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なぜブラッドレー将軍がノルマンディー上陸作戦時のアメリカ軍司令官に選ばれたのか?(付:OCS Normandy)

 前々回のエントリ↓の続きです。

ブラッドレー将軍は、パットンを嫌いだった?(付:OCSによる軍団司令部ユニット)


 ブラッドレーは第二次世界大戦で最大時130万名にも及ぶアメリカ軍兵士を率いた、アメリカ史上最大人数を率いた指揮官なのですが、それほどめちゃくちゃ有名でもなく、またそれほど有能ともされていないような気がします。なのになぜ、他のアメリカ軍の将軍達を押しのけてノルマンディー上陸作戦を指揮し、最高指揮権を担うことになったのか(そういえばもうすぐ、ノルマンディー上陸作戦のあった6月6日ですね。75周年?)。


General Montgomery with Generals Patton (left) and Bradley (centre) at 21st Army Group HQ, Normandy, 7 July 1944. B6551

 ↑左からパットン、ブラッドレー、モントゴメリー。1944年7月7日、ノルマンディーの第12軍集団司令部にて。(Wikipediaから)



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 ↑OCS『Beyond the Rhine』と連結するノルマンディーゲームの仮マップのノルマンディー部分。



 そこらへん、『パットン対ロンメル』にかなり詳しく、興味深いことが書いてあったのですが、まずはもうちょい浅いところからで『Allied Commanders of World War II』から。

 連合国におけるアメリカ軍の将軍の構成はこのように要約されてきた。「アイゼンハワーが調整し、ブラッドレーが考え、パットンが実行する」 この要約には幾ばくかの真実が含まれている。なぜなら、ブラッドレーは戦略的に広い範囲の推測を元に明快に判断することができたが、一方でそれが特有の臆病さにつながってしまうことがあったからである。
 ……ブラッドレーは1915年にウェストポイントでアイゼンハワーとクラスメートであった。……
 ……ブラッドレーはシチリア島で第2軍団を指揮して山脈の中を進んだもの、パットンとモントゴメリーの競争の陰に隠れがちであった。だが、アイゼンハワーはその指揮ぶりに好印象をおぼえ、パットンをおしのけてブラッドレーをノルマンディーにおけるアメリカ軍指揮官に任命したのである。
 ……
 パットンに関する伝記作家のうちの一人はブラッドレーに関して「あらゆる範囲の細部に注意を払うことのできるゼンマイ仕掛けの精神」と評した。だが、他の論者はそこまでブラッドレーを賞賛していない。チェスター・ウィルモットなどは批判的で、ブラッドレーは重要な地点へ適切に兵力を集中させたりするバランスに欠けるように思われると評した。「彼が作戦に成功したのは、他の誰かが全体としてその戦闘を統制している限りにおいてだった。」……
『Allied Commanders of World War II』P9,10


 ここで印象深いのは、ブラッドレーが思考力、推測力、判断力において高い能力を有しており、またその向けられる範囲も広かったし、しかも細部まで見ることができた、ということでしょう。

 OCSは他の多くのボードウォーゲームよりも敵味方の実行可能な行動の幅が非常に広いので、長考になりがちです。ワニミさんはよく、「OCSで最適解を求めようとしても、それは巡回セールスマン問題で、解けようはずもないのだから」と仰ります。それである程度のところで妥協してムーブして進めていくわけですが、「見落とし」があってそこを敵に突かれてひどいことになることもしょっちゅうあります(^_^;

 しかしもしブラッドレーのような、大胆さや兵力の集中ということには欠けるかもしれないけども、広範囲の細部までを高い思考力で御することができるプレイヤーがいたならば、ある意味安心して指揮官を任せられるのではないかという気もします。


 さて、『パットン対ロンメル』の方の記述なのですが……。まずは、ブラッドレーが有名にはならない(なれない)だろうと当時から思っていた人の言。

 例外があるとすれば、地味で、しゃきっとせず、でしゃばらない印象の上官だろう。たとえばオマー・ブラッドリーなどがその典型だ。ブラッドリーを「見出したのは」パイルで、彼はブラッドリーについて、よく「たいへん控えめで誠実な人柄ゆえ、おそらく正当な評価を得られないだろう」と書いていた。そして「彼を指揮官にしたため、米国には喜ばしい未来がもたらされた」と言った。
『パットン対ロンメル』P302



 次に、1943年の時点でのオーバーロード作戦立案に関してです。

 だが9月25日、とうとうマーシャルが口を出してきた。アイゼンハワーに入った無線連絡によると、アメリカ軍指揮官をイギリス軍とともにオーバーロード作戦立案に携わらせろと7月から圧力をかけられていたから、オマー・ブラッドリーを選任した。ブラッドリーを貸してもらえるだろうか、というものだった。
 この要求はまず間違いなく、アイゼンハワーがその数ヶ月間に聞いた話の中で最良の知らせだった。彼はブラッドリーの性格も能力も高く買っていた。シチリア島上陸前などはパットンに、シチリア島が激戦になったらブラッドリーに任せて、パットンは次の作戦の準備のために本部へ戻すかもしれないとさえ言っていた。実際シチリア島ではブラッドリーは、パットンよりも兵站の問題をしっかり認識している様子をうかがわせていた。また制約の多い戦場でも歩兵の扱いがうまいことを実証して見せた。そして作戦終了の頃には、パットンを含め地中海に配備された将軍の中でも、戦闘指揮をしていた時間が最も長い指揮官となっていた。これらのことを、マーシャルはすべてわかっていたのである。アイゼンハワーの答えは、かの有名な言葉、「たやすい話です」だった。アイゼンハワーはマーシャルに、自分がいかにブラッドリーに頼るようになっているかを伝える一方で、ブラッドリーは「おそらく」パットンような精力的なパワーは欠けているだろうが、「これまでの任務で出会った中で最も円熟したリーダーだ」と評した。あとは、ブラッドリーの転属命令を用意するだけだった。
『パットン対ロンメル』P308



 で、ノルマンディー上陸作戦の指揮官候補に関してです。

 となると、候補は三人、クラークとパットン、ブラッドリーだった。クラークはサレルノの戦い以降、指揮権争いから脱落していた。記録を見ると、チュニジアやシチリア島でのブラッドリーの統率力や指揮能力が、明らかにパットンと同等またはそれ以上であったとは言いがたい。ある部分意図的だろうが、彼は何事もパットンの逆を行っていた。パットンがやることを見ると、ブラッドリーにはすべて逆のことが思い浮かんだ。派手さに対する因習重視、大胆不敵に対する安定性、そして極めつけが、騎兵隊に対する歩兵隊(1943年にはまだ重要な存在だった)という対照性だった。
 実をいえば、アイゼンハワーもマーシャルも 、パットンを特別に扱いにくい人物だとは思っていなかった。彼の感情はわかりやすかったし、コントロールもしやすかった。アイゼンハワーはマーシャルにこう話している。パットンの「私たちに対するあの強い忠誠心があるからこそ、彼は他の司令官よりも手荒に扱っても大丈夫なのです」。問題はパットンには操縦が必要なことだった。一方ブラッドリーはその必要がなかった。Dデイに関しては、事を複雑にするものや、予測不可能な要素はできるだけ無条件に排除しておきたかった。1942年の段階では、傲慢ともいえるほど北西ヨーロッパ上陸を甘く見ていたアメリカ陸軍だったが、その後は次第に、作戦を困難と見るイギリス軍の見方に引きずられていった。計画が具体的になればなるほど、上陸はそう簡単な話ではなく、信頼のおける将軍の特別な能力が必要だということがはっきりしてきた。でははたして、神経質で不安定なパットンが、流血の惨劇に転じる可能性もあったこの作戦の指揮官に適任だったのか。周囲を閉ざされた土地への上陸は、ブラッドリー特有の戦術能力の見せ場ではなかったのか。ブラッドリーは、いわば名シェフであるパットンに比べれば、腕はいいが平凡なコックにすぎなかったかもしれない。だが、彼なら軍隊内に混乱が起きることはなさそうだった。あるいは - 単なる憶測だが - マーシャルやアイゼンハワーといった古い歩兵タイプの人間は、種馬より去勢馬に乗って戦場に向かうほうがよかったのだろう。
『パットン対ロンメル』P309


 これを読んだ時、私は「なるほどなぁ~」と思いました(^_^;

 ノルマンディー上陸作戦の立案と実行が、どれほどの広範囲かつ細部への配慮を必要とする大変な仕事か、ということは想像に難くありません。しかも上陸作戦というのは失敗の可能性も高い。それならば、よく無茶をやる天才肌のパットンよりも、秀才肌で謙虚なブラッドレーに任せた方がいいと、納得できました。

 あるいは、他にもっと全般的に能力の高い人材はいなかったのかということもあるかもですが、イタリア戦などを指揮したクラーク将軍はオーバーロード作戦を任せられる最右翼だと目されていたらしいのですが、期待外れのがっかりだったそうで、そこらへんもまた調べたいと思ったりしています。


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チュニジア戦:米軍のフリーデンドール将軍について、まとめ(付:OCS『Tunisia II』)

 前回のエントリ↓で名前を出していた、アメリカ軍のフリーデンドール将軍について、面白いので、ちょっとまとめておきたいと思います。

ブラッドレー将軍は、パットンを嫌いだった?(付:OCSによる軍団司令部ユニット) (2019/05/28)


Lloyd fredendall

 ↑ロイド・フリーデンドール将軍(Wikipediaから)


 前掲エントリでフリーデンドール将軍の名前を出していたのは、↓のところでです。

 ↓OCS『Tunisia II』のアメリカ第2軍団司令部ユニット。

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 『Tunisia II』に出てくるアメリカ軍の軍団司令部ユニットはこれ1つだけです。第2軍団司令官は、当初(1942年11月)はフリーデンドール将軍だったのですが色々とダメな行動が多かった中でカセリーヌ峠の戦い(1943年2月19日~2月25日)でボロ負けして、更迭と匂わせないようにされつつ軍団司令官がパットンに交代されます(3月6日から)。その時に第2軍団の副司令官となったのがブラッドレーでした。パットンは士気ががた落ちとなっていた第2軍団を、規律を厳しく守らせるなどで短期間で立て直し、3月23日のエル・ゲタールの戦いではドイツ第10装甲師団の反撃を撃退。しかし結局わずか40日間指揮しただけで、4月15日に第2軍団司令官の職はブラッドレーに引き継がれ、5月13日に枢軸国軍が降伏するまでブラッドレーがうまく指揮を続けました(と、こちらも30日間も指揮しなかったわけですが)。



 「ダメ」な行動のすごい具体例がいくらか資料に出てくるわけですが、それが面白いといいますか……(面白がっていてはダメなんでしょうけども(^_^;)。



 以下、英語版Wikipedia「Lloyd Fredendall」からの適当訳を交えつつ。


 フリーデンドールはまずトーチ作戦での指揮官として抜擢されたのですが、フリーデンドールを推薦したのは、米陸軍参謀長のマーシャル将軍(米軍のトップの人物)とその友人かつ同僚で米軍の教育・訓練の専門家であったマクネア将軍でした。マーシャルとマクネアは共に、フリーデンドールを「米軍の最高の人材の内の1人」と評価し、マーシャルは特に、フリーデンドールの若々しく自信満々な態度を気に入っていたそうです(『パットン対ロンメル』を読んでいると、マーシャルがパットンを目に掛けたことに関しても良く出てきており、そちらは最終的に成功したように思いますが、フリーデンドールに関するマーシャルの見方は最終的には誤っていたということでしょうか)。

 アイゼンハワーはこの上役からの推薦に最初疑いの目を向けていたものの、結局はトーチ作戦の指揮官として任用し、その成功を見て自分の誤りを認めました。が、最終的にアイゼンハワーはこの認識と、その後フリーデンドールを任用し続けたことに関して後悔することになります。

 フリーデンドールに関して、ルシアン・トラスコット将軍はこのように述べていたそうです(トラスコットは、トーチ作戦時には連隊長、シチリア戦時には第3歩兵師団長、その後軍団長、軍司令官へと昇進しました)。

「身長が小さく、大声で話し言葉が荒々しく、物怖じせず意見を言い、上司にも部下にも口やかましく接しました。彼は、必ずしも充分な根拠のない結論へと飛躍する傾向がありました。フリーデンドールは視察や偵察のために自身の指揮所を離れることはめったになかったにもかかわらず、彼よりも地形や状況を良く知っている部下達からの提言にはイライラするのでした。
Steven L., Ossad (March 2003). "Command Failures: Lessons Learned from Lloyd R. Fredendall"




 米軍の2個軍団の司令官には、アイゼンハワーよりも年長者が選ばれた【在モロッコの第1機甲軍団長パットンと、チュニジアへ向かう第2軍団のフリーデンドールのこと】。ロイド・フリーデンダール少将は、オランに上陸した中央タスクフォースの指揮官であり、引き続いて在チュニジアの米軍の中核であるサテン·フォースを率いた。フリーデンダールは1917年から1918年にかけて、フランスにおいて参謀将校として勤務した検閲総監を務めた後に、1935年に大佐に昇進した。1940年10月には、第4歩兵師団長となった。その訓練に関する熟達ぶりが高く評価されたことで、1941年にカロライナ演習の実施時に、第2軍団の司令官に任命された。米軍将校の多くは、フリーテンダールを陸軍の輝ける才能のひとりとして認めていたが、英軍将校は彼をして、下卑たしゃべりを気にもかけず、恥知らずにも知ったかぶりをすることで自信過剰を正当化する、アメリカ人の不快な特質を現出した人物とみていた。しかも「豪傑」気取りの態度でスラングを交えて命令を出すきらいがあったので、部下はその真意を図りかねる場合が多かった。1943年初めの段階では、第2軍団の指揮下にあったのは、完全編制の師団である第1機甲師団だけであ|った。しかもフリーテンダールは、師団長であるオーランド・ウォード少将を無視して、戦闘団に直接作戦指導することを当たり前としていた。このためウォードとの意思疎通なぞは存在しないも同然で、さらにフリーデンダールは部隊の戦術的配置に関してきわめて詳細な指導をおこなうことを好んだので、ウォードは采配の自由を奪われた最悪の状態に置かれたのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P14


 「スラング(俗語)」に関してですが、Wikipediaによると、歩兵を「ウォーキングボーイズ」、砲兵を「ポップガン」など、(別に良く使われているスラングというわけではなく)彼自身のスラングで呼び、また軍用地図の標準的な位置指示用語を使わずに「Cで始まる場所」というような紛らわしいコードを作ったりしたそうです。このようなフリーデンドールの方法は部下達の間に混乱を招き、フリーデンドールの指示の意味を理解しようとするために貴重な時間が失われたとか(T_T)


 また、【恐らく1943年1月~2月にかけて】アルジェリアからチュニジア国境を越えて進出しようとする間、フリーデンドールは第19工兵連隊を使用して、前線から70マイル(約110km)離れた場所(Tebessaの南東9マイル)に、大きな防空壕を作って本部を置き、対空大隊まで配置したそうです。2つのU字型の複合施設が丘の中腹まで49m走っており、建設に3週間かかったとか。この峡谷は「Speedy Valley(迅速な谷?)」と呼ばれたそうで、「Military History」の「Speedy Valley」というサイトによると、曲がりくねった砂利道を通ってしか行けない渓谷にあり、68人の幕僚が住むようになったが彼らは「フリーデンドールの子ども達」と呼ばれ、またその場所は「ロイド(・フリーデンドール)の一番奥の行楽地」とか「シャングリラ(理想郷)」とも呼ばれたそうです(滂沱)。

 試しに『Tunisia II』で第19工兵連隊ユニットを探してみたら、ありました(おいおい)。

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 OCSでは、工兵能力は司令部ユニットに包括されている扱いで、純粋なこういう工兵ユニットがユニット化されているのは珍しい方なのですが、この工兵連隊は『Tunisia II』に含まれている3つの工兵ユニットのうちの1つです(あと1つが米軍、もう1つがドイツ軍)。しかしこのユニットは、この史実を知っている人が、アメリカ第2軍団司令部ユニットのいる場所に陣地を4レベルまで建設するのに使用するために入っているのでしょうか(^_^; ただし、4レベル陣地を建設するのには2週間で済みますが、陣地のレベルアップには上げようとする陣地レベル+1SPが必要なので、総計14SPもかかります(!)。

 もしかして対空大隊も入っているかと思って探したのですが、対戦車砲大隊ユニットはいっぱい入っているのですが、対空大隊はユニット化されていませんでした(^_^;


 また、Tebessa(テベッサ)の南東9マイルという場所についてですが、『Tunisia II』のマップを見てみると……(カセリーヌ峠シナリオ)。

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 画像左上にTebessaがあり、そこにアメリカ第2軍団司令部ユニットを一番上にして大量のユニットのスタックがありますが、これらはテベッサから2ヘクス以内に自由配置です。そして、OCSは1ヘクス5マイルですから、南東9マイルというと、テベッサの右下2ヘクスのところにある荒れ地(Rough)のヘクスでしょうか。そのすぐ右のヘクスにはアルジェリア・チュニジア国境(紫色の線)があり、またテベッサの北西や南西には山岳地帯もありますから、北西や南西に防空壕を作ったのならば「うわぁ~」という気もしますが、南東のこの荒れ地に作ったのならば、まあまだ前線に出る感が感じられるような気がしますけど、どうなんでしょう?

 ↓こんな記述もありました。

 2月12日、【会議漬けにされていた】アイゼンハワーはようやく会議をあとにし、2月13日には検閲のために第2軍団司令部に到着した。状況のまずさにアイゼンハワーはショックを受けた。フリーデンダールはその軍団指揮所を到達に難儀する峡谷内に置いており、軍団直轄工兵を参謀用の防空壕を崖に穿つための発破作業に従事させていた。指揮所の所在地はきわめて後方にあり、道路網からも隔たっていた。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P43


 前線からの距離についてはWikipediaに70マイル(約110km)とありました。OCSスケールに換算すれば、14ヘクスです。マップでその「Speedy Valley」から14ヘクスを数えてみると、それよりも近くや遠くに前線があるようにも見えますが、このマップはあくまでカセリーヌ峠の戦い開始時のもので、記述はそれより前のことかもしれません。

 OCSをプレイする上でこの第2軍団司令部ユニットの位置がよろしくないかというと、どうなんでしょう。確かに最東端のアメリカ軍ユニットに対しては遠すぎるような気はします。



 Wikipediaの記述に戻りますと、フリーデンドールはアイゼンハワーが乗っている防弾仕様のキャデラックと同様のものを注文し、定期的にアルジェリアのオラン【上陸軍の総司令部があった?】に電話をかけては「なぜもっと早く届かないのか」とせかしたとか。ブラッドレー将軍はフリーデンドールの本部を見て「すべてのアメリカ軍兵士にとっての当惑」と呼び、アイゼンハワーはその精巧なできばえを見た後、「将軍であっても戦争においては自身のリスクを負わなければならない」と思ったそうです。


 アイゼンハワーの視察の直後、枢軸軍の攻勢が始まります。

 第2軍団の戦略的態勢は著しく劣っていたものの、戦術配置はいくぶんまともであった。フリーデンダールはカセリーヌ峠を制するために、2個任務部隊(タスクフォース)をふたつの山頂に配置することを命じていた。峠を挟むジェベル・ルスーダとクセラは、距離が離れていたために相互に支援することはできなかった。フリーデンダールはのちに部隊配置の詳細に関してアンダーソンを非難したが、部隊配置を精緻にしたところで現実的には無意味であった。米軍の2個増強大隊だけでは、ドイツの2個機甲師団を足止めすることはまったく望めなかった。たとえ良好に配置されたところで、結果は迂回されるか蹂躙されるかしかなかった。これほどの広大な戦線であれば、分散した陣地を支援するためには機動予備兵力が必要である。だが、アンダーソンとフリーデンダールのどちらも、第1機甲師団を集結させて機動予備とすることを命じたアイゼンハワーの1月20日付の訓令にさほど留意していなかったのである。
 アイゼンハワーは直ちに、数々の部隊にその欠点を是正するよう、一連の訓令を発した。しかしそれは遅すぎた。アイゼンハワー一行が第2軍団司令部にもどったその朝、ドイツ軍の攻勢はすでに開始されていたのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P44

 【1943年2月14日正午過ぎ】ジェベル・クセラのドレイク隊には脱出の望みが残されていたが、1410時、フリーデンダールにより撤退は拒否された。……フリーデンダールの硬直した指揮スタイルと戦場から遠くはなれたその指揮所が、孤立無援の2個大隊を破滅させることになったのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P47,8

 第2軍団の前任軍団長フレデンドール少将は、うぬぼれの強いくせに小心な指揮官で、かれの不注意とズサンな作戦計画のおかげで、米陸軍はこの大戦で西半球において、初の大敗をカセリーヌ峠できっしていた。
『猛将パットン』P12

 【枢軸軍が攻勢を諦めて撤退し】連合軍にとっては、追撃の好機であったが、現地の指揮官である米第2軍団長ロイド・R・フリーデンドール少将は、枢軸軍はなお後方に迂回してくるのではないかと恐れ、積極的な行動に出なかった。彼が総攻撃の命令を出したのは、なんと25日になってからであり、そのころには、枢軸軍はカセリーヌ峠を越えて、撤退を完了していた。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P27

 カセリーヌ峠の敗北は、アメリカ軍の戦術的欠点と、ロイド・フリーデンドールの司令官としての弱点を浮き彫りにした。フリーデンドールはイギリス兵ともアメリカ兵ともそりが合わなくなっていたうえ、要塞線マジノ線にあってもおかしくないような、掩蔽壕型の地下司令部を作ろうとしていた。このように、敗北に続いて、アメリカ軍戦闘部隊の最上級者が無能であることが露呈したのは非常に間が悪かったし、おまけに臆病者らしいというのも最悪だった。
『パットン対ロンメル』P284




 アイゼンハワーはブラッドレーと協議。ブラッドレーは、全師団長がフリーデンドールに対する信頼を失っていると報告。イギリス軍もフリーデンドールの交代を歓迎するとの意向をアイゼンハワーに伝えました。第2軍団長をパットンに交代させることが決まりましたが、フリーデンドールの評判は落とさないようにしてそれが行われるようにアイゼンハワーは注意していました。第2軍団司令部にパットンが到着した時、フリーデンドールは朝食中だったそうです。パットンはその時のフリーデンドールについて良い印象を抱き、フリーデンドールは状況の被害者なのではないかと考えたそうですが、1週間後に第2軍団を査察してみて、完全にその考えを改めたとか。

 フリーデンドールは英雄としてアメリカ本土に帰り、昇進して、米軍の訓練に携わることになったそうです。

 作家チャールズ・B・マクドナルドは、フリーデンドールを「自分自身をそう作っていこうしたイメージへと追い付くことができなかった、大言壮語と虚勢の男」と述べました。歴史家カルロ・デステはフリーデンドールを「……第二次世界大戦中に最高指揮権を握ることが最も不適切な上級将校の一人」と述べています。第2機甲師団長であったアーネスト・ハーモンは、カセリーヌ峠の戦いの後の報告で、フリーデンドールを道徳的かつ肉体的な臆病者と呼んでおり、後には彼を「畜生野郎」だと言っていたそうです。



 まあでも、「出世すると無能になる」という理由には、ハロー効果やピーターの法則などが知られてます。あるいはまた、フリーデンドールが特別無能だったわけではなく、野戦指揮官には向いていなかった(それ以前の士官学校や、訓練や、戦闘がほぼない上陸作戦においては有能だったのだが)ということなのではないでしょうか。


 しかしOCS『Tunisia II』をRPG風にプレイするならば、アメリカ第2軍団を指揮するプレイヤーは司令部を陣地を作って防備し、キャデラックを注文しながらプレイしたいところですね(^^)(おい)。

ブラッドレー将軍は、パットンを嫌いだった?(付:OCSによる軍団司令部ユニット)

 先日来、『パットン対ロンメル』や『猛将パットン』を読んでいたのですが、その中で「ブラッドレー将軍はパットンのことが嫌いだった」という話が何回か出てきてました。


General Omar Bradley, General Dwight Eisenhower, and General George Patton, all graduates of West Point, survey war damage in Bastogne, Belgium. 1944-1945

 ↑左からブラッドレー、アイゼンハワー、パットン(Wikipediaから)



 しかし私は以前読んだ複数の本(うち一冊は多分『萌えよ! 戦車学校』)で、「ブラッドレーは(色々と難のある)パットンを助けた」とあったような気がしていたので、意外でもあり、「へぇ~」と思いましたが、でも助けることと嫌うこととは矛盾しないということかもしれません。

 ↓ブラッドレー将軍については過去に何回か取り上げてました。

OCS『Sicily II』の臨時軍団司令部って? (2016/10/27)
モントゴメリーに進撃路を譲らされたブラッドレーは激怒したのか? (2016/10/28)
オマー・ブラッドレー将軍について (2016/11/06)




 以下時系列順に、OCSの軍団司令部ユニットも挙げつつ。
(軍団より1つ上の規模は「軍」、その上が「軍集団」ですが、OCSには軍団より上の司令部ユニットは基本的に出てこないので。例外として『Guderian's Blitzkrieg II』の第2、3、4装甲集団(タイフーン作戦中に装甲軍へと改編)ユニットがありますが……もしかして他にもある?)




 ↓OCS『Tunisia II』のアメリカ第2軍団司令部ユニット。

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 『Tunisia II』に出てくるアメリカ軍の軍団司令部ユニットはこれ1つだけです。第2軍団司令官は、当初(1942年11月)はフリーデンドール将軍だったのですが色々とダメな行動が多かった中でカセリーヌ峠の戦い(1943年2月19日~2月25日)でボロ負けして、更迭と匂わせないようにされつつ軍団司令官がパットンに交代されます(3月6日から)。その時に第2軍団の副司令官となったのがブラッドレーでした。パットンは士気ががた落ちとなっていた第2軍団を、規律を厳しく守らせるなどで短期間で立て直し、3月23日のエル・ゲタールの戦いではドイツ第10装甲師団の反撃を撃退。しかし結局わずか40日間指揮しただけで、4月15日に第2軍団司令官の職はブラッドレーに引き継がれ、5月13日に枢軸国軍が降伏するまでブラッドレーがうまく指揮を続けました(と、こちらも30日間も指揮しなかったわけですが)。


 この頃のこととして……。

 アイゼンハワーのオブザーバーとして第2軍団に配属され、チュニジアにやってきたばかりのオマル・ブラッドリー少将には、パットンが、数年前から作り物の悪役を演じているように思えた。つまり、個人的な場面では教養ある紳士でありながら、軍団の前では冒瀆的な言葉を吐く悪党のふりをするのである。ブラッドリーはこれを「言葉で圧倒する」と呼んだ。
『パットン対ロンメル』P285


 しかしどうも、この頃はまだ、ブラッドレーはパットンを「嫌い」とまでは思っていなかった?




 チュニジア戦の次におこなわれたのがシチリア戦で、ブラッドレーは引き続き第2軍団司令官であり、パットンはその上のアメリカ第7軍の司令官となりました。

 ↓OCS『Sicily II』に出てくるアメリカ軍の軍団司令部ユニット。

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 「Prov」とあるのは「臨時軍団司令部」で、正規のものではないです。

 シチリア戦の最序盤に関しては前掲の過去のエントリに書いていて、そこではまだブラッドレーはパットンを嫌っているという感じでもないのですが、序盤の(『Sicily II』シナリオ1:シチリア島西部で描かれる)パレルモ攻略までは非常にうまくいったと思われるパットンの指揮が、その後シチリア島東部の戦いになるとうまくいかなくなり、そこでブラッドレーはパットンの性格や指揮を嫌うようになったものでしょうか? パットンは、敵戦線が薄い時に敵を避けて急進撃するのはうまいけども、それができないようながっぷり四つに組むような戦いは非常に不得手であったらしく、そこらへんも影響している?

 のちにパットンの上官となったオマー・ブラッドレー将軍 - 名家の出身ではなく、ひかえめな行動と質素な中流家庭の習慣をもっていた - は、パットンの本質、つまり民主主義のなかに育った独裁者の姿を見ぬいていた。かれは、かつてパットンの独断的なやり方にハラをたてたときのことを、つぎのように書いている。
「パットンは利口で抜け目ないショーマンだが、戦闘中の兵士の心理をつかめない男だ。司令車をつらねて悪趣味にゴテゴテと正装した幕僚をつれて移動し、司令車には大きな星のマークや司令部のマークを飾りつけている。こうすれば兵士がヘイコラすると考えているらしいが、とんでもない話だ。反対に、こんな司令車のまきあげていったホコリの中を、トボトボ行進する兵士の怒りをかうだけである」
『猛将パットン』P26

 8月の第一週のおわりになっても、パットンの部隊は一歩も前進できず、日ごとに莫大な損害をかさねていた。さらに部下の指揮官のなかには、ブラッドレーのように、パットンの指揮ぶりを批判するものもおり、パットンの命令を忠実に実行しない傾向さえでてきた。
 そこでパットンは、やむなく第1師団長アレン将軍と副師団長ルーズベルト准将とを更迭した。じつのところ、かれは、第3歩兵師団長トラスコットと、その上官のブラッドレー軍団長がメッシナへの進撃命令を無視しているのではないか、とも疑っていた。両将軍とも、パットンの攻略方法に反対していたからであった。
『猛将パットン』P49

 また同時に、ブラッドリーのパットン嫌いも次第に明らかになっていった。ブラッドリーは貧しい父親を持ち、母親はアルコールを毛嫌いしていた。それまで目立たない軍隊生活を送り、階級による虚飾を嫌っていたブラッドリーは、パットンにとってはもう呼吸と同じくらい自然なことだった華々しい演出にうんざりしていた。さらにシチリア侵攻作戦の初期に、パットンはブラッドリーの軍団に、時に干渉ともいえるほど細かい指示を出しており、これが事をさらに荒立てた。ブラッドリーはこの上司を、行動にせよ作戦計画にせよ考える能力がない、いわば名誉欲の強い「浅薄な将軍」と考えるようになった。
 どこの軍隊でも司令部は、そこに属する司令官をネタにしたゴシップや中傷的な話の温床だ。シチリア侵攻作戦の終わり頃には、ブラッドリーの第2軍団は反パットンのエピソードが語られる中心地になっていた。たとえば、看護士が夕食に招かれて、第7軍の司令官なぞ気取った成り上がり者だとしゃべりあうこともあった。

『パットン対ロンメル』P302






 その後、ノルマンディー上陸作戦を迎えるにあたってそのアメリカ軍総司令官にはブラッドレーが選ばれ、そこらへん興味深いのでまた書くつもりなのですが、そこの選定に関する記述のところで……。

 となると、候補は三人、クラークとパットン、ブラッドリーだった。クラークはサレルノの戦い以降、指揮権争いから脱落していた。記録を見ると、チュニジアやシチリア島でのブラッドリーの統率力や指揮能力が、明らかにパットンと同等またはそれ以上であったとは言いがたい。ある部分意図的だろうが、彼は何事もパットンの逆を行っていた。パットンがやることを見ると、ブラッドリーにはすべて逆のことが思い浮かんだ。派手さに対する因習重視、大胆不敵に対する安定性、そして極めつけが、騎兵隊に対する歩兵隊(1943年にはまだ重要な存在だった)という対照性だった。
『パットン対ロンメル』P309





 ノルマンディー上陸作戦時には、ブラッドレーは上陸部隊を構成するアメリカ第1軍の司令官、パットンは後続のアメリカ第3軍の司令官でしたが……

 【1943年】12月、アイゼンハワーはマーシャルとオーバーロード作戦の上級将校の人事について話し合った。その中で彼は何度も繰り返し、パットンは自分の軍司令官のひとりとして選んだのだと強調した。ブラッドリーには上陸の指揮を、パットンにはその後続部隊の指揮をさせるというのだ。だが、ふたつ目の軍が展開して軍集団[2個以上の軍から成る]を編成することになったら、その軍集団【アメリカ第12軍集団】の指揮はブラッドリーがとる。「いかなる場合も、パットンを軍司令官以上に上げるつもりはない」とアイゼンハワーは断言した。これにより、パットンは常に、より堅実なブラッドリーの下につくことになる。
『パットン対ロンメル』P310




 ノルマンディーの上陸作戦自体はある程度以上うまくいき、それはブラッドレーの計画立案能力や管理能力の高さを証明するものでありましたが、その後の進撃はなかなかうまくいきませんでした。イギリスにいて投入されていないパットンはイライラするものの。

 パットンは、いかに戦況が気にくわなくても、手をだすことはできなかった。かれにできることは、ただちに第3軍を戦場に投入するよう、ブラッドレーにつよく要請するぐらいしかなかった。しかし、ブラッドレーにすれば, パットンに自説の正しさを証明させる機会を、あわててあたえようという気はまったくなかった。
 ブラッドレーは、パットンが自分の部下として勤務することを好まなかったし、シチリア以後の地位の逆転は不愉快であり、そのうえパットンは、経験、年齢、そして正規任命の階級でも上であった。
 戦後、ブラッドレーは正直に告白している。「パットンは指揮官として、わたくしの好きなタイプではなかったし、また、かれがわたくしの地位の逆転をあまんじてうけた事実についても、わたくしは用心をおこたらなかった。パットンを指揮下におけば、かれのはげしい気性をなだめすかすのに、多大な時間をさかねばなるまいと恐れたのである
『猛将パットン』P64





 しかし7月25~31日のコブラ作戦の終結後、8月1日からパットンの第3軍がブルターニュ半島全域を制圧するために投入されることになります。ところが、パットンは側面をまったく気にせずに部隊を急速に進撃させました。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』のユニットによる、8月1日時点での第3軍配下の軍団司令部ユニット。

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 パットンが側面防衛を心配しなくても、第8軍団長ミドルトンと、総司令官ブラッドレーは心配していた。ブラッドレーは、ブルターニュ半島の諸港めざして進軍せよ、と命令はしたが、同時に、ブルターニュ半島のつけ根の部分には、強力な部隊を配置するよう厳命していた。
 この予防措置は、東からのドイツ軍の攻撃を阻止するには、絶対に必要だった。ブラッドレーは、ドイツ軍陣営にもぐりこんでいるスパイからの通報で、敵の反撃(いわゆる“モルタンの反撃”)が8月の第一週に、連合軍の前線のどこかに、かけられるのを予測していたのである。
 したがって、ブラッドレーが8月2日にミドルトンの司令部に立ちより、そこでミドルトンが自軍の状況をひじょうにあやぶんでいるのを知り、堪忍袋の緒をきったのも無理はなかった。
 ミドルトンは、ブラッドレー軍集団司令官の指示にしたがい、第8軍団を配備したが、パットンは第8軍団の実権をにぎってしまって、ミドルトンの命令をとりけしてしまった。ミドルトンは、第8軍団の左翼と背後が無防備で、ますます敵の脅威にさらされてきているのに、つよい不安をいだいていた。(しかも、かれの第8軍団の後尾は、まだせまいアブランシュ回廊にのこっていた)「わが第8軍団のながくのびきった隊列と背後のドイツ第7軍主力との中間地帯には、わが軍の戦力はなにもないのです」
 眼鏡をかけた肥満体のこの将軍は、地図にむかって自分の言い分を正確にブラッドレー軍集団司令官に説明し、苦境をうったえた。「背後に、これほど強力な敵をかかえたまま、ランヌやブレストに急行するのは無謀です。もし敵がアブランシュをぬき、海岸線に到達でもすれば、わが軍は退路をたたれ、8万の将兵は半島内部に孤立してしまいます」
 ブラッドレーのカンシャク玉が破裂した。「なんとバカなまねを! パットンは戦略より、ブレストをおとして新聞のトップ記事になることばかりに熱中してる。あしたブレストをとろうが、10日後にとろうが、わしはどちらでもよいのだ。半島を遮断してしまえばいずれはとれる。だが、側面を無防備にするとは、言語道断だ! あれほど、半島側面をかためるように命令しておいたのに」
 ブラッドレーその日の午後おそく、は,ハットンの司令所にのりつけた。パットンはちょうど前線巡回からかえったところで、ブラッドレーによれば “表情はこわばり、ホコリにまみれていた”。ブラッドレーはいらいらしてたずねた。
「いったい、ミドルトンのあけっぴろげた左翼はどうするつもりだね。たったいま、第79師団を急派したところだ。わしは軍司令官をとびこして、直接軍団に命令するのはきらいなんだが」
 パットンははずかしそうな笑いをうかべて、かつての部下の肩に腕をまわした。
「よくやってくれた、ブラッド。おれもそうせにゃいかんと思ってたとこなんだ。だが、そうしてもらえばじゅうぶんだ。さてと、ちょっと戦況を説明しておこう」
『猛将パットン』P69,72



 最後のパットンのセリフが非常にうまい具合にごまかしているように思えて、面白いのですが(^_^;

 
 OCSのプレイでは、「側面を気にしないでプレイ」ということまではなかなかないとは思うのですが、一方で、「側面が危ういことに気づかないでプレイ」とか、「攻撃正面に戦力を集中したいがために結果的に側面が薄くなってそこを敵に突かれる」というようなことはしょっちゅう起こります(爆)。

 パットンは本当に「側面なんか気にするな」と思っていたようで、そこらへん、ワニミさんが最近常々、「グデーリアンやロンメル(やパットン)が、側面なんか気にするな、なんていうのは彼らが常人ではないからで、我々のような一般人は怖くて怖くて、側面を放っておくなんてできない!」と仰っていることに、本当にパットンは当てはまるような気がしますね……。

 OCSの複数人プレイでは、一応「最上級司令官」を設けて、その下に「下位司令官」を置いてプレイしていくようにしているのですが、最上級司令官が「側面に気を付けろよ~」と言っているのに下位司令官が側面をがら空きにして突っ走っていたらと思うと、ブラッドレーの心労も分かるような気がします(^_^;


 ブルターニュ半島での戦い以後でブラッドレーがパットンを嫌っている、あるいは怒っているというのは、細かくて情報集積していないものを除けば見つけてないです。


 あと、ブラッドレーが英軍のモントゴメリーを嫌いというか、複雑な感情を持っていたり、あるいは妬んでいた……というような記述も数点収集していたのですが、しかしモントゴメリーはすごく嫌われそうな性格なような気もするので、別に特筆するようなことでもないですかね(おい)。っていうか、それ言うならパットンもそういう感がありますが、まあ、「あのブラッドレーですら」、パットンを、あるいはモントゴメリーを嫌っていた、というあたりが特筆すべきということでしょうか。

OCS『The Blitzkrieg Legend』:イギリス海外派遣軍(BEF)の配置を調べてみる

 前回の続きで、イギリス海外派遣軍(BEF)の1940年5月10~11日のディールラインにおける配置を調べてました。

前回→OCS『The Blitzkrieg Legend』:フランス軍の第2、第3軽機械化師団の第1ターン先攻の動きを推測 (2019/05/15)

 最初に見たのは『西方電撃戦 フランス侵攻1940』だった(P154)のですが、それはやや曖昧な書き方なので置いといて、それより『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』の地図と『The War in France and Flanders』(→イギリス大陸派遣軍のサイトが消えたぁ…… (2011/05/15))の戦闘序列が詳しかったので、それで。


 ↓『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』のP65の「10-13 May」の地図から

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 この地図にはBEFの第4歩兵師団と第48歩兵師団と第1戦車旅団(1ATB:1st Army Tank Brigade)があるものの、『The Blitzkrieg Legend』のセットアップだとそれらの部隊はここにはいません……(ちなみに、第4歩兵師団の下にある「Esc A-B」とか書いてあるのは、下に「BE」とあって、これはベルギー軍のことです)。

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 ただ前掲地図は「10-13 May」なわけですから、10~11日ではなくて12~13日(つまり第2ターン)である可能性もあります。

 で、色々調べてましたら……。

 5月13日、我が軍の第48および第4師団が、ディール川沿いの第Ⅰと第Ⅱ軍団の諸師団を支援するために東方へと移動する間、はるか南ではドイツ軍の機甲師団群がミューズ川を渡って西進を始めていたのである。
『The War in France and Flanders』P41



 とありました。ので、第48歩兵師団と第4歩兵師団は13日になって移動を開始した、つまり第1ターンにはディールラインにはいなかった、ということで良さそうです。


 『The War in France and Flanders』は現在、ネット上でも見られます。

CHAPTER III ADVANCE INTO BELGIUM 10th May to 15th May, 1940

 ↑のP41のところの最後の一文です。また、このウェブページの3つ目の画像は5月15日の地図で、前掲地図と良く似た感じになっています。


 ↓『The Blitzkrieg Legend』セットアップにおける、第48、第4歩兵師団の位置。

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 さて、もう1個の第1戦車旅団の件です。第1戦車旅団は、『The War in France and Flanders』のP359の、5月10日付けの戦闘序列によると↓となっています(ネット上のものは→APPENDIX I British Forces Engagedの「BRITISH EXPEDITIONARY FORCE (as organised on 10th May, 1940)」の「G.H.Q. Troops」の一番下)。


1st Army Tank Brigade—Brigadier D. H. Pratt
4th and 7th Battalions Royal Tank Regiment
(第4および第7大隊 王立戦車連隊:なんで大隊で連隊なのかというと、名称は王立戦車連隊なのですが、実質的には大隊規模なので、ということではないかと。イギリス軍はこういうやり方なので)

 王立戦車連隊は、略称だと「RTR」で、「4RTR」が先ほどの画像の左側にあるスタックの中身を表示させていた部分の右から2つ目にありました。しかし「7RTR」が地図上に見当たりません。増援表を調べてみると、5月14日に、マップAの任意の港湾に登場することになっていました。

 ですが、『The War in France and Flanders』では10日のBEFに7RTRも入っていますし、『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』の13日までの地図に第1戦車旅団がディールラインにいますし、他にも↓

The History of the 4th and 7th Royal Tank Regiment. revised 20111940 – 1941

 を見ていても、日時は分かりませんが、「旅団が移動した」と書いてあって、「7RTRは遅れて到着した」というようなことは書いてありません。

 ただ、そこらへんまで考えていた後で、そういえば、と『第2次大戦 イギリス機甲部隊』という本を見てみたら……。



第1戦車旅団
1st TANK BRIGADE
 1939年9月3日、第1軍戦車旅団は英本土軍アルダーショット軍管区司令部の指揮下、1938年4月13日付の国防組織3 / 1931 /33A / 2号の軍戦車旅団の編成・装備を準用として創設され、基幹部隊として第4ロイヤル戦車連隊、第7ロイヤル戦車連隊および第8ロイヤル戦車連隊が配属された。
 1940年4月30日~5月14日、第1軍戦車旅団はアルダーショット軍管区から英派遣軍総司令部に配属され、英本土からフランスに移動したが、旅団の基幹戦力は第4ロイヤル戦車連隊と第7ロイヤル戦車連隊のみであった。
 1940年5月14日~5月17日、第1軍戦車旅団は英派遣軍総司令部から第1軍団予備として配属され、ベルギーの首都ブリュッセル付近に配置された。
『第2次大戦 イギリス機甲部隊』P72


 この本によると、4月30日から5月14日にかけてフランスに移動し、そしてまた5月14日から5月17日にかけてブリュッセル付近に移動したかのようです。

 そうすると、『The War in France and Flanders』の戦闘序列には5月10日付けで4RTRも7RTRもBEF内にいることになっていましたがうち7RTRは海上輸送中で(まだ英本土にいたのかもですが)、5月14日(つまり『The Blitzkrieg Legend』における第3ターン)にフランスの港湾に到着し、4RTRはすでにいた内陸から、7RTRは港湾から、それぞれブリュッセルへと移動した……ということであれば辻褄が合いそうです。

 『The War in France and Flanders』の5月15日の地図にはブリュッセル南東に第1戦車旅団がいますが、15日中には少なくとも部隊の内の半分くらいは到着していた? その後完全に揃うのは17日になったとしても……。

 そうだとすると、『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』の「10-13 May」の地図に1ATBがいるのは、フライング……でしょうか?


 まあ分からないですが、解釈が何通りかできる場合は、『The Blitzkrieg Legend』に指示されている通りにする、べきでしょうか。

 それにまた、今回調べたように各部隊がタイムラグを持って移動したのだとすれば、興味深いことですし、それをちゃんと反映している『The Blitzkrieg Legend』は素晴らしいなぁ、と(^^)


 ただまあ、「第1ターン先攻で、移動モードでないと到達し得ない場所にいるユニットは移動モードにする」という件に照らせば、最もベルギー・フランス国境に近い「1ERY」(イーストライディング義勇兵)でも戦闘モードでは届かない場所にいるので、ブリュッセル周辺のBEFはすべて移動モードということになります(します)。:p


OCS『The Blitzkrieg Legend』:フランス軍の第2、第3軽機械化師団の第1ターン先攻の動きを推測

 OCS『The Blitzkrieg Legend』を今後再戦するにあたって、今度は「第1ターンの先攻ターン中にフランス国境からベルギー領内に進んだことにされているフランス軍とイギリス軍ユニットの開戦前の位置を調べ、そこから移動モードでなければ到達できない位置にセットアップされているユニットは移動モードで配置する(戦略移動モードでなければ行けない位置にいるものもあるが、それらは移動モードとする)」という方法を試してみよう……ということにしていた、という話がありました(OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第7ターンで投了 (2019/03/06) で書いてました)。

 これはConsimで出ていた提案でもあるそうで、史実で「ドイツ軍のベルギーへの侵攻が始まったら、すぐにフランス・ベルギー国境を越えて仏英軍を防衛線となるディール川沿いへと移動させる」というディール計画が実際に発動され、かなりの長距離を1日か2日で移動したわけだから、セットアップでそれらすべてが戦闘モードで配置されている内の少なくとも一部は移動モードでないとそこまで行けなかったはずであり、それを反映させたら(させた方が)いいんじゃないだろうか、という考え方なわけです。ただし、戦略移動モードでなければ到達し得ないユニットがあったとしても、それは移動モードにしておこう、と(戦略移動モードは0戦力扱いですから脆弱すぎるのと、計画に従って潜在的同盟国を通過したわけだから、まあそこは差し引こうというような考えで)。

 尤も、実作業には取りかかっていなかったんですが先日、第二次世界大戦ブックスの『米英機甲部隊』を読んでいて、次のような記述があるのに非常に興味を惹かれました。



 【ディール計画でディール川南のジャンブルーの隙間に到着した頃に】時間的余裕がなかったことは重大であった。しかし、もっと重大だったのは、野戦用の兵力をいかに必要な場所に集中するかであった。というのは、フランス軍の400台ちかい戦車をもつ軽機械化2個師団【第2、第3軽機械化師団】が、ひろい戦線のすべての要路を防衛するため、散開して配置されていたのにたいし、ドイツ第16機甲軍団は、ほぼ同数の戦車を、ジャンブルー間隙のむかい側にあるせまい地帯を、とくにえらんで、集中投入してきたのであった。
 こうして、プリュー将軍【プリウーとも。第2、第3軽機械化師団を擁する騎兵軍団長】の戦車部隊が、約160キロのなが旅をおえてディール河岸に到着しはじめた5月10日夕刻には、彼らはすでに孤立状態におちいっていたのであった。
『米英機甲部隊』P56


 この「散開配置」というのは、『The Blitzkrieg Legend』におけるセットアップとはかなり異なります。セットアップでは集中配置されているのです。


 ↓『The Blitzkrieg Legend』の初期配置

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 画像上方中央のやや右で「く」の字に蛇行しているのがディール(Dyle)川で、その南端のジャンブルー(Gembloux)の隙間(川がなくて防御上の弱点になっていた)に、「3.M(第3軽機械化師団)」と「2.M(第2軽機械化師団)」が師団毎にまとまってセットアップされています。


 その第2、第3軽機械化師団のうちわけ↓

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 これはドイツ軍装甲師団にとっても侮れない強さであり、ドイツ軍がプレイで(第1ターン後攻に続いて)第2ターン先攻でこのジャンブルーの隙間にドイツ軍装甲師団群が到達し得たとしても、この2個師団にまともにぶつかって勝てる状態ではないと思えるものでした。

 ところが史実では、このジャンブルーのさらに東のアニュー(Hannut)で5月12~13日(つまり第2ターン中)に戦車戦が行われ、ドイツ軍側が勝っているというのですが、「どうプレイしたらそうなるの?(そうできるの?)」と我々は色々可能性を考えはしたものの、まだ「????」な状態でありました(^_^;


 しかし『米英機甲部隊』にあったように「散開配置」されていたならば、ドイツ軍側が打ち破るのは可能でしょう。ましてや、移動モードでセットアップするというのであれば!

 で、他の資料で調べてみました。

 まず見てみた『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』によると……。

 5月10日の0745時に通報を受けて、プリウー将軍の装甲車、戦車、自動車化歩兵、牽引砲兵はヴァレンシエンヌ(第3軽機械化師団)とモーブージュ(第2軽機械化師団)を出発し、4時間後にベルギー国境を越えて……
 ……
 その間【文脈的には恐らく5月11日のこと】……彼【プリウー将軍】の2個軽機械化師団はジャンブルーを通過して「ディールライン」を越え、18マイル(29km)の低い尾根の広がりの中にあるアニューの町へと前進した。プリウーは麾下の2個軽機械化師団を、22マイル(35km)の正面に薄く広げて配置した(ちなみに、ブランシャール将軍はディールラインの20.5マイル(33km)の戦区に6個師団を配置していた)……第2軽機械化師団はメエエーニュ川の南からユイまで……第3軽機械化師団はアニューのすぐ南のクルアンの村から北方のティーネン(Tienen)までの10マイル(16km)に配置されていた。
『Fall Gelb 1940 (2): Airborne Assault on the Low Countries』P67



 その他に『電撃戦という幻 下』のP76,79、『西方電撃戦 フランス侵攻1940』のP160にも、ほぼ同様のことが書いてありましたが、日にちが、そのどれもが5月11日のことっぽいのではありますが、確定的な書き方がされてません(>_<) まあでも、11日のことで一応良いとしますと……。


 ちなみに、メエエーニュ川というのは↓これかと。

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 再度先ほどのマップを挙げます。

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 矢印のように、5月10日から11日にかけての1ターン(『The Blitzkrieg Legend』は1ターン2日)の間にヴァレンシエンヌとモーブージュからジャンブルーの隙間を越えて移動したとすれば、戦闘モードでは移動力が足りず、移動モードにするのは確定です。で、11日の配置場所ですが、画像右端に「uy」だけ見えているのを赤い四角で囲っているのが「ユイ」で、「Hannut?」と書き加えてある場所あたりが恐らくアニューです。『The Blitzkrieg Legend』は1ヘクス3マイルなので、黒い実線を引いた10ヘクスは30マイルとなり、文献の22マイルよりはちょっと広すぎることになりましょうか。ただ、同書のP65の5月10~13日の地図によると、ティーネンと、ユイの辺りには別の部隊がいたらしいので、そこは防御しなくていいとすれば6マイル引けるので24マイルと、文献とそれほど変わらないことになるのでは。

 そうすると、『The Blitzkrieg Legend』上で第2軽機械化師団にしろ第3軽機械化師団にしろ、7ユニットずつを持っており、それを黒い実線の南北の端を除いた4ヘクスずつに、移動モードで散開配置させる(自由配置で?)……というのが、とりあえずの案になりましょうか。


 しかしこれはあくまでもセットアップの「改造」の案で、オフィシャルには反することになるので、そこんところよろしくです。


大木毅さんの『「砂漠の狐」ロンメル』読了

 大木毅さんの『「砂漠の狐」ロンメル』を、ずいぶん前に読了していたのですが、その前に読んでいた『パットン対ロンメル』からの情報集積作業で手間取っていたため、ブログに書くのがだいぶ遅くなりました(>_<)





 個人的にこの本の一番の収穫は、以前、ロンメルはイタリア軍司令官からの抗議に、ヒトラーの許可を得たのだと嘘をついた? (2017/11/30) で書いていた「ロンメルは嘘をついたのか」という件に関して、「アーヴィングが嘘をついた(ロンメルを貶めるという自説に都合の悪い情報を故意に無視したりした)のであって、ロンメルは嘘をついてない」という詳しい説明があったことでした(P164)。

 アーヴィングが自説に相反する事柄を無視して著作を書いたという件については他にもP228で触れられており、またその直前(P227)にはロンメルに嫌悪感を抱いていたハルダー将軍が、ロンメルが要求した「2個師団」を「2個装甲軍団」と誇張していたと書かれていたりで、そういう情報操作が世の中にはあるものだ、あるいは人間にはそういうことは避けられないものだ、という感を個人的には強くします。


 大木毅さんは山崎雅弘さんの名前をまったく出していませんが、山崎雅弘さんがその著作『ロンメル戦記』でアーヴィングの著作を「基本的には信頼できる」として使用した後、大木毅さんがパウル・カレルを批判する記事で「近年はパウル・カレルを参考文献とする歴史家はいない」ということを書いた時に山崎雅弘さんがブログで、「ためしに手持ちの近年の資料でパウル・カレルを参考文献としているものを探してみたらこんなにありました(笑)」というようなことを書いていたことが、この本を書かせることになったのだと思われます(まあもっと複雑でしょうけども……)。

 例えば、本書P306には、参考文献としてアーヴィングの『キツネの足跡』を挙げた後、こう書かれています。

 本文に示したように、このアーヴィングの著作には、歪曲や捏造、史資料の恣意的引用などが多数ある。むろん、本書では、それらを指摘するために参照したのであって、事実関係を確定するための典拠にしているわけではない。特記する必要もないことであるが、マニアの一部には、参考文献に挙げてあることイコール資料価値を認めたことだと強弁する向きもあるので、敢えて贅言を弄しておく。


 パウル・カレルの『砂漠のキツネ』に関しても同様だとP311にあります。

 個人的には、史実に関する「論争」は終わりのないものだと思いますし、私はそういう論争自体好きなので、論争的なものはどんどんやっていってもらったらなぁ……と思います。





 一時期は『「砂漠の狐」ロンメル』はでっかい本屋に行ってもまったく見つかりませんでしたが、最近は小さい本屋でも平積みにされています。どんどん売れてもらったらいいですね~。



 あと、個人的に2番目の収穫は、↓です。

 このころ【1940年5月の対フランス戦役でダンケルクの戦いが終わった後の、第二段階「赤の場合」の時期】になると、フランス軍は、従来のように戦線の維持を重視するのではなく、森林や村落を拠点として、縦深的に抵抗する戦術を採用していた。それゆえ、ドイツ軍は、5月20日よりフランス軍総司令官になったマキシム・ウェイガン大将にちなんで、「ウェイガン線」と呼ばれた防衛線を突破するのに手こずった。
『「砂漠の狐」ロンメル』P145


というのは、OCS『The Blitzkrieg Legend』のプレイと史実を比べた時に悩むのが、「なぜ史実ではフランス軍やベルギー軍はそんなにもあっという間に退却してしまったのか」ということで、一応推測として「戦線至上主義だったからではないか(戦線の一角が破れると退却するというのが彼らの常識だったのではないか)」というのが個人的に思いついてはいたのですが、『「砂漠の狐」ロンメル』のこの記述はその推測を裏づけるものになりませんでしょうか?

 あるいは、「戦線よりも縦深が大事」というOCSはやっぱり素晴らしいなぁという主張の補強になりませんかね?(おい)

OCSユニットで見るドイツ空軍のハインケルHe.111

 『ドイツ戦闘機開発者の戦い』という本を読んでいたんですが、その中に、OCSで良く見る爆撃機/輸送機であるハインケルHe.111について書いてあり(当然ですが(^_^;)、ちょっとまとめてみようと思いました。





 まずHe.111の概略を。

ハインケルHe111 / Heinkel He 111
 1937年にドイツ空軍で就役、スペイン内戦においてドイツ中距離爆撃機の名声を大いに高めた。1938年、短いガラス張りの機首を持つHe111Pが導入され、また大量生産されたHe111Hの形も決定した。He111Hは第二次世界大戦時にドイツ空軍の標準型水平爆撃機となった。その時点でこの機はライバルのイギリス空軍機よりわずかではあるが勝っていたが、 もはや最新型のイギリス戦闘機の敵ではなかった。というのは、たった3挺の機銃しかなかったからだ。
 イギリス本土防空戦における甚大な損害は、防御兵器および防護装甲の強化を必要とし、 これは少なくとも1名の乗員増を必要としたため、性能を著しく損なうこととなった。このため1942年には容易な標的となっており、緊急に代替え機種が必要とされた。後継機種の開発は遅れがちであり、このためHe111Hは1942年10月まで生産が継続され、7,000機余りが生産され、 He111H23をもって生産は終了した。あらゆる戦線に投入され、各種ミサイルの親機、対気球航空機、滑空機曳航などの多様な用途に用いられた。
<データ>(He111H3) 型式:4~5人乗りの中距離爆撃機、エンジン:ユンカース・ユモ1,200馬力×2、最大速度:413km/h、上昇限度:7,800m、航続距離:1,200km(完全装備)、武装:7.92ミリ機関銃×6~7、爆弾搭載量:2,000kg。
『第二次世界大戦事典』P419,420



Bundesarchiv Bild 101I-343-0694-21, Belgien-Frankreich, Flugzeug Heinkel He 111

 ↑飛行するHe111(第53爆撃航空団所属機、1943年9月撮影 Wikipediaから)







 He.111はOCSで非常に良く見る機種ですし割と役に立つこともあり、個人的に集めている1/144スケールでの塗装済みHe.111があればなぁと思ってメルカリ等で探してみたことがあるのですが、出品されている写真を見て「あまりかっこよくないなぁ……」と思ってその時は食指が動きませんでした(^_^; 特に、正面から見た時に機首が左右対称でないのが気持ち悪さに一役買っているような気がします(あくまで個人の感想です)。


 次に、OCSユニットでもって、そのゲームに登場するすべてのHe.111ユニットを並べていきます。ただし、『Hube's Pocket』は持ってないのと、『Baltic Gap』はスキャンしてなかったので、BoardGameGeekの画像を借りてきました。

 基本的には(2)-12 1/2T(防御のみの空戦力が2で爆撃力が12、輸送力が1/2T)ですが、ちょっと違った能力のものもありますね。航続距離の差はスケールが違うからという場合もありますが、スケールと関係なく違うものもあるような……?



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 ↑『The Blitzkrieg Legend』

 白い×印が付いているのは、常に運用できるわけではないユニットです。『DAK-II』のものも同様。




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 ↑『DAK-II』

 


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 ↑『Smolensk:Barbarossa Derailed』




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 ↑『Guderian's Blitzkrieg II』




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 ↑『Case Blue』

 He111zbV(特殊任務?)というユニットがあって、輸送力が1Tのやつと2Tのやつがあります。特に2Tのやつは、何かを曳航しているようですが……?




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 ↑『Tunisia II』

 グライダーを曳航している1Tバージョンのものがあります。




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 ↑『Sicily II』




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 ↑『Hube's Pocket』




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 ↑『Baltic Gap』



 『Beyond the Rhine』にはHe.111ユニットは1枚もありませんでした。まあ、『Beyond the Rhine』には戦闘機以外のドイツ空軍機はほとんど出てきませんで、もう防空戦闘以外のことができる状態ではないという感じが強いのでしょうか。



 再度、文献による記述を挙げていきます。

 戦前に民間機としてデビューした双発爆撃機の第3番目のものは、ハインケルHe111であった。これはイギリス本土爆撃に参加したことで広く知られているが、実際にはあまり成功した機体ではなかった。ただし、 1936年に実戦配備となったHe111Bは、有望な爆撃機として期待された。DB600CG液冷950馬力エンジンを装備したHe111Bは細長い機首部、幅の広い主翼を持ち、最大時速は370キロ、最大爆弾搭載量は1.5トンという性能であった。スペイン内戦ではほとんど抵抗を受けなかったせいで、損害も少なく、威力を発揮した。このため、 7.92ミリMG15旋回機銃わずか3丁という貧弱な武装は強化されなかった 1939年以前にD型とE型が作られ、またH型が標準量産型となったが、武装に変化はなかった。ユンカース「ユモ」211 D-2 (1200馬力)エンジンを装備したH型は、機首部が改設計されて気泡型となり、最大時速は405キロ、最大爆弾搭載量は2 トン、航続距離は1200キロに向上した。しかし防御力がきわめて弱いため、1940年のイギリス本土空襲では大きな損失を出した。ハインケル社は機銃の数を増すとともに、運用高度と速度の改善をはかったが、成果はなかった。1942年には、 He111は、脆弱な旧式機となっていた。これの後継機がなかったことは、ドイツ航空工業界の近視眼的ビジョンのあらわれであった。He111は1945年になっても使用されたが、実績はふるわなかった(He111の総生産数は5656機)。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P219,220


 それまでのドイツ双発爆撃機はJu 86も含めて「爆弾を搭載して飛行できればよい」のレベルで、発行性能や実戦を考慮した機動性などはまだ問題にもなっていなかったという(低空での機動性に優れ「垣根飛び」と呼ばれたDo 17はHe 111とほぼ同時期の開発)。それがHe 111では速度性能だけでなく、操縦性、運動性などに関してもそれまでの爆撃機の水準を抜きん出たものがあった。開発が先行したHe111商業機型も同時代の双発機、三発機の水準を破る飛行性能を示したので新聞紙上では「戦闘機よりも高性能の旅客機が登場」と報じられて内外の関心を集めた。
 ……
 He111はポーランド侵攻からいわゆる電撃戦、バトル・オブ・ブリテンと主力爆撃機として使用され、この間にドイツ爆撃機が英空軍戦闘機に対して極めて脆弱であることも露呈された。それでもHe111の実用性の高さは卓抜しており、後発のユンカースJu 88とともに主力機の役割を務め続けた。He111にはJu 88ほどの多用途性や機動性はなかったが、雷撃機、偵察機、輸送機としても使用されるようになる。やがては破天荒な改造型(双胴化した五発機のHe111Z)も現われ、飛行爆弾V1号の発射母機としても使用される(He111H-22)。結局、第二次大戦が終わる1945年春まで主力機としての役割を務め続けることになる。
 He111はハインケル社の企業としての拡大、工場の拡張を象徴する機体で、1937年から操業開始されたオラーニエンブルク工場で大部分が製造された。約7000機も製造されて足掛け十年近く使われ続けたのは、やはりギュンター兄弟による基礎設計が優れ、様々な任務に適用できるほど実用性が高かったからであろう。
 だがそうなった理由の一方には、He 111以後の爆撃機に急降下爆撃能力を要求したり、後継機種になるはずのHe 177の開発に失敗したりという、ほかの主要交戦国にはみられないような、ドイツ空軍ならではの混乱ぶりもあった。本機を開発、生産したハインケル社の社主であるエルンスト・ハインケルが「爆撃機など作りたくない。戦闘機を作らせろ、驚くほど高性能なのを作ってみせる」と技術局長のウーデットに楯突いたのも尋常ではないと言える。そういった意味においては、He111は最もナチス・ドイツ的な爆撃機だったということにもなるだろう。
『ドイツ戦闘機開発者の戦い』P107,112,113



 第二次世界大戦の名機ばかりを扱ったような本ではHe.111はほとんど項目立てされていないようなので、どちらかというと「残念」な機種扱いなのかもですが、OCSをプレイしている限りではHe.111の(2)-12 1/2Tというのはおっそろしく便利です。例えばJu.87なら爆撃力17を持っていたり(初期の『The Blitzkrieg Legend』や『Smolensk:Barbarossa Derailed』では12)、Ju.88は爆撃力12、そして輸送機としてはJu.52は1Tの能力を持ちますが、He.111は爆撃が必要なら爆撃機として、輸送が必要なら輸送機として運用でき、その両方の能力がある一定の水準に達しているため、両使いできる融通の利くある程度の有能な航空ユニットとして非常に重宝します。

西部戦線:米軍のホッジス将軍について、ちょい調べ(加筆版)

<以下、2019/05/08のエントリを加筆したものです>

 現在、尼崎会にてOCS『Beyond the Rhine』をプレイ中ですが、西部戦線における連合軍司令官について、パットン、モントゴメリー、ブラッドレーくらい以外は全然知らないので、ちょっと調べてみました。

 まずは、戦区でモントゴメリーとパットンの間に挟まれた第1軍司令官のホッジス将軍について。


 『Beyond the Rhine』セットアップ時の戦線区分についてはこちら→OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーンセットアップ完了 (2019/03/23)

Courtney Hodges

 ↑コートニー・ホッジス将軍(Wikipediaから)



 まずは概略。

 歩兵戦闘のエキスパート。1941年から42年まで情報部長を務めていたが、 1942年の暮れに第10軍団長に任じられた。翌1943年、第3軍にあって中将に昇進したが、間もなくアイゼンハワーの命により、 アメリカ第1軍司令官でブラッドレーのもとで副司令官とされた。この軍は、ヨーロッパ反攻に備えていた。1944年、 ノルマンディー上陸軍はブラッドレーの下で第12軍集団として統合され、ホッジスはアメリカ第1軍の司令官となる。ジークフリート線に達していた彼は、アーヘンを占領、バルジの戦いに際して、アメリカ軍前線の北半分をよく支え、この戦いの勝利を助けた。さらにその軍はレマーゲンの橋を占拠し、ルール地方の包囲に力を与えた。アメリカ陸軍の中ではさして有名な部類には入らないが、おそらく最も優秀な指揮官の1人とされるべき人物である。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P363



 「歩兵戦闘のエキスパート」ということで言えば、こんなことも書かれていました。

 歩兵科長官【? chief of infantry】としての在職期間中にコートニー・ホッジスは、携帯式の対戦車兵器であるバズーカやM-1カービン銃の採用、それに空挺部隊の使用などを押し進めた。
『US Commanders of World War II(1)』P15



 『Allied Commanders of World War II』は、ホッジスの無名性と戦線の広さについて特に注目しているようでした。

 マイルズ・デンプシー【がモントゴメリーの陰に隠れていたの】と同様、ホッジスは同時代の異彩を放つ輝き - 彼の場合それはパットンであった - の陰に隠れてしまう運命にあった。……級友であったアイゼンハワーはホッジスを第1軍司令官の副司令官に任命したが、それはブラッドレーが第12軍集団司令官になる時にはその後を引き継ぐという了解のもとでであった。だがブラッドレーは、世間に広く知られる可能性を持っている時期に、野戦司令官の経験のないホッジスを用いるのには気が進まないでいた。ブラッドレーは、自然と注目を集めるパットンの方が良かったと思っていた。
 ホッジスは有能で、物事をうまく処理したが、注目はされなかった。ホッジスは両側面をパットンとモントゴメリーがどんどん進んでいく中、あまりにも広い戦線を担当しなければならない不利を抱えて作戦を行わねばならなかった。このために彼はジークフリートラインを自由に移動することができず、1944年9月中旬までアーヘンを占領できなかった。11月には第1軍はルーア川とユーリヒを目指す攻勢で大損害を被った。担当戦線が長過ぎたためにホッジスはアルデンヌ戦区を弱体なままにしており、12月に【ラインの守り作戦によって】驚愕することになったが、その責めの大部分はブラッドレーが負うべきである。
『Allied Commanders of World War II』P16,7



 無名性ということで言えば、英語版Wikipedia「Courtney Hodges」では、↓とありました。

 アイゼンハワーはホッジスを米軍がドイツ本国へ進出する上での「先鋒であり、輝ける星であった」と語り、「見出し作家からは見過ごされているようだ」が、ホッジスの業績が正当に認識されるように努めた。




 『US Commanders of World War II(1)』のホッジス評は色々書かれていて面白いのですが、相矛盾するようなことが書かれているような感じもします。

 1943年2月に中将に昇進したホッジスは、英本土においてアメリカ第3軍の司令官となった。翌年1月、ブラッドレーの副司令官となる。ブラッドレーが軍集団司令官となると、ホッジスはブラッドレーから第1軍の司令官職を引き継いだ。ブラッドレーが第1軍に残したのは、短気なホッジスと、有能ではあるがかっとしやすい幕僚達とであった。ブラッドレーは幕僚達をコントロールできたが、ホッジスにはコントロールできなかった。その為、戦争の残りの期間中、第1軍の司令部では何度も繰り返し問題が起こった。ホッジスは第1軍を率いて北フランスとベルギーを駆け抜けたが、ジークフリートラインの前で急停止した。アーヘンとルーア川のダムを巡る血みどろの戦いに続き、バルジの戦いが始まった。アイゼンハワー以下のすべてのアメリカ軍上級指揮官同様ホッジスは、アルデンヌを突破するというドイツ軍の攻勢に驚愕した。しかしながらホッジスはこの危機に良く対応し、攻勢の2日目の12月17日に自身の戦線の穴を塞ぐために2個空挺師団を派遣して欲しいとの重要な要請を行った。その後、彼の第1軍はレマーゲン鉄橋を通ってドイツ本土へ進撃し、1945年3月にエルベ川においてソ連軍との邂逅を果たした。その間ずっと、ホッジスは部下達がためらうことをほとんど許さず、軍団司令官1人を交代させることさえした。……
 ブラッドレーはホッジスのことを、冷静で用心深い歩兵戦術家であると考えていた。しかし他の多くの人びとはそうは考えず、ホッジスは高圧的な幕僚にはすぐ屈するし、用心深すぎると思っていた。
ある歴史家はホッジスのことを適正にもこう評している。「几帳面な傾向のある有能な作戦指揮官」
『US Commanders of World War II(1)』P16



 先述の英語版Wikipediaでは、バルジの戦いの時にホッジスがスパの司令部を放棄してリエージュへと撤退したことに関して、不名誉なことであり、もしイギリスの将軍だったならば更迭されたかもしれない……というように書いてあるようで興味を持ちました。

 しかしなんか日本語で読めるそこらへんの経緯は見つけられず、英語であればGoogle Books上で、

Antony Beevor『Ardennes 1944: The Battle of the Bulge』

Christer Bergstrom『The Ardennes, 1944-1945』

 で読めそうでしたが、まあチラリと見たぐらいで、それ以上まではパスで……(^_^;


 それから、第二次世界大戦ブックスの『猛将パットン』を見ていると、バルジの戦いの戦功について、パットンだけが名声を得たのはなぜだろうか……という文に続いて、こうありました。

 第1軍のホッジスの名声は色あせてみえたが、内気なかれは、報道関係者をあつかう才覚に欠け、戦果をあらいざらい発表する能力もなかった。
『猛将パットン』P128



 うーむ、なかなか色々面白いです。



OCS『Beyond the Rhine』の架橋(pontoon)ユニットについてGeekで質問してみました

 OCS『Beyond the Rhine』の架橋(Pontoon)ユニットについてどう解釈すればいいのか良く分からなかったので、Geekで質問してみたところ、ジョン・キスナー氏から返答がありました(ジョン・キスナー氏はOCSチームの班長らしいです)。

 ↓そのGeekの掲示板(ログインが必要かも)
about the Pontoon units


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 ↑『Beyond the Rhine』のpontoonユニット


 『Beyond the Rhine』の1.10に、

大河川と小河川 工兵能力(OCS シリーズルール13.8a 項)が使えるならば、架橋ユニットは隣接する全ての大河川、小河川、運河ヘクスサイドに新しい橋を架けます(小道(Track)を通って渡河するとみなします)。

とあるのですが、これは「文字通り小道が架けられる」ということであり、しかも「ヘクスサイドに小道が架けられる」というよりは「架橋ユニットのあるヘクスの中央から、対岸ヘクスの中央に小道が架けられる」ということらしいです。


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 具体的に↑のようなケースについて質問してみたところ……。

 ヘクスにかかっている青い模様はポルダー(低湿地の干拓によって生じた土地で,堤防に囲まれ,水位を調節できる干拓地)で、装軌/自動車化ユニットは道路なしでは入ることも出ることもできません。で、画像のようにポントゥーンがある場合、装軌/自動車化ユニットは、それぞれのヘクスの道路に小道が繋がれるようにして存在するようになるのだそうで。だから渡れますし、攻撃もできるし、渡った後でマップ上に書かれている道路に沿って移動を継続することもできる、と。

 とすると、例えば、

 ポントゥーン - 深い森

 のようなケースであっても、移動コストは小道(つまり1)で良い、ということになると思われます。

 ただし、攻撃力に関しては、元の小河川や大河川の1/3や1/2そのままになる、と。



 それからまた、念のために↓のようなケースについても質問しておきました。

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 これはポントゥーンでなくて、OCS共通ルールによる普通の司令部によると架橋効果に関してです。司令部の架橋効果は小河川を「①追加移動力なし」にし、また「②架橋なしでは攻撃できない地形を攻撃可能」にしますが、また一方で、OCS9.afに「入れるヘクスにしか攻撃できない」という縛りがあり、画像のようなケースではポルダーに装軌/自動車化ユニットが入れるためには道路が必要ですから、①の効果は道路を作るわけではないので、攻撃できないですよね? と。

 答は「そう、攻撃できない」でした。で、もちろん、これが司令部でなく、ポントゥーンユニットなら攻撃できる、と。


 あと、別の人も書き込んでいて、↑の画像で、ポントゥーンなら、その目標ヘクス(28.07)に装軌/自動車化ユニットは入れるけど、元のヘクス(27.08)に戻ることはできるが、その他のヘクスにはまったく移動できない、ということが確認されていました。ので、もし28.07に入った後にポントゥーンユニットがいなくなったら、そのユニットはもうまったくどこにも移動できないということになります(^_^;


西部戦線:米軍のパッチ将軍について、ちょい調べ(付:OCS『Beyond the Rhine』)

 OCS『Beyond the Rhine』を舞台として出てくる軍司令官ですが、第7軍のパッチ将軍について、英語版Wikipediaで見ていたらある程度キャラクター的な逸話があったのでそれと、『パットン対ロンメル』から書き出してみようと思います。


Alexander Patch portrait

 ↑パッチ将軍(Wikipediaから)


 まずは略歴的なもの。

パッチ、アレクサンダー·マッカレル(米、陸軍大将Patch, General Alexander McCarrell)1889-1945
アメリカ参戦前の1941年、 ノースカロライナのクロフト駐屯地で、歩兵補充センターの指揮をとる。1942年春、南太平洋ニューカレドニアにおけるフランス軍の防衛を支援するため派遣され、同地の任務部隊の司令官に任命される。1943年初頭、 アメリカ軍の指揮官として、麾下の部隊にガダルカナル戦初の主な陸上戦勝利をもたらす。1944年3月、 アメリカ第7軍の司令官となり、 8月15日フランス進攻の一部(ドラグーン作戦部隊) として、 カンヌ、 ツーロン間に上陸。第7軍は着実に戦ってローヌ河谷を前進し、冬にはアルザス地方を、 1945年3月15日にはザール地方を占領する。ドイツG軍集団は退却し、パッチは3月26日ラインを渡河。その後南ドイツへ一気に突入して、 ドイツが国家堡塁にたてこもるのを阻止した。1945年5月5日、バルク将軍麾下G軍集団の正式降伏を受理。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P339



 ドラグーン作戦に関して言えば、昔々、Hexasim社の『Liberty Roads』を枢軸軍側でプレイする機会があった時、ドラグーン作戦なんてものの存在を知らなかったこともあって南フランスから上陸されてするすると前進されてしまい、「あっちゃー!」と思った記憶があるのですが、しかし当時のドイツにはそれに対する備えは元々なかったのでしょうか? ↓こんな風にも書かれていました。

 しかしパットンが第七軍を率いてマルセイユ地方の浜辺に上陸していたらどんな展開になったか、われわれは考えずにはいられない。以前にディヴァースとパットンが会ったときも、協力し合えないような雰囲気はまったくなかった。性分という点でいえば、パットンとフランス第1軍司令官のジャン・ド・ラットル・ド・タシニーはよく合った。攻撃的で冒険家的なところがそっくりだったのだ。パットンはこの祖国へ帰ろうとするフランス人が背負っていた、感情と態度両面での複合的な重荷に大いに共感していたが、これはディヴァースや、太平洋から異動してきたアレクサンダー・パッチにはよくわからない部分だった。ちなみにパッチは、最終的に第7軍を指揮して、抵抗するドイツ軍と戦いながらロワール渓谷まで進撃していった。ドイツ軍は、このふたりのアメリカ将軍のゆっくりとした進撃ペースにも太刀打ちできなかったのである。パットンが中心になってこの「お気楽な作戦」を推進していたら、どうしただろうか。だがこの疑問は永遠に答えが出なかった。
『パットン対ロンメル』P311


 パッチがアメリカ第7軍司令官、タシニーがフランス第1軍司令官で、その2つを麾下に持つのがディヴァース将軍の第6軍集団……というくくりですね。英語版Wikipedia「Seventh United States Army」によると第7軍が第6軍集団麾下に入ったのは9月15日だそうで、また第7軍には3つのアメリカ師団と、5つのフランス師団、それに第1空挺任務部隊があったそうです。


 英語版Wikipedia「Alexander Patch」にはこう書かれていました。

 パッチ第7軍に麾下に入った第6軍団司令官であったトラスコット少将は、彼のことをこう書いている。「私は彼の極めて素晴らしい高潔さ、勇敢で有能な指揮官ぶり、そして戦友としての無欲さに触れ、彼を尊敬するようになった。」


 うーむ、すごい誉められようです!


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 ↑トラスコット将軍の第6軍団司令部(『Beyond the Rhine』から)


 余談ではありますが、トラスコットも有名な指揮官らしく、過去にアメリカ第3歩兵師団長ルシアン・トラスコット (2016/11/14) というエントリを書いたりしました。あとトラスコットは、(『Beyond the Rhine』で扱う期間・場所中に起こった事件である)日系2世部隊第442戦闘団連隊を「失われた大隊(テキサス大隊)」救出のために(故意に?)犠牲にしたも思われるダールキスト第36歩兵師団長(彼はまた、部下や日系2世兵から「無能」と思われていた)の直属の上官にあたります。トラスコットはダールキストを、この救出前か、救出後かに、その能力に疑問符が付くことから解任を検討したものの、やめておいた……という話があったらしく、もしそれが救出前の話だったならば、解任しておいてくれれば良かったものを……と個人的に思わずにいられません(T_T)


 その「失われた大隊」救出は10月25~30日の出来事なのですが、Wikipediaによるとその直前にパッチ将軍は従軍していた息子を、その若干北の地域で失っていたそうです。

 パッチの息子アクサンダー・M・パッチ3世は、1944年10月22日に北東フランスのムルト・エ・モーゼル県で第79歩兵師団の第315歩兵連隊歩兵中隊長としての軍務中に戦死し、パッチ将軍は身内の悲劇に見舞われたのだった。



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 ↑第79歩兵師団(『Beyond the Rhine』から)




 また、翌年3月のいよいよライン川渡河がなるかという頃に、こういうことがあったそうです。

 アイゼンハワーが第7軍の司令官に、彼の戦区にパットンが「越境追撃」をくわだてることで、何か問題があるかと尋ねると、アレクサンダー・パッチは答えた。「われわれはみな同じ軍の者です」。彼はマルセイユからの長い道のりの間に息子を亡くしていた。それがひとりの男の価値観や考え方を変えたのかもしれない。
『パットン対ロンメル』P381



 パッチ将軍は、太平洋戦域で指揮を執っていた頃から健康を害しており、第二次世界大戦終結の年のうちに亡くなりました。

OCS『Tunisia II』:アメリカ軍師団を批判した英クロッカー第9軍団司令官

 『パットン対ロンメル』から情報を集積しているのですが、このようなくだりがありました。チュニジア戦の最終盤のことです。

 4月の初め、イギリス第9軍団の、サー・ジョン・クロッカー司令官は、報道陣の前で自分の指揮下にあるアメリカ師団の遂行能力を批判した。アレクサンダーもその師団については「いまひとつ」と言っていた。パットンは日記にこう書いている。「くそ、イギリス野郎め。(中略)アイク【アイゼンハワー】のやつ、あんなことを言われても何も手を打たないに決まっている。こんなことだったら、アラブ人に命令されているほうがましだ」。しかし陰ではそう言いつつも、彼はアレクサンダーには、この問題の師団は、孤立主義が多い中西部出身の州兵で構成されているのだと説明した。そして、一英軍将校の言葉を頼りに彼らを前線から外すような、面目丸潰れのことをしたら、それこそ重大な政治的反動を呼ぶことになると警告した。
『パットン対ロンメル』P287



 この批判されたアメリカ師団が具体的にどれであるか、調べてみたら分かるかも? と思って調べてみました。


 とりあえずまず、VASSALで『Tunisia II』の1943年4月22日ターン開始の「アフリカ戦役の終焉」シナリオのセットアップを見てみたところ……。

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 下の方真ん中やや左にイギリス第9軍団司令部ユニットがありますが、近くにアメリカ軍師団はいない……。やや上に第1機甲師団や第1歩兵師団がいますが、これらの部隊はチュニジア戦当初はダメダメだったかもですが、終盤にはレベルは上昇していたと思われるので、その上の第34歩兵師団か、第9歩兵師団あたりかも……? と思いました。両者とも、アクションレーティングはオール2でした(第1歩兵師団はオール3。第1機甲師団は3/9がAR3で、あとは2)。


 次に、「tunisia 9th corps」でネット検索してみたら、英語版Wikipedia「IX Corps (United Kingdom)」というのがあって、その中に、麾下にアメリカ第34歩兵師団があったと書いてあったので、これだな、と(^_^;

 さらに、司令官の一覧もあったのでそこから英語版Wikipedia「John Crocker」を見てみると、こんな風に書いてありました。

Lieutenant General J T Crocker, Cb, Cbe, Dso, Mc, Commander of 1st Corps, France, August 1944 TR2168

 ↑クロッカー将軍(Wikipediaから)

 1943年4月8日に行われたフォンドック峠での最初の戦闘でイタリア第1軍を切断しようとしたクロッカーは、目の前の防御力を過小評価した。【英】第6機甲師団の第26機甲旅団と、当時クロッカーの元に配属されていた【米】チャールズ・W・ライダー少将麾下の米第34歩兵師団はお互いにもつれ合ってしまい、最終的に機甲部隊が突破を果たした時にはイタリア軍部隊のほとんどが逃げ去ってしまっていた。クロッカーによる歩兵の扱いも貧弱であったと思われたが、その後の彼によるアメリカ軍部隊への批判は連合軍総司令部を憤慨させ、北アフリカにおける連合軍最高司令官であるドワイト・D・アイゼンハワー将軍を激怒させた[29]。



 この最後の[29]というソースは、先日注文していた『Churchill's Lions:A Biographical Guide to the Key British Generals of World War II』だそうで。おおおお。


 その後クロッカー将軍は、ノルマンディー上陸作戦やカーンを巡る攻防で指揮を執ったそうですが、『Beyond the Rhine』にかかる頃にクロッカーがどうであったのかなんかちょっと良く分からなかったので、パスします(^_^;


OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第3ターン先攻連合軍

 5月5日にOCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーンの第3ターン先攻連合軍をプレイできました。

 今回は長谷川さんはお休みで、肉入り鍋さん、ワニミさん、私でプレイしました。


 まず最初に、2ターン先の空挺降下のプロット作業をしてました(前ターンにした扱いで)。

 ↓連合軍の第1連合空挺軍

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 松浦方式(片方の陣営を全員でプレイし、反対側の陣営も全員でプレイする。担当区域はなるべく自分の正面にならないようにする)でプレイしており、史実でマーケットガーデン作戦のあったドイツ軍戦区は松浦がプレイしているため、松浦には分からないようにワニミさんと肉入り鍋さんとで相談してもらいました。

 ↓筆談も交えて相談中

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 また、本来はプロットは1通りしかできない(同時に同一ユニットに関して2パターンの空挺計画をプロットしたりできない)のですが、松浦方式だとそれではまだバレバレで緊張感が生じないので、複数プロットOKで実行時に総司令官が判断するということにしてます。ので、南方でもプロットしてました。



 ↓第3ターン先攻連合軍終了時の北方戦区

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 連合軍総司令官デッセム・アイゼンハワーは「最低でもアルベール運河」「トラスト・ミー」と語り、ワニミ・モントゴメリー元帥とナベ・ホッジス将軍はアルベール運河に取りつき、次ターンの渡河が見えてきました。同時に、ドイツ軍の多くのユニットが包囲下に。



 ↓同、南方戦区

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 マップ南端から入ってきたパッチ第7軍とパットン第3軍が手を繋ぎ、マップ南西端のドイツ軍部隊を孤立させました(これは事前の認識不足から起こったことで、2回目以降のプレイでは避けられるはずです)。前ターンにドイツ軍に取られていた重要な鉄道結節点はフランス第2機甲師団が反撃を行い、1ステップロスしたものの取り返しました。


 OCSは最初の1、2ターンは状況認識のためにプレイに時間がかかりますが、だんだんプレイが早くなってきて、今回は結構早く終わりました。が、次のプレイヤーターンをプレイするには中途半端だったので、早めに終了としておきました。

 このターンは初めて飛行条件がノーマルであったので、連合軍の「インターディクション(航空阻止)航空基地ボックス」にあるユニットを使用しないでおけば自動的にドイツ軍は「被航空阻止状態」となります。具体的には、鉄道輸送コストは2倍、すべての道路は1MP消費、航空整備能力半減です。

 次のプレイの時に忘れないようにするために、ホワイトボードに書いておきました(^_^;

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 次回は5月12日(日)に尼崎会を開催予定です。飛び入り、見学大歓迎です!


OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第2ターン後攻

 5月4日に尼崎会(拙宅)で、OCS『Beyond the Rhine』のフルキャンペーン第2ターン後攻(ドイツ軍)をプレイできました。


 と、そのプレイ前に、以前から「確か、増援か何かが給油状態で入ってくるんだね~、と確認したと思うのだけども、それがどこに書かれていたのか、あるいはそれが記憶違いだったのかが分からない……」とワニミさんと一緒に悩んでいたのですが、ワニミさんがついにその場所を発見! 何回か(も)見ていた『Beyond the Rhine』のエラッタ上にありました……。

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 赤く塗ってあるところ。「マップ端に到着する全てのユニットには、1Tを入れる方式で給油されています。」とあります。これをちゃんと「どこに書いてあったかとその内容」をメモっておいて、ブログのその回に書いておけば、後で「あれ~?」とはならなくて済んだのに……(T_T)

 しかもこのエラッタ、我々は適用せずに連合軍ターンを2ターンほどやったわけですが、まったくSPが足りず「どうやって連合軍はマーケットガーデン作戦の発起点まで到達したのだ……???」と悩んでいたほどであるので、超重要なエラッタと言えます。今回の我々のプレイでは、過去1.5ターン分の増援をチェックして、燃料を消費していた分をマップ上に出すようにしました。


 あと、先日からOCSを中心としてミリタリーネタをつぶやくためにツイッターを始めました。で、このブログの右側にもそれが表示されるようにしてあります。なぜツイッターを始めたかというと、MultiManPubの公式ツイッターがYSGAがOCS『Guderian's Blitzkrieg II』に関してツイートしているのをリツイートしているのを見て悔しくなったから……というのは秘密です(おい)。


 さて、今回も肉入り鍋さん、長谷川さん、ワニミさん、私の4人でプレイしました。

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 ↓第2ターン後攻ドイツ軍終了時の北方地区

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 ワニミ・ルントシュテットは「まだまだ行ける! 攻勢ダー!」とも言っていたのですが、北方での現地司令官(包囲されていた第9SS、第10SS、第116装甲師団を中心とする1個軍団を長谷川さんが指揮、それ以外を松浦が指揮)はそれを無視して、一般補給が引ける状態で残せる嫌がらせ部隊は残しつつも退却しました。画像中央の赤い矢印が、長谷川さんが指揮した部分です。



 ↓同、南方戦区

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 南方戦区では「ドイツ軍は攻勢できる!」というワニミ・ルントシュテットの主張、指導のもと、現地司令官の肉入り鍋さんは画像矢印のようにしてアメリカ軍の補給集積所を狙って突出。その攻勢を受ける側になったアメリカ軍戦区担当であった松浦は最初、「いやいや、大丈夫」と思っていたのですが、「こういう対処法もある……あれ、無理だ。いや、こういう対処法も……できない!? こんな方法もあるじゃん……不可能、だと……!?」となっていき、ついには「この場所がこんなにも急所だったとは……もう南方の連合軍は大崩壊必至かも……(T_T)」とまで思い詰めたのですが、その後の脳内会議により、ある箇所と、そこからある箇所までの経路が保持されていればほぼ問題ないという結論になり、ドイツ軍側がそこまで進出しないかハラハラしながら見守っていたのですが、なんとかそこまではされなかったのでほっと胸をなで下ろし……。

 補給集積所に置いてあった2SPは防御戦で連合軍側が2Tを消費し、残り6Tは戦闘後前進で入ってきたドイツ軍が捕獲チェックでまさかの1を出して0%の獲得となりました。ドイツ軍側は一般補給も戦闘補給も出せない状況でこの突出をおこなったとかで、攻勢先端の数ユニットは「LOW」になっていて実はこのままでは自己崩壊せざるを得ず、「敵の補給物資が得られるのを当てにしていたのに~!!」と(><@)ジタバタしておられました。

 うーむ……お互いがノーガード戦法で殴り合うOCSの恐ろしさ……(>_<)


 その次の第3ターンの冒頭処理をおこなったのですが、とりあえず地表状態は乾燥で飛行状態はノーマル。イベントは「闇市場」で連合軍の補給が1コラムマイナス。イニシアティブは連合軍が獲得し、とりあえず南方の状態を安定させるために先攻を取らざるを得ない、ということでいそいそと増援のユニットを探し出し、角を落として、それらが出てくる範囲のマップ端に置いていってみたところ……。

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 ↑マップ南西端。黒い線が戦線で、赤い矩形で囲んだ部分が入ってくる連合軍増援。


 なんと、ドイツ軍側が保持しているマップ南西端に大量の連合軍増援が!(ちなみに北方戦区への増援はこのターンなし) 「なん……だと……!? しかしそれらのマップ端は、連合軍の補給源とおうわけではあるまい!?」とワニミ・ルントシュテットが仰るので確認してみたところ、紫色のオハジキを置いた場所から西はすべて、もともとずっと連合軍の補給源であったということが判明! 「な、なんということだ……」「聞いてないよ~(>_<)」状態に。

 普通のウォーゲーマーであれば、出てくる増援をすべてチェックしてあるのが普通であるそうですが、我々は全然チェックせずに行き当たりばったりでプレイしていたためにこんなことに(^_^;

 まあ、OCSは複雑性が高めであることもあり、目の前のことに夢中になって、他のことが疎かになるなんてしょっちゅうです(^_^; それゆえに敵味方双方に常にどこかに弱点があることになり、劇的なことも起こり得ます。そこらへん、史実に近いんじゃないでしょうか(と、フォローフォロー(^_^;)

 しかし実際、プレイがかなり楽しいのも確かです。さー、続けてプレイしていきますよ!

OCSユニットで見るイタリア軍のサヴォイア・マルケッティSM.79,SM.81,SM.82,SM.84(爆撃機&輸送機)

 『第二次世界大戦事典』をパラパラと見ていて、たまたま目にとまった、イタリア軍の爆撃機SM.79に関する記述に、大いに興味をそそられました(特に、「連合軍の軽蔑は不当と言える」の所に!)。

参考:日本語版Wikipedia「サヴォイア・マルケッティ SM.79」

サボイア-マルケッティ SM79スパローホーク(スバルピエロ) /
Savoia.Marchetti SM79 Sparrowhawk(Sparviero)
 初めは民間輸送機に擬装されていた3発エンジンSM79Iは, 1936年末に航空界に登場し、スペイン内戦において陸上爆撃機および雷撃機として、両方で素晴らしい成功を収めた。1939年10月初めて配備された新しいエンジンのSM79IIは,第二次世界大戦で多目的に使用され、同じように成功を収めた。頑丈で操作し易いSM79IIは、困難な条件下でも勇猛に戦い、連合軍の軽べつは不当といえる。1944年初頭まで製造が続けられ、最後の型はパイロットの頭上に20ミリ砲を追加装備したSM79III であった。あらゆる型のスパルビエロが1,200機イタリア空軍で使用され、輸出されたのは100機程度にすぎなかった。多くは低速で双発のSM79B型であったが、1.200馬力ユンカースエンジン2基を装備したルーマニア製SM79JRは、1941~44年にかけて東部戦線で戦った。
『第二次世界大戦事典』P206,7




Savoia Marchetti SM 79 Sparviero in volo

 ↑SM.79(Wikipediaから)





 SM.79はOCSでも良く見ていたような気がするのですが、改めて見てみると『DAK-II』にだけ登場していました。

unit00515.jpg

 尤も、(1)-4という数値は割と悲しい数値です(^_^; 3ユニット程度まとめて、12爆撃力で爆撃とかですかね……。

 その頑丈さについては、例えば『イタリア軍入門』に「信頼性が高い多目的爆撃機で、頑丈で激しい被弾にも耐えることができた。」(P206)と書かれているのですが、別の資料にはこんな風にもありました。

 イタリア参戦時、スパルビエロは爆撃機隊の主力としてフランス南部やマルタ島爆撃、東アフリカ(エチオピア)、北アフリカ(リビア)の作戦などに投入された。
 これらの戦場でSM.79は意外なもろさを露呈して、スペイン内乱で得た名声をたちまち失う結果となった。例えば、マルタ島や北アフリカでは7.7ミリ機銃4挺しか持たない複葉のシーグラジエーターにも撃墜され, ハリケーンに対しては更に脆弱だった。北アフリカには1940年夏に100機余りが派遣され、その後の補充機を入れれば200機を超えるスパルビエロが送り込まれたが、1941年末には30機程度しか残っていなかったというから、その消耗の激しさが想像される。SM.79は、イタリアでは最も多数生産された爆撃機だった。しかし、輸出型を入れてもその生産数は1300機を少し超える程度で、とても連合軍とまともに戦える勢力とはなり得なかったのである。
 大戦中、SM.79がわずかに輝きを見せたのは、イタリアの庭ともいえる地中海での雷撃作戦であった SM.79は、1941年から42年にかけてマルタ島救援に向かうイギリス輸送船団をたびたび襲い、計9万トン以上の艦船を沈め、護衛任務に就いていた数隻のイギリス巡洋艦に重大な損傷を与えることに成功している。
『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』P255




 SM.79は双発機ではなくて三発機なんですが、その理由と、双発機へと改造されてルーマニア等へ輸出された事情について、前掲書ではこう書かれていました。

 他の列強にはほとんど3発機が見当たらないのに、なぜイタリアだけ3発機が多いかというと答えは簡単。適当な大馬力エンジンがなかったからだ。イタリアの航空機用エンジンは1000馬力が限界で、それ以上に強力なものは、ドイツから技術供与されるまで実用化できなかった。
 ……
 SM.79はスペイン【内戦】で活躍しただけでなく、1937年にはイストル(フランス)-ダマスカス(シリア)-パリ間レースで優勝したり、1938年に長距離改造型がローマからリオデジャネイロまでダカール (セネガル)で1回給油し、平均時速404キロで飛行するなど、高性能ぶりを世界にアピールした。
 このため外国からの引き合いが多数舞い込む状況となり、輸出型が開発された。他の国では3発機に馴染みがなかった理由から、外国製エンジンの双発型とされたものを含め、イラク、ブラジル、ルーマニア、ユーゴに計100機以上が輸出された。当時の爆撃機は機首に透明風防の爆撃手席を持ち、爆撃の照準を行うのが普通だったから、双発型を望む国が多かったのである。
 ルーマニアは第二次世界大戦でドイツ側(枢軸国側)に付いて戦い、フランス製のノームローンK14空冷星型(1000馬力)、ドイツ製のユモ211液冷(1200馬力)の双発型をそれぞれ24機ずつ輸入し、少数機の国産も行っている。
『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』P252,254





 ルーマニア軍のものは、『Case Blue』でユニット化されていました。

unit00516cb.jpg

 「JIS.79」とあるのは、英語版Wikipedia「IAR 79」によると、「Jumo Italian S.79」(ユモエンジンに換装されたバージョンをイタリアで生産してもらったサヴォイア・マルケッティ79)ということらしいです。



 SM.79について、先日購入した『第2次大戦事典②兵器・人名』でも見てみたのですが、非常に興味深い書き方がなされていました(買った価値ありまくり!)。個人的には、結構淡々と事実を羅列されるよりも、こういうある程度以上の主観的な価値観が入った情感のある説明が好きです。あと、翻訳者が訳注を入れてくるのも面白い(^^)

イタリア
 2つの世界大戦の間の平和時に戦略爆撃理論に革命をもたらしたという点でジュリオ・ドゥーエは重要な人物であったが、母国イタリアの空軍では戦略爆撃は重視されなかった。1930年代にムッソリーニが新しい「ローマ帝国」建設に乗り出した時、彼に必要だったのは、原住民を服従させるのに役立つ「植民地」爆撃機であった。このためには、航続距離、頑丈さ、爆弾搭載量などが速度や武装などより優先的に求められた。そのように設計された爆撃機が第2次大戦に投入され、戦術的および戦略的任務の両方に使われると、対空砲火や迎撃戦闘機の反撃に直面して大きな被害を出すことになった。このため、イタリア爆撃機は設計がまずかったとか、航空技術のレベルが低かったとかいわれている。そのような評価がまったく間違っているとはいえないが、爆撃機自体にとっては迷惑な話である。それらは、当初設計された目的から程遠い任務を遂行しなければならなかったからである。
 その好例はサボイア·マルケッティSM79スパルビエロ3発中型爆撃機であろう。これは第2次大戦全期にわたって多用された機体であった。1934年10月に初飛行した旅客機(乗客8人)を改造したもので、 2年後に爆撃機として就役した時には、背中が丸い不格好な姿となっていた(訳注 このため、本機にはゴッボ・マレデット《せむし》というアダ名がついた)。エチオピア侵攻作戦やスペイン内乱でSM79は実戦の経験を積み、頑丈で信頼性が高いことを立証した。1939年には一部が雷撃機に改造されて、1940-43年にわたって大活躍した(訳注=魚雷《弾頭重量200キロ》 2本を胴体下面に並列に装着した)。爆撃機としてのSM79の性能は決して悪いものではなかった。最大時速は430キロ、作戦航続距離は1930キロ、爆弾搭載量は1 トンであった。しかし、武装が貧弱だった。12.7ミリ ブレダ・サファット機銃3丁と7.7ミリ ルイス機銃1丁がやっとだった。馬力不足も次第に感じられるようになり、アルファ・ロメオ126RC34 空冷780馬力エンジンがピアジオP11RC40空冷1000馬力に代えられたが、性能はあまり向上しなかった。連合軍の戦闘機は比較的容易にSM79を撃墜でき、低性能機とされて第一線から引退させられた(訳注=SM79シリーズは1934~44年に総計1330機が生産された)。
 SM79と同じく、サボイア・マルケッティ社が設計・生産したSM81ピピストレロも同じような扱いを受けた。SM81の場合は当然であった。SM73旅客機の改造から生まれた爆撃機として、 1935年に初飛行したSM81は1940年までに旧式機となっていた。ピアジオP10空冷低馬力エンジンを装備し、固定脚のSM81は、最高時速はわずか340キロ、武装も貧弱で、脆弱な機体だった。それでも、設計時には予想もされなかった夜間爆撃任務に1942年まで使われた(訳注ピストレロ(こうもり)という愛称はこれから生まれた)。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P222,3



 ↑でSM.79に次いで出てくるSM.81はこれまた『Case Blue』でユニット化されていました。また、『Tunisia II』では「Mixed(各種機体の混合)」となってますが、グラフィックはSM.81のもののようです(上が『Case Blue』、下が『Tunisia II』のもの)。

unit00517cb.jpg
unit00523.jpg


 本の中では酷評(というか、可哀想扱い)されていますが、このユニットはむしろ非常に便利です。『Case Blue』における爆撃力10はほどほど(尤も、日本語版Wikipeidaの中で「第二次世界大戦の開戦時には爆撃機としての能力は二線級であったが、信頼性も高く最も融通の利く機材として1944年まで使用された。 」とあるのから考えると破格)ですが、輸送力が1Tというのが素晴らしい! ドイツ軍でも、Ju.52は1TですがHe.111なんかは1/2Tですから……。

Savoia-Marchetti S.M.81

 ↑SM.81(Wikipediaから)


 SM.81に関しては『第二次世界大戦事典』でも項目化されていました。

サボイア-マルケッティ SM81 バット(ピピストレロ)/
Savoia-Marchetti SM81Bat (Pipistrello)
 1935年から使用されていたバットは, SM73旅客機の軍用機型で, 1940年6月イタリアが参戦した時には,ほとんど時代遅れになりかけていた。それにもかかわらず,この多目的に使用できる重宝な実用機は, イタリアの各戦場で使用された。生産は1941年に終了したが, SM81は翌年まで東部地中海で第一線夜間爆撃機として使用され,その後は効率的とは言えなかったものの,最も数多いイタリア輸送機となった。
『第二次世界大戦事典』P207



 英語版Wikipedia「Savoia-Marchetti SM.81」を見ていると、「この飛行機は、大きな翼と頑丈な下部構造を持っており、信頼性が高くて心地よい飛行性を持ち、そしてあらゆる地形において作戦行動が可能であった。【設計】当時としては驚異的な速度を持ち、そのエンジンは、特に類似のJu.52と比べて、パワフルであった。」と書かれていました。武装や積載量でもSM.79より強力であったようですが、装甲はほとんどなく、戦争中には速度的にも敵戦闘機に捕まるとどうにもならなかったようです。輸送機としてどれくらい人員等を積めるのかを知りたかったのですが、よく分からず……(爆弾なら2,000kgまで積めたようです)。



 他のサヴォイア・マルケッティ社の機体を探してみると、SM.82という機体が『DAK-II』に1ユニット、『Tunisia II』に2ユニット、『Sicily II』に1ユニットありました(↓その順に上下に並べてます。『Sicily II』は縮尺が異なるので航続距離の数値が大きくなっています)。

unit00520.jpg
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Savoia Marchetti SM 82 Vigna di Valle

 ↑SM.82(Wikipediaから)

 このSM.82も初飛行は1939年と戦前ですが、前2者よりも近代的なフォルムになっている気がします。日本語版Wikipediaには項目がないのですが、「航空機データベース」というサイトに、詳しい説明がありました。

サヴォイア・マルケッティ SM.82カングール

 同サイトによると、「ペイロードは最大7.2トンに達する。ガソリンは2200リットル、航空機エンジン6基、CR42戦闘機も分解して1機丸々を運ぶことができた。この他、兵員は正規で40名、詰込みで短距離輸送であれば67~70名、完全武装の空挺隊員で28名を輸送できる。」とあり、機体の大きさもSM.81より大きかったようです。ちなみにJu.52は17名であったようでSM.82はほぼ倍積めた? アメリカ軍のC-47は武装兵28名を積めたそうで、ほぼ同じでしょうか。

 英語版Wikipedia「Savoia-Marchetti SM.82」を見ていると、北アフリカ戦線ではロンメルの登場時あたりから爆撃機として小数が投入され始めたようですが、そのうちに輸送が主任務となっていったようです。チュニジア戦の頃にはある程度の機数でもって輸送任務に活躍したそうです。実際、『Tunisia II』においては航空輸送なしでは、特に枢軸軍はどうにもなりませんから、SM.82はありがたい存在です。


 さらに、『Sicily II』にはSM.84というユニットが2つ出てきますが、これはSM.79の後継機だそうで。

unit00522.jpg

Savoia Marchetti SM.84

 ↑SM.84(Wikipediaから)

 日本語版Wikipedia「サヴォイア・マルケッティ SM.84」によると、「SM.84はSM.79より空力的に洗練された近代的な機体であったが、速度的にはSM.79後期生産型の最高速度はSM.84を上回っており、運動性能はSM.79よりも悪化した。また、エンジンの出力不足や信頼性の欠如により離陸が困難になる傾向があった。この為、乗員からの評判はあまりよくなかった。 」とあって、ちょっと悲しいです(T_T) 尤も、『Sicily II』においてその爆撃力10は重宝するのではないでしょうか。


 イタリア軍の爆撃機の種類には他にもOCSでユニット化されているものがいくつかあるのですが、それらは興味が湧いた時にということにして(その機会はないかもしれませんが:p)、今回はサヴォイア・マルケッティ社のものだけで。


ピーター・ヤング編『第2次大戦事典②兵器・人名』を購入しました

 これまでに、『第二次世界大戦人名事典』(ジョン・キーガン編)と『第二次世界大戦事典』というのを購入していましたが、ふと思いついて、Amazonで「第二次世界大戦 事典」で検索してみました。





 すると、ピーター・ヤング編『第2次大戦事典②兵器・人名』というのがひっかかりまして、中身に関しては全然情報が得られなかったんですが、1000円ちょいで安かったのでまあいいか、と思ってポチりまして。で、それが届きました。



 見てみると、目当てだった人名事典の部はジョン・キーガンによるそれだということ(つまりかぶってしまった)で、「なんじゃそりゃー!」となりました(^_^; が、翻訳の調子が違う&『第二次世界大戦人名事典』の翻訳の方に若干違和感を感じる部分があったので、そこらへん見比べるには良いかも、と。それに、基本的には同一っぽいのですが、最初の項目であるアイアンサイドの項の最後の部分なんかは全然違うことが書いてあったりするので、何か版が違ったりするものなんでしょうか?

 あと、兵器事典の部は各兵器カテゴリ(たとえば「銃」とか「高射砲」とか)について、国別にどういう種類のがあってどんな性能だったか……ということが説明されていて、割と面白い書き方になってました。これだけでも1000円分くらいの価値は全然ありそうに思いました。

 ①もあって、作戦とかの編年体(というか)のものらしいのですが、そちらは私は別にいらないかなぁ、と。




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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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