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『戦争は女の顔をしていない』が速水螺旋人さん監修で無料コミカライズ化

 スマホでオススメニュースを見ていたら、『戦争は女の顔をしていない』が速水螺旋人さん監修で無料コミカライズ化されたという話が。




 『戦争は女の顔をしていない』は、第二次世界大戦中のソ連で従軍した500人以上の女性から聞き取りをしたインタビュー集で、3年前に文庫本が出ていて本屋で平積みにされてました(著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチはこの本が初作品で、後にノーベル文学賞を授賞したそうです)。

 私も当時買おうかどうか悩んだのですが、他のメインの関心事の本が大量に積ん読になっているので、後ろ髪を引かれる思いで買わないでおいたものでした。


 それがあの、ソ連愛溢れる速水螺旋人さん監修でコミカライズされていく(今後も不定期更新で?)というのですから、うーん、すごい。

 ↓こちらで読めます。

コミックウォーカー 戦争は女の顔をしていない

 ユーザー登録してお気に入りに指定しておくと、更新されたらメールが来るらしいので、登録しておきました。コミカライズ版の方はぜひ読んでいきたいです。


 ↓しかしもしかしたらこっちで(スマホで)見た方が画質が良いかも……?

戦争は女の顔をしていない (@UnwomanlyFofW) | Twitter


 第1話にはスータリングラードやクールスクという地名が出てくるのですが、まさにスターリングラード戦やクルスク戦の時の話なのでしょうか。個人的には、赤星勲章を受章したという女性の話が感動的でした。最後のページも泣けます。
 


 あと、ツイッターによる感想が↓で読めます。

#戦争は女の顔をしていない

 ツイッターの感想によるワーリャという子に関する分析?は「なるほどなぁ……」と思いました。

 しかし一方で、そうでなければ線引きがちゃんとされていたということなわけでしょうから、それは逆にすごいなぁと思いました。民間人は営倉(って良く知らなかったのですが、兵に対しての懲罰房だそうで)に入れてはいけない、という規則をソ連軍人が守っているというのも意外でした。もっとソ連軍は非人道的かと思ってました……。

 尤も、この洗濯部隊の話は『戦争は女の顔をしていない』の中ではかなり刺激的でない話だそうで、もっとひどい話がたくさんあるそうですが……。



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OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第2ターン先攻

 尼崎会(拙宅)で、OCS『Beyond the Rhine』のフルキャンペーン第2ターン先攻(連合軍)をプレイできました。

 今回は肉入り鍋さんと長谷川さん両名で所用でお休みだったため、ワニミさんと私のみでプレイ。


 ↓先攻ターン終了時の北側

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 前ターンに突っ込んできた第10SS装甲師団に対しては、「こんなもん、どうにもできへん(T_T)」ということでやんわり戦線を引き、やんわりと包囲しながら、序盤最大の難関アルベール運河(大河川扱い)に取りつきます。史実では第3ターンにはその先の赤いオハジキの置いてあるネールペルトへ達しているはず(そしてそこから第4ターンにガーデン作戦が始まる)なのですが、どうやったら行けるのかという……(^_^;



 ↓南部

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 パットン第3軍は早々にメッツの攻略もナンシーの攻略も諦め、防備の手薄な南方へと第4機甲師団を向かわせました。さて、どうなるか……。


 ゴールデンウィーク中の尼崎会ですが、とりあえず4/28(日)と5/5(日)は通常通りやるつもりにしておいて、あと、5/3(金)か(と?)5/4(土)にもやるかもしれないという風に私は休みを取っておくことにしました。飛び入り、見学大歓迎です!

『Churchill's Lions:A Biographical Guide to the Key British Generals of World War II』を注文してしまいました

 オコーナー将軍関係のことを調べていて、『Churchill's Lions:A Biographical Guide to the Key British Generals of World War II』という本を見つけ、注文してしまいました。




 ただ、Amazonだと安い方(5000円くらい)のはいつ入荷するか分からない感じだったので、紀伊國屋書店で見てみたら少し安く、また基本的になんとかして取り寄せる感じだったのでこちらで。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781862274310


 内容としては第二次世界大戦のイギリス軍の125人の将軍を解説した本のようです。書評の評価も高くて「これはアリかも……!」と思ってポチってしまったのですが、冷静に考えてみると私が今の手持ちの資料で項目がなくて知りたいのはニーム、カニンガム、リッチー辺りしかいないので、そこまでの資料は必要なかったかも……と思わないでもないでもない……けどまあ、注文してしまったので(^_^;


 あと、「Generals of World War II」で検索してみると、↓というアメリカ軍の将軍に関する本が見つかりました。



 これも書評の評価が基本的に高く、買うかどうか悩んだのですが、なかみ検索で見たところ事典形式では全然ない(『Churchill's Lions』ももしかしたら事典形式ではないのかもですが……)のと、アメリカ軍の将軍については手持ちの『Allied Commanders of World War II』と『US Commanders of World War II(1)』だけで、現状知りたい人間についてはほぼ網羅されているかもという気がしたので、「ほしい物リスト」に入れておくだけにしました。ふー。踏みとどまった……(^_^;

洋書のWW2指揮官本をまとめ買いしました (2019/03/16)


 イギリス軍とアメリカ軍の将軍本については、存在まで含めてある程度まで分かったのですが、ソ連軍とイタリア軍の将軍本がぜひ欲しいですねぇ……! 情報お持ちの方、ぜひ教えて下さい! 特にイタリア軍将軍本についてはイタリア語でも全然欲しいです。ソ連軍将軍本はロシア語だったらさすがにパスで(^_^;




『パットン対ロンメル』読了しました

 『パットン対ロンメル』を読了しました。





 文字量が多くて個人的に良かったのですが、海外ものに良くある?「事前知識がないと何がなんだか分からない」「話題がけっこうあっち行ったりこっち行ったりする」傾向がありまして、初めて本屋で見た当時に買って読んでいたとしたら、全然ダメだったろうなと思います。知識がある程度以上増えた今のタイミングで読めて良かったです(ちなみに、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落 1945』は出た当初に買って読んだのですが、この本は読みやすいものの当時事前知識が全然なく、最近開いてみて「あー、あの当時読んだんじゃダメだったなぁ……」と思いました。またそのうち、末期戦の知識を増やしてから読み返すべきなのでしょう)。





 『パットン対ロンメル』は、中から自分的に興味のある情報を集積作業中です。かなり興味のわく話題が色々ありました。


 読んでいての感想なんですが、「アメリカ軍の指揮官ってあんまり有能な人がいないのかな?」と。アイゼンハワー、ブラッドリー、パットンあたりは有能と言えるとして、しかし階級的にその近辺あたりのクラーク(イタリア本土の戦いを指揮)、ディヴァース(西部戦線で南方の方の第6軍集団を指揮)、パッチ(第6軍集団の中の第7軍を指揮)とか、あるいはチュニジア戦の時のフリーデンドール将軍なんかは、割とダメな感じで描かれていました。まあそれは書き方の問題でもあって、有能な側面が大きいからこそ実際に指揮していたのだとも思うのですが……。

 一方で、続けて読んでいってる大木毅さんの『砂漠のキツネ ロンメル将軍』には、縮小されたドイツ国防軍に残った将官級の人物たちは高度な教育を受けたエリート中のエリートで半神の如き人材であった、とかありまして、「そういう風なドイツ軍には綺羅星の如く人材がいたのに対し、ある意味急ごしらえのアメリカ軍には将軍としての人材が不足していたということかな……?」と思ったりしたのですが、どうなんでしょうね。


第二次世界大戦で騎兵はなぜ廃れたのか?(付:OCS『Case Blue』)

 『パットン対ロンメル』を読んでいっているのですが、その中に騎兵のダメな点が何カ所かに書いてありまして……で、そこらへんを再度まとめようと思いました。


 ↓が使用した資料です。




 ただ、『The Cavalry of World War II』はどうも写真集+キャプションという感じの本であるらしく、私は字が多い本の方が好みであるので買っていません(その後買いました(^_^;)。引用はその書評からのものです:p




1.戦闘外での脆弱性

 『パットン対ロンメル』に多く書かれていたのは、戦闘自体における騎兵の脆弱性ではなくて、戦闘以前に馬が使い物にならなくなることの多さでした。

 アメリカ海外派遣軍に参加した砲兵隊にとって1918年秋の状況は、馬の限界を疑いの余地なく示していた。使い物にならなくなる馬があまりにも多いため、1919年の作戦行動では、軽砲兵連隊の約半分で牽引の馬を小型トラクターに変えるという提案もなされた。
『パットン対ロンメル』P110

 「騎兵隊の血統の良い馬」は、実際は非常にか弱い大型哺乳動物であり、定期的に穀物と大量の水を与え、手際よくこまごまと世話をしなければ、健康な状態を保つことはできなかった。1930年代ともなると、車輛はしじゅう調子をみる必要もなく、整備をしくじったとしても、馬の世話に失敗したときよりも結果はましだった。古参の騎兵がインディアン戦争を懐かしむこともあるが、その話には肝心な点が抜けている。諸兵科連合で遠征を行なったはいいが、騎兵隊の馬が「ばててしまい」、インディアンが「ウォーク·ア·ヒープス (walk-a-heaps)」と呼んだ歩兵がいなければ、任務を遂行できなかった場面が何度となくあったのだ。
『パットン対ロンメル』P112

 だがイギリスの騎兵隊は、第一次世界大戦中に中東で貴重な経験をしていた。1917年末、パレスチナでの作戦の終盤、騎兵隊による大規模側面包囲攻撃が最高潮に達したとき、多数の馬が水不足で死にかけたのだ。これを回避するためには、無謀な突撃を行って、トルコ軍に井戸が吹き飛ばされないうちに、ベールシェバを占領しなければならなかった。メソポタミアの夏は非常に暑い。だから1917年には、アメリカ製T型フォード車を使った即席の自動車化部隊が、暑さにやられた馬に代わって騎兵隊の偵察任務を行っていた。フォード車がオーバーヒートしても、しばらく停止して水を少量入れればたいていはもとに戻れたが、馬がオーバーヒートすると、銃殺するしかなかったのだ。
『パットン対ロンメル』P112


 これはつまり、騎兵は移動しなくても、あるいは移動したら、使い物にならなくなる可能性がかなりあるということ?

 また、ナポレオニック関係の本なんかでも、馬の世話には大変手がかかる&時間がかかるとか(これが第二次世界大戦時にはどれくらいの時間と手間だったかができれば知りたいのですが)、どんなに戦闘において急いたタイミングであろうとも定期的に餌をやらなければならないとか(例えば、カトル・ブラの戦いの最中に戦場に駆けつけたイギリス軍の騎兵が戦場について最初にやったのは、馬の食事だったというような)、馬の食べるものにしてもそこらへんに生えている草を食べさせれば良いというものではなく、特定の草しか食べないため、ロシア遠征では大量の飼い葉を運ばなければならず、「馬はフランスに対する忠誠心がない」と嘆かれたとかってことが書かれていたような気がします。




2.非効率性

 それから、騎兵を維持するためには膨大かつ独自の補給品が必要であるということ。

 馬の飼料のように嵩ばらないガソリンで動き、移動しなくても決まった時間に餌をやり面倒を看なければならない馬と違って、走行距離に応じて整備すればよい自動車による砲の牽引はそれだけで革命的な効率を示していました。
『「砲兵」から見た世界大戦』P43

 【ドイツ軍の】第1騎兵師団は【1940年の西方戦役の】この時点まで、ドイツ国防軍にとって大いに役立つ存在であった。2000km以上の距離をこの西方戦役の期間中、単独で横断したのである。だが問題がいくつかあり、そのうちの大きな一つが「他の部隊とは異なる補給品を必要とすること」であった。そもそもドイツ国防軍は、フランス軍に比べてその組織編成が多種多様であった。過度の多様性は、軍隊組織においては時に弱点となる。様々な部隊が他種多様な補給品と、多種多様な保守活動を必要とすることになるのである。その為に必要な補給物資は膨大なものになり、補給問題は複雑化し、補給線に多大な負担をかけることになった。ドイツ国防軍の補給システムは対仏戦の開始時からすでに非常に複雑であったが、戦争の経過と共にそれはますます悪化するばかりであった。補給システムを効率化する試みが必要とされていたのである。ところが、騎兵師団が必要とする補給物資は特殊で、かつ膨大であった。飼い葉、穀物、馬の専門医、馬蹄工、等々の要求は、すでにギリギリであった補給システムに負担をかけるばかりであったのだ。上級司令部は、騎兵師団を維持することの必要性に疑問を感じ始めていた。
『Axis Cavalry in World War II』P11


 飼い葉は人間の食糧よりも多くの体積を占有しただろうと思います。馬の体重は数百キロにもなりますから、それを草(と穀物?)だけで維持し、また走るためには膨大な量と、また食べる時間を必要としただろうとも……。専門医や馬蹄工がそんなにスペースを必要としたとは思えませんけど、必要なものの種類が増えるのはいやだったでしょうね。

 尤も、『大いなる聖戦』に書かれていたんですが、ドイツ軍は(また恐らく日本軍も)様々な種類の兵器を開発・生産するという傾向性であったため、イギリスよりも国力が大きかったのに、戦車や航空機の総生産数ではイギリスにも負けてもいたそうで、読んでいて思わず天を仰ぐというか……。多品種が存在するというのはロマンはありますが(また、プラモデルなども色々出せますが)、効率性においては少品種大量生産の方が良いということですよねぇ……。


<2019/09/26追記>

 あと、「移動しなくても決まった時間に餌をやり面倒を看なければならない馬と違って、走行距離に応じて整備すればよい自動車」とありましたが、自動車や戦車が、まったく使用しないとかそんなに使用しないのであれば多分、一日に必要な整備のための手間と時間は大したことないのだと思うのですが、馬の場合、全然馬による移動が必要なくても、いくらかは運動させなければならないし、その他のことでも多大な手間と時間がかかったもののようです。

 馬の世話と馬小屋における日課は、日々の原則に従った膨大な量の作業を必要とした。馬小屋の各区画を掃除しておかなければならず、革製品や金属製金具は油を差し、磨いておかなければならなかった。馬には運動させねばならず、長い時間の毛づくろいが必要で、蹄は鉄べらで掃除する。餌やりと水やりのスケジュールは非常に重要だったし、病気になってしまった馬には更なる配慮が必要であった。
『Axis Cavalry in World War II』P33


 また、1740年代の話ですが、こういう記述も。

 騎兵の生活は、平時でさえきわめて多忙なものだった。最も時間を食う仕事は「厩務」と呼ばれる馬の世話だ。1740年代、厩舎でのこの任務は毎日二回、たいていは午前八時と午後四時にはじまった。彼らは連隊ごとに定められたやり方で水と飼葉を与える。大半の規定では、夏場の給水は日に三回である。さらに騎兵たちは、定められた馬の手入れ法に従ってあらゆる作業をおこなった。そこには、たてがみと尾に櫛を入れ、下士官の監督のもとで蹄を点検し、後足をマッサージする作業が必ず含まれていた。馬は日に二回、運動のため厩舎の外へ出され、週に二回は鞍を置いて人を乗せる。厩務を欠かすことは誰であろうと許されなかった。将校には作業への立ち会いが求められ、みずからの馬を世話するという任務を怠った騎兵には体罰が課された。
『戦闘技術の歴史3 近世編』P160


 しかし可能なら、実際にどれくらいの時間がかかったのかを、平時と戦時の両方について知りたいところですが……。

<追記ここまで>


<2020/01/26追記>
 馬の食事にかかる時間は、1日に3時間(以上)という記述を見つけました。1812年のナポレオンのロシア遠征に関する本から。

 当時も今も、青草に蔽われた野原が広がってはいるが、忙しく働かされている馬が秣や麦の代りにこれを食べている暇はなかった。何と言っても騎馬一頭が一日分の活力を補うのに必要な青草を食べるのに三時間はかかる。重い砲車や補給物資を運ぶ荷役馬はもっと時間がかかった。かりに馬を放して草を食べさせる時間があったとしても、行軍路から行ける範囲内の野原は一個連隊でたちまち丸はだかにされてしまっていたであろう。
『ナポレオン一八一二年』P90


<追記ここまで>




3.攻撃力・決定力のなさ

 それから、重火器を運べないことによる攻撃力・決定力のなさです。ナポレオン時代には重騎兵が会戦を決定づける兵種とみなされていました(実質がどうであったかは論争があるとしても)が、第二次世界大戦においては、騎兵は攻撃力においては歩兵にも劣るということになったのだと思います。

 Mueller-Hillebrandの『Horses in the German Army 1941-1945』にはこう述べられている。「騎兵の最も有利な点は、道路のないような地域で機動的な作戦が行えることだった。長距離を迅速に移動できる能力では自動車化部隊に及ばないのは確かである。しかし、木がうっそうと生い茂る場所やぬかるんだ地形においては騎兵は自動車化部隊よりも動きやすかったし、同時にそれらが機甲部隊からの攻撃に対する防御を容易にもしてくれた。だが勿論、あっという間に決定的な勝利を摑むことのできる可能性を持った大砲や重火器などを騎兵が常に帯同できないことは、深刻な弱点であった。
『Axis Cavarly in World War II』P11

 この本は「重い」衝撃力としての騎兵の以前の有用性の低下と、その役割が戦車によって取って代わられたことを明らかにしている……
『The Cavalry of World War II』の書評から

 騎兵隊の伝統主義者でさえ、装甲車の利点は理解していた。路上を迅速に移動でき、機関銃や軽砲は装甲板で保護されている。乗馬部隊の先に立って偵察を行い、機動火力支援をもたらすこともできる。その機動火力支援は、騎兵隊が行おうとすれば、その存在理由である機動性と柔軟性を大きく犠牲にしなければならなかった。
『パットン対ロンメル』P113


 第二次世界大戦時のソ連軍騎兵の写真として、サーベルを振りかざした騎兵達のものとかを見たことがあるんですが、サーベル突撃では軽機関銃にさえやられてしまうような……。しかし、騎兵が銃を持ったとしても当たりにくそうです。下馬して後は歩兵のように戦うという手もあると思うのですが、それで重火器を持つ(運ぶ)場合には機動性が犠牲になった、と……。




4.戦闘における脆弱性。ただしゲリラ戦には有効


 それから、恐らく馬が装甲化されていない(当たり前ですが)ことにより、攻撃のための前に出ると機関銃とかに対して脆弱すぎるという問題。ただし、脆弱ではあるが、神出鬼没とかしてゲリラ戦をするには有効と……。

<2020/07/03追記>

 さらに、第一次世界大戦の初期段階で、騎兵という兵科には将来性がないと示されたことも、グデーリアンにしてみれば見逃せない事実だった。具体的には、彼の所属する団隊ではないが、同じく騎兵の大規模編制である第2騎兵集団が、8月12日ハーレンで、弱体なベルギー軍部隊の射撃により大損害を受けたのである。
『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』P60,61

<追記ここまで>

 この【1941年7月15日の】回状では、騎兵の大規模な拡張も指示しており、各3447騎から成る軽騎兵師団30個の新設を定めていた。これを受けて、年末までに騎兵師団の総数は82個に達するようになったが、高い損耗率のため、12月末にはこれらの師団は騎兵軍団へと吸収された。
 ブジョンヌイのような内戦時代の指揮官は、戦場での馬の脆弱性を無視して、この時期においてもまだ騎兵によって軍の機動性を取り戻そうとしていた。ドイツ側は騎兵隊をどうしようもない時代錯誤だとして軽蔑する傾向にあった。だが、すべての輸送手段が欠乏している状態では、他に方法がないことをソ連側の指揮官は知っていた。1941年から42年にかけての冬、すべての機械化部隊が寒気と雪のために動かなくなった時、騎兵師団(それに新設のスキー旅団と大隊)は、長距離のゲリラ的戦闘に有効であることを立証した。
『独ソ戦全史』P153

 だがその前日【1941年11月16日】、第44モンゴル騎兵師団が第106歩兵師団に対して、クリンの南西で開けた雪原を横切って反撃を仕掛けた時はソ連側が危なかった。2000騎が砲と機銃によってなぎ倒されたが、ドイツ側に損害はなかった。騎兵は特に冬の戦場で敵を捉えるには有効だが、正攻法での運用をするとあまりに傷つきやすいことが明らかになった。
『独ソ戦全史』P186




<2020/07/03追記>
5.捜索範囲で自動車部隊に劣る

 さらに、『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』に、騎兵部隊が捜索範囲で自動車部隊に劣るという話が載っていました。

 当時【1932年】、騎兵による捜索はもはや緩慢に過ぎ、実用的ではないとみなされていたから、それに代わるものとして、自動車部隊の存在がクローズアップされたのである。【……】従来の経験より、歩兵の一時間あたりの捜索範囲は4キロ、騎兵で6ないし8キロとわかっていた。【……】自動車部隊は、一時間あたり20キロの捜索を担当し得るということが判明したのである。
『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』P129


 この数値はOCS的に見ても興味深いですね。OCSのそれぞれの兵科の移動モードの移動力は、以下のような感じです。

歩兵 3~5
騎兵 9~12
自動車化部隊 14~16

 この数値との比率を考えると、OCSの騎兵の移動力はやや高めに設定されすぎだともみなせるかも?
 
<追記ここまで>

 ここらへんをもし、OCSで更にハウスルール化するとすれば、
・戦闘外での脆弱性……移動モードの騎兵は一般補給判定時に、一般補給下であっても1D6の6で1ステップロスする
・非効率性……ルール化難しい……。騎兵は予備モードになれない、ということで代える?
・攻撃力・決定力のなさ……戦闘力とARを下げる
・戦闘における脆弱性、ゲリラ戦には有効……戦闘力とARを下げる
 ……とかとか?



<2019/09/10追記>

 『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を読んでいましたら、1943年初頭にコーカサス方面のソ連軍がドイツ軍を追う上で騎兵部隊が使い物にならなかった件に関して、その理由説明として「1.戦闘外での脆弱性」と「2.非効率性」が挙げられていました。

 ドイツ軍を追撃し、行く手をさえぎるように求められていた消耗したソ連軍部隊にも問題があった。シュテメンコ【ソ連軍参謀本部作戦局副局長】はこう記している。第10親衛騎兵師団は2,000名を割り込み、野砲は6門、重機関銃は4丁しかない。その姉妹師団である第9親衛騎兵師団はかろうじてそれを上回る約2,300名、7門の砲と8丁の機関銃を持っているが、両師団の馬は消耗し尽くしており、長期の行軍は不可能である、と。第一次世界大戦ですべての国の軍隊は、機動戦をおこなうことが可能になった場合には騎兵部隊が役立つものとの考えにこだわり、実際に騎乗部隊はその栄誉に浴したのであった。だが、ドイツ軍は1916年後期のルーマニア軍との戦いで敗走する敵軍を追う際、騎兵と歩兵に同じことをやらせようとした時に馬があっけなく完全に使い物にならなくなってしまう場合でも歩兵にはなんとかそれを遂行させることが可能であること、それに馬の食糧の為の飼い葉が兵站に要求する割当量が、騎兵部隊の価値に較べて大きすぎるということに気付いたのであった。例えば、第一次世界大戦のある時には、ロシア軍は鉄道輸送で兵士用の食糧よりも、馬用の飼い葉を運ぶために大きな容積を使用していたのである。今やコーカサスで、ソ連軍は遅まきながら同じ教訓を得つつあった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P260


 ↓OCS『Case Blue』の、第9、第10親衛騎兵師団が所属していた第4親衛騎兵軍団。

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 おっそろしく強力だと思います(^_^; ちなみに移動モードでは軍団中のすべてのユニットが徒歩タイプの移動力12であり、ARも下がりません。これで燃料いらずで予備モードになってすいすい移動してくるので、とんでもないったらありゃしません(>_<)


 さて、前段で挙げていた引用と合わせて考えると、ドイツ軍は第一次世界大戦の後期にすでに騎兵が全体的なパフォーマンスにおいて価値が低いことに気付いており、実際に第二次世界大戦の前期には若干の騎兵部隊を除いて機械化していっていた(ただし大戦後期には機械化部隊を編成する余裕がなくなってきて、騎兵部隊の数はむしろ増大したのですが)。しかしソ連軍の方は第二次世界大戦前期においてまだまだ騎兵を有効とする考えが結構あり、初期の惨敗で機械化部隊だけを充分な量編成していく余裕もないことから騎兵部隊を多数編成し、1941年~42年の厳寒期のモスクワ前面におけるゲリラ的使い方においては有用であったが、やはり脆弱性や非効率性はどうしようもないということに1942年~43年に気付き始め、大戦後期に向けては騎兵部隊の数は減っていく……という感じでしょうか。


 OCSにおける「騎兵最強説」に対する尼崎会ハウスルール案ですが、脆弱性、非効率性の他に、厳寒期には有用という点も入れたら……と今回思いましたが、『Guderian's Blitzkrieg II』では厳寒期にドイツ軍の機械化部隊がステップロスするルールがあるので(ソ連軍機械化部隊には何も起こりませんが)、別に何も入れなくていいですかねぇ……。

 あと、ハウスルール案は、単一のルールであった方がいいに決まっているのですが、騎兵のそれに関しては単一のルールでは無理っぽいので、複数のルールの組み合わせでいくしかないのでは……という話が出ていたりしました。

<追記ここまで>

OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第1ターン後攻

 尼崎会(拙宅)で、OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第1ターン後攻(ドイツ軍)をプレイできました。

 ドイツ軍最高司令官のルントシュテット・ワニミ氏が「反撃だ! ダブルターンは絶対に取れる! なぜなら連合軍側は将来的なダブルターンのために後攻を選択するはずだからだ!」と指令したため、特に北半分のマップでは長谷川さん麾下の第10SS装甲師団「フルンツベルク」が、アメリカ軍の第2機甲師団に対して数次にわたる攻撃をかけ、ことごとくダイス目が走りまくったため第2機甲師団はほぼ壊滅状態に!(マップ上には残り1ステップのみ)

 ↓デッドパイル上の第2機甲師団

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 連隊マークが黄色地で塗られている下の2ユニットは2ステップユニットであり、マップ上に残っているあと1ステップのユニットも2ステップユニットなので、この後攻ターン中に第2機甲師団は7ステップを失ったことになります。第2機甲師団を擁していたホッジス・肉入り鍋さんは大ショックな状態に



 ↓第1ターン後攻(ドイツ軍)終了時の北半分

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 私はスヘルデ河口のドイツ第15軍を担当しており、ルントシュテットの「反撃だ!」という指令に一応できる限りの攻勢を取ろうとしていたのですが、増援表を確認してみたら次の連合軍の増援のかなりの部分がまさに第15軍の西側に、「もしドイツ軍ユニットがマップ端にいたとしてもそれを押しのけて入ってきて良い」というルールに基づいて入ってくることに気付き、「攻勢なんか無理!」ということでともかくも防御を固めることにしました。



 ↓同、南半分

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 南半分においてもドイツ軍の現場指揮官は攻勢をかけられるところを探したものの、どうにも不可能ということでどちらかというと防備を固める方向で。ちなみに、現場指揮官としてはアルデンヌの森を担当していたワニミさんは「攻勢なんてこの戦区でできるわけないじゃん! 絶対攻勢なんてやらないよ!」と仰せでした(^_^;


 後攻ターンだけで1日かかったので(OCSは第1ターンは現状把握のために時間がかかりがちです)、第2ターンの最初の処理だけしました。

 天候は乾燥の飛行制限あり(ヒップシュートなし、移動フェイズ以外の飛行なし)、イベントは「ヒトラーの干渉(ドイツ軍は名前のついたヘクス1個に攻撃をかけねばらならい)」。

 イニシアティブは……連合軍は8、ドイツ軍は7で連合軍が獲得! で、連合軍は最終的に先攻を取ったため、敵中深く入り込んでいた第10SS装甲師団は危機的状況に? 「ダブルターンで帰ってくるつもりだったのに、話が違う~!」という悲鳴が(^_^;

 次回は4/21(日)に尼崎会の予定です。飛び入り、見学大歓迎です。ゴールデンウィーク中にもいくらかプレイするかもです。


 あと今回、対戦車効果について私が勘違いしていたことが発覚しました。私は、攻撃側は「黄色」「赤色」「その他」の3つのカテゴリがあって、それに対して「重AT」「軽AT」「ATなし」が対抗していると思い込んでいたのですが、正しくは「重ATを持っているユニットを重ATが対抗できる(×2を×1.5にする)」「軽ATを持っているユニットは重ATも軽ATも対抗できる」でした。

 そうすると特に(というかonly?)、「赤色で兵科マークが機甲」というユニットは重ATを持っており、これを軽AT(兵科マークが機甲以外の赤色)で対抗できない(つまり平地でなら×2のまま)なので、そこらへんが変わってきます。

 今までに作ったプレイングエイドを書き直す必要があるだろうと思ってチェックしてみたんですが、文章上は問題なかったので、書き直す必要はありませんでした(^_^;


神戸三宮の古本屋などでミリタリー本を大量購入

 所用があって神戸三宮に行ってまして、オタク系の店が色々入っているセンタープラザをぶらぶらしていたんですが、そこにある古本屋(以前、第二次世界大戦ブックスの『P51マスタング』を買ったとこでした)に入ったら、以前の記憶から隔絶してミリタリー本が充実していたのでびっくりしました。第二次世界大戦ブックスなんか何十冊とありました。

 実は、大阪日本橋の地下鉄日本橋駅を上がってすぐのところにあったミリタリー本が充実していた古本屋がなくなっていたことを先日知ったところだったので、嬉しくなりました(まあ、たまたま売った人がたくさんいたからということかもしれませんが……)。

 そこで、大量にミリタリー本を買いました。ある程度以上の「ときめき」を感じるものはもう買ってしまう方向で……。


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 第二次世界大戦ブックスでは他に、ゲーリング本とかバトル・オブ・ブリテン本とかミグ戦闘機本とかも若干気になったのですが、自分のメインの興味からのズレ幅が大きいかなと思って買わないでおきました。

 『赤軍記者グロースマン』は、そのうちに買おうとは思っていたもので、Amazonの古本最安値よりも安かったので良かったです。

 『[新版]独ソ戦史』も、旧版を持っているのですがまあいつか買おうと思っていたらあったので。旧版は尼崎会に来てくれている若手の人にあげるつもりです(すでに西部戦線史の旧版はあげました)。

 『第二次世界大戦事典』は、立ち読みしててたまたま目に入ったデバーズ(ディバース)将軍(OCS『Beyond the Rhine』で1個軍の指揮官です)の項に「アメリカ第6軍の指揮官で、デバーズのくつろいだ指揮のために総司令官のアイゼンハワーはときどきデバーズの判断に不安を抱いた。」(P346)とあったのにえらく興味を惹かれまして(^_^; 他の指揮官の項目も見てみたのですが、そういう人物評価的な話はそれほどはなかったものの時々はあり、また航空機の項にはかなり評価的な話があって読んでいて面白そうなので、買う価値はありそうだと思いました。


 それから、『ナチスの戦争』はその人種戦争の側面に焦点を当てた本らしいのですが、先日メルカリのクーポン500円分で、430円のものを買いました。つまり無料だったわけです。メルカリは(不?)定期的にクーポンを300円~1000円分くらいくれるので、無料~格安で本やモノを手に入れられ、私はクーポンなしでは何も買っていません(^_^;


 しかしこれまででも積ん読のミリタリー本がある程度溜まっていたのですが、これで本格的にやばいくらいの量になってきました。まあ楽しみながら消化していきたいと思います。


 あ、件の古本屋のチラシをもらって帰ってきましたので、参考に↓

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 この古本屋さんからさらに西に行ったところにも小さい古本屋さんがあって、そこも結構ミリタリー本が充実してました。


OCS『DAK-II』第1次エル・アラメインシナリオをプレイしました

 尼崎会(拙宅)で、ワニミさんとOCS『DAK-II』の第1次エル・アラメインの戦いのスモールシナリオをプレイしました。


 ↓初期配置

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 ガザラの戦いに敗北して退却する英連邦軍に追いすがって取るものも取りあえず急進撃した枢軸軍ですが、疲労の極に達していたところでこの第1次エル・アラメインの戦いとなります。史実ではロンメルは(いつものように)南方から迂回してエル・アラメイン周辺の英連邦軍を包囲しようとしましたが、挫折することになりました。



 ↓枢軸軍の複数ユニットフォーメーションの中身や航空ユニット

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 戦力、とりわけアクションレーティングにおいては結構優勢な感じがします。航空ユニットも数はあるのですが、シナリオルールで「あまりの急進撃のため、マップ上の航空基地には航空ユニットを置けず、マップ外ボックスにしか置けません」となっていて、1ターンに9ユニットのみ整備できます(無料で)。で、プレイでは9ユニットしか航空ユニットを使わなかったのですが後で考えるとそれはプレイミスで、第1ターン先攻で全力で航空作戦すべきだったなと思いました(で、回復は9ユニットずつ)。

 ただ、戦闘機はどうやっても航続距離が足りず、作戦に使用できません(>_<) 「置けない」の制限がいつまで続くのかこのシナリオには書いてないのですが、「第1次エル・アラメインの戦いからのキャンペーン」の情報を見ると9月15日ターンからこの制限はなくなる、とあるので、このシナリオでもそういうことにすれば良さそうです(そうしたらそのターンからは戦闘機がようやく使えるようになります)。




 ↓勝利条件ヘクスにオハジキを置いています

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 枢軸軍は青いオハジキのヘクスを全部取ること。英連邦軍はそれらを守りつつ、赤いオハジキのヘクスも全部取れば勝利。シナリオには「いつ」それを判定するのか書いてないのですが、恐らくはシナリオ終了時(9ターン終了時)だと思われます。

 また、画像右上にアレクサンドリアが見えていますが、アレクサンドリア港は「無限の補給集積所」であり、英連邦軍は輸送トラックでいくらでもそこからSPを取り出せます。また、燃料と航空機の整備に関しては直接アレクサンドリアに受給(司令部を介すならば受給して支給)する形で無制限にSPを払えます……って、これはSPに苦しむOCSゲームとしてはあり得ないような破格の状況で、うなるほどのSPでもっていくらでも砲爆撃や戦闘がおこなえるということになります。実際、英連邦軍を担当したワニミさんはウホウホ状態で、むしろ「前線に置いてある大量のSPが枢軸軍に奪われてしまわないように、SPを無駄遣いすることに汲々」としておられました(爆)。

 よく北アフリカ戦を扱った本で、「負けた側が退却して補給状態が良くなる……結果としてシーソーゲームになる」という風に書いてありましたが、まったくその通りで、エル・アラメイン付近では英連邦軍の補給状況は格段に良くなるのでその点考慮しないといけないですね~。



 ↓マップE抽象シート

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 このシナリオはマップDだけを使用するのですが、シナリオに「マップEの抽象シート上の航空基地を使用してもいいよ」と書いてあります。実際、そうしないと英連邦軍は航空基地の数が足りません。ですが、抽象シート上のどこにどれだけ航空基地があるかは書いてないので、これまた「第1次エル・アラメインの戦いからのキャンペーン」の情報を見て航空基地を配置。また、最初ワニミさんはHelwanに航空ユニットを置いていたのですが、HelwanにはSPが湧いてこないので、アレクサンドリアと同様の無限の補給集積所であるPort SaidとSuezの方に航空ユニットを置かないと駄目だということが分かりました(Helwanからそれらのヘクスへは距離的に受給できないため)。



 ↓第1ターン先攻(枢軸軍)終了時

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 さて、プレイですが、枢軸軍は迂回して敵を後ろから殴るということを企図してみたのですが、ヒップシュートがことごとく外れて殴る予定だった敵ユニットをDGにできず、戦力比が立たないのでそちらは殴らず。ただ、リアクションフェイズにロンメルのいるスタックを砲爆撃するために出てきていた英連邦軍の観測ユニットだけを殴って壊滅させました。



 ↓第1ターン後攻(英連邦軍)終了時

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 うなる航空ユニットとSPにモノを言わせて、ワニミさんは枢軸軍の突出部のすべてをDGにし、その中間部をちょん切ってしまわれました……(T_T)

 頭を重くして(突出部の先端が大戦力で、そこまでの通路部分が小戦力で)突っ込んだのは明らかに間違いでした。枢軸軍側としては、既述のように第1ターンに航空作戦を全力でおこない、陸上戦力は突出部が大きくならない形でフックのように作戦した方が良さそうです。

 まあ、史実で明らかに攻勢限界点にあり、挫折した戦いなので、「キャンペーンをプレイするようにプレイ」すれば、あまり無理をするべきではないという考え方もできます。OCS自体、なかんずくそのシナリオは特に、競技用とは考えるべきではないでしょうし。


 また、できれば『DAK-II』をプレイしていきたいと考えています。


 

OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーン第1ターン先攻

 尼崎会(拙宅)で、OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーンの第1ターン先攻をプレイできました。

 今回は長谷川さんも来られたので、前回決めていた戦区割のうち、パットン第3軍を長谷川さんにプレイしてもらい、私はそれをアドバイスするということにしました。


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 ランダムイベントを振ったところ、「グデーリアンの説得によりヴァハト・アム・ライン構想が中止」に! まさかのゲーム中盤におけるドイツ軍大反攻が不可能に(^_^; しかしこれにより同時に、ゲーム終了時期が早められ、英米軍側は史実のタイムスケジュールよりも急いでライン川を渡河しなければならないということになりました。


 また、英米軍総司令官アイゼンハワーとしては前線指揮官に、「どんどん行け!」という風に指令していたのですが、実際にはなかなか難しかったようです(補給や補充の目が最悪だったということもあったのですが(^_^;)。


 ↓北半分の戦区

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 ↓南の戦区

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 先攻ターンが終わって、後攻ドイツ軍ターンの準備だけをして終わったのですが、結構大量の増援がスヘルデ河口のマップ西端から入ってくることにびっくりしました(マップ外のテーブルに置いてあるのが増援……というか、マップ外の西側から撤退してきたドイツ軍ユニット↓)。

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 次回また、来週の日曜日(4/14)に『Beyond the Rhine』をプレイ予定です。長谷川さんも来られるそうで、前回決めていた戦区の割り振りをとりあえず変更してみました。

・スヘルデ河口……松浦
・アントワープからアーヘンまで……長谷川
・アーヘンからメッツまで……ワニミ
・メッツより南……肉入り鍋

 もちろん、飛び入り・見学大歓迎です。ドイツ軍司令官ルントシュテットであるワニミさんは「今こそ反撃のチャンスだ! ダブルターンを取るから大反攻を!」と指令されてます(^_^;



 あと、解釈問題を備忘録的に。

・1.10の、架橋ユニットで架橋すると「(小道(Track)を通って渡河するとみなします)」という文は、例えば「渡った先のヘクスの一番移動力消費の重い地形がHeavy WoodsであってもTrackの移動力消費でそのヘクスに入れる」という意味ではなく、OCS共通ルールの架橋のルールと同様に、「大河川は小河川に、小河川は何もない、に変更される」ということなのだけども、比喩的な表現として入っているだけだと、とりあえず見なすことにします。


<2019/05/11追記:↑は全然間違ってました。詳細はOCS『Beyond the Rhine』の架橋(pontoon)ユニットについてGeekで質問してみました (2019/05/11) へどうぞ>

北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版]

 ウェーヴェル将軍については一度「まとめ」を書いていたのですが、その後新たにオスプレイの資料を買ったうちの2冊にウェーヴェルについて載っていたので、その分増補改訂したものを作ってみました……。


 これまでのもの↓
北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ (2018/10/31)
北アフリカ戦線:イギリスのチャーチル首相について、まとめ (2018/11/02)


 ウェーヴェル将軍についてですが、簡単に言うと、「北アフリカでイタリア軍に対しては大勝したが、ロンメルが来ると敗走して、ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦で敗北し、更迭された先のインド方面でも日本軍相手に敗北した」ということになるかと思いますが、調べていてみると、上記の様な書き方から受ける印象とは異なる、かなり優秀な人物であったようにも思えます。

 このウェーヴェルに対する毀誉褒貶について、↓このような書き方もなされていました。

 ウェーヴェルに対する歴史家の見方は大きく分かれている。「昇進が早かった」だけの無能だと言う人々もいれば、不可能な任務を与えられた挙げ句に不公正にも更迭された偉大な将軍だという人々もいる。だが真実は、常にそうだが、それら極端な見方の間のどこかという所であろう。
『Allied Commanders of World War II』P27



General Archibald Wavell
 ↑ウェーヴェル将軍(Wikipediaから)



 ウェーヴェル将軍の概要について、諸資料から挙げてみます。

 北アフリカ戦の序盤における英中東軍の司令官ウェーヴェルは、英本国では第一次大戦の中東戦域で勝利した英雄アレンビー元帥の研究者として知られ、アレンビーの伝記や、ブリタニカ百科事典のアレンビーの項目を執筆するなど、学究肌の軍人でもあった。
 1941年4月にロンメルが第一次攻勢を開始すると、キレナイカで前線を視察していたウェーヴェルも危うく捕虜になりかけたが、辛くも脱出に成功した。そしてチャーチルの督促にもかかわらず「充分な兵力と物資が蓄積されるまで攻勢は控える」として反撃の実行を引き伸ばし続けた挙げ句、5月の「ブレヴィティ」作戦と6月の「バトルアクス」作戦が不甲斐ない失敗に終わると、ウェーヴェルの指揮手腕に失望したチャーチルは幕僚と相談の上、彼を6月21日に中東軍総司令官から解任、インド総司令官に異動させた。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P114,115

 ウェーヴェルは非常に尊敬された優秀な将軍であったが、不幸にも相次いで挽回不可能な状況の戦場に送られたにもかかわらず、常に最善を果たしたのであった。……
 ウェーヴェルはその経歴において多くの不利を被った。チャーチルから嫌われ、補給や装備の不足に悩まされ、不可能な任務を割り当てられた。だが彼は部下達や同僚から非常に好かれていた。ロンメルは、ウェーヴェルの著作である『将軍およびその統率能力』という本の写しを常に持っていたと言って、彼を褒め称えていた。
『WHO WAS WHO in World War II』P216

 部下達から非常に尊敬された人物であり、現代の歴史家からは、達成は不可能とも思える任務に最小限のリソースしか与えられなかった、思慮深く有能な指揮官として知られている。ウェーヴェルは同時代の人達によっては無能と評されたが、実際には非常に有能な人物であった。
 1939年7月に彼は中東軍司令官に任命されたが、その広大な管轄領域は彼が与えられたよりも遙かに多くの人員と装備を必要とするものであった。そのような不利を抱えながらも彼の部隊は1941年1月にイタリア軍をエジプトから追い出して同月トブルクを、2月にはベンガジを、そして4月には【イタリア軍占領下にあったエチオピアの】アジス・アベバを確保したのである。
 勝者となったウェーヴェルは、麾下の部隊をギリシアへ送るように命じられたことから、ロンメルとアフリカ軍団が到着すると今度は大敗北を喫することになった。激減していた連合軍部隊の兵力では激しいドイツ軍の進撃を止めることはできず、戦勝を待ちきれないチャーチルは7月にウェーヴェルをインド総督とし、オーキンレックを代わりに据えた。……
 ウェーヴェルは、与えられたリソースでは誰が代わったとしても苦しまざるを得ない運命を苦しんだ人物だった。彼は敵からも、部下達からも尊敬されたが、上司からは攻撃的な姿勢や活力に欠け、また戦場での戦術に柔軟性がないと考えられたのだった。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P176,7


 下2つの英文による人物事典ではウェーヴェルはほぼ絶賛されていると言って良いのではないでしょうか。上司(チャーチルのこと?)からは「攻撃精神に欠ける」と思われていたということですが、ブレヴィティ作戦の頃にしろ、バトルアクス作戦の頃にしろ、彼我の兵力差的に攻勢をかけること自体が無理筋だったのだろうと思います。

 ただ、ウェーヴェルは過度に寡黙で、チャーチルや周りの人間を当惑させた側面もあったようで、このことが(性格上のことはやむを得ないと言えると思いますが)彼への低評価をもたらしていたようです。

 ウェーヴェルの性格は大きな当惑をもたらすものであった。伝説的なほど寡黙で、何を考えているのかほとんど分からない表情は、政治家達、とりわけ説得力のある議論を好むチャーチルに、疑惑どころか時に敵意さえ抱かせた。
『British Commanders of World War II』P58





 さて、以下、時系列に沿って資料を引用していこうと思います。

 第一次世界大戦から戦間期にかけて目をひいた話としては……。

 彼は1915年に負傷し、左目の視力を失った……。
 1926年、彼は第3師団の幕僚に任命された。この時に彼は同師団に配属されていた実験的な機械化部隊に触れる機会を持ち、その後の数年でウェーヴェルは歩兵部隊の機動性、柔軟性、そして空軍力の大きな価値を学んだ。
『British Commanders of World War II』P57



 そして出世が非常に早かったようで、1926年に師団長ですらないのに、1939年に中東軍司令官になったというのですから、驚きです。

 1939年8月2日、サー・アーチボルト・ウェーヴェル将軍は新たに創設された中東軍司令官に任命された。ウェーヴェルは1901年にthe Black Watch(Royal Highland Regiment)に入っており、抜群の業績を挙げた著名な学者でもあった。新たな役職に就いて彼が直面したのは、圧倒的な戦力差を前にした大きな困難であり、とりわけウィンストン・チャーチル首相との間の関係であった。チャーチルはウェーヴェルを「優れた、平均的な大佐というところだ」と、1940年8月のロンドン滞在の後で表現していた。チャーチルは、ウェーヴェルへのまったくの過小評価から、ウェーヴェルの任務の詳細にまで何度も介入を繰り返して事態を悪化させ、ある時にはウェーヴェルは辞任まで考えるほどであった。幸いなことに「チーフ」として皆に知られていたウェーヴェルは辞任せず、むしろ並外れた統率力を発揮し、あらゆる個所で兵力において劣勢でありながら、3つの大陸にまたがる14の地域における複数の戦役を同時に差配したのであった。
『Operation Compass 1940』P14,5

 これらの戦役の成功はウェーヴェルの戦略的な力量を示している。様々な脅威に対するリソースを比較検討し、彼は自分の持つわずかな兵力を賢明に用いて敵を打ち破ったのである。
『Allied Commanders of World War II』P27

 中東全域の総司令官はアーチボルト・ウェーヴェル中将であった。彼は第1次世界大戦時にはアレンビー将軍の下でパレスティナで戦った経験があり(後にその戦役の報告書を書いている)、この戦域について良く知っていた。最初の時点で、彼はその任務に対して、自分が処理すべきことが多すぎ、それに対して使用できる充分なリソースがないことに気付いた。彼の任務は、まずエジプトとスエズの安全を守ることであり、次に紅海の敵を一掃し、イタリア領東アフリカ(その中にはソマリアとエチオピアが含まれていた)を解放し、ハイレ・セラシエ皇帝を復位させ、北アフリカ岸の敵を一掃し、東地中海を治め、そして最後に、南ヨーロッパへの攻撃の準備をすることであった。ウェーヴェルはイギリスの将官の中で最も知的な人物の一人であり、革新的な構想の支持者であった。彼は戦争の前に、Orde WingateとHarry Fox-Doviesに出会っている。前者はA.O.I.でエチオピア皇帝と共に戦いを進め、後者は長距離砂漠挺身隊を編成して戦争の過程で砂漠の奥深くで作戦行動をとることになるが、両方ともがウェーヴェルの賛成を得たものであった。
『Rommel's North Africa Campaign』P24,5

 しかし彼は麾下の将兵達に好かれ、尊敬されていたし、その無感動な態度とは対照的に、彼は常に非正統的な試みを援助することに前向きであった。
『British Commanders of World War II』P59

 ウェーヴェルのおかげで、少なくとも標準的な訓練と、砂漠での作戦に対する準備は高い水準で完了していた。
『Operation Compass 1940』P22



 さて、イタリアが1940年6月10日に枢軸国側に立って参戦し、イタリア領リビアとイギリスの支配下にあったエジプトの国境地帯でも小競り合いが発生し始めます。そんな中、9月14日にイタリア軍側が「グラツィアーニ攻勢」によってエジプトに3日間進撃して停止し、それに対してウェーヴェルはチャーチルから、反撃を命じられていましたが、自軍の戦力は圧倒的に少ないものでした。その状態の中で……。

 地中海戦線を統率するイギリス中東方面軍司令官ウェーベル大将と地中海艦隊司令長官カニンガム大将はともに、「戦力で劣るのであれば、戦いの主導権を握ることでこれを打開せねばならない」という戦術思想の持ち主であった。
 このような果敢な司令部にとって、互いの後方連絡線が交差する地中海は、ダイナミックな作戦が可能な戦場だった。特にマルタ島は、こうした状況において最も重要な地点となったのである。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P98

 そして、包囲攻撃や堂々と陣をはった対戦から小競りあいに至るまで、あらゆる戦闘を支配していたのは、二人の司令官の正反対な理論だった。ウェーヴェルは軽装備で、迅速な機動力のある部隊を使うという考えであり、グラツィアーニは防衛を第一とする立場を取った。
『砂漠の戦争』P30


 この「戦力で劣るのであれば、戦いの主導権を握ることでこれを打開せねばならない」という考え方は、ウクライナにおけるマンシュタイン将軍が良く言っているところで、OCSのプレイにおいて戦力的には優勢でありながら何度も意表を突いた攻勢をされて主導権を失ってきた私としては、「本当にその通りだ!(やられた側として良く分かる!)」と思うのですが、自分が主導権を握るような攻勢をするのはまた、非常に非常に難しいとも感じてます(^_^;


 そして、イタリア軍に対する「コンパス作戦」となるのですが、しかしこれはウェーヴェルが主導した(できた)わけではなかったようですね。ただ、承認ということにおいてはウェーヴェルでなければなし得なかったとかかも。

 その様々な指示の中で、ウェーヴェルは機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調し、様々な戦術的な提案をおこなったが、ウィルソンもオコンナーもそれらを高く評価することはなかった。やがて、ウィルソンはウェーヴェルに対して、ニベイワとソファフィキャンプの間のエンバギャップを突破し、西からニベイワとTummarsを攻撃するという、オコンナーの修正された計画を提示した。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、彼は喜んでこれを承認した。
 この計画がコンパス作戦として知られるものであり、オコンナーの想像力に富んだ精神によって具体化され始めたものであった。
『Operation Compass 1940』P28



 コンパス作戦については、↓などをご覧下さい。



OCS『DAK-II』コンパス作戦シナリオ (2016/08/22)


 さて、コンパス作戦の成功後の様子として、ウェーヴェル将軍の人となりが詳しく語られる資料があります。

 【コンパス作戦の後】……兵士たちの中に立って、ウェーヴェル将軍が友人と話をしていた。とおりかかる人々が立ちどまっては、今や大英帝国の軍人の中でもっとも有名な存在となった、このもの静かな、がっしりした男を、あからさまな好奇の眼で眺めていった。彼は会う人に必ず感銘を与えると同時に、いささかとまどわせた。が、そうはいうものの、初対面では彼のほんとうの姿はほとんどわからなかった。その声は高く、やや鼻にかかっていて、はっきりとした用がないかぎり、めったに口をきかない。その浅黒く、しんから日焼けした顔にはしわが刻まれ、不愛想といってもいいほどきびしかった。うすくなりかけた髪は半白、前大戦で難をのがれ、一つだけ残っている眼が、いつもは彫像のように無表情な顔に爛々と輝いている。
 前大戦の前にウェーヴェルがどんな人物であったにせよ、彼は素直に、しかも断固として責任を取り、部下を引っぱっていく才能をアレンビー(イギリスの将軍)から受けついでいた。この年、中東で、彼は沈黙によって尊敬を、自信をもって部下に権限をあたえる気質によって、多くの賞賛を集めていた。ウィルスン、オコナー、クレー - こういった将軍たちはすべて、非常につよい絆でウェーヴェルと結ばれていた。その他にもう一つ彼が持っているものがある。それは謙虚さだった。半生を軍事的な訓練と作戦計画の立案に捧げてきたあげく、五十代になった今、将軍は多年考えてきたことを実戦で試すことができる幸運に恵まれたのである。彼の作戦には、そう新しいものはなかった。徹底的に秘密を守り、あくまでも敵の虚をつくこと。すばやく、強烈な打撃をあたえ、追及の手をゆるめないこと。強力な兵站線を確立すること。機動性を保つこと。すべては、ごく健全な軍事行動である。しかし、ウェーヴェルは彼独得の要素を加えることによって、それに生命をあたえた - ちょっとした大胆不敵さを加えることによって。麾下の部隊は彼を好いていた。重大な戦闘の直前には、鉄帽をかぶって砲兵隊の着弾監視所に坐っている彼の姿がよく見られた。彼は麾下の将軍たちにも、前線に出る習慣をつけるようにすすめ、彼らが前線で兵士たちと起居をともにすることを好んだ。
『砂漠の戦争』P50,51




 さてその後、ウェーヴェルの反対にもかかわらずチャーチルがギリシアへの派兵を決めたため、かなりの戦力を引き抜かれてロンメルの第一次攻勢を受けて敗退することになるのですが、↓のリデル・ハートによる記述では、ギリシアへの派兵にウェーヴェルは最大限協力的だったように読めますが、どうなんでしょう。

 ギリシャ派兵という政府の方針に対し「最大限の支援」をするため、アフリカでのイギリスの立場をこのような危険な状態におとし入れることになったが、その基礎となったウェーベルの判断は次のようなものであった。すなわち、トリポリタニアにあるイタリア軍は問題とするに足りないし、また地中海におけるイタリア海軍があまりたよりにならないことを考えると、ドイツが地中海を越えて補給しなければならないという危険を冒して、機甲部隊の大部隊をアフリカに送ることはないであろうというのである。
 ドイツ最高統帥の全般的な方針に関するウェーベルの判断は正しかったし、またその細部においても、わずか「機甲1個師団」相当の兵力(すなわち第5戦車連隊)が上陸したにすぎないというその判断は当たっていた。したがってウェーベルは3月2日「敵はこの部隊をもってベンガジの奪回を企図することはないであろう」という結論に達したのも当然であったが、このような考え方はロンメルに対しては通用しなかったのである。
『ドキュメント ロンメル戦記』P137



 ↓こちらでは、ウェーヴェルは任務的にも、部下的にも、また常識的にもやむを得なかったかのように読めます。

 英中東軍司令官ウェーヴェル将軍は、広大な担当戦域での各所でおこる危機に気をとられて、特定の戦域にじゅうぶん注意をはらうだけの余裕がなかった。
 ウェーヴェルとしては、部下の将軍はもちろん信用しなければならない。しかしウィルソン中将はベンガジ南方の高地地帯を防備できる兵力について、まったくあやまった印象をあたえたままギリシャへ出発してしまった。ウィルソンの後任のニーム中将は、防備には自信がないようで、じっさいにはまったく適応しないような戦術計画を提案してきた。
 ウェーベルの情報参謀は、ドイツ軍の攻勢準備については、部分的な情報しか入手できなかった。さきに英参謀本部情報部から、ドイツ・アフリカ軍団が突然キレナイカに侵入することもありうると警告されていたが、ウェーヴェルは、ドイツ陸軍総司令官のブラウヒッチュ同様に、合理的、現実的、正統派の指揮官であったから、その危険は5月まではないと、警告を無視していた。
 正常な軍事的常識をもつものなら、そんな無鉄砲な作戦はしないだろう、ウェーヴェルはそう考えていた。
『ロンメル戦車軍団』P23,4



 しかし責任者としてウェーヴェルは、ロンメルの攻勢について見誤ったことの責めを受けることになりました。

 ウェーヴェル将軍とその情報部は一つのあやまちを冒した。それについてまず責めを負わねばならないのは、特に将軍だった。集められた情報から判断して、たとえ攻撃があるとしても、ドイツ軍がキレナイカで攻勢にでるのはどんなに早くとも5月と、彼は踏んだのである。……
 だが、この誤りでさえ、いっさいを将軍の失敗と見るのは、はなはだ酷である。……
 戦争初期の他の多くのイギリス将官と同様、ウェーヴェル将軍も、「小官の情報源がまったく不十分だったことに対する責任」を、ひとりで負うのを要請された。彼は甘んじてその責めに任じた。やがてイラクに反乱が起こり、シリアにあるヴィシー側フランス軍との小規模な戦闘の責任が、さらに彼の肩にかかった。
『ロンメル将軍』P25,6


 ↑の最後の行にある「シリアにあるヴィシー側フランス軍との小規模な戦闘」というのはOCS『Reluctant Enemies』で扱われているエクスポーター作戦のことです。『Reluctant Enemies』ルールブックの「はじめに」から引用してみます。

 イギリス連邦(この地の自由フランス軍も含む)の上級司令官であったウェーヴェル将軍は、リビアへのロンメルの登場、ギリシアとユーゴスラヴィアへのドイツ軍の侵入、それに空挺降下によるクレタ島の失陥などでまったく手一杯の状況にありました。彼の困難は、イラクにおける反英クーデタへのドイツの支援によってさらに増加します。このドイツの支援は、「レヴァント軍」の最高司令官であり、かつフランス委任統治領であったレバノンとシリアというヴィシー保護領の防御を担当するレヴァントの高等弁務官であったデンツ将軍によって援助され、扇動されていました。まがりなりにも前年には、(ヴィシー)フランスはイギリスの同盟国であったため、そのヴィシー配下のレバノンのラヤク空港を経由してドイツ空軍をイラクへと通過させるのに好都合でした。さらに、ヴィシーはイラクへとクーデタの支援のために数百トンの兵器、弾薬その他の補給品を送っていました。これらすべてのことが、西方砂漠において今や消耗してしまったウェーヴェル軍に対してロンメルが圧力を加えている、まさにその時に起こっていたのです。
 それにも関わらず、チャーチルは行動を要求しました。ウェーヴェルはやむを得ず彼の後方地域の脅威に対処し得るいくばくかの部隊をひねり出し、その結果エクスポーター作戦が発動されたのです。
それはオーストラリア軍部隊の2個旅団(第21と第25)、第5インド旅団、自由フランス軍の2個旅団(第1自由フランス師団の第1、第2旅団)と若干の支援部隊で、これらが機甲部隊や航空支援のほとんどない中で、レバノンとシリア全体を軍事的に制圧する任務を課されたのでした。ド・ゴールは、彼の自由フランス軍が参加していることからヴィシーフランス軍は彼らの「戦友」に対して戦わないであろうし、それゆえこの作戦は単に「歩いて行けば終わる」と強く主張しました。しかし彼は間違っていました。
 ヴィシー軍は装備、編制ともに良好でした。彼らは激しい抵抗を示し、大きく反撃しました。当初、イギリス連邦軍と自由フランス軍はたじろぎました。しかし皮肉なことに、西方砂漠地域におけるバトルアクス作戦の失敗(6月15日)により、この戦役への増援と、イギリス連邦軍側の攻勢再開が可能となりました。まずダマスクスが陥落し、次にベイルートが大きな脅威にさらされました。第10インド師団の部隊がハブフォース(ハバニヤー軍の略称)と共に北方のアレッポとホムスへと進み、ヴィシー軍は戦闘中止のための休戦を提案しました。


 エクスポーター作戦は1941年6月8日から7月14日で、その期間中(6月20日、あるいは7月5日?)にウェーヴェルはバトルアクス作戦の失敗により解任されることになるのですが、場所をリビア・エジプト国境に、時間をロンメルの第一次攻勢(3月24日~5月4日)に戻してみます。

 ロンメルの第一次攻勢によってキレナイカ地方を失ったウェーヴェルでしたが、トブルクは死守するという決断を下しました。この決断をロンメルは褒め称えています。

 戦術の面でロンメルはウェーヴェル将軍を、好敵手だとみとめていた。トブルクを死守する決定は、当時の情況からして、不敵なものであった。「この要塞を積極的に防衛することは、敵の兵站線に脅威を与え、その進出を阻止し得られるかもしれない」事実、そうなった。そうしておそらくエジプトを救ったのであろう。ウェーヴェルのことを最高級の指揮官、「天才的な軍人」だと、ロンメルはいつもその子息に語っていた。
『ロンメル将軍』P119


 ロンメルがトブルク攻略を諦めたのが5月4日だったのですが、5月15日にはウェーヴェル将軍の意志でブレヴィティ作戦が実行されます。が、失敗。

 一方、キレナイカのほぼ全域を敵に奪い返されたとはいえ、要衝トブルクを手中に保持していたウェーヴェルは、ドイツ軍上級司令部間の暗号通信を解読した情報「ウルトラ」を通じて、ロンメルが第一次トブルク攻撃の失敗によって苦しい立場に立たされていることを察知していた。
 そして、ドイツ・アフリカ軍団を構成する第二の師団である、第15装甲師団の上陸が着々と進んでいることを憂慮した彼は、敵の兵力が増強される前に、トブルクとの連絡を回復し、敵に打撃を与えるべきだとの結論に達し、英首相チャーチルの許可を得て、エジプトとリビアの国境で限定的な攻撃【ブレヴィティ作戦】を実施する準備に着手した。
『ロンメル戦記』P234

 「ブレヴィティ作戦」の失敗と、要衝ハルファヤ峠の失陥により、ウェーヴェルの自信は大きく揺らいだ。彼は、キレナイカのドイツ軍が既に容易には打ち崩せないほど強化されていることを実感し、当面は攻撃を控えて兵力を蓄積するのが良策だと考え始めた。
『ロンメル戦記』P238


 ブレヴィティ作戦については、↓こちらもどうぞ。
OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオ研究 (2018/01/09)

 そのちょうど1ヵ月後の6月15日、今度はチャーチルの命令により攻勢作戦を実行せざるをえなくなりますが、これがバトルアクス作戦です。

 1941年6月、イギリス連邦諸国軍は戦車400両の増援を受け、ロンメルの率いる独伊軍に大攻勢を掛けてきた。これがイギリス中東方面軍司令官、ウェーヴェル将軍の構想になる戦斧(バトルアックス)作戦である。ウェーヴェルはもともとこの時点でロンメル軍に攻勢を掛けるつもりはなかったのだが、パウルス将軍が前月に総司令部に提出した報告書が解読され、これに目を通したチャーチル首相が、エジプト国境にいる敵軍が軽装備であることを知り、ウェーヴェルに攻撃するよう圧力を掛けたのである。
『ロンメル語録』P133


 英戦時内閣の首班チャーチルからの強いプレッシャーを受けたウェーヴェルは、仕方なく新たな攻勢計画の立案に着手した。だが、出来上がった計画の内容は、この攻撃に対する彼の「乗り気のなさ」を物語るような、工夫のない単調なものだった。前回失敗に終わった「ブレヴィティ」作戦と同様、今回も兵力を三手に分けて、平行して前進させるという手法を用いていたのである。
『ロンメル戦記』P239


 ↑では「工夫のない単調なものだった」とあるのですが、↓ではロンメルはウェーヴェルの攻勢作戦を絶賛しています。

 ウェーヴェルが提案した、この英軍の攻勢作戦【バトルアクス作戦】は、戦略的に傑出したものだった。他のイギリス陸軍の指揮官たちに比べ、ウェーヴェルが卓越していた点は、充分計算した上で、戦略的にきわめて大胆になれることだった。それあらばこそ、彼は、敵の出方を顧慮することなく、その部隊を集中し得たのだ。敵が内戦作戦を行い、一箇所に全兵力を集めて、局地的に劣勢となった味方戦力の一部を圧倒、撃破することを可能とするような作戦は、いかなるものであれ拒否しなければならない。
『「砂漠の狐」回想録』P76


 バトルアクス作戦においては、ウェーヴェルの部下が勝手に退却し、ウェーヴェルは呆然としたとか……↓。

 「バトルアクス(戦斧)作戦」と名付けられたこの攻勢は、ノエル・ベレスフォード=ピアース中将の第13軍団司令部によって統轄指揮され、マイケル=オムーア・クレアー少将の第7機甲師団に所属する3個旅団(第4、第7の2個機甲旅団と第7支援旅団)と、フランク・メッサーヴィ少将の第4師団に所属する2個旅団(第22近衛、第11インド)が、50機のホーカー・ハリケーン戦闘機に支援されながら、それぞれ与えられた目標に向けて前進した。
 ……
 6月16日、敵の攻撃部隊の連携があまり上手くとれていないことを見抜いたロンメルは、第5軽師団と第8戦車連隊で反撃を行うことを決定し、敵の第4と第7機甲旅団の中間部に兵力を集中する形で、逆襲に転じるよう命令した。10キロほど離れた場所で戦っていた第5軽師団と第8戦車連隊は、すぐに同一歩調の行動をとることができず、それぞれ夕方まで目前の敵との交戦を続けたが、翌6月17日の朝、両部隊は英連邦軍の間隙をすり抜けて、英連邦軍の背後へと浸透することに成功した。
 ロンメルが常套手段とする、こうした敵背後への浸透を初めて経験したクレアーとメッサーヴィは、自軍部隊の背後に突然敵の戦車が現れたことでパニック状態に陥り、上官のベレスフォード=ピアースからの許可を得ないまま、麾下の部隊に攻撃中止と反転を命令した。この日の午後、戦況を確認するために第13軍団司令部を訪問したウェーヴェルは、既に攻撃部隊が東への退却を開始していると知らされ、愕然として言葉を失った。
『ロンメル戦記』P243


 バトルアクス作戦の失敗によりウェーヴェルは解任されることになりますが、これは公正ではなかったと評されています。

 この攻撃が開始されて2日後に失敗に終わった時、チャーチルはウェーヴェルを解任しなければならないと心に決めた。
 この動きは公正とは言えなかった。なぜなら、ウェーヴェルは実際には総司令官としてこの2年間の間、よく任を果たしていたからである。彼が指揮すべき範囲は容易なものではなかった。北アフリカにおける責任に加え、ウェーヴェルはギリシアやクレタ島でのドイツ軍の動きに反撃しなければならず、しかもシリアやイラクでのヴィシーフランス軍へも対応しなければならなかったのである。彼の初動は良好で、戦争の開始時にイタリア軍に対して大きな成功を収め、イタリアの東アフリカ植民地のほとんどを攻略した。彼の指揮下でオコンナー中将はイタリア軍をエジプト国境から押し返し、リビアのキレナイカ地方を得て20万人もの捕虜を獲得したのであった。
『Operation Crusader 1941』P5




 さて、最後にロンメルによるウェーヴェル評がいくつかあるので引用してみます。

 イギリス軍の最高司令官クラスの人々が、かなり教条的で、融通に乏しく、いかにも官僚的な考え方しかできなかったことも事実である。
 ウェーヴェルは例外だった。彼は温厚な人物だった。オーキンレックは非常に優れた司令官だったが、戦術的な作戦指揮はほとんど部下の将軍たち[カニンガム将軍、リッチー将軍]に任せきりだったので、私はすぐに、戦闘を我が方の主導権で進めるより、相手の出方を見てこれに対応するというやり方を取るようになった。
『ロンメル語録』P143


 「温厚な人物」という言葉が出てくるのがなんか場違いな感じがするのですが、↓は前後の文から見て同じ原文から訳されているのではないかと推察します。

 イギリス軍の高級指揮官の多くは、形式主義的な性向を持っていたものと、私は信じている。
 天才的な資質を持っていたのは、ウェーヴェルだけだった。オーキンレックも非常に優れた指揮官だったが、たいていの場合、作戦の戦術的指導を部下の指揮官たちにまかせていた。彼らはすぐに、私の行動原則に従わされるはめになり、戦術的には、自ら行動する(もっとも、常にそれが必要であるというわけではなかった)というよりも、わが方への対応に振りまわされることになる。
『「砂漠の狐」回想録』P426


 ロンメルはウェーヴェルを高く評価していた。ロンメルはウェーヴェルの書いた論文を北アフリカに持参していたほどだった。
『ロンメル語録』P164

 ウェーヴェルのイタリア軍との戦いは、少数兵力よる大胆な計画と不敵な実行を示す最高の実例として、常に研究の価値があると彼【ロンメル】は語っていた。
『ロンメル将軍』P182





 ウェーヴェル将軍はその後インド総督となりますが、その時のチャーチルとの戦いを↓で書いてますので、こちらもぜひご参照下さい。
インド人300万人を死に追いやったチャーチルvs.ウェーヴェル将軍の戦い (2018/05/13)


『パットン対ロンメル』『「砂漠の狐」ロンメル』を注文しました

 ようやく久ぶりに大きな書店に行けました。

 ミリタリー本のコーナーに、だいぶ前に出版されていた『パットン対ロンメル』があってちょっと立ち読みしてみました。以前はパットンの方にそれほど興味がなかったのでこの本はスルーしていたのですが、今『Beyond the Rhine』をプレイするにあたってパットンやモントゴメリーに関しての本を再読しているうちに、がぜんパットンに興味が湧いてきていたので。

 特に↓がすごく興味深かったです。

 何故、モントゴメリーは【マーケットガーデン作戦を】中止すべきと判断できる証拠が次々と寄せられるのに、自分の計画にこだわったのか?  その回答は一語で表される 「パットン」だ。これまで出版してきた書物の中で、モントゴメリーは、パットンの成功を貶めるためにたいへんな労力を費やしてきている。パットンへの妬みは、隠しようがないのである。彼はいつも、どうしてパットンがうまくいき、自分はそうでなかったか、その言い訳を探していた。しかしアメリカ人のほうが才能に恵まれていたから、という理由が、その言い訳になることは決してなかった。
 同様に、モントゴメリーはアイゼンハワーにもできる限りの非難を浴びせている。自身の失敗、特にアルンヘムの悲劇の責任を、連合軍最高司令官に押しつけるため、最大限の努力を払っているのである。アイゼンハワーが歴史家のコーネリアス・ライアンに、モントゴメリーは自分が「完璧」であり、「自分の人生の中で過ちを犯したことは一度もない」と信じていると語ったが、それは誇張ではない。モントゴメリーが書いたものを斜め読みしただけで、彼は自分が全く完璧だと信じており、自分の過ちを決して認めず、他の誰かに責任をなすりつけていることがわかる。彼は、アイゼンハワーを堅物、ブラッドレーを二枚舌、パットンをクソ野郎、ホッジスを腰抜けだと見なしていた。
 フランスでの進撃は、モントゴメリーにとって全く面白くないものだった。新聞はパットンとブラッドレーの成功を大々的に報じたが、モントゴメリーの扱いはひどいものだった。彼は、アメリカ人であるパットンの下に甘んじることができなかった。モントゴメリーは、ヨーロッパの戦争で英雄になることを望んだが、そのためにはパットンに劣らぬ栄光に浴する必要があった。
 これまで、大胆で知られるパットンは、注意深く慎重なモントゴメリーよも、より短い時間、少ない損害で、より大きな戦果をあげてきた。しかしマーケット・ガーデン作戦では、モントゴメリーは先にベルリンに到達し、パットン以上にパットンたろうとした。アラメイン戦以来、初めてメディアの脚光を集めることとなった。マーケット・ガーデン作戦は、彼をこれまで
以上に魅力的な司令官にし、同時にパットン人気を抑制する効果もある筈だった。
 もちろん、少なくとも表立っては、モントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦で戦争に勝てるとは信じていなかった。それでも、勝利に向けて大きく前進し、パットンを封じ込め、モントゴメリーが「偉大な指導者」に選ばれる機会を阻害する全てを排除できる筈だった。
 アイゼンハワーはアントワープとライン川の橋頭堡を欲したが、モントゴメリーは悪くてもルール、できればベルリンを求めた。この欲望は、「パットン恐怖症」から生まれたものである。モントゴメリーは不愉快な人物ではあったが、愚かではなかった。彼が無視することにした不吉な前兆を示す情報分析報告の全てについて、知るべきだったのである。だが彼は、自分自身が完璧ではないということを受け入れる勇気を、持ち合わせてはいなかったのだ。
『コマンドマガジンVol.46』P32



 「大胆な方が勝利する」というのに個人的にすごく興味がありまして。ただ大胆も行きすぎれば失敗するとも思われ、そこらへんのバランスとか……(ロンメルの最初のトブルク攻撃などはその失敗の例かも?)。

 また一方で、第二次世界大戦ブックスの『猛将パットン』を読んでいたら、メッツ攻略戦ではパットンは戦力の集中をしなかったために苦戦することになったのであって、それはパットン自身の問題であった、というような書き方がされてまして、「ほぉ~」と。

 『パットン対ロンメル』を立ち読みしてみていると、とりあえずロンメルの欠点的な性格の面が結構書かれているようで、これはよさそうだ、と。ただ、出版されたのはだいぶ前ですから古本で買えるならその方が助かるということでAmazonで検索してみたところ、1100円くらいで買えるのでそちらで注文してみました。







 それから、以前書いてました『「砂漠の狐」ロンメル』を探したのですがまったく見当たらず。ちょっと離れた大きな書店に行ってみたものの、なし。これは、売れてしまってない、ということなんでしょうか……? で、やむを得ずこれもAmazonで注文することにしました(本屋で買えるものはなるべく本屋で買いたかったのですが……)。

 Amazonで見てみると、古本が定価より高い値段で売ってますし、4月6日に入荷予定となっていて、そこらへん勘案すると、やはりかなり売れていてそれででっかい本屋にもなかった? ということであれば慶賀すべきことですが!(^_^;






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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


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