここまで>



 その後キルヒハイムは総統予備となり、ベルリンから離れて西に向かい、4月12日に英米軍に降伏しました。1947年に捕虜収容所から釈放され、1973年に亡くなりました。


ドイツ軍指揮官人物伝:ロンメルを批判し解任されたシュトライヒ将軍(第5軽師団長)について

 イギリス軍の「ジョック」キャンベル将軍について調べているうちに、第21装甲師団長であったラーフェンシュタイン将軍に興味を持って少し調べ始めてみたのですが、ラーフェンシュタインについて述べるのであればその2代前の第5軽師団長であったシュトライヒ将軍について触れなければならないようなので、まずそちらを調べてみました。


Bundesarchiv Bild 146-1993-095-33A, Johannes Streich

 ↑シュトライヒ将軍(Wikipediaから)


 ↓OCS『DAK-II』の第5軽師団。

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 私がシュトライヒ将軍について強く認識したのは、山崎雅弘さんの『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』(2009年)を読んだ時が初めてで、そのロンメル像の欠点の多さ、シュトライヒ将軍の反抗に大きな印象を受けました。
(それまで賞賛のみされていたロンメルを初めて大きく批判したというアーヴィングの『狐の足跡』(1977年)にシュトライヒの件について詳しいのかもしれませんが、私はこの本を持っておらず、読んだことがありません)。





 第5軽師団の指揮権は、北アフリカの戦局に悲観した見方を示したフンクに代わって、1941年2月7日付でシュトライヒに引き継がれていた(フンクはロンメルと入れ替わりに第7装甲師団長へと就任した)。シュトライヒは、ロンメルと同じ49歳だったが、この師団長人事は、ある意味においては陸軍人事局の不注意と言えた。
 なぜなら、シュトライヒは前年の西方攻勢において、ロンメルの第7装甲師団とたびたび紛糾を起こした第5装甲師団の第15戦車連隊長を努めており、当然のことながら「自分勝手な将軍」ロンメルに対して良い感情を持っていなかったからである。それでも、北アフリカで行動を開始してからの数か月間は、シュトライヒも上官であるロンメルの命令に忠実に従い、エル・アゲイラ攻撃に向けた準備作業にも万全を尽くした。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P210,1

 ドイツ軍は4月中旬までに、要塞港トブルクを除くキレナイカのほぼ全域を制圧し、ロンメルは北アフリカに登場して行った最初の大攻勢で、見事な勝利を収めた。
 しかし、勝者となったはずのドイツ・アフリカ軍団の上層部では、早くも深刻な摩擦が表面化しつつあった。それまでのドイツ陸軍の常識から外れた行動を次々と部下に要求するロンメルに対し、第5軽師団長シュトライヒおよび同師団の連隊長たちの間で、不満と反発が沸き起こっていたのである。
 紛糾の発端となったのは、4月3日にロンメルがシュトライヒに命じた、ある命令だった。3月24日のエル・アゲイラへの限定的攻撃の開始から、第5軽師団はこの日までの10日間で200キロ以上の前進を行っていたが、同師団の燃料や戦車の備品などの物資の大半は、いまだエル・アゲイラ西方の集積所に置かれていた。
 そのため、シュトライヒは師団の前進をいったん停止して、燃料補給と車輌の整備、そして兵士の疲労回復のために4日間費やす許可を、ロンメルに求めた。
 しかしロンメルは、この要請を却下し、同師団が保有するトラックを全て空にして、それを戦車の操縦士に昼夜交替で運転させ、物資を取りに行かせるよう命じた。シュトライヒは「そんなことをすれば、わが師団の戦車は丸一日行動不能になります」と訴えたが、ロンメルは耳を貸そうとはしなかった。
 翌4月4日、ロンメルはシュトライヒに「第5軽師団の車輌が持つ全てのガソリンを、戦車と装甲車に移し替えて、海岸まで突進させよ」と命令した。後方の物資集積所へと前日出発したトラックの縦隊は、まだ戻っていなかったが、ロンメルは「戦車と装甲車以外の師団兵力は、トラック部隊が戻ってから後を追うように」と命じた。
 横で話を聞いていたイタリア軍の将校が「将軍が部隊を進ませようとしておられる道は危険です。我々が〔数か月前に〕退却する時、周囲に地雷を埋設しました」と警告したものの、ロンメルの考えは変わらなかった。
 シュトライヒは、やむを得ず部隊にロンメルの命令を履行するよう命じ、トラックを運転していった正規の戦車兵の代わりに、操縦経験のほとんどない交替要員に戦車や装甲車へと乗り込ませたが、前進を開始して間もなく、部隊の車輪は操縦士の運転技量の未熟さから、小道から外れた砂漠に次々とはまり込んで、身動きがとれない状態に陥った。そして、イタリア軍将校が危惧した通り、隊列の一部はイタリア軍の地雷原に迷い込み、貴重な車輌が次々と炎上していった。
 こうした現場の状況を知った同師団の連隊長は、ロンメルの乗るフィーゼラー・シュトルヒの機影を頭上に見つけると忌々しく感じるようになり、4月6日には遂に、ロンメルとシュトライヒおよびシュヴェリーン【第5軽師団の第200特殊任務連隊長】の間で激しい口論が発生した。
 ロンメルから、すぐにメキリの敵陣地を攻撃せよと命令を受けたシュトライヒは、自分の師団は150キロ以上の範囲に分散して行動不能となっており、戦車もオーバーヒートや燃料切れで停止を余儀なくされているとして、これを拒絶した。この返事を聞いたロンメルは、彼に「貴官は卑怯者か!」と言い放ったが、シュトライヒはロンメルの暴言を受けてさらに激昂し、前年に西方攻勢の戦功で授与された騎士鉄十字章を首から外して手に持つと、ロンメルに大声で怒鳴り返した。
「今まで私に向かってそのような言葉を投げた者は一人もおりません! 今すぐ、閣下が言われた言葉を取り消していただきたい! さもなくば、私はこれ〔騎士鉄十字章〕を貴官の足許に叩きつけますぞ!」
 この剣幕に怯んだロンメルは、自分の言ったことを取り消すと伝えた。
だが、ロンメルとシュトライヒの間に生じた感情的な亀裂は、シュトライヒが3か月後に師団長を解任されるまで、修復されることはなかった。
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P221~3

 1941年4月上旬の段階で、キレナイカに姿を現した第15装甲師団の将兵は、師団長プリトヴィッツと小規模な前面部隊だけだった。しかし、シュトライヒの「消極的な」姿勢に不信感を抱いていたロンメルは、追撃戦の主力を担う部隊が第5軽師団であるにもかかわらず、その作戦指揮を、到着して間もないプリトヴィッツに委ねた。
 この感情的とも言える決定は、当然のことながらシュトライヒをさらに立腹させたが、砂漠での戦闘にまだ慣れていないプリトヴィッツを攻撃部隊の指揮官に据えるというロンメルの判断は、間もなく悲劇的な事件を引き起こすこととなった。
 追撃戦の指揮権を任されたプリトヴィッツは、4月9日の午後、最前線で部隊を率いる第200特殊任務連隊長シュヴェリーンの指揮所を訪れ、状況を教えて欲しいと頼んだ。
「ロンメル将軍から指揮をとるよう命じられたが、私はまだアフリカに着いたばかりで、各部隊の状況については何も知らないのだよ」
 シュヴェリーンは、途方に暮れた表情のプリトヴィッツに要点を説明した。
 翌4月10日の早朝、ロンメルは副官のアルディンガーに、自らの状況認識と今後の方針を日誌に記録させた。前年の西方攻勢の場合と同様、彼はアルディンガーに作戦経過の一部始終を詳細に記録させ、あとで戦記として発表することを考えていたが、彼がこの朝口にしたのは、次のような言葉だった。
「敵は明らかに退却中である。我々は、全力を挙げてこれを追撃しなくてはならない。我々の目標は、スエズ運河である。そして、このことを〔部下の〕全員に知らしめなくてはならない」
 そして彼は、作戦の進展状況を確かめるためシュヴェリーンの指揮所へと出向いたが、そこにプリトヴィッツが居ることを知った彼は、すぐにトブルクへの攻撃を前線で直接指揮するよう、プリトヴィッツに大声で命令した。
「何をもたもたしておるか! 敵が我々の手から逃げようとしているのだぞ!」
 顔を赤らめて狼狽したプリトヴィッツは、シュヴェリーンの自動車と運転手を借りて、最前線へと向かった。そして、英連邦軍の部隊と銃撃戦を続ける第8機関銃大隊のところまで来た時、彼は味方兵士の制止を振り切って車を走らせ続け、英軍の対戦車砲が放った一弾がこの車を直撃、プリトヴィッツと運転手の身体は無惨にも吹き飛んだ。
 この顛末を知ったシュヴェリーンは、怒りに気持ちを高ぶらせながらロンメルの宿舎に乗り込み、感情を抑えつつ、プリトヴィッツが戦死したことを告げた。ロンメルは、この報せを聞いてショックで顔面蒼白になり
、黙って部屋を出て自分の車を用意させ、前線へと向かった。途中、ロンメルと彼の随行部隊は、英軍の指揮車輌とドイツ軍の指揮車輌の2台が、彼の後から猛スピードで追いかけてくるのを発見した。
 ロンメルは、ただちに応戦態勢をとらせたが、やがて停止した車からドイツ軍の軍服を着た将軍が飛び降りた。第5軽師団長のシュトライヒだった。彼は、顔を真っ赤にして走り寄り、ロンルに向かって叫んだ。
「プリトヴィッツ将軍が戦死しましたぞ!」
 ロンメルは、彼に「どうして英軍の車で近寄ってくるような真似をしたのか。もう少しで撃つところだったぞ」と答えたが、シュトライヒはこう切り返した。
「もう【ママ。もし?】そうなさっていたら、閣下は一日に二人の師団長を殺しておられたでしょうな!
『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』P224~8



 読んだ時は、「ロンメルはだいぶひどい(T_T)」と思いましたし、蒙が啓かれた思いがしました。

 私は中学生の時に第二次世界大戦ブックスの『ロンメル戦車軍団』を読んで以来、ロンメルを非常に敬愛していたからです。尤も、昔シミュレイター誌に載った大木毅氏のロンメル批判の記事は読んでいて、「なるほど~」というようなことは思っており、ロンメルが完璧な人物だと思っていたわけではありませんでした。が、それにしてもひどいな、と。



 ただその後、大木毅氏によるアーヴィング批判(実質的には、『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』でアーヴィングを資料として使用した山崎氏批判)の記事を読んだりもしており、『ロンメル戦記 第一次大戦~ノルマンディーまで』は少し偏りすぎなのかもしれない、とは思っておりました。

 しかし、2019年に大木毅氏が出された『「砂漠の狐」ロンメル』では、前記引用の部分については詳しく書かれていないのですが、山崎氏が詳しく書いていない、トブルク攻撃の後のシュトライヒとのやりとりや、解任の時について詳しく書いてあり、その中でもロンメルはひどい(そしてシュトライヒはまともな)ような印象を受けます。




 ロンメルもついに攻撃を中止し、増援部隊が到着するのを待つと決断せざるを得なくなった。彼は、この失敗はイタリア軍部隊の未熟さと貧弱な装備のせいだとし、また、第5軽師団に責任を押しつけた。4月14日の攻撃失敗直後に、第5軽師団の指揮所に現れたロンメルは、抑制もあらばこそ、師団長のヨハネス・シュトライヒ少将を、彼の部下たちが環視するなかで怒鳴りつけたのだ。シュトライヒは我慢ならなかった。そもそも、少将の前配置は、西方戦役でロンメルとあつれきを起こした第5装甲師団隷下の第五戦車旅団長であり、両者の関係は芳しいものではなかったのである。
 この場に居合わせたロンメルの司令部付将校ハインツ・シュミット【最近新書化された『ロンメル将軍 副官が見た「砂漠の狐」』の著者】の証言するところによれば、シュトライヒは、「ドイツの将軍たるものが、こんな言葉を聞かねばならぬとは!」と憤ったという。だが、ロンメルは、さらに言いつのった。「失敗の原因は、主として指揮の誤りによるものであろう。狭隘な突入口に突進するなど許されることではなく、その前に両側面を開いておかねばならなかったはずだ」。激怒したシュトライヒは、突破口拡張のための兵力など現場にはなかったのだと反駁したが、ロンメルははねつけた。「だったら、師団がやりくりしてやらねばならなかっただろう!」
 およそ1か月後、シュトライヒは、やはりロンメルの不興を買った第5軽師団隷下第5戦車連隊長ヘルベルト・オルブリヒ大佐とともに解任された。離任の際、ロンメルは、シュトライヒにこう告げたという。「貴官の師団〔長〕としての資質を否定したわけではない。だが、貴官は、将兵の身をおもんぱかるという点で行きすぎたのだと、私には思われる」。ロンメルは、これまで自分が取ってきた方法、奇襲のモーメントを生かすため、投機的であろうと麾下将兵を死地に投じるという原則が、作戦次元に適用されたときには、戦術次元では考えられないほどの損害をもたらすことがあるという点に無自覚だったのだ。
 1944年3月、日本陸軍はインパール作戦を開始した。この攻勢を実行した第15軍は、隷下にあった3個師団をすべて更迭している。戦史にもまれな異常な事態である。しかし、第一次トブルク攻撃の結果、ロンメルもまた麾下の師団長のうち、一人を戦死させ、一人を解任するに至った。この時期のアフリカ軍団の指揮運用が、多大な問題をはらんでいることを示す証左であろう。
『「砂漠の狐」ロンメル』P169~171




 ただ、その後だったかその前だったかに、どこかで「ロンメルは自分のやり方についていけない麾下の指揮官達を解任し、その後に自分のやり方に合う指揮官を任命した。そのことによってロンメルは自分のやり方で全軍を率いることができるようになり、大きな戦果を挙げることができるようになった。」というようなニュアンスの文を読んだことがある気がしてまして、そのことが気になっていました。

 どこで読んだかなのですが、『パットン対ロンメル』じゃないかなぁ……と思うのですが、そういう記述を今回目視で探してみたものの、見つけられず。

 その後、北アフリカの英連邦軍の指揮官について調べていると、モントゴメリーも自分が第8軍司令官として着任した後に麾下の将軍をほとんど総入れ替えしているし、その前のオーキンレックの時期には第8軍麾下の師団長らが上層部に反抗することが多く(その時の第8軍司令官であるカニンガムやリッチーらの力量不足ということもあるのでしょうが)、それが故に英連邦軍は力を発揮できないことが多かった、ということも分かってきました。

 もちろん、ロンメルに大きな問題はあったという前提はあるとして、しかしロンメルによるシュトライヒらの「解任」に、プラスの意味がなかったのかどうかについて興味があります。


 前記引用におけるロンメルの「貴官(シュトライヒ)は、将兵の身をおもんぱかるという点で行きすぎたのだと、私には思われる」という発言に関してだと思うのですが、『パットン対ロンメル』には以下のような記述があります。




 第5軽師団のヨハネス・シュトライヒ准将が後に述べている。ロンメルは彼に、君は部隊のことを心配しすぎだと言い、それ以上のお褒めの言葉は考えられませんというシュトライヒの返答に言葉をなくしていたという。こういった邂逅の記録のほとんどがそうであるように、おそらくこのやり取りは、語り手の自己防衛の記憶に負うところが大きいだろう。ロンメルは犠牲者のリストで勝利を判断しなかった。しかし、急襲と衝撃戦法は戦闘の初期に犠牲者を出すかもしれないが、長い目で見れば結局は犠牲者の数を少なくすると確信していた。それにしたがって行動しない部下はみな仕事を失う危険があったのだ。
『パットン対ロンメル』P225


 この最後の文は、ロンメルを擁護したニュアンスであるのかどうか、気になるところです。


 また、大木毅氏は『「砂漠の狐」ロンメル』の終章でこのように書いておられました。

 第5軽師団長であったヨハネス・シュトライヒ中将(最終階級)はいう。「中隊長として勇敢であり、放胆であるということと、非常に天才的な野戦軍司令官であるということは、全く別なのです」。おそらく、自分を罷免したロンメルを念頭に置いているのであろうが、そうした反感を割り引いても、的を射た評言であろう。ロンメルの直属上官であったヘルマン・ホートとゲルト・フォン・ルントシュテット、この両者とも期せずして、師団長としては適格だが、それより上の役職には難があるとの評価を下しているのは興味深い。
『「砂漠の狐」ロンメル』P294,5


 シュトライヒ将軍の言っていることは間違いではないと思います。ただ一方で、そのシュトライヒがどのような将軍であったのか、有能であったのか、どちらかと言えば無能であったのか、人物像はどうだったのかというところも気になります(もちろん、シュトライヒがどのような人物であったにせよ、言ったことの正しさは別に評価されるべきです)。




 まずシュトライヒ将軍の人物像について。ハインツ・シュミットの著書に非常に興味深い記述がありました。シュミットはロンメルの副官でしたが、ロンメルがシュトライヒに不満を感じているその時期に、シュトライヒに預けられたのです(私は最近出た新書『ロンメル将軍 副官が見た「砂漠の狐」』でなく、昔出た文庫本『砂漠のキツネ ロンメル将軍』で持っているので、そちらで引用します)。




 会議が終わってから、ロンメルは意味深長に、力をこめて、シュトライヒにいった。「今回の攻撃は貴官が直接指揮して、勇猛果敢に遂行されることを期待したい。副官シュミット少尉を残しておくから、自由に使うがいい」
 【……】……私は親切で思いやりのあるシュトライヒが好きだし、きわめて勇敢な人だと考えている。ハウザー【第5軽師団の作戦担当参謀将校】も同様である。それだけに容赦なく扱われているのが気の毒でならない。
 私は第5軽司令部の食堂でくつろいだ。シュトライヒのマンモス【ロンメルが載っていたことで有名な、英軍の装甲指揮車AECドチェスターを捕獲したもの。3輌のうち2輌をロンメルとその参謀が使用し、1輌を第5軽師団司令部用としてシュトライヒにロンメルが与えていた】の内部仕切りの上に、ボール紙で作った大きな騎士勲章があった。そのまんなかには鉤十字の代わりに、大きな黒蠅の絵が描かれていた。ハウザーの話では、この騎士勲章はマンモスの住人で、日中有害な砂漠の蠅を、最大多数「撃墜」したものに、毎晩ものものしく授けられるとのことだった。私にはこの愉しい気晴らしにふける気持がよくわかったが、同時に部下は敵を前にして、率先事に当り、積極的で、「非情さ」を示すべきだというロンメルの一本気な主張の良さも、認めはじめていた。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P54,55


 シュトライヒは「親切で思いやりがあり、きわめて勇敢」で、指揮車の中で愉しい気晴らしを主催していたのでしょう。しかし、ロンメルの(シュトライヒのあり方に反する)「非情に、率先して積極的に事にあたれ」という主張も尤もである……とシュミットは考えた、という文脈なのでしょうか。

 その翌朝、車と戦車で移動中に戦闘に巻き込まれて、シュトライヒとシュミットと戦車の操縦士が砲弾穴に飛び込んだ時のことです。

 砲弾穴を離れようとすると、またもや一斉射撃があたりに炸裂した。操縦士の叫びが耳に入った。「どうした? 負傷か?」と【シュトライヒ】将軍は呼びかけた。
「いいえ、閣下、まだであります」
 この返事を聞いて、およそ不安な状況だというのに、将軍は声高く笑い出した。
『砂漠のキツネ ロンメル将軍』P56,7


 なかなか人間味あふれる感じで、好印象を抱きます(^^)



 一方、私が何冊も集めたドイツ軍指揮官に関する本のほぼ全部に、まったくシュトライヒの項目がありません。唯一の例外が、ドイツ軍の装甲師団長全員(?)の伝記が収められている『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』です。




 ヨハネス・シュトライヒ(1891年生)とエルヴィン・ロンメル将軍はお互いに嫌悪感を抱いており、1941年5月にロンメルはトブルク攻略に失敗したとしてシュトライヒの指揮を解いた。シュトライヒはその後、ある戦闘団を指揮し、さらにロシア(1941年)では第16【自動車化】歩兵師団を指揮したが、この時の指揮もぱっとしないものだった。ハインツ・グデーリアンも彼の能力を低く評価していた。シュトライヒは1942年に装甲部隊の監察官に任命されたが、1943年にグデーリアンが装甲兵総監を引き継ぐと、装甲部隊畑から完全に外された。シュトライヒは、本国の軍の友人たちのおかげで、1943年末に中将に昇進し、ブレスラウの徴兵管区の監察官に任命された。1945年4月にはベルリンの徴兵管区の監察官になったが、ロシア軍がやってくる前にベルリンを脱出した。シュトライヒはホルスタインに生まれ、1911年に鉄道工兵連隊で軍人としてのキャリアをスタートさせた。第15装甲連隊(1935~41年)、第5装甲旅団(1941年)を指揮した後、第5軽師団の指揮官に就任した。



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第5装甲師団と、ロンメルが師団長であった第7装甲師団。第5装甲師団の1/15、2/15が第15装甲連隊の第1大隊と第2大隊。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』の第16自動車化歩兵師団。

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 英語版Wikipeida「Johannes Streich」には結構詳しい記述があります。全部を訳すのではなく、一部省略して和訳引用してみます。

 第一次世界大戦では、西部と東部の両戦線に従軍し、一級および二級の鉄十字章を授与された。終戦時には一等中尉で中隊長を務めていた。

 シュトライヒは戦後の国防軍に残り、戦争における自動車化部隊に興味を持ち始めて、1921年には自動車化輸送中隊の指揮官としてハノーファーに赴任した。2年後には大尉に昇進した。1930年には、陸軍兵器局の顧問となり、Ⅰ号戦車をはじめとする戦闘装甲車輌の開発に貢献した。1935年、中佐に昇進した彼は、第15装甲連隊の指揮官に就任した。

 彼の新しい司令部は、第5装甲師団の第8装甲旅団の一部であり、1938年にスデーテンラントを占領した部隊の一部であった。連隊長であったシュトライヒは、2人の大隊長と難しい関係にあった。1939年初頭には、シュトライヒの師団長が2人の部下を他の部隊の新しい役割に移すことで状況を解決しなければならないほど、緊張関係がエスカレートしていた。

 シュトライヒの第15装甲連隊は、ポーランド侵攻では小さな役割しか果たせなかったが、翌年のフランス戦ではより重要な役割を果たした。リールでのフランス軍の包囲、そしてダンケルクの戦いに参加したのである。イギリス軍が撤退した後、連隊はセーヌ川、そしてルーアンへと向かった。その途中シュトライヒは、近くで活動していた第7装甲師団のエルヴィン・ロンメル大将と、架橋用の装備をめぐって論争したこともあった。シュトライヒの連隊は、スペイン国境付近で2万人の仏英兵を捕虜にしてフランス攻略戦を終えた。シュトライヒは、ヴェール・レ・ローズから撤退中であった部隊を捕虜としたことで騎士十字章を授与される。シュトライヒの装甲部隊は夜襲でこの町を制圧し、2人の旅団長とフランスの師団長デュラン将軍を含む数千人の捕虜を捕獲した。

 【北アフリカ戦での話は省略します。】

 ドイツに戻ったシュトライヒは、陸軍兵器局時代の知り合いであるOKHの責任者フランツ・ハルダー将軍から、すぐに東部戦線での新しい任務を与えられることになった。

  シュトライヒは、バルバロッサ作戦である戦闘団を指揮していたが、第16自動車化歩兵師団の指揮官であったSigfrid Henrici将軍が病に倒れたため、すぐにその指揮を任された。当時、この師団はキエフの戦いに参加した後、ハインツ・グデーリアン将軍の第2装甲軍に移され、モスクワ攻略作戦に参加していた。彼はすぐにグデーリアンから師団の進撃ペースが遅いことを批判され、1941年11月にHenriciが健康を回復して師団の指揮を再開すると、シュトライヒはドイツに戻された。

  ベルリンに戻ったシュトライヒは、ハルダーによってOKHの装甲部隊の監察官に任命されるまで、7ヶ月間ポストがなかった。これは重要な役職ではなく、1943年6月に任命されたブレスラウ徴兵管区の司令官も同様だった。彼は1943年10月に中将へと昇進した。1945年2月のソ連軍によるブレスラウ包囲を逃れてベルリンに向かい、同市の徴兵管区の司令官となった。3年間捕虜となった後、ハンブルクに住み、1977年8月20日に同地で死去した。



 全体の印象としては「活躍したこともあるけども、残念な感じもかなりある」という感じでしょうか……。ロンメルと喧嘩していた辺りが一番輝いていたような感じすらありますね(^_^;

 ただ、シュトライヒは装甲部隊の指揮に興味を持ちつつも、グデーリアンやロンメルのような「特異な才能」を持った将軍ほどの奔放な行動を取れなかった、ということなのではなかろうかと思いました。尼崎会ではOCSをプレイしていてワニミさんが良く、「グデーリアンが言うような、側面を気にしないで進撃するなんて、怖くてできない!」と仰っています(^_^; 危険不感症でなければ装甲部隊を率いて電撃戦(機動戦、ショック戦)などできないのではないか、と。

 OCSでも、自軍の苦しさやリスクを気にすれば、縮こまったプレイをいくらでもできます。が、同じ戦力、同じ補給量でも、奔放かつ計算されたプレイをすることによって、対戦相手に大きな恐怖を感じさせて、自軍は非常に苦しいのにもかかわらず、相手の士気を崩壊させることもできるのです(ロンメルはこのようなプレイが、もちろん常に成功したわけではないものの、かなり上手かったのだと思います)。私は良くワニミさんにやられました(T_T)

 シュトライヒはハインツ・シュミットが書いているように「親切で思いやりがあった」のでしょう。しかし、敵にショック戦を強要する上では、そのような性格は阻害要因になったのではないでしょうか。

 私なんかも、装甲部隊の運用に非常に興味がありつつも、親切で思いやりがあるので、OCSのプレイが下手なままです(おい)。


<2021/05/25追記>

 その後、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』を入手したので、そちらでシュトライヒについて読んでみたところ、なかなかに興味深い感じで書かれていました。
(実はこの本は、うまく検索ワードを指定すればそれぞれの将軍についてGoogle Books上で読めてしまうようなのですが、このエントリを書いた時はうまく探せていませんでした)




 以下、このエントリ上ですでに書いたことを踏まえてこの本の記述を書いてみます。

 戦前、シュトライヒはフランツ・ハルダー(第二次世界大戦初期に参謀総長となる)をはじめとするベルリンの上級将校達と仲が良かったそうです。一方で1935年に就任した第15装甲連隊長としては部下の大隊長らと不仲になり、詳細は不明ながらも、当時の師団長であったフィーティングホフ(後に第10軍司令官や、イタリアのC軍集団司令官。最終階級は上級大将)が介入しなければなりませんでした。その時の2人の大隊長は後に大将まで昇進したそうで、一方でシュトライヒの方の最終階級は中将です。

 1939年のポーランド戦では「目立たない」役割を果たします。フランス戦の初頭で第7装甲師団長であったロンメルと架橋用装備を巡ってシュトライヒは論争をしたわけですが、この本によれば「ロンメルは、その装備が第5装甲師団のものであったことから、高圧的かつ非礼な態度をとったと考えられていた。しかし一方、ロンメルは追撃の勢いを維持しようとしていたのであったし、シュトライヒの方の動きは非常に緩慢であったのだ。結局のところ、どちらも無私の協力者ではなかった。

 北アフリカ戦の初戦でのロンメルのシュトライヒへの見方は、「シュトライヒの司令部は贅沢をしすぎているし、シュトライヒ自身も大胆さや想像力に欠けている」というものでした(しかし、2代後の第5軽師団長であるラーフェンシュタインの司令部はかなり贅沢なものに溢れていながら、ロンメルはラーフェンシュタインを非常に高く評価していたわけですから、そこらへんはどうなのかなぁという気はします)。

 結局ロンメルはシュトライヒやオルブリヒトらを解任しましたが、その件に関して同書はこう記述しています。

 ロンメルは、自分が選んだわけではない指揮官達や参謀将校達のグループを与えられていたのであったが、そのうちの何人かはロンメルに忠誠を誓うというよりは、陸軍総司令官のウォルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍元帥と参謀総長のフランツ・ハルダー大佐に忠誠を誓っていたのである。ロンメルは、それらの全員、シュトライヒ、オルブリヒト、アフリカ軍団参謀長Klaus von dem Borne大佐、アフリカ軍団(作戦参謀長)Ehlers少佐、第104狙撃兵連隊長Hans-Henning von Holtzendorffらを交代させた。もちろん、ベルリンからは悲痛な叫び声が上がったが、この時点ではロンメルはヒトラーに非常に気に入られており、ハルダーは気に入られていなかったので、抗議の声は無に帰した。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P20



 通常、将校は解任されるとそのキャリアが事実上終わりとなるのだそうですが、この時はハルダーのおかげでシュトライヒのキャリアが失われることはありませんでした。ところが、グデーリアン麾下の自動車化歩兵師団の指揮でも非難を浴びてベルリンに戻されると、この二度目の失敗は北アフリカでの失敗よりもはるかに重大なものとみなされ、シュトライヒは7ヶ月間無役となってしまったのです。

 その後なんとか役職を得、また中将に昇進することもできましたが、重要な指揮を執ることはなく、ブレスラウの徴兵管区の司令官に任命されたのにしても「降格人事としか思われない」そうです。



 この本がロンメルびいきの本であることはあり得ることだと思われ、もしそうであるとすれば、ロンメルと衝突し非難したシュトライヒに対して辛辣な書き方になったのだという可能性もあるかとは思います。ただ、ブラウヒッチュ&ハルダー派と、ヒトラー&ロンメル派との抗争ということに関しては、他の本でほとんど触れられていない、非常に面白い側面だなと思いました。

<追記ここまで>

SCS『The Mighty Endeavor 2』のエラッタや、和訳の改善点等

 SCS『The Mighty Endeavor 2』のプレイを始めてみて、エラッタを訳出してみたり、サンセット和訳の改善点などを出してみたので、プレイする人の利益のためにブログに書いておこうと思います。今後また新たに出てきたり、修正点があれば、追記していきます(追記はツイッター上で告知しますので、もし必要を感じられるようなら、フォローしてもらったら便利かもしれません)。




 エラッタはMMPの「The Mighty Endeavor - Expanded」にあったものです。今回我々は「Expanded(東部戦線)」には手を出していないので、そちらは訳出等していません。基本的に、現在手に入るものでは修正されている感じですね。

『The Mighty Endeavor』(2021年1月8日)

1)【『The Mighty Endeavor 2』では訂正済み】マップ上の戦闘結果表上陸戦闘の戦闘比コラムの3つが、左へずれてしまっています。ルールブック上のものが正しいものです。1:2が要塞、1:1が湿地、2:1が他のすべての地形です。

2)【サンセット和訳には記述済み】上陸戦闘のダイスを振るタイミングは、戦闘フェイズ中のいつでも、プレイヤーの望む時で構いません(例えば、上陸するユニット以外の普通の戦闘ユニットが戦闘を行った後に、上陸戦闘を行えます)。これは、SCSシリーズルールの「1つのヘクスは戦闘フェイズ中に一度しか攻撃されません。」に対する例外ともなります。

3)【『The Mighty Endeavor 2』では訂正済み】アメリカ軍の第104歩兵師団(第9ターンに到着【ルールブックとユニット上では第10ターン】)は、「d.South」ではなく「d.North」に到着します。

4)【サンセット和訳には記述済み】上陸戦闘の試みで上陸ユニットがもし全滅したならばその上陸作戦は失敗し、そのヘクスにドイツ軍ユニットがまったくいなくなったとしてもビーチポートは置かれません。

5)【サンセット和訳には記述済み】戦略移動中のユニットはオーバーランできません。

6)アーカイブサイト上の改訂ルール(2014年)を使用する際は、増援到着表上のターン表記を使用し、カウンター上の到着ターンの表記は無視して下さい。これらはターン中の増援フェイズでの場所の変更を考慮して、1ターン分異なっています。h/t Greg Tanner.








 次に、サンセット和訳の改善点です。原文にない私の注釈を【】で加えています。


2.6d ビーチポートは、補給線を設定したり、攻勢補給を与えたり、上陸作戦(2.9項)するために使うことができます。ビーチポートは海上輸送(2.10項)とヨーロッパ大陸からの海上撤退には使えません。
  ↓
2.6d ビーチポートは、補給線を設定したり、攻勢補給を与えたり、ヨーロッパ大陸への輸送(2.9項【a】ために使うことができます。ビーチポートは直接輸送増援(2.10項)とヨーロッパ大陸からの海上撤退【2.9d】には使えません。


2.7b 港は機能していなくても連合軍ユニットに補給を与えられますが、攻勢司令部を支援したり、上陸作戦する【……】
  ↓
2.7b 港は機能していなくても連合軍ユニットに補給を与えられますが、攻勢司令部を支援したり、ユニットを輸送したりする【……】


2.8 港
 機能している港とビーチポートは毎ターン、1個のユニットを輸送できます。全ての港は同じシッピングレートを持っています。この1個のユニットは、上陸作戦で輸送されるユニットの数には数えません。
 輸送では、戦闘ユニットは兵科や規模にかかわらず1個、司令部とトラックも1個と数えます。
  ↓
2.8 港湾能力
 機能している港とビーチポートは毎ターン、1個のユニットを輸送できます。全ての港は同じシッピングレートを持っています。この1ユニットは、ビーチクラスの上陸作戦サイクル用に許可されたユニットには追加されません。
 輸送の対象となるのは、あらゆるサイズまたはタイプの戦闘ユニット、司令部、またはトラックマーカーです。



2.9c 連合軍には、港毎に毎ターン輸送できるユニットの数に上限があります。
  ↓
2.9c 連合軍は毎ターン、それぞれのポート【港とビーチポート】ごとに許されている最大数のユニットを輸送するのに充分な輸送手段を持っています。【ルールというよりは、歴史的背景の説明なのでしょう】


2.9d 自軍の輸送フェイズに機能している港(ビーチポートは除く)でスタックしているユニットは、自由に盤外ボックスに戻ることができます。自軍プレイヤーターンを開始したユニットは、輸送フェイズに自由に盤外ボックスに戻ることができます(ビーチポートは不可)。この輸送は港のユニットの上限には数えません。1ターンに好きな数だけのユニットを盤外ボックスに戻せます。
  ↓
2.9d 自軍の輸送フェイズに機能している港(ビーチポートは除く)でスタックしているユニットは、自由に適切な盤外ボックスに戻ることができます。自軍プレイヤーターンを開始したユニットは、輸送フェイズに自由に盤外ボックスに戻ることができます(ビーチポートは不可)。盤外ボックスへのこの輸送は、このターンの港湾能力には影響しません。1ターンに好きな数だけのユニットを(スタック制限には従いつつ)盤外ボックスに戻せます。


2.10 海上輸送
 海上輸送とは、港に登場する増援です。直接輸送は通常の上陸に加えて行われます。
  ↓
2.10 直接輸送増援
 直接輸送増援とは、望むならば、機能する港に登場させることができる
増援です。直接輸送は通常の輸送に加えて行われます。


<2021/05/22追記>

2.11b
3)自軍の補給源まで補給線を設定している自軍のトラックマーカーから5MP以内にいる。
  ↓
3)自軍の補給源まで補給線を設定している自軍のトラックマーカーまで5MP以内にいる。
【ユニットから始めて、トラックまでの移動力を数えます。】

<追記ここまで>

<2021/05/17追記>

2.13a トラックは、司令部から自軍の補給源や別のトラックまで補給線を延長するためにのみ使用します。トラックは、司令部からユニットに設定する補給線を延長できません。
  ↓
2.13a トラックは、司令部から自軍の補給源や別のトラックまで一般補給線を延長するためにのみ使用します。トラックには突破能力はなく、司令部からユニットに設定する補給線を延長できません。


2.13c 補給線を設定している司令部(トラックの使用は問わず)に補給線が設定しているトラックの5MP以内にいる全てのユニットは通常の補給を受け取ります。
  ↓
2.13c 司令部への補給が可能な位置の(つまり、港かビーチポートへ直接、あるいはトラックのチェーンの通って辿り着くことのできる)トラックから5移動力以内にいるユニットは、そのトラックを一般補給に使用することができます(そのトラックを攻勢補給に使用できるわけではありません)。
【トラックに関して、「5移動力」という言葉はこの項にしかないのですが、トラックから(後方に向かって)別のトラックや、港かビーチポートへ補給線を引く場合の限界も「5移動力」である、ということはBGGのやりとりから判明しています。】

<追記ここまで>


2.14c 制空権
【3つ目の・】
・空域内のドイツ軍ユニットを攻撃、オーバーランする時の戦闘比は+2修正されます。
  ↓
・空域内のドイツ軍ユニットを攻撃、オーバーランする時の航空支援の戦闘比は+2修正されます【+1でなく】


2.15d 空挺降下する空挺師団ユニット毎にサイコロを1個振り、平地のヘクスに空挺降下したならば、1の目が出るとその空挺師団ユニットは1ステップを失います。ボカージュのヘクスやEZOCに空挺降下したならば、2の目が出ると【……】
  ↓
2.15d 空挺降下する空挺師団ユニット毎にサイコロを1個振り、平地のヘクスに空挺降下したならば、1の目が出るとその空挺師団ユニットは1ステップを失います。ボカージュのヘクスやEZOCに空挺降下したならば、2以下の目が出ると【……】


<2021/12/12追記>

2.16d【手順:の6つ目の文章】
上陸戦闘後にいまだ防御側のドイツ軍ユニットが上陸戦闘したヘクスに残っている時は、上陸作戦が失敗したものとみなし、上陸を試みた全てのユニットとビーチポートマーカーを出発した盤外ボックスに戻ります。
  ↓
上陸戦闘後にいまだ防御側のドイツ軍ユニットが上陸戦闘したヘクスに残っている時は、上陸作戦が失敗したものとみなし、上陸を試みた残りのユニットとビーチポートマーカーを出発した盤外ボックスに戻ます。

<追記ここまで>


2.17a 連合軍が上陸できる海岸ヘクスには、☆マークのビーチクラスがあります。
  ↓
2.17a 連合軍が上陸できる海岸ヘクスには、☆マークの中の数字で表されるビーチクラスがあります。


2.17b 全てのビーチクラスには、上陸した次のターンから毎ターン1個のユニットを輸送できます。
  ↓
2.17b 全てのビーチクラスは、上陸作戦(invasion)の2ターン後から各ターンにつき1ユニットの上陸(landing)を行えます。これは、機能している港か、ビーチポートに許されている通常の輸送です。【2.8項のことを指しているのだと思われます】


【ビーチクラス上陸表上】
第2ターン以降
  ↓
次のターン


【ビーチクラス上陸表の説明文の最初のもの】
上陸戦闘部隊:上陸作戦中の戦闘フェイズに上陸戦闘するユニット数です。
  ↓
上陸戦闘部隊:上陸作戦中の戦闘フェイズに上陸戦闘できるユニット数です。


【ビーチクラス上陸表の説明文の最後のもの】
第2ターン以降:上陸作戦した次のターン以降に、ビーチポートに輸送できるユニット数です。
  ↓
次のターン:上陸作戦した次のターンに、ビーチポートに輸送できるユニット数です。


【以後、Page8の「180度ルールとドイツ軍の降伏」の図の中】
【見出しの】180度ルールとドイツ軍の降伏
  ↓
180度ルールとドイツ軍の降伏の可能性


【ユニットの例の】降伏するドイツ軍ユニット
  ↓
降伏になる可能性があるドイツ軍ユニット


【ユニットの例の】降伏しないドイツ軍ユニット
  ↓
降伏する可能性のないドイツ軍ユニット


【最初の例の説明文】
地形によって制限されていますが、補給線は設定できています。したがって、どちらのドイツ軍ユニットも降伏しません。
  ↓
地形によって制限されていますが、補給線は設定できています。したがって、どちらのドイツ軍ユニットも降伏する可能性はありません


【真ん中の例の説明文】
中央のドイツ軍ユニットは降伏します。
  ↓
ありがちなパターンですが、翼側に位置するドイツ軍ユニットは、中央のユニットの助けにはなりません。


【最後の例の説明文】
補給線を設定できないドイツ軍の 2個のユニットが降伏します。
  ↓
連合軍戦線に取り込まれたドイツ軍ユニットは降伏の可能性があります。







 それから、ちょっと分かりにくかったところに関して、注記や、解釈を書いておこうと思います。


■元のルールブックの最後にある増援表はサンセット和訳では訳出されていません。それは全然いいと思うのですが、増援表にある「d.North」「d.South」という指定が、「1.15 増援」には原文においてもまったく触れられておらず、その件は「2.10a」に書かれています。分からなくなった時にルールブック上のあちこち探してしまうのを防ぐため、1.15項の最後に所有者が朱書きで、「d.Norht、d.Southについては2.10a」とでも書いておいた方がいいのではないかと思いました。


■「Emergency Attack」マーカーというのが入っているのですが、サンセット和訳では「突破作戦」と訳されています。しかし個人的に、「Emergency Attack」が「突破作戦」という訳語と結びつかず、違和感を感じました。しかし、ルールの内容は「突破作戦」という感じであって、「Emergency Attack」という感じではないのです。困ったもので。ルールの作成者がどういう意図でこういう名前にしたのかは分かりませんが、とりあえず「突破作戦」という訳語を「緊急攻撃」にでもしておくと幾分マシかなぁ、と思いました。
<2021/05/17追記>
 その後の練習プレイで、「この方面には攻勢司令部を宣言していない(できない)が、しかしこのヘクスだけには攻撃したい!」という局面が発生し、そういう場合に「Emergency Attack」が非常に有効だということが分かりました。だとすればこれは確かに「緊急攻撃」なのであり、その名前で良いように思われました。
<追記ここまで>


■「輸送(海上輸送)」のルールがごちゃごちゃしていて分かりにくかった面があります。現状の理解はこうです(間違っているかもしれません。その場合ご指摘いただけるとありがたいです!)。

・ビーチポートによる輸送(上陸)。ビーチポートによって上陸作戦が始まった後、ビーチクラス(上陸表)によって最初の2ターンの間の輸送量は規定されます。この期間を「ビーチクラスの上陸作戦サイクル」と呼ぶ【2.8項】らしいですが、この言葉はルールブック中ここにしか出てきません(>_<)。この期間中は、機甲師団は2個分扱いされます。2ターン後(上陸作戦したターンの次の次のターン)からは、2.8項に従い、毎ターン1ユニットを輸送できます。これはどのユニットも1個で1個分と数えます。
BGG上のSome newbie questions...の4つ目の発言と上記の理解の仕方は、理屈がやや異なるのですが、最終的には同じ結果になると思うので、問題ないのではないかと……)

・ビーチポートによる輸送は、「ボックス→ビーチポート」の一方通行しかないと思われます。

・機能している港による輸送。2.8項による毎ターン1個の「ボックス→港」の輸送の他に、2.9d項による「港→ボックス」、2.10項による「直接輸送増援」の受け入れ先となり得ます。それぞれは影響し合わず、追加的に行えます。

・2.9bにより、「ボックス→ボックス」は禁止されています。

・「港→港」「港→ビーチポート」等は、規定がないので多分できません。


■「3.3d 180度ルール」に関するサンセット和訳の図を見ていると、180度ルールに引っかかるとドイツ軍ユニットは即時降伏するかのように思えますが、3.3d項自体には「補給線を設定できません。」と書かれているだけです。1.20項により、ドイツ軍ユニットは2ターン連続で補給切れであった場合に降伏(除去)となるので、あくまで(原文にあるように)「降伏の可能性」があるだけだと思われます。


<2021/05/17追記>

■連合軍側の、司令部やトラックを使用しての一般補給(および攻勢補給)について。必ず5移動力で例外はなく、またOCSのように+1ヘクスというのはありません。EZOCは通せませんが、自軍ユニットがいるヘクスのEZOCは無視しますし、+2移動力というのも無視します。司令部は後方のポート(港かビーチポート)に5移動力で受給した上で、前方のユニットに5移動力で支給します。トラックは後方へ5移動力で受給し(実は受給が5移動力だというのはルールには明確に書かれていないような気もするのですが、辻褄の問題や、BGGでのやりとりを見た感じ、これで正しいと思われます)、前方の司令部あるいはユニットから5移動力で受給され得ます。

 この規定のため、地形によっては同じ状況で「司令部は前方のユニットに支給できる」が「ユニットが後方のトラックに受給できない」というケースが起こりえます(以下、https://boardgamegeek.com/thread/953967/article/11845510#11845510から)。

 例えば、6ヘクスのヘクス列があるとします。最初のヘクスにはトラック、または司令部があり、最後のヘクスにはユニットがあるとします。地形が、

 C=平地(1移動力) W=森(2移動力)

 C-C-C-C-C-W

 であった場合、Wにいるユニットは後方の、最初のCにいるトラックに5移動力ちょうどで受給できますが、最初のCにいる司令部はユニットのいるヘクスに入るために1、1、1、1、2の計6移動力必要であるため、支給できません。もし地形が「W-C-C-C-C-C」であった場合にはこの関係が逆になります。


■制空権マーカーは航空フェイズの最後に配置するのですが、航空支援マーカーはいつ置くのか? 明確には書かれていないのですが、辻褄的に、連合軍側が手元に取っておき、残りのマーカー数を勘案しながら、戦闘フェイズ中のオーバーラン、戦闘フェイズの攻撃、突破フェイズ中のオーバーラン……に、振り分けていくのだと思われます(航空フェイズ中にそれらを全部置いてしまえるわけがないですからね~)。

<追記ここまで>

<2021/05/22追記>

■「ボックス→ポート(機能している港とビーチポート)」の輸送はいつ行うのか(移動フェイズ中か? 輸送フェイズ中か?)が明確に書かれていないように思えます。が、BGGにあるPDF「Flatten the Learning Curve Rules Summary」を見ていると、輸送フェイズ中に行うように見えます。


■攻勢司令部を宣言した後、ユニットが攻撃やオーバーランを行う時には、攻勢司令部の支給範囲内にいないといけません。が、その時、攻勢司令部はポートに繋がっていなくてはいけないのか? ルールには明確に書かれていないように思えます(前掲のBGGのPDFを読んでいると、繋がっていなければならないように感じますが)。しかしまあ、常識的に考えて、繋がっていなければならないのでしょう(^_^;

■このゲームは戦略移動を非常に多用できる(局面がある)のですが、司令部とトラックは戦略移動できないという規定があるので、戦線の大移動についていけない可能性があるので注意が必要だと思いました。司令部とトラックはまた、基本的に突破能力を持っていないのですが、パットンの第3軍司令部だけは突破能力を持っています。パットンすげぇ……。

<追記ここまで>


SCS『The Mighty Endeavor 2』を初めて少しプレイしてみました

 ワニミさんと、SCS『The Mighty Endeavor 2』を初めて少しプレイしてみました。

 SCS(Standard Combat Series)自体、プレイしてみるのは初めてです。

 シナリオはいくつか用意されているのですが、ノルマンディー上陸作戦直後から始めると全然進撃できないと思われたので、その次の8月1日シナリオを並べてみました。




 ↓8月1日開始シナリオセットアップ時。

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 史実を調べてみるとこの時期は、コブラ作戦でアメリカ軍が西側の海岸を南に押し込んだところで、この後2ターン(このゲームは1ターン約10日)かけて画像の下半分をアメリカ軍が席巻し、ファレーズポケットが形成されるもののようでした。



 2人ともまったくルールを理解していないので、とにかくルールを確認しながら少しずつプレイしてみてました。




 ↓第1ターン終了時。

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 ワニミさんが担当した英連邦軍とアメリカ軍が若干の突破をし、私が担当したドイツ軍ターンになって、よく分からないながらも河川を利用して戦線を張り、機甲予備を3カ所にスタックさせてみましたが、どうなるのか……?

 SCSは敵ZOCに入るごとに2移動力を消費するので足止めのために、全滅確定のしんがり部隊を置くべきかという案もあったのですが、とりあえず今回は「いのちをだいじに」してみました。この後のターンを今後プレイしてみて、どんな感じか見てみたいと思います。



 ちょっとプレイしてみての印象ですが、「敵ZOCにいない予備を確保しておくべき」とか、「連合軍側は第二次上陸作戦や空挺作戦の可能性をちらつかせておくべき」とか、逆にドイツ軍側はそのためにマップ全体からどれだけ戦力を主戦線へ向かわせるかが難しいとか、かなり面白そうな印象を受けました。もちろんルール的にもプレイ的にも、(分かってみれば)OCSよりよほど楽にプレイできそうな感じです。

 また続けてプレイしたりしていこうと思います。

OCS『Burma II』シナリオ1「オペレーション・サーズデイ」をオンライン対戦しました

 富山のKさんと、OCS『Burma II』のシナリオ1「オペレーション・サーズデイ」をVASSALオンライン対戦できました。


 全9ターンでKさんが英連邦軍を担当し、そのチンディット部隊が鉄道線の切断を狙います。私が日本軍を担当しましたが、鉄道線を切断されていない状態を狙いたいところではありますが無理っぽいので、1ユニット4VPにもなる敵ユニットの壊滅を狙う感じです。


 ↓第1~3ターン。

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 英連邦軍の降下地点は2カ所で、南方のものはKathaへの鉄道支線の切断を狙います。日本軍は南方からの増援を係争地へと急がせていましたが、その隙に後方地帯へと進出されてしまいました




 ↓第4~6ターン。

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 後方へ進出した英連邦軍ユニットは、日本軍の補給集積所を占領してSPを獲得します。さらなる南方からの増援で日本軍はその部隊に攻撃をかけましたが、逆奇襲で損害を受け、逃がしてしまいます。




 ↓第7~9ターン

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 日本軍はその後も4回にわたって攻撃をおこないましたが、最後のもの以外はすべて逆奇襲を食らい、まったくどうにもなりませんでした。開始から4回連続逆奇襲は記録的運の悪さ!?(AR差は-1程度だったので、4回連続6以下が出たことになります)


 ただ、そこまでダイス目が悪くなければ、バランス的にはそれほど悪くはないと思われました。


 反省点としては、日本軍は自軍のSPを絶対に奪われないようにしたいですね。英連邦軍の補給事情は相当悪いらしいです。また、航空爆撃力はDGを狙うには低すぎるので、常に航空阻止(移動妨害)に使用した方が良さそうです。

 英連邦軍側は、速攻でインドウ(Indaw)を攻撃してそこにある補給を手に入れるというのはもしかしたらあるかもしれないと思いました。


 シナリオは「鉄道線の完全支配」が争点なんですが、Kathaへの支線もそれに含めて、そこを英連邦軍が狙うと、英連邦軍にとってのジレンマが少なすぎる(あまりにも有利すぎる)きらいがあるかもと思いました。プレイ前に相談して、含めるべきか、含めないことにするか、決めるのはありかと思いました。

 あと、OCSは通常、「ある地形が少しでも含まれていればその地形」なんですが、それをやると「この平地の広がりはまったく存在しないのと同じ」というヘクスが複数あり、それらは一応平地だと見なしてやりましたが、厳密に守るならそれらはジャングル等となり、英連邦軍側にやや不利に働くと思われます(こちらはルール遵守で、先述のものはルール無視の可能性があるので、こちらをまずはやった方がいいかもしれません)。



 次回のKさんとのオンライン対戦は、5月22日(土)に、『Burma II』の練習シナリオの予定です。


ドイツ軍指揮官人物伝:フォン・シュヴェッペンブルク将軍について

 OCS『Case Blue』の「世界の果て」シナリオに出てくる軍団の司令官について、フォン・マッケンゼンはドイツ軍指揮官人物伝:フォン・マッケンゼン将軍(第3装甲軍団長)について (2021/05/03)で書いてました。

 今回はもう一人のフォン・シュヴェッペンブルクについてです。資料的には前回と全く同様で。

 彼の名前はレオ・ガイヤで(もっと長い表記もありますが)、「ガイヤ」と書かれる資料も多いです。




GeyrvonSchweppenburgLondon

 ↑シュヴェッペンブルク(1935年、駐英ドイツ大使館付武官の時の写真:Wikipeidaから)



 シュヴェッペンブルクは教養があり、ロシア語、フランス語、英語ができたそうで、1933年から1937年にかけてロンドン、ブリュッセル、ハーグのドイツ軍公使を務めます(『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P176)。

 その時のこととして、『ドイツ軍名将列伝』にはこう書かれています(この本、索引にシュヴェッペンブルクが載っていません……)。

 英国駐在武官に任命された時、国防軍情報部長のカナリスは彼に、地位を利用して英国での秘密諜報(スパイ)活動を行ってくれないかと依頼した。しかしガイヤ【シュヴェッペンブルク】は「自分の任務を遂行するには、相手国の軍人との偽りのない名誉ある相互理解が必要だから」との理由で、カナリスの要請をにべもなく拒絶した。
 そして、彼は実際に英国の軍人(後に戦車用兵の先駆者として名声を得るJ・F・C・フラーやリデル・ハートも含む)や外交官と緊密な友好関係を結び、彼らとの会話などを通じて情勢判断を行った上で、本国に報告書を送ったが、彼の結論は「英国との開戦はドイツにとって大いなる不利益をもたらす」というものだった。
「ドイツの弱点は、資金と物資の不足から長期戦に耐えられないことだが、イギリスは米国の好意的中立と経済支援を当てにできる。戦争初期で優位に立っても、決定的なものにはなり得ない。また、イタリアと日本との同盟も、英国の力を弱める役には立たない」
『ドイツ軍名将列伝』P206,7



 帰国後は、2歳年下のグデーリアンと共に装甲部隊創設の中心的メンバーとなります。

 彼が、戦車に関する知識および装甲師団を中心とした電撃戦による新戦略の可能性を見出したのは、英駐在武官時代にリデル・ハートやJ・F・C・フラーらとの交流を深め、彼らの理論をつぶさに研究する機会があったからである。
 彼は、騎兵総監クノッヘンハウアーを中心とした騎兵主力論者の一員であったが、帰国後、ハインツ・グデーリアンの理論に同調し、装甲部隊創立推進の中心的メンバーとなった。彼は、前述のハートやフラーから得た知識と、自身が経験した装甲部隊に関する各種施設や戦車そのものの視察レポートを体系的にまとめ、グデーリアンが練りつつあった装甲部隊創設の構想とその運用、電撃戦理論の検証など、さまざまな面でのよきアドバイザリー・スタッフとなった。
『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』P118




 第3装甲師団長となってポーランド戦でグデーリアン麾下で活躍し、フランス戦では第24軍団長(ほとんど戦わなかったC軍集団麾下)。

 対ソ戦ではグデーリアン麾下で第24装甲軍団長として、辣腕かつ勇敢な指揮官として名をはせて一度ならず死を免れ、クルィチャウやロスラウリの戦いを成功させた、とのこと(『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P177)。なんと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のプレイ時に激しく戦っていたあの両地域を指揮していたのですね。続けてタイフーン作戦ではツーラを包囲する位置まで前進(これもOCS『Guderian's Blitzkrieg II』でプレイしてました)。

 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』と『Guderian's Blitzkrieg II』の第24装甲軍団司令部ユニット。

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 1942年の青作戦ではまずヴォロネジ方面で成功を収めた後、7月にシュトゥンメから第40装甲軍団長の職を引き継ぎ、コーカサス方面へ進撃するも、前進が行き詰まり始めた10月に罷免され予備役に編入されたそうです(『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P177と『ドイツ軍名将列伝』P208)。

 ↓OCS『Case Blue』の第40装甲軍団司令部ユニット。

unit9386.jpg




 1943年2月にシュヴェッペンブルクは西部戦線の第86軍団長に任命され、同年5月には西方総軍戦車部隊司令官という役職に就きました(『ドイツ軍名将列伝』P208)。

 ここでシュヴェッペンブルクは、装甲部隊の使用法についてロンメルと大きく衝突したとされているそうです。

 ロンメルを一番批判していたのは、ルントシュテットではなく、レオ・ガイル・フォン・シュヴェッペンブルクだった。経験豊かで長年装甲部隊の指揮官も務めていたこの参謀将校は、ソ連戦線で幅広く経験を積んでいた。ガイルは1943年7月に西部装甲部隊の司令官に任命されると、すぐに、連合軍の進攻に対して装甲師団を用いる独自の作戦を立案し始めた。ガイルは連合国海軍、空軍の潜在的影響力を認識してはいたが、ソ連やアフリカで戦車の慢性的不足の対応策として生まれた(と彼は考えていた)戦闘団戦術はさほど高く評価していなかった。これらの小規模な部隊では、とくに連合軍の火力には太刀打ちできない。必要なのは、進攻地点の海岸を大規模、すなわち師団以上の兵力で反撃することだというのだ。さらにガイルは、装甲部隊を海岸から遠ざけて、大規模に戦闘に投入すべきだと主張していた。この動きは空軍力では止められない。遅らせるのが関の山だ。おそらく有能な指揮官が率いる熟練した部隊なら、必要な時に必要な場所に到着できるだろう。
『パットン対ロンメル』P325,6



 ところが、両者の反目についての説は、今は批判的に見られているようです。

 西方の装甲部隊を統一指揮するために新編され、1944年1月24日付で西方総軍直属となった西方装甲集団の司令官、男爵レオ・ガイヤ・フォン・シュヴェッペンブルク装甲兵大将も同意見であった。シュヴェッペンブルクは、装甲部隊をばらばらにではなく集中運用することが重要だとみなしており、その集結のためには、24ないし48時間かかるだろうが、連合軍の主攻正面をみきわめるには、それぐらいの余裕が必要だというのが、この装甲兵大将の判断だったのである。
 ちなみに、シュヴェッペンブルクは、ノルマンディ上陸作戦を扱った多くの戦記物で、ロンメルの「敵役」にされており、東部戦線の流儀を西部戦線に持ち込み、敵空軍の脅威を軽視してドイツ軍の敗北を招いたとされている。けれども、彼が戦前にロンドンのドイツ大使館付陸軍武官を務めており、国防軍きっての西側通とされていたと聞けば、おのずから評価も変わってくるだろう。彼は、敵の航空優勢下で行動する際の困難についても、充分に理解していたが、後方地区からの夜間前進により、連合軍の海岸堡、あるいは、その主攻正面に、装甲部隊を集結させることは可能だと考えていた。
 こうしたルントシュテットとシュヴェッペンブルクの見解をみれば、彼らが連合国を内陸に引き込んで決戦をはかろうとしていたとする従来の説は誤解であるとわかる。彼らもまた、海岸堡付近、ただし、艦砲の射程外での反撃を企図していたのだ。
『「砂漠の狐」ロンメル』P276



 『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)には、シュヴェッペンブルクとロンメルは「なんとかうまくやっていた」と書かれています。

 ロンメルはガイヤとの間で激しい意見の相違があったと語っており、「彼が私の計画に譲らないので、最近は非常に関係が悪くならざるを得なかった」と述べている。それにもかかわらず、二人がなんとかうまくやっていけたのは、度量の広い人物であるガイヤがロンメルの中に、軽蔑するフォン・ブラウヒッチュのような「狭量で融通の利かない精神」を見いだしていなかったからだろう。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P177




 ノルマンディー上陸作戦が始まった直後、シュヴェッペンブルクは負傷、解任されてしまいました。

 ノルマンディーの戦いでは、ガイヤ将軍はドイツ軍西方総軍戦車部隊司令官として、その確かな腕前を発揮する機会がほとんどなかった。1944年6月8日、ロンメルがパリから彼を召集し、ディーヴ・シュル・メールの東側からティリー・シュル・スールまでの全領域【カーンの前面すべて】を担当させた後、彼はイギリス軍への反撃を準備した。しかし、その翌日、トゥリー・アルクールから4マイルほど離れたラ・ケーヌのシャトーにあったガイヤの司令部は航空機の爆撃で全滅し、ガイヤ自身と第7軍参謀長であるマックス・ペムゼル少将は幸運にも逃れた【ただしシュヴェッペンブルクは負傷している】ものの、彼の参謀長であるフォン・ダワンズ少将をはじめとする上級将校のほとんどが戦死したのである。7月5日、ロンメルはサン・ピエール・シュル・ディーヴ近くの森でガイヤに会い、彼が解任されたことを告げた。「あなたが交代されることになったことを伝えに来たのだ。ルントシュテットも解任された。私も近々そうなるだろうが。【?  I’m the next on the list,】」と元帥は言った。
 フォン・ガイヤ将軍は、戦争を生き延びて、優れた軍事史家、解説者になった。
 ハンス・シュパイデル将軍は、彼をこう評している。「シュヴェッペンブルクは軍事的にも政治的にも有能で、新しい戦争で得られた経験から推論することができる希有な人物であった。彼は、ロンドンの軍事公使として、ドイツの孤立化が進んでいることを揺るぎなく恐れずに報告し、その警告が彼の召還につながった」。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P177,8



 しかし『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』では、シュヴェッペンブルクは割と酷評されております(^_^;

 洗練されたマナーと繊細な神経を持ち合わせた彼は、グデーリアンとともに装甲部隊の創設に深く携わったことを誇りとしていたが、時代の流れを読む才能が欠如しており、大戦末期まで、装甲師団万能論者であった。
 また、戦車戦の経験だけは十分に積んでいたが、独創的なアイディアや創造性に乏しく、数値と統計による客観的な情勢分析を得意とする典型的な参謀将校の領域から、最後まで脱却することができなかった。

『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』P118



 えらく毀誉褒貶が激しくて、どう考えたものですかね~……(貶す方向で書かれているのは、ロンメルとの反目でロンメルを是とし、シュヴェッペンブルクを否とする立場で書かれたもの……という推測はあり得そうな気はしますが)。

北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか?

 現状の手持ちの資料からで、北アフリカ戦時のイギリス軍の戦い方の特徴について、いったんまとめておきたいと思います。



 資料を読んでいて特徴的だと思うのが、元々イギリス軍および英連邦軍は「バラバラ度」が強く、それがモントゴメリーによってようやく統合された後でも、ドイツ軍の標準レベルにも追いついたわけではなかった……らしいことです。

 モンゴメリーは大改革に乗り出し、軍紀を正し、彼の命令に疑問を挟む傾向のある多くの先任将校を更迭した。連絡、訓練、参謀の仕事が劇的に改善されたアラメイン戦、グッドウッド戦、マーケット・ガーデン作戦中に見られた交通渋滞を考えれば、改善されたと言っても、ドイツ軍の標準レベルに追いついたとは言えない)。とりわけモンゴメリーが決意したのは、これ以上イギリス軍の戦力を、逐次投入しないということだった。「ジョック・コラム」は廃止され、将官たちはその言葉を口にすることさえ禁止された。師団は以後、師団として戦うようになり、師団砲兵は師団長の指揮下に置かれ、「旅団グループ」は廃止された。所属師団から旅団を分離することは公式には禁じられたが、実際には特別な転属は続けられた。
 しかし最も重要だったのは、モンゴメリーが王立戦車連隊と総参謀の記章のついた黒いベレー帽を被ったことだった。歴史研究家のバリー・ピット【『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』などの三部作の著者】は「歩兵と機甲、その両方の知識がある一つの命令系統の下、両者の協力体制が約束された」のだと書いている。
 モンゴメリーにとっての最初の本当の試練は8月末のアラム・ハルファの戦いで、イギリス軍第22機甲旅団が、それまで見せたことのないような訓練と戦術的ノウハウを実演したのだった。前進してきたドイツ軍戦車はイギリス軍対戦車砲のスクリーンに引っかかり、待ち構えていたグラント戦車から反撃を受けた。ドイツ軍は突出してきたイギリス軍戦車を、いつも通り破壊できるだろうと完全に思い込み、自軍戦車を対戦車砲スクリーンの背後に後退させた。しかし、そうはならなかった。戦車隊には決して追撃しないようにとの厳命が下されており、ドイツ軍の88ミリ砲の射程外で停止し、一晩中、砲兵射撃を浴びせたのである。翌日もその日の夜も同じことが繰り返され、燃料が残り少なくなったロンメルは退却したのだった。
 両軍とも物理的な損害は大きくなかったが、イギリス軍はアラム・ハルファ戦の成功で士気が大いに高まり、諸兵科の集中、緊密な連携の効果が明らかとなった。砲兵の支援を受けた歩兵の攻撃という戦術の変換によりドイツ軍を出し抜いた、第2ニュージーランド師団長フレイバーグ将軍の功績も大きい。要するに、彼は歩兵が「戦車の従者」であり続けることを否定したのだ。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P79,80


 「歩兵と機甲、その両方の知識がある一つの命令系統の下、両者の協力体制が約束された」「砲兵の支援を受けた歩兵の攻撃」「彼は歩兵が「戦車の従者」であり続けることを否定したのだ」等々とあり、ある意味「よっしゃ!」という文脈で書かれているわけですが、ゲーマーからすれば(あるいはドイツ軍からすれば)、「いや、そんなの当たり前にできていて当然じゃん」という感じでしょう(著者も、それゆえに「ドイツ軍の標準レベルに追いついたとは言えない」と書いているわけです)。


 OCS信者としては、モントゴメリー以前の英連邦軍がどのようにルール化されているか、されるべきか大いに気になるところですが、『DAK-II』ではそこらへん何の縛りもないように見えます。私なりに大いにデフォルメしてルールを考えるとすれば、

・英連邦軍は、歩兵、機甲、砲兵の3種類の異なる兵科ユニットを一緒にスタックできません(ゆえに、一緒に防御することもありません)。
・歩兵と機甲は、同じ攻撃に参加できません。
・砲兵ユニットや航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対して、歩兵と機甲は攻撃できません。独自の砲爆撃力を持つ支援グループ(歩兵)や旅団グループ(歩兵や機甲)等の、砲兵以外の砲爆撃によってDGになった敵ユニットに対しては、歩兵と機甲は攻撃できます。

 ……という感じでしょうか? まあ、OCSではそこまで戦術的なことを織り込むのは難しいとも思われ、BCSの『Brazen Chariots: Battles for Tobruk, 1941』などではどうなっているのか、気になるところではあります。




 で、なぜイギリス軍(英連邦軍)は元々バラバラだったのか? です。

 歴史的経緯や、精神的な傾向に由来するのではないかと推察されますが、どうも↓ここらへんが理由のように思われます。

 第8軍の最大の泣き所は、リーダーシップとドクトリンとにあった。概して、イギリス軍の戦術は、テンポが遅く、教条主義的で、保守的だった。戦前、イギリス陸軍は職業軍人で構成されており、植民地を維持するため、世界各地に散らばっていた。師団単位の作戦に参加した経験をもっていた旅団はごく一部で、軍団単位の作戦となると、殆ど皆無だった。そのため、イギリス軍は拠点防御においては、たとえ包囲下にあってもよく戦ったが、司令官たちの多くは、機動戦、特に攻勢時の機動戦を戦う準備ができていなかった。
 【……】
 なお悪いことに、砂漠という環境は、イギリス軍にとって不利に働いた。兵士の密集度が低く、開けた地形が続く砂漠では、より柔軟に部隊編成を行い、機動戦を展開した軍のほうが、有利に戦えたのである。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP26,27


 個人的に特に注目したのは、「教条主義的」で「小さい部隊で戦うことには慣れていたが、大きい部隊で連携して戦うことには慣れていなかった」という辺りです。「教条主義的」であるが故に後に述べる「2つの極論」に走り、またその片方の「戦車単独万能論」など、「連携せずに戦う」という方向性になったのではないでしょうか……?

 「連携せずに戦う」という方向性の故、こういうことになっていたようです。

 一見したところでは、ドイツアフリカ軍団も、砂漠のイギリス軍指揮官がその後二年間不平をもらし続けた、その場しのぎの兵や部隊の寄せ集めと大差なかった。しかしドイツ軍は勝利の波頭に乗っていた。彼らは自分たちの、将校、訓練、ドクトリンに自信を持っていた。彼らの師団は状況が変わるごとに組み合わされ、また組み直されて共に戦うよう訓練を受けた熟練した専門家のチームだった。この「戦闘団」体制は、歩兵中隊に至るまですべての部隊に日常任務を行なうために必要な固有の専門部隊と支援兵器とを供給するというドイツ軍の手法によって強化されていた。その組み立ては子どものレゴブロックに似ている。個々のピースがひとたびしっかりと組み合わされれば、最終的な形が不格好でも持ちこたえることができるのだ。
 それとは対照的に、イギリス軍の連隊制度は個別化することを促進してきた。つまり歩兵部隊、機甲部隊、砲兵隊のみならず、同じ兵科の異なる部隊がそれぞれの方針を採っていた。ふたつのイギリス軍連隊が確実に協力する唯一の方法は、指揮官が互いの妻と寝た場合だけだという砂漠のユーモアにそれが表れている。ロンメルの急速に集結しつつある軍勢に直面した将校や兵士は、ほとんど誰もドイツ式の戦争を経験したことがなかった。一九四○年の戦役に参加した兵士のほとんどはイギリス本国にいた。ドイツ軍がどのように戦ったかを示す手引き書やマニュアルはまだ執筆中で、迎え撃つためのドクトリンも開発途中だった。イギリス陸軍が戦術的な時代遅れから脱出して、一年前の戦場にいた軍ではなく、目の前に存在する敵ドイツ軍と戦う形勢に立てたのは1944年のことだった。
『パットン対ロンメル』P217,8



 イギリス第8軍では、そもそも指揮官同士がお互いを嫌って信用しないというということも多かったらしいです。
(尤も、ロンメル麾下でも最初はロンメルへの反発があり、ロンメルの方が悪い面もあったようにも思いますが、ロンメルがそれらの反発する指揮官をクビにして、自分の意に沿う指揮官を任命して以降、チームワークが良くなったようです。そういうことをイギリス軍側は、モントゴメリーが果断にやるまでできなかったということなのでしょう)

 第8軍の指揮環境はといえば、これら【ドイツ軍の指揮環境】すべてからほど遠かった。上級将校は互いを嫌って信用しないのが普通で、命令がもとで議論が始まったり、協力したとしてもその場限りということが多かった。
『パットン対ロンメル』P257

 【……】アフリカ軍団はしっかりと組織された戦闘部隊であり、その指揮官達は共通の戦術ドクトリンと、規律の高さを誇っていた。対照的に、幾人かのイギリス軍の指揮官達の間の人間関係 - 特に機甲師団の間での - が最悪であることは皆が知っていることであり、しかも議論を元に命令を出すという一般的な傾向があった。
-南アフリカ軍公式戦史
『Rommel's North Africa Campaign』P150






 次に、より戦術的な話を。良く知られている、歩兵戦車と巡航戦車という枠組みについてです。

 【……】当時のイギリス軍に本当に欠けていたのは戦術であり、即ち戦車、歩兵、砲兵が連携する戦い方であった。
 【……】
 そこには2つの極論があった。1つは、戦車は歩兵の戦術的目標を制圧するための補助的兵器であるという見方。もう1つは他の兵器の助けなしで戦闘に勝利できるという見方である。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P76


 で、この2つの極論に従って、2系列のまったく異なる戦車群が開発されていくことになります。

 1つめの見方によりマチルダMk.IIのような歩兵戦車が作られ、歩兵を支援します。あくまで歩兵が主であり、戦車が従です。地点や地域の確保のためにその力を発揮します。

 2つめの見方によりクルセイダーのような巡航戦車が作られ、戦車だけで部隊を編成して突破行動を行います。足の遅い歩兵や砲兵は連れていきません。純粋に戦車だけの部隊です。なぜなら、戦車は他の兵器の助けなしで戦闘に勝利できる(ハズだ)からです。


 結果的に、こうなりました。

 【……】深刻だったのは、戦術の発展が偏向してしまったことである。歩兵と砲兵【と機甲】は、完全に独自の戦術にのみとらわれていた。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P76




 イギリス軍は、その空軍ともバラバラだったそうです(以下、ホバートらの戦車単独万能論についても触れられています)。

 1930年代半ばのイギリス陸軍では、ホバートなどの先進的な戦車派の将校たちは「最新の装甲機動戦理論に基づいて戦う友軍戦車は野砲の支援射撃がなくても敵の対戦車砲を脅威としないが、敵戦車は友軍の優れた防御戦術により2ポンド砲で阻止できる」という不思議な考えを抱いています。
 一方、先進的な戦車派の将校たちが期待していた航空支援とはどんなものだったのかといえば、それには具体的な姿というものがありません。航空優勢を獲得しなければ砲兵戦が戦えず、陸戦の勝利には航空優勢が不可欠であることが当時でも自明のこととして認められていますが、絶対に不可欠であるがゆえに考察が甘くなっているのが戦間期の装甲機動主義者たちに共通に見られる傾向です。よく考えてみれば、戦略爆撃空軍志向のイギリス空軍にはJu87シュツーカなど急降下爆撃機は1機も存在せず、そのうえ機動戦対応の空地連絡組織などは影も形もありません。それなのに、航空支援は空軍の仕事だとして、距離を置いて眺めてしまう姿勢は空軍独立の弊害の一つなのかもしれません。
 砲兵支援の放棄と、航空への非現実的依存と航空軍備の実態との落差は再び起きた世界大戦でイギリス陸軍の装甲機動作戦の大きな欠陥として作用します。空軍の独立が早く、しかも戦略爆撃志向で育っていたイギリスでは、似たような航空依存や砲兵軽視傾向があったドイツよりも陸軍と空軍との距離がいっそう遠いのです。このまま戦えば、敗北は決定したようなものでした。

『「砲兵」から見た世界大戦』P50,51



 結果として、例えばこういうことが起こっていたそうです。

 【クルセイダー作戦の時】大変興味深いことに、第1機甲旅団からヴァレンタイン戦車の増強を受けていたニュージーランド第2歩兵師団は、待機中であり、救援を申し出たのに対し、イギリス軍機甲部隊はその協力を得ることを嫌い、拒否したのである。この戦争中に英連邦軍内の様々な部隊間で、きちんとした協力体制が取られるには、まだあまりにも早すぎたのだ。
『Rommel's North Africa Campaign』P107,8

 【ガザラの戦いの時、連携改善の努力にもかかわらず】悲しいかな、期待されていたように、高いレベルでの諸兵科連合は実現しなかった。機甲旅団は以前同様、自前の戦車だけで戦い続け、同じ師団に属する自動車化歩兵、歩兵師団【旅団?】はお構いなしだった。ある1つの目標に対し、諸兵科連合部隊が集中攻撃を行う光景は、ついに見られなかった。
 司令官たちは、どう見ても戦前に受けた訓練と経験に縛られていたようで、旅団規模の【機甲旅団や歩兵旅団同士の?】諸兵科連合部隊を指揮できる状態ではなかった。戦闘部隊の基幹は師団ではなく旅団であり、旅団グループの存在は、その考え方を強調しただけだった。命令系統に根差す問題が、ようやく顕在化した。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P78


 OCSレベルのゲームをプレイする場合、こういう風な連携の取れなさは、前述のような特別な制限ルールでも付けなければ、想像するのも難しいですね(^_^;
 あるいはTCSのようなかなり戦術級に寄ったゲームを多人数でプレイしている場合ならば、一人のプレイヤーが勝手に戦車部隊で突っ込んだり、味方プレイヤーが支援を申し出たのにそれを拒否する、というようなことは起こりえるでしょうか(^_^;




 ところが、このような傾向のあった英連邦軍ですが、1940年末から1941年にかけて、イタリア軍相手には大勝を収めます。それはイタリア軍がこのような英連邦軍よりもさらに拙劣であったのと、ほとんど自動車化(機械化)されておらず、当時オコーナー将軍が行った迂回戦術などに抵抗できなかったためだと思われますが、この勝利によって英連邦軍は、ある意味「間違った教訓」を得てしまったのでした。

 【……】練度も士気も高い同師団【第7機甲師団】は、装備状態は劣悪なれど数で圧倒するイタリア軍を容易に撃破した。この初期のイタリア軍に対する武功が、不幸にも「全戦車」主義【戦車単独万能論】に拍車をかけることになり、「ジョック・コラム」を編成することが戦術上、重要であるという過てる認識へと誘導したのだった。
 当時の砂漠戦では、第一次大戦で失敗したことは、機動力、広域展開、襲撃に毛の生えたような「戦術」でカバーできるという考えが支配的だった。砂漠戦というロマンチックな響きにも助けられ、任務部隊や装甲車、トラック乗車の歩兵、砲兵で構成される「哨戒グループ」が脚光を浴び、最も成功を収めた司令官、ジョック・キャンプベル准将(戦功十字章授章)の名が広く知れ渡るようになった。主に機甲師団の支援グループから部隊を引き抜いたため、ジョック・コラムが一番影響を与えたことは、ただでさえ少ない機甲師団の支援歩兵、砲兵を分散させたことだった。しかし機甲師団の戦車兵たちは、当時はあまりそのことを気にかけなかった。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P77



 また、その後に現れたドイツ軍に対して当時イギリス軍は砲兵が劣勢で、それゆえに残された強みは「機動戦」しかなく、「戦車単独万能論」に基づいて戦車を単独で突っ込ませて、ドイツ軍にやられてしまう……(イギリス軍の指揮官は「機動戦が苦手」という話が前掲引用にありましたし、そこらへんとの整合性が気になるところではありますが、「軍団規模や師団規模のイギリス軍指揮官は機動戦が苦手なのだが、機甲旅団指揮官などはホバートやオコーナーなどの薫陶を受けており、そのイタリア軍相手の成功体験から、戦車だけで突っ込む機動戦を志向した……というようなことでしょうか?)

 【……】逆に言えば火力主義に転換したはずのイギリス陸軍にはフランス敗戦後から2年間にもわたって十分な砲兵火力が揃わず、火力面でドイツ陸軍より劣勢だったということです。
 そのためドイツ陸軍との第2ラウンドである北アフリカの戦いは、イギリス陸軍にとって1930年代の機動戦ブームの残り火を引き継ぐ"昔ながらの"機動戦に逆戻りします。
 イタリア軍のエジプト侵攻を受けた際に、兵力不足のイギリス陸軍は同じく兵力不足の空軍と協同しながら、残された唯一の戦術である高速機動戦によってイタリア軍を押し返します。イタリア軍の敗因には戦術的な拙劣さもありましたが、何といっても機動戦はイギリス陸軍が世界に先駆けて長期間にわたって研究して来た戦術です。年季が違います。しかも幸運なことにイタリア軍の航空兵力はイギリス空軍よりもさらに弱体で、補給の困難なエジプト国境地帯で十分な戦力を発揮することができません。
 そして敗走するイタリア軍を追ってイギリス軍の追撃が始まりますが、その追撃戦がリビアのトリポリに迫り、エルアゲーラに達する頃、イギリス軍にもイタリア軍と同じ症状が現われます。イギリス空軍の1日あたりの出撃機数がわずか15機以下にまで落ち込んでしまうのです。そこへ増援されたロンメル指揮下のアフリカ軍団とドイツ空軍はトリポリに近いという地の利を生かし、400機のエアカバーを得て圧倒的な反撃を実施し、イギリス軍をエジプト国境まで押し戻してしまいます。
 ……
 なにしろ北アフリカの戦場では、イギリス軍は航空兵力で弱体であるだけでなく、砲兵火力においてもドイツ軍に劣っていたので、攻勢も防御もすべて機動戦に頼る以外に道が残されていないのです。
『「砲兵」から見た世界大戦』P58,9

 イギリス陸軍は長い間、戦車戦闘は主に戦車間で戦わなければならないとする考え方を持っていた。これに対して戦車後発国家のドイツ軍は、それがゆえに第1次世界大戦当時から自己の戦車の限界(数の問題も含めて)を十分意識していたし、したがって防護膜として対戦車火砲を用いることを心がけていた。両軍の間の認知と実行の深刻な不均衡は、イギリス軍が乱戦の中に突進していく傾向があったのに対し、ドイツ軍は隠蔽した低姿勢の対戦車火砲の火網の援護を受けて戦闘を遂行するという違いとなった。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P77

 ドイツ軍の防御戦術は、イギリス軍が熱望した戦車戦をできるだけ避け、戦車、地雷原、砲兵、対戦車砲のコンビネーションで対抗する、というものだった。ドイツ軍の戦車は囮の役目を果たし、対戦車砲が待ち構える場所へと、イギリス軍戦車をおびき出した。いつも目視できるドイツ軍戦車の数が少ない割に自軍の損害が大きいため、イギリス軍の戦車兵は当初、ドイツ軍戦車の砲ははるかに強力であると信じ込み、「強力な砲か厚い装甲か」論争がいつまでも続いたのだった。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P77

 ドイツ軍のパンツァー師団はチームワークを重視しており、戦車は攻防両面において対戦車火器と野戦砲兵とに密接に統合されていた。対してイギリス軍は兵科内【兵科間?】の協同が貧弱であったし、戦車があまりにも多くのことをなそうとしていた。ロンメルの組織的対戦車火網の前に、貧弱な装備と不安定なドクトリンしか持たないイギリス軍はなす術がなかった。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P76



 この状況に対してイギリス軍は試行錯誤しながら何とか兵科間の連携を図っていき、それはある程度達成されるわけですが、その果てに選択したのは「ドイツ軍と同じ様な機動戦ができるようになること」ではなく、「機動戦をそもそもしないこと(火砲と航空爆撃による戦いに持ち込むこと)」でした。

 こうした理由で、ドイツ軍の機動戦に巻き込まれ、ともすればドイツ軍の優れた砲兵火力の前に誘い出されるか、あるいは追いこまれる形で損害と撤退を重ねていたイギリス軍に一つの変化が訪れます。ドイツ軍がいかに巧緻な戦術で誘導を図っても、イギリス軍はけしてその策に嵌まらなくなってきます。ドイツ流の機動戦理論によって理詰めで追い詰められていたイギリス軍の弱体な機動戦は、ある時点から二度と再現されません。
 ドイツアフリカ軍団のどんなに巧みな誘引策も無駄になる事態が訪れることになり、友軍の集中火力の前にイギリス軍主力を誘引できなくなったことで、ロンメルのアフリカ軍団は今までのように容易い勝利を得られなくなります。それというのも、イギリス軍がこの時点できっぱりと機動戦を放棄してしまったからです。エルアラメインの戦いの前に、そうした兆候が現れます。それは1942年の夏のことです。
『「砲兵」から見た世界大戦』P60


(エル・アラメインの戦いのの時期のイギリス軍の変化が非常に重要だったという視点はいくつかの資料で述べられており、『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」の参考文献に挙げられている『Dance of War: The Story of the Battle of Egypt』はそこに関してのみ扱った本のようです。)







 イギリス軍には元々、フラー、リデル・ハート、ホバートなどの「機甲戦論者」達がおり、戦間期に「戦車を中心とした戦い」の有効性を主張して(軋轢を起こして)下野していってしまうわけですが、彼らは戦後、自分達は正しかったのであり、それを邪魔したのが守旧派だったのだと主張しました。ところが、『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」によれば、守旧派による妨害というのは彼らが主張するほどではなく、むしろ彼らの主張がイギリス軍に取り入れられていたのだ、と。むしろ彼らの「戦車単独万能論」ゆえに、イギリス軍において戦車が活躍できず(諸兵科連合するドイツ軍に突っ込んでいってボロボロに負けて)、機甲部隊の発展を阻害したのだ……としています。

 1942年夏以降、武器貸与法に基づいてアメリカ製M4戦車がイギリス機甲部隊の主力となり、ロンメルを敗北に至らしめたのが、2年の長い道程を経て大きな代償を払った結果であった。この勝利は機甲軍の華々しい戦略貫通攻撃【突破的な攻勢のこと?】というよりも、むしろ皮肉にも連合軍の非常に優越した勢力による消耗戦の結果であった。イギリス陸軍に主たる障害を課したのは皮肉にもフラーを始めとする戦車ファンの未来派と純粋主義であった。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P76





 ただ、今のコロナの状況化でイギリスは、教条主義的なやり方ではなく大規模な実験(マスクなしのダンスパーティーとか)でもって試行錯誤的により良い対処法を探そうとしているとのことで。でもこういう実験は日本ではものすごく忌避されるでしょうねぇ……(私はバランス主義者&試行錯誤主義者なので、理論よりも実験が大事だと思っているのですが)。






ドイツ軍指揮官人物伝:フォン・マッケンゼン将軍(第3装甲軍団長)について

 OCS『Case Blue』の「世界の果て」シナリオをまた始めているわけですが、マップ上に出ているドイツ軍の軍団司令部ユニットの軍団司令官を調べてみると、第40装甲軍団司令官がフォン・シュヴェッペンブルク、第3装甲軍団司令官がフォン・マッケンゼンでした。


 マッケンゼンについてちょっと調べてみたので、そこらへん書こうと思います。


unit9396.jpg

 ↑エバーハルト・フォン・マッケンゼン(英語版Wikipediaから)



 ↓OCS『Case Blue』の第3装甲軍団司令部ユニット

unit9397.jpg


 オスプレイの『The Caucasus 1942–43: Kleist’s race for oil』によると、1942年8月1日時点での第3装甲軍団麾下の部隊は、第16自動車化歩兵師団、グロース・ドイッチュラント歩兵師団などであったようです。






 マッケンゼンについては、日本語版Wikipediaにかなり詳しく書かれていました。父親アウグスト・フォン・マッケンゼンもタンネンベルクの戦いで活躍した有名な軍人らしく、そちらも詳しいのでご覧下さい。

エバーハルト・フォン・マッケンゼン(日本語版Wikipedia)
アウグスト・フォン・マッケンゼン(日本語版Wikipedia)



 手持ちのドイツ軍指揮官関係資料では、『ドイツ軍名将列伝』と『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』と『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)にのみマッケンゼンについて(項目的に)書かれていました。






 まず『ドイツ軍名将列伝』からいくらか引用してみます。

 一九三七年十月、彼は第1騎兵旅団長に就任し、以後一九三八年十一月までその地位にあったが、当時のドイツ陸軍内で勃興しつつあったグデーリアンらの装甲科には批判的で、次の戦争で彼らが騎兵に取って代わることはありえないと公然と主張するなど、事あるごとに装甲科の「戦車信奉者」と対立する姿勢を見せた。だが、一九三八年一月一日に騎兵少将へと昇進したマッケンゼンが、第11軍の参謀長として一九三九年九月の対ポーランド戦に参加した頃から、戦車という兵器と装甲科という兵科に対する彼の認識は大きく揺らぎ始めることになる。
『ドイツ軍名将列伝』P105

 クライストと同様、保守的な騎兵閥に属していたエーベルハルト・フォン・マッケンゼンは、第二次世界大戦の戦前には戦車の有効性に疑問を呈し、装甲兵科の規模拡大には否定的な意見を主張していた。だが、一九三九年九月の対ポーランド戦と、一九四〇年五月から六月の西方攻勢で、戦車という兵器の卓抜した突破能力と長距離展開の機動力を目の当たりにしたことで考えを根本から改め、一九四二年からは自ら装甲部隊の野戦指揮官として、東部戦線で縦横無尽の機動力を発揮した戦いぶりを見せることとなった。
『ドイツ軍名将列伝』P104





 『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』を見てみると、メインの文は日本語版Wikipediaの文と全く同じでした。Wikipedia上の多くの文はこの本からコピペされたものかもです(^_^;

 ただ、本の方には最後に人物像に関して詳しい記述があるのですが、Wikipediaの方には書かれていません(Wikipediaの項目にはあまりこういうことは書かれないからでしょう)。しかし私は人物像について詳しく知りたい人間であるので、そこらへん引用させてもらおうと思います(^_^;

 エヴァルト・フォン・クライスト元帥と同様に鉄仮面を思わせる冷厳な風貌を持つ彼は、並外れた名門の出自から来るプライドと、プロイセン学派を継承する一員としての自覚が、グデーリアンのような急進的な考えとしばしば対立する結果となった。しかし、聡明、かつ、機敏な軍人として機甲戦術理論の長所を素早く学ぶ努力を怠らず、その攻勢と防御を巧みに組み合わせた戦術的センスは、優れた機甲戦術家としての評価を得るに至った。
 貴族出身の将官にしては珍しく、第一線の将兵と苦楽をともにすることを厭わず、彼らの忍耐と限界の潮時を素早く見抜く才能に秀でており、将兵たちからもっとも尊敬された将官の一人であった。
彼のイタリア戦での人道的処置は、北イタリアのほとんどの地域が荒廃する激戦にもかかわらず、連合軍将兵からも尊敬の念をもって見られていた。
                                                       (戦史研究家・だてひろあき)
『ドイツ装甲部隊全史Ⅰ』P125



 しかし一方、本の方では「彼のイタリア戦での人道的措置」とありますが、Wikipediaの方ではマッケンゼンの非人道的処置について書かれています。この件に関しては英語版Wikipediaの方にもいくらか記述がありました。

戦争犯罪との関わり
1944年3月24日、ドイツ兵32人が死亡した爆弾攻撃への報復として、親衛隊情報部(SD)はアルデアティーネ洞窟においてイタリア人一般市民335人を射殺した。この行為はヒトラーの直命に基づき、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードルを通じてイタリア方面軍司令官アルベルト・ケッセルリンクに命じられたものだった。

当時マッケンゼンは第14軍司令官で、ケッセルリングの隷下にあり、ローマ占領司令官クルト・メルツァー(ドイツ語版)中将の上官という立場だった。ケッセルリングはローマの親衛隊警察長官ヘルベルト・カプラーに処刑を命じている。しかし別の資料では、マッケンゼンがメルツァーに処刑命令を出し、メルツァーが親衛隊員エーリヒ・プリーブケの処刑部隊に一般市民に対する処刑を実行させたことになっている。




 軍事的にはかなりべた褒めされている感じのマッケンゼンですが、『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)ではその失敗についても言及されています。

 イタリアでは第14軍を指揮したマッケンゼンは、アンツィオの橋頭堡を一掃するのが最初の大きな仕事だった。しかし、度重なる攻撃にもかかわらず成功せず、結局、アメリカのルシウス・トラスコット将軍のアンツィオからの突破を防ぐことができなかった。マッケンゼンとケッセルリンクの仲は悪く、ケッセルリンクはマッケンゼンが命令に従わないことを叱責したこともあった。ケッセルリンクはフォン・マッケンゼンがあまりにも杓子定規な作戦行動をとると考え、ロシアでの成功にもかかわらず、1944年6月にヨアヒム・レメルセン装甲兵大将へと交代させた。 フォン・マッケンゼンは、アルデアティーネ洞窟での大虐殺の責任を問われた。1945年11月30日に死刑判決が下されたが、後に無期懲役に減刑された。
『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)P173



<2022/06/06追記>

 その後、このような記述を見つけました。

 1944年2月、英米軍がアンツィオに上陸します。ハウザー【第14軍の参謀長】は、連合軍の航空優勢にもかかわらず、いつものように優秀な仕事をして、脅威にさらされている戦区に増援を急ぎ、充分な補給を供給し続けました。一方、フォン・マッケンゼンはアメリカ第6軍団に対して無計画な反撃を何度も行い、最終的にケッセルリンク元帥に解任されてしまいます。
『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』P24



<追記ここまで>


 できればより詳しいことを知りたい、興味深い人物ではありますが、手持ちの資料ではここらへんまでですかね~。


VASSALオンライン対戦でOCS『Case Blue』「世界の果て」シナリオを開始しました&「世界の果て」サマリー

 ずっとやっていました、尼崎会でのOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3は終了して片付けました。

 かなりバランスのいい感じで進んでいて色々勉強になったのですが、8月19日の大量退出(キエフに向かっての)を処理しなければならず、それを考えるのはしんどいということで終了となったのでした(^_^;

 次にやるものとしては『Case Blue』で青作戦を考えていたので、色々調べてみたのですが、6月28日からの青作戦シナリオは基本的に『Guderian's Blitzkrieg II』から(南端の)マップ2枚、『Case Blue』からマップ8.5枚(クリミアマップ以外全部)を使用し、一部だけ(『Enemy at the Gates』のマップ4枚など)をプレイすることは一応できるものの、別のマップセットとのユニットの出し入れをする時に「どうせ他のマップセットに行ってしまうなら、使い潰してしまおう」などの問題が出てきそうでした。とはいってもマップ11.5枚は物理的に広げられないので、「VASSALでやった方がいいんじゃない?」と。

 とはいってもワニミさんがまだVASSALを触り始めたばかりで、VASSALに不慣れだということで、練習として簡単なシナリオをVASSALでやっていってみようということになりました。そこで、OCS『Case Blue』の「世界の果て」シナリオをやることになった次第です。



 ドイツ軍がコーカサスのグロズヌイ油田を目指す「世界の果て」シナリオは以前やったことがありました。↓にその時のブログエントリへのリンクがあります。

OCSの物置:『Case Blue』6.1 世界の果て


 参考に、一部の画像をこちらにも貼ってみます。

caseblue.jpg

 ↑史実でのドイツ軍の最大進出線



スクリーンショット_160405_173

 ↑第19ターン(10月8日ターン)終了時(プレイ終了:シナリオ自体は第25ターン(10月29日ターン)まで)。



 私はその時ソ連軍を担当していたのですが、史実の線よりも遙かに進出されてしまって完全敗北だという印象があった一方、ワニミさんの方では勝利条件的に6つすべてを取らなければならない勝利得点ヘクスのうちのオルジョニキーゼ(山の麓にある)が取れず、敗北だという意識があったそうです。

 この「オルジョニキーゼを要塞化すればソ連軍は絶対負けないよ」問題は確かにまずいと思うので、「6つのうち5つを取ったら勝利」とかで良いと思いますし、大体、史実より進出したらそれでドイツ軍は勝利で良いのではないかと思います。私としては、ソ連軍はどういう風にプレイすれば史実のような進出線に抑えることができるか非常に興味がありまして、それに向けて鋭意試行錯誤したいと思っていました。




 ↓VASSALオンライン対戦での第3ターン終了時。

unit9398.jpg

 私は前回のプレイで全然前に出ることをせず、とにかく引いて守って、反撃できるような戦力が来るまでは反撃しない……という考え方でやっていたのですが、それでは全然ダメでした。ので今回は、むしろ前に出ることを意識することにしました。前回は良く分かっていなかったのですが、ドイツ軍側も補給事情は相当に厳しいらしいので、そこにつけ込んで少しずつ戦況を「悪くないものにしていく」ことを考えていきたいと思っています。




 『Case Blue』特別ルールはある程度の量がありますが、「世界の果て(Edge of the World)」シナリオで使用するものはかなり少ないと思われるので、利便のためにそこらへんまとめておこうと思います(間違いが見つかればまた追記します)。

1.2b 師団と編成規模 ……XXとあっても1RE。
1.3 天候 ……基本的にAutoで晴天。1D6の1でのみ飛行制限あり(移動フェイズにしか飛べない)。
1.8 増援 ……ドイツ軍の増援登場場所はシナリオに明記されている。ソ連軍は地図盤南端ボックス。
1.12c 一般補給 ……ソ連軍は補給源と繋がっている小道のすべてのヘクスを降車可能ヘクスとみなして一般補給を引くことができる。ドイツ軍は、攻撃可能ユニットから10ヘクス以内の、補給源と繋がっている鉄道線ヘクス(ドイツゲージでなくてもよい)を降車可能ヘクスとみなして一般補給を引くことができる。
1.13 補充 ……ダイスに-2修正し、各ポイント毎に1D6して6のみで登場。
2.1 ヒップシュート ……ドイツ軍はヒップシュート可。ソ連軍は不可。
3.3 (ソ連軍)南端ボックス ……フリーの整備能力のある航空基地あり。無限のSPはないが、補給表のSPは置ける。1ターン中に入って出るのは不可。
3.4b 即応能力の欠如……シナリオの時期は、ソ連空軍はリアクションフェイズ中には活動できない。
3.5e ソ連軍砲兵 ……同じ目標を狙うソ連軍砲兵はスタックしていなければならない。
3.5i NKVD国境守備隊連隊 ……ARを提供しなければならず、オプションナンバーはすべてステップロスで適用しなければならない。NKVD国境守備隊連隊のみで防御する場合はAR0、損耗判定にARを提供する場合のAR0。再建不可。

シナリオ特別ルール
補給表 ……「1以下」のコラムで振る。マイコプやグロズヌイの+1修正は使用しない【facebook上で確認済み】。
鉄道輸送力……両軍とも1(枢軸軍はゲージ変換される必要あり)。




 VASSALですが、OCSのモジュールは右クリックで色々なことができるのでそれをなるべく活用することと、それらにショートカットキーが付記されているので段々それらも活用することがプレイを容易にしていく鍵だと思われます。ショートカットキーを数種類使えるようになってくるとかなりプレイしやすいです。

 また、インベントリボタンで、マップ上のすべてのユニット、マーカーを一覧できるので、OCSプレイ中によくあった「マップ上に置いて使っているはずの予備マーカーがいくつか見つけられない」とか、「エクステンダーが行方不明」などの問題がすぐに解決できるのがありがたいです。


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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