FC2ブログ

OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第3ターン

 尼崎会でOCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)の第3ターン(先攻ドイツ軍、後攻連合軍)をプレイできました。この後の写真は第3ターン終了時のものです。



 ↓ドイツ軍のB軍集団戦区(松浦担当)。

unit00395.jpg

 先攻のドイツ軍プレイヤーターンで矢印のように基本的に少しだけの進撃に留めておきました(連合軍のダブルターンでの反撃を恐れて)。ただオランダ沿岸部では大攻勢に出て降伏チェックに+修正が可能になる大都市ヘクスを4ヘクス奪取しました。今回は後攻の連合軍ターンで奪い返されることはなく、ターン終了時の降伏チェック1D6で1の目以外で降伏でしたが、5の目が出てオランダが降伏しました。




 ↓ドイツ軍のA軍集団戦区(ワニミさん担当)。

unit00396.jpg

 左側の黒い線のように、6個装甲師団と2個自動車化歩兵師団がミューズ川を渡河しました。が、右下の黒い線の場所でフランス軍の反撃を受けてルクセンブルク市が危険な状態となりました。


 第4ターンのイニシアティブはドイツ軍が取り、ルクセンブルク周辺の輸送トラックなどが危険だということで、先攻はドイツ軍ということにしました。

 また、肉入り鍋さんも来られていて、『The Blitzkrieg Legend』のプレイを見学したり、『KOREA』で練習プレイしていたりしました。次回は12月31日の予定で、肉入り鍋さんがミューズ川を渡ったドイツ軍を指揮してみようということになってます。

 年末年始は、12/31、1/2、1/5に尼崎会の予定です。興味のある方は気軽にお越し下さい(*^_^*)


スポンサーサイト



冬の嵐作戦&小土星作戦前の第17装甲師団とその他ドイツ軍部隊の動きについて

 『On a Knife's Edge』で冬の嵐作戦の3日目(12月15日)辺りで、次のような記述があったのにちょっと興味を持ちました。

 ロシア軍は今や強力な防御ラインを構成し、ドイツ軍にとって貴重な時間を失わせ、マリノフスキーの第2親衛軍を配置できる余裕がでてきた。もし第17装甲師団が冬の嵐作戦の最初からホトとキルヒナーにとって使用可能であったならば、Saliyevskyの橋頭堡を確保するのに充分な兵力となっており、第6装甲師団がVerkhne Kumskyから退却する必要もなかったであろうに。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P145



 続けて読んでいると、小土星作戦開始(12月16日)前の11日からソ連軍の偵察行動を始めたことによってドイツ軍が配置変換をしていたことについて、以下のような記述がありました(以前、『大いなる聖戦』で見るリトルサターン作戦分析 (2018/12/03)でこの件について書いてました)。

 より良い攻勢開始位置を得るための先んじての偵察攻撃が12月11日には始まったが、それが理由の少なくとも一つとなって1個装甲師団とフルトヴァッフェがこの地域にまわされることになり、ロシア軍の本当の攻勢の前日に再び移動されることになった。偵察活動が続き、ドイツ軍はわずかな予備をその地域へと移動させ始めた - 第27装甲師団が第17装甲師団の代わりに置かれ、第385と第387歩兵師団およびSSの各種小部隊が、イタリア軍の防御ラインを補強する為に配置された。だが、第27装甲師団は完全戦力からはほど遠かった。この師団は10月に編成されたばかりで定数の戦車をまだ受け取っておらず、砲兵と歩兵はかろうじて弱体な戦闘団を構成できる程度に過ぎなかった。特に、師団の機動力の決め手となるトラックの数が致命的に不足しており、機動部隊としての機能に重大な足かせとなっていた。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P150


 ここを読んで「えっ、第17装甲師団はイタリア軍の防御ラインの辺りにいて、代わりに第27装甲師団が来たことによって、冬の嵐作戦に参加可能になったってこと?」とさらに興味を持ちました。


 とりあえず、小土星作戦前のドイツ軍の動きについて『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』を見てみましたところ……。

 ソ連軍の偵察は、敵の部隊配置の変更を引き起こした。12月13日から15日にかけて、ドイツ軍の第385歩兵師団と第27装甲師団がイタリア軍の防御ラインへの増援として前方に移動し、またドイツ軍第387歩兵師団が北方からイタリア軍区域に向かっている途中であった移動が早められた。12月14日には第537歩兵連隊(第385歩兵師団)がSamodurovka周辺に入ると同時に、第318歩兵連隊がソ連軍のDerezovka橋頭堡を繰り返し攻撃した。基本的に、第385歩兵師団の2個連隊と第318歩兵連隊がコッセリア師団とラヴェンナ師団の一部の前線防御を引き継ぐことになった。それらのイタリア軍師団は予備として後方の新たな位置へと下がり、ドイツ軍を支援して敵への反撃の役割を担うこととなった。
 12月16日の朝までにさらに他のドイツ軍部隊が到着して、イタリア軍の防御ラインを補強した。Schuldt戦闘団(2個SS警察大隊)がKantemirovkaに、フェーゲライン戦闘団(2個SS大隊、1個突撃砲砲兵隊、および第15警察連隊)がKantemirovkaの西側に、第27装甲師団がラヴェンナ師団を支援し、第298歩兵師団の1個大隊がパスビオ師団を支援した。さらに、12月18日までに第387歩兵師団がKantemirovkaのすぐ北の区域へと移動することになっていた。
『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』P42


 ある程度詳しい情報で、将来的にOCS『Case Blue』でリトルサターン作戦シナリオを作る時に役立ちそうで個人的に大興奮です。が、第17装甲師団については書かれていませんでした。


 試しにネット上で「17th Panzer Division」で検索してみると、項目がありました。

 冬の戦いの後、第17装甲師団は1942年の初夏に前線近くの場所で再編成され、約50両のⅢ号戦車とⅣ号戦車を受領した。9月にはオリョールの北で小規模な攻撃で交戦をおこなったが、その後再び防御位置に移動した。第17装甲師団はボルホフの近くで中央軍集団の予備として控置されていた。この頃は様々な種類の戦車45~50両程度のみであった(定数約200両であった)。1942年10月には、Fridolin von Senger und Etterlinが師団長となったが、作戦行動可能な戦車はわずか30両で、トラックも1/3は使用不能であった。
 スターリングラード周辺での反攻作戦である天王星作戦の後、第17装甲師団は急いでB軍集団のミレロヴォへと移された。そこからコテリニコヴォへと移動し、冬の嵐作戦に参加するために第4装甲軍に加わった……
英語版Wikipedia「17th Panzer Division (Wehrmacht)」




 『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』を見てみると、冬の嵐作戦への参加することになっていた部隊の集結についての表があり(P41)、そこに第17装甲師団についても詳しいことが書いてありました。曰く、

・第17装甲師団は12月10日までに、ドン軍集団予備として、オリョール地区からミレロヴォへと移されていた。
・12月11日にはモロゾフスクに(軍集団予備であったが、12月13日に第57装甲軍団へと移された)。
・12月15日には、ドン川の東にあり、12月16日から18日にかけてアクサイ川へ。



 これらを見ると、ある程度順調に移動していったかのような感じも受けますが、実はそうではなくてヒトラーがなかなか、マンシュタインに使用を許可しなかったようです。

 このことは12月13~14日の夜にかけて特に致命的であった。なぜならば、マンシュタインが繰り返しヒトラーに使用を願い出ていた第17装甲師団が依然としてニジネ・チルスカヤの西100kmにも満たないモロゾフスク周辺で予備のままでいたからである。ヒトラーはこの師団の使用を12月13日までマンシュタインに許可しなかったが、もしもっと早くに許可を出していれば、第17装甲師団は第48装甲軍団に加わってニジネ・チルスカヤから救出作戦に使用されるか、あるいは少なくとも、13日に第5打撃軍に攻略されてしまうことになるRychkovskiiを再占領するための増援となり得ていたはずなのである。だがマンシュタインの要請にようやくヒトラーが許可を与えた時にはRychkovskiiはすでにソ連軍の手中にあり、ポポフの部隊はVerkhne-Chirskiiを制圧しようとしていた。
『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』P79



 あー、結局ヒトラーが原因なんですねぇ……。ヒトラーさえいなければ……(^_^;


<2019/07/20追記>

 ……と書いていたのですが、さらに2つの資料によると……。

 国防軍最高司令部は、その予備から第17機甲師団を出すことを、ひじょうにしぶったので、この師団は10日もおくれて戦場に到着した。
『スターリングラード ヒトラー野望に崩る』P172

 スターリングラード救援攻撃【冬の嵐作戦】のため、陸軍総司令部より派遣された。しかし、途中、ソ連軍反攻の恐れから、総司令部予備として後方に控置されたため、最初の反撃作戦に間に合わなかった。12月17日【つまり冬の嵐作戦開始日である12月12日の5日後】、第57装甲軍団に属してスターリングラード救援攻撃に参加。
『GameJournal 4号』P22


 これらによると、国防軍最高司令部/陸軍総司令部が、ソ連軍の反攻の恐れがあるからという理由でしばらく第17装甲師団を控置していた……つまり、合理的な理由があったのであって、しかもその判断は司令部の判断であり、ヒトラーの個人的な思い(込み?)が要因ではない、ようにも読めます。しかし深読み?すれば「国防軍最高司令部/陸軍総司令部」というのは結局はヒトラーその人の判断がある意味すべてだったのかもしれず……。どうなんでしょ?(^_^;

<追記ここまで>

<2020/10/16追記>

 東部戦線のイタリア軍について詳細に扱った『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』を読んでいたら、ドイツ軍の第17装甲師団について次のような記述がありました。

 第17装甲師団は、当初ARMIR【イタリア・ロシア戦線軍】の背後の機動予備として意図されていたが、スターリングラードポケットを救出するための攻撃の補助として南方へ送られたのだった。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941–1943: Operations, Myths and Memories』P155


 注にはソースが『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』だとあり、そちらも見てみたらこのように書いてありました。

 そのような訳であるから、支援は【イタリア】第8軍の予備にかかっていた。ところが、ドイツ軍の第17装甲師団は、当初ARMIRの為の機動反撃戦力としてい行動することが意図されていたのだが、今やフォン・マンシュタインの冬の嵐作戦に参加するために南方へ送られてしまった。そのため、ガリボルディ将軍が保持するのはたった一つの部隊 - 年老いた予備役の兵士達から構成され、後方警戒任務のために編成された第156ヴィツェンツァ歩兵師団 - しかなくなってしまったのだ。
『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』P188


 このエントリでは、「第17装甲師団が速やかに冬の嵐作戦に送られていれば良かったのに……!」というスタンスで書いていってましたが、この情報を知った後は、「第17装甲師団を冬の嵐作戦に送るなんてとんでもない! イタリア軍戦線のための予備にずっと取っておいてくれないとダメだったのに……!」という意見に私は変更することにしました(おい)。

 ただ、日程的に見ると、

12/12 冬の嵐作戦開始
12/15 冬の嵐作戦が戦力不足で停滞する
12/16 小土星作戦開始(イタリア軍戦線が突破され始める)
12/17 第17装甲師団が冬の嵐作戦に参加開始

なので、まったくの最初から第17装甲師団が冬の嵐作戦に参加していればより良かった、あるいはむしろいっそのこと第17装甲師団をまったく動かさずにイタリア軍の背後に置き続けていれば、全体として状況はよりマシだったのに、よりによって最も最悪のタイミングになるような動きをさせられたということになるのかもしれません(>_<)

<追記ここまで> 

『大いなる聖戦』&OCS『Burma2』:ビルマ戦でイギリス軍が勝てたのは空輸力のおかげだと

 以前、『歴史群像』151号に個人的に好みな記事が多かったです (2018/09/15) の中で、「インパール作戦で英軍が勝ったのは空輸のおかげである」という記事について書いてましたが、『大いなる聖戦』でも、空輸の件が書かれていました(ただし、インパール作戦後のこととして書いてあると見なすべきという気もしますが)。

 英第14軍は、【自軍が侵攻作戦で】ビルマに侵入する以前に日本のビルマ方面軍の主力をインパールとコヒマで撃破することができたため、【自軍が侵攻作戦で】難路を進んだ上で兵站面で優位に立った敵とイラワジ峡谷で戦うことを強いられた場合には到底得られなかったであろう勝利を手にすることができた。【インパール作戦後に連合軍が】ビルマを奪回できたのは連合軍側にすぐれた空輸力があったためとするのが、これまでの大方の見方である。実際、第二次大戦中の英陸軍の中では最大規模を誇る第14軍が、ヨーロッパ北東部で第21軍集団が進撃したよりも長い距離をより短い時間で進むことができたのが、その補給を主に空輸に頼っていたためであることに議論の余地はない。
『大いなる聖戦 下』P143,4



 しかしそれだけの空輸力のある状況というのが、OCSを今までプレイしてきた感じからは想像できないので、試しにBoardGameGeekでOCS『Burma2』のユニットシートを見てみました。

unit00391.jpg

 空輸力1TのC-47が5ユニットと、2T(!)のC-46が1ユニットがおり、確かにちょっと多めかとは思いますがこれだけでは……と思ったら、上の方に大量のグライダーユニットが! グライダーユニット(グライダーポイント)は汎用のものなので、これだけ全部出てくるというわけではないだろうと思いますが、グライダーまで使用すれば確かに隔絶した空輸力を持てるかも……

 B-29とかとんでもないものはとりあえず見なかったことにして……(おい)。


 ちなみに、同ゲーム中の日本軍の全航空ユニット↓

unit00392.jpg

 英語での名前で書かれても分かんないんですけど(^_^; しかしまあ、この差ではどうしようもないですねぇ……。



 ところでインパール作戦に関する『歴史群像』の記事は、以前にも1つあって、内容的にかなり興味深かった記憶があるので、引っぱり出してきました(2004年10月の第67号)。で、蛍光ペンで線を引いてあったところなどを斜め読みしてみましたら、こちらにも連合軍の空輸力、あるいは空軍力のことがびしばし書いてありました。

 さらに航空戦力も日本軍の10倍近くにまで増強され……
(P38)

 また英軍はかねてより訓練していた空中補給によって戦力を維持し続けたため、包囲網を形成している日本軍部隊の方が、逆に敵中で孤立するという事態に陥ってしまったのである。
(P43)

 そして英軍はこの【インパール作戦の前の】時期、日本軍に対して優位を獲得するためには優勢な航空戦力を効果的に用いることが必要だという認識に達していた。そのため、陸空軍部隊による連携訓練が行われ、地上部隊は包囲下においても航空部隊による空中補給を信頼し、戦闘を継続するよう教育された。これらの準備は1年以上継続され、1944年には完成の域に達していたのである。
(P49)




 最新号のGJ69号の「ゲームの殿堂」ではOCS『Burma』が紹介され、日本軍の補給手段としてユニット化されている様々な輸送ユニットのうち、象は敵に捕獲されないからいいとか、水牛は補給品を運んだ上で、目的地に着いたらその水牛を食べることもできる、とかって話が出ていてそれはそれで興味深いのですが、連合軍の「空輸」という手段との隔絶さを考えると、くらくらしてくるものがありますね……(; ;)ホロホロ

unit00393.jpg

 しかしそういう意味では、やはりインパール作戦は補給事情の戦いだったというべきなのでしょうか……(まあ、OCSではすべてが補給によって決まるのですが(^_^;)。



OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第2ターン後攻

 尼崎会でOCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)の第2ターン後攻(連合軍)をプレイできました。


 第2ターン後攻終了時の写真を撮り忘れていて、次のドイツ軍の移動をいくらかやった後で気づいて写真を撮ったものになっていますが……(^_^;


 ↓北側(ワニミさん担当)

unit00389.jpg

 オランダではロッテルダムに隣接していたドイツ軍砲兵(隣接しているとターン終了時のオランダ降伏チェックで、修正込み1D6で6の目で降伏するところだった)を排除して、降伏チェック自体をさせないことに成功。ベルギーでは包囲環の中を救出する作戦は断念し、ディール川沿いに防衛線を構築しました。



 ↓南側(松浦担当)

unit00390.jpg

 アルデンヌの森の西端あたりが最も危なそうなのでそちらに兵力を集めていっていますが、分厚くとまではいっていません。アルデンヌの森の南ではドイツ軍戦線にチクチクと嫌がらせ攻撃や、鉄道線の切断をやりました。



 第3ターンのイニシアティブはドイツ軍が取り、最高司令官ワニミさんは「今先攻を連合軍に譲っても痛くないから、将来のダブルターンのために後攻を選択したいと思うがどうか」と言われた私は、「B軍集団としては、今連合軍に先攻を譲るとロッテルダムやハーグ周辺を固められてしまって、オランダを降伏させることが将来的にも不可能になるので、先攻をお願いします」と言いまして、結局先攻を取ることになりました。で、この日は移動フェイズの途中までプレイして終了しました。また次回続きということで。

『On a Knife's Edge』:冬の嵐作戦1日目に攻略された上ヤブロチニ村を巡る戦闘に関する記述

 『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を仕事の移動中に読んでいっていて、冬の嵐作戦が始まりました(P128)。

 その1日目(12月12日)にはVerkhne Jablochniyという村を、スターリングラードに向かうには非常に遠回りになるのにわざわざドイツ軍部隊が旋回してまで攻略しにいった理由や、その戦いに関する分析が1ページほどにわたって記述されていて、興味を持ちました。

 で、家に帰ってきてとりあえず前号(143号)のコマンドマガジンの大木毅さんの記事「無限の48キロ 「冬の雷雨」作戦と第6装甲師団」をひもといて見比べてみたところ、その村を巡る戦いについては書かれていなかったのですが、『On a Knife's Edge』が冬の嵐作戦が奇襲的に始まったと書いているのに対して、ソ連軍はあらかじめ撤退していたと書いてあって、その差異が興味深かったです。

 さらに他の手持ちの資料である『Stalingrad Battle Atlas: Volume IV』と『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』も見てみたところ、前者にはその村を巡る戦いの記述がまったくなく(!)、後者はこの旋回についてまた違った解釈で書かれていて、その差異がまた衝撃的でした。というわけで、そこらへんのことについて書いてみたいと思います。



 さて、Verkhne Jablochniyの位置なんですが、ネット上で検索してもその村の位置が載っている地図がどうも出てこないので、コマンドマガジンの記事と『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』の地図から、その部分だけ写真で使わせてもらいます。


 ↓コマンドマガジンの記事の地図(P8)。

unit00387.jpg

 同記事では「上ヤブロチニ」と書かれているので、「Verkhne=上」ということなんでしょうね。


 ↓『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』の地図(P109)。
 
unit00388.jpg

 コテリニコヴォからいったん北東に向かったのがくるっと真西へ旋回している矢印がありますが、その先が上ヤブロチニ村と思われます。コマンドマガジンの地図で受ける印象よりもはるかに「旋回」「遠回り」感が強いです。



 ↓ついでに、OCS『Case Blue』の地図。

unit00386.jpg

 上ヤブロチニ村の周辺(南よりは北側)は地形が険しかったという記述があったので、ヘクス37.20か、その北側のヘクスあたりがそうではないかと……。



 さて、上ヤブロチニ村を巡る戦闘のあった1942年12月12日の概況について、まずは大木さんの記事から引用してみます。

 かくて、冬晴れに恵まれた12月12日、ついに「冬の雷雨」作戦が発動された。第11戦車連隊の戦時日誌には、「攻撃は命令通りに進捗している。当連隊は、129地点の西方を北に向かい、さらに東方のグレミャチー【同記事地図のグレヤムチ、Googleマップ上のグレミャチャヤのことか】方面に旋回する」とある。だが、作戦が順調であるかにみえたのは、むしろ、当然のことだった。第57装甲軍団の前面にいたソ連軍第4騎兵軍団、第302および第126狙撃師団は、ドイツ軍の反攻を察知して、あらかじめ、敵に気づかれぬまま、アクサイ川の後方に撤退していたのである。この当時、ソ連軍は、前年、1941年に使われていた、たとえ包囲されようとも持ち場を死守するとの戦術は、無用な犠牲を出すだけだと判断し、状況に応じて後退、兵力を温存する策を採用していたのだ。つまり、第6装甲師団の第一撃は空を切ったことになる。幸先の悪いスタートといえた。
コマンドマガジン143号P6



 次に、『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』から引用してみます。

 【第6装甲師団の】第11装甲連隊の左側は第4装甲擲弾兵連隊で、コテリニコヴォの北に6km幅で配置されており、第114装甲擲弾兵連隊第2大隊の支援を受けていた。これらの部隊は上ヤブロチニ村の南のソ連軍騎兵部隊と交戦して足止めしつつ第6装甲師団の左側面を防護し、ヒューナースドルフの装甲連隊がそれらの騎兵部隊を包囲するのを手助けすることになっていた。
 0520時に進発した第6装甲師団の攻撃は、【ソ連】第51軍のお粗末な防御ラインに対して圧倒的な効果をもたらした。第114装甲擲弾兵連隊第2大隊の南からの牽制によって、【12月初旬の】ポフレビンでの敗北ですでに弱体化していた【ソ連第51軍の第4騎兵軍団の】第81騎兵師団は拘束されており、ヒューナースドルフの装甲部隊の左側面で手も足も出なくなっていた。突然のことにパニックとなった第81騎兵師団と、その支援部隊であった【同じ第4騎兵軍団所属の】第85戦車旅団は戦車14両のうち10両を失って、共に敗走し、混乱状態のまま北のアクサイ川を目指して退却した。上ヤブロチニ村を占領した後、第2大隊に守備を任せてヒューナースドルフの装甲部隊は第114装甲擲弾兵連隊と並行して23km東進し、南から前進してきた第6装甲師団の偵察大隊と連携してコテリニコヴォの北東35kmにあるチレコフを占領した。
『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』P110


 著者であるグランツ氏によれば、上ヤブロチニ村の南にいた騎兵部隊等を「包囲」するためにヒューナースドルフの装甲部隊は旋回をしたのだ……ということになると思われます。また、ソ連軍は「奇襲を受けた」とまではいかないものの、第4騎兵軍団の一部(他に第61騎兵師団も所属していたので)は「あらかじめ撤退」ではなく「敗走」したことになっています。


 さて、『On a Knife's Edge』の記述です。

 ロシア軍はドイツ軍部隊がコテリニコヴォに集結中であることに気付いていたにもかかわらず、奇襲を受けたように思われ、ヒューナースドルフの戦車部隊は防衛ラインをあっという間に蹂躙し、大量のロシア軍の大砲を無傷で捕獲した。ドイツ軍の戦車2両が地雷で、もう1両がロシア軍の対戦車砲によって使用不能となったが、装甲部隊の兵士達の多くがロシア軍が地形をうまく使っていないことに驚いた。そこはドイツ軍のすべての戦車が通り抜けるには狭い地域であり、比較的小規模な部隊で防御ラインを引いておけば、かなりの遅滞が見込めたのである。ロシア軍が攻撃を予期していなかったなどということはあり得ないと思われたので、もしかしたらスターリングラードの包囲のために相当数のロシア軍部隊が割かれており、この戦場においてはここ数日は大した抵抗はないのではと考え始めた将校達もいた。第6装甲師団は攻撃を始めてすぐに、ロシア軍の第23歩兵師団司令部を、続けてその軍団司令部までもを捕獲し、ロシア軍の指揮系統を大いに麻痺させた。南方では第23装甲師団が最初の強い抵抗を排除し、こちらも進撃は順調であった。
 冬の嵐作戦の準備段階から、ラウス師団長は第6装甲師団の北側面の脆弱さを気にしていた。あいている側面に部隊をつぎ込めば師団の打撃力が、ひいてはスターリングラードへ到達するための能力が減少することになる。だが、ルーマニアの騎兵師団では側面の防御の任に耐えられないと思われた。この救出作戦に投入されることになっていた空軍野戦師団はまだ到着していなかったし、またたとえ到着していたとしても、純粋な防御だけをおこなうのにも戦闘力が不足していたであろう。この懸念に対処するためにラウスとヒューナースドルフは、上ヤブロチニ村に向かって西にまず進撃、突破をおこなうという計画を立案した。第6装甲師団第4装甲擲弾兵連隊の1個大隊が南方から攻撃を派手におこなって主攻勢のふりをし、村の南端まで近づくと速度を落として小火器による射撃をだんだんと激しくしていった。ルフトヴァフェの偵察戦闘機が、ロシア軍部隊の増援が続々と上ヤブロチニ村の防御ラインへと駆けつけていることを報告すると、南方からの装甲擲弾兵部隊は可能な限り注意を引くために、繰り返し攻撃をおこなった。その間に、ヒューナースドルフ戦闘団が東から、装甲連隊に先導されて近づいていった。
 ……日没まであとわずかになって、ヒューナースドルフの装甲連隊は東から現れて村を急襲した。激しい戦いで、上ヤブロチニ村に送られてきていたロシア軍の14両の戦車のうち10両が破壊され、残りも翌日派遣された対空砲によって撃破された。この作戦行動を完了させるために第4装甲擲弾兵連隊からの大隊を残して、時を移さず装甲連隊は引き返して北東へと前進した。
 ラウスの回想録では、上ヤブロチニ村の戦闘は大成功だということになっているが、他の者達はより批判的な見方をしている。シャイベルト【ヒューナースドルフ戦闘団の装甲中隊長で、邦訳された『奮戦! 第6戦車師団』の著者】が後に書いているところによると、これによってスターリングラードへの前進が致命的に遅れることになったし、適切な航空支援を得た第4装甲擲弾兵連隊のみで、ヒューナースドルフ戦闘団を向かわせなくてもこの村は確保できただろうに、という。ただし彼は、これは後知恵によればだが、と断ってもいる。というのは、この攻撃が立案され、また実行された時には、ドイツ軍は上ヤブロチニ村のロシア軍の戦力を知らなかったし、もし相当な数のロシア軍部隊が存在していたとすれば、第6装甲師団の北側面の脅威をそのままにしておくのはまったくの向こう見ずと言えたからだ。翌日、ロシア軍の戦車部隊が村の北側に現れ、ドイツ軍は空爆を要請した。ロシア軍戦車は小峡谷に避難しようとしたが、ドイツ軍歩兵が駆けつけると彼らが見つけたのは数両の戦車の残骸と、乗り捨てられた戦車だけであった。しかしこのような空爆だけでラウスの北側面の安全の確保に充分であったかどうかは、疑問である。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P129,130


 また、この段の少し後に、ソ連軍の第2親衛軍が対冬の嵐作戦用に転用されたことについて触れられた後、こう書かれています。

 ラウスが彼の装甲連隊を上ヤブロチニ村の攻略の為に迂回させることを決定した時、彼はもちろん第2親衛軍の配置が差し迫っているなどということは知らなかったが、しかしロシア軍がこの救出作戦を阻止するために増援を呼ぶであろうことは分かっていた。そのバランスは難しいものであった。北側面の脅威を残したままにして作戦を危機にさらすのか、あるいはスターリングラードへの前進の遅れが致命的であったと判明することになるのか? ラウスは可能な限りの情報に基づいて、側面の安全確保がより重要であると結論付けたのである。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P133



 こちらは「奇襲」色が非常に強く、またグランツ氏が「包囲」的に書いていたところを『On a Knife's Edge』では、北側面の脅威を排除するためであり、上ヤブロチニ村の南からの牽制攻撃によってソ連軍の注意が引きつけられていたところに主力が東から突っ込んでいったという書き方になっています。

 こういう説の差異は非常に興味深いところで、また『On a Knife's Edge』におけるこのような分析的な書き方は個人的にかなり心を惹かれました。


 あと、試しにアントニー・ビーヴァーの『スターリングラード』(文庫版)を見てみましたら、「ソ連軍司令官たちは、マンシュタインの攻撃がこんなに早く行われるとは予期していなかった。」とあり(P399)、どちらかといえば「奇襲」説に近いのかなと思いました。あとなんか、現地司令官のエレメンコ将軍はドイツ軍の攻撃が来るのではないかと心配していたのだけど、スターリンがコテリニコヴォ地区に予備兵力を移すのを拒否したのだとか(P389)。しかしなぜ拒否したのか書いてない……。

『On a Knife's Edge』:チル川の戦いのソ連第5戦車軍の目的・目標は何だったのか

 『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』の中に、チル川の戦いについて「えっ」と思うことが書いてあったので、メモ的に記しておこうと思います。


 チル川の戦いのソ連軍側の目的は、かつてOCS『Case Blue』「チル川の戦い」シナリオ (2016/12/25) で、

 ウラヌス作戦でスターリングラード包囲環が完成したものの、ドイツ軍側からの解囲作戦があると見越していたソ連軍は、解囲作戦の攻勢発起点を少しでも西側へずらすために、このチル川の戦線でさらなる小規模の攻勢に出た……そうです。

と書いていました。この戦線が当時、最もスターリングラードポケットに近い戦線であったので、ということによります。


 『On a Knife's Edge』にはまずこうありました。

 【土星作戦の】準備段階として必要な部隊が位置に着く間、プロコフィ・ログビノビッチ・ロマネンコ将軍の第5戦車軍はチル川下流沿いに集結していたドイツ軍の戦線を粉砕するよう命令を受けた。そうすることによってスターリングラードポケットに最も近い位置にあるドイツ軍を取り除くと共に - 土星作戦の開始前にこの攻撃を行うことで - ロマネンコ将軍はこの地域にドイツ軍のいくらかの予備を引きつけ拘束し、そしてイタリア軍が攻撃された時にそこに駆けつけることを不可能にするだろう。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P116


 ただ、そこからかなり離れたP132にこう書いてあったのです。

 ワシレフスキーはまた、チル川戦線への第5戦車軍による圧力が突破という結果になるか、あるいは少なくとも【スターリングラードへの】救出作戦のための部隊を引きつける牽制になることを期待していた。この期待は、第48装甲軍団をこの位置に留まらねばならないようにさせ、第4装甲軍への支援を不可能にさせたことである程度は満たされたのであったが、ロマネンコ軍の失敗により、土星作戦という、ロストフへの突破計画はさらに難しくなったと判断された。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P132



 チル川の戦いで第5戦車軍が「突破」という結果になることをワシレフスキーが期待していたというのにびっくりしました。とりあえず一番の理由として、前掲エントリの勝利条件の設定が難しくなるよな、と……(^_^;




 ところで、この第5戦車軍、我々のOCS『Enemy at the Gates』における小土星作戦シナリオやキャンペーンにおいては大突破してしまうことが常でしたが、天王星作戦においてもチル川の戦いにおいても期待に反した不甲斐ない戦いしかできなかったことが『On a Knife's Edge』に書いてあって面白かったです。

 天王星作戦においてはその麾下の6個歩兵(狙撃兵)師団はルーマニア軍にさえ打ち負かされ、戦車部隊がルーマニア軍の防御線を突破したものの、歩兵はまたその後の前進で相当な被害を出したとか(P116)。

 その後チル川の戦いに投入されるも、第5戦車軍の働きはスターリンやワシレフスキーをがっかりさせるもので、その対処の意味もあってポポフの第5打撃軍が編成され、この新しい部隊がロマネンコの第5戦車軍よりも良い働きをするだろうと期待されたのだとか(P125。しかし結果はまたアレなわけですが(^_^;)。

『大いなる聖戦』:電撃戦の本質は包囲であり、敵を麻痺させることではない?

 『大いなる聖戦』の下巻を読んでいっているのですが、独ソ戦の後半に入るところで、以下のような記述がありました。

 電撃戦の本質とは、装甲部隊が敵の側面・背後に一重もしくは二重の攻囲態勢を取った上で歩兵部隊が敵を包囲・殲滅することにあり、その目的は敵の野戦兵力を壊滅させることで、しばしば説かれているような敵の指揮通信系統を麻痺させることではない。
『大いなる聖戦 下』P109



 これは、「電撃戦=ショック戦」「攻勢によって主導権を握る」というような考え方に惹かれていた(ただし実行できているかというと、全然できてない)私にとってはちょっと衝撃でした。

 ただ、今やっているOCS『The Blitzkrieg Legend』のプレイで、最初にショック戦を目指した(っぽい)のが全然うまくいかず、2回目で包囲戦をやってみてもしかしてうまくいくかも……? と思っているところであったので、「むむむ? (ある意味)やはりそうなの?」と思った面もありました。


 思い返してみれば、OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のタイフーン作戦キャンペーンではものすごい包囲作戦をプレイしていたわけですし、独ソ戦全体を見れば印象深い包囲戦がいくつもあります。

 いっぽうで、西方電撃戦と言われる1940年のフランス戦役では、ドイツ軍装甲部隊がダンケルクへ到達した時に連合軍が片翼包囲された状態にはなりましたが、それ以前にどこかの戦場で包囲が発生したというのは読んだことがないと思います。

 が、尼崎会ではワニミさん共々、「『The Blitzkrieg Legend』でドイツ軍はどうすればいいんだぁ~」と悩みまくっておりまして、史書で見るようなショック戦的な西方電撃戦をやろうとしても、なかなかうまくいかない。でも史書では見たことないけど、包囲戦的な西方電撃戦をやれば、うまくいく? あるいは、史実の西方電撃戦で起きたことも、史書で受けるイメージよりももっと包囲戦に近いことだったのでしょうか。



 あと、先ほどの記述のすぐ後に、ソ連軍のいわゆる「スチームローラー」と言われる広域正面攻勢について書いてあって、これも非常に興味深かったです。

 1943年の夏から秋にかけてソ連軍統帥部では攻勢作戦をどのように展開させるかをめぐって意見の相違が見られたものの、採られることとなったのは縦深突破戦術を排した広域正面作戦で、その理由の一端は、ソ連軍が独軍の装甲部隊の運用方法に、敵ながら天晴れとの感慨と警戒心を有していたことに求められる。一方、単にソ連軍が縦深突破を試みるだけの兵站上の運用力を有していなかったことも理由の一つである。全般的に見て、1943年後半にソ連軍が攻勢用に整えることができた兵站支援態勢は約70マイル進撃するのに十分な程度であり、絵に描いたような包囲戦を展開できるだけの戦備を欠いていた。スタフカは、一つか二つの進撃方向に沿って部隊を前進させるといった攻撃を連続してかけて独軍を疲弊させ、それによって実際の攻勢正面よりもはるかに広い戦線で独軍に退却を強いるよう試みたのである。結果としてソ連軍が行えたのは、敵の兵力を壊滅させるといった外科手術的な勝利を立て続けに挙げることではなく、河川から河川へと連綿と続く、相手を苛立たせるような戦闘であり、その過程でソ連軍が激戦の末に勝利を収められた理由は、特定の攻勢正面に圧倒的に優勢な兵力を集中できたこと、その攻勢正面として独軍の軍相互やその他の部隊単位内部の作戦境界線といった脆弱になりがちな箇所を選定できたこと、攻勢に先立つ時期もしくは攻勢の最中に独軍の装甲部隊の足並みを乱すような意表をつく動きを見せられたことに求められる。
『大いなる聖戦 下』P109,110



 70マイルというとOCSにおいては14ヘクスですが、たとえば『Guderian's Blitzkrieg II』で見たブリャンスク包囲網やヴャージマ包囲網なんかは包囲網を閉じるために左右両側でゆうに30ヘクス以上は兵站を伸ばさなければならなかったような気がします。

 あるいは、『Case Blue』における天王星作戦も包囲戦ですけども、これは14ヘクスでもなんとかなりそうな……。その後ソ連軍は、オストロゴジスク=ロッソシ作戦やヴォロネジ=カストルノエ作戦でやや小規模な両翼包囲戦を成功させていますが、それらで調子に乗って疾駆作戦でアゾフ海への片翼包囲をしようとしてマンシュタインの「後手からの一撃」でやられており、その後は包囲作戦を自重して1943年のスチームローラー作戦になった……ということでしょうか。しかし1944年6月のバグラチオン作戦はかなりの距離を一気に前進した電撃戦っぽく感じているのですが、これは包囲戦でもある?


 ところでマンシュタインの「後手からの一撃」ですが、本書では、

 【1943年】2月にマンシュタインがハリコフで挙げた戦果は実際には過大に評価されており、これまでに喧伝されてきたようなものでもない……
『大いなる聖戦 下』P94


 と書かれていました(^_^;

 この本では、「喧伝されている通説」に対して「そうでもない」という指摘がけっこうあって、そこらへん私は興味深いので、通読したらまとめられたらなとも思っています(ただし私が興味を持って蛍光ペンを引いたところからのみですが)。

OCS『Case Blue』と『On a Knife's Edge』で見る第6、第11装甲師団

 『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を買いました (2018/10/26)で書いてました同書を読んでいってまして、冬の嵐作戦が始まるか始まらないかという辺りまで来ました。

 そこで、冬の嵐作戦で活躍した第6装甲師団と、チル川の戦いで活躍した第11装甲師団について割と詳しいことが書いてあって、興味深かったので、そこらへんのことを書いてみたいと思います。


 ↓『Case Blue』の両装甲師団(それぞれの戦いのシナリオ時の編成:第11装甲師団のユニットは他にLehrというオートバイ大隊ユニットも入っているのですが、チル川の戦いシナリオには登場しないようです)

unit00385.jpg

 冬の嵐作戦とチル川の戦いは元々、『Case Blue』の中にシナリオが入っていないのですが、http://ocsgames.org/ocsgames/Case_Blue.htmlからダウンロードできます(Stalingrad Relief Effort.pdfとChir Battles for Case Blue.pdf)。ただ、『Case Blue』のチル川の戦いシナリオはやってみたことがあるのですが、勝利条件設定がうまくないような……?(元々OCSは「長いキャンペーンをプレイするようにプレイせよ」というゲームなので、ミニシナリオの勝利条件は変になってしまうことがあるように思います。ので、ミニシナリオでは勝利条件を満たしさえすれば勝ちとか思わずに、やはり「長いキャンペーンの途中をプレイするようにプレイ」した方が良いのではないかと思っています)


 第6装甲師団については、コマンドマガジン最新号である143号に大木毅さんの「無限の48キロ 「冬の雷雨」作戦と第6装甲師団」という記事があり、第6装甲師団に焦点が当てられて詳説されています。その中でも同師団がコテリニコヴォ(冬の嵐作戦の発起点)に到着するや否やソ連軍の襲撃を受けてそれを撃退しなければならなかった……というくだりが、そこまでとは私は想っていなかったので、印象的でした。『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』にも、そこらへんに関するより詳しい記述がありましたが、個人的に面白かったのはそれより前の列車がドイツ国内を通過中の時期には、第6装甲師団の兵士達が大勢で雪合戦に熱中していたという話でした(^_^;(P108)

 さて、同書にあった第6装甲師団の状態についてなのですが、「良い状態にあった」とあって、装備についてもそうなのですが、個人的に興味を持ったのが、各大隊や連隊から打撃力が最大化されるように「機甲戦闘団」を編成しており、その他の部隊がその側面や後方を守備するようにされていたという話。

 それから、各人の関係性や自信も良好であったようで、ある装甲中隊長によれば……。

 早期の戦闘による損害は良好な指揮によって限定されたものであった……(それから我々は今)揺るぎない古くからの戦友達と、中核となる有能な下士官や将校達との間に強い結びつきができていた。多くの作戦を経験を共有してきた我々の雰囲気は良い状態だった……全員が自分達をロシア人達よりも遙かに強いと感じており、自分達の武器や自分達の馴染みの将校達を強く信頼していた。すべての兵士達、とりわけ装甲連隊の中では、戦闘における連携がうまく機能し、相互の信頼感が絶大であった。師団長である(エアハルト)ラウス少将は、師団のすべての連隊長や大隊長同様、この師団の生え抜きであり、師団の全員から大いに信頼されていた。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P107,8






 次に第11装甲師団について。師団長はヘルマン・バルク少将で、バルクに関する前半生が語られます(この本、挿入的に指揮官の前半生(時に後半生も)が語られることが多いです)が、戦間期に参謀にならないかと2度提案されたのにそれを蹴ったのは本人は「前線にいたかったから」と言っているが、実は参謀業務で失敗するのが怖かったからではないのかとか、個人的にヒトラーと親しくなったとか、装甲部隊と自動車化部隊を連携して用いることの主唱者の一人であったとか、まあそういうのはいいとしまして。

 個人的により興味深いことがその後に書いてありました。

 バルクはその間の【42年冬までの】数か月を、第11装甲師団が第一級の部隊となるようにした。無慈悲な性格を見せて、彼は自分の要求したやり方に応じられない部下の指揮官達を首にした。その結果として、最も高い力量を持った部下の指揮官達によって構成される師団となったのである。……バルクは紙に書いて伝えるよりも音声でやりとりする方を重視する、独特の指揮伝達システムを構築した。……部下の指揮官達はその優先されるべき意図を充分に認識すること、そして要求されることを実行する能力が求められるのであり、そのためにコミュニケーションこそが最も重要なことであったと、彼は後年説明している。
 ……
 明らかに、このシステムは有能で信頼できる将校団を必要とし、バルクは【それに恵まれた】。……
 バルクの回想録は、多くの人からは不快に思われるであろう、バルクの絶大な自信の強さと自説を曲げない頑固さを明らかにしている。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P104,5





 私は単純な事実や、装備に関する話よりも、こういうシステムやキャラクターに関する話が好きなので、そういう記述が多めにあると嬉しいです。今後、冬の嵐作戦やチル川の戦いについての記述も面白い話があるかどうか、楽しみにしてます。


OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)第2ターン先攻

 尼崎会でワニミさんとOCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(2回目)の第2ターン先攻(ドイツ軍)をプレイしました。

 といっても、私(B軍集団を担当)は、自宅の理を活かしてひたすら長考してすでに移動フェイズ中の移動は全部動かしていました。だいぶ考える時間があったので、ある程度以上のムーブができたのではないか……と思います(と思っていてもそれをひっくり返されるのがOCSなのですが(^_^;)。


 ↓B軍集団担当地域

unit00382.jpg

 お互いの戦線と、包囲網を黒い線で示しました。結構多くの部隊を包囲下にでき、また容易には破られないようにできたかもと思うので、高揚しています(^_^; オランダではロッテルダムに砲兵ユニットを隣接させ、ターン終了時の降伏チェックの条件を満たしました(が、砲兵ユニットが排除される可能性もあるし、すぐに降伏とはいかなさそうな……)。ベルギーでは「4ターンシナリオにおける勝利条件都市」の3つのうちの2つ目も取りました。



 ↓A軍集団担当地域(ワニミさん)

unit00383.jpg

 前回はアルデンヌの森の中のフランス軍部隊は半包囲されたもののそのほとんどがするっと脱出してしまっていたのですが、今回は完全包囲によって壊滅させることを狙ったということでした。

 また、最初のムーブでジベ方面へ戦力を配分し過ぎてしまったため、セダン方面に行くのはやめて、ジベ方面への突破を狙うことに。すでにジベでは第2装甲師団がミューズ川を渡河しています。




 また、今回も肉入り鍋さんが来られて、OCSの練習として『KOREA』の開戦シナリオに着手してみました。

unit00384.jpg

 次回以降も続けてやっていくと思います。



 基本的に毎土曜日に開催予定の尼崎会ですが、この年末年始は普通の土曜日も含めて、29(土)、31(月)、2(水)、5(土)に開催しようということになりました(急な変更もあるかもですが)。皆さんも、もしご予定が合いましたら、ぜひ一度覗きに来て下さい(*^_^*)(コメントに書き込む等していただければ)


『大いなる聖戦』で見るリトルサターン作戦分析

 『第二次世界大戦全史 大いなる聖戦(上・下)』を買いました (2018/10/17) で書いてました『大いなる聖戦(上)』を読んでいってます。


 全史なので、ほぼ時系列順に主要な作戦の分析がなされているのですが、リトルサターン作戦の分析もありました。それが興味深かったので、そこらへん書いてみたいと思います。

 まず、リトルサターン作戦の目的について。

 これ【小土星作戦】は、伊第8軍を粉砕して、東部方面に展開している枢軸軍の主要な補給ルートでロソシに至る鉄道線を遮断するための攻勢を目論んだものであり……
『大いなる聖戦(上)』P452


 この説は多分、今まで見たことがなかったような気がして、「えっ」と思いました(見たことあるかもですけど)。

 その鉄道線というのは多分、↓の画像の左側でRossosh~Millerovoを走っているものかと思います。

Little-Saturn-Plan01.jpg

 ただ、ゲームにおいてはこの鉄道線を切断したからといってほとんど影響はなさそうなのですが、史実においてはそうでもないんでしょうか……。

 ↓も参考に。

unit00108.jpg


 過去にグランツ氏の『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』からリトルサターン作戦の目的について一時的にまとめていたエントリは↓

最終的な小土星作戦の本質と『EatG』プレイとの差 (2016/10/21)



 さて、リトルサターン作戦の分析なんですが、OCSのプレイにおいても「たしかにそうだった!」と思うようなことが書いてあって「なるほど」と思いました。

 マスキロフカ【欺瞞工作のこと】を実施する上での戦技をソ連軍が磨き上げたことを明示したのが天王星作戦であったとするならば、ソ連軍が攻勢作戦を展開する能力が向上したことを証明したのが小土星作戦であった。それでも、伊第8軍に対してソ連軍が攻撃を加えた際には、戦術・戦技上の失策が続けて起きている。まず、当初二派にわたる攻勢を企図していたソ連軍は、それを断念し、戦線に配置する兵力を全般的に薄めて極めて狭隘な幾つかの攻勢正面に過度に優勢な兵力を展開したこと。例えば、第1親衛軍は配下の師団の内5個師団を11マイルの戦線に集中配備する傍ら、残りの2個師団には62マイルにわたる戦線を守備させ、第3親衛軍も4個師団を9マイルの戦線に配置する一方、残りの師団には各々19マイルを担当させた。現実にもソ連軍はこのように一定地域に兵力を過度に集中することによって生じた問題に苛まれることになり、攻撃正面を秘匿して敵の注意を攻撃正面から逸らすため、砲兵部隊を全戦線にわたって分散させるという過ちも犯している。
『大いなる聖戦(上)』P453,4


 
 「2個師団で62マイルを守備」というのは、1ヘクス5マイル(約8km)であるOCSにおいては、5ヘクスを1個師団で守備するということになります。この1個師団というのが、ソ連軍歩兵師団では2ステップの12-2-2であれば、3-2-2の分遣連隊を1個出せるのでまだなんとかなるかもですが、2ステップ11-1-1歩兵師団や2ステップ10-0-1歩兵師団は分遣連隊を出せないので、戦線はスカスカとなってしまいます。

 この問題は、古い作品であるOCS『Enemy at the Gates』でリトルサターンキャンペーンをプレイした時には感じなかったのですが、新しい作品であるOCS『Case Blue』でウラヌスキャンペーンをプレイした時に、リトルサターン作戦での攻勢箇所となるあたりのソ連軍の守備があまりにも薄すぎて、枢軸軍側に浸透されてしまうという苦しさを経験することに……。プレイしていた時には、「EatGではそうでもなかったのに、なんでやー(>_<)」と思っていたのですが、これはもしかして新しい史料によるものだったとか……?(リトルサターンでなくてウラヌスでそうだった、という齟齬はありますが。『Case Blue』にはリトルサターンシナリオがないので……)

 また、「砲兵が分散」というのはゲーム上の強い記憶としてはないのですが、しかしそうだったかもしれないという気もしました。



 それから、こんな記述が。

 そして、それよりもはるかに重大な影響をもたらしたのは、ソ連軍が偵察行動を12月11日の段階で開始したことであった。これはドイツ側にソ連軍の攻勢がどこに指向されるかを知らせたのも同然で、加えて、これに対応してドイツ側が15日に諸種の部隊を伊軍を掩護するために配置していたことをソ連軍は察知していなかった。
『大いなる聖戦(上)』P454



 直前のエントリで、『イタリア軍入門』やGJ69号の古谷さんがリトルサターン作戦の開始日を12月11日(多くの資料では16日なのに)としていたのは、この件によるものかもしれないと思いました。というか、具体的にどういう部隊が配置されたのかとか、また詳しい資料で見たいところです。



 『大いなる聖戦』では、各作戦に関しての分析面が豊富に記述されていき、しかもそれがあまり今までの本では見たことがないような視点などからなされていることが多いような気がするので、興味のある方はぜひ。ただなんか、文の繋がりがおかしいというか、意味が良く分からないようなこともありますが……。

 直前のウラヌス作戦に関する総括では、この言葉にシビれました。

 それも、【天王星作戦は】敵に対して全般的な兵力上の優位を確保しないままで完遂したのであった。独B軍集団もワシレフスキーの軍も共に兵力は110万ほどで、戦車と航空機の数も大体拮抗していたのであり、ソ連軍の成果は、ソ連側が相手の意表を突いて主導権を掌握したこと、集中すべき所に戦力を集中したこと、そして、単純ではあるものの現実的な目標を頑固なまでに追求したことに帰せられる。
『大いなる聖戦(上)』P448,9


 OCSをプレイする上で、現実的でない目標をなんとなく追求していることが多いと思われ、是非とも見習わなければならないなぁ……と。

 あと、『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』で今、ウラヌス作戦が完了した辺りまで読み進んだのですが、ドイツ軍側は「第6軍を包囲するような作戦をソ連軍は取ってきたわけだろうけども、しかしそんなものは解囲できる」とほとんど皆が疑ってなかったというようなことが書いてあって、後知恵から言えば「バカだなぁ」と思ってしまうわけですが、しかし上記引用部分にあったように兵力的にほぼ拮抗していたのであれば、ソ連軍が包囲作戦を成功させ、そしてそれを維持できたのはまさに驚くべきことであると言え、それを可能にしたワシレフスキーらは本当にすごいなぁ、と思いました。

 ↓参考

ワシレフスキー元帥の評価(英語版Wikipediaから) (2016/10/14)


GJ69号:近藤さんのOCSスモレンスク記事&イタリア山岳軍団は50日間敢闘したのか?

 GJ69号が届きました。付録ゲームは「南方作戦1941~進撃の帝国陸海軍~」です。

 この69号にはGJ/コマンドの両誌でOCS記事を積極的に書いて下さっている近藤友樹さんが『Smolensk:Barbarossa Derailed』の紹介記事を書いておられます。細かい文字で2ページにわたる分析的なもので、読み応えもあるのでぜひお読み下さい(*^_^*)

 近藤さんは同記事の中で「OCS初心者は『Smolensk:Barbarossa Derailed』のソ連軍を担当すべきではない」と書いておられるのですが、私は先日のコマンドの記事で「初心者はソ連軍を担当した方がよいだろう」と書いてまして、そこらへんの意見の相違も興味深いところです(色々な見方があると思います)。

 あ、ところでこれをついでに先日のコマンド記事について訂正をしておきますと、OCSの新作となる『Third Winter』が扱う時期を「1944~45年」と書いていたのは、「1943~44年」の大間違いでした(T_T) 大変申し訳なく……。お詫びして訂正させていただきます。




 それからGJ69号では、古谷晋作さんの連載「第二次大戦 各国軍隊部隊編成研究シリーズ」でイタリア軍の山岳師団(アルピーニ師団)について取り上げられています(参考→イタリア陸軍のアルピーニ師団と山岳歩兵師団の区別など (2017/04/07) )。

 同記事で話題になっているのが、東部戦線に派遣されていた3つのアルピーニ師団、

第2アルピーニ師団「トリデンティーナ」
第3アルピーニ師団「ジュリア」
第4アルピーニ師団「クネーンゼ」

 で構成されたアルピーニ軍団(同記事では「山岳軍団」)で、こう書かれています。

 特に注目される戦闘は、1942年12月11日【多くの資料では16日】に開始された「小土星」作戦からの一連の戦闘で、伊第35自動車化歩兵軍団と伊第2歩兵軍団が後退する中、山岳師団3個で編成された伊山岳軍団は後退せず、防衛線を守りきっている。
 その後、後退しなかったため包囲された山岳軍団は、1月15日には脱出作戦を開始、2月1日、兵力を4分の1にまで激減させながらも包囲を突破し友軍戦線にたどり着いている。
 ……
 つまり、山岳師団は、後方補給が困難な山岳地帯での戦闘に対応するため、軽装備火力と強力な後方支援・補給機能をもった部隊なのである。
 しかし、火力装備が一般の歩兵師団よりも劣るならば、1942年から1943年にかけての東部戦線で山岳師団が見せた粘り強い敢闘の説明は少なくとも編成上からは説明できない。この時期、山岳師団はドイツ軍から対戦車装備の貸与を受けていたという資料も存在するが、あるいはドイツ軍から対戦車装備の増強を受けていたかもしれない。
 ……
 はっきりしたことは、謎のままである。
GJ69号P74



 この「謎」の件は後述するように、恐らく単純明快な理由がある(と思う)のですが、実は私もまったく同様のある意味「勘違い」を以前しており、その勘違い甚だしいままに『なぜイタリア軍は弱かったのか?』という動画の中で「これらの山岳師団はこの時50日間にわたってソ連軍の猛攻に耐えたが……」と書いてしまってました。この件も今となってはかなりの間違いであったということで、お詫びして訂正させていただきたいと思います(; ;)ホロホロ


 ↓そのシーン

unit00380.jpg


 ↓その動画へのリンク(YouTube上のものは削除されてしまったので、ニコニコ動画上でしか見られません(>_<))






 さて、謎解きなんですが、↓の画像を見て下さい。

unit00381.jpg

 OCS『Enemy at the Gates』のリトルサターン作戦のセットアップのイタリア軍戦線なんですが、くだんのアルピーニ軍団は赤い実線で囲んだ3つの山岳師団マークのユニットです。ARが4で、結構優秀だという評価です。

 で、12月16日に始まったリトルサターン作戦は主攻勢軸は真ん中あたりに示しました赤い矢印で、ソ連軍は主攻勢軸の側面を守るために側面も確保をしていったのですが、その範囲を赤い破線で示しました。……そう、つまり、アルピーニ軍団はリトルサターン作戦においてそもそも攻撃を受けていないのです! ただ、画像の真ん中にいたジュリア師団が元いた位置から南に移動し、戦線を支えるようにされ、その後継続的にソ連軍と戦闘はおこなっています。

 その状態のまま1943年になりましたが、1月13日に画像の青い矢印で示したオストロゴジスク=ロッソシ作戦が始まり、これで完全に包囲状態となったアルピーニ軍団は(恐らく)3日間とどまったものの撤退命令が出され、退却していくことになりました。


 参考に、こちらのエントリの画像や説明などもどうぞ。

小土星作戦の計画詳細と『EatG』プレイとの差 (2016/10/13)
リトルサターン作戦後の連続攻勢でクルスク突出部を形成したのですね (2017/11/04)



 ここらへんのことを知ったのは恐らく『Sacrifice on the Steppe』によってで、読むのが途中で止まってしまっているんですが、ぜひ続きも読みたいと思っています(でも『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』でオストロゴジスク=ロッソシ作戦等の概説を読んでから)。



 で、じゃあなんで私にしても、古谷さんにしても、同じ様な勘違いをしたのかに関してなんですが……。恐らくまず間違いなく、『イタリア軍入門』の記述によるものだと思います(少なくとも私は)。

 『イタリア軍入門』にはこう書かれています。

 “マルイ・サトゥルン”(小土星)と名付けられたこの新たな反攻作戦は12月11日【多くの資料では16日】に始まり……多くの部隊は連隊旗を焼却して独自の判断で退却を始め、一部はドネツ河まで敗走していたのだった。
 しかし、ドン河のイタリア軍陣地左翼の3個山岳(アルピーニ)師団は、年が明けても未だハンガリー第2軍と共に戦線に踏み留まり、『ヴィチェンツァ』歩兵師団とその他の残余部隊、さらにドイツ軍2個師団から新設された第24軍団の増援を受けて、果敢にソ連軍の攻撃を防いで戦線を支えていた。ドイツ軍最高司令部の官報でも数日間に2度に渡って『ユリア』山岳師団の防衛戦の功績を称え、ラジオモスクワもこれを確認している。しかし、1943年1月10日にはスターリングラードのドイツ第6軍へのソ連軍による包囲殲滅作戦“コリツォー”(鉄輪)が発動され、1月14日には遂にドン河戦線の左翼でも新たな反攻作戦が始まった【これがオストロゴジスク=ロッソシ作戦】。
 ドン河を越えて迫り来る赤軍を迎えたイタリア山岳軍は、圧倒的な戦力差の中で3日間の激戦を粘り強くしのいだ後、遂に撤退命令を出した。3個山岳師団と残存部隊は零下30度の中で退却戦を続けながら友軍陣地を目指し、26日にはニコライエフカで『トリデンティーナ』山岳師団の一部と独伊両軍残存部隊は敵の包囲網を突破することに成功したが、『ユリア』と『クネーンゼ』山岳師団と『ヴィチェンツァ』歩兵師団はヴァルイキの後方100kmで撃破された。
『イタリア軍入門』P68~70



 「ハンガリー第2軍と共に戦線に踏み留まり」という表現ですが、ハンガリー第2軍も(イタリア軍よりもさらに弱兵ながら)リトルサターン作戦においては攻撃対象(あるいは包囲対象)になっておらず、攻撃対象でなかったイタリア軍アルピーニ軍団と共に「戦線に踏み留ま」っていたのは、ある意味当たり前と言えば当たり前です(^_^; ジュリア師団は南下して実際に戦闘して戦線を支える役割にまわっていたので、その功績を称えられることはあったのでしょう。

 しかしこの書き方から、私が(そして恐らく古谷さんも)「アルピーニ(山岳)軍団は激しい攻撃を受けたにもかかわらず、果敢に戦線を支えていたんだ! しかも12月11日から、1月14日、あるいはニコライエフカで包囲網を突破したという1月26日まで!」と思ったのは無理からぬことであったのではなかろうか……と推察します。私が「50日間」と書いていたのは、「12月11日から1月26日まで」を計算して、だいたい50日間くらいとしたのではないかと(何か資料から計算して書いた、ということだけは覚えているので)。

 『イタリア軍入門』にしても別に嘘を書いているわけではなかったと思うのですが、読む方が詳しいことを知らないため、事実とはかなり違う方向に思い込んでしまうこともある……ということなのではないかと思いました。


 ただ、リトルサターン作戦からオストロゴジスク=ロッソシ作戦の間のアルピーニ軍団の様子については、私はまだ『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』においても『Sacrifice on the Steppe』においても読むところまでいっていないので、今回書いた「そもそもソ連軍の攻撃対象でなかった」説よりはよほど、何かの戦闘を、トリデンティーナ師団にしろクネーンゼ師団にしろ、していた可能性もあるかもです。そこらへん、非常に興味を持っているので、本を読み進めていきたいと思っています。


今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR