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OCS『Case Blue』で見る、イタリア軍アルピーニ軍団トリデンティーナ師団の包囲環突破

 小土星作戦の後のソ連軍による、ハンガリー・イタリア軍戦区に対する攻勢作戦「オストロゴジスク=ロッソシ作戦」に関係する話を今までいくつか書いてました。

オストロゴジスク=ロッソシ作戦時のフェーゲライン戦闘団について(付:OCS『Case Blue』『GBII』) (2019/07/11)
イタリア軍のアルピーニ軍団は「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」?(付:OCS『GBII』『Case Blue』) (2019/08/07)



 続けて『On a Knife's Edge』を読んでましたら、オストロゴジスク=ロッソシ作戦によってアルピーニ軍団の他の師団が壊滅する中、トリデンティーナ師団だけがなんとか包囲環からの突破に成功した時の話が、その師団長による兵士達への鼓舞の話と共に出てきまして、興味を持ちました。


 ↓アルピーニ軍団の構成師団と、当時その戦区にいたヴィチェンツァ保安師団。

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 ↓トリデンティーナ師団の退却路(『Sacrifice on the Steppe』P128から作成)。

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 Nikitovkaを通り過ぎた後、トリデンティーナ師団は概算40,000のイタリア、ハンガリー、ドイツ軍兵士達の先頭になって次の村であるArnautovoを目指した。その途上にも敵がおり、アルピーニ兵達は3度攻撃したものの大損害を食らって撃退された。5時間戦った後アルピーニ兵達は、戦力を集めるために少し退却した。そしてトリデンティーナ師団のTirano大隊がもう一度攻撃を行い、これに成功してソ連軍部隊を退却させた。この戦いでTirano大隊の人員はちょうど150名にまで減ってしまったという。トリデンティーナ師団の他の大隊はArnautovoを迂回してNikolayevkaへと近づいた。そこで彼らの前衛部隊は、自分達の方へやってくる一人のイタリア軍兵士に出会った。彼はソ連軍の捕虜になっていたのだが逃げ出してきて、この暗闇の中で防御せざるを得なくなるようなことはしないよう、注意してくれた。
 1月26日の朝、この前衛部隊(弱体な2個大隊及びぎりぎり1個大隊)がドイツ軍の3両の突撃砲の支援を受けつつ、危険をおかして前進した。このNikolayevkaへの東向きの【東からの?】接近は雪の積もった開けた斜面を横切ることになり、防御側のソ連軍部隊は前進する彼らに大きな損害を与えた。その斜面の底において両軍は、駅周辺の家屋や建物の間で近接戦闘を戦った。得るものもほとんどないままに、両軍の損害は増大した。トリデンティーナ師団の指揮官であったReverberiは【ドイツ軍第24装甲軍団司令官】Heidkämperと会って選択肢を話し合っていたが、近くにドイツ軍のフィーゼラー・シュトルヒが着陸したため二人はびっくりした。Heidkämperはシュトルヒに乗り込んでこの地域を素早く偵察した。シュトルヒが帰る段になって、パイロットは二人を安全に運ぼうかと提案したが、二人は部下達のそばに留まることを選択した。暗くなるとReverberiは一両のドイツ軍突撃砲の上に登って部下達を大きな声で励まし、「Avanti Tridentina!(トリデンティーナの兵士達よ、前進せよ!)」と叫ぶと、武器を持つ者も持たない者も、数千人が唱和して、ソ連軍部隊に向かって人の波が動き始めた。ソ連軍側は明らかに火力で勝っていたが、退却した。アルピーニ軍団の参謀長であったGiulio Martinat将軍はこの攻撃の先頭に立っていて戦死したがNikolayevkaは奪取され、疲れ切ったイタリア軍兵士とドイツ軍兵士達は村の中の建物で休むことができた。春の雪解けが来た時、ソ連軍がこの村周辺のすべての国籍の死体を数えたところ、約11,000にのぼったという。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P246,7



 試しに『Death on the Don』の方も見てみたところ、こちらもかなり詳しく書いてありましたが、色々『On a Knife's Edge』の記述と異なっているような……。

 Valuikiの北約10マイルの浅い谷に鉄道線が走っていたのがNikolayevkaで、以前ハンガリー軍の第1機甲師団司令部が置かれていた所であった。今はソ連軍部隊によって解放され、少なくとも2個連隊の歩兵と砲兵、それに若干の戦車で守備されていたが、ここはアルピーニ軍団の残余が脱出する上でどうしても抜かなければならない場所であった。イタリア軍がもしここを取れれば道が開け、やっと包囲環を突破できるのだ。Reverberiが指揮するトリデンティーナ師団はこの時まだ崩壊しないで残されていた唯一の師団であり、その兵士達は近くのTereshkovとArnautovoの集落にいて、このタフな山岳戦の指揮官はその攻撃を翌朝1月26日の朝と決めた。
 しかし当然のことながら、イタリア軍側の思い通りにはいかなかった。ソ連軍側が機先を制してその夜にArnautovoへの攻撃を始め、迫撃砲と砲兵に支援されつつ前進し、ついには接近戦となった。丸太小屋の集まった集落の地面の上で両軍の兵士達は揉み合いになり、近距離で撃ち合い、お互いを突き刺し、両眼に指を突っ込んで戦い、死体が狭い道に積み重なっていった。だがアルピーニ兵達は踏みとどまり、夜が明ける直前にソ連軍側は攻撃を中止した。これによりReverberiはNikolayevkaに集中することが可能になり、攻撃部隊は町を見下ろす峰に到着すると、空から落ちる雷のような勢いでその町へと長い斜面を駆け降りていった。その部隊は哀れなほど弱体な、3両のドイツ軍装甲車によって支援された、定員を遥かに割り込んだアルピーニ兵の3個大隊であった。
 攻撃をうけたソ連軍部隊は諦める気配はなく、走ってくるアルピーニ兵達に猛射を浴びせた。両軍とも、この戦いが重要な一戦であることを理解していた。ソ連軍兵士達にとっては勝利のために、そしてイタリア軍兵士達にとっては生き延びるために。ソ連軍側は反撃したが、アルピーニ兵達は突進して町の中の通りへと入っていって、建物の中を手榴弾や機関銃で粘り強く一掃していった。だが午後遅くになってもソ連軍側はこの町を諦めず、暗くなり始めた。
 Reverberiは自ら状況を最前線に行って確認すると、兵士達に最後の死力を振り絞らせるために鼓舞するのはまさに今だと考えた。まだ稼働状態であった3両のドイツ軍戦車のうちの一両の上に登ると、彼は両腕を狂ったように振り回し、あらん限りの大声で兵士達に向かって叫んだ。「Avanti, Tridentina, avanti!  Avanti, Tridentina, avanti!(進め、トリデンティーナの兵士達よ、前進せよ! 進め、トリデンティーナの兵士達よ、前進せよ!)」
 この師団長自身による指揮がこの日の戦いを決定づけた。アルピーニ兵達が集まってさらなる突撃を敢行し、残っていたソ連軍兵士達を倒し、町を占領したのである。
Nikolayevkaがアルピーニ兵達によって奪取されたことにより、数千のイタリア兵、ドイツ兵、ルーマニア兵、それにハンガリー兵達が、よろめきながらドイツ軍戦線の内側の避難所の中へ入ることができたのであった。
 だがこの避難所もかりそめのものでしかなく、アルピーニ兵達は2月にはさらに西への撤退を余儀なくされるのである。Nuto Revelliはこの長く苦しい退却行についてこう書いている。

 我々は散り散りになり、病気に苦しんだ。程度の差はあれ全員が、止まらない下痢と、凍傷にかかっていた……今や我々は武器も持たず、ただ集団であるというだけだった……我々は何者でもないものに成り果てていた。
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P211,2




 ウルウル(T_T)

 また続けて『On a Knife's Edge』を読んでいこうと思いますが、分量としてはようやく半分を超えた辺りですねぇ。

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OCS『Beyond the Rhine』を一旦終了、次はOCS『KOREA』キャンペーン

 尼崎会がしばらく、体調不良などで成立してなかったんですが、久しぶりに成立し、しかも5人の参加となりました。

 いつものワニミさんと私、それに若手の肉入り鍋さんと長谷川さん、それに、ベテラン?ウォーゲーマーなれどOCSはまったく初めてというKWKTさんが初めて尼崎会に来られました(KWKTさんと私は旧知だったのですが、他の方々とは初対面)。


 さて、OCS『Beyond the Rhine』キャンペーンの続きなのですが、ドイツ軍側総司令官のワニミ・ルントシュテットさんが「色々ミスがあったので、もう投了した方がいいかも」ということで、相談した結果、いったん『Beyond the Rhine』は終了することにしました。ミスというのは、ベルギーに孤立して残っていたドイツ軍部隊は可能な限りの速さでオランダに移動すべきであったのにベルギーに留まったままだったり、南部ではアメリカ第7軍が第3ターンにどっと出てきてしかも補給線も繋がっていて、そこにいたドイツ軍は孤立してしまうことになるのを知らず(増援表を見れば分かったことながら(^_^;)そのまま孤立してしまったり、あるいは全体として遅滞戦術を採るべきだったのを最初の数ターン大攻勢をおこなって、アメリカ軍の1個機甲師団をほぼ崩壊させはしたものの、自軍も貴重な機甲戦力を失ったり……というようなことがありまして。

 とはいっても、今までのOCSのプレイの経験からすると、どんなシナリオ、キャンペーンにしろ、最初の1回目のプレイはミスだらけなのが普通で、2回目も結構ミスがあり、3回目くらいでようやく落ち着いてくるというのが経験則であるので、今回の成り行きはまったく普通のことであると言えましょう(^^) もちろん、今回のプレイで色々な知見が得られたので、またぜひ『Beyond the Rhine』キャンペーンをやりたいと思います。


 さてさて、で、次に広げるゲームなのですが、特に若手お二人に聞いたところ、「やるならやはりビッグゲームがいい(←ここらへん、希有なことだと思いますが……(^_^;)」「ただ、『Beyond the Rhine』はユニット数的にさすがに大変だったので、もっとユニット数が少ないものであったらいいかも」という感じでしたので、色々検討したところ、候補として『KOREA』キャンペーンがかなり良さそうではないか、と。

 『KOREA』キャンペーンはフルマップ3枚ですが、ユニット数は(当初は)ある意味極端なまでに少ないです。また、今までの尼崎会プレイでは「松浦方式(片方の陣営を全員でプレイし、逆の陣営をまた全員でプレイする)」で一日で半ターンというのが普通だったのですが、『KOREA』をやるならば通常のやり方で1日2~4ターンは進行できそうな気がします。陣営分けは、共産軍(東側)が松浦、長谷川、KWKT、国連軍(西側)がワニミ、肉入り鍋ということになりました。松浦、ワニミ以外は参加は時々になるでしょうが、スポットで参加で(もちろん、この5人以外でもどなたが来られても歓迎です! プレイはもちろん、インストのみとか、見学だけでも。ぜひお声がけ下さい(^^))。

 ちなみに、他にOCS『Guderian's Blitzkrieg II』の火星作戦シナリオという候補も、ワニミさんから強力にプッシュされていたのですが、ユニット数が多すぎ、史実通り攻勢が行き詰まるのが目に見えているので、私が会場提供特権により拒否権を発動しました(^_^; まあ、火星作戦自体いつかはやってみたいものではあるので、「OCSをやり尽くしたからもう死んでもいいよ」となる直前あたりにプレイしましょうと言っております(おい)。


 というわけで、『Beyond the Rhine』を全員で片付け(ただし、マップ上やデッドパイルにあったユニットは今度『Beyond the Rhine』キャンペーンをやる時に絶対使うはずなので、通常のユニットトレイにしまうのではなく、別のトレイにしまっておきます)、『KOREA』のセットアップをしまして、特別ルールを確認した後、KWKTさんへのインストも含めつつ最初の半ターンをプレイしてみました。


 ↓プレイ中の様子。

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 ↓第1ターン先攻(北朝鮮軍)終了時。

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 空爆や砲撃がうまくいかなかった分もあり、最低限のユニットは除去できていますが全然進撃できていません(^_^; 高オッズで殴って突破モードを獲得することを重視したのですが、もうちょっと冒険的でも良かったかも……。


 あっ、しかしこの記事を書いていたりしててようやく気付いたのですが、今回のプレイでは本来C30.12(韓国の南の方)に置かれるべきユニットを誤ってB30.12(ソウルの北の、汶山(ムンサン)の右上のヘクス)に置いてしまっていました。それで全然突破できてないということかも……。

 これは、再度初期配置からやり直した方がいいかもですねぇ(^_^;


 尼崎会は毎週日曜日にプレイ予定です。興味のある方は気軽にご連絡下さい(^^)


コマンドマガジン第148号にOCS『DAK-II』の記事が載りました

 コマンドマガジンの最新号の第148号に私が書きましたOCS『DAK-II』の記事が載ってまして、冊子が送られてきました。


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 内容としては、OCS『DAK-II』の魅力と、一部のユニット解説(独伊英で5種類ずつ)です。


 目を通してみてたんですが、「チャールズ&ロバーツ賞を受章」とあるのは「受賞」の間違いですね……スミマセン(>_<)


 付録ゲームは北アフリカ戦キャンペーンゲームで、当然、記事も北アフリカ戦関係が多く、北アフリカ戦好きの身としては目を通していくのが楽しみです(^^)

OCSユニットで見るイギリス軍のハリケーン戦闘機と、その後継機タイフーン及びテンペスト

 承前、映画考証本『ダンケルク』から、イギリス軍のホーカー・ハリケーン戦闘機について。


Hurricane IIC 87 Sqn RAF in flight 1942

 ↑ホーカー・ハリケーン戦闘機(Wikipediaから)


 スピットファイアは第二次世界大戦期を象徴する英軍戦闘機だが、大戦初期にはホーカー・ハリケーンも同じくらい重要な機だった。スピットファイアより直線的で、構造上の革新性はない(スピットファイアのボディは全金属製だったが、ホーカー・ハリケーンのフレームは木製で、ボディは帆布に覆われていた)が、実に機敏で優秀な機体だった
 第56飛行隊のジェフリー・ペイジは言う。「いうなれば、ハリケーンはブルドッグ、スピットファイアはグレイハウンドだ。一方はタフな労役動物、もう一方はしなやかですばしこい動物」彼としてはハリケーンのほうが飛ばしやすかったが、スピードと上昇力はスピットファイアのほうがすぐれていた。「どちらの機体もそれぞれに愛すべきところがあった」つまり、スピットファイア乗りはスピットファイアを好む傾向にあり、ハリケーン乗りはハリケーンを好む傾向にある、というに留めておくのが無難だろう。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P383



 一般のイメージとは違って?ハリケーンが一方的にスピットファイアに劣っていたという訳ではないらしいということに関しては以前、OCSユニットで見るスピットファイア (2018/05/18) でも挙げていました。

 ハリケーン支持派はいまもスピットファイアばかりが賞賛されすぎていると不満をもっている。ハリケーンは低コストで製造しやすく、空戦性能が高いため、ブリテンの戦いの初期に投入された機数はスピットファイアよりも多かったのだが、絶賛されたのはスピットファイアの設計だった。
『アダプト思考』P123




 さらに、事典の記述(ハリボマーとシーハリケーンに関する記述は省略)。

 ハリケーンは1935年11月に初飛行し, 2年後に就役を開始して, その多用途性を実証していた。ハリケーンI型は最大時速506キロ,上昇率毎分760メートルという性能を持ち, ブローニング機銃(7.7ミリ)を8丁翼内に装備していた。当時としては, 爆撃機を迎撃するための要求をみたすのに十分な戦闘機であった。1940年の「バトル·オブ·ブリテン」では,ハリケーンI型は侵入してくるドイツ爆撃機を捕捉して撃墜し, 護衛のメッサーシュミット Bfl10 双発複座戦闘機よりもすぐれた運動性を発揮した。以後, ブローニング機銃を12丁にふやしたII B型や20ミリ機関砲4門という強力な火力を誇るII C型が登場した。しかし,ハリケーンの速度を他の新鋭機に対抗できるほど向上させることは困難であり, 1942年頃までにはハリケーンの主要任務は迎撃から地上支援へ移された。地上支援の役割りをになったハリケーンはあらゆる戦域で終戦まで活躍した。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P169

 1937年12月イギリス空軍就役当時に,この有名な戦闘機は速度と兵装に関する新しい標準を樹立した。1940年8月までには,2,309機が配備され,戦争の初年において<ハリケーン>はイギリス空軍の中枢を構成し,「イギリス本土防空戦」においては, 2:1の比率でより近代的な<スーパーマリーン·スピットファイア>を数的にしのいでいた。爆撃機に対しては有効な破壊力を持ち,性能的に優れたメッサーシュミットMel09E戦闘機から逃れる運動性を持っていた。<ハリケーン>は1940年には,他のすべてのイギリス機よりも多数のドイツ軍機を破壊した。
 1940年9月以後はより快速の<ハリケーンIIA>が戦列に加わり,翌年6月までにはIIB(機銃12基装備), IIC (機関砲4門装備)型機も順次配備された。これらは主に対地支援任務に投入され, 空中戦には不向きとなっていたが, <ハリケーン>はいくつもの用途に向くように改造された。……
 ……
 そして翌年【1942年】マークIIDが, 砂漠戦における戦車攻撃機として用いられた。<ハリケーン>の最終生産型はマークIVであったが, これは砲,爆弾,ロケットを装備できる多目的翼を持っていた。この型式は主に北アフリカおよびビルマに配備された。総計2,952機の<ハリケーン>がソ連に送られ, 一部はスキーを装着した。最後の<ハリケーン>は1944年9月製造された。イギリスにおける総生産数は1万2,708機であり, 1,451機がカナダで生産された。
<データ>(マークI) 単座戦闘機, エンジン:ロールス·ロイス·マーリン1,030馬力×1, 最大速度: 510km/h,上昇限度:10,980m, 航続距離:736km,武装:0.303インチ機銃×8。
『第二次世界大戦事典』P524



 あと、この本の記述が非常に面白かったです。

 構造的には鋼管羽布張りと古い形式を踏襲し、また初期型は1000馬力のエンジンに2枚ブレードのプロペラ付きで、性能も平凡であった。しかしまもなく1200馬力の3枚ペラになり、充分実戦に投入できる戦闘機に成長した。
 同機の特徴は強力な武装にあり、7.7mm機関銃8門、あるいは20mm機関砲4門であった。日本陸軍の主力戦闘機一式戦隼のそれが7.7mm、12.7mm各1門であったのと比較するとその違いに驚かされる。
 さらに主脚の間隔を広くとったことで操縦も容易で、高性能ではなかったが、極めて扱いやすい戦闘機と言えた。
 ……
 ところで性能的には高いとは言えないハリケーンだが、適材適所の言葉どおり大いに活躍する。より能力の高いスピットファイアが対戦闘機戦闘を受け持ち、火力の大きな同機が爆撃機を攻撃するという役割分担が成功した。
 ……
 その後、北アフリカなど主戦場からは離れた戦場で、火力を活用して地上攻撃に専念する。このときには20mm機関砲4門に加えて、ロケット弾も威力を発揮した。同機の生産は終戦の1年前には終了したことからもわかるとおり、性能的には限界を迎えていた。
『第二次世界大戦「戦闘機」列伝』P93~97




 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のハリケーン

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 同ゲームに入っているスピットファイア(Spit.I)は3ユニットのみで、4-1という性能ですから、この時のハリケーンはやはり、「スピットファイアより劣った戦闘機だが数はいっぱいいる」という感じですね。



 ↓OCS『DAK-II』のハリケーン他。

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 ハリケーンが大量に出てくるのに加え、型が4種類あります。

Hurri.I……3-1
Hurri.IIa……4-1
Hurri.IIc……4-3
Hurri.IId……3-12

 同ゲームのスピットファイア(Spit.Vb)は5-1でそれよりは空戦力で劣りますが、空戦力が4あれば結構役に立ちます。それより驚異的なのはIIdの12という爆撃力で、同ゲームのイギリス軍爆撃機は多くが爆撃力3で、高くても8しかないので、Hurri.IIdは実質的に「最強の爆撃機」として運用されることになるでしょう。これが20mm機関砲4門+ロケット弾による対地攻撃力を表しているのでしょうか。

 こういう記述も見つけました。

 ……戦闘機を改造した間に合わせの機体で対地攻撃をやるしかなかった。迎撃機としての寿命が終わりに近づいていたホーカー・ハリケーンの武装を1941年に代えることで、いくらかの成功がおさめられた。IIC型(20ミリ機関砲4門と爆弾450キロ)やIID型(ビッカースS40ミリ機関砲2門)は北アフリカで敵地上軍に対して猛威をふるい、特にIID型は「タンク・バスティング」(戦車退治)という新しい任務に使われたのであった。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P197


 これによると、40mm機関砲2門というのが非常に強かったように読めますね。

 あと4-3という能力値のIIcも空戦だけでなく航空阻止(移動妨害)などに使えて多目的に有用ですし、戦闘機は基地移動しても非活動状態にならないのでその意味でも色々やりようがありますから便利です。



 ↓OCS『Reluctant Enemies』のハリケーン

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 型番が書かれていませんが、性能からすると「Hurri.I」ということになりましょう。「Mixed(単一機種のユニットではない、機種混合のユニット)」のシンボルはハリケーンになってますから、このユニットにもハリケーンは含まれていると見て良さそうです。



 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のハリケーン。

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 ↓OCS『Case Blue』のハリケーン他。

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 ソ連上空でもハリケーンが多数飛んでいたのだな……ということはともかくとして、スピットファイアが1ユニットだけ存在しており、以前OCS上のスピットファイアユニットをまとめたエントリ(OCSユニットで見るスピットファイア (2018/05/18) )で貼る時に見落としていましたね(>_<) そこんとこ加筆しておきます。


 ちなみに『Smolensk:Barbarossa Derailed』にはレンドリース航空機ユニットが存在せず、『Hube's Pocket』にはP39(3-3)が2ユニット、『Baltic Gap』にはB-25((2)-6)が3ユニットだけ存在していました。



 ↓OCS『Tunisia II』のハリケーン

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 ↓OCS『Sicily』のハリケーン

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 ↓OCS『Sicily II』のハリケーン

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 『Sicily』と『Sicily II』でハリケーンのユニット数が違うのは、ゲームスケールが要因というよりはどうも、両ゲームの航空機ユニットの種類と数がかなり異なっていたので、『Sicily II』での再リサーチの結果による変更が理由?

 『Tunisia II』『Sicily II』では、アメリカ軍爆撃機に爆撃力14や17のものが存在しますが、イギリス軍航空機内で見ると、依然としてハリケーンIIの爆撃力12が最強の爆撃力となっています。




 OCS『Beyond the Rhine』にはもうさすがにハリケーンは登場していませんでした。ただ、ハリケーンの後継機であるホーカー・タイフーンと、さらにその改良型であるホーカー・テンペスト(暴風雨:ホーカー社の戦闘機はすべて、嵐関係の名前が付けられていた)がユニットになっていました。

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 タイフーンとテンペストについては、これまたこの本の記述が面白かったです。

 イギリス空軍は、スピットの後継機としてホーカー社にタイフーンの設計、製作を命じた。本機は40年2月に初飛行したが、問題続出であった。新開発のセイバー発動機の不具合が顕著で、ほぼ1年就役が遅れている。
 このタイフーンはスピットの後継機というよりも、ハリケーンのそれであった。
 すでに時代遅れとなっている厚翼を採用、その他の装備などもハリケーンを踏襲している。したがってたとえセイバー発動機の不調がなかったとしても、英空軍を背負う戦闘機にはなり得なかったのではあるまいか。それでも本機は3300機も製造されている。
 1943年の後半からタイフーンは実戦に登場するが、制空戦闘機ではなく、もっぱら地上攻撃を担当する任務に就いている。
 この場合、4門の初速の速い20mm機関砲と最大900キロまで搭載可能な爆弾は、恐ろしいほどの効果を発揮した。

 製造を続けながらも、イギリス空軍はタイフーンが主力戦闘機となり得ないことに気がついていた。しかし他の開発計画が存在しなかったことから、どうしてもタイフーンを大幅に改良するしかないという思いに至る。
 そして生まれたのがテンペストである。この2種の戦闘機は、側面のラインこそよく似ているが、平面の形は大きく異なる。
 まず主翼を抵抗の少ない層流翼に変更、平面形をスピットの楕円翼によく似た形に変えている。さらにエンジンの後方に燃料タンクを増設した。
 これらの大改造から、タイフーンの大味のスタイルとは違ってテンペストのそれは引き締まり、これに伴い性能も向上、最大速度は30キロも増えている。
 このようにしてテンペストは次の主力戦闘機に成長したように思われたが、それでもスピットの最終生産型にはいろいろな面で追いつかなかった。
 また本機が就役し始めた頃には、ドイツ戦闘機がイギリス上空に出現するような状況ではなく、もっぱらV-1飛行爆弾の迎撃に出動している。あとの任務はやはり空中戦よりも地上攻撃であった。
 本来ならアブロ・ランカスター大型爆撃機の護衛として、夜間にドイツに侵攻すべきであったが、やはり単座戦闘機にこの役割は無理であった。
 どうもイギリス空軍の戦争後半に登場する戦闘機を見ていると、スピットの性能があまりに良好すぎて、タイフーン、テンペストともに影が薄いと言わざるを得ない。
『第二次世界大戦「戦闘機」列伝』P101~3



56 Sqn-1

 ↑ホーカー・タイフーン(Wikipediaから)


Hawker Tempest V in flight Nov 1944

 ↑ホーカー・テンペスト(Wikipediaから)


 『Beyond the Rhine』上ではSpit.IXが8ユニットで5-2、Spit.XIVが2ユニットで6-2ですから、確かに戦闘機としてはスピットファイアの影に隠れる形になりそうです(さらに、6-4のP51もイギリス空軍に2ユニットあります)。また爆撃機としても同ゲームのイギリス空軍にはモスキートが2ユニットで(2)-9、B-25が2ユニットで(2)-15というのがあり、そちらに最強の座を譲っています。が、4-8や5-8というのはOCSのプレイにおいては汎用に使えて便利なので、確かに影は薄くなるかもですが、大いに存在の意味はあると言えそうな気がします。



 最後に、1/144のハリケーンとタイフーンを持っているので、写真を撮ってみました。

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 左側がハリケーンMk.IIc(イギリス空軍 第3飛行隊)で、右側がタイフーン Mk.I B(第451飛行隊 北アフリカ 1943年4月)だそうです。チュニジア戦は1943年5月までなので、このタイフーンはチュニジアの戦いの最後の方に参加していたものなのでしょうけども、『Tunisia II』(あるいは『Sicily II』)でもタイフーンはユニット化されていませんでした。きっとまだ数が少なくて、ユニット化できるほどではなかったということなんでしょうね。

OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第6、7ターン

 OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイの第6、第7ターンをプレイしました。

 第6ターン(1942月12月1日ターン)は泥濘だったので全ユニットは移動できず(鉄道輸送と海上輸送だけ可能)、第7ターン(12月5日ターン)はノーフライトでイニシアティブは連合軍が取り、ようやく「連合軍のダブルターン」が実現しました。しかもノーフライトだと枢軸軍が航空爆撃で邪魔もしてこれないですから、もしかして絶好の機会?



 ↓第7ターン終了時の北方戦区

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 赤い矢印が連合軍の進撃路で、黒い矢印は枢軸軍の(自主的な)撤退を表しています。

 一番北ではビゼルト港の隣のヘクスに連合軍が強襲上陸。海岸近くの道路でもイギリス軍歩兵部隊がイタリア軍部隊を壊滅させて前進。その南ではアメリカ軍第1機甲師団がオーバーランでこれまたイタリア軍部隊を壊滅させて進みました。

 枢軸軍側は防衛ラインを下げたのですが、前線に突出する形になってしまっていた有力な部隊に燃料を入れる必要上、犠牲部隊を作らざるを得ない状態にも……。

 あと、画像下の方のイタリア軍スペルガ師団(ピンク色のストライプの付いているユニット群)がこれまで単一の司令部/降車可能ヘクスから一般補給を引いていなかったことに気付き、やむを得ず(概算として)マップ上の2Tをこれまでの一般補給分として消費し、急いでまとまることにしました(>_<)




 ↓同、南方戦区

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 大きくはこれまでと変わっていないのですが、赤い矢印の部分で連合軍のフランス軍部隊が前進。後方には歩兵1個師団が到着しつつあり、連合軍はこの方面でも優勢になりつつあります。


 連合軍は複数の進撃路でうまくいきそうな所から突破するやり方である程度戦果を出せていますが、枢軸軍側の増援も馬鹿には出来ないので、史実通りいつかは進撃が止まりそうな気がします。現状は両軍とも、前線での補給事情を優先してSPを優先して前線に送り込んでおり、後方には部隊が溜まっている状態です(^_^;



 あと、今回のソロプレイにあたって、尼崎会で使用することにしている公式オプション/ハウスルールはすべて使用するていでやっていたのですが、少なくとも「21.3 独立ユニット(独立ユニットだけで攻撃するならSPは2倍消費、独立ユニットと複数ユニットフォーメーションが一緒に戦闘する場合は独立ユニットのARは使用できない等)」は外してプレイするのでなければ、そもそも連合軍側は攻勢なんかできない(独立ユニットの高いARに頼らないと攻勢できないので)よな……と思え、途中戦闘が始まった頃から外してプレイすることにしました。

 あと、「21.4 長距離飛行の影響(航続距離の半分以上を使用した場合は空戦力-1、爆撃は左へ1コラムシフト)」も、長躯進撃して攻勢する方にとってえらくしんどいルールで、使用しない方が良さそうだと思ったのですが、このルールに第1ターンから大きな制限をかけられつつプレイしていたので、途中から外すっておかしいかなと思って、どうしたものか……(^_^;


OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るイギリス軍の軽爆撃機フェアリー・バトル

 映画『ダンケルク』の考証本である『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』からの情報集積をしていっているのですが、同書にはイギリス空軍の各機種についてのいくらかの言及がありまして、そこからいくらか引いていきたいと思います。






 まずはフェアリー・バトルという軽爆撃機について。

Fairey Battle - Royal Air Force in France, 1939-1940. C449

 ↑フェアリー・バトル(Wikipediaから)



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 ↑OCS『The Blitzkrieg Legend』のフェアリー・バトル。



 それから、蠱惑的な名前を持つフェアリー・バトル。これは1937年に就役した軽爆撃機だが、1940年には早くも性能が見劣りするようになっていた。スピットファイアやホーカー・ハリケーンと同じく、ロールス・ロイス・マーリン・エンジンを搭載していたが、爆弾と3人の乗員ものせなければならなかったため、ドイツ空軍機相手には鈍重で脆弱だった。第98飛行隊に所属していたフェアリー・バトルのパイロット、ヴィヴィアン・スネルはムーズ川の橋梁を爆撃したが、努力の甲斐なく、ドイツ軍の進撃を食い止めることはできなかった。彼はこの飛行機が好きではなかった。「操縦しづらいし、後方射撃用の303口径機銃が1丁ついているだけだった。カミカゼだよ。私たちの被害は甚大だった」フェアリー・バトルは1940年の暮れには完全に退役していた。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P375,6



 優秀なマーリン・エンジンを積んでいたものの「爆弾と3人の乗員ものせなければならなかったため」って、「当たり前のことを皮肉的に言うニュアンスなのか?」と最初思ったのですが、むしろフェアリー・バトルは爆撃機なのに単発というのが問題なのかと思いました。

 『The Blitzkrieg Legend』以外のOCSゲームにフェアリー・バトルは入っていないのかと思って、時期的にバトル・オブ・ブリテンの時期あたりから始まる『DAK-II』を見てみたのですが入っておらず、そして『DAK-II』に入っているイギリス軍の爆撃機(ブレニム、バルティモア、ボーファイター、ウェリントン、メリーランド、ボストン、B-26、B-25)はすべて双発機でした。

 有名な?マーリン・エンジン(Merlin)ですが、その名前ってもしかして大魔術師や大賢者とかって感じで色々な作品(『七つの大罪』とか『賢者の孫』とか)に出てくるマーリンのことかと今回思って見てみたら、確かにそのようでした。全然分かってなかったんですが、もしかして常識的なことだったのでしょうか?(^_^;

 「フェアリー」というのも「妖精(fairy)」ではなく、「Fairey(フェアリーあるいはフェアリ)」という苗字で、チャールズ・フェアリーという人が作った航空機メーカー「フェアリー・アヴィエーション」の作った「バトル(Battle:これは戦闘の意味だそうで)」という愛称の機種ということのようです。


 フェアリー・バトルについて、日本語版Wikipedia「フェアリー バトル」では以下のように記述されていました。

 イギリス空軍における最初の低翼単葉引き込み脚の軽爆撃機で、イギリス空軍近代化の一翼を担った機体であった。爆弾は分厚い主翼の内翼部分(主脚の収容部の内側)に設けられた爆弾倉に250ポンド(110kg)爆弾を4発搭載、又は翼下のラックに500ポンド(227kg)爆弾を2発搭載した。防御兵装としては右翼と機体後部席に7.7mm機銃を1丁ずつ装備していた。テストの結果が優秀だったため、イギリス空軍は655機の大量発注を行い1937年より部隊配備が行われ、フェアリー社の他オースティン・モーター社でも生産が行われた結果、第二次世界大戦開戦時には1000機を超える機体が前線に投入された。

開戦当初は主にフランスにおける昼間強行偵察の任務に使用され、それなりの成果をあげた。イギリス機でのドイツ機の撃墜は、1939年9月に本機の後部旋回機銃によるものだった。しかし性能的にはすでに旧式化しており、逆にドイツ機でのイギリス機撃墜第1号も本機であり、その後も損害が相次いだため、9月いっぱいで偵察機としての使用は中止された。一方でより高性能の軽爆撃機の開発が終わっていないイギリス空軍では、損害覚悟でその後も本機を爆撃機として使用した。1940年5月、ドイツ軍の電撃戦を食い止めるべく行われたセダン、マーストリヒトへの橋梁爆撃作戦では戦略上多大な効果をあげたが、投入された71機の内半数以上にあたる40機が未帰還機となり、残った機体もかなりの損傷を受ける結果となった。

この後、本機の部隊はイギリス本土に引き上げられ、沿岸攻撃などに使用された後練習機として利用された。また、ブリストル社製ブレニム中爆撃機に機種転換した部隊もあったが、バトルを標的曳航機に転用して訓練に使われた機体も多く、これらの任務では終戦時まで活躍した。




退却するイタリア軍兵士を助けてくれたソ連の現地住民達の話その1

 『On a Knife's Edge』を読んでいまして、退却するイタリア軍兵士を助けてくれたソ連(ロシア)の現地住民達の話が少し出てきました。

 退却中の【イタリア軍】兵士達が通り過ぎていった多くの村はパルチザンの集団によって守備されていたが、他の村は完全に放棄されてしまっていた。まだ住民が住んでいる村では、この戦役中にあったあまりにも多くの無慈悲で残酷な出来事にもかかわらず、素晴らしい思いやりと親切な行為が見られた。Vittorio Trentiniというあるイタリア軍兵士は手袋をなくしてしまい、凍傷になりかけていた。彼が寒さから逃れようとして入った丸太小屋にいた一人のロシア人女性は、彼の変色した手を見ると黙って床に敷いてあった羊の毛皮を取り、その部屋を出ていった。彼女が戻ってきた時、その手にはその兵士のための作りかけの手袋が握られていた。

 彼女は優しくその手袋を私に試させ、微笑むと、サイズをちょうどに合わせてくれました。私は今でもその手袋を大事に持っています。この手袋が私の手を守ってくれたんです……私はこの手袋を見るといつも、私が大好きなお母さんに抱きついていた時のことを思い出します……それから、この手袋を作ってくれた彼女に、限りない感謝の気持ちを抱くのです。

 他にも多くのイタリア軍兵士達の古着に包んだブーツが擦り切れて役に立たなくなってしまって、凍傷になっているのを、地元の農夫達が見て同情し ー 彼ら自身がほとんど何も持っていないのに ー 同じようにしてくれたということがたくさんあったという。1942年後半には、イタリア軍兵士達が親切で、品行方正であることが地元の住民達の間に明らかに広く知れ渡っていたのである。ある中尉が後に書いている。

 この退却の間のことだった。我々はロシアの農夫達の、その質素な丸太小屋や、彼ら自身わずかしか持っていない食べ物をいつでも提供してくれる、本当の暖かい心に触れたのだ。その後だいぶあとになっても、彼らは我々を侵略者としてではなく、お互いに同じ災厄を受けた者同士であるかのように、親切にしてくれたのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P243,4



 もう、読んでいるだけでウルウル来るんですが……(T_T)


 この引用部分(イタリックの部分)は注を見るとどちらも『Sacrifice on the Steppe』からの引用で、ちらっとそちらも見てみたのですが、同書はやはりイタリア軍アルピーニ軍団の退却行をメインとした本であるだけに記述量も膨大なようなので、今回は同書を見るのはやめておいて、『On a Knife's Edge』の読後にゆっくり読みたいと思います。

 『Death on the Don』の方も一応、これ系の話が書かれていないかなと思ってぱらぱらと見てみたのですが、ぱっとは見つけられませんでした。

イタリア軍のアルピーニ軍団は「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」?(付:OCS『GBII』『Case Blue』)

 以前、東部戦線のイタリア軍のアルピーニ軍団の、小土星作戦(以降)における戦いが「敢闘」と呼べるものだったのか(いやどうもそうではない)ということに関して書いたエントリがありました↓。

GJ69号:近藤さんのOCSスモレンスク記事&イタリア山岳軍団は50日間敢闘したのか? (2018/12/01)


 ただこのエントリを書いた後でも、私は↓の引用の(オストロゴジスク=ロッソシ作戦の時には)「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」という部分に関しては、アルピーニ軍団は褒められるべき戦いをしていたのだろう……と思い込んでいました。

 ……1月14日には遂にドン河戦線の左翼でも新たな反攻作戦が始まった【オストロゴジスク=ロッソシ作戦】。
 ドン河を越えて迫り来る赤軍を迎えたイタリア山岳軍は、圧倒的な戦力差の中で3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した。3個山岳師団と残存部隊は零下30度の中で退却戦を続けながら友軍陣地を目指し、26日にはニコライエフカで『トリデンティーナ』山岳師団の一部と独伊両軍残存部隊は敵の包囲網を突破することに成功したが、『ユリア』と『クネーンゼ』山岳師団と『ヴィチェンツァ』歩兵師団はヴァルイキの後方100kmで撃破された。
『イタリア軍入門』P69,70




 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』『Case Blue』による同戦区。

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 セットアップは天王星&火星作戦の時のもので、その時点ではヴィチェンツァ師団(Vicenza。保安師団で、二線級の部隊だった)ははるか後方にいたのですが、オストロゴジスク=ロッソシ作戦時には画像の位置まで来ていたので動かしてあります。あと、ドイツ軍の第24装甲軍団司令部ユニットはハンガリー軍第7軍団司令部とスタックしていたのですが、分かりやすくするためにちょっと移動させました。このエントリの最後の方で、画像の下の方にあるカンテミロフカという村の名前が出てきますが、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の時にはこの村はソ連軍に占領されています。


 ところが『On a Knife's Edge』を読んでいると、どうもその印象は間違っていた(ただし『イタリア軍入門』の記述が間違っているわけではない……)ような気がしてきまして、そこらへんのことを書きたいと思います。


 まずは事前の情報として、オストロゴジスク=ロッソシ作戦は北部のハンガリー軍(+ドイツ軍)戦区に対してまず攻勢が開始され、南部のイタリア軍アルピーニ軍団の戦区へのソ連軍の攻撃は数日遅れで始まったということがあります。そして……

 ドイツ軍第26歩兵師団とハンガリー軍第1機甲師団によって試みられた反撃はすぐに停止させられて大反攻を受け、混乱がいや増す中でこのドイツ軍歩兵部隊は退却し、隣接するイタリア軍のアルピーニ軍団の側面が無防備となってしまった。アルピーニ軍団の司令官であったガブリエーレ・ナッシ中将は、ソ連軍の攻勢に関する正確な情報を得ようとして無駄なあがきを続けていた。上級司令部から送られてきた情報は、いくつかの地点で敵が突破したというものでしかなく、しかもその推定規模はまったく過少なものであった。ナッシ率いるアルピーニ軍団は東部戦線に残されていた最後のイタリア軍の大規模部隊であり、ナッシは小土星作戦でやられてしまった他のイタリア軍部隊の二の舞を避けようとあらゆる努力を払っていた。それがうまくいくためには時期を逃さず、正確な情報が得られるということが不可欠であった。だがナッシはこの時、現実とは食い違った報告に頼るしかなかったのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P232

 第24装甲軍団司令部の事実上の壊滅により、重大な影響が出始めた。イタリア軍部隊はすでに退却し始めていると信じて、【第24装甲軍団司令官であった】Jahrは麾下の残りの部隊に西への退却を命じた。当初この撤退はB軍集団司令部から禁じられたものの、1月15日夜には許可されてドイツ軍部隊は撤退を始め - そして彼らはイタリア軍はすでに西への撤退を始めていると考えていたので、自分達の退却についてイタリア軍に伝えようという考えに至らなかった。そしてまだ退却を始めていなかったイタリア軍側はそれを皮肉にも、ドイツ軍が自分達の撤退をカバーさせるためにイタリア軍を残そうとしているのだと確信することになってしまった。イタリア第8軍司令官のイータロ・ガリボルディ将軍は実際、撤退の許可をB軍集団のヴァイクス将軍に求めていたのだが、アルピーニ軍団の司令部ではナッシが - ソ連軍の攻勢規模は大したものではないとの情報に基いて - 局地的な反撃を麾下の部隊に命じていたのである。しかしそれはほとんど成功せず、しかも結果的に彼らは第24装甲軍団のドイツ軍部隊との連絡を失ってしまった。1月15日の夜になってナッシはアルピニ軍団が置き去りにされつつあることに気付き、撤退の開始を命令したのであった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P233



 この書き方からすると、アルピーニ軍団は「3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した」という文から受ける肯定的な印象よりは、「上級司令部のソ連軍攻勢に関する過小な見積もりと、側面のドイツ軍が自身の撤退を隣のアルピーニ軍団に伝えなかったことなどの情報の混乱のため、攻勢の矢面に立たされていたわけではなかったアルピーニ軍団はその場に踏みとどまって反撃をもおこなったが、それは大して成功せず、結局ソ連軍の攻勢開始3日目になって、自分達が置き去りにされつつあることに気付いて撤退した」というような、割と色々と否定的な印象を受けました(^_^;

 尤も、『イタリア軍入門』の記述が間違っているとまでは言えないですし、個人的には「少なくとも3日間はアルピーニ軍団は頑張ったらしい」という肯定的な思いがあったので、それがどうもそういうわけでもなかったらしいと知ってだいぶショックではありました(>_<)



 試しに『Death on the Don』の方も確かめてみたら、以下のように書いてありました。

 マジャール人【ハンガリー軍】が攻勢を受けて後退を始めて戦線の連続性が失われていったため、ソ連軍が戦線の隙間に入り込み、包囲された部隊が【ハンガリー】第2軍の撤退に取り残される恐れがでてきた。特に危険だったのがイタリア軍のアルピーニ軍団とヴィツェンツァ師団であり、なぜならば彼らは自分達の以前の補給拠点であった南方のカンテミロフカからの攻撃を受けつつあったからである。【ハンガリー軍の】第7軍団【ハンガリー第2軍のうち、最も南にいた軍団。北から第3、第4、第7軍団がいた】が混乱しつつ退却したため、彼らイタリア軍部隊のの側面ががら空きとなり、孤立してしまう危険が迫りつつあった。
 ところが、アルピーニ軍団の司令官であったガブリエーレ・ナッシは、B軍集団司令官のフォン・ヴァイクス直々の命令で、現在地点から動いてはならないとの厳命を受けていたのである。

 軍集団からの命令なしにドン川の線を離れることは、絶対的に禁止されている。この命令に違反した場合、私はその責任を貴官に求めることになろう。

 アルピーニ軍団はその場にとどまり続け、そして包囲されたのである。
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P203

 ハンガリー軍が大慌てで退却し、隣接する第24軍団のドイツ軍部隊がボロボロになり、ソ連軍が遥か後方にも、あらゆる方角にも進出してからようやく、1月17日の午前11時、【イタリア軍の】第8軍司令部から、現在地より退却し西方への突破を試みることの許可をアルピーニ軍団は受け取った。その命令書の最後にはこう書かれていた。「神のご加護がありますように」
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P206


 こちらには情報の問題は全然書いてなく、ただ「退却してはならない」という命令があったということだけが書かれています。また、『On a Knife's Edge』では15日夜にナッシ将軍(アルピーニ軍団司令官)が撤退を命令したことになっていますが、『Death on the Don』では17日午前11時に第8軍司令部(ガリボルディ将軍)から撤退の許可が来たという書き方になっています(B軍集団から許可が出たのかどうかは、両者とも全然分からないですね)。


 しかし『Death on the Don』においても、アルピーニ軍団のこの3日間(5日間?)に関して肯定的には評価できないような気がします(T_T)  個人的には、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の時にアルピーニ軍団が「3日間頑張った(らしい)」という話を心の支えにして生きてきた(おい)ところがあったのですが……。

 まあやはり、色々とある程度詳しい資料を見てみないとダメということでもありましょうかね~。

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のグロスドイッチュラント連隊による捕虜虐殺事件

 承前。ランス電撃戦中のグロスドイッチュラント連隊による捕虜虐殺事件について。


 「Massacre of the Bois d'Eraine(エレーヌの森の虐殺?)」という事件ですが、場所としてはCressonsacqという所の辺りらしいです。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のマップによるCressonsacqの場所。

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 ただ、場所やユニットは同ゲームの範囲内なのですが、虐殺事件の時期は6月11日ということで、同ゲームは6月4日までが範囲ですから、その後の話ということになります。



 ↓同ゲームのグロスドイッチュラント連隊と、虐殺の対象となったフランス軍第4植民地歩兵師団。

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 フランス語版Wikipeida「Massacre du bois d'Eraine」というのも存在していますが、英語版Wikipeida「Infantry Regiment Großdeutschland」英語版Wikipedia「List of massacres in France」から簡単にだけ。

 エレーヌの森の近くで捕虜にしていたフランス軍第4植民地歩兵師団のセネガル人兵士達と、その指揮官であった白人、計64名をグロスドイッチュラント連隊の兵士が虐殺した……ということのようです。またその後、リヨン(スイスの南西にあたるフランスの都市)でもより多くのフランス植民地兵(黒人)をグロスドイッチュラントの兵が虐殺したとか……。

 これも国防軍兵士による虐殺事件だということになりますね。


 英語版Wikipeida上の注によると、この件は以前、そのミリタリー洋書の英語が読みやすくて面白いとして挙げていたロバート・フォーチャイクという人の本から引かれたものだそうで(→読みやすい英文のミリタリー書籍やゲームルールやゲーム記事 (2018/10/30) )。




 私は手を出さないでおきますが、「赤の場合」の戦役(ダンケルク後のフランス戦役)について興味のある方は買っても良いのかも……。


OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のSSライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー連隊による捕虜虐殺事件

 続けて、SSライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー連隊による捕虜虐殺事件についてです。

 ↓前々回と前回。

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺 (2019/07/22)
OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のトーテンコップフ師団による虐殺事件 (2019/08/03)


 虐殺はこれだけではなかった。ル・パラディの事件の翌日、ダンケルクにほど近いヴォルムー【Wormhout】で、第1SS装甲師団【正確にはこの時点では装甲師団ではなく自動車化歩兵連隊】の隊員によって、ロイヤル・ウォリックシャー連隊とチェシャー連隊の兵士、多数の砲兵、フランス兵が処刑された。が、これに責任のあった中隊長のヴィルヘルム・モーンケに正義の裁きがくだされることはなく、モーンケは2001年に90歳で死んだ。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P266




 虐殺の対象となったイギリス軍部隊は、Wikipedia英語版「Wormhoudt massacre」を見ていると基本的に第48歩兵師団に所属していたようです。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のLAH連隊とイギリス軍第48歩兵師団

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 ↓LAHによる虐殺の場所ヴォルムー(Wormhout)。下方にはトーテンコップフ師団による虐殺事件のあったル・パラディ(Le Paradis)。

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 『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』には現場の写真と共に、かなり詳しい解説がありました。

私は、ロイアル・ワーウィクシャー連隊第II大隊の退役兵、のチャールズ・エドワード・デイリー(軍籍番号7342734)です。……大隊はヴォルムーと呼ばれる村の近くに位置していて、圧倒的なドイツ軍の矢面に立たされつつも、同地を2日間にわたり保持していました。5月27日か28日、あるいはその前後数日かも知れませんが、我々は包囲されて、なお抵抗を続けたところ、ついに弾薬が切れてしまい、降伏して戦時捕虜となってしまいました。拳銃を構えたドイツ兵が「イギリス人の豚野郎め!!」と叫びながら、私の肩を撃ちました。そしてチェシャー連隊と王立砲兵部隊の様々な階級の兵士とともに一軒の小屋(上) まで歩かされたのです……。私が見たところ、90名ほどがその小屋に押し込まれました。扉の外に立っているドイツ兵は前屈みになると、軍用長靴から手稲弾を取り出しました。捕虜の中では唯一の士官だった、D中隊長のリン=アレン大尉は捕虜殺害を灰めかす振る舞いに対し抗議しました。また、多数の負傷者がいるのに、彼らを寝かせる余地さえ与えられていない非道も訴えました。これに対して当のドイツ兵はアメリカ訛りが強い流ちょうな英語で「疑い深いイギリス人さんよ、これからあんたらが行くところで、いくらでも好きに寝ていればいいだろう」と言い放つと、彼とその周りの兵士たちは小屋の中に次々に爆弾を放り始めたのです。ムーア軍曹やジェニングス准尉は、皆を救おうとして爆弾の上に勇敢に身を投げだし、即死しました。アレン大尉の側にも爆弾が投げつけられましたが、この爆発では同中隊のエヴァンス二等兵が負傷したようでした。爆風から身を守ろうと屈んだドイツ兵の隙を突いて、大尉はエヴァンス二等兵を小屋から引きずり出し、虐殺の現場から逃れようとしました。小屋に爆弾を投げていたドイツ兵は、 次に小屋の外にいた捕虜たちを5人ずつ射殺し始めました。私は最初に小屋に入れられた一群に近い場所にいたので、順番が回ってくるのは後の方でしたが、私の前にいた仲間が引きずり出されて射殺されたとき、ちょうど雨が降り出したので、小屋の外で順番を待たせての射殺は中止になりました。代わりに我々は後ろ向きになるよう命令され、背中から撃たれました。ドイツ兵はそれから小屋の中に向かって短機関銃を撃ちまくっていましたが、私は撃たれたショックで気を失っていました。意識を取り戻したときには、右脚がちぎれ、左脚も負傷していたのです。私は2日か3日の間、小屋の中に横たわっていました……。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P440

ヴォルムー虐殺の実行者は、SS連隊"ライプシュタンダルテ·アドルフ·ヒトラー"所属の第II大隊にいたと言う【ママ】ことまでしか判明していない。 連隊長のヨゼフ・ディートリッヒ親衛隊大将は、当日の朝、この村に向かう途中に遭遇した攻撃によって、運転手が死亡し、彼自身、道路脇のくぼみに身を潜めてほとんど一日身動きが取れず、部隊からも孤立していた。折からの激戦で損害がかさみ、その日の1800時前後には第II大隊長も負傷するという心理状態のなか、SS隊員たちは連隊長もきっと敵の罠にはまったのだろうと思いこんだのかも知れない。大隊の指揮権は第5中隊長のヴィルヘルム·モンケSS大尉が引き継いだ。戦後、モンケはこの虐殺事件の首謀者として提訴されたが、小屋の焼き討ちの現場に彼が立ち会っていたり、実行命令を下したという証拠は遂に得られなかった。1972年、この虐殺事件がダンケルク復員兵協会の従軍牧師レスリー・エイトケン氏の知るところとなり、1973年5月28日、事件現場の近くに慰霊碑が建立された。現場は1947年以来、荒れ果てたままだったのだ。ヴォルムーからエスクベックを結ぶ道路層に、ポール・マリー氏によって慰霊碑建立用地が提供された。世界中に会員ネットワークを持っているダンケルク復員兵協会だが、フランス支部所属の2000名(訳註:原書の編集当時)が、毎年慰霊に訪れている。この虐殺を生き延びたのは、チャールズ・デイリー、 アルバート・エヴァンス、ジョン・ラヴェル、アルフレッド・トームスの4名であり、彼らが除幕式の来賓となった(左)。(右) 慰霊碑の脇には、虐殺の当日にディートリッヒが身を潜めていたくぼ地が残っている。戦後、彼は1944年12月17日のマルメディにおけるアメリカ兵捕虜虐殺の責任を問われて終身刑、その後に25年の判決を受けたが、10年で出所した。しかし、その直後には1934年のレーム殺害事件に関連してベルリンとミュンヘンでの殺人幇助の罪を問われ、18ヵ月間の懲役刑を受けた。ディートリッヒは1966年に死去した。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P441





 あと、今回見つけた英語版Wikipedia「List of massacres in France」の第二次世界大戦中のもののリストによると、グロスドイッチュラント連隊がパリの北の辺りで黒人兵を虐殺しているというのを見つけました……。エントリを改めます。

OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第5ターン

 久しぶりにOCS『Tunisia II』キャンペーンのソロプレイ第5ターンをプレイできました。

 天候はフライトで、先攻は枢軸軍、後攻が連合軍です。



 ↓第5ターン終了時(クリーンアップフェイズ終了前)の北方戦区。

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 先攻枢軸軍ターンで灰色の○の地点に、不用意に突出したアメリカ軍部隊に対してドイツ軍第10装甲師団の一部が反撃(オーバーラン)をしかけて2ユニットを吹き飛ばし、しかも航空爆撃によって連合軍の2スタックを混乱状態に。

 枢軸軍側からすれば「してやったり」、連合軍側からすれば「しまったー!(T_T)」という感じになりました。

 一方、後攻連合軍ターンでは赤い矢印の場所でドイツ軍の強力な1ユニットを壊滅させて突破モードで前進。今度は海岸沿いでの攻勢に成功しましたが、その南の谷でイタリア軍部隊に対して攻勢をしかけたアメリカ第1機甲師団はダイス目が無茶苦茶悪く、1ユニットを失って退却しました(赤い○の所)。

 このターンには連合軍は後方への強襲上陸部隊も進発させており、本格的な攻勢がどれだけ成功するか……?




 ↓このターンに壊滅したユニット。

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 左の2つが、先攻枢軸軍ターンに第10装甲師団にオーバーランされたアメリカ軍ユニット(やられた時は移動モードでした)。

 一番右のユニットが、海岸近くのイギリス軍からの攻勢で壊滅させられたドイツ軍ユニット。その左が、アメリカ第1機甲師団が自らの攻勢失敗で失ったユニット。




 ↓同、南方戦区。

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 こちらでは基本的に進展なし。



 次のターンにイニシアティブをどちらが取って、連合軍のダブルターンが実現するかどうかが焦点になりそうです。

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のトーテンコップフ師団による虐殺事件

 1940年のフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺について書いてました↓が、今回はSSのトーテンコップフ師団による捕虜、市民虐殺について

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺 (2019/07/22)



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のSSトーテンコップフ師団ユニット

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 この時期のトーテンコップフ師団について、以下のような記述がありました。

 帝国で唯一の武装集団という立場を維持したいドイツ国防軍の軍人たちは、親衛隊、すなわちハインリヒ・ヒムラーの私軍に、パレードしか能がないからと「アスファルト兵」という皮肉なニックネームをつけていた。それにもかかわらずヒムラーは1940年の戦役の際、3つのSS自動車化師団を組織するだけの兵と装備を狩り集めた。その第3師団である「どくろ」師団は、当初、主に強制収容所の要員で構成されていたため、収容所看守の印であるどくろの名で呼ばれていた。
『パットン対ロンメル』P179

 1933年にミュンヘン警察長官となったヒムラーが、ミュンヘン郊外のダッハウに設けた悪名高い強制収容所を管理・警備したのが髑髏(トーテンコプフ)連隊だった。当初、強制収容所総監のアイケ(テオドール・アイケ)が獄卒として集めたのは、地方出身の農村の青年たちやある種の無頼の徒たちだったが、この連隊がもっとも早くSS師団となった。
『武装親衛隊 ドイツ軍の異色兵力を徹底研究』P343





 トーテンコップフ師団はこの戦役中に何度も虐殺をおこなっているようなのですが、最も有名なのが「ル・パラディの虐殺」と呼ばれるもののようです。

 【イギリス第2歩兵師団の】ロイヤル・ノーフォークの第2大隊の残余の約90名は、ベテューヌ【フランスの都市】の北西にあるル・パラディという小さな町にあったある大きな家で抵抗を続けていた。孤立する中で弾薬もなくなり、5:15頃に指揮官であったライダー少佐は降伏を決断した。彼と、他に2人の兵士が白いタオルを持って家から出てきた。彼らは全員、即座に射殺された。大きな混乱がしばらく続いた後、最終的にドイツ軍側は残りの兵士達の降伏を受け入れた。青ざめ、軍服はボロボロに裂け、そして多くの場合負傷していたそのイギリス兵達は不幸なことにSSトーテンコップフ師団の捕虜になったのであったが、このSS部隊のうちの幾人かがどうやら、これ以前にイギリス軍のダラム【Durham】軽歩兵の兵士達によって殺されていたということがあったらしい。
 この時捕虜となったイギリス兵達は蹴られ、台尻で殴られ、武装解除された後、一軒の大きな倉庫へ向かって歩かされたのだが、その正面には2挺の機関銃が置かれていた。捕虜達の腕は後ろ手に縛られていたので倉庫の壁の前に到着した頃には列はバラバラになっていたが、その時機関銃が左から右へと撃たれ、捕虜達は次々に倒れた。捕虜達は機関銃と倉庫の壁の間にあった大きな堀に落ちていった。まだ生きている気配のある者達は撃たれるか、あるいは銃剣で刺された。
 奇跡的に、捕虜達のうちの二人、新兵のビル・オキャラハンとアルバート・プーリーが、撃たれていてはいたものの死体の山の下で死んだふりをして生き残り、SSの兵士達が去った後自力で這い出して、近くの豚小屋の中に身を隠した。彼らはそこで農場主の妻に発見され、食べ物をもらい、傷の手当てを受けることができた。だがその妻とその息子がドイツ軍部隊に疑われているらしいことを知った二人は自分達から投降し、結局、より人道的な通常のドイツ軍部隊の捕虜となって、最終的に捕虜収容所へと送られた。
 傷のために戦争の早期に本国へと送還されたプーリーは上官にこの虐殺について報告したが、信じてはもらえなかった。だがプーリーは諦めなかった。戦争終結後彼は、この件に関して調べ続け、ル・パラディへも赴いて、証拠を集めた。その結果、この虐殺に関与していたトーテンコップフの第2歩兵大隊長であったフリッツ・クノッホラインがハンブルクでイギリス軍の軍法会議にかけられて有罪判決を受け、1949年に処刑された。
『Lightning war:Blitzkrieg in the west, 1940』P274,5

 第2歩兵師団が英雄的な抵抗を見せたあと、弱りきった敗残兵たちは後日再起して戦うために(そして、撤退するために)北に脱出するイギリス軍に加わった。捕虜となった者の大部分はドイツ軍に引ったてられたが、ロバート・ブラウンの大隊の生き残りのうち、ナチス親衛隊トーテンコップ師団に捕まった隊員にとって、その日は恐ろしいほど唐突な終わりを迎えた。楽園の地(ル・パラディ)という皮肉めいた名前の村でのことだ。上半身を裸にされた兵士たちが草地に入り、納屋に向かって一列に並び、機関銃を向けられていた。生き残ったのは99名のうちたったふたり、信号手のビル・オキャラハンとアルバート・プーリーだけだった。オキャラハンは腕を、ブーリーは脚を撃たれた。倒れたふたりの上に、ばらばらになった仲間たちの死体が覆いかぶさり、親衛隊の兵士たちがまだ動いている者や息をしている者にとどめを刺してまわった。
 オキャラハンとプーリーはこの戦争を生き延び、1948年、虐殺をおこなったこの中隊の指揮官、フリッツ・クノッホラインの戦争犯罪裁判に証人として召喚された。このときの部下の行動について、イギリス軍が違法なダムダム弾を使用していたから、といった説明から、ロイヤル・スコットランド連隊との初期の遭遇戦で、中隊に多大な儀牲が出ており、怒りを覚えていたから、といった説明まで、クノッホラインはさまざまな主張をした。が、どれだけ言葉を尽くしても、彼の部下が捕虜を残虐に殺害した理由には充分でなかった。当時、現場に居合わせた親衛隊将校のうち、虐殺に反対したのはひとりだけだった。その将校は懸念を口にしたことで“臆病なウサギ”として免職になっていた。クノッホラインは裁判で有罪が確定し、1949年1月に処刑された。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P265,6


 他の資料を見ていると、生き残った2人は発見されるまでは、生のジャガイモを食べ、水たまりの水を飲んだとか、あるいは戦後この虐殺のことを信じてもらえなかったのは、「東部戦線ではそういうこともあったようだが、フランス戦ではそういうことはなかっただろう」という感覚が当時支配的であったから……ということが書いてありました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のイギリス第2歩兵師団ユニット。

unit9969.jpg



 『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』には、その他にもトーテンコップフ師団が虐殺をおこなっていたことが書いてあります。

 ル·パラディ事件の数日前にSS“トーテン・コップフ”はアラス地区において、非道な振る舞いにおいては他の追随を許さない実績を残していた。5月23日にボン=デ=ギイのエルマン農場にて市民23名を射殺(354ページ)したのをはじめ、オービニー周辺で98名以上、ヴァンデリクールでは45名を処刑していた。全員が無実の市民であるが、SS側では少なくとも一度は農民から射撃されたと主張していた。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P440


 ……アラスの西に8km……のボン=ド=ギイ……。5月23日、SS自動車化師団“トーテン・コップフ”は住民23名を射殺し、家屋を焼いたため、この小村は甚大な被害を受けた。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P354



 これらのそれぞれの地名を探してみたのですが、ル・パラディはすぐ分かったのですが、それ以外は良く分かりませんでした。が、とりあえずOCS『The Blitzkrieg Legend』のマップのアラスの西にボン=デ=ギイと書いてみました。

unit9967.jpg


OCS『KOREA』(v2.0)のサンセット和訳で反映済み以降のエラッタ(&エラッタまとめ)

 ミドルアース大阪に参加されているぴょんさんがOCS『KOREA』を入手されたということで、そのうちに同ゲームをミドルアース大阪にてやりましょうという話になりました(いつやるかは今後の調整次第です)。

りぷれいだぴょん:OCSコリア入手


 そこらへんのこともあって、フト思いつきまして試しにMMPサイトで公開されアップデートされていっている同ゲームのエラッタをサンセット和訳と比較して見てみたところ、最初の3項はサンセット和訳で反映されていたのですが、残りは反映されていないようで、訳出してみました。

4.シナリオ5.3の「一般の情報」に間違いがあります。毎ターン登場するSPに関してはダイスを振りません。共産軍は毎ターン4SPに固定されています【「共産軍の情報」には正しくそのように書かれています。国連軍は日本ボックスから輸送によって運びます】(両軍とも補充はダイスを振って決定します)。

5.「キャンペーンゲーム用の到着スケジュール」【和訳のP33,4】は、シナリオ5.2と5.3でも使用されます(使用されるシナリオ一覧にその2つが抜けています)。

6.ルール1.10のプレイヤーズノートの最後の一文は間違っています。50年9月8日以降の増援には影響しませんが、補給に関してはその月の終わりまで影響があります。

7.選択ルール4.1に以下の文言を追加:新たに到着する航空ユニットと艦船ユニットは、この補給妨害ボックスに、すぐに数珠つなぎにしていって【どんどん置いていって?】構いません。


明確化(初版とv2.0の両方で)
1.シナリオ5.13でリストにある中国軍の砲兵の情報に誤りがあります。カウンターの方が正しく、それらのARはすべて1です。シナリオは「5月」29日に終了です。

2.シナリオ5.11で、C35.02に置くように指示されている国連軍ユニットは、B35.02に置きます【サンセット和訳ではC35.02への配置情報が抜けてしまっています。基本的には英語版ルールブックを参照してセットアップする方が安全でしょう】。

3.シナリオ5.3の両軍の「全滅ユニットボックス」は【なしと指示されていますが】、厳密にはシナリオ5.4で挙げられているユニットがそこに存在しているはずではあります。これは(故意の)シナリオ上の処置です。

4.ALTを実行する上で「海兵隊」とは、第1海兵師団の全てのユニットと、韓国軍の海兵隊連隊を指します。

5.2.9項の補給制限は中国軍の師団に対して適用されるものです。北朝鮮軍のユニットは2.3b項に従って補給を受けます。

6.シナリオ5.5、5.7、5.12、5.13においては、(リストで挙げられている増援を超える)追加のSPを日本ボックスから海上輸送することはできません。

7.TF Smithユニットは、スタックと輸送において1/2REと見なします。







 ちなみに、これまで私が見つけていたサンセット和訳に対するエラッタとしては、↓に書いていた2件があります。

OCS『KOREA』『Enemy at the Gates』備忘録 (2015/09/23)

■サンセット訳(第二版用)の欠損

 上記、『KOREA』3.7aの・の最後のところの、「艦載機は使用できません。すべてのユニットは補給下です。」という2つの文が、サンセット和訳では抜けてしまっているのを発見しました。ので、お持ちの方は書き加えられるのが良さそうです。


カブト会で『KOREA』リッジウェイシナリオ (2016/02/28)

5.10 リッジウェイの戦いの説明文
「 中国軍がソウルを奪回した第三次攻勢を再現したキャンペーンゲームです。マシュー・リッジウェーが国連軍を立て直したことで、共産軍の攻撃は停止しました。」
 を↓に変更。
「 中国軍の第三次攻勢がソウルを奪取し、その後きしみをあげつつ停止したところからこのキャンペーンシナリオは始まります。リッジウェイ将軍が今や、韓国における国連軍の指揮を執ることになったのです。」



 また、1つ目のエントリで挙げていた『KOREA』ルールの疑問点について、Satoさんが聞いて下さったもの。

■『KOREA』に関するJohn Kisner氏からの回答
OCS『KOREA』『Enemy at the Gates』備忘録で挙げた疑問点をsatoさんがConsim Worldで質問して下さり、John Kisner氏から回答を得られたものです。

Q:『Korea』で地図盤上とSea Boxに分割された複数ユニット部隊は、いずれか一方がSPを消費して一般補給を確立せねばならないのか?
A:その必要はない。当該ルールは同一部隊のユニットが地図盤上で離れている場合にのみ適用される。

Q:『Korea』のALTにおけるDRMの「Marines」には砲兵と戦車も含まれるのか、それとも錨シンボルの部隊だけか?
A:ブルーグリーンのユニットすべてを含む。





 私がこれまでに見つけていたエラッタは以上なんですが、もちろん、それ以外にもエラッタがある可能性はあります。もし見つけられたり、あるいはあやしいと思われるところがあれば、私の方にも教えてもらえれば大変ありがたいです(^^)




 あと、『KOREA』(v2.0)は、国連軍ユニット4つ(フィリピン軍、タイ軍、トルコ軍、エチオピア軍)の裏表が食い違って印刷されてしまっています。私は最初、カッターで切って裏表面をはがして、正しく組み合わせて貼り直していました(それでもなんとかなります)が、現在では『Tunisia II』と『Smolensk:Barbarossa Derailed』に訂正カウンターが入っていますので、そちらを入手するか、あるいはそちらのゲームを持っているが『KOREA』は持っていない……という人から分けてもらうのが良いと思います(^_^;

 私は両方とも持っていて1セット余っているので、ぴょんさんに差し上げようかと……。




<2019/08/27追記>

 OCS『Beyond the Rhine』を一旦終了、次はOCS『KOREA』キャンペーン (2019/08/27)にあるように『KOREA』キャンペーンを始めたのですが、その際に新たに見つけたサンセット和訳のエラッタについて書いておきます(この和訳には私は関わっていないので、私の責任ではありませんから!(>_<))。

1.10の「占領している時」の2つ目の「・」にある「7~9月」を、「6~9月」に訂正。

2.10の最初の文が「キャンペーンゲームと地図盤BとCを使用するシナリオでは」とありますが、「地図盤BとCのみを使用するキャンペーンゲームとシナリオでは」に訂正(例えばシナリオ5.11は、マップ3枚を使用してもよいし、地図盤BとCのみを使用するプレイ方法も選択でき、後者の場合にはこのルールを適用するということですね)。

3.1aに「国連軍の航空ユニットは鉄道妨害を行えます。そして、以下のルールを適用します。」とありますが、この書き方だと共産軍の航空ユニットは鉄道妨害を行えないかのようですが、できます。ので、「国連軍の航空ユニットの鉄道妨害には、以下のルールを適用します。」と書き換えた方がいいと思われます。

背表紙のチャート類の左下の「海上輸送&鉄道輸送一覧表」は、「国連軍海上輸送&鉄道輸送一覧表」とすべきです(共産軍の鉄道輸送力はその上の「共産軍の補給表」の中にあります。共産軍には海上輸送力はありません)。また、同一覧表の「1950年5~8月」を、「1950年6~8月」に訂正。


<追記ここまで>

<2020/07/17追記>

 たえさんが新たに見つけられたエラッタで、恐らく軽微であるが故に公式エラッタには載っていないものがありましたので報告しておきます(たえさんありがとうございます!)。


unit9694.jpg

 このユニットなんですが、セットアップ情報等で移動力が2というのと3というのが混在しています。

on Scenario 5.3 ... 12-1-3 NK Inf Div(8)

on Scenario 5.4 ... 12-1-2 NK Inf Div(8)

on Scenario 5.9 ... 12-1-3 NK Inf Div(8)

on Scenario 5.10 ... 12-1-3 NK Inf Div(8)

on Scenario 5.11 ... 12-1-3 NK Inf Div(8)

on Communist Campaign Arrival Schedule ... 12-1-2 NK Inf Div(8)

 まあしかし、3が正しいと思いますので、2と書かれている2箇所については朱を入れておいてもらったら良いと思います。



 それから、「第1プレイヤー:特別ルールを参照(First Player: See special rules)」となっているシナリオ(5.3~5.9)は、シナリオ特別ルールの項にどちらのプレイヤーターンしかないかが明記されているのですが、5.4にだけはその明記がありません。ただ、5.4は5.3のキャンペーン版であり、5.3には国連軍プレイヤーターンはない、と明記されています。

 まあほぼ100%、「国連軍プレイヤーターンはない」ということだと思われますので、これも朱を入れておくと、プレイの時におろおろしなくて済むのでいいと思います。

<追記ここまで>

<2020/08/15追記>
 またたえさんから質問がありまして、まあBoardGameGeekとかで聞かないと確定できないなという件がありましたので、質問してみました。

 『KOREA』には核爆弾を投下できるという選択ルールがありますが、これが「砲爆撃任務」に当たるのか、そうでないのか、という疑問です。というのは、OCS 14.2eの「重要な注記」には、砲爆撃任務は1つのフェイズに1つのヘクスに1度までという制限があるが、それ以外の任務(ヒップシュートや空挺降下/空中投下)にはその制限はなく何度でもできる、という話がありまして。

 BoardGameGeekで質問してみたら、OCSチームの先代の班長であったジョン・キスナー氏が答えてくれました。
「それは砲爆撃任務だろうと思います。再度そのヘクスに投下するためには、突破フェイズかリアクションフェイズまで待つ必要があるでしょう(爆撃機が撃墜されたか任務中止にされた場合)。」

 「思う(I think)」という答ではありましたが、他ならぬキスナー氏の答ですから、これがオフィシャルの回答であるという理解で良いだろうと思います。

<追記ここまで>
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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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