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OCSの歩兵師団は1,000人≒1戦力?

 OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)の作業ですが、いくらか資料を読んでいたのですが、「資料が全部揃ってからでないと効率が悪い」と思い、作業をストップしています(^_^;

 具体的には注文したオスプレイの『The Fall of the Philippines 1941-42』が届いてないのと、お借りできるかもしれない戦史叢書等待ちです。

 ただ、DeepL翻訳の登場以来、「そういえばネット上で読める、普通に出版されている本としては一番詳しそうな英語の本である『The War in the Pacific - THE FALL OF THE PHILIPPINES』をDeepL翻訳で機械翻訳させておけば、全体の把握が楽ではないか」と思って、その作業をやったりしています。



 で、 『THE FALL OF THE PHILIPPINES』を見ていますと、フィリピン軍の歩兵師団は定数7,500名だったとあります。これがOCSではどれくらいの戦力となる感じか、他の国の歩兵師団から類推できないかと考えました(OCSの戦力値は実際には銃器や大砲の数からある程度厳密に決められているようでもあるのですが、まあ大体の数値として)。

 『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』を見ていますと、P26に、オランダ軍の歩兵師団は10,000名、ドイツ軍の歩兵師団は17,000名という記述がありました。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のオランダ軍の歩兵師団(一部)。

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 戦力値は色々ありますが、兵員数や装備レベルなどを個々の師団毎に調べるには手持ちの資料では無理です(^_^;


 一方、ドイツ軍の歩兵師団は20-4-3や18-3-3などが普通でしょうか(16-3-3などもありますが、これは明確に兵員数が少なかったりする師団だったような気が……)。



 また、『Imphal 1944: The Japanese Invasion of India』のP14には、日本軍の第33師団は18,000名だとありました。

 ↓OCS『Burma II』の第33師団。

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 砲兵を除くと総計20戦力です。


 ここらへんを見ていると、歩兵師団はおおよそ1,000名≒1戦力で、装備の充実度等で2~3割の増減幅がある……という感じがします。



 ただし、反証例として、インパール作戦に参加したインド国民軍は総数6,000名だったらしい(前掲書P17および日本語版Wikipedia「インド国民軍」)のですが、OCS『Burma II』では総計12戦力で、上記の推測の幅からかなり外れています(^_^;

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 ただまあ、とりあえず1,000人≒1戦力あたりで、フィリピン師団は装備のレベルはかなり低かったらしいので、1個師団6戦力とか5戦力とか……?(また、訓練度も非常に低かったようなのでアクションレーティングもゼロとかか……)


 ただし、他の独立部隊をユニット化する場合、装備レベルは別としても兵員数はかなり少なめで、そこらへんどうするか……。

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 ↑『THE FALL OF THE PHILIPPINES』P49から。


 第192戦車大隊と第194戦車大隊はM3軽戦車(スチュアート)を装備していたそうで、装備レベル的に「戦闘モードで2戦力、移動モードで1戦力」でも許されるかもですが、第26騎兵(連隊?)は……。(独立?)第43歩兵(大隊?)なんかどうすればいいのか(^_^;

 OCS『Reluctant Enemies』は戦力換算値が通常のOCSの3倍になっているので、それに倣うのもありかも……。でもそれをやると、かなり細かい部隊まで出さないといけなくなるでしょうから、ある程度切り捨てる&リサーチ的に切り捨てざるを得ないことを考えると、通常の換算で良いのかもですね。


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OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーン、第5ターン先攻(連合軍)終了

 尼崎会でワニミさんと、OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーンの第5ターン先攻(連合軍)を終了させました。

 今回連合軍のダブルターンだったので、特にフランス軍はそれほど動きはありません。イギリス大陸派遣軍とベルギー軍はメインの戦線を数ヘクス(次の河川へと)後退させていますが、足止め部隊も置きつつです。


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 今回出た話として、フランス軍はダンケルク方面への戦線の厚みを分厚くしていますが、史実ではパリ方面へ突破されると思ってそちらを分厚くしており、ゲーム上でもパリ市街の1ヘクスにドイツ軍部隊が入っただけで毎ターン1/3の確率でパリが降伏して4VPが入り、それで連合軍の勝利の目は消える(最低でも引き分け)ので、パリ方面をある程度以上分厚くしないといけないな、と。

 また、ドイツ軍側は鉄道輸送でSPだけを運んでいたのですが、前線の守備隊として歩兵連隊を運ぶことも重要で、そこらへんのバランスを取らなければならないのだな……などなど。


イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その4

 今まで3回ほど、「イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由」についてブログで取り上げてました。

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由 (2017/04/09)
イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その2 (2017/05/14)
イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その3 (2017/11/21)


 『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を読んでいましたら、「その2」と同じ、及び上記に挙げたのとはまた違う「合理的な理由」について触れられていたので、引用してみます。

 2単位師団は多くの批判を招きがちである。主として、火力が減少してしまうというような。だが忘れるべきでないのは、このようなコンパクトな編制は、当時視野に入れられていたフランスやユーゴスラヴィアとの戦争での、国境の山がちの地形には適していたということである。それに歩兵連隊を少なめにしていくというのは、戦後には旅団規模がトレンドになっていったという流れを考えれば、それ自体は悪くなかった。むしろ、歩兵用の支援火器と(装甲)車の供給が不充分であったことの方がよほど問題であった。だがまた、歩兵師団を20個から51個にまで増やすことによって、それを指揮するための経験豊かな将校の数に不足をきたしたのも事実である。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P53


 「戦後には旅団規模がトレンドに」というのは私は良く知らないのですが、同書のこのページの最初のところには、第一次世界大戦後にはそれまで「4単位(1個師団に4個連隊)」が各国で普通であったのが、「3単位」に変えていく流れであった……というようなことが書いてあり、20世紀における全体の潮流として、4個連隊→3個連隊→2個連隊(旅団程度)となっていくというのがあったのでしょうか。そうであれば、イタリア軍の「2単位」というのは潮流を先取りしていたのであり、嘲笑されるようなものではない……と。尤も、他の点で色々問題があったわけですが(^_^;



 あと、同書で昨日読んでいた部分で面白かった記述(P64)として、「イタリア軍は将校と兵士との間の距離が遠かったということが問題として挙げられたりする(ただし、前線にいる期間が長くなったりした場合や、戦車師団やアルピーニ師団や空挺師団などのエリート部隊では、距離はもっと近かった)けども、ソ連軍なんか上官が兵士達を処刑したりしまくっていたのに最終的に勝利したのだから、別に将校と兵士との間の距離が遠いとか、そんなの問題でもなんでもないよね?(超意訳)」というのがありました(^_^;





ナポレオン時代、オーストリア軍のカール大公の軍事指揮官としての評価

 『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の人物評のところだけつまみ食いしているのですが、カール大公のところまで来ましたので、今までに集積していた資料と共に、カール大公の軍事指揮官としての評価について。


Thomas-Lawrence Archduke-Charles-of-Austria

 ↑カール大公(Wikipediaから)。



 今回、日本語版Wikipedia「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」も見てみたのですが、非常に興味深い記述で、しかも結構まとまったものでした。英語版Wikipediaも見てみましたが、日本語版Wikipediaとほぼ同じ内容(というか、英語版Wikipediaから和訳されたのでしょうけども)でした。

カールは将帥としてはナポレオンに一歩及ばなかった観はあるものの、当時のヨーロッパにおける有能な軍人の一人として評価されている。またクラウゼヴィッツ、ジョミニらと並び、当時を代表する軍事思想家としても知られており、多くの著作を残している。系統的には前世代の古い思想の影響を受けているが、その影響を脱しつつある側面もあり、古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在と位置づけられている。アメリカのマハンの海軍戦略思想に影響を与えたのは、クラウゼヴィッツよりもジョミニやカール大公の方であった。

カール大公の戦略論では慎重であることを重大事として説いており、万難を排して守備に努める傾向は、受けて来た教育による偏向とも言えるが、彼は然るべき状況が来たと見てとれるまでは実行に移さなかった。それと同時に、極めて攻撃的な戦略を練って実現することも可能であり、用兵の戦術的スキル(例えばヴュルツブルクやチューリッヒで見せたような広い範囲での反攻作戦やアスペルン・エスリンクやワグラムにおける大軍の指揮)は、確実に彼が生きた時代の上位の指揮官たちに引けを取ることはない。1796年の戦役は申し分のない出来と見なされる。1809年に敗北を喫した要因の一部はフランスとその同盟軍の圧倒的な兵力の優位性であり、また一部は新たに再組織されたばかりのオーストリア軍の状態による。しかし一方で、彼がアスペルン・エスリンクの戦いの後、6週間も不活発でいたことは批判の的となってきた[10]。

軍事理論家としてのカールは、兵法の進化の過程の中で重要な存在と位置づけられており、その教えの重みは当然のごとく大きい。しかしその教義は、1806年時点においてさえ古風であると見なされていた。慎重さと「戦略拠点」の重要性は彼の学説において主眼を置かれている。彼の地理的戦略の堅実さは「原則から決して離れない」という規範意識からくるものだろう。彼は軍が完全に安全な状況に置かれているならば危険を冒すことはないと繰り返し助言しているが、このルールを無視して1796年の戦役では輝かしい戦果を挙げている[11]。「戦略拠点はその者の国の運命を決するもので、将帥は常に主に神経を配らねばならない」と彼は(敵軍を打ち負かすことよりも)重視して述べている。カール大公の著作の編集者たちは良い仕事をしているが、クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。戦術に関する著作においてもこの精神は顕著に見える。彼にとって予備兵の存在は「退却を援護する」ものとして意図されている[12]。

【……】

カール大公の理論と実践は、軍事史の中で最も不思議なコントラストを描いている。時には非現実的、時には勇壮、卓越したスキルと鮮やかな動きでもってして、彼は長きにわたってナポレオンの最も強固な対抗者となった[14]。


「クラウゼヴィッツの「カール大公は敵の殲滅よりも保全に価値を置いている」との非難に対して説得力のある抗弁ができていない。」の件ですが、クラウゼヴィッツによる批判は、この部分でしょうか。

『1799年のイタリア及びスイス戦役』の冒頭では、オーストリアのカルル大公が、ジュールダン将軍の率いるはるかに劣勢のフランス軍を撃滅しそこなった理由について、クラウゼヴィッツは次のように書いている。

 第一に、彼には積極性と勝利意欲が欠けている。第二に、通常健全な判断力をもっている彼も、こと戦略に関してはまったく考え方が間違っている。戦争においては、全てを敵の勢力の殲滅につぎ込まなければならないが、それには司令官がはっきりそのことを自覚している必要がある。ところがカルル大公は、然るべき場所から敵を追い払うことしか考えなかった。彼はある場所なり地域なりを占領しさえすれば勝ったと思ったようだが、これは敵の勢力を萎えさせ、味方を勝利に導く一手段にすぎない。彼が勝ったと思い込んだ何度かの会戦で、敵は大した数の捕虜も取られず、砲も失わずにすんでいる。カルル公は敵の死傷者の数の記録さえ取っていない(原註 これより数年前に書かれた「戦争論」第6篇第16章では、クラウゼヴィッツはカルル大公を「立派な歴史家、評論家であるばかりでなく、優れた司令官」と褒めている)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P495~6


 しかし、『歴史群像』103号では軍事理論家としてのカール大公の記事が載っており、そこに書かれている「カール大公が自軍の保全の方により重きを置いている理由」は、私には結構納得できるものがありました。

 カールからすれば、劣勢兵力で優勢な敵に国家の浮沈を賭けて挑むのは、あらゆる原則から逸脱した「絶望の会戦」であった。そこでカールは、戦術的勝利によってもたらされる軍事的栄光よりも、無益に兵を損じないことを追及した。
 従来、カールの用兵思想の鍵とされてきたのは、「戦略要点(Strategische Punkte)」の概念である。「その占有が作戦に決定的な有利をもたらすとき、この地点を戦略要点という。決定的とは、その地点の占有が後方背後連絡(Communication)の安全につながるという意味である」とカールは定義している。カールの論じた戦略論は、この戦略要点と後方背後連絡を主題に展開されている。
 ナポレオンは後方背後連絡を危険にさらそうとも、猛烈な機動を行い、短期決戦を敵に強要しようとした。もし、敵が決戦に応じなければ、ナポレオンの軍隊は後方背後連絡の不備から衰弱していく。ここに目をつけたカールは、要点での持久によって、敵が継戦能力を失うまで我慢強く抵抗し、相手の疲弊を待ったのである。
 カールにはナポレオンのように損耗した兵力を容易く補充出来る徴兵制という魔法の杖はなく、一度損耗すれば、兵力の回復は絶望的だった。そうしたハンデの下で敵と戦い続け手にした勝利であった。
『歴史群像』103号P163


 カール大公とオーストリア軍を賞賛した記述にはこんなのもありました。

 一方で、オーストリア軍の兵士たちが見せた堅固な軍事的資質と総司令官の才能にも経緯を払う必要があろう。カール大公は、ナポレオンがこれまで渡り合ってきた敵のなかでも最も厄介な人物だった。カールが再建してくれたおかげで、オーストリア軍は彼自身が指揮権を預けられた1805年12月の時点よりもはるかに優れた軍隊に成長していた。しかもすべての階級の者たちが闘志にあふれていた。ナポレオンをアスペルンとエスリンクで打ち負かしたことだけでもカールの才能は評価できるが、ヴァグラムでさえも、彼は皇帝が欲していた完全なる勝利をつかませなかったのである。フランス軍は有利な和平さえ結べただけでも幸せだった。
『ナポレオン戦争 第四巻』P102




 一方、カール大公の性格上の欠点(限界)であるとか、あるいはオーストリアという国家や人材、皇帝(兄)の欠点(限界)込みの記述を挙げていきますと……。

 カール大公は外見的に印象の薄い、痩身であごの小さい(性格の弱そうな)人物で、身長はかろうじて5フィート【1.524m】しかなかった。
 【……】
 彼は自軍、ひいてはハプスブルク帝国を少しでも危険にさらすかもしれないことには用心深くなり、気が進まないたちであった。彼が書いた戦術に関する論説には彼の伝統的な、18世紀的なものの見方が反映されている。すなわち彼は、敵を撃破することよりも、機動であるとか、拠点を占領するとか、連絡線を守るということにより傾きがちであった。
 【……】
 カール大公はいろいろな面で感じの良い人物であったが、融通がきかず、物事がうまくいかなくなると他の者達を非難する傾向があった。
 【……】
 だがこの感受性の強さはまた、彼を悲観論に陥らせがちであり、ことに挫折の後ではそうであった。敗北はカール大公の神経を揺さぶり、鉄の意志で戦い続けるよりも、和平を結ぶことを進言させたのであった。
 彼は戦場において、そして危機的状況において本領を発揮した。彼は戦場の重要な地点にすぐさま駆けつけることができたし、彼の戦歴を通じて彼は、苦境を救い状況を好転させようと戦いの真っ只中に身を置いていたのである。彼がアスペルン・エスリンクでそうであったことは最も良く知られているが、Stockachとワグラムにおいても非常にそうであった。この彼の指揮の様子を見た兵士達は奮い立った。見た目に勇敢そうでないということは決して彼の欠点ではなかった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』P172,3

 人格・性行上の疵がなかったわけではない。1809年、ワグラムの会戦で敗北した後、二度とカールが野戦軍総司令官の職に呼び戻されることがなかったのも、多くの将軍がカールの下で戦うことを望まなかったためである。
 カールは心身のバランスを崩しやすく、たやすく精神の耗弱に陥った。そうした内気と気分の変調に加え、父が先代皇帝、兄が当代の皇帝という高貴な身分にあることもあって、他者から批判されることに弱いという性格上の弱点を持っていた。そのためカールは、率直に苦言を呈する人材を側近に配することが出来なかった。彼が取り巻きに集めたのは、オポチュニストや陰謀家、立身出世主義者といった信頼出来ない人間たちであった。彼らは、カールが自らの敗戦の責任を部下の将軍たちに転嫁しようとしても、忠告して止めさせようとはしなかった。
 カールは、1801年から05年までは軍事参議院議長、さらには陸軍大臣兼海軍大臣として、1806年から09年までは大元帥(Generalissimus)として、オーストリア軍の改革を進める責任者の地位に就いているが、改革の大半は機構弄りに終始し、見るべき具体的な実績をあげ得ていない。その理由の一端には、徴兵制の導入といった抜本的な改革の実現によって既成の社会秩序が崩壊することを怖れたカールの保守性や、ナポレオンとの戦争再開を準備不足から先延ばしにしたいと希望していた彼の無意識の避戦努力の影響もある。
 だが、より大きな原因として、質の悪いカールの側近とフランツの側近がそれぞれ暗躍し、その結果、喫緊の軍制改革が停滞したことは、指摘せざるを得ないのである。
『歴史群像』103号P161

 一方で、指導力を備えた参謀システムを充実させようとするカール大公の試みはうまくいかなかった。参謀たちは、紙の上ではいとも巧みに兵力を動かしたり維持したりすることができたのであるが、ここでもまた実戦経験の豊富な将校たちが不足していたのだ。作戦本部と前線の間をつなぐ通信システムにしても明らかに劣っていた。頼るべき上級指揮官に関しても、カール大公は頭を抱えていた。彼には帝国宮内法院に指令を出す権限が与えられていたが、無能で敵対している将軍たちを解雇する権力は備わっていなかった。このような大権はいまだに兄フランツ皇帝がしっかりと握っていたのである。このため、宿敵ともいうべきヒラーだとか、役に立たないルートヴィッヒ、ヨハン、フェルディナントといった兄弟たちを用いなければならなかったのだ。身内びいきは帝国の指令構造のすべてに広く行きわたっていた。カールらに次ぐ高位軍人たちのなかでは、自分自身の功績によって登りつめてきたのはラデツキーぐらいのものだった。ヴァンファン、グリュン、クレーナウ、ローゼンブルクといった一族の者たちは、軍人としての才能などこれっぽっちもなかったのに、みな高位高官になりおおせていた。
 それではカール大公自身はどうだったのか? ストレスがたまるとてんかん性の発作にかかりやすいというハンディーキャップを背負いながら、彼はナポレオンよりも若年で上級指揮官に登りつめていた。初めて軍隊の指揮を執ったのは25歳のときである。そこら辺の二流のフランスの将軍が相手ならば、カールもかなりの実績を上げることができていたが、いかんせんナポレオンに対しては歯が立たなかった。ふたりの将軍は、第一次対仏大同盟戦争の終わりの時期、1797年に対戦したことがあったが、カールが決定的な敗北を喫してしまっていた。とはいえ、オーストリア軍においてはカールが最も有能な軍人であることには間違いがなかった。彼は、同時代人たちに比べても、古くさい18世紀的な形式主義から感化されることがほとんどなかった。しかし、彼自身が受けた軍事教育の最後の最後の痕跡までは捨て去ることができなかったが。たとえば、彼は自身が「地理的な地点」と呼んでいる重大な地勢にこだわる固定観念をもち続けており、時としてこれが敵軍の粉砕という目的から逸脱してしまうような状況を生みだしていた。
『ナポレオン戦争 第四巻』P19,20

 【アーベンスベルク会戦の1809年4月】20日のオーストリアの軍司令官の挙動はまったく不可解で、この日彼はてんかん性の発作に見舞われて行動できなかったのではないかと言われているほどであった。21日もまた目的に向かって行動できなかったと言ってよい。
『ナポレオンとバイエルン』P210

 「積極的に、積極的に、速く」とナポレオンはあの日のマッセナ元帥宛の命令に書いた。これは軍が多分に持っている特性であるが、これを動かし、導くことが必要で、それをナポレオンは誰よりもよく知っていた。カール大公はこのような呼びかけをほとんど利用しなかった。というのは単にそれに必要な性格を持ち合わせていなかっただけでなく、また彼の個人的な能力が彼の軍の欠点を補うのにあまり適していなかったからである。従って彼が最後の瞬間までそもそも戦争にならないようにしつこく警告していたことは賞賛に値する。最初から彼は敗戦が避けられないという萎えた印象の下で行動していたように思われる。さらに健康上の問題がそれに加わった。いずれにせよ彼が優位に立っているときでもまた危機に瀕しているときでも彼が最初の二つの同盟戦争で得た名声を正当化するものでなかったことは疑いない。1809年のバイエルンにおける戦争ほど二人の司令官の間でさまさまな状況において行われた戦いで結果の差がこれほどはっきりと速く出た出兵も珍しいし、その結果が一方的であったのも珍しい。この戦役におけるカール大公よりも1805年のマックの方にもっと素晴らしい戦績が認められるとするのはまったく正当である。この司令官が同じ軍隊を指揮すれば少し後のアスペルンとヴァグラムでナポレオンを非常に困らせたはずだということに異議が出るかもしれない。実際ナポレオンはバイエルンで得た経験から彼の敵の持つ防御能力の高さに非常に驚いた。しかしここでもバイエルンの出兵における状況に決定的な違いがある。組織的な戦闘が防禦として行われるときには、オーストリア軍とその司令官の弱点は移動する戦闘や分散した戦闘の場合ほど影響が現れない。その代わりに彼らの安定性とたとえ受け身であっても疑いもなく高度に持っている勇敢さとが効果を発揮する。そういうことでアスペルンでは役回りが入れ違っていて、引き分けどころか守備側の勝利だったかもしれなかったことを見逃してはならない。
『ナポレオンとバイエルン』P213

 宮廷が求めていたのは命じられた戦争を素直に遂行する軍人であって、政治に対して発言をする軍人ではなかった。しかしカールには、兄皇帝フランツや彼の側近が軍の人的資源の実態を把握せずに、軍事の能力を超えた遠大な目標の達成を軍人たちに要求しているように見えた。軍事力に見合った外交政策を行うには、軍事に明るい人材を配分すべきであり、戦略計画や作戦遂行に宮廷筋が無用の干渉をするのを慎むようカールは要求した。そして、これこそ宮廷が最も忌む「政治に口を挟む軍人」の行為であった。フランツはカールに複数の高級軍人を貼りつけ、彼の動静をスパイするよう命じている。
『歴史群像』103号P159~160



 カール大公は自分自身だけでなく、外部要因で様々な足かせをはめられて戦っており、ワグラム会戦で敗戦した後はまだ30代後半で公職から引退してしまったのも、本人の心の健康のためにはやむを得なかったのだろうなぁという印象を受けます(^_^;

 1813年戦役以後のオーストリアを、シュヴァルツェンベルクという非常に忍耐強い指揮官が担ってくれたのは大変有難かったでしょうねぇ……。


 ↓こちらもどうぞ。 

シュヴァルツェンベルク将軍について (2016/12/31)



 ↓今回の参考文献です。




OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)はクォーターマップ2枚で(と妄想)?

 OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(仮)ですが、OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(ルソン:バターン半島への退却)を、作れそうなら作ってみようかと…… (2020/03/04) で注文したと書いてました日本語の本2冊はすぐに来てもう読み終わったのですが、肝心のオスプレイ本がなかなか届かない(最悪5月くらいになるとか……)ので、ネット上に存在する資料を印刷して読み始めてます。

日本語版Wikipedia「フィリピンの戦い (1941-1942年)」
英語版Wikipedia「Philippines campaign (1941–1942)」
Reports of General MacArthur - THE CAMPAIGNS OF MACARTHUR IN THE PACIFIC
The War in the Pacific - THE FALL OF THE PHILIPPINES
戦史叢書「比島攻略作戦」

 戦史叢書はつい先日、ツイッター経由で公開されたことを知って早速ダウンロードしました。かなり詳しくていいのですが、地図データの細かい字が潰れてしまって読めないので、実物の地図のコピーが欲しいところです(ワニミさんづてで借りることができるかもで、期待してます(^^))。


 いくらか資料を読んでいると、リンガエン湾から南下してマニラを目指した第48師団は自動車化部隊であったそうで、師団長は快速を活かしてどんどん進撃すべきという考え方であったのに、上層部が「まだ砲兵や戦車部隊が揚陸できていないから……」等の理由で進撃を止めようとしたのを、師団長が振り切って突き進んだとかで、これはまるで1940年のフランス戦役におけるグデーリアンのような話だと思いました。

 また、アメリカ軍とフィリピン軍がバターン半島に逃げ込む際、ルソン島南西部にいた部隊が収容されるまで重要な道路を守備し続け、第48師団の猛攻にも耐えて収容しきったというような話もあり、こちらは1943年のスターリングラード戦役の後半に、コーカサス地方からA軍集団を収容するためにロストフのあたりを守りぬいたドイツ軍のような話ではないかと。

 だとすれば、OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』がうまく完成すれば、その2つが体験できるということに……!!?


 ただ、後者の話は「盛られている」可能性があるような気もする(^_^;のですが、まだそこらへん詳しい描写のところまで読み進んでいません。あと、史実の日本軍は「バターン半島に退却(収容)」の可能性を基本的に考えずにマニラに直行しており、気付いた時には(やや)遅かった……というようなことを、後知恵でプレイできてしまえるゲーム上ではどうするのかという問題もあります



 それから、戦史叢書の地図をヘクスマップ上に重ねてみて、うち一部を拙宅のプリンタ(A3サイズまで印刷できる)で、A3実物大で印刷してみて気付いたのですが……。

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 ↑この画像全体がA1サイズ(フルマップ1枚サイズ)ですが、主要な戦闘地域はオレンジ色の矩形で囲った2箇所が主で、これらはそれぞれA3サイズ(クォーターマップ1枚サイズ)分なわけです。で、「あっ、テストプレイはA3サイズに印刷すればそれでできるじゃん。A3に印刷した紙を4つ繋ぎ合わせるとかしなくていいから、楽でいいなぁ」と最初思ったのですが、良く考えてみれば、世に出す(できるかどうかは別として……)段においても、クォーターマップ2枚で出して、それぞれでもプレイできるし、繋いでもプレイできるという風にすれば、コンポーネントも専有面積も少なくて良いのかも……!!? と思ったりしました(本格的なOCSというよりは、入門用、手軽にできるものを目指しているというのもあり)。



 それから、海岸線や河川を描き始めてみました(河川はヘクスサイドに沿わせて)。

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 戦闘序列や戦力化もまた問題ですが、まあ試行錯誤で……。

 

OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーン、第4ターン後攻(連合軍)終了

 尼崎会で、OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーン、第4ターン後攻(連合軍)をプレイできました。

 といっても、今回は移動フェイズのほぼ終了時まですでにプレイしてあったので、残りをワニミさんとプレイした感じで終わっておきました。



 ↓第4ターン(5月16,17日ターン)終了時北方。

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 ベルギー軍とイギリス大陸派遣軍はゼンヌ(Senne)川の線に戦線を下げ、かつフランス軍を楽にするためにベルギー・フランス国境ぎりぎりまでをカバーしています。ただ、史実を見ると、5月17日にはさらにもう一つ西の川の線に戦線があったようです。




 ↓同、南方。

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 フランス軍は矢印の箇所で反撃を企図。左から2つ目の矢印の箇所はリアクションフェイズに航空爆撃でDGにされてしまったので攻撃を諦めたのですが、2箇所で砲兵の集中&ダイス目の良さにより砲撃のみでドイツ軍スタックを吹き飛ばしており、計4箇所で反撃に成功しました。中でも、セダン西方(左から3つ目)ではドイツ軍側の戦線深くに侵入しております。


 次の第5ターン(5月18,19日ターン)のイニシアティブは連合軍が取ったので、連合軍は後攻→先攻のダブルターンを取ることにしました。

 連合軍側は大規模に反撃していますが、ドイツ軍側の総司令官(ワニミさん)の見通しとしては、「いやいや、まだ全然いけるんじゃないか」ということで、今後どういう展開になるか、楽しみです。


今回出てきた、OCSシリーズルールへの解釈問題3つ

 3/7,8の尼崎会で、OCSシリーズルールへの解釈の問題が3つ出てきました(以前にも出ていた話だとも思うのですが、過去の解決例を覚えていないので……(^_^;)。


 1つ目は、「予備モードの司令部は補給を支給できるのか」という問題でした。ルールを見ていると、戦略移動モードの司令部は補給を支給できない、と書いてある(5.8b)のですが、予備モードの時にはそのような記述は見つけられませんでした。ので、予備モードでも支給できると思われます。

 そこらへんぱっと分かるように、以前作っていたOCSヘルプサマリーの「戦略移動モード」の項に「司令部は補給を支給できない」と書いておくことにしました。


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OCSヘルプサマリー(v4.3)2020_03_09.pdf

 ↑「OCSの物置2」にも置いてあります。



2つ目は、↓に関して。
「9.12e 敵ZOC  敵ZOCに退却する戦闘ユニットは混乱し、“たまたま”その敵ZOCにいた自軍戦闘ユニットもまた混乱します。」

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 このルールで、退却前にすでにDGであったユニットが敵ZOCに退却した場合、「すでにDGであったのだから、新たにDGになるわけではない。そうであるならば、“たまたま”その敵ZOCにいた自軍戦闘ユニットはDGにならなくても良いのでは。」という意見が出てました。

 しかし、原文を見たりして話し合いの結果、「DGでなかったものが新たに混乱する、ゆえに“たまたま”その敵ZOCにいた自軍戦闘ユニットもまた混乱する」のではなく、「敵ZOCに退却する戦闘ユニットは混乱するし(すでに混乱していたかどうかはどうでもいい)、そして同時に、“たまたま”その敵ZOCにいた自軍戦闘ユニットもまた混乱する。」という意味であろう……と尼崎会では解釈することになりました。

 念のためBoardGameGeekで質問してみたところ、上記の理解で合っているとのことでした。




 3つ目は、「受給線を引く時に、6.1cの最低1ヘクス移動保証は使えるのか?」という疑問でした。

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 私は使えないだろうと思っていたのですが、ワニミさんや富山のKさんは「当然使えるだろう」というご意見で、BoardGameGeekで聞きましたところ、「使える」ということでした(わーお(^_^;)

 OCS12.3aに「ユニットが移動するかのようにして補給集積所までの移動力を数えます。」とありまして(それはまあ当然のことなわけですが)、この項目のゆえに、最低1ヘクス移動保証も使える、ということでした。



 ここらへん、微妙な解釈問題については、「尼崎会で使用中の公式オプション/ハウスルール」にまとめてあります。



OCS『Burma II』ショートシナリオ2:ウ号作戦を2日かけて研究プレイしました

 尼崎会(拙宅)にて、OCS『Burma II』ショートシナリオ2:ウ号作戦の研究プレイを、2日かけておこなっていました。

 いつものワニミさんと私+富山県からKさんが来られた上、古角さん(1日目)、下野守さん(2日目)が参加され、それに岡山県からTOROさんが2日目に2時間ほど観戦されていきました。色々な話で盛り上がったりもして、楽しかったです(^^)(1日目はサンセットゲームズの話とかで、2日目は私以外の全員が仮想戦好きの方々で、そこらへんでえらい盛り上がってました(^_^;)


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 1日目には古角さんが最近購入されたというGoProで盤上やプレイの様子を撮影しておられ、その夜と翌日に即ツイッターで動画をアップされてました。





 編集が非常に簡単にできるそうで、なかなかいいですね~(^^)



 研究プレイの方ですが、「日本軍むっちゃ厳しくない?」と日本軍プレイヤーから意見が出る一方、英連邦軍側はSPも輸送トラックもだだ余りで、建設に2SPもかかる陣地をどんどんいっぱい作ってレベルアップさせていきます。

 日本軍はこのままでは苦しい、ということで一度セットアップし直して、それまでに得られた教訓も織り込みつつ、2度目の研究プレイとなりました。そしてある時……。

「あれ、英連邦軍が一般補給を受給(draw)しにいく時って、徒歩移動コストで数えていいんですよね?」
(徒歩移動コストなら小道は1移動力だが、通常受給の時に使用される自動車化移動コストならこのゲームでは8移動力もかかる!)


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「え、そうなんじゃないんですか? ちょっと待って……(ゴソゴソ)。あれ、徒歩タイプで受給線を設定できるのは日本軍だけですよ!?(2.5c)」
「な……なんだってぇーっ!?」
「だとしたら……うわぁぁっーーー!! ここも……ここも……あそこも……一般補給が引けない!」

「あっ、そういえば、英連邦軍の補給源はどこなんですか?」
「えっ、それはディマプールですけど……あれっ? じゃあインパールにいる司令部は受給線を全然設定できてないじゃないか!? あっ、ということは、7SP分もある輸送トラックだけど、うち5SP分でエクステンダーを作っておかなければならないのか……。だとしたら、別に輸送トラック余ってないって!」
「コヒマ東方の山の中にいる部隊に一般補給を与えるためにも、ラバを割いてSPを運ばなければ……(T_T)」

 ……というわけで、英連邦軍は別に全然余裕があるわけではないことが判明(^_^; 一気に「勝負は分からない」感が出てきました。……って、まあそうでないと史実との比較的にもおかしいですし、通常は受給線は自動車化移動コストで引くものなので、日本軍側の特別ルールを連合軍側も使用できると(なぜか)思ってしまっていたこともダメダメなのですが(ただ、他のOCSゲームでは小道はすべての移動タイプで1移動力というのばかりなので、4、8、1などというとてつもない移動コストの在り方に慣れるのに時間がかかった、ということはあるのです、と言い訳)。

 しかしともかくも、この件に1日目の午後に気付けて良かったです。気付けてなければどうなっていたことか……。他にもまだ気付けていないことが多数あるかもですが……。



 というわけで、ルール的な、教訓や、出てきた疑問をBoardGameGeekに質問して得られた回答を列挙しておきます。

・小道の移動コストは装軌4、自動車化8、徒歩1という類を見ないものなので気を付けるべし。泥濘になったらそれぞれ2倍!

・日本軍の徒歩タイプのユニットや司令部は徒歩移動コストで受給・支給できるが、連合軍側は全部(チンディットやガラハドも)自動車化移動コストで受給・支給しなければならないので注意。実際のところ、コヒマ東方の山の中や、インパール平原東方の小道しかない経路の場所は、ラバでSPを運んで一般補給をわざわざ入れない限り、部隊を置いておけない。あと、日本軍側のインド国民軍(INA)も自動車化移動コストでしか補給線を引けないことに注意(トラックで運ばれた食料しか食べようとしないインド人……?(>_<))。

・『Burma II』の輸送ワゴンの移動コストは黒色で、自動車化なので気を付ける(他のOCSゲームでは白で、徒歩なのに)。

・バンザイアタックの時に使用するARは、もしDGなのであれば-1される(修正を受けないのは損耗チェックの時だけ)。

・英連邦軍はセットアップで持っている輸送トラック7SP分のうち、5SP分をエクステンダーにしないと、そもそも一般補給が引けない。ディマプールからインパールへ繋がる全天候道路が日本軍によって遮断されたら、インパール平原にいる部隊は全部一般補給切れになるので注意。

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 あと、我々の間でまだ未解決の問題として、「チンドウィン河問題」というのが持ち上がっております。

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 2.5bに、チンドウィン河に連合軍の攻撃可能ユニットが隣接していると、それより上流(北方向)のチンドウィン河を日本軍側が補給線として使用できなくなる、という話があります。

 で、連合軍側がそれを狙って、

1.第1ターンの先攻日本軍リアクションフェイズ中に、16.33にSPを空中投下。
2.第1ターン後攻連合軍移動フェイズに14.35にいた80-20Indが予備モードになって15.34に移動。さらにSPの空中投下も。
3.続く突破フェイズに同ユニットが16.33に移動。

 すると、日本軍の第31、15師団の一般補給が切れるので、その後日本軍側はそれら部隊の一般補給をSPを払って入れなければなりません(1ターンにつき3~4T程度らしいですが)。この80-20Indを北側から退却させても、まだチンドウィン河に接し続けるどころか、チンドウィン河東岸に退却したら、日本軍側はこのユニットをどうにかするために東岸に移動しなければならない? 空中投下は1ターンに4T分試みることができるので、大体生き残るのは確実です。

 日本軍側の対処法としては、この場所の南北にいる第15師団と第33師団のかなりの戦力をこちらに振り向けるだとか、あるいは空中投下のためのリソース(輸送機)を他に回さざるを得なくするために、他の戦線で連合軍を包囲しまくる……などの方法が考えられるかとは思いましたが、トータルではまだ連合軍側に利があるような気が……。いや、連合軍が6-3-3ユニット1個と輸送機とSP(空中投下チェックで失われる可能性もままある)というリソースを注ぎ込んだ結果が、毎ターン日本軍側に4T余分に消費させるだけならば、日本軍側は「別にやったらいいんじゃない? 損してるのは君の方だし」となりますかね……? ふむう……(この戦場のベテランの方、教えて下さい!)。




 今回の研究プレイですが、3月29日ターン(第5ターン)に、第33師団(富山のKさん指揮)がインパール平原に出たあたりで時間切れお開きとなりました。

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 しかしこの展開は、史実よりもだいぶ進撃が早いのでは……。史実では、3月25日時点でまだSinggel周辺で戦闘が繰り広げられていたようですので。

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 ↑②の西のあたりがSinggel周辺。

 英連邦軍側は、あまりにも迅速に兵力を引き過ぎた?


 私は英連邦軍側をプレイしていたのですが、なかなかに興味深く、非常に楽しめました。また、7月23,24日のミドルアース大阪での連続例会に向けて、いくらかでもプレイしていけたらと思います。


インパール戦洋書をちょっと読んだ感想(慰安婦、日本軍兵士の強さへの記述等)

 OCS『Burma II』のプレイに向けてインパール戦の洋書を2冊買って少し目を通したわけですが、読んでいて「へええ……」と思った感想をちょっと書いておこうと思います。






 まずは『Burma Victory』の方の、慰安婦に関する記述。

 この道路【ティディム道】上の位置に完全に停止したままでいたこの【第17インド歩兵師団の】兵士達はマニプル州【インパールを中心とするインドの州】の女性達を連れてきており、性病への罹患が重大な問題となっていた。日本軍の方はこの困難な問題により現実的な対処をしており、40人の兵士に一人の割合で朝鮮人「慰安婦(comfort girls)」施設を作っていた。この女性達は自由をあがなうこともできた(could earn their release)が、しばしば彼らの部隊への絆から留まった(stayed on loyally with their unit.)。
『Burma Victory』P25,6


 まず第17インド歩兵師団の方の話なんですが、この師団はティディムを中心とした道路上にいてそこから日本軍に対する小競り合い的作戦に従事して小さい勝利を積み重ねることによって経験と士気を上げてきていたのですが、その場所はインド国内ではなくビルマ国内にありました。ですから一応、短距離とはいえ国外に連れて行ったことにはなるのでしょう。


 ↓Googleマップで「マニプル州」と検索したもの。マニプル州の南にティディムがあります。黒い線がインド・ビルマ国境。

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 イギリス軍による慰安婦の件ですが、以前、フランス軍指揮官による娼館の設置にイギリス軍側が怒ってやめさせようとしたという話も読んだことがあった(→OCS『DAK-II』の「移動娼館」ユニットと、占領された後のシチリア島の慰安所 (2017/03/31) )のですが、『ダンケルク』を読んだ時には、フランスにやってきたイギリス大陸派遣軍兵士達はフランスの娼館(軍属でない普通のそういう所?)に行きまくっていたという記述が何度も出てきましたし、確か駐屯地のフランス人女性達が「フランスを守りにわざわざ来てくれている」ということで歓迎して相手をしてくれただとか、イギリス本土へ撤退する時にも「これが最後のチャンスだ」とばかりに娼館に行きまくったとか……ってな話が何度も大量に出てきまして、そこらへんブログに書こうかとも思ったのですが、あまりに大量だし、ミリタリー的な部分とは結構ずれる(軍の娼館の話ではないわけですし)かと思って見送ったのでした(^_^;





 あと、イタリア軍の北アフリカ戦における移動娼館の話は、「The OCS Depots」「DAK & DAK2」のページからリンクされている「The Bordello」というpdf(『Operations #27』の記事)で読めます。私は一応読んでみまして、これもブログに書こうかどうしようか悩んだのですが、まあ見送ったのでした(^_^;



 日本軍の方の話は、日本国内、あるいは日韓両国でかまびすしいところだと思いますが、私はそこらへんの関係書籍はほとんど読んだことがなく、ただちょっと前に『反日種族主義』だけは読みました。



 この本の後半はだいぶ詳しくいわゆる「従軍慰安婦」について書かれていまして、特にビルマ戦線における慰安所について触れられていました(詳細な記録が発見されていたため)。

 読んだ記憶では(記憶違いかもですが)、慰安所には日本人女性もいた(ただし朝鮮人女性が多かった)とあったような気がしますが、『Burma Victory』では明確に「Korean 'comfort girls'」となっていました。また、「慰安婦は性奴隷であった」説に与しない書き方になっていますが、そういえば韓国の挺対協も、今はもうそういう説は無理だと分かってきていて、別の論点でやろうとしているとあったような……。

 『反日種族主義』では、ある一人の女性(挺対協に協力することになった二人目の女性)に特に焦点をあてて記述される部分があるんですが、彼女がビルマ戦線の兵士達について「いい人達だった」と言って泣いていたという話が印象的でした(Kindle版で読んだのですが、線は引いてあるものの、確認や引用のために記述場所を探すのが普通の本に比べてやりにくいったらしょうがない! ので、あくまで記憶で……。やはり電子書籍は、読み捨てか、マンガ等でしかするべきではないですね(T_T))。


<2020/05/22追記>

 ネットニュースで、『反日種族主義』もまた、資料の取り上げ方に偏向が見られるという記事を読みました。参考に挙げておきます。

 東南アジアの慰安所で働いていた朝鮮人男性の日記が2013年に見つかった時も、似たようなことが起きた。日記には最前線であるビルマにいた慰安婦たちの厳しい生活事情とともに、後方地域であるシンガポールでは満期明けで帰国する慰安婦もいたことなどが書かれていた。朝鮮半島から複数回にわたって慰安婦が集団で東南アジアに渡っていたことがわかる記述もあった。

 当時の実情をうかがわせる貴重な資料だ。私を含む多くの日本メディアは、置かれた環境によって慰安婦たちの境遇は千差万別であったことを書いた。ところが韓国メディアに出たのは、シンガポールでの記述を完全に無視した過酷な環境についてだけの記事だった。ソウル特派員だった私は、それを読んで唖然とさせられた。

 余談になるが、ベストセラーとなった『反日種族主義』も同じ日記を取り上げた。この本は逆に、ビルマでの過酷な扱いについての記述をほとんど無視した。これもタブーへの反動と言えたかもしれない【……】
意外とあっけなかった韓国の「慰安婦タブー」


<追記ここまで>



 それから、『IMPHAL 1944』の方ですが、この本には日本軍兵士の強さについて記述している部分がある程度あり、日本側のインパール作戦の本ではそういう記述は見ないものですから、印象深く思いました(P14~15)。

 ただ、引用しようと思って改めて見返してみると、スキル的な強さというよりは、武士道とか万歳突撃とか、補給や武器がなくても粘り強く戦うというような、いわゆる「ブラック企業(滅私奉公)」的な強さの話が主で、私も若い頃にはそういう話にポジティブな印象を抱いていたものですが、私自身年もとり、また昨今では日本的なそういう方向性が高度経済成長期には大いにプラスにはなったもののその後の低成長期(失われた20年)にはその方向性がむしろ日本経済の後進性をもたらしたのだ……という話を最近は良く読むようになったこともあり、どちらかというと暗澹たる気持ちになったりしました……(T_T)

 尤も、例えばソ連軍兵士の強さというのも上記と同じ様な側面が強かったと思われますし、1940年のフランス軍がなぜ負けたかというと戦う前から気持ちで負けていたからという話もありますし、イタリア軍兵士はそもそも戦う理由を持たずに侵略側になったために基本的にはやる気が無かったものの、条件さえ良ければ猛烈に戦ったということもあります。ですから戦争の強さということに関して言えば、日本軍兵士は(また、戦後日本の労働者は)悪くはなかった、だが、それを過信して無理強いだけさせる牟田口のような指揮官(今でも根性論だけで労働者を働かせる/根性論だけで生徒に勉強させる人達)が悪いのだ、ということは言えるでしょうか……。



 先日届いた『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を読んでいますと、「負け戦の話が国全体を燃え上がらせるような『神話』となる例がままある(例えば、ギリシアにとってのテルモピュライや、アメリカにとってのアラモ砦など)。そしてその神話は、ある意味ステレオタイプな語られ方をしがちになる」というようなことが書いてありまして、日本にとってのインパール戦もその一種なのかな、と思いました。神話としてのインパール作戦ではステレオタイプとして、牟田口のあり方に焦点があてられなければならず、「日本軍側がどのように強かったのか」は語られてはならず、また「敵の指揮官がどのように有能であったのか」というような視点は閑却されているのかな、と。尤も、インパール戦に関する最新研究の動向とか全然知らないわけなので、上記のような見方は相当古かったり、あるいは全くの的外れかもしれません(^_^;


 『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』ですが、イタリア軍に関する見方や研究においてこれまでどんな風に視点が追加されてきたりしたかというような事が序章で書かれていまして、個人的に非常に興味深いです。また、ブログに書けるだけの状態になりましたら書きます。




OCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(ルソン:バターン半島への退却)を、作れそうなら作ってみようかと……

 OCSはシリーズゲームで色々な戦場がゲーム化されているので、尼崎会内でも「自分たちで何か、日本軍(←ここ重要)が出てくる戦いをOCSで作れないかなぁ?」という話は以前から色々出てました。

 「沖縄」「ノモンハン」なんかを考えたりはしたんですが、どうも難しそうだなぁ……と。「マレー(電撃戦)」は、オフィシャルで開発中のようで(待ち遠しい!)。

 で、先日の尼崎会でもその話が出たんですが、来られていた下野守さんに聞いてみると、「どうせなら日本軍が勝ってる戦場のゲームが欲しい」と(その前の話として、ワニミさんが「なぜ『Burma II』をプレイしたいんですか?」と聞いてみると、下野守さん曰く「だって日本軍が出てくるじゃないですか」ということで、そもそもやはり日本人は日本軍が出てくる戦場に惹かれるものがあり、しかもそれが日本軍が勝ってる戦場だともっと惹かれる、ということがあると思われます)。

 そこで、「1941~2年のビルマへの進撃のOCSゲームが、OCS『Burma II』のマップで作れたりは?」という話が出たのですが、調べてみたところこれは最終盤しかマップがカバーできなさそう。次に話が出たのが、「フィリピン攻略戦は?」ということで、『第二次世界大戦 (地図で読む世界の歴史) 』で見てみたところ、結構有望そうな感じに思えました。





 尼崎会終了後に、試しにフルマップ1枚分のヘクスマップに重ねてみたのが↓(OCS通常スケールの1ヘクス5マイル)

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(地図はWikipedia「フィリピンの戦い (1941-1942年)」から。マイルの目盛りがついていたので、1ヘクス5マイルに合わせるのがすごく楽でした)


 ルソン島全体を入れてないですが、まあ我々如きに本格的なリサーチなどできるわけもなく、「なんちゃってOCS」程度で、あくまで日本人をOCSに引き込むための入門用OCSを狙って……という感じなので、中心的な戦いがあった場所だけで良いかな、と。それでもハーフマップでは苦しく、フルマップ1枚はいりそうです。

 私はこの戦いを全然知らなかったのですが、マップの範囲で、リンガエン湾への上陸が始まった1941年12月22日から、第一次バターン半島攻略戦が挫折した1942年1月26日あたりまでの11ターン程度をゲーム化し、1月5日頃までの第1次バターン攻略戦ちょい前までの5ターンシナリオも用意する……くらいが良いのではないかと思いました。史実ではその後バターン半島で膠着状態となり、4月3日からの第二次バターン半島攻略戦で4月11日に決着がついたということなのですが、そこまで全部を入れる必要は全然ないだろう、と(その後にコレヒドール攻略戦もあったようですが……(^_^;)。

 ただ、その11ターンなり5ターンなりの期間の史実の動きが全然ゲームにならなさそうなものだったならば、ゲーム化といっても無理だろうとも思ったのですが、たまたまウェブ上で見つけた第二次世界大戦ブックスの『日本軍マニラ占領』の中身を読んでみると、割とゲームになりそうな感を受けたので、一応はいったん努力してみようかと……。

 で、色々資料を探してみて、以下のものを注文してみました(『日本軍マニラ占領』はウェブ上で読めるわけですが、本の状態で線を引きながら読みたいので……)。




 あと、ネット上の「The War in the Pacific - THE FALL OF THE PHILIPPINES」というのもある程度以上詳しそうな?


 タイトルは、OCSのゲームは「地域名(だけ)」とか「本の題名」というケースが多いので、とりあえず『Luzon(ルソン)』かなと思った(たぶん、『The Philippines(theを付けないとダメ)』という名前はOCS的になさそうな感じがしました)のですが、1944年~45年のフィリピンの戦いがOCSゲームとして開発されて、それが『Luzon』となる可能性もあるので、『Smolensk:Barbarossa Derailed』みたいに副題を付けてOCS『Luzon:Withdraw to Bataan』(ルソン:バターン半島への退却)あたりで……と(マッカーサーの「Decision to Withdraw to Bataan」という言い方がある程度定型で存在しているようなので)。


 まあもちろん、今まで何度も自作ゲームを作ってみようとしてきてことごとく挫折しており、「自分はクリエイティブなセンスは壊滅的なようだ」とも思っているので、試しにやってはみましたがやっぱりダメでした、となる確率が86%くらいだとも思うのですが(^_^;

 まあ、資料を読むのは興味深く楽しめると思いますし、ゲームを作ろうとしてみる作業も楽しめれば、途中で挫折しても全然OKという心もちで。


OCS『Burma II』ショートシナリオ2:ウ号作戦の初動を初めて研究プレイしました

 尼崎会に下野守さんが来られて、一緒にOCS『Burma II』ショートシナリオ2:ウ号作戦の初動を初めて研究プレイしていました。

 ワニミさんはフランス戦熱が収まらないということで、キャンペーンプレイ中のOCS『The Blitzkrieg Legend』のベルギー軍とイギリス大陸派遣軍をじっくりとプレイされていました。


 ↓いったん移動フェイズを終了した時のツイート。





 しかしその後、リアクションフェイズに連合軍側の対抗策が色々見えてきて、かなりやり直しをしました。特に、戦略移動をまったく活用してなかったことをワニミさんに指摘されまして(^_^;

 以下、とりあえずの研究プレイの結果ですが、参考にある程度詳しく解説していこうと思います。「もっとこうした方がいいですよ」とか「そのプレイはこのルール的に無理ですよ」とか全然あると思うので、そういうのがありましたらコメントいただければ大変嬉しいです(^^)



 ↓南方、第33師団の戦区。

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 ①の箇所では、イギリス軍の補給集積所ヘクスに対して、割と何も考えずに南東と北東から予備モードとなった日本軍部隊が、拡張(突破)フェイズ中に攻撃をかけようと迫っています。こんなことはしない方が良いのかもですが、明かりに虫が寄っていくように、踏めるかもしれない(実際史実で一度踏んだ)敵の補給集積所には引き寄せられざるを得ないということで(^_^;

 ②のヘクスには、Yazagyoにいた移動モードで1-5-6の歩兵大隊を予備モードにすれば到達可能なのですが、予備マーカーを他の場所に譲って、その2ヘクス南の場所に留まっています。しかしぜひとも予備モードになって②まで行った方がいいような気も……。

 あるいは予備モードにならずとも、③のヘクスまで移動して、次のターンに予備モードになって北西のヘクスへ移動して……という方法も選択肢としてあり得るかと思いましたが、メリットが別にない……?

 ④のヘクスには、予備モードにした歩兵大隊ユニットが複数がいて、拡張(突破)フェイズにその北西方向の小道への進撃を狙っています。実は予備モードで④のヘクスの1つ北のヘクスにも行けるのですが、そこにいるとリアクションフェイズに観測可能で必ずや航空爆撃されることに気付きまして(^_^;(DGにされると予備モードがキャンセルされてしまう) この進撃路への進撃が航空爆撃で無効にされるのはあまりにもキツイと思いまして、わざと1ヘクス南で留まっている感じです。

 ④のヘクスの1つ北のヘクスには、1防御力を持っている自動車化砲兵ユニットを複数持っていって防御ラインとしました(いつもの、砲兵を砲撃のために使うのではなく、戦線を張るために使うプレイ(^_^;)。その南の戦車大隊ユニットは、アクションレーティングが低いこともあり、現状動かす時期ではない、か……? と考えて放置しました(が、動かした方がいいのかも……)。




 ↓中央、第15師団の戦区。

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 ①の場所ですが、南北に流れている大河川(チンドウィン河)にイギリス軍側の攻撃可能ユニットが隣接すると、そこより北のチンドウィン河が補給線として使用できなくなって日本軍の第15師団と第31師団に一般補給が供給できなくなるため、絶対的に日本軍部隊を送り込んでおかないとヤバイということが判明。しかし移動フェイズ中に送り込めるのは1ユニットだけで、予備モードにして拡張(突破)フェイズ中に送り込もうとしていたもう1ユニットは、リアクションフェイズ中の航空阻止(実際②の箇所で成功)で到達できなくすることが可能だという……。

 イギリス軍側には①の箇所の日本軍ユニットを吹き飛ばすチャンスが、リアクションフェイズの航空爆撃、自ターンの航空爆撃、砲撃、戦闘、あるいは拡張(突破)フェイズなど、何回でもあるんですが、ただし、それだけのリソースをここに注ぎ込んでもし砲爆撃が当たらなければ、戦闘で良くないダイス目が出たならば……退却しておいてインパール平原周辺でこれらの戦力を有効活用した方が良いのではないか……というリスクもあります。

 しかし日本軍側としては①の場所へとある程度以上戦力を送って、イギリス軍側がチンドウィン河へ隣接させようとする誘引を減らしておく&一度隣接されたとしても何とかして取り返せるようにしておくことが必要だと思われ、②の場所で1つが予備モードで、1つが戦略移動モードでかけつけています。

 ③の箇所には予備モードにした1-4-5ユニットが置かれており、④の箇所まで戦略移動モードで走らせたユニットと、拡張(突破)フェイズ中に合流できるようにしています。

 が、師団司令部ユニットは写真の場所(17.06)までしか行かないとしても、支給範囲3+1ヘクスで④の北のHumineの村まで、あるいは例えば16.08や15.07も一般補給下にできるので、そこまで戦略移動で行っておくという選択肢もありかもです。




 ↓北方、第31師団の戦区。

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 ①の箇所には予備モードになってチンドウィン河を渡河し、拡張(突破)フェイズには②のヘクスまで移動できる見込みです。

 ②のヘクスの南で戦略移動モードになっているユニット群ですが、師団司令部からの一般補給範囲に縛られています……が、今気付いたんですが、師団司令部の下に歩兵大隊ユニットを入れれば支給範囲を伸ばせるという特別ルールがあるので、それを使えばいいのですね!? ③のヘクスまで行ければ、次のターンに予備モードでその北西ヘクスに行って、拡張(突破)フェイズにさらに北西のヘクスへ行き、次のターンにはその北西の小道ヘクスに出られるという話が……。画像左上の方にいるイギリス軍ユニット(ビルマ軍部隊や西アフリカ軍部隊)は、初期配置の時点ですでに一般補給範囲外にいたので、部隊を大事にするならば日本軍に向かって進撃はできず、撤退することになるだろうと思われます(もちろん、リスクを犯して日本軍に向かっていくという選択肢もあります)。

 ④のユニット群も一般補給範囲に縛られてます。この後その西の方の小道へ向かう予定です。



 色々雑談しながらでもありましたのでこの日はここまででしたが、いつものOCSと同じように研究で色々考えるのが楽しく、ワニミさんも今後『Burma II』プレイに参加してくれることになりました。

 次回尼崎会は、3/7(土)と3/8(日)の両日で、富山県からKさんが来られてこのシナリオをプレイ予定です。下野守さんは新型コロナがやばいことになっていなければ、参加できるかもとのこと。古角さんにも声をかけていまして、「検討します」とのことでした。


 7月23日(木)・24日(金)のミドルアース大阪連続例会でもこのシナリオをプレイすることになっていまして、3/7,8にしろ、7/23,24にしろ、あるいはその間の期間にしろ、興味のある方はどなたでも声をかけていただければ、OCS初心者の方でも全然インストさせていただきますので、気軽にお声がけ(コメント)下さい(^^)



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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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