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購入したドイツ軍指揮官本(洋書)が扱っている人物一覧

 今までに、ドイツ軍指揮官本(洋書)を発見したことについていくらか書いていました。

北アフリカ戦線のイギリス軍将軍や、ドイツ軍の将軍達の列伝的な洋書を発見! (2020/11/29)
新たに見つけたドイツ軍の将軍達の列伝的な洋書 (2021/02/24)


 その後、『ドイツ軍名将列伝』の参考文献一覧から、さらに見つけた本を注文してみてました。それらで扱われている人物は、本が届かないと分からなかったのですが、今日全部揃ったので、今までに購入したものも含めて全部のリストを挙げてみます。

 リストは、書名のアルファベット順、書名が同じなら著者の苗字順。人物名は、日本語表記がどこかで見つけられたものはカタカナで書いてますが、見つけられなかったものはアルファベットのままで。括弧内の情報は『ドイツ軍名将列伝』でのページ数やどんな人物か、です。





『Devil's Virtuosos: German Generals at War, 1940-45』
 ボック、ブラウヒッチュ、ディートリヒ、グデーリアン、ハルダー、ホート、クライスト、クルーゲ
 マンシュタイン、マントイフェル、モーデル、パウルス、ロンメル、ルントシュテット、ヴァイクス

 この本は目次を見ると、完全に時系列順で叙述されているのですが、裏表紙には上記の人物名が羅列されています。なので、本一冊まるごとで、それぞれの時にそれぞれの人物が描かれているものかと。Amazonの評価としては高めですが、簡潔で初心者向けという感じなので、私がこれから調べる時には「人物毎になっていない」のが面倒くさいこともあり、参照しないかも……。







MEN AT ARMS『German Commanders of World War II』
ディートリッヒ、デーニッツ、グデーリアン、ケッセルリンク、クルーゲ、レール(空軍:P634)、マンシュタイン、マントイフェル、モーデル、ロンメル、ルントシュテット、シュトゥデント、バルク、ブラスコヴィッツ(P146)、バイエルライン、ボック、ブッシュ(P166)、クライスト、レープ、リスト、シェルナー、ヴィッツレーベン(P456)







Elite『German Commanders of World War II(1)』
ロンメル、マンシュタイン、モーデル、シェルナー、ルントシュテット、クライスト、ディートル(ナルヴィク:P182)、グデーリアン、フーベ、マントイフェル、クリューヴェル、エーベルバッハ
師団長クラス:Ringel、Scherer、バイエルライン、ベーケ、ニーマック(P412)、オッペルン=ブロニコフスキー:P294)、Remer (連隊長&大隊長クラスは省略)







Elite『German Commanders of World War II(2)』
武装SS:ディートリッヒ、ハウサー、オットー・ギレ、アイケ、シュタイナー、ヴィッシュ(P594)、ヴィット(P574)、ハルメル(P584)、マイヤー(P544)、バウム(P580)、モーンケ(P562)、パイパー、Wunsche
(海軍は省略)
空軍:ケッセルリンク、シュペルレ(P646)、ラムケ、ガーランド、シュトゥデント、マインドル(P664)、シュマルツ(P668)







『Hitler's Commanders: German Action in the Field, 1939–1945』

アルニム  …… The last General Commanding Army Group Africa
ディートル  …… The hero of Narvik
エーベルバッハ  …… The Panzer specialist in the East and the West
フェーゲライン …… The commander of the SS Cavalry Division who became Hitler’s brother-in-law
コッホ  …… Commander of the Para Assault Battalion in the Low Countries and in Crete
Brigadefiihrer and Generalmajor der Waffen SS Otto Kumm
 ……  Enforcer in the Balkans as commander of the 7th SS Gebirgs Division ‘Prinz Eugen’
マイヤー ……  ‘Panzermeyer’
Oberfeldwebel Heinrich Schaefer  …… The defender of Cactus Farm in Tunisia
Generalmajor Theodor Scherer  …… The Hero of Cholm
シェルナー  …… The last commander of Army Group Centre
Leutnant Erich Johannes Schuster  …… The paratrooper par excellence
シュタイナー ……  The innovator who rose to command the ‘Wiking’Division and then the 11th Army
ヴェストファル …… Chief of staff to three senior commanders







『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』

THE WARLORDS OF THE EASTERN FRONT(東部戦線)
Fedor von Bock. Ritter Wilhelm von Leeb. Georg von Kuechler. Georg Lindemann. Friedrich Mieth. Count Hans Emil Otto von Sponeck. Gotthard Heinrici.
ボック、レープ、キュヒラー、リンデマン(1944年3月から北方軍集団司令官:P404)、ミート(第4軍団長:P516)、シュポネック(第46軍団長:P330)、ハインリーチ

THE GENERALS OF STALINGRAD(スターリングラード)
Friedrich Wilhelm Paulus. Walter von Reichenau. Gustav von Wietersheim. Victor von Schwedler. Walter Heitz. Karl Strecker. Walter von Seydlitz-Kurzbach. Arthur Schmidt. Wolfgang Pickert. Erwin Jaenecke. Hans Valentin Hube.
パウルス、ライヘナウ、ヴィータースハイム、シュドヴェラー(第4軍団長:P436)、ハイツ(第8軍団長:P382)、シュトレッカー(第11軍団長:P444)、ザイトリッツ、シュミット、ピッカート(高射砲兵大将:P673)、イエネッケ(クリミア放棄:P234)、フーベ

THE COMMANDERS IN THE WEST(西部戦線)
Nikolaus von Falkenhorst. Hugo Sperrle. Friedrich Dollmann. Rudolf Stegmann. Baron Hasso von Manteuffel. Baron Diepold Georg Heinrich von Luettwitz.
ファルケンホルスト(P374)、Sperrle、ドルマン(P372)、Stegmann、マントイフェル、リュトヴィッツ

THE PANZER COMMANDERS
Heinz Guderian. Hermann Balck. Walter Wenck. Traugott Herr. Wolfgang Fischer. Karl Decker. Dr. Heinz Goering.
グデーリアン、バルク、ヴェンク、ヘール(P502)、Fischer、デッカー(P370)、Heinz Goering

THE WAFFEN-SS
Theodor Eicke. Paul Hausser. Josef “Sepp” Dietrich. Helmut Becker. Michael Wittmann. Gustav Knittel.
アイケ、ハウサー、ディートリッヒ、Becker、ヴィットマン、Knittel







『Hitler's Enforcers: Leaders of the German War Machine 1939-1945』
Faithful Sepp……ディートリヒ
The Rosary Paratrooper……ハイテ(Heydte)
Smiling Albert……ケッセルリンク
Grossdeutschland's Panzer Commanders……Langkeit
Master of the Freld……マンシュタイン
The Fuehrer's Fireman……モーデル
Panzer Theoretician and Practitioner……ネーリング
Marine Soldier to Paratroop General……ラムケ
Hitler's Austrian Fireman……Rendulic
The Desert Fox……ロンメル
The Panzer Count……シュトラハヴィッツ
The Airborne Innovator……シュトゥデント
The Finest Battlegroup Commander……ヴァイディンガー
The Tiger Panzer Ace……ヴィットマン
Commander of the Eben Emael Attack……ヴィッツィヒ







『Hitler's Field Marshals and Their Battles』
ブロンベルク、ブラウヒッチュ、クライスト、ライヒェナウ、レープ、ボック、カイテル、ロンメル、リスト、ヴァイクス、パウルス、マンシュタイン、キュヒラー、ブッシュ、ルントシュテット、クルーゲ、モーデル、ヴィッツレーベン、シェルナー、空軍の元帥達







Correlli Barnett『Hitler's Generals』
ルントシュテット、ライヘナウ、マンシュタイン、クライスト、ケッセルリンク、ロンメル、モーデル、アルニム、パウルス、ゼンガー(P318)、クルーゲ、ディートリッヒとマントイフェル、グデーリアン、シュトゥデント







Shelford Bidwell『Hitler's Generals』
 クライスト、グデーリアン、ルントシュテット、ディートリヒ、クルーゲ、ボック、レープ、ヘープナー
 ロンメル、アルニム、ケッセルリンク、Vietinghoff、マンシュタイン、モーデル、ラインハルト、Woehler
 シェルナー、カイテル、ハルダー、ヨードル、ツァイツラー

(以下、分析記事)西方、東部戦線ミンスクからスターリングラード、来たアフリカとイタリア、対ロシア、ヒトラーと彼の高級幕僚、第二次世界大戦、のドイツ軍指揮官分析







Richard Brett-Smith『Hitler's Generals』

The Old Guard
 ルントシュテット、ブラウヒッチュ、ブラスコヴィッツ、レープ、リスト、ボック
 クルーゲ、キュヒラー、Otto von Stulpnagel、シュトラウス、シュミット、Dollmann

The Luftwaffe Generals
 ゲーリング、ミルヒ、Sperrle、Felmy、Stumpff、Keller、Grauert、Weise、ウーデット
 Greim、Geissler、Lorzer、Christiansen、リヒトホーフェン、Lohr、Bodenschatz
 Jeschonnek、Dessloch、Deichmann、Fiebig、ガーランド、Korten、Kreipe
 シュトゥデント、Schlemm

The Waffen S.S. Generals
 ハウサー、ディートリヒ、シュタイナー、Bach-Zelewski、アイケ、ビットリヒ、ギレ
 マイヤー

The Cavalry Generals
 クライスト、ヴァイクス、マッケンゼン、リンデマン、ヘープナー、シュヴェッペンブルク
 シュトゥンメ、ヴェストファル、Saucken、Boineburg-Lengsfeld

The Nazi Generals
 ブロンベルク、ライヘナウ、カイテル、ヨードル、Schmundt、ブルクドルフ、ディートル
 ブッシュ、モーデル、シェルナー、Krebs

The Anti-Nazi Generals
 ベック、ヴィッツレーベン、Karl-Heinrich von Stulpnagel、ファルケンハウゼン
 Thomas、トレスコウ、Oster、シュパイデル

The Chief of Staff Officers
 ハルダー、ツァイツラー

Two Great Commanders
 マンシュタイン、ケッセルリンク

The Panzer Leaders
 グデーリアン、ロンメル、ホート

 この本は、章立てにはなっていますが、その章の中で人物毎には分かれて記述されていません。




 他にもいくらか購入するか悩んだものの見送った本もありましたが……。以前は「ドイツ軍指揮官本(英語の本)が全然見つからない!」と嘆いてましたが、「結構あったなあ……」と驚いております(^_^;

 とりあえず購入はこれで終わりにして、今後機会を見つけて人物伝を書いていければと思っています。順番としては、自分が興味の持てる人物&資料が少ないもの(その方が書くのが楽なので(^_^;)を優先しようと思ってます。

 『ロンメルと戦った男達』も書いていっているのですが、その作業だけやっているとしんどくなってくるので、ドイツ軍指揮官で気分転換しつつ……。

 ただ、今パソコンがちょっと壊れてまして(エラーメッセージが出まくり、特定のいくつかのソフトが使えないし、再インストールもできない)、DeepL翻訳のアプリが使えないので、新しいパソコンが届いて環境が整うまでは翻訳関係の作業はしないでおくつもりです。

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OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第2ターン後攻ソ連軍終了

 先日の尼崎会で、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第2ターン後攻ソ連軍をプレイできました。

 いつものワニミさんと私と、今回は富山県からKさんが来て下さいました。3人でソ連軍を分担し、北方をワニミさん、中央をKさん、南方を私が担当しました。


 ↓北方~中央

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 ソ連軍は史実でスターリンから攻勢命令が出ていることもあり、ドイツ軍にプレッシャーを与え、SPを消費させる意味でも攻勢的に行動するようにしています(今回、ダブルターンが見込めることもあります)。

 ワニミさんとKさんは黒い矢印のように攻勢的な動きを取っておられましたが、問題はスモレンスクの北辺で包囲下になってしまっていたユニット群です。今までの尼崎会の定石だと、その場にとどまってドイツ軍の邪魔をして、補給がなくなるまでそこで立ち枯れるのを待つ……という感じだったのですが、先日来のプレイ方針の見直し(「いのちをだいじに」)により、「包囲された部隊は、包囲環から脱出できるように極限まで努力すべきだろう」ということになりました。

 で、赤い矢印のように、ドイツ軍の薄い部分を狙って北方からの攻勢と手を繋ぐように行動。しかしその際に、キャッシュでの一般補給を供給するために必須である司令部(ZOC停止してしまう自動車化移動タイプ)を逃がすためのカーペットが必要で、歩兵部隊2ユニットがスモレンスク北辺に残ってしまうことに……。

 以前書いてました、『Red Christmas - The Tatsinskaya Airfield Raid 1942』を読了しました (2018/11/07)で、タチンスカヤに突入したソ連軍の戦車軍団がそこから脱出する時に、300人の志願者が陽動攻撃で脱出経路と反対側に攻撃をかけ、恐らく全滅しているのに似たものを感じ、ウルウル来ました。もしかして今までOCSをずっとプレイしてきて、一番ぐっと来たかもです。こういう話を日本人が好きだということかもですが……。




 ↓南方

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 南方では補給路を切られてしまったソ連軍ユニットが黒い矢印のように逃げつつ、勝利得点ヘクスであるロスラウリを何とか守ろうとして戦線を構築しています。

 その西方のクルィチャウ(Krichev)方面では、私は一番弱いドイツ軍戦線を攻撃して「攻勢」ということにしようと思っていたのですが、ワニミさんから「ソ連軍が取れそうな勝利得点ヘクスはクルィチャウしかないのだから、そこで真の攻勢的行動を取ることは、ソ連軍全体の動きからしても大変重要であり、ソ連軍全体の意図を持って行動すべきである」というようなことを言われまして、「尤もだ!」と思い、むしろクルィチャウ自体に52砲爆撃力で砲撃をしましたところ、そこにいたドイツ軍歩兵師団が1ステップロス! 続けて攻撃を敢行しましたが、ほどほどのダイス目でお互い1ステップロスで、残念ながら陥落させることはできませんでした

 このターンが終了して次のイニシアティブをどちらが取るのかが重要なところでしたが、イニシアティブはドイツ軍が取り、先攻を選択しました。かなり際どい戦いになっております(^^)




 今後の予定ですが、尼崎会はもうしばらくこの続きをプレイし、4月4日(日)のミドルアース大阪ではOCS『Luzon: Race for Bataan』のマップチェックのため、そのプレイを予定しています。

 また、4月10日(土)には、富山県のKさんとVASSALで『Sicily II』の「シチリア島西部」シナリオを立ち上げ、試しの遠隔オンライン対戦と、DISCORDの調整をやってみようと思っています。今後VASSALでの対戦を拡充していければ、と。




OCS『Case Blue』+『GBII』のVASSALモジュールでマップ表示が常に遅れるのを防ぐ方法

 将来的にOCS『Case Blue』+『Guderian's Blitzkrieg II』の連結ゲームをVASSAL上で遠隔多人数プレイできないものかと、VASSALを少しいじってみているのですが、同モジュールですべてのマップ(フルマップ12枚程度?)を広げたシナリオを開くと、マップをスクロールすると常にマップの描画が遅れる(新しい表示領域が最初白くて、少し遅れてマップが表示される)のが若干気になっていました。

unit9444.jpg



 これがどうにかならないものかと思っていたのですが、JAVAに対して使用できるメモリ量を設定する「heap size」というのがあるようで、これの設定をいじると改善することが分かりました。


 まず結論から書きますと、同モジュールをどのシナリオでもいいので立ち上げた後、「File」→「preferences」とすると、下のような設定画面が開きます。

vassal-heap.jpg


 真ん中辺りに「JVM maximum heap (in MB)」とある項目の設定が最初「512」になっているだろうと思うのですが、これを例えば「4096」(4GB)にしてみます。

 多分一回終了させないと設定が有効にならないので、とりあえずVASSALごと全部終了させて、再度VASSAL、モジュールと立ち上げます。すると、最初のスクロールの時は以前と同じように遅れますが、一度表示させた場所は遅延なく表示されるようになると思います。

 「4096」という数値ですが、「2048」(2GB)でも結構いけると思いますが、「4096」の方がより軽快なような気がします。「1024」(1GB)だと、まだちょっと不満を感じます。メモリを16GB積んでいれば「8192」(8GB)でもいけるんじゃないかと思うのですが、他の部分の設定の絡みだったかもですが、「設定メモリが大きすぎる」というようなエラーが出たりしたので、とりあえずは「4096」でいいかな、と。


 heap sizeですが、VASSALを立ち上げただけの時に「File」→「preferences」の「importer」タブにも「initial heap size」と「maxmum heap size」という設定項目があります。最初は「256」と「512」になっていると思われます。これを増大させる方法なんですが、どうもエラーになってしまいやすいようで(実際私は色々エラーが出ました)、結局ここはいじらずに元のままにしている方がいいし、していていいようです。


OCS『The Blitzkrieg Legend』のイングランドボックスへの撤退について訂正

 たえさんが今、OCS『The Blitzkrieg Legend』のソロプレイをされているようで、ちょこちょこ質問が来るんですが、皆さんにお知らせしておいた方がいい件をたえさんが見つけられたので、書いておきます。


 『The Blitzkrieg Legend』の和訳ルール(サンセットゲームズ版)ですが、3.6の最初の「・」は以下のようになっていると思います。

・海上輸送力を用いて港湾から地図盤を出る。



 ここが、現在最新のv1.2cでは、次のようになってました。

・港湾能力を用いて港湾から出る(海上輸送力には数えません)。




 これは、3.4の5)で、以下のように書かれているのと整合が取れなかった部分を訂正したのだと思います。

5)イングランドボックスへと撤退を行うイギリス大陸派遣軍ユニットは、連合軍の海上輸送の制限には数えません(港湾の収容力は制限の要因となります)。
【「港湾の収容力」とありますが、港湾で船に積む能力と降ろす能力の両方を表すので、「港湾能力」と、ここも修正してもらった方がいいかもです】



 和訳をお持ちの方は赤ペンとかで修正しておいて下さいませ……。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第2ターン先攻ドイツ軍終了

 尼崎会でワニミさんと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第2ターン先攻ドイツ軍をプレイできました。

 第2ターン開始時のイニシアティブはソ連軍が取りまして、色々検討した結果、先攻をドイツ軍に取らせる(ダブルターンになる)ことに。なので、ドイツ軍は大して何もできない中で戦線を強化する程度で、大した動きはありませんでした。


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 北側では、「将来のソ連軍の反撃をさせにくくさせるための予防的な攻撃」と「ソ連軍にプレッシャーを与えるための攻撃」の2つの攻撃を準備したのですが、両方を実行できるだけのSPは存在せず(後述の理由により)。しかし前者はソ連軍のリアクション砲撃によって攻撃側スタックがDGにされたため、後者だけを実行したのですが、ダイス目が最悪(ピンゾロで逆奇襲4コラムシフトとか)でSPを消費しただけに終わり、むしろ自分を窮地に追い込んでしまいました(>_<)





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 南側。ドイツ軍勝利のためには勝利得点ヘクスを1個取らねばならず、史実では取っており、可能性もまだしも一番高いかと思われるロスラウリに向かっております。



 実は今回のプレイでは第1ターンのドイツ軍の補給量が最低の「3SP」で(平均は7SP)、第2ターンには多めの「9SP」が来たものの、両ターンが7SPだった場合の14SPに比べて、12SPに留まっております。しかも今回は、「南方をより重視すべき」という反省に基づいて若干南方に手厚くSPを配分しており、北方は危険なくらいSPが枯渇してしまいました。

 まあ、「どれくらいSPが来ているか」は敵プレイヤーには秘密にしてプレイした方がいいだろうと思いますので、ソ連軍プレイヤー側にはドイツ軍のSP事情ははっきりと分からないということにした方がいいと思いますけども、しかし前回「ソ連軍はどうにもならない」と思っていたのは割とそうでもなく、「ソ連軍はとにかく少しでも見込みがありそうなところに攻撃をかけ続ければ、ドイツ軍はSPが枯渇せざるを得ない」のだろうな、と思えました(最初から分かっていたことでもありますが……(^_^; 前回は私が主にやっていた北方ではSPが割と潤沢だったので、切実なものとして捉えられていませんでした)。



 とりあえず3月27日(土)に富山のKさんが尼崎会に来られることになってまして、その時にはVASSALとDISCORDについての打ち合わせと、このOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の続きをやるだろうと思います。

 その後、タイミングをはかって、OCS『Case Blue』のブラウ作戦キャンペーンシナリオをやってみる予定です。将来的には『GBII』+『Case Blue』連結ゲームをVASSAL上でプレイできるようにしていければと……。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第1ターン後攻ドイツ軍終了

 尼崎会でワニミさんと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第1ターン後攻ドイツ軍をプレイできました。

 今回も、2人で知恵を出し合ってムーブを考えました。結果として、1回目のプレイよりも遙かに高効率のドイツ軍の動きを考えることができたかと思います。


 ↓北側

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 ソ連軍はスモレンスク北側にいて包囲環から脱出しようとしている部隊群を、「これ以上うまくは置けない」というぐらいまで考え抜いて置いているのですが、ドイツ軍は「やろうと思えば至極簡単に切断できてしまえる(黒い矢印)」ことが判明

 前回のプレイでは赤い矢印の箇所でソ連軍は遮二無二前進してドイツ軍を脅かしており、その時はドイツ軍がそちらの対処に向かってソ連軍をボコボコにした為、却って包囲環側は切られなくて済んだのですが、今回のソ連軍は「前回ボコボコにされたから、ゆっくり進もう……」とムーブした結果、ドイツ軍側に「あ、こっちは安全だから包囲環を切ろう」と思われた感が……(^_^;

 しかし、「遮二無二ドイツ軍を脅かしても、ドイツ軍がやろうと思ったら包囲環を切断できる」という考え方もあり、結局どうなるかは、その時その時でのプレイヤーの決断次第かなぁ、と。


 ↓南側

unit9448.jpg

 右の矢印の根元にいたグロースドイッチュラント自動車化歩兵連隊が対岸にいたソ連軍分遣連隊を、川を渡ってからオーバーランした挙げ句、もう一つ川を渡ってロスラウリに近づきます。ワニミさんは「グロースドイッチュラント強すぎるので、禁止した方がいいんじゃないか」と仰ってました(^_^;

 史実ではドイツ軍がこの後占領しているロスラウリですが、複数の小河川の存在が邪魔になっています。ドイツ軍は画像中央の矢印の部分に司令部ユニットを移動させ、ここから架橋して渡れるように準備しました。グロースドイッチュラントがいるヘクスの北のヘクス(接している河川ヘクスサイドが大量にある)にも司令部ユニットを移動させてあり、次のターンには架橋できます。



 その他、今回2人で考えたドイツ軍ムーブについてメモ的に書いておきます。

・02.02にいた53HQを戦略移動モードで12.18に。次のターン、ここまで鉄道変換が完了して、補給源にできる。 

・22.19のワゴンエクステンダーを第1ターンに解散できることが判明(オルシャの守備隊にだけは一般補給が入れられなくなるので、一般補給で食わせる用に1T置いておく)。第2ターンには、12.18を補給源として、最東端で33.19にワゴンエクステンダーを作れる。

・エントリーヘクスK(01.26)に増援で出る20HQは戦略移動モードで16.18へ。第3ターンには鉄道変換がここまで完了して、ここを補給源にできる(しかしあまり意味はないかも?)。

・オルシャにいた7HQに1SPを入れて独立部隊に燃料を入れるのが効率がいい。この7HQ自身は戦略移動モードで32.10へ移動させ、ロスラウリ方向への架橋ができるようにする。

・20.15にいた9HQを38.10へ移動させ、ロスラウリ方向への架橋ができるようにする。トラックエクステンダーを第3ターンに前方に移動させれば、ロスラウリ方面へ補給も支給できるようになる。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』時のドイツ軍の軍団長、師団長など

 最近、ドイツ軍の指揮官の人物像により興味を持っているわけですが、「ゲームをプレイしている時に各師団の指揮官が分かっていると燃えるよね!」とワニミさんとの間で盛り上がってました。もちろん、有名な、ある程度名前を知っている指揮官でなければならないわけですが……(^_^;


 そこで、一つの試みとして、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』に出てくる部隊の指揮官を調べてみました。


 装甲師団長については、歴史群像の『ドイツ装甲部隊全史』シリーズの巻末に歴代師団長が就任期間の情報付きでまとめられているので、それぞれの本の巻末だけを非破壊スキャンして印刷して一冊にし、参照しやすくしました。





 軍団長については、先日見つけた『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』の巻末付録に、軍団が番号の若い順から並べられ、歴代軍団長が就任期間の情報付きでまとめられています。Kindle版も安いので購入はしましたが、なぜかpdf版がネット上に落ちており、参照用にそちらを印刷しました。





 その他については、山崎雅弘さんの『ドイツ軍名将列伝』に各人物毎に就任日が分かるのでそれでなんとか……。

 バルバロッサ作戦開始時の戦闘序列については、英語版Wikipedia「Order of battle for Operation Barbarossa」で分かるのでそちらから……(ただし、『Smolensk:Barbarossa Derailed』は7月8日ターンからなので、その時期には変わってしまっているものもあるかもしれません)。

 以下、師団は装甲師団以外は省略で。私が「名前知ってる!(人物像は詳しく知らないとしても)」という人物は青字にしました。


中央軍集団 フォン・ボック

 第2装甲集団 グデーリアン
  第12軍団 Schroth
  第24(自動車化)軍団 Schweppenburg(この人は『ドイツ軍装甲部隊全史Ⅰ』に人物群像が1ページ載ってます)
   第3装甲師団 モーデル
   第4装甲師団 エルレンカンプ
  第46(自動車化)軍団 von Vietinghoff
   第10装甲師団 シャール
  第47(自動車化)軍団 Lemelsen
   第17装甲師団 ウェーバー(7月17日まで) → フォン・トーマ
   第18装甲師団 ネーリング

 第3装甲集団 ホート
  第39(自動車化)軍団 Schmidt
   第7装甲師団 フンク
   第20装甲師団 シュトゥンプ
  第57(自動車化)軍団 Kuntzen
   第12装甲師団 ハルペ
   第19装甲師団 クノーベルスドルフ

 第4軍 フォン・クルーゲ
  第7軍団 Fahrmbacher
  第9軍団 Geyer
  第13軍団 Felber
  (Wikipediaでは「第43軍団 ハインリーチ」がここに入っているのですが、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』には出てきません……)

 第9軍 シュトラウス
  第5軍団 Ruoff
 (第6軍団も出てこず)
  第8軍団 Heitz
  第20軍団 Materna


 あと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』には「第53軍団 Weisenberger」というのも出てくるのですが、バルバロッサ作戦開始時の戦闘序列にない……?


 名前ですが、やはりまあ、知らない名前が多いですが、知ってる名前があるとやはり燃えます。クノーベルスドルフとかシュトラウスとかも、ちょっと聞いたことある感はありますが……。

 あと、一応見つけてきたものとしては、第2装甲集団の作戦主任参謀がバイエルライン(後に北アフリカ戦線でロンメルに仕える)です。第18装甲師団のネーリングもロンメル関係ですね。

 第17装甲師団のフォン・トーマも、スペイン内戦に行ったりとか色々してますが、エル・アラメイン戦の時に北アフリカ戦線にいて捕虜になりました。実はこの第17装甲師団の師団長は、この時期フォン・アルニム(後にチュニジアで第5装甲軍を率い、ロンメルと仲たがいする)だった……という資料も複数あって、「どういうことやねん……!」と思ったのですが、色々見比べていて分かりました。『装甲部隊全史Ⅱ』の第17装甲師団歴代師団長リスト(P178)によると……。

1940.10.5.~40.10.31. 2代師団長 ハンス・ユルゲン・フォン・アルニム装甲兵中将
1940.11.1.~41.7.17.  3代師団長 騎士カール・フォン・ウェーバー装甲兵大佐
1941.7.17.~41.9.14.  4代師団長 騎士ヴィルヘルム・フォン・トーマ装甲兵少将
1941.9.15.~41.11.10. 5代師団長 ハンス・ユルゲン・フォン・アルニム装甲兵中将


 と、第2代と第5代がフォン・アルニムで、資料によってはこれがまとめられて(というか省略されて?)1940.10.5.から、41.11.10までずっと第17装甲師団長であったかのように書かれているのでした。

 『The Panzer Legions: A Guide to the German Army Tank Divisions of World War II and Their Commanders』で調べてみると、アルニムは第2代師団長の時に負傷して、代わりにウェーバーが師団長になったと。ウェーバーはそれまで機甲部隊を指揮したことがなかったものの、リーダーシップに優れていると高く評価されており、実際非常に優れた手腕でバルバロッサ作戦の初期を戦ったものの、スモレンスク戦中の7月18日に重傷を負い、20日に病院で亡くなったとか(;.;) で、フォン・トーマが代わりに一時的に指揮を執ったということのようです。アルニムが第17装甲師団長に復帰した経緯については分かりませんでした。

 北アフリカでは後にアルニムもチュニジアで捕虜になり、フォン・トーマとアルニムは同じ収容所でいましたが、捕虜同士の会話が連合軍側に盗聴されており、その内容と分析が『兵士というもの』という本になっています。この本によると、フォン・トーマはこの戦争はドイツの負けであることは明らかだという立場、フォン・アルニムはドイツ軍はまだ負けていないという立場の人々の首領格(階級が一番上だったので)で、仲は悪かったということです(^_^;





 あと、当時の第7装甲師団の第7自動車化歩兵連隊第1大隊長がマントイフェルで、8月26日からは同師団の第6装甲擲弾兵連隊長になったようです。


 ↓OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の第7装甲師団。

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 ゲームでは第6装甲擲弾兵連隊ではなく、自動車化歩兵連隊になってます。

OCS『DAK-II』の捕獲イタリア軍戦車ユニット

  『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』をDeepL翻訳で読んでいってましたら、ロンメルの第1次攻勢の直前の頃の、イギリス軍の捕獲イタリア軍戦車部隊についていくらか書かれていたので、ちょっと興味を持ちました。


 OCS『DAK-II』には、この頃の捕獲イタリア軍戦車のユニットが存在しています(移動モードでは10移動力)。

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c5.5e 捕獲イタリア軍戦車  バルディア、トブルク、そしてベンガジの工場では、多数のイタリア軍車両がさまざまな破損状態で発見されました。英連邦軍もまた過度の使用によって自軍の車両を脱落させていたため、見つけたイタリア軍車両のうちのいくらかを自軍用として用いることにしました。これらの捕獲装備は第6王立戦車連隊や第6オーストラリア師団の一部などの部隊を再装備するために用いられました。
 捕獲イタリア軍戦車ユニットは、町を占領した時の戦利品(3.3)として英連邦軍プレイヤーが獲得します。これらのユニットは再建をおこなえませんが、その他の機能に関しては他の連合軍ユニットとまったく同等です。



 ロンメルの第1次攻勢からのキャンペーンシナリオの初期配置では、このユニットはベダ・フォムとトブルクに1個ずつ存在していました。

 『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』にはこう書かれています。

 機甲部隊に関しては、最終的に彼【キレナイカ地域守備軍司令官となっていたニーム将軍】が保持していたのは、第2機甲師団のうちの第3機甲旅団と、同師団の支援グループの一部であった。第3機甲旅団の戦車86輌(定数は156輌)のうち、第6王立戦車連隊に配分されたのは捕獲したM13で、急いでアッバシア(Abbassia)の修理工場で修理、調整されたが、無線機がなかったために、戦車兵達があれほど厳しい訓練を受けていた戦術を実行できない状態であった。
『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』位置No.4547/6504



 アッバシアという場所は調べると、カイロの東側で、修理のためにはここまで運ばなければならなかったんですね。

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 ↑OCS『DAK-II』のマップから。ちなみに、ギザには大ピラミッドやスフィンクスが描かれています(^^)



 また、ロンメルがリビアに到着した後の記述としてはこんなのが。

 【キレナイカのイギリス軍の】防御の核となるのは、第2機甲師団(1個旅団のみで、他の部隊はギリシャに派遣されていた)の52輌の巡航戦車で、この52輌のうち半分はすでに修理工場に入っており、残りはその装軌とエンジンが規定の走行距離を大幅に超過していたため、一定期間ごとに故障しがちだった。捕獲したイタリア軍のM13に搭乗していた第6王立戦車連隊の戦車兵達は、少なくとも動き続けてくれるM13に比較的満足していたという事実から、機甲部隊の状態をある程度窺い知ることができる。
『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』位置No.5153/6504



 『DAK-II』のユニットには第6王立戦車連隊(6RTR)のユニットは見つからないので、もしかしたらこの捕獲イタリア軍戦車ユニットで置き換えられているということかも……?

ドイツ軍指揮官人物伝:フォン・ヴィータースハイム将軍(第14装甲軍団長)について

 ドイツ軍の指揮官人物伝として、第14装甲軍団長などを務めたフォン・ヴィータースハイム将軍について一応書けました(大戦後期に第11装甲師団長を務めたヴィータースハイム将軍というのもいるようですが、血縁などは確認できませんでした)。


 調べつつ書いていたわけですが、書くことがしんどくて、「なぜだろう……?」と思ってたんですが、先日分かりました! 「自分がよく分かってないことをさも良く知っているかのように書くことがしんどい」のだと! そこで、「そもそも素人が、調べながら書いているという体で書く」「分からないことは分からないと書く。複数の説があったらその複数の説を書く」という方針で書き直していったら、だいぶしんどくなくなりました(^^)


 以下、一応の完成稿のつもりですが、今後新たな情報を発見したらいくらでも書き直すということで。




グスターフ・アントン・フォン・ヴィータースハイム
(1884年2月11日~1974年4月25日)


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出典:SALON/Lagerplatz




 フォン・ヴィータースハイムは、その人物像に非常にシビれる、かっこいい将軍だと個人的に思いました。こういう人間でありたい!


 ブレスラウ(現在のヴロツワフ。ポーランドの南西部)に生まれたヴィータースハイムは第1次世界大戦に従軍して、1級鉄十字章と2級鉄十字章を受勲しました。

 第一次世界大戦後も軍にとどまり、第3歩兵師団参謀長を務め(その後任はマンシュタインでした)、1932年11月に大佐に、1934年7月には少将に昇進。

 総統ヒトラーがドイツの再軍備を宣言し、陸軍に参謀本部が復活すると、1935年3月(7月という資料も)にヴィータースハイムは参謀本部の第一部(作戦担当)の部長に任命されます。この時、マンシュタインはすぐ下の作戦課長に任命されており、第二部長はハルダーでした。

 当時の参謀本部には他に教育・訓練を担当する第二部、情報・兵站を担当する第三部もありましたが、作戦を担当する第一部は最も重要な部門であり、ベック参謀総長に次ぐ参謀次長とも呼称されるこの重要な地位にヴィータースハイムが就いたのは、彼が極めて優秀な将校であると周囲からも見られていたからに他なりません。

 1936年10月にヴィータースハイムは、作戦部長の役職を再びエーリヒ・フォン・マンシュタインに譲ります。

 マンシュタインの次にこの役職に就いたのはハルダーであり(ハルダーは1938年9月からは参謀総長)、しかも1940年5月から41年末にかけてはパウルスがこの役職にありました。この後の顛末を考えると、何とも表現しがたい感情を私は抱きますし、当人らにもそういう思いはあったのではないでしょうか。


 作戦部長の役職の次にヴィータースハイムが就いたのは第29歩兵師団長の役職(1936年10月6日)で、1937年秋に第29歩兵師団は第29自動車化歩兵師団に再編され、ヴィータースハイムは機動作戦向けの訓練を行って同師団を精強な師団の一つに育てあげて高い評価を得ました。

 1938年2月1日に歩兵大将に昇進し、同年4月1日(3月1日とする資料もあります)に第14自動車化歩兵軍団の司令官となります。もっとも、ここまでの昇進は順調だったと言えるのでしょうが、その後の実戦での輝かしい機動戦の指揮振りにもかかわらず、それ以上昇進させられることはありませんでした。その理由は、この数ヵ月後のヒトラーへの直言によって彼が不興を被ってしまったからであろう、と複数の資料が述べています。

 1938年8月10日、ヒトラーの別荘であったベルクホーフに国防軍の各軍集団、軍、軍団の参謀長らが集められました(ヴィータースハイムはその中で最も高位の人物でした)。ヒトラーは彼らにチェコスロバキアへの侵攻計画を発表し、この計画がいかに成功の見通しの高いものであるか、そしてフランスに対する防衛のためにライン河畔に建設中の西方防壁(ジークフリート線)のすばらしさについて、延々3時間に渡って講演を行ったのです。この講演はヒトラーが、戦争に反対する将軍達と、若手の参謀将校達との間にくさびを打ちこむための策略であったとも言われています。

 ヴィータースハイムはこの侵攻を行う軍集団の参謀長となるとされており、ドイツ西部国境地帯の軍事的状況について把握していました。

 ヨードルとマンシュタインは後に、この会議の時のことに関してこう書いています。ほとんどの参謀将校達はヒトラーの主張に納得できないでいたが、ヴィータースハイムが、ヒトラーの計画の欠陥について表明し、異議を唱えることのできた唯一の人であった、と。

 ヴィータースハイムは起立して冷ややかにこう述べたといいます。
「西方防壁は、もしフランス軍が攻撃を決断した場合には、よくて精々3週間しか持ちこたえられません。」

 これに対してヒトラーは激怒してこう怒鳴ったと、ヨードルの日記の中で書かれています。
「貴官に言おう……(西方防壁は)3週間どころか、3年間は持ちこたえられると!」

 ヒトラーは自分の計画に対するヴィータースハイムからの敵意に憤激してその後の一切の意見や質問を禁じ(それゆえ発言できたのはヴィータースハイム一人に終わった……という考え方もあります)、5日後に上級軍司令官達に、チェコ問題は武力で解決すると一方的に通知しました。尤も最終的には、イギリス首相チェンバレンの宥和政策により、ズデーテン地方が割譲されてこの時侵攻計画が実際に発動されることはありませんでした。

<2021/09/25追記>

 『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)という本を新しく購入して読んでいたら、上に書いていた逸話のニュアンス(?)が少し違ったように書かれていました。



 その後に続いた討議で参謀長たちは、フランスが何もせずに同盟国が侵略されるのを黙視するだろうか、という疑問を表明した。ヒトラーは彼らの議論に静かに反論していたが、フォン・ヴィーテルシェイム将軍が、ドイツの西方の防衛線は三週間以上持ちこたえることはできない、という彼の上官アダム将軍の見解を引用すると、激怒した。
「西の壁は、もし将軍たちが兵士たちほど勇敢であるならば、いかなる敵も防ぎ得る」と彼は怒号した。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P92


 私が感じた差異は3つです。
1.参謀長達は疑問を表明していた(ヴィータースハイムが最初に発言したのではなかった)。
2.ヴィータースハイムが述べたのは、上官のアダム将軍の見解であって、自分の見解というわけではなかった。
3.ヒトラーは「もし将軍たちが兵士たちほど勇敢であるならば」というような、ある意味印象的な、あるいは皮肉な言葉を言っていた。

 ヴィータースハイムの手柄でないことはそのように記述されるべきだと思いますし、また、ヒトラーが単にバカに見えるようなセリフだけを言っていたわけではない(軍の将軍達に反感を持っていたことも強かった?)のならば、それもより正確に書かれるべきだと思いました。

<追記ここまで>

<2022/02/10追記>

 『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(上)』P184には、

(それは、彼の上官たる軍司令官のアーダム将軍の見解とも一致していた)

と書いてありました。



<追記ここまで>


 1939年の対ポーランド戦では、ヴィータースハイム歩兵大将の指揮する第14自動車化歩兵軍団は南方軍集団(ルントシュテット上級大将)の第10軍(ライヒェナウ砲兵大将)麾下でワルシャワ南方へ進撃。

 その後、対フランス戦が準備されていくことになりますが、その途中の1940年2月14日、ハルダー参謀総長臨席で2回目の兵棋演習が行われました。その席上、演習統裁部が非常に高圧的に装甲部隊の行動を抑えようとするのに対して、装甲部隊を率いて先頭を進む予定であったグデーリアンと、その後に続行予定であった第14自動車化歩兵軍団長のヴィータースハイムの二人が揃って文句を言ったと、グデーリアンの回想録に記されています。
「こんな状況ではとても本計画の遂行に自信が持てません。このような装甲部隊の使い方は明らかに誤りです。もし、このようなやり方で命令されるならば、やがて軍上層部に対する不信という危機がやってくるのは目に見えています。」

 1940年の西方攻勢では、A軍集団(ルントシュテット上級大将)のクライスト装甲集団(クライスト騎兵大将)の麾下で、第19装甲軍団(グデーリアン装甲兵大将)が突き進む南翼を守る役割を果たします。


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 ↑OCS『The Blitzkrieg Legend』の第14自動車化歩兵軍団司令部ユニット。


 1941年のユーゴスラビア征服に参加した後、バルバロッサ作戦では南方軍集団(ルントシュテット元帥)の第1装甲集団(クライスト上級大将)の麾下で戦います。特にキエフ包囲環を形成する上で先鋒となり、困難を克服して素晴らしい進撃を指揮したことで高い評価を得ました。

 ブラウ作戦直前の1942年6月21日、ヴィータースハイムの指揮してきた第14自動車化歩兵軍団は第14装甲軍団へと改称されます。

 ブラウ作戦では当初は第1装甲軍(クライスト上級大将)、その後スターリングラード攻略を目指す第6軍(パウルス装甲兵大将)の麾下として、先鋒となって進撃します。


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 ↑OCS『Case Blue』の第14装甲軍団司令部ユニット。


 8月22日には麾下の第16装甲師団(フーベ中将)がドン川を渡ってスターリングラードの北辺へと向かい、翌23日にスターリングラード市街地北辺のヴォルガ川岸へと到達。スターリングラードに最初に到着した師団となりましたが、第14装甲軍団全体が非常に薄く延びきった状態になってしまい、しかも燃料が尽きかけていました。翌日以後、この狭い回廊をソ連軍が閉じようと反撃してきたため、第14装甲軍団は危機的状況に陥ります。ドイツ空軍が補給物資を空中投下したものの、ほとんどが無人の地か敵支配地域に落ちてしまいました。

 この後、ヴィータースハイムは解任されることになるのですが、そのいきさつに関する説明が資料によってまちまち(細かいバージョン違いなども含めて)で、また日付も書かれていないことが多く、調べていて「何が正しいの?」とえらい難儀しました。

 諸説紛々の中、ある程度の資料で共通して出てくる説明の枠組みとしては、こういうのがありました。「回廊を守るのに装甲部隊を使うのではなく、歩兵を使うべきだと薦めたら、パウルスに激怒されて解任された」。しかしこの説明では、パウルスは何に怒ったのか良く分からないような……?(尤も、スターリングラード攻防戦でパウルスは極度の緊張状態からの顔面神経症や赤痢に悩まされていたらしいので、元々後世褒められていない判断力がさらに鈍っていたということはあるでしょうけども)

 何やらすっきりと分かった感がしないので、ズブズブと検索し続けたり、資料を探すということを延々繰り返していましたら、段々と「ほぼ確実」と言えるのはこの情報だろうというアタリがついてきたように感じました。

 その情報源は『Moscow to Stalingrad: Decision in the East』という本で、この本には以下に挙げる逸話について「AOK 6, Ia Kriegstagebuch Nr. 13, 5 Sep 42, AOK 6 2394811 file.」というような出典が記されています。そして、スターリングラード戦に関しての英語文献で最も詳細と思われるグランツのスターリングラード三部作の第2巻『Armageddon in Stalingrad』がヴィータースハイムとパウルスの衝突について記述する際には、この『Moscow to Stalingrad: Decision in the East』を原典として挙げているのです。

 以下、その情報を記します。


 8月26日午後、ヴィータースハイムは「現在の部隊ではヴォルガ川岸に留まりつつ、後方との連絡を維持することは不可能……今夜、撤退しなければならないだろう。決断を請う。」と無線で伝えました。パウルスは「撤退してはならない。」と返信し、ともかくも他の軍団を東に向かわせ、第14装甲軍団との距離を詰めようとします。

 9月5日、第14装甲軍団はソ連軍の部分的な侵入や、攻撃の可能性を封じるために急遽部隊をあちこちに移動させましたが、その間にも「人員と物資の損失が目に見えて大きく、弾薬も大量に消費されてしまった」と報告します。

 9月6日の午後、ヴィータースハイムはパウルスに電話し、戦線が「限界に達している」ことと、「たとえスターリングラードへの攻撃を無期限に延期することになっても」、スターリングラードの北辺の戦線を守るにはより多くの歩兵と強力な航空支援が必要であることを伝えます。しかしパウルスはそれに激しく反発し、北辺の戦線を強化する為の前提条件としてスターリングラードの占領が必要なのだ、それゆえ、第14装甲軍団はスターリングラードが陥落するまでそこを保持しなければならない、と断言します。

 この後、どちらの資料においても具体的な出来事の説明はないまま、9月14(あるいは16日)にヴィータースハイムは解任された、としています。『Moscow to Stalingrad: Decision in the East』の方にはその理由の説明はありませんが、『Armageddon in Stalingrad』では「これは明らかに、彼が以前に、スターリングラード北辺の危険な位置から彼の軍団を退却させるのを要求した【8月26日】ことと、彼がスターリングラードで第6軍が防御の時に来ているという提案【9月6日】と、またスターリングラードを巡る戦いに戦車を使用するのは間違っているという提案【時期不明】が理由であった。」とありました。


 一方、もう一つの注目したい資料として、当時パウルスの副官として勤務していたヴィルヘルム・アダムの回想録の英語訳である『With Paulus at Stalingrad』という本があります。ヴィータースハイム解任の知らせを本人に運ぶ役割を担わされたのがこのアダムであり、その時のことが詳しく記述されています。ヴィータースハイムの人物像について知るのに非常に重要な記述であるので、丸々引用させてもらいます!


Bundesarchiv Bild 183-F0316-0204-005, Russland, Paulus in Kriegsgefangenschaft

 ↑左からパウルス、シュミット、アダム(Wikipediaから)



 フォン・ヴィータースハイム将軍は第6軍司令官にヴォルガの陣地を放棄することを再び提案した。彼はこの広大な都市が奪えるとは思えなかった。パウルスはこの提案を拒否した。それはB軍集団と陸軍最高司令部の命令に反していたのだ。それは二人の将軍の間で深刻な意見の相違となった。パウルスは、最終的な成功を疑う将軍は、このような深刻な状況で指揮を執るには適さないと考えた。パウルスは陸軍最高司令部にフォン・ヴィータースハイム将軍を解任し、第16装甲師団長のフーベ中将を後任とすることを提案した。この提案は直ちに承認された。

 翌日にはもう、陸軍最高司令部からフォン・ヴィータースハイム将軍宛の文書が届いた。私はフィーゼラー「シュトルヒ」で軍団司令部へと赴き、その文書を渡して受領書をもらってくるという任務を与えられた。

 ヴィータースハイムは草原の真ん中の移動司令部用のバスに乗っており、軍団参謀長が一緒だった。私は初めてこの将軍と向かい合った。彼は背が高くて細身で、無口で、己を非常に律する人物のように見えた。彼の髪は白髪に覆われていた。彼は謙虚な態度で、無言で私から文書を受け取り、バスの中の遠くの隅に座り、それを開いた。

 私はバスの入口のところに座っていて、隣には軍団参謀長がいた。私が出発する前、パウルスは私に、ヴィータースハイムと彼の参謀長は同じ意見を持っていると言っていた。将軍はどのような思いでいることか! 私も参謀長も、とても彼を見ていられなかった。そして、彼はしっかりとした足取りで私達のところに戻ってきた。

「さあ、アダム、文書の受領書だ。」
 彼は、私が決まりが悪い様子をしているのに気付いて、付け加えた。
「副官の仕事も、必ずしも楽しいものとは限らないね。」

 彼は完全に自分を律しているように見えた。彼の声に震えはなかった。彼は参謀長の方を向いて言った。
「フーベ将軍を呼んでくれ。彼は今日、私に報告することになっている。」

 私は席を外した。私が司令部用のバスを降りようとした時、ヴィータースハイムが私に呼びかけた。
「パウルス将軍によろしく!」

 フィーゼラー「シュトルヒ」は、ほんの数歩のところにあった。私は乗りこんだ。私の前に座っているパイロットがエンジンをかけた。騒音とスピードが増し、プロペラは埃と草を渦巻かせた。短い離陸滑走の後、私達は地上を離れ、第6軍司令部に戻るために飛んだ。自分の中の感情や考えがぶつかり合う中で、私はパウルスのことを考えた。彼のこの解任の提案は、確かに迅速なものだった。ヴィータースハイムは成功に疑問を持っていた。そのような態度は、攻撃し続けている2つの軍(第6軍と第4装甲軍)がこの都市を奪うだろうという見解を持つパウルスには、耐えられないように思えた。

 すでにドン川を越えていた。着陸の準備をした機体が、新しい司令部所在地であるゴルビンスカヤの南口にゆっくりと停止した。

 私はパウルスにヴィータースハイムの受領書を渡しながら報告し、受取人がよろしくと言っていたことを伝えた。『アダム、彼はこの報告をどう受け止めるのだろう?』

 パウルスは何も言わずに受領書を読んだ。彼は何事もなかったように、参謀長にフーベを司令部に召喚するように命じた。私はその禁欲的な冷静さに大きな感銘を受けた。
「将軍、ヴィータースハイムはどうなるのでしょうか?」
「彼は必ず、また別の戦区の指揮官に任命されるだろう。彼は有能な将軍だが、ここでついに臆病風に吹かれてしまった。装甲部隊の第一陣が撃退されたからといって、攻撃を諦めるわけにはいかない。フーベは理想的な装甲部隊指揮官だ。ところで、第14装甲軍団は依然、危険な状態にある。彼らを援護するはずだった第51軍団は、ロシア軍の強力な防御に撃退され、何日も立ち往生しているのだ。明日はフォン・ザイトリッツ将軍と一緒に、第295歩兵師団に行くつもりだ。君もそこに来てくれると助かる。この師団はかなりの損害を被っている。我々はこの隙間をどのようにして埋めるかを考えなければならない。」





 この解任の告知について、ある資料は「パウルスはヴィータースハイムに直接会ってそれを伝える勇気を持たず、副官に伝えさせた。」と皮肉に記述しています。また、「ザイトリッツ将軍の方がはるかに傲慢で規律に反することを行う人物であったのに、勇敢で有能なフォン・ヴィータースハイム将軍を解任したパウルスの人物判断は、彼の軍事的判断と同様、深刻な欠陥があった。」と評している資料も。

 サミュエル・ミッチャムはその著『Hitler's Commanders』の中で、「ヴィータースハイムは一流の軍事的天才とは思われていなかったが、堅実で、経験豊富で、非常に有能な将軍であったことは確かだ。第6軍の司令官としては、優柔不断なフリードリヒ・パウルスよりも彼の方がはるかに良かっただろう。もちろんヴィータースハイム自身もそのことを分かっていた。彼が新人(パウルスのこと)に抜かれたのを恨んでいたのは間違いない。」と書いています。

 とは言っても、ヴィータースハイムは1884年生まれ(当時58歳)、パウルスが1890年生まれで、6歳しか違っていません(ちなみにマンシュタインは1887年生まれ。パウルスと知古であったロンメルは1891年生まれ)。また、パウルスの副官であったアダムも1893年生まれとパウルスと3歳しか違わず(1942年当時49歳)、しかも彼の息子は1940年のフランス戦中の5月16日に戦死していたそうです。


 第14装甲軍団長を解任されたヴィータースハイムは、「総統予備」に回された、という資料と、「補給トラックの指揮官という、彼の階級や経験よりも遙かに低い職務」に就かされたという資料があります。その後、ヴィータースハイムは完全に解任され、軍の役職に就くことはありませんでした。他の戦域の指揮官にも任命せずに完全に解任してしまうというこの人事は、以前からヴィータースハイムに対してわだかまりを感じていたヒトラーがそうしたのかもしれません。

 ヴィータースハイムはその後、1945年にソ連軍がドイツ国内に侵入してきた時、ポメラニア(ポーランドとの国境の海岸地域)で国民突撃隊の一兵士として戦ったそうです(泣ける!)。

 戦後は、ほとんどのドイツ軍の高位将官と同様に、ニュルンベルク軍事法廷で証言を行いました。亡くなったのは1974年なので、90歳まで長生きしたということになります。







OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)、第1ターン先攻ソ連軍終了

 尼崎会でワニミさんと、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ3(2回目)の第1ターン先攻ソ連軍をプレイしました。


 前回は、ソ連軍はプレイの甘さとダイス目の悪さによって3ターン目に投了のやむなきに追い込まれたので、今回はそのようなことがないように、二人して相談し合ってソ連軍のムーヴを練りました。


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 スモレンスクの東側の地域では、前回ドイツ軍に突破&包囲されてしまったので、そのようなことにならないように念には念を入れ……という感じのムーヴで。ただし、そこにばかり目が行ってしまっていて、別の場所で酷い目に会う可能性も……(^_^;

 また、スモレンスク北東方面では前回、ソ連軍は移動モードで突っ込んでボコボコにやられたため、あくまで戦闘モードでしか近づかない感じで……ただしそうすると、ドイツ軍に対する圧力がほとんどかけられず、フリーにしてしまうような感じも。





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 南方のクルィチャウ(Krichev)では前回、セットアップで第3装甲師団が孤立していてソ連軍に包囲攻撃され、「なんで第3装甲師団はこんな単独でいたんだ??」といぶかしく思っていたのですが、実は第4装甲師団のセットアップ位置を間違えていて、別に単独でいたわけではなかったことが判明(^_^;

 第4装甲師団のおかげでソ連軍はクルィチャウを包囲することができず、しかし圧力はかけるべきだと考えられたためなるべく攻撃をしようとしましたが、リアクションフェイズ中のドイツ軍航空ユニットによるヒップシュートで攻撃側スタックがすべてDGにされたため、「いのちをだいじに」という原則に従って攻撃は中止に。

 実は今回、ランダムで移動モードになる装甲師団がみな最前線の師団で、ソ連軍側はそれに乗じて第1ターンに攻撃をかければ有利な面もあったのですが、いやいや、とてもそんなことはできそうにない、と……。「ドイツ軍をやっつけようとしたら、逆にソ連軍側がやっつけられたでござる」という未来が見える……見えるぞおお!

 ソ連軍側としては、慌てて攻勢をするのではなく、じっくり確実に攻勢して勝利を目指そうと思います。



 ところで、今OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』をヘビーローテーションしていますが、その後はOCS『Guderian's Blitzkrieg II』のタイフーン作戦シナリオをプレイする(2回目)という案が有力でした。が、今日ワニミさんと話していて、OCS『Case Blue』の青作戦シナリオをやろうということになりました。ヴィータースハイム将軍について調べていてそこらへんの興味が盛り上がっているのもありますし、青作戦シナリオはやったことないですし。

 青作戦シナリオをやるとしたら、コーカサスマップを繋げて(クリミアマップを除く)フルマップ8枚(!)でプレイしたり、『Guderian's Blitzkrieg II』と連結してフルマップ12.2枚(!!)でプレイするという方法もありますが、まあスペースも足りないですし、コーカサスなしのフルマップ4枚でプレイするのではないかと思います(^_^;


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 ただ最近、富山のKさんやワニミさんと、VASSALでOCSをプレイできるように練習していこうという話もしてまして、将来的にVASSALで小さめのOCSをプレイするだけでなく、フルマップ12.2枚分をVASSALでプレイできたらいいかもですねぇ……。

ドイツ陸軍参謀本部の第一部(作戦担当)の歴代担当者

 以前、ドイツ軍のヴィータースハイム将軍について、『Hitler's Commanders』などから、ヴィータースハイム将軍について(付:OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』) (2020/11/30)で書いたことがありました。

 ドイツ軍の指揮官人物伝を書いていくことができないかと思い、とりあえず以前一度とりあげていたヴィータースハイムから再度調べ始めてみたのですが、調べているとヴィータースハイムはドイツ陸軍参謀本部の第一部(作戦担当)の初代の部長?であり、その後任がマンシュタインでさらにその後任がハルダーだったり……と、いうことが分かってきました。えっ……ヴィータースハイムすごくない?

 しかし、私自身、第一部だとかどうとか良く分かってないので、今回調べたことをブログにいったん書いておいて、情報を見つけるたびに加筆修正しようかと(この方式が結構便利でいいなということが分かってきました(^_^;)。



 まず、この時期の参謀本部の概略について。

 1938年2月、フリッチュ上級大将の後任の陸軍総司令官にヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ上級大将が任命された。その指揮機関である陸軍総司令部(OKH:Oberkommando des Heeres)の中心組織は、参謀総長ベック大将を長とする参謀本部(Generalstab)であり、陸軍全体の作戦の立案、作戦指導を行なった。
 この時期の参謀本部は、作戦を担当する第一部、教育・訓練を担当する第二部、情報と兵站を担当する第三部から成っていた。
『欧州戦史シリーズVol.20 ドイツ陸軍全史』P97



 この第一部の部長(「Oberquartiermeister I」。訳語が良く分かりませんが、とりあえず(参謀本部)「第一部長」、あるいは「作戦部長」?)について、英語版Wikipedia「Gustav Anton von Wietersheim」にはこう記述されています。

 ヒトラーによるドイツ国軍(ライヒスヴェア)の解散と、大幅に拡充されたドイツ国防軍(ヴェアマハト)の創設に合わせて、ヴィータースハイムは参謀本部の第一部部長に任命された。この役職は「参謀総長に直属する」ものであり、参謀本部のいくつかの部門を管理し、「作戦、輸送、補給部門の指揮を執る」ことを意味していた。参謀本部が戦時体制に置かれたため、この高度な兵站指揮は「重要な地位」であり、ヴィータースハイムは「極めて優秀な少将」であり、1935年3月から、後の1936年10月に当時ヴィータースハイムの後輩であったエーリヒ・フォン・マンシュタイン(後の元帥)が彼の後任となるまでこの役割を担った。



 さらに、マンシュタインの後の作戦部長に関しても気になったので調べてみますと、そこらへんやりとりされている掲示板を見つけました。

Axis History Forum

 それによりますと、こうのようです。

1935/07/01~         von Wietersheim
                  von Lewinski genannt von Manstein
                  Halder
1939/09/01~1940/02/10 von Stülpnagel (Karl)
1940/02/10~1940/05/30 Mieth
1940/05/20~1942/01/01 Paulus
1942/01/17~1942/09/24 Blumentritt
1942/09/24~1944/07/22 Heusinger
1944/07/22~1945/02/17 Wenck
1945/02/17~1945/04/01 Trotha(?)
(ブルーメントリットの後、「disbanded by Zeitzler」というような記述も?)

 マンシュタインやハルダーの任期が分かりませんが、また分かったら加筆しておきます。

 パウルスがかなり長い間この地位にいたんですね……。認識していませんでした。ブルーメントリットは、リデル・ハートの『The German Generals Talk』(和訳が『ナチス・ドイツ軍の内幕』、改題『ヒットラーと国防軍』で出ています)の中でインタビュー相手として後半に良く出てきます。






『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』読了。南北戦争や第二次世界大戦のリーダーに興味のある人にも超オススメです!

 最近、双極性障害(いわゆる躁鬱)であった指導者、指揮官に非常に興味を持ってまして、そこらへんを扱った本を見つけて読んでました。

 その本が『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』(原題『A First-Rate Madness: Uncovering the Links between Leadership and Mental Illness』Nassir Ghaemi)です。





  双極性障害というのは、ハイテンションで活動的な時期と、憂鬱で無気力な時期とがあらわれるというものです。この本に取り上げられた人だと、極度の鬱状態の時期というのは人生に3~4度程度確認され、それ以外は基本的に躁状態であるというのが多かったです。

 ナポレオン戦争期のブリュッヒャー将軍の古めの伝記本『The Hussar General』を以前読んだんですが、ブリュッヒャーはそれこそ3~4度、極度の鬱状態に陥っていたことが書かれていて、そこらへんからすると双極性障害であったのではないかと個人的に思っています。普段はハイテンションで活動的で、偉くなっても兵士達と賭け事とかをやめられなかったという話も載っていました。





 あるいは、日本語版Wikipedia「双極性障害を患った人物の一覧」には例えば、ゲーテ、ベートーヴェン、シューマン、ゴッホ、夏目漱石、チャーチル、フルシチョフ、宮沢賢治、ヘミングウェイ、太宰治、玉置浩二(好きでした!)、マライア・キャリーなどの名前が挙げられています。後で紹介する『もっと!』という本では、ナイチンゲール、ニーチェ、エドガー・アラン・ポー、マリリン・モンロー、フランク・シナトラ、ブリトニー・スピアーズなども双極性障害であったと名前が挙げられています。


 で、この『一流の狂気』という本は、双極性障害があるからこそ偉大なことができる、特に危機的な状況においては……(逆に言えば、特に危機的な状況においては、精神的に健康な人は対処を間違ってしまいやすい)のではないか、ということが書かれています。

 詳しく取り上げられている人物で、ウォーゲーマーにとって興味深いのは次の人達でしょう。この本で、双極性障害と診断され得、それゆえにうまく対処できたとされている人物を「/」の左側に、精神的に健康であったが故に失敗したとされている人物を右側に書きます。これらの人物については結構なページを割いて、かなり詳しい人物像や、彼らがどのようにして成功を収めたのかが詳説されています。

南北戦争期:シャーマン、リンカン/マクレラン
第二次世界大戦期:チャーチル、フランクリン・ルーズベルト/チェンバレン
それ以外:テッド・ターナー(CNN創業者)、ガンディー、キング牧師、ケネディ/ニクソン、ブッシュ大統領(長男の方)、ブレア(英首相)

(他に、リー、ストーンウォール・ジャクソン、グラント、スターリン、ムッソリーニらにも重篤な異常があったと書かれていますが、紙幅を使って述べられてはいません)

 それからヒトラーもかなり重い双極性障害であったであろうとこの本で診断されているのですが、ケネディが大統領時代の後半に治療方針が変更されて状態が良くなったことから、劇的にリーダーとしての能力を高めたのに対して、ヒトラーは総統時代の前半には(もちろん色々問題はあったものの)高いリーダーシップ性を示していたのに、主治医となったモレルの出す薬のせいでどんどん状態が悪化していったことが書かれていて、ウォーゲーマーとしては非常に興味深かったです。

 あまりにも興味深いので、一部引用してみます。

 ヒトラーの躁の症状は、多弁、誇大性、多幸気分、睡眠欲求の減少、過活動であり、これらはすべてある期間に限って出現し、うつ状態と交代にみられる。これらは双極性障害の特徴と一致している。【……】
 【10代後半のヒトラーの親友であったクビツェクの回想録によると】 私は彼が絶えず動き回っていたのを記憶している。彼は何時間歩いても疲れるということがなかった」。「たった一時間でも彼が何もすることがないとか、彼が退屈に感じているとかいったような場面を私は思いだすことができない」。「何かの考えを思いつくと、彼はまるでそれにとりつかれたようになった。それ以外のことは何も存在しなくなってしまう。時間も、睡眠や空腹もすべて忘れてしまうのだった」。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P276,277

 ヒトラーの成功が頂点に達したのはこの1930年代だった。【……】この期間に彼の側近として間近にヒトラーを見ていた者たちは、ヒトラーは知的な人で、人の言うことをよく聴き、ずばぬけた記憶力をもち、ものごとを柔軟に考えることができ、決断力があったと評している。
 【……】戦前のヒトラーは忍耐強く(レジリエントであり)、独創的(クリエイティヴ)な人物だった。【……】彼は狡猾で現実的(リアリスティック)な政治家でもあった。【……】
 【……】しかし1937年以降、状態はゆっくりと悪化へと向かい始め、躁とうつの程度もひどくなって、彼のリーダーとしての行動にも悪い影響を与えるようになった。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P286,287

 ヒトラーはかなり重い双極性障害をもっていた。この点はチャーチルやシャーマンと共通である。しかし彼らと異なりヒトラーは、彼の最後の4年間、連日アンフェタミンの静脈注射の治療を受けていた。さらに補助的に内服のアンフェタミン、カフェイン(さらにバルビツールと麻薬の連用、およびアナボリック・ステロイドの適時使用)も加わっている。このようにいろいろな薬を出されたら、正常な人であっても正気を保つのは難しいはずだ【……】ヒトラーを時限爆弾に喩える人もいるが、それは少し違う。むしろ、モレルが全世界を破壊しうる爆薬に火をつけたというべきだ。
 ヒトラーは彼の生涯の最後の数年間さまざまな面で変化をみせていた。それ以前のヒトラーはどうだったのか。たしかに彼はつねに「怒れる男」ではあった。とくに躁の期間にはそうだった。しかし全体としては礼儀を重んじ、場所をわきまえてふるまっていたし、必要なときにはしっかりと自分を抑えて我慢することもできた。しかし1942年までに彼はまったく変わってしまっていた。軍議の際に将軍たちに声を張りあげることが当たり前のこととなった。彼のことを前からみてきた者たちの多くは、彼の怒り方が1930年代と比べてずっとひどくなったと感じていた。1942年の12月には、あることをきっかけに3時間にわたって怒鳴り続けるということもあった。そうした怒りのきっかけとなるのは、戦争に関連したことだけではなかった。たとえば、ヒトラーはオペラ好きだったが、あるオペラ歌手が死んだときに、新聞の報道が不十分だと憤慨し、「新聞社に対する怒りを爆発させ、その怒り狂った状態が数時間も続き、その日まる一日まったく仕事ができなかった」。1943年12月にはそれまで忠実だったヒムラーも、ヒトラーが「精神的におかしくなっている」と確信するに至った。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P294,295

 ヒトラーは、政治家としてのそれまでの経歴のなかで、権限を委譲するのにそれほど戸惑うようなことはなかった。幅広い政策目標を掲げて、内政や軍事の顧問に政策を実行させていた。しかしこのころのヒトラーは細かいところにまで強迫的にこだわるようになっていた。自分の下にいる指揮官たちにこまごまとした指示を与えるようになった。ヒトラーがはっきりと許可しないかぎり、どんな命令も発してはならなかった。陸軍元帥フォン・ルントシュテットはこう言っている。「許可を得ることなしに私が動かせる部隊といったら、この部屋の前に立っている歩哨たちぐらいのものだよ」。この点についてもアンフェタミンがかかわっていた可能性がある。すでにみたように、ヒトラーはもともとおそらく強迫的な傾向をもっていた。それは身じたくや身の回りを絶えず気にして綺麗にしていたことにも表れている。この性質がアンフェタミンの使用によって強められたのかもしれない。アンフェタミンは強迫性障害の症状を引き起こしたり、悪化させたりするということが知られている。
 アンフェタミンを使用している期間と一致して、ヒトラーの気分の波は、以前に比べて周期が速くなり、かつ振幅も大きくなっていた。うつになると、彼は長い時間眠り、戦争についてできるかぎり話をしないようになった。一人で食事を摂り、なにごとにも集中できない様子で、決断することができなくなった。心がうつろで、ほんやりしているようだった。この状態を見たら、これが記憶のよさで有名だった人だとは誰も信じられなかっただろう。1943年にはモレルもまた公の診断を以前の(単なる)うつ病から躁うつ病へと病名を訂正している。【……】 モレルはヒトラーに対してより強力なアンフェタミン治療を行うようになったが、それは結局ヒトラーの躁を悪化させただけだったようだ。シュペーアの報告によれば、それ以来ヒトラーは、地下壕で最後の日を迎えるまで、もはや「うつ」になることはなかったようだった。むしろヒトラーは、徐々に非現実的な考えやひどく楽観的な考えにひたるようになっていた。「状況が止めようもなく破局へと近づいていくにつれて、彼はますます柔軟さを失い、彼が決定してきたことはすべて正しかったのだとますます頑なに信じるようになっていた」。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P296~298


 ケネディに対しては、それまでの治療方針に対して別の人達による「医療クーデタ」が成功したらしく、ヒトラーに対してもモレルを排除するという医療クーデタが企図されたものの成功しなかったということがあるようです。

 後世から見ると、1930年代にヒトラーに魅了された人達(ロンメルとか)に対しても「え~?」という感覚を私は持っていたのですが、1930年代のヒトラーと1940年代のヒトラーは、症状の悪化や薬のせいで別人なのである、と考えるべきなのでしょうね……。


 余談ですが、私はアロマンティックのけがあると思われ、特定の人物やキャラにものすごく惹かれるということが希有なんですが、コミック版の『化物語』を読んでいて、神原駿河というキャラの多弁でウィットが効いており、(性的に)多趣味で寛容でコケティッシュな様子には「惹かれるのもやむを得ない(ホントにこういう人がいたら友だちになりたい)」という気分になりました(それでもキャラグッズとかを何も買ったりはしませんが)。

 もし1930年代のヒトラーが、この神原駿河のような魅力を放っていたとしたら、魅了されるのもやむ得ないのではないか……?




 それでもって、神原駿河のあの多弁さや性的多趣味は、躁状態なんじゃないかと……。他にも例えば、『約束のネバーランド』の主人公のエマ(非常に人気のあるキャラです)の、常に前向きで同時に複数の目標を追求してへこたれない様子も、「性格」で実現できる範囲を超えた「躁状態」なんじゃないかと思ったり。

 例えばこのような記述があります。

 躁状態の症状としては、エネルギーの高揚、多幸感、ひとつの対象から別の対象へと駆けめぐる思考、多くの目標を同時に追い求める活動過多、無制限の浪費や手あたりしだいの性行為といったリスクの高い快楽追求活動などが挙げられる。
 【……】
 並外れて優れた【双極性障害のような】脳は、高性能のスポーツカーになぞらえられるかもしれない。信じられないことをする能力はあるが、壊れやすい。
『もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』P269,270







 【……】粘り強さというものが大きな役割を果たす場合があることにもここで注意を向けておきたい。よく知られているように、ダーウィンは自分の成功を才能よりも努力(根気)のためだといっている。ここでも、躁の状態、つまりエネルギーの高い状態(多くの場合は気分高揚性パーソナリティの形をとる)が有利に作用するのだ。エネルギーに満ちた躁の人は、ものごとをあきらめずに最後まで行なう傾向がある。ジョージア州を横断して進攻していったときのシャーマンにもこの特性がみてとれる
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P39




 せっかくなので、『一流の狂気』の中で取り上げられている、ウォーゲーマーが興味を持ちそうな人物それぞれについても、印象的なところを引用しておきます(シャーマンの項では、グラントがいかにシャーマンの行動に良い影響を与えたかについても書かれており、その点でもオススメです)。

 シャーマンは、強い緊張、高エネルギー、気分高揚の状態にあった(重篤な躁でも、うつでもないときには、これが彼のふだんの人格であったように思われる)。【……】グラントの使者としてシャーマンに面会した者の報告によると、シャーマンは「海への進軍について驚くべき内容を熱心に語り続けていた。当然ながら、彼の心はそのことでいっぱいになっていたのだ。彼はまるで、神経エネルギーがそのまま人間の形になった存在であるかのように見えた」。シャーマンは「椅子に座って絶えず体を前後に揺らしており、手に持った新聞を引き裂くという動作を続け、また靴下を履いた足をスリッパに入れたり出したりし続けていた」。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P55





 こういった観察からいえることは、チャーチルは、うつでなかったときには、たぶん軽度の躁の状態にあっただろうということである。エネルギーに満ちあふれ、著しく社交的であり、また外向的でもあり、思考や行動が素早く、いくぶん衝動的なところもみられた。彼は毎晩遅くまで起きており、深夜になるとエネルギーが突然に高まり、バスローブ姿で自分の本の原稿を書きとらせたり、大量の仕事を片付けたりしていた。とてつもなく生産性が高く、数十年にわたって大臣や首相の職にありながら、生涯に43冊(72巻)もの本を書いた(言うまでもないが、そのほかに著しい量の手紙もある)。若い頃のことだが、将校として従軍し、インドとスーダンでの戦闘で勇敢に戦ったこともある。また新聞記者として働いていたときに南アフリカで第2次ボーア戦争を取材中に戦争捕虜となった(そして脱走した)ことさえある。チャーチルは話上手で有名だったが、それを悪く言う人もいた。有名になる前からすでそうだったのだが、彼は人と会っているとき、絶え間なく大きな声で一人でしゃべり続けて目立ちすぎてしまうのだった。彼の頭は決して休むことがなかった。いつも何か考えており、いつも何かを企て計画していた。そうしなければならない理由があろうとなかろうとそうしているのだった。フランクリン・ローズヴェルトはノルマンディー上陸の後、チャーチルにそういうところがあるのだと気づいた。チャーチルの考えだす計画とはたとえば、接岸の難しい海岸に港をつくるために、古い船にコンクリートを詰めこんで何隻も重ねて沈めたらどうかというものだった。このことを聞いたFDRは言った。「そうだな、こういうのがチャーチルの発想なんだ。こういうすごいアイディアを彼はいくつももっているんだよ。あの人は一日に100ぐらいそういうことを思いつくんだ。そのうち四つぐらいはいいアイディアなんだ」。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P88,89




 FDR【フランクリン・デラノ・ルーズベルト】の一級の「気性(テンペラメント)」とは、今の用語でいえば、気分高揚性パーソナリティのことだ 【……】 彼はエネルギーに満ち、非常に多弁であり、並はずれて外向的だった。要するに、一緒にいて楽しくなるような人物だった。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P188

 彼は非常に社交的だった。【……】 彼は、自分が必要としていることを代わりにしてくれる人をどうやって確保すべきかよく知っていた。そういう人が、なぜそのことをするのかについてFDRと違う考えをもっていたとしても、それはFDRにとってどうでもよかった。そのことをしっかり実行してくれさえすればよかったのである。【……】
 【……】 「まさにこの点においてローズヴェルトは魅力的であり、人には真似できない存在だった。彼は人が好きだった。ほとんどどんな人も好きになるのだった。そこにいる人たちを好きになり、彼らの心を手にとって、彼らが何を考えているのか探るのが好きだった。そして、彼らの生活や彼らの抱えている問題をくわしく知ることが好きだった」
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P192

 FDRの気分高揚性パーソナリティは、彼が直面するポリオや大統領職といった試練を乗り越えていくのにおおいに役立った。彼のポリオ罹病の経験は、彼に一定の共感能力(エンパシー)を獲得させたように思われる。【……】
 【……】 このような心理的な発展を遂げていたので、経済恐慌や世界大戦というとてつもない危機にうまく対処することができた。彼の心の動きは機敏で闊達であり、おそろしく重大な決定を迫られてもひるむことはなかった。彼は誰から習うこともなくプラグマティックな哲学を身に着けていた。
『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』P208,209



 フランクリン・ルーズベルトは性的に奔放で複数の女性と不倫関係にあったらしいのですが、これも高揚性パーソナリティ(つまり躁)の特性で、他にこの本でもケネディは大統領時代にプールで複数の女性とそういう行為をやっていたとかってことが書かれています。別の本で、ムッソリーニも執務室でそういうことをしていたというのを読んだことがあります。あるいはアインシュタインも次々に不倫関係を持ったりしたそう(『もっと!』P201)で、こういうのも双極性障害の一つの症状のようなのですが、もちろん、双極性障害であれば必ずこうなるというものではないです(ヒトラーなんかは、そういう方向性ではありませんでした)。


 マクレランに関しては、彼のそれまでの経歴があまりにも順風満帆で、シャーマンやグラントやリーやリンカンが経験してきていたひどい抑うつ状態を経験してこなかったため、自信満々になりすぎており、危機に対応できなかった……という風に書かれています。

 複数の本で読んだことですが、精神的に健康な人は少し(あるいはおおいに)自信過剰であり、鬱状態の人の方が将来の見通しについて正しく認識できているそうです。例えば、コインの裏表を自分が当てることができるかについて、鬱状態の人は正しく「1/2の確率でしか当てられない」と判断できるのに、精神的に健康な人は「1/2より高い確率で自分は当てられる」と思ってしまっているそうです。そして、そのように自分について過信している人の方が、世の中を気持ちよく、精神状態を健康に生きられるのですが、物事に正しく対処する上では、失敗してしまうのです。


 この『一流の狂気 心の病がリーダーを強くする』という本は、そこらへんのことに興味ある人には当然オススメですが、シャーマン、リンカン、マクレラン、チャーチル、フランクリン・ルーズベルト、ヒトラーなどの人物像について興味のある人には特に興味深く、オススメできると思います。ぜひ多くの人(とウォーゲーマー)に買って読んで欲しい本です!

OCSユニットで見るイギリス軍の第2機甲師団(『DAK-II』)

 今回はイギリス軍の第2機甲師団について調べて書こうかと。

 第2機甲師団はイギリス本国で編成され、北アフリカで第7機甲師団がイタリア軍を散々に打ち破った後、キレナイカ地方を守備するために輸送されてきましたがロンメルの第1次攻勢によりあっという間に壊滅させられてしまい、その後再編もされませんでした



British 2nd Armoured Division

 ↑第2機甲師団の師団マーク(Wikipeidaから)。



 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍機甲師団(第8機甲師団はフォーメーションマーカーだけです。第8機甲師団は1942年6月にエジプトに配備されましたが、完全な編成として活動することはなく、翌年1月に解散したそうです)。

unit9459.jpg


 OCS『DAK-II』の第2機甲師団の主力は第1機甲旅団となってますが、これに関しては第3機甲旅団の間違いではないかという疑義がある模様です。

 何故、MMPの『DAK2』が駄目なのか。例えば、JEDの『北アフリカ戦役』で35ターンに機械化歩兵師団に改編されるニュージーランド第2歩兵師団の場合、『DAK』では師団に所属する3個歩兵旅団の中から第4歩兵旅団が1942年10月1日に機甲旅団へと改編されます。しかし、史実では第4歩兵旅団の抜けた穴を埋める代わりに英第9機甲旅団が派遣されたに過ぎません。この事実は少し調べれば判ることで、GAM版『DAK』の数年前に出版された『Legend Begins』のシナリオは勿論、1970年代のSPI作品ですら反映されています。他にも、英第2機甲師団の指揮下にあった第3機甲旅団が第1機甲旅団になっているなど、基本的なミスすら訂正されていません。また、英語で読める資料が豊富な英軍戦車大隊に関してすら、その登場・撤退ターンに関する間違いが数多く見受けられます。はっきり言って『DAK2』に資料的価値を求めるのは無駄なことでした。

 日本語版『Legend Begins』では80駒程度ならユニットを追加する余裕が有るとの噂を聞きましたので、『DAK2』に対する不満をぶつける意味でも、次号で大隊規模の戦闘序列などを踏まえて、日本語版『Legend Begins』に関する提案をさせてもらおうと思います。

文/澤田 淳

『コマンドマガジンVol.61』P31


 「訂正されていない」というのは、1作目の『DAK』でもそうだったし、『DAK-II』でもそのままだった、ということでしょう。



 日本語版『The Legend Begins』のユニットシートで探してみましたところ、確かに第3機甲旅団は第2機甲師団所属であるということになっているようでした(第1機甲旅団司令部ユニットも隣にありますが、どの師団所属かは書いてません)。

unit9458.jpg




 私自身はそこまで戦闘序列狂(?)でもないですし、知識もないですからどちらかに肩入れするということもないのですが、ただ、「論争的」なものは好きで、そこらへんの興味はある感じです。


 英語版Wikipedia「2nd Armoured Division (United Kingdom)」を見てみたらえらい分量がありましたので、自分の勉強がてら、『第2次大戦 イギリス機甲部隊』も参照しつつ、個人的に興味を覚えるところだけを抜き書きしようと思います(私は個人的に、どの戦車が何輌だとかどの部隊がいつどこにいたかとかよりも、どういう理由があってどういう対処がされたとかってなことに興味があります)。


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 第2機甲師団は、第二次世界大戦の初期に活動したイギリス陸軍の師団である。この師団の創設は1939年の初めから議論されており、第1機甲師団を分割して創設することを意図していたが戦車が不足していたため、1939年12月まで延期された。師団創設後しばらくの間、第1機甲師団から第1軽機甲旅団が、南部守備軍から第22重機甲旅団が配属されるまで、師団に配属された部隊はなかった。

 1940年初頭には第1機甲師団に装備の優先権が与えられており、第2機甲師団は戦力不足のため軽戦車を中心に装備されていた。フランス戦の後、イギリス本国がドイツ軍の侵攻の脅威にさらされ、装備の優先順位は第2機甲師団に移った。この師団は、侵攻してきたドイツ軍の側面への反撃に使用する計画であった。

 1940年4月14日、第1軽機甲旅団が第1機甲旅団に、第22重機甲旅団が第22機甲旅団に改名された。

 1940年8月、同師団の機甲連隊がエジプトに輸送され、10月には中東戦域軍への増援として師団の残りをエジプトに移送することが決定された。この移送の前に、第1機甲師団の第3機甲旅団と、第2機甲師団の第22機甲旅団が交換された。

 第1機甲旅団と第3機甲旅団を基幹とする第2機甲師団は1940年12月~1月にエジプトに到着すると、ギリシャ遠征部隊の支援のため兵力を削減された。1941年2月27日、第1機甲旅団は第2機甲師団から離れ、中東戦域軍に配属されギリシャに送られることになる。部隊の残り(第3機甲旅団基幹)はそれからコンパス作戦で征服されたキレナイカ地方に移された。師団の残りの戦車のエンジンは寿命を越えており、捕獲したイタリア軍のM13/40を装備したもののスピードが遅く、居住性が悪く、機械的信頼度も低かった。第2機甲師団はその他にも輸送手段、作業人員、予備部品、無線機などが不足していた。

 3月31日に枢軸軍が攻撃を開始し、第2機甲師団は壊滅させられ、トブルク以外のキレナイカ地方は失われた。歴史家達は、第2機甲師団の装備不足、補給不足、適切な訓練不足、不十分な通信網と不明確な指揮系統という状況を考えると、これを防ぐためにできたことはほとんどなかったという見方で一致している。

 第2機甲師団の将校の中には、この悲劇の原因は第2機甲師団長であったガンビア=パリーの無能のせいだと非難する者もいたが、歴史家は「このような非難は誇張されている」と書いている。
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 一応今回調べたところでは、北アフリカ戦における第2機甲師団は第3機甲旅団を擁していたとする方が良さそうで、OCS『DAK-II』で第2機甲師団の基幹部隊が第1機甲旅団となっているのは、単なるミスか、あるいは何らかの理由があって意図的にそのようにされているのか……という感じではありますね。


OCSユニットで見るイギリス第13軍団司令部ユニット(『DAK-II』『Sicily II』)

 現在、北アフリカ戦線のイギリス軍の将軍について扱った『The Desert Generals』を読んでいってるんですが、イギリス軍の第13軍団についてちょっと情報を調べてまとめておこうと考えました。



XIII corps

 ↑第13軍団マーク(Wikipediaから)



 とりあえずまず、第二次世界大戦におけるイギリス第13軍団の前身となったのは、「西方砂漠部隊(Western Desert Force)」という名前の組織でした。

 西方砂漠部隊については以前、OCS『DAK-II』:英連邦軍の軍団司令部について (2019/01/23)で「西方砂漠」という名前で書いてましたし、それ以後もその名前で書いていたんですが、最近になって「西方砂漠部隊」と呼称した方が良いのではないかと思い始めました。というのは、「~軍」と書くと、我々のような作戦級ゲーマーには「Army Group - Army - Corps - Division」の「軍(Army)」のように思えてしまいますので。尤も、「部隊(Force)」とはなんのこっちゃとも思うのですが、OCSルソンでも「北部ルソン部隊(North Luzon Force)」「南部ルソン部隊(South Luzon Force)」という、麾下に数個師団を持つ、軍団規模っぽい名称の組織があり、まあ英米ではそういう名称が時々あるのかなと……。

 改めて英語版Wikipeida「Western Desert Force」を見ますと、「Type: Corps」と書いてあって、軍団規模の組織であるということではあるようです。


 ↓OCS『DAK-II』の英連邦軍司令部ユニット

unit00408.jpg



 以下、西方砂漠部隊、平時用の司令部であったキレナイカ地域守備軍、第13軍団のタイムテーブルを記します。

1940/06/10 イタリアが英仏に宣戦布告
1940/06/17 西方砂漠部隊を創設(オコーナー中将)
1940/12/09 コンパス作戦
1941/01/01 第13軍団へと改称(オコーナー中将)
1941/02/05 ベダ・フォムの戦い
1941/02/15 キレナイカ地域守備軍に移行(ニーム中将)
1941/04/07 オコーナーとニームが捕虜となる
1941/04/14 西方砂漠部隊を再編(ベレスフォード=ピアース中将)
1941/05/15 ブレヴィティ作戦
1941/06/15 バトルアクス作戦
1941/09/09 第8軍が編成される
【9/9はカニンガムが第8軍司令官に任命された日?(https://en.wikipedia.org/wiki/Eighth_Army_(United_Kingdom)による)
 第8軍は1941/9/26の真夜中に正式に発足したという記述もある(『Desert Rats: British 8th Army in North Africa 1941-43』P10による)】

1941/09/18  西方砂漠部隊を第13軍団へと改称(ゴッドウィン=オースティン中将)
【9/18という日付は『Desert Rats: British 8th Army in North Africa 1941-43』P11による。https://en.wikipedia.org/wiki/XIII_Corps_(United_Kingdom)やhttps://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Battleaxeによるとバトルアクス作戦時等に第13軍団が存在することになっているが】
1942/02    ゴット中将が軍団長となる
1942/08    ホロックス中将が軍団長となる
1942/12    デンプシー中将が軍団長となる
1943/12    カークマン中将が軍団長となる
1945/03    ハーディング中将が軍団長となる

 日付が今分からないものは、今後分かったら追記していこうと思います。

 また、ベレスフォード=ピアースはバトルアクス作戦の失敗のため解任され、ゴッドウィン=オースティンは第8軍司令官であったリッチーの指揮に疑義を表明してオーキンレックに辞表を提出したら不本意にもそれが受理されて解任され、ゴットは第8軍司令官への昇進のため飛行機で移動していてドイツ軍機に撃墜されて地上で他の搭乗員を救助中に再度撃たれて戦死しました。

 その後の司令官についてはまだ良く分かってないのですが、北アフリカ戦線の時の下位指揮官であった人物が軍団長になっているようで、それらの人物像についてはまた調べていきたいと思います。



 第13軍団は、北アフリカ戦線で戦って、チュニジアでの戦いに参加したかのような記述も見るのですが、OCS『Tunisia II』ではユニット化されていませんでした。リビアの方に留まっていたりしたのかもです。そしてその後、シチリア戦、イタリア戦を戦いました。


 ↓OCS『Sicily II』のイギリス軍司令部ユニット。

unit9460.jpg

 第30軍団は1941年9月にエジプトで編成されて以降、第13軍団と共にシチリア戦までをずっと戦った、まるで兄弟軍団のような感じのする軍団ですが、シチリア戦の後はノルマンディー上陸作戦に参加し、その後は西部戦線を戦いました。第30軍団についても、その軍団長などについてのまとめエントリを作るつもりです。

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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