FC2ブログ

なぜ東部戦線の黒シャツ隊はまだしも優秀であったのか?(付:OCS『Case Blue』)

 しばらく読むのが止まっていた『On a Knife's Edge』の続きを読み始めているのですが、その中に東部戦線の黒シャツ隊について、興味深い記述がありました。ソ連軍の小土星作戦により、イタリア第8軍が過酷な撤退戦を強いられている時の話です。

 『On a Knife's Edge』についてはこちら↓
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を買いました (2018/10/26)


 多くのイタリア正規軍将校と同様に、コルティは黒シャツ大隊を軽蔑の眼で見ていた。だが、この退却中の彼らの振る舞いはコルティの黒シャツ隊への見方を改めさせることになった。黒シャツ隊の将校らは退却する他のイタリア軍兵士らと一緒に徒歩で、範を示しながら率い、そして退却路を切り開くために戦うことを厭わなかった - 対照的に、イタリア正規軍の多くの将校達は、兵士らを捨ててどこかへいなくなってしまっていたのだ。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P201



 関連エントリ↓
OCSのユニットで見る黒シャツ隊 (2017/01/31)
黒シャツ隊(ファシスト義勇軍)とイタリア正規軍との間のいさかい (2017/09/02)
『On a Knife's Edge』で見る東部戦線のイタリア軍のよもやま話 (2019/01/01) (コルティについてはこちらに)
OCS『GBII』『CB』:『On a Knife's Edge』による小土星作戦でのイタリア第8軍の崩壊 (2019/02/16)

 ↑この前者2つで、東部戦線における黒シャツ隊は他の黒シャツ隊よりも優秀であった旨が少し書かれていました。例えば以下のような。

 多くの学者によれば、第二次世界大戦における黒シャツ隊の能力は、ドイツの同等の部隊に比べて一般的に常に劣っていたが、しかしロシアに送られた黒シャツ隊は唯一の例外であったという。このことによってやや評価は上がるものの、黒シャツ隊の装備と訓練は、その組織構造と同様に、ドイツ軍部隊のそれよりも平均的に劣っていたということを忘れるべきではない。
『Rommel's North Africa Campaign』P42




 ↓OCS『Case Blue』の黒シャツ隊

Blk08_20190628094301f23.jpg

 アクションレーティング3は「強い」……というほどではないにしても、OCSにおける通常レベルです。他の黒シャツ隊が1とかであるのに比べれば優秀と言えます。
 


 そこらへん、なぜ東部戦線の黒シャツ隊はまだしも優秀であったのか気になったので、なぜかネット上にpdfが落ちている『Italian Blackshirt 1935-45』で理由を探してみたら、ありました。

 黒シャツ隊の最も豊富な一連の記事が、東部戦線においてのものであることは偶然ではない。共産主義ソヴィエト連邦に対する戦いは「使命」であると見なされ、単なる「ある種の冒険」などではなかったのだ。このイデオロギー上の対立の存在が、黒シャツ隊の兵士らがその地で出会うことになった非常に困難な状況を乗り越えさせることになり、さらに重要なことにはこの敵と戦うために彼らには充分な武器と装備が与えられていたのである。それ故ロシアの極寒や、優勢な敵に対する厳しい戦いや、あるいは被った激しい損失も、そこで戦った黒シャツ隊達に恨みを生じさせることはほとんどなく、むしろ彼らの間に見られたのは勇敢な振る舞いや英雄的な奮闘であった。
『Italian Blackshirt 1935-45』P54


 「反共産主義」が東部戦線の黒シャツ隊の強いモチベーションになっていたのですね……。

 日本語版Wikipedia「反共主義」にはこうありました。

ファシストはナショナリズムの立場から、国家や民族を階級闘争によって分断するとの理由で資本主義と共産主義の両方を批判し、第三の位置として階級協調を主張した。

多くの歴史学者はファシズムをヨーロッパにおける共産主義や社会主義の台頭への反動とみている。ベニート・ムッソリーニによって創立され指導されたイタリアのファシズムは、多くの保守主義者に共産主義者の革命が避けられないとの恐れを与えた左翼による騒動の数年を懸念する国王の願いによって、政権を得た。ヨーロッパ中で、資本主義者や個人主義者だけではなく、多くの貴族や保守主義者や知識人が、ファシストの運動に援助を与えた。



 逆に言えば、イタリア正規軍の将校や兵士達には「反共産主義」というようなモチベーションは高くなく、士気が低かったことあたりに関することは今鋭意資料準備中なんですが、しかし他の戦線のイタリア軍でもそうだったようですが、「指揮官や将校がまず逃げる」のはなぁ……。


スポンサーサイト



OCSユニットで見るソ連軍とドイツ軍の「海軍歩兵」

 結構前にメルカリで購入していた第二次世界大戦ブックスの『スターリングラード ヒトラー野望に崩る』を読了したんですが、その中にソ連軍の「海軍歩兵」について興味深い記述がありました(この本ですが、スターリングラード正面軍司令官のエリョーメンコと、第62軍司令官のチュイコフに焦点をあてたような感じになってまして、なかなかに読みやすく面白かったです)。





 市【スターリングラード】の内部地区の大部分は、ドイツ軍の手におちていた。だが南の郊外には、一つの大きな穀物倉庫があり、ここは約30人の親衛師団の兵士と18人の“海軍歩兵”(海兵隊ではない。兵力不足を補うために、大本営が陸戦用に転用した水兵である)がまもっていた。この水兵部隊は、どこでも評判がよかったが、この穀物倉庫を守備した兵士たちの大部分は、北極海艦隊の水兵で、とくにがんきょうな兵がそろっていた。
『スターリングラード ヒトラー野望に崩る』P104,5




 これまでに『Enemy at the Gates』や『Case Blue』でスターリングラード包囲環が含まれたシナリオやキャンペーンをプレイしている時に、スターリングラード市の南辺りに確かに複数の海軍の兵科マークのユニットがあり、アクションレーティングも高めで頼りになって結構印象的でした。


 VASSALの『Case Blue』&『Guderian's Blitzkrieg II』モジュールのウラヌス攻勢キャンペーンのセットアップから、スターリングラード周辺の海軍歩兵ユニットを探してスタックの一番上に置いてみました。

unit9996.jpg

 アクションレーティング4のユニットが2つでしたが、ソ連軍歩兵師団のアクションレーティングが0、1、2だらけの中で、4は驚異的な優秀さです。

 尤も、『Case Blue』の海軍歩兵全体を見てみると、3がほとんどで、4は中でも優秀なやつということになりましょう。しかし3でも当時のソ連軍の中では非常に優秀と言えます。


 ↓『Case Blue』の海軍歩兵ユニット。

unit9998.jpg



 ↓『Guderian's Blitzkrieg II』の海軍歩兵ユニット。

unit9997.jpg



 ↓『Baltic Gap』の海軍歩兵ユニット(スキャンしてないので、BoardGameGeekから)

unit9994.jpg




 他に何か資料はないかと思って検索してみましたら、英語版Wikipedia「Naval Infantry (Russia)」というのがありました。それによると……。

Soviet naval infantry m43 uniform

 ↑海軍歩兵部隊の軍服(Wikipediaから)


 第二次世界大戦中には、約35万名のロシア海軍水兵が陸上で戦った。戦争が始まった時には、海軍はバルチック艦隊にわずか1個海軍歩兵旅団を持っていただけであったが、その後他の大隊の編成や訓練が始まった。最終的には、

・6個海軍歩兵連隊が、各々650名より成る大隊2つから編成された。
・余剰の船員から、5~10個大隊から成る40個海軍歩兵旅団が編成された。うち5個旅団は「親衛」となった。
・1個師団(第55)。前身は赤軍部隊。
・プラス膨大な小規模部隊。

 当時の軍事的な状況により数多くの海軍歩兵が陸上に配置されて、オデッサ、モスクワ、レニングラード、セヴァストポリ、スターリングラード、ノヴォロシスク、ケルチの防衛に寄与した。





 ちなみに、OCS『Beyond the Rhine』にはドイツ軍の海軍歩兵(?)ユニットが入っています。これも戦局ゆえのことでしょう。

unit9995.jpg

 「Brkdwn」とあるのは、左上の③とある3ステップを持つ複数ステップ師団用の分遣連隊ユニットです。「Alert」とあるのは警戒部隊で、他の国防軍の警戒部隊ユニットと混ぜられてランダムに登場します。

 すべてアクションレーティング3で、割と使えるような気がします。海軍の兵士達は、ソ連でもドイツでも質は高めだったということなのでしょうか。


<2019年7月13日追記>
 第2海軍歩兵師団についての記述を収集していたのに気付きました。引用します。

 1945年4月のブレーメン南方における第2海軍歩兵師団の投入は、その典型例のひとつである。この師団はもはや余剰となった艦船乗組員から構成されていたが、地上戦の経験はなかった。訓練も武器も不十分だったが、にもかかわらず彼らは精力的に、大きな損害を蒙っても戦った。
『兵士というもの』P289




尼崎会用の部屋の隣の部屋で『Tunisia II』→『DAK-II』を広げるように……

 ちょっと前にワニミさんとの間で「尼崎会でOCSのビッグゲームのキャンペーンを2人で普通に対戦方式でプレイするとしたら、待ち時間が結構あるよね~」という話になりました(我々はOCSのビッグゲームをやる際には、片方の陣営を全員でプレイする「松浦方式」でOCSをプレイしています)。

 そこで私が、「それじゃ、隣の部屋にもマップを何とか広げてられると思うので、そちらで待ち時間中に別のOCSをプレイするようにすれば……!?」という案を出しました。つまり例えば、Aの部屋で『Beyond the Rhine』を連合軍=私、ドイツ軍=ワニミさんでやるとして、私が連合軍の移動フェイズ(移動フェイズが最も時間がかかります)をプレイしている間、Bの部屋で『DAK-II』の連合軍=私、枢軸軍=ワニミさんだとすれば、同時にワニミさんはその部屋で枢軸軍をプレイしている、と。で、逆にAの部屋でワニミさんが移動フェイズをプレイするタイミングでは、私がBの部屋で移動フェイズをプレイしているようにする……というようなことです。

 「結構いい案ではなかろうか」&「そうすればなかなか立ち上げられなかった『DAK-II』キャンペーンがBの部屋で無理なく(?)できるのではないか」とも思ったのですが、試しにその隣の部屋で『DAK-II』の第1次エル・アラメインシナリオをワニミさんとプレイしてみたところ……。

1.2つの部屋でやっている別々のOCSゲームの特別ルールや地形による移動コストが頭の中でこんがらがってしまう。
2.隣の部屋というのが仏壇のある部屋なので、客側としてはそこでゲームをやるというのは気が引ける。


 という2つの理由で、「やめておいた方がいいですね」となってしまいました(^_^;
(ちなみに、なぜそんなに部屋に余裕があるのかというと、昔は8人とか一緒に住んでいた一軒家なのですが、家人が独立したり他界したり入院したりで、今は2人しか住んでいないからです)


 で、私もちょっと諦めていたのですが、最近になって考え直しました。自分一人でソロプレイする分には、気が引けるとかはないし、ルールがこんがらがるのも何とか克服できるだろう。だから、人生の夢である『DAK-II』キャンペーンをとりあえずソロプレイでもいいから、その隣の部屋でやってみればいいではないか、と。

 私は、自分は長生きをせずに早めに死ねる方がいい/いつ死んでもOK/死ぬような病気になったらそのまま治療せず死ぬつもりと思っている(例えば『「長生き」が地球を滅ぼす』という本などオススメです)のですが、ある意味それだからこそ、人生においてやってみたいと思っていることを「いつかできるかも/できるだろう」と思ったまま放置しておくよりは、結局はダメかもしれないけど、やろうとしてみた方がいいじゃないか、と。





 今日たまたま見つけたネットニュースですが、↓こういうのもありました。共感しますわぁ~(^^)

日本より貯蓄率が低いイタリア、平気で生活を送れる理由



 ただ、『DAK-II』をいきなりやるのはちょっとハードルが高い(マップ数&特別ルールが多い)ので、その前段階として『Tunisia II』キャンペーンをやってみようかと。で、『Tunisia II』なり『DAK-II』なりをソロプレイでもいいからやっていれば、それを見た人がちょっとでも興味を持ってくれるかもしれませんし、さらに夢に近づくかもです。


 で、昨日からごそごそテーブルを組み立てたりしてまして……。


unit00598.jpg

 画像の右側の部屋が仏間なのですが、奥に見えているタンスがあるままでは、机3つ(フルマップ3枚)が限度なので、キャンペーンのためにはフルマップ4枚(できれば5枚)が必要な『DAK-II』は無理だということが分かりました。ので、このタンスを別の部屋に移してしまいました。



unit00599.jpg

 これで『DAK-II』のフルマップ4枚は一応大丈夫じゃないかと。


 テーブルはちょっと前に↓を購入していたのを今回組み立てたのですが、なんか値段が以前より高くなってる?




 黒色の方を見てみると、そちらの方が安いので、まあ黒色でもいいかな、と。




 この90cm×60cm×高さ70cmというテーブルのサイズは、フルマップ1枚を載せるのにちょうどいい大きさで、非常にオススメです。ただ、このサイズのテーブルは色々なものが出てると思うのですがまったく同じ種類のものを買わないと微妙に高さが違っていて、ビッグゲームをやる場合には用をなしません(>_<) そして同じ種類のものは経験上その内に販売終了してしまうので、必要な分をまとめて買っておかなければならない……。

 実際、尼崎会用の部屋のテーブルは以前近所の店で見つけて5つまとめ買いしたのですが、その後販売終了してしまい、そして今回購入したテーブルとは微妙に高さが合いませんでした。

 あと、今回買ったこの「TY-9060」はテーブルの角が直角で、フルマップ4枚を格子状に繋げる場合などは、角が丸いやつ(以前買ったやつは丸いやつでした)よりも良いですね。ただ、テーブルを運ぶ際には角をぶつけるとぶつけられた側に傷がいきそうで注意かと思いました。


 ともかくも、試しにやってみようと思います。あともう1つの人生の夢は、OCS『Case Blue』用の小土星作戦キャンペーンセットアップを作ること&オストロゴジスク=ロッソシ作戦シナリオセットアップを作ること&プレイすること、です。こちらもおいおい着手していきたいですが、他に細々やりたいこと(北アフリカ戦線の指揮官まとめとか)もあるので、機を見つつ……。


OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第4ターン先攻連合軍

 尼崎会(拙宅)で、OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーンの第4ターン先攻連合軍をワニミさん、肉入り鍋さん、私の3人でプレイできました。



 ↓先攻連合軍ターン終了時の北方戦区。

unit00596.jpg

 イギリス連邦軍がアルベール運河を越えて北へとなだれこみ、赤い○で示した空挺降下部隊と手を繋ぎ、あまつさえそれより北へ進んでロッテルダム方向へ。その先にはドイツ軍部隊が全然いない状況ではあるのですが、この後ドイツ軍ターンが来るのは確定しており、しかもドイツ軍のダブルターンの可能性もあるので、ライン川を越えるというところまではいかないかどうか……? 史実とは方向が異なりますが、展開としては結構史実に近いのかもです。




 ↓同、南方戦区。

unit00597.jpg

 画像右下の方でアメリカ軍部隊がライン川に接した(緑色の矢印)のですが、リアクションフェイズにドイツ軍が装甲旅団で首元を切りにきて(赤色の矢印)、あっさり切られた挙げ句にその下にいた司令部が丸裸になるという失態(T_T) 次のドイツ軍ターンにはこの司令部は必ずや踏まれることでしょう……。その他の戦区では、フランス軍とアメリカ軍の混合状態をほどいたり、バラバラになってしまっていた機甲師団をまとめたりするので精一杯で、戦線に変化なしでした。


 今日のプレイで、連合軍の空挺降下が起こるとドイツ軍の本土防空部隊と緊急プールの戦闘ユニットがわらわら湧いてくるとか、ライン川でポントゥーンに何ができるかとか、他細々としたことが確認できて良かったです。



 次の尼崎会の6月30日(日)は、肉入り鍋さんが来られないとのことなので、OCS『Beyond the Rhine』はお休みして、ワニミさん所有の冬の嵐作戦ゲームのいずれかを試しにプレイしてみようという話になってます。

『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を読了しました

 『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を読了しました。





 ナチスが人種差別主義で、ホロコーストなどの悲惨な行動を色々としていたことはもちろん巷間知られているわけですが、この本はむしろ、「ナチスの目標は徹頭徹尾、人種差別主義(優生主義)に基づいて絶滅させるべき人種を滅ぼし、その空いた土地にドイツ人のための生存圏を確立することだった。戦争はその為に起こされたのであり、そしてその目標以外のことはナチスにとってはまったくどうでもいいことだった。」というようなことが書かれているように思いました。

 私はこれまで、そこまでの認識はなく、「悪=黒」「悪というわけではない=白」とすると、ナチスは「基本グレーの中にところどころ黒い部分がある」くらいの感覚でいたのですが、この本の感覚からするとナチスは「恐るべき真っ黒」という感じがしました。尤も、ヒトラーは東方に生存圏(レーベンスラウム)を求めたことについて、アメリカは西部のネイティブアメリカンを絶滅させてそこに生存圏を得たのに、ゲルマン民族がそれをして何が悪いのかという感覚であったらしいですし、人種差別は当時どこの国でも大なり小なりあったことではあります。

 また、「国防軍神話(ナチスが悪かったのであって、国防軍は完全に潔白であったという神話)」に対して、国防軍の将軍達、具体的にはヘープナーライヒェナウ、そしてマンシュタインなどが東部戦線で人種差別的・人種撲滅的な命令を出していたり、あるいは一般の兵士達もナチスのプロパガンダやナチスから受けた恩恵、歴史的な恨みやあるいは前線での余りの厳しさによって東方の人種自体を消滅させていくのが当然と考え、そして実行していくようになっていく……。

 国防軍神話に関する指摘はちょっと前から大木毅さんの記事などでいくらか読んでいましたが、『Sacrifice on the Steppe』による具体的記述などで私は本当にショックを受けました(→東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17) )。これらのことを知る前には私もご多分に漏れず国防軍について「真っ白」というイメージを持っていたと思うのですが、もちろんこれらの蛮行に反対であったり嫌悪感を感じた将軍や兵士達がたくさんいたものの、特に東部戦線では「かなりのグレー」というイメージを持つに至っています。

 『大いなる聖戦』でも、その書名自体が「ナチスの人種差別戦争に対する聖戦」という意味で付けられており、この本は「連合軍はいいもんだった」という見方にも色々異議を唱える本であるのですが、それでも、ドイツ第三帝国が勝っていたとしたらこの世界は今よりもっともっとひどい世の中になっていたであろうし、それを防いだ連合軍の戦争努力は聖戦と呼べるものだった、としています。



 ただ、「人種差別主義」ということについて言えば、第二次世界大戦後の世界においては少しずつましになっていき、10年くらい前の頃には、アメリカのインテリ層の中で「中東や中国は、民主主義化されることは不可能であろう」と述べると周りの人間から「とんでもない人種差別主義者だ!」と非難されたそうですが、その後の展開は「確かにそれらの地域は民主主義化は困難であることを認めざるを得ない」という感じになり(私はしかしそれは人種の資質の問題でなく、背景の文化とかが原因だと思いますが)、世界中にかつてよりどんどん人種差別主義者が増えてくる感じになっています。そしてまた、数年前に年間1位のベストセラーになった『言ってはいけない』の続編である『もっと言ってはいけない』で述べられているのは、「近年の研究では人種的な能力の優劣はある程度存在するようだ」というようなことであったりします。




 ナチスの社会ダーウィニズムの言っていることも非常に極端でしたけども、一時期の「全ての人種、人間に能力の差はない」というような考え方も実態から乖離しており、その中間のどこかが実態に近いのでしょう。



 この本で個人的にかなり興味深かったのは、↓の段でした。

 他の強制収容所と同様に、ミッテルバウ=ドーラにも人種ヒエラルキーがあり、ユダヤ人が底辺でとくに過酷な扱いを受けていた。しかし意外に思われるかもしれないが、とりわけたいへんだったのはイタリア人である。1943年7月のムッソリーニの失脚後、数百人のイタリア人が収容所に入れられていた。イタリア人に対する厳しい扱いは、ナチの戦争を興味深いものにしている。
 ムッソリーニ政府の崩壊後、枢軸側で戦い続けることを拒否した約60万のイタリア人部隊はドイツに移送され、ソヴィエトの労働者と同じ過酷な状況で働かされた。このイタリア人戦争捕虜も、劣等人間とみなされたのである。かつてのファシストの戦友に対し多くのドイツ人が長い間抱えていた偏見が、このときになってあからさまに示されたということだろう。さらに、戦争の最後の2年間に、国防軍は占領し続けていたイタリア北部での一連の大虐殺にかかわっている。この虐殺により、9000人以上のイタリア市民(14歳未満の子供、少なくとも580人を含む)と1万1000人の兵士の命が奪われた。不実な同盟者だったイタリア人に対する復讐願望が偏見と結びついて、破壊的な人種ヒエラルキーにおけるイタリア人の位置づけが決まったのだと言えよう。
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P207,8


 強制収容所でのイタリア人の件は全然知りませんでした……。

 あるいは、『イタリア現代史 第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』という本には↓のように書かれていました。

 他方、サロ共和国は、ドイツ軍の厳しい統制下に置かれていた。労働者がドイツに徴用されたり、イタリア軍が独ソ戦の渦中にある東部戦線に送り込まれたりするなど、戦争遂行計画に組み込まれた。ダッハウやアウシュビッツなど絶滅収容所へのユダヤ人移送が加速したほか、北東部のトリエステ近郊に小規模ながら絶滅収容所が設置されるなど、迫害も目立つようになる。
『イタリア現代史 第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』P23



 ドイツ兵がイタリア兵につらく当たる気持ちは分からないではないのですが、一方イタリア兵にとってはどうだったのかということについて、これまで収集した資料でもってまとめたいと思っています。

『大いなる聖戦』が指摘する通説の間違い(バルバロッサ作戦と真珠湾)【増補版】

【以下のエントリは、2019/04/06の『大いなる聖戦』が指摘する通説の間違い(バルバロッサ作戦と真珠湾)の増補版です。元のエントリは消去してあります。】


 『大いなる聖戦』ですが、この本が指摘する「通説の間違い」について書いておこうと思います。

 細かく見ればもっといっぱい書いてあったとも思うのですが、とりあえず2つだけ。まずはバルバロッサ作戦が遅れた理由について。

 ギリシャとユーゴスラヴィアでの戦いにおける独軍の死傷者は5100名余りに上っているが、西側連合国で長年受け入れられてきた通念的見解によれば、ドイツがこの戦いで払った真の意味での代償は、対ソ戦のための予定表が狂わされ、その準備にも影響したこととなっており、とりわけ英国においてはその見方が強い。だが、この見方は正鵠を射たものではなく、バルバロッサ作戦の開始が遅れた理由は、バルカン情勢よりは1941年春の豪雨に帰せられる。もっとも、独空軍がパルカン地域で220機を失い、同地域に投入された第11装甲師団と第9師団が対ソ戦の初動段階で戦列に加わることができなかったのも事実である。
『大いなる聖戦 上』P248


 うーん、全然聞いたことない指摘です(^_^; ネット上で同じ様な話が見つかるかなと思って探してみたのですが、ぱっとは見つかりませんでした……。


 【以下の段が追加部分】

 が、『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を読んでいて、それに類する記述を見つけました。

 とはいえ、バルバロッサ作戦の開始が遅れたのは、ヒトラーが1945年に述べているように、バルカンでの予定外の戦闘のせいというよりは、天候と兵站への懸念があったからだろう(48)。
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P145


 で、この注48を見てみますと……。

48 Andrea Hillgruber, Hitlers Strategie. Politik und Kriegführung 1940-1941(Frankfurt am Main, 1965),pp.506-7;Weinberg, A World at Arms, p.204.
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P312


 前者はドイツ語の本のようですが、後者で検索してみるとなぜかその本がまるごとpdfファイルで存在しており、見てみると……。

 近年の研究が示すように、1941年のバルカン戦役によってではなく、天候と兵站の問題のため、ヒトラーはその攻撃を6月22日に設定することになったのだった(85)。
『A World at Arms: A Global History of World War II』P204


 とあって、その注85を見てみると、

85 Hillgruber, Hitlers Strategie, pp.504-8.
『A World at Arms: A Global History of World War II』P989


 で、私の探求は詰みました(^_^; が、まあ、この説の出所はこの『Hitlers Strategie』という本らしい、ということで良いのでしょうか。

 ところでこの『A World at Arms: A Global History of World War II』は巻末の注のページ上辺に「本文の○~○ページの注」ということが記してあり、非常に参照しやすくなっていました。私は「章ごとに注ナンバーをリセットせずにすべてを続きナンバーで注ナンバーを打つ」のが基本的にオススメだとは思っていますが、この本の方法も非常に親切で良いなと思いました(というか、普通のリセットする方法があまりにも不親切すぎるでしょう)。

【追加部分ここまで】



 もう一つは真珠湾攻撃の第三次攻撃について。

 さらにそれよりも重要なこととして指摘し得るのは、基地や石油貯蔵施設が同様に攻撃対象から外されたことである。それらの施設に対しては日本軍が攻撃を反復していば破壊し得たという主張もあるが、艦隊に随伴していた駆逐艦の燃料補給の必要で第三次攻撃をかけることができなかったことや、そのような目標を爆撃するための大型爆弾を欠いていたこと、そして次の作戦行動の準備に入るために空母機動部隊が撤収する必要があったことなどに鑑みれば、真珠湾攻撃とは12月8日の一日限定の単発攻撃以外にはなり得なかったというのが実情である。*

*第三次攻撃の可否を含む真珠湾攻撃をめぐる論議についてはH. P. Willmott with Haruo Tohmatsu and Spencer Johnson, Pearl Harbor (London: Cassell, 2001)に詳しい。
 駆逐艦の積載燃料再給油に要する時間、損傷機の数と種類、再攻撃に使用できる機種と機数を考慮すると、第三次攻撃を行わなかった南雲長官の判断は合理的であった。しかし、「第三次攻撃が可能であったのに南雲が判断を誤って行わなかった」という俗説がゴードン・W・プランゲ『トラトラトラ』(初版は日本リーダーズダイジェスト、1966年、新装版は並木書房、2001年)やそれに基づく映画「トラ・トラ・トラ!」(20世紀フォックス、1970年)によって広まり、今なお影響力を持っている。
『大いなる聖戦 上』P324,5


 これは個人的にもなかなか興味深い話だと思いました。「俗説が広まって……」というのは世の中に結構おおくあると思います。「大陸軍 その虚像と実像」のR/Dさんが良く書いておられましたが、「面白いミーム(文化的遺伝子)の方が、それほど面白くもない真実を駆逐して広まってしまう」というやつでしょう。

 例えば、シュリーフェンプランを小モルトケが改悪したという話にしても、昨今では「大モルトケの元々のシュリーフェンプランの方がダメダメな代物だったのを小モルトケが改善した」という説になりつつある……? でもだいぶ以前、古代ローマの史書だったか碑文だったかの史実性に関する見方の変遷について書いた文章を読んだことがあったのですが、それによると「最初はそれが正しいと考えられていた」→「それに対する批判的見方が起こって、ほとんど信頼できないとみられるようになった」→「その批判に対する批判として、それら史書や碑文はある程度狭いコミュニティの中で残されてきたもので、嘘はすぐばれるものであったのだから、ある程度以上信用できると思われるようになった」というように、二転三転したりすることがある、と。だから私は、「絶対的にこうなんだ!」というような書き方は、どの時点にしろ、あまり好みではないですね……。


 あと、通説の間違い的な話で言えば、「エル・アラメインの戦いの後、モントゴメリーの追撃が遅すぎたせいでロンメルをむざむざ逃がした」という通説に対して、「あれはやむを得ない事情があったのだ」という話をここ半年内くらいにどこかで見たような気がするのですが、『大いなる聖戦』の中にはなく、どこで見たのかもやもやします(^_^;

OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第3ターン後攻ドイツ軍

 しばらく尼崎会が不成立になっていたのですが、久方ぶりに成立してOCS『Beyond the Rhine』キャンペーンの続きができました。


 ↓第3ターン後攻ドイツ軍終了時の北部方面

unit00593.jpg

 戦線の西側に取り込まれて(包囲されて)しまったドイツ軍部隊群がおり、救出はできませんでしたがダイス目がよかったのでかなり生き残りはしました。しかし第9SSや第10SSのかなり強力なユニットもその中に……

 また、大河扱いのアルベール運河ですが、もう保持できないと見て中央部はもうユニットを置かずに部隊を下げています。



 ↓同、南部方面。

unit00594.jpg

 メッツの少し南ではアメリカ軍ユニットを包囲。南端近くでは「ダブルターンを取れれば東へ脱出できるかも」という態勢を取りましたが、やむを得ないもののかなりのユニットが補給チェックで損耗しました。



 次の第4ターン(9月15日ターン。史実でのマーケットガーデン作戦はこのターン中の18日に開始された)のイニシアティブは連合軍が取り、色々検討した結果、先攻を取ってアルベール運河を渡り、マーケットガーデン作戦を発動することにしました。で、処理は移動フェイズ直前までやっておき、空挺降下の予定場所にもユニットを置いておきました。


 ↓その様子

unit00595.jpg

 赤い矢印は史実でのマーケットガーデン作戦の進撃路。緑色の○が、ワニミさんが計画していた空挺降下作戦の場所です。このターンはイギリス軍のみが降下し、次のターンにアメリカ軍が降下する予定らしいです(どこかは私は知りません(^_^;)。

 空挺降下の遅延・中止は航空ユニット整備フェイズに決断するルールになっており、移動フェイズ開始時まで進めたのでもう降下はキャンセルできません。この後移動フェイズ中に、オーバーランなどで道を切り開いていくことになります。さあ、どうなるでしょうか……。


 次回の尼崎会は、一応来週、6月23日(日)の予定です。

『大いなる聖戦』:なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?(付:ベルギー軍は頑張ったのか?)

 『大いなる聖戦』を主資料としてやりたいネタがまだいくつか残っていたのですが、とりあえずその中の「なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?」について。

 第二次世界大戦においてよく、「イタリア軍の弱さ」が言われますが、1940年のフランス軍だって丙丁つけがたい弱さでしょう(^_^;






 フランス軍の弱さの最も大きな原因について、純軍事的な本を読んだ場合、フランス軍の戦車の乗員数が少なくて複数の役割をこなさなければならなかったこととか、フランス軍の老齢の将軍達の思考硬直などが理由として挙げられることが多いと思うのですが、『大いなる聖戦』では最大の要因として、「1938年以降の出来事の連続により、敗北は避けられないとの宿命論がフランスに広がっていたから」としていました。

 ……【1940年に独仏】両軍が干戈を交えて以来論議の的となっているのは、独軍がなぜあのように迅速かつ一方的な勝利を収めたのかということである。裏を返せば、それまで3世紀にわたってヨーロッパの軍事分野で諸国を凌駕し、直近の過去20年間は世界で誉れの高かった仏軍が、1940年5月に1916年のヴェルダン戦などで示した強靭性とは比較にならないようなぶざまな崩壊をなぜ喫したのかという疑問である。その結果、1940年の敗北を引き起こした要因の一端は第一次大戦でフランスが払った勝利への代償に求められるという論理が概ね受け入れられている。18歳から26歳までの男性人口の27%が戦死したことに象徴される第一次大戦における人的損失のため、戦間期のフランスでは「このような西部戦線の戦いを繰り返すことは、 今後しばらくはできるものではない」といった考えが支配的となっていたことに疑いはなく、フランスが戦争に突入せざるを得なくなった1939年に、この厭戦気分が不可避的に悪影響を及ぼしたのである。
 フランスの戦意の乏しさは、1939年9月から翌40年4月まで続く「まやかしの戦争」期間中に英国の軍事指導者が痛感したものであったが、これは先の大戦におけるおぞましいまでの人命の喪失への反作用だけに由来するものではなかった。実際に戦端が開かれるまでにフランスの戦意を削いだことには、1930年代にフランス国内で見られた深刻な分裂、社会主義者よりはヒトラーの方が良いと公言したフランスの右翼勢力、世界恐慌(フランスでは他の諸地域よりも長引いた)と死に体となっていた第三共和政の政情不安が共にもたらした衰退気運、といった諸々の要因すべてが関わっている。しかしながら、仏軍の士気の崩壊を招来した直近の要因として最も重要であったのは、1940年5月までにフランスには負け癖がついて、負け犬根性が身につき、それが無気力な宿命論に似た独自の色合いを帯びるようになってしまっていたことにある。仏軍の動向を見守っていた英陸軍の専門家は、1937年頃までは仏軍には精神的強靭さがあることを自信を持って報じていた。ところが1940年の春頃になると、ドイツのラインラント再占領から連綿として続いてきた出来事の後に待っているのは敗北しかないといった考えがフランスで台頭するようになる。オーストリア併合、ミュンヘン協定、スペイン内戦をめぐる紛糾、独ソ不可侵条約、ポーランド戦、冬戦争、そして最後にノルウェー戦における連合軍の総崩れを目の当たりにしたために育まれた敗北主義の結果である。そして、ガムラン大将が1939年9月にザールラントに向けて取るに足らないような不要な攻勢をしかけた結果として仏軍が翌年までの冬の間に行動を控えたことが、このフランスの精神的自壊作用を必然的結末に導いたのである。
 ……
 ……フランスは、戦場においては最初の四日間で痛打されていたが、フランスの敗北には、軍事上の要因に劣らず政治·心理的要因が作用していたのである。既に敗北していたポーランドと同様に、フランスの敗戦は戦端が開かれる前から定まっており、ポーランドの場合とは異なり、その理由は、国家としてのフランスが戦争を起こすのに必要な犠牲を払う態勢になかったこと、軍が技術上の進歩から置き去りにされた存在となってしまったこと、1917年~18年当時にフランスが戦い続けられるように支えてくれたような同盟国に恵まれなかったこと、などに求められる。
『大いなる聖戦 上』P175~8



 前段の、「第一次世界大戦の犠牲の大きさによる厭戦感」というのは実際他の本などでも良く見るところかと思います。

 しかし『大いなる聖戦』が「要因として最も重要」と指摘するのは、「負け癖」の話でした。イメージしにくくてぱっと得心するところまで行ってなかったのですが、例えば、オバマ大統領の時のアメリカがシリア(アサド政権)の化学兵器使用に対して何もできずに「アメリカは世界の警察官ではない」と宣言し、その後ヒラリー・クリントン政権でロシアや中国や北朝鮮やイランの挑発行動に対して譲歩を繰り返しつつ軍縮を進め、中国が台湾や沖縄を占領し、北朝鮮が韓国を併合していく中で負け癖がついていって、ついには中国によってハワイが占領される……というようなことでしょうか? これはこれで想像がしにくいような気もしますが(^_^;、まあ分からないでもない……???

 あいや、日本が中国に尖閣を取られても何もできず、沖縄が独立して中国の同盟国になっても何もできず、北朝鮮がミサイルをばんばん撃ってくるのに譲歩して経済援助し続けていく中で、ついには中国とロシアが共同して日本に上陸作戦をしかけてきたけど、もう負け癖がついていてどうにもならなかった……というようなパターンでしょうか。

 しかし歴史上、この1940年のフランスに似たようなこと起こったことって、実際に他にあったんでしょうか? ぱっと思いつかないのですが(仮説的な話としては例えば、1960年代?頃かに「もし日本がソ連に攻撃されたら、その瞬間に降伏すべきだ」という説があったそうですが。ただし、ソ連に降伏した後に日本がアメリカに攻撃されたならば、「その場合は抵抗すべきだ」と社会党は考えていたそうです。:p)。



 1939年、あるいは1940年のフランス軍の士気が低かったことは、『米英機甲部隊』にも書かれていました。

 1938年12月、やっとのことでB型重戦車を歩兵部隊から切りはなし、軽量なルノー戦車とホチキス35戦車をあわせて、いわゆる機甲師団に統合するこころみがはじめられた。
 ……
 しかし、最高会議がこの問題の審議をおわったときには、すでにフランス軍の戦意は大幅におちていた。将校の防御型戦闘の思想を逆転させ、兵士たちの訓練を転換させるだけの時間は、もはやのこっていなかったのである。
 攻撃的性格の機甲師団をつくることに、フランス国民と軍部が消極的であったことは、表面上、政府の政策に反していた。なぜなら、1936年の「大編成部隊の戦術的作戦にかんする訓令」は、従来と正反対の思想に書きあらためられていたからであった。
 すなわち、
「攻撃こそ最良の作戦である。……攻撃のみが決定的な戦果をもたらす」と。
 だが、方向転換がおそすぎた。静止的防御の中心であるマジノ線は完成していたし、いずれにせよ、第一次大戦中の総攻撃で、あれほどひどい損害をこうむったフランス国民に、ふたたびその悪夢をもとめるのは、あまりにもよくばった要求だといわざるをえなかったからである。
 1939年のフランス軍は、1914年のフランス軍ほどの精彩はなかった。
『米英機甲部隊』P44,5


 ここ【1940年のフランス戦の初頭】で、ドイツ軍は予想しなかったひとつの教訓を、はやくもまなんだ。それは、フランス軍将兵にかつての精気がなく、彼らの士気は、前年秋のポーランド軍の闘志とはくらべものにならないほどひくい、ということであった。
『米英機甲部隊』P59



 OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍のARは、戦闘モードで3、移動モードで2というのが多いのですが、ここらへんの資料を読んでいると、もっと低くても良いのかもと思ったり……『Smolensk:Barbarossa Derailed』のソ連軍のARなんか、むちゃくちゃ低いですからねぇ……。


<2020/03/27追記>

 『憎悪の世紀 下』を読んでいましたら、かなり長い、当時のフランス軍の戦意の低さについての記述がありましたので、引用してみます。



【……】1940年5月10日にドイツ軍の侵攻が始まると、多くのフランス部隊は形ばかりの抵抗しか見せなかった。5月15日、エルヴィン・ロンメル将軍(1891~1944)が率いる第7機甲師団は、二度ほど小競り合いをしただけで450人の捕虜を捕らえた。以後の二日間で、捕虜の数は一万人に達した。ロンメル自身は、フランス軍の指揮官たちが悪びれた様子もなく降伏したことに驚いたし、彼らが平然と「従卒をそのまま抱えていたいとか、フィリップヴィル(現アルジェリアのスキクダ)に置き去りにした背嚢を持ってきてほしいなど、法外な要求をする」ことにも仰天した。別のドイツ人将校も、次のような光景を目撃している。
「数百人のフランス軍将校が、護送兵もいないなかで、捕虜の拘束地点から仮収容地までの35キロを歩んでいった。……だれも、逃亡しようとする気配は見せなかった」
 御用新聞の記者の一人だったカール・フォン・シェタッケルベルクも、面食らって次のように記している。
「二万人の兵士が……捕虜として後方に連行される。……なんとも、不可解だ。……フランス軍の将兵が、あれほどまでやる気を失い、完全に士気を喪失し、ほぼ自発的に捕虜として捕らえられるなどということが、なぜ起こったのだろうか」
 1940年に捕らえられたイギリスの兵士たちも、フランス軍の行動形態に奇異な感じを持った。
「フランス兵たちは捕まる準備ができていて、つねに背嚢を背負っている。それに引き替え、われわれときたらまるで手ぶらだった」
 【……】フランス統治下のアフリカから調達された植民地軍のほうが、支配者とされるフランス人よりも断固たる決意で戦ったことも、フランス軍の士気が落ち込んでいたことを際立たせている。そのため、植民地軍にはフランス軍を上回る多大な犠牲者が出た。
 【……】
 【……】 フランス軍の対応は、後手に回るか的外れが続き、立ち直れなかった。だが1940年のできごとは、単なる軍事上の失敗ではすまされなかった。ブロックが指摘したように、敗北の根底にあったのは、十気の喪失だった。
 1939年の後半から40年のはじめにかけての「まやかしの戦争」の時期でさえ、イギリス遠征軍第2軍団を指揮したアラン・ブルック中将にとって、フランス軍の覇気のなさは悩みのタネだった。アラン・ブルックは、その原因が防御を優先するフランスの戦略にあるのではないか、と思いたかった。ドイツとの国境に沿って構築された、厳重な鎖状の要塞マジノ線の「最も危険な側面」について、ブルックは日記にこう記している。
「心理的な側面が、最も危ない。これで大丈夫だ、という錯覚が生まれがちだからだ。難攻不落の鉄柵の後方にいるという安心感があるだけに、万一その鉄壁が破壊された場合には、フランス軍の闘志はもろくも崩れかねない!」
 だが、フランス人の敗北主義には、別の理由もあった。多くのフランス人にとって、彼らの父や兄弟、友人たちが1914年から18年の第一次世界大戦ですでに第3共和制(1870~1940)のために命を落としているのだから、これ以上、もはや自分たちが命を賭けるには値しないという心理があったからだ。ピュロスの勝利の再現はもうごめんだ、というムードが漂っていた。【……】
 あるドイツ軍の将校は、次のように語っている。
フランス人の闘志や士気は……戦いが始まってもいないうちから……すでに崩れていた。フランスが敗北したのは……武器弾薬の不足が主因ではない。彼らは、なんのために戦っているのかの目的意識を欠いていた。……ナチスの革命は、われわれの最初の機甲師団が動き始める前に、対フランス戦ではすでに勝利していた。
『憎悪の世紀 下巻―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか』P118~122


 また、同時期のイギリス大陸派遣軍の兵士について、こんな記述が……。

 イギリス遠征軍に所属していた彼の戦友の多くは、フランス人に敢闘精神が欠けているのが明らかなのに、なぜ自分たちが死ぬまで戦わなければならないのか、と疑念を持っていた。
『憎悪の世紀 下巻―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか』P123


 そしてその後、大戦初頭のイギリス軍の士気の低さについての記述があるのですが……。

 イギリス軍の士気がどれほど砕けやすいかは、ほかの戦局における行動を検討してみればすぐに分かる。チャーチルは「決して降伏しない」という表現を好んだが、イギリス軍はたいていとことんまで戦わなかった。【……】日本軍がシンガポールに迫りつつあったとき、アラン・ブルックは日記でこう漏らしている。
なぜもっとマシな防御態勢が取られないのか、理解しがたい。【……】
 日本軍による侵略の手がビルマ(現ミャンマー)にも伸びてくると、アラン・ブルックはひどく動揺し、こう書きつづっている。
なぜ、われわれの軍がもっとしっかり抗戦できないのか分からない。【……】
『憎悪の世紀 下巻―なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか』P124,5


 上記の2つのセリフはイギリス軍についてのものなわけですが、1940年のフランス軍についても同じような感じだったんだろうなぁ、そういう状態について表すにはなかなか的確な言葉ではないかと思ったり(^_^;

 これらを読んでいると、OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍とイギリス軍のアクションレーティングをやはりもっと下げたら良いのではないかという思いに駆られました(アクションレーティングという数値は、そういうことを表すのに非常に有用なものですし)。ただし、フランス軍の植民地部隊のものは下げずに……!

<追記ここまで>

<2020/12/03追記>

 リデル・ハートの『ナチス・ドイツ軍の内幕』(『The German Generals Talk』1948)にも、フランス軍の士気が低かったことが所々に書かれていたので、引用してみます。

 アニューとジャンブローのあたりでフランスの機械化軍団と交戦した。最初こちらは劣勢であったが、フランスの戦車は余り動かないで止ったままで戦うため不利となり、その上、敵は余り闘志がないため【……】
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P117

 我々はルクセンブルクでは何の抵抗にも会わず、ただベルギー領のアルデンヌのところで、アルデンヌの防衛の軽騎兵とフランスの騎兵の軽い抵抗を受けただけであった。これは弱い抵抗で、簡単に掃攘することができた。
 「従って、ここでの主たる問題は、戦術的なことではなくて、軍の複雑な運動と補給の調整という行政管理的な問題であった。とにかく使えそうな道路は全部使わなければならなかった。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P121

 フランス軍の防備の状況をクライストに尋ねたところ、彼曰く、「ミューズ河にそうてトーチカ型の若干の要塞があったが、その武装は充分ではなかった。もしここのフランス軍が充分な対戦車砲で武装していたならば、我々は必ずそれに気づいたであろう。というのは、味方の戦車の多くは初期のマークⅠ型で、非常にもろかったからである。この地区のフランス師団の装備は悪く、かつ部隊の質も低かった。兵隊達は空襲か砲撃にやられると、直ちに戦闘をやめることころを私は何度も実見した。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P123

 クライストは続けて「要するに我々は、国境突破以後は、ろくな抵抗には会わなかったということだ。ラインハルトの機甲軍団はル・カトーのあたりで一寸した戦闘をやったが、それが唯一の“事件”であった。
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P126



<追記ここまで>



 一方、ベルギー軍の戦意についても『大いなる聖戦』には書かれていました。

 ……左翼でベルギー軍の一部が敵の攻勢を支えられなくなったこともあって、英国海外派遣軍は全面崩壊の危機に瀕することとなる。このようなこともあって、1940年5月のベルギー軍の戦いぶりに対する歴史の審判は芳しいものではなく、 特に英米仏においてその傾向が顕著である。しかしながら、ベルギー軍は第一次大戦の時と同様に、その国土を頑強かつ決然たる姿勢で守ろうとしたのが事実である。ベルギー軍は常に数の上で優る敵と相対し、英国海外派遣軍が直面したものよりも熾烈な攻撃に絶えず曝されており、20日以降は英軍が南方に転じたためにその戦線は延びきっていた。このような2週間にわたる絶え間ない戦闘と強行軍の中で酷使されたベルギー軍師団は疲弊の極みに達していた。24日になってベルギー軍はリズにおいてB軍集団からの抗す術もない攻撃を受け、翌朝、独軍はベルギー軍の防衛線を14マイルにわたって突破する。
 自助努力以外に英国海外派遣軍を救ったのには、本国政府が5月28日に降伏するまでベルギ一軍が戦い続けることができたことや、最後まで戦いを止めなかった仏軍の犠性的支援、そして独軍が24日に下した装甲部隊の進撃を止めさせる決定といった複合的要因があった。
『大いなる聖戦 上』P193

 ベルギー軍が頑張ったからイギリス海外派遣軍は脱出できたのだし、フランス軍はイギリス軍に対して犠牲的支援をした、と……。

<2020/12/03追記>

 『ナチス・ドイツ軍の内幕』には逆のことが書かれていました。参考のため引用します。

 私【リデル・ハート】はベクトルシャイムにただした。ベルギー軍はもっと長く頑ばることができたと思うか、と。彼は答えて
「私はできたと思う。というのは彼らの損害は僅少であった。けれども、私がベルギー軍の戦線を突破した時、その大部分は、これで戦闘は終って大変ほっとしたというような顔をしていた。」
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P119



<追記ここまで>

 その当のイギリス海外派遣軍によるベルギー軍に対する見方ですが、こう書かれていました。

 英国海外派遣軍の本音は、その参謀長の言を借りれば、英軍の左翼を固めている限り「ベルギー軍がどうなろうと知ったことではない」のである。
『大いなる聖戦 上』P189,190


 おい(^_^; まあでも、そういうものかもしれませんが……。




<2019/07/22追記>

 2017年の映画『ダンケルク』の考証本(?)である『ダンケルク』という文庫本が出ているのですが、読んでいるとこの本にもベルギー軍(というかメインはベルギー国王レオポルド3世)のことが書いてありました。



 レオポルド3世はベルギー政府による亡命の説得を拒否して国内に留まり続け、「5月24日から27日まで、ベルギー陸軍はリス川で必死に戦った。……ベルギー陸軍は4日間休まずに戦い続けた……」(P254)「最後の4日間、ただ国王の人となりだけがベルギー陸軍をまとめていた」(P255)のですが、軍の抵抗はもう不可能という知らせを受けてやむを得ず降伏を決意。ところが降伏のその日のうちからレオポルドを、連合軍を裏切った敗北主義者として非難する流れが世界中に広まったとか。その理由は……。

 つまり、フランスの士気がこれ以上低下するのを防ぐには、また、フランスの司令官やフランス陸軍への非難をそらすには、スケープゴートが必要であり、そこにレオポルド国王がちょうどいい(もしくは悪い)タイミングで現れたというわけだ(*著者註 スケープゴートはイギリスがフランスから裏切り者と謗られないようにするためにも必要とされていたのだろう。このとき、イギリス軍はフランス軍に知らせることなく、すでにダンケルクからの撤退を開始していたからだ)。
 ……どうあってもフランスに継戦してほしかったチャーチルにとって、その目的を遂行するためであれば、ベルギー国王レオポルド3世の名声など些細な犠牲だった。何よりも恥ずべきことは、ドイツ軍に果敢に抵抗したベルギー陸軍の戦いぶりが軽視され、ときに否定されてきたことだろう。……イギリス軍の撤退を可能にした要素はいくつもある。ドイツ軍の進撃停止命令、アラスでの反撃、5月25日のゴート卿の決断。それだけではない。そして、もはや見逃してはならない重要な要素がベルギー陸軍の貢献だ。
『ダンケルク』P257,8



 日本語版Wikipedia「レオポルド3世 (ベルギー王)」を見てみると、レオポルドが大いに善人であったかどうかは微妙かもですが、チャーチルらのスケープゴートを作り出す能力はすごいなぁと……。まあ、首相であるとか国王であるとかには大いに詐術が必要であるということでもあろうとは思いますが……。


 OCS『The Blitzkrieg Legend』のシナリオの中には、西側のマップ1枚で5月20日からを再現する「ダイナモ作戦」シナリオもあり、ワニミさんとも「一度プレイしたいものだ」と話し合っていたのですが、ますますやりたい気持ちが高まりました。


 ↓「ダイナモ作戦」シナリオのセットアップの一部

unit9976.jpg


 24日から27日にかけてベルギー軍が死闘を続けた「リス(Lys)川」というのはフランス語での名前で、オランダ語では「レイエ(Leie)川」。ベルギー軍がセットアップされている川の1つ西の川に「Leie」と書いてあるのが見えます。

<追記ここまで>

OCS『Smolensk』『Guderian's Blitzkrieg II』ユニットで見るドイツ軍第221保安師団

 メルカリで購入した『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を読んでいたんですが、その中に、東部戦線に参加したドイツ軍の第221保安師団についてある程度詳しく書いてありました。





 ↓左が『Smolensk:Barbarossa Derailed』、右が『Guderian's Blitzkrieg II』の第221治安師団

unit00377_20190615195511378.jpg


 この第221保安師団の中に配属されていた秩序警察第309大隊や、その他の保安師団についてはOCSユニットで見る?バルバロッサ作戦で各軍集団に3個ずつ配備された後方任務用の警備師団等 (2018/11/28)で触れていました。


 とりあえず時系列順の説明になるように、まずは英語版Wikipedia「221st Security Division (Wehrmacht)」から。

 この師団は1941年6月に編成された。ドイツ軍の部隊と共に、秩序警察の第309大隊(唯一の自動車化された部隊であった)が含まれていた。この部隊はゴメル周辺で、3ヵ月間前線で、6ヶ月間後方の保安任務に従事した。その任務は、通信と補給ラインの保安、経済的搾取、それにドイツ軍の後方地域におけるパルチザンとの戦いなどであった。


 私は保安師団は、後期にバグラチオン作戦などで蹂躙されたような頃を除けば、ずっと後方任務に就いていたのかと思っていたのですが、1941~2年の時点ですでに前線で戦ったりもしていたのですね? だとすればOCSでユニット化され(そしてプレイヤーが前線に投入す)るのも当然か……。


 次に、1942年3月のことについて。

 1942年3月に、この師団はスモレンスクの東のYelnya-Dorogobuzh地域で大規模なナチの保安戦闘作戦に着手した。“盗賊がはびこる”とされた地域におけるこの対パルチザン作戦でおこなわれたのは、村々の破壊、家畜の押収、ドイツ本国で働かせるための労働力の強制徴用、そして働くことのできない年齢の者達を殺すことであった。その戦術には、ドイツ軍の支配下にない村々に重火器で砲撃することも含まれており、その結果大量の民間人の犠牲者が出た。司令官ヨハン・プフルグバイルは麾下の部隊に「この作戦の目的は、敵を追いはらうことではなく、敵を根絶することである」と指示した。この作戦中、部隊は278名のドイツ兵が戦死したと記録し、一方806名の敵が戦死し、120名の囚人が処刑のためにドイツ軍の秘密野戦警察に引き渡されたと報告している。押収されたのはわずか200丁の武器(ライフル銃、機関銃、ピストル等)であった。


 1942年3月というとソ連軍の冬期反攻が一応まだ続いていた頃で、『Guderian's Blitzkrieg II』で扱われる期間中に当たります。そこで同ゲームで「Yelnya-Dorogobuzh地域」を見てみますと……。

unit00592.jpg

 ↑楕円で囲ったあたりがその作戦地域なのかと思われます……。


 さて、『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』における第221保安師団に関する記述なのですが、1942年4月のこととしてこう書かれています(文脈の必要上、その前の文も引用します)。

 さらにドイツの保安部隊は、いたずらに厳しい措置を講じれば住民がかえってパルチザン化すると知っていたし、民間人への無差別攻撃を「行き過ぎだ」と考える後方地域の陸軍司令官もロシアにはいた。1942年4月に中央ロシアで対パルチザン作戦を担当した国防軍のある保安師団【第221保安師団】では次のような指示が出されている - 「民間人を虐待すれば、翌日にはパルチザンとなり銃を持って目の前に現れるかもしれないということを、全兵士に理解させておく必要がある」。しかし司令官プフルグバイルはその同じ月、同じ保安師団に、「部隊が戦う目的は、敵を退却させることではなく、絶滅させることにある」と述べている。
 ……
 パルチザンに参加する人々が増加し、活動が激化するにつれ、ドイツの保安部隊がとる対策は厳しくなった。彼らは、比較的少数で訓練もろくに受けていない人間が広大な領域の莫大な数の人々を思いどおりに支配するには厳重な措置が必要だと信じていたのだ(106)。
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P167


 で、この原注(106)にはこう書かれています。

 ベン・シェファードはある保安隊(第221)に注目している。これは1942年夏の時点でほとんど訓練を受けておらず装備も貧弱でありながら、「7000をはるかに下回る戦闘力で3万キロ四方、2560の村と130万人以上の住民」への対処を任された。1942年9月には、2対1でパルチザンに劣勢だった。以下を参照。Shepherd, 'The Continuum of Brutality', p.72
『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』P306,7


 「3万キロ四方」というのは「√30000」、つまり「173km×173km」ということらしいのですが、これを1ヘクス=約8kmのOCSに換算すると、「22ヘクス×22ヘクス」ということになります。先ほど挙げていたマップを数えてみると「25ヘクス×17ヘクス」だったのですが、これを計算すると「2万7200キロ四方」ということになり、つまりこのマップより少し広い範囲を、第221保安師団だけで対処しなければならなかった……ということになりましょうか。


 OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のプレイ中には、これら保安師団は例えばスモレンスクなどに置かれていて、スモレンスクほど重要な都市であれば守備隊を置いていた方がさすがに安心なので保安師団を置きっぱなしにしておくのですが(前線に出す人もいるでしょうが)、史実ではそういうことが行われていたということも、一つの知識として知っておくことも重要であるように思われます……。


『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』を読了しました

 先日買っていた、『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』を読了しました。






 ↓買った時のことを書いたエントリはこちら。

神戸三宮の古本屋などでミリタリー本を大量購入 (2019/04/13)



 感想ですが、むっちゃ分かりやすくて面白くて、大変良かったです。以前に2冊ほどムッソリーニの詳しい伝記を読んでいたのですが、ある意味詳しすぎて当時それらの本からほとんど何も理解できなかった感もあり、その前にこの『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』を読んでいれば全然違ったかも……と思いました(その2冊の本に関しては、こちらに書いてました→SLGamer RE:再評価されるべきイタリア (2013/09/07) )。


 『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』が分かりやすく面白いというのは、ムッソリーニの性格の悪い点や良い点についてある意味誇張かもしれないほどに特徴的に書いてあってすごく印象に残りやすかったのと、ムッソリーニに欠点が多かったにもかかわらず何故政権を取ることに成功したのかということとか、あるいはどのようにして戦争に突き進んだかというようなことが端的に説明されているのが非常に良かった……ということによると思います。

 以下、非常に印象的だったところを抜き書き、あるいは引用していこうと思います。

 ムッソリーニが若い頃の性格描写についてですが、「ケンカずきで、短気」(P11)、「ケンカばかりしていていたため、何度も放校され
(P12)、「じっとしていることができず、気がみじかく、暴力的で、野心家」(P13)、「神経質で、興奮しやすかった」(P14)、「彼は、婦人に暴力をくわえることを自慢していた」(P15)などと書かれていますが、成績は良く、また非常に良い声で(イケメンボイスってこと?)、演説が上手かったそうです。




 ↑動画からは、良い声という印象は私は受けませんが……(^_^; もっと若い頃の演説だと良いのでしょうか。あと、どうでも良いことながら、声優の緑川光さんとか中村悠一さんとかの声は私は非常に好きですね~。ムッソリーニの演説をその声でされたなら、私は付いていきます(おい)


 ムッソリーニが有名になっていき、権力を握っていく上でこの演説能力の高さは大変重要な役割を果たしたらしく、↓のように書かれていました。

 彼は、きわめて有能なジャーナリストとして活躍したばかりでなく、独特なタイプの、すばらしい演説家としても、名声をたかめた。
 彼の態度はいつも芝居がかっていて、その意見は矛盾し、発言はしばしばまちがっており、またその攻撃は悪意にみち、マトはずれのばあいもおおかった。
 しかし彼の声は、人びとを魅了し、その何回もくりかえす、力づよいゼスチュアは、大いに効果をあげた。そしてしゃべることばは劇的で、しかも適切で効果的な比喩を、たくみにつかった。
 そのうえ彼は、いくつかのみじかくて、人の心に訴える名文句をつくりあげる名人で、それを継続的にどなりながら、全体をクライマックスにもりあげてゆく才能があった。
 とくに彼は、聴衆のなかにひとつのムードをまきおこし、それから自分をそのなかに投げこむという、きわだった能力をもっていた。そして彼が演説するときは、彼がくりかえすひとつひとつの文句に、聴衆も「そのとおり!」とさけびかえし、一種の対話集会のようになってしまうのだった。

『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P17



 ヒトラーも非常に演説が上手かったそうですし、近年だとオバマ前大統領が名演説で有名で当選を果たしましたが、オバマ前大統領は(も)ある意味「口だけ番長」で、その時代にアメリカの理想主義的リベラリズムは極限まで行って攻勢限界点を超えてしまい(?)、その後は全世界において反理想主義的な反動主義の揺れ戻しが来るようになったようにも思われます。ムッソリーニの暴力主義的(ファッショ)から端を発して、ヒトラーが人種差別主義(ホロコースト)の極限まで自国を導いてヨーロッパに惨禍を招き、その後は逆方向(反暴力主義、反人種差別主義)に世界が向かったのに対して、それを逆転させたのも「演説の上手さ」によって人物を選んでしまったことによるのではないか……とも考えたり(いや、オバマ氏が大統領になってなくたって、反転はしたでしょうかね~)。

 尤も、世界の潮流は第二次世界大戦以後、反暴力主義に向かったはずなのに、私の地元尼崎では体罰による部活指導がまだまだ健在であり続けているというのが泣けます(T_T)


 閑話休題。


 なぜムッソリーニが権力を握ることができたのかについて、同書ではこのように書かれていました。

 当時イタリアは、戦後の無政府状態になやんでおり、国民はムソリーニの説く、国家の病弊をなおすという独裁主義をうけいれるようになっていた。
 ……【ローマ進軍の成功でムソリーニが政権を得た】
 ムソリーニの成功は、めざましく、また突然であったが、これには、それ相当の理由があったのである。
 まず彼は、いくつかの外的状況 - 経済危機、労働者階級の分裂、うっかりしていた中産階級政党などの条件が、きわめてタイミングよく組み合わさった - によって助けられたのであった。
 また彼の力づよい肉体や、断続的にくりかえすたくみの演説のやりかた、人をひきつける魅力なども、大いに役だった。
 しかし、彼を成功させたのには、これ以上の大きな理由があった。
 それは彼の生まれつきの直観か、あるいはぬけ目のない計算か、そのいずれにしても、彼がとびきりのオポチュニスト〔日和見主義者【ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利な方に追従しよう」という考え方のこと】〕であり、またきわめてかわり身のはやいアジテーターであり、また敵のあいだにクサビをうちこんで分裂させる、政治技術の名人でもあった、という点である。
 ……
 そしてイタリア人が、彼を熱狂的に歓迎したのは、国民的指導者としてであった。
 人びとは、ストライキや騒乱にあきあきしており、ダヌンチオ〔イタリアの愛国詩人で第一次大戦に活躍〕がフュウメ市民をもえあがらせたような、ファシズムのはなやかな舞台装置や、中世ふうの装飾をもとめていたのであった。
 ……
 ムソリーニは、大衆にたいしてたくみに、自分がいかにもイタリアの運命の人であるかのような印象をあたえ、人びともまた、そう信じた。
『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P24~27



 そういえば、「英雄のいない国は不幸だ」「ちがう、英雄を必要とする国が不幸なのだ」というセリフのやり取りを思い出して、「ムッソリーニの件とか、本当にそうだなぁ……」と思ったのですが、私はこのやり取りは『銀河英雄伝説』の中にあったと、大学時代のシミュレーションゲームサークルの先輩に聞いたと思っていたのですが、今検索してみると、『ガリレイの生涯』という戯曲の中のセリフだとか?

 まあそれはともかく、ムッソリーニの成功の要因に、独裁者を望む国民と、偶然のタイミングのよさと、機会を見て迅速に変り身するムッソリーニのやり方があったということで、うーむ、なんとも不幸な……。


 しかしその後の国内政策ではムッソリーニは多くの成功を収め、当時チャーチルをはじめ多くの人びとがムッソリーニを「真に偉大な人物」と尊敬したそうなのですが、エチオピア侵略を嚆矢として戦争に突き進んでいって大失敗しました。

 またイタリアの有名な作家アルベルト・モラビアは、つぎのようにのべている。
「もしムソリーニが、国内政策とおなじように、賢明な外交政策をとっていたならば、おそらく彼は、こんにちでもドゥーチェであったろう」
 これは、一考にあたいする意見である。
 エチオピア〔アビシニアともいう〕侵略と、その後の彼の没落への道をひらいたのは、彼の傲慢さ、外国人ぎらい、そして、イタリアにとって根本的に必要なことはなにか、ということについてのあやまった判断によるものだった。
 彼の没落は、自分がつくりだしたものであることを、彼はけっしてみとめなかった。なぜならば、彼はなが年にわたり、自分自身の宣伝を信じ、自分はあやまりをおかさない、と確信してしまったからである。
「わたしの墓には、こういう墓碑銘をつけてほしい」
 あるとき彼は、すこしのユーモアも自制心もなく、こういった。
「地上にあらわれたもっとも知性のある生物、ここに横たわる」と……。
 これはあきらかに、誇大妄想狂のしるしである。
 じじつ、ムソリーニは、おおくの偉大な才能をもっていたにもかかわらず、たえず不安定で、ずるく、体質的にうたがいぶかく、病理学的には利己主義であった。そのうえ大言壮語をどなりちらすのとはうらはらに、じつは臆病で、優柔不断であることを、ながいあいだかくしていたのであった。
『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P30



 「戦争さえしなければ、偉大な政治家として世界史に名を残しただろうに」というようなことはヒトラーについても言われているのを見たことがあるような気がするのですが、今読んでいる途中の『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』を見ていても、ヒトラーの目的はそもそも戦争をして東方にドイツ人の生存圏を確保する(そしてその過程で必然的にスラブ人等の数を減少させる……)ことにあり、そもそも「戦争をしない」という選択肢自体がなかったようなのですが、ムッソリーニの場合にはそういうわけではなかったのに(また、イタリア軍に戦争ができる能力がなかったのに)戦争に突き進んでしまいました。

 また、疑い深いとか、実は臆病であるというようなことは、スターリンにも似ていると思うのですが、なぜムッソリーニはスターリンのように権力を維持できなかったのか……?


 ムッソリーニが戦争に突き進んだ要因としては、ポーランド戦やフランス戦におけるドイツ軍の成功を目の辺りにして、日本の「バスに乗り遅れるな」と同様、焦って気も狂わんばかりになっていたということがあるようです。

 ムソリーニは、平和がイタリア国民の福祉に不可欠なものであること、長期戦はかならず害悪をもたらすこと、また自分は盲目的にドイツとともには行進しない、とかんがえていたが、半面、ドイツ人が“安あがりにうまい仕事をせしめてしまうのではないか”という不安におそわれていた。
 ……
 彼はファシスト大評議会に、つぎのように通告した。
「イタリアは、当分のあいだ軍事行動を開始しない。……
 われわれは、冷静に事態を注視し、われわれの計画をねらなくてはならない」
 だが、ムソリーニは、冷静に事態を注視するどころではなかった。彼はほとんど気も狂わんばかりの熱心さで戦争の進展を見まもり、また例の長広舌で、チアノやそのほかの閣僚をつかれさせたり、イライラさせたりした。
 ……
 そしてドイツがフランス侵攻を開始するころになると、ムソリーニは、ヒトラーが独力で戦争に勝つのではないか、という不安にとりつかれた。
 ……
 ムソリーニは、あまりおそくならないうちに参戦することを熱望するあまり、イタリア国民はみなドイツ側について参戦するのを歓迎している、とおもいこんでしまった。
 彼は「イタリア人は売春婦のように、いつも勝つ側につくのさ」といった。

『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P36~41



 また、ムッソリーニの統帥についてはこのように書かれていました。

 しかし彼は、補給というかぎられた問題よりも、大計画につよい関心をもち、軍の統帥という、ほんとうに重要な問題よりも、制服や勲章とか、ドイツ軍の“ガチョウ歩調”〔ヒザをまげずに、歩調をとって行進する歩き方をいう〕を、イタリア軍にとりいれて、“ローマ式歩調”とよぶような、つまらない問題に関心をそそいでいた。
 また重要問題の解決は、自分でかんがえずに彼をとりまく無能で、へつらう部下の手にまかせた。これらの部下は、ムソリーニが当然知らなければならないことよりも、ただ気にいりそうなことだけを報告していたのである。
 また彼は、不快な事実に、注意をむけなくてはならなくなったときでさえ、それを無視するか、信じないことにした。こうして彼は、自分の宣伝に自分がまどわされることになった。

 ……
 もちろん、その気質や性向からして、彼はまったく政治家ではなく、ジャーナリストであった。そのジャーナリストとしての才能は - 彼自身も誇りにしていたが - 文章や演説など、ことばによって大衆を扇動することであった。
 しかしこまったことに、ムソリーニは物語や見出しを書いたりすることだけでは満足しなかった。
 彼は、それに生命をふきこみ、栄光につつまれて世界中を行進することをのぞんだ。

『黒シャツの独裁者 統領ムソリーニ』P51



 ロンメルのエル・アラメインへの進撃の際には、ムッソリーニはカイロ入城を白馬に乗って果たそうと、白馬を北アフリカに持ち込んで待機していたらしいですから……。


 読んでいて、『高学歴モンスター』という本に書かれていたことを思い出しましたね。



 豊田真由子様(「このハゲー!」で有名になった人)とかも、姉妹が超絶優秀であったらしく、本人も経歴的には超優秀ですが、ムッソリーニばりの嫉妬心(ヒトラーに対する)がすごくて、モンスターになってしまった感が……。

 また今までも時々当ブログで、「サイコパス傾向の人の方が(そうでない人よりも)出世し、成功する確率が高い。ただし、慢心して大失敗して大コケする可能性も結構あると思う」というようなことを書いていましたが、ムッソリーニもそうではないでしょうか。というか、ヒトラーもスターリンもチャーチルもそうだと思われ……(ルーズベルトとか東条英機とかは違うかな……?)。

OCSユニットで見るマーチンB-26マローダーとB-25ミッチェル

 最新号の『歴史群像』の連載「蒼空の記憶」の記事が今回、アメリカ製の爆撃機であるB-26でした(P22~25)。





B 26

 ↑マーチンB-26マローダー(略奪者)(Wikipediaから)




 で、OCSでその他のアメリカ製爆撃機と共にユニットを探してみました。


 まずはOCS『Tunisia II』のアメリカ軍爆撃機を挙げてみます。

unit00587.jpg

 ユニットの左上に「S」とあるのは戦略爆撃で、OCSではユニットに対して爆撃できません。港湾や航空基地への爆撃や、移動妨害にのみ使用できます。

 「T」とあるのが戦術爆撃機で、ユニットに対して爆撃でき、混乱(DG)の結果を狙うことができます。

 同記事によると、1938年の時点ですでにあった「重爆撃機であるB-17と攻撃機(軽爆撃機)であるA-20の中間に位置する機体も求められていた。」。そこで登場したのがB-25とB-26だったそうですが、B-25の方は、「既存の技術を巧みに組み合わせることにより、最先端の高性能機ではないが信頼性が高く、「使い勝手が良い」中爆撃機」であったと。


North American Aviation's B-25 medium bomber, Inglewood, Calif


 それに対してB-26の方は最先端の技術を用いた野心的な設計で、胴体を太くして(OCSユニットで見ても、一番太くなってます)B-17並みの爆弾搭載量を確保しつつ、B-17が1000馬力×4発であったのに対し2000馬力×2発として、より高い高速性能を発揮したそうです。

 が、新機軸が多く、着陸速度も速かったことから慣れない整備兵や未熟パイロットによる事故が続発して、「ウィドウ・メーカー(未亡人製造機)」という有難くない名前で呼ばれるように……。

 しかし、パイロットの訓練方法が改善されたり、整備の慣れや整備施設が完備されると共に、その堅牢な機体性能で最も安全で、最も高い命中率を誇る、B-25と並ぶ傑作爆撃機となった……らしいです。それでも総合的に見るとB-25の方が「第二次大戦の最高の中型爆撃機」となるみたいですが(この段、『第2次大戦事典②兵器・人名』P214から)。


 また、B-26には長い滑走路と完備された整備施設が必要であったことから、戦争の初期の時点で今後ヨーロッパ戦線に送られるように配慮されることになり、「太平洋戦域はB-25の独壇場、地中海戦域は本機とB-25の両方、そしてヨーロッパ戦域が本機の独壇場とされた」。そうです。





unit00586.jpg

 ↑OCS『DAK-II』のイギリス軍の両爆撃機。




unit00588.jpg

 ↑OCS『Sicily II』のアメリカ軍爆撃機(このゲームにはイギリス軍にはこれらの機種は登場しません)。



unit00589.jpg

 ↑OCS『Beyond the Rhine』のアメリカ軍爆撃機(これまでの(2)-6が(3)-10に上がってます)。



unit00590.jpg

 ↑OCS『Beyond the Rhine』のイギリス軍(左)とフランス軍爆撃機(フランス軍のB-26は(3)-8と、アメリカ軍のものよりやや爆撃力が低い一方、米仏軍が運用していないB-25を運用するイギリス軍のそれは(2)-15という、B-26よりは打たれ弱いけども、爆撃力は高めの設定に)。



 OCSユニットにおけるB-26ですが、『DAK-II』『Tunisia II』『Sicily II』における(2)-6という性能は、結構中途半端です(^_^; この頃はまだ、事故が多発していた時期ということなんでしょうか。戦闘機に迎撃されたらまず負ける一方で、爆撃力は高いとは言えず、数ユニット単位で爆撃するか、あるいは航空阻止(移動妨害)に利用するか……?

 『Beyond the Rhine』だと(3)-10とレーティングが上がっていますが、これは機体性能の向上ではなくて、パイロット等の熟練によるものの反映だと思われます(1st Edition デザイナーズノートで、航空ユニットはレーティングの多くの部分をパイロットの技量に置いている、と説明があります)。枢軸軍の戦闘機の性能も上がってるのですが、しかし『Beyond the Rhine』では枢軸軍の戦闘機がステップロス状態(空戦力が1下がる)で配置されていたり、数が足りなかったりであまり活躍できないので、結構ばんばん飛んでいけるのかもです。


 今まで良くプレイしていた『Tunisia』『Tunisia II』『Sicily II』などで、B-25とB-26は良く見ていましたが、正直性能的に微妙ではありました。また、B-25ミッチェルの方は、小5~中1くらいにかけて好きだったウォーターラインシリーズで1/700のものを持っていたことがあり、その垂直尾翼が2枚ある特徴的なフォルムと、ドーリットル空襲で使用された件なども絡んである程度イメージがありましたが、B-26に関してはまったく知識がありませんでした。でも、今回の記事で今後、『Sicily II』までであればまだ事故が多発していたらしいとか、『Beyond the Rhine』でならば堅牢で命中率も高い名機として認識できそうです。


OCS『The Blitzkrieg Legend』:フランス軍の第1ターン先攻の移動元地点を調査(増補版)

 先日のエントリ、OCS『The Blitzkrieg Legend』:フランス軍の第1ターン先攻の移動元地点を調査 (2019/06/02) ですが、「第6機甲大隊(そのスタック下には第17騎兵大隊)、第12騎兵大隊、第4機甲大隊の元の場所が分からない」と書いていたのですが、その後ワニミさんから資料を送ってもらったので、その部分の情報追加+αをしてみました。


unit00585b.jpg


 縮小前の大きい画像データは↓こちら。
https://www.dropbox.com/s/qojdhalg1xuy2bs/unit00585.jpg?dl=0


 南の方から行きます。

 第4機甲大隊は、ワニミさんがプレイしているフランス戦のPCゲームでの位置から(^_^;

 第12騎兵大隊は、Sedanのミューズ川対岸にいたらしいです。

 第6機甲大隊と第17騎兵大隊のスタックですが、後者の方は画像の矢印の元の部分あたりにいたっぽいのですが、第6機甲大隊は5月10日の地図でその少し北のベルギー国内にいるのしか確認できませんでした。開戦前にベルギー国内にいることはできなかったはずなのでフランス国内から出発したと思われるのですが……。というわけで、よくわからないながらもまあ大体同じあたりの位置にいたことにして矢印を描きましたが、まあ両方ともちょっと戦闘モードではいられない移動距離ではないかと思われます。

 あと、その南の分遣連隊ですが、3ヘクス南西にいる第22歩兵師団が1ステップロス状態で置かれているので、恐らくそこから分遣されたものだろうと解釈しました。

 また、前回書いてましたが、シャルルロアの東や南方向にいる計4つのフランス軍司令部ユニットとそのスタック構成ユニットは、すべて移動モードであるべきということで、赤い○で囲っておきました。


 また何か情報がありましたら、ぜひお知らせ下さい。とりあえずは、この情報でもって改造セットアップでプレイできるのではないかと思います(第2、第3軽機械化師団をどのように配置するか……指定複数ヘクス内に自由配置か、あるいは例えば「1ヘクスには最大2ステップまでで自由配置」とするか、などの問題もあるとは思うのですが、まあそこらへんはプレイヤー間の合意ででも。あと個人的には、イギリス軍の第12槍騎兵大隊ユニット(12Lの装甲車兵科マークのユニット)はセットアップではLeuvenにいて、そこも重要なのですが、史実およびフランス第2、第3軽機械化師団との絡みではその5ヘクス南東のTienenにいたことにしてもいいのでは……と思ったりしています)。


unit00560.jpg


OCS『Tunisia II』:連合軍の最後の機動戦のチャンスを潰されたフォンドーク峠の戦いについて

 ちょっと前に当ブログで、OCS『Tunisia II』:アメリカ軍師団を批判した英クロッカー第9軍団司令官 (2019/05/08) というのを書いてました。イギリス第9軍団司令官のクロッカー将軍が、自分の不手際(?)で作戦がうまくいかなかったのを、麾下のアメリカ軍第34歩兵師団のせいにした……という話です。

 その同じ戦いの時に、クロッカー将軍によってイギリスの第26機甲旅団も悲壮な突撃を行わされていたという話が情報集積中に出てきて、興味を持ちました。

 どうしてもこの峠【フォンドーク峠】を突破しよう、と決意した英軍司令官のクロッカー将軍は、"ピプ"ロバーツのひきいる第26機甲旅団に、地雷や対戦車砲による損害を覚悟のうえで、この峠を突破せよと命じたのである。
 攻撃の先頭を切った連隊は、そのむかし先輩たちが、バラクラーバで突撃をおこなった第7および第21槍騎兵連隊であった【クリミア戦争中のバラクラヴァの戦いで、イギリス軍重騎兵は6倍の敵に対して突撃し、4割が戦死しつつも勝利を収めた】。
 本能的に彼らは、なにを要求されているかをかんじとっていた。そして死にむかう直前、中隊長が「さらば! われわれはみんな、やられるだろう」といったことばは、この宿命的で悲痛な戦いの雰囲気を、そのままあらわしていた。
 戦車は、ものすごい損害をだしながら突撃した。そして、予想どおり粉砕されたのであった。

 しかしながら、ロバーツの命令は達成され、日暮れには、ついにこの突破作戦が成功したのであった。
 だが、このときには、すでに枢軸軍を分断する機会はうしなわれ、チュニジアで機動作戦を展開する最後のチャンスは、なくなっていたのである。
『米英機甲部隊』P171,2




 それで色々と手持ちの資料を調べてみますと、さらに興味深いことが分かってきまして、しかも今までも当ブログでここらへんのことについて時々(分かってないままに)触れていたことも判明しました(^_^;


 ↓1943年4月初旬の、3つの連動した作戦の地図

unit00574.jpg


 時期的にはカセリーヌ峠の戦いから1ヵ月半後くらいで、マレト陣地(画像の下の方の陣地帯)をモントゴメリーが抜いた直後くらいからの話です。3月6日以来パットンが指揮するようになっていたアメリカ第2軍団は3月18日にエル・ゲタールを占領。パットンはそのまま海岸線まで東進して後退する枢軸軍部隊の退路を塞ぐ作戦の許可を求めましたが、上官であるイギリス軍のアレクサンダー将軍は(恐らく米軍の弱さを考えに入れて)「冒険的に過ぎる」として、枢軸軍の補給線を脅かすだけの限定的な行動だけを許します。その後3月23日のエル・ゲタールの戦いでアメリカ第2軍団がドイツ第10装甲師団の反撃を撃退して、アメリカ兵士の意気は上がりました。

 その南東ではワジ・アカリトの枢軸軍防衛線を突破しようとするモントゴメリーの攻撃が4月6日に開始され、一方、フォンドーク峠では、アレクサンダーの命令により、ワジ・アカリトの防衛線にいる枢軸軍部隊を北のチュニスの方へと撤退させずに袋の鼠にしてしまうために、カローアンを抜いていくという作戦が発動されます。先ほどの引用の前の部分はこうなっていました。

 チュニジアで、連合軍戦車部隊が、本格的な機動戦を演じる機会をえたのは、たった一回だけだった。それは4月のはじめに、枢軸軍が、チュニジアの橋頭堡で最後の決戦をいどもうと、アカリトとマクナシー【エル・ゲタールの北東方向にある峠】から後退を開始したときにおとずれた。
 枢軸軍のうごきを察知したイギリス軍は、第6機甲師団がフォンドーク峠を突破して、ケールアン【カローアン】で敵の進路の中央をおさえたのである【とありますが、「おさえようとしたのである」が正しいのでしょう】。このため、フォン・アルニムがひきいるドイツ軍の機動兵力は、分断される危機におちいった。もし、これができていたならば、連合軍のチュニスおよびビゼルト占領は、ほとんど抵抗をうけずにできたであろう。
 しかし、峠を突破せよというアレキサンダー将軍の命令伝達がおくれたことと、攻撃部隊が準備に大わらわだったため、攻撃の実施にあたってもまずさが目だった。峠の南方を占領することになっていた米軍歩兵部隊【くだんの第34歩兵師団】は、指揮官の指導力が欠けたため、ほとんど前進できなかった。また、北方の要衝を確保することになっていた英軍歩兵部隊【第128歩兵旅団】は、はっきりしない命令を誤解して、最後の重要な丘を占領しなかったのである。
『米英機甲部隊』P171


 で、冒頭の、第26機甲旅団の自殺的突撃につながるわけですが、このフォンドーク峠~カローアンのラインより南のエル・ゲタールやアカリト防御線にいた枢軸軍部隊は、第10装甲師団、第21装甲師団、第90軽師団、第164軽師団、ツェンタウロ戦車師団、青年ファシスト師団、トリエステ自動車化歩兵師団、ピストイア歩兵師団、スペツィア歩兵師団などにおよび(それぞれかなり損耗していたはずですが)、それらを取り逃がすか捕まえるかは本当に1日2日の差であったようなので、かなり重要な戦いであったのだなぁ……と。


 OCS『Tunisia II』における第26機甲旅団ユニットですが、1つのユニットではなく、第6機甲師団を構成するユニットのうちの複数個で第26機甲旅団……ということのようです。

 ↓OCS『Tunisia II』の第6機甲師団

unit00575.jpg

 第26機甲旅団は『第2次大戦 イギリス機甲部隊』P64によると、その基幹戦力が、

16/5L……第16/5ザ・クイーンズ・ロイヤル槍騎兵連隊
17/21L……第17/21槍騎兵連隊
2Lo……第2ロシアンズ国境騎馬連隊
10 Rfl……プリンス・コンソートズ・オウン小銃旅団連隊第10大隊(歩兵)

 であったようです。

 『Campaign for North Africa』P146によると、他にこのフォンドーク峠での攻勢には、少なくとも

1Derby……第1ダービーシャー義勇兵連隊?
51RTR……第51王立戦車連隊

 それに、イギリス第46歩兵師団の第128歩兵旅団と、アメリカ軍の第34歩兵師団が参加したようです(他にこまごまと追加や抜けたりや、あと1st Infantry [Guards] Brigadeというのが書いてあるのですが、良く分かりません)。

unit00583.jpg




 対してこの峠を守備する枢軸軍側は、『チュニジアの闘い:1942~43[下]』P24によると、

第999師団の第961連隊
第334歩兵師団の第334快速大隊(自転車)
第190偵察大隊(第190装甲大隊のユニットならあるので並べておきましたが、これとは違う?)
アラブの義勇兵大隊(アラブ人部隊のユニットが1個入っているので並べておきましたが、このうちの一部とかかも)

 などだったそうです。

unit00584.jpg


 この最初の第999師団というのは、いわゆる「懲罰師団」というやつで、以前OCS『Tunisia II』で「第999懲罰師団」が活躍した場所 (2017/04/02) で取り上げた2箇所の内の1つが、このフォンドーク峠でした。

 そのエントリを書いた時には、どう重要な戦いとかかも全然分かってなかったんですが、今回分かってきてみると、すごい重要な戦いで奮戦したわけで、そりゃあ特筆大書されるはずだと、得心しました(^_^;

 『Campaign for North Africa』によると、第961連隊は連合軍の情報部の見立てでは「囚人から成る部隊であり、部隊の質は低い」とされていたのに、驚くほど良く戦った……のだとか。



 また同書には第34歩兵師団とクロッカー将軍との確執?についてもいくらか書いてあり、それによると(P146~148)、アメリカ第34歩兵師団長であったライダー将軍は、クロッカー将軍による配置では同師団が側面から砲撃を受けてしまう可能性があると考え、この攻撃計画を良く思っていなかった。クロッカー将軍やその幕僚らの見立てでは攻撃は容易に成功すると思われていたのだが、4月8日からの第128歩兵旅団や第34歩兵師団の攻撃は失敗。ぐずぐずしていてはワジ・アカリトにいた枢軸軍部隊を取り逃がすと考えたアレクサンダー将軍はクロッカー将軍に対して、第34歩兵師団による攻撃失敗はそのままに、機甲部隊による突破を命令。で、大損害を出しながら10日に突破には成功したものの、イタリア軍部隊は8~9日の夜の間に、DAKは9~10日の夜の間に、すでにカローアンを通過して脱出に成功していた……。

 クロッカー将軍はアメリカ第34歩兵師団を非難し、後方に送ってイギリス軍の監督のもとで再訓練させることを提案。一方、第34歩兵師団長であるライダー将軍の方は、同師団による攻撃の失敗は、師団が側面から砲撃を受けるような場所に配置したクロッカー将軍の過失のせいであると主張しました。この非難の応酬はアイゼンハワーとアレクサンダーによって急いで黙らせられることになり、第34歩兵師団は激しい夜間訓練といくらかの指揮官の交代により、すぐに戦闘への投入に値すると見られるようになったとか。


OCS『The Blitzkrieg Legend』:フランス軍の第1ターン先攻の移動元地点を調査

 ワニミさんに、1940年のフランス戦の地図資料について、http://www.atf40.fr/ATF40/divers/afficarte.htmlというサイトで様々なものが見られるという風に教えてもらいまして、その地図資料を元に、OCS『The Blitzkrieg Legend』の第1ターン先攻のフランス軍の各ユニットの移動元地点からセットアップ地点までの移動を調査してみました。

 これまでの当ブログでのこの件の経緯については↓こちら。

OCS『The Blitzkrieg Legend』:フランス軍の第2、第3軽機械化師団の第1ターン先攻の動きを推測
OCS『The Blitzkrieg Legend』:イギリス海外派遣軍(BEF)の配置を調べてみる




unit00570.jpg

 矢印の根元が、開戦前にそのユニットが元いた場所で、矢印の先がセットアップ地点(アルデンヌの森の中の1~5.Cavはそれぞれ、そのヘクスから3ヘクス以内に自由配置です)。矢印の色は、赤色が「すべての構成ユニットが必ず移動モードとなるべきと思われる」、黄色が「一部は移動モードとなる可能性がある」、青色が「戦闘モードでOK」です(中央の第61歩兵師団は元の位置から動いていないと考えてもいい場所にいるため、矢印ではなく○で囲んであります)。

 この画像では小さくて見えないとも思われるので、もっと大きい画像を↓に置いておきます。

https://www.dropbox.com/s/w5vn0nepxi5xzto/unit00569.jpg?dl=0



 あと、画像の最も右に位置する、矢印の先のユニットは名称が「1」となってますが、「1S(第1スパーヒ騎兵旅団)」の間違いだと思います。もう1個の「1」が、矢印付きのもので4つほど左にあり、そちらはそれで正しいと思われます。

 それから、画像中央上部にはフランス軍の司令部ユニットが4つほど見えており、下には戦闘モードでの移動力が低くて徒歩のものがスタックしまくっているのですが、それらは司令部も含めてすべて移動モードとなるべきでしょう。しかし、今回の調査では良く分からないものもありました。国境近くにいる、第6機甲大隊(そのスタック下には第17騎兵大隊)、第12騎兵大隊、第4機甲大隊です。もし元の場所が分かる方がいましたら、ぜひ教えて下さい!


 「一部は移動モードとなる可能性がある」部隊に関しては、元のヘクスから自由配置で選定するセットアップ位置までを数えて、移動モードでなければ行けない場所に置くのであれば移動モードで置く、ということになりましょう。


 本来は、もっともっと精査すべきかもしれませんし、またディールプランでオランダ国境近くまで進出していたフランス第7軍(限定自由配置)も、資料を見ているとそれぞれの部隊が5月10日や11日時点でどこにいた……ということが分かりそうではありましたが、まあそこまでは調べないで……何よりもまず、この配置でのプレイ自体が、公式ルール(セットアップ)の改造であり、ハウスルールですので、あくまで「試しにそれでやってみる」ということで(^_^;

イタリア戦:米軍のマーク・クラーク将軍について、ちょい調べ

 最近のエントリの流れで、イタリア戦におけるアメリカ軍司令官である、マーク・クラーク将軍について。
(なぜファーストネームも書いたのかというと、サン・ヴィット防衛戦で重要な戦いをしたブルース・クラーク将軍という人がいるようなので。しかし以下、クラークとのみ記します)


Mark Wayne Clark 1943

 ↑マーク・クラーク将軍(Wikipediaから)


 話の流れ的には、「元々オーバーロード作戦を任せられる人材だと見なされていたのだが、イタリア戦における不手際のために候補から脱落した(そしてその役割を最終的にブラッドレーがやることになった)」という話と、それから、ここんところ話題にしているチュニジア戦におけるアメリカ第2軍団の最初の軍団長は実はクラークなのです(その後、フリーデンダール、パットン、ブラッドレーと代わっていく)。

 ↓この『パットン対ロンメル』の記述が大変に興味深いものでした。

 1943年1月、アメリカ第5軍が編制され、これがイタリア海岸侵攻計画の中心になる。この第5軍の司令官に任命されたのがマーク・クラーク中将で、彼は、北アフリカ上陸作戦ではアイゼンハワーの代理を務めた人物だった。一方、パットンとその第7軍はシチリア島に配備され、その後は(おそらくヨーロッパ侵攻だろうが)必要に応じて軍務につくことになっていた。またブラッドリーは、必要な際にクラークの代理を務めることになり、軍団司令官を超えた能力があるのか、あるいは今後その力をつけるのかといったことを実証する機会を与えられた。
 この配置には、上からクラーク、パットン、ブラッドリーの順になる先任順序が明確に表れていた。アイゼンハワーは、どんな手札を持っていてもその使いかたで勝ちもすれば負けもするという原則を理解していた。マーク・クラークは歴史家には見落とされることが多いが、アイゼンハワーはクラークの知性を高く評価し、アメリカ陸軍でも秀逸な計画立案者であり、上陸作戦のスペシャリストだと見ていた。そしてオーバーロード作戦の最高司令官の選定が自分とマーシャルの手にゆだねられていることも、しっかり自覚していた。指揮経験豊かで折り紙付きの作戦遂行力をもつクラークの高官チームを、知的な指揮で評判のクラークを中心に、堅実なブラッドリーと抑制されたパットンと - 軍レベルではクラークの部下になる二人を互いにきそわせながら - で作れたら、たとえ最終的な配置が違ったものになっても、ワシントンに縛られた陸軍参謀総長にはできないような方法で、戦争を遂行していくことができるだろう。
 しかしその後の展開で期待は泡と消えてしまう。クラークのイタリア半島上陸計画に重大な欠陥があることがわかったのだ。連合軍は上陸したはいいが、サレルノで待ち伏せていたドイツ軍に海に押し戻されるところだった。クラークは勇ましい指揮ぶりを見せたが、その後の作戦遂行では、優れた指揮能力も、兵士を鼓舞するような様子もまったく見られなかった。連合軍は、ほかならぬケッセルリングが見事にまとめていた部隊の抵抗に遭い、「ゆっくり急げ」で半島をのろのろと北上したが、グスタフ線[ドイツの防衛線]の前で立ち往生してしまった。味方の損害が拡大したにもかかわらず、クラークのグスタフ線突破は不可能になってしまった。クラークは、上官のアレクサンダーやイギリス軍の同僚、それにこの作戦に多大な貢献をしていたフランス軍ともしだいに関係が悪くなっていった。また同時に部下からも、冷徹だとか喧嘩好きだとか、自分勝手で自己中心だと言われるようになった。アイゼンハワーの将来には、パットンの身勝手な行動が招いた危機的状況よりも、クラークの侵攻作戦の失敗のほうが響いた。アイゼンハワーは、クラークをオーバーロード作戦でさらに高位の司令官に引き上げるといった策は考えないことにした。それどころかしばらくは、この期待外れの部下を解任することまで考えていた。
『パットン対ロンメル』P307,8



 他の資料(主に英語版Wikipedia)も見ていくと、クラークの才能を高いと見た人物としては他にマーシャルもそうであったらしく、マーシャルはここでもフリーデンドールに対して同様の見込み違いをしたということになりそうです。まあそれだけ、人材を見抜くというのは難しいということかもです。

 また、チャーチルも、クラークに非常に強い印象を受け、彼のことを「The American Eagle」と呼んだそうです。

 『第二次世界大戦事典』にはこうありました。

 ……広く非常に有能な野戦指揮官として認められていた将軍。……言質、志、指導性によって、たちまち参謀長、第2軍【第2軍団の間違いだと思われます】司令官、そして1942年11月の北アフリカ侵攻作戦、トーチ作戦のためにアイゼンハワー司令部の副司令官へと昇進していった。
『第二次世界大戦事典』P157



 一方でクラークより年長で上級であったパットンは、自分より早く高い階級に昇進したクラークに対してあまりにも早い昇進だと憤慨し、またクラークを「とんでもない口先だけの奴」で「自分のことにしか関心がない」と見ていたらしいです。パットンの見方には偏見も入ってそうではありますが(^_^;


 クラークはトーチ作戦で目覚ましい働きを見せてアイゼンハワーに感謝された後、自ら野戦指揮官の地位を懇願し、イタリア戦を指揮する第5軍の司令官となりました。

 しかし最初のサレルノ上陸(アヴァランチ作戦)は最初の進捗は良好であったものの、数日の内に多数のドイツ軍の反撃でほぼ敗北し、日本語版Wikipediaによると「この作戦に関してバーナード・モントゴメリーによると、クラークの感覚的で策略もない計画のせいで、サレルノへの上陸に危うく失敗するところだった、とイギリスの歴史家から批判された。」とありました。

 アンツィオの戦いの苦戦はクラークとその幕僚らの計画が良くなかったとも批判されているらしいですが、モンテ・カッシーノの修道院の爆撃に関しては、上司であるイギリス軍のアレクサンダー将軍からの命令を、クラーク自身は疑問を感じながらも、実行を部下に命じたということのようで。

 その後のローマ攻略については、クラークはほぼ一致して批判されているようです。すなわち、アレクサンダー将軍の指令を無視し、軍事的に重要でないローマを「イギリス軍よりも早く」占領するために部隊を回した結果、多くのドイツ軍部隊を取り逃がし、その後のドイツ軍の防備を固めさせることになってしまった、と。『US Commanders of World War II(1)』は、このクラークのローマ攻略を「見当違いの努力」と書いています(^_^;


 『US Commanders of World War II(1)』にはこのようにあります。

 クラークは、アメリカの上級指揮官の中で最も論争のある人物である。アイゼンハワーもパットンも、クラークが「その分別を、野心の方が圧倒していた」という見方で一致し、彼のことを尊敬することも好むこともできないと考えていた。
『US Commanders of World War II(1)』P15



 この本には、「ラピッド川の渡河作戦の破滅的な結果や、アンツィオやカッシーノにおける手詰まりという疑問を含め、非常に多くの論争が後に引き起こされた。」と書かれており、論争ということで言えばラピッド川の戦いに関しては↓のような考え方もあるようです。

 イタリア本土での遅い前進を強いられたが、クラーク軍への補給物資および援軍は(モントゴメリーの英第8軍と同様に)、イタリアにおける連合軍の地位、目的に関し迷いと意見の不一致を続ける連合国首脳および統合参謀部に依存することが多くなって来た。クラークの第5軍における指揮は特に1943年~44年にかけてのラピッド川の戦いにおいて批判されているが、このような要素による顕著な困難があったことを考慮しなければならない。
『第二次世界大戦事典』P157



 また同書は、「……クラークは連合軍の北西ヨーロッパ進攻作戦の決定と共に、人員、資材が供出されて行くにもかかわらず、イタリアでの成功を目指した精力的な行動を継続していた。」とも書いています(P157,8)。

 ここらへんこそが「論争」ということなんでしょうね。


 前に書いていた、↓を読めばもっと詳しいことが書かれているかもですが……(買っておけば良かったのか? しかし……(^_^;)。




今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR