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チュニジア戦:米軍のフリーデンドール将軍について、まとめ(付:OCS『Tunisia II』)

 前回のエントリ↓で名前を出していた、アメリカ軍のフリーデンドール将軍について、面白いので、ちょっとまとめておきたいと思います。

ブラッドレー将軍は、パットンを嫌いだった?(付:OCSによる軍団司令部ユニット) (2019/05/28)


Lloyd fredendall

 ↑ロイド・フリーデンドール将軍(Wikipediaから)


 前掲エントリでフリーデンドール将軍の名前を出していたのは、↓のところでです。

 ↓OCS『Tunisia II』のアメリカ第2軍団司令部ユニット。

unit00562.jpg

 『Tunisia II』に出てくるアメリカ軍の軍団司令部ユニットはこれ1つだけです。第2軍団司令官は、当初(1942年11月)はフリーデンドール将軍だったのですが色々とダメな行動が多かった中でカセリーヌ峠の戦い(1943年2月19日~2月25日)でボロ負けして、更迭と匂わせないようにされつつ軍団司令官がパットンに交代されます(3月6日から)。その時に第2軍団の副司令官となったのがブラッドレーでした。パットンは士気ががた落ちとなっていた第2軍団を、規律を厳しく守らせるなどで短期間で立て直し、3月23日のエル・ゲタールの戦いではドイツ第10装甲師団の反撃を撃退。しかし結局わずか40日間指揮しただけで、4月15日に第2軍団司令官の職はブラッドレーに引き継がれ、5月13日に枢軸国軍が降伏するまでブラッドレーがうまく指揮を続けました(と、こちらも30日間も指揮しなかったわけですが)。



 「ダメ」な行動のすごい具体例がいくらか資料に出てくるわけですが、それが面白いといいますか……(面白がっていてはダメなんでしょうけども(^_^;)。



 以下、英語版Wikipedia「Lloyd Fredendall」からの適当訳を交えつつ。


 フリーデンドールはまずトーチ作戦での指揮官として抜擢されたのですが、フリーデンドールを推薦したのは、米陸軍参謀長のマーシャル将軍(米軍のトップの人物)とその友人かつ同僚で米軍の教育・訓練の専門家であったマクネア将軍でした。マーシャルとマクネアは共に、フリーデンドールを「米軍の最高の人材の内の1人」と評価し、マーシャルは特に、フリーデンドールの若々しく自信満々な態度を気に入っていたそうです(『パットン対ロンメル』を読んでいると、マーシャルがパットンを目に掛けたことに関しても良く出てきており、そちらは最終的に成功したように思いますが、フリーデンドールに関するマーシャルの見方は最終的には誤っていたということでしょうか)。

 アイゼンハワーはこの上役からの推薦に最初疑いの目を向けていたものの、結局はトーチ作戦の指揮官として任用し、その成功を見て自分の誤りを認めました。が、最終的にアイゼンハワーはこの認識と、その後フリーデンドールを任用し続けたことに関して後悔することになります。

 フリーデンドールに関して、ルシアン・トラスコット将軍はこのように述べていたそうです(トラスコットは、トーチ作戦時には連隊長、シチリア戦時には第3歩兵師団長、その後軍団長、軍司令官へと昇進しました)。

「身長が小さく、大声で話し言葉が荒々しく、物怖じせず意見を言い、上司にも部下にも口やかましく接しました。彼は、必ずしも充分な根拠のない結論へと飛躍する傾向がありました。フリーデンドールは視察や偵察のために自身の指揮所を離れることはめったになかったにもかかわらず、彼よりも地形や状況を良く知っている部下達からの提言にはイライラするのでした。
Steven L., Ossad (March 2003). "Command Failures: Lessons Learned from Lloyd R. Fredendall"




 米軍の2個軍団の司令官には、アイゼンハワーよりも年長者が選ばれた【在モロッコの第1機甲軍団長パットンと、チュニジアへ向かう第2軍団のフリーデンドールのこと】。ロイド・フリーデンダール少将は、オランに上陸した中央タスクフォースの指揮官であり、引き続いて在チュニジアの米軍の中核であるサテン·フォースを率いた。フリーデンダールは1917年から1918年にかけて、フランスにおいて参謀将校として勤務した検閲総監を務めた後に、1935年に大佐に昇進した。1940年10月には、第4歩兵師団長となった。その訓練に関する熟達ぶりが高く評価されたことで、1941年にカロライナ演習の実施時に、第2軍団の司令官に任命された。米軍将校の多くは、フリーテンダールを陸軍の輝ける才能のひとりとして認めていたが、英軍将校は彼をして、下卑たしゃべりを気にもかけず、恥知らずにも知ったかぶりをすることで自信過剰を正当化する、アメリカ人の不快な特質を現出した人物とみていた。しかも「豪傑」気取りの態度でスラングを交えて命令を出すきらいがあったので、部下はその真意を図りかねる場合が多かった。1943年初めの段階では、第2軍団の指揮下にあったのは、完全編制の師団である第1機甲師団だけであ|った。しかもフリーテンダールは、師団長であるオーランド・ウォード少将を無視して、戦闘団に直接作戦指導することを当たり前としていた。このためウォードとの意思疎通なぞは存在しないも同然で、さらにフリーデンダールは部隊の戦術的配置に関してきわめて詳細な指導をおこなうことを好んだので、ウォードは采配の自由を奪われた最悪の状態に置かれたのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P14


 「スラング(俗語)」に関してですが、Wikipediaによると、歩兵を「ウォーキングボーイズ」、砲兵を「ポップガン」など、(別に良く使われているスラングというわけではなく)彼自身のスラングで呼び、また軍用地図の標準的な位置指示用語を使わずに「Cで始まる場所」というような紛らわしいコードを作ったりしたそうです。このようなフリーデンドールの方法は部下達の間に混乱を招き、フリーデンドールの指示の意味を理解しようとするために貴重な時間が失われたとか(T_T)


 また、【恐らく1943年1月~2月にかけて】アルジェリアからチュニジア国境を越えて進出しようとする間、フリーデンドールは第19工兵連隊を使用して、前線から70マイル(約110km)離れた場所(Tebessaの南東9マイル)に、大きな防空壕を作って本部を置き、対空大隊まで配置したそうです。2つのU字型の複合施設が丘の中腹まで49m走っており、建設に3週間かかったとか。この峡谷は「Speedy Valley(迅速な谷?)」と呼ばれたそうで、「Military History」の「Speedy Valley」というサイトによると、曲がりくねった砂利道を通ってしか行けない渓谷にあり、68人の幕僚が住むようになったが彼らは「フリーデンドールの子ども達」と呼ばれ、またその場所は「ロイド(・フリーデンドール)の一番奥の行楽地」とか「シャングリラ(理想郷)」とも呼ばれたそうです(滂沱)。

 試しに『Tunisia II』で第19工兵連隊ユニットを探してみたら、ありました(おいおい)。

unit00565.jpg

 OCSでは、工兵能力は司令部ユニットに包括されている扱いで、純粋なこういう工兵ユニットがユニット化されているのは珍しい方なのですが、この工兵連隊は『Tunisia II』に含まれている3つの工兵ユニットのうちの1つです(あと1つが米軍、もう1つがドイツ軍)。しかしこのユニットは、この史実を知っている人が、アメリカ第2軍団司令部ユニットのいる場所に陣地を4レベルまで建設するのに使用するために入っているのでしょうか(^_^; ただし、4レベル陣地を建設するのには2週間で済みますが、陣地のレベルアップには上げようとする陣地レベル+1SPが必要なので、総計14SPもかかります(!)。

 もしかして対空大隊も入っているかと思って探したのですが、対戦車砲大隊ユニットはいっぱい入っているのですが、対空大隊はユニット化されていませんでした(^_^;


 また、Tebessa(テベッサ)の南東9マイルという場所についてですが、『Tunisia II』のマップを見てみると……(カセリーヌ峠シナリオ)。

unit00566.jpg

 画像左上にTebessaがあり、そこにアメリカ第2軍団司令部ユニットを一番上にして大量のユニットのスタックがありますが、これらはテベッサから2ヘクス以内に自由配置です。そして、OCSは1ヘクス5マイルですから、南東9マイルというと、テベッサの右下2ヘクスのところにある荒れ地(Rough)のヘクスでしょうか。そのすぐ右のヘクスにはアルジェリア・チュニジア国境(紫色の線)があり、またテベッサの北西や南西には山岳地帯もありますから、北西や南西に防空壕を作ったのならば「うわぁ~」という気もしますが、南東のこの荒れ地に作ったのならば、まあまだ前線に出る感が感じられるような気がしますけど、どうなんでしょう?

 ↓こんな記述もありました。

 2月12日、【会議漬けにされていた】アイゼンハワーはようやく会議をあとにし、2月13日には検閲のために第2軍団司令部に到着した。状況のまずさにアイゼンハワーはショックを受けた。フリーデンダールはその軍団指揮所を到達に難儀する峡谷内に置いており、軍団直轄工兵を参謀用の防空壕を崖に穿つための発破作業に従事させていた。指揮所の所在地はきわめて後方にあり、道路網からも隔たっていた。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P43


 前線からの距離についてはWikipediaに70マイル(約110km)とありました。OCSスケールに換算すれば、14ヘクスです。マップでその「Speedy Valley」から14ヘクスを数えてみると、それよりも近くや遠くに前線があるようにも見えますが、このマップはあくまでカセリーヌ峠の戦い開始時のもので、記述はそれより前のことかもしれません。

 OCSをプレイする上でこの第2軍団司令部ユニットの位置がよろしくないかというと、どうなんでしょう。確かに最東端のアメリカ軍ユニットに対しては遠すぎるような気はします。



 Wikipediaの記述に戻りますと、フリーデンドールはアイゼンハワーが乗っている防弾仕様のキャデラックと同様のものを注文し、定期的にアルジェリアのオラン【上陸軍の総司令部があった?】に電話をかけては「なぜもっと早く届かないのか」とせかしたとか。ブラッドレー将軍はフリーデンドールの本部を見て「すべてのアメリカ軍兵士にとっての当惑」と呼び、アイゼンハワーはその精巧なできばえを見た後、「将軍であっても戦争においては自身のリスクを負わなければならない」と思ったそうです。


 アイゼンハワーの視察の直後、枢軸軍の攻勢が始まります。

 第2軍団の戦略的態勢は著しく劣っていたものの、戦術配置はいくぶんまともであった。フリーデンダールはカセリーヌ峠を制するために、2個任務部隊(タスクフォース)をふたつの山頂に配置することを命じていた。峠を挟むジェベル・ルスーダとクセラは、距離が離れていたために相互に支援することはできなかった。フリーデンダールはのちに部隊配置の詳細に関してアンダーソンを非難したが、部隊配置を精緻にしたところで現実的には無意味であった。米軍の2個増強大隊だけでは、ドイツの2個機甲師団を足止めすることはまったく望めなかった。たとえ良好に配置されたところで、結果は迂回されるか蹂躙されるかしかなかった。これほどの広大な戦線であれば、分散した陣地を支援するためには機動予備兵力が必要である。だが、アンダーソンとフリーデンダールのどちらも、第1機甲師団を集結させて機動予備とすることを命じたアイゼンハワーの1月20日付の訓令にさほど留意していなかったのである。
 アイゼンハワーは直ちに、数々の部隊にその欠点を是正するよう、一連の訓令を発した。しかしそれは遅すぎた。アイゼンハワー一行が第2軍団司令部にもどったその朝、ドイツ軍の攻勢はすでに開始されていたのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P44

 【1943年2月14日正午過ぎ】ジェベル・クセラのドレイク隊には脱出の望みが残されていたが、1410時、フリーデンダールにより撤退は拒否された。……フリーデンダールの硬直した指揮スタイルと戦場から遠くはなれたその指揮所が、孤立無援の2個大隊を破滅させることになったのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P47,8

 第2軍団の前任軍団長フレデンドール少将は、うぬぼれの強いくせに小心な指揮官で、かれの不注意とズサンな作戦計画のおかげで、米陸軍はこの大戦で西半球において、初の大敗をカセリーヌ峠できっしていた。
『猛将パットン』P12

 【枢軸軍が攻勢を諦めて撤退し】連合軍にとっては、追撃の好機であったが、現地の指揮官である米第2軍団長ロイド・R・フリーデンドール少将は、枢軸軍はなお後方に迂回してくるのではないかと恐れ、積極的な行動に出なかった。彼が総攻撃の命令を出したのは、なんと25日になってからであり、そのころには、枢軸軍はカセリーヌ峠を越えて、撤退を完了していた。
『ルビコンを渡った男たち 大木毅 戦史エッセイ集2』P27

 カセリーヌ峠の敗北は、アメリカ軍の戦術的欠点と、ロイド・フリーデンドールの司令官としての弱点を浮き彫りにした。フリーデンドールはイギリス兵ともアメリカ兵ともそりが合わなくなっていたうえ、要塞線マジノ線にあってもおかしくないような、掩蔽壕型の地下司令部を作ろうとしていた。このように、敗北に続いて、アメリカ軍戦闘部隊の最上級者が無能であることが露呈したのは非常に間が悪かったし、おまけに臆病者らしいというのも最悪だった。
『パットン対ロンメル』P284




 アイゼンハワーはブラッドレーと協議。ブラッドレーは、全師団長がフリーデンドールに対する信頼を失っていると報告。イギリス軍もフリーデンドールの交代を歓迎するとの意向をアイゼンハワーに伝えました。第2軍団長をパットンに交代させることが決まりましたが、フリーデンドールの評判は落とさないようにしてそれが行われるようにアイゼンハワーは注意していました。第2軍団司令部にパットンが到着した時、フリーデンドールは朝食中だったそうです。パットンはその時のフリーデンドールについて良い印象を抱き、フリーデンドールは状況の被害者なのではないかと考えたそうですが、1週間後に第2軍団を査察してみて、完全にその考えを改めたとか。

 フリーデンドールは英雄としてアメリカ本土に帰り、昇進して、米軍の訓練に携わることになったそうです。

 作家チャールズ・B・マクドナルドは、フリーデンドールを「自分自身をそう作っていこうしたイメージへと追い付くことができなかった、大言壮語と虚勢の男」と述べました。歴史家カルロ・デステはフリーデンドールを「……第二次世界大戦中に最高指揮権を握ることが最も不適切な上級将校の一人」と述べています。第2機甲師団長であったアーネスト・ハーモンは、カセリーヌ峠の戦いの後の報告で、フリーデンドールを道徳的かつ肉体的な臆病者と呼んでおり、後には彼を「畜生野郎」だと言っていたそうです。



 まあでも、「出世すると無能になる」という理由には、ハロー効果やピーターの法則などが知られてます。あるいはまた、フリーデンドールが特別無能だったわけではなく、野戦指揮官には向いていなかった(それ以前の士官学校や、訓練や、戦闘がほぼない上陸作戦においては有能だったのだが)ということなのではないでしょうか。


 しかしOCS『Tunisia II』をRPG風にプレイするならば、アメリカ第2軍団を指揮するプレイヤーは司令部を陣地を作って防備し、キャデラックを注文しながらプレイしたいところですね(^^)(おい)。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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