FC2ブログ

OCS『Sicily II』:爆撃機の航続距離について

 何度も遠い所から尼崎会に来ていただいてます富山のKさんから、↓のようなコメントを戴きました。

漫然とOCSのユニットなど眺めていて気になった点です。ブログで取り上げて頂き御見解を頂けましたら幸いです。
「SicilyII」で登場するSM.84の航続距離「324」は過大なのでは?
ウィキペディアで見たところ、SM.84は航続距離1830km、B-24のD型で3700km(ユニットは314)でした。スペックだけでは測れない何かがあるのでしょうか。



 というわけで、ユニットを見てみました。

unit00412.jpg
unit00413.jpg

 左上の2ユニットは『DAK-II』からで、それ以外は『Sicily II』からです。

 ただ、『DAK-II』は1ヘクス5マイル(約8km)なのに対して、『Sicily II』は1ヘクス3.5マイルと、1.43:1の比率になっているので、航続距離は『DAK-II』→『Sicily II』の時に1.43倍する必要があります。SM.82の航続距離は『DAK-II』→『Sicily II』でちょうど1.43倍くらいになっています。ですからSM.79の航続距離も揃えて考えるなら、118×1.43で169辺りになります。


 とりあえずWikipediaによってカタログスペックを見てみますと……。

SM.79……1,900 km              SM.82……2,100 km  SM.84……1,830 km
B-17……2,832km  B-24D……3,700 km B-25……2,437km  B-26……4,590km


 これを、Wikipeidaの航続距離(km)÷『Sicily II』の航続距離(ヘクス)して並べてみます。数字が小さいほどゲームでは(過)大評価されていることになります。

SM.79……11.24             SM.82……7.89  SM.84……5.65
B-17……9.90  B-24D……11.78  B-25……12.63  B-26……29.24

 うーん。これを見ていると、この数字が大体10前後の数字になるのが平均なのでしょうか。そうだとすると、確かにSM.84は過大評価されているように見えますが、一方でB-26はえらい過小評価されていることになりそうです(^_^;

 尤も、『Sicily II』でB-26の航続距離が短いのは、シチリア戦役の時にはスペックが発揮できなかった何らかの要因があったからだ、ということは考えやすいです。

 一方、SM.84の航続距離が長いのは

1.増槽を付けていた
2.機内に燃料タンクを増設していた
3.空中給油していた

 とかとか……?

 あるいはゲーム的処理としてそれだけの航続距離を与えることによって表現したい何かがあったという可能性もあります。思いつくものとしては、ヘクスマップ外ボックスで最も遠いサルディニアボックスから「航続距離の半分で往復」を可能にするため……というのがあるのですが、どうもSM.82の航続距離266でもそれはできそうな感じで、SM.84の324ないとダメということもなさそう……(^_^;


 OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』では、ソ連軍の航空ユニットの航続距離が通常の半分にされていますが、その理由についてルールブックにはこう書かれています。

デザインノート:ソ連軍の航空機は期待されていたよりも航続距離が短くなってしまっていました。このマップ1枚という限られた戦役を扱うゲームにおいては、航続距離を半分にするのが簡単な方法でした(OCS 21.4 もこの低く設定された航続距離でうまく機能します)。


 こういう感じの、何らかの理由があるのでしょうか。あるいはまた、単なるミスや誤解という可能性もあるかもですが……(^_^;




 もう一つ、富山のKさんから頂いていた件が↓です。

「KOREA」のシナリオ5.3と5.4でC56.12に初期配置される2 Inf Div (23Inf Rgt,Divarty Rgt)は、シナリオ開始前の表のプレーヤーターンで増援として海上輸送されたはずで、つまりは移動モードで配置され予備マーカーは置けないことになるのでは?
特別ルールにないと言ってしまえばそれまでかもですが、鉄の信念で半島統一を目指すコミュニストプレーヤーが、もしいるとすれば、納得しなさそうです。


 詳しく書きますと、シナリオ5.3では(5.4は違う?)特別ルールによって最初のターン(8月5日ターン)は共産軍による第2プレイヤーターン(後攻)から始まることになっており、アメリカ軍の2 Inf Div (23Inf Rgt,Divarty Rgt)は8月5日ターンの増援なのです。でもって、国連軍の増援はすべて「日本ボックス」に到着することになっており、それを移動フェイズ中に海上輸送(到着した港湾で停止)しなければ釜山には来られないので、第2プレイヤーターン開始の時点では「移動モード」確定で、しかも「予備モード」にはなれないのではないですか、ということですね……?

 まあ確かに仰る通りだと思います(^_^; が、OCS(The Gamers?)はそういう細かいところは割と無視する感があるので、「両軍プレイヤーの合意によって、そこらへんは修正しても良い」ということにすれば良いのではないかと……(と、無難な答を(*^_^*))。

 まあ確かに、バランス的にはシナリオ上史実で負けている北朝鮮軍に厳しいでしょうから、少しでも北朝鮮軍に有利なようにというのは緊迫感を増す意味で良いような気がしますね~。

スポンサーサイト



OCS『DAK-II』:枢軸軍の軍団司令部について

 前回に引き続いて、北アフリカ戦における枢軸軍の司令部についてです。

前回→OCS『DAK-II』:英連邦軍の軍団司令部について (2019/01/23)


 ↓OCS『DAK-II』の枢軸軍の軍団司令部ユニット

unit00409.jpgunit00410.jpg

 ドイツ軍には「DAK(ドイツ・アフリカ軍団:Deutsches Afrikakorps)」の司令部しかありません。が、北アフリカのドイツ軍はずっと「ドイツ・アフリカ軍団」という名称・組織だったわけではなく、例えば「アフリカ装甲軍」などの名称・組織等に何度も格上げ?され、そのうちの中に「ドイツ・アフリカ軍団」が所属していたりしました。

 そこらへん、日本語版Wikipedia「ドイツアフリカ軍団」にまとめられているのですが、この項目においては脚注2にある通り「注意:すべてのアフリカ派遣軍部隊がアフリカ軍団に所属することは一度もなかった。 いくつかのドイツ軍部隊はアフリカ装甲軍の予備部隊であったり、一時的にイタリア軍、あるいはイタリア軍団に配属されていた。」ということに則って、最初の頃は「在リビア・ドイツ軍部隊(German Troops in Libya)」の中に「ドイツ・アフリカ軍団」があったということのようです。

 一方、山崎雅弘さんによるこんな記述も見つけました。

 この時点【ロンメルが初めて北アフリカに上陸する1941年2月12日の直前】では、ロンメルに付与された役職名は「在リビア・ドイツ軍部隊司令官」というもので、数日後には「ドイツ・アフリカ軍団(DAK:Deutsches Afrikakorps)」という、戦史に大きな名を残すことになる組織の軍団長へと変更されたが、ロンメル自身はどちらかというと前者の呼称を気に入っていたという
『ロンメル戦記』P196


 ↑は役職名のことなので、組織上のこととはまた違うでしょうから、Wikipediaの解釈とは齟齬は生じないとみていいでしょうか。


 ただ、前記の日本語版Wikipedia「ドイツアフリカ軍団」と、書き方の似ている英語版Wikipedia「Panzer Army Africa」(こちらの項目名は「アフリカ装甲軍」)を見比べてみると、後半の戦闘序列に色々と異なる点があって、どう考えたらいいのやら……(^_^;



 イタリア軍の軍団司令部については英語での資料に乏しく、イタリア語では例えばイタリア語版Wikipeida「XXI Corpo d'armata (Regio Esercito)」などで見られるようですが、イタリア語からのGoogle翻訳ともなると煩雑なのでやめておきます(^_^;


 手持ちの資料で戦闘序列を書き出してみるにとどめます。



1940年9月13日(イタリア軍によるエジプト侵攻作戦時)
  第20軍団(在トリポリ)

  第21軍団
  第22軍団
  第23軍団
  リビア集団(LibOp)

 『DAK-II』のシナリオから。第20軍団司令部はトリポリボックスに置かれているので、エジプト国境にはいなかったということなのでしょうね。リビア集団については次項で。この時やコンパス作戦の時のエジプト・リビア国境のイタリア軍は第10軍というくくりだったと思われるのですが、ちょっと調べたもののいまいち確実なことが分からないので今回はパスで。




1940年12月9日(コンパス作戦時)
  第10軍団(在トリポリ)

  第20軍団(デルナの西にあるGiovanni Bertaに)
  リビア集団
  第21軍団
  第22軍団(トブルクに)
  第23軍団

 オスプレイの『Operation Compass 1940』と『DAK-II』にもコンパス作戦キャンペーンシナリオから。9月の時と比べると、第20軍団が東進しており、トリポリに新たに?第10軍団が置かれています。それからリビア集団と書いてあるのが『DAK-II』の「LibOp(Libyan Operation Group)」に当たるものでしょう。

 「リビア集団」ですが、この本には「Gruppo divisioni libiche(Libyan Group)」と書かれており、第1リビア師団、第2リビア師団、マレッティグループ、黒シャツ師団「1月3日」などが所属していたようです(リビア師団についてはOCSユニットで見る「リビア人部隊」と「サハリアーノ大隊」 (2017/03/29) 、黒シャツ師団についてはOCSのユニットで見る黒シャツ隊 (2017/01/31) をご覧下さい)。

 このリビア集団の司令官はガリーナ将軍という人で、この人の言動については↓で触れていました。









 その後だいぶすっ飛ばしまして、1941年6月15~17日にバトルアクス作戦がありまして、8月15日に「アフリカ装甲集団」が組織されることになり、その司令官にロンメルが、そしてその下に所属することになった「アフリカ軍団」の司令官にはクリューヴェルが就任しました。そしてその後1942年1月30日に「アフリカ装甲軍」に改組されます。

 「装甲集団→装甲軍」と言えば、バルバロッサ作戦の時に第1~4装甲集団が存在しており、これらがタイフーン作戦の途中で順次「装甲軍」に改組され、それまでは独自の段列を持たなかったのが自身の段列を持つようになりました。試しにそれぞれの「装甲集団→装甲軍」の期間がいつだっかを日本語版や英語版のWikipediaで調べてみますと……。

第1装甲集団 1941/05→1941/10/06
第2装甲集団 1940/11→1941/10/05
第3装甲集団 1940/11/16→1942/01/01
第4装甲集団 1941/02/15→1942/01/01
アフリカ装甲集団 1941/08/→1942/01/30

 タイミング的にはまあまあ似通った、第1~4装甲集団よりはちょっと遅れて、という感じですね~



 「アフリカ装甲集団」である時に起こったクルセイダー作戦時の戦闘序列

1941年11月18日(クルセイダー作戦時)
  第20軍団(在トリポリ)

北アフリカ駐留軍総司令官(伊:バスティコ)
  アフリカ装甲集団(独:ロンメル)
    ドイツ・アフリカ軍団(独:クリューヴェル)
    第21軍団(伊:ナヴァリーニ)
  機動軍団(伊:ガンバラ)

 バスティコ将軍の地位は、オスプレイの『Operation Crusader 1941』によると「Commander-in-Chief North Africa」となってまして、もしかすると在トリポリの第20軍団も彼の統轄下にあったのかもしれません。ロンメルより上の彼の地位は結構名目的なものだったらしいですが、まあ名目が大事だったのです(^_^;

 アフリカ装甲集団の下にイタリア軍の第21軍団(パヴィア、ボローニャ、ブレシア、トレント自動車化歩兵師団が所属していた)が入っており、ロンメルの指揮下にあったことが分かります。

 一方で、アリエテ戦車師団とトリエステ自動車化歩兵師団を擁する機動軍団はロンメルの指揮下にありませんでした。この機動軍団が『DAK-II』のCAM-Corpo d'armata di manovra(Corps of Maneuver)に当たるものですが、『Rommel's North Africa Campaign』では「Army Corps of Manuever」、『Operation Crusader 1941』では「Italian XX Corpo d'Armata【つまり第20軍団】」と書かれています。とりあえずイタリア語版Wikipeida「Corpo d'Armata Manovra」をちらっと見てみたのですが、そこらへんの差異に関することは分からず……。

 この機動軍団の司令官がイタリア軍のガンバラ(ガムバラ)将軍で、クルセイダー作戦の後半でドイツ軍が危機的状態になった時にクリューヴェル将軍が無線で何度も「ガムバラはどこか?」と救援を求めたのに来なかった……というのが『砂漠の狐』の一章になっています(→イタリア軍のガムバラ将軍はロンメルに協力するようになって解任された? (2017/07/10) )。

 ついでに、クルセイダー作戦の時にこの機動軍団を支援していた組織として、「機動軍団偵察戦闘団(RECAM:Raggruppamento Esplorante del Corpo d'Armata di Manovra - Reconnaissance Group of the Mobile Army Corps)」というのがありました。細かい部隊が所属していましたが、その中には「青年ファシスト連隊」もありました。それぞれのユニットがOCSユニットで見る「青年ファシスト」師団 (2017/03/26) )に貼ってあります。





1942年5月26日(ガザラの戦い時)
北アフリカ駐留軍総司令官(伊:バスティコ)
  アフリカ装甲軍(独:ロンメル)
    ドイツ・アフリカ軍団(独:ネーリング)
    第10軍団(伊:ジョーダ)
    第20軍団(伊:バルダッサーレ)
    第21軍団(伊:ナヴァリーニ)

 第10軍団が再編されたようです。この時には、リットリオ戦車師団やボローニャ歩兵師団はバスティコの直轄として保持されていました。

 第20軍団は、英語版Wikipediaなんかでは「第20自動車化軍団(Italian XX Motorized Corps)」と記載されています。実際、その麾下にはアリエテ戦車師団、トリエステ自動車化歩兵師団がありました(これは先述の機動軍団と同じですから、機動軍団が第20自動車化軍団になったとか、そういうこと?)。




 次の「ドイツ・イタリア装甲軍」への改称(再編)ですが、英語版Wikipedia「Panzer Army Africa」によると「第二次エル・アラメインの戦いに敗北した後の長い退却の期間中の1942年10月に」とあります。

1942年10月(第二次エル・アラメイン戦後)
ドイツ・イタリア装甲軍
  第10軍団
  第20軍団
  第21軍団



 ところで私は、

7/1~11 第一次エル・アラメインの戦い
8/30~9/3 第二次エル・アラメインの戦い
10/23~11/5 第三次エル・アラメインの戦い

 だと思っていたのですが、日本語版Wikipedia「エル・アラメインの戦い」によると私が第二次と思っていたものは「アラム・ハルファの戦い」であって、第三次と思っていたものが第二次なのですね? うーん、そこらへん、自分の中でどこでそうなったのか……。またちょっと調べて用語を確定しないと……?


OCS『DAK-II』:英連邦軍の軍団司令部について

 「北アフリカ戦線のまとめ」で、次に英連邦軍のオコーナー将軍について書こうと思っているのですが、その資料の中に「西方砂漠軍(Western Desert Force)」という言葉が出てきまして、気になったのでそこをまず調べてみました。

 「西方砂漠軍」という言葉は私自身聞きなじみがないんですが、私が初めて買った北アフリカ戦ウォーゲームである『北アフリカ中東戦域』(GDW/HJ)の原題が『Western Desert/Near East』であり、ほんの時たま、「西方砂漠(Western Desert)」という用語が北アフリカ戦の資料に出てくることは、昔から気になってはいました。


 「西方砂漠という用語は、イギリスにとっての北アフリカの辺りを示す用語なのかな?」とも思ったんですが、Wikipediaで調べてみると……(以下、省力化のためにGoogle翻訳のものをそのまま引用します)。

西部砂漠は歴史的に「リビア砂漠」として知られていました。そして、その名前は古代リビアから来ました。そして、それはナイルとCyrenaicaの間にありました。リビア州の形成に伴い、「西部砂漠」という用語はエジプトのサハラ砂漠の一部を表すようになりました。

古代ギリシャ人にとって、リビアという用語は、ナイル川の西側のサハラ沿岸の全体をアトラス山脈まで表したものです。ローマ時代には、リビアという用語は、キレネカとそこからエジプトの間の地域に限定されていました。それから、リビア砂漠という用語は、これらの南側の地域に適用されます。これは植民地時代の1911年にCyrenaicaと西側の土地がリビアのイタリアの植民地として組織された時の誤称となり、エジプト内の地域を表すためにWestern Desertという用語がより一般的になりました。

Playfairは1940年の西部砂漠を240マイル幅(ナイル川からリビア国境まで)および150マイル幅(地中海からシワオアシスの緯度まで)であると説明したが、南部の地域は南部と呼ばれていた。インナーデザート[7]しかし、第二次世界大戦中、西部砂漠という言葉は、エジプトの沿岸砂漠だけでなく、エジプトとリビアの国境を越えてガザラ、シレナイカ、さらにはEl Agheilaにまで及ぶ地域にも適用されるようになりました。

現代のこの用語の使用は、ナイル川の西のエジプトにある砂漠全体を意味します[1] [8]。
英語版Wikipedia「Western Desert (Egypt)」から



 まあともかく、アレクサンドリアからエル・アゲイラ辺りの、いわゆる北アフリカ戦の舞台が、「西方砂漠」と一般に呼ばれていた(呼ばれるようになっていた)ということなんでしょうね。

<2021/01/06追記>

 『The Mediterranean and Middle East:Volume I The Earyl Successes Against Italy』をDeepL翻訳で読んでいってましたら、西方砂漠の名称について書いてあったので、引用してみます(リビア国境の鉄条網についてもちょっと興味深かったのでそれも)。

 【西方砂漠の名称は】厳密には「エジプトの西方砂漠」を意味するので、リビア国境の東側に位置する地域にのみ適用されます。一般的な使用法はすぐに、同様にこの国境の西の砂漠にもこの名前を適用されました。【……】リビアの国境に沿って、海岸からジャグブーブに至るまで、イタリア人がベドウィンの移住を抑制する手段として建てた有刺鉄線の3重のフェンスが立っていました。
『The Mediterranean and Middle East:Volume I The Earyl Successes Against Italy』位置No.2516


<追記ここまで>



 で、西方砂漠軍についてです。

西方砂漠軍

 西方砂漠軍(Western Desert Force)は第二次世界大戦の西方砂漠戦役中にエジプトで活動したイギリス軍の組織である。

 1940年6月17日、イギリス第6歩兵師団の司令部が西方砂漠軍<2019/01/29追加:の司令部>として指定された。この組織はイギリス第7機甲師団と第4インド歩兵師団によって構成された。西方砂漠軍の指揮官はリチャード・ヌージェント・オコーナー少将であった。

 1940年9月、イタリア軍によるエジプト侵攻の時、西方砂漠軍は約36,000名の兵士と65輌の戦車を持っていた。

 1940年12月初旬から1941年2月のコンパス作戦の期間中、西方砂漠軍の突破により膨大なイタリア軍が捕虜となり、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの有名な【バトル・オブ・ブリテンに関して】「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって救われたことはなかった」という言葉をもじってアンソニー・イーデン【外相】から「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって捕らわれたことはなかった」という言葉を頂戴することになった。12月14日から、東アフリカに引き抜かれた第4インド歩兵師団に代わって第6オーストラリア師団が加わった。

 西方砂漠軍は1941年1月1日に第XIII軍団という名前で呼ばれることになった。1941年2月までに、キレナイカに残っていたイタリア軍はバルボ街道を退却中であり、イギリス第7機甲師団と第6オーストラリア歩兵師団がそれを追撃していた。イタリア第10軍の降伏によってコンパス作戦が終了した2月には第XIII軍団は解散され、その職責は平穏時の司令部であるキレナイカ兵団司令部【HQ Cyrenaica Command】に引き継がれた。その結果、西方砂漠において連合軍は防御態勢に移行し、中東司令部は4月のギリシア戦役に注力することとなった。

 ひまわり作戦でエルウィン・ロンメル麾下のアフリカ軍団によって北アフリカのイタリア軍が増強され、ロンメルの前進によってキレナイカ兵団長(General Officer Commanding:GOC)であったフィリップ・ニーム中将が捕虜になると、4月14日に西方砂漠軍がノエル・ベレスフォード・ピアース少将の元で再び活動状態にされて西方砂漠のイギリス連邦軍の指揮を執り、エジプト・リビア国境で枢軸軍の前進を停止させた。

 1941年8月に中東最高司令官がアーチボルド・ウェーヴェル将軍からクロード・オーキンレックに交代するとイギリス及びイギリス連邦軍が増強され、1941年9月にイギリス第8軍が創設された。この再編により西方砂漠軍は1941年10月に再び第XIII軍団と呼称されることになり、新たな第8軍の一部を構成した。
英語版Wikipedia「Western Desert Force」


 「イギリス第6歩兵師団の司令部が西方砂漠軍として指定された。」というのが「どういうことやねん?」とも思うのですが、英語版Wikipedia「6th Infantry Division (United Kingdom)」英語版Wikipedia「7th Infantry Division (United Kingdom)」を見てみても、詳しいことは書いていないのでまあ、スルーで(^_^;

<2019/01/29追加:コメントを戴いて、訂正してます(^_^;>


 で、とりあえずOCS『DAK-II』の英連邦軍の司令部ユニットを見てみますと……。

unit00408.jpg

 「W.Desrt」とあるのが西方砂漠軍の司令部ユニットですね。軍団規模です。「Tobruk Cmd」とあるのは、トブルクが包囲された時にゲーム的に使用される司令部ユニットであって、歴史上存在したわけではない……?(たぶん)

 「1 Aus」とあるのは何かと思って調べてみたら、こうありました。

 Blamey【オーストラリアの将軍】はオーストラリアを出発し、1940年7月10日、パレスティナに自身の司令部を置いた。
 この軍団は1941年2月16日にキレナイカの統轄を、イギリス第XIII軍団から引き継いだ。
 第1オーストラリア軍団司令部は1941年4月にギリシア戦役に転出した。その麾下にはオーストリア第6師団、ニュージーランド第2師団、ギリシア第12師団、イギリス第1機甲旅団があった。……
英語版Wikipedia「I Corps (Australia)」




 他の第XXX軍団と第X軍団のWikipediaを参照して情報をまとめると、こうなりますでしょうか。

1940/07/17 西方砂漠軍を編成
1940/09   イタリア軍によるグラツィアーニ攻勢
1940/12   英連邦軍によるコンパス作戦
1941/01/01 西方砂漠軍が第XIII軍団に呼称変更
1941/02/15 第XIII軍団が解散され、キレナイカの支配はキレナイカ兵団あるいは(02/16)第1オーストラリア軍団に引き継がれた?
1941/04   第1オーストラリア軍団はギリシア戦役に転出
1941/04/07 キレナイカ兵団長ニームが捕虜となる
1941/04/14 西方砂漠軍が再度編成される

1941/06   バトルアクス作戦
1941/08   イギリス第XXX軍団が創設される?(軍団長の就任が8月)
1941/09   イギリス第8軍が創設される
1941/10   西方砂漠軍が再度第XIII軍団に呼称変更
      (第XIII軍団のページによれば09/26に軍団長が任命されている)
1941/11   クルセイダー作戦

1942/07   第1次エル・アラメインの戦い
1942/08/18 モントゴメリーが第8軍司令官となる
1942夏   シリアで活動していた第X軍団をモントゴメリーが第8軍に編入
1942/08/30 第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)


 自分の中でここらへんのことが整理できて良かったです。独伊の司令部についてもまとめたい……(というかまとめなきゃ……?)。



OCS『Tunisia II』カセリーヌ峠シナリオを新人さんと練習プレイ

 毎土曜日の尼崎会(拙宅)だったのですが、ワニミさんがお休みで、新人の肉入り鍋さんと二人で、何か小さいシナリオを練習プレイしましょうということになりました。

 シナリオは『Tunisia II』のカセリーヌ峠シナリオに。また対戦的にプレイするのではなく、両軍を二人で協力プレイ的にプレイしてみようということにしました(ワニミさんやこかどさんの間でも、以前はよくそうやってプレイしていました)。

 『Tunisia II』のカセリーヌ峠シナリオは以前一度プレイしていました↓が、全然うまくいかなかったプレイでした(^_^;
OCS『Tunisia II』カセリーヌ峠シナリオをプレイしました (2018/03/02)



 ↓初期配置

unit00406b.jpg

 まずはカセリーヌ峠周辺の航空優勢を取るべく、肉入り鍋さんがダイスを振って制空戦闘をおこなってみました。枢軸軍は空戦力5のユニットが4つ(Bf.109G×2、Fw.190A×2)があり、それで空戦力4のユニットを3つ(Spit.V×3)+αを制圧すればいいので、まあ一応行けそうな感じなんですが、ダイス目が悪く4つの航空ユニットを使い果たしても敵戦闘機が残ってしまい失敗。しかし航空優勢が取れなければカセリーヌ峠周辺でヒップシュートができないのでどうにもならないということで、「やり直し」を宣言しまして(^_^;、再度制空戦闘を続けるもまたもや空戦に負け続け、失敗。三度目の正直ということでまたやり直したところ、首尾良くカセリーヌ峠周辺の敵の警戒空域を取り去ることができました。まあ練習プレイなので、いいんですよ!

 航空優勢が取れると、カセリーヌ峠への進撃は俄然現実味を帯びてきまして(史実で行っているので当然ですが)、しかもその後北北西へ進んで全く敵の守備隊のいない敵補給源(緑色のオハジキの下の村)を取り、もしその東の敵補給源も脅かして取れたならば、黒い線で囲んだ部分の連合軍部隊を補給切れにできるかも? と夢が膨らみまくります


 その後色々検討してプレイしていった結果……

 ↓第1ターン先攻(枢軸軍)終了時

unit00407b.jpg

 カセリーヌ峠は移動フェイズ中に首尾良く押さえたものの、リアクションフェイズ中に緑色の矢印のようにしてアメリカ軍第1機甲師団のユニットが補給源ヘクスやその周辺のヘクスを押さえてしまったため、その後の突破フェイズで黒い矢印のように進ませようと思って予備にしていた弱小数ユニットは「飛んで火に入る夏の虫」になる可能性が高いと思われたので、進ませずに予備モードのままにしておくことに。しかしカセリーヌ峠周辺に、第15装甲師団と第21装甲師団がいますので、次のターンに目に物見せることができるかも……?

 また、ファイド峠から出撃してきていた第10装甲師団の一部は赤い矢印のようにしてフランス軍の司令部へ攻撃を敢行。司令部を壊滅させるというよりは、下にある3SPを敵から奪い、自軍で一部なりとも使用できたならば……ということを目論んだのですが、ダイス目が悪く敵を退却させることができませんでした……が、いやいやいやいや、ここも「ダイスの振り直し」を宣言! だって、枢軸軍は分が悪いことは分かっているのですから、1ターンに3回まではダイスを振り直していいんですよ!(と言いつつ、制空戦闘の時点ですでにのべ8回くらい振り直しているのですけど)

 で、振り直した結果守備よく敵の司令部と守備隊ユニットを壊滅させ、残っていた10Tの半分、5Tを獲得することができました(ただし、自軍は2ユニットがLOWになって戦闘しているので、倍返しで4Tを支払うことになりますけどネ:p)。


 と、ここらへんでちょうど良い時間となったので、お開きにすることにしました。一応マップはそのままにしておいて、可能ならその後をプレイできるようにしておこうと思います。


 プレイの感想なんですが、『Tunisia(I)』のカセリーヌ峠シナリオに比べて、ファイド峠の西にいる連合軍部隊が2ヘクスに固定配置されるようになったため(以前は限定自由配置だった)、より無力化しやすくなっていると思いました。以前は第21装甲師団もこちらにまわしてさえどうにもならなかった感があったのですが、『Tunisia II』ではダイス目さえ順当なら第10装甲師団だけで押さえ込めそうです。それから、以前はファイド峠に大量のSPが置かれていてカセリーヌ峠とファイド峠が手を繋がなければならない感があったのですが、『Tunisia II』ではファイド峠には大してSPはなく、そこらへんに縛りもなくなっているようでした。

 また、『Tunisia(I)』ではテベサの南6~7ヘクスの地形上の要所に連合軍部隊が置かれていて、それが枢軸軍側には非常に脅威だったのですが、『Tunisia II』ではその部隊がいなくなり(もっと北に配置?)、枢軸軍側が押さえ込みやすくなっていると思いました。

 これらの結果、『Tunisia(I)』の時には史実的な展開以外のところで延々と悩んだり、手を掛けさせられていた感があったのですが、『Tunisia II』ではかなり史実的な展開で、ロンメルが思い描いたような「夢が膨らむ」状況がより良く再現されているような気がします。ただもちろん、SPや部隊の総量的に、また移動力的にも枢軸軍が勝利条件を達成するのは難しいだろうと思えますけども。


 OCSでは、史実で勝てるはずもなかった作戦はシナリオでも勝てるはずもないようになっている感がある(カセリーヌとか、冬の嵐作戦とか)ので、手頃なユニット数だからと攻勢側で入門用にプレイすると精神が容易に挫けてしまうとも思われるのですが、今回のように「ダイス目が悪目だと思われれば、振り直してもよい(ターン毎/ゲーム中に何回までと決めてとか?)」とすれば、史実よりも緊迫した展開が簡単に楽しめて、良いのではないかとも思いました。


 あと、肉入り鍋さんに聞いたところによりますと、先日ミドルアース大阪で『ドイツ戦車軍団』をプレイし、同ゲームを貸与で持ち帰った長谷川さんは同ゲームにハマりまくって、十何回と研究プレイをしているそうです(*^_^*) 尼崎会の方にもまた来てもらえるのを楽しみにしております。


北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』)

 北アフリカ戦線、イギリス軍のウィルソン将軍についてです。

 といっても、この「ジャンボ」と呼ばれたウィルソン将軍という人物についてごく最近までその存在すら認識していなかったのですが、オスプレイの『Operation Compass 1940』で割と興味深く紹介されていて興味を持ちました。また、ある程度分かってみると、初期の北アフリカ戦線に非常に重要な役割を果たしていた人物であり、この人物の紹介を外すわけにはいかない感を強く持った次第です。

 しかし、ネット上では日本語でのウィルソン将軍に関する情報はほぼ皆無で、日本ではほとんど知られていない人物であるようです。



Hmwilson1944

 ↑ウィルソン将軍。1944年4月30日、イタリアにて。(Wikipediaから)



Hmwilson-churchill-eisenhow

 ↑前列右から、ウィルソン将軍、チャーチル首相、アイゼンハワー将軍。1943年12月25日。チャーチルは肺炎の治療中であった。「ジャンボ」ウィルソンの巨体ぶりが良く分かる。(Wikipediaから)



 さて、北アフリカ戦線のウィルソン将軍についてですが、とりあえずまず英語版Wikipediaの「Henry Maitland Wilson」による記述が分かりやすく、しかも印象深いものになっています。

 1939年6月15日に、ウィルソンは中将の位で在エジプトイギリス軍の指揮官に任命され、またアビシニアからペルシャ湾までの範囲の国々に対する軍事的助言を与える責任を持つこととなった。彼はカイロに司令部を置き、アレクサンドリアにおいて夏の間にエジプト政府との交渉に成功を収めた。1936年の条約は、戦争が起こった場合にはエジプト軍はイギリスの指揮下で戦い、ウィルソンの指揮下の限られた部隊 - 編成中であった1個機甲師団(後の第7機甲師団)と英軍8個大隊 - を補助することを要求していた。ウィルソンは麾下の防御部隊をリビアとの国境から100マイル以上離れたメルサ・マトルーに集中させた。
 8月初旬、アーチボルト・ウェーヴェル将軍が中東軍司令官に任命され、ウィルソンが求めてきた増援をもたらした。まず最初に第4インド歩兵師団、それに第6オーストラリア師団の先行部隊がやってきてメルサ・マトルーの防御ラインを増強し、パレスティナにいた第7歩兵師団と師団長リチャード・オコーナーおよびその幕僚がエジプトにあったウィルソンの司令部への増援として送られてきた。オコーナーの司令部はまずイギリス軍第6歩兵師団へと改編されて11月にはメルサ・マトルーの守備を引き受けることとなった。この部隊は1940年7月に西方砂漠軍へと再編された。
 1940年7月10日にイタリアのベニート・ムッソリーニ統領は宣戦布告をおこなった。ただちにウィルソンの部隊はリビアへと侵攻した。しかし7月17日にフランスが休戦を求めると侵攻部隊は戻され、イタリア軍はリビア西方のチュニジアとの国境にあった4個師団をリビア東方のウィルソンの部隊に対して移動させることができた。1940年9月にイタリア軍はエジプトへ侵攻し、約60マイル(97km)前進してシディ・バラーニを占領した。ウィルソンは圧倒的に優勢な敵軍に対峙することになった。ウィルソンの持つ31,000名に対してイタリア軍は80,000名、戦車120輌に対して275輌、大砲120門に対して250門であった。この状況は杓子定規的なやり方では打破できないとウィルソンは考えた。他の【イギリス軍の?】1940年の指揮官達と同様、ウィルソンは戦略について良く学んでおり、また徹底的な秘密主義でもって、敵の延びきった防御ラインの要所を攻撃することによって優勢な敵軍を混乱させるという計画を立てた。10月にイーデン外相およびウェーヴェル将軍と相談した後、ウェーヴェルによる二叉の攻撃案を却下して、ウィルソンは1940年12月7日にコンパス作戦を開始した。この作戦は大きな成功を収め、あっという間にイタリア軍部隊の半分を壊滅に追い込んだ。
 コンパス作戦の後の軍事行動は1941年に入っても成功裡に継続し、北アフリカにおけるイタリア軍を完璧に敗北させたウィルソンは、かつて第一次世界大戦当時の連隊の同僚達から、第二次世界大戦が始まった時にも当時陸軍大臣であったアンソニー・イーデンから非常に尊敬されていたのであったが、今やチャーチル首相からの固い信頼を勝ち取るに至った。ある放送でチャーチルはこう語った。「ナイルにおける軍を実質的に指揮していたウィルソン将軍は、イギリス軍における最高の戦術家のうちの一人という評価を勝ち取り、それを否定する者はないであろう。」
 ウィルソンは1941年2月にカイロに呼びもどされ、そこでキレナイカの軍事総督の地位を打診され、受諾した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Maitland_Wilson


 ことのついでに。エジプト軍はOCS『DAK-II』でユニット化されているのですが……。

 ↓OCS『DAK-II』のエジプト軍ユニット。

unit00404.jpg

 基本ルールにおいては下2段の特殊な部隊と航空ユニットのみが連合軍側で使用可能で、上2段の実質的な戦闘部隊のほとんどはイベントかオプションルールでしか登場しません。詳しいことは良く分からないですが、まあ史実でそうであったということでしょうか? 『DAK-II』のルールブックvol.2に載っているエジプト軍に関する記述(P17)に目を通してみると、「1936年の条約によりイギリス軍部隊がスエズ運河の防衛のために留まった」「エジプト軍の中には、支配国であるイギリスへの反感からドイツ軍に親近感を持つ者もおり、イギリスはいかなる軍事活動にエジプト軍を使用することも気が進まないでいた(1945年にエジプトが枢軸国に宣戦布告した後でさえ)」というようなことが書いてありました。


 オコーナー将軍についてはまた書くつもりであるので、その第7歩兵師団とか第6歩兵師団とかっていう、北アフリカ戦において見たことがない部隊の経緯も含めて調べないと駄目かも……。

 で、ウィルソン将軍ですが、コンパス作戦といえば「ウェーヴェル攻勢」とか「オコーナー攻勢」というような表現も見たことがある(そして私も使っていた)ような気がしまして、てっきりウェーヴェルとオコーナーがコンパス作戦の主役だと思っていたのですが、ウィルソン将軍がもしかしたら主役? というか少なくとも、ウェーヴェルとオコーナーよりもウィルソン将軍の方がエジプトに赴任した時期が早く、また在エジプトイギリス軍の司令官という、コンパス作戦に関してかなり直接的な地位にあったようですね~。

 ウェーヴェル将軍についてのまとめの所で既出ですが、このような記述もありました。

 その様々な指示の中で、ウェーヴェルは機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調し、様々な戦術的な提案をおこなったが、ウィルソンもオコーナーもそれらを高く評価することはなかった。やがて、ウィルソンはウェーヴェルに対して、ニベイワとソファフィキャンプの間のエンバギャップを突破し、西からニベイワとTummarsを攻撃するという、オコーナーの修正された計画を提示した。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、彼は喜んでこれを承認した。
 この計画がコンパス作戦として知られるものであり、オコーナーの想像力に富んだ精神によって具体化され始めたものであった。
『Operation Compass 1940』P28


 この記述によると、オコーナーの案をウィルソンがウェーヴェルに提示した、ということのようですね。


 ウィルソンのキャラクターや能力について、『Operation Compass 1940』から引用してみます。

 サー・ヘンリー・メイトランド・ウィルソン中将は、在エジプトイギリス軍を指揮していた。優しい性格の「ジャンボ」ウィルソンは組織にとって必要不可欠な歯車であり、この戦域に部隊を転入させ、必要なものを調達し、水と食料を供給するという困難な任務に責任を持つと同時に、様々な作戦計画立案にも携わっていた。
『Operation Compass 1940』P15

 「ジャンボ」ウィルソンは一見したところ穏やかな人柄であったが、この大きく力強く立派な人物は経験豊かな兵士であり、最終的には元帥へと昇進し、地中海戦域の連合軍最高司令官となった。John Connellは彼が「やり手で、頭脳明晰でありながら、その立ち居振る舞いは非常に穏やかであった」と語っている。だがRonald Lewinは彼の「独自性やひらめきの欠如により、彼は浮くことを避けられなかった」と述べた。どちらにしても、コンパス作戦における彼の役割は次第に不必要なものになっていった。
『Operation Compass 1940』P16


 長所に関してだけでなく、欠点にもついて触れているのが個人的に非常に興味深いです。

 この後、ウィルソン将軍は英連邦軍によるギリシア派兵、およびその撤兵を指揮するために北アフリカを離れることになったのですがその際、こんなミスもしていたようです(これもウェーヴェル将軍についてのエントリで既出ですが)。

 英中東軍司令官ウェーヴェル将軍は、広大な担当戦域での各所でおこる危機に気をとられて、特定の戦域にじゅうぶん注意をはらうだけの余裕がなかった。
 ウェーヴェルとしては、部下の将軍はもちろん信用しなければならない。しかしウィルソン中将はベンガジ南方の高地地帯を防備できる兵力について、まったくあやまった印象をあたえたままギリシャへ出発してしまった。ウィルソンの後任のニーム中将は、防備には自信がないようで、じっさいにはまったく適応しないような戦術計画を提案してきた。
 ウェーベルの情報参謀は、ドイツ軍の攻勢準備については、部分的な情報しか入手できなかった。さきに英参謀本部情報部から、ドイツ・アフリカ軍団が突然キレナイカに侵入することもありうると警告されていたが、ウェーヴェルは、ドイツ陸軍総司令官のブラウヒッチュ同様に、合理的、現実的、正統派の指揮官であったから、その危険は5月まではないと、警告を無視していた。
 正常な軍事的常識をもつものなら、そんな無鉄砲な作戦はしないだろう、ウェーヴェルはそう考えていた。
『ロンメル戦車軍団』P23,4




 その後ウィルソン将軍は、シリアでの対ヴィシー・フランス軍への作戦(エクスポーター作戦)を指揮することになります。WW2の人名事典から。

 ウィルソンは第二次世界大戦中の軍務のほとんどを地中海戦域で過ごし、そこで彼は相次ぐ敗北と退却という危機的状況を統括していたが、その間ずっとチャーチルの信認を維持し続けた。身体が大きく活力にあふれた彼は「ジャンボ」と呼ばれていたが、彼の思考は鈍重どころか迅速なものであった。戦争勃発時には在エジプトイギリス軍を指揮していた彼は、ウェーヴェルによる砂漠での初期の戦役や、エチオピアにおけるカニンガムを差配した。その後彼はギリシアへの派兵と撤兵の両方を指揮し、そこでのイギリス軍の損害を最小限に抑えることに貢献した。次の難局はイラクで親枢軸勢力によるクーデタが起こったことであったが、彼は非常に弱体な兵力でその占領に成功し、次にはシリアのヴィシーフランス軍を打ち破って占領するという、中東での戦争で最も繊細な作戦の実行を命じられた。1942年から43年にかけてはペルシア・イラク戦域および第9軍を統括していたがアレクサンダーから中東軍司令官の地位を引き継ぎ……1944年には地中海戦域の最高司令官となった……ウィルソンは大きな戦略的決断によって高い評価を得たわけではなかったが、困難な状況における軍事的判断に優れており、また多国間同盟の繊細な状況における外交にも有能さを示したのであった。
『WHO WAS WHO In World War II』P217

 彼は偉大な野戦指揮官ではなかったかもしれないが、その綿密かつ堅実な軍事的な管理者としての能力がチャーチルから賞賛され、それゆえに非常に難しい状況においても厚い信頼を得続けていた。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P179~181



 このエクスポーター作戦が、OCS『Reluctant Enemies』が扱う作戦であり、つまり『Reluctant Enemies』の英連邦軍プレイヤーはまさにウィルソン将軍の立場に身を置くことになるのです。ウィルソン将軍は司令部ユニットにもなっています。

 ↓『Reluctant Enemies』のウィルソン将軍司令部ユニット

unit00405.jpg


 『Reluctant Enemies』のヒストリカルノートにはウィルソンに関する記述が数か所にあるので、そちらも引用してみます。

 ウェーヴェル将軍は、このエクスポーター作戦を指揮する司令官としてメイトランド・“ジャンボ”・ウィルソン将軍を任命し、同時に三つの進撃路を進ませることにしました。海岸沿いにベイルートへ向かうエクスポーター作戦ルート、山脈の間のベッカ峡谷を通ってラヤク航空基地へ向かうルート、砂漠を通過してダマスカスへ向かうルートです。

 ルージャンティオム将軍麾下の自由フランス軍部隊は、伝えられるところによると「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら意気揚々と北進したそうです。当初、ヴィシーフランス空軍による爆撃を除き、彼らはいかなる抵抗にも遭いませんでした。この自由フランス軍部隊は6 月10 日にキスウェの南約20 マイルにあるサナメインに集結し、そこでそのキスウェの町を奪回する計画が立てられました。ところがこの時、ルージャンティオム将軍はヴィシーフランス空軍の爆撃で腕を負傷し、ダルアーの病院に避難させられました。この負傷は彼に大きな影響を与えたらしく、伝えられている話では「彼の頭のてっぺんが完全にどこかへ飛んで行ってしまった」のだとか。その結果、ウィルソン将軍はシリアでの作戦司令官にロイド准将を、インド第5 旅団の指揮官にはラージプターナライフル大隊のジョーンズ大佐を任命しました。

 イギリス連邦軍は、シドン、マルジャヨウン、ジェジン、そしてキスウェの南のエル・アワジ川で停止させられており、増援が要請されたものの、ウィルソン将軍にはそれらがどこから来るのか全くわかりませんでした。中東の主眼は、6 月15 日にエジプトの西方砂漠で開始することになってエクスポーター作戦いた対ロンメル攻勢であるバトルアクス作戦に置かれていたのです。

 “古(いにしえ)の聖なる” ダマスカスは、言い伝えによれば“世界で最も古くから途切れることなく人が居住してきた街” とされていました。ウィルソン将軍は当初、ダマスカスを攻撃することに乗り気ではありませんでした。彼は6 月18 日にヴィシー・レヴァント地域の軍事総督であるデンツ将軍に向けて、ダマスカスが破壊を免れるために無防備都市を宣言するようにラジオ放送を行いました。デンツ将軍は返答を先延ばしにしたものの、最終的にこの要求を拒絶しました。

 ウィルソン将軍はジェジンとベイト・エッディーンの動きを慎重に調べると、東の丘陵地帯から再びヴィシーフランス軍の反撃がある可能性を見つけたため、ヴィシーフランス軍をダムールまで追撃しませんでした。この時、マルジャヨウンでもヴィシーフランス軍の反撃でオーストラリア第25 歩兵旅団の進撃はストップしていたので、彼は攻勢を一旦停止して補給物資の補充と部隊の再編成を行うことにしました。


 エクスポーター作戦はウェーヴェルが反対したにもかかわらずチャーチル首相の命令によってやむを得ず乏しい兵力からなんとかやりくりして始められたのですが、その真っ最中にチャーチルは対ロンメルのバトルアクス作戦の実行をもウェーヴェルに強要しました。そんな状態でバトルアクス作戦が失敗したのはある意味当たり前で、エクスポーター作戦が成功したのはあるいは、ウィルソン将軍の力量によるものだったのでしょうか。どこで見たのか忘れたのですが、バトルアクス作戦がすぐに(失敗して)終了したことにより、エクスポーター作戦に兵力を回すことができるようになり、エクスポーター作戦はそれゆえに成功したという記述があったような気がします。


 このように(もちろん欠点はありつつも)優秀な指揮官であったらしいウィルソン将軍ですが、オーストラリア兵とニュージーランド兵に対する偏見を強固に持っていたようでもあります。

 だが、問題はより根深いところにあった。イギリスの上級将校達はANZAC(Australian New Zealand Army Corps)の将校や兵士達に対して多くの偏見を持っていたのである。ウィルソン将軍は彼らを「厄介なやつら」呼ばわりしており、オーキンレックは決して彼らを好んでおらず、オコーナーでさえもがオーストラリア兵達を酔っ払いの無秩序な、略奪家であると非難していたのである(それらはある程度事実であった)。ANZACの部隊が真に理解され、この戦域における「イギリス将軍連」から受け入れられるようになるのは、モントゴメリー将軍の到着を待たねばならなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P54


 まあしかし、「ある程度事実であった」ならしょうがないですかねぇ~(^_^;



ミドルアース大阪でOCSに興味あるという若い新人さんに『ドイツ戦車軍団』を

 何度か尼崎会(拙宅)にも来て貰ってOCSをやっている新人の肉入り鍋さんですが、その友人の方がすごいドイツ軍ファンで、OCSのことを話したら興味があるということで、ミドルアース大阪で一度OCS講座をやってもらえたらという風に頼まれました。

 が、その方はウォーゲームどころかボードゲームもやったことがないという話だったので、「ルール量的にもいきなりOCSはさすがに難しいんじゃないか?」と思いまして、甥っ子に貸していた『ドイツ戦車軍団』を回収しまして(甥っ子は「やってはみたいけど、同級生にやってくれる友だちは見つけられなかった」ということでした(*^_^*))、それも持っていくことにしました。


 で、ミドルアース大阪に肉入り鍋さんとその友人の方の長谷川さんが来られまして、まあまずはその時ミドル内で広がっていた各ゲームがどんな感じとか、紹介して回りました。その時プレイされていたのは『ヒストリー・オブ・ザ・ワールド』(第3版?の日本語版)、『トワイライト・ストラグル』(日本語版)、ASLで、あと『Napoleon against Europe』(HEXASIM)が転がってまして、その話も色々聞いてました。


 そいでもって、じゃあ講座の方はどうしましょうかとなったんですが、肉入り鍋さんはボードウォーゲームを2、3個やった後にOCSを始めたそうなんですが、「それをOCSを知っているウォーゲーマーに話したらみんな、えっ、ってなると思いますよ」と(^_^; 例えるならば「登山を始めようとする人が、いきなり世界最高峰とは言わずとも、五大陸最高峰の一つの南米最高峰に登ろうとするようなもの」で、長谷川さんが「ぜひそうしたい」というならばそれもなしではないけども、選択肢としては入門用ウォーゲームの『ドイツ戦車軍団』から始めるのが良いかも、というようなことを説明してましたら、長谷川さんは「じゃあ、そっちから」という話に。


 ちなみに、ウォーゲーム業界における現状の各大陸最高峰として私が抱いたイメージは、難易度が中の中よりは上の方で、かつ人気が高いシリーズ的ウォーゲームというもので、具体的には、

・ASL(ルール量は少ないところから始められるが、総量としては膨大で、かつ非常に人気でアイテム数が多い)
・シモニッチの一連の作品(ルール量はそれぞれまあまあだが人気と評価が超絶高い)
・GMTのEast Frontシリーズ(多分これが最低限プレイするだけでもルール量が一番多く、かつマップが広くてユニットが多い人気シリーズゲームで、実質世界最高峰のイメージ)
・OCS(ルール量は結構ある方で、しかも独特。マップ広め、ユニット膨大でかつプレイ時間が非常にかかる。ゲーム数も結構ある)

 ……というものでした(あ、あとGCACWとかバタイユシリーズとかもありかも?)。他にも色々あるでしょうし(というか、その中にOCSなんか入らないよ、という説もあるかも(^_^;)、実際私自身ウォーゲーム業界全体をそれほど良く分かってないので、完全に勝手なイメージに過ぎないです(^^ゞ


 閑話休題。

 とりあえずまずはウォーゲームにおける基本知識(兵科マークとかZOCとか)の話をしまして、次に『エル・アラメイン』から肉入り鍋さんと長谷川さんで対戦してもらいました。まずはアドバイスまったくなしで。で、1回終了しまして2回目のプレイの時にはミドルアース大阪部長の小野さんと共に少しアドバイスをしておりました。新人さんお二人とも、色々考えてかなり楽しげにプレイされてました(*^_^*)

 で、『エル・アラメイン』が一勝一敗になったので、次は『ダンケルク』をやってみるかということで、肉入り鍋さんが小野さんと対戦、長谷川さんは観戦ということに。で、途中で鉄人デグさんが来られて色々入り乱れてアドバイスに。


unit00403.jpg


 で、最終的には『ダンケルク』も肉入り鍋さんと長谷川さんの対戦となってBOWさんにもご教授いただきながらプレイしてました。なかなか際どい勝負となりまして、色々できることや反省点も見えてきていい感じではなかったかと思います。


 雑談をしている中では、長谷川さんも確かにOCSのギミックを好きそうな感じではあったので、まあ焦らずゆっくりとウォーゲームの世界に楽しみながら慣れていってもらったらいいのじゃないかと思います。


『ドイツ軍名将列伝』『ナチス・ドイツ軍の内幕』他を買いました

 山崎雅弘さんの『ドイツ軍名将列伝』という本は出版された当時(2009年)に書店で見かけていたんですが、立ち読みした感じ、私が興味のあるところの将軍達のキャラクターについてはほとんど触れられておらず、経歴重視的な本だったので、値段(本体1300円)のこともあり、購入は見送っていました。

 その後Amazonでは2000円くらいの値段が付いていたと思うんですが、最近見たところ1000円弱の値段になっており、また尼崎会で「フランス戦に出てくるクライスト将軍やヴィータースハイム将軍は、独ソ戦の時にはどこを指揮していたのだろう?」というような話が出てきたりするようになったので、この本を買う意味も(ようやく)出てきたかなと思うので、購入することにしました。また活用していきたいと思います。





 それから、以前色々フィギュアを購入した話の時に出ていましたメルカリで、500円値引きクーポンが定期的に送られてくるので、せっかくなので興味のあるミリタリー系の本をなるべく探し出して、買うようにしてます。メルカリで500円値引きされれば、送料込みでAmazonで中古本を買うよりも安く買えることが多い(こちらが払うお金は100円とかだったりする)ので、結構いい感じです。

 今までにメルカリで購入した本↓



 『ナチス・ドイツ軍の内幕』は、時々検索していて引っかかる独破戦線さんの紹介文がいい感じだったので、購入を決めました(リデル・ハートは信用できない、というようなネット上の意見もありましたが……)。

ナチス・ドイツ軍の内幕:独破戦線:So-netブログ


 ただ、そうやって安く本は買えていってるのですが、和書の読書スピードも購入スピードに全然追い付いていません(^_^; 特にここ1、2週間は、風邪を引かないことを重視して、読書できる時間でも睡眠を取ったりぼーっとしたりしているので……。




 あと、年始恒例の、R/Dさんのブログの1年分(今回は2018年分)のナポレオニック関係の記事を印刷もしてあります。今回は80ページになりました。まだ全然目を通してません(^_^;



 それから、以前北アフリカ戦のイタリア軍を分析するという洋書が今年12月に発売予定 (2018/04/04)で書いてました洋書がもう発売されているはずだよなー、と思ってAmazonを見に行ったところ……。



 すでに9月中に発売されていたようでもあり、書評がけっこうたくさん付いてましたが、それが低評価のオンパレード! 軽くGoogle翻訳で見てみたんですが、いやー、買う価値はなかったようで、見つけた時に買わなくて良かったとほんとに思いました。出版予定時の紹介文がかなり魅力的だったので皆さん買われたんだと思うんですが、私もすんでのところでという感じでした。

 書評は大事ですね(^_^;

OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第5ターン後攻ドイツ軍

 先日の尼崎会(拙宅)で、OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)の第5ターン後攻ドイツ軍をプレイできました。


 ↓B軍集団戦区(松浦担当)。

unit00401.jpg

 連合軍は史実における最初の防御ラインであるディール川のラインは放棄して、次の川沿いに戦線を張っています。もともとこのターン、ドイツ軍最高司令部はダブルターンを取って大攻勢をするということで、B軍集団は装甲師団を南に回すように言われていたのですが、A軍集団による攻勢への牽制のための攻勢をB軍集団の現地で取れるならそれでOKということで、移動力的にもその方が良さそうだったのでブリュッセルの市街地を包囲するようにして攻勢作戦を取りました。

 で、行けそうだったので次の川のラインの渡河点も確保しておいたのですが、結局は次の第6ターンは連合軍が先攻を取ることになってしまったので、渡河点を確保した独立ユニット達の壊滅は決定したのではないかと思います(>_<) 



 ↓A軍集団戦区(ワニミさん担当)。

unit00402.jpg

 前のターンまでにクライスト装甲集団のドイツ軍装甲師団は盛大にDGにされていたのであまり移動できてないと思われ、ダブルターン頼みの攻勢計画だったのですが、結局ダブルターンが取れなかったので、攻勢はまた後に……? 連合軍側がどう動くかでだいぶ変わってきますが……。


 今回ワニミさんにTipsとして書いておいて欲しいと言われたのが、「バストーニュが大事だ」という話で、アルデンヌの森を進撃する時にバストーニュに補給集積所を置いておき、そこに司令部から5移動力+1ヘクスで届くように北、西、南の位置に置いておけば、「補給集積所をどこに置くか」とか「どこのためのSPか」とか考えなくていいから楽だ、と。また、盤端に出てくるSPを輸送トラックが5移動力で積載して、20移動力で前線に行き、そこで荷降ろしをせずに積んだままで燃料等に供給し、また20移動力で戻ってくる、ということを毎ターン繰り返すようにすれば、非常にすっきりとまた効率よくSPを運ぶことができる、とのことでした。前線に実際に運ぶSPは鉄道移動や、別の輸送トラックで。


OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第4ターン後攻→第5ターン先攻連合軍

 1/2の尼崎会で、OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)の第4ターン後攻(連合軍)→第5ターン先攻連合軍がプレイできました。

 第5ターンのイニシアティブはドイツ軍が取ったのですが、ダブルターンを取りたいということで今回、先攻を連合軍に取らせたのでした。


 ↓ドイツ軍のB軍集団戦区(ワニミさん担当)。

unit00399.jpg

 私がドイツ軍側で包囲していた部分ですが、ダブルターンの間にベルギー軍によって解囲され逃げられてしまったのみならず、ドイツ軍側も装甲師団のユニットを含め4ユニットが壊滅させられてしまいました(T_T) やはり敵の戦闘モードのユニットが大量に付近にいる状態で包囲環を作っても、うまくいかないということが分かりました……。




 ↓ドイツ軍のA軍集団戦区(松浦担当)

unit00400.jpg

 写真中央部のアルデンヌの森の中でフランス軍部隊が攻勢に出て、ドイツ軍の鉄道線を危機に陥れ、予備にされていたドイツ軍砲兵を踏むか……! と、ワニミさんの心胆を寒からしめたのですが、戦闘補給が届かないので攻撃ができず(オプションの独立ユニットルールを入れているので、独立ユニットは攻撃でLowになれない)、一般補給も届かないので結局下がってしまいました(^_^;

 画像左でアルデンヌの森を抜けたドイツ軍装甲部隊の集団による攻勢が予期されるので、そちらの方に戦力を大量に割り振っていますが、その分南のセダン方面への道ががら空きになり、「そちらに攻勢した方がいいのでは……?」という状態であったりも。

 しかし現状ドイツ軍の装甲部隊の集団はちょうど真ん中あたりにいて、どのような進撃路でも選べる位置にいるので、ワニミさんは「重々考えてみる」とのことでした。


 次回の尼崎会は1/5の土曜日で、その後は毎土曜日に基本的にやっていく予定です。

『On a Knife's Edge』で見る東部戦線のイタリア軍のよもやま話

 『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を読んでいて、小土星作戦の時に攻撃対象になったイタリア軍に関するよもやま話が書かれていました。色々興味深かったので、抜粋引用してみます。『Sacrifice on the Steppe』を読んでいて既知であった話題は除き。


 『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』関係の過去のエントリはこちら。
『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)
東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)
東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)




 アルピーニ軍団が東部戦線へと出発した時、彼らはコーカサスの山岳地帯へと配置されることになっており、そのような地形での戦闘に合わせて鋲釘を打った山岳用ブーツ、ピッケルなど、山登り用の各種道具を持っていき、相当数のラバを連れてきていた。……
 ロシアへ着くと、ラバには限られた価値しかないことに彼らは気づいた。移動の際にのみ燃料を必要とするトラックとは違って、ラバは常に餌を必要とし、それが延びきったイタリア軍の兵站線に非常な重荷となってしまったのだ。この兵站問題は、後方地域で急速に広まった闇市場で膨大な補給品が取り引きされるようになってしまうという腐敗した状況の中で、ますますひどくなってしまった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P152


 尼崎会では「OCS騎兵問題」というのがあって、OCSでは騎兵が最強すぎるのではないかという話があるのですが、このラバの問題は若干そこらへんの参考になるか……ならないか(^_^;

 闇市場ができるような腐敗した状況であったという話は非常に興味深かったです。『Sacrifice on the Steppe』ではイタリア軍のいい話ばかりが描かれる傾向にあると思われるのですが、イタリア本土や北アフリカやシチリア島でのイタリア軍が結構腐敗した状況にあったという話はいくらか見ていたので、東部戦線でもやはりそういうことはあったということなのでしょう。



 ドイツ軍兵士達は市民に過酷に接するように命令されていたが、イタリア軍兵士達はそれはまったく違った態度で彼らに接した。イタリア軍将校達は略奪などの悪事を働いた兵士達に対して厳罰を与えたし、大部分の者達が田舎から徴兵されていたイタリア軍兵士達と、ロシアの草原の農民達の間には、当初から感覚的に親近感が存在していた。ガブリエル・テムキン【ポーランド系ユダヤ人で、ソ連軍兵士として戦った】がドイツ軍に捕まったのから逃れたもののまだその地域から移動できず、ドイツ軍兵士や、多くの場合ドイツ軍の利益になるように行動していたウクライナ警察に発見されるのを避けるために国営農場で働いていた時、ハンガリー軍兵士達までもがドイツ軍兵士達と同じようにウクライナ人達を見下していたのに対し、イタリア軍兵士達はウクライナ人達の間ではるかに良い人達だとの評判を得ていた。というのは、食糧の要求をウクライナ人が拒絶したような場合、他の国の兵士達ならば暴力に訴えたところを、イタリア軍兵士達は引き下がるのが常だったからである。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P152


 こちらはイタリア軍に関する良い話です。東部戦線のイタリア軍が略奪を許さ(れてい)なかった件については、『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14) の中にあるように、最初のイタリア派遣軍の指揮官であったメッセ将軍によるものなのでしょうか。

 メッセ将軍は、地域住民から物資を得る場合にはその全額を支払う……べきことを麾下の部隊に対して明確にしていた。
「最初から、」と、メッセは書いている。「私は、この原則をもとに、我々のことを知らない地域住民との関係性を築きたいと考えていた……」 危機的な状況においてさえ、イタリア軍兵士達は住民に何かを要求することはほとんどなかった。メッセ将軍は、地域の村々から徴発を行うよりは、麾下の部隊の糧食を減らすことを選んだ。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P14


 『Sacrifice on the Steppe』を読んでいた時には個人的には「信じがたいほどの話だ」くらいに思っていた(^_^;のですが、『On a Knife's Edge』にも(メッセという名前が上がっていませんが)同様に書かれていたわけですし、少なくともメッセが司令官であった間に関してはそうだったようだ……と考えてもよさそうでしょうか。その後司令官はガリボルディに交代してますから、その時代には分かりませんが。

 先日買っていた『Benvenuti! 知られざるイタリア将兵録【上巻】』にはメッセ将軍の項があるので目を通してみたところ、東部戦線におけるそういう話は載っていませんでしたが、最後のところに「その謙虚で誠実、品位のある人柄は万人が認めるところ」(P96)とありました。メッセ将軍についてはもっと知りたいところです。



 イタリア軍兵士達のロシア市民に対する振る舞いは、ロシア軍の兵士達にもあっという間に知れ渡った。ドイツ軍は、イタリア軍が捕虜にしたロシア軍兵士をドイツ軍側へと引き渡すように要求していたが、ドイツ軍によるロシア軍兵士捕虜に対する虐待がイタリア軍兵士達の間に知られるようになると、イタリア軍兵士達の中には引き渡し要求に従うことをためらう気持ちが広がっていった。ある日、トリデンティーナ師団の中尉がドン川沿いに配置されていたアルピーニ中隊を見回っていた時に、部下達の中に一人のロシア軍兵士がロシア軍の軍服を着たままで気を付けをしているのを見て、唖然とした。部下達が中尉に説明するには、数日前の夜にこのロシア軍兵士を捕虜にしたのだが、ドイツ軍には引き渡さずに、木を切ったり、掩蔽壕を掃除したり、水を汲みに行ったりさせるために置いておくことにしようと決めたのだという。その中尉は後に書いている。

 神の祝福を受けた彼らアルピーニ兵達は捕虜を捕まえた時、要求されたようにドイツ軍に引き渡すことをせずに、自分達の手元に置いていて雑用係としたのだった。もちろんそのロシア軍兵士はアルピーニ兵達と一緒に食事をし、煙草を吸い、アルピーニ兵達は彼のことを自分達の仲間であるかのように優しく、親切に扱っていた。信じられない光景であり、私は呆然としたままだった。私はひそかに、彼らは猛烈なファシストでなければならないはずなのに、とも考えた。数日のうちに部下達はそのロシア軍兵士がまるでヴェストーネ【イタリア北部山岳地帯にある片田舎の町】か、その近くの出身であるかのように、彼にアルピーニ兵の軍服を着せ、歩哨任務にさえ送り出した。

 中尉はその捕虜をドイツ軍に引き渡さなければならないとも感じていたが、部下達が見せた行為はこのひどい戦争中における素晴らしい人間らしさの現れであると、誇りを感じるところもあったのだった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P152,3


 この話は読んでいてとりわけ微笑ましく感じました。戦闘機械の如きドイツ兵に対して、人間らしさ満載のイタリア兵という感じでいいですね(*^_^*)



 時に、イタリア軍兵士がロシア軍兵士達に親切にされることもあった。1942年の夏にトリデンティーナ師団の哨戒部隊が、人民委員に率いられたロシア軍の大部隊に出くわした。イタリア軍兵士は武器を引き渡したが、人民委員が他の部隊を視察するために離れるや否や、そのロシア軍部隊はすぐに武器をイタリア軍兵士に返して自分達の武器まで引き渡し、進んで降伏したのであった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P153


 「親切」とあったんですが、この話はどちらかというとソ連軍兵士がソ連軍に属しているよりは枢軸国に降伏したがっていた話の一部のような気もしました(^_^; ソ連軍兵士がドイツ軍に進んで降伏する話は今まで他で読んだこともあった気がしますし……。ただ、ドイツ軍よりもイタリア軍に降伏したがったソ連軍兵士達がいた可能性はあるかもですね。



 あと、超かっこ良いMC.202に関するネガティブな評価が載っていたのが興味深かったです。

 MC.202についてはこちらもご参照下さい。
北アフリカづくし (2012/04/22)
OCSユニットで見るイタリア軍戦闘機の変遷 (2018/08/13)

 より近代的なMC-202が少数配備されていたが、この機体は比較的パワーが小さく、急旋回するとスピンして落ちる傾向があると警告されており、その通信装置と酸素供給機は信頼性が低かった。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P153




 『On a Knife's Edge』にはイタリア軍関係の話のところの注で5冊の本が参考文献として書かれていて、その中には『Sacrifice on the Steppe』やレヴェッリ(その著作『ふたつの戦争を生きて』が邦訳されている)もあり、他に2冊のイタリア語の本と、もう1冊、原著はイタリア語であるものの英訳されている本がありました。

 それがE.Cortiの『Few Returned:Twenty-Eight Days on the Russian Front, Winter 1942-1943』です。



 紹介文によると、これは戦後わりとすぐに書かれた本で、イタリアには東部戦線におけるイタリア軍に関する本が100冊以上あるそうですが、何回も再版されているのはこの本だけとのことでした(英訳もされているわけですし)。著者はその後作家として有名にもなったようで、その文に関する評価も高いようです。

 この本の存在を知って「買おう!」と最初思ったのですが、熟考するに、私は分析的で新しめの知見が入った本が好き(文学的とかどうでもいい)だし、この本は退却行だけを扱っているようでもあるので、洋書が大量に積ん読になっている現況ではやめておいた方がいいかな、と思ってとりあえずパスすることにしました(^_^;

 積ん読状態の洋書がはけたら、買ってもいいかもですが……。現在の仕事が車での移動が多く、その間に車内でなるべく洋書を読むようにしているので、まああまり無理はしないとしても、洋書の積ん読状態が解消されていけばいいなと思ってます。


OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第4ターン先攻ドイツ軍

 大晦日に尼崎会(拙宅)で、OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)の第4ターン先攻ドイツ軍をプレイできました。


 ↓ドイツ軍のB軍集団戦区(松浦担当)。

unit00397.jpg

 オランダが降伏したので、そちらに展開していた部隊は南下していってますが、オランダ軍部隊は1ターンの間残り続けるので移動に邪魔だったりオランダ軍部隊のZOCのせいで第9装甲師団が予備モードになれなかったりで、何度も嘆きました(T_T)

 B軍集団はこのターン、ジャンブルーギャップ(ディール川のラインが切れている平地で、画像左下の辺り)には行かず、アントワープとブリュッセルの東側でベルギー軍部隊を包囲できそうだったのでそちらを実行してみました(ついでに1箇所、ディール川を渡河しました)が、後で聞きましたらA軍集団としてはジャンブルーギャップに突っ込むのを期待していたそうで、ドイツ軍全体としてちぐはぐな動きになってしまったのかもしれません(^_^;



 ↓A軍集団戦区(ミューズ川の西は肉入り鍋さんの担当、それ以外はワニミさん担当)。

unit00398.jpg

 いきなりクライスト装甲集団の指揮を任された肉入り鍋さんは「サンブル川を渡河せよ」と、黄色いおはじきが置かれた地点までの進撃を命じられたのですが、なかなか難しかったようです。ワニミさんは画像右下でのフランス軍の進撃に対して対抗措置を……?


 次回は1/2に尼崎会の予定です。


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR