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OCS『Burma II』練習シナリオのルール疑問点について

 先日、VASSALのオンライン対戦でOCS『Burma II』を富山のKさんとやってみていたのですが、ルールの疑問点がいつくか出てきたので、その時はいったんプレイを終了しておいてました。



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 疑問点とは、以下の3つでした。


1.ポーターになった歩兵大隊は移動して良いのか?

2.4b ポーター 師団司令部ユニット(モードは関係ありません)とスタックしている日本軍の移動モードの歩兵大隊は、ポーターになれます。このような大隊は、移動フェイズの開始時から司令部ユニットとスタックしていなければなりません。スタックしている歩兵大隊毎に、司令部ユニットのユニット(補給源ではありません)に対する支給範囲が1移動力増加します。【……】


 「開始時にスタックしていること」だけが条件なら、歩兵大隊も、あるいは司令部ユニットも、移動してよいようにも思えます。一方で、「スタックしている(時には or 間は)」ということが条件なら、一緒に移動することは構わないでしょうけども、別々の場所に移動したらその要件は満たさないということになりそうです。

 私が以前、ウ号作戦シナリオをプレイした時には、「ずっと一緒にスタックしていなければならない(動いてもいけない)」と思い込んでいました。今回、BoardGameGeekのフォーラムで検索してみると、ポーターに関して話題にしている発言は一つもありませんでした。なので、少なくともBGGでは誰もこのルールについて疑問には思っていなかったということになりましょう。

 ここらへんから考えて、おそらく、「スタックしている」ことも条件であり、一緒に移動することは構わないが、別々に移動すると要件は満たされなくなると考えるべきであろうと思われます。




2.連合軍の補給源は3.35だけか?

 サンセット和訳には「連合軍の補給源は、B3.35の道路ヘクスです。」とだけあるのですが、原文ではもう少し長い、「The Allied supply source is traced through contiguous road hexes from B3.35.」という文になっています。この原文はどういう意味だと解釈すべきなのか、微妙であると思われました。「B3.35から繋がるroadすべてが補給源である」という意味にもとれそうです。ただし、roadという用語にはtrack(小道)は含まれないことは確実です。

 BGGを見ていると、次のような引用書き込みがありました。コンシムでこのような記述があったとのことです。

 これは少々わかりにくいシナリオ特別ルールです。

 「連合軍の補給源はB3.35から連続した道路ヘクスを通って追跡される。これはインパールの司令部を表しています。」

 そこで私は、マップAを広げてインパールに司令部ユニットを置き、それを補給源にするという方法で対処しました。この司令部は移動できませんが、インパールから12移動力+1ヘクスのところに一般補給を支給できます(イギリス軍の司令部ユニットはすべて12移動力の範囲で支給できます)。12移動力はB3.23までの道路(24ヘクス)に届きますが、道路外には全く届かないので(小道は1ヘクスあたり8移動力)、道路上または道路に隣接(+1ヘクス)するものはすべて一般補給されます。つまり、私がここでやっていることは、この小さなシナリオがより大きなゲームの一部であるかのように、インパールにある司令部ユニットがディマプールの連合軍の鉄道終端から(トラックエクステンダーを介して)一般補給を受けているかのようにプレイしているわけです。これはこのルールの「意図」であると思われ、大きなゲームの中で補給物資の支給がどのように機能するかをうまく説明しているでしょう。


 この解釈に従って、インパールから、12移動力でB3.23までの道路ヘクスまで(そして+1ヘクスに)一般補給が引かれているということでプレイすればいいのでしょうね。もし「B3.35から繋がる道路ヘクスすべてが補給源」と解釈すれば、色々おかしなことが起こりそうですが、それはなしということで(^_^;




3.シルチャールボックスには無限のSPがあるのか?

 シルチャールボックスにはC-47輸送機ユニットが2つあり、オンライン対戦で連合軍を受け持っていた私は何の疑問もなくシルチャールボックスには無限のSPがあるものだと思い込んで、そのSPをマップ上に空中投下するのにC-47を使用していました。

 しかし、「もしかしてシルチャールボックスには無限のSPはないのではないか?」という疑問がK氏から提出されました。

 OCSではマップ外の航空基地ボックスに無限のSPがあることが多いのですが、しかし必ず(?)そのボックスに「無限のSPがあります」と規定されてもいます。しかし『Burma II』のルールを色々探してみても、シルチャールボックスに無限のSPがあるという規定は見つけられませんでした。むしろ、他のシナリオの特別ルールを見てみると、「(このシナリオでは)シルチャールボックスに毎ターン○SPが登場します。」というような記述があります。

 そうすると「シルチャールボックスには無限のSPはない」ということのように思えますが、一方で、「じゃあ、C-47は何の為にあるのか?」という疑問が湧きます。

 このあたりBGGで検索してみますと、この練習シナリオについて書かれたAAR「このシナリオではC-47にほとんど意味がない」と書かれており、それに誰もツッコミしていないことが確認できました。なので、このシナリオでは「シルチャールボックスに無限のSPはなく、C-47には意味がない」ということで良いようです。

 C-47に意味がある可能性として、「日本軍の司令部ユニットが1SPを消費して航空基地を建設し(日本軍には航空ユニットがないので、まったく意味のない行為ですが)、それを連合軍が占領し、連合軍がハンプディバージョンを宣言してその航空基地にSPを空輸したら、その航空基地にC-47を基地移動させ、マップ上の他のヘクスにSPを空中投下できるのでは」という説を考えたのですが、日本軍は軍司令部は航空基地を建設できるのですが師団司令部は建設できず、このシナリオには師団司令部しか出てこないのでこの案もダメだということが分かりました(^_^;




<2021/04/28(投稿直後)追記>

 C-47の活用法に気付きました! 砲爆撃は砲爆撃力0ではできないのでC-47で砲爆撃はできませんが、「C-47を他の航空ユニットの砲爆撃に付いていかせ、対空射撃の的を増やして、砲爆撃力のある航空ユニットがステップロスしにくくする」という方法がありますね!!

 先日のプレイでは実際、連合軍の爆撃機が日本軍の対空射撃によるステップロスさせられていたので、これは是非ともC-47を連れていって、対空射撃にはC-47の方が当たることを期待するということで……(おい)

<追記ここまで>




 今回の解釈が間違っている可能性もありますし、他にも疑問点が出てくるかもですが、それらはまた追記していくということで。とりあえずは情報の集積が大事かと思われます……。



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チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』)

 先日、VASSALのオンライン対戦でOCS『Burma II』のシナリオ1「オペレーション・サーズデイ」をプレイしている時、富山のKさんとの間で、輸送ユニットであるラバについてちょっと話題になりました。


Juancito

 ↑ラバ(Wikipediaから)。雄のロバと雌のウマの交雑種。


 ルール上はSP以外はすべてグライダー降下させなければならないので、ラバもグライダーに乗せて降下させることになるのですが、しかしそれが確認できてない時に、「ラバはパラシュート降下させられるんですかね?」というような話が出てたのです。


 ↓OCS『Burma II』のC-47、グライダー、ラバユニット

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 シナリオ1「オペレーション・サーズデイ」では、5つのC-47、9つのグライダーポイント、それに2SP分のラバが登場します。ラバは1Tサイズにも分割可能です。このシナリオにおけるチンディット部隊はすべての一般補給をSPから供給されねばならず、そして基本的にSPから2ヘクス以内の場所でしか受給できないので、SPを1T単位でもラバで運ぶのは非常に重要であると見込まれます。まさに作戦のほとんどすべてが、ラバに依存しているのです!



 で、実際にチンディット部隊の作戦時にラバがパラシュート降下させられたことがあるのかどうか、富山のKさんが調べて知らせて下さいました。

 その文が↓です。「WACO Hadrian (CG-4) Towed Military Transport Glider」というサイトから。

チンディット部隊

 次の大規模なグライダー降下作戦は、1944年3月5日、ビルマでの第2次ウィンゲート・チンディット作戦「木曜日作戦」であった。この作戦では、グライダーが暗闇の中、日本軍の前線から150マイル後方のジャングルに作られた空き地に着陸した(ビルマでこの部隊は「チンディット」と呼ばれていた)。着陸地帯はコードネーム「ブロードウェイ」と呼ばれていた場所がその日の夜に最初の目標となり、翌日にはコードネーム「チャウリンジー」にもグライダーが着陸した。第一陣は52機のWacoグライダーを第一航空コマンド部隊のダコタ【C-47】26機が曳航し、第二陣は28機のグライダーであった。翌週にはさらに600機のグライダーが着陸し、合計9,000人のチンディット兵士と1,000頭以上の運搬用ラバが着陸した


万能なラバ

 様々な面で有用であった運搬用ラバは、鬱蒼とした茂みで車両の通行がほとんど不可能な過酷なジャングルの地では、神の恵みのような存在であった。軍の運搬用ラバは、最大でその体重の2割(重火器、弾薬、通信機、Cレーション、医薬品など200ポンド【約90kg】に及ぶ)までを背負わせることが可能だった。ラバはまた、荷物が使い果たされたり、食糧の投下が遅れたりした場合には、兵士たちの緊急の食糧源にもなった。ラバは戦争で非常に重要な役割を果たしたため、元のラバが戦闘で失われた場合には代替ラバが必要であった。そのため、より多くのラバをグライダーで輸送する必要が生じたのである。CG-4Aグライダーは、間に合わせの竹製の檻に入れた3頭のラバ(安全のため、グライダーの側面にハーネスで固定されていた)とその馭者を運搬可能だった。グライダーが着陸できない場所へは、ラバはパラシュート降下されることもあった。ラバには可哀相なことながら、パラシュートを開く引っ張り動作ができず首を折るなど、基本的にはうまくいかなかった。さらに、着地の際に脚を折ることもよくあった。パラシュート降下によるラバの損失を抑えるため、空気で膨張するゴムボートでラバを包み、6個のパラシュートを取り付けたりもした。このような努力が必要だったのは、英軍の各部隊には兵士306名に対して56頭のラバとその手綱を引く調教師が必要であったからである。強靭なラバは、その耐久力、持久力、そして確実な足取りで知られていた。ラバ自身は強靭であったが、ジャングルの中で日本軍に撃たれたり、急峻な山道から落ちたりして、少なくないラバが命を落としたのであった。

WACO Hadrian (CG-4) Towed Military Transport Glider







 大変興味深かったので、他にもチンディット部隊におけるラバについて検索してみました。

 Chindit Chasing, Operation Longcloth 1943というサイトには、「Chindits with Four Legs」という題名でチンディット部隊が使用した様々な4つ脚の動物について書かれており、その中にラバの項もありました(写真もありますので見に行ってみて下さい)。ある程度の量があるのですが、その中でも個人的に印象深かった文を和訳引用してみます(ただしここの文は基本的に、OCS『Burma II』では扱っていない第一次チンディット作戦(ロングクロス作戦)の時のことを扱っているようです)。

 兵士達はラバ達のことが本当に大好きになっていた。ラバの御者達だけでなく、ラバを連れている小隊の兵士達全員がそうであった。私は、戦友が死んでも泣かなかった兵士が、ラバが死んだ時には泣いていたのを見たことがある。
『Wild Green Earth』(バーナード・ファーガソン著)より





 マイク・カルバートは、彼の著書『Fighting Mad』の中で、お気に入りの一頭のラバについて回想している。

 チンディットの最初の襲撃に参加した兵士の総数は約3,000人で、私達には約1,100頭のラバがいた。訓練中、ウィンゲートはこのタフな小さな動物の重要性を説き続けたが、最終的には私たちは彼らを本当に好きになり、信頼するようになった。その結果、ラバ達も我々を喜んで助けてくれるようになり、よく知られているような頑固さを見せることはほとんどなくなったのだった。

 物資を運ぶという主な仕事のほかに、他の食料が不足したときの予備の食料としてもラバは常に役立った。もちろん、これは最後の手段だったが、ラバか、それとも私達か、という問題になった時、私達は心を強くしなければならないことが幾度かあった。しかし、メイベルというラバは例外だった。彼女が他のラバとどう違うのかを説明するのは難しいが、彼女には何かがあった。他の動物でもペットでも、同じことが言える。多くの犬はただの犬ではあるものの、それぞれの犬には何とも言えない特徴があり、それが個性となって、一見してそれと分かることが多い。もちろん、人間にも同じことが言える。

 ウィンゲートには心の内に燃える炎と使命感があり、それが他の人とは違っていた。メイベルには、他のラバとは違う柔らかな目があった。だから、日本軍戦線の後方での作戦が終わる頃には皆が飢えていたが、メイベルを食べようとは誰も思わなかった。飢えていても士気は高かったが、メイベルが食用にされていたらすぐに士気はガタ落ちになったことだろう。それを知っていたからこそ、メイベルは私たちにとってなくてはならない存在、本当のマスコットとなっており、だから我々は彼女を連れて、一緒にインドに帰ったのであった。

 【……】

 旅団司令部付きであったPte. Fred Hollomanは、自分のラバであったベティのことを愛情を込めて語ってくれた。

 輸送業務の一環として私は旅団本部に配属され、ラバの扱いについて学ぶ12週間のコースを始めることになった。最初は、この頑固で時には攻撃的な動物と一緒に仕事をするという新しい役割に嫌悪感を覚えたが、私はそのうちに彼らを尊敬し、称賛するようになった。ほとんどのラバは、かねてから英国陸軍通信部隊によって使役されていた第一級の動物だった。私のラバはベティと呼ばれ、肩には英国陸軍通信部隊の十字の焼印が入っていた。私たちはすぐに相手の考えていることがわかるようになり、ベティは私が毛づくろいをするたびに私の背中をかじっていたし、チンディットの作戦番号を2回目に焼印された後は何日もすねていた。

 ロングクロス作戦【第一次チンディット作戦】でのベティの仕事は、旅団本部の無線セットを運ぶことだったが、これは非常に重要な役割だった。無線セットの重さは約60ポンド【約27.2kg】で、その中には無線セットだけでなく、非常に重い2つの充電バッテリーも含まれていた。旅団本部は、コマンド小隊、信号手、グルカ兵の守備小隊、物資投下の手配と指示を行うRAFセクションなど、約250人の人員で構成されていた。補給のために後方基地に連絡したり、現場の他の隊に連絡したりするために、無線が必要な場合は、いつでも対応できるようにしておかなければならなかったことを覚えている。

 【……】

 悲しいことに、ロングクロス作戦を生き延びることができたラバは非常に少なく、1943年4月に長い旅を終えてインドへ帰還したことが確認されているのは、第3部隊のメイベルとヤンキーの2頭だけだった。ラバのほとんどは、遠征の中盤の数週間で疲労困憊して倒れたか、物資が枯渇し始めて飢餓に陥ったか、恐ろしい病気である炭疽病にかかって死んでしまったのだ。ドミニク・ニールが述べているように、ロングクロス作戦で散開が指示され、重火器や無線機が廃棄されると、多くのラバや馬はジャングルで自活するようにと放たれた。







 ↑暗くて見にくいですが、チンディット部隊におけるラバが結構写っています。






 ↑ラバはほとんど出てきませんが、コードネーム「ブロードウェイ」に向けて離陸し、着陸するC-47と、2機繋ぎのグライダーの映像が結構長くあります。機械翻訳らしき日本語字幕が付いているので、若干ありがたいです。

 グライダーの着陸が命がけどころではない、何十%かは必ず死ぬようなものであったことがよく分かります。ゲーム上ではグライダー降下はパラシュート降下よりもほんの少し成功率が高いのですが、もちろんそれでも少なからぬ数が失敗してユニットが失われます。

 また、着陸後、グライダーに積んであったブルドーザーで滑走路を整備している様子もあります。ゲーム上でも工兵ユニットをまず降下させて、滑走路を作るのが先決であると思われます。


VASSALオンライン対戦でOCS『Burma II』の練習シナリオ、シナリオ1をやってみました

 富山のKさんと、VASSALオンライン対戦でOCS『Burma II』の練習シナリオと、シナリオ1(オペレーション・サーズデイ)をやってみました。

 午前中はワニミさんも観戦されており、タエさんも時々繋がれて最終的にはDiscordで会話できるところまでいきました。



 ↓練習シナリオ

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 インパール作戦のうちの、一番南の戦域だけを再現するシナリオです。途中で色々ルールの不明点が出てきたので、BoardGameGeekで質問してみることにし、午前中で終わっておきました。





 ↓シナリオ1(オペレーション・サーズデイ)

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 インパール作戦が始まる直前に、その東の日本軍後方地域にウィンゲート将軍率いるチンディット部隊が空挺降下してきて日本軍を苦しめました。その作戦を扱います。

 サンセット和訳には「非常に簡単なシナリオ(原文ではvery quick play scenario)」と書いてあって、甘く考えていました。ところが関係するルールを確認しつつ、最初の空挺降下場所についてKさんと検討していますと、色々考えなければならない、非常にチャレンジングなシナリオだということが分かってきました(^_^;

 ただ、基本方針を決め終わって、最初の数ターンの空挺降下をこなせば、ユニット数も非常に少ないのでどんどん進むシナリオかもしれません。

 結局、最初の連合軍プレイヤーターンしかプレイせずに終わってセーブしておきましたが、非常に面白そうなので今後またオンライン対戦でプレイしていきたいと思っています。



 ウィンゲート将軍については興味を持っていて和訳本にも目をつけてはいたのですが、値段が高いので購入は見送っていました。しかし今回チンディット部隊のシナリオをちょっと触ってみて、非常に興味を惹かれたのでもう購入することにしてしまいました。






 また今後、オンライン対戦がやっていければと思います。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第6ターン先攻ドイツ軍終了

 尼崎会で、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第6ターン先攻ドイツ軍をプレイできました。


 ワニミさんが南方、私が北方から中央を担当しました。




 ↓北方から中央

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 作戦会議においては、北方のホートの戦区においても攻勢を取らなければという話が出ましたが、「この戦区はソ連軍の布陣が分厚いので(そのため、スモレンスク街道の南側は薄くなっていたわけですが)本格的な攻勢はできないだろう、しかし、攻勢的な動きはして、ソ連軍が戦力を南方に引き抜きのは阻止すべきである」ということから、最小限の攻撃だけを行いました(小河川を越えている小さな矢印)。

 イエルニャ方面では、赤い○で示した勝利得点ヘクスを奪取する攻勢を行うというのが一つの選択肢だったのですが、熟考の後、むしろその西側で北に向かってソ連軍の司令部に攻撃し、その西側のソ連軍ユニットを補給切れに追い込む作戦を採用することにしました。長期的にはソ連軍ユニットを減らすことの方が重要であろう、という考え方からです。





 ↓南方

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 西のクルィチャウ(Krichev)では半包囲。東のロスラウリでは3ヘクスをオーバーラン等で奪取して2つの包囲環を形成しました。

 ソ連軍としては、この方面で粘ってきてある程度の損害は与え、またドイツ軍戦力を誘引してきましたが、さすがにもうお手上げですね(T_T) できる限りの戦力を逃がして、この方面からは撤退ということになると思います。3ターン後の8月19日ターンには、この方面のマップ南端のソ連軍補給源は使用不能になりますし。


 うまくいっているように見えるドイツ軍ですが、3ターン後には非常に多くの戦力がキエフ方面に引き抜かれてしまいます。この後の2ターンは、そのための準備活動にほとんどのムーブを費やさねばならないのではないでしょうか。




 あと、最近スタックの順序についてのルールを再確認してたんですが、以前OCSのスタックの順序について気を付けるべきこと(付:OCSにおける欺瞞の方法) (2020/11/05)で書いていたのを追記で修正していた、その追記の修正が間違っていたことが分かりました。申し訳ありません(T_T)

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 修正していた部分を再度消して、編集していた部分は再編集しますのでよろしくお願いします。


 大事なのは、「スタックの一番上はZOCのあるユニット。それがなければ、なんでもいいから戦闘ユニット(司令部や砲兵も戦闘ユニット。輸送ユニットは違います)です。」(DGや予備モードであればZOCを持たないことに注意して下さい)

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第5ターン後攻ドイツ軍終了

 尼崎会で、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第5ターン後攻ドイツ軍をプレイできました。

 ワニミさんが南方、私が北方から中央(イエルニャ方面)を担当しました。


 っとそのプレイ前に、実はドイツ軍がずっと、「ランダムイベント」の実施をおこなっていなかったことが判明(^_^; 2D6の5~9で2SPが得られ、それ以外では特定の航空ユニット機種が非活動状態になるというものです。これまで4ターンやってなかったわけですが、実際にダイスを振ってみたところ2SPが来た(はず)だったのは4ターン中の2ターンにとどまり、メリットとデメリットは相殺される程度であろうということで、今までの分は無視し、このターンから実行するということにしました。



 ↓北方から中央

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 ホートに割り振られるSPはホートの戦区でしか使えないとずっと思っていたのですが、制限されているのは複数ユニットフォーメーションに対してのみで、またホートのSPをどこに置いておくのも自由ということに先日気付きました(^_^;

 で、このターンホートに割り振られた4SPをスモレンスクに置いていたのですが、ホートの戦区ではこのターンには攻勢も見込めないので、危機的状況にあるイエルニャ方面につぎ込むことにしました。で、矢印のようにその4SPとダスライヒの専用トラックが積んでいた1SPで攻勢を行おうと。攻勢はおおむね成功し、結果、その向こうのDG状態のソ連軍ユニットはそれぞれ1ステップしかないことが分かっており、今後点線矢印のように攻勢を行えば2箇所の勝利得点ヘクス(ソ連国旗のマーカーが横に置かれている場所)を取れるかもしれない……! という状況になりました。まあそこまでは不可能かもですが(特に2個目)、ソ連軍側はまた一気に苦しくなってしまい、「前線よりも後背地域の守備隊を厚くすべきだったか……!」と思ったものの、前線の守備状況を再度確認したところそのあまりの薄さに「そもそも部隊がなかった……!」と天を仰ぐしかありませんでした(^_^;






 ↓南方

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 ドイツ軍は西のクルィチャウ(Krichev)方面では南方への回り込みをはかり、その東のロスラウリ方面では2つ場所で攻撃を行って自軍の被分断状態を解消すると共に、ロスラウリを再び孤立させました。



 ドイツ軍のダブルターンになるかどうかが(特にイエルニャ方面で)重要でしたが、次のターンのイニシアティブを振ってみたところ、ドイツ軍が獲得! 協議したところ、イエルニャ方面では千載一遇のチャンスであるばかりでなく、クルィチャウ方面でも先攻を取った方が有利であろうということで、先攻を取ることにしました。


 今回は8月5日ターンでしたが、8月19日ターン(4ターン後)には両軍ともごっそりと部隊が退出(キエフ方面やヴァルキーエ・ルーキ方面に)してしまうので、そろそろそれに備えて戦線に気を配っていかなければなりません。ドイツ軍側はたったの2個装甲師団と1個自動車化歩兵師団しかマップ上に残らないので、「いったいどうすればいいんだ……?」とやや呆然気味です(^_^; 史実では現地指揮官はどんな感じだったんでしょうね……。







OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第5ターン先攻ソ連軍終了

 尼崎会で、ワニミさんとOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第5ターン先攻ソ連軍をプレイできました。

 北方から中央をワニミさん、南方を私が担当しました。



 ↓北方から中央

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 作戦会議にて「北方での攻勢」が議論されましたが、最終的には発動されず。イエルニャ方面では2方向から圧迫を加えます。

 イエルニャが史実でソ連軍によって占領されたのは10ターンぐらい先の話だと思うので、急ぐ必要はなく、ぐずぐずと関わり続けていれば最終的にソ連軍が取れる……と思われます。





 ↓南方

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 ロスラウリ方面はその少し東(矢印の根元あたり)に降車可能ヘクスがあり、前のターンからソ連軍は鉄道輸送で急いで部隊を送り続けています。このターン、その方面から包囲環に対して攻撃をおこない、ドイツ軍部隊を分断することに成功しました。とはいえ、ドイツ軍部隊を包囲したわけではなく、ロスラウリ周辺の戦力はまだ全然心許ないままです……(SPは入れましたが)。


イギリス軍の「旅団グループ」とは?(付:OCS『DAK-II』)

 OCS『DAK-II』には、「旅団グループ」というルールがあります。その対象となるのはほぼすべての旅団規模ユニットで、アクションレーティングの数値の左下に小さく「B」と書かれたユニットです(「B」と書かれていない旅団規模ユニットもごく少数存在しています)。

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 このルールの記述量は多めなのですが、ごく簡単に書くと、ある期間、これらのユニットは射程1の固有の「5砲爆撃力」を持つよ、というものです(そしてまた、このゲームの全ての旅団ユニットは2ステップを持っており、1ステップロス状態ならば「3砲爆撃力」を持ちます)。その代わり、師団砲兵ユニットはなしになります(期間が終わると各旅団の固有の砲爆撃力は消滅し、師団砲兵ユニットを獲得します)。さらに、機甲旅団の場合、兵科マークが黄色と赤色に塗られており、その期間中は黄色でなくて赤色だとみなされます。

 このルールがプレイヤーにとってありがたいのかどうかというと……なんか非常に微妙な気がします(^_^; 単純に、覚えておかなきゃならないことが増えるのが負担ではあります。砲兵ユニットをどこに置くか悩む必要がないかもですが、射程1じゃなあ……。


 「ある期間」とはいつからいつまでか、ですが、歩兵旅団は「1940年9月12日ターンから、1942年8月26日ターンまで」です(例外あり)。これは、「キャンペーン開始時(グラツィアーニ攻勢開始時)から、オーキンレック解任時(モントゴメリー就任時、かつアラム・ハルファの戦いの直前)まで」に当たります。

 いっぽう機甲旅団は、開始が「1942年2月8日から」(ロンメルの第二次攻勢の途中)で、終了は歩兵旅団と同じタイミングです。


 この「旅団グループ」とはいったい何なのか……? ですが、基本的にはオーキンレック将軍が推進した(彼が就任する以前から存在はしていたらしい)、旅団の中に各種砲兵を入れ込んでいって諸兵科連合しようというもので、ドイツ軍のカンプフグルッペ(戦闘団)を真似るという意識によるもののようです。しかしイギリス軍は諸兵科が個別に戦うという意識がものすごく強かったそうで、この「旅団グループ」というやり方は結局うまくいかなかったようです。

 オーキンレックはまた、ドイツ軍のカンプフグルッペに対して、旅団グループを使用していくということを始めたが、結局このやり方は訓練、特に諸兵間の協調に関しての訓練の不足のために成功しなかった。彼はまた、イギリス軍の機甲師団が、ドイツ軍の装甲師団のように歩兵の比率を高く、戦車の比率を低くするという再編に尽力した。この新しい師団は3個機甲連隊からなる1個旅団グループ、1個自動車化歩兵大隊、それに各種野砲と対戦車連隊を持つ。2個目の旅団グループは3個自動車化大隊と、同様の砲兵、対戦車部隊を持っていた。
『Rommel's North Africa Campaign』P149


 ドイツ軍のパンツァー師団はチームワークを重視しており、戦車は攻防両面において対戦車火器と野戦砲兵とに密接に統合されていた。対してイギリス軍は兵科内【ママ。兵科間?】の協同が貧弱であったし、戦車があまりにも多くのことをなそうとしていた。【……】
 【……】オーキンレック大将は機甲師団と歩兵部隊との大きな亀裂を埋める案を実行に移した。
 【……】
 第二は各旅団が十分な支援兵科を附加されて、師団から独立して戦闘が可能な、いわゆる「旅団グループ」と称する自発的な戦術単位として機能していた既存の勢力を公式化することであった。オーキンレックはドイツ北アフリカ軍団にこの種の組織があると見ていたし、懸命にそれに匹敵させようとしていた。
 【……】しかし「旅団グループ」の概念は成功することは少なく、非常に大きな議論が起こった。「旅団グループ」の実施は1942年に始まった。訓練が行われ、兵科間のバランスがとれることをオーキンレックが望んでいたことは当然であった。
 イギリスの機甲戦略は、西方会戦における敗退から2年以上を経て、オーキンレック将軍の努力によって完成されたかのように見えた。しかし、指揮官が変われば思考も変わった。わずか16ヵ月間にオーコンナー、ペレスフォード・ペイルズ【ベレスフォード=ピアース】、カニンガム、ライトチー【リッチー】、オーキンレック、モントゴメリーと交代し、落ち着く暇もなく、これが、近代戦の戦術問題をマスターする絶好の機会を逸した原因といえよう。アレクサンダーとモントゴメリー両将軍は着任すると、まず、師団が戦術的単位であって旅団グループではない、ということを明白に示した。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P76


 ↑この記事はある程度の分量があり、詳しくて大変ありがたいのですが、記述がなんか全体的に、かっちりとは分からない若干ふわふわした感じのものであるような気がします……。この引用文も、素直に読めば「旅団グループという考え方はしかし、オーキンレックが解任されることなく指揮を続けていれば、良好な、完成されたものとなっただろうに」という風に読むべきかなぁとは思うのですが、そこらへんどうなのか……? ベレスフォード=ピアースリッチー【RitchieをRightchieと誤認した?】の名前がえらくおかしいのは、この論者の興味はドクトリンなどの方にあり、個々の将軍にはほとんど興味がないということによるのかもしれません(別に非難するのでなく、それはそれで良いと思います。ただ、面白いなぁ、ということなだけで(^^))。


 司令官のオーキンレック将軍は多くの人から、ロンメルと戦った連合軍の将軍の中で最も優秀であったと目されている。その理由は、彼の決意によって、英連邦軍がクルセイダーの勝利を収めたからである。また、彼の努力が後にロンメルを、エル・アラメインの線で停止させたのである。だが彼はある肝心な点では弱点を抱えていた。彼は優秀でない部下を選任したが、それは彼がインドでの経歴しかほとんどなく、人物を知らなかったことがある程度の原因かもしれない。カニンガムとリッチーがその選任の例であり、両者ともに苦戦に陥った時に何をどうして良いか分からなくなっていたのである。
 彼はまた麾下の部隊を鼓舞することをせず、それに様々な部隊を小さなグループに分配するというイギリスのやり方を継続させたことによって、南アフリカ軍やオーストラリア軍などの大英帝国の部隊を特に弱体化させたのであった。彼は、イギリス軍のドクトリンに合わないジョック・コラムの強力な支持者であったばかりでなく、毎度毎度のアド・ホックな旅団や旅団グループを編成するために、南アフリカ軍部隊をインド軍部隊やイギリス軍部隊に配属させるということをしたが、それは単純にろくでもないやり方であった。オーキンレックの作った旅団グループの下にはそれより小さい戦闘団があり、それはジョック・コラムよりは大きいものに過ぎなかった。ある南アフリカ軍の将校は、この2つの違いについてこう述べていた。
「戦闘団っていうのは、戦車に2回蹂躙された旅団のことだよ。」
『Rommel's North Africa Campaign』P94,5


 クルセイダーの戦いから得られた主な教訓の内の一つは、ロンメルの装甲部隊の有効性と柔軟性であった。それゆえオーキンレックは、イギリスの戦車部隊を機甲戦により適合したものへと変えなければならないと決断した。機甲師団を構成する様々な部隊がより統合される必要があると彼は考えた。アフリカ軍団の装甲師団のように、イギリスの機甲師団も戦車を少なくし歩兵を多くしたならば、よりバランスの取れたものになるだろうと考察したのである。
 2月11日、中東における基本的な機甲師団の構成は、「旅団グループ」という基本的な戦闘部隊のものへと変更された。機甲師団の中の2つの機甲旅団のうちの1つは、自動車化歩兵旅団へと置き換えられることになった。これらの旅団の両方が「旅団グループ」となり、廃止されることになった今までの支援グループから役割を引き継いだのである。師団の中に対戦車、対空、および野砲が別々に配属されていたのを、それぞれの旅団の中に、工兵や管理部隊と共に統合することになった。ドイツ軍と同じように、戦車は支援の砲兵や対戦車部隊と共に戦闘に入ることになるのである。この考え方は、少なくともオーキンレックの布告においては、戦場において絶対に機甲部隊を集中すべきであり、小部隊に分割してはならないということであった。だが不幸なことに、いったん戦闘に入ったならば、これらの考え方はしばしば、他の多くの善意と同様の運命を辿ることになってしまったのである。
『GAZALA 1942』P20,21



 とりあえず、すぐに読める日本語の資料と、今までに集積していた資料から拾えるのはこれぐらいです。「Brigade Group(s)」で検索したりもしてみたのですが全然何も出てこないので、世の中的にはどうでもいいトピックなのかも……(>_<)

 OCS『DAK-II』をプレイする上では若干めんどくさいルールですが、オーキンレックらが頑張ってカンプフグルッペを真似てやってみていた仕組みだと思えば、なかなか面白さが感じられる気がします。ただ、ゲーム的にはカンプフグルッペの方はどんなユニットも自由自在にまとめた上で、数多くいるカンプフグルッペのリーダーによってダイスチェックに成功すれば「あたかも予備マーカーを乗せていたかのように」移動できるのですが、旅団グループの方はそんなことは全然できませんから、「カンプフグルッペを真似たはずなのにガッカリ」という味付けとしては非常にうまくできているのかもしれません(^_^;


イギリス軍の「支援グループ(Support Group)」とは?(付:OCS『DAK-II』)

 第二次世界大戦の初期のイギリス軍の機甲師団には、「支援グループ(Support Group)」という旅団規模?の部隊があります。

 関係資料を読み返していると、この支援グループについて少し書いてある文があったので興味を持ち、少し調べてみました。





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 ↑『Desert Rats: British 8th Army in North Africa 1941-43』P11から。






 コマンドマガジン31号に掲載されていた、「全戦車編成から全兵種編成へ イギリス軍機甲戦術の進化」という記事にはこのようにありました。

 最初に砂漠に展開したイギリス軍の機械化部隊は、不滅の「砂漠のネズミ」こと第7機甲師団だった。1938年にエジプトで編成され、1940年9月、イタリア軍がエジプトに侵攻した時点では、2個機甲旅団とごく小規模の歩兵、砲兵から成る「支援グループ」で構成されていた。
『コマンドマガジン日本版 31号』P77


(この記事にもNATO式兵科マークによる編成表が載せられているのですが、えらい縦長で持ってきにくいので、編成表は別の本から持ってきました)





 英語版Wikipedia「7th Support Group (United Kingdom)」によれば、

 第7支援グループ(あるいはピボットグループ)は、機甲旅団に支援をおこなった。自動車化歩兵、野砲、対戦車砲、それに軽対空砲から編成されていた。エル・アラメインの戦いに向けての第8軍の再編成の後、この支援グループという考え方は廃止され、機甲部隊を支援するためにより大規模な自動車化歩兵部隊へと再編された。


 「ピボット(Pivot)」ですが、「回転の中心となる軸」というような意味なので、この支援グループが中心で、その周りを機甲旅団が行動するというイメージだったとか……?



 同ページによれば、コンパス作戦の時の第7支援グループの内訳はこうです。

Operation Compass
・4th Regiment, Royal Horse Artillery
・1st Kings Royal Rifle Corps
・2nd Rifle Brigade


 OCS『DAK-II』のユニットではこうなっています。

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 バトルアクス作戦の時はこうです。

Order of Battle - June 1941 (Operation Battleaxe)

・1st Regiment, Royal Horse Artillery
・4th Regiment, Royal Horse Artillery
・1st Kings Royal Rifle Corps
・2nd Rifle Brigade

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 コンパス作戦の時には別々にユニット化されていた1 KRRCと2 Rifleですが、その後統合されて自動車化歩兵の兵科マークの中に黄色地で砲爆撃力が記された、『DAK-II』でしか見ない支援グループユニットとなります。射程は3です。また、この2つのユニットは(コンパス作戦の時もですが)同じヘクスにいて「Jock Campbell Leader」マーカー付きになっています。1 RHAのユニットも別のヘクスに存在しているのですが、ゲーム(シナリオ)的には別物とみなされているように見えます。




 
 ↓この時期前後のOCS『DAK-II』の各支援グループユニット(左から第1機甲師団の第1支援グループ、第2機甲師団の第2支援グループ、第7機甲師団の第7支援グループ。「Support」が付いたり付かなかったりするのは、印刷機の問題ゆえだとか……

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 クルセイダー作戦の時はこうです。

Order of Battle - November 1941 (Operation Crusader)
・3rd Regiment, Royal Horse Artillery
・4th Regiment, Royal Horse Artillery
・1st Kings Royal Rifle Corps
・2nd Rifle Brigade
・60th (North Midland) Field Regiment, Royal Artillery
・One Bty, 51st Field Regiment, Royal Artillery


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 3 RHAは『DAK-II』ではユニット化されておらず、なんかそれなりの理由があったんでしょうね。




 ゲーム上では、1942年8月26日ターンに支援グループや、他の「旅団グループ」というルールは適用を終了され、普通の自動車化歩兵ユニットとなります(シナリオでは42年5月26日ターンからのガザラシナリオですでにこのユニットになっています)。

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 「全戦車編成から全兵種編成へ イギリス軍機甲戦術の進化」P78によると、イギリス本国で王立機甲軍団の監督を務めるマーテル将軍(→イギリス陸軍のマーテル将軍について(付:OCS『The Blitzkrieg Legend』) (2020/12/11))がバトルアクス作戦(41年6月)とクルセイダー作戦(41年11月)によって得られた戦訓を分析し、恐らくその結果として、1942年5月にイギリス国内の機甲旅団から支援グループが廃止されたようです。北アフリカ戦線での完全な適用は1942年8月までかかったものの、それ以前でも少しずつ適用された……?(「旅団グループ」という、『DAK-II』でもルール化されているコンセプトの話が混ざっていて、誤読の可能性も高いです。また今後調べていきたいと思います)



VASSALとDiscordで、OCSオンライン対戦をやってみました

 ちょっと前からOCSをVASSALでソロプレイしたりしてみて「VASSALでも全然いけそうだ」という感じがしており、先日、富山県のKさんと尼崎(私とワニミさん)とで、遠隔オンライン対戦を試しにやってみました。

(OCSはVASSALでやるには複雑すぎるという思い込みがあったのと、昔はディスプレイのサイズがそれほど大きくなかったのですが、昨今は大きなディスプレイが安価に手に入るようになってきたというのがでかいのではないかと思います)






 VASSALについては↓こちら。

VASSALについて







 VASSALをオンラインで繋げるのはすんなりいったのですが、Discordで音声チャットができるようになるまで40分くらいかかりましたし、インターバルを取った後に再開する時もDisordがうまくいかず難儀しました(^_^;

 VASSALを繋げる時には、事前にモジュールのバージョンも同じものをダウンロードしておき(バージョンが違うとうまく繋がらないことがあるようです。VASSAL自体のバージョンはそれほど神経質にならなくてよさそう)、同じシナリオを開き、オンラインに繋いで誰かにシンクロナイズする……という方法の方が成功率が高いのではないかと思います(モジュールを開く時点でオンラインの人を探す方法より)。ただ、うまくいかない時もあり、いったん全員パソコンの再起動からやりなおしたらすっとうまくいった……ということもありました。


 Discordは、画面から受ける印象は難しくなさそうなのに、「解説ウェブページを見ながらやりたいことをやろうとしても、なんかうまくいかない」という感じがします(>_<) 若い人には分かりやすいインターフェースなのだけど、老人にはとっつきにくいということなんでしょうかね……? 「OCS尼崎会」というサーバーを立ててあるので、「サーバーに招待」というやつを試してみたのですがうまくいかず、自分の登録名+「#****」のDiscord Tag(左下の自分のやつの表示をクリックしたらコピーできる)を相手に伝えて、「ホーム」→「フレンドに追加」してもらってうまくいきました。

 マイクとスピーカーの設定も重要で、左下の自分の名前の右横の方にある歯車マークを押して「音声・ビデオ」で、入力デバイスと出力デバイスを設定する必要があります。ただ私は、以前使っていたマイク端子などを使用するヘッドセットをやめて、USB接続で使用するヘッドセットを新しく買ってそれでやってみたところ、設定の必要性がなくなった(設定が勝手に変更される?)気がします。

 あと、どこかのウェブページで見たのですが、「音声・ビデオ」の画面で「入力感度を自動調整します。」というチェックを外し、デフォルトの「-60dB」のバーを左端の「-100dB」にした方がいいのではないか、と。自動調整だと喋っている時だけ音を拾うようになるようなのですが、聞き取りにくく、-100dBにしたらずっと音を拾う状態になります。ただ、マイクの位置によって息の音がずっと聞こえるとかってことがあるので、それはお互い指摘して調整して、いい感じにした方がいいでしょう。

 Discordも、どうにもうまくいかなかった時にパソコンの再起動からやり直したらすっとうまくいったりしました。




 VASSALでのOCSオンライン対戦ですが、OCSは選択肢が非常に広いためプレイに時間がかかるので非フェイズプレイヤーの待ち時間が長くなるのですが、オーバーランなどで非フェイズプレイヤー側の対応が必要なので、その時には反応できなければなりません。そこで待ち時間中に自由に行動したい場合には、スマホを持っておくようにしておき、LINEに連絡を入れてもらう(通知音が鳴るようにしておく)という方法はあるな、というような話はしていました。

 尤も、OCSは(特に初めてやるゲーム、シナリオでは)ルールの把握が不完全だったりでその相談や指摘が必要ですし、より良いムーブなどに関して話してたりすることがままあるので、色々話しながらやった方がいいでしょうし、楽しいでしょう。

 VASSALではメール対戦という選択肢もあるわけですが、上記の理由から、もう何回もそのシナリオをやっていて不明点はないくらいのものをメール対戦した方がいいと思われます。尤もメール対戦の場合でも、LINEで気軽に不明点を聞いたりするのは推奨されるべきでしょう。



 今後の予定ですが、富山のKさんとは基本的に第2、第4土曜日にオンライン対戦を組んでいってみようということになりました。Kさんは特に『DAK-II』『Burma II』がやりたく、私は『DAK-II』を特に希望なので、とりあえず『DAK-II』の練習シナリオから(ただし直近の4/24(土)は、『Burma II』の練習シナリオ)。

 また、Kさんとは『KOREA』ならメール対戦も可能ではないかということで、それもやっていってみようと話してました(攻勢側の共産軍をKさんがプレイするので、ソロプレイで研究の後、準備が整ってから)。

 ワニミさんの場合、オンライン対戦でのコミュニケーションを楽しみたいので、メール対戦には興味がないとのこと。また、まだVASSALの操作に慣れていないので、ソロプレイでの習熟が先かな、だとか。他の人がVASSALでのプレイをして、色々操作に関する情報を出してくれると助かる……そうです。


 他にも尼崎会の方に聞いてみてますが、タエさんがVASSAL未経験だったのですが、「不明点に関してはいくらでもLINEで質問してもらったらお答えしますよ~」ということで、ソロプレイを開始されていました。


 コロナのこともありますし、今後このVASSALでのOCS対戦を充実させていければと思います。将来的には、『Guderian's Blitzkrieg II』+『Case Blue』連結ゲームをVASSALでオンライン対戦するなどもやっていければ……。


OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第4ターン後攻ソ連軍終了

 尼崎会で、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第4ターン後攻ソ連軍をプレイできました。

 ワニミさんが北方、私が南方を担当しました。今回は、以前「やろうということにしました」と書きながらまったくやっていなかった(おい)「作戦会議フェイズ」を設け、ソ連軍の動きに関して色々相談した上でムーブに入りました。これやっぱちゃんとやった方がいいですね……。



 ↓北方~中央

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 ついにスモレンスク北辺の孤立していたソ連軍ユニットがいなくなり、戦線がまっすぐな状態になりました。

 孤立していた部隊は自軍戦線に辿り着く見込みがなく、その場合今までの尼崎会での定石で「ドイツ軍にとって邪魔な場所に全員で座り込んで、一部のユニットだけでも損耗チェックに生き残るのを狙う」というのが常でしたが、新たな定石(?)「いのちをだいじに」に従ってすべてのユニットに対して「脱出(Breakout)」のチェックをおこない、一部のユニットは数ターン後の増援として返ってくる&一部のユニットは壊滅ということになりました。

 スモレンスク街道の北側は膠着状態。イエルニャ方面では包囲されていたソ連軍部隊はオーバーランで救出する見込みが立たない(オーバーランすると却って自軍ユニットを失い、弱体化してしまうことが見込まれる)ため見捨てられ、損耗チェックで壊滅しました(完全に包囲されていたため、Breakoutも不可能)。

 ソ連軍はイエルニャ方面で攻勢をかけたいところだったのですが、狙ったドイツ軍ユニットをDGにすることができず、攻勢側のユニットがDGにされてしまったため、大きな攻勢は断念。赤い○の箇所に単独でいた砲兵連隊のみを殴って壊滅させました。




 ↓南方

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 クルィチャウ(Krichev)とロスラウリで包囲されていたソ連軍部隊ですが、包囲環内部に置かれていたSPで一般補給を供給され(一部は受け取れず損耗チェックで壊滅しましたが)、包囲環内外からの一斉攻撃で両方とも包囲環を破ることに成功しました。

 ちょっと前から思っていくらか実行していたんですが、「包囲されそうな場所にはあらかじめSPを置いておく」のは非常に重要ですね! ましてや、補給チェック前にオーバーランで包囲環を破る見込みが持てないソ連軍においておや!

 今回、包囲環を破るための戦いでドイツ軍ユニット2つを壊滅させたりもしており、「手間をかけさせ出血を強いる」という点でもある程度有効だと思われました。



 次の第5ターンのイニシアティブを振ってみたところ、ソ連軍が獲得。ソ連軍としては、「現在は大反攻の準備が整っていないものの、将来的な大反攻のためにはダブルターンの可能性を保持できる後攻を取っておきたい」という考え方もあったのですが、「すでに現在ロスラウリ方面のSPがなくなってしまっており、ドイツ軍にプレイヤーターンを渡して再びロスラウリが包囲されたら今度はいっぺんに包囲環内が損耗チェックで壊滅させられてしまう!」という問題があり、先攻を選択することにしました。

 ロスラウリはすでに長期的には保持できないようにも思われるのですが、この場所でひたすらにドイツ軍に手間をかけさせ、出血させる(SP消費の点でも)のは重要だと思われ、泥沼の戦いにドイツ軍を引き込んでいく所存であります……!


第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦域のオーストラリア軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦線などのオーストラリア軍について以前から興味を持っていたんですが、『World War II in Europe: An Encyclopedia』の「Army, Australian」の項目が興味深くまとまっていたこともあり、今まで集めていた情報込みで一度まとめてみようと思います。


 ↓OCS『DAK-II』のオーストラリア軍

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 第9オーストラリア歩兵師団にはアクションレーティング5のユニットがあり、上記の3個師団の中でも特に強いのが分かります。


 他にOCS『Reluctant Enemies』(シリアでの対ヴィシーフランス軍に対する英連邦軍の作戦を扱う)にもオーストラリア軍ユニットがたくさん入っていますが、スケールがかなり異なっていて細かい独立ユニットが多いので省略で。主力としては、OCS『DAK-II』のユニットにもなっている第7オーストラリア歩兵師団の第21歩兵旅団と第25歩兵旅団です。

 オーストラリア軍はエル・アラメインの戦い(1942年11月)を最後にヨーロッパ戦域から部隊をほとんど引き揚げた為、『Tunisia II』以降の西部戦線ゲームには出てきません。というのは、日本軍がその参戦(1941年12月)以降、オーストラリア本土に対する直接の脅威になっており、それ以後すべてのオーストラリア軍部隊は太平洋戦域で戦ったからでした。



 イギリスが対独宣戦をおこなった1939年9月3日(ポーランド侵攻から2日後)中にオーストラリアは英連邦の一員として参戦を決定。9月15日には(第一次世界大戦以来の)「第2次オーストラリア帝国軍(2nd Australian Imperial Force)」が発足し、まず第6師団が編成されます(その後、第7、第8、第9も編成されていきますが、他に太平洋戦域のみで戦った第3、第5、第11などもあり、どういう命名法則によるのか知りたいところです)。

 第6師団を構成する3つの旅団は1940年1月から順次、オーストラリアから船で中東へ向かい、パレスチナで訓練を開始します。しかし5月4日に出航した3つ目の旅団は、5月10日にドイツ軍がフランスへ侵攻してイギリス本土が危険となったことから、急遽英本土へ送られることになりました。第6師団は訓練と編成が整い次第フランス北部の戦場に投入される予定でしたが、イギリス大陸派遣軍がフランスを脱出し、フランスも降伏したことから、この計画は取りやめとなります。

 一方、イタリアもドイツの勝ち馬に乗る形で6月10日に英仏に対して宣戦布告したため、オーストラリアは翌11日に対イタリア宣戦布告をおこないます。イタリア軍はその植民地リビアから、イギリス軍がいたエジプト(名目上は独立国)に侵攻する可能性が強く見込まれており、第6師団はこのエジプト方面に投入されることになりました。

 リビア・エジプト国境では6月11日から小規模な戦いが始まっていましたが、第6師団はこれに参加させられることはなく、9月13日からのイタリア第10軍の大規模侵攻(グラツィアーニ攻勢)も3日で停止し、英連邦軍は退いただけでした。

 そして、第6師団がオーストラリアを離れてからほぼ1年にもなろうとする中、1940年12月9日からはコンパス作戦で英連邦軍が第7機甲師団と第4インド歩兵師団でもって攻勢をおこないました(その実行は味方にも厳重に秘密にされていました)。この作戦の大成功のニュースを聞いたオーストラリア軍兵士は心がはやったことでしょう。

 そんな中、作戦の3日目の12月11日には急遽、第4インド歩兵師団(非常に長く訓練を受けていた部隊で、コンパス作戦でも大きな戦果を挙げていました)が東アフリカ戦線に回されることになり、その代わり、それまでアレクサンドリア周辺に留め置かれていた第6オーストラリア歩兵師団がその後のリビアでの戦いに投入されることになったのです。

 この時のことを、アラン・ムーアヘッドは『砂漠の戦争』の中でこう書いています。

 【コンパス作戦において】シディ・バラニでりっぱに使命を果たしたインド軍【第4歩兵】師団は、ニュージーランド軍【コンパス作戦の間、その少し後ろのメルサ・マトルーに留め置かれていた第2ニュージーランド歩兵師団の内の第4、第6歩兵旅団】とともに後方へ引き揚げ、まだこの作戦で使ったことのないオーストラリア軍【第6歩兵】師団の大部分と交替する。この決定にあたって、ウェーヴェルは、いやが上にも戦意の高まっていたニュージーランド軍のはげしい恨みをかった。輸送用の車輌を取りあげられ、それがオーストラリア軍にあたえられるに及び、彼らはさらに傷つけられた。しかし、オーストラリア軍の間では、ウェーヴェルの処置は絶大な人気を博した。彼らは一年もぶらぶらさせられていたので、ますます、危険なまでに御しにくくなっていた。すでに奇襲部隊として勇名をはせていたオーストラリア兵たちは、今や、その健康状態は最高、士気はいやが上にも高まり、その攻撃的性格がはやりにはやっている時に、賢明にも、機会をあたえられることになった。勇敢な兵士であり、敵の攻撃にさらされても持ちこたえるようにみっちり訓練されているという評判のニュージーランド軍は、こと志と違った場合、貴重な支えとなってくれるだろう。
『砂漠の戦争』P52



 『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』にはこのように書かれています。

 ニュージーランド政府は、在エジプトの同国軍司令官バーナード・フレイバーグ少将の「ニュージーランド師団は完全な編成でなければ出動しない」という姿勢を強固に支持していたため、オコーナーはマトルーの後方にいる第4ニュージーランド歩兵旅団の兵士を呼び寄せることができず、当の歩兵達も不満を募らせていたが、輸送車の運転手達が語る「ここを我慢するのが、本当の勝利だ」という応援の言葉に、今は耳を傾けざるを得なかった。

 幸いなことに、オーストラリア政府と、第6オーストラリア歩兵師団を指揮するイヴン・マッケイ少将はニュージーランドとは異なる態度を取っており、その第16旅団はすでにソルームまで進出していて、それ以上前進することを強く望んでいた。さらに、第17旅団は戦いたくてうずうずしており、移動手段が使用可能になればすぐにでも駆けつけるつもりであったし、第19旅団にいたっては訓練が不足しており、しかも輸送手段をまったく持たなかったにもかかわらず、師団の他の旅団が戦闘を開始する時に自分たちがいなければ、反乱に近いことになると明言していた。

 しかし、これまでの戦いと同様、これからの戦いでも、輸送が大きな問題だった。この戦争は3トントラックの戦いだった。

 オコーナーとマッケイは、共にパレスチナに赴任していた時以来の付き合いで、非常に友好的な関係を築いていたので、実際の解決法をどうするか以外の問題はほとんどなかった。二人はシディ・バラニにあったマッケイの司令部で短い会議を開き、マッケイはソルーム地域の指揮を執り、バルディア攻撃の責任も負うこととなった。彼らはその後、必要な前進を計画し、まもなくオーストラリア第16旅団が出発した。

 【……】

  第6オーストラリア歩兵師団の兵士たちは、第4インド歩兵師団の長年勤続した正規兵のような厳しいプロフェッショナリズムに欠けていたとしても、体格と体力でそれを補っていた。【……】

 【……】

 オーストラリア軍の兵士達は大男だった。ある人が驚いて見てみると、身長が6フィート【約183cm】以上ない兵士は、幅が3フィート【約91cm】あることでそれを補っているようだった。そしてまた、幅が3フィートあっても、それは全部骨と筋肉だった。彼らの巨大な手に握られたライフル銃は、まるで少年のエアガンのようであり、彼らは軽機関銃をライフル銃のように扱い、戦争後半には対戦車兵器を簡単に持ち運んだものだった。オーストラリア軍兵士の行進の列は道路を揺らしたし、バーで2人のオーストラリア軍兵士が口論で激し始めたりすれば、そのバーにはもう誰もいられなくなってしまう有様だった。

 そしてまた、第二次世界大戦で最初に戦ったこのオーストラリア人兵士達には、さらなる長所もあった。それは、25年前のガリポリやフランスで確立された武勇の伝統に対する絶大な誇りであり、大隊長や上級将校の中にはその時に自ら戦った者もいたし、あるいは父や叔父がその時に戦ったという者達も、今、バルディアに向かって行進している兵士達の中にいたのだ。大隊の名前には2nd/1st、2nd/2nd、2nd/3rd、2nd/8thというように、「2nd」という数字が付けられ、第一次世界大戦の時の部隊が再び結成されたのだということを表していた。彼らは、戦時中の反軍的な雰囲気と平時の軍事予算の削減にもかかわらず、オーストラリアの市民軍に入隊し、自分達の父親と同様に優れた兵士であることを証明しようと決意していたのだ。
『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』2761~2833





 オーストラリア兵に関しては、このような記述も。

 オーストラリア人は乱暴なことも多かったが、戦場では恐れを知らぬ兵士たちで、味方の連合軍からは非常に尊敬されていた。
『外人部隊の女』P119

 シドニーの波止場やリヴァライナの牧羊小屋から集められたオーストラリア兵たち - 不気味な汚れた顔に大きな軍靴、ポケットに押しこんだリヴォルヴァー、大きなぶかっこうな手で小銃をつかんでどなり散らし、始終、ニンマリと笑っている彼らは、見るからに精悍そのものだったので、敵は一目見ただけで勇気をくじかれてしまったに違いない。
『砂漠の戦争』P57

【ベダ・フォムの戦いの後】
 オーストラリアの兵隊となると、上官を無視して、街なかをぶらついたり、むかしながらの習慣で、おんぼろの二人乗の馬車に10人も乗り込んで走らせたりしながら、彼らの父親が第一次世界大戦末期に"駐留"した町を、ひややかに眺めていた。時おり彼らは《ワルツを踊るマチルダ》や《オズの魔法使い》の歌をがなりたてた。カフェのおやじや、通訳や、ハエタタキ売りや、エロ写真売りなどは、親しみというよりは、むしろ恐さが先に立って、おずおずと彼らに接していた。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P20,21

 【ガザラの戦いの後】
 【自由フランス軍所属の著者が、】つばの広い帽子をかぶったオーストラリア人の大隊が前線に戻ろうとするのにすれ違った。ドイツ軍の進撃を食いとめるために砂漠へ戦いに行くのが嬉しくてたまらない様子で、みな歌を歌いながら行進していた。
『外人部隊の女』P198



 コンパス作戦からベダ・フォムの戦いへの時期でイタリア兵達は、オーストラリア軍兵士が獅子の如き激しい雄叫びを上げて突撃してくるのに心底恐れおののき、そのためもあって多くが降伏してしまったのでした。捕虜となったイタリア軍兵士達の間では「オーストラリア軍兵士が来ている革ジャンパーは銃弾が通らない。そうでなければ、あんな恐れを知らない突撃などできるわけがない」という噂が広まり、オーストラリア軍兵士の革ジャンパーを恐る恐る触りに来てみるイタリア軍兵士もいたとか……。







 しかしこの時期の戦いで、オーストラリア兵やニュージーランド兵による民間人殺害もあったようです。

 残念ながら、北アフリカ戦役でも非道な行為が行われている。
 最も残虐であり、しかし歴史の片隅に追いやられている事件は、1940年から41年にかけての、デルナ~ベンガジ突出部の略奪であろう。連合軍が前進し、その後、退却した際に、大規模な略奪が行われたことに、疑問を挟む余地はない。そこで行われたことといえば、ベンガジのイタリア人女性の虐殺(前進してきたドイツ軍が、その証拠を撮影している)、略奪行為(ニュージーランド兵による蛮行がすさまじかったという)、破壊、レイプ、そして殺人。
 前進してきたドイツ軍とイタリア軍は、非道な行いに対し、オーストラリア兵を告発した。略奪行為の一部は、イギリス軍上級司令部が奨励したものもあったという。現在、オーストラリアの公式の見解としては、確かに当時、虐殺は行われたが、それはニュージーランド兵によるものだ、ということになっている。しかし、一部のオーストラリア兵も略奪に関与したという考えは、否定できないであろう。
 もっとも、彼らは退却してきたイタリア軍とアラブ人がデルナとベンガジをさんざん略奪した後で、追い打ちをかけたのではあるが。
 オーストラリア政府はこれまで、1940年と41年にベンガジの市民を処刑したことを示す、文書による証拠の存在を明らかにはしていない。だが、現地のアラブ人がレイプされ、略奪され、殺され、同じようにイタリア人入植者が殺害されたことは間違いないのである。連合軍による略奪行為のうち、オーストラリア兵がどの程度関与していたのか、真相を知ることはできない。
 イタリア軍は、ANZAC(オーストラリア、ニュージーランド軍)の兵士は、投降したり負傷している枢軸軍兵士を処刑している、と主張してきた。第9ベルサグリエーリ連隊に所属していたセルジオ・タミオッツォは、1941年4月30日のトブルク要塞の外郭陣地に対する夜襲の際、オーストラリア軍が反撃に転じた後に捕虜・負傷者を虐殺する光景を目撃している。またメルサ・マトルーでは、ニュージーランド兵が投降を申し出たドイツ兵と負傷者を、銃剣で刺殺した例が報告されている。
『コマンドマガジン日本版Vol.15』P62,63




 これらのことからでしょうか、イギリス軍の上級将校達の間では、オーストラリア軍やニュージーランド軍の兵士達は厄介者扱いされてもいたようです。

 だが、問題はより根深いところにあった。イギリスの上級将校達はANZAC(Australian New Zealand Army Corps)の将校や兵士達に対して多くの偏見を持っていたのである。ウィルソン将軍は彼らを「厄介なやつら」呼ばわりしており、オーキンレックは決して彼らを好んでおらず、オコーナーでさえもがオーストラリア兵達を酔っ払いの無秩序な、略奪家であると非難していたのである(それらはある程度事実であった)。ANZACの部隊が真に理解され、この戦域における「イギリス将軍連」から受け入れられるようになるのは、モントゴメリー将軍の到着を待たねばならなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P54




 一方で、オーストラリア側にも、宗主国であったイギリス側に対する不満がありました。

 海外に出たこれらのオーストラリア軍部隊は、イギリス軍司令官の命令に従っていたが、このことは、国粋主義を強めるオーストラリア人の怒りを買うことになった。【……】

 オーストラリア軍に欠けていたのは方針だった。オーストラリア軍は戦争に参加することは望んだが、イギリス軍に吸収されて自分たちのアイデンティティが失われることは避けたかった。しかし、最初の海外派遣部隊となったオーストラリア第6師団は、明確な方向性が示されないままイギリスに提供された。同様に、日本軍に対してどのように防衛するかについても何の考えも示されなかった。そのため、オーストラリア軍部隊がギリシャへ、さらにクレタ島へと、連合国軍の救援に駆けつける体のいい消防隊のような役割を担うことになってしまったのは、ある意味で自業自得だったと言える。イギリスの彼らに対する態度は、しばしば軽蔑的であった。ギリシャからの撤退命令が相談もなく出されたことは、オーストラリア陸軍総司令官サー・トーマス・ブラミー将軍を怒らせた。

 オーストラリア軍兵士達は、イギリスが自分たちを大砲の餌食【消耗品のように使い捨てられる兵士】にしているという思いを常に抱いていた。その根本的な原因が植民地問題であったことは間違いないが、イギリス政府がオーストラリア人を見下していたこと(特にウィンストン・S・チャーチル首相がそうであった)や、オーストラリア軍が単独で活動することが少なかったこともあって、その思いはさらに強まっていたのである。その結果、戦争が長引けば長引くほど、特に日本が参戦し、オーストラリア人にとっての焦点がヨーロッパや北アフリカ戦域からそちらに移った後は、英豪関係の緊張が高まっていった。


 第6師団が配備されて間もなく、第7師団が合流した。彼らは主に歩兵として使用され、北アフリカ、ヨーロッパ、そして後にはアジアで活躍した。彼らは粘り強く勇敢に戦い、帝国の他の国よりも多い19個のヴィクトリア十字章を獲得した。オーストラリア軍はいくつかの装甲部隊を持っていたが、装備の不足に大きく悩まされていた。

 オーストラリア軍で最初に従軍したのは第6師団で、1941年2月のベダ・フォムでのリチャード・オコーナー将軍の西方砂漠部隊の勝利に重要な役割を果たした。この勝利は、戦争中の英国の陸上での最初の成功であった。第6師団はその後クレタ島に派遣され、英軍指揮官達に駆り立てられた無意味な従軍を余儀なくされた。

 最も有名なオーストラリア軍の活動は、1941年のトブルクでのものである。その頃、オーストラリア軍はレスリー・モースヘッド将軍(その決断力から「ミン冷酷帝」と呼ばれた【アメリカで1934年に始まった新聞連載漫画『フラッシュ・ゴードン』に出てくる主人公の敵である、惑星モンゴの冷酷な皇帝ミンのあだ名から】)の指揮の下、中東に3個師団を置いていた。トブルクでは、第7師団の第18旅団と、新たに到着した「新兵」の第9師団の第20、第24、第26旅団が防衛線を形成し、ドイツのエルヴィン・ロンメル将軍の戦い慣れしたアフリカ軍団の攻勢に対抗した。オーストラリア軍は4月から11月までの6カ月間、その位置を維持し、ドイツ軍によるその重要な港へのアクセスを阻止した。この1万5千人のオーストラリア軍の堅固な戦いぶりから、彼らは「トブルクのネズミ」と呼ばれるようになった。この活躍により、連合国はその後、「クルセイダー作戦」に乗り出し成功を収めた。しかし、これらの従軍により政治的な緊張は高まり、多くのオーストラリア人政治家は"彼らの兵士達 "を解放してオーストラリアに戻し、日本軍を牽制することを求めた。

 第9師団はその洗礼を受けて強靭な部隊となり、オーストラリア軍歩兵部隊の典型となった。第9師団はエル・アラメインで大きな功績を残し、ドイツ情報部はイギリス第8軍の中で最も優秀な部隊とみなした。戦争末期には太平洋戦域に戻り、日本軍と戦った。

 【……】

 オーストラリア側は、オーストラリアへと繋がる重要な戦略拠点であり、東南アジアにおけるイギリスの力の要である シンガポールの連合軍戦力が充分であるかどうかを懸念していた。イギリスは、中東でのオーストラリア軍部隊の重要な戦力を失いたくないという思いから、絶えず彼らにそれを保証していたが、1942年2月、イギリスの保証にもかかわらずシンガポールは陥落し、それに伴って英豪の緊張が高まっていった。

 自分たちの能力を証明し、日本軍が攻勢に出ている中で、オーストラリア軍兵士達は故郷に戻って日本軍と対峙することを求めた。装備や資材の不足は相変わらず続いていたが、兵士達は自信を持っていた。しかし、イギリスはひそかに厳しい態度をとり続け、シンガポールを失ったのはオーストラリア軍のせいだとさえ言った【第8オーストラリア歩兵師団がマレーとシンガポールの戦いで敗れたことを指しているものか】。彼らは、オーストラリア軍をイギリスの利益を守るのに適した東部の別の場所で使おうと、移送を遅らせようとした。議論がエスカレートするにつれ、オーストラリア人はアメリカに接近していった。この関係は、戦争が進むにつれて大きくなっていった。

 結局、オーストラリアの師団は中東から移されたが、第9師団が本土の安全確保のために戻ってこれたのは1943年になってからだった。【……】

『World War II in Europe: An Encyclopedia』Volume.1 P601


 1943年末になるとオーストラリアは、自国を対等の同盟国として扱わない米英指導部の侮蔑的態度を深く恨むようになっていた。1945年春にサンフランシスコで国際連合が発足するまでに、オーストラリアは世界情勢について大国に反対する中小諸国の多弁な指導者になっていた。戦争終結時もオーストラリアは、今や脅威になりつつあったソ連よりも、イギリスとアメリカに対してより敵意を抱いているかのようであった。
 もしオーストラリア軍に南西太平洋戦域の指揮権が与えられていたら、もしオーストラリアが最低限東インドの一部でも奪回を認められていたら、そして、もしオーストラリアが西側連合国の戦略決定の場で発言を許されていたら、おそらくオーストラリアが米英と疎遠になることはなかった。ところがワシントンとロンドンの政治家や将軍たちにとっては、当時のオーストラリア国民の感情は、さしたる関心事ではなかった。なぜなら、オーストラリアの国家安全保障はひとえに米英同盟に依存していたからである。
『ヒトラーが勝利する世界 歴史家たちが検証する第二次大戦・60の"IF"』P263,4




 さらに、ドイツ軍やロンメル将軍が、オーストラリア軍兵士達をどう見ていたかに関しては。

 オーストラリア軍は特にイタリア人に対して粗暴だと【ロンメルは】見たが、その粗暴さに彼はむしろ愉快さを感じていて、"悪意"を見ていなかった。彼はオーストラリア人を個々の戦闘員として高く買っていたが、手に負えない傾向があると考えていた。彼らの構成する1個師団はいいが、オーストラリア軍となると、統率が容易でなかろうと語った。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P181

 ロンメルは41年の夏にこう語っていた。
「オーストラリア軍部隊の戦い方は見事で、彼らの練度は我々を遙かに上回っている。現在ある部隊だけでは、トブルクは取れそうもない。」
 ドイツ軍のBellerstedt少佐は言っている。
「オーストラリア軍兵士は、ドイツ軍兵士よりも明らかに優れている。1)個々人の武器の取り扱い、特にスナイパーライフルについて。2)地形の偽装能力について。3)偵察、観察能力について。4)あらゆる方法で奇襲を行ってくる能力について。」
 DAKのSchorm中尉【副官?】は彼の日誌にこう書いている。
「我々の敵はイギリス軍とオーストラリア軍だ。攻撃に関しては素人だが、度胸と強靱さは大したものだ。疲れを知らず、頑強に苦痛に耐え、防御において素晴らしい……オーストラリア軍は桁外れの屈強な兵士達だ。
『Rommel's North Africa Campaign』P62,63

 実情調査にあたったある参謀将校は、アフリカ軍団がオーストラリア軍に対してこれ以上正面攻撃をすることは不可能だと、軍の最高司令部に内密に報告している。「オーストラリア兵はひとりひとりが強靭で容赦ない戦士で、守備に長けている(中略)冷酷で接近戦に熟練しており(中略) いかなる苦難にも耐え得る」
『パットン対ロンメル』P222,3





 第9オーストラリア歩兵師団に関しては、このような記述も。

 陸軍少将レズリー・モースヘッド卿。トブルク防衛線を頑張りぬいたオーストラリア第9歩兵師団の師団長だったモースヘッドは、師団将兵に規律がなく、軍内部のしきたりを平気で無視するという批判がイギリスで起きたとき、長い時間をかけて勇猛な部下たちをかばい続けた。
『ロンメル語録』P128

 1941年4月からその年の暮れまでトブルクはアフリカ戦線の焦点だった。防御にあたった勇猛なオーストラリア第9師団は、勇猛さではひけを取らぬ少将レズリー・モースヘッド卿に率いられ、目覚ましい戦い振りを示した。
『ロンメル語録』P134

 第9オーストラリア師団は、ロンメルにしろ誰にしろ、そうやすやすと撃破できる相手ではなかった。この種の戦闘、分隊と個々の兵隊のねばりと果敢さがものをいう戦いは、オーストラリア兵の最も得意とするところだった。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P119

 歩兵部隊で、いちばん優秀なのは、オーストラリア第9師団であったが、それにしても、この師団の実力のほどは、まだ未知数であった。しかも3個旅団のうち1個旅団は、トブルクのイタリア軍の防御施設をつかえるようにするために、派遣しなくてはならなかった。
『ロンメル戦車軍団』P24

 トブルク要塞に立て籠もって、ロンメルの第一次攻撃をほぼ完全に撃退し、ドイツ軍に甚大な損害(戦死・負傷・行方不明者併せて1200人以上)を与えたのは、レスリー・モースヘッド少将に率いられた、オーストラリア第9師団だった。
 オーストラリア第9師団は、1940年に本国で編成された後、1941年3月に遠く離れた北アフリカへと配備された部隊で、実戦経験が一度もないまま、ロンメルの最初の攻勢を迎え撃つこととなった。だが、乾燥した砂漠の多いオーストラリアは、気候が北アフリカと似通っているため、ドイツ軍・イタリア軍・イギリス軍などの、ヨーロッパで生まれ育った兵士から成る部隊よりも早く、この環境に適応することに成功していた。
 彼らは、トブルクへの退却の過程で多少の損害を被っていたが、将兵の士気は高く、要塞守備隊の指揮系統も効果的に機能していた。そして、ドイツ空軍の熾烈な爆撃(4月から6月にかけての3か月間に計1000回以上)にもかかわらず、トブルクの港湾機能はいまだ高い能力を保っており、エジプトからは着々と弾薬や食糧などの補給物資が船で搬入されていた。
『ロンメル戦記』P233,4

 【ガザラの戦いの後】
 オーストラリア第9師団も戦線に投入されつつあった。この最後のニュースはいいニュースだった。トブルクを守り抜いたのは、第9師団だったのだ。彼らの勇名もニュージーランド軍にだけはおよばなかったが、まさに追いあげているという感じだった。
『砂漠の戦争』P207

 【エル・アラメインの戦いの前】
 しかし、心からよろこんでアラメーン・ラインに乗りこんできたこの第9師団は、私が中東で会った他のオーストラリア兵とはまったく違っていた。彼らの話しぶりは、はるかにおだやかだった。彼らは自信に満ちていて、もはや相手に感銘をあたえようと努めることもなかった - 彼らは自分たちの真の姿をはっきりと知っていたのだ。トブルクがオーストラリア兵の前にその真の姿、実力をえぐり出して見せたのである。その後の休養が、その発見についてじっくりと考える時間をあたえてくれた。彼らの規律は、私が知っていたいかなるオーストラリア軍のものよりも、はるかに四角四面なところがなかった。練兵場の規律ではなく、四角四面なところがない中にも、要点だけはピシッと締った前線の規律となっていたのである。彼らは黒人のように、能率よく働いた。モースヘッド将軍が彼らに新しい防御施設を構築させたのは、彼らが新しい配置についてからまだ二時間もたっていない時だった。そういうことまでやってのけながらも、彼らはまだ、大英帝国きっての奇襲部隊の一つにかぞえられていた。
『砂漠の戦争』P214

 【アラメイン戦で】これは7月10日に攻撃に移り、サブラタ師団を蹴ちらし無電傍受中隊を壊滅させたオーストラリア第9師団であった。
『砂漠のキツネ』P236




 個人的に一番ヤバく感じたのはその体格の大きさの話でしたが、しかし彼らが父達の武勇に誇りを持って、自分達も勇敢に戦おうと決意していたという辺りは非常に感動しました。








 また、北アフリカ戦線におけるオーストラリア軍に関する興味深い記述を見つけたら、追記しようと思います。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第4ターン先攻ドイツ軍終了

 尼崎会で、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第4ターン先攻ドイツ軍をプレイできました。

 今回はいつものワニミさん、私の他に、肉入り鍋さんが来て下さいましたので、3人でドイツ軍を分担しました。北方が私、中央が肉入り鍋さん、南方がワニミさんです。

 ターン最初のイニシアティブはドイツ軍が取り、「今後のソ連軍の反攻を難しくする」という意味では後攻を取った方が良いかとも思われたのですが、「引き分けでなく勝利を目指すならばロスラウリを奪取しなければならず、そのためには今先攻を取らなければチャンスが失われるだろう」ということから、先攻を選択することになりました。



 ↓北方

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 北方は大きな動きなしですが、以前にグデーリアンの戦区から回して貰っていた独立の戦車部隊などを危機的状況のイエルニャ方面に回しました。また、歩兵師団が順次到着し始めており、最前線の装甲師団と防衛任務を代わり始めました(が、歩兵師団の数があまりにも少ないので、全部置き換えるなどということは無理かと……)。




 ↓中央

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 イエルニャ方面をどうするか検討した結果、「ソ連軍にOODAループで後手を取らせる」という意味合いから、ソ連軍の攻勢の側面から押しこんで攻勢先端を包囲しようということに。画像のように一応それには成功したのですが、絶妙にダイス目が微妙で(^_^;、ドイツ軍側はAR5のユニット2つを失ってしまいました。




 ↓南方

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 ワニミさんはロスラウリの尻尾全体を包囲。クルィチャウ方面でも一部部隊を包囲してしまいました……。

 前回この方面のソ連軍を担当していた私としては、ロスラウリはまとめて包囲される可能性もあるとは思っていたものの、本当にやられてしまったか……という感じです(>_<)

 また、クルィチャウ方面も弱体な部分が気になってはおり、「ここが破られるかも……」と思っていたまさにその部分が破られて包囲されてしまいました(T_T) というか、少なくともクルィチャウ方面に関してはそれが予見されたのであれば、先に部隊を撤退させておいた方が良かったかも……?


 実はドイツ軍はこのターンから空軍の引き抜きが始まっており、5ターン後にはごっそりと部隊がキエフ方面へと引き抜かれてしまうので、そろそろそれを見越したムーブが必要かもしれません。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第3ターン後攻ソ連軍終了

 尼崎会でワニミさんと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第3ターン後攻ソ連軍をプレイできました。

 ワニミさんが北方および中央、私が南方を担当しました。



 ↓南方、ロスラウリ方面

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 ロスラウリはドイツ軍に包囲されてしまっていましたが、前ターンに西方のクルィチャウ(Krichev)方面から駆けつけてきていたソ連軍第1自動車化歩兵師団の戦車大隊2個がグロースドイッチュラント自動車界歩兵連隊に対してオーバーランを仕掛けます。14×2=28:10→オープン3:1-2でしたが、ダイス目が奇襲チェック(赤いダイス)11で攻撃側奇襲に成功して3シフト(黒いダイス)し、Ao1 Do1の結果となりました。ソ連軍は6-3-4戦車大隊が壊滅しましたが、グロースドイッチュラントは退却し、包囲環を開くことに成功!

 ダイス目が非常に良かったこともありますが、平地上の歩兵に対する戦車部隊の戦力値×2修正のすごさが光りました。




 ↓北方および中央

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 スモレンスク北辺で再度包囲されてしまったソ連軍部隊を再び解囲しようと北方のソ連軍はオーバーランをしかけましたが、ドイツ軍側は戦闘補給を入れることさえせずに(つまり防御力半分で)ソ連軍を撃退。ソ連軍は解囲を諦め、包囲環の中のソ連軍部隊は手持ちのSPでできるだけ生き延びることを選択する他ありませんでした。

 イエルニャ方面では、黒い矢印のようにソ連軍は再び攻勢をおこない、ドイツ軍側のイエルニャへの補給線を切断しましたただし、それに伴う諸攻撃ではダイス目の悪さから逆奇襲が起こりまくり、ソ連軍はかなりの戦力を失っております……。




 ↓南方

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 ロスラウリでは、再び包囲されないように尻尾を繋げていますが、どうなるか……。


ワニミさん放出の洋書の一部を見てみました

 ワニミさんが断捨離中で、洋書等を尼崎会で預かりました。







 うち、個人的に興味深かった一部の本をチェックしてみました。


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 グランツの 『第二次世界大戦におけるソ連軍の軍事的欺瞞』。個人的に欺瞞には非常に興味があります(ゲームでももっと欺瞞ができたらいいのに、と……)。

 ソ連軍の様々な作戦に関して、その欺瞞について述べられているようで、地図もたくさん入っていました。オストロゴジスク=ロッソシ作戦についても一章ありました。







 『Cavalry from Hoof to Track: The Quest for Mobility』に関しては、以前ワニミさんに見せてもらっていて、以下のエントリで一部引用してました。

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス軍の3種類の機甲師団らしきもの (2019/12/06)
ナポレオン戦争期のイギリス軍騎兵は統制が難しかった? (2019/12/08)







 『Army Group Center: The Wehrmacht in Russia 1941-1945』。東部戦線の中央軍集団に関する本ですが、割と字が大きくて、字数からすると中央軍集団に関する入門書的な感じかもしれません。




https://www.amazon.com/Great-Battles-Eastern-Front-Martell/dp/B0014G1HYC

 『Great Battles on the Eastern Front』。日本のAmazonでは出てこないので、アメリカのAmazonへリンクしてます。ページをめくると、地図もいくらかありますが、図表類の多さに驚きます。書評を見てると、それぞれの戦い(東部戦線の序盤よりも後半に関して詳しい)の簡潔で分かりやすい記述が主で、エピソード的なものに関する記述はないそうです。






 『World War II in Europe: An Encyclopedia』。値段にビビりましたが、中古はほどほどでした……。

 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に関してだけの百科事典で、しかも分厚いですし、ヨーロッパ戦線に興味が偏っている(OCSがそっちに偏っているから?)私にとってはある意味夢のような本ですね!

 第二次世界大戦全体に関する百科事典としては、こんな和訳本もあります。左のはまあ無難? 右のは個人的に超オススメです!






 『World War II in Europe: An Encyclopedia』ですが、目次はこうなってました。

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 6つのセクションに分かれており、それぞれのセクションでA~Zの順で項目が立てられています。

 個人的にはセクションIIの「Leaders and Individuals」が最も興味があり、セクションIIIの「Units and Organizations」もやや興味のあるところです。

 「Leaders and Individuals」をざっと眺めてみましたが、例えばフーベ(Hube)は項目がありませんでした。また、人物像に関してどれだけ記述があるかに関してですが、基本的には事績だけが述べられていて、しかし時々、「エリック・ドーマン=スミスは、機甲部隊による機動戦革命の重要性をはっきりと理解していた最初のイギリス軍将校達のうちの一人であった。」というような短い評価や、あるいはホッジスなんかは割と長い人物評(指揮官評)が付いていたりしました。人物毎に違いもあるでしょうし、あるいは執筆者による差もあるかもです。


 「Units and Organizations」では、「Army, Australian」というように各国の軍に関しての記述があったりして、個人的に北アフリカ戦線のオーストラリア軍、ニュージーランド軍、南アフリカ軍などに関しても興味があるので読んでみたいところです。

 また、セクションVの「Strategy, Tactics, and Operational Techniques」には、「Cavalry Operation」というような項目もあり、これも個人的に非常に興味があります。


 今後、調べ物に活かさしてもらったらなぁと思います。



 しかし、どれも値段がすごい……!!

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第3ターン先攻ドイツ軍終了

 尼崎会でワニミさんと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第3ターン先攻ドイツ軍をプレイできました。



 ↓北方および中央

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 前のターンにソ連軍が攻勢をかけたり、包囲環から脱出しようとしたところを、ドイツ軍側が切断し直しました。ソ連軍側の努力は空しかったように見えるかもしれませんが、ダブルターンの可能性が半分あったので、ソ連軍がイニシアティブを取った場合には、少なくとも包囲環からの脱出は成功したでしょうし、ソ連軍の攻勢もより強化されていたでしょうですから、かなり紙一重だったと言えます。




 ↓南方

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 ソ連軍はロスラウリ周辺で戦線を張っていましたが、ドイツ軍が一箇所を切断し、3ヘクスを包囲しました。この後、このロスラウリがドイツ軍の手に帰するかどうかが勝負の分かれ目になるだろうという感じです(ドイツ軍が取ればドイツ軍の勝利。取れなければ引き分け)。

 『Smolensk:Barbarossa Derailed』のバランスはかなりいいように感じます。



 

OCS『The Blitzkrieg Legend』の通常の航空ユニットとサージの航空ユニットは「どこで」統合されうるのか?

 OCS『The Blitzkrieg Legend』に関する質問を時々タエさんから伺ってます。

 その中で、通常の航空ユニットとサージの航空ユニットは「どこで」統合されうるのか? というものがありました。

 関係するルールを挙げてみます。

OCS 13.9 ユニットの統合
4)同じヘクス(または同じマップ外ボックス)にいる2個の減少戦力状態の航空ユニットは、種類【type】や能力値、状態(活動状態と非活動状態)がすべて同じであれば、統合することができます。これはゲーム中のいつでも好きな時に行えます(増援フェイズでなくてもかまいません)。

『The Blitzkrieg Legend』エラッタ(2014年11月13日付け)
5.航空補充(1.9bの変更)。フランス軍とドイツ軍は、通常およびサージ航空ユニットを統合(OCS 13.9)できます。
【元のルールでは統合できないと記述されていました。】

『The Blitzkrieg Legend』1.10
 サージ航空ユニットは常にサージボックスを基地としなければならず、通常の航空ユニットは決してサージボックスを基地とすることができません。


 ただ、サージ航空ユニットと通常の航空ユニットは同じ航空任務に参加はできると思うので、もしかして同じ航空任務をおこなった時に、その任務ヘクス上で統合できるのかな……? と考えたりもしました(^_^;


 で、BoardGameGeekで聞いてみました。そうすると、以下のような返答が。

 通常、このようにゲーム特別ルールとシリーズルールが矛盾する場合には、特別ルールが優先されます。我々ならば、プレイヤーの選択で、マップ上で(サージ航空ユニットを通常航空ユニットに統合)、あるいはサージボックス上で(前記と逆)統合できるということにします。


 ……なるほど!



 あと、航空ユニットの統合に関して、「機種と国籍が異なっていても統合できるのか」というタエさんからの質問もありました。

 前記のOCS 13.9で要求されているのは、「場所が同じ」「両方とも減少戦力状態」「種類【type】や能力値、状態が同じ」という条件です。種類【type】というのは、戦闘機(F)や戦術爆撃機(T)というような区別です。機種は「Aircraft Model」という用語です。

 なので、機種が異なっていても、国籍が異なっていても統合できるでしょう

 OCSでは、機種名が同じであっても能力値が異なる航空ユニットがあることがあるので、それら同士は統合できないはずです。例えば『Hungarian Rhapsody』では……。

unit9441.jpg unit9440.jpg

 ハルトマンユニットへと統合していくことができないばかりでなく、どのBf.109G同士でも統合できないですね(^_^;

 また、ルーデルユニットは減少戦力面が存在しない(そもそもステップロスを絶対に食らわない)ので、統合のしようがありませんが、別に統合する必要ないですね!


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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