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北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ

 北アフリカ戦線について情報を集積していたと良く書いてましたが、今後「まとめ」として書いていこうと思います。

 まずは将軍達について。私は歴史上の人物の性格だとか能力だとかにかなり興味があるので……。

 北アフリカ戦の時系列に沿って挙げていきます。最初はイタリア軍のグラツィアーニ元帥についてです。


Rodolfo Graziani 1940 (Retouched)
 ↑グラツィアーニ将軍(Wikipediaから)


 グラツィアーニ将軍は1935~36年の第二次エチオピア戦争で「機動戦(mobile warfare)」を実行して大戦果を挙げた人物なのですが、第二次世界大戦の北アフリカ戦では最序盤において英連邦軍相手に攻勢を取れというムッソリーニの命令に「無理だ」と抵抗したものの抗しきれず1940年9月14日に「グラツィアーニ攻勢」で3日間進撃して停止。インフラ整備に努めるも12月9日に英連邦軍の「コンパス作戦」により大敗北を喫して、辞任しました。


   エチオピア戦争においての活躍についてはこう書かれています。

 【エチオピア戦争では】戦車は、当時のヨーロッパで常識とされていた方法で運用された - 即ち、歩兵支援である。例外はソマリランド戦線のルドルフォ・グラツィアーニ将軍が率いた一軍で、戦車、トラック、馬とラクダの騎兵部隊、牽引式の火砲とで、機動部隊が編成された。迅速なる機動で兵力を集中できるこの部隊は、終始エチオピア軍に対して優位を保ち続けた。
『コマンドマガジン27号』P16,7

 「砂漠の間抜け」どころか、グラツィアーニは砂漠戦のエキスパートなのである。キレナイカでのシヌージ族との戦いぶりを見れば、そのことがよくわかる。ロジスティクスの重要性を最初に唱え、また機械化された諸兵科連合部隊をも編成した人物でもあるのだ。ロンメルその他が後にしたことを、グラツィアーニは1930年に成し遂げてたのである。
『コマンドマガジン27号』P18




   ただ、その戦功も、英連邦軍相手には敵し得なかったと。

 彼は、イタリア軍が手を焼いていたベドウィン族の反乱を鎮圧した。反乱の指導者、「砂漠のライオン」オマー・ムクターを処刑し、リビア植民地を平穏にした。
 ……
 グラチアーニは、ガリバルディとともにイタリア軍を代表する軍人である。2人とも、現地人には勝つが近代装備の軍には敵しえないイタリア軍の象徴的人物でもあった。
『アフリカンギャンビット』P19

 「砂漠の屠殺人」として知られるこのイタリア軍元帥は、植民地戦争で得た自身の戦功のイメージに、より大規模で複雑化した軍事行動に直面した時には沿うことができなかった。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P72


 しかしこれは、グラツィアーニ自身の能力の問題というよりは、「イタリア軍自体が、植民地ではぎりぎり勝てる軍隊であっても、他の列強諸国軍に勝てる軍隊ではなかった」ということに過ぎないような気も……。


 実際にグラツィアーニ自身が北アフリカ戦の時にどういう能力や性格であったかについては……。

 ヒトラーはリッター・フォン・トーマ将軍を11月初旬に北アフリカを視察させたがそれは、9月にドイツ側が申し入れることを検討し始めた2個装甲師団をアフリカに送る件のためであった。さらに、ヒトラーは第3装甲師団をアフリカに送る準備を始めさせた。だが、フォン・トーマはそれを勧めなかった。戻ってきたフォン・トーマは、イタリア軍の指揮は水準に達しているとは言えず(彼はグラツィアーニは最高司令官としては不適格だと考えていた)、兵站、気候、それに地形の厳しさも大きな問題であるという感想を伝えた。
『Rommel's North Africa Campaign』P28

 フォン・トーマの視察の後、グラツィアーニは車両と戦車を1個師団に集中させることなどを検討した。だが彼が実行したのはおおよそ自動車化部隊ということであり、ひとつには、イギリス軍の装甲車による小戦闘の成功を見てのものであった。この戦闘団は、増強された連隊程度か、あるいは連隊規模を越える程度の特別部隊編成であり、これがマレッティグループであった。
 また、イタリア軍が犯していた戦術上のミスがあった。部隊は武装したキャンプを並べて配置されていたが、それらは相互支援できるようになっておらず、またその隙間に敵部隊が侵入してきた時にそれを停止させることができるような強力な機動部隊も存在しなかったのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P30

 砂漠の作戦で立ち現れてきた困難に気付き、兵站に関する複雑な事態の強迫観念にとらわれた彼【グラツィアーニ】は、敵に対して圧倒的な大兵力を持っているにもかかわらず、攻勢を取りたがっているムッソリーニにあらゆる面で抵抗した。彼は外務大臣のチアノ伯爵に対して予言的な悲観論を表明していた。「水の補給はまったく足りない。我々は敗北、それも砂漠の真ん中での敗北に向かっているのであり、それはまったくの破滅につながることは避けられないに違いない。」それは麾下の部隊の攻勢を成功へと導く態度とはまったく言えず、早期の諸作戦は彼の自信にはまったくならなかったのであった。
『Operation Compass 1940』P14


 これらを見ていると、グラツィアーニ元帥は「不適だと評価されており」「ミスもしており」「精神的に敗北主義的であった」ということになるんでしょうか。

 こんな評価もありました。

 ある将軍のグラツィアーニに対する批判はこう述べている。
「彼はかつてのように、わずか数千人の兵卒を指揮する植民地軍人としては問題はなかったが、アジス・アベバでの彼の暗殺未遂事件も災いして、精神的・肉体的にも参ったのだろう。
 だから完全武装で攻めて来る敵の大軍の前では、周章狼狽せざるを得なかったのだ。彼は五ヶ月間も司令部内に居座ったままで、戦線の成り行きをじかに観察せず、前線の軍隊との連絡もおろそかにしていた。この点、ムッソリーニが、現今の戦いは複雑極まりなく、戦場から離れすぎては指揮を執れないと言っていたが、彼はこれを聞き入れなかったのだ。
『ムッソリーニの戦い』P104,5


 グラツィアーニ将軍はエチオピア戦争の時には56歳前後で、北アフリカ戦では60歳前後なので、「若い時には良かったが……」というようなことではないのでしょうけども、ただ、56歳の時には優勢を確保できる状況において前向きになれたものが、暗殺事件とかがあって、60歳において敵の方が優勢だと思える状況で、敗北主義的な傾向が加速してしまったということなんでしょうか。

 実際に当時の「グラツィアーニ攻勢」において、イタリア軍が勝利可能であったのかについては、「まあ……無理だろう」というのが大方の見方であるようには私は感じています。当時のイギリス軍側の将軍であるウェーヴェルやオコンナーがまた、優秀であったと思いますし。

 グラツィアーニ攻勢周辺については、↓もご参照下さい。
1940年9月北アフリカのイタリア軍グラツィアーニ攻勢について (2017/08/06)
グラツィアーニ元帥はフリーメイソンだったからイギリス軍に有利になるように行動した? (2017/12/15)


 コンパス作戦で大敗北を喫した後のグラツィアーニについては……。

 シディ・バラニ陥落直後にはグラツィアーニ元帥は自信を喪失しキレナイカを放棄してリビアの首都のトリポリまで退くことさえ口にする程だった。しかし英軍の追撃が予想より緩慢で、多くの将兵がバルディアに逃れたことを知ると、落ち着きを取り戻して敵を迎え撃つ意志を固めたのであった。
『コマンドマガジン日本版 vol.61』地中海戦史P32

 グラツィアーニ自身はムッソリーニが「象に立ち向かうノミのような」戦いを、無理強いにやらせたと文句をいって(それについて総統の説明を借りれば「砲1000門以上を装備した奇妙なノミである」)、遺書を妻に送り、はじめキレネにある地下70フィートのローマ時代の墓所に身を隠し、それからローマへ逃げ出したのであった。
『ロンメル将軍』P22



 ただこの後、グラツィアーニが要求していた戦力が北アフリカに送られてくることになるというのは、一時期日本経済についても良く言われていた、「遅すぎる、少なすぎる」というやつで、やりきれない感も……。

元々作戦に反対であった事や、対案である援軍派遣が拒否された状態での敗北を考えれば無謀な戦争計画の責任を押し付けられた形となったが、グラツィアーニは抗弁しなかった。ドイツ・アフリカ軍団の到着後、漸くファシスト政権は北アフリカ戦線に機械化師団や空挺師団、戦車師団を増援として派遣したが、これらは遠征前にバルボ空軍元帥やグラツィアーニが熱望していた戦力であった。
日本語版Wikipedia「ロドルフォ・グラツィアーニ」




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読みやすい英文のミリタリー書籍やゲームルールやゲーム記事

 『Red Christmas - The Tatsinskaya Airfield Raid 1942』を読んでいっているのですが、英文が非常に読みやすくて、しかも内容的にも面白くて、止まりません。まるで天使に後押しされているみたいです(©アドルフ・ガーランド)。もちろん分からない単語は全然出てくるので調べながらなのですが、しかし読みやすすぎます。

 →OSPREYの「RAID」シリーズ:リトルサターン作戦ものを買いました (2018/09/12)


 で、フト巻末の別のオスプレイシリーズの本のリストを見ていたら、この本の著者と、以前読んだオスプレイの『Moscow 1941 Hitler's first defeat』の著者が一緒だということに気付きました。ええっ、『Moscow 1941 Hitler's first defeat』もすごく読みやすくて、すごく面白かったんですけど!

 →『GJ67 激闘!タイフーン電撃戦』とモスクワ攻防戦資料、及びOCS『Guderian's Blitzkrieg II』について (2018/05/30)


 これはこの著者の著作の英文は基本的に読みやすくて(私にとって?)面白いということかもしれないと思い、Amazonで検索してみたら、他にも色々と主に第二次世界大戦中のテーマについて書かれていました。

 →Robert Forczykの著作検索結果

 著者名の読み方としては「ロバート・フォーチャイク」であるようです。とりあえず著作リストの中には、私が「今すぐにでも買いたい」というものはなかったのですが、しかしもし皆さんの中で、興味のある著作がある場合には、これらの著作は英文的には世の中の平均よりは読みやすい可能性が高そう……かとは思います(同じ著者でも著作によって英文の読みやすさが変わることもありますが)。平均的にはもっともっと意味がとりにくい英文が普通だと、個人的には感じます。

 ただ、「面白い」かどうかについては、これは英文に関する個人差よりもはるかに個々人の感性の個人差の出るところだと思います。私は作戦面や個々人のキャラクター面、あるいは分析的な文が好きで、事実を淡々と書いていく文にはあまり面白みを感じない方です。


 英文に関してですが、それほど量を読んだわけではないですが、独ソ戦の大家グランツ氏の英文は、結構読みやすい方ではないかと感じています。

 逆に非常に読みにくい英文を書く人物を挙げますと、とりあえずOCSのシリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏は、ルール文とかは普通に読めるのですが、Operation誌でなんかはっちゃけた記事とかを書かれていることがままあり、それらは我々には非常に理解しにくいものになっています。割と内輪受け的な文を書くこともあり、それらも我々には良く理解できません(^_^;


 あと、ナポレオニックゲームの大家ザッカー氏は、ルール文からして、読みにくく感じます。ルール文やカード上のテキストからして、英文の「同じ単語を使うとかっこ悪く感じられる」という感覚からなのか、同じ概念を違う単語で書くことがあるようだったり、通常ルール文では「can(可能である)」と書かれるところを「may(上から目線で、することを許可する)」と書いていたりします。


 どんな英文でもすらすら読めるような人にとっては別に問題ではないのでしょうけども、私のような初~中級者?程度の人間には、「英文の分かりやすさ」は非常に重要で、できればそういう洋書を選んで買いたいものだと思います。それでまあ、ちょっとずつ語彙も増やしつつ、将来的には読める英文難易度も上げていければ……(難しい英文を読まなければ、実力も上がらないという説もあるか……)。



 ところで、洋書を読む時の英和辞書ですが、私は基本的にはスマホに入れている「Handy英辞郎」を使っています(同アプリに関しては→「ナポレオニック雑文集」を印刷してみたり (2015/11/19)の後半に書いてました)。が、単語をqwertyキーボード画面から入力する時に、スマホの幅が狭くて押し間違えることが多々あるのがストレスでした。

 そこらへん何とかならないかと思って昨日色々検索していたら、すでにインストールしていた「Gboard」というキーボードアプリで音声入力ができるということが分かり、試してみたら、おお、ある程度いける!

 ただし、なるべくネイティブっぽく発音するべきであるようです(明らかにその方が認識率が上がります。カタカナ英語のように発音すると、カタカナで認識されてしまいます)。それで例えば「admonition」とか「makeshift」とか「set off」というような、「こう発音するしかないだろうし、似たような単語もない」ようなものは結構認識してくれます。しかし、「tuck」とか「erode」というような、(日本人にとって)発音が似たような単語もありそうだとか、どう発音するかが分かりにくいというようなものは、まあ大体ダメで、最初からキーボードで入力した方が良さそうではあります。ですが、発音の練習(活かす場所はないけど)と、入力の省力化になるので、これは良いことに気付いたと思いました。


 しかもこのキーボードアプリ、日本語はそのまま日本語で認識して結構長文でも音声入力ができるので、今後LINEやメールでもこのアプリで音声入力したら楽なのではないでしょうか? おおお~。


OCS『The Blitzkrieg Legend』キャンペーン(オランダ抜き)開始

 尼崎会(拙宅)で、OCS『The Blitzkrieg Legend』のキャンペーン(オランダ抜き)を開始しました。

 松浦方式(片方の陣営を全プレイヤーでプレイし、逆陣営は担当場所を入れ替えてプレイする)でやりますが、一応ドイツ軍の総司令官はワニミさんで、連合軍の総司令官は私がやるということになりました。

 『The Blitzkrieg Legend』用のハウスルールオプションは、「降下猟兵をどこでも使用できる」以外は全部使用で、第1ターンの後攻と第2ターンの先攻は自動的にドイツ軍となります。ドイツ軍側のプレイ担当ですが、ワニミさんがここしばらくずっとアルデンヌの森のドイツ軍の動きを研究されていたということで、アルデンヌの森はすべてワニミさんがプレイし(第1、2、5、6、7、8、10装甲師団)、その北側の平原地域は私がプレイしました(第3、4装甲師団)。



 ↓セットアップ

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 ↓アルデンヌの森の中のフランス軍軽騎兵師団はかなり自由にセットアップできるのですが、とりあえず適当に置いてみました。

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 ↓第1ターン後攻(ドイツ軍)終了時の北側の平原地域。

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 エバンエマール要塞とその1ヘクス南の2ヶ所で特殊作戦をおこなったのですが、ダイス目は両方3で、非常に微妙な成果(1が出て効果無しになるよりはよほどマシですが……)。しかしなんとかミューズ川の線は突破しました。



 ↓同、アルデンヌの森。

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 史実ではセダン(画像の左の方)に一直線に向かっていったドイツ軍装甲部隊ですが、ワニミさんはここしばらくの研究プレイで、「第1、2ターンのダブルターンでアルデンヌの森の南のマジノ線をも突破し、連合軍に的を絞らせないべきだ」という作戦を立案されておられ、その線に沿ってプレイされていたようです。



 ↓第2ターン先攻(ドイツ軍)終了時、北側の平原地域。

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 どうすべきか色々考えていたんですが、移動フェイズの後半になってから、「あれ、自軍の補給線を確保するために、リエージュの南の鉄道線の走っている要塞地帯(画像の赤い四角で囲った部分……の右側3ヘクス)を何とかして占領しないと、3ターン目以降どうしようもなくなるよ?」ということに気付き、慌てて戦力を注ぎ込みます。ヒップシュートがひたすら外れたりもしたのですが、117火力以上を注ぎ込んで砲兵砲爆撃をおこなった箇所は首尾良く1ユニットを吹き飛ばし、結局3ヘクスすべてが「Ao1DL1o1」の結果。要塞は破壊できたものの、自軍は損害を抑えるために退却しまくったので、予備にしていた第4装甲師団の装甲連隊をすべてその要塞地帯の占領にまわさざるを得ませんでした。



 ↓同、アルデンヌの森。

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 赤い線で囲ったのがドイツ軍の占領地域で、①と②の2ヶ所でアルデンヌの森の南側のマジノ線を突破し、③で史実通りセダンでのミューズ川渡河にも成功しています。フランス軍の軽騎兵師団のほとんどは戦わずして包囲された格好となり、連合軍としてはこの後これをどうするか……。

 マジノ線の南側にもメスとヴェルダンという勝利得点都市があるので、フランス軍側はそれらもできれば守らなければならず……連合軍の動きは今後考えていきますが、どうするか悩みどころです。


 ところで、上記画像でヘクス16.11(画像中央部の1SPが見えているヘクスの左下のヘクス)の鉄道線が、ここだけルクセンブルクやベルギー領内ではなくフランス領内にあるため、「ドイツ軍はフランス領内の鉄道線をまったく使用できません」というルールにより、補給路を延ばすために使用できないことが発覚。しかし、アルデンヌ狂のワニミ氏が『鉄道線はルクセンブルク内を通行していた』と強硬に主張したため、今回はこの鉄道線はフランス領内とは見なさないことにしました(いや本当は、両者合意の上です(^_^;)。


 来週は11/3(土)のミドルアース大阪にて、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』を多人数でやるという話になってますので、尼崎会はお休みです。

リトルサターン:縦深攻撃で200km前進した戦車軍団はその後どうするべきなのか?

 『Red Christmas - The Tatsinskaya Airfield Raid 1942』(→OSPREYの「RAID」シリーズ:リトルサターン作戦ものを買いました (2018/09/12) )を読み始めて、本の最初の辺りで非常に興味深かったのが「縦深攻撃で200km前進した戦車軍団はその後どうするべきなのか?」という話でした。

 この本にはその件についてソ連軍の縦深戦略理論家として「Isserson」という人物の話が出てきまして、私は最初てっきり「イゼルローン」かと思ったのですが、良く見たら最後が「ソン」でしたから全然違いましたね(^_^;

 読み方について調べてみると、一般的には「イッセルソン」と読むようです。この人は1936年以降に赤軍参謀本部大学でヴァシレフスキーらに縦深作戦理論や作戦術について講義していたそうですが、その時に言っていたのは「縦深攻撃で200kmとか前進して、敵後方の重要な地点(航空基地や司令部や鉄道)に打撃を与えたら、攻撃部隊は味方の元に帰ってくるようにする」という話だったそうです。

 特にリトルサターン作戦は包囲作戦ではなく、スターリングラード包囲環への空輸拠点となっていたタチンスカヤの航空基地を破壊することが目標となっていた(この本によると)らしいので、特にヴァシレフスキーは作戦立案段階でも「帰ってくる」ように考えていたらしいです。

 同書の地図がhttps://weaponsandwarfare.files.wordpress.com/2017/02/bdzgzbgf.jpgで見られますが、この画像の上から中央部へと向かう2つの矢印が2つの戦車軍団の進路です(ただし左の方が「29」とあるとは「24」の間違いだと思います)。


 しかし一方で、ヴァシレフスキーと同じくイッセルソンの講義を受け、この時ヴァシレフスキーと一緒に計画立案作業をしていた赤軍砲兵部長兼副国防人民委員のヴォロノフは、東側の第3親衛軍から第1機械化軍団を補助で出して、占領地を保持する方向で考えていたとか。


 OCSをプレイする上でも、突出させた装甲師団とか騎兵軍団とか戦車軍団とかをその後どうするか、我々は確信が持てず悩みまくっています(^_^; 基本的にはその場で死ぬに任せることが多いのですが、SPを専用トラックで持っていったり、普通の輸送トラックでSPだけ運んだり、SPを降下させたり(成功率は半分強くらいしかないですが)、もし航空基地を占領していれば安全にSPを空輸できます。先日、『Smolensk:Barbarossa Derailed』でソ連軍の騎兵ユニットをドイツ軍の補給路に突っ込ませた時には、2つの騎兵ユニットを交互に「突っ込ませ、戻し」するという方法があるのかもしれないと思ったりしました。

 しかしまあ、これらの襲撃(raid)は、守備隊や後方予備がある程度以上多ければほとんど意味がなくなりますから、状況によるのですが、突破される可能性があるのならばやはり後方を厚くするべきなんだろうなとは思い始めています。


 リトルサターン作戦の時には、ヴァシレフスキーらは「タチンスカヤには守備隊はほとんどいないだろう。なぜならば、ドイツ軍は他の戦線を支えるのにギリギリであるはずだから」と考えていたそうで、その直前のチル川の戦いなんかも、ソ連軍の攻勢は失敗はしたものの、ドイツ軍側に「ギリギリである」ということを意識させるには相当役立っていたんでしょうね……。

1943年1~2月のロストフ戦本と同2~3月の第3次ハリコフ戦本もありました

 前回(→『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を買いました (2018/10/26) )以降もオススメで表示される洋書を見ていっていたら、1943年1~2月のロストフ戦だけを扱った本と、同2~3月の第3次ハリコフ戦だけを扱った本もありました。さすがに私は、今買うのはやめておきますけども……(今積ん読になっている本が消化できて将来読めれば良いなぁ……)。


 1943年1~2月のロストフ戦本というのはあのグランツ氏の最新刊らしく、2018年3月発行となっています。



 本の紹介の英文を、Google翻訳さんに訳してもらったのを挙げておきます。

 1942年の終わりにドイツ軍第6軍の敗北と破壊があって、東部戦線の戦争は決定的な転換を遂げた。ドイツ軍はソ連軍のジャガーナウトを西に追い詰めるために新たな防衛戦線を立てようと苦労したからである。操作ドンの主な攻撃は、1600キロ以上の広がりを渡って2ヶ月間にわたって不可避的に展開した軍隊の劇的な衝突の最初の詳細な調査です。

 研究者が利用できなかった最近リリースされたロシアのアーカイブ資料を使用して、デービッド・M・グランツは、ドン・オペレーションの企画と実施についてクローズアップ・アカウントを提供しています - 赤軍の南部前方のキャプチャを目指したソ連の攻撃彼の本はあらゆるレベルの攻撃に参加した軍隊のために準備された計画、確かな日報、状況マップ、強さと犠牲者の報告書を含んでいます。前例のない包括的な文書の範囲を描きながら、この本は、ユニットの強さや損失、指揮官の弱点や態度など、今まで禁止されていた多くのトピックを掘り下げています。 Glantzの作品はまた、軍事戦略、戦術戦術、将軍Eremenko、Malinovsky、フィールドマーシャル、Erich von Mansteinなどの芸術の芸術についての稀な洞察を提供します。

 重大だが事実上忘れられたソヴィエトの軍事作戦に関する独特の情報に基づいた研究であるドンの主攻撃作戦は、20世紀の最も恐ろしい戦争の本質に関する新鮮な見通しを提供する。




 カスタマーレビューでもさすが定評のあるグランツ氏という感じです。個人的な希望としては、存命のうちにオストロゴジスク=ロッソシ作戦の詳細な本を出して下さいと……バキッ!!☆/(x_x)




 第3次ハリコフ戦だけを扱った↓の本は、2018年4月発行らしいです。




 が、Google翻訳さんで訳してもらった英文の説明は何を言っているのか良く分からないので、カスタマーレビューも見てみたのですが、「ロシア語の翻訳文が何を言っているか分からない」とか「地図に誤りがある」とか「機動防御の概念を扱っていない」とか、なんかちょっとがっかりっぽい? しかしそれでもその2人のカスタマーが共に星4を付けていますし、第3次ハリコフ戦が大好きな人にとっては価値のある本となるのかもです。



 しかしあれですね、なぜ私がこのウラヌス~第3次ハリコフ辺りに惹かれるのかというと、恐らく『激闘! マンシュタイン軍集団』によるものですよね(『激マン』はウラヌスや冬の嵐は扱ってませんが)。

 先日来ここらへんの戦場への興味が再燃したので、OSPREYの「RAID」シリーズ:リトルサターン作戦ものを買いました (2018/09/12)で書いてました『Red Christmas - The Tatsinskaya Airfield Raid 1942』を読み始めてみたら、かなり面白く(そして結構読みやすい)、ちょっとハマっています。チュニジア本はちょっとお休みして、この本をできれば最後まで読んで、それで『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』へ行けたらと思うのですが……(大体洋書は、1/3くらいまで熱中して読むのですがそこらへんで力尽きて止まってしまうのが常なのです……(T_T))。

『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』を買いました

 Amazonを「Osprey Campaign」で検索してみてぼーっと見ていたら、『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』という本を見つけまして……。




 これが、2018年10月23日発売?(3日前?)らしきこともびっくりしたのですが、「なか見!検索」で見ていたら、ウラヌス作戦から第3次ハリコフのちょい後辺りまでを扱っており、驚くべきことにオストロゴジスク=ロッソシ作戦に一章があてられており、しかもリトルサターンの後だとか、第3次ハリコフの前だとか、そこらへんに結構な紙幅があてられているらしい(逆に言うと、ウラヌスと冬の嵐は一章ずつしかない)……ということで「これは私としては買うしかないのではないか」と……。

 しかも英文が割と分かりやすい……(ような気がする)。積ん読の洋書が大量にあるとはいえ、これは買わねばならない本だ! と、脳内抑制装置に目隠しをしてポチってしまいました(^_^;

 いやいや、巻末の戦場写真もなかなかっぽいし、本の最初に指揮官名が羅列されているのもすごいし、積ん読されているグランツの本とか、冬の嵐本とかが割と詳細を究める(であろう)のに対して、それらを読む前に概説本&英語練習用に読めば良いではないか……と色々脳内言い訳を。

 ただ気になったのが、この本がどういう辺りを埋める、あるいは提起する意味で書かれた本なのだろうか……? ということだったのですが、とりあえず良く分からないながら、この著者は第一次世界大戦の東部戦線を各年単位?で本を書いていたり、第二次世界大戦の東部戦線の1944-45年のドイツ国内での戦いの本だとか、バルト三国を巡る戦い(1941年のと1944年のと、それからその中間期も)に関する本を書いていたりだとか、まあもうとにかく東部戦線命である程度テーマを絞って書く人なのかしらん? と。




 OCS『Baltic Gap』が猛烈に好きな方は(あるいはGMT『BARBAROSSA:Army Group North』が猛烈に好きな方とかも)、『Between Giants: The Battle for the Baltics in World War II』を購入するのはアリかも……。

 私はリトルサターンからオストロゴジスク=ロッソシ作戦あたりが一番好き(ついでにウラヌスから第3次ハリコフ辺りまでも好き)なので、そこらへん積ん読解消して読んでいきたいですね……(今、とりあえずの最後の北アフリカ本としてチュニジア本(『Campaign for North Africa』)を読んでいるのですが、割と英文が難しいので、今回の『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』が割と楽に読めそうならそちらを消化していくとか……)。


『兵士というもの』:ドイツ兵のイギリス、アメリカ、ロシア、イタリア兵観

 『兵士というもの』には、「ドイツ兵には、イギリス兵、アメリカ兵、ロシア兵、イタリア兵がどう見えていたか、どう感じられていたか」についての話があり、興味深いと思ったので紹介したいと思います。


 『兵士というもの』についてはこちら↓
ハインツ・シュミット『ロンメル将軍』と『兵士というもの』を買いました (2018/09/21)
『兵士というもの』を読了しました (2018/10/20)



 まずイギリス兵から。

 【ドイツ兵達が】もっとも敬意を払っていたのがイギリス兵であった。彼らは「頑強」で「非常にたくましく」、とりわけフェアな兵士とされていたからである。彼らはダンケルクやギリシャで非常に素晴らしい戦いを見せ、「優れたパイロット」であり、傑出した戦士である、と。この「どえらい奴ら」は「俺たちと同じよう」だという評価は、再三再四登場する。……しかし高級将校たちはドイツ兵の方がイギリス兵よりも優秀だと信じていた。
『兵士というもの』P305


 私が今まで読んだ本からの印象よりも、イギリス兵への評価が高くて意外でした。イギリス兵については例えば、固定防御においては頑強であるが、機動戦はうまくない……という評価が多かったような気がします。しかしこれは、将軍への評価であって、兵士への評価ではない?



 次にアメリカ兵です。

 アメリカ兵は明らかにイギリス兵よりも悪い評価を受けていた。なぜなら彼らの成功の原因は物量の優位にのみあると考えられており、これを国防軍兵士たちはフェアではないと見なしていたからだ。兵士としてのアメリカ兵は「臆病でこせこせしており」、「きわめて過酷な戦争」というものがどのようなものだが【ママ】「わかっていない」し、「物質的な不自由に耐えることができ」ないし、「接近戦では我々に劣っている」と。たとえばフォン・アルニム上級大将は、チュニジアでの自分の経験についてこう述べている。「このげす野郎どもは、みな逃げ回るんだ。このアメリカ兵たちは、一度でも強い攻撃を受けると」。
『兵士というもの』P305


 これを読んだ時は、酷評されすぎのような気がしました(^_^; 日本軍がアメリカ兵を「大和魂のある日本兵と、贅沢に慣れきったアメリカ兵とでは……」とかなんとか考えていたのと似ているような気もします。

 ただ今まで読んできた本からすると、実際問題としてアメリカ合衆国の若者には、自国が(ドイツに)攻められたわけでもない状態で、海を越えた遠い異国で命をかけて戦わねばならない理由付けの部分で難しいものがあったようです。私自身が当時のアメリカの徴兵年齢だったら、「なんでヨーロッパで命を賭けなければならないのか」と思うと思います。

 また、そこらへんの士気の問題からアメリカ軍は兵士の食糧の量と質の点には過大な配慮を払っていたそうで(『戦争と飢餓』によると)、「物質的な不自由に耐えられない」のはその通りだったかもです。3Wの『沖縄』では、アメリカ軍師団は休息を取らないと額面値を発揮できないのですが、日本軍は休息を取らないでもずっと額面値です。しかしこれは、アメリカ兵が「惰弱」なのではなく、日本軍が「ブラック」であると考えるべきかとも思いますが(今もなお、日本社会はブラックな面が大いに幅をきかせているとも……)。

 あと、チュニジアでのアメリカ兵は実質上初陣であったので、ルーズヴェルト大統領も「我々のボーイ達は本当に戦えるのか?」と思ったそうですが、その後シチリア、イタリア、ノルマンディーなどを戦っていった歴戦の部隊(第1歩兵師団や第2機甲師団など)はものすごく強くなっていったらしいです。

<2020/12/12追記>

 『ナチス・ドイツ軍の内幕』(リデル=ハートの『the German Generals Talk』の和訳)に、ドイツ軍の将軍が見る英米軍について書いてあったので、ここに追記してみます。

 イギリスとアメリカの兵隊の違いについてブルメントリットは、「アメリカ軍はいかにも楽しげに攻撃してくる。そして機動的な動作を好む。けれども猛烈な砲火をあびると常に後退する――たとえ侵透【ママ】に成功していても。それに比べると、ある時英軍が苦境に陥り、二十四時間動けなくなったことがある。けれどもそれを撃退することはほとんど不可能であった。英軍を反撃するには、常に重大な損害を受けた。1944年の秋、私はこの面白い違いをたびたび経験した。その時私の軍団の右半分は英軍に対し、左半分は米軍に対していたから。」
『ナチス・ドイツ軍の内幕』P245



 また、『憎悪の世紀』に書いてあったアメリカ軍(兵)に関する見方については第二次世界大戦のアメリカ兵は、物量頼みであり「強兵」とは言えなかった?(付:OCS『Beyond the Rhine』) (2020/04/22)で書きましたので、そちらもご覧下さい。

 それから、↓次項のソ連軍兵士の強さについては、ソ連軍兵士の強さについて(主にリデル=ハートの『The German Generals Talk』和訳本から) (2020/12/12)で再度まとめました。

<追記ここまで>



 次にロシア兵について。

 ……国防軍兵士たちは、ロシアの敵には非常に強い敬意を抱いていた。彼らの犠牲をいとわない姿勢や情け容赦のなさを尊敬し、また恐れていた。「人々には、精神的にも肉体的にも途方もないたくましさがあ」り、「最後の一人まで戦うものなのだ、ロシア兵たちというものは」。「あの狂信的な戦いぶりは、誰一人信じられないようなものだ」。「ロシア兵たちの戦いぶりは薄気味悪い」ほどだという。彼らが死を恐れないさまを、ドイツ兵は呆然と見つめており、魂のない、感覚もない、まさに「ケダモノのような」戦士のように彼らが見えたことも稀ではなかった。
『兵士というもの』P305,6


 ロシア兵の頑強さについてですが、しかしこれはロシア兵自身の性質というよりも、当時のスターリン体制における兵士への扱いの方が大きな要因ではないかとも疑われるような……。

 もちろん、祖国が直接的にドイツ軍によって侵略されているということがあり(『なぜ国々は戦争をするのか』という本によると、20世紀だったかの戦争においては侵略側が必ず最終的に敗北しているそうで、外交面や士気の面で被侵略側が最終的には強いということなのではないかとも)、そのことについてのプロパガンダ戦略においてスターリンがうまくやったという面もあるとは思います。しかし、撤退しようとする兵士達を後方から機関銃で撃ち殺したり、怯懦な振る舞いをした将軍や兵士達を処刑しまくったりとかしている(ドイツ軍や日本軍でもそこまではやってなかったと思うのですが)ので、そもそもロシア兵達は板挟みの中で死ぬまで戦うしかなかったのではないかとも……。






 さて、イタリア兵についてなのですが、もうひたすら罵倒されまくっています(わずかな例外を除き)。

 イタリア兵は、ごくわずかな例外を除けば極端に否定的なとらえ方をされており……。彼らは戦うことを完全に拒否しているように思われ、そうしたイタリア兵の振る舞いはドイツ人たちにはまったく理解が不可能であった。したがって彼らのコメントも、怒りに満ちたものとなる。いわく、これは「まったく情けないこと」であって、「クソッタレのイタリア兵は[…]何ひとつでき」ず、「戦争を遂行する意欲がな」く、「自信がな」く、「おびえきって」いて、まさに「クソのかたまり」だ、と。このどうしようもない、ならず者」は「ちょっとでも問題があるとすべて諦める」か、「泣きながら」引き下がる。これらの「いくじなしども」は「ものすごく軟弱」である。彼らは軍事的には、事実上まったく信頼できない。……イタリア兵は明らかに「兵士としてはヨーロッパで最低[である]」という点で、彼らの意見は一致した。
 よい評価を受けたイタリア軍部隊は、ごくわずかであった。たとえば落下傘師団「フォルゴレ」は、貧弱な武器にもかかわらず、戦いとは何かを理解していたという点で少なくとも「男」らしかった。別の例外的な発言によれば、とくに「彼らはドイツ軍の指揮の下では文句なしだ。エンフィーダヴィル【訳注:チュニスの南東90キロに位置する街。現アンフィダ】で彼らは撤退命令を受け取った。「青年ファシスト〔師団〕は自分の持ち場で死ぬものだ」。そこで30人のイタリア兵が3日持ちこたえた」、フランケ軍曹は1943年4月のチュニジアでの戦いについてこう述べる。イタリア兵は装備や補給が乏しいだけだという発言も、ときおり見られる。もっともトレント・パーク【捕虜収容所】でこの意見を述べたのは、84人の将官のうちわずか1人であった。
『兵士というもの』P303,4


 フォルゴレ師団や青年ファシスト師団については、↓を見てもらうと良いかもです。




 青年ファシストについては、OCSユニットで見る「青年ファシスト」師団 (2017/03/26)もどうぞ。


 実はこの本にはほんの少しだけ、イタリア兵と日本兵の捕虜の盗聴記録による分析が載っている(P323~9)のですが、それによると多くのイタリア兵はそもそも、戦うことに意味を感じて(感じられて)いなかった、ということが明らかになります。ですから、先ほどの引用に「彼ら【イタリア兵】は戦うことを完全に拒否しているように【ドイツ兵には】思われ、そうしたイタリア兵の振る舞いはドイツ人たちにはまったく理解が不可能であった。」という文章の前段部分のドイツ兵の分析は正しく、そしてなぜ後段部分のようになるかというと、それはドイツ兵とイタリア兵の価値観がまったく違っていたからだということになるかと思います。

 国防軍兵士たちの参照枠組み【価値観・脳内辞書】は非常に似通ったものだった。これを国際的に比較してみることで、より大きな差異にようやく気づくことができる。イタリア兵たちの中心的な参照点【イタリア兵が価値を置く、価値があると考えるもの】は国家でも国民でもなく、軍隊でもなかった。その理由は……ファシズムによって腐敗や縁故主義が極限まで蔓延していたからである。……上層指導部、そして国家はあまりに腐敗し無能だと思われているために、連合国以上に敵だと見なされているのである。つまり兵士たちの視点からすれば、決して自分の利益を体現することのないこの体制のために犠牲になることは、まったくもって「馬鹿」なことであったのだろう。
『兵士というもの』P323~326


 捕虜収容所でドイツ兵捕虜達が「いかに自分は軍事的な手柄を挙げたか」等を熱心に語っているのに対し、イタリア兵捕虜達の会話のテーマはむしろ「軍事行動についてまわった身の毛のよだつような惨状」についてであり、捕虜となったイタリア軍のジョヴァンニ・メッセ元帥(恐らくイタリア軍中最も有能な将軍)は「イタリア人はゆったり、おっとりした民族であり、憎むということができない民族なのだ。それに対してドイツ人は人を憎むことを知っている、戦闘的な民族で、イタリア人とは価値観がまったく異なっているのだ」というようなことを言っていたそうです。

 ここらへん、以前一度まとめたSLGamer RE:再評価されるべきイタリア (2013/09/07)に書いていたことと重なる部分もあり、再度勉強になった感じです。


 ところでこの本の日本兵に関する部分の最後で、「模範的な(とされる)日本兵」に関して述べられたこの文章は、すごく痛いところを突いているなぁと思いました(T_T)

  日本兵の視点からは模範的な兵士が、ほとんどのイタリア兵にとっては愚か者であり、【ドイツ】国防軍兵士にとっては部分的には驚嘆に値し、部分的には軽蔑に値する狂信者であった。
『兵士というもの』P329




OCS『Guderian's Blitzkrieg II』レッドタイフーンの反省&教訓

 尼崎会でプレイしていたOCS『Guderian's Blitzkrieg II』のレッドタイフーンですが、「どんな感じか見てみよう」という目標は達成したので、終了することにしました。

 今回も様々な反省点、教訓が得られたので、後学のために書いておきます。


・守備的局面において、装甲師団や自動車化歩兵師団の一部を戦線に置き、一部を予備にするようなことをすると、その予備をちょっと遠くに回したいと思っても「複数ユニットフォーメーションはすべて同じ司令部や降車可能ヘクスから一般補給を引かねばならない」という規定に引っかかってしまうことになる。なので、もしそれらの師団を戦線に置くのであれば、その師団のすべての部隊を戦線に置き、そして予備にする師団はその師団すべてが予備になってなければならないだろう。

・前線にあまりに近い航空基地に航空ユニットを置くと、砲撃で対施設砲爆撃されるし、包囲された時にSPがなければ活動状態にすることもできずその場で朽ち果てることになってしまう。ので、そういう危険性のない、ある程度前線から距離の離れた航空基地にしか航空ユニットは置くべきではない

・守備において、前線を分厚く守り、前線背後やその後方を薄くする(例えばその配分が8:1:1とか7:2:1とか)のはよろしくない。前線を分厚くしても突破される時には突破されるし、前線が分厚ければ小包囲されてしまう部隊数も増えることになる。戦線は張っておいた方がいい(ノーコストで包囲されるより、いくらかでもSPコストを払わせるため)が、前線:前線背後:その後方の割合は3:3:4あたりが良いのかもしれない(というか、Operation誌でそのように説かれている→OCS『Enemy at the Gates』リトルサターン研究 (2016/07/10) )。前線を破られても前線背後とその後方の部隊によって、敵の突破部隊に打撃を与える(機動防御)ようにする方が良い。

・攻勢側が突破作戦を実施する時に、同時に包囲環の中の敵部隊をできるだけDGにしておくと、それらの敵部隊の移動力が半分になり、解囲のためのオーバーランもできなくなるため、かなり有効であるように思われる。

・砲兵砲爆撃をおこなう時に、修正後のコラムが41-68(より上)になるようにして撃つと、2D6で7以上(かつ1/2)で敵ユニットに損害が出る。2D6で7の目を含むか含まないかは確率に大きな違いがあるため、このことは意識した方が良いのだろう。



 次の尼崎会でプレイするゲームですが、ワニミさんが最近『The Blitzkrieg Legend』にご執心でもあり、私もやってみたい気があるので『The Blitzkrieg Legend』をやることになりました。シナリオはオランダを除いたキャンペーン(7.1)で。

 セットアップまでしておきました。

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 まあでも、あくまで練習プレイ的に。松浦方式(プレイヤー全員が同時に片方の陣営でプレイする)でプレイ予定です。

 興味のある方、大歓迎です(*^_^*) お声がけ下さい。

『兵士というもの』を読了しました

 ハインツ・シュミット『ロンメル将軍』と『兵士というもの』を買いました (2018/09/21) で書いてました、『兵士というもの』を読了しました(『ロンメル将軍』も読了してます。この本が元ネタであったらしき、今まで見たロンメルものの作品の記述が思い出されたりして「なるほどなぁ」と思ったりしました。情報も集積していっています)。

 一番印象的であったのは、捕虜収容所で戦友に語られる(そしてそれが盗聴されている)「ドイツ軍兵士たちによる様々な闇的な行為の具体的な描写」でした。

 ロシア兵捕虜に対する扱いのひどさとか。捕虜のうち半分以上が極めてひどい状態の中で死ぬに任されたり、処刑されたりしたそうです(しかしこれは、ドイツ軍兵士もソ連軍の捕虜となると極めてひどい扱いや即処刑されたとか、ロシア軍兵士が死んだふりして背後から撃つとか、そういうことに対する復讐の精神もあったようです)。

 ユダヤ人は根絶しなければならないという見方が広がっていた中での大量殺害の具体的方法であるとか。収容されていたユダヤ人の中から若い女性をドイツ軍下士官とかが……してて、で事後に「私を殺さないで」とか言われるんだけども、その事に関して捕虜収容所で戦友に言う言葉が「でも、ユダヤ人を殺さないなんてあり得ないからな」とか。あるいは、大量のユダヤ人が処刑されていく様子を見にくる兵士がたくさんいたとか。一方で、そういう情景であるとか、そういう命令に耐えられない兵士もいる。(この本には、ユダヤ人側からの体験談は当然わずかしか載せられていないのですが、そういうのはホロコーストに関するユダヤ人側からの本を読むべきなのでしょうね)


 読んでいて暗い気持ちになりましたが、しかし戦争とはそういうものなのでしょう……。そういえば、山本七平氏の『一下級将校の見た帝国陸軍』を読んだ時にも、「本当に戦争はいやだな……」という気持ちになりました(というか、日本の軍隊のあり方がいやだというべきなのかもですが)。

 しかし、そういう暗黒面や、あるいはドイツ軍兵士達がどのような意識で日々戦っていた、あるいは生きていたかに興味のある方には、ぜひ読んでいただきたい本であるかと思います。





OCS『Sicily II』ユニットとマップで見る連合軍側の戦争犯罪事件

 『兵士というもの』の原註に目を通してましたら、連合軍側で戦争犯罪をおこなった部隊名について書かれていました。

 1943年7月14日、アメリカ第45歩兵師団が、シチリアの村落ビスカリの近くで、約70人のイタリア兵、ドイツ兵捕虜を射殺した。その根本的な原因には、捕虜の殺害を暗示的に呼びかけたパットン将軍の命令があったとされる。……似たような事例が、ノルマンディーの戦いでの最初に数日間に起こったことが知られている。
『兵士というもの』原註P52




 ↓『Sicily II』の第45歩兵師団ユニット

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 この件について、英語版Wikipedia「Biscari massacre【ビスケーの虐殺】」を見ていると、第45歩兵師団はシチリア侵攻に参加した唯一の「戦闘経験のない部隊」であったそうです(それにもかかわらず、難しい任務を与えられていたのだとか)。



 また、そこらへんの関係のことをネットで調べてみていたら、日本語版Wikipedia「連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)」というのがあり、その中で同じシチリアにおけるカナダ軍の戦争犯罪について触れられていました。

カナダ軍
・1943年7月、レオンフォルテ。ミッチャムとシュタウフェンベルクによると、シチリアの戦いの際、王立エドモントン連隊(en)捕虜としたドイツ将兵を殺害した[1]。



 この英語版Wikipedia「The Loyal Edmonton Regiment (4th Battalion, Princess Patricia's Canadian Light Infantry)」によると、王立エドモントン連隊というのはカナダ第1歩兵師団の第2歩兵旅団のうちの一部隊であったようです。


 ↓『Sicily II』のカナダ第1歩兵師団のユニット

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 それぞれの事件の舞台であるビスカリ、レオンフォルテをマップ上で探してみたら、ありました。

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 ただ、前回エントリのドイツ軍第707歩兵師団のような、師団単位での事件ではなく、あくまでその師団の中の数人(あるいは一人)の兵士がそれをおこなったという感じっぽいんですけども。それにまた、こういうことはどの時代でも、どの国の軍でも起こっていたことであるとも書かれています。



 あとそういえばこの本の中で、シチリア島でのイタリア軍の士気が非常に低かったことについていくらか書かれていまして(P324,5)、たとえばイタリア軍将校達がシチリア島西端の都市マルサーラに略奪に出かけ(自国の都市なのに! ただ、その前にイタリア軍がマルサーラを砲撃したということが書かれているので、連合軍に奪取された後だったのかもしれません)、帰ってきてから兵士達に肉がふるまわれ、自分達は部屋でステーキを焼いていたとか、アウグスタ(前掲マップ画像の右側にある港湾都市)の要塞司令官であったレオナルディ海軍大将が守備をせずに「民間人の服を着て消えることを私は考えていた。」と語っていたこととか。

 ただ、また書くと思いますが、イタリア軍兵士達の士気の低さについては、この本でも「イタリア国家の上層部のあまりの腐敗と無能に対する反感」があり、また、イタリア人というものが「そもそも戦闘民族ではなく、おおらかな人間性豊かな存在なのだ」ということが書かれていたりしました。



コマンド#143号にOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の記事が載りました

 コマンドマガジン編集部の方に以前、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の記事を書いて送ってまして、それが掲載されたコマンド#143号が送られてきました。


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 付録ゲームは私が最も興味のあるスターリングラード戦後期を扱ったもので、それに沿った記事もたくさんあるのでじっくり読もうと思ってます。

 今回のOCS記事でまた、少しでもOCSプレイヤーが増えてくれれば……と思います。


OCS『Guderian's Blitzkrieg II』第707歩兵師団によるユダヤ人大量殺害

 ハインツ・シュミット『ロンメル将軍』と『兵士というもの』を買いました (2018/09/21)で書いてました『兵士というもの』を読んでいましたら、ドイツ軍の第707歩兵師団による民間人殺害という話が出てきました。

 【SSでなく国防軍の中に】確信的な反ユダヤ主義者を見つけることも容易である。たとえば、1941年にソ連でおよそ19,000名の民間人を殺害した、悪名高い第707歩兵師団長グスタフ・フライヘル・フォン・フォン・マウヘンハイムのように。国防軍部隊、とくにエリート部隊が犯した数多くの犯罪についても、これを立証することができる。たとえば、数多くの捕虜を射殺し民間人を殺害した第1山岳師団、もしくは第4装甲師団を思い浮かべるだけでいい。
『兵士というもの』P355



 この第707歩兵師団をOCSゲームで探してみたところ、『Guderian's Blitzkrieg II』と『Case Blue』にありました(↓上が『Guderian's Blitzkrieg II』のもの、下が『Case Blue』のもの)。

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 普通のドイツ軍歩兵師団は20-4-3で4ステップである一方、第707歩兵師団は人員数が少ないのか15-4-3です。ただ、『Guderian's Blitzkrieg II』では4ステップとなっていますが、そうするとAR4の分遣連隊である4-4-3を出す際に、分遣連隊3つで4+4+4=12戦力プラス、1ステップ残った第707歩兵師団が15÷4=3.75が四捨五入されて4で、計16戦力あるというおかしなことに……。『Case Blue』では3ステップで、こちらの方がより良いのだろうと思います。

 またその他の歩兵師団で最も師団名の数字が多いのは『Guderian's Blitzkrieg II』で383、『Case Blue』で389で、707というのはえらく数字が飛んだ、結構特別な師団なのかという印象を受けます。


 以下、英語版Wikipedia「707th Infantry Division (Wehrmacht)」から。

 第707保安師団としても知られる第707歩兵師団は、第二次世界大戦におけるドイツ軍の師団である。1941年5月に編成され、1944年6月にソ連軍によって壊滅させられた。この部隊は主としてソ連におけるドイツ軍占領下の地域で後方保安師団として使用され、数千人の民間ユダヤ人の殺害を含む、大規模な戦争犯罪にかかわった。

経緯
 第707歩兵師団は1941年5月2日にミュンヘンで編成され、続けて同地で訓練に取りかかった。歴史家のベン・H・シェファードによれば、この部隊は戦時中にドイツ軍によって編成された「第15次の極端に低水準の師団」であり、その人員は「老齢で、訓練不足かつ装備不足であった」。第707歩兵師団はまた、標準的なドイツ軍歩兵師団よりもかなり小規模であり、5,000名の兵士しか擁していなかった。この師団の当初の将校達は、1943年2月まで師団長を務めたグスタフ・フォン・ベクトルスハイム【マウヘンハイムのこと】少将を除けば全員が予備役将校であった。師団の兵士達のほとんどは30歳以上であり、将校達は概してさらに年上であった。フォン・ベクトルスハイム少将や師団将校達はナチスに深く傾倒していた。
 1941年8月に第707歩兵師団は、東部戦線に送られ、中央軍集団の前線後方のソ連占領地区の保安任務に就いた。1941年10月、師団の兵士達はミンスクでレジスタンスの公開処刑をおこない、その中には17歳のMasha Bruskinaも含まれていた【ミンスクの女性ユダヤ人レジスタンスの一員で、赤軍の負傷者をケアするために設立されたミンスク工科大学の病院で看護婦としてボランティアをし、兵士の世話に加えて、民間人の衣服と偽の身分証明書を密輸して病院に逃げ出すのを助けていたが、患者の密告により第707歩兵師団に逮捕された】第707歩兵師団と派遣されていた秩序警察部隊は1941年10月から11月にかけてベラルーシで10,000名以上を殺害し、そのほとんどがユダヤ人であった。この師団の将校や下士官兵のほとんどは積極的にこの殺害に加わっていたが、殺害を拒否した少数の者達も軽い刑罰しか受けなかった。この行動はベクトルスハイムによって始められたものであり、彼は明確にユダヤ人の「絶滅」と「駆除」を要求する命令を出していた。他のドイツ軍部隊も同様の処刑を実行している。
 第707歩兵師団は1941年の残りの期間と、1942年、1943年とソ連のドイツ軍占領地域における保安任務を継続した。1942年の春から初夏にかけて、この師団は「バンベルク作戦」と呼ばれる対パルチザン作戦を実行し、4,000名以上のソ連市民(そのほとんどは農民であった)を殺害した。シェファードは「その作戦で他のドイツ軍の保安師団も多数の民間人を処刑したが、第707歩兵師団の殺害数が最も多かった」と書いている。歴史家のジェフ・ラザフォードも同様の比較検討をおこない、第707歩兵師団を「悪名高い」としている。
 1944年1月からは第707歩兵師団は前線で守備任務に使用された。6月23日のソ連軍のバグラチオン攻勢の開始時には、中央軍集団の予備の一部とされていた。6月末にはこの師団はバブルイスクの近くでソ連軍に包囲されて壊滅した。1944年8月3日に正式に解体された。




 東部戦線におけるドイツ軍の民間人殺害については私は、イタリア軍のアルピニ軍団について書かれた『Sacrifice on the Steppe』の記述で初めて大きな印象を受けました(→東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17) )。それ以前にも「そういうことがあった」ということ自体は読んでいたかもしれないのですが、具体的な記述で衝撃を受けたのだと思います

 その後、『ブラッドランド』や『兵士というもの』を読んでいて、以前には全然意識していなかったこれらドイツ軍の民間人殺害について、だいぶ頭に入ってきた感じはしています。(→最近買った本『ブラッドランド』『枢軸の絆』『世界史を動かした脳の病気』など (2018/05/30) OCSユニットで見るユダヤ人を大量虐殺したフェーゲラインのSS騎兵部隊 (2018/09/11)


 『兵士というもの』には、第1山岳歩兵師団と第4装甲師団の民間人殺害について触れられていますが、その英語版Wikipediaを見てみたら、確かにその件について触れられていました。一応今回は第707歩兵師団についてのみにしておきますが……。ユニット的には、第1山岳歩兵師団は『Case Blue』に、第4装甲師団は『Guderian's Blitzkrieg II』に入っていました。

英語版Wikipedia「1st Mountain Division (Wehrmacht)」
英語版Wikipedia「4th Panzer Division (Wehrmacht)」

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OCS『Tunisia II』の南方にはイタリア軍のスペルガ師団を?

 チュニジア戦を扱った『Campaign for North Africa』を続けて読んでいまして、チュニジア戦の初期の南方にスペルガ師団などのイタリア軍部隊が送り込まれたことが書かれていました。


 前回、OCS『Tunisia II』第0ターンの連合軍の動き (2018/10/16) で「南方ががら空き」という話を書いてましたが、ゲームをプレイしていてもこれをどうするかは難しいところで、ドイツ軍側としては以前ワニミさんが「イタリア軍のスペルガ師団かベルサリエリ部隊か何かを送り込まなければならないのではないか」と仰ってました。


 ↓イタリア軍は緑色のユニットで、ドイツ軍は薄い茶色、ドイツ空軍地上部隊が水色です。セットアップでスペルガ師団は、チュニスに2ユニット、シチリア島ボックスに3ユニットがあります(赤い帯の付いているユニットです)。

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 同時に【11月17日頃?】、Lorenzelli将軍麾下のスペルガ師団を主とするイタリア軍部隊が、できるだけ早く送り込まれて使用可能になり、その後Lorenzelli将軍は南方戦線の大部分を引き継いだ。スース、スファックス、それにガベスが占領され、それによってその後のロンメルへの補給路が確保されたのであった。
『Campaign for North Africa』P101

 この頃【11月20日以降?】枢軸軍の兵力はドイツ軍が約15,575名、イタリア軍が約9,000名となっていた。前述したようにイタリア軍の主力は南方へと送られていたため、【北方での】戦いのほとんどはドイツ軍の肩にかかることとなった。
『Campaign for North Africa』P104



 ↓スース、スファックス、ガベスの位置。

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 ただ、スペルガ師団の使い方には難しい面があります。5ユニットのうち3ユニットは戦闘モードでも移動に燃料が必要なことと、それからOCS標準ルールの↓の規定です。

12.6f 複数ユニットフォーメーション内の戦闘ユニットは、同じ司令部を経由してまたは同じ直接受給源から“補給線を設定” できなければいけません。それができないならば、フォーメーションの一部ユニットが“ノーコスト” で補給線を設定できる一方で、補給線を設定できない一部のユニットには一般補給のために補給ポイントを消費するか、あるいは補給切れにさせる(12.6d によって)かを選択しなければなりません。


 この規定があるため、あまり離して置くことができないんですね。

 『Guderian's Blitzkrieg II』のレッドタイフーンをプレイしている時でも困ったのは、装甲師団の一部で戦線を組んで、一部を予備にしていると、その予備をちょっと離れた戦線に送り込もうとするとこの規定によって補給が余計にかかってしまうことで、「なるほど、装甲師団等は、完全に戦線の一部にするか、完全に予備にするか、どちらかにしなければならないのだな」と教訓を得ることができました(^_^;

 ↑この件ですが、『DAK-II』の英連邦軍には適用されません。なぜなら……。

5.5a 師団編成の保持  シリーズルール12.6h(複数ユニットフォーメーションの補給源の統一【v4.x では12.6f】)は、いかなる連合軍ユニットにも適用されません。
デザインノート:西方砂漠軍および後の第8軍においては師団は管理上の単位でしかなく、機動における戦術単位は旅団でした。師団は建前上は旅団との命令系統を繋ぐ鎖(管理上のやりとりや、部隊の維持など)ではありましたが、実際には軍や軍団の指揮官達は師団レベルを通さずに、旅団の行動を直接統率していたのです。その結果各旅団は行き当たりばったりに広大な戦域に送り込まれ、中東戦域全体に散り散りになっていました(たとえばある時点で、第7オーストラリア師団はキプロス、シリア、およびキレナイカに同時に部隊を展開していました!)。もちろん、私はプレイヤー諸氏に胃の痛みに耐えられる限りの混沌をすべて享受していただきたいと思い、このルールを作ったのです。




 スペルガ師団が史実で南方にどう配置されていたのかは良くわからなかったのですが、ゲーム上ではできれば司令部の近くで(支給範囲が長くなるから)最も重要でいくらか機動防御しなければいけないような場所に置くのが良いのかもしれません。


『第二次世界大戦全史 大いなる聖戦(上・下)』を買いました

 『第二次世界大戦全史 大いなる聖戦(上・下)』なる本が出ているというのは、新聞かどこかで広告は見ていたような気がするのですが、「第二次世界大戦の全史なんて……内容的に薄くなるし、別にいらないよね」と思ってました。





 ところが先日、ジュンク堂に行ってみるとこの本があったので試しに立ち読みしてみたところ……。

 たまたま「イタリア軍はなぜ弱かったのか」というような記述のところが目に入ったので見ていてみると、結構長く記述があるし、「その欠陥の最大のものはムッソリーニ政権の性質で、それが上辺だけを飾り無能であった点である。この点ドイツも大差はなかったが、イタリア産業・軍事面での脆弱性のためにこの弱点が直ちに失策となって現れた」……というようなことが書いてあって、「おお~。これは今まであまり見たことがない視点からの記述だなぁ」と思ったりしました。

 下巻の方を見ているとクルスク戦後のところが目に入ったのですが、クルスク戦後の状況はどういうものだったかについて、本質的なところを、さながらウォーゲーマー的な視点でもって書かれているのがビビッと来ました。

 「これは買う価値がある本なのかもしれない……」と思い、解説なども目を通してみたところ、初版が1996年、改訂版が2008年(これを和訳されている)ということで「超最新の研究結果」というわけではなさそうでしたが、著者は英米軍に偏った戦史のあり方や、ドイツ軍は強かった的な戦史のあり方に批判的で、偏らずにバランスを取った記述を心がけた(それで英米では割と評判が高くはならなかったのだとか)、とか、「大いなる聖戦」というタイトルに関する誤解が生じそうなところの言い訳とか、まあそういうのは個人的には割とどうでも良かったです(おい)

 私にとって重要なのは、この本が、私が個人的に大好きな「なぜそうだったのか?」「状況としてどういう状況だったのか?」というような分析的記述に長けた本であるようで、個人的に割と苦手な「事実を淡々と書き連ねていく」本とはまったく逆方向の本であるようだ、ということでした。

 上下巻で1万円というのは、まあさすがに勇気が必要でしたが、「我が人生にとって必要な買い物」っぽいと判断して、買うことにしました。ってか、先日も5~6千円の本を2冊立て続けに買っているわけですが、しかしそういう「立て続け」の時期がそんなに頻繁にあるわけではないでしょうから……。(→ハインツ・シュミット『ロンメル将軍』と『兵士というもの』を買いました (2018/09/21) 『戦場の素顔』他を買いました (2018/09/25)


 皆さんも、一度立ち読みされることをオススメします。合いそうだったら、買ってみられてもいいのかもです。もちろん、個々人によって好みは違うので……。


OCS『Tunisia II』第0ターンの連合軍の動き

 以前、エスイグ氏推薦のチュニジア戦の本を入手しました (2018/04/17) で書いていました『Campaign for North Africa』を読み進めていまして、ようやくチュニジア戦のところまで来ました(英文は割と簡単ではありませんでした(^_^;)。トーチ作戦のところは飛ばしましたが……。

 すると、OCS『Tunisia II』の第0ターン(11月12日ターン)にあたる時期の連合軍の動きについて書いてあって、興味を持ったので、ここに書いておきたいと思います。


 ↓『Tunisia II』セットアップ状況(1942年11月15日ターン)

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 枢軸軍の最前線を黒線で記しました。その黒線のすぐ西側にいる青いユニットはフランス軍ユニットなんですが、彼らについての情報も探してみたのですが、ほとんど見つけられず……。基本的に元からチュニジアにいたヴィシーフランス軍部隊で、この戦役の直前に枢軸軍側から連合軍側に鞍替えしたもののようです。

 部隊についてある程度の詳細を見つけたのは、↓の真ん中あたりの「Zouv(Zouaves)」というのはズアーブ兵というやつらしい、ということぐらいでした。

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 ここの画像にあるイギリス軍第78歩兵師団に関して、時期的には次項の後になるのですが、まず書いておきます。

 イギリス第1軍(これは名ばかりのもので、不完全な1個師団(第78)と機甲師団の一部、幾ばくかの空挺部隊とコマンド部隊、それに1個対空旅団しか含まれていなかった)は11月14日に前進を開始した(この日は、最初の後続部隊がアルジェに下船を完了した日であった)。無理をして急行させればまだ、枢軸軍が相当な戦力を上陸させるのの機先を制して、ビゼルト【1枚目のマップの一番右上の辺りにある港町】に到達できるかもしれないというのが【第1軍司令官】アンダーソンが期待したことであったが、しかし遅すぎたのであった。……
 北側を進む「ハートフォース【小規模な機動部隊から構成されていた(P99)】」は11月15日にTabarkaに到達し、翌日には【第78歩兵師団の】第36歩兵旅団も到着した。「ハートフォース」は11月15日から16日にかけての夜にDjebel Abiodへと前進し……
『Campaign for North Africa』P100,101


 ゲームだと「ハートフォース」に当たる部隊は見当たらず、その代わりに第11歩兵旅団が存在する?




 次に、それより前の話ですが、↓のBone(ボーヌ)という港町に対する攻撃の話を。

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 ボーヌの港と航空基地を確保するために11月12日、イギリス第3空挺大隊の2個中隊(312名)による空挺作戦と、同時に2隻の駆逐艦から第6コマンド部隊が上陸作戦をおこなった……。11月14日までに対空火器や整備員、燃料等が送り込まれ、この航空基地でスピットファイアの2個飛行中隊が作戦を開始した。……ボーヌは約2ダースもの艦船を収容できるドックを持ち、アルジェとチュニスを結ぶ鉄道線も走る重要な地点であった。ボーヌはまた、枢軸軍の爆撃機による重要な目標ともなった。
『Campaign for North Africa』P100


 画像(というかVASSAL)では航空基地はボーヌの町にあることになってますが、指定ではすぐ南のヘクスにあるはずです(今エラッタを確認してみたら、新たな記述として「いくつかの航空基地が街の隣にあることに注意して下さい(これはわざとそうしてあるのです)。」と書いてありました)。スピットファイアは画像にありませんが、実際出てきます。フランス軍ユニットについては例によって不明です(^_^;


 次に、前掲画像の下側にいるイギリス第6機甲師団について。

 第6機甲師団の機甲連隊グループと第11歩兵旅団グループの前衛部隊による「ブレイドフォース」が、Souk Ahrasを経由してSouk el Arbaへと向かうように命じられた。
『Campaign for North Africa』P100



 ↓上記引用で出てきた2つの地名を含む画像を↓に置いてみます。

unit00336.jpg

 画像右端にあるSouk el Arbaはゲームをプレイしていても非常に重要な地点にあり、11月16日(つまりゲーム上での第1ターン)に、ここに空挺降下がおこなわれたそうです。

 11月16日に、第1(イギリス)空挺大隊が、アメリカ空軍の輸送機によって、アメリカ軍戦闘機の護衛を受けながら、Souk el Arbaの航空基地に空挺降下をおこなった。フランス軍部隊は友好的であり、援助もおこなってくれた。
『Campaign for North Africa』P100


 ただ、ゲーム上ではここに第1ターンに空挺降下しなくても、普通に第6機甲師団で踏んでいけば良いかと思います。


 史実ではその前日(11月15日)にアメリカ軍空挺大隊が南方で空挺降下しているのですが、これはゲーム上ではすでに降下された状態で始まっています↓。

unit00337.jpg

 その前日には、アメリカ第509空挺連隊(E.D.Raff大佐)の第2大隊が、イギリス空軍のスピットファイアに援護されつつ、Youks-les-Bainsに抵抗を受けずに降下した。その一部の部隊はその後Tebessaへと前進した。
『Campaign for North Africa』P100,101


 なぜイギリスの空挺部隊はアメリカ空軍に掩護されつつ空挺降下し、アメリカの空挺部隊はイギリス空軍に掩護されつつ空挺降下するんでしょうかね……? ゲーム上では、Tebessaへ前進しておかないと枢軸軍側がTebessaの航空基地へノーリスクで部隊を空輸できてしまうのですが、より問題なのは画像左のAin Beidaにある航空基地で、ここは枢軸軍支配下のままなものですから、やはりここへは枢軸軍がノーリスクで部隊を空輸できてしまうのです。ただ、空輸したとしてその後どうやって生き延びさせるかを考えると、メリットとデメリットのどちらが大きいかは良く分からない感じではあります……。


 この辺りの南翼が両軍にとってがら空きで、しかも航空基地の所有権は枢軸軍にあるというのは連合軍プレイヤーにとっては厄介な話で、大木毅さんの「二つの残光 「チュニスへの競争」とカセリーヌ峠の戦い」という記事にはこうあります。

 11月9日、アルジェに到着した【第1軍司令官】アンダーソンは、この【ドイツ軍の】第90軍団を撃破し、チュニスを早期に占領すべく、空挺部隊とコマンド部隊などと協同し、ブージ【マップよりだいぶ西にあります】とボーヌの港、テベサとガフサ【テベサよりもっと南東の街】の飛行場、スーク・エル・アラバの町などを押さえさせた。本格的攻勢のための準備だったことはいうまでもない。しかしながら、アンダーソンは慎重すぎた。枢軸軍の戦力を過大評価したばかりか、自軍右翼が弱体であるのを危惧し、主力の集結が終わるまで、前進を手控えると決めたのである。
『ルビコンを渡った男たち』P21


 ただ、『Campaign for North Africa』を斜め読みしている感じでは、11月15日までの英米軍の動きはけっこう背伸びして急いでいるように個人的には感じました。大木さんのこの記述は、15日までの話というよりは、15日より後の動きに関する話なのかも……?(いや、全然分からないのですが)



OCS『Guderian's Blitzkrieg II』レッドタイフーン第4ターン先攻

 第1ターン以来ずっとアップしてませんでしたが、OCS『Guderian's Blitzkrieg II』のレッドタイフーンが第4ターン(12月15日ターン)の先攻ソ連軍ターンまで進みました。



 ↓北

unit00330.jpg

 モスクワ北面の突出部は完全に放棄しています。このターン、モスクワ西方の戦線からも突破をはかられました……。



 ↓トゥーラの辺り

unit00331.jpg

 トゥーラの西でドイツ軍戦線に大穴を空けられてしまいました……。




 ↓南

unit00332.jpg

 ドイツ軍は戦線を下げていってますが、大突破まではされてない感じ?



 反省点として、ドイツ軍は戦線をずっと動かさないでいると、ソ連軍の11-1-1の歩兵師団にAR3とか4の部隊を乗っけられて高効率で殴られてしまうから、数ヘクスの距離を時々離した方がいいのではないか? とか。


独ソ戦2年目までの詳細な戦線の動き&『GBII』『CB』連結プレイの動画

 ちょっと前にワニミさんから教えてもらっていた動画がありまして、「すごいなぁ!」と思ったやつを紹介しようと思います。


 ↓独ソ戦の詳細な戦線の動きをアニメーションで再現した動画。






 現状、1942年までですが、今年の5月と9月に公開されたものなので、また続編が投稿されるのではないかと思います。

 戦線の動きが分かりやすくていいです。どうやってアニメーションさせるのでしょうか……。良く分かりませんが、日本語訳も投稿できる?(誰かやってください!)



 ↓『Guderian's Blitzkrieg II』と『Case Blue』の連結プレイ動画



 OCSのフルマップ13.6枚を連結して、1941年10月1日からのタイフーン作戦と南方軍集団の攻勢をプレイしていってます。途中盛大に飛ばしながら見てみたんですが、ソロプレイなんでしょうか? 尼崎会の展開とは結構異なるところがあって勉強になるなぁと思いました。

 動画は45個あるんですが、最後のやつはドイツ軍がモスクワを包囲しかかってますね~。


OCS『DAK-II』私家版和訳を作りました

 OCS『DAK-II』の私家版和訳ルールを作りました。今後、可能ならプレイしていきたいと思ってます。

 pdfファイルを公開しておきますので、間違いなど見つけられましたら些細なものでもお知らせいただければ幸いです。


DAK-II私家版和訳20181004.pdf


 とりあえず現状でも良く分からないのが、マルタ島影響表で、「2つの結果が出た場合には、ダイスを1つ振ってどちらを使用するのかを決めます。」とあるのですが、どういうケースで2つの結果が出ることがあるのかが分からない……。訳が間違っている?

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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