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ドイツ軍の進撃路で道路が渋滞したり、道路が摩耗したりするから、戦力を集中させ過ぎないのでしょうか?

 前エントリで引用した『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』の文の、次の文章が以下のようになってました。

 Wimpffenは(ドイツ軍の資料に基づいて)以下のように述べている。トリデンティーナ師団とヴィチェンツァ師団はその移動を命令に基づき、効率的なやり方でもって始めたが、すぐに彼らのとった道は第24装甲軍団と交わってしまい - それに、深い雪にはまったこともあって - ほんの僅かしかない良好な道は交通渋滞の大混乱とひどい摩擦に陥ってしまった125。また、ジュリア師団とクネーンゼ師団に割り振られた道にも約10,000のドイツ軍部隊とハンガリー軍の敗残兵が入り乱れ、あらゆる部隊が否応なく渋滞、混乱、摩擦の真っただ中に入り込んだ。

125 Hans Wimpffen, "Die Zweite Ungarische Armee im Feldzug gegen die Sowjetunion: ein Beitrag zur Koalitionskriegführung im Zweiten Weltkrieg【第二次世界大戦における同盟戦争への貢献としての対ソ連キャンペーンにおけるハンガリー第2軍】" 280.
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P181



 実は今、尼崎会では「ドイツ軍の進撃における交通渋滞と道路の摩耗」について情報を得たいという機運が盛り上がってきているのですが、資料の在りどころが全然分からないので作業がまったく始まってもいません(^_^;

 というのは、先日OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のキャンペーンプレイを始めたわけですが、ワニミさんが「グデーリアン麾下の部隊はなぜ大河川であるドニエプル川を渡るなんていう苦労をしなければならないのか。しかも渡った後で、広大な南側の側面を守らなければならない。むしろグデーリアンは最初、オルシャの町を確保するなどだけしておき、ホート麾下の部隊がスモレンスク近くまで進撃した後、戦略移動でホートの戦区を突っ切って(留まると特別ルールにより混乱してしまうので)進撃すれば良いのではないか。そうすれば、南側の側面を平地で守る必要はなく、ドニエプル川沿いに守れば良くなるし、一石二鳥だ!」と仰るのです。

 私も検討してみたのですが、ある意味、悪くない案かもとも思いました。尤も、ゲーム上で実際に試してみると、うまくいかないことが分かったりもするかもですが……。同様の案として、OCS『The Blitzkrieg Legend』においてグデーリアン(クライスト)麾下の部隊がアルデンヌを突っ切らず、ベルギーの平野にシフトして、(第9装甲師団を除く?)すべての装甲師団でベルギーの平野を疾駆するという案があり、実際にそれでプレイしていた海外のプレイヤーがいたそうです。

 ただ、ゲーム上の話ではなく史実でなぜそれが選択されないのだろうかということを考えてみると、恐らく「戦力を集中しすぎると交通渋滞と道路の摩耗が激しくなるからではないか」と思われました。アルデンヌの森ではひどい交通渋滞が、1940年にも、1944年にも起こったことがよく知られていると思います。ただこれは、森の中の話です。平地が多く、時々林がある程度のスモレンスク周辺やベルギー平野ではどうなのか……?


 引用していた『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』の話は、OCS『Case Blue』の以下のような地形で起こった話でした。

 ↓トリデンティーナ師団の退却路(『Sacrifice on the Steppe』P128から作成)。

unit9940.jpg

 だだっぴろい平地と、小河川があるだけです。小河川はゲーム上凍結している時期なので、実際には平地しかない扱いです。

 OCSはスタック制限が10REで、これは2個装甲師団(あるいは歩兵師団2.5個)程度の数値です。もし仮に、『The Blitzkrieg Legend』や『Smolensk:Barbarossa Derailed』で、ドイツ軍プレイヤーが8個装甲師団が使用可能であるとすれば、それを1ヘクスに2個装甲師団ずつ4ヘクス幅に並べて攻撃するのは、なしではありません(相手が特別ルールでリアクションできない状況においては)。

 「ゲーム上でわざわざ交通渋滞を再現する必要はない」でしょうけども、「プレイヤーが効率化を目指した結果、交通渋滞が起きないように戦力が史実程度に分散される」ということはあった方が良いような気もします。実際、私が『激闘! マンシュタイン軍集団』をプレイしていた時には、ソ連軍側はユニットが大量にあって、それをあまりに集中させすぎるとスタック制限が2ユニットまでなので、戦闘に関与することができないユニットが出てきたりしました。ので、適度にばらけさせる方が効率がよい……ということがありました。


 そこらへん、『激闘! マンシュタイン軍集団』くらいまでのゲームならばむしろ再現が容易なような気がするのですが、OCSくらいの規模になると、却って再現が難しい気がしています。一応、砲爆撃の密集度修正で1ヘクスに3REを越えると当たりやすくなるのでそれで抑制はされるのですが、渋滞で困るということはほとんどまったくありません。

 また、OCSは装甲師団などの移動には燃料が必要で、できれば移動モード(の面)になってさらに戦略移動モードになれば劇的にSPが節約されるだとか、1つの司令部ユニットの支給範囲内にできるだけ数多くの独立ユニットを入れた方が燃料が少なくて済むなどの、「戦力を集中したくなる誘因」もいくつかあります


 「道路の摩耗が激しくなるから、戦力を集中させ過ぎない方がよい」という話は、今までにどこかで(複数回?)見たことがあるんだろうと思うのですが、どこで見たかをまったく思い出せません(T_T) ご存じの方はぜひ教えて下さい!


 また今後、この件に関する情報を見つけたら、ここに追記して情報を集積していこうと思います。

<2020/11/11追記>

 リデル・ハートの『ナチス・ドイツ軍の内幕』に、イギリス本土上陸作戦の計画について、以下のようなことが書いてあるのを見つけました。



 陸軍当局の方は、対英上陸はできる限り広い幅でやるべきだ。 - 少くともラムズゲイトからリム湾ぐらいまでの間へ - それはイギリスの予備軍の目標を迷わせ、拡散させるために必要であると主張したのに対して、海軍の方はとてもそんなに広い幅では援護できない、イーストボーンから西は守れない。もっと狭い上陸地点と一つのコースに絞ってくれと主張した。議論は白熱して二、三週間続いた。ハルダーは「海軍の案は陸軍にとっては自殺行為に等しい」と宣言し、「それはあたかも陸軍をソーセージ製造機の中へ送りこむようなものだ。」
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P143,4


 この話では、自軍戦力を分散させるのは、敵の「予備軍の目標を迷わせ、拡散させるために必要」ということになっております。

 先日検討したOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』第1ターン中に渡河を成功させる作戦を試してみました (2020/11/09)でも、「ある一点、あるいは二点に戦力を集中させるということは、敵もその一点あるいは二点に戦力を集中させれば良いということである。それよりもドイツ軍側は戦力を分散させて、相手が対応できない場所が出てきたところを機会主義的に抜いていく方が良いのではないか。」という話は出てきていました。

 考えるに、多くのボードウォーゲームよりも実戦では「戦場の霧」が深いはずで(というか、戦場の霧が多くのボードウォーゲームでは史実ほどに再現できない、ということでしょうけども)、そうすると実戦においては「相手を迷わせる」ために「自軍を分散させる」ということは、ボードウォーゲームで我々が体感しているよりも遙かに大きな効き目がある、ということかもしれません。うーむ……。

 ↑こういうことが史実並に体感できるウォーゲームが、PCゲームとかPC併用とか審判性とかでもいいので、ぜひ欲しいですしやってみたいと思ってます。ってか、ダブルブラインドゲームをやればそれでOK?(^_^; 一応『8th Army』(GDW/CMJ)や『Across the Potmac』(XTR/CMJ)は持っているのですが、どんな感じなんでしょう? 教えてもらえれば幸いです!(>_<)

<追記ここまで>

<2020/11/12追記>

 以前Takuさんも言われていたと思うのですが、市川さん、yuishikaniさんに、BCS(The GamersのBattalion Combat Series)は交通渋滞が発生するよという話をツイッターで頂きました。





 非常に興味深いです。BCSにはまだ手を出していなかったのですが、11月11~15日にMMPでセールがあって、だいぶ安く買えるということなので、『Baptism By Fire: The Battle of Kasserine』と『Brazen Chariots: Battles for Tobruk, 1941』を注文してみました(以前から興味があると仰っていた肉入り鍋さんの分も同時に注文。ワニミさんは以前から所有されておいでです)。

 今後も何か見つかる度に情報集積していこうと思いますが、色々な要素から、戦力の集中がある程度難しかったり、あるいは分散した方が良いという要素があったようですね。

<追記ここまで>

<2020/11/17追記>

 また、『ナチス・ドイツ軍の内幕』に以下のような文があるのを見つけました(『ヒットラーと国防軍』という本もありますが、題名が違うだけで両方ともリデル・ハートの『The German Generals Talk』(1948)の和訳本のようです)。


 【ブルーメントリットによると】「こういう国【ソ連】には戦車が向かないのは言うまでもないが、それに随伴してゆく輸送になるともっとひどい。燃料、補給、および戦車の必要とする補助部隊等の輸送である。これらの輸送のほとんどすべては車輛に頼るのであるが、それは道路を離れては動けないし、またその砂が泥に変ってしまったらさらに動けない。一、二時間の雨で機甲部隊は立ち往生する。やがて日が出て地面が乾きはじめるまで、延々百マイル【約160km】にも達する戦車と輸送車の大部隊とが、長蛇の如く立ち往生をする光景というものは、全く凄いものだった。」
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P173


 これによると、戦車部隊は道を外れてもある程度動けるけども、補給輸送部隊は道がないと動けないので、「戦闘部隊の渋滞よりも、後方部隊の渋滞の方がヤバイ」ということなんですね。だとすると、BCSが再現している部分はかなり重要だということになりそうです。いいですね!

<追記ここまで>

<2020/11/13追記>

 このような情報を頂きました。ありがとうございます!



 記述を探してみましたところ、以下のようなのが。

 当初計画立案者達は、地面は硬いし、12月15日の軽い霜が濡れた地面を固めたものと考えていた。不運なことに、数日後には多数の車両が道路を走行し、未舗装の道路を破壊したため、地面は泥だらけになった。これは、ドイツ軍が狭い道路上で前進し、部隊を機動させる能力に深刻な影響を与えることになった。
P77

 また、行軍中に道路を整地しなければならなかったため、行軍の速度が遅くなった。
 【……】
 この地域の道路は、多くの車が走っているため、すぐに泥になってしまった。
P78


 やはり「多数」の車両が通行することで道路がダメになるように読めますし、一本の道路に戦力を集中させるのでなく、何本もの道路に戦力を分散した方が、道路移動自体は早くなるように思えますね。

 連合軍側が鉄道輸送で戦力を集中して……というようなことも書いてあったような気がしまして、道路を破壊しないという意味でも鉄道輸送は非常に重要なんだろうなと思いました(鉄道は鉄道で、整備も必要でしょうけども)。

<追記ここまで>

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オストロゴジスク=ロッソシ作戦:イタリア軍のアルピーニ軍団の「敢闘」は、誇張されたものである?(付:OCS『Case Blue』)

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』ですが、いよいよオストロゴジスク=ロッソシ作戦(1943年1月13日~)の章までやってきました。

 読んでいると、私にとっては驚愕の指摘が!


 以前から、↓のエントリで書きましたように、こと「イタリア軍アルピーニ軍団の敢闘」ということに関してはだいぶ割り引いて考えなければならないようだとうすうす思っていたのですが……。

イタリア軍のアルピーニ軍団は「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」?(付:OCS『GBII』『Case Blue』) (2019/08/07)


 ↓アルピーニ軍団の構成師団と、当時その戦区にいたヴィチェンツァ保安師団。

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 ↓トリデンティーナ師団の退却路(『Sacrifice on the Steppe』P128から作成)。

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 いよいよ、最終判決が出されてしまった気がします(T_T)

 まず、オストロゴジスク=ロッソシ作戦について、ハンガリー軍がソ連軍の攻撃を受け突破されてしまったことに触れられた後……。

 つまり、アルピーニ軍団は直接攻撃を受けておらず、その側面を - 特にソ連軍の戦車部隊による後方への深い一突きによって - 進撃され、自身の守備位置が危殆に瀕したに過ぎないのだ。実際、アルピーニ軍団の戦区における戦闘は、【独ソ戦全体を通じて】散発的なものに過ぎなかった。よくあった小競り合いを別とすれば、ソ連軍の2個連隊が1月16~17日にかけての夜にトリデンティーナ師団を攻撃したが、それ以外には小土星作戦の時にジュリア師団が第24装甲軍団と共に戦い、ドイツ軍の官報でその戦いを賞賛されたことがあっただけである。1943年1月の退却より前の時期におけるその戦闘の少なさは、アルピーニ軍団に関して戦後に広められた物語を理解する上で重要である。現在に至るまで、アルピーニ軍団は他のイタリア軍部隊よりもスポットライトを浴び続けているが、それはアルピーニ軍団に関する著作の数々が繰り返し繰り返し「アルピーニ軍団は敢闘した」、それこそ同じイタリア軍の第2軍団や第35軍団【両方とも小土星作戦の時にほぼ壊滅した】よりも - と言わんばかりに語ってきたからなのだ。だが、アルピーニ軍団が直面したのは、その2つの軍団が食らった圧倒的な猛攻とはまったく異なるものだった。我々はこのシンプルな事実を忘れるべきではない。第2軍団と第35軍団は遙かに優勢な敵によって直接に攻撃を受けたのであったが、アルピーニ軍団は隣のハンガリー軍の戦区が突破され、包囲されてしまった後に、包囲環から脱出しようとしたのである。この1月のオストロゴジスク=ロッソシ作戦は2つの期間に分割できる。1つ目はソ連軍の攻撃(主としてハンガリー第2軍に対する)と、そして2つ目が1月17~31日にかけてのアルピーニ軍団の撤退の時期である。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P179,180

 1月18日以降、アルピーニ軍団と第24装甲軍団は優勢な敵によって包囲されて、後方の補給や予備の食料との連絡線を失い、2つのグループに分かれてしまった。寒さに加えて、利用できる家屋も少なく、物資は不足し、連携も取れず、指揮官達が混乱する中、その後方地域はすでにソ連軍の戦車部隊や機械化部隊の手中にあった。ゆえに、彼らの行動は撤退というよりも、包囲環からの脱出であった。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P181


 実際、アルピーニ軍団の撤退(包囲環脱出)戦に関しては何作もの本が出ているのを私も知っていますが、小土星作戦の時の第2軍団と第35軍団の戦いをメインに描いた本の存在というのは、少なくとも私は知りません(しかしもしあるならイタリア語本でもいいので欲しいので、存在をご存じの方おられましたらぜひ教えて下さい!)。

 少なくとも、「取り上げられることの多い、少ないの偏在がある」ということは言えそうな気がします。

 一方で、「包囲環からの脱出戦」だって立派な戦いであり、それが胸を打つ、ということもあるとも思います(例えば、OCS『Case Blue』で見る、イタリア軍アルピーニ軍団トリデンティーナ師団の包囲環突破 (2019/08/30))。小土星作戦の場合には、イタリア軍部隊は、ドイツ軍部隊と協力しながらも各所で防戦したそうですが、しかし衆寡敵せず、ほとんどが間もなくやられてしまったという経緯を辿ったようなので、物語になりにくいのだろうとは思います。

 そういえば、小土星作戦中のことだけで一冊の本になっている恐らく希有な作品である『Red Christmas - The Tatsinskaya Airfield Raid 1942』は、タチンスカヤに突入したソ連軍戦車軍団がドイツ軍に包囲されてしまった後に脱出しようとするのだが……というような話で、これは「物語」たり得るのだと思われます。

OSPREYの「RAID」シリーズ:リトルサターン作戦ものを買いました (2018/09/12)
リトルサターン:縦深攻撃で200km前進した戦車軍団はその後どうするべきなのか? (2018/10/29)
『Red Christmas - The Tatsinskaya Airfield Raid 1942』を読了しました (2018/11/07)


 実際、『Case Blue』でオストロゴジスク=ロッソシ作戦シナリオを作るとして、作戦発起時点からのものを作るのは当然として、いったん包囲されてしまった状態からのシナリオも作って、そこからどれだけ脱出できるかを競う……というのもなかなかに燃えるものがあるという気もしました(ゲーム上で包囲環を作ってみるものの、どこもかしこも薄くて脱出されてしまう……というのもよくあることだったりもします)。


 しかしまあ、アルピーニ軍団は、脱出戦以外で「敢闘した」というイメージは誇張されたものであると捉えた方がいいということは言えそうな気がします。

 この『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』という本は、イタリア軍がダメダメだったという見方に具体的証拠でもって反論する一方で、今回のように「アルピーニ軍団は持ち上げられすぎ」ということも指摘してくれるという、非常に素晴らしい本ではなかろうかと思います(それこそ持ち上げすぎか?(^_^;)。この後、「東部戦線でドイツ軍はひどいことばかりしまくったが、イタリア兵達は良いことばかりした」という「神話」について検討される章があるっぽいので、そこも非常に楽しみです。




 ↑私が買った時は10,700円くらいしたのですが……まあしょうがない(^_^;

ドイツ軍の第318歩兵連隊は、小土星作戦開始後どうなったのか?(付:OCS『Case Blue』)

 ツイッターでのりっく氏が第318歩兵連隊についての資料について嘆いておられたので、とりあえず『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』での同連隊に関するその後の記述を追いかけてみました。






 【12月16日】しかし、他の機甲予備は燃料の欠乏により、ラヴェンナ師団の支援に駆けつけることができなかった。実際、ラヴェンナ師団にいたドイツ軍の連絡将校は近隣の第298歩兵師団と第318歩兵連隊に、側面の敵への攻撃を依頼したが、両方ともがその救援の要求を拒絶した
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P166

 【12月17日】最初の重要な突破はDubikovkaの周辺で、第318歩兵連隊とラヴェンナ師団との間で発生した(Dubikovkaではイタリア軍は最初そこで第67戦車旅団の攻撃を撃退したのだったが)。第318歩兵連隊は散り散りになって、1個大隊は壊滅し、残りの2個大隊はあっという間に包囲されて、脱出路(アルピーニ軍団か、あるいは第24装甲軍団の方向への)を切り開くために戦わなければならず、大きな損害を出した。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P169



 同書の、小土星作戦の章での第318歩兵連隊に関しての記述はここまでだと思います。この後、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の章などでまた出てくるかもしれませんが……。索引で部隊番号で引ければいいのですが、それはないので。

 グランツ氏の『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』にも、部隊番号は索引で引けません……。

 しかし、同じくグランツ氏の『Endgame at Stalingrad: December 1942 - Feburary 1943』は索引で部隊番号で引ける(!)ので見てみたところ、1箇所だけ記述がありました(『Endgame at Stalingrad: November 1942』も索引で引けますが、載ってませんでした。『Companion to Endgame at Stalingrad』には索引がないので調べようがありませんでしたが、載ってそうな気はします……)。

 しかし、わずか2個歩兵師団(第5コッセリアと第3ラヴェンナ)しか持たないイタリア第2軍団は、ドイツ軍の1個保安連隊(第318)が増援され、ソ連の2個軍による主攻勢戦区に対して配備されていたのだった。
『Endgame at Stalingrad: December 1942 - Feburary 1943』P230


 「保安」と訳したのは「Security」で、過去のエントリOCSユニットで見る?バルバロッサ作戦で各軍集団に3個ずつ配備された後方任務用の警備師団等 (2018/11/28)で書いていたような部隊に当たるわけですね(そうだとは全然思ってなかったのですが、明らかに二線級の部隊でしょうし、そうでしょうね……)。

 同書の索引には、「Regiment, German」の項で、「318th Security (213th Security Division)」とありました。

 『Case Blue』には、第213保安師団ユニットがあります(↓の右下)。

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 これが親師団であるとすれば、ARは3であるべき……?(OCSの保安師団のARはもっと低くてもいいような気もするのですが) ちなみに、同ユニットは『Enemy at the Gates』にもあり、同じ数値でした。


 また、英語版Wikipedia「213th Security Division (Wehrmacht)」には第318歩兵連隊に関する記述はありませんでしたが、ドイツ語版Wikipedia「213. Sicherungs-Division (Wehrmacht)」には、「師団の歩兵第318連隊は、1942年4月末、ロシア戦線の南方地域でイタリア第3師団「ケレーレ」を支援するために配備された。」という記述がありました(DeepL翻訳による)。


 今後また、本などを読んでいて第318歩兵連隊に関する記述に出会ったら、このエントリに追記しようと思います。


 今回使用した本に関してはこちらをご参照下さい。

『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を注文しました (2020/01/28)
グランツの『ドン川からドニエプル川へ』を注文しました (2016/09/25)
グランツのスターリングラード三部作(の一部)などを購入・注文しました (2017/04/23)


小土星作戦:12月11~15日にかけての小競り合いを「過小評価してはならない」らしいです(付:『Enemy at the Gates』)

 いよいよOCS『Case Blue』の小土星作戦シナリオの作成作業に着手してしまったかもしれないのだろうかのようなんですが、問題なのが、小土星作戦は一般的に言われる開始日時(1942年12月16日)よりも前の12月11日から小規模に始まっていたのだけど……という件です(12月12日からだという記述も見ますが、独ソ戦の泰斗であるグランツ氏の『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』のP41には11日からだと書いてあるのでそちらを優先してみます)。

 OCS『Enemy at the Gates』の小土星作戦シナリオ&キャンペーンは16日から始まるていではありますが、確認してみると第9ターン(12月17~19日ターン)に開始することになっています。

 ここで、よくOCSをプレイしている方ならば、「17日ターンなんてあったっけ?」と違和感を感じたかもしれません。現在のOCSの日時の区切りは、15日ターン(15~18日)だとか19日ターン(19~21日)とかになっているからです。



 ↓OCS『Case Blue』のターンテーブル

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 対してOCS『Enemy at the Gates』のターンテーブルは、キャンペーン開始時期である天王星作戦(11月19日)を起点として、月毎に日にちが一致しないようになってました。

 ↓OCS『Enemy at the Gates』のターンテーブル

unit9592.jpg




 まあ、そんなに厳密に考えねばならないことでもないでしょうから(おい)、16日開始とするなら15日ターン開始、11日開始とするなら12日ターン開始でしょうか。しかし、11日からの小規模なやりとりを特別ルールで縛って再現させるのはそれほど良いとも思われませんから、16日開始の15日ターン開始を選択することになるだろうと思います。

 ただ枢軸軍戦線は、10日までは割と静的であっただろうと思われますが、11日から15日にかけて、ソ連軍の小規模攻撃に対応して部隊が動かされたり損害が出たりしていました。そこらへんどう織り込んでいくかが、やや問題になっていくのだろうかなと思います。

 その期間について「過小評価してはならない」と『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』で述べられていましたので、そこらへん引用してみます。

 ↓OCS『Enemy at the Gates』の小土星作戦シナリオセットアップ(コッセリア師団、ラヴェンナ師団、パスビオ師団の上には1レベル陣地があるのですが、見にくいので取り除いてあります。また、第27装甲師団が画像左下の下側にいます)。

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 この【ソ連軍側の】大規模な再編作業と激しい実戦的な訓練の後の12月16日に、主攻勢は延期されなければならなくなった。そのため、ソ連軍は小競り合いと威力偵察(大隊規模まで)の期間を設けることにした。この期間は12月11~15日で、その後に突破口を穿つための第2フェイズが12月16~18日に、そして突破後の長躯進撃が12月19日からという予定となった。
 この小競り合いの期間中、ソ連軍部隊は戦車軍団や機械化軍団による迅速な進撃のために、(たいてい数個大隊で)ドン川の向こうの橋頭堡を拡大しようとしたり、新たな跳躍台を獲得しようと戦術的侵入を図ったりした。これにより大きな損害を被ったため41、ドイツ軍はコッセリア師団とラヴェンナ師団の位置に第385歩兵師団から2個連隊を前進させ、また第387歩兵師団をイタリア軍の前線へと急がせると共に、第298歩兵師団から1個大隊をパスビオ師団への支援にまわし、第27装甲師団はラヴェンナ師団の支援に向かう準備を完了させた42。これらの行動が示しているのは、来たるべき攻勢の主要な地域は、イタリア第2軍団(コッセリア師団、ドイツ軍第318歩兵連隊、ラヴェンナ師団)の戦区になるだろうということであった。この小競り合いの時期を過小評価してはならない。なぜなら、この小競り合いでソ連軍はドン川の向こう側の橋頭堡を拡大し、また第318歩兵連隊とラヴェンナ師団との間などで、連続した防御戦線を切断することに成功していたからである43。コッセリア師団は非常に弱体化してしまっていたため、その24kmにもおよぶ長大な戦区を第385歩兵師団が代わりに守備するようにと命じられ、いったん状況が落ち着いたならばコッセリア師団は前線から離れるということになっていたのであった(図7.2)44

41 DS CS,VIII;I, 11 Dec. 1942. 第2軍団は戦死者82名、負傷者212名、行方不明者(恐らく死亡したと思われる)139名を12月12日だけで出した。【イタリア】第35軍団は戦死者230名、負傷者596名を12月10~12日に出している。DS CS, VIII:I, 12 Dec. 1942. 敵の損害もイタリア軍の損害に比して大きかったと報告されているが、逆にその数字がこの「小競り合い」におけるソ連軍の軍事行動の大きさを物語っている。
42 12月16日の朝、Schuldt戦闘団(2個SS警察大隊)とフェーゲライン戦闘団(2個SS大隊、1個突撃砲砲兵隊、および第15警察連隊)がカンテミロフカ(Kantemirovka)の周辺に到着し、そこに第387歩兵師団が12月18日に合流した。Glantz, From the Don, 42.
43 第318歩兵連隊とコッセリア師団から抽出された部隊による反撃は当初成功したが、最終的に12月15日の夜遅くにその守備位置はソ連軍に奪取されてしまい、ラヴェンナ師団から切り離されてしまった。【……】
44 USSME, Le perazioni, 356. コッセリア師団は5日間の昼夜におよぶ攻撃と反撃で、戦闘神経症の最初の兆候を見せ始めていたと記述されている。【……】


『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P160,161



 一方、『Enemy at the Gates』の小土星作戦シナリオセットアップでは、各師団のステップ数は以下の通りとなっています。

第385歩兵師団……3/4
第387歩兵師団……4/4
コッセリア師団……3/3
ラヴェンナ師団……2/3
第298歩兵師団……3/4
パスビオ師団……1/3

 コッセリア師団のステップ数はもっと少なくして、またDGマーカーを載せても良いのかもしれません。一方でドイツ軍の歩兵師団からはいくらか分遣連隊を抜いて、イタリア軍戦線やカンテミロフカ(画像の左下の下側)に向かわせるようにして置いた方が良いのかも。

 以前のエントリ冬の嵐作戦&小土星作戦前の第17装甲師団とその他ドイツ軍部隊の動きについて (2018/12/27)で、『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』上のこの時期についての記述を訳出してあったので、そちらも掲載してみます。

 ソ連軍の偵察は、敵の部隊配置の変更を引き起こした。12月13日から15日にかけて、ドイツ軍の第385歩兵師団と第27装甲師団がイタリア軍の防御ラインへの増援として前方に移動し、またドイツ軍第387歩兵師団が北方からイタリア軍区域に向かっている途中であった移動が早められた。12月14日には第537歩兵連隊(第385歩兵師団)がSamodurovka周辺に入ると同時に、第318歩兵連隊がソ連軍のDerezovka橋頭堡を繰り返し攻撃した。基本的に、第385歩兵師団の2個連隊と第318歩兵連隊がコッセリア師団とラヴェンナ師団の一部の前線防御を引き継ぐことになった。それらのイタリア軍師団は予備として後方の新たな位置へと下がり、ドイツ軍を支援して敵への反撃の役割を担うこととなった。
 12月16日の朝までにさらに他のドイツ軍部隊が到着して、イタリア軍の防御ラインを補強した。Schuldt戦闘団(2個SS警察大隊)がKantemirovkaに、フェーゲライン戦闘団(2個SS大隊、1個突撃砲砲兵隊、および第15警察連隊)がKantemirovkaの西側に、第27装甲師団がラヴェンナ師団を支援し、第298歩兵師団の1個大隊がパスビオ師団を支援した。さらに、12月18日までに第387歩兵師団がKantemirovkaのすぐ北の区域へと移動することになっていた。
『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』P42




OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の最新エラッタを和訳してみました

 またたえさんからOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』についての細かい疑問点について質問がありまして、念のためThe OCS Depotを見てみたらエラッタが更新されていました。


 私がこれまでに認識していたのは2018年8月8日付けのエラッタで、これはサンセット和訳には反映されているのですが、最新のエラッタは2019年9月6日付けとなっていました。その中で、新たに追加された部分は青く塗られており、見比べてみたところ黒字の部分はすべて2018年8月8日付けのものに含まれていました。ただし、書かれている場所が変更されていたり、沼に関するエラッタは具体例のヘクスが追加変更されていました。

 参考にまず、2018年8月8日付けのエラッタの和訳を挙げてみます。

エラッタ(2018年8月8日)

ルールのエラッタ
1.シナリオ3、5、7に挙げられている枢軸軍の鉄道輸送力を1に(2ではなく)、ソ連軍の鉄道輸送力を3に(4ではなく)変更します。
2.前線予備(2.3c)のSPは2(5ではなく)であるべきです。ソ連軍の増援到着表も修正の必要があります。
3.オプションルールの4.1bを次のように変更します:「追加の補給」イベントを7月8日ターンから7月15日ターン(イベントのためにダイスを振る前の3ターンの間)にかけて適用します。
4.前線予備(2.3c)の置き方:2.1の1つ目の黒丸【訳注:・のこと】をSPに適用し、2つ目の黒丸を改編ユニットに対して適用します。
5.マップ端ボックスに入ったユニットは移動を終了しなければなりません(1.4b)。

カウンターのエラッタ
1.2個のドイツ軍歩兵師団の移動モードの数値が間違っていました。第35歩兵師団は10-4-5で、第78歩兵師団は10-5-6です。

マップのエラッタ
1.沼ヘクスとみなされるためには、青い線によるシンボルと、緑色がかったまだらの領域の両方がなければなりません。ですのでたとえば11.01や19.20は沼ヘクスではなく、12.01や20.20は沼ヘクスとなります。

ソ連軍到着表のエラッタ
1.9月1日ターンに到着する戦車大隊の能力値は4-2-4です(4-1-4ではなく)。



 次に、2019年9月6日付けのエラッタの和訳を挙げます。青字であった部分は青字にします。

エラッタ(2019年9月6日)

ルール:
1.オプションルールの4.1bを次のように変更します:「追加の補給」イベントを7月8日ターンから7月15日ターン(イベントのためにダイスを振る前の3ターンの間)にかけて適用します。
<2020/02/02追記>
 このエラッタを反映するため、枢軸軍増援到着表の「ランダムイベント」の最後にある「オプション4.1bを使用した場合には、7月8日ターン及び12日ターンには自動的「追加の補給」イベントが発生します。」という記述の「及び12日」を「から15日」に訂正しておいて下さい。

<追記ここまで>
2.前線予備(2.3c)の置き方:2.1の1つ目の黒丸【訳注:・のこと】をSPに適用し、2つ目の黒丸を改編ユニットに対して適用します。
3.マップ端ボックスに入ったユニットは移動を終了しなければなりません(1.4b)。
4.マップ端ボックス(1.4b)には、4つの「・」があるべきでした。その3つ目と4つ目を以下のように変更します。
・これらのボックス内にいるユニットは一般補給下にあります。マップ上のユニットはマップ端ボックスからSPを得たり、一般補給を引いたりすることはできません。
・ユニットはマップ端ボックスに入ったら移動を停止しなければなりません。ボックスから出る時には、ユニットはノーコストで燃料を入れられています(「ユニット毎に1T」の方法で)。
5.「3.1 補給と増援」の最初の段落に、以下の文を追加します:ヘクス11.33を通っている鉄道線は枢軸軍の補給源ではありません。
6.「2.1 補給と増援」の2つ目の文は「例:ヘクス13.01、37.35【17.35でなく】、62.16」であるべきでした。
7.オプションルール「4.1c ゲージ変換の制限」を追加します:枢軸軍の2個の鉄道工兵ユニットのキャンペーン早期の活動を制限します。1個はエントリーHに到着し、マップ端からモギレフ(Mogilev)までの鉄道線をゲージ変換しなければなりません。もう1個はエントリーJに到着し、マップ端からオルシャ(Orsha)までをゲージ変換しなければなりません。その後、プレイヤーはそれらの鉄道工兵ユニットを好きなように使用できます。
8.オプションルール「4.3 セットアップの細かな変更」を追加します:シナリオ5.1と5.2で、ソ連軍プレイヤーがセットアップで細かい変更ができるように、項目を2つほど追加します。このオプションにより、最大限に効率化された枢軸軍の初動に対して抵抗できるようになるでしょう。このルールは経験豊かなプレイヤーが参加している時にのみ使用されるべきです。
A.ソ連軍の6個のステップロスしていない歩兵師団【狙撃兵師団】はそれぞれ、1個の分遣連隊ユニットを分遣できます。AR2の分遣連隊ユニットはすでに分遣されてしまっているので、あと使用できるのはAR2が4個と、AR3が2個です。分遣連隊ユニットは元の師団の2ヘクス以内に自由に配置できます。
B.ソ連軍のセットアップに細かい変更を付け加えます:第1自動車化師団は18.17の1ヘクス以内にセットアップできます。

 例えば以下のようにセットアップできるわけです:
 第229狙撃兵師団はAR2の分遣連隊を19.25に。
 第73狙撃兵師団はAR2の分遣連隊を17.20に。
 第137狙撃兵師団はAR2の分遣連隊を18.20に。
 第102狙撃兵師団はAR2の分遣連隊を13.05に。
 第127狙撃兵師団はAR3の分遣連隊を23.23に。
 第100狙撃兵師団はAR3の分遣連隊を15.09に。
 そして、第1自動車化師団の4-3-3自動車化歩兵連隊ユニット2個を、17.18と18.18に。

 それぞれの歩兵師団【狙撃兵師団】にステップロスマーカーを付けるのを忘れないで下さい。これらの分遣連隊は、追加で得られるユニットではありません!



シナリオ:
1.シナリオ3、5、7に挙げられている枢軸軍の鉄道輸送力を1に(2ではなく)、ソ連軍の鉄道輸送力を3に(4ではなく)変更します。
2.前線予備(2.3c)のSPは2(5ではなく)であるべきです。ソ連軍の増援到着表も修正の必要があります。
3.シナリオ7【のセットアップ】で、ドイツ軍のワゴンエクステンダーの位置を【29.29ではなく】32.25へ、また40.15のスタックを39.16へと移動させます。


マップ:
1.沼ヘクスとみなされるためには、青い線によるシンボルと、緑色がかったまだらの領域の両方がなければなりません。11.01、19.20、23.19、30.19、32.19、44.05はすべて、平地です。対して、20.19は沼です。


カウンター:
1.2個のドイツ軍歩兵師団の移動モードの数値が間違っていました。第35歩兵師団は10-4-5で、第78歩兵師団は10-5-6です。【訳注:『Hungarian Rhapsody』に訂正カウンターが同梱されました】


ソ連軍増援到着表:
1.9月1日ターンに到着する戦車大隊の能力値は4-2-4です(4-1-4ではなく)。
2.8月1日ターンに到着する第57戦車師団の能力値は16-1-3です(16-0-3でなく)。


<2020/11/25追記>
 またたえさんが気付かれました。BGGでも確認しました。

・シナリオ5で、ソ連軍の29.01に配置されるように指定されている12-1-3 Tk Div (55)ですが、正しくは14-1-3です。

<追記ここまで>

 枢軸軍の補給源の件は、以前拙ブログに書いてまして(OCS『Smolensk』入門シナリオの補給を考える (2018/07/28))、当時古角さんにThe Gamersの方へ質問してもらって答えをもらっていたのですが、今回気付いたことが!

 枢軸軍の補給源は、盤端の「道路か鉄道線」であって、小道は含まれていなかったのですね! そこんところずっと勘違いしてました……。

<2020/10/28追記>

 たえさんから、「エラッタ6項で37,35が補給源と明言されているので小道も補給源として良いのでは」と指摘をもらいました。確かに……。

 「小道はダメかも」と思ったのは、と「ヘクス11.33を通っている鉄道線は枢軸軍の補給源ではありません。」というエラッタの表現からすると、小道も補給源になるならば、10.32が補給源でないことを指定できないのではないか、と思ったからなんですが……。

 あと、OCSでは、「RoadはOK」と書かれた場合、「ということはTruck(小道)は不可だよ」という例が結構ある(そうでない場合もある)からでもありました。

 まあ、一応、小道もOKということでしょうかね~。

<追記ここまで>

 シナリオ7の件は、以前BoardGameGeekで質問したものでした(OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』シナリオ7の受給問題についてGeekで質問してみました (2018/11/14))。


 シナリオ7の件以外は、まあそれほど致命的ではない件のようにも思えます。

 興味深いのは、シナリオ5.1と5.2(最初からのキャンペーンとその短期シナリオ)でソ連軍のセットアップを微調整できるというオプションが入ったことです。これはドイツ軍の初動ムーブがプレイヤー達によって研究された結果、最初の数ターンでソ連軍が崩壊してしまうような事態に立ち至ったからではないかと思われます。

 我々のプレイでは全然そこまで行っておらず、ドイツ軍は泣き言しか言っていない状況なのですが、将来的には「このオプション入れないとソ連軍崩壊しちまうからなぁ!」とかって言えるようになるのでしょうか。そうなりたいものです(^_^;



 あと、たえさんからは「カウンターシートにはYak.1のユニットが1個しか入ってませんが、7月22日ターンから始まるシナリオ3にはYak.1が1個セットアップされており、ソ連軍増援到着表の8月1日ターンにはYak.1が1個増援で到着することになっていますけど……」という質問が来てまして(いつもながら細かいことに気付くたえさんに「すげぇ……!」と思わざるを得ません(^_^;)、この件は最新のエラッタには書かれていなかったので、BGGの掲示板をちらっと見てみて、この件に関して出てなさそうなら質問してみようと思います(答えは追記します)。

<2020/10/28追記>

 BGGに質問してみて2日くらい経ち、「Yak.1は1枚しかないので、シナリオ3&4では数ターン早くソビエトのYak.1が来ると考えていいでしょう。」というような答をもらいましたが、うーん?

 まだ分からないですが、恐らくはOCSチームの方でも把握していなかった問題なのではないかと……。

 もしシナリオ3か4をプレイしていてYak.1が2枚必要な状況になったら、とりあえずはプレイヤー間で相談して決めるということでしょうかね~。

<追記ここまで>

<2020/01/23追記>

 また、たえさんが見つけられました。シナリオ5の特別ルールで、ドイツ軍の専用トラックは基本的に空であり、プレイヤーが選んで2個だけを満載状態とする、とあるのに、39.28の第18自動車化歩兵師団の専用トラックは満載表記となっているが……? というものです。

 まあこれは、特別ルールが正しく、満載表記('F')がミスなのだと思います。一応BGGの掲示板に書いてみましたが、反応はありませんでした。とりあえず'F'を赤線2本とかで削除しておくと良いと思います。

<追記ここまで>

<2022/12/19追記>

 私が作ったサンセット和訳に間違いが見つかりました。申し訳ありません……。

2.3e 作戦上の制限  ソ連軍ユニットは陣地を建設できず、8月1日ターンより前には戦略移動モードを使用できません。


 とありましたが、これは↓が正しい文章となります。

2.3e 作戦上の制限  8月1日ターンより前には、ソ連軍ユニットは陣地を建設できず、戦略移動モードを使用できません。


 元の和訳では、ソ連軍はゲーム中ずっと陣地を建設できないかのような日本語になっていましたが、正しくは8月1日ターンからは陣地を建設できます。

 サンセット和訳をお持ちの方は、赤ペン等で修正しておいて下さいませ……。

 他にもミスを見つけられた方がおられましたら、些細なものでもお知らせ下さい!

<追記ここまで>

小土星作戦:イタリア軍戦線に配備されたドイツ軍第318歩兵連隊について(付:OCS『Enemy at the Gates』)

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を読んでいってるんですが、いよいよ小土星作戦のところに入ってきました。

 小土星作戦は、OCS『Enemy at the Gates』(1994年)ではシナリオ化されているのですがそのバージョンアップ版のOCS『Case Blue』(2007年)ではシナリオ化されておらず(『GBII』のユニットが必要になるのが原因だと思われます)、私は『Case Blue』で小土星作戦をプレイしてみたい気持ちがあり、『Case Blue』用の小土星作戦シナリオを作りたいので、そのための情報を収集しなければなりません……。

 で、同書に、その時イタリア軍戦線にいたドイツ軍第318歩兵連隊についての詳しい記述があったので、引用してみます。


 ↓OCS『Enemy at the Gates』のVASSALモジュールから。

unit9596.jpg

 このVASSALモジュールなんですが、古いバージョンは自力でセットアップしなければならないのですが、2020年に入ってから新しいバージョンがアップされ、修正されていってまして、こちらはシナリオ毎にセットアップされた状態で始められるので大変ありがたいです(>_<)。VASSALモジュールをバージョンアップされたのはHerman Wu氏とJeff Coyle氏で、OCSチームのVASSALモジュール担当の方々です。OCSルソンの関係で少しやりとりをさせてもらいました。Jeff Coyle氏はOCSルソンのVASSALモジュールを作って下さり、Herman Wu氏はOCSルソンをソロプレイしてくれました(ありがたや!(T_T))


 さて、ドイツ軍の第318歩兵連隊ですが、画像の真ん中やや下の4-4-3 Brkdwnです。Bogucharに司令部のあるイタリア軍第2軍団の麾下で、Cosseria師団とRavenna師団の間に配置されていました(画像は字が潰れていて分かりにくいですが……)。

 【このイタリア軍戦線の】唯一の機動予備は第27装甲師団であったが、同師団は種々雑多な戦車を全部合わせても47輌しか持っておらず、しかもこれまでの戦闘ですでに疲弊の極にあった。それゆえ、この戦区のイタリア軍全体のための実際の機動予備は非常に弱体であり、言い替えれば戦術的レベル以上の効果的な反撃は望み得なかった。第17装甲師団は当初イタリア軍(ARMIR)の背後で機動予備となるように意図されていたが、既にスターリングラードポケットへの救出作戦【冬の嵐作戦】のために南方へ移動されていた。もう一つの弱点は【ドイツ軍の】第318歩兵連隊で、約3,000名(その多くはウクライナ人で、以前ロシア軍の捕虜収容所にいたか、あるいは戦闘経験のない年嵩の男性達であった)から成っていた。同連隊は8~9kmの前線を守備するために11月下旬に到着したばかりで、しかもドイツ軍司令部の指示により - イタリア軍は反対したのだが - その3つの大隊が敵に非常に近い最前線に配置され、高地を利用することも縦深を確保することもされないでいたのである。さらに悪いことに、彼らの戦区の地形はソ連軍の浸透と戦車を配置するのにうってつけであった。この第318歩兵連隊はコッセリア師団とラヴェンナ師団の間に割り込むように配置されていたが、12月15日にソ連軍の【小土星作戦の】主攻勢が始まる前に、ラヴェンナ師団との連絡線はすでに失われてしまっていたのだった。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P154,5



 この情報によればAR4というのは高すぎる気はしますが、一方で地形の問題は、細かい特別ルールでも導入するのでなければ反映しにくい話ではあります(^_^;

 まあとりあえず、小さなことからコツコツと……。

OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーン、第2ターン後攻ソ連軍をプレイしました

  以前からOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』キャンペーンのプレイを開始してまして、今日の尼崎会でワニミさんと共に第2ターン後攻ソ連軍をプレイしました(体調を慮ってそれだけで終了)。


 ↓プレイ開始時。

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 ↓プレイ終了時。

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 これまでの1.5ターンは私はオブザーバー的に参加していて、今回が初めてのがっつりプレイ参加となりました(南半分を担当)。


 今回のプレイは作戦的にはどうこう言えるほどではないのですが、「防御側のプレイテクニック」としてこれまでの経験から色々考えるところがあり、それらに拠ってプレイしたので、そこらへんの指針?を書いてみようと思います。


・まずは小包囲されてしまったユニットをオーバーランで救えるかどうか考える。無理そうなら12.8eの「脱出」を考慮する。

・包囲下にある自軍ユニットでできるだけ長く抵抗を続けて欲しいヘクスには、SPの空輸ができないか考慮する(今回ならばモギレフ)。

・次ターン以降包囲下に陥りそうな重要拠点にはSPをある程度集積しておく(今回ならばオルシャ)。

・敵にある程度近いところには戦線があった方がいい。戦線がないとノーコストで小包囲や突破をされてしまう(今回のオルシャ周辺やビハウ周辺)。

・敵が小包囲や突破をしそうな箇所の周囲に、機動予備(戦車ユニット等)を置いておく。これらの機動予備が小包囲されてしまうと燃料を入れられなくなるので、SPも抱えておくべし(今回ならばビハウ南東やオルシャ東方、スモレンスク南西)。

・敵による小包囲や突破が避けられそうにない戦線では、敵から遠くなるほど弱い戦線にしておく。そうすれば敵はその遠くの弱い戦線を突破するために戦闘モードを移動モードにしなければならないし、守らなければならない側面が多くなる(その守らなければならない側面に、こちらの機動予備を置く)。

・次ターン以降、敵によって小包囲されてしまって損耗チェックで死ぬだけが予期されるような場所には自軍ユニットは置いておかず、退却した方がよい。

・敵からある程度遠いエリアでは、地形を効果的に使用して守る。隘路などで数ヘクスの選択の余地がある時には、より敵から遠いヘクスを選んで守備する。その方が、敵がオーバーランをするための移動力が足りなくなったり、戦闘補給を支給する距離が足りなくなったりする可能性が高くなる。

・再建可能な高いARユニットはなるべく戦闘必至な場所に送り込み、壊滅→再建してまた前線に投入する。

・戦闘が起こりそうな場所の周囲には砲兵を置いておき、予備モードにする(リアクションフェイズに砲撃できるので)。

・戦闘機はなるべく多くの航空基地に分散して配備する(集中して配備すると、一度の制空戦闘で複数ユニットがやられてしまうので)。


 特に、「あらかじめSPを抱えておく」というのは重要だと思います。攻勢側でも、反撃を受けそうな槍の先端部分や側面の部隊は、可能ならばSPを抱えておくべきだと思われます後方連絡線を断たれてから攻撃を受けると内部備蓄を使用しなければならなくなり、SPを倍返しするハメに陥る)。


北アフリカ戦線:イギリス軍のベレスフォード=ピアース将軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦線の将軍達について手に入った資料でまとめていくシリーズの続きです。


 これまでの「北アフリカ戦線:」エントリは↓こちら。

北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ (2018/10/31)
北アフリカ戦線:イギリスのチャーチル首相について、まとめ (2018/11/02)
北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』) (2019/01/14)
北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)
北アフリカ戦線:イギリス軍のオコーナー将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』) (2020/04/10)
北アフリカ戦線:イギリス軍のニーム将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2020/04/16)


 最近購入した『Churchill's Generals』と『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』でウェーヴェルやオコーナーについて追記していくべきでもありますが、とりあえずは時系列順に他の将軍についてのエントリを増やしていくことを優先します。


 さて、次の将軍なんですが、イギリス軍のカニンガム将軍についてまとめようとしたのですが、以前から作りかけであった「北アフリカ戦タイムテーブル」の図をいじっていたら、その前にベレスフォード=ピアース将軍についてまとめなければならないことが分かってきました。

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 ロンメルの第1次攻勢でオコーナーとニームが捕虜になってしまったあたりのイギリス軍司令部の経緯は↓こちら(OCS『DAK-II』:英連邦軍の軍団司令部について (2019/01/23)から)。今回のベレスフォード=ピアース将軍は第4インド歩兵師団長であったりしたので、そのあたりの記述を青色で塗ります。

 1940年7月17日、イギリス第6歩兵師団の司令部が西方砂漠軍の司令部として指定された。この組織はイギリス第7機甲師団と第4インド歩兵師団によって構成された。西方砂漠軍の指揮官はリチャード・ヌージェント・オコーナー少将であった。

 1940年9月、イタリア軍によるエジプト侵攻の時、西方砂漠軍は約36,000名の兵士と65輌の戦車を持っていた。

 1940年12月初旬から1941年2月のコンパス作戦の期間中、西方砂漠軍の突破により膨大なイタリア軍が捕虜となり、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの有名な【バトル・オブ・ブリテンに関して】「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって救われたことはなかった」という言葉をもじってアンソニー・イーデン【外相】から「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって捕らわれたことはなかった」という言葉を頂戴することになった。12月14日から、東アフリカに引き抜かれた第4インド歩兵師団に代わって第6オーストラリア師団が加わった。

 西方砂漠軍は1941年1月1日に第XIII軍団という名前で呼ばれることになった。1941年2月までに、キレナイカに残っていたイタリア軍はバルボ街道を退却中であり、イギリス第7機甲師団と第6オーストラリア歩兵師団がそれを追撃していた。イタリア第10軍の降伏によってコンパス作戦が終了した2月には第XIII軍団は解散され、その職責は平穏時の司令部であるキレナイカ兵団司令部【HQ Cyrenaica Command】に引き継がれた。その結果、西方砂漠において連合軍は防御態勢に移行し、中東司令部は4月のギリシア戦役に注力することとなった。

 ひまわり作戦でエルウィン・ロンメル麾下のアフリカ軍団によって北アフリカのイタリア軍が増強され、ロンメルの前進によってキレナイカ兵団長(General Officer Commanding:GOC)であったフィリップ・ニーム中将が捕虜になると、4月14日に西方砂漠軍がノエル・ベレスフォード・ピアース少将の元で再び活動状態にされて西方砂漠のイギリス連邦軍の指揮を執り、エジプト・リビア国境で枢軸軍の前進を停止させた。
英語版Wikipedia「Western Desert Force」



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 ↑OCS『DAK-II』の英連邦軍司令部ユニット


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 ↑OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団ユニット


 ベレスフォード=ピアース(Beresford-Pierse)将軍ですが、「ベレスフォード=パース(Beresford-Peirse)」と表記されることもままあるようですが、そこらへんよくわかりません。

 写真はWikipedia上では見つかりませんでしたが、Wiki Tree上で見られます。


 まず彼は、第4インド歩兵師団長時代に非常に活躍し、大きな名声を勝ち取ったのですが……。

 【……】1938年から第4インド師団の砲兵部隊を指揮し、1940年初頭に同師団がエジプトに移されるのに伴って同地へ赴任。【……】ウェーヴェルの発案による「訓練演習」として、エジプトのイタリア軍野営地がオコーナーの西方砂漠軍によって攻撃され、見事に打ち破られた時に、ベレスフォード=ピアースは第4インド師団の指揮官を務めていた。

 この一連の大勝利、特に第4インド師団のニベイワ陣地への突撃と大戦果は、ベレスフォード=ピアースが優秀な指揮官であるとの評価を確立した。エチオピアに転戦し、第4インド師団を率いてケレンの戦いに参加、その名声を高める。「堅実で赤ら顔の、葉巻を吸う砲兵」(Barnett, 1983, 38)は大衆の想像力をかきたて、同僚達の間では「ナポレオンに次ぐ本当の大人物」(Greacan, 1989, 162)として尊敬を受けた。1941年4月に西方砂漠に戻った彼はナイトの称号を与えられ、中将に昇進して西方砂漠軍の司令官となった。

 彼の任務は単純であった。戦略的主導権を回復し、包囲されていたトブルク守備隊を解放し、枢軸軍をキレナイカの奥深くまで追い詰めることである。機甲部隊を増強された彼は、1941年6月の攻撃(バトルアクス作戦)でこれらすべてを達成することを望んでいた。ところが作戦は失敗した。あまりにも多くのイギリス戦車が故障とドイツ軍の対戦車砲で失われ、深い失望の中で、辛辣な批判が投げかけられた。ウェーヴェルは中東軍司令官を解任され、その3か月後に「名声が損なわれた」(Dill, 2nd Acc., LHCMA)ベレスフォード=ピアースは西方砂漠戦域から解任され、スーダン戦域の司令官となった。
『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』位置No.1125/8068



 彼はブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の指揮を執ったのですが、その時のやや詳細な記述はこちら。

 【ブレヴィティ作戦の時】 ベレスフォード=ピアース将軍が全体と後方の指揮をとった。
 【……】
 この作戦【ブレヴィティ作戦】は5月15日に始まった。イギリス軍は当初成功を収め、ハルファヤ峠とカプッツォ砦を占領した。この時、近くにいたドイツ軍部隊が撤退した後も、ベルサリエリが残っていた。ベルサリエリが気がついた時には400ヤードの距離にマチルダがいた。彼らの47mm対戦車砲ではその装甲を撃ち抜けず、マチルダが彼らのいた低い石壁を乗り越えてきた時、目標をその履帯と車台に変更した。このやり方で7両のマチルダが撃破された。
 ロンメルが敵の弱さに気付いて反撃を準備し、バルディアに置いていた予備と第8装甲連隊を差し向けてきたため、英連邦軍は退却を余儀なくされた。ゴットもそのことに気付き、すんでのところで退却の命令を出したが、それはベレスフォード=ピアース将軍による留まれという命令を無視してであった。ゴットはハルファヤ峠は維持したが、占領した他のすべての地点は放棄した。
『Rommel's North Africa Campaign』P70

 「バトルアクス(戦斧)作戦」と名付けられたこの攻勢は、ノエル・ベレスフォード=ピアース中将の第13軍団司令部によって統轄指揮され、マイケル=オムーア・クレアー少将の第7機甲師団に所属する3個旅団(第4、第7の2個機甲旅団と第7支援旅団)と、フランク・メッサーヴィ少将の第4師団に所属する2個旅団(第22近衛、第11インド)が、50機のホーカー・ハリケーン戦闘機に支援されながら、それぞれ与えられた目標に向けて前進した。
 【……】
 6月16日、敵の攻撃部隊の連携があまり上手くとれていないことを見抜いたロンメルは、第5軽師団と第8戦車連隊で反撃を行うことを決定し、敵の第4と第7機甲旅団の中間部に兵力を集中する形で、逆襲に転じるよう命令した。10キロほど離れた場所で戦っていた第5軽師団と第8戦車連隊は、すぐに同一歩調の行動をとることができず、それぞれ夕方まで目前の敵との交戦を続けたが、翌6月17日の朝、両部隊は英連邦軍の間隙をすり抜けて、英連邦軍の背後へと浸透することに成功した。
 ロンメルが常套手段とする、こうした敵背後への浸透を初めて経験したクレアーとメッサーヴィは、自軍部隊の背後に突然敵の戦車が現れたことでパニック状態に陥り、上官のベレスフォード=ピアースからの許可を得ないまま、麾下の部隊に攻撃中止と反転を命令した。この日の午後、戦況を確認するために第13軍団司令部を訪問したウェーヴェルは、既に攻撃部隊が東への退却を開始していると知らされ、愕然として言葉を失った。
『ロンメル戦記』P243


 どちらの時も、ベレスフォード=ピアース将軍は「とどまれと命令」あるいは「退却の命令は出していない」のを部下達が無視して後退しているのですが、イギリス軍としてはどっちがよりマシだったのかは、資料からは良く分かりませんですね。


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 ↑OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオのセットアップ



 当時のベレスフォード=ピアース将軍の力量に関しても良く分からないのですが、両作戦の失敗の要因は、準備不足にあったようです。

 最終的な分岐点となったのは、北アフリカ戦役のさらなる展開によってであった。4月下旬にドイツ軍の戦車がトリポリに到着したというニュースを受けて、チャーチルは「タイガー」船団を地中海に急行させ、ウェーベルのための238輌の新しい戦車が5月12日にアレキサンドリアに到着した。特にウルトラがロンメルの兵站の劣悪な状態を明らかにしたことから、チャーチルはこの「虎の子達」がすぐに使用されることを期待していた。ウェーベルは攻勢に出ることを意図しており、新しく到着した戦車によって損失が回復できることを期待して5月15日にブレヴィティ作戦を開始した。残念ながらブレヴィティ作戦は失敗に終わり、6月15日に新型戦車を投入して行われた次の作戦であるバトルアクス作戦も失敗に終わった。実は新しい戦車の多くには深刻な機械的欠陥があったし、ウルトラはドイツ軍の質的優位性に関しても、またロンメルがどのように88mm高射砲を対戦車の役割で配備して攻撃を鈍らせるかに関しても、明らかにすることができていなかったのである。チャーチルはウェーベルが抱えていた問題に同情を示さず、またバトルアクス作戦の指揮官としてベレスフォード=パース中将を選任したことに批判的であった。ウェーヴェル自身この大失敗に非常に苦悩し、この時が第二次世界大戦中にただ2度だけあった、彼の鋼鉄の自制心が崩壊した時の1つとなった。ロンドンにこの失敗が報告され、ウェーヴェルは1941年6月22日に解任の電報を受け取った。
『Churchill's Generals』位置No.1729/8469


 枢軸軍は燃料不足と、連絡線に危険なほど近いトブルーク守備隊の存在が、戦闘の小康状態をもたらした。これは6月15日まで継続したが、ベレスフォード=パース将軍が指揮する第13軍団が、国境からデルナまで枢軸軍を後退させ、トブルクを解放することを狙ったバトルアクス作戦を実施した。ところが、準備のための時間が足りなかったことが大きな原因で、この攻撃は成功しなかった。装備の多くは戦場に到着したばかりであり、戦闘に備えて装備を準備したり、それを指揮する新チームを編成したりするための充分な時間がなかったのである。
『Churchill's Generals』位置No.4219/8469


 「北アフリカ戦タイムテーブル」を見ると、クルセイダー作戦やガザラの戦い(ヴェネツィア作戦)の前には非常に長い休止期間があるのですが、ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の前にはそれが全然ないことが良く分かります。逆に、ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の失敗により、「長い準備期間が必要である」ということが分かったのかもしれませんね。

 エル・アラメインの戦いの場合には、やや間隔が短いですが、これは英連邦軍が続々と増強されつつあったため、ロンメルが「今のうちにやらないとやられる」というプレッシャーの中で攻勢を発動した……ということが大きいようにも思われます。

 ブレヴィティ作戦の場合には、ウェーヴェルが「ドイツ軍側に第15装甲師団が到着することをことを知って、早めに攻勢をかけることをチャーチルに申し出た」という経緯があったようです。
 

一方、キレナイカのほぼ全域を敵に奪い返されたとはいえ、要衝トブルクを手中に保持していたウェーヴェルは、ドイツ軍上級司令部間の暗号通信を解読した情報「ウルトラ」を通じて、ロンメルが第一次トブルク攻撃の失敗によって苦しい立場に立たされていることを察知していた。
 そして、ドイツ・アフリカ軍団を構成する第二の師団である、第15装甲師団の上陸が着々と進んでいることを憂慮した彼は、敵の兵力が増強される前に、トブルクとの連絡を回復し、敵に打撃を与えるべきだとの結論に達し、英首相チャーチルの許可を得て、エジプトとリビアの国境で限定的な攻撃【ブレヴィティ作戦】を実施する準備に着手した。
『ロンメル戦記』P234



 ただし、バトルアクス作戦の場合には、チャーチルに要求された面が大きかったようです。

 「ブレヴィティ作戦」の失敗と、要衝ハルファヤ峠の失陥により、ウェーヴェルの自信は大きく揺らいだ。彼は、キレナイカのドイツ軍が既に容易には打ち崩せないほど強化されていることを実感し、当面は攻撃を控えて兵力を蓄積するのが良策だと考え始めた。
『ロンメル戦記』P238

 1941年6月、イギリス連邦諸国軍は戦車400両の増援を受け、ロンメルの率いる独伊軍に大攻勢を掛けてきた。これがイギリス中東方面軍司令官、ウェーヴェル将軍の構想になる戦斧(バトルアックス)作戦である。ウェーヴェルはもともとこの時点でロンメル軍に攻勢を掛けるつもりはなかったのだが、パウルス将軍が前月に総司令部に提出した報告書が解読され、これに目を通したチャーチル首相が、エジプト国境にいる敵軍が軽装備であることを知り、ウェーヴェルに攻撃するよう圧力を掛けたのである。
『ロンメル語録』P133

 英戦時内閣の首班チャーチルからの強いプレッシャーを受けたウェーヴェルは、仕方なく新たな攻勢計画の立案に着手した。だが、出来上がった計画の内容は、この攻撃に対する彼の「乗り気のなさ」を物語るような、工夫のない単調なものだった。前回失敗に終わった「ブレヴィティ」作戦と同様、今回も兵力を三手に分けて、平行して前進させるという手法を用いていたのである。
『ロンメル戦記』P239



 これらの流れにベレスフォード=ピアース将軍がどう関与していたかは、記述を見つけられないので全然分かりません。

 スーダンに左遷?された彼はその後インドに移され、インド独立までそこで仕事をし、引退したようです。

1940年フランス戦:イギリス大陸派遣軍(BEF)司令官であったゴート卿について

 先日の尼崎会で、若い人達3人が『ドイツ戦車軍団』の「ダンケルク」をプレイしている時に、肉入り鍋さんが「イギリス大陸派遣軍(BEF)の司令官って誰だったんですか?」と聞いてきました。

 私は「えーと、ゴート卿……だっけ?」と答え、文献でそうであることを確認したのですが、肉入り鍋さんが「ゴート卿ってどんな人物なんでしょう? 人物像について、読んだ記憶がほぼないですけど」というようなことを仰ってました。

 私は一時期から、第2次欧州大戦の陸戦の将軍の人物像についての記述を見つけたらそれを収集するようにしているのですが、ゴート卿の人物像については全然覚えてませんでした。ので、これを機会にゴート卿について一度まとめてみようと思いました。

 まとめてみた結果ですが、結論から言いますと、ある面では指揮官として有能でありつつも、かなり変な側面もあった人物のようだなぁと思いました。


General the Viscount Gort Vc, Gcb, Cbe, Dso, Mvo, Mc Art.IWMARTLD730
 ↑ゴート卿(Wikipediaから)



 まずは、事典形式の短い記述のものから。大戦前の出世の早さは異常なほどだったそうです。

ゴート/John Gort(1886~1946) イギリス陸軍元帥。第一次世界大戦中
、第1近衛歩兵連隊長として卓越した働きを示し、ビクトリア十字章を贈られた。1937年帝国参謀本部長に昇進、1939年イギリスのヨーロッパ派遣軍司令官としてフランスに赴任した。ドイツ軍の電撃的進撃に対し効果的な対抗措置はとれなかったが、1940年5月にダンケルクからの撤退に際し、派遣軍を脱出させることで功績をあげた。後にマルタ島総督となったが、同島に対する枢軸国軍の攻撃から島を守るため努力し、またパレスチナおよびトランスヨルダンの高等弁務官をも努めた。
『第二次世界大戦事典』P185

ゴート、ジョン(英、陸軍元帥 Gort, Field Marshal John) 1886-1946
第1次大戦の戦功を華々しく賞されていたゴート卿は、大戦間の時期、インド軍訓練司令官(1932)、キャンバリー陸軍大学校校長(1936-37)を歴任した。1937年に陸相ホーアベリシアによりゴートは帝国陸軍参謀総長に進められ、1939年フランス派遣イギリス軍総司令官としてフランスに赴任した。彼は想像力に欠け、組織上の些末事に拘泥する癖があったが、にもかかわらずフランス戦線でのゴートの統率は、その見事な先見性を示すものがあった。現在地点での戦闘継続を示された時も、ゴートは後退の時期を正しく捉え、時を逸することなく大軍をダンケルクから無地脱出させることに成功した。この撤退の後、ゴートは戦場を離れ、ジブラルタル総督となり、ついでマルタ島の総督兼総司令官となった(1942)。マルタ島防衛に当たって、彼はその勇気と決断力を遺憾なく発揮した。終戦時はパレスチナ総督。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P292



 次に、映画『ダンケルク』の考証本から。モントゴメリーの話が出てきますが、彼はイギリス大陸派遣軍(BEF)の中の第3歩兵師団長でした。パウナルというのはBEFの参謀長です。



 要するに、イギリス海外派遣軍がフランスに渡ったときには、戦争に臨めるような状態ではなかったのだ。
 にもかかわらず、1939年11月、海外派遣軍司令官のゴート卿はジャーナリストのジェイムズ・ランズデール・ハドソンに向かって、「この戦争のなりゆきについて、気がかりは微塵もない」と語っていた。卿は楽天的な男で、なんとか国民を元気づけたいと考えていたのだ。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P111


 自らの采配について、ゴート卿は何年にもわたり、厳しい批判を受けることになった。とりわけ辛練な批判をしたのがバーナード・モントゴメリー少将で、少将は申し訳程度に卿を称賛しながらも、そこかしこに批判をちりばめた。いわく、 卿は非常に好感の持てる人物で、温かい心を持つ友人だが、利口ではない。卿は軍の管理のことなど少しも気にかけていないし、そもそもこの職務を引き受けるべきではなかった、と。「卿は兵士が何を着て、どんなブーツを履いているかということについてはなんでも知っていた」が、「その職務は彼の限界を超えていた」と少将は書いている。
 モントゴメリーの最大の不満は、卿が司令部を混乱させたことだった。 「誰がどこにいるのかも全然わからなかった」と彼は記している。この問題の原因は、卿ができるだけ自軍の行動を身近に感じたいと考え、通常ふたつのところ、総司令部を三つに分割させたことにあった。結果として、腹立たしいほどの通信の機能不全が起きた。「ようやく通信を確立できたと思っても、こちらが用のある将校や部門は、残るふたつの司令部のどちらかに存在すると知らされるだけだった」と、第1軍団参謀のひとりは書き残している。

 ゴート卿はイギリス海外派遣軍の総司令官だっただけでなく、 陸軍司令官としてフランス当局の複数の階層に対して釈明義務を負っていたため、その職務は巨大かつ複雑だった。そのため、イギリス海外派遣軍につつがなく任務を遂行させ、フランスの動向と意図を監視するには、効率的な通信が不可欠だった。とはいえ、卿が即席の部隊を組織したことから、この状況に率先して対処するつもりがあったことがわかる。軍を南に動かしたことの重要性は後日証明される。そして、5月19日の卿とパウナルの議論のなかで、ひとつの着想が生まれた。その着想がもたらした結果は、今日も私たちとともに生きつづけている。
 ゴート卿が見たところ、イギリス海外派遣軍には三つの選択肢があった。ひとつ、北と南から同時におこなわれる反撃に参加して、ドイツ軍の前進を跳ね返し、防衛線を維持すること。ふたつ、補給線を残しつつ、ソンム川沿いの戦線まで後退を試みること。もしくは三つ目の、一見最も無謀だが、おそらくは唯一の理にかなった選択肢。運河や河川の水際線に守られながら北西に進み、ダンケルクを目指すこと。そこからならイギリス本土に脱出できる。
 この大胆な作戦を採れば、ほぼまちがいなく、イギリス海外派遣軍の武器や装備の大半をフランスに置き去りにすることになる。連合国であるフランスとベルギーからは背信行為と答められるかもしれないし、それだけでなく、イギリス海外派遣軍の切羽詰まった窮状を理解していない国民から反発を食らうかもしれない。案の定、パウナルが陸軍省に電話して作戦部長に計画を伝えたところ、返ってきた反応は「馬鹿げていて、なんの役にも立たない」というものだった。
 それでも、 卿はいかなる犠牲を払ってもイギリスを守ると決意していた。イギリス軍には管理上の欠点があり、卿はフランス軍がドイツの装甲師団に対抗できるとも信じていなかった。こうして彼は、参謀とともにダンケルクへの退却計画を練りはじめた。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P187~9




<2020/10/13追記>
 そういえば『モントゴメリー回想録』を持っているのを忘れていました(^_^; ので、同書からゴート卿に関する記述を探してみました。

 しかし、ホア-ベリシャ陸軍大臣はゴート将軍を推した。この人は参謀総長としては全く無能だったが、1939年9月の戦争突発まで、その職についていた。
『モントゴメリー回想録』P31

 ゴート将軍は大へんに朗らかな情義のあつい気楽な人物で、何事をするにも誠実で卑劣なことや不正のできない人だった。部隊将校の模範的なタイプで、兵隊のことについては服や靴のことから戦場での小単位の戦術まで、何でも知っていた。これまで彼が指揮した最も大きな部隊は、歩兵旅団であった。才気かん発ではなかったが、補給についても、いやがらずに処理する人で、戦闘に専念し、前線の斥候の行動にはとくに熱心という風格の持ち主であった。
 ゴート将軍はアバルクの周辺に総司令部を設定し、各担当の司令部は13か村約50平方マイルにもおよんだ。このように分散した組織では、通信網の配置が大へんだった。いったいだれがどこにいるのかわからず、当初から指揮をとるのに困っていた。
 1939年9月、ゴート将軍がヨーロッパ派遣軍総司令官に任命されたのは、誤りであったとつねづね私は思ってきたが、その職は彼には無理であった。1939年9月3日付けでホア-ベリシャが署名した総司令官宛て命令を読むだけでも、彼が適任か否かわかる。この命令は派遣軍の構成についてかなり詳細に述べておりこうした複雑な問題を処理させるにはゴート将軍よりすぐれた人物に任せるべきだった。さらにこの訓令では不可能なことをやるよう要求されていた。彼の本部は総司令部として行動しなければならず、同時に隷下の戦闘部隊および補給部隊を直接指揮しなければならなかった。
『モントゴメリー回想録』P43,4

 ゴート将軍は、それからほとんど不可能な任務に直面することになった。勇敢に任務に取り組み、最善を尽くす努力をしたとはいえ、これまで見てきたように、当然やらなければならないことが行われなかった。あえていえば、参謀の選択が賢明でなかったといえよう。すぐれた参謀が少なかったといえる。彼は先の先まで見通せる人物ではなかったが、その見通しのきく範囲内では、非常にはっきりと観察できる人だった。英仏両軍の上に危険が爆発し、次第にそれが激烈に発展して行くにおよんで、それがどんな結末になるかを彼は敏速に読み取ったのであった - フランス軍は分裂するだろう、そこで英軍を、できるだけ多く本国に帰還させなければならないと。ダンケルクを経て引き揚げる計画は、私の知る限りでは5月21日ごろから始まった。その後ゴート将軍は、決して動揺しなかった。彼の見極めていることだけが正しく、かつ正当であるという考えをもって、それ以外の見解を受け入れなかった。
 【……】
 ゴート将軍は、少なくとも英派遣軍の将兵を兵器とともに、英本国に帰還させなければならないことを、はっきりと見通していた。これは満点だったと思うし、後世の史家もそのように評価することを望む次第である。ゴート将軍は英派遣軍を救った。彼らが救われたがゆえに、後日ドイツが思い知ったように、英軍はある目的に向かって再び戦い、それを成就したのであった。
『モントゴメリー回想録』P58,9


<追記ここまで>


 ここまでが今まで持っていた資料からのものなんですが、次に、先日購入した『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』から。記述がすごく興味深いです。買ってよかった!(^^)



 しかし、あれほど楽々と見えるほどの異例の出世を後押ししてきた彼の資質と環境が、その後の彼に対しては真逆に働いた。兵士としては彼は勇敢な指揮官であったが、大隊より上のレベルの指揮を執った経験がなかった。政治的な将軍としては、彼は神経質で嫉妬深い人物だった。
 【……】
 多くの者達を驚かせたが、恐らくはゴートを陸軍省から追い出したいというホア=ベリシャ【陸軍大臣】の単純な動機で、彼はBEFの司令官に任命された。休みの日にお出かけする小学生のような気軽さで(Kennedy, 1957, 20)、彼はアラスの総司令部で悪名高いスパルタ体制を確立した。そこでフランス軍の将軍達と良好な関係を築き、参謀長のパウナルは彼に忠実に仕えていたものの、麾下の軍団司令官達やディル【帝国参謀本部副本部長など】、それにブルック【BEFの第2軍団長】の尊敬を得ることはできなかった。彼の子供じみたユーモアのセンス、やたらと細かいことにこだわる神経質さ、先見の明のなさに苛立った彼らは、大隊より上のレベルの指揮は「彼の知的レベルを越えている」と判断した(Bond, 1980, 331)。パウナルはゴートのニックネームが「タイガー」であると言いふらしたが、兵士達は彼を「ファット・ボーイ」と呼び続けた(Harris, 1980, 16)
 【……】
 大規模な降伏を避ける唯一の選択肢が大陸からの撤退であることを見抜いたリアリズムと、「精神的な強靱さ」を持っていたことは、一部の方面から賞賛された(Horrocks, 1960, 56)が、ゴートはロンドンからの命令を無視し、自分の意図に関して同盟国フランスを欺き続けた。彼は「BEFを救った」(Colville, 1976, 226)かもしれないが、彼が総司令部を頻繁に留守にしたことで、退却中の指揮は混乱に陥った。彼の出す命令は多くはなかったが相互に矛盾しており、間に合わせの寄せ集め部隊に頼ることは、情報収集の妨げになるだけでなく、軍事的価値においても疑わしいものであった。最終的にBEFの指揮は、実際上、軍団および師団レベルで行われた。ダンケルク周辺への撤退が完了したため、モントゴメリーに「軍事状況を把握できていない」(Hamilton, 1982, 388)と評されたゴートは、帰国を命じられた。

 チャーチルの「勇敢なゴート卿」はすぐに主役を外れ、自分の報告書を書くことになった。この時帝国参謀本部総長であったディルは、彼【ゴート卿】のために軍監察長官というポストを作り、1941年4月に彼はジブラルタル総督兼司令官に任命された。そこで彼は坑道の増設を指揮し、植民地の滑走路を延長し、また息子の自殺を知った。1942年5月、彼はマルタ島の総督兼司令官に任命された。島はその時、戦地であり、ゴート卿は孤独で苦しみに満ちた男であったが、困難にうまく対処した。島民と同じ配給で生活し、移動手段は自転車で、彼は人気者になった。毎日のように政府庁舎のセメント製テニスコートを「約20分間」(Coward, 1987, 447)、急ピッチで上り下りしていたことが、彼の体重を24ポンド【約12.7kg】も減らすことに貢献したことは間違いない。チャーチルは、オーキンレックの代わりに彼を中東駐留軍司令官にしてはどうかとも思っていたのを、ブルック(その時の帝国参謀本部総長)に説得されて断念したが、1943年には元帥への昇進を勧めるだけの礼儀をわきまえていた。

 ゴートは今では疲れて病気になっていたので、引退することが望ましかった。しかし、「失敗した」司令官はロンドンから遠く離れた場所に置いておくという方針だったため、軍事的に僻地でありながら政治的な頭痛の種となっていたパレスチナに彼を置くこととなった。1944 年10月に高等弁務官および司令官としての任務を引き受けたもの、彼は1年もしないうちに病のため本国へ召還された。彼が患っていた癌は手術不可能と宣言され、1946年3月に彼は義理の息子の家で死去した。

 ゴート卿への評価は、毀誉褒貶が甚だしい。彼の経歴の軌跡が、それを物語っている。異常に早い昇進の後は、陸軍省における停滞であった。BEFを救ったことで彼に与えられた信頼は、当時の部下たちの厳しい意見によって相殺された。彼には偉大な司令官のような知性はなかったかもしれないが、イギリスのどの将軍にも劣らず戦闘を読むことができた。彼は「帝国参謀本部総長には不適格」だったかもしれない(Kennedy Diary, 4 / 2 / 2, LHCMA)が、その職にあった時のモントゴメリーも同様だった。彼は過度に宣伝されることはなかったし、「目の周辺が好奇心旺盛で野生的な顔つきをした統合失調症の人格」(Harvey, 1994, 746)と言われているのは、彼は単に写真写りが悪かったということなのだ。ジブラルタルやマルタ島での任務で疲弊した期間中に彼が見せた憤りは、自分が虐待されていると感じていた男の自然な、そしておそらく合理的な反応であった。彼はディルよりは長生きした。しかし、フランスで彼の下で指揮した者達の中で、歴史を書いたブルックとモントゴメリーが「勝者」となった。ゴート卿はそれを書く前に死んだから、「敗者」となったのだ。
『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』位置No.3124/8068



 この本でだいぶイメージが掴めてきた気がします。

 もう一冊、これも最近購入した『Churchill's Generals』には、さらに分量の多い、数ページに渡るゴート卿の項目があり、DeepL翻訳で流し読みしてみました。細かい話が出てきて興味深かったのですが、ちゃんと和訳するとなるとやたらめったら分かりにくい英文なのと、『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』のまとめ方が秀逸すぎて、もはや蛇足的なものになってしまう感があったので、基本的に訳出はなしで。ただ、ゴート卿が「細かいことにこだわる」ことに関しての具体的な話が面白かったので、そこだけ和訳してみました(BEF時代ではありますが、まだ戦争が全然始まってない時期の話です)。

【……】上級将校会議でゴート卿が最初に提起した問題は、鉄兜を頭に被っていない時には、それを左肩にかけておくべきか、右肩にかけておくべきかということであった。【……】ブルックがマジノラインを視察した後、フランス軍の前哨部隊の防衛システムの不備について議論しようとした時、ゴート卿は「ああ、それについて考える時間がなかったが、いいか、我々は土嚢の適切な配分を検討しなければならない」と答えた。将校達は総司令官【ゴート卿】から、ロケット弾の点火用紙の切り取り線や、凍結防止剤の混合物、あるいは伝書鳩の夜間飛行などの詳細について関心を持つべきだと言われ困惑していた【……】
『Churchill's Generals』位置No.895/8469


 あと、ジブラルタル総督時代に坑道や滑走路を色々いじっていた件が『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』にもありましたが、『Churchill's Generals』によるとそれはゴート卿の細かいことにこだわる性質の発露であったそうです(^_^;





尼崎会に7人 + OCS:HQの給油状態マーカーの位置

 尼崎会なんですが、今回は今までで最大規模の7人参加となりました。

 ワニミさん、下野守(しもつけのかみ)さん、たえさん、私は、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』をプレイ。

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 私はオブザーバー的に参加していたので、作戦の詳細は分かりません(^_^; ただ、今回、ヴィテブスクの北側の都市ヘクスを第1ターンに攻略しないで東進していたのですが、第1ターンのうちに取っておいた方がいいのではないか(そして史実ではそうしている)というのが結構大きな論点となっていました。

 まあ、OCSは最初のプレイはたいがい失敗だらけで、同じシナリオを2回目、3回目とプレイしてようやくまともになってくるので、今回のプレイはあくまで試しに色々やってみて手探りしているという感覚です。




 それから、以前から時々参加してくれている若手のお二人が、「ウォーゲームに興味がある」という友達を連れてきて下さいました。

 その方は軍装好きで、サバゲーやったり、ハーツ・オブ・アイアンをやったりしているそうですが、それらとはまた異なる、作戦級的な細かい点を再現できるウォーゲームに興味を持ってくれたもののようです。兵站や工兵の活動にも興味があるということで(希有な!)、OCSに興味があるということだったのですが、ウォーゲームはまったく未経験ということで、いきなりOCSをやるのはさすがに難しすぎるだろうと、まずは『ドイツ戦車軍団』の「エル・アラメイン」から触れてもらおうということに。

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 若手3人で「あーでもない、こーでもない」とプレイされていて、割と楽しんでもらえたようで、続けて「ダンケルク」、「ハリコフ」も途中までプレイされていました。


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 色々7人で雑談もして盛り上がりました。よければまた尼崎会や、あるいはミドルアース大阪にも来てもらえるといいですよ~とお誘いしておきました(^^)




 それから、OCSの方ですが、またもや私(だけ)が今まで解釈ミスをしていたことが発覚(>_<)

unit9598.jpg

 OCS 12.5cのB)、司令部に1SPを入れて独立部隊に給油する方法ですが、この方法は司令部の移動前か、移動後の位置からしか有効にはなりません。そのことを、給油状態マーカーを置いて表します。

 上の画像で、第5軍団司令部ユニットは、盤端の1.26に最初いて、ここで給油状態マーカーを置いて、自身は8.25まで移動しました(注:2020/01/18の追記参照)。あくまで1.26からB)の方法で給油することができるのであって、8.25からではできません(細かく言えば、8.25から1Tを支給するような給油はできるだろうとも思いますけども)。

 で、私は、1.26に置かれた給油状態マーカーはそのまま自軍プレイヤーターン中はそこに置いておくものだと思っていたのですが、今回そこらへんの話が出てきまして確認しましたら、12.5eに「給油状態の司令部は各フェイズに単一の場所からのみ燃料を支給することができます。」と書かれていたので、フェイズ毎にリセットされるべきものでした。つまり、画像で1.26に置かれた給油状態マーカーは移動フェイズ中には確かにその場所に置いたままにされるべき(移動前の位置から給油することを明確にするための措置)ですが、移動フェイズが終われば8.25に置き直しされるべきで、拡張フェイズ(突破フェイズ)には8.25からノーコストで給油できます(もし最初の給油をリアクションフェイズ中に行っていれば、タイミングは前倒しされます)。


 ワニミさんはずっとその方法でプレイしていたそうで、私が勝手に勘違いした状態で今までずっとプレイしていたのでした(T_T) しかし考えてみれば、OCSは「フェイズ毎」という処理が結構多いので、確かにそうなるかぁ、とも。

<2020/12/15追記>

 この点、念のためBoardGameGeekで質問してみたところ(こちら)、上記の理解で基本的に合っているということでした。ただ、答えてくれた方々は「給油状態マーカーは常に司令部と同じ位置に置く。独立ユニットに1SPで燃料を入れた司令部ユニットが移動する場合は、セグメントの最後に移動するようにする。」という風に書いておられました。

 私は、司令部ユニットをセグメントの途中で動かしておきたいこともある(自分にとって分かりやすくするために)と思うので、そういう場合には給油状態マーカーを元の位置に置いておくというのもありではないかとは思うのですが、しかしアメリカなどでは、基本的に「最後に動かす」と考えられているようでした。

<追記ここまで>

<2020/01/18追記>

 その後たえさんからご指摘いただきました。 
「上の画像で、第5軍団司令部ユニットは、盤端の1.26に最初いて、ここで給油状態マーカーを置いて、自身は8.25まで移動しました」
 と書いてある箇所ですが、移動前の場所から給油するか移動後の場所から給油するかは選択できるので、8.25で給油状態マーカーを置くこともできるよね、と。

 確かにその通りで、本文ではあくまで「移動前の場所から給油することを選択したので……」ということであります。ミスリードになっていたかもしれません。

 改めてBGGでのやりとりを見返してたんですが、12.5cのB)に「司令部の上に給油状態マーカーを置いてこの状態を表します。」という規定があるから、司令部ユニットと給油状態マーカーが離れて置かれることはあり得ない、ということのようでした。

 そうすると、改めて詳しく書きますと、こういうことになるかと思います。

1.ある司令部ユニットを、移動させるつもりではあるが、移動前の場所から独立ユニットに給油することを選択した。1SPを払って、司令部ユニットの上に給油状態マーカーを置く。この司令部の移動は、移動セグメントの最後にすべきである。

2.ある司令部ユニットを、移動させ、移動後の場所から独立ユニットに給油することを選択した。1SPを払って、司令部ユニットの上に給油状態マーカーを置く(置くけど、給油はここからはしない)。この支払いによりこの司令部ユニットにも燃料が入ったので、移動させ、移動後の場所から独立ユニットへ給油する。

 問題としては、2の場合に、移動前の司令部の位置からは1Tを支払うことはできるが1SPは支払えなかった(あるいは、わざと1Tしか支払わなかった)、そして移動後の位置からは1SPを支払うことができる(あるいは、移動後の場所から1SPを支払いたかった)、というケースはどうするのか、とかでしょうか。まあだいぶ考えにくいシチュエーションではあるので、保留にしておいてもいいか……?(^_^; 厳密に考えるなら、1Tの後で1SP払わなきゃ駄目ですかね。

<追記ここまで>

イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた)

 OCS『Hungarian Rhapsody』やOCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)の作業が一段落したので、『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』の続きをまた読み始めています。





 ようやく1942年6月のブラウ作戦のところまで読み進め、イタリア軍もそれまでのCSIR(イタリア・ロシア戦線派遣軍団:メッセ将軍)から拡充されてARMIR(ロシア戦線イタリア軍:ガリボルディ将軍)となっています。

 そんな中、ARMIRがドン川(後に小土星作戦やオストロゴジスク=ロッソシ作戦でイタリア軍がやられることになる……)に辿り着きますが、ソ連軍に反撃を受け、一部で有名な、イタリア軍騎兵による騎兵突撃が成功することになります(欧州戦線で最後に成功した騎兵突撃。)。

 と言っても、私はこの騎兵突撃についてはこれまで、それほど興味を持っていなかったのですが、この時期の話としてメッセ将軍がドイツ軍に激怒して自分が受勲していた騎士鉄十字章を投げ捨てたとか、あるいはこの時の戦いでソ連軍側が確保したドン川南岸の橋頭堡が小土星作戦の時に重要な役割を果たすことになった……というような話を読んで、がぜん興味が出てきました(どうも私は、単純に「活躍した」とかって記述にはあまり興味を惹かれず、将軍のパーソナリティがよく分かる逸話であるとか、自分が特に興味を持っている小土星作戦とかにどう影響したのか、というような視点からだと非常に興味を持つもののようです)。


Giovanni Messe

 ↑メッセ将軍(Wikipediaから)


 まず、騎兵突撃が行われた場所なんですが、資料の地図を見ていても戦線のどこらへんだったのかが分からないので、調べてみました。

unit9602.jpg


 赤い★印を付けた辺りが、その場所です。右下にスターリングラードが、左下にはミレロヴォがあり、左上のあたりは後に?イタリア軍のアルピーニ軍団がいた辺りです(緑色の★は、後述の(Verkhnyi)Mamonの場所)。



 以下、『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』の記述を引用します。元は一段落で構成されている文ですが、分かりやすくするために適宜段落を分けます。

 【1942年】8月24日、赤軍はその攻撃を継続して重要な橋頭堡を支援し、部隊と物資がドン川を渡れるようにした。スフォルツェスカ師団、特にその重要な砲兵部隊は疲弊し、いつものようにソ連軍は師団の境目の弱い所を狙ってきた。スフォルツェスカ師団と快速師団は危険な状態に陥っており、イタリア軍は第57軍団(ホリト)に増援を依頼したが、何の良い結果ももたらさなかった。ドイツ軍はスフォルツェスカ師団を直接指揮下に置くと決定し、むしろ深刻な軋轢が発生した。メッセはドイツ軍の干渉に激怒した。イタリア軍がその防衛ラインを捨て身の手段で守らなければならない危機的状況であったからなおさらである。銃剣で戦った部隊もあったし、サヴォイア騎兵連隊は8月24日にイスブシェンスキーでソ連軍部隊に対して騎兵突撃をおこなったほどであった(注123:【……】隣接する第57軍団のドイツ軍側のオブザーバー達は、サヴォイア騎兵が「素晴らしく勇敢な攻撃」でソ連軍大隊を壊滅させたと記している。【……】)。

 実際この出来事は、それまで愛憎相半ばしていたメッセとドイツ軍の関係に大きな転機をもたらしたと考えられている。彼の第35軍団の連絡将校であったReinhold Fellmer少佐が目撃していた。Fellmerによれば、メッセが自分の騎士鉄十字章の佩用をやめた時、枢軸軍の将来に暗い影がさした。なぜならば、メッセは親ドイツ派の権化とみなされており、そのカリスマと権威による独伊の良好な関係の維持が必須であったからである(注126【……】メッセは自分の(1942年2月15日に受勲した)騎士鉄十字章を投げ捨て、ガリボルディに「ドイツ軍は我々の命令を反故にしたのだ」という旨の怒りに満ちた手紙を書いたと言われている。しかし、彼はその後もドイツ軍の勲章を身に付け続けたし、チュニジアで降伏した時の写真では、騎士鉄十字章を佩用しているのが分かる。)。しかしローマでは、カヴァレッロがムッソリーニに対して、ドイツ軍の決定は正当なものだったと説明していた。

 【……】10日間の戦いで、ARMIRは883名の戦死者と4212名の負傷者を出した。戦死者の半数以上はスフォルツェスカ師団の兵士であったが、他の部隊も多くの損害を出したのだった。ソ連軍は(Verkhnyi)MamonとOgalev-Abrossimovaでドン川右岸の足がかりをわずかに拡張し、そこが12月の攻勢の踏み台として致命的に重要な役割を果たすことになる(注132:Hamilton, Saclifice【『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』】, 73。この橋頭堡部分を潰すというイタリア軍の提案をドイツ軍は拒否した。【……】)
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P137,8


 最後の2つの地名ですが、(Verkhnyi)Mamonの方は、『Sacrifice on the Steppe』P74の地図で分かりますが、Ogalev-Abrossimovaの方は全然分かりませんでした(どなたか教えて下さい(>_<))。

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 メッセ将軍はイタリア軍随一の名将として知られているらしく、その功績面に関しては資料でいくらか(決して多くはない量を)読んだことがありますが、その人物像を描いた記述は過去に↓これしか見たことがありませんでした。

 その謙虚で誠実、品位のある人柄は万人が認めるところで、現在でも第二次世界大戦における最も優れたイタリアの将官として高く評価されている。
『Benvenuti! 知られざるイタリア将兵録 【上巻】』P96


 しかし今回の逸話からすると、ある意味非常に人間臭い面を持っていたという感じもしますし、ものすごい親ドイツ派であったらしい一方で、愛憎相半ばする(アンビバレントな)感情をドイツ軍に抱いていたということも分かってきました。

 メッセはCSIR時代にソ連の民衆との良好な関係を心がけたらしいという話を↓で書いていましたが、しかしそのソースはメッセ自身の回想録からしか取られていません。イタリア語の回想録もDeepL翻訳のある今ならある程度読めるかもしれませんが、より客観的なメッセ評がある資料こそを、ぜひ読んでみたいところです……。

メッセ将軍率いるイタリア軍のロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)の人道的な態度まとめ(付:OCS『Case Blue』) (2019/10/06)



 あと、メッセ将軍はガリボルディ将軍指揮のARMIRの時期(1942年7月~)にはもう東部戦線から離れていた(総司令官が入れ替わって)のだと私は思い込んでいたのですが、どうも、CSIRが第35軍団で、それを拡充して2個軍団がプラスされてARMIRになったという形で、メッセはガリボルディの配下としてそのまま東部戦線にいたもののようです。

 英語版Wikipediaによると、メッセは1942年11月1日に東部戦線を離れたそうです。『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P140~145辺りによると、ソ連軍の反撃の兆候はそれ以前からイタリア軍側は察知しており、色々と戦力改善の努力はしていた(かつて支配的であった、イタリア軍の上級司令部は無能で怠惰で何もしなかったというような説とは異なり)ものの、劇的な改善はやはり望めないまま、メッセと、それまでの歴戦のパスビオ師団と快速師団の師団長が東部戦線から離任し、東部戦線のイタリア軍兵士も多くが(60%程度?)交替するという状況で(これは、イタリア軍兵士が全然休暇も取れずに士気がだだ下がりだったという話からすれば、意外なことでした)、メッセらは後ろ髪をひかれながら東部戦線を去ったそうです(東部戦線に残される兵士達を心配する手紙を書いているとか)。

 11月19日に天王星作戦が始まり、この時イタリア軍はソ連軍の攻撃を受けていませんが、スターリングラードが包囲され、続く12月16日に小土星作戦が始まり(その前の小規模な攻撃は11日からあった)、イタリア軍は半壊しますから、メッセ将軍は「あちゃー……」と思ったことでしょうか。メッセ将軍がチュニジアに現れるのは、1943年2月からになります。


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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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