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ウジェーヌはどのように有能だったのか?

 ジョセフィーヌの連れ子でナポレオンの養子となったウジェーヌ・ド・ボアルネの『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の項を読みました。


EugeneBeau

 ↑Wikipediaから。



 ↓こちらもどうぞ。

日本語版Wikipedia「ウジェーヌ・ド・ボアルネ」
ウジェーヌへの高い評価、他 (2015/07/11)
『ナポレオンとバイエルン』から、ウジェーヌについて (2018/07/14)
ウジェーヌがエジプト遠征の時に買った女奴隷の話 (2018/07/15)



 読んでいて「ほぉ……」と思ったことを抜粋引用していこうと思います。

 【ナポレオンに初めて会った時】ウジェーヌはまだ14歳に過ぎなかったが、彼が人生におけるモットーとした「高潔と忠誠」という性質をすでに備えていた。(P27)

 【妹のオルタンスの回想によると】兄はまだ若かったのに、【家族の】危機的な状況での決断力と冷静さを見せた。(P28)

 【1799年】ウジェーヌはナポレオンの副官という仕事にうんざりして、通常の軍務へと戻ることを希望した。その願いを聞き入れてナポレオンは、彼を新しく創設された執政親衛隊の猟騎兵中隊(後に大隊)の指揮官に任命した。ナポレオンはまた、親衛隊の副司令官であったジャン=バティスト・ベシェール将軍を、ウジェーヌの個人指導官に任命した。(P29)

 ウジェーヌはマレンゴの戦いで自身の猟騎兵部隊を指揮し、これが彼の最初の実戦における指揮となった。(P30)

 【イタリア副王としてよりも】ウジェーヌは軍人としての栄達を望んでいた。ウジェーヌは1806年のプロイセン戦役や、2年後のスペイン戦役に従軍することを希望したが、イタリア王国副王としての義務の方が重要だとして拒絶されていた。しかし1809年戦役はイタリア半島にも及び、また多くのフランス軍元帥がスペインに貼り付けになっていたため、ナポレオンはウジェーヌを軍務から外しておく余裕がなくなってしまったのだった。
 ウジェーヌはそれまで騎兵大隊より大きい部隊を指揮した経験がなかったが、今やイタリア軍全体の指揮を任され、またナポレオンからの指令が届くには5日程度を要したため、自分自身の判断で、半ば独立して指揮をすることとなった。(P31,32)

 ウジェーヌは3日間、ヨハン大公の優勢な軍勢の前に堅実に後退をおこなっていたが、4月14日にヴェネツィアの北38マイルのサチーレへと追い詰められた。このサチーレの戦い【ウジェーヌが指揮した最初の会戦でもある】は彼の経歴における最大の敗戦となった。ウジェーヌはあまりに手柄を切望しすぎていたし、また、イタリア王国民を侵攻に晒すことを嫌がっていたのだった。(P32)

 翌日【5月8日】ウジェーヌは西方で陽動をおこなった後、ピアーヴェ川を中央と東方で渡って激しく攻撃した。奇襲を受けたオーストリア軍は反撃したが、部隊の大部分は遙か遠くの川岸にいたままだった。ウジェーヌはサチーレでの敗戦を埋め合わせる明確な勝利を得て、ヨハン大公に対する優勢を確立した。ウジェーヌの幕僚【の一人】は書いている。
「殿下は皇帝陛下の子息たるに相応しいことを証明した。私は殿下の動じなさ、冷静沈着さに感心した。殿下に唯一欠点があるとすれば、勇敢過ぎるということだ。」(P33)


 その後ロシア遠征での冷静な指揮ぶりなどで大陸軍の中でも一目置かれる存在となるも、本人は遠征のあまりの悲惨さに心を痛め、軍人としての栄達はいらないと思うようになったとか。

 ナポレオンがロシアからフランスに帰国した後の指揮権はミュラに任されましたが、ミュラも帰国するとベルティエに説得されていやいやながらもウジェーヌが指揮を執ることになり、彼はあらゆることを堅実に、また注意深く処理していったとか……。




 人物評に関してですが、ウジェーヌに他の元帥達のような貪欲さがなく、忠誠心が高めであったことはとりあえず置いておきまして……(それだけでも当時のナポレオン周辺の人物としては希有で、貴重なことですが!)。

 ウジェーヌがどう優秀であったか、という件について。

 彼の実父も将軍としてある程度は名を挙げた人物なのか、軍事大臣になったりしているので元々遺伝的な素質はあったのかもですが、実父が処刑された後、母の愛人となったオッシュ将軍(ナポレオンのライバルであり、ナポレオンも「戦争の達人」と評したとか)に学んだり、ベシェールに学んだり、ナポレオンからも色々教えられていたそうで、またウジェーヌ自身謙虚で良く学んだようです。

 最初の会戦となったサチーレの敗戦からウジェーヌは学び、実直な性格とも相まって、戦場となる場所の地形と、会戦の状況を自分自身で必ず良く見るように心がけ、また戦いの最中は常に重要な地点にいるようにし、兵士達に自分自身の勇敢な姿を見せることで勇気づけたのだそうです。

 マクドナルド元帥などはその回想録の中で、1809年のウジェーヌの指揮の失敗と臆病ぶりを誇張して、自分の方が活躍したのだと思わせようとしているらしいのですが、実際にはウジェーヌの指揮は優れていたのだとか。



 ウジェーヌは派手さはないかと思いますが、性格は誠実で、非常に冷静かつ勇敢、有能であったということで、ナポレオン麾下の将軍の中でもっと知られていい人物なんではないでしょうかね~。

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『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を注文しました

 またぞろ、Amazonの「本のおすすめ商品」を見ていましたところ……(この機能、自分の閲覧履歴や注文履歴を元におすすめ商品を表示してくるのだと思いますが、少なくともことミリタリー系の洋書に関しては、「えっ」と思うような自分にとって読みたい、新しく出版された本を表示してくる確率がかなりあると思います。それ以外のカテゴリでそういう風になったことないですけど:p)。

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』という本が表示されており、イタリア軍、特に東部戦線のイタリア軍に興味のある私は「おっ?」と、当然クリックしてみますと……。




 とりあえずまず値段が! ハードカバー版が10,662円で、Kindle版でも9,031円。なかなか見ないような値段です。しかし、出版は2019/9/20と最新

 内容紹介を読んでみたところ、研究が少なかった東部戦線のイタリア軍に関して、伊独露の資料を用いて広範に深く、今までの見解に修正を加えた……とかなんとか。「うーん、いいじゃないか」

 裏表紙の「推薦の辞」?みたいなのが読めるので見たところ、まあ絶賛してあるわけですが、その辞を書いた人の名前が「David Stahel」って……。スモレンスク戦の時点で独ソ戦はすでに挫折していたというテーゼを打ち出した本(学位論文?)を書いたストーエル?

 大木毅さんの「隠されたターニング・ポイント スモレンスク戦再評価」という記事(『ドイツ軍事史――その虚像と実像』に収録されていると思いますが、私は同人版で所有)では「ジョン・ストーエル」とあるのですが、一時期フンボルト大学に行ってたとか、ケンブリッジ大学出版局から出版された『バルバロッサ作戦と東方におけるドイツの敗北』という書名などは一致するので、同一人物なのでしょう。




 「うーん、なんかすごいな……」と思いつつ「なか見!検索」を見ていったところ、目次の時点で……


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 特に2、8、9、10章に分析的な記事があるようなのを見て、「はい、購入確定!」(^_^;

 実際のところ、これが2万円や3万円でも買わざるを得なかったと思われ……。


 実は『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』(イタリア軍やアルピーニ軍団を過度に肯定している可能性がある)をある程度読んだら、その客観性を次はドイツ語で書かれた東部戦線のイタリア軍に関する本である『Die Italiener an Der Ostfront 1942/43: Dokumente Zu Mussolinis Krieg Gegen Die Sowjetunion』を買って、ネット翻訳でなんとか読んでいかざるを得ないか……とも思っていたのですが、これなら『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』さえあれば、そこらへんの問題は解決する?

 『Die Italiener an Der Ostfront 1942/43: Dokumente Zu Mussolinis Krieg Gegen Die Sowjetunion』に関しては↓こちら。

東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)



 『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』なんですが、でっかい本だったりするのだろうかとも思ったのですが、サイズが書いてあったので見てみると、いやいや、普通のサイズです。とすると、チャンドラーの『ナポレオン戦争』の和訳本(原典は1冊本で、数千円で買えるのに、和訳本は5分冊で1冊10,000円)みたいに、「数が売れることが見込めないから1冊の値段を無茶苦茶高くするしかないのよ」というやつなのでしょうか。でもまあ、自分にとってクリティカルなものには、どれだけでもお金を出していくという方向性で。そうすればこそ、その分野で採算が取れ(るのに近づき)、活性化するわけですから。


 先日出版された『戦争は女の顔をしていない』のコミックス版もそうで、コミックスがどれだけ売れるかに今後連載を続けられるかがかかっているということで、私はAmazonで先行予約で4冊注文しました!(そして甥っ子や知り合いに配る)



 昨日届いて読み返していた(ウェブ上ですでに読んでいるので)のですが、また滂沱しながら読んでました。


 皆さんも、『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』は買わなくても読まなくてもいいので、コミックス版『戦争は女の顔をしていない』は買うか、そうでなくてもウェブ版でぜひ読んで下さい!(^_^;





OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第14ターン先攻(連合軍)

 OCS『Tunisia II』のキャンペーンソロプレイで、第14ターン(1942年12月29日ターン)先攻の連合軍をプレイしました。

 前回は↓こちら。

OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第12ターン後攻(枢軸軍)~第13ターン (2020/01/21)



 ↓先攻ターン終了時。

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 戦線は全然動いてないわけですが、防御に不安があった中央部にフランス軍部隊を送って厚みを増やし、南方にはアメリカ軍ユニットを送って将来的にこちらで攻勢しようかと。ただ、攻勢的なことはまだだいぶ先になりそうです。



 以下、『Tunisia II』のプレイ時に使用するオプションルールに関する個人的な考えですが……。

 今回、そういえばイギリス軍、アメリカ軍、フランス軍の連携を制限する(ドイツ軍とイタリア軍の間も制限する)オプションルール(4.1)を入れてなかったことに気付きました。「入れてた方がよかったかな……」と思いつつ、末尾のデザインノートを読むと「経験豊かなプレイヤーには、このオプションの利用をお奨めします。」と(^_^;

 実際、史実においてはこのチュニジアの戦いの時に、英米軍は「一緒に戦えるだろう」と戦域を分けずに共同して戦ってみたところ、両軍間であらゆることが異なっていて全然うまくいかず、その教訓から次のシチリア島の戦いの時には完全に戦域を分けることにした……のだそうで。

 連携制限のオプションルールは攻撃の時のみ一緒にできない、というものなので、攻勢側の連合軍にとってより影響が大きいと思いますが、今回恐らく史実よりも連合軍側が押しこんでいることもあり、「まあ入れた方がいいか」ということで、このターンから入れてプレイするということにしました。

 あと、OCS公式オプションルールの「21.3 独立ユニット」も入れてプレイしたのですが、そのことを失念していて「あ、いかん、この独立ユニットのアクションレーティングを攻撃の時には使用できない……」と攻撃時になって低アクションレーティングで攻撃せざるを得なかったりしたのですが(^_^;、しかしこのルールを入れないと『Tunisia II』の場合特に、英米軍の機甲師団が常にコマンド部隊を先頭に立てて攻撃をおこなったり(そういうのはなんか変な気が……)、独立ユニットしかいないような戦域での小規模な戦闘の結果が全体に及ぼす影響が大きくなりすぎる面があるとも思うので、個人的にはこれはぜひ入れてプレイするということで……(それでなんで失念するねん)。

 もちろん、これらは『Tunisia II』を何度かプレイして慣れた後(人)の話ということで。



 『Tunisia II』のソロプレイは続けていきたいのですが、3月8日(日)のゲームマーケット大阪や、7月23,24日(木金)のミドルアース大阪の連続例会で『Burma II』をプレイすることにしようと決めたので、とりあえずエネルギーをそちらに注いでいき、2月中に少なくとも『Burma II』の練習シナリオ(インパール作戦のうち、一番南の第33師団の進撃のみを扱う)をソロプレイしてみようと思ってます。



OCS『Burma II』の日本軍航空機の名前が連合軍のコードネームで書かれているので、日本名を調べてみました

 大阪でのゲームマーケットが近づいてきまして、今回も午後には何かしらOCSをプレイしようと思い、何をプレイすべきか考えてました。


 ↓過去のゲームマーケットでのOCSプレイの様子。
ゲームマーケットで仁川上陸作戦 (2015/03/02)
ゲームマーケット神戸でOCS『Sicily II』「プリマソーレ橋」研究 (2017/03/13)
OCS『Tunisia II』序盤研究 (2018/04/03)
ゲムマ大阪でOCS『Tunisia II』「チュニスへの競争」シナリオの第6、7ターン (2019/03/10)



 『DAK-II』から、第1次ロンメル攻勢シナリオ(というかキャンペーン。つまりフルマップが最低4枚)をマップ1枚でプレイ……という案が魅力的ではあるのですが、やはりマップ1枚でやるには色々無理がつきまとうので、ワニミさんが尼崎会用に貸与して下さっているOCS『Burma II』の何かしらシナリオをやろうかと。

 シナリオを見てみたところ、練習用シナリオ(マップの1/8で日本軍第33歩兵師団の進撃のみを扱う)かショートシナリオ1(マップの1/4でチンディット部隊の降下から撤退まで)がよさそうかな、と思いました。ただ、後者はよりマイナーでしょうから、よりメジャーだと思える(マップの使用範囲の少し北にインパールがあります)前者の方がよいかな……? しかしインパール作戦と言えば、日本人(軍)にとっての悲劇の代名詞みたいなものですから、ゲームマーケットという場でやるにはセンシティブかもと思わないでもないのですが……(どうなんでしょ?)。


 『Burma II』なんですが、日本軍の航空機の名称が連合軍側のコードネームで書かれていまして、シルエットを見てもそこらへん詳しくない私には機種が分からないので、調べてみました(「米軍が付けた日本陸・海軍機コードネーム」というページがありました。ありがたや……)。


 ↓『Burma II』の日本軍航空機ユニット

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・Oscar=隼(一式戦闘機)
・Tony=飛燕(三式戦闘機)
・Sally=九七式重爆撃機


 うーむ、小学生の頃、ウォーターラインシリーズを良く買って組み立てていた私は、日本海軍の航空機は少し知っているものの、日本陸軍のはほとんど知識がなくて、あまりよく分かってないですね(^_^; 特に九七式重爆撃機はもしからしたら全く知らなかったかもなのですが、傑作機なのですか~。

 「Oscar II」というユニットもありますが、これは「隼二型」のことなんでしょうか? しかしWikipediaを見ているとインパール作戦の頃にはもう一型から二型に置き換わっていたようにも読め、そうすると「Oscar」と「Oscar II」の割合が……?(どなたか教えて下さい!(>_<))


 「Mix F」とあるのは、戦闘機の機種が混合しているもので、「Mix B」は爆撃機の機種が混合しているものです。OCSは1つの航空ユニットでおおよそ20~45機(稼働率の計算込み)を表しているので、端数が生じるものはこんな風に混合にユニット化されているのです。


 インパール作戦についても私は全然よく分かってないので、色々資料を読んで知識を仕入れたいと思います。

OCSユニットで見るドイツ軍の第22空輸師団(第22歩兵師団)

 承前。(→OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第12ターン後攻(枢軸軍)~第13ターン (2020/01/21)

 ドイツ軍の第22空輸師団の件です。



 「空輸師団(Luftlande-Division:Air Landing Division)」というのは、グライダーで輸送されることを前提とした部隊だそうです。

英語版Wikipedia「22nd Air Landing Division (Wehrmacht)」
ドイツ語版Wikipedia「22. Infanterie-Division (Wehrmacht)」


 検索して見つけた日本語サイトには↓のように書いてありました。

1936年10月に行われたドイツ軍秋期大演習において、ゲーリング将軍連隊第一大隊の一個小隊は見事な降下を見せ、人々にその存在をアピールした。陸軍も第22空輸師団を組織した。その後軍総司令部は、空軍と陸軍の空挺部隊の2本立てとしていくに決めた。
「緑の悪魔と恐れられたエリート部隊「降下猟兵」の戦い」

 433(LL)は1941年2月に発効した「Luftlande」部隊のための編成表です。グライダーで輸送されることを前提とした部隊のことで、第22歩兵師団がこのタイプの部隊に改編されましたがクレタ島作戦には結局使われず、末期のチュニジア戦戦に送られて全滅しました。1944年にノルマンディーにいた第91歩兵師団は「第91空輸師団」ともしばしば書かれ、第6降下猟兵連隊も指揮下に置いていましたが、その砲兵連隊は山岳砲兵連隊の編成表を適用されたので、この編成表は結局第22歩兵師団専用ということになります。
「ビリー・ミリガンと39枚の編成表」


 なるほど、降下猟兵師団と違って、陸軍の管轄なのですね……。確かにOCS上でも、空軍地上部隊が水色のユニットであるのに対して、第22空輸師団は陸軍の色であるジャーマングレイになっています(『Tunisia II』はなぜかドイツ軍が薄い茶色になっているのですが、ジャーマングレイの方がいいような……)。




 ↓『The Blitzkrieg Legend』の第22空輸師団

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 史実ではハーグ周辺に空輸されて戦ったものの大損害を被ったとか……。

 『The Blitzkrieg Legend』上でも、第7降下猟兵師団ユニットが空挺降下→オランダの航空基地を占領→その航空基地に第22空輸師団を空輸→第7降下猟兵師団と第22空輸師団でオランダの大都市を攻撃というコンボが成立します。




 ↓『Case Blue』の第22歩兵師団

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 クリミア戦などを、通常の歩兵師団として戦ったそうです。『Case Blue』には当然多数の歩兵師団ユニットが入ってますが、アクションレーティングが5の歩兵師団はこの第22歩兵師団だけでした。空輸師団としての経歴もあって、精鋭という位置づけなんでしょうか。




 ↓『DAK-II』の第22空輸師団

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 ゲーム上では、「まれなイベント」である「枢軸軍戦略予備の投入」が起きた時にのみ、1942年8月に登場させられます。

 史実では、ドイツ語版Wikipediaによると、クリミア戦の後に「空輸」の名称が復活して、北アフリカ向けとされたり、防御用部隊とされたりなんか色々あったようですが、実際には1942年8月にギリシャとクレタ島に守備部隊として送られた? そして1942年10月に「空輸」の名称を消失。



 ↓『DAK-II』の「Kampfgruppe Buhse(ブーゼ戦闘団)」ユニット

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 第22歩兵師団のうちの、第47歩兵連隊とII./AR(師団砲兵連隊の中の第2大隊ということ?)でもって、「ブーゼ戦闘団」が編成されて、1942年10月に北アフリカへ送られ、第5装甲軍麾下とされたそうです。……ということはこの部隊は、ロンメル麾下になったことは一度もなく、最初からアルニム麾下として、リビア(トリポリとか?)に送られた?

 そこらへん分からないかと思って検索してみたのですが、ぱっとは見つけられませんでした……(『DAK-II』上ではシチリア島ボックスに登場するので、その後北アフリカのどこに送られたかの情報は含まれないのです)。

 発音ですが、なぜか「Kampfgruppe Buhse の発音の仕方」というページがあり、2人の発音は「ブーセ」と「ブーゼ」に聞こえるのですが、ドイツ語はsの後に母音があると濁るのが普通らしいので(ただし例外もあるのだとか)、とりあえず今回は「ブーゼ」で……。実は以前私が作った『DAK-II 私家版和訳』のc3.11cには「ブーセ戦闘団」と書いてあるのですが、「すでに印刷したけど、ブーゼの方がいいんじゃない?」という方は、「点々」を書き加えておいて下さい(T_T)。




 ↓『Tunisia II』の第47歩兵連隊

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 1943年2月26日に「第47装甲擲弾兵連隊」と改称され、第21装甲師団の麾下に置かれたそうです。そして1943年5月にチュニス周辺で壊滅……。

 『Tunisia II』のシナリオ上でのセットアップを見ていると、カセリーヌ峠の戦いの時にも、マレトラインの戦いの時にも、マレトラインの方にいたようです。ネット上での複数の資料では「ブーゼ戦闘団」がカセリーヌ峠の戦いの時に第10装甲師団と一緒にフォンドーク峠にいたと書かれているのですが、この「ブーゼ戦闘団」はどうも、2月に新たに編成されたものであって、第47歩兵連隊とは関係がない……のかな……?


OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第12ターン後攻(枢軸軍)~第13ターン

 OCS『Tunisia II』のキャンペーンソロプレイの続きをプレイしました。

 まず第12ターン後攻の枢軸軍をプレイしたのですが、増援としてリビア方面から独立第47自動車化歩兵連隊がやってきました。ロンメル麾下の部隊から?(最初からアルニム麾下のものとしてリビア方面に送られた可能性もありますが) しかしともかくも、リビア方面から枢軸軍が入ってくるところまでプレイしたのは初めてです!

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 前回ワニミさんと『Tunisia II』キャンペーンをやっていた時のエントリを探してみたら、直前の第11ターンまでやってました(^_^; (→OCS『Tunisia II』キャンペーン第7~11ターン (2018/01/05)

 それから『Tunisia II』ルールブックに入っている戦闘序列によると、この独立第47自動車化歩兵連隊は第22空輸師団のものだ(った)ということで、興味を持ったので調べてみました(→OCSユニットで見るドイツ軍の第22空輸師団(第22歩兵師団) (2020/01/21) )。

 この第47自動車化歩兵連隊には、近くの航空基地に1Tを航空輸送して燃料を入れ、戦略移動でチュニスまで走らせました。


 チュニス方面の戦線は、ある程度ユニットが揃ってきたドイツ軍の第334歩兵師団と、すでに輸送してあった装備補充ユニットですぐに再建した機甲ユニットとでいくらか厚みはできたものの、まだちょっと心許ないです……。

 しかも、実はビゼルタ港はここのところずっと敵ZOC(打ち消せない)で閉塞されていたことに気付きました。今までSPをガンガン海上輸送していた……まあ、その分は実は今まで同ヘクスの航空基地に航空輸送していたのだとみなすことにしまして……(航空輸送の方がSP量の制限はキツイのですが、何ターンにも分けて運べば矛盾はないくらいの量だったので)。

 それに、「OCSの物置2」で公開している「OCSシークエンス&Tips」で、海上輸送について「打ち消されていない敵ZOCにあると港湾が“閉塞”されてしまう。」と書いていたのですが、「敵ZOC(打ち消せない)にあると……」の間違いだと気付いたので、改訂して公開しておきました(すみません(T_T))。




 で、第13ターンは泥濘で、両軍とも航空整備や輸送だけをおこない……。

 ↓第13ターン(1942年12月26日ターン)終了時。

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 前回、継続するか悩んでいた連合軍の攻勢ですが、やはり一度停止することにしました。というのは、理由として……。

1.司令部を前線近くに出さないと支給距離の関係でそもそもこれ以上前線を前に出せないということが前回の攻勢ではっきりした。
2.前線近くに設置できた滑走路(AirStrip)をレベルアップさせたいが、そのためにもその近くに司令部を移動させなければならない。
3.補充ユニットをずっとアルジェに置きっぱなしにしてあったが、前回の攻勢で大損害も出たし、それを補充できるが、それらを前線に出すのに少し時間がかかる。
4.マップ西端に、燃料を入れないと移動させられない増援が溜まっている(戦力的には大したことないのですが。ただし、アメリカ第1歩兵師団も来ていて、戦闘モードで徒歩で歩かせることもできますが、燃料入れたら遙かに早く前線に到着させられるので)。

 などなど。

 史実でも連合軍の攻勢はクリスマスに停止が決定しており(→OCS『Tunisia II』序盤研究 (2018/04/03) )、まさに史実通りのタイミングで攻勢停止となりました。って、実は私は「クリスマスに攻勢が停止……と言っても、何が理由で停止するんだろう……? ゲーム上では割とずるずると攻勢してしまう、というか、ずるずるとでも攻勢し続けた方が得っぽいのだけど……」と思ったりもしていたのですが、実際に、「攻勢を停止した方がいい理由」が色々とゲーム上でも積み重なってきまして、「なるほどなぁ……!」と(^_^; さすがOCS、素晴らしい!


 一方の枢軸軍側ですが、増援表を見るとリビア方面からのロンメル麾下の部隊はまだまだなかなか、三々五々としかやってこない感じで1月下旬になってどばっとやってくるのですが、1月1日ターンにシチリア島にある程度の増援がやってくる(ティーガー中隊も)ので、なんとかしのぎたいところ……。

 ビゼルタ港の隣接ヘクス2つにまで押しこまれてしまっているので、そこがだいぶ苦しいんですよね……。


 次のターンの天候を振ってみたらフライトで、イニシアティブは枢軸軍が取りました。枢軸軍としては、連合軍側にダブルターンをされたくないので、連合軍に先攻を取らせることにしました。また、機会を見てプレイしていくつもりです。

OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第11~第12ターン先攻(連合軍)

 また久しぶりに、OCS『Tunisia II』のキャンペーンソロプレイの続きをしました。

 第11ターンは泥濘で、第12ターンはフライト。イニシアティブは連合軍が取り、「最後の攻勢努力か?」という感じで攻勢を取ってみました。


 ↓第12ターン(12月22日ターン)先攻連合軍終了時。

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 チュニスの西4ヘクスの箇所(DGが乗っている場所)を巡って航空作戦、リアクション、砲撃、攻撃などが入り乱れたのですが、枢軸軍側のリアクションフェイズでのオーバーランも、連合軍側の攻撃も両方ダイス目が悪く「逆奇襲」という結果で、うーん、どちらも決めてを欠く結果か……。



 ↓このターンの双方の損害。

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 左側の3ユニットが枢軸軍の損害、右側の6ユニットが連合軍の損害です。17:27で、連合軍の方が損害はでかいですが、連合軍の方が補充力も大きいし……。



 連合軍としては、増援の戦力を登場ヘクスに置いたままにして、前線での攻勢のためにSPを使用しており、増援戦力が盤端にある程度溜まってしまっているのと、司令部の位置が攻勢のためにはギリギリの位置なのに、司令部の数が足りなくて司令部を移動させると攻勢が続けられない……というようなジレンマも抱えていて、うーん、ここで一度攻勢を停止して態勢を立て直した方がいいのか、悩みます。

 実は枢軸軍側は、防御にも事欠くほどSPがギリギリなのですが、それは連合軍側には内緒だしバキッ!!☆/(x_x)

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論から、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話

 先日購入した『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』の、ある程度の分量がある序論(introduction)を読んでいっているのですが、ナポレオン戦争期の将軍達の色々な話が出てきて、非常に面白いです。





 以下、ちゃんとした和訳でなく、特に面白いと個人的に思った箇所を要約で挙げていきたいと思います。〔〕内は、どこの国の将軍かと、参考サイトです。

 まずは、「アマチュアとプロ」という章から。

 1807年戦役で当初司令官であったブクスホーデン〔露:なぽれぼ〕はアレクサンドル1世によって解任され、年下で反目していたベニグセン〔露:日W〕が司令官になり、ブクスホーデンはベニグセンに決闘を申し込んだ。

『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xiv
 ……ブクスホーデンは、アウステルリッツのゲームの盤上で印象深いのですが、1807年戦役の司令官を最初やっていたという印象はありませんでした(^_^;


 「ドラマチックに無能な指揮官」として、若くて性急なオラニエ公〔英蘭:日W〕と、精神的に不安定だったアースキン【1813年に精神錯乱で自殺した】〔英:英W〕(両方ともウェリントン公の部下)が、やたらめったら目立つけども、多くの連合軍の将軍は目立ちはしないけど有能だったんだよ。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xiv

 ……オラニエ公が有能か無能か、という件は以前このブログで色々書いてました。↓

オラニエ公は無能なのか? (2011/05/14)
オラニエ公の評価 (2011/05/22)
オラニエ公周辺の評価 (2011/07/22)
ワーテルローにおけるオラニエ公の命令とオムプテーダ大佐 (2015/10/03)
オラニエ公の評価、再び (2015/11/22)

 今、R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog」の去年のエントリである「ワーテルローへの道」を読んでいっているのですが、ナポレオンがエルバ島からパリに向かっている途中ですでに、オラニエ公は連合軍がフランスへ侵攻する案をさかんにまわりに呼びかけていて、まわりから「若くて性急で困る」という扱いを受けていたようです(^_^;(尤もその後準備が整ってくると、ウェリントンもグナイゼナウも、フランスへの侵攻を主張し始めたのでしたが)

 アースキンという人物は知りませんでした……(半島戦争に関して良く知らないので)。



 次に、「指揮官のタイプ」という章から。

 ブリュッヒャー〔普:日W〕は兵士達をやる気にさせる才覚がむっちゃあったタイプの指揮官。ベルティエ〔仏:日W〕はスタッフワークに才覚がむっちゃあったタイプ。
 クトゥーゾフ〔露:日W〕は会戦レベルでの戦術よりも、戦役における戦略次元とか、政治的外交的な能力に秀でていた。スールト〔仏:日W〕もそういうタイプで、彼は会戦では奇妙なほど優柔不断だった。シュヴァルツェンベルク〔墺:Biography: シュヴァルツェンベルク元帥〕は複数の国を協力させるという点で、他の指揮官にない能力を持っていた。
 行政官として有能だったタイプの指揮官もいる。ベレスフォード〔英:英W〕は兵士達の胃を満たすことに特に気を配った。
 行政官としての能力は単に兵站の問題だけではない。ダヴー〔仏:日W〕はワルシャワ公国の創設を監督したし、スーシェ〔仏:日W〕は東部スペインのアラゴン地方を、軍事的な手段だけでなく、分離派の感覚を活かして利益を増大させる形で平和な状態にした。
 ムーア〔英:英W〕やシャルンホルスト〔普:日W〕は、部隊を訓練したり、軍事的な教育の手腕で秀でていた。
 複数のカテゴリの能力を持っていたウェリントンやナポレオンのような将軍は非常に例外的な存在であった。ダヴーはそのような能力を持っていたかもしれないが、真に独立した指揮権を持たされたことがなかったため、それを発揮するチャンスがなかった。
 兵科毎の専門性もある。ナンスーティ〔仏:英W〕は重騎兵の、ラサール〔仏:英W〕は軽騎兵の専門家であった。有名な例外はセバスティアニ〔仏:英W〕で、彼は1805年戦役と1812-14年戦役では騎兵を率いたが、半島戦争では歩兵を指揮していた。バルクライ〔露:日W〕やクトゥーゾフも、多種兵科に通じていた。
 砲兵将校であったナポレオンは砲兵を重視する傾向にあった。逆にウェリントンは歩兵を重視し、重要な地点に現れて(軍司令官なのに)自分で大隊を指揮することが多々あった。ブリュッヒャーは元騎兵将校で、騎兵の戦闘に立って突撃を指揮するのが大好きだった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xvi,xvii


 こういう、タイプ別の話ってすごく興味深いですね。「戦国最強武将は誰か!?」とかじゃなく……。

 人間誰しも得意不得意、好き嫌いがあって、得意なこと、好きなことをやった方が(やらせた方が)うまくいくじゃないか……という考え方を私は昔からある程度していましたが、さらにここ数年はその傾向が強まっています(ただし、やって(やらせて)みれば何でもできる人とか、嫌いな仕事だからなるべくテキパキと片付ける人もいるとか、あるいはなんでもできることが必要な職業もある、というようなことを忘れてはならない面もある)。それに対して日本の教育界や産業界は、スペシャリストよりもジェネラリスト志向過ぎて、世界から取り残されてしまっている……(と、橘玲氏なんかが指摘されております。例えば、橘玲氏「働き方が未来の生き方をデザインする」インタビュー【第2回】)。



 次に、「勇敢な人々」という一章から。

 貪欲さと大志は最も大きなモチベーションだった。ランヌ元帥〔仏:日W〕を褒めた人にナポレオンは言い返した。
「ランヌをそんな風に言うのは間違っている。ランヌとネイ〔仏:日W〕は、もし君の腹をかっさばくことが有利になると思えばそうする奴らだ。だが戦場では、それが無上の価値なのだ」
 ベシェール〔仏:日W〕とヒル〔英:英W〕は優しさで部下達から慕われており、ワグラムの戦いの最中にベシェールが戦死したらしいという噂を聞いた時、老親衛隊の兵士達は嘆き悲しんだ。
 反対に、暴君のような指揮官がしばしば最強の部隊を作り出した。ウェリントン麾下の名高い軽師団を育成した「暗黒のボブ」ことクラウフード【規律に厳しく暴力を振るう傾向にあった】〔英:英W〕や、 ナポレオン麾下の最強第Ⅲ軍団を育成した「鉄の元帥」ダヴーなど。
 勇敢さは彼らを伝説にした。モンブリュン〔仏:英W〕はボロディノの戦いの最中、砲弾で鞍から落ちる時に「いい弾だ!」と言い、その後腹に受けていた傷で亡くなった。ラトゥール=モーブール〔仏:英W〕はライプツィヒの戦いで片脚を失ったが、従者がその姿を見て泣くのに対して言った。
「何を泣いてるんだ、この間抜けが? これでお前はブーツを一本しか磨かなくてよくなったんだぞ」

 英雄の見かけが常にヒロイックだとは限らない。ハゲでメガネのダヴーは教師のようだったし、ヒルは田舎紳士のようだった。ナポレオン麾下の抜きん出た騎兵指揮官であったケレルマン〔仏:日W〕は「不健康そうで、うだつの上がらない風采だった」という。
 外見によって忘れがたくなる人もいる。火のような赤髪のネイ、かぎ鼻で目つきの鋭いバグラチオン〔露:日W〕、ずけずけと物を言う、自ら戦う指揮官であった親衛隊のカンブロンヌ〔仏:日W〕は文字通り「傷があまりに多くてそれが入れ墨のようだった」。モルティエ〔仏:日W〕は身長が2m近くあった。
 動じなさも賞賛されるべきだろう。ヨルク〔普:日W〕は1814年3月30日のパリ郊外で、自分のすぐ側に立っていた兵士が銃弾を受けて自分に倒れてくるのを見て言った。
「なんでこいつは、俺にこんなにひっついてくるんだ?」


 ベシェールは岸田恋さんの『戦争と平和』のオサレな印象が強くて、優しさで兵士達から慕われていたというのは意外でした。

 勇敢な人達の話は「すごい……!」の一言。ケレルマンは日本語版Wikipediaの記述が賞賛の嵐で非常に印象的でした(しかし有能すぎてナポレオンに疎まれて出世できなかったとも……?)。ヨルクの日本語版Wikipediaの最後の記述も面白かったです。



 次に「統率力の秘密」という一章から。

 将軍毎に、部隊に命令を出すスタイルも違っていた。ウェリントンは短くて明瞭、シンプル、よく聞こえる声で命令を出したが、「暗黒のボブ」クラウフードは部下達に辛辣で皮肉な言葉で命令したし、粗野なウェールズ人であったピクトン〔英:英W〕は荒っぽい言葉をばらまきまくっていた。
「行け、このクズども! 行け、この悪党ども!」

 ネイは活力溢れる激励の言葉を多用した。
「躊躇するやつにのみ、死神が手を伸ばしてくる!」
 と彼は1814年のモンミライユの戦いで叫んだ。
「見ろ! 死神は俺には触ってこないぞ!」
 1年後、カトル・ブラで彼は言った。
「将軍、フランスは危機に瀕している。超人的な努力が必要だ。騎兵を率いて、イギリス軍の土手っ腹に突っこむんだ。やつらを倒せ! やつらを足下に踏みにじるのだ!」

 しかし最も重要なのは、落ち着いた二言三言で部下達を安心させることや、あるいは重要な場所に自分自身がいるようにするということだった。
「アーサー【ウェリントン公爵のこと】の奴は、売春婦のとこかよ?」
 イギリス兵の一人が、不安そうにウェリントンの姿を探しながら聞いた。
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」

 ミロラドヴィチ〔露:日W〕は激しい砲火の下でもそのウィットで部下達を笑顔にさせ、自身の存在が部下の邪魔にならないように気を配った。彼は良く言っていた。
「君が一番だと思うようにやってくれ。私のことは単なるお客さんだと思って欲しい」

 将軍達は、他の者とは超越した存在であるというイメージを作ろうとする傾向にあった。
 ネイ元帥は幕僚達と大きな距離を取っていた。行軍中も部隊の先頭よりさらに先におり、必要ない限り幕僚達に話しかけることもなかった。食事も一人で、自身の副官とさえ一度も一緒に食べはしなかった。彼は超然とした態度からのみ尊崇の念は得られると思っていたのかもしれないが、時にその度が過ぎていた。

 モルティエは1805年のデューレンシュタイン〔英W〕の戦いの時、兵士達を見捨ててボートでドナウ川を渡って逃げられるチャンスを拒絶した。
「ダメだ! 我々はあの勇敢な仲間達と離ればなれになってはならない。彼らと一緒に助かるか、あるいは一緒に死ぬかだ。」

 ブリュッヒャーは、ナポレオンを打倒しなければならないという強迫観念のゆえに、何度も敗北してもまた立ち上がることができた。

 命令に対する不服従が優れた結果をもたらすこともあった。その良い例は、1809年のアスペルン・エスリンクの戦いで、ムートン〔ロバウ伯:仏:英W〕とラップ〔仏:英W〕がナポレオンの指示を無視して、ドナウ川の北岸のフランス軍の橋頭堡の脆弱な東側面を守るため、エスリンクの村を維持し続けたことである。
 だが不服従が裏目に出ることもあった。ピクトンは1812年のバダホスの戦い〔英W〕や翌年のビトリアの戦い〔日W〕ではそれで成功したが、1814年のトゥールーズの戦い〔英W〕では不成功に終わり、重い代償を支払うことになった。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xx~xxiv

 「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」ですが、1811年のアルブエラの戦いの時にウェリントンは戦場に間に合わずにベレスフォードが指揮してまして、ウェリントンは会戦の5日後にようやく到着して自分が間に合わなかったことを悔やんだそうで、そのアルブエラの会戦の最中のある兵士の言葉です(『Wellington: A Journey Through My Family』から)。
 より詳しく書けば、Cooperという兵士の回想で、
「アーサーの奴は、売春婦のとこかよ?」
「さあな。俺は彼の姿を見てないよ」(Cooper)
「ああ……彼がここにいてくれればなぁ」
 で、Cooperは『私もそう思った』と書いているようです(文献によっては、その時に「俺もそう思う」とCooperは言った、と書いてありますが)。
 ウェリントン公爵は敬愛というよりは畏敬されていたそうですが、彼がいれば負けないという信頼をも得ていたそうですし、彼は戦場を縦横無尽に駆け巡り、重要な地点に自ら姿を現して自ら大隊レベルの指揮を執るというスタイルだったので、兵士達はウェリントンの姿を実際に見ることが多く、このような会話になったのかなぁと推察します。
 



 次に、「危険と罰」という一章から。

 敵の砲火に狙われやすくなる飾り立てた軍服を着ていたミュラ〔仏:日W〕をコサック兵達は感嘆の目で見ており、殺してしまうよりも捕虜にしたがっていた。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxv


 この段では、「多くの将軍が敵の砲火に狙われるのを避けるため、平服を着ていた」とあって、その例として?ウェリントン、クトゥーゾフ(ボロディノでは灰色のチュニックと緑色のロングコートを着ていた)、そしてナポレオンが出てくるのですが、以前書いてました配色本と、軍服本 (2012/03/07) で、「きらびやかな軍服を着ている周りの幕僚や兵士達の中で、平服のウェリントン公爵は逆に目立っていた」とか「ウェリントンが平服を着ていたのは、派手な服が嫌いで、渋い服を好んだから」というようなことを読んでいまして、そちらの方がなんか説得力があるような気がします。



 「政治面」という一章から。

 将軍が他国に仕えるのは珍しいことではなかった。なぜならば18世紀においては人材が不足しており、少なからぬ国が他国からそれらを招く必要性に駆られていたからである。ナポレオン戦争期においては、特にスペイン軍とロシア軍は、自国の有能な将軍の不足により、多くの外国人指揮官に部隊を委託し続けた。最も有名なのはこの時期のロシア軍の将軍達で、ベニグセンはハノーファー人であったし、ブクスホーデンはドイツ系エストニア人、バルクライはスコットランド人を祖先に持つリヴォニア人、ランジュロン〔露:ウォーゲームで歴史に思いを馳せる〕はフランスの亡命貴族で、エカテリーナ2世に仕えた。
『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』序論xxviii


 ロシア軍はナポレオン戦争期、確かにそういう感があるわけですが、その後自国の将軍で軍事強国になっていく?のか、そこらへんも興味深いです。

 あとプロイセン軍でも、シャルンホルストはハノーファー軍の出身ですし、グナイゼナウはザクセン軍の出身ですね(ドイツ人同士ではあるわけですし、ハノーファーの場合、イギリスと同君の国だったので、そこらへんの事情もありますが)。



 こういう、キャラクター性的な話は大好きです。

 R/Dさんによる、「ナポレオンによる元帥評」も興味深いですのでぜひ。

 ↓こちらなんかもあります。
Shakos『Napoléon 1806』に出てくるフランス軍指揮官の人物像まとめ (2018/08/23)


1990年代以降のワーテルロー論争と、お勧めのワーテルロー洋書

 承前。→4カ国(語)の膨大な資料から客観的に構築された最新のワーテルロー本? (2020/01/14)

 試しにその新しいワーテルロー本と、私が以前買ったものの偏向が指摘されているワーテルロー本のそれぞれの著者名「John Hussey Peter Hofschröer」(ジョン・ハシー ピーター・ホシュレー)【今回Google先生が発音は「ピーター・ホシュレー」であると表示してきましたのでとりあえずそれで】で検索してみたら、『Wellington: Waterloo and the Fortunes of Peace 1814–1852』という、ワーテルローの戦い200周年直前の2015年6月9日に出された本のBIBLIOGRAPHY(参考文献)の項に両者の名前が出てくる段落がGoogle Booksで出てきました。


 ↓私が以前買ったホシュレーのワーテルロー本。1998年刊行。




 1815年戦役は常に論争の的となってきた。フランス敗北の原因究明や、あるいはナポレオン、ネイ、グルーシーの誰がどれだけ非難されるべきなのか。逆にウェリントンと、彼の率いたイギリス軍や他の同盟国軍が賞賛されるべきなのか。さらにまた、勝利に対してのプロイセン軍の寄与度はいかほどであるのか。この最後の論点は1990年代に、ピーター・ホシュレーによる2冊の分厚い本と数多くの論文によって再び脚光を浴びることとなった。ホシュレーの著作はウェリントンを激しく非難し、プロイセン軍は本来受けるべき賞賛を今まで受けてこなかったと主張したのである。不幸なことにそれがきっかけとなった論争はすぐに過熱してしまい、その中で、ホシュレーと彼に対する批判者達(特にジョン・ハシーだが、他の多くの者も含む)の真の貢献は曖昧になってしまいがちであった。今はその混乱は終息したように思われ(と言ってしまうのは危険かもしれないが)、ホシュレーの独自の主張の多くは一般の承認を得ることには失敗したように見えるが、彼のウェリントンへの批判は、少なくともその一部は、正当なものであり、そしてワーテルローの勝利に対するプロイセン軍の貢献度に関する一般の認識は改善されたか、あるいは改善されるべきである。
『Wellington: Waterloo and the Fortunes of Peace 1814–1852』P667


 ホシュレーが史料を自説に都合の良いように切り取って本を書いた箇所が何カ所か指摘されているようです(例えばR/Dさんの「Hofschröerの問題点」を参照)。


 ただ、それじゃジョン・ハシーの新しいワーテルロー本を買えば良いのかどうかですが、この本はキャンペーン全体の戦略的および運用的側面(兵站、貧弱なコミュニケーション、相反する情報など)に焦点を当てて記述されており、戦闘に関してはほどほどらしいです(ただし新しい知見が相当に盛り込まれているらしい)。

 私個人としては論争の面とかにより興味のあるところなのですが、先ほどの引用部分の後にこうありました。

 ワーテルローの戦い200周年【2015年】に近づくにつれ、多くのワーテルロー本が発刊されるのは確実である。その流れで発刊された本の中で今まで私が読めたのは2014年10月発刊のGareth Gloverの『Waterloo. Myth and Reality』のみで、これは複数の論争点(プロイセン軍関係だけでなく)の興味深い議論を含む、公正で標準的な研究だが、学問的な取り扱いの欠如によって損なわれてしまっている。Gloverの最も有益な著作は、これまで忘れられていた、あるいは未発行であったワーテルローの戦いに関する多くの報告や手紙を『The Waterloo Archive』というタイトルで何冊も発刊したものである。
『Wellington: Waterloo and the Fortunes of Peace 1814–1852』P667,8







 ううーむ……。『Waterloo. Myth and Reality』のAmazon書評も見てみた(全部いっぺんに電子翻訳できるようになっていて便利!)のですが、毀誉褒貶が激しいですね。

 『The Waterloo Archive』の方は実は第1巻を以前、気の迷いで購入してしまったのですが、私レベルの人間が読む本ではなかった……(T_T) 実際、全然読んでません(また、手紙の類の英語は私のレベルでは読めないとも思われ……)。



 ちょっと興味深かったのが、ハシーの本のAmazon書評で、こう書かれていたことでした。

 この本はワーテルローキャンペーンの初心者が読むべき本ではありません。最初の導入としてはバルベロを試してみて、これらの戦いのより詳細な戦術的な分析のためにはアンドリュー・フィールドを試してみて下さい。しかし、ワーテルローに精通している人にとっては、この本は印象的な読書を提供し、賞に完全に値するでしょう。Kindle版ではマップが圧縮されているため、Kindle Paperwhiteの倍率機能があっても、テキストはピクセル化され、ほとんど読めません。



 バルベロというのはアレッサンドロ・バルベロで、↓この本のことでしょう。



 私は一時期、ところどころ飛ばしながら1/3くらい読んだかと思うのですが、エピソード的な面白い話のオンパレードで、確かにある意味ワーテルローの導入には最適かも。ただ、英語が簡単でない……(T_T)

 個人的には、多分子供向けに易しめの英語で書かれている『Children at the Battle of Waterloo』をオススメします。こちらは数人の子供の視点から書かれているのでワーテルロー全体を見ることはできないのですが、非常にエピソード的であり、著者が色んな本から知見を得てきて戦術的なこととかも書かれている感があって、面白く読めると思います。マップも入ってますが簡略図なので、Kindle版でも問題ないです(細かい地図が入っている本は、絶対Kindleで買ってはいけないです!)。



 この本については、例えば→ワーテルローにおけるオラニエ公の命令とオムプテーダ大佐 (2015/10/03)




 アンドリュー・フィールドの本というのは全然知らなかったのですが、↓これらのもの。




 すべてフランス側の視点で書かれているのですが、どうも、前回のエントリで挙げていた『The Battle of Quatre Bras 1815』という本が完全にイギリス側からの視点(のみ)で書かれているのですが、その著者と一緒にワーテルローの戦場巡りとかしていて、「そうだ、フランス側の視点の本があったらいいんじゃね?」と思って書かれた本? 英語で書かれているワーテルロー本はイギリス側からの視点ばかり(それから、一時期ホットであったホシュレーはプロイセン側からの視点で書いている)という傾向があると思われるので、それを埋めるために書かれた本という感じがあるのかも(日本だとむしろ、フランス側からの視点が中心になりがちな印象がありますが……)。


 ……と、色々見てきましたが、とりあえず私は新しいワーテルロー本には手を出さないでおいて、先日買った『Great Generals of the Napoleonic Wars and Their Battles:1805-1815』を読まなければ……(ウジェーヌのところだけある程度読んだのですが、非常に面白いです)。あるいはワーテルロー本としては、とりあえずバルベロの『The Battle』に再挑戦すべきですね……(どなたか、『The Waterloo Archive Volume I: British Sources』いりませんか?(^_^;)。


4カ国(語)の膨大な資料から客観的に構築された最新のワーテルロー本?

 R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog」の昨年分を印刷して読んでいってまして、「ワーテルローへの道 11」まで読みました。

 そこで書かれていたのが、史実でナポレオンがシャルルロワからワーテルロー戦役へと進発したのだけども、それを知っている後世の人間が後知恵で色々考え違いをしてしまっている……という話で、興味深かったです。


 で、R/Dさんが読んでいっているウェブページ「The campaign of 1815: a study」(のpdf)をまとめたというPierre de Witという人がどういう人なのか気になりまして……。

 どうやらオランダ人の熱狂的なワーテルロー研究家で、今までのワーテルロー研究では、参加した英仏独蘭4カ国語すべての資料は網羅されていなかったので、それを初めて網羅した資料集をウェブページ上に集積した……ということでしょうか?

 検索していってる途中で、↓の本で、de Witの資料にすごく助けられた(し、本人と色々話して楽しかった)、というような事が書かれていました(→Google Books上で読みました)。



 この2冊の本は出版年が2017年とすごく新しいですし、様々な賞も獲得しているということで、これからワーテルロー本を読もうということなら、この2冊が良さげ……ということなのでしょうか?

 私が以前買っていた(そしてまだごく一部しか読めていない)ワーテルロー本を書いたPeter Hofschroerは今回R/Dさんのエントリでも後知恵で書いていることが指摘される側になってまして、もはや読むに値しないのかも……(T_T)


 一方、なんか良くわかんないですけど「de Wit」を検索していて引っかかった「Reshaping the history of Waterloo 1815」というページには、これまた以前買っていた(そしてブラウンシュヴァイク公が戦死の前日に青白い顔だったこと以外全然読んでない)『The Battle of Quatre Bras 1815』とその著者との話が出てきてまして、この本は割と信頼できる側の本ということ?






 積ん読している内にどんどん事態が進んでいってしまっているのかもですが、研究が進むのは素晴らしいことですね!(>_<)

ドイツ軍部隊によって大量処刑される際、ユダヤ人達はどのようであったのか?

 ドイツ軍部隊によるユダヤ人の大量処刑等に関しては、このブログ上で一時期から色々調べて書いてきました↓

東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)
OCSユニットで見るユダヤ人を大量虐殺したフェーゲラインのSS騎兵部隊 (2018/09/11)
OCS『Guderian's Blitzkrieg II』第707歩兵師団によるユダヤ人大量殺害 (2018/10/18)
『兵士というもの』を読了しました (2018/10/20)
OCSユニットで見る?バルバロッサ作戦で各軍集団に3個ずつ配備された後方任務用の警備師団等 (2018/11/28)
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を読了しました (2019/06/21)
ナチスの優生思想は当時全世界的に流行で、人類の滅亡を救う道徳的なことであると見なされていた!? (2019/09/27)


 ただ、今までに私が読んできた本では「殺害する側(ドイツ軍兵士)」の態度や心情は色々書かれているのですが、「殺される側(ユダヤ人)」の態度や心情に関してはほとんどまったく書かれておらず、そこらへんが知りたい……とも思っておりました(ユダヤ人側から見たホロコーストに関する本もたくさんあるはずで、それらを読めば良いのでしょうけども、ミリタリー関係の本だけでも積ん読がやばいので……と言い訳(>_<))。


 しかし最近読んだ2冊の本にいくらかそれらのことが記述されていたので、引用記述しておこうと思いました。

 その2冊とは↓ですが、『第二次世界大戦秘話』の記述の方がインパクトがものすごかったので、後に紹介しようと思います。




 というわけでまず『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』の方です。この対象となっている第101警察予備大隊というのは、ポーランドで後方保安任務に就いていた、一般人から召集された部隊なのですが、ユダヤ人の大量処刑を何度も命じられていたのでした……。

 通訳を通して、ハーゲンは職人と屈強な男性労働者を求めていると【偽って】呼び掛けた。約300人の労働者が家族から分けられたとき、集められたユダヤ人たちの間に不安が広まった。労働ユダヤ人が徒歩行進でユゼフフを出てゆく前に、森から最初の銃声が聞こえてきた。「最初の一斉射撃が聞こえた後で、行進中だった職人たちの間に深刻な動揺が生まれた。そして幾人かは大地に身を投げ出して泣き始めました。……彼らはこの時点で、背後に残してきた家族が射殺されるのだということをはっきり知ったに違いありません。」
『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』P110

 森から最初の一斉射撃が聞こえてきたとき、集められたユダヤ人は自らの運命を悟って、激しい鳴き声が瞬く間に市場に広がった。しかしその後、静謐 - 実際、ドイツ人目撃者の言葉でいえば、「信じられないような」そして「驚くべき」静謐 - がユダヤ人たちを包んだ。
『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』P114,5

 彼らは【……】明らかに数日間食料を与えられていなかった。集められたユダヤ人の数が揃うと、彼らは駅へ向かって行進させられた。歩けない者はその場で射殺され、警備兵はユダヤ人の隊列が滞ると、そこに情け容赦なく銃弾を撃ち込んだ。
 【……】
 【……】ユダヤ人は20人ごとにグループで連れてこられた。最初は男、次に女、子供の順であった。ユダヤ人たちは共同墓地の壁の近くでうつ伏せになるように命じられ、後ろから首筋を撃たれた。それぞれの警官が7回か8回射殺を繰り返した。共同墓地の入口のところで一人のユダヤ人が注射器を持ってドルッカーに飛び掛かったが、すぐに取り押さえられた。他のユダヤ人たちは、射殺が始まってからも、坐って静かに自分たちの運命を待っていた。ある警官は回想している。「彼らはひどくやつれはて、すでに半ば餓死しているように見えました。」
『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』P180,1

 ユダヤ人たちは駅へ行進させられたとき、自分たちを待ち受ける運命について確信していたけれども、「我らはトレブリンカ【トレブリンカ絶滅収容所】へゆく」と歌った。
『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』P184,5

 すなわち、ユダヤ人は「汚く」、「清潔でない」というのである。他の警官の意見には、ユダヤ人は犠牲にされた人間であると認める感受性が反映していた。彼らによれば、ユダヤ人はぼろを身にまとい、半ば飢餓状態にあったのである。
 同様な意見の対立が、射殺現場でのユダヤ人の振る舞いについての描写にも反映している。機人かの証人はユダヤ人の受動性を強調した。時として、ユダヤ人はその死に対して同じ責任があるのだと暗示するような、きわめて弁明的な仕方で強調している。射殺現場に臨んで、ユダヤ人はいかなる抵抗も、逃亡も試みなかったというのである。ユダヤ人は彼らの運命を受け入れるだけだった。彼らは実際、そうするように言われもしないのに、射殺されようと横になったというのである。しかし他の証人の描写のなかでは、犠牲者の尊厳が強調されている。ユダヤ人の落ち着いた態度は「驚くべきもの」であり、「信じられない」ほどであった。
『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』P247


 「静謐」であるとか、「落ち着いた態度」というのには、本当に衝撃を受けました……が一方で、その後『憎悪の世紀 上・下―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか』という本を読んでいると、ユダヤ人は20世紀前半だけでも(もちろんそれ以前でもでしょうけども……)特に東ヨーロッパで何度も何度もあちらこちらでポグロム(ユダヤ人に対する集団迫害行為。殺戮を含む)を受けており、またこの1940年代においてナチスがユダヤ人を迫害し、絶滅を企んでいることは(徐々にも)明らかだったわけですから、「いつかそういうことがある」と覚悟していたということなのかも……。



 一方で、引用にはありませんが、ある程度若いユダヤ人達は連れて行かれる途中に逃亡していたし、引用に一箇所だけありますがまったく反撃を試みないわけではないようです。ただ、処刑前に飢餓状態に置かれていたケースもあり、そうするともう、何をしようにももうどうしようもなかった……ということもあるようです……。



 さて……『第二次世界大戦秘話』の中の記述ですが、これは『第三帝国の興亡』という本から取られたもののようです。



 さらに東方の占領地域では、ドイツ当局はいっそう情け容赦もない行動に出た。ポーランドやソ連には前進するドイツ軍のあとに続いて、特別行動班という機関が進駐してきたが、この機関がやったことから見ると、これはむしろ皆殺し班と呼んだほうがいいくらいなものだった。
 ニュルンベルク裁判ではある特別行動班の隊長だったオット・オーレンドルフという男が、どんな指令を受けていたかと尋問されて次のように答えている。「ユダヤ人を一人残らず殺せという指令を受けていました」 裁判長「子供も含めてか」
 オーレンドルフ「そうです」
 裁判長「ユダヤ人の子供は全部殺されたのか」
 オーレンドルフ「そうです」
 ニュルンベルク裁判で、ウクライナで行なわれた比較的小規模な大量虐殺の模様を目撃した、あるドイツ人の報告が読みあげられたことがあるが、このときには、全法廷は恐怖に戦慄して、せきとして声がなかった。
 ドイツの目撃者の報告は次のようなものだった。「私は職長といっょしに処刑場の大穴の所へまっすぐに行った。そこではあらゆる年齢の老若男女がむちを持った親衛隊員の命令で衣類をぬがされていた。これらの人々は衣類を品物別に靴、上着、下着とそれぞれ所定の場所に置かなければならなかった。
 悲鳴もあげず、泣きもせず、これらの人々は衣類をぬぎ、家族ごとにかたまって立ち、お互いに接吻しあい、別れの言葉をかわして、もう一人の親衛隊員の合図を待っていた。
 雪のような白髪の一老婆が、一歳ぐらいの子供を抱きかかえて歌をうたってやっていた。赤ん坊は喜んでくっくっと笑っていた。両親がそばで涙をいっぱい浮かべてこれを見ていた。父親は十歳ぐらいの少年の手を握って、やさしく話しかけていた。少年は一所懸命に涙をこらえていた。父親は空を指さし、少年の頭をなぜて何かを説明しているようだった。

 このときに大穴の所にいた親衛隊員が、同僚に何ごとか声高に叫んだ。呼びかけられた同僚は二十人ぐらいの人数を数えだして、土が高く盛られている土手の向こう側に行くよう命令した。一人のきゃしゃな黒髪の娘が、私のすぐそばを通りすぎるときに、自分自身を指さして『二十三歳です』と言ったのを私はよく覚えている。
 私が土手をぐるりとまわると、そこにものすごく大きな墓場が口をあけていた。人間の体が幾重にもぎっしりと積み重なっていた。大穴はもう三分の一ほど人間で埋まっていた。千人ぐらいの死体があるようだった。一人の親衛隊員が大穴のはしに腰をおろし、両脚をだらりとたらしていた。ひざの上に自動小銃をおき、たばこをくゆらしていた。
 人々は何歩か穴におり、そこに横たわっている人々の頭の上を歩いて、親衛隊員が指示する場所まで行った。人々が体を横たえると、私はつるべ打ちの銃声を聞いた。次の一団がもう近づいてきていた。この人々も穴におり、前の犠牲者たちの上に並んで銃殺された」 このようにして一団また一団と殺されていった。
『第二次世界大戦秘話』「第三帝国の興亡」P125~7


  滂沱(T_T)しかありません。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像、その2

 ドイツ語本の『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』ですが、年始に時間があったので機械翻訳の作業をしてましたところ、王妃ルイーゼフリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像に関して興味深い記述がありました。

 と、その前に、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(と王妃ルイーゼ)のキャラクター像については以前(5年前!)、色々と書いてましたので、そちらもどうぞ。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像 (2015/02/11)
不定詞王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (2015/03/12)
王妃ルイーゼが敗戦8日後にキュストリンで王と再会する (2015/05/20)
ウォーゲームを広げたのはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だった? (2016/02/16)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は『咲-Saki-』の野依プロであるバキッ!!☆/(x_x) (2016/05/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が側室を? (2016/06/04)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と音楽人形 (2016/06/08)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と鉄十字章 (2016/06/11)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の散歩とジョーク (2016/08/05)
「第九」はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に捧げられていた! (2016/09/08)


Frederick William III of Prussia

 3人の姉妹はより幸福だったり不幸だったりしたが、ルイーゼだけが姉妹で唯一、気持ちの持ち方で結婚生活を調和させることができた。彼女の夫は気まぐれで、頑固、わがままで知られていた。【……】
 【……】王は時によってまるで別人であった。あっという間に不機嫌な専制君主になったかと思えば、すぐに感情的で繊細な私人となり、【……】
 フリードリヒ・ヴィルヘルム【3世】は、王室の家庭生活が厳格な権威主義的で家父長的であった時代に生まれたのであったが、私生活と政府を調和させ、新しい精神の象徴となった。ヘルマン・フォン・ボイエンは、プロイセンの陸軍大臣として、国王を身近なところから知っていたので、優れた記憶力、思慮深さ、そして常に情報に通じている能力を証言している。彼はまた、王の個人的な勇敢さ、さらには冷静沈着さ(「私は王の身体に、危険を怖がる身体症状が出たのを見たことがない」)を強調し、彼の魅力(「アレクサンドル皇帝と比べても、王は美男子と見なされた」)について説明している。だが他方、ボイエンはその証言の中で、王の政治的判断を評価することは難しいとも述べている。むしろ王は、詳細な質問をして細部にまでこだわりすぎ、どんな決断もできなくなるような悲観論に陥るのであった。王には機知と力強さが欠けていた。一方、王妃は新しい見解にもオープンで、自分をうまく表現でき、王に欠けている決断力を持っていた。ボイエンは、王の同意は「主に王妃の寛容な振る舞いによって得られた」と書いている。
『Koenigin Luise und Friedrich Wilhelm III: Eine Liebe in Preussen』P92


 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は一般に無能視される人物ですし、こういう、長所と短所を並べて書いてくれる資料は大変素晴らしいと思います。また、王の欠点を補えるようにして王妃の長所があったことも大変興味深いです。

 以前、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のキャラクター像に関してエントリにまとめていたのはもう5年も前のことで、その後いくらか収集していた資料も増えているので、改めてそのキャラクター像に関して色々な本から引用をしていこうと思います。前回よりは、その長所が判明してきたように思います。

 しかしまずは短所を述べた(同じ資質であってもそれを短所と見なす)資料から引用していきましょうか。

 フリードリヒとの約束で夫の言う事に従うようにという事になったものの、ルイーゼはこのホーエンツォレルン家の家風に馴染めず、不満だった。ルイーゼは天性の自然児だったからだ。またフリードリヒにも、気まぐれな所があった。
 彼は真面目で内向的だったが怒りっぽい所もあり、時折怒りを爆発させる事があった。最良の処方箋は、ルイーゼが彼に譲歩する事だった。王太子は反論や批判に、極度に傷つきやすい面があった。
とはいえ、二人は愛し合っていた。ルイーゼの天性の明るさと優しさと感情移入の能力により、二人は仲直りした。
『プロイセン王妃ルイーゼ 上巻』P27


 この資料も、ルイーゼのある意味希少な資質により二人が仲良くできたことが書かれていて、素晴らしいです。


背が高く美男で善意そのものの顔つきだが、しっかりした性格をあらわす生気に欠けた」(マルボ男爵)フリードリヒ=ヴィルヘルム3世……フリードリヒ大王の甥の子どもで36歳のプロイセン国王は、意志が弱くて決断力に欠けるところから、つねに王妃とルートヴィヒ親王に押しまくられていた。
『ナポレオン下』P229


 外見的には非常に良かった!?


 1796年から1800年までの間にプロイセンでは支配者の交替があったが、その政策は変わらなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世ほどにも活力と能力があったならば必ずや積極的な行動に移ったであろう環境においても、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は弱いと言えるほどに平和愛好に執着した。この【中立】システムの創設者であったハウクヴィッツでさえもが、自身が薦められている対仏同盟への参加を、若き王に考慮するように勧めた。しかし王は戦争に対しての強い反感を難攻不落なほどに抱いており、プロイセンを第2次対仏同盟に参加させることはなかった。
『Hanover and Prussia 1795-1803』P29,30


 この部分ですが、割と真っ向からその主張に反対する、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の方が正しかったのだという本(というか論文)もあります↓

 要するに、1797年にフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が息子に王位を譲った時のプロイセン軍は、機会主義的な中立政策を支援するのに最も適していたのだ。
 27歳にしては陰気で悲観主義的なフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ほとんどの状況で最悪の仮定をしがちであった。ほとんどの歴史家は、フランスの脅威に際してプロイセンにおけるタカ派の助言を彼が汲むことができなかったのがまずかったと見なしている。だが実際には、フリードリヒ・ヴィルヘルムの慎重な物の見方こそが、その当時のプロイセン軍の実態に合っていたのである。

『Hubertusberg to Auerstadt: The Prussian Army in Decline?』P322


 個人的には、○×の二分法ではなく、ある面では悪く、ある面では良く……というようなことが複雑に絡み合っている、というのが実状であろうとも思うのですが。


 さて、この流れを受けて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に割と好意的と思われる記述の本から引用をしていきます。

Frederick William III, King of Prussia (1770-1840)
 フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とその二番目の妻であるヘッセン=ダルムシュタット出身のフレデリカ・ルイーゼとの間の息子であり、彼は1797年の父の死によって王位を継承するが、その前に1792-4年の戦役に参加し、1793年にメクレンブルク=シュトレーリッツ出身のルイーゼ王妃と結婚していた。幾分優柔不断であったが、父の統治時代の非常に抑圧的な法律の一部を撤廃したり、財政状況を改善させようとした。ルイーゼ王妃にけしかけられて1806年にナポレオンに敵対することになったものの大敗北を喫し、領土の多くを失い、従属国家の役割を強制されることになった。しかしこのことが、フリードリヒの大臣であったシュタインやハルデンベルク、あるいは軍事分野ではシャルンホルストやグナイゼナウによる国家再建と愛国心への動きを促したが、1810年に王妃の早すぎる死が彼の心の支えを失わせることになった。プロイセン軍は1812年のロシア戦役でナポレオンを支援したが、ヨルク軍団の離脱が王をして連合軍陣営へと進ませることになった。民衆の感情に合わせた政策を強要されてフリードリヒ・ヴィルヘルムは「解放戦争」に全面的に参加し、そのことによってナポレオンの没落に大きな役割を果たすことになった。彼はバウツェン、ドレスデン、ライプツィヒなどの多くの戦いの戦場に身を置いていた。戦後彼はアレクサンドル1世とメッテルニヒに従属する役割を果たし、自由主義に反対していたにもかかわらず、民衆からの好意を失わなかった。プロイセンは失った領土のすべてを取り戻したわけではなかったが、プロイセンはドイツにおける指導的な国家となり、ドイツ帝国の基盤を整えた。フリードリヒ・ヴィルヘルムは1792年と1793年の戦役における自分の軍務に関する2つの報告を書いた。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P124,5


 抑圧的な法律(の一部)を撤廃したり、財政再建に努力したりしたことは褒められて良いことかと(ただし、この後に引用する『Germany at War: 400 Years of Military History』には、「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は約束していた立憲君主制への移行を実行しなかったものの、彼の財政再建は未来の繁栄を確かにする役割を果たした。」ともあり、改革に対して消極的だった面も全然あるということは理解しておくべきとは思います。

 「彼はバウツェン、ドレスデン、ライプツィヒなどの多くの戦いの戦場に身を置いていた。」の辺りも褒められるべきことかとも思ったのですが、良く考えたら1813、14年戦役の時にはロシア皇帝アレクサンドル1世や、オーストリア皇帝フランツ1世も戦場にいたのでしたっけ?(それで、総司令官のシュヴァルツェンベルクがえらい苦労するという……)


 財政再建、あるいはプロイセンの国庫財政に関してはこういう記述も。

 この王子は1797年に王位を継承した時にフランスとの中立政策という遺産を受け継いだが、同時に浪費家であった父の借金をも受け継ぐことになった。これらの問題が彼の統治を特徴づけた。フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)によって始められ、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世によって継続されていた改革は、中断されなかった。様々な努力によって国家財政は安定化されたが、必要な改造のための、あるいは過度の投資のために支払う資金がないということがよくあった。シュタインやハルデンベルクなどのこの国の改革者はさらなる変化を要求し、シャルンホルストやグナイゼナウなどの軍事改革者も多くの資金を切に必要とした。これらの要求を適切に満足させることなど不可能だった。
『Germany at War: 400 Years of Military History』P452,3



 理由の面には切り込んでいないものの、↓の説明文は、結果論的にはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は名君じゃないか、と言っている?

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
 やや憂鬱質の人物で、歴史上彼はひ弱な君主と見なされているが、しかし彼は歴史上最も過酷な悲劇の時期を通してプロイセンを導き、ヨーロッパの列強の位置へと引き上げた。
『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』肖像画下の説明



 同書には、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が1815年の対ナポレオンのプロイセン軍総司令官にブリュッヒャーを選んだ理由がある程度詳しく述べられているのですが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は様々に考慮すべき諸事情の中から、かなり悩んだ末に、恐らくかなり賢明であろう選択肢を選んでいる(ただし、逆の選択肢だとうまくいかなかったという証明はできませんが)ように見え、そこらへんを見るだけでも、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は単なる暗君ではないと言えるのではないかとも思います。

 ↑の件については↓に書いてます。

1815年にブリュッヒャーが選ばれた理由 (2013/07/13)


OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーン、第3ターン先攻(ドイツ軍)終了

 1月4日に尼崎会(拙宅)で、OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーンの第3ターン先攻(ドイツ軍)をプレイできました。

 今回は長谷川さんも来られ、肉入り鍋さん、ワニミさん、私の4人でプレイしました。


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 担当区域は北から、肉入り鍋さん(オランダ方面:第18軍=キュヒラー砲兵大将)、私(ベルギー方面:第6軍=ライヒェナウ上級大将)、長谷川さん(アルデンヌの北側:第4軍=クルーゲ上級大将)、ワニミさん(アルデンヌの南側:クライスト装甲集団=クライスト騎兵大将、第12軍=リスト上級大将、第16軍=ブッシュ歩兵大将)でした。……こうして見ると、ワニミさんは「こんなに大量の部隊を指揮するのは大変だ」と仰ってましたが、他のプレイヤーの3倍の兵力をプレイしていたのですね(^_^;




 ↓第3ターン(5月14、15日ターン)先攻ドイツ軍終了時。

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 オランダ方面は前ターンにロッテルダムをかろうじて維持したので、それを失わないようにしつつ、可能なら南方へ戦力をシフト。第9装甲師団を引き抜くことは無理でしたが、SS特務師団をベルギー方面へシフトさせました。

 ベルギー方面ではディール川沿いへと進撃すると共に、ジャンブルーギャップに薄い戦線を張っていたベルギー軍部隊をすべて撃破して大穴を開けました。さらにナミュールを包囲し、東方リエージュでは掃討戦によりリエージュ市の北ヘクスとその南西の要塞ヘクスを奪取。しかしあと、リエージュ市の南ヘクスを取らなければ鉄道線を開通させることができませんし、ユイにもまだある程度のベルギー軍ユニットが残ってしまっています。




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 史実のディナンよりも北方での架橋により第7装甲師団がシャルルロワに迫っています(が、ロンメった結果、拡張フェイズの戦闘セグメントにおける攻撃には失敗して退却)。アルデンヌ南方では、フュメ(Fumay)からセダンにかけて第6、第8、第2、第10、第1装甲師団がミューズ川を渡河し、リアクションフェイズに駆けつけてきたフランス軍の第1機甲予備師団をDGにしました。ワニミさんはずっと「フランス軍が怖いよお」と怯えてうんうん言いながらプレイされていたのですが、最後に心の持ちようで気を取り直された?


 元々5日にもプレイ予定だったのですが、やめておくことにしました。また、毎週日曜日にプレイできていければと思います。


 最後に、久しぶりに来られていた大学生の長谷川さんに、ワニミさん放出のゲーム付きウォーゲーム雑誌で欲しいものを選んでもらって差し上げるということで。長谷川さんは↓の2つを選んでおられました。

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 特に『第3次ハリコフ会戦』の方は、早速友達とやってみようということでした。私からもユニットトレーとダイスを差し上げました。

 肉入り鍋さんと長谷川さんによると、2人のお友達でウォーゲームに興味を示していた子が複数、なかんずくビッグゲームに興味を示していた子もいたということなのですが、その後声をかけるのを忘れていたとか。「いやいや、声かけて下さいよ~。紹介料払いますから!(おい)」

 ツイッターで見たのですが、千葉会に小学生の参加希望者があったという話もあり、素晴らしい話で!





 あと、肉入り鍋さんがBCS(Battalion Combat Series:OCSよりも細かい作戦戦術級あたりのスケールで、疲労を中心概念として描くシリーズ?)に興味があるということで、買ってみようかと仰ってました。ワニミさんはシリーズ3作すべて所有はされているものの、やったことはなく(私も、現在は第3作『Brazen Chariots』は若干興味ないでもないのですが、前2作にはほとんど心惹かれなかったのでまったく手を出していません)、肉入り鍋さんに「将来的に我々にインストして下さい」と頼んでました(^_^;



OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーンセットアップの尼崎会による改造バージョン2.0(オランダ・ベルギー込み)のpdfを公開

 以前↓で公開していましたOCS『The Blitzkrieg Legend』のセットアップ改造バージョンのpdfですが、オランダ・ベルギー込みのものを作成しました。

OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーンセットアップの尼崎会による改造バージョンpdfを公開 (2019/12/17)


 その考察に関しては↓をどうぞ。

OCS『The Blitzkrieg Legend』オランダ軍の第1ターン先攻の移動元地点を調査 (2019/12/31)
OCS『The Blitzkrieg Legend』ベルギー軍の第1ターン先攻の移動元地点を調査 (2020/01/02)


 前記エントリでの調査によるものの他、現在進行中のプレイで、アニュー周辺に配置されたフランス軍の第2、第3軽機械化師団が戦闘(防御)する際にどこからもSPが消費できず内部備蓄で戦うことになってしまってましたので、その点も改善するため、両師団が属していた騎兵軍団(Corps de Cavalerie:Cavalry Corps:CC)司令部を周辺に3ヘクス以内自由配置するようにしてあります。

<2020/01/03追記>

 騎兵軍団司令部とその下の砲兵ユニットを、移動モードではなく移動+DGモードと指定するのを忘れていました。その指定をしたものをバージョン2.1として公開します。

 バージョン2.1のファイルは↓こちら。Dropboxに置いてあります。

tBL Campaign Set up Amagasaki Modified version 2.1.pdf

<追記ここまで>

OCS『The Blitzkrieg Legend』ベルギー軍の第1ターン先攻の移動元地点を調査

 オランダ軍に関する調査に続き、ベルギー軍の第1ターン先攻の移動元地点に関する調査です。


 しかし、ちらっと諸資料の記述の部分を探してみたのですが、開戦直後の移動に関する文章は見つけられなかったので早々に諦め(おい)、地図からのみで。今回も『Atlas of the Blitzkrieg:1939-41』の、最も詳しいMAP49からですが、ほぼ同様の地図が『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』P65にもありました(ただし、前者の最も南の「ChA Be」に関しては描かれていませんでした)。

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 ↑の地図から、OCS『The Blitzkrieg Legend』に反映させたもの↓。

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 ブログに貼れない大きなサイズの画像をDropboxに置いておきます→unit9817.jpg


 青い矢印は移動後でも戦闘モードで置けるもの、黄色い矢印は移動モードになるもの、赤い矢印は戦略移動モードでないと行けないため移動+DGモードで置かれるものです。複数ユニットフォーメーションである「2Cav」はOCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーンセットアップの尼崎会による改造バージョンpdfを公開 (2019/12/17) で書いてましたように、位置をずらして自由配置にしてあるものです(画像のはまあ大体こう置くんじゃなかろうかという配置です)。

 これらの中で一つ気になるのは、第2と第3歩兵師団で、資料では既述の2つの地図で両方とも、第2師団の方が南に描かれていますが、『The Blitzkrieg Legend』では第2師団の方が北に配置されます。しかしまあ、これは別にどうでも良いでしょう。より大きな差異は、資料の地図上ではエバン・エマール要塞のすぐ西にはゲーム上とは異なり第4、第7歩兵師団が配置されており、また第4歩兵師団から第歩兵1師団までの間にはぽっかりと穴が空いていることです。

 諸資料の記述を見ているとエバン・エマール要塞のすぐ西にいたのはやはり第7歩兵師団で、第4装甲師団からの攻撃でボロボロになり、その隣にいた第4歩兵師団は元々質の悪い部隊であったため、脱走や降伏で蒸発してしまった、とあります(例えば『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』P63)。

 まあしかし、諸資料のままにゲーム上で配置してしまうとあまりにもぽっかり穴が空いていて良くないので、セットアップではずらしていって配置したということかとも思います。それはそれでありではありましょう(史実に近い初期配置でプレイしたい場合には、各自が改造セットアップすれば良いのでしょう)。


 さて、それ以外の色の矢印なんですが、黒い矢印のものは、資料の地図では移動したことになっているが、『The Blitzkrieg Legend』のセットアップでは移動元位置にいるものです。解釈としては、それらの移動は5月10日時点ではなく、5月12日とかにおこなわれたもので、第1ターン先攻のタイミングには合わないので……というようなことではないかと。

 紫色の矢印と○は、ベルギー軍のアルデンヌ猟兵(ChA)の諸部隊で、そもそもこれらは『The Blitzkrieg Legend』のハウスルールオプションでDGで配置することができるようになっています。そのため、今回の改造で扱う必要はないものということで。



 これらのオランダ軍とベルギー軍の改造セットアップ情報のpdfも、作成するつもりです。

OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーン、第2ターン後攻(連合軍)終了

 2020年1月1日に尼崎会(拙宅)にて、OCS『The Blitzkrieg Legend』3度目のキャンペーンの、第2ターン後攻(連合軍)をプレイしました。

 この日は肉入り鍋さんも来られて、3人でプレイ。肉入り鍋さんには、連合軍の中央部(ジャンブルーギャップ周辺のフランス軍とベルギー軍から、セダン北辺のフランス軍まで)を担当してもらい、ワニミさんはイギリス大陸派遣軍とその周辺のベルギー軍およびオランダ軍、私はセダン周辺からその南東にかけてのフランス軍を担当しました。


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 連合軍側はディールライン+ジャンブルーギャップの線は保持しきれないと見てそこには薄い戦線だけを張り、次の戦線を構築しはじめています。エバン・エマール要塞の北西で包囲されていたベルギー軍部隊は脱出(ダイスを振って半分の確率で、1D6ターン後に増援として登場できる)を試みたのですが1/5程度しか成功せず(^_^; ハウスルールの孤立チェックで除去された部隊は多くはありませんでしたが、それでもリエージュやユイ周辺は前回のプレイよりはよほど弱体化しており、ドイツ軍側は史実通りくらいの掃討戦をやればなんとかなりそうな気配です。

 オランダ方面に対しては、降伏チェックのダイス目を1修正できる15ステップ程度のフランス軍をアントワープ北辺に残しておいたところ、4以上の目で降伏のところ3の目が出て、部隊を残しておいたことによる修正が見事に決まった形になりました(どうせDGでセットアップされているので、素早く南にスイングできないし、ということもありますが)。




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 セダン周辺ではフランス軍は特に西方向に分厚い戦線が張れず(張ってもしょうがないだろうという読みもありますが)、その西方向に部隊を配置しはじめていますが、今後の展開がどんな風になるのか未経験ゾーンで、どうしていいか分からない手探り状況です(^_^;

 アルデンヌの森の南側にいたフランス軍部隊は、セダン方面へ振り向けた部隊もありますが、その戦線でドイツ軍に楽をさせない(戦力を引き抜いてもよい状態にさせない)ためにも、ドイツ軍にとって邪魔なところにいる部隊はそのままに残しつつ、複数箇所で攻勢的動きを取っています。が、このターンおこなったドイツ軍への攻撃はおおむね失敗し、損害だけ食らいました(爆)。



 次のプレイは1月4日の予定です。天候とイニシアティブだけ振ったところ、ドイツ軍がイニシアティブを取り、相談の結果、第3ターンは先攻を取ることになりました(セダン方面の突破と、オランダ方面でロッテルダムが取り返される危機であることを鑑みて)。次回も肉入り鍋さんは来られるということで、ドイツ軍のオランダ方面と、アルデンヌ南翼の歩兵軍団を指揮してもらう予定です。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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