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OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺

 先日来読み進めている『ダンケルク』から、ベルギー軍のことについて『大いなる聖戦』:なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?(付:ベルギー軍は頑張ったのか?) (2019/06/16) に加筆したのですが、同書にはベルギー軍とドイツ軍との戦いの渦中でドイツ国防軍の部隊がベルギー市民を虐殺した事件についてある程度以上書かれていて、「おおお……」となりました。

 同書には同時期のSS(親衛隊)による市民の虐殺についても書かれているのですが、それらについてエントリを書く前に、この件についてまとめてみたいと思います。

 こうした【親衛隊の】特定の残虐行為について、ドイツ陸軍に責任を押しつけることはできない(ナチス親衛隊はナチ党が責任を持つ組織だったため)が、ドイツ国防軍(陸海空の三軍を合わせた軍)も少なくとも一度はヘント近くのフィンクト村で虐殺をおこなっている。5月26日から28日にかけて、第337歩兵連隊が最大100名の民間人を殺害したのだ。うち何名か(なかには89歳の男性もいた)は家族や友人が見ている眼のまえで射殺された。ほかの者たちは、ドイツ人が橋を渡る際に人間の盾として利用され、そのあと無作為に処刑された。この時点ではベルギー陸軍は降伏していたというのに、自身の墓穴を掘らされてから射殺された者もいた。
『ダンケルク』P266,7



 調べてみると、この事件は「フィンクトの虐殺(Vinkt massacre)」と呼ばれ(→英語版Wikipedia「Vinkt massacre」)、フィンクトの村は現在のダインゼ(Deinze)の町の一部(町の北西地区)だそうですが、OCS『The Blitzkrieg Legend』にはDeinzeの町(ゲームでは村扱い)が描かれています。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の「ダイナモ作戦」シナリオセットアップの一部

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 画像右上の方にヘント(Gent)があり、その左下3ヘクスのところにダインゼ(Deinze)があります。


 背景としてこのダインゼのある運河にかかる橋を、ベルギー軍の第1アルデンヌ猟兵師団(という名称だが?実質は連隊規模で、戦車、オートバイ、自転車兵で構成されていたようです)が爆破せずに守ることを決断し、しかもこの部隊がベルギー軍の中でも非常に士気の高い部隊であったということがあるようです(前掲Wikipediaによる)。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』における同ユニット

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 連隊規模で、この兵科マークは自転車兵なのですが、『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』のマップではオートバイ兵の兵科マークで描かれています。

 そこに、ドイツ軍の第225歩兵師団がやってきまして……前述の「第337歩兵連隊」というのはこの師団を構成する連隊のうちの1つです。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のドイツ軍第225歩兵師団。

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 虐殺の細かい経過なんですが、英語版Wikipediaだけでなくドイツ語版Wikipedia「Massaker von Vinkt」も参照してGoogle翻訳で見てみたところ、英語版とあまりにも内容に差異があってどうしたらいいか分からなくなりました。とりあえず興味のある方は、両方をGoogle翻訳でかけてみれば、大まかなことは読み取れると思います。

 ただ、英語版Wikipediaの方では、ドイツ軍第225歩兵師団が、訓練度の低い部隊であったために橋を戦闘で取ることができず、ために一般市民を人間の盾として使用したかのように受け取れる記述があったり、あるいはドイツ語版Wikipediaの方では、教会に集められていた人質がある時爆発によって多数死亡したのだけどもその爆発はベルギー軍側の砲撃によるものだと推定されると書いてあったりしたのが興味深かったのですのが、しかしこれはどちらも、相手側をあしざまに言うバイアスの賜なのかもしれません……。


 他の手持ちのフランス戦の資料でこの虐殺について書かれてないかと思い、洋書資料だと必ずある索引で「Vinkt」を引いてみたのですが、手持ちの洋書資料4冊の中には1冊もありませんでした。

 で、最後に邦訳の、索引のない『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』を目視検索で見ていっていたら、記述を見つけました。しかも非常に分析的で偏りのなさげな、感嘆すべき記述であると感じました(もちろん、素人目の感想です(^_^;)。

 ソンムの例に顕著だが(479ページ)、他にも6月の終盤戦におけるヴォージュなど、 各地でドイツ軍は捕虜に対して、とりわけ彼らが黒人兵である場合には容赦なく残虐行為を加え、多くを射殺した。いずれもこれらは、例えば「ダムダム弾【日本語版Wikipedia「ダムダム弾禁止宣言」】を使用したから(ル·パラディのケースで、 SS“トーテン・コップフ”が軍事法廷で判決を下した)」とか、「白旗を掲げたのに攻撃を加えた」などともっともらしい理由を付けて正当化している。戦友の処刑遺体などが発見された結果として明るみに出る事件だが、事実関係は失われているので、今日では追求することは不可能だ。また、市民が犠牲となったケースもかなり確認できる。ル·パラディ事件の数日前にSS“トーテン・コップフ”はアラス地区において、非道な振る舞いにおいては他の追随を許さない実績を残していた。5月23日にボン=デ=ギイのエルマン農場にて市民23名を射殺(354ページ)したのをはじめ、オービニー周辺で98名以上、ヴァンデリクールでは45名を処刑していた。全員が無実の市民であるが、SS側では少なくとも一度は農民から射撃されたと主張していた。SSが乱暴な対処を得意としていることに疑いはないが、ドイツ陸軍も無関係は装えない。例えば5月27日にベルギーのフィンクトが陥落したおりに、第225歩兵師団の軍事裁判によって、86名の市民が処刑された。当然、このような事件でドイツ国防軍の評判が傷つくとしても、忘れたり無視してよいというものではない。しかし、連合軍も捕虜虐待という点では、実は大差がない。戦争被害者側が、のちに打倒した敵が行なった戦時中の犯罪行為を言い立てる一方で、自らの振る舞いを忘れてしまおうとするのは、 無理もないことだろう。仏英連合軍がドイツ人捕虜を殺害した例も多数目撃されている。戦後、ドイツ軍の捜査機関は自軍捕虜に対する残虐行為を調査し、地元民も関係していることが発覚すると、彼らを提訴した。有罪判決に至る連合軍側の典型的な犯罪例としては、5月18日、アラスの北、 ヴィミに不時着したハインケルHe111の乗員に対する事件を挙げられるだろう。墜落機に殺到した仏英軍兵士と地元住民は、残骸から這いだしてきた4人の乗員を捕らえると、有無を言わさず射殺してしまったのである。兵士は去り、残骸は住民の略奪にあった。同月末に仲間の死体を発見したドイツ軍は、調査の末に関与した多数の住民を逮捕した。そして保有していた残骸が証拠となり、裁判の結果、3名が処刑されたのである。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P440


 尤も、この記述でも、ドイツ軍の場合は「一般市民」を盾にしたり理由をつけて大量処刑したりしているのですが、英仏軍兵士と地元住民の場合は「ドイツ軍兵士捕虜」数名を射殺しているとあるので、個人的には軽重の度合いを感じてはしまいますが……どうなんでしょう。

 「黒人兵である場合には容赦なく残虐行為を加え、多くを射殺した。」の件ですが、この「黒人兵」というのはフランス軍の植民地兵、つまりアルジェリアやモロッコ出身の黒人兵のことだと思います。フランス軍にはかなりの割合でこのような兵士(というか、それらの兵士達による師団)があり、フランス戦ゲームならどのゲームでもそれが確認できます。ベルギーもコンゴというアフリカ植民地を持っていましたが、ベルギー軍に黒人兵がいたかどうか、私は知りません。イギリス軍には、本当にほんの少しだけ黒人兵がいたらしいです(『ダンケルク』P112による)。


Bundesarchiv Bild 183-L05109, Kriegsgefangene französische Kolonialsoldaten

 ↑1940年のフランス戦におけるフランス軍黒人兵(Wikipeidaから)



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍植民地兵師団

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 「Afr」は「アフリカ」、「Mor」は「モロッコ」、「NA」は「北アフリカ」、「Col」は「植民地」を意味しています。

 
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OCS新作『Hungarian Rhapsody』注文開始&ハンガリー第2軍はソ連軍の攻勢を予期していたのか?

 ツイッターでも書いていましたが、MultiManPublishingのウェブサイトで、ハンガリーでの戦い(ブダペスト包囲戦)を扱うOCSの新作『Hungarian Rhapsody』の注文が開始されてます。

Hungarian Rhapsody-OCS

 ただ、私は注文情報を入力してボタンを押しても次の画面に進まない状態で、うーん、どうしたものか……。

 上記ウェブサイトでマップの一部とカウンターシートのデータが見られます。シナリオが15本も入っており、うち5つがマップ1枚でプレイ可能なのは、「広いマップを広げられるスペースがないから、小さいマップでプレイできるシナリオを増やして欲しい」という意見を取り入れたからだそうです。


 ハンガリーでの戦いについて私は何も知りませんで、ハンガリー軍についても良く分かってないのですが、『On a Knife's Edge』を読んでいると、(天王星作戦でのルーマニア軍、小土星作戦でのイタリア軍に続いて)いよいよ撃滅されることになるオストロゴジスク=ロッソシ作戦直前のハンガリー第2軍の様子について書かれていて興味を持ったので、そこらへんまとめてみたいと思います。


 ↓『Guderian's Blitzkrieg II』+『Case Blue』の火星&天王星作戦キャンペーンセットアップ時のハンガリー第2軍戦区

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 1943年1月13日からのオストロゴジスク=ロッソシ作戦でこの地域のハンガリー第2軍は包囲され撃滅されることになるのですが、おおまかな配置は火星&天王星作戦の時(1942年11月)とそれほど変わってないと思われます。

 ハンガリー軍のユニットは青っぽいやつとジャーマングレーっぽいやつ(ドイツ軍はもっと薄い灰色)なのですが、これは青っぽいやつが『Case Blue』のユニットで、ジャーマングレーっぽいやつは『Guderian's Blitzkrieg II』のユニットだと思います。


 まずは、スターリングラード包囲戦の頃のハンガリー軍の状況について。

 イタリア軍、ルーマニア軍、ハンガリー軍の士気は、パルチザンが前線に向かう隊列に類を見ない襲撃をしかけてくるので、いずれも揺らいでいた。やがて、死傷者がほとんど出なくてさえソ連軍の空襲によって士気は低下した。さらに地上では「スターリン・オルガン」から発射されるカチューシャ・ロケット弾に攻撃されて、同盟軍部隊はいったい自分たちはここで何をしているのかと悩みはじめる。
 ソ連機はハンガリー語、イタリア語、ルーマニア語で書かれたビラをまいた。同盟国兵士に、ドイツのために無駄死にするなと訴えたビラである。このプロパガンダは少数民族に最も効き目があった。ハンガリー軍に徴兵されたセルビア人やルテニア人はすぐにも脱走しかねなかった。「ハンガリー人でない者をどうして信用できようか」とバログ伍長の日記にある。赤軍情報部がモスクワに報告したところによると、多数の小集団が前線到達前に協力して脱走する計画を立てた。彼らは赤軍が攻撃してくると暫壕に隠れ、降服する時期を待ったという。
 別の連隊から脱走したルテニア人はNKVDに尋間され、大部分の戦友が「暫壕の中にうずくまって、 毎日無事でいられますようにと神に」祈っていると話した。「みんな戦いたくないのに、 怖いから脱走しません。ロシア兵はドイツ兵を拷問にかけて殺すという上官の話を信じているからです」
 同盟国軍の最大の問題は混乱であった。前線部隊は味方の同盟軍に絶えず砲撃された。「神よ、どうかこの戦いが短くてすみますように。誰もが僕らに爆弾を落とし、砲撃してきます」とバログ伍長。一週間もしないうちに、彼はまた次のように書く。「ああ、神さま。この恐ろしい戦争をとめてください。これ以上続けば僕らの神経はぼろぼろになる……僕らはもう楽しい日曜日を故郷で過ごすことはないのだろうか。 故郷の人は僕らのことを覚えているだろうか」
 士気の低下がはなはだしかったので、ブダペストに不安が広がるのを恐れたハンガリーの軍部は内地宛に手紙を書くのを禁じた。次の攻撃の前に、兵士たちは「できるかぎり上等の食事 - 板チョコ、缶詰食品、ラード、砂糖、グーラシュ(ビーフシチューに似たハンガリー料理)」で激励された。しかしほとんどの者があとで激しい腹痛を起こした。「ここにいる兵士はそういう食べ物に慣れていない」からだった。
『スターリングラード 運命の攻囲戦』P250~252

 東部戦線の多くの場所と同様、1942年の後半はずっとスターリングラード戦にリソースが優先的に割り振られていて、補給は非常に少なかった。ドイツ軍は、ルーマニア軍やイタリア軍と同様にハンガリー軍にも対戦車兵器を供与すると約束していたがそれはほとんど守られず、また約束を守ったとしてもほとんど訓練を受けていないハンガリー軍の新兵達には、それを扱うことなどできなかった。そしてこの年の後半には、食糧の供給でさえ場当たり的なものになっていった。ハンガリー軍の第1機甲師団は、ルーマニア軍のそれと同様、主として時代遅れの38(t)戦車と、ほんのわずかのⅢ号戦車とⅣ号戦車を装備していた。ドン川沿いに配置されたハンガリー軍歩兵部隊のほとんどは「軽」師団と呼ばれ2個連隊しか持っていなかったが、向かい合っているソ連軍歩兵師団は3個連隊で編成されていた。つまりは、ハンガリー軍の戦力は最低限度のものでしかなく、ましてや過酷な東部戦線においておやであった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P221




 さて、タイトルに書いた「ハンガリー第2軍はソ連軍の攻勢を予期していたのか?」ですが、ルーマニア軍とイタリア軍がこの2ヵ月の間にすでにソ連軍にやられて崩壊していたのに、ハンガリー軍は「ソ連軍がハンガリー軍戦区に攻勢をかけてくる可能性は低い」と考えていた……という話があります。

 例えばこのような記述。

 ……師団としての戦闘力は事実上、ドイツ軍歩兵師団の半分程度に過ぎなかった。
 前線兵士の練度と士気は、ルーマニア軍やイタリア軍よりは高かったものの、各歩兵師団が装備する対戦車砲は時代遅れの37ミリ砲だけで、T-34をはじめとする強力なソ連戦車に対抗できる兵器は装備していなかった。
 しかも、ハンガリー軍の上層部は対ソ戦への参戦に際して、従軍将兵を懐柔するために、戦場周辺での「戦利品」の徴発行為を推奨するような態度をとったため、前線での軍紀は乱れ、兵士の戦意も次第に低下していった。
 組織内部の規律の緩みは、下級組織だけでなくハンガリー第2軍の司令部においても見られ、12月中旬に発生したイタリア第8軍の崩壊を目の辺りにしても、彼らは次が自分たちの番だとは考えていなかった。
 同年12月末、ハンガリー軍の参謀総長フェレンク・ソンバテルイ大将が第2軍に命令文を送付し、イタリア軍と同様の敵攻勢に直面した場合の行動指針について指示したが、第2軍の参謀長チボル・コヴァツ少将が43年1月7日に本国へと送付した報告書の内容は、次のようなものだった。
「現状においては、敵がハンガリー軍の戦区に対して新たな大規模攻勢を開始する可能性はきわめて低いと考えられる」
 ソ連軍がハンガリー第2軍の戦区で大攻勢を開始したのは、その6日後のことだった。この予期せぬ攻勢により、同軍に所属する9個師団は為す術もなく各個撃破され、わずか2週間の戦闘で、17万8000人のハンガリー兵が失われたのである。

『第二次大戦欧州戦史シリーズ24 スターリングラード攻防戦』P166,7



 しかし、『Death on the Don』によると、それは「願望」だった、という書き方になっています。

 これ【東部戦線の潮目が変わり始めたこと】は、ハンガリー軍にとって想定された事態ではなかった。
 1943年1月7日になってさえも、【ハンガリー第2軍司令官】Jányの参謀長であるGyula Kovacs中将がブダペストへ、ソ連軍による大攻勢はまずありそうにないから安心するようにという連絡を送っていた。
 ハンガリー軍の全般的状況から考えてみると、これは確実な証拠によるものというよりは、ぜひともそうであって欲しいという願望によるものだった。ハンガリー軍は、すでに崩壊してしまっていた他の2つの枢軸同盟軍と較べてもより一層ひどい状況にあり、同じようにあらゆる欠乏状態にあった。余りにも長い戦線に兵士の数は足りず、訓練度は普通程度であったが指揮官のレベルは低く、装備は不足しており、特に対戦車砲はまったく足りなかった(注:比較的装備の良かったハンガリー軍の第1機甲師団でさえも対戦車中隊を1個しか持たず、しかもそれは時代遅れの50mm砲を4門持っているだけで、他には全く役に立たない20mm対戦車ライフルがいくつかあるだけであった)。ハンガリー軍がドン川沿いに築いていた野戦陣地は非常に簡単なものに過ぎず、主として木を並べた塹壕と、いくらかの鉄条網付きのたこつぼだけでできていた。充分な深さの防御用地雷原を構築するには地雷が足りず、またもちろんのことだが、防御陣地をカバーできるだけの砲もなく、やむを得ず主要な場所の前に直接地雷をひとかたまりにして設置し、このマジャール人【ハンガリー人】達はなんとかいくらかでも防御効果をあげられないかと苦心していたのだった。
 兵士達は着古した夏期用の軍服で寒さに震え、現地民や不幸なソ連軍捕虜から買うか、交換するか、あるいは盗むことのできた服をありったけ着込んでいた。何着もの服にくるまれた彼らの動きはまるで太った老人のようであり、肌にはシラミが湧いて、病気が燎原の火の如く広がっていた。届く糧食はずっと全く同じものでカロリーも低く、生きるだけでギリギリの水準であり、そして他に食べられるものは何もなかった。兵士達の身体は寒さの中で脂肪が消費され尽くされ、若い兵士達でさえも以前の姿からは想像もできない幽霊のような状態になってしまっていた。
 ハンガリー軍は「軽師団」と呼ばれる2個連隊の歩兵師団へと再編成を行っていたが、これも助けにはならなかった。実際の所、この再編によって使用できる師団数は増えたが、兵士の数は増えたわけではなく、このドン川沿いの9個の「新たな」師団の各々の防衛線は、以前のものより弱体化していたのである。
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P196,7



 ところが、『On a Knife's Edge』では、ハンガリー軍全体でもソ連軍の攻撃予定があることは掴んでいたが、その規模は小さいと上級将校の幾人かが考えていて、しかしながらハンガリー第2軍司令官と兵士達は「そのような幻想を抱いていなかった」としています。

 いつものようにソ連軍は攻勢準備を偽装していたものの、ハンガリー軍は攻撃が近づきつつあることを感じていた。だが、幾人かの上級指揮官がその攻撃規模を小さく見積もっていたことが、破滅をもたらすことになる。1942年末における予兆について、第3軍団司令官であったGyörgy Rakovsky少将は書いている。「予期していたのは、あくまで局部的なソ連軍の攻撃だった……私の印象では、その攻撃は我々だけで何とか対処できそうなものだったのだ。」
 Rakovskyの見解がどのようなものであったにせよ、ハンガリーの第2軍司令官であったVitéz Jányと、前線の兵士達は、そのような幻想を抱いてはいなかった。対戦車砲もなく、彼らは無力であった。皮肉なことであるが、ドイツ軍が大量に保持していたソ連軍の鹵獲76mm砲をルーマニア軍やイタリア軍、ハンガリー軍に回せば、はるかに素晴らしい防衛線を築けたであろうし、ドイツのみならず同盟諸国の技術で、76mm砲用の砲弾を生産できるようにすることも決して不可能ではなかったろう。だがヒトラーはロシアで鹵獲した兵器を同盟諸国軍に使用させることも、ましてや引き渡すことには全く気が進まなかった。というのは、ともかくもソ連軍はもう崩壊寸前であるとヒトラーが - および、これは覚えておくべきことだが、かなり長い間ハルダーも - 信じていた時期に、これらドイツの同盟諸国軍はドン川沿いに配置されたわけであるが、このような状況においては、いつか敵になるかもしれない国の防御力を改善させるために資材を提供することに熱心になれないのは、不思議なことではなかった。
 ハンガリー軍兵士達の士気は低かったが、スターリングラードが破局的な状況になっている今、枢軸軍全体への信頼感も激しく低下していた。ソ連軍はもちろんこの事に気付いていた。ソ連軍の第25近衛歩兵師団の副連隊長であったNikolai Grigorievich Shtykovの元に、来たるべき攻勢準備中に部下達が捕虜を連れてきた。

 私のところに来た書類と、捕虜となったハンガリー軍兵士達の供述書によって我々は、彼らの多くが、他国の犯罪的な戦争に自分達が加担させられているのだと気づき始めている、ということを知った。彼らの全員が、故郷へ帰りたがっていた。我々の師団との戦いで戦死した第1オートバイ旅団の兵士Istvan Bolachekの日記の中に、そのことが雄弁に書かれていた。ここに抜粋引用する。
「昨日の戦いで僕は奇跡的に生き残った。中佐殿と数人の大尉が戦死した。士気は低い。寒くて凍えそうだ。聖母様、我々が故郷へ帰れますよう、お助け下さい。」
 ハンガリー軍の第20歩兵師団のある兵士は我が軍の偵察部隊の捕虜となったが、尋問の際に彼が述べたのは、自分は捕まらないようにすることも出来たのだがそうしなかった、なぜなら、自分の為にならないホルティ政権の利益を守る為に戦いたくなかったからだ、と。

 新たな増援として、戦闘経験のない新兵達がこのハンガリー軍の戦線に、ソ連軍によるオストロゴジスク=ロッソシ作戦の開始のわずか数日前に到着した。これらの新兵達は東部戦線に送られる前に基本的な訓練を受けただけであり、こんな巡り合わせでなければ、更なる訓練を受けつつ状況に慣れていくために戦線を交代していくことになっただろう。だが、彼らは気が付くと戦いの真っただ中にいた。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P226



 「予期」の問題に関して、これらを見比べて素人判断するとすれば、一番複雑な書き方になっている『On a Knife's Edge』が一番ありそうだという気はします。ただ、「ソ連軍の攻撃はあるだろうが規模は小さいだろう」という見立てに関しては証拠が挙げられてますが、ハンガリー第2軍司令官と兵士達が「幻想を抱いていなかった」件については何の証拠も挙げられてないのが残念です。



 あと、ハンガリー軍がオストロゴジスク=ロッソシ作戦の戦い中にどのようであったかなんですが、↓の文だけ収集済みだったのでそれを。

 イタリア軍の南翼にいた第24装甲軍団の退却ということに加えて、北翼のハンガリー軍も後退したという知らせが【イタリア軍に】入った。だが、これは完全に正しいとは言えない情報であった。多くのハンガリー軍部隊は蹂躙され、後退してはいたが、依然として元の位置にしがみついている部隊もいたからである。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P233,4





なぜイタよわ?:イタリア軍の組織、将軍、士官、兵士達の抱えていた問題

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめ、4回目です。今回は「イタリア軍の組織、将軍、士官、兵士達の抱えていた問題」について。


 まず断っておきますと、イタリア軍の中でも空軍と海軍については、予算も優先的で人員的にも士気の高い人が多かったので、むしろ優秀であったらしいです(特に空軍)。

 それから、イタリア陸軍の中にもいくらかの非常に優秀な部隊があり、それらは大いに敢闘しました。イタリア軍はそういう部隊毎の質の違いが色々とあって、そこらへんが面白いという感じもしますが、あるいはまた、どこの軍隊であっても一部の優秀な部隊が活躍して戦いを成し遂げていったのだ、という説もあるそうです。

 最初にリビアで行われたイタリア軍部隊に関する調査で、「軍服のだらしない着方、建物の散らかり方、公衆トイレの汚さ、土地の売春婦への不適切な医療管理」などを含む諸欠点が明らかとなった。1940年におけるイタリア軍部隊の訓練の貧弱さは、戦争開始時のリビア総督であったイータロ・バルボ元帥が、同士撃ちによって撃たれるのを防ぐために「自分の機体を赤色に塗る」ようにするだろうと述べたほどであった。その原因の一端には、この戦域にイタリア軍の一級部隊がいなかったことにもあった。
 第二次世界大戦におけるほとんどの戦闘は「エリート」部隊によって成し遂げられたのであり、「通常」部隊には全くそのようなことはできなかったという説がある。いくつかの通常部隊、例えばアメリカの第1歩兵師団(ビッグ・レッド・ワン)のような部隊はエリートと言えるであろうし、空挺部隊や機甲部隊、それに類する部隊は全くのエリート部隊であった。第二次世界大戦におけるイタリア軍の成功と失敗は、この説に非常に良くあてはまる。イタリア軍のエリート部隊は良く訓練された兵士によって成り立っていた。例えばベルサリエリ(ヨーロッパ近世の王国軍における猟兵に相当する狙撃手)、アルピニおよび山岳兵、機甲、砲兵、そして空挺部隊である。1940年には、当時存在していたベルサリエリ12個連隊のうち1つもエジプトとリビアには配備されていなかったが、最初期の増援で急いでイタリアから送られることになった。後にフォルゴーレ空挺師団 - アフリカに送られた時には実質的には旅団規模であったが - がエル・アラメインの戦いで有名となった。戦争の間イタリア軍の多くの部隊が、劣った武器や、時に劣悪な指揮の下で良く戦ったが、しかし第二次世界大戦におけるイタリア軍の成功のほとんどは、このような良質な部隊によって成し遂げられたのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P19,20


 イタリア軍の中でも優秀な部隊についてはこのブログで色々取り上げていましたが、今ここでリンクを貼っていくのは面倒なので、「OCSの物置2」のトップページの「OCSのユニットや戦史に関する記事」のところに色々リンクが張ってありますから、そちらからでも見てもらえたら……。



 それはともかくとして、とりあえず軍の中でも上の方の話から。

 ムッソリーニはまた、生来の管理業務嫌いであり、すぐにムードに流されるという欠点があった。その結果生じたのが、軍事的な方針がころころ変わることであり、つまりは戦争の全般的指令における一貫性の欠如であった。
 もしイタリアが適切な最高司令部を持っていたならば、そうはならなかったかもしれない。イタリア軍は「Comando Supremo(最高司令部)」という大仰な名前の付いた組織を持っていたが、それはムッソリーニの大まかな意志を個々の軍管区に伝える為のわずかな数の将校で構成されていたに過ぎなかった。それぞれの軍管区における個々の命令と指揮は、現地の司令部に丸投げされていたのである。つまり、イタリア軍全体というレベルにおける中央の作戦指令も、作戦準備も何も存在しなかったのだ。個々の任務はイタリア海軍、空軍、陸軍のそれぞれの司令部に任され、必然的にそれら三軍はバラバラに、自分達の専門分野にのみ焦点を当てがちであった。三軍の作戦行動の統合はないに等しく、それは戦前においても、そして当然戦時においても、はなはだ不適切なありようであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.325~332


 イタリア軍の「Comando Supremo(最高司令部)」に関しては、今まで本の中で何度もその名前を見ていたのですが、そんな状態の組織であったということに私はかなりびっくりしました。ドイツ軍やソ連軍やアメリカ軍の最高司令部はもっともっとしっかりしてそうな感じですから……(時期にもよるのでしょうけど)。


 次に、将軍達のレベルでの問題点。

 王国陸軍の将校は、自らを、近代的な国家への奉仕者というよりも、一種の特権階級とみなし、その多くは、ディレッタント的にしか、軍務に服さなかった。高位の将軍たちは、しばしば、敵と戦うよりも、軍部内の派閥闘争に精力を注いでいた。ローマでは……バドリオ元帥も、北アフリカ方面軍司令官に任命されたロドルフォ・グラツィアーニ元帥に対する誹謗中傷をためらわなかったし、また伯爵ウーゴ・カヴァレロ大将を宿敵とみなしていた。
『明断と誤断』P46


 かような技術力・工業力の不足に加えて、王国陸軍首脳部の無理解も、イタリア機甲部隊の発展を阻害した。実戦で機甲部隊を指揮した経験を持つ、数少ない指揮官であるエットーレ・バスティコ将軍でさえ、1937年11月に開催された、今後の戦車に関する施策を主題とする会議で、こう発言している。「戦車は強力な道具である。だが、偶像化してはならない。歩兵と騾馬への尊敬を捨ててはならないのだ」。ドイツ装甲部隊の驚異的な成果も、王国陸軍の将軍たちの蒙を啓くには至らなかった。たとえば、1940年7月に陸軍情報部が作成した、ドイツ軍の装甲戦術に関する報告に対し、バドリオ元帥が付した唯一のコメントは、「戦争が終わったら、研究することにしよう」というものだった。
『明断と誤断』P48


 「将軍同士の仲の悪さ」ということで言えば、独ソ英米仏、どこでも具体例がいくつか思い浮かびますけども、イタリア軍の将軍達は「戦争指揮よりも派閥闘争により熱心であった」ということのようです。その原因の一端が、将軍という地位が特権階級的なものであったということなのでしょうね。ナポレオン戦争の時のイギリス軍なんかも将軍の地位は売買の対象で、ウェリントン卿はそういう状況で真に優秀な指揮官を得るのにだいぶ苦労したらしいです。


 次に士官や兵士たちに関して。

 イタリア軍の将校団は多くの問題を抱えていた。エチオピアの英雄で、アルプス方面を重視する保守的なピエトロ・バドリオ元帥をトップとするイタリア軍は、その将校の選定に硬直的な年功序列システムを採用していた。この硬直的な年功序列システムは有能な若手将校の順調な昇進を妨げ、むしろ無能な将校を高級司令部に残す傾向にあった。しかも、高官は戦場で失敗しても退役や免職させられることなく、新たな役職を得て他の戦域に回されるだけということが多々あった。例えば、イターロ・ガリボルディ将軍は、1941年にエルヴィン・ロンメル将軍と不仲になったが、単にアフリカからロシアへ異動させられただけだった。イタリア軍において専門的な教育を受けた将校の多くは自動車化部隊か砲兵部隊(この戦争中に目覚ましい働きをしたこれらの砲兵部隊の大砲は、多くが第一次世界大戦の時のものの寄せ集めであった)に配属されたため、残りの部隊はほとんどの将校達が専門知識を有しないことによる不利益を被り、しかも彼らは兵達と「触れ合う」こともなかった。将校達は兵卒達とは別の場所で食事をし(それが戦線後方でのことであったならまだマシであったろうが、実際には前線においても多くの場合そうであったのだった)、兵卒達とは離れて仕事をし、しかも最高司令部は高齢者で占められていた。1920年代に将校団に厳しい予算カットが突きつけられた結果として将校の総数が特に佐官・尉官のレベルで制限された。そのため、戦時に、概して知識の乏しい予備役将校に頼らざるを得なくなってしまったのである。
 この不足は有能な下士官階級によって軽減されていたかもしれないが、下士官は不足しており、健康や教育程度で劣るイタリア南部からの者が多かった。最後に、財政上の理由から、イタリアの悪名高い1920年代と1930年代に不充分な軍事訓練しか行えておらず、そのつけが戦争に響いたのである。
 イタリア軍兵士はヨーロッパでも最悪の部類であった。信じられないことだと思われるだろうが、1940年に小作農階級から兵士となった者のうち約50%は左と右の区別も付かず、まず最初の訓練でその区別を学ぶところから始めなければならなかったのである! 例えば、オーストラリア軍の新兵が多くの場合地方出身者であり、自分用の大きなライフルを持つ射撃の名手であったのに比べると、イタリア軍兵士の素養がいかに貧弱であったかが充分に理解できるだろう。また、イタリア軍兵士は30ヶ月経たなければアフリカから故郷に帰ることができなかったが、ドイツ軍兵士は12ヶ月毎に帰郷できた。英連邦軍兵士は定期的にカイロへの休暇を許されるか、あるいは部隊自体が戦いのない駐屯地に移されることを期待できた。戦争が長引くにつれ、このことが彼らの士気と能力に影響を与えることは避けられなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P14,5

 ……そこには、当時のイタリアが脱却できなかった階級社会が反映されていた。
 将校は、従卒にかしずかれ、兵士よりも良い軍服と装備、より多くの休暇、より良質の食事を与えられるのが当然とされていた。かてて加えて、昇進も、資質や努力を重視するというわけではなかった。規則上は、戦時に実力を示せば、短期間で昇進が保証されることになっていたけれど、現実には、年功序列や実力者との縁故のほうがものを言ったのだ。1942年冬のヒトラーの布告に接したカヴァレロの反応は、かかる事情を問わず語りに示したものといえよう。前線指揮官であれば、年齢、任官序列、どのような階層に生まれたかにかかわらず、その実績に応じて、適切な階級に引き上げるとした内容を一読したカヴァレロは、「われわれには、こんなやり方は、少しばかり行き過ぎ」だと、うそぶいたのである!
 事実、王国陸軍にあっては、戦場で功績をあげるよりも、参謀職や後方の管理業務についているほうが出世は見込めるという傾向が見られた。ギリシアやロシア、北アフリカを転職し、元帥にまで昇りつめた勇将ジョヴァンニ・メッセは、チュニジアの軍司令官時代に、実戦の試練に打ち勝った部下の師団長たちよりも、ローマの事務机で戦っているもののほうが昇進が早いと、痛烈な皮肉を残している。

『明断と誤断』P46

 王国陸軍の体質はきわめて官僚的であり、実戦に即応することは期待できなくなっていた。近代戦に必要な指揮官の自主性は重んじられず、中堅将校も責任を負わされることを恐れ、常に上官の指示を仰いでから行動するというていたらくだったのである。軍隊の強さの根幹となる下士官においても、事情は同様だった。もともと、王国陸軍では、下士官の数は不釣り合いなほど少なかったし(1940年6月の時点で、技術専門官を含めて、41200名のみ)、下士官へ昇進する道も限られていた。ドイツ軍や米軍では普通であった措置、前線で緊急事態が生じた場合にベテラン下士官を将校に任じるということさえも、王国陸軍は認めていなかったのである。結果として、昇進の飴もぶら下げられず、過失があれば、将校に譴責されるという境遇に置かれた下士官たちは、なけなしの自主性をポケットの底に押しこんでしまった。
『明断と誤断』P47

 イタリア軍のリーダーシップも、同様にお粗末だった。将と兵の格差は激しく、あらゆる階級において差別意識がはびこっていたため、およそ密接な関係など保てよう筈もなかった。連絡はおざなり、部下が誰かということさえわかっていない有様だった。それに上級将校ともなると、政治的配慮からその地位を得た者が多く、これっぽっちの軍事知識ももち合わせていなかったのである。部隊の構成および編成は、特に後方支援部隊に顕著だったが、お粗末窮まりなかった。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP27

 では、召集される兵士たちはどうか。彼らこそ、ムッソリーニの野望、イタリア国民の夢を実現すべく、鍛え上げられたのではなかったか?
 いや、ここでも、恐るべき錯誤がまかり通っていた。王国陸軍首脳部は、訓練よりも、実戦経験こそが強い部隊をつくりあげるし、選ばれた民であるイタリアの子らは、砲火の洗礼 - 最初の戦闘から、立派に戦うはずだと考えていたのである。にわかには信じがたい、傲慢な発想ではあるが、実例を示そう。先に触れたバリアーニ大将は、1937年に、ある上級将校を使者に仕立てて、リビアに送り込んでいる。彼の任務は、同地に駐屯する諸部隊に、「過剰な訓練」を禁じるバリアーニの訓令を伝えることであった。また、参謀将校であったマリオ・カラッチォ・ディ・フェロレートは、「【軍に】はびこっていた、戦闘にあっては、直感と個人の勇武のほうが、訓練などよりもはるかに価値があるという思い込み」について、書いている(【】内は、筆者の補足。以下同様)。
 しかも、この思想ともいえない思想は、軍の実務に反映されることになった。多くの新兵は、充分な訓練を受けないまま、実施部隊に配属されたのである。機甲師団のような、技術的習熟を必要とする部隊ですら、例外ではなかった。たとえば、アリエテ機甲師団に補充される操縦手は、戦車を動かしたことがないのが普通だったし、砲手にされる新兵にしても、47ミリ戦車砲を3回も撃った経験があれば上出来というありさまだった。
『明断と誤断』P47

 イタリア陸軍の訓練は、予算と燃料が限られていることから非常に制限されており、その多くは行進訓練と基礎訓練に過ぎなかった。実弾発射訓練は全くないに等しく、多くの兵士にとって実際の戦闘が自分の武器を始めて実弾で撃つ機会という有様だった。また、年に一度の大演習を除けば師団規模や軍団規模の演習もなく、多くの将校や下士官、それに兵士達は戦場での実際の状況に関する経験に欠けていた。エチオピアやスペインで戦った経験のある者は比較的少数で、それとても第二次世界大戦には役に立たないような経験に過ぎなかった。それ故、第二次世界大戦で戦ったイタリア軍部隊の大部分はその訓練の多くを前線において受けたのであり、それは多くの者達にとってあまりにも遅すぎたのである。
 またイタリア陸軍は多くの年かさの上級将校を抱える一方で、経験豊かな若手将校や下士官がかなり不足していた。これは、年かさの将校が高い役職にとどまり続けたため、若手の者達が予備役に回されたり、配置換えをされたりしたからであった。この問題は、これらの年かさの将校達に見あった高い役職を数多く作るために多くの「2単位」師団が作られたことによってさらに悪化した。このことにより、進取の気性に富んだ、あるいは近代戦の経験を持つ若手の将校の昇進の機会が狭まり、そもそも陸軍が持っていた保守性が促進され、新しいアイデアや変化に対して抵抗する度合いが高まった。やりがいのある仕事を求める多くの志を持った若者にとっても、イタリア陸軍は魅力のないものとなった。対照的にドイツ軍では、ヴェルサイユ条約による容赦の無い要因削減により年かさの将軍達が首を切られることになり、そして1930年代の拡大期には新しい考え方の若い将校達に道が開かれることになったのであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.396~407

  このような軍上層部での弱点を助長したのが、現地軍の士官レベルで見られた弱点である。伊軍との折衝に当たった独軍将校は、伊軍の若手将校の演練水準が低いことと、自主性を欠いていることに否が応でも気付かされていた。同様に独軍将校の意識に留められたのは、 イタリア南部で編成された師団と北部で編成された師団との間に顕著な格差があり、 北部の師団の方が格段に優秀であったということである。教育程度と職業意識が高い中間階層が幅広く存在することが士官としての適性を持った人物を多く輩出するための前提条件であり、その面でイタリアが相対的に他の諸国の後塵を拝していたということが、このような弱点の源となっていたと言えなくもない。
『大いなる聖戦 上』P232



 読んでいると、イタリアは他の列強に較べて「近代性」が低かった……という気もしますが、一方で思いつくのは、近代的発展を早い内に遂げた社会というのは「戦士に高い価値が認められる社会」であった、という説です(どこで読んだのか思い出せませんが)。例えばヨーロッパや日本(武士階級が長らく支配していた)はそうであり、中国や朝鮮半島は長らく文官の地位が非常に高くて武官の地位は非常に低い社会でした。これは多分、「戦いに勝つ」ということには合理性が必要であるから、戦いに価値を置く社会は合理的、つまり近代的になる……ということだったのだと思うのですが、もしこの説にある程度妥当性があるとすると、イタリアはヨーロッパ列強の中でも「戦いに価値を置く社会」度が低かったのかも、と思ったり。

 例えば、メッセ将軍は、イタリア人は(ドイツ人と違って)「戦闘的な民族」ではない、と言っていたそうです。

 ジョヴァンニ・メッセ元帥はイギリス軍の捕虜となってからはもちろん、ドイツ兵とは軍事的な価値観を共有しているなどということを認めようとはしなかった。彼はむしろ、イタリア兵はドイツ兵とは完全に異なる存在だと考えており、そう語ることによってイタリア軍の軍事的な機能不全をイタリア人の自尊心をくすぐるような形で語りうるようになったのだ。「[ドイツ兵たちには]魂がない。我々は鷹揚であり、憎むということが本当に不可能なのだ。我々の精神的気質はそのようなものなのであって、私は前から、我々は戦闘的な民族ではなく、憎むとはどういうことかを知っているのが戦闘的な民族だという意見だ」。
『兵士というもの』P327



 つまりイタリア人は「平和的な民族」なのだ、ということなのだと思われますが、確かに「Axis Powers ヘタリア」のイタリアを見ていると、「ああ、戦争には向かないキャラクターだなぁ……」と思わないでもないかも。

 つまりは、戦争には向かない平和的で純朴なイタリア人が、(ムッソリーニのせいで)戦争に駆り出されてしまったことが、悲劇の根本にあるということなのかも……。


 ただ一方で、イタリア軍兵士達は、エリート部隊にいる者達でなくても、「勇敢さ」などに価値を感じてはおり、それ故に自分達の置かれた様々な愚劣な状況が改善すれば、勇敢に戦ったそうです。

 したがって、あらゆる差異にもかかわらず見逃すことができないのは、ドイツ兵とイタリア兵の間には価値イメージにおいてかなりの程度一致点が見られたということである。イタリア兵が、個人的なつきあいにおいては大抵の場合好意を示さないドイツ軍部隊にたいして、その戦闘力についてはしばしば感嘆の念をもらしていることにも、その点は見て取れる。クレタ島攻略を振り返って、あるUボート将校はこう漏らしている。「あれは驚くべきことだ! 最後まで戦うのはドイツ兵だけだ。小部隊へと分断されてしまっても、粉砕されるまで彼らは戦い続ける。我々イタリア兵や日本兵も、ましてやイギリス兵にもそんなことは不可能だ」。
 彼がこうした評価にたどり着いた理由はただひとつ、彼らにとっては軍事的成功だけではなく、勇敢さや戦士精神にも明らかに肯定的な意味があったからだ。さらに自軍における恥ずべき状況や裏切り者の将官たち、管理の失敗についての彼らの会話からは、イタリア兵たちがこれらを、自分たちの規範イメージからの完全な逸脱であると感じていることが見て取れる。イタリア兵たちは、無能さや放漫な管理という枠組みから解き放たれて、十分な補給が与えられ、有能な上官によって率いられるやいなや、勇敢に戦う姿勢を見せることがしばしばであった。
『兵士というもの』P327



 やはり、勇敢に戦うことができないのにはそれなりの理由があり、それらの条件がなくなれば、イタリア兵達も充分に勇敢に戦うことができた、ということでもありそうです。




 あと、集積した「なぜイタよわ?」の理由としては「ムッソリーニ政権があまりにも無能すぎたから」というのもあり、『大いなる聖戦』はそれをイタリア軍が弱い理由の最大のものとして挙げているのですが、その辺について書き出すに足るほどの情報を集められていないので、一応「なぜイタよわ?」の10年目の再まとめはこれで終了にしようかと思います。

なぜイタよわ?:国力・工業力の低さと、兵器・装備が惨めなほど時代遅れ……

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめの3回目ですが、今回は「イタリアの国力・工業力の低さと、兵器・装備が惨めなほど時代遅れ」な件について。


 イタリアの工業力の低さについては、動画「なぜイタリア軍は弱かったのか? 前編」でグラフを出していました。


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 ちなみにこの後、日本やドイツはいくらか増産、アメリカは2倍近くまで行くのだけど、イタリアは減少の一途……です。


 この件について、大木毅さんはこのように書いてます。

 1930年代から40年代にかけてのイタリアが、近代化の途上にあり、充分な工業力を持っていなかったことは、あらためて喋々するまでもあるまい。なるほど、第一次世界大戦後のパリ講和会議では、世界五大国の一つともてはやされはした。さりながら、その実態は、1930年代後半になっても、労働者の半数以上が農業に従事しているという数字が示すように(1939年のドイツでは、労働者中、42%が工業労働者で、農業労働者は26%にすぎなかった)、工業化を達成しているとは到底評しがたかったのである。実際、他の第二次大戦に参加した諸国と比べても、イタリアの工業ポテンシャルは、きわめて低かった。
『明断と誤断』P47



 また、ムッソリーニはエチオピア征服に成功しましたが、これがまた、全くお荷物にしかならない植民地であったと……。

 イタリアの植民地は、イタリアの農業や工業の生産品にとって、大きな原料調達先にも、市場にもならなかった。それらはイタリア経済に対していくばくかでも原料を提供するどころか、原料を消費させるだけのしろものであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.186~190

 イタリア帝国はまた、他にも資源を浪費する要因を抱えていた。その一つ目はエチオピアを完全に制圧しておくためのコストが必要であり、またエチオピアの困窮状態をなんとかすることが急務であったためであった。エチオピアは異なる民族がモザイク状に分布しており、それらのほとんどはお互いに、あるいは中央の権威に対して敵対状態にあり、イタリア軍はエチオピアに対して大規模な守備隊をエリトリアから送り込み、維持しなければならなかった。さらに加えて、イタリアはエチオピアのインフラの改善に取り組まねばならず、まずは舗装道路網の建設が必要であった。その結果、イタリアの植民地に対する出費は1934年には10億リラ以下であったものが、1938には60億リラ以上に達していた。これはイタリア経済にとって耐えがたい出費であり、帝国の新たな植民地は少なくともしばらくの間は、リソース上の重荷でしかなかったのだ。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.232~8



 いわゆる「植民地獲得競争」や「帝国主義」の時代に、植民地からの収奪と、植民地を市場とすることによって支配国の側が工業化に成功していったということは確かだと思うのですが、帝国主義時代の最後の頃(日本やイタリアがそれに参加し始めた頃)には、もう「貧しい地域」しか植民地にできるような場所は残っておらず、よしんば軍事的にその植民地化に成功しても、むしろその植民地に資本を大量に投下しなければならなかったのだとか……。この点は日本(大日本帝国)も同様でした。


 この国力・工業力の低さから、兵器・装備が時代遅れなまま更新されないことに……。

 第一次大戦の経験から、王国陸軍は砲兵を重視していたのだが、その装備の刷新は遅々として進まなかった。早くも1929年には、すべての種類にわたって、砲が旧式化しているから - ほとんどが、第一次大戦中に生産されたものだった - 新型に換えなければならないとの要求がなされていたにもかかわらず、イタリア工業界は、それに応えることができなかったのだ。とどのつまり、王国陸軍の砲兵隊は、1938年に発注された砲の一部を1941年から42年にかけて受けとったほかは、第一次大戦の砲を使用し続けなければならなかった。その結果、イギリス軍と対峙した王国陸軍砲兵隊は、著しく不利な勝負を強いられることとなった。王国陸軍の主要重砲である100ミリ榴弾砲と105ミリ加農砲の射程は、イギリス軍の25ポンド砲などに3000メートルほども劣り、容易にアウトレンジされてしまったのだ。
『明断と誤断』P47,8

 ……実際にはこのイタリア軍の状態は、現代戦において要求される水準から遠く隔たっていた。
 グラジアニ将軍の指揮するこの軍は、セヌッシとかネガスといった、現地土民の反乱分子と戦う植民地戦争向きの軍隊にすぎず、その戦車・装甲車は軽量でエンジンの馬力も弱く、行動半径も小さいものであった。砲兵が持っている火砲の大部分は第一次世界大戦当時のもので、射程も短かった。対戦車砲および高射砲の装備数はきわめて少なく、その小銃や機関銃でさえも旧式のものか、または現代戦の要求に応じえない程度のものであった。
『ドキュメント ロンメル戦記』P122

 旧式の装備と慢性的な補給不足のため、イタリア軍は「貧者の戦争」を強いられた - 十分な支援部隊、通信部隊に恵まれたことはなかったのである。自動車化されている筈の部隊でも、トラック不足は顕著で、例えばトレント師団などは、書類上でのみの自動車化部隊だった。
 野砲の殆どは、射程約7000メートルの第一次大戦でも使われた旧式砲だった。イタリア製対戦車兵器は貧弱だったため、ドイツ軍から88ミリ砲を購入し、機甲師団と自動車化師団に配備した。それ以外の部隊、特に歩兵師団は、対戦車能力は無に等しかった。
 機動部隊にしたところで、装備は不十分だった。当時アフリカに送られた225輌の戦車全てが、旧式だった。1930年代に設計されたそれらの戦車は、敵対戦車砲に対してはあまりに装甲が薄く、そして敵戦車の装甲を貫徹するには、あまりに砲の威力が小さかったのである。それ以上に問題だったのは、機械的信頼性の低さである。砂漠という厳しい環境が、その問題を助長させた。1936年のエチオピア戦争では、軽装備の敵には有効だったかも知れないが、1942年に彼らが遭遇した連合軍戦車には、全く歯が立たなかったのである。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP27



 詳しく見ると、戦車に関しては1930年代に相当数が揃えられたものの、それは豆タンクのCV33で、その後各国の戦車が強力になってきて更新が必要だと思われるようになっても「数をいっぱい揃えてしまったので、もったいない」という理由で更新ができなかったのだとか……。



 これに加えて指摘すべきは、伊軍が1941年以降使用することとなった兵器・装備が惨めなほど時代遅れなものであったことで、その原因の筆頭としてあげるべきが、イタリアが確固とした産業基盤を有していなかったことである。イタリアは1930年代の前半から中頃にかけて他国に先駆けてその装備を一新したものの、1930年代後半になって世界全般での兵器の質の向上が目覚しかったがために、イタリアが1940年の時点で使用していた兵器は他国のものと較べると押しなべて時代遅れとなっていた。これには、イタリアが自軍の装備を一新するだけの財政力と開発力を欠いていたことも作用していた。
『大いなる聖戦 上』P232




 また、スペイン内乱に兵器を送って失ってしまったことや、あるいは北アフリカの緒戦においてイギリス軍に大敗北してしまった時に非常に多くの兵器・装備を失ってしまっており、そしてその損失をイタリアの工業力ではもはや挽回できなかったということが大きかったらしいです。

 彼らはまた、相当量の軍事兵器を、スペイン内戦に送った為に失ってしまっていた。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.256

 【ベダ・フォムの戦いまでに】イタリア軍は130,000名の捕虜を出し、180両の中戦車と200両以上のL3軽戦車を失い、1200門の大砲や迫撃砲を損失した。
 さらに、イタリア空軍も重大な損失を被っていた。この戦略的な物資の損耗は見過ごされるべきではない。なぜなら、その貧弱な工業生産能力のために、イタリア軍は損失を埋め合わせはできたかもしれないが、その後決して優勢を獲得することはできなかったからである。イタリアにいる多くのイタリア軍師団は装備を充足されることもなく、また装備も満足のいくものではなかった。ましてや前線から離れた守備隊においておや。
『Rommel's North Africa Campaign』P32



 「なぜイタよわ?」の第1回にあったように、イタリア軍が貧乏国の戦争をしているのに対して、ドイツ軍が億万長者の戦争をしていると見えたのも分からないでもないですね……。

 尤も、日本軍も貧乏国の戦争をしており、ドイツ軍に乗っかろうとしたわけですが、ドイツ軍が「あいつらは物量頼みの戦争しかしていない」と泣き言を言ったアメリカ軍相手に日本は戦ったわけですから、うーん……。


なぜイタよわ?:東部戦線でイタリア軍兵士が敵や住民に優しく接した件は過去エントリで(^_^;

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめ、2回目は「東部戦線でイタリア軍兵士が敵や住民に優しく接した件」についてです。

 ↓なぜイタよわ? の1回目。
なぜイタよわ?:イタリア人には戦う理由なんてなかったのに! 「弱い」とかそういう問題じゃない! (2019/07/13)



 しかしこの件については、今までにこのブログ上で何回か書いていたので、そちらへのリンクで提供ということで(おい)。でも今回読み返してみたのですが、読んでいてマジ泣いてしまいました……。

『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)
東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)
東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)
『On a Knife's Edge』で見る東部戦線のイタリア軍のよもやま話 (2019/01/01)
OCS『GBII』『CB』:『On a Knife's Edge』による小土星作戦でのイタリア第8軍の崩壊 (2019/02/16)


 3つ目のリンクにあるように、イタリア軍兵士によるロシア・ウクライナ住民への残虐行為もあっただろうとは思います。そこらへん、ある傾向性(イタリア軍兵士の優しさ)を主張する際には、それとは逆方向の証拠こそを同時に一生懸命探さなければならない。

 あと、「イタリア軍兵士が悲惨な退却するを際に、ソ連軍兵士やソ連の現地民が助けてくれた件」ですが、それらはまだ本をそこまで読み進められてないので、今後見つけたら紹介していくということで(^_^; まずは『On a Knife's Edge』の方を最後まで読んでいくつもりで、その後『Sacrifice on the Steppe』を読んでいこうと思います。

OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第4ターン

 OCS『Tunisia II』のキャンペーンソロプレイの第4ターンをプレイしました。

 イニシアティブは連合軍が取り、先攻は枢軸軍に。天候はフライト。


 ↓第4ターン終了時の北方戦区。

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 連合軍は矢印の場所で攻勢に出て1ユニットを壊滅させ、部隊を流し込んでいます。次のターンに先攻を取るか、あるいはダブルターンはもう1ターン遅らせるか……?

 ただ反省点として、早期に航空優勢を取るのは難しいことが分かってきて、また航空優勢が取れるかどうかは運次第のところもあるので、砲兵をもっと優先的に前線に送っておいた方が良かったですね……。そうすると、航空基地のレベルアップも後回しの方がいいのかもです。




 ↓同、南方戦区。

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 枢軸軍は前ターンより西へ部隊を食い込ませることに成功していますが、機動だけで占領できるのはここまでが限界かもしれません。今後はこの戦線で膠着し、それを破るにはSPと戦力をある程度集積して攻勢をかけた場所に限られる……ということになるのではないでしょうか。


なぜイタよわ?:イタリア人には戦う理由なんてなかったのに! 「弱い」とかそういう問題じゃない!

 『Axis Powers ヘタリア』というマンガ・アニメ作品が出た頃からか、「なぜイタリア軍は弱かったのか?」ということが気になり、2009年にその時入手できた情報を元に、私なりに調べて解説動画を作って投稿してました。








 その後もイタリア軍に関してはかなり興味を持って情報収集してたんですが、ちょっと前に読んだ第二次世界大戦の作戦等の分析本である『大いなる聖戦』で、「なぜイタリア軍は弱かったのか」ということについてその著者なりのある程度の分量のまとめがあったりで、興味が再び大いに湧いてきまして、ちょっとしばらく他の資料も含め情報を漁っておりました。

 で、動画投稿の後でさらに分かってきた(ような気がする)現時点での私なりの「なぜイタよわ?」の「再びのまとめ」をいくつか書いてみたいと思います(たまたまですが、動画投稿からちょうど10年なのですね……)。




 「なぜイタよわ?」の理由はいくつか(いくつも)あるわけですが、その中でも現時点で個人的に大いに力説したいと思っている点が2つあります。

1.イタリア人には戦う理由なんてなかった! むしろ戦いたくない理由の方が多かった! だから戦わなくて当たり前だ!

2.東部戦線で敵や現地民を侮蔑して戦い、虐殺なども行っていたドイツ兵と真逆に、イタリア兵は敵や現地民とすぐ友達になって優しく接していた(そしてイタリア軍の悲惨な退却行時にはソ連兵や現地の人が助けてくれた)。これは特筆大書されていい、イタリア軍兵士達の美点ではないか?(←特にこれが言いたいです)


 『Axis Powers ヘタリア』では「イタリア軍は弱いけど、そこがカワイイ」というような(多分)視点で、またイタリア軍関係の著作をいくつも書かれている吉川 和篤氏は「強いイタリア軍部隊もこんなにいた、だから魅力的だ」というような(多分)視点であるのではないかと思うんですが、私は「イタリア軍兵士は戦うなんてバカらしいと思っていて、敵や現地民とすぐ友達になった、それがすごく魅力的だ」という視点が、世の中に全然知られてない、世の中にぜひともぜひとも知られて欲しい視点じゃないかと思うんですが、どうでしょう。

 兵士達と現地民とが仲良くなって……という話は日本軍でも見ますし、どこの軍でもある程度あったでしょうけども、特に東部戦線ではドイツ軍兵士の行いが非道である(そうするように指令されていたわけですが)のに対して、イタリア軍兵士達のものすごい人懐っこさ、人の良さが対照的であるように感じます。ただもちろん、東部戦線のイタリア軍兵士の中には現地民に犯罪的な行為を働いたものもいたし、リビアでは現地民に対してイタリア軍兵士達がひどいことをしていたらしいというようなこともあるのですが。



 まあともかく、このエントリではまず、1の理由について書きたいと思います。


 最初に、個人的に一番「うおお……なるほど!」と思った『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』からの文章を引用してみたいんですが、その前段階知識として、「当時のイタリアは国力、軍事力がエチオピア征服やスペイン内乱への参加ですでに疲弊してしまっており、次の戦争の準備は全然整っていなかった」「しかし同盟国ドイツがポーランドやフランスをあっという間に席巻してしまうのを見て、このままではイタリア軍の準備が整って参戦する前に全ヨーロッパがドイツに征服されてしまい、イタリアには何の取り分も回ってこないのではないかという恐怖が湧いてきた」「しかし急いで参戦すればイタリア軍が活躍できないのは当然としても、いくらかの分け前は得られるのではないか、そして分け前だけは得て、すぐに戦争が終われば、大した損害もなく得られるものだけは得られたということになるだろう」……という感覚であった、ということを知っておいてもらえたらと思います。

 【フランス戦への参戦について】ムッソリーニはもはや、イタリア軍は弱体であるからという理由では制止されなかった。なぜなら、彼はそもそもイタリア軍が敢闘することを期待していなかったからである。イタリアの支配層においても反対意見はほとんどなく、ムッソリーニの判断に同意していた。イタリア国民の方は完全に納得していたわけではなかったが、もし軍事的あるいは政治的成功がすぐにもたらされたのであったならば、こちらもムッソリーニの判断に従っていく可能性はあった。
 この戦争に参加する上でのイタリアの基本的原理は明らかに「政治的機会主義」であり、つまりイタリアの支配層全体が、単にその時点での状況から自分達とイタリアがいかに利益を得るかということを考えていたに過ぎなかったのであった。イタリアにとっては不幸なことに、このような機会主義的態度は戦争の進め方にも持ち込まれてしまった。その後のイタリアの数々の宣戦や遠征においても一貫性は欠如しており、重要目標や相手国さえもが、その結果にほとんど考慮が払われることなくころころと変わっていくのであった。このような状態は一般のイタリア国民、なかんずく一般の兵士達の間にこの(否応なく自分たちが巻き込まれる)戦争の目的についての混乱をもたらし、自分達が何のために戦っているのかということについて一貫性のある、あるいは明確な考えを持つことを非常に難しくした。第二次世界大戦中のイタリアの一貫性のない戦争の進め方はこのような混乱をいや増し、明確な動機付けによって戦っていた味方である枢軸国のドイツや日本、あるいはイタリアの主要な敵となった連合国中のイギリスやアメリカとは極めて対照的であった。イタリアの一般兵士達はいつの間にかフランス人、イギリス人、ギリシア人、ソ連人、アメリカ人、あるいはドイツ人と戦うことになったが、そのほとんどにおいてその理由が分からないまま戦わされていたのである。
 ファシスト体制の誇示的なプロパガンダ手法にもかかわらず、多くの場合兵士達を充分に動機付けることはできなかった。長年に渡る好戦的なプロパガンダや、学校における軍事訓練にもかかわらず。
 彼らは特定の戦役においてはすでに存在していた反共産主義や人種主義をうまく活用することにはいくらか成功した【例えば対ソ戦での黒シャツ隊】が、全体の目的の一貫性のなさがこれを徐々に弱らせることにもなった。また彼らは、一般のイタリア人の大多数に対して、いくらかの程度でもこの戦争を正当化することもできなかった。
 明確な国家的目標の欠如のため、ほとんどのイタリア軍兵士達は、信念によってではなく、国家への義理で戦っていたに過ぎなかった。しかも、将校達の多くも自身の栄達にしか興味がなかった。イタリア軍兵士達は、同盟国であるドイツ軍兵士や日本軍兵士と違って敵に対して憎悪を感じていなかったから、国家への義理はもう果たしたとか、敵に数で負けているという時には降伏を躊躇することも少なかったのである。日独の兵士達は敵に対する憎悪を遙かに強く吹き込まれており、それゆえ圧倒的大軍に対してさえ、得るものがほとんどなくても戦ったが、イタリア軍兵士達は少数の例外を除いて、そのように熱狂的に戦うということはほぼなかったのである。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.427~445


 つまり「イタリアの参戦というのは、ある意味身の程を知っているからこそ、火事場泥棒だけをするよ! という話であったのであり、1、2箇所で火事場泥棒だけして帰れたのであればイタリア国民も何も文句はなかったのだけど(おい)、そのままあちこちの盛大に火がついた状態の命のかかった現場にお偉方の思いつきだけで次はこっち、次はあっち、さらにそっちと、現場に行っても必要性すらも感じられないのに延々と付き合わされて、(後述しますが)それで利益を得るのはお偉方だけ、ということであれば、なんで戦わなければならないのか、戦争なんてバカらしい、となるのが当たり前」ということかと。

 私も今の仕事は、シフト上の自分の現場が終わった後も応援で他の現場に引き回されることがあるのですが、それが連続で3つも4つもやらされて、その分の給与はありません(お偉方の個人的利益にはなりますけどネ!)とかだったら、やる気なんか維持できるわけない……! 皆さんも、自分が同様の状態だったらどうか考えてみませんか? イタリア兵がすぐに逃げたり降伏したりする気持ちが分かるかも……?

 それと、イタリアは歴史上長く分裂状態であったこともあり、町とか州とかの狭い範囲の郷土愛はすごくあるのだけど、「イタリア国民」というような国民意識は今でも非常に薄いそうで、それこそ「国家への義理」というのは大したことのない重みしかなかったのだろうと思います。



 ムッソリーニ政権のお偉方が無能で腐敗の極みにあったことに関しては、たとえばこのような記述もありました。

 イタリア兵たちの中心的な参照点【イタリア兵が価値を置く、価値があると考えるもの】は国家でも国民でもなく、軍隊でもなかった。その理由は……ファシズムによって腐敗や縁故主義が極限まで蔓延していたからである。……
 したがってイタリア兵は、自分たちの戦いに何らかの意味を与えることができなかった。……
 ……
 上層指導部、そして国家はあまりに腐敗し無能だと思われているために、連合国以上に敵だと見なされているのである。つまり兵士たちの視点からすれば、決して自分の利益を体現することのないこの体制のために犠牲になることは、まったくもって「馬鹿」なことであったのだろう。
『兵士というもの』P323~326

 大変興味深いことに、戦術部隊レベルでは、無秩序なイタリア軍上級司令部や政府、装備の不足や低い性能、それにこの「貧乏人の戦争」(イタリア人から見れば、ドイツ軍は億万長者の戦争をしていると思われていた)に強制的にかり出されていることに対する、復讐の気持ちが存在していた。
『Rommel's North Africa Campaign』P105,6


 つまり、むしろイタリア軍兵士達の心情上の敵は、イタリア国内のファシスト政権のお偉方だったのです。

 世の中の「イタリア軍=弱い」という図式の中では、「イタリア軍兵士にも、ドイツ兵や日本兵やイギリス兵やソ連兵やアメリカ兵と同様に、同程度に、戦う理由があったハズ」という暗黙の前提があると思います。その前提があるから笑い話や「カワイイ」という感覚になり、また「強い部隊もいた」ということにしてもその前提の強度を大して下げずに述べられていることが多いのではないかと思うのですが、このエントリで私が声を大にして言いたいのは、「イタリア軍兵士には、ドイツ兵や日本兵やイギリス兵やソ連兵やアメリカ兵と同様、同程度の戦う理由なんかなかった! むしろ戦いたくもない理由の方が強烈にあった! だから戦わないのが当たり前だ!」と思う、ということです。

 被侵略側は強烈な「戦う理由」を持つのが普通ですし(アメリカ人にしても、ヨーロッパに対しては被侵略側とは言えないまでも、枢軸国というくくりで言えば「真珠湾を忘れるな」と思っていたわけで)、侵略側でも当時のドイツ国民はヴェルサイユ条約やポーランドや共産ソ連に対して強烈な敵愾心を持っていたでしょうし、日本もアメリカに対して強烈な被害者意識を持っていました。ところが当時のイタリア国民は、同じカトリック国であるポーランドや、昔からの友邦国である英米や、南イタリアからの移民が多くいたアメリカに親近感を感じる人が多くいる一方で、ドイツに対しては親しみよりは「第一次世界大戦でひどい目に会わされた」とか「現在のヒトラー政権はイタリアを尊重せず勝手なことばかりしている」とかで「むしろ嫌い」という感覚だったらしいのです。また、共産主義ソ連に対しては、イタリアの上層部(王族や資本家)は敵愾心を持っていたのですが、当時工業がまだ盛んでなく農業ばかりだったイタリア各地から来た一般兵達はウクライナなどの現地農民と感覚が近く、すぐに友達になれたそうです。


 イタリア人全体の、戦争への気乗りのしなさや士気の低さについて、『大いなる聖戦』ではこのように書かれています。

 【ムッソリーニ政権が上辺だけを飾り無能であったこと、イタリア軍の士官レベルで見られた弱点、兵器・装備が惨めなほど時代遅れ、という】このような構造上及び物質面での弱点をさらに悪化させていたのが士気の低さであった。それは【前記の】三つの要素に起因するものではあるものの、いずれにせよ、1940年当時イタリアでは国民全般が戦争に対して無関心な態度を示すという結果となって顕れることとなる。イタリアの民衆は、ムッソリーニが宜戦布告を発表した当初こそ愛国心を爆発させて応えたものの、戦争をすること自体には熱意を示さず、取り分け、イタリアにとって古くからの敵であったハプスブルク帝国の衣鉢を継ぐオーストリアを併合したドイツの側に立ち、旧来からの友邦(である英米)を敵として参戦することは気の進まないことであった。実際、イタリア人の多くは戦争そのもの、そして参戦の時機に戸惑いの意を隠さず、イタリア南部からの米国移民が多かった当時の実情のため、1941年12月になって米国が敵国のリストに新たに名を連ねた時には、それを喜ぶ者などほとんどいなかったのである。次に、1940年当時ムッソリーニが政権を掌握してから20年近くになっていたにもかかわらず、ファシズムがイタリア社会に確固とした根をおろすことがなかったことが挙げられる。これは、ドイツのナチズムと異なり、イタリアのファシズムが実際には思想的基盤を持たず、民衆へのアピールに欠けるもので、単にムッソリーニの狡猾さと機会主義的姿勢を推し進めるための隠れ蓑に過ぎなかったためである。このため、イタリアの一般大衆はドゥーチェとファシズムのために命を的にして戦うような心情は有していなかった。そして第三に指摘できるのは、1940年に参戦する以前からイタリアがほぼ確実に、本当の意味での厭戦気運に取り遷かれていたことである。イタリアが1935年以来推し進めていた戦争と対外積極政策の中で、イタリア国民は相当程度の犠牲を払うことを求められており、他のいかなる国とも同様に、6年間も戦い続けることなど耐えられるものではなかった。そして、キレナイカや東アフリカに駐留していた伊軍将兵は、ムッゾリーニが開戦以前にロにしていたことを字義通りに受け止めていたようである。即ち、アフリカにおける植民地獲得競争でイタリアが得たのは砂漠だけであったとムッソリーニは1939年以前に頻(しき)りに不平を述べており、自国の植民地が価値のないものであるとの内意を込めた指導者の発言を耳にしていた伊軍が、その地を守るため最後の一兵まで戦うよう鼓舞されることなどほとんどあり得なかったのである。伊軍の一般兵士にとって、アビシニア【エチオピア】防衛のために命を投げ出す謂れなどなく、このような実情であったため、英軍がアディスアベバ【エチオピアの首都】を1941年4月6日に無血占領したことは何等驚くに値することではなかった。
『大いなる聖戦 上』P232~4



 逆に言えば、一般民衆をして命を賭して戦うような心情に持っていけていた当時のドイツと日本は、ある意味すごいのかもしれまんが……?


 あと思うに、当時のイタリア軍(兵)と同様の「侵略側なのに、戦う理由がない、戦いたくない。だから戦いになってもすぐ逃げるし、降伏する(短時日での火事場泥棒だけならOKだけど。そして上役が憎い。敵とすぐ友達になれる)」というようなキャラクターやシチュエーションが多分、世の中にぱっと思いつかないようなものであることも、当時のイタリア軍兵士達の「戦う意志」についてイメージしにくいようになってしまう理由なのかも。

 有名なものでそういうキャラクターっています……?


 個人的に「……あっ!」と思いついたのが、最近ハマった『悪魔のメムメムちゃん』という作品の主人公メムメムは、悪魔で人間の欲望を刺激して魂を取らなければならないのですが、ポテンシャル的に全然向いてなくてまったくうまくいかず、侵略側なのにすぐ諦める、すぐ調子に乗る、という辺りはイタリア軍と似てるかも……?

 ↓こちらからある程度無料で読めます。
[0話]悪魔のメムメムちゃん



 最後に、今回の資料について挙げておきます。


オストロゴジスク=ロッソシ作戦時のフェーゲライン戦闘団について(付:OCS『Case Blue』『GBII』)

 『On a Knife's Edge』ですが、ついにオストロゴジスク=ロッソシ作戦の箇所に入ってきたのですが、以前書いてましたフェーゲライン戦闘団について未知の話がちょこっと出てきたので興味を持ちました。


 オストロゴジスク=ロッソシ作戦については↓とか。
リトルサターン作戦後の連続攻勢でクルスク突出部を形成したのですね (2017/11/04)

 上記エントリで挙げてましたOCS『Case Blue』『Guderian's Blitzkrieg II』の地図での、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の範囲も挙げておきます。

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 赤い線が小土星作戦終了時に形成された新たな戦線で、オストロゴジスク=ロッソシ作戦によって緑色の戦線にまでなります。



 フェーゲライン戦闘団について以前書いていたものは↓こちら。
OCSユニットで見るユダヤ人を大量虐殺したフェーゲラインのSS騎兵部隊 (2018/09/11)


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 ↑OCS『Case Blue』のフェーゲライン戦闘団ユニット(上段が戦闘モード、下段が移動モード)。



 『On a Knife's Edge』の地図にはフェーゲライン戦闘団の配置も載っていました。一部のみ切り取ってみます(「Feg」とあるのがそうです。P223)。

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 さて、その記述ですが、フェーゲライン自身についての様々な醜聞的な話の後……(ただし、フェーゲラインの民間人虐殺はヒムラーによってある程度強いられたものであったような記述が興味深かったです)。

 1942年のかなり長い期間【4月~11月】、前線から離れていたフェーゲラインであったが、その年末の冬【12月1日】にSS騎兵のある旅団【とあるが、「フェーゲライン戦闘団」のことか?】の指揮を執るために戻ってきていた。だが彼はすぐにソ連軍の狙撃兵に撃たれて負傷し、そのため彼は1943年初頭の、ドイツB軍集団に対するソ連軍の大攻勢の時期には指揮を執っていなかった。彼の部隊は普段、民間人の大量虐殺を行っていて、ソ連軍との戦いに慣れていなかったのだが、気が付くと戦いの真っただ中にいた。尤も、フェーゲラインの不在が彼の部隊が戦闘を行うのに支障をもたらした……ということはありそうにない。なぜならフェーゲラインは軍事訓練を全く受けておらず、実際の戦闘の経験もあやしげだったからである。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P222


 さらに、1月13日にオストロゴジスク=ロッソシ作戦が始まると……。

 この日【1943年1月14日】が終わるまでに、このSS騎兵部隊【フェーゲライン戦闘団】と第387歩兵師団は包囲されてしまった。いささか予想されたことであったが、フェーゲライン戦闘団の騎兵達は、ハンガリー軍の諸部隊ほども戦闘においては頼りにならず、あっという間に打ち負かされてしまった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P230



 「ハンガリー軍部隊よりも頼りにならなかった」とは……(^_^; 『Case Blue』ではアクションレーティングが3になってますが、もっと低くても良いのかもですね。


 更に、以前入手していた、オストロゴジスク=ロッソシ作戦についてある程度詳しいはずの『Rollback:The Red Army's Winter Offensive Along the Southwestern Strategic Direction 1942-43』にもフェーゲライン戦闘団について記述がないか索引で見てみたところ、ありました。

 第12戦車軍団は、頑強に守備されているミトロファノフカ【カンテミロフカとロッソシのちょうど中間あたりの町】を西から迂回して、途中その道を退却中の敵部隊を蹴散らしつつ、この日【1月15日】の終わり間際までにその主力でもって南からロッソシの町に到着した。第12戦車軍団の左側面は第106戦車旅団が前衛を務め、Arkhipovka【不明】の方向より側面機動によってロッソシに突入し、その町の西側に退却してきてそこを守備していた「フェーゲライン戦闘団」の部隊と戦闘が始まった。
『Rollback:The Red Army's Winter Offensive Along the Southwestern Strategic Direction 1942-43』P206

 【1月16日?】ロッソシの町を守っていた「フェーゲライン戦闘団」の残余部隊は、東へと退却した。
『Rollback:The Red Army's Winter Offensive Along the Southwestern Strategic Direction 1942-43』P220

 この日【1月18日】、第3戦車軍の右側面の諸部隊は、第18歩兵軍団の第270歩兵師団と共に、おおむね完璧にロッソシの東側の敵部隊を包囲した。イタリア軍の第4アルピーニ師団「クネーンゼ」と第3アルピーニ師団「ジュリア」、ドイツ軍の第385歩兵師団と第387歩兵師団、それに「フェーゲライン戦闘団」の残余が包囲され、その総計は4個師団相当であった。
『Rollback:The Red Army's Winter Offensive Along the Southwestern Strategic Direction 1942-43』P223



 と、ここまでは索引で割と容易に調べられるのですが、この包囲環がいつどうなったかに関する記述を探すのは大変そうなので、パスで……。

 『Rollback』のオストロゴジスク=ロッソシ作戦の地図(P197)には、ロッソシの東側にその包囲環も示されています。印刷が細かすぎて読みにくいのですが、そこだけ切り取ってみます。

unit9981.jpg


 西に退却するのではなく、東にしか退却できなかったあたり、絶望感がかなりあったでしょうが……。


<2019/07/24追加>

 その後『On a Knife's Edge』を読み進めていると、フェーゲラインの騎兵部隊(原文は旅団)の多くがロッソシの北西で包囲されて降伏したという記述がありました。『Rollback』では東とありましたが、バラバラになって退却したものでしょうか。

 ドイツ軍の第387歩兵師団の生き残りは、イタリア軍が膨大な血であがなった峰を越えることができたが、一緒に行動していた第27装甲師団の一部やフェーゲラインSS騎兵旅団の多く、それにこの【第387歩兵?】師団の大集団は、気が付くとLenislichanskyにあったソ連の集団農場内や周辺で、ソ連軍部隊に包囲されてしまっていた。弾丸は尽き、寒さと飢えで、これらのドイツ軍部隊は降伏するより他なかった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P242,3



 ↓同書P242の地図の一部

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 「Len」とあるのがLenislichanskyです。

 この時、ドイツ軍の第24装甲軍団司令官であったJahrという将軍が降伏するより自決を選んだそうです。この将軍は直前に第387歩兵師団長から(軍団長の死亡により)第24装甲軍団長になったばかりでした。そしてJahrの次の第24装甲軍団司令官はイタリア軍兵士が間違えて投げた手榴弾で足を失って数日後に失血死し、1週間弱の間に第24装甲軍団司令官は4人替わったそうです……。

OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第3ターン

 OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイの第3ターンをプレイしました。


 イニシアティブは連合軍が取り、(ダブルターンのために)後攻を維持し、先攻は枢軸軍に。天候はノーフライト。



 ↓第3ターン終了時、南方戦区。

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 枢軸軍側は画像の右上の方で圧力をかければ得られるものが多そうと思って、唯一の司令部と、なけなしの予備兵力とSPも注ぎ込んでこの方面にユニットを回したのですが、連合軍ターンになってみると連合軍は部隊を「ひょい」と下げて、増援を「ひょい」とこの方面に送ってきて、うーん、枢軸軍側のプレイはミスったか……?



 ↓同、北方戦区。

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 ノーフライトで航空爆撃ができないこともあって攻撃は見送ったのですが、「飽和」「浸透」が始まっています。次のターンか次の次のターンには攻勢を開始できそうです。天候が晴れると良いのですが……。あと、航空基地のレベルアップが全然間に合いません(^_^;



OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第2ターン

 OCS『Tunisia II』キャンペーンのソロプレイ第2ターンをプレイしました。


 イニシアティブは枢軸軍が取ったのですが、南方地区における重要拠点であるガフサを「先攻を取った方が占領できる(後攻になった方が取り返すのは苦しい)」という状況であったのを鑑みて、枢軸軍が先攻を取ることにしました。そうすると連合軍に後攻を与えることになり、今後の大攻勢でダブルターンを与えることになるわけですが……。



 ↓その南方地区の第2ターン終了時。

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 画像中央からやや左下にガフサがあります。ガフサは、カセリーヌの戦いの時にロンメルが出撃した辺りでもあります。

 連合軍はやむを得ず、フェリアナとカセリーヌは確保するように部隊を機動。枢軸軍側はあわよくば更に支配地域を拡大すべくSPも送り込んでいるのですが、オプションルールの「独立ユニット」を導入しているので独立ユニットだけで攻撃するとSPが2倍必要なのを忘れていました(^_^; そうするとあくまで機動のやりあいだけで終わりですかねぇ……。



 ↓北方戦区。

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 戦線に動きはありませんが、連合軍側にSPが大量に届き始めているのに対して枢軸軍側のSPは本当にギリギリです。

 滑走路をこのターンも前に出せて良かったのですが、早く司令部が到着して航空基地のレベルアップをしたいところです。


冬の嵐作戦を撃退しコテリニコヴォに入ったソ連軍の様子(付:OCS『Case Blue』『GBII』)

 読了した第二次世界大戦ブックスの『スターリングラード ヒトラー野望に崩る』と、読んでいる途中の『On a Knife's Edge』の両方に、冬の嵐作戦を撃退してコテリニコヴォに入ったソ連軍が戦勝を祝う様子が描かれていて印象深かったので、書き出してみたいと思います。


 まずは『On a Knife's Edge』から。ヴァシレフスキーの回想録からのようです。

 第7戦車軍団がコテリニコヴォを占領してすぐにヴァシレフスキーはこの町を訪れたが、それは忘れられない価値あるものとなった。なぜならコテリニコヴォの占領は、ドイツ軍がスターリングラードに到達することに失敗したということであり、同時にそれゆえに赤軍にとって大きく祝うべきことであったからである。

 その夜は満天の星明かりであった。澄んだ月明かりが凍結した草原に降りそそいでいた。コテリニコヴォの暗い家々のそこかしこで、煙草の先端の微かな光や、あるいはライターの光が揺らめいていた。時折、遠方から機関銃の短いダダダダという音が聞こえた。私は肺一杯に、我が故郷の素晴らしい冬の空気を吸い込んだ。勝利の喜びが私の心を満たし、そう遠くないカスピ海からのそよ風は頬にピリピリと当たり、それが近い未来に我々にもたらされるであろう大きな成功の予兆を表しているかのようだった(注15:Vasilevsky, Lifelong Cause. P.224)。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P204




 ↓OCS『Case Blue』の冬の嵐作戦の行われた地域。

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 ↓OCS『Guderian's Blitzkrieg II』に入っている第7戦車軍団。

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 なおOCS『Case Blue』のシート1には第62、第87戦車旅団ユニットだけが入っているのですが、シート9が「GBII Repeat」になっており、上記すべてが入っています。能力値には違いがないようで、なぜそうしたのか……? 第7戦車軍団のアクションレーティングは高めで素晴らしいですが、第7自動車化歩兵旅団以外の3ユニットは、移動モードだとアクションレーティングが1下がります(>_<)


 次に、『スターリングラード ヒトラー野望に崩る』から。第2親衛軍の参謀長ビリューゾフの回想録からなのでしょうか。

 1942年の最後の日、第2親衛軍司令部でいそがしくはたらいていた参謀長ビリューゾフ少将のところに、第7戦車軍団長ロトミストロフ中将のところから一人の将校がやってきた。かれは新年のパーティの招待状をもってきた。この参謀長は、どちらかというと、きまじめな人だったので、パーティなどとは不謹慎きわまる、とおもったが、おもいなおして、真夜中ちょっとまえに、コテリニコボにある第7戦車軍団の司令部にむかった。
 その途中、焼けただれたドイツ軍戦車のそばをとおった。なにげなくこれに懐中電灯をむけてみると、その戦車はダークイエローの砂漠用の塗装であった。アフリカのロンメル軍におくられるように塗装された戦車だ。肩をすくめて、かれは通りすぎた。
 ロトミストロフの第7戦車軍団司令部にはいって、ビリューゾフはびっくりして足をとめた。そこには高級指揮官たちが、みんないるではないか。参謀総長のワシレフスキーまでいる。
 テーブルの上には、いろいろな果物、フランスのワイン、オランダのチーズ、デンマークのバターとベーコン、ノルウェーのかんづめのいろいろ。みんな“ドイツ人にだけ”と印がついていた。ロトミストロフが口をきった。
「われわれの兵士は、ほとんどみなドイツ語が読めないので、これをぶんどってきたのだ。だが、ローソクだけはヒトラーにおくりかえさなければならんな。第6軍の葬式につかわせるためにね」
 この数日前、第6軍もクリスマス・ディナーのお祝いをした。メニューはパン150グラム、肉75グラム、バター30グラム、コーヒー30グラムであった。

『スターリングラード ヒトラー野望に崩る』P180



 ちなみに、『On a Knife's Edge』で前掲のページのちょっと前に、第6装甲師団の一部部隊もクリスマス・イブを祝えたことについて描いてありました。

 ラウスの師団【第6装甲師団】の一部の部隊はクリスマス・イブに、Potemkinskayaの町の中で何とか短い休息を取ることができた。そこにはドン川を渡るための橋が組み立てられており、彼らは割り当てられた少量の、砂糖入りの暖かいワインを飲み、師団の楽隊が演奏するクリスマス・キャロルを聴いたのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P198


 「Potemkinskaya」というのは、ニジネ・チルスカヤの少し南の、ドン川の東岸であるようです。

 ソ連軍の輝かしい勝利と、ドイツ軍の置かれた厳しい状況が対比的ですねぇ……。


OCS『Tunisia II』キャンペーンソロプレイ第1ターン

 OCS『Tunisia II』のキャンペーンソロプレイを始めました。


 ソロプレイを始めた経緯については↓こちら。
尼崎会用の部屋の隣の部屋で『Tunisia II』→『DAK-II』を広げるように…… (2019/06/23)


 プレイ前に、基本的な方針を立てました。

・両軍とも、できる限り予備モードにするユニットを作る。
・枢軸軍は東側の海岸通路を絶対的に保持する(リビアから逃げてくるDAKを回収できるようにするため)。
・連合軍は航空基地の建設、レベルアップを早めに行う。
連合軍は第5~6ターン(11/29~12/1)頃に大攻勢を行う予定で行動し、最初先攻から始まるのをそれまでに後攻を取ってダブルターンを狙う。最初の数ターンはそれほど無理せず、攻勢準備&建設をメインに行う。


 あとプレイ中に気づいたこととしては、「滑走路」は両軍とも、一番価値が低めの場所にあるやつは空にしておいた方がいいですね。そうしておけば補充のダイス振りで高い目が出ると、滑走路を移動させられるので。あと、航空ユニットの数に比べて航空基地の数が少ないので、普通はそれぞれの航空基地に整備可能な数しか航空ユニットを置かないことが多いのですが、むしろスタック制限ギリギリか、それをちょっと超えても置いた方がいいと思いました。



 ↓第1ターン終了時の北方戦区。

unit9993.jpg

 連合軍は滑走路を前方へと移動できて、それは良かったのですが、簡単に警戒空域を引っぺがされた挙げ句、最も戦力が充実しているスタックへ爆撃を食らって1ステップロスとなってしまいました(一番海岸に近い、DGマーカーが載っている箇所)。


 ↓壊滅したユニット。

unit9991.jpg

 連合軍としてはまずここから戦力を溢れさせて(飽和させて)いこうと目論んでいたのですが、いきなり目論見が外れてしまいました(>_<)




 ↓南方戦区。

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 連合軍は積極的に東進し、アルジェに控置されていた空挺ユニットも空輸してこちらの方面に投入。枢軸軍側も負けてられじと、スファックスとガベスの守備隊から(弱体ながら)1ユニットずつを予備モードフル活用で西進させ、ベルサリエリ自動車化歩兵連隊を北方戦区から回すと共に、シチリアから空輸で2ユニットを持ってきました(画像右上の○と、画像右端のスファックスからの1-4-5ユニット)。

 ただ、連合軍が新たに1ユニットを南方に回しただけなのに、枢軸軍は新たに3ユニットを南方に回していて、北方では枢軸軍はまったくのかつかつという感じです(^_^;



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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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