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OCSのマップやユニットで使用されている欧文フォントについて

 自作のOCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)を作っていってみているわけですが、その際になるべく本家OCSに似せて作っていこうということで、『Illustrator』上にOCS『Sicily II』のマップを重ねて置いて、海岸線の太さ、2級道路の太さや色、小道の破線、村のシンボルなどをなるべく同じように作っていってました。
 I am working on my own OCS "Luzon: Withdraw to Bataan" (tentative), and in order to make it as similar as possible to the original OCS, I superimposed the OCS "Sicily II" map on top of the "Illustrator" map, and tried to make it as similar as possible to the original OCS in terms of the thickness of the coastline, the thickness and color of the secondary roads, the dashed lines of the tracks, and the symbols of the village.



 ↓こういうやりとりがありました。
   There were these exchanges.






 最後の、「OCSのマップで使われているフォントに似たフォントを45ドルで買った」の件ですが、OCSのマップの村や都市の名前の表記を画像にして、「WhatTheFont!」というサイトで読み込ませてみると、似ているフォントの候補が大量に出てきて、どれもこれもあまり区別がつかないほど似ていたのですが、どうも手持ちのフォント(昔、1万円くらいで買ったフォント集を入れているのですが)には全然見あたらないようで、かつ候補の中でフリーフォントも良く分からなかったので、候補のトップに出てきていた、確かに一番似ているような感じがする「CG Times Bold」というフォントを、「デザインポケット」というサイトで買ってみたのでした。
 In regards to "I bought a font similar to the one used on the OCS map for $45."  I cut out the parts of the OCS map with a name of village as image, and then I loaded it up on the "WhatTheFont!" site, a large number of similar font candidates showed up on that site. They all looked so similar that they were not very distinguishable, but those didn't seem to be the fonts I had on hand at all. I wasn't sure about the free fonts among those candidates, so I bought a font called "CG Times Bold" from a site called "Design Pocket", which was at the top of the list and certainly looked the most similar to the one I'd seen.



 実際にThe Gamersが使用しているフォントとは違う可能性が全然あるわけですが、置いてみて見比べてみてもかなり似ていると思うので、まあ満足しています(ただし、『Illustrator』の画面上ではかなり大きめに表示しないと、なんか変な別のフォントっぽく見えてしまいます)。
 It's entirely possible that it's not the same font that The Gamers actually uses, but when I put it down and compare it, I think it's pretty similar, so I'm pretty happy with it (but if you don't show it much larger on the screen in Illustrator, it looks like some kind of strange, different font).


 で、次はユニットの方のフォントなんですが、試しに「The OCS Depot」「Series Rules, Charts, etc. 」にある、これまでのOCSのエラッタカウンターがpdfファイルとして提供されている「2017 Errata Counter Sheet」を『Illustrator』に読み込ませてみたところ、以下のフォントが私の環境下にないと出てきました(それぞれ、どこに使用されていたかも記します)。
 Next up is the font for the unit. I tried out "2017 Errata Counter Sheet" in "Illustrator". Then I saw that the following fonts were not in my computer (I will also note where they were used in each).


Helvetica Black(兵科マーク内のUR、Ost、Sec、RR、Korなど。左上の「Errata Counters」も)
Helvetica Black (UR, Ost, Sec, RR, Kor, etc. in the military markings. And "Errata Counters" in the top left corner)
Helvetica Compressed(左上の「Countersheet 1 Front」)
Helvetica Compressed ("Countersheet 1 Front" at top left)
Machine(「RESERVE」マーカー)
Machine ("RESERVE" marker)
NHelveticaNarrow(©の後の「2017」や「All Rights Reserved」)
NHelveticaNarrow (© after "2017" or "All Rights Reserved")
Oxford(「©2017」の後の「MultiManPublishing」)
Oxford ("MultiManPublishing" after "©2017")
Uniform Bold(ユニットの戦力値やアクションレーティング)
Uniform Bold (unit strength value or action rating)
Uniform Cond Bold(ユニットの名称や、兵科マーク内のMil)
Uniform Cond Bold (the name of the unit or Mil in the military markings)

 他にもArial Bold(兵科マーク内のAG)やArial(ユニット規模)やTimes New Roman(説明文)などのフォントも使われていますが、それらは私はすでに持っていました。
 Other fonts used include Arial Bold (AG within the military mark), Arial (unit size) and Times New Roman (descriptive text), but I already had those.


 以下、同じような事をする人のために、それらのフォントについて取り得た対応を書いておきます(ただし、フリーでダウンロードできた件については、ウイルスや詐欺などの可能性もありますので、自己責任で……。私は責任取れません)。
 Below is the response I got for those fonts for those who do the same thing I do. (However, as for the free download, there is a possibility of viruses and fraud. There is also, so you are on your own........ (I can't take responsibility).


 「Helvetica」というフォントはMacOSで使用されているフォントらしいのですが、Windowsユーザーは、それに非常に良く似た「Neue Haas Grotesk」というフォントを、設定をいじるだけで使用できるようになるそうです。↓ここに書いてありました(同時に他にも数種類のフォントが使えるようになります)。
 The font "Helvetica" is apparently the font used in MacOS. However, Windows users can also use a font called "Neue Haas Grotesk", which is very similar to "Helvetica", just by tweaking their computer settings. (At the same time, several other fonts can be used.)

【無料】Windows 10 で Helvetica の代わりになるフォントをインストールする方法

 で、設定変更してみたのですが、アルファベット順に並んでいるフォント一覧から「Neue」という名前で探すと見つからず……絶望しかけたのですが、「Neue(ノイエ)」というのは「New」という意味ですし、もしかしたらと思って「Haas」で探してみると、Hの箇所に「Neue Haas Grotesk」という名前でありました(おい)。
 I tried to change the settings, but I couldn't find the name "Neue" in the alphabetical list of fonts... I almost despaired, but "Neue" means "New" and I thought it might be, so I searched for "Haas" and found the name "Neue Haas Grotesk" in the "H" part (hey).

 「UR」などの文字を「Neue Haas Grotesk」の「Bold」に変更してみると、良い感じになったので、使えるのではないかと思います。「Compressed」とか「Narrow」とかってのは良く分かりませんが、ユニット自体には関係ないのでパス(^_^;
 I changed the letters "UR" and other letters to "Bold" in "Neue Haas Grotesk". And I think it's good, so I think it's usable. I'm not sure what "Compressed" or "Narrow" means, but the unit It's not about itself, so I'll pass (^_^;

 「RESERVE」マーカーに使用されている「Machine」ですが、フリーでダウンロードできるらしきサイトを見つけてダウンロードしてみたのですが、通常であれば「.otf」というような拡張子が付いた状態で提供されているはずだと思うのに、拡張子なしで怪しかったので、それ以上は触れてみてません……。
 The "Machine" used in the "RESERVE" marker is a free I found a site that seemed to allow me to download it, but normally it would have been provided with a ". otf" or something like that, but without the extension. I was suspicious, so I didn't try to touch it further....


 「Oxford」は、↓からフリーでダウンロードできました。
 I was able to download "Oxford" for free from here.

Oxford Font - 1001 Free Fonts


 「Uniform Bold」と「Uniform Cond Bold」は、戦力値やユニット名称に関わる、私にとっては最も重要なフォントなので、お金を払うことになってもまあしょうがない……と思っていたのですが、分かりやすくお金を払って入手できそうなサイトが見つけられず……(怪しいサイトで払わせるような感じのところはありましたが)。しょうがないので、なんか非常に怪しいけども、フリーだというサイトからダウンロードしてみましたところ、一応大丈夫だったように思われます……。ただし、なんか2つの、いまいち違いの分からないページがあるようで、その2つのページの両方をダウンロード、インストールしたら、「OCS-Errata-Counters-MMP.pdf」に勝手に反映されて戦力値も名称も綺麗な状態で表示されるようになりました。
 Since "Uniform Bold" and "Uniform Cond Bold" are the most important fonts to me, as they relate to strength values and unit names, I thought if I had to pay for them, I would....... However, I couldn't find a site that seemed to be easy to understand and pay for to get it... (although there were some suspicious sites that seemed to make me pay for it). So I downloaded it from a site that says it's free, even though it's very suspicious. I've tried it, but it seems to be OK.... However, there seems to be two pages that I can't understand the difference between the two pages. After downloading and installing both of them, both the strength values and the names are now displayed in a beautiful state.

Download free Uniform Bold font | dafontfree.net
 ↑こちらは「File name:UNIFORM_BOLD.TTF」で、「Postscript font name: UniformCondBold」

Download free Uniform Bold font | dafontfree.net
 ↑こちらは「File name:UNIFORMBOLD.OTF」で、「Postscript font name: UniformBold」

 ダウンロードボタンがいっぱいあって、非常に詐欺くさいのですが、黄色い「PayPal」のボタンの上の青い「Download」ボタンでいけました。
 There's a lot of download buttons, very scammy, but I clicked on the blue "Download" button above the yellow "PayPal" button and I was able to download it.



 ……という感じです。どこか、もっと安全そうなサイトとか、あるいはOCSのマップ上で本当に使用されているフォントとか、それがフリーで入手できるとかご存じでしたら、教えていただければまた情報追加していきます。
 ......... Somewhere else, like a site that seems more secure or really used on the OCS map. If you know of a font, or if it's available for free, please let me know and I'll be happy to provide you with more information. I'll add to it.

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第二次世界大戦のアメリカ兵は、物量頼みであり「強兵」とは言えなかった?(付:OCS『Beyond the Rhine』)

 『憎悪の世紀 下』を読んでいましたら、第二次世界大戦の時のアメリカ兵は強いとは言えなかったということが書いてありまして、ちょっと興味を持ちました。




 まずは日本兵との比較なのですが……。

 しだいに玉砕戦術頼みになる日本兵は(日本軍のノモンハン事件についての著書もある、日本軍史の研究者アルヴィン・クックス〔1924~99〕の適切な表現を借りれば)、「現代軍事教練の実践者の仮面をかぶった中世の侍」まるだしだった。対するアメリカ兵は過剰殺戮の達人で、「思いつくかぎりで、必要以上のありとあらゆる兵器をつねに大量に手元に置いておく」ことが第一原則だった。
『憎悪の世紀 下』P293


 次に、兵站(後方)部門の重視の話なのですが、つまりは物量が重要だという考え方の反映だと思います。

 戦争の最終局面になると、戦闘よりも兵站業務に十分な要員を配置するほうが重要だという認識が強まった(もっとも、ドイツ軍と日本軍はその点を過小評価し続けていた)。ドイツ軍の戦闘員と非戦闘員の割合は2対1だったが、ヨーロッパに展開するアメリカ軍の比率は1対2だった。太平洋では、日本軍の比率が1対1だったのに対し、アメリカ軍は前線兵士1人に対して18人の非戦闘員がいた。終戦時、アメリカ軍にはソ連軍とほぼ同数(両軍とも約1200万人)の兵員がいたが、実際に戦闘に加わったアメリカ兵は、そのごく一部に過ぎない。ただし、ノルマンディーに上陸して戦闘に参加したライフル銃兵や「フライング・フォートレス」のパイロットをはじめとする兵士には多数の死傷者が出ている。要するに、英米が兵員数よりも火力に頼ったことが幸いしたのだった。敵兵より訓練不足が明らかなアメリカ兵では4人に3人は戦闘中ろくに銃を撃つこともできず、一度も発砲しなかった者も多い。陸軍病院に収容されたアメリカとイギリスの死傷者の大半は、敵の攻撃によるものではなく、病気や怪我が原因だった。彼らは「最も偉大な世代」と呼ばれることが多い。たしかにアメリカの他の世代よりは偉大だったかもしれないが、第二次世界大戦の最も偉大なる兵士と呼ぶにはほど遠い状態だった。
『憎悪の世紀 下』P294


 アメリカ軍は、できるだけ大量の兵器を投入することによって人的損失を減らすことができるという考え方だったというのは、他の本で読んでいたような気がします。

 しかし私はアメリカ兵が弱いとは思っていなかった面があり、OCS『Beyond the Rhine』(1944年9月~45年4月の西部戦線)で連合軍のアクションレーティングをチェックしてみた時に、アクションレーティング5の少なさにかなりびっくりした記憶があります。ドイツ軍にはアクションレーティング5のユニットが55個もあるのに、アメリカ軍には2個(2つのレンジャー部隊)、イギリス軍には1個(第1空挺師団の1個旅団ユニット)しかなかったのです。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』のアメリカ軍レンジャー部隊ユニット。

unit9740.jpg


 ↓第2機甲師団や第101空挺師団などはかなり強いというイメージがあるのですが、AR4しかありません。

unit9742.jpg
unit9741.jpg



 でも、『憎悪の世紀』で書かれているような見方が合っているのだとすれば、『Beyond the Rhine』におけるアクションレーティングの付け方はかなり納得がいくなぁと思いました。そしてまた、The Gamersはそのように見ているということなのでしょうね……。
(ちなみに、OCS『Burma II』の日本軍にはAR5のユニットが32個、イギリス軍はインド人部隊も含めて12個、アメリカ軍には3個あるのですが、これはビルマという戦場では日英米ともゲリラ戦的な、特殊部隊的な戦いをした部隊が結構いたということが原因かもしれません。あるいは、全体としてAR値が底上げされているのかもですが)



 別の資料でもってアメリカ兵の強さについて書いているもので、今までに集めていたものとしましては、『兵士というもの』という、ドイツ兵捕虜の話していたことを盗聴したものから書かれた本には……。

 アメリカ兵は明らかにイギリス兵よりも悪い評価を受けていた。なぜなら彼らの成功の原因は物量の優位にのみあると考えられており、これを国防軍兵士たちはフェアではないと見なしていたからだ。兵士としてのアメリカ兵は「臆病でこせこせしており」、「きわめて過酷な戦争」というものがどのようなものだが【ママ】「わかっていない」し、「物質的な不自由に耐えることができ」ないし、「接近戦では我々に劣っている」と。たとえばフォン・アルニム上級大将は、チュニジアでの自分の経験についてこう述べている。「このげす野郎どもは、みな逃げ回るんだ。このアメリカ兵たちは、一度でも強い攻撃を受けると」。
『兵士というもの』P305


 別の国の兵士達に関するドイツ兵達の評価に関しては、『兵士というもの』:ドイツ兵のイギリス、アメリカ、ロシア、イタリア兵観 (2018/10/25) をご覧下さい。


 また、こういうのもありました。

 批評者によれば、パットンの成功は、戦闘を求めるのではなく避けたことによるものだった。移動自体が目的となったほどで、通信の妨害も、道路の合流点の制圧も、フラーやリデル=ハートといった両大戦間の軍事評論家が述べたような方法も行わなかったという。パットンもおそらくそれを認めたただろう。1920年代からパットンは、抵抗を回避し、急襲や衝撃戦法を利用して敵の決定中枢の内側に入り込み、敵を狼狽させ、敵が殺されるか捕らえられるかするまで、あるいは、できれば組織的な抵抗がただ崩れるまで、敵をそこにとどめておくことによって軍隊を滅ぼすという戦法に賛成してきた。
 この考え方は、アメリカ兵とアメリカ陸軍の長所と短所をパットンが理解していることの表れだと分析する者もいる。アメリカ兵は機械やその能力を理解していた。スピードと力の文化で育ってきた。ホームランやインディアナポリス500マイルレースの文化である。その一方で、アメリカ軍の歩兵は、敵のドイツ軍が持つ戦術的能力と道徳的な強さに欠けていた。人材獲得政策によって、技術と意欲のある者は海軍や海兵隊に志願した。最良の徴集兵は技術を必要とする兵科に配属された。残った中で最良の者は落下傘部隊に志願した。歩兵隊に配属されたのは、その残りである。
『パットン対ロンメル』P353


 そういえば、第101空挺師団の兵士達について書かれた『バンド・オブ・ブラザーズ』を読んでいると、彼ら空挺兵達は「どうせ命をかけて戦うのであれば、(他のろくでもない歩兵達と戦うよりも)一流の戦友達と戦いたいと思って空挺部隊を志願した」というようなことが書かれていたような気がします。




 しかしともかくも、兵士としては、ドイツ兵はやはりだいぶ強く(国家としての戦争の仕方がうまくなかったけども)、日本兵も英米兵と比較して強くはあったのでしょうか(指揮官が悪いことがかなりあり、補給状況が悲惨なほど悪かったわけですが(T_T))。

OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)のマップを少し北へ、ユニットの戦力換算は3倍に

 昨日今日と、オリジナルのOCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)の作業をしていました。

 オスプレイの『The Fall of the Philippines 1941-42』を読んでいきつつ、他の資料も参照しながら色々細かい修正をしていってます。


 大きく変えたものとして、マップを2ヘクス分北へずらし、その分日本軍のリンガエン湾からの上陸地点4箇所を全部入れることにしました(これまでは南の2箇所だけを入れてました)。

unit9743.jpg

 その分、このルソン島中央部のマップにはマニラが入らなくなっています。これまではマップになんとかマニラが入るようにしていた為に上陸地点を2箇所に削っていたわけですが、それは、中央部のマップだけでプレイしてもマニラを占領するのにユニットを入れていけるようにすることが目的でした。その利点に比べれば北側の2つの上陸地点はそれほど重要でないかなと思っていたわけです。

 ところが今回資料を読んでいて、北側2箇所の上陸地点から東のバギオ(Baguio)へ向かう日本軍の行動は作戦的にも結構重要だなと思えたので、やっぱ入れた方がいいかな、と。マニラに関しては、マニラの隣接ヘクスからマップ外へ出ることで占領を表せばいいか、と思いつきました。何しろ史実でマニラは「無防備都市宣言」をしてて戦闘なしで日本軍は入城してますから、むしろそれで全然OKだという(^_^;
(ただし事前に相当爆撃などをやっていたようですが……)


 もう一つ大きな変更として、OCS『Reluctant Enemies』と同様に、戦力値換算を3倍にすることにしました。なるべくOCS通常スケールから変えたくなかったのですが、そのままだとフィリピン軍の歩兵師団の連隊ユニットが戦闘モードで(1)、移動モードで(1/2)とかいう見たことのないようなレーティングになりかねないので。3倍にすることにしてしまえば、日本軍の方でもどうしようか迷っていた工兵連隊や捜索連隊のレーティングがしやすくなったので、良かったと思います。また、『Reluctant Enemies』で使用されている「3ユニットが除去されるたびに1ユニットが帰ってくる」というルールも使用した方が良さそうだと思いました(フィリピン軍の第11師団や第26騎兵連隊なんかはユニット数が少なくならざるを得ない中で激戦、ダメージを受けながらも戦線をずっと支えていたようなので)。

 参考に、『Reluctant Enemies』の「デヴェロップの論点とその覚え書き」のその部分を挙げておきます。

ゲームスケール - 戦闘ユニットの戦力と回復
 私が『Reluctant Enemies』に関して取り組んだ最も大きな問題は、特に
(1)戦闘ユニットの戦力
(2)戦闘ユニットの回復システム
 の、2つのスケールに関するものでした。
 このゲームでは多くのユニットが大隊規模になっています。通常のOCSスケール、例えば『DAK(II)』では、ほとんどのイギリス連邦軍歩兵旅団とドイツ歩兵連隊(3個大隊により編成)の戦力値は6となっています。ですから、通常のOCSのスケールでは1個大隊の戦力は2となるところでしょう。しかし1個大隊の基本の戦力が2では、『Reluctant Enemies』上で様々な大隊の戦力を表現することが難しいという問題がありました。そこで私は、標準的な大隊の戦力値を2から6へと、単純に3倍することにしました。これでOCSのやり方から大きく逸脱することなく、細かな戦力値の違いを表すことができます。たとえば、標準的なオーストラリア歩兵大隊を6戦力とし、それに比較してより人員の少なかったオーストラリア第2/2戦闘工兵大隊を4戦力とすることができた……などです。こうして『Reluctant Enemies』上での問題は解決されましたが、その結果として戦闘ユニットを『DAK(II)』などの他のOCSゲームに移植するということはできなくなりました。

 OCSの戦闘結果表(CRT)は最初の『Guderian's Blitzkrieg』のためにDean Essig氏によってデザインされたものですが、これまで大きな変更を加えられないで来ました。このゲームを知らない方のために説明しますと、『Guderian's Blitzkrieg』(およびその後継である『Guderian's Blitzkrieg II』)は1941年秋のモスクワへのドイツ軍の攻勢(タイフーン作戦)を扱ったモンスターゲームです。北はStar'aya RussaからYaroslavlまで、南はKonotopからVorenezhまでを複数のマップで再現し、この大規模な戦役に参加した部隊を表すために2800個のカウンターが用意され、数千ステップを持つものとなっています。比べて『Reluctant Enemies』は極小サイズで、両軍は6~70個程度の戦闘ユニットしか持ちません。初期のテストプレイで分かったのは、1ステップの価値が大きくない大規模な戦役用に作られたOCSの戦闘結果表は、この小さい戦役に対しては出血量が多すぎるということでした。史実では『Reluctant Enemies』上で交戦した部隊は、ヴィシー軍側にしてもイギリス連邦軍側にしても、損害を受けた後にもより大きな戦力を保持し続けていました。さらに、『Reluctant Enemies』では、一つ一つの戦闘ユニットの壊滅は非常に大きな影響を与える可能性があります。そのため、この小さな戦役における戦闘ユニットの損失と回復について、うまい描き方をする必要がありました。私はほとんどの大隊を2ステップを持つユニットとするか、あるいは現在の『Reluctant Enemies』にあるように戦闘ユニットの回復システムを採用するかの判断を迫られました。OCS『Burma』では日本軍が似た感じの回復システムを持っており、これが『Reluctant Enemies』における戦闘ユニット回復システムのデヴェロップにも影響を与えています。私はまた、GMTの『The Battle for Normandy』に使用されている回復システムからも影響を受けたことを認めねばなりません。結果として、『Reluctant Enemies』の戦闘ユニット回復システムは3ユニット損失毎に1ユニットを回復させるという単純でシンプルなものとなりました。最も重要なのは、私自身がこれを実際に起こったことをリアルに描き出していると感じていることです。史実で各部隊は、戦闘部隊としての機能や能力を回復させるために、司令部の近くに戻って再編成をおこなっていたのです。このルールのテストプレイは非常にうまくいきました。




 今回、レガスピーに上陸した木村支隊の支援部隊に、呉第1特別陸戦隊(575名)という部隊があったということを見つけまして、「海兵隊カテゴリのユニットを入れられるということか! カッコイイ!」と思ったのですが、どうもこの部隊は上陸作戦成功後に次の他の上陸作戦に備えて出撃基地のパラオに戻ってしまっているらしく(良く分からないですが)、私の今回のクォーターマップ2枚のゲーム化の場合レガスピーはマップの遙か東の方でマップ内に入ってないので、このユニットは入れられないということになりそうです(T_T)(しかし良く分からないので詳しい方分かりましたら教えて下さい!)

 以下、レーティングし直した日本軍の戦闘序列を挙げておきます。

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第48師団は自動車化師団であるが、自動車自転車徒歩各1/3の実情
戦闘モードは徒歩3、移動モードは自動車化9?
輜重兵連隊は3個中隊とも自動車編成
(第47歩兵連隊は『The Fall of the Philippines 1941-42』20%にヴェテランだとあるので、AR5?)
当時の第48師団の編成定員は12,963名だが、開戦時の事前補充により15,663名であった。【叢書P101】


第16師団は徒歩師団であるが、1/3は自転車装備
戦闘モードは徒歩3、移動モードは徒歩6?
輜重兵連隊は1個中隊は輓馬、2個中隊は自動車
(満洲や華北で戦闘経験あるも、評価は色々? mixed combat record)

山砲兵の1個大隊は、
自動車化ならば戦闘モードは徒歩3、移動モードは12?
駄馬編成ならば戦闘モードは徒歩2、移動モードは4?

工兵は純粋に自動車編成
戦闘モードは自動車化6、移動モードは自動車化12?



田中支隊(約2,000)
第48師団台湾歩兵第2連隊第2大隊
6-4-3 Infantry Bn(2-Form2-48)
裏3-4-9(半自動車化)

第48師団山砲兵第48連隊第1大隊
3-3-1-3 Artillery Bn(1-48-48)
裏1-3-1-12(自動車化)


菅野支隊(約2,000)
第48師団台湾歩兵第2連隊第3大隊
6-4-3 Infantry Bn(3-Form2-48)
裏3-4-9(半自動車化)


第48師団台湾歩兵第2連隊第1大隊
6-4-3 Infantry Bn(1-Form2-48)
裏3-4-9(半自動車化)

【戦史叢書P124によると第1大隊は2個中隊欠】
【FALLP103によると、田中支隊に第1大隊の半分、菅野支隊に第1大隊の半分だとある。ゲーム上では菅野支隊の方に第1大隊全部を入れることにするか】

【田中支隊と菅野支隊は合流して、12/22朝にサンフェルナンドに到着。FALL P108】


■リンガエン湾

軍直轄上島支隊
第16師団歩兵第9連隊第1大隊
6-4-3 Infantry Bn(1-9-16)
裏3-4-6(徒歩)

軍予備隊
第16師団歩兵第9連隊第2大隊
6-4-3 Infantry Bn(2-9-16)
裏3-4-6(徒歩)

軍直轄左側支隊
第16師団歩兵第9連隊第3大隊
6-4-3 Infantry Bn(3-9-16)
裏3-4-6(徒歩)


左翼隊
第48師団司令部
48 Div,HQ
6-0/4-12(自動車化)?

第48師団 台湾歩兵第1連隊第1大隊
6-4-3 Infantry Bn(1-Form1-48)
裏3-4-9(半自動車化)

第48師団 台湾歩兵第1連隊第2大隊
6-4-3 Infantry Bn(2-Form1-48)
裏3-4-9(半自動車化)

第48師団 台湾歩兵第1連隊第3大隊
6-4-3 Infantry Bn(3-Form1-48)
裏3-4-9(半自動車化)

第48師団 山砲兵第48連隊第3大隊(自動車編成)
3-3-1-3 Artillery Bn(3-48-48)
裏1-3-1-12(自動車化)

第48師団 山砲兵第48連隊第4大隊(駄馬編成)
3-3-1-2 Artillery Bn(4-48-48)
裏1-3-1-4(徒歩)

第48師団 工兵第48連隊(実質は大隊。3個中隊自動車編成)
2-4-6 Infantry Bn(48 Eng-48)
裏1-4-12(表裏自動車化)



右翼隊
第48師団 第47歩兵連隊第2大隊
6-5-3 Infantry Bn(2-47-48)
裏3-4-9(半自動車化)

第48師団 第47歩兵連隊第3大隊
6-5-3 Infantry Bn(3-47-48)
裏3-4-9(半自動車化)


戦車第4連隊


第48師団 捜索第48連隊(4個中隊編成、2個中隊は乗車、2個中隊は装甲車)
3-5-6 Arm Recon Bn(48 Recon-48)
裏2-5-14(表裏自動車化)


第48師団 山砲兵第48連隊第1大隊(1個中隊欠。自動車編成)
3-3-1-3 Artillery Bn(1-48-48)
裏1-3-1-12(自動車化)

野戦重砲兵第8連隊第1大隊(1個中隊欠)




■レガスピー

木村支隊(約2,500)
第16師団司令部
16 Div,HQ
6-0/4-12(自動車化)?【ラモン湾の方が本体?】

第16師団 第33歩兵連隊第2大隊
6-4-3 Infantry Bn(2-33-16)
裏3-4-6(徒歩)

第16師団 第33歩兵連隊第3大隊
6-4-3 Infantry Bn(3-33-16)
裏3-4-6(徒歩)

呉第1特別陸戦隊(575名【FALL P109】。1個中隊欠【叢書P127】)
2-4-3 Marine Inf Bn(Kure 1)
裏1-4-6(徒歩? )

特別陸戦隊は専門の地上戦闘部隊として戦車や機関短銃などの充実した装備を保有し、陸戦隊の中では高い練度を誇る精鋭とされた。ただし、若くて健康な現役兵や志願兵は艦船や航空隊に優先配分されたため、特別陸戦隊配属は予備役など高齢者や身体能力に劣る者が中心で、人員の素質の面では優れているとは言えない。例えば、日中戦争中に編成されて太平洋戦争(大東亜戦争)でもアンボンの戦いなどに参加した呉第一特別陸戦隊の場合、年齢37歳の大正12年徴兵者まで混じっていた[4]。
日本語版Wikipedia「海軍陸戦隊」

木村分遣隊は 12 月 12 日早朝にレガスピに上陸し始めた。最も近いアメリカ軍とフィリピン軍は 150 マイル離れていた。9時までに日本軍は飛行場とマニラ鉄道の終点を制圧していた。数時間後、レガスピをしっかりと掌握した木村将軍は北西と南東に先遣隊を送った。翌日、大規模な援護部隊は次の上陸に備えてパラオに戻った(49) 。
【FALL P110】



■ラモン湾
 兵力は約7,000

広部隊
第16師団 歩兵第20連隊第2大隊
6-4-3 Infantry Bn(2-20-16)
裏3-4-6(徒歩)

村部隊
第16師団 歩兵第20連隊第1大隊(第3中隊、機関銃1個小隊欠)
4-4-3 Infantry Bn(1-20-16)
裏2-4-6(徒歩)


師団主力
第16師団司令部
16 Div,HQ
6-0/4-12(自動車化)?

第16師団 歩兵第20連隊第3大隊
6-4-3 Infantry Bn(3-20-16)
裏3-4-6(徒歩)

第16師団 捜索第16連隊(4個中隊編成、2個中隊は乗車、2個中隊は装甲車)
3-5-6 Arm Recon Bn(16 Recon-16)
裏2-5-14(表も裏も自動車化)

第16師団 工兵第16連隊主力(2個中隊編成、うち1中隊は自動車)
1-4-3 Infantry Bn(16 Eng-16)
裏0-4-9(自動車化)

その他砲兵多数




北アフリカ戦線:イギリス軍のニーム将軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦線、イギリス軍のフィリップ・ニーム将軍について。


OConnor_Captured.jpg

 ↑英語版Wikipeida「Philip Neame」から、捕虜になった3人のイギリス軍将官。中央がフィリップ・ニーム中将。左はジョン・クーム准将、右はガンビア=パリー少将(クーム准将はベダ・フォムの戦いを実現させた戦闘団の指揮官で、ガンビア=パリーは第一次ロンメル攻勢で壊滅させられたイギリス第2機甲師団長)。


 ニーム将軍はベダ・フォムの戦いの後に栄転していったオコーナー将軍の後任として着任したのですが、直後に(戻ってきていた)オコーナー将軍らと一緒に捕虜になってしまったため、全然有名でない人物かと思います。

 ところがニーム将軍は、第一次世界大戦(20代)の時にヴィクトリア十字章(イギリスの軍人に授与される最高の勲功章)を受勲しており、しかもその受勲者の中で唯一、オリンピックで金メダルを受賞した人物なのだそうで(1924年のパリオリンピックで金メダルを取った射撃競技チーム4人の内の一人)。

 尤も、同時に捕虜になったオコーナー将軍の軍事的能力が激賞されるのに対して、ニーム将軍は割とダメダメな評価で記述されているようです。

 もうひとつイギリス軍にとって不幸なことは、実戦指揮のヴェテランであるオコンナー将軍がエジプト国内の司令官に栄転し、その後任に砂漠戦の経験がない、工兵出身のニーム中将が着任したことである。
『欧州戦史シリーズ VOL.5 北アフリカ戦線』P61

 英中東軍司令官ウェーヴェル将軍は、広大な担当戦域での各所でおこる危機に気をとられて、特定の戦域にじゅうぶん注意をはらうだけの余裕がなかった。
 ウェーヴェルとしては、部下の将軍はもちろん信用しなければならない。しかしウィルソン中将はベンガジ南方の高地地帯を防備できる兵力について、まったくあやまった印象をあたえたままギリシャへ出発してしまった。ウィルソンの後任のニーム中将は、防備には自信がないようで、じっさいにはまったく適応しないような戦術計画を提案してきた。
『ロンメル戦車軍団』P23,4

 ところで、この時イギリス軍に指揮系統の混乱がおこって、これがロンメルに有利にはたらいた。
 ウェーベル総司令官はパルスにあるニーム将軍の司令部にやってきて、この戦線はニームにはまかせておけないと判断した。
 そこで彼は、ベダフォム戦での勝利者、休養中のオコナー将軍に交代を命じ、
今迄やむをえなければベンガジを攻撃してもよいと命じていたのを取消した。
 これで英第2機甲師団は、師団長ガンビヤ-パリーの希望に反して分割されることになり、4月2目、支援歩兵部隊は、ウェーベルの命令でベンガジに派遣された。
 もともと第2機甲師団の戦車部隊と第3戦車旅団の装備は、中戦車23両、軽戦車25両にすぎず、そのうえ20キロぐらい走ると一両が故障するというありさまであった。
 またオコナーは戦闘の中途で交代するのをきらって、ニームの助言者として働くという条件で帰ってきたので、イギリス軍の指揮がゴタゴタするのも当然であった。
『ロンメル戦車軍団』P29

 4月3日にキレナイカ西部でロンメルが開始した大攻勢によって、現地の英連邦軍が大混乱に陥っているとの報告を受けたウェーヴェルは、同地を統轄するキレナイカ兵団(旧第13軍団)長ニームを罷免し、オコナーを復帰させることを決断していた。
 これを知ったオコナーは、戦局が流動的な状況下で司令官を交代させることは、却って悪い影響を及ぼすとの理由でこの任命に反対し、ウェーヴェルと自分が現地に赴いてニームと共にエジプト防衛の態勢を整えましょうと提言、ウェーヴェルもこれを了承した。

 しかし、このオコナーの提案は、結果的には完全な裏目に出てしまう。
 4月6日、ドイツ軍は何本もの道路が交差する交通の要衝メキリの南方に到達し、道路沿いに退却していた英連邦軍の部隊と司令部に次々と襲いかかった。同日から4月7日にかけて、ニームとオコナー、そしてこの年の2月にベダ・フォムでイタリア軍を壊滅的敗北に追い込んだ立役者の一人である、戦車部隊指揮官のクーム准将がドイツ軍に捕らえられ、翌4月8日には第2機甲師団長ガンビア=ペリーも捕らえられた。
『ロンメル戦記』P218,9



 イタリアの捕虜収容所に送られたニームは数々の脱走計画に加わり、ニームが設計した(工兵出身なので)トンネルを使用して6人が脱走に成功したとか。

 イタリアが降伏するとニームは解放されて、オコーナーらと共になんとかイギリスへ帰還しますが、(オコーナーが第8軍団長になったのとは異なり)陸軍から仕事は与えられなかったそうです(>_<)



 OCSのユニットの中にニームがその長として関わったものはないかと調べてみますと、ニームは1940年2月~8月にかけて第4インド歩兵師団長であったそうなのですが、OCS『DAK-II』はイタリア軍のグラツィアーニ攻勢が始まる1940年9月12日ターンから始まるので、この第4歩兵師団は該当しないと考えるべきか……。

 ↓OCS『DAK-II』の第4歩兵師団ユニット

unit9746.jpg




 イギリス第13軍団(西方砂漠軍から1941年1月1日に改称された)の司令官であったオコーナーの後任としてニームはやってきたので、第13軍団(あるいは西方砂漠軍)司令部ユニットはニームのものとして表せるかと思いきや、英語版Wikipedia「Western Desert Force」によると(和訳はこちら)「イタリア第10軍の降伏によってコンパス作戦が終了した2月には第XIII軍団は解散され、その職責は平穏時の司令部であるキレナイカ兵団司令部【HQ Cyrenaica Command】に引き継がれ」ており、ニームはそのキレナイカ兵団司令部の司令官として着任していて、ニームが捕虜になった4月7日より後の4月14日に西方砂漠軍司令部が再度活動状態にされている(西方砂漠軍が第13軍団と再び改称されるのは1941年10月)ので、こちらも該当なしなのか……?

 これら司令部ユニットがOCS『DAK-II』でどのように処理されているのかチェックしてみたところ、

1月1日ターン 西方砂漠軍司令部ユニット→第13軍団司令部ユニット(置き換え)
2月15日ターン 第13軍団司令部ユニット→第1オーストラリア軍団司令部ユニット(置き換え)
2月26日ターン (除去)第1オーストラリア軍団司令部ユニット
4月8日ターン 西方砂漠軍司令部ユニット(再登場)
9月26日ターン 西方砂漠軍司令部ユニット→第13軍団司令部ユニット(置き換え)

 ということで、「第1オーストラリア軍団司令部」を英語版Wikipedia「I Corps (Australia)」でチェックしてみましたところ……。

 2月には、第1【オーストラリア】軍団がリビアのキレナイカの支配権を受け継ぎ、イギリス軍第13軍団に代わって、一時的にキレナイカ兵団司令部の名称を採用した[7:Johnston, Mark (2008). The Proud 6th: An Illustrated History of the 6th Australian Division 1939–1945.P32]。



 おお~。ということは、この第1オーストラリア軍団司令部ユニットが、ニームが司令官であったキレナイカ兵団司令部を表すものと言える……? しかしすぐに除去(ギリシア派兵の為か? Wikipediaからは良く分かりません)されてしまうし……( ̄~ ̄)


 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍司令部ユニット

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<2020/10/26追記>

 『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』のニーム将軍の項を見てみました。

 【……】彼の死亡記事担当記者によると、「かなり東洋的な顔立ち」で「小さくて、細くて、たくましい」と表現されている【……】

 1941年2月にキレナイカ兵団司令官となったが、彼が赴任した時には使用できる兵力があまりにも減少させられており、ディルから「面目を失うことになるだろう」と言われたほどだった(Neame,1946,268)。すぐにそうなった。ウェーヴェルによれば「気違い沙汰な」(Pitt,1986,250)戦術的配置をしていたため、彼の前哨基地はアフリカ軍団の前進によって簡単に圧倒されてしまった。1941年4月にオコーナーと共に捕虜となった彼は、その後の30ヶ月間をイタリアで過ごし、後期にはフィレンツェ近郊のCampo12で脱走と回想録の起草を試みた他は、「彼はほとんどの時間を針仕事に費やした」(Ranfurly,1998,123)。1943年10月にイギリス戦線に到着し、再度戦場で指揮を執ることを熱望したが、彼は「何の仕事も与えられない」ことにイライラしていた(Danchev&Todman,2001,532)。
『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』位置No.5476/8068


 戦後にはケント州の州知事になったりしたそうなので、不幸一色というわけでもないようですが、回想録には、軍事的な話はほとんど出てこないそうです(>_<) 

<追記ここまで>

OCS:アクションレーティングの定義に入っていない「士気(morale)」をずっと和訳に入れてしまってました(T_T)

 OCSで私は良く、「士気が低かったらしいのでハウスルールでアクションレーティングを-1……」というようなことを書いていたのですが……。

 ワニミさんから以下のような指摘を頂きまして(LINE上で)。

3.2c AR値は、地上部隊の指揮、練度、結束、装備整備を表す。

仏軍の厭戦気分をAR値で引き受けて、おk?


 これを見て私は、「何言ってんすか~。士気も入っているに決まってるでしょ(指揮とあるのは士気の間違いじゃ?)」とか思ったのですが……。


 ちゃんと確かめてみると……確かに「士気(morale)」という単語は全然入っていない! ……のに、和訳では「士気」という言葉を入れてしまっている!

 原文は以下のようになっていました。

OCS v4.1a
3.2c The Action Rating represents the ground unit’s leadership, training, cohesion, and equipment maintenance.

OCS v4.3
3.2c The Action Rating grades a unit’s leadership, training, equipment, and cohesion.

Terms and Definitions
Action Rating: How good a unit is at fighting. Training, experience, doctrine and leadership


 和訳では……(v4.3)。

3.2c アクションレーティングは、その陸上ユニットのリーダーシップ、訓練、士気、装備、団結の質を表しています。

用語と定義
Action Rating:アクションレーティング 戦闘、訓練、経験、戦術、指揮などにおけるそのユニットの優秀さ。


 「用語と定義」の方では入れてませんが、3.2cの方ではなぜか「しれっと」士気という言葉が入れてある……!

 これはどうも、私自身に非常に強い思い込みがあって「士気」という言葉を入れてしまっていたのだと思います。普段から人の「思い込み」的なことに関して色々書いているというのに……(T_T)

 いや、思い込みとはかくも恐ろしいということの実例ということで……バキッ!!☆/(x_x)


 ただ、じゃあアクションレーティングは士気をまったく表さないのかというと、「cohesion(結束度)」という言葉は割と士気的なものを表している……ということになりませんかね?(^_^;


 しかしともかくも、私が和訳しましたOCSv4.1aやv4.3のルールブックを印刷して持っておられる方は、3.2cの「士気」という言葉を赤線か何かで取り消し線を引いてしまっておいて下さい。申し訳ありません(>_<)

 pdfデータも新しいのを作りました。

OCSv4.3和訳ルール200315.pdf


 「OCSの物置2」上のリンク先も修正してあります。



 また他にも、ささいなことでもおかしいのではと思われるようなことを和訳等に見つけられた方は、ぜひご連絡下さい。

「愚将」とされる牟田口廉也の評価に関する、2018年以降のウェブ上の論争らしきものについて(付:OCS『Burma II』)

 ちょっと前に、こういうツイートをしたことがありました。





 「牟田口廉也=愚将」という見方は、例えば↓のような。

牟田口廉也 (むたぐちれんや)とは【ピクシブ百科事典】


 しかし、近年「いわゆる名将」の化けの皮が剥がされていっているのであれば、「いわゆる愚将」が愚将であるように誇張され過ぎていたことの化けの皮が剥がされるというようなこともあるのではないかとも思いまして。
(実際例えば、北アフリカ戦線におけるイタリア軍の将軍達はひたすら馬鹿にされてますが、「そこまでではなかった」とおぼしき例証がいくらかある様に感じています。例えば→イタリア軍のガムバラ将軍はロンメルに協力するようになって解任された? (2017/07/10)


 牟田口廉也に関して2018年に出た本として、『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(広中一成 星海社新書)という本があることは知ってました(というか、この本以前に牟田口廉也のみを扱った評伝、伝記の類はないそうで)。



 この本は、牟田口廉也自身が愚将だったというよりは(ということはあるとしても?)、昭和陸軍という組織が愚将としての牟田口廉也を生み出していったという側面があるのではないか……という視点で書かれているということで、私も書店で見てパラパラとめくってはみたんですが、とりあえず購入は見送ってました(何しろ積ん読だらけなので(T_T))。


 そんな中、たまたま思いついて検索で「牟田口廉也 最新研究」と入れてみたところ、この本の著者広中一成氏が同書出版後に書いたウェブ記事から、牟田口廉也に関してウェブ上で論争らしきもの(ただし、あくまで一方通行の(^_^;)が始まっていたことを知りました。

 主題としては、「インパール作戦中に、牟田口廉也は後方で連日宴会で遊んでいた」という話には一次史料がないのではないか……? という話で、広中氏が「一次史料がなく、誇張ではないか」とウェブ記事を挙げた後、「読書放浪記録」というブログにて反論があり(他にもあったらしいですが)……といった感じになっていたようです。


 以下、時系列順にリンクを貼ってみます。

牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵(広中一成)

 ↑反論

広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について(読書放浪記録)

 個人的には、後者に書かれていたような日本軍の将軍達の遊興があったとして、イギリス軍の将軍達はどうだったのだろうかということが気になります(^_^; 少なくともイギリス軍側の一般兵士には(日本軍側の一般兵士と同様)そういうことがあったことは、確からしいですが(→インパール戦洋書をちょっと読んだ感想(慰安婦、日本軍兵士の強さへの記述等) (2020/03/06) )。



 その後、↑の反論とは無関係に、↓がアップされたようです。

「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」 広中一成 × 辻田真佐憲 トークイベント

 ↑の中に、「平林:前線の兵士たちの回想録にも、よく牟田口が出てきますが、常識的に考えて、兵卒が司令官と面識があるはずがない......」というくだりがありますが、イギリス軍側の司令官スリム中将はむちゃくちゃ兵卒と面識を持っていたらしいので、やはりそこらへんの対比に更に興味をかき立てられました。

 また、「広中:河邊の日記の中では、牟田口は割と評価が高いんです。インパール作戦を開始した日の記述では、気配りのできる陽性な人物であることが書かれていたりします。」という話なんですが、マッカーサーは部下や同僚達からものすごく変人扱いされていたのに、上司に対してはものすごくコミュニケーション上手で、それゆえ出世していって……と先日読んだのを思い出しました。そういう傾向性の人が世の中にいる、ということかと思いました。


 そして、このトークイベントの内容に対する、「読書放浪記録」側の指摘が↓

広中一成氏らの見解への疑問(高木俊朗の作品について)(読書放浪記録)

 なかなかに興味深い指摘だと思いました。



 そして時系列的にはこの後に、最初の2つのリンクを読んでWebライターの石動竜仁という方が、牟田口廉也の遊興逸話に関して独自に調べておられました。

「愚将」牟田口廉也中将の遊興逸話の真偽(石動竜仁)

 この中では、広中氏が「出典が不明確」としつつ引用してきた部分の引用者中略部分に出典が書かれていた(!)ことが書かれており、それが本当ならだいぶやばい話ですね(広中氏なりの理由もあるかもですが)。

 結論的には、広中氏の問題提起は重要だと思うが、広中氏の手法には問題も多いと思われる……というような話で、もしそうだとすれば、ワーテルロー会戦に関して「イギリス軍の功績ばかりが喧伝されすぎだ」という批判をしたホシュレー氏の主張が、その主張自体は重要であったものの手法に問題が多かったというのと似た構図かも(→1990年代以降のワーテルロー論争と、お勧めのワーテルロー洋書 (2020/01/16) )。あるいは、問題提起を最初にする人というのは、やや拙速になる傾向があるのかもと思ったり。


 ただ、上記で挙げたどの論者も、「自分の見解が絶対ではない」「論争大歓迎」という姿勢を見せているのは素晴らしいと思います。

 今回見つけたのは以上の5つのウェブページでしたが、他にも興味深いものの存在をご存じの方おられましたら、ぜひ教えて下さい。



 ただあれですね、こんなにも日本軍の第15軍の幹部達が遊興にうつつを抜かしていたとすれば、OCS『DAK-II』のイタリア軍に移動娼館ユニットがあったり、イタリア軍プレイヤーは各月毎にイタリアンレストランに食べに行かねばならないというルールがあったりするのを我々日本人が笑ったりはできないような……。





 OCS『Burma II』にもしハウスルールを入れるとすれば、「日本軍の第15軍司令部ユニットを管轄するプレイヤーは、毎日本軍プレイヤーターン開始時に、エロ動画を5分間以上視聴しなければならない」とかでしょうか?(おい)

 ↓OCS『Burma II』の日本軍第15軍司令部ユニット。

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一人の将軍に関して10~30ページ程度で記述する列伝形式の本がいいと思います

 私は、第二次世界大戦やナポレオン戦争期の将軍達の人物像に興味を持ってまして、色々資料を集めて読んだり、いくらかブログに書いていったりしているわけですが……。

 あの大木毅さんがツイッターで、このような事を書いておられました。




 個人的には、列伝形式の本はかなり好きです。勿論、極めて重要な人物に関しては一人一冊で全然良い(というかそれでも足りない)と思うのですが、一方で多くの人物について知っていきたいという事からすると、一人一冊は読むのに(もちろん書くにも)時間がかかりすぎる。逆に記述が少なめの例として、事典形式やコラム形式などで一人半ページ~1ページ半くらいで将軍の経歴や人物について書かれている本も結構多数ありますが、こちらは概略が最小限分かる程度で、ボリュームが足りないと感じます。

 それらに対して一人につき10~30ページ程度で記述する列伝形式の本は、ちょうどいいボリュームでその人物に関する理解や印象が深まり、それでもってある程度の数の人物を扱っていける、ある意味素晴らしい形式ではないかと……(ただし、やや書き手の見解が強めに出る気もします)。



 以前、古本屋でたまたま見つけて買っていた列伝形式の本が3冊ありまして、先日目次を見てみると新たに興味を持つようになった将軍が複数人扱われていたので、読んでみて(あるいは読んでいる途中)、非常に良かったです。しかも改めて確認してみると、著者は3冊とも児島 襄氏でした。




 興味のある方向けに、扱われている人物を挙げておきます(その情報が割と出てないような気がするので)。また、今回私が興味を持って読んだ(読もうとしている)人物には「○」とその理由を書いておきます(結構重複がありますね)。

『素顔のリーダー』
ナポレオン
ヒトラー
西郷隆盛
毛沢東
東條英機(○:OCS『Burma II』のインパール作戦の関係で)
マッカーサー(○:OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)の1941年のルソン島での戦いの関係で)
東郷平八郎
ロンメル(○:なぜか?未読でした(^_^;)
乃木希典
パットン(○:OCS『Sicily II』『Tunisia II』『Beyond the Rhine』の関係で)
山本五十六
チトー
蒋介石
チャーチル(○:ウェーヴェル将軍の関係でチャーチルに興味を持ったので)

 この本には(後の2冊と異なり)主要参考文献が挙げられていまして、日本語のみならず英語やドイツ語、あるいは中国語?の文献も挙げられています。参考文献が挙げられているのは素晴らしいと思います(個人的にその辺の情報が好きなだけ?)。



『指揮官』
第一部
山本五十六
宮崎繁三郎
山下奉文
本間雅晴(○:OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)のルソン島の戦いの日本第14軍司令官)
栗林忠道
栗田健男
牟田口廉也(すでに以前読んでました(^_^;)
牛島満
中川州男
小沢治三郎
安達二十三
大西瀧治郎
東條英機(○:OCS『Burma II』のインパール作戦の関係で)
阿南惟幾

第二部
ダグラス・A・マッカーサー(すでに以前読んでました(^_^;)
オード・C・ウィンゲート(○:OCS『Burma II』で扱われるイギリス軍チンディット部隊の指揮官)
ウィリアム・F・ハルゼー
レイモンド・C・スプルーアンス
ジョージ・パットン
チェスター・ニミッツ
ホーランド・スミス
エルウィン・ロンメル
林彪
グリゴリー・ジューコフ
チャンドラ・ボース(○:OCS『Burma II』のインパール作戦の関係で)
ドワイト・D・アイゼンハワー
アドルフ・ヒトラー


『参謀』
第一部
石原莞爾
中沢佑
辻政信
富岡定俊
草鹿龍之介
前田正美(○:OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)のルソン島の戦いの日本第14軍参謀長)
宇垣纏
井本熊男
野々山秀美
藤原岩市
大谷藤之助
今井武夫
八原博通
池田純久
杉山元

第二部
ハンス・シュパイデル
マイルス・ブローニング
ジョージ・C・マーシャル(○:アメリカ陸軍参謀総長)
アーネスト・キング
ロバート・B・カーニー
アルツール・シュミット
ウォルター・B・スミス
ウィリアム・リーヒ
アルフレート・ヨードル
コートニー・ホイットニー
ジョセフ・スチルウェル(○:OCS『Burma II』で扱われる中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官)
A・C・ウェデマイヤー
ウィルヘルム・カイテル




 また、だいぶ昔に買っていた列伝形式の将軍本として、柘植久慶氏の『ザ・グレート・ジェネラルズ 名将たちの決断』というのもありました。



 こちらはAmazonのページの「試し読み」で目次が見られるのでそちらで、どの人物が挙げられているかをチェックしてもらったら。




 それから、先日購入して摘まみ読みしてブログにいくらか挙げてました、『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』も、素晴らしい列伝形式の本かと思います(「序論(introduction)」も秀逸!)。この本はそれぞれの人物について「経歴」「人物像」「著者がピックアップした、その人物が指揮した会戦1つ」について述べられているのですが、この最後の「会戦」について、どの会戦が取り上げられているかの情報も今ここに挙げておいた方が良いのではないかと思うので、挙げておきます。



Napoleon……The Battle of Austerlitz:2 December 1805
Eugen de Beauharnais……The Battle of the Mincio:8 Feburary 1814
Lasalle……The Battle of Medelin:28 March 1809
Moore……The Battle of Coruna:16 January 1809
Wellington……The Battle of Toulouse:10 April 1814
Hill……The Battle of Arroyo dos Molinos:28 October 1811
Archduke Charles……The Battle of Aspern-Essling:21-22 May 1809
Blucher and Gneisenau……The Battle of Laon:9-10 March 1814
Bagration and Barclay de Tolly……The Battle of Smolensk:17 August 1812
Kutusov……The Battle of Borodino:7 September 1812


 ブログで挙げていたエントリは↓こちら。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話 (2020/01/18)
ウジェーヌはどのように有能だったのか? (2020/01/31)
フランス軍の騎兵部隊指揮官ラサール将軍について (2020/02/02)
ウェリントン公爵の人となり その2(軍事指揮や性格など) (2020/02/28)
ナポレオン時代、オーストリア軍のカール大公の軍事指揮官としての評価 (2020/03/20)




 他に列伝形式の本があったりしないか、Amazonで検索してみたのですが、私が興味を持っている領域で良さげな本はぱっとは見つけられませんでした。和書や洋書で、良さげな列伝形式の本をご存じでしたら、ぜひ教えて下さい!

 一応、持っているけども個人的には好みでなかった本も参考に挙げておきます。




 『ドイツ軍名将列伝―鉄十字の将官300人の肖像』は多数の将軍について経歴を調べたりするにはいいのですが、人物像についてはほとんど何も触れられていないです(特に著名な数人に少し記述がある程度)。まあ、扱っている人数が多すぎて(書名は列伝ですが)事典形式に近いので、当たり前ですが。

 『第二次世界大戦将軍ガイド』も一冊で70人余りを扱ってますから一人数ページで、しかも人物像よりも戦いに関する記述の方が多いですし、内容的にも信頼度に不安を感じたりも……。


 持ってないですが、↓なんかアリかもしれないですが、しかし扱っている人数がページ数の割に多いですから、列伝とまでは言えないでしょうかね……(やはり、一人10ページくらい以上は記述して欲しい……)。






 今まで私がいくらか書いてました、将軍に関するエントリも、ある程度の数はある状態になってきたので、ぱっと一覧できるような状態にできた方がいいですかね……(Wikiからのリンク集を作ったり)。

北アフリカ戦線:イギリス軍のオコーナー将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』)

 北アフリカ戦線、イギリス軍のオコーナー将軍についてのまとめです。


 実はこのエントリは1年以上前にほとんど書き終わっていたのですが、↓を注文してみたので、本が届くのを待って加筆して公開しようと考えていました。ところがまったく届かないので、諦めました(^_^; この本なしで、これまで集積していた情報で今後も「北アフリカ戦線:」の見出しで書いていこうと思います。





 以前の「北アフリカ戦線:」エントリは↓こちら。

北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ (2018/10/31)
北アフリカ戦線:イギリスのチャーチル首相について、まとめ (2018/11/02)
北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』) (2019/01/14)
北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)




 さて、オコーナーは「O'Connor」と書き、オコナー、オコンナーなどとも表記されますが、日本語版Wikipediaで「オコーナー」となっていたので、とりあえずそれに倣おうと思います。私が昔訳した文では「オコンナー」になってたりしますが、直すのが面倒なのでそのままにしてあります(^_^;


RichardO'Connor

 ↑リチャード・オコーナー将軍(Wikipediaから)



 オコーナー将軍はコンパス作戦からベダ・フォムの戦いまでの作戦立案者&指揮官であり、リビアのイタリア第10軍を崩壊させるという大成功を収めました。が、直後のロンメルの第一次攻勢の時に不幸にも捕虜になってしまってイタリアの捕虜収容所に送られ、北アフリカの戦場から姿を消してしまいました。その後脱走して、ノルマンディー上陸作戦からマーケットガーデン作戦の少し後くらいまで、イギリス第8軍団の司令官を務めました。



 北アフリカ戦線を扱う『DAK-II』には、OCSで唯一、指揮官ユニットが登場します。

 ↓OCS『DAK-II』の指揮官ユニット

unit00437.jpg


 指揮官ユニットは、1D6してユニットに書かれた数値以上の目が出ればスタックしている陸上ユニットを「あたかも予備マーカーが載っていた」と見なして移動・戦闘をおこなうことができ、また使用を宣言すればアクションレーティングを+1できますが、その場合は死傷チェックをおこないます。結果の中には「捕虜になる」というのもあるので、オコーナーはこれでその目を出してしまったということですね。



 さてさて、オコーナー将軍についてなのですが、まずは概略的な記述を。

サー・リチャード・オコーナー将軍 1889-1981
 1939年9月にオコーナーは第7歩兵師団長となり、イェルサレムの軍政府長官の職務に就いた。1940年7月にはオコーナー及び彼の師団はパレスティナからエジプトへと送られ、そこで彼は友人であったウェーヴェルが務めていた中東軍司令官の下、西方砂漠軍の司令官に任命された。1940年9月、グラツィアーニ元帥麾下のイタリア軍がリビアからエジプトへと侵攻。2ヵ月の内にウェーヴェルは攻勢を発動しトブルクを奪取、1941年5月までにベンガジとエル・アゲイラにまで到達した。この勝利においてオコーナーは北側の部隊を率い、その後ニーム将軍の下でエジプト駐留軍司令官に任命された。1941年3月にロンメルが反撃を開始してすぐにニームとオコーナーは捕虜となり、イタリアへと送られた。1943年12月のイタリア降伏の時に彼らは脱走に成功し、1944年6月にはオコーナーは将軍として復帰してノルマンディー侵攻作戦の第8軍団司令官となった。オコーナーは卓越した指揮官であった。彼の作戦上のモットーは「可能なところであれば、どこでも攻勢を」というものであった。彼の同僚達や戦友達は、彼こそが最も優れた砂漠指揮官と言われるようになるはずだったのに、捕虜になってしまったことが悔やまれる、と考えていた。
『WHO WAS WHO in World War II』P160


 個人的には、上官であったウェーヴェル将軍(→北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05) )が「友人」であったということと、その後上官になるニーム将軍のことをオコーナーは評価していなかったらしいことが気になるのですが、そこらへんはまた後で。

 「捕虜にさえならなければ……」ということはこちらでも書かれていました。

 オコーナーは洞察力のある、機略に優れた指揮官であり、捕虜になることさえなければ、連合軍が勝利する上で更なる偉大な役割を果たしたことは確実であった。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P125


 ウェーヴェルとオコーナーのコンビは、その後の北アフリカにおける英連邦軍の指揮官コンビよりもどうも遙かに優秀であったと思われ、オコーナーが捕虜になってしまったためにその両輪の一方が外れてしまい、その結果ウェーヴェルもその後更迭されるに至った……のかもと思ったりも。


 オコーナー将軍の能力に関する具体的な記述としては……。

 西方砂漠軍のGOCであったリチャード・オコンナー中将の中に、ウェーヴェルは野戦指揮官としての傑出した才能を見いだしていた。頭の回転が早く(しかも詳細を把握しつつ)、重圧の下でも冷静で部下達を落ち着かせることができ、戦いに自らの意志を反映すべく、常に必要な時に必要な場所に現れた。彼の連隊はThe Cameronians(Scottish Rifles)であり、彼は他の軽歩兵将校達、特にハインツ・グデーリアンによって示された機械化部隊による機動戦の概念を理解する天性を持っていた。
『Operation Compass 1940』P15

 オコンナーは電撃戦理論を学んだことはなかったが、自身の戦術を論理的な応用に過ぎないと見なしており、こう語っていた。「もしその応用が不適当なものであったならば、イタリア軍ははるかにましな戦いをしたであろうし、我々の前進はもっとゆっくりで、犠牲も大きかったろう。あらゆるタイプの奇襲を、イタリア軍は嫌ったのである。」この戦役における突破により、彼はバス勲章の司令官騎士となった。
『Operation Compass 1940』P16



 コンパス作戦の立案に関してはこのように書かれています。

 ウェーヴェルはその様々な指示の中で、機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調し、様々な戦術的な提案をおこなったが、ウィルソンもオコンナーもそれらを高く評価することはなかった。やがて、ウィルソンはウェーヴェルに対して、ニベイワとソファフィキャンプの間のエンバギャップを突破し、西からニベイワとTummarsを攻撃するという、オコンナーの修正された計画を提示した。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、彼は喜んでこれを承認した。
 この計画がコンパス作戦として知られるものであり、オコンナーの想像力に富んだ精神によって具体化され始めたものであった。
『Operation Compass 1940』P28

 いっぽう、イギリス軍側のウェーベル将軍と西方砂漠軍司令官のリチャード・オコナー中将(初期の実験戦車旅団の副官をつとめた)は、それぞれ、イタリア軍が攻撃を仕かけてこないからには、徹底的に敵を攻撃すべきである、との結論にたっしていた。
 しかも、11月の末には、攻撃戦力もととのっていた。なぜなら、西方砂漠軍は、インドおよびイギリス本国からあらたに増援された部隊と装備で、強化されていたからである。
『米英機甲部隊』P87



 コンパス作戦の実行について。

 オコンナー将軍はマチルダ戦車を中心としたイタリア軍襲撃計画を立て、それは輝かしい勝利をもたらすこととなった。第7装甲師団の脇で戦ったのは第4インド師団であった。この第4インド師団は戦闘未経験ではあったが長年訓練されてきたインド軍の最上の部隊であり、その多くはインド北西国境で編成されたものであった。イギリス軍はこの地に近衛部隊をも投入していたが、一方イタリア軍における最上の部隊はイタリア本土にのみ配備されていた。イギリス軍の機甲部隊は良く訓練されており、しかもマチルダ重戦車を装備していた。ドイツ軍は1940年にアラスでマチルダ戦車に遭遇していたがイタリア軍にはその経験はなく、アラスでのドイツ軍のように、逃げることしかできなかった。それらの全部隊がタフでプロフェッショナルな中核部隊として戦間期を通じて訓練されてきており、進行中の戦争の拡大によってさえ、まだ薄められてはいなかったのだった。それが第二次世界大戦中の最高のイギリス軍指揮官達のうちの一人の指揮されており、イタリア軍の大敗北の要因は揃っていたのであり、そしてそれは起こったのだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P30


 「最高の……一人」というのがオコーナーです(よね?)。「タフでプロフェッショナルな中核部隊」に関してですが、『DAK-II』ではこのコンパス作戦の頃のイギリス第7機甲師団はものすごく強力なのですが、それらのユニットが失われるともう二度とそんな優秀なユニットにはなってくれません(『DAK-II』は同じ部隊でも時期毎にユニットを入れ替えてより正確な強さを反映することになっているのです)。ですからまさしく、この頃のイギリス軍は「最・強」という感じがします。

 ↓『DAK-II』のこの件に関するデザインノート(5.5b)。

デザインノート:並外れた訓練を受け高い誇りを有していた、この元祖「砂漠のネズミ達」は、ホバート将軍によって精鋭の砂漠機動部隊へと形作られたものでした。この部隊は、1940 年の6 月から9 月のイタリア軍による侵攻開始までの期間にさらなる経験を得て、いよいよ鋭利に研ぎ澄まされました。特に第11 軽騎兵連隊は国境を越える作戦活動を精力的におこなっていました。12 月のコンパス作戦の開始時には、第7機甲師団はイギリス陸軍が大戦後期まで到達することのなかった(あるいはもしかしたら最終的に到達し得なかった)練度と独立した指揮能力を有する部隊へと到達していたのです。
 戦前の質の悪い(数も深刻なほどに不足していた)装備にもかかわらず、この師団はキレナイカ全土を横断する進撃において先鋒を務めることができました。海岸道路に沿って多くの戦力を残していった後になお、細切れになっていた残りの部隊がベダ・フォムで、逃げようとしていたイタリア軍を撃ち破ったのです。疲弊しきったこの部隊はその後、再装備のためにカイロへと退き、前線には新しく第2機甲師団(とロンメルという名の男)を置いていきました。再建された第7機甲師団は、依然として英軍の最優秀部隊でありましたが、かつて披露したような単独での機動作戦を再現することは最早できなくなっていたのでした。
 初期にこのようなことが可能であったのは、英軍が敵対するイタリア軍を見下していたことによるのだと言う人もいるかもしれません。しかし、私はそのような態度は当時のこの部隊の状態を正確に反映したものだとは思いません(むしろ後世の歴史家のでっち上げなのではないでしょうか)し、このような言説はこの部隊とその技量に対するひどい仕打ちだとさえ思います。尤も一つ言えるのは、この初期の時点ではイタリア軍側が効果的な対戦車兵器を持っておらず、それがまだやや諸兵科連合戦術に欠けていたイギリス軍が「ただで済む」ことを許していたということです。後にこの戦域に効果的な対戦車砲(ドイツ軍はもちろん、イタリア軍も)が到着してからは、もはやそのようなことは不可能になったのでした。




 『米英機甲部隊』にはオコーナーの行動について結構詳しい記述がありました。

 ウェーベルは、エリトリア〔現在のエチオピア北部〕でイタリア軍を本格的に撃滅する計画をたて、キレナイカでは、イタリア軍のキモをひやす程度の、いわば強力な遊撃作戦以上の戦術はとらないつもりだった。
 このウェーベルの的をしぼった作戦意図を知らなかったオコナーは、敵のあらゆる弱点を突こうとかんがえていた。もともと、数のうえでひどく優勢なイタリア軍にたいしては、奇襲作戦のほかに、彼としては勝利ののぞみはなかったのである。
 オコナー将軍の天才的な素質は、この"奇襲"のためのたゆまざる努力に見いだすことができるが、彼が最終的にねりあげた作戦は、意識的あるいは無意識的に、フラーの『作戦計画1919』から、おおくのヒントをえていたといえる。
 広範囲にばらまかれたイタリア軍の陣地は、相互の協力作戦のためには、はなれすぎていた。このことは、砂漠からやってくるイギリス軍の機械化部隊が、地雷原と対戦車壕のあいだをすりぬけて、イタリア軍陣地内に侵入するのを、じっと待っているかたちになっていた。
 オコナーは、ブクブクちかくに英機甲部隊があらわれた、というだけでイタリア軍が崩壊するとは、まったく考えていなかった。
 そこで彼は、第7機甲師団をつかって西からイタリア軍陣地を襲い、同時に第4インド歩兵師団と「マチルダ」戦車を、これもまた西側から突入させて、敵を孤立させる戦法をとった。
 ようするに、巡航戦車が敵の後方に侵入して混乱させ、そのあいだに、戦場までトラックで輸送された歩兵部隊と歩兵直協用「マチルダ」戦車が敵の防衛線を突破し、その後全軍が一体となってイタリア軍を追撃、粉砕するという構想であった。
 この構想は、敵の防御線を側面と背後から攻撃するという点を多少手なおししたことをのぞけば、『作戦計画1919』をもっとも正しいかたちで実行したものであった。
 この戦いにそなえて、部隊はとくに念いりな訓練をおこなった。ひとつひとつの戦いの局面は、くりかえし練習された。
 またこの作戦を、できるかぎり秘密にするため、11月26日に第1回の演習が実施されたのち、12月はじめに第2回の練習をおこなう、と発表された。だが、これは本物の作戦だったのである。
『米英機甲部隊』P88

 ウェーベル将軍は、北アフリカの砂漠での大勝利にもかかわらず、つぎにエリトリアを攻撃するという当初の計画を、変更するつもりはまったくなかった。
 そこで12月11日、彼はオコナー将軍に、第4インド師団をエジプトにもどし、西への進撃は、第7機甲師団と少数の部隊をひきいて続行することを指令した。少数の部隊とは、バルジア攻撃までにまにあわせる、と約束した第6オーストラリア師団であった。
 オコナーは、いまや、追撃を続行するにしても、2万人もの捕虜のあつかいにこまっていた。というのは、機甲部隊には歩兵がすくないので、捕虜のとりまとめは、歩兵師団にたのむよりほかなかったからである。
 そんななかで、追撃部隊ははやくも国境をこえ、バルジア(12月14日に包囲された)に後退するか、トブルクにひきかえすしかなかったイタリア軍小部隊の掃討にあたっていた。
 トブルクのイタリア軍守備隊は、ちかくの砂漠で偵察活動中の英第11軽騎兵連隊の存在に、すぐに気がついた。
 この連隊こそ、機動力を必要とする機械化戦の神髄ともいえる部隊であった。この部隊は、熟練した技術戦闘員によって維持されていた。燃料供給がつづき、故障や戦闘で破損した部品の交換や予備車両が前線にとどけられるかぎり、敵をふるえあがらせることができた。
『米英機甲部隊』P92

 オコナー将軍は第7機甲師団の全部隊を追撃戦に投入し、それにオーストラリア師団を後続させることをつよくのぞんでいた。しかし、輸送力の不足からくる慢性的なガソリン不足が、この作戦をおくらせ、突撃は1月27日まで不可能であった。そのころは、すでにイタリア軍は北にぬけだし、後退していた。
 オコナーは、この作戦はべつに重大な危険はともなわない、とつよく主張した。
 なぜなら、この作戦は、数のうえでは優勢な敵の占領地区の中心につっこむ計画であるが、もし困難にぶつかったら、いつでもひきあげることができ、いずれにしても、国の運命を左右するようなことはない、とかんがえていたからである。
 イギリス政府は、このベンガジ攻略作戦に、はじめは、11月にイタリア軍に侵入されたギリシャへの援助と、イタリア領東アフリカの征服が優先するという理由から、同意しなかった。しかし、1月31日、その禁止がとかれ、オコナーの部隊は増援なしで出撃の許可をえた。
 オコナーの手元には、50台の巡航戦車と軽戦車97台しかなかった。しかも、これらはひどい状態で、修理が必要であった。だが、イタリア軍がベンガジ突出部からまもなく後退するらしいとの情報がはいると、もう足ぶみしてはいられなかった。
『米英機甲部隊』P95,6




 ベダ・フォムの戦いの現場にはオコーナーはいなかったわけですが、ベダ・フォムの戦いの詳細については、以前、↓の動画の続きを作るためにその情報をまとめていたベダ・フォムの戦いというページがありました。中途半端なままですが……。






 やられたイタリア軍のグラツィアーニ元帥にとっては、相手がオコーナーであったことは不幸だった、と……。

 グラツィアーニにとって不幸だった点が2つある。
 第一に、イギリス軍の司令官がオコーナーだったこと。無名だが、諸兵科連合部隊の運用に関しては、充分に経験を積んでおり、またその手腕は卓抜してもいた。それ以上に重要なのは、機転が効く男だったということだ。どれほど機械化された部隊であろうと、携行していった弾薬がなくなれば、補給基地まで戻り、再補給を受けなければならなかった。ところがオコーナーは、後の機動戦でどこの国の軍隊でもそうしたように、自らのアイディアで機動補給部隊を編成し、機動部隊に随伴させた。トラックから補給を受けることにより、戦闘部隊がわざわざ後方までさがる必要がなくなったのである。
 また、機甲部隊を用いて夜襲を行い、これに成功を収めた。イギリス軍歩兵が、戦車と共同で戦う訓練を充分に積んでいなかったにもかかわらず、イタリア軍をパニックが襲った。
『コマンドマガジン27号』P19



 コンパス作戦の後の追撃戦の最終段階であるベダ・フォムの戦いが終わった2月7日、オコーナーはウェーヴェルに対して「狐は公然と殺された……(Fox killed in the open...)」という電信を送っているらしく、その件が日本語版Wikipedia(英語版も)に書かれていたり、『Desert Rats at War: North Africa. Italy. Northwest Europe』の一章になっていたりして有名であるようなのですが、この「狐」が、ロンメルがまだ来ていない中で何を差すのか(イタリア軍?)気になったもの、良く分からないのでパス(^_^;


 チャーチルは、このオコーナーの成功を充分に利用することをせずにギリシアへと兵力を引き抜いてしまいます。が、オコーナーはやむを得ないとも考えていた?

 オコナーは、砂漠での経験を積んだ部隊のほとんどを失うことに不愉快な思いをしていたが、自分の軍隊が兵站上限界にきているのは承知しており、敵が混乱をきたしていることもあって、大英帝国全域から到着する新たな補充兵を慣らす時間が持てるだろうと考えた。
『パットン対ロンメル』P215



 その後オコーナーはエジプト駐留軍司令官となり、ニーム将軍が彼の上官となりますが、ニームは砂漠での戦いの経験がありませんでした。

 イタリアに対する戦争中の西方砂漠軍の指揮官は、小柄なリチャード・オコンナー中将であった。彼はロンメルが北アフリカに来る少し前にエジプトの指揮官として呼び戻されたが、その理由の一つは連合軍が急遽ギリシアに部隊をかき集めて送ったことにあった。オコンナーは優れた、兵士達を奮い立たせる指揮官であったが、本来受けるべき評価を受けられなかった将軍であった。この戦域は初めてのフィリップ・ニーム中将が、リビアでの彼の後任としてやってきた。
『Rommel's North Africa Campaign』P25



 この後、ロンメルの攻勢が始まるのですが、その中でオコーナーとニームとの間の関係について……。

間もなく、イギリスにとってさらに悪い状況へ陥ることになる。1941年3月までに、ヒトラーはリビアのイタリア軍を支援するためエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団を送り込んできた。ウェーヴェルとオコーナーは、狡猾で機知に富み、大胆不敵にして「砂漠のキツネ」とあだ名された指揮官のもとにある強敵と直面した。ロンメルはやや時間を置き、3月31日から攻勢を開始した。経験の浅い第2機甲師団(英語版)は完膚なきまで打ち負かされた。4月2日、ウェーヴェルは当時キレナイカのイギリス本国と英連邦軍司令官を務めていたフィリップ・ニーム(英語版)中将(ウィルソンは連合軍のギリシャ遠征軍司令官に異動している)と問題の検討を行った[41]。連絡を受けたオコーナーは翌日カイロより至ったが、一般的事情へ精通していないとしてニームの指揮を拒否している。しかし、彼から助言を得ることには同意した[41]。
日本語版Wikipedia「リチャード・オコーナー」


 この[41]の資料というのが、『Churchill's Lions: A biographical guide to the key British generals of World War II』です。


 4月3日にキレナイカ西部でロンメルが開始した大攻勢によって、現地の英連邦軍が大混乱に陥っているとの報告を受けたウェーヴェルは、同地を統轄するキレナイカ兵団(旧第13軍団)長ニームを罷免し、オコナーを復帰させることを決断していた。
 これを知ったオコナーは、戦局が流動的な状況下で司令官を交代させることは、却って悪い影響を及ぼすとの理由でこの任命に反対し、ウェーヴェルと自分が現地に赴いてニームと共にエジプト防衛の態勢を整えましょうと提言、ウェーヴェルもこれを了承した。
 しかし、このオコナーの提案は、結果的には完全な裏目に出てしまう。

 4月6日、ドイツ軍は何本もの道路が交差する交通の要衝メキリの南方に到達し、道路沿いに退却していた英連邦軍の部隊と司令部に次々と襲いかかった。同日から4月7日にかけて、ニームとオコナー、そしてこの年の2月にベダ・フォムでイタリア軍を壊滅的敗北に追い込んだ立役者の一人である、戦車部隊指揮官のクーム准将がドイツ軍に捕らえられ、翌4月8日には第2機甲師団長ガンビア=ペリーも捕らえられた。
『ロンメル戦記』P218,9



 捕虜になった時の詳細について。

 この新しい4番目の部隊は、ポナート中佐によって指揮され、第8機関銃大隊の指揮下にあり、デルナ近くのバルボ街道を遮断せよとの命令を受けていた。彼は砂漠を急いで横断し、そこに6日の晩に到着した。当初約10台のトラックで構成されていたこの部隊は、トブルクに向かって退却中の英連邦軍の事実上の首をはねることになった。オコンナー将軍は1台のトラックの後部で寝ており、クーム中佐とニーム将軍がフロントシートに座って、Jebel Akhbarでの指揮官会議の後トブルクへの途上にあったのだが、その時彼らはドイツ軍の哨兵に停止させられたのだ。ポナートは現在の英連邦軍の野戦指揮官を捕らえただけでなく、最も偉大な彼らの前任指揮官をも捕らえ、4月8日までに他にも約900名の捕虜を捕らえたのだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P56



 ↓えらい皮肉な(^_^;

 オコンナーはかつて、偉大な指揮官の重要な資質は何かと問われたことがあった。その時彼は、最高司令官は退却を遂行する能力を持たねばならないと答えた。この退却は連合軍にとって大きな失敗であり、オコンナーもニームも今や捕虜になってしまったのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P58




 オコーナーを失った痛手について。

 車の窓から自動小銃を突きつけられて、オコナーとニームは降服を強いられ、ただちにドイツ軍の戦線へ連行された。ほんの数日前に、オコナーはナイトに叙されたばかりだった。彼ほど洞察力のある戦略家を失うことは、いかなる軍隊にとっても耐えがたいことであり、この小柄なアイルランド人は、そのエネルギーと、そのすばやい気力のこもった態度と、その魅力で、砂漠の兵士たちに愛されていた。彼を失ったことは、たいへんな痛手だった。
『砂漠の戦争』P92




 そしてまた、ロンメルが、オコーナーを手本にしたことについて。

 北アフリカ戦の序盤において、英連邦軍は一時的な劣勢を跳ね返す形で勝利を収めることに成功した。戦略的には、エジプトの対リビア国境付近における交通路の整備を意図的に行わなかったことが重要な役割を果たす結果となったが、軍事作戦面では、当時の英連邦軍がいち早く、砂漠戦における要点を見抜いていたことが勝利へと結びついたと言える。
 その要点とは、第一に奇襲、第二にスピード、そして第三に大胆な機動である。
 ウェーヴェルとオコナーは、兵力的に劣勢の中でも怯むことなく、冷静に情勢を判断し、イタリア軍の本格的侵攻を受けた戦いの序盤では、自軍に有利な地点で戦線を安定させることに成功した。そして、奇襲による反攻に転じた後は慎重に敵軍の余力を見抜き、目前に現れた勝機を逃すことなく、積極的かつ大胆な部隊運用で戦車および車輌部隊を迅速に前進させ、北アフリカのイタリア軍を事実上の壊滅へと追い込んでいった。

 彼らはまた、心理戦の要素を重視し、必要に応じて自軍の兵力を過大に見せたり、その位置を秘匿する欺瞞工作にも力を注いだ。こうした一連の行動が、北アフリカ戦線の第一幕における英連邦軍に輝かしい勝利をもたらす上で、重要な役割を果たしたのである。
 だが、この直後に枢軸軍の新たな司令官として北アフリカ戦域へと登場するロンメルは、イタリア軍の敗因を徹底的に分析した上で、先に述べた「砂漠戦の要点」をさらに突き詰めた形で独自の戦法を考案し、約二年間にわたって英連邦軍を苦しめることになる。
 言い換えれば、「コンパス」作戦における英連邦軍の勝利は、いわばロンメルにとっての「砂漠戦の教科書」であり、英連邦軍は間もなくその本質を会得した優秀な教え子から、北アフリカの戦場で手痛い「教育」を受けることになるのである。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P17,18




 その後の北アフリカの英連邦軍が、このオコーナーと同じクラス(第8軍司令官)の人材において良くなく(具体的にはカニンガムとリッチー)、苦杯をなめたことを考えると、本当にオコーナーを失ったことはイギリス軍にとって大きな痛手であったろうなと思います。

 もしオコーナーが捕虜にならず、その後も北アフリカ戦線で指揮を執っていたら、↓こうなっただろうとも……。

 オコーナーの第一の功績は1940年12月の反撃、つまりコンパス作戦であり、そのクライマックスはベダ・フォムであった。彼は単にイタリア第10軍を打ち破ったのみならず、それを完全に壊滅させ、敵の戦闘序列から削除させたのであった。【イギリス】第8軍の指揮をもし、カニンガム、リッチー、あるいはオーキンレックでなく、オコーナーが執っていたとしたら、ロンメルにどのようにして対抗したであろうか? それに成功すれば恐らく、続けて彼は第21軍集団【ノルマンディー上陸作戦以降でモントゴメリーが指揮していた軍集団】を指揮したであろうから、モントゴメリーと比べてどうだったであろうか気になるところである。ただ少なくとも、【モントゴメリーと異なり】彼はアメリカ軍とより協調したことであろう。
『British Commanders of World War II』P30



 ↑ここらへん、ちょっと関係すると思われることとして、最初にちょっと書いていた通り、オコーナーは脱走してイギリス軍に復帰し、第8軍団司令官としてノルマンディー上陸作戦からマーケットガーデン作戦のちょっと後くらいまで指揮を執って結構活躍したらしいのですが……(その時期のことについては、日本語版Wikipedia「リチャード・オコーナー」にある程度詳しく書いてあります。また、マーケットガーデン作戦の少し前から始まるOCS『Beyond the Rhine』には第8軍団司令部ユニットが登場します)。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第8軍団司令部ユニット

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 オコーナーが第8軍団司令官を解任される時の話として、英語版Wikipedia「Richard O'Connor」にはこうありました。

しかし、11 月 27 日にオコーナーは解任され、インド・東部駐留軍司令部としてモズレー・メイン中将の後を継ぐように命じられた。スマートの説明によると、モントゴメリーは「アメリカ人の部下に対して十分に冷酷ではなかった」という理由でこの動きを促し[51] 、ミードはその主導権は参謀総長のアラン・ブルック元帥が握ったとしているが、モントゴメリーはオコーナーを引き留めようとはしなかった[52]。


 どんな理由やねん、と思ったりするのですが……(^_^;

 ここらへん見ていると、オコーナー将軍はモントゴメリー将軍よりも優秀だったのではなかろうかという気がします。有名でないながらも戦史家達からは「明らかにモントゴメリーよりも優秀で、第二次世界大戦における最優秀のイギリス軍指揮官」と目されているというスリム将軍の例もありますし、マジでオコーナーが捕虜にならず、アジアでスリム将軍が指揮をとっている間ヨーロッパでオコーナー将軍が活躍していれば、イギリス軍のみならず連合軍全体が楽をできたのではないかと思ったりも……(T_T)

 あいや、しかし逆に、ロンメルが活躍できなくなってしまったかもしれないので、オコーナーは捕虜になってもらって良かったということで(おい)。


OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)のマップやユニット案を作り始めてみました

 今日、自作のOCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)のマップや戦闘序列を作り始めてみていました。


 オレンジ色が2級道路(1/2移動力)で、黄色が小道(1移動力)のつもりです。2級道路にしたところは当時の国道1、3、5号線で、これらは2車線のコンクリートまたはアスファルトの表面を持つ全天候型道路であったそうです(『FALL OF THE PHILIPPINES』P7)。

unit9749.jpg


unit9748.jpg

 小道として描ける候補の道路は、参考にした地図にはもっとあるにはあるのですが、ゲームマップにする際にはちょっと削っていくものかと思い、必要そうなものだけを選んで描いていきました。村も選択しています。鉄道線は一般補給や鉄道輸送に使えるかどうかは今後のリサーチやテストプレイ次第ですが、少なくとも小道と同様の1移動力の道路として日本軍は使用していたようです。

 また、既存のOCSでは見ないですが、上陸部隊ボックスを描き込んでみました。というのは、上陸海岸でヘクス内に描かれている陸地面積が狭すぎてそこにユニットを置くのに違和感を感じるなぁと思い、ボックスがあった方がよいかもと(初心者向けに作りたいというのもありますし)。

 上陸部隊ボックスの「Hiro Force」は「廣部隊」、「Mura Force」は「村部隊」と『戦史叢書 比島攻略作戦』P164にあるものから書いてみたのですが、漢字の読み方がこれで正しいのかどうか? なぜそういう風に呼ばれたのかという理由が書いてないっぽいのですが(どこかに書いてある?)、指揮官がそれぞれ「恒廣成良中佐」と「木村三雄少佐」なので、その苗字の2文字目から取ったのかなぁ……と推測するも……。

 あと、村や道路の位置は多分、あまりヘクスの端には来ないように調整されるべきものだと思うのですが、とりあえずテスト用ということで、元の地図と近い場所に書いてあります(もちろん、色々必要上「隣のヘクス」に移したりしている例はあります)。




 ユニット案ですが、日本軍の上陸部隊のもののみとりあえず考えてみました。2戦力ばかりでどうかとも思うのですが、しかしまぁOCS『Burma II』の日本軍ユニットも大体そうなので、なしではない……? 移動力(移動タイプ)の比定にはより悩むのですが、とりあえず……。

 「もっとこうじゃない?」とかありましたら、ぜひご指摘下さい。




第48師団は自動車化師団であるが、自動車自転車徒歩各1/3の実情
戦闘モードは徒歩3、移動モードは自動車化9?
輜重兵連隊は3個中隊とも自動車編成

第16師団は徒歩師団であるが、1/3は自転車装備
戦闘モードは徒歩3、移動モードは徒歩6?
輜重兵連隊は1個中隊は輓馬、2個中隊は自動車

山砲兵の1個大隊は、
自動車化ならば戦闘モードは徒歩3、移動モードは12?
駄馬編成ならば戦闘モードは徒歩2、移動モードは4?

工兵は純粋に自動車編成
戦闘モードは自動車化6、移動モードは自動車化12?



田中支隊(約2,000)
第48師団台湾歩兵第2連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(2-Form2-48)
裏1-4-9(半自動車化)

第48師団山砲兵第48連隊第1大隊
3-3-1-3 Artillery Bn(1-48-48)
裏1-3-1-12(自動車化)


菅野支隊(約2,000)
第48師団台湾歩兵第2連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(3-Form2-48)
裏1-4-9(半自動車化)

(1-Form2/48の2個中隊欠がここにあるが……?)



■リンガエン湾

軍直轄上島支隊
第16師団歩兵第9連隊第1大隊
2-4-3 Infantry Bn(1-9-16)
裏1-4-6(徒歩)

軍予備隊
第16師団歩兵第9連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(2-9-16)
裏1-4-6(徒歩)

軍直轄左側支隊
第16師団歩兵第9連隊第3大隊
2-4-3 Infantry Bn(3-9-16)
裏1-4-6(徒歩)


左翼隊
第48師団司令部
48 Div,HQ
6-0/4-12(自動車化)?

第48師団 台湾歩兵第1連隊第1大隊
2-4-3 Infantry Bn(1-Form1-48)
裏1-4-9(半自動車化)

第48師団 台湾歩兵第1連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(2-Form1-48)
裏1-4-9(半自動車化)

第48師団 台湾歩兵第1連隊第3大隊
2-4-3 Infantry Bn(3-Form1-48)
裏1-4-9(半自動車化)

第48師団 山砲兵第48連隊第3大隊(自動車編成)
3-3-1-3 Artillery Bn(3-48-48)
裏1-3-1-12(自動車化)

第48師団 山砲兵第48連隊第4大隊(駄馬編成)
3-3-1-2 Artillery Bn(4-48-48)
裏1-3-1-4(徒歩)

第48師団 工兵第48連隊(実質は大隊。3個中隊自動車編成)
2-4-6 Infantry Bn(48 Eng-48)
裏1-4-12(表裏自動車化)



右翼隊
第48師団 第47歩兵連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(2-47-48)
裏1-4-9(半自動車化)

第48師団 第47歩兵連隊第3大隊
2-4-3 Infantry Bn(3-47-48)
裏1-4-9(半自動車化)

戦車第4連隊


第48師団 捜索第48連隊(4個中隊編成、2個中隊は乗車、2個中隊は装甲車)


第48師団 山砲兵第48連隊第1大隊(1個中隊欠。自動車編成)
3-3-1-3 Artillery Bn(1-48-48)
裏1-3-1-12(自動車化)

野戦重砲兵第8連隊第1大隊(1個中隊欠)




■レガスピー

木村支隊(約2,500)
第16師団司令部
16 Div,HQ
6-0/4-12(自動車化)?【ラモン湾の方が本体?】

第16師団 第33歩兵連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(2-33-16)
裏1-4-6(徒歩)

第16師団 第33歩兵連隊第3大隊
2-4-3 Infantry Bn(3-33-16)
裏1-4-6(徒歩)




■ラモン湾
 兵力は約7,000

広部隊
第16師団 歩兵第20連隊第2大隊
2-4-3 Infantry Bn(2-20-16)
裏1-4-6(徒歩)

村部隊
第16師団 歩兵第20連隊第1大隊(第3中隊、機関銃1個小隊欠)
2-4-3 Infantry Bn(1-20-16)
裏1-4-6(徒歩)


師団主力
第16師団司令部
16 Div,HQ
6-0/4-12(自動車化)?

第16師団 歩兵第20連隊第3大隊
2-4-3 Infantry Bn(3-20-16)
裏1-4-6(徒歩)

第16師団 捜索第16連隊(4個中隊編成、2個中隊は乗車、2個中隊は装甲車)

第16師団 工兵第16連隊主力(2個中隊編成、うち1中隊は自動車)
1-4-3 Infantry Bn(16 Eng-16)
裏0-4-9(自動車化)

その他砲兵多数


JasonCという人が個人的に作った「New OCS Variant」のシークエンスとCRT

 ワニミさんに教えてもらったのですが、「Board Game Geek」の『Smolensk:Barbarossa Derailed』関係ファイル置き場に、

New OCS Variant player aid

New OCS Variant revised sequence of play

 ……という2つの不穏な(^_^;PDFの置かれたページがあるとのこと(それぞのリンク先は、PDF自体の前の掲示板のページです)。


 見てみると、例えばこのような……。

unit9752.jpg


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 掲示板を読んでみたところ、これはあくまでJasonCという人が個人的に作ったもので、The Gamersのオフィシャルなものではまったくない、とのこと。JasonC氏はこれを2019年のconsimworldで『Smolensk:Barbarossa Derailed』上で試してみていたようです。



 以下、あくまで個人的な感想ですが……。

 シークエンスでは、移動フェイズ中の航空任務を陸上ユニットの移動の前に全部やってしまうかのようで、「それよりはより柔軟な現状の方がいいなぁ」と思いました。

 また、補給フェイズが拡張フェイズの後に移されていますが、これも掲示板上で「移動フェイズの後に補給フェイズがあるから、拡張フェイズに突破できるのに」と否定的な書き込みがありました。私もそれに賛成ですが、一方で現状拡張フェイズ中の突破がノーリスクであるために、特に1940年の西欧諸国の部隊はやらなかったであろうような行動が可能になってしまっているのかもという推測(仮説)もしており、尼崎会オリジナルハウスルールでは拡張フェイズ後に「孤立チェック」を設けていて、それと似たような考え方なのかなと思ったりも。


 戦闘結果表は、攻撃側のダメージと防御側のダメージが別々に求められるようで、またダメージの量も大きくなっているような気がします。少なくとも防御側については戦闘比方式のようですが、ダメージを別々に求めるというのは、ファイアーパワー方式に近い……?

 私は以前から、「戦闘比方式よりもファイアーパワー方式の方が実際の戦闘の戦闘結果に近かったりしないのかなぁ……?」という疑問を持っているのですが、しかしファイアーパワー方式のゲームをやったことがないという(^_^;(『史上最大の作戦』(エポック/サンセット)は持ってはいるのですが)

 先日、「戦史の探求」さんの【攻撃対守備兵力3:1の原則_統計データと米陸軍教範での考え方】という記事をちらちらと読んだのですが、3:1の戦闘比なら70%程度とかの成功率があるとはいえ、1.5:1でも50%以上の成功率があるのが普通で、実際の戦闘は1.5:1や2:1程度の戦闘比でおこなわれているのが多かったりする……という印象を受けました。OCSはアクションレーティングが非常に優勢なら2:1とか1:1でも戦闘をしていって勝てるということがあって、そこらへんはいいと思うのですが、私は「低比率でも戦闘をしかけていくことがもっと普通」で「防御側に大ダメージが出るけど、攻撃側にも大ダメージが出る(可能性がある)」戦闘結果表の方が良いのではないかなぁ、と思ったりしていました。そこらへんの私の傾向からすると、よく分かりませんが、JasonC氏の戦闘結果表は好みに近いのかも?


 爆撃結果表は、コストが安く、ダメージが大きくなっています。コストについては尼崎会オリジナルハウスルールの考え方に近いと思いますし、私は個人的にはダメージももっと大きくていいと思っていたので、これも好みかもです。



 でも「New OCS Variant」というネーミングは一見オフィシャルかと勘違いさせそうで、あまり良くないような(^_^; あくまでオリジナルハウスルールだと分かるようにした方が……。


 OCSはゾクゾクするほど面白い、個人的に非常に好みな、素晴らしいシリーズゲームだと思っているのですが、「ハウスルールもまあある程度はありじゃないの?(でもやり過ぎない方がいいと思うけど)」という感じに公式側が言ってもいます(→OCSのハウスルールへの考え方まとめ)。尼崎会でも「自分達のプレイがダメダメだからうまくいかないのでは」と考えつつもいくらかのオリジナルハウスルールを考えたりしているわけですが、他のOCSプレイヤーによるハウスルール案がこうやって見られるようになっていると、参考になってありがたいです。


1941年のルソン島の戦いの詳しいマップのある英語版Wikipedia項目まとめ

 OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)向けに使えそうな情報を探していまして、英語版Wikipediaに結構詳しいマップが載っている項目を見つけたので、備忘のために(後でまた見るために)ここに書いておきます。


 最初に見つけたのは↓で、そこから芋づる式に。

Media in category "Maps of the Battle of the Philippines (1941-42)"

Lingayen Gulf
Japanese invasion of Lingayen Gulf
Japanese invasion of Lamon Bay
149th Armored Regiment
Philippines campaign (1941–1942)




 他にこんなサイトも。

Imperial Japanese Army 3rd Company, 7th Tank Regiment on Route 5, Luzon




 あともしかしたらこの動画を参考にできる可能性も……?







 また、ワニミさんづてでお借りできるかもと書いてました戦史叢書と陸戦史集なんですが、「手に入らないか、5000円~1万円程度?」と勝手に思い込んでいたんですが、先日たまたまAmazonでの検索ワードに引っかかったので値段を見てみたら、1000~2000円程度でびっくり! 「これなら自分で買っても全然大丈夫だな……」と思い、貸していただけることになっていた方にはお詫びのメールを送りまして、購入することにしました。






 また、1944~45年のフィリピン戦記ものは和書でたくさんあるわけですが、1941~42年のものを探してみたところ、↓がひっかかりまして、安かったので注文してみました。




 ……って、アレ? ブログ上では値段が100倍に表示されているのですがどういうこと?


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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