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『戦場の素顔』他を買いました

 新聞広告で『戦場の素顔』というのを見つけまして、「これは買わねば……」ということで、梅田に行って買ってきました(ところが、その後行った地元の駅ナカの本屋にもあったという……(^_^;)。





 戦場の実相について研究、著述された本なのですが、その具体例がアジャンクール、ワーテルロー、ソンムの戦いなのです。ワーテルローが入っているなら、これは私的にはどうしても外せないと言えましょう……。ただし、以前に買っている本がまだ山積みなので、読む優先順位は後の方にしておこうと思います。

 参考に、目次なども。

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 あと、↓こんな同人誌も見つけて買ってみました。

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 それから、以前から気になっていた「(恐らくⅣ号戦車の)砲弾を運んでいる秋山優花里」嬢のフィギュアがちょっと安くなっていたので、それも買ってみました。

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 ゲーム部屋の戦車類をディスプレイしている場所に置いてみました。OCSでSPを運ぶたびに、「あ~、これは秋山優花里嬢が砲弾運んでくれてるんだ~」と癒やされたいと思います(^_^;





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OCSのリープフロッグ(一足飛び)問題について

 OCSのSP(補給ポイント)には、リープフロッグ(一足飛び)禁止というルールがあります。このルールについて新たな発見(というか思い込みの是正(^_^;)があったのでご報告を。


 リープフロッグの禁止とは、↓のようなものです。

OCS12.2a 一足飛びの禁止 SP は単一のフェイズには2種類以上の輸送手段(艦船、鉄道、輸送ユニットなど)で移動させることはできず、また一度荷降ろしした補給ポイントを同一フェイズ内に再び積載することもできません。


 つまり、SPを鉄道輸送で降車可能ヘクスまで運んだ直後に、輸送トラックでまた運ぶようなことは禁止ということです。そのため、我々は運んだ直後のSPの上には補給切れマーカーを置いて「もうこれ以上運べない」ことを表すようにしていたりしました。


 この件について、『Smolensk:Barbarossa Derailed』でやや疑問になったのが次のルールでした(2.1と3.1)。

降車可能都市ヘクスそれぞれに、補給表で到着するSP のうちの1SP を、「フリー」の鉄道輸送力を使用して配置することができます。……残りのSPは、マップ端の自軍補給源ヘクスに置きます。


 この「フリー」の鉄道輸送力で置かれた1SPを移動フェイズ中に輸送トラックとかで運ぶのはリープフロッグなのかどうか? 鉄道輸送力があくまで移動フェイズ中に使用されるものであることを重視すればリープフロッグになりそうですし、一方、この「フリー」の鉄道輸送力は増援フェイズ中に使用されるものなのではないか、傍証としては「残りのSPは、マップ端の自軍補給源ヘクスに置きます。」とあるのだから、これらは増援フェイズ中に完了されなければならないはずだ、だからリープフロッグにはならない……とか。


 で、思い切ってGeekで質問してみたのですが、3人の方に書き込みをもらって、そのいずれもが「リープフロッグにはならない。っていうかなんでリープフロッグになると思ったの?」という感じ(^_^;だったので、とりあえずリープフロッグにはならないのだろうということにしました(今後、ひっくり返る可能性がゼロではないですが)。


 で、ここらへんのやり取りで気付いたのが、我々(私)は、リープフロッグは「ターン」単位で禁止されていると思い込んでいたのですが、実は「フェイズ」単位で禁止されている。それでワニミさんが「じゃあ予備モードになれる専用トラックを予備モードにすれば、移動フェイズ中に運ばれたSPを突破フェイズ中に再度動かせるじゃん」とお気付きに! なるほど……!!

 というか、専用トラック(45移動力)を予備モードにした場合、移動フェイズ中に移動力の1/4(11移動力)が使用可能ですから、それも活用できる。ただし、この移動フェイズ中にはリープフロッグは発生する可能性があるから、気を付けねばなりません。しかし、移動フェイズ中に鉄道輸送、海上輸送、航空輸送、輸送トラック、輸送ワゴンなどで一度運んだSPを、予備モードにしてあった専用トラックで突破フェイズ中に45移動力で運ぶことができる。また、SPは運んでいる途中に消費することも可能なので、特に移動フェイズ中の11移動力を使用中なんかに、ギリギリの距離でSPを消費してまた後方に戻ることができる(ただし、燃料を入れるつもりの複数ユニット部隊のユニットのすべてが、ちゃんと燃料を何らかの手段で入れられる距離内にいないといけないと思いますが)。

 そうすると、専用トラックを持たないソ連軍なんかは別として、ドイツ軍や英米軍なんかは専用トラックでもって我々の今までのプレイよりももっとSPをどんどん回していくことができる、ということが分かりました。



 あと、付け足しで騎兵問題について。「騎兵問題」というのは尼崎会における「騎兵の燃料要らない移動力で敵の補給路切るの強すぎない? 騎兵最強! これアメリカとかではどう思われてるの?」という疑問なんですが、上記のリープフロッグの件で、やや装甲/機甲師団の価値が上がった(相対的にほんの若干騎兵の価値も下がる……?)のと、あと、一つの解決の仕方として、我々、というか私はどうもやっぱ後方に守備隊や予備部隊を置くのを怠りまくりなんですが、ちゃんと守備隊や予備部隊を置いていれば、敵騎兵がのこのこやってくればそれを容易に壊滅させて敵の戦力を削ぐことができるとも考えられるわけで、やっぱもっともっともっともっと×20、後方の守備隊や予備部隊を置くようにするべきかな……と(特に敵の騎兵が存在することが明らかな場合には)。


 ……と、色々書いてますが、今日も話してたんですが、我々はユルゲーマーで、勝負にこだわったりはせずに「わからんわからん」言いながら、楽しくゲームやっている感じだと思います(*^_^*)

 で、今日は以前から広げていた『Guderian's Blitzkrieg II』のレッドタイフーンの第2ターン(12月8日ターン)の先攻ソ連軍だけをプレイしていたのですが、むちゃくちゃ動きがあったわけではないので写真一枚だけ貼っておきます。

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ハインツ・シュミット『ロンメル将軍』と『兵士というもの』を買いました

 メルカリで云々という話を書いてましたが、そこで色々探しているうちに出品物から、ハインツ・シュミットという人の『ロンメル将軍』という邦訳本が角川文庫で存在していることを初めて知りました。

 今までAmazonで色々検索していてもこの本まったく出てきてなかったので、分かってませんでした……。「日本の古本屋」というサイトから手に入れられるようです。↓たとえばここ。

ロンメル将軍 : 砂漠のキツネ(ハインツ・シュミット 著 ; 清水政二 訳) / 古

 デズモンド・ヤングの『ロンメル将軍』を訳した方が、その次に訳したロンメル本のようです。内容としては↓がまとまってました。

ロンメル将軍


 早速目を通していって、北アフリカ戦の資料収集の一助にしたいと思います。


 それから、先日紀伊國屋書店で『兵士というもの』という本を見つけました。



 大木毅さんがどこかで書いておられた、連合軍によるドイツ兵やイタリア兵を収めた捕虜収容所での盗聴記録の分析本の和訳です。兵士や将軍達の体験や考え方などが赤裸々に語られており、彼らがどのような心情で戦場で戦っていたのか、あるいは戦場における様々な残虐行為や強姦行為などもたくさん載っているようです。

 2018年春に出ていたようなのですが、全然知りませんでした……。これもまた、目を通していきたいと思います。ドイツ兵がイタリア兵を蔑んでいたとか、出てくるようです。

 ただこの本、索引が、地名索引と事項索引があるんですが人名索引がないのです。なぜ……?(T_T)


フィギュアでWW2の1/8スケール銃器6種を入手+1/6のMG42

 先日、第二次世界大戦の銃器を持ったキャラクターの中古フィギュアを買った話を書いてました(→ドイツ軍のMG34機関銃やMG42機関銃のためにフィギュアを買う……ということにするバキッ!!☆/(x_x) (2018/08/30))が、その後たまたま以前インストールだけしていたメルカリアプリを開いてみたところ、「1000円引きクーポン」が利用できるということが分かり、「えっ。それなら……」と同様の中古フィギュアを探してみて、1体ほど相場よりも少し安く手に入れることができました。

 で、その後もまた「1000円引きクーポン」が来たりで、うんうん悩んで、Amazonなども利用して最終的にそのフィギュアの種類でもって揃えられるほぼすべてのヨーロッパの銃器の種類をフィギュアを入手して揃えてしまいました(^_^;(フリーガーハマーというのもあったのですが、これは実戦ではほぼ使われなかったらしいので、まあいいかな、とパスしました)


 最終的に揃えた銃器の種類は以下のようになります。

ドイツ軍のMG34
……アルター ハンナ・ユスティーナ・マルセイユ レビュー : 複合材な日々

ドイツ軍のMG42
……[フィギュア撮影レビュー] アルター ストライクウィッチーズ2 ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ

イギリス軍のボーイズ対戦車ライフル
……アルター リネット・ビショップ レビュー : 複合材な日々

イギリス軍のブレン軽機関銃MKⅠ
……アルター ペリーヌ・クロステルマン レビュー : 複合材な日々

アメリカ軍のBAR
……[フィギュア撮影レビュー] アルター ストライクウィッチーズ シャーロット・E・イェーガー

アメリカ軍のM1919A6
……アルター フランチェスカ・ルッキーニ レビュー : 複合材な日々


 これらのフィギュアが店頭で(定価で)売られ始めた頃にも私は手に取ってじーっと見てはいたんですが、単純に顔だけを見て「アニメの顔とちょっと違うよね」と思って「買うのはないなぁ」と思っていました。

 しかし今になって分かってきたのが、このストライクウィッチーズのフィギュアを作っていた会社の中でもアルターという会社のものは、それぞれのキャラが持っている武器の精巧さ、かっこよさ、汚しの素晴らしさ、それに戦闘機(ストライカーユニット)部分の塗りがしっとり落ち着いていて第二次世界大戦らしさを感じられること、マークの緻密さ、回転しているプロペラも非常にいい感じだし、こだわりがすごくて、それらを見ているだけでも癒やされます(^_^;

 もちろんフィギュア本体も良く良く知ってみれば、衣服や肌などもすごいと思いました。

 他にいくらかあるストライクウィッチーズのフィギュアを作っていた会社のものと比べて、アルターのものは私の個人的な嗜好に非常に合うのだなぁということが分かってきた次第です。アルターのストライクウィッチーズのフィギュアは他にも数種類あるのですが、しかし銃器の種類的にかぶる(あるいは日本の銃器になる)ので、とりあえずこれ以上はいいかな……と思っています。



 あと、メルカリの「1000円引きクーポン」は、最終的に1/6のMG42を見つけてそれを購入してみました。ストライクウィッチーズのMG42は史実にはなかったサドルマガジンが付いているので、それなしのものが欲しいというのがありましたので。


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 右端の見切れてしまっているのは、予備銃身でした。その左が予備銃身のキャリングケースのようです(ぴったり入ります)。

 本体や銃弾はプラスチック製なのですが、予備銃身は金属製であるように感じます。排莢された後の空薬莢も金属製っぽいです。あと、ベルトは革製?




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 MG42はWikipediaによると「銃身はMG34のものより軽く摩耗も早かったが、銃身カバー右後端のハッチを開くだけで簡単に銃身を抜くことができ、数秒で交換することができた。戦闘時には脇に予備銃身をおき、時々交換して冷却しながら使用した。」なのですが、それが再現できるようになっていました! すげぇ。元々中に入っていた銃身はプラスチック製っぽく、それを抜いて、金属製っぽい予備銃身ももちろん本体に収めることができました。




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 サドルマガジンを付けてみたところ。



 自分は1/144の戦車や戦闘機、それにこれらフィギュアの銃器や軍服や、あるいはウォーゲームのユニット(特にOCS)とかにかっこよさを感じて(なぜか)癒やされるのだと思います。せっかく手に入れたものなので、折に触れて眺めて癒やされようと思っております(^_^;


OCS『Smolensk』シナリオ7をプレイしました

 ミドルアース大阪でOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のシナリオ7をプレイしました。

 たまたま座った位置で、ワニミさんがドイツ軍、こかどさんがソ連軍の南半分、私がソ連軍の北半分を担当しました。


 ↓セットアップ。

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 シナリオ7は1941年8月26日から始まって5ターンで終了します(キャンペーンもその9月8日ターンで終了です)。すでに両軍の大部分がキエフやヴェルキエ・ルーキ方面に引き抜かれており、シナリオの第3ターンにソ連軍が14個もの戦車旅団の増援を得て、勝利得点ヘクスを1個(史実ではイェルニャ)を奪取できるかどうかが焦点です。

 勝利条件的には、ソ連軍は勝利得点ヘクスを1個奪取して第5ターンを終われば勝利、ドイツ軍は奪われずに終われば勝利です。あるいは、ソ連軍は勝利得点ヘクスを3つ、ドイツ軍は2つを奪取してターンを終了したら、その時点でサドンデス勝利となります。




 ↓第1ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 まあお試しプレイではあるので、状況を色々確認しつつも、適当に攻勢的に動きました。……が、後で気付きましたがこかどさんと私の戦区境界に見事にスキマができてしまっており、当然そこをワニミさんに突かれることになってしまいました(^_^;




 ↓第2ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 第1ターン後攻終了時の写真は撮り忘れてしまっていたようですorz

 ドイツ軍のダブルターンが実現したら「即終了」的なまずさだったのですが、2回に渡ってダブルターンを阻止し、なんとかドイツ軍装甲部隊を砲撃でDGにし続けます。が、3回目はダブルターンを取られ……。


 
 ↓第4ターン先攻(ドイツ軍)終了時。

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 結構な部隊数が半包囲を食らった上、勝利得点ヘクスを1個失ってしまい、またイェルニャへの戦車旅団の増援路も押さえられてしまいました(>_<)


 時間切れでここまででしたが、このシナリオ7は2日あれば必ず終了させることができ、慣れればゲーム会1日でもプレイは可能でしょう。

 OCSシナリオの1回目のプレイは常に失敗だらけなのですが、ソ連軍としては「全力で攻めに行きたくなる」ところですが、それで隙を作ってしまうと(OCSは攻勢を取ろうという瞬間が一番隙が大きくなると思います……)却ってドイツ軍につけこまれてしまうので、予備マーカー(6個)を全部使うことを意識して、攻めが3分で守りが7分くらいの気持ちで少なくとも3ターンまではプレイすべきではないかと思いました。

 あと、ソ連軍はドイツ軍よりは補給事情は(平均的に)良いとはいえ、今回は窮地において航空爆撃が全然当たらず、結局砲撃によってドイツ軍装甲部隊をDGにせざるを得ず、それでSPを使いまくってしまって第4ターンにはマップ上にSPがほとんどない状態で、そんな状況では最後の攻勢もできようもないので、補給管理はきちんと財布の紐を締めた方が良さそうです。


 今回のプレイもだいぶ面白く、終了してすぐに再対戦がしたくなりました(^_^;


『歴史群像』151号に個人的に好みな記事が多かったです

 『歴史群像』の最新号を買ってきて読みました。




 『歴史群像』は佐藤俊之さんの「ナポレオン戦争」という素晴らしい連載が続いていて、買わないという選択肢がないのですが、今号は特に個人的に好みな感じの記事が多かったです。


 まず思ったのが、巻末連載マンガの「翼を持つ魔女」(ソ連空軍の女性パイロットリディア・リトヴァクを主人公にしたマンガ)に今回は作者の説明書きが結構多くあって、それらが「正確な時期は分からないがこれこれの資料の材料から、だいたいこれくらいの時期ではないだろうか」とか「この資料が良さそうで参考にする。一方、この資料は人気は高いが信頼性は低い」とかってなことが書かれていたことで、こういう話が(なぜか)私は大好きなので好感度が更に上昇しました(→『歴史群像』連載「翼をもつ魔女」既刊をコンプリート (2018/03/21) )。


 また、有坂純さんの「マケドニア密集軍の誕生」という記事も、いわゆるファランクスに関して一般に知られているイメージが脆弱な根拠しかないということから始まって、こういう説明とかこういう説もあるけどこうか、いやこうか……というような、様々な説を色々比較するものになっていて、好みでした。


 圧巻は古峰文三さんの「再検証 インパール作戦」で、インパール作戦に関する「牟田口がバカだった(あるいは旧日本陸軍という組織が駄目だった)ことがすべての原因」というような、人口に膾炙している見方は再検証が必要で、実はイギリス軍側の特にインパールやコヒマの防衛戦力は一時期本当にほとんどない状態で、イギリス軍側にとってもギリギリだったのであり、日本軍に「まったく勝機が無かったとも言い切れない」(P49)という見方が提示されていたことでした。

 同記事では「インパール作戦の挫折の最大要因は【日本軍の】補給【の問題】ではなく敵の戦術変容にある。」(P48)としていて、具体的に「敵の戦術変容」とは何かというと、「空中補給(輸送機による補給の投下や輸送)」をイギリス軍がし始めたことによる、と。

 それ以前にはビルマ戦線において、イギリス軍が攻勢をすると日本軍の軽装部隊が疾駆イギリス軍の補給源を突いてイギリス軍が敗北する、というのがパターンだった。ところが、イギリス軍が空中補給という方法をやり出し、インパール作戦において孤立したイギリス軍部隊(インド師団とか)に空中補給するから抵抗がやまない。で、空中補給がなかったらもっと早く日本軍はインパールやコヒマに進出できていたと思われ、だとすればイギリス軍は防御戦力がなかったし、日本軍の補給事情もそれによってもっとマシになっていたと思われる、と。


 この「空中補給が始まった」の話は、実はまさに我々がOCSのプレイにおいて体験した話でもあったりします。尼崎会でワニミさんとOCSをひたすらプレイしているわけですが、結構プレイを積み重ねていたある時、ワニミさんがOCSのルール上包囲されてしまった部隊への空中補給が可能だという事に気付かれ、「そうか……!」というわけでその後は「空中補給する」という選択肢が尼崎会には追加されました(それまではそのような選択肢が存在すること自体分かってませんでした)。

 そうすると、防御側の抵抗拠点が落ちなくなるのです。もちろん、それに対抗する方法もいくつかはあるわけですが……。

 同記事ではこのように書かれています。

 【日本の】第15軍は補給の欠如によって負けたのではなく、連合軍の空中補給によってビルマ戦線の戦いの様相が一変し、イギリス軍部隊が包囲されても敗走せず粘り強く戦うようになったことで、一年前のような軽装部隊による迅速な包囲撃滅が見込めなくなった結果、敗北したのである。……戦術の変容がそれまでの常勝パターンを無効にする事例は、第二次世界大戦中にいくつか存在するものの、昭和19年のビルマ戦線で出現した変化は急激かつ鮮やかなものだった。
『歴史群像』151号P47



 同記事ではイギリス軍の輸送機の数がギリギリだったことが書かれていますが、OCSをプレイしていても輸送機がギリギリというか、「輸送機がもっと多ければなぁ!」と思うことが昨今非常に多いです(以前だったら「もっと爆撃機をくれよ!」とか思っていたのでしょうが(^_^;)。

 また、当時の日本軍は敵の輸送機に対する明確な指針を持っておらず、それよりももう少しで落とせそうなインパールに対する爆撃任務の方に重点を置くようにした結果、ますますイギリス軍の輸送機は安全に空中補給できるようになって被包囲拠点が消滅せずに日本軍を苦しめるようになった……というようなことも書かれていました。

 OCSであれば、敵の輸送機がいそう(スタックの一番上には置かれてないでしょうから)な航空基地に自軍の戦闘機を航空制圧に向かわせて撃破、あるいは非活動状態にするとか、空中補給されてしまいそうな敵部隊の10ヘクス以内に自軍の航空基地を確保してそこに戦闘機を置いて敵の空中補給に対して迎撃させるとかってことになるでしょう(尤もそれに対して敵は、戦闘機・戦闘機・輸送機・輸送機とかの4ユニットで空中補給を試み、迎撃側が空戦の途中で敗北するのを期待することになります)。


 尼崎会では、ワニミさんが「日本人兵士がバタバタ倒れていく情景に耐えられない」ということからOCS『BURMA(II)』のプレイは御法度となっているのですが(私もテレビゲームで、自分がアメリカ兵になって日本人兵士を倒していくというやつは「とてもプレイできない」と思いました)、OCS『BURMA(II)』はコマンドマガジンVol.94の紹介記事(P19)で「現在においてインパール作戦のベストと言っても良いかもしれない。」「ハードルはやや高いものの(それでも十分プレイは可能)、『Burma』の完成度が高いと言えるだろうか。」と(断定的ではないもの(^_^;)書かれているので、今回の同記事を読んでぜひプレイされてみてはどうでしょうか。


 あと、今号の読者の声のページには前号の付録ボードゲームの感想が多数収められていて、初めてウォーゲームに触れてみて面白かったというのも多かったのに非常に嬉しくなりました。ボードウォーゲームが若い人にも再度広がっていくといいなぁと思います。


 『歴史群像』について1つ思うのは、昔の記事にはやはりその戦いについて良く知らない人向けの入門的な記事が多かったと思うのですが、今号のような「色んな説がある」「色んな傾向性の資料がある」ことを前提にした、資料の取捨選択だとか、今までの見方を覆すような説の記事とか、そういう記事が増えてきている……とかってことはあるのでしょうか? ちょっと前(145号)の関ヶ原の戦いの新説の記事は衝撃的でしたが。

 個人的にはそういう記事が好みなので、そういう記事が多くなってもらえると嬉しいなぁと思います。

OSPREYの「RAID」シリーズ:リトルサターン作戦ものを買いました

 ぼーっと試しに「operation little saturn」で検索していて、リトルサターン作戦の中のソ連軍のタチンスカヤ襲撃に関するサイトを見つけました。

Twenty-Fourth Tank Corps of 1st Guards Army in the Tatsinskaya Raid, December 1942

 とりあえず地図がすごく良くて、印刷してみていたのですが、その下にある表紙のようなものは本なのか……っと、その下のリンクをクリックしてみたら、やはり本で、なんとOSPREYの本でした。OSPREYとは思えない表紙でしたが(^_^;





 Amazonの書評を(Google翻訳で)見てみると評価が総じて高く、ペーパーバック版を購入してみました(ウェブサイトの地図を印刷してしまいましたが、これは本の中に入っているものだと思われ……(^_^;)。


 これはOSPREYの「RAID(襲撃)」シリーズというものの一作らしく、試しにAmzonで「osprey raid」で検索してみると、いっぱい出てきました。最初にあったのが赤穂浪士の吉良邸襲撃ものだったのにはびっくりしました(^_^;

 様々な時代、地域の「襲撃」が取り上げられていましたが、私が他に買うとしたら↓とかでしょうか。とりあえず買わないでおきますが……。




 皆さんも一度ぜひ検索してみて下さい。


 というか、洋書を買うものの読む速度が追い付かないです(T_T) ってか、最近はミリタリーに関係ない和書も結構買っていて、それも消化速度が追い付いてません(>_<)

 しかし、ここ2年くらいかけて北アフリカ戦ものは手持ちの和書、洋書両方を総ざらえでチェックして興味のある人物像や部隊評価などの資料を集積してまして、ちょっともうこれ以上は北アフリカ戦の洋書は買わないことに決め、あと手持ちでまだチェックしてないのはチュニジア戦をメインで扱っている『The Campaign for North Africa』だけになってます(→エスイグ氏推薦のチュニジア戦の本を入手しました (2018/04/17))。

 『The Campaign for North Africa』をチェックして、集積した北アフリカ戦の情報をブログに出しながら、次はぜひ最も興味のあるリトルサターン作戦周辺の洋書に目を通して、情報を集積していきたいと思っています。

OCSユニットで見るユダヤ人を大量虐殺したフェーゲラインのSS騎兵部隊

 『ブラッドランド(上)』を読んでましたら(→最近買った本『ブラッドランド』『枢軸の絆』『世界史を動かした脳の病気』など (2018/05/30) )、P311に「親衛騎兵旅団がユダヤ人の処刑をおこなっていた」というような記述があって、OCS上でそこらへんのユニットがあったりするのか気になって見てみました。

 このSS騎兵旅団によるユダヤ人処刑にはヘルマン・フェーゲラインというSS将校がかかわっていたらしく、その関係での記述や部隊名がいくらか見つかるのですが、OCSの方ではそれらSS騎兵部隊のユニットが入っている『Guderian's Blitzkrieg II』『Case Blue』の扱う期間が1941年10月~1943年5月という縛りがあります(それより前の時期を扱う『Smolensk:Barbarossa Derailed』にはSS騎兵部隊は入ってません)。ので、時系列を優先させて記述し、ユニットが登場するようになったらそれも含めて書いていこうと思います。


 まずヘルマン・フェーゲラインに関してなんですが、父親の関係で乗馬とナチ党に関係が深く、高い乗馬技術でベルリンオリンピックに貢献し、「特にヒムラーには気にいられていたが、周囲から出世欲が強く、自分のことしか考えていないと陰口を叩かれるようになっていた。親衛隊騎馬隊には貴族階級の者が多かったが、フェーゲラインはいわば「成り上がり」だったための陰口ともいえる。」だそうです(日本版Wikipedia「ヘルマン・フェーゲライン」から)。


Bundesarchiv Bild 101III-Bueschel-056-21A, Russland, Hermann Fegelein

 ↑ヘルマン・フェーゲライン(Wikipediaから)


 以下、主に記述が一番詳しかった英語版Wikipedia「Hermann Fegelein」、それと『ブラッドライン(上)』『武装SS全史Ⅰ&Ⅱ』『Axis Cavalry in World War II』を参照して記述します(色々資料を見てると、日本版Wikipediaの記述は部隊名や時期に関してちょこちょこ誤っているような気がします)。

 まずポーランド戦後の1939年12月7日にフェーゲライン指揮のSSトーテンコップフ騎兵連隊は、カンピノスの森で1,700人の大量虐殺をおこなっています。
 1941年2月21日にSSトーテンコップフ騎兵連隊は第1SS騎兵連隊に改称されましたが、3月21日に2つに分割されて第1、および第2SS騎兵連隊と呼ばれることになりました。

 で、この第1と第2SS騎兵連隊は7月31日に合わせて「SS騎兵旅団」と呼ばれることになったようなんですが、『GBII』には恐らくこれが第1と第2SS騎兵連隊の形で登場します(OCS上では1942年4月5日に撤収し、同12日に拡張されたSS騎兵師団となって再登場します)。

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 ↑上段が戦闘モード、下段が移動モードです。


 
 ↓は『ブラッドランド』から。

 女性と子供の殺害には心理的な抵抗があるものだ。ヒムラーはこれを必ず取りのぞくよう取り計らった。特別行動部隊がおおむねユダヤ人男性だけを殺していたころでさえ、ヒムラーは親衛隊の軍事組織である武装親衛隊の部隊を送って、女性と子供もふくめてコミュニティの住民全員を殺害させていた。1941年7月17日、ヒトラーは占領地域の「鎮圧」をヒムラーに命じた。2日後、ヒムラーはウクライナとベラルーシのあいだにある湿地帯、ポリーシャ親衛隊騎兵旅団を派遣し、ユダヤ人の男性を撃ち殺して女性を沼へ追いこむよう直接命令を下した。彼はゲリラ戦にでものぞむような言葉で指示を出した。
『ブラッドランド(上)』P311


 ここで「親衛隊騎兵旅団」と書かれていて、この時にはまだ旅団ではないはずなんですが、この後旅団になってる8月1日の時にも「騎兵旅団」という記述が出てくるため、そこらへん分かりやすくしたのではないかと推測します。

 で、このSS騎兵が派遣された7月19日にはその指揮官としてエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーという人が任命されたらしいのですが、英語版Wikipediaによると8月5日にはこのSS騎兵旅団の指揮官としてフェーゲラインが任命されたそうです。

 とすると、↓の8月1日の発言はツェレウスキーの発言であるということになりそうですが、そうでなくてフェーゲラインの発言である可能性もあるような気もします。

 だが8月1日には、騎兵旅団の指揮官がこう明言するようになっていた。「ユダヤ人の男はひとり残らず抹殺せよ。村の家族もひとつ残らず消し去るのだ」と。武装親衛隊はすぐにヒムラーの意図を理解し、彼のメッセージを広める手助けをした。8月13日までにユダヤ人の男性、女性、子供、合わせて1万3788人が殺害された。
『ブラッドランド(上)』P311



 ホロコーストでユダヤ人コミュニティ全体を掃討し始めたのは、このフェーゲラインの部隊が初めてだったそうです。また、ある歴史家はこの時に実際に殺されたユダヤ人の数は23,700名に近いと推定しているとか……。


 ユダヤ人を殺害する理由については、『ブラッドランド(上)』の次のような記述が「なるほどなぁ……」と思いました。

 ……時がたつにつれ、このような軍の将校たちさえ、たいていがユダヤ人の殺害は必要だと思うようになった。その理由は、ヒムラーとヒトラーが信じていたように、1941年の夏でもまだ戦争に勝つ見込みがあったからではない。あっけなく負けてしまいそうだったからだ。
『ブラッドランド(上)』P323

 大量殺人は勝利の象徴ではなく、勝利に代わるものだったのだ。1941年7月末ごろからは、電撃勝利が構想だけに終わり、実現できなかったためにユダヤ人が殺された。同じ年の12月からは、反独同盟が力を増したのを受け、ユダヤ人はユダヤ人であるからという理由で殺害されることになった。ヒトラーはさらに激しい感情をさがし出し、いっそう暴力的な目標を公言した。ドイツが窮地に陥ったことを承知していた指導部は、それを受け入れた。
『ブラッドランド(上)』P335

 いかなる勝利をおさめることも不可能となったこのとき、ドイツ人はユダヤ人の殺害こそが勝利であると考えたのだ。イギリス、アメリカ、ソ連はドイツの敵であり、ユダヤ人もドイツの敵である、だからこれら三つの国はユダヤ人の影響下にある、という誤った論法がまかり通っていた。……ユダヤ人を殺害することは、敵国に対する直接的・間接的な攻撃となる。倫理的・軍事的論理に照らし合わせてみても、正当な行為と言える。……このころには、パルチザン攻撃に対する報復としてユダヤ人を殺害するというロジックが生まれていた。ベラルーシとウクライナのあいだにあるポリーシャ【プリピャチ】湿地帯では、ヒムラーがこれを理由に1941年7月から、ユダヤ人の男女、子供を殺しはじめていた。……英米ソ同盟への報復としてユダヤ人が殺されることになった。だがユダヤ人も、同盟を結んだ三国も、そんなことは理解できなかっただろう。ヒトラーが将来使おうと決めたばかりのこの理屈は、ナチスの世界観の中でしか通用しなかったのだ。
『ブラッドランド(上)』P337


 一つ思うのは、『Barbarossa Derailed』等で言われていたように、バルバロッサ作戦は7月末の時点ですでに挫折してしまっていることが指導部においては明らかだったのかということ。

 もう一つは、最近どこかで「独裁政治がなぜ良くないかというと、独裁者の誤った思い込みを止めるものが何もないからだ」という文を読んだような気がするんですが、ホントにそうだな、と。人間は思い込みをするものだと思うんですが。



 さて、フェーゲライン指揮のSS騎兵部隊は、その後ルジェフで活躍したそうです。

 その後、【SS騎兵】旅団はホルム方面で対パルチザン戦に従事していたが、翌42年1月22日、氷点下45度の酷寒の中で、歩兵3個師団とともにルジェフ西方からの反撃作戦に参加し、突破してきたソ連軍を逆包囲することに成功した。
 この戦功によりフェーゲライン旅団長は、3月2日付で騎士十字章を授与されたが、重火器を装備していない旅団の損害は甚大で、4月には前線から引き揚げられた。
『武装SS全史Ⅰ』P178



 1942年12月1日にフェーゲラインは前線に戻り、ドン川屈曲部で「フェーゲライン」戦闘団の指揮権を与えられたそうで、そのユニットが『Case Blue』に入っており、セットアップや増援到着表的には緊急増援の中に入れられていました(ちなみにその前作である『Enemy at the Gates』にはユニットが入っていませんでした。『Case Blue』で結構ユニットが追加された感がありますから)。

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 42年12月1日といえばウラヌス作戦(11/19~23)が終わった後で、冬の嵐作戦(12/12~23)が始まる前という時期です。

 試しに『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』で索引を引いてみると、2箇所にフェーゲライン戦闘団に関する記述があり、1つ目は12月31日頃の位置についてでした(P244)。


 ↓『A Victory Lost』(『激闘! マンシュタイン軍集団』の英語版)のVASSALマップから

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 1942年12月31日頃というのはリトルサターン作戦の終了時で、作戦の主攻勢軸を矢印で、その結果の戦線を破線で表しています。

 ドイツ軍の第385歩兵師団、第387歩兵師団、イタリア軍のアルピニ師団(山岳歩兵師団:△マークのユニット)の辺りはリトルサターン作戦の作戦地域からは外れており、そのままに残っていたんですが、ここにフェーゲライン戦闘団はいたそうです。他に、弱体化した第27装甲師団もこの辺りにいたとか。

 この辺りの戦線は私の最も興味のある場所で、個人的にはこの情報に正直興奮が隠せませんでした(^_^; この後この戦区ではソ連軍のオストロゴジスク=ロッソシ作戦が発動されてイタリア軍のアルピニ軍団が崩壊するのですが、『Case Blue』にはオストロゴジスク=ロッソシ作戦シナリオがないのは当たり前として(というか、この作戦を扱ったゲームは存在するのでしょうか?(>_<))、リトルサターン作戦シナリオも入ってないので(『Enemy at the Gates』には入っていたのに)、『Case Blue』でリトルサターン作戦のセットアップ情報を集めたい、死ぬまでに……というのが私の壮大な野望です(おい)。


 2つ目の場所は注釈で、こうありました。

 フェーゲライン戦闘団は、悪名高いSS将校であるヘルマン・フェーゲラインによって恐らく指揮されており、第27装甲師団に配属されていた。その主たる構成部隊は警察部隊であり、警察第2大隊、第3SS警察歩兵連隊、第15警察連隊などを含み、さらに小さな警察部隊も追加されていた。フェーゲライン戦闘団はどうやら、中央軍集団から第24装甲軍団へと移管されていたらしい。
『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』P637


 第27装甲師団はリトルサターン作戦開始時にはミレロヴォのちょっと北辺りにいるので、そこに置けばいいということでしょうかね。(._.)φ


 1943年5月からフェーゲラインはSS騎兵師団長となるらしいのですが、OCS的にそれ以降はカバーできないのでパスで(もしかしたら『Hube's Pocket』がカバーしているかもですが、持ってません(>_<) 『Third Winter』早く出して下さい)。

 フェーゲラインはその後も大量の虐殺行為をおこないつつ出世し、エヴァ・ブラウンの妹と結婚してヒトラーの義弟のような地位を獲得してやりたい放題しますが、第三帝国終焉の直前にヒトラーによって処刑されました。

 あの映画『ヒトラー ~最期の12日間~』にも出てくるそうで、探してみると以下のようなものが。


 ↓ヒムラー(髪型が変なメガネのおっさん(^_^;)と一緒に色々話しているのがフェーゲラインのようです。





 ↓ヒトラーがフェーゲラインを見つけて連れて来いと叫ぶシーン




 ↓フェーゲラインの処刑シーン





YouTubeで「fegelein」と検索してみると、欧米人が作ったらしいパロディ動画が大量にヒットします。日本では「総統閣下シリーズ」というのが一部で大人気でしたが、欧米では「フェーゲラインシリーズ」とでも言うべきものがあったとかなんでしょうか……?

Shakos『Napoléon 1806』初プレイと和訳ルール改訂など

 ミドルアース大阪に行ってきまして、Shakos『Napoléon 1806』を初めてプレイできました。今回、イチローさんとわむさんも同じ会場で同ゲームをプレイされており、色々分からないことを聞いたり、ギークによるQ&Aを聞けたり、プレイの指針を聞けたりしてすごくありがたかったです(*^_^*)



 ↓まずユンカースさんとこかどさんにインスト

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 ↓イチローさんとわむさんのプレイ。哨戒騎兵使用の自由配置で、戦場の霧を最大限にするプレイをされておられました。
   あと、白いトレーがいいですね。ぜひ私も調達しようかと。

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 ↓こかどさんと私で初プレイ中。画像上の方で、イチローさんとわむさんがプレイ中。

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 ↓私はプロイセン軍を担当し、エアフルトでランヌ軍団を崩壊させたものの、スールトにするっとライプツィヒへと突破されており……。

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 ↓最終的にライプツィヒの戦いで3個軍団によってネイを攻撃した(戦闘カードは5:3)ものの敗北するという……。

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 この後、『Paths of Glory』のプレイが早く終わったN川さんとFRTさんも一度やってみようということでプレイされて、一時期はプロイセン軍を担当したN川さんが20点を取ってサドンデス勝ちか? と思われたものがどんどん状況が変わって最終的にVP残り1点でN川さんの辛勝、白熱した戦いとなって、2人とも「面白かった!」と仰ってました。

 イチローさんとわむさんはこの日までで計7、8回くらいプレイされたそうですが、陣営毎の勝率は五分五分だそうで、ゲームバランスは取れてそう、とか。



 で、私がShakos『Napoléon 1806』の和訳ルール (2018/08/31)で公開していました和訳に(案の定)色々間違いがあったことが今回判明しまして、改訂版を今日作りました。すでに印刷等された方には申し訳ないです……。

『Napoléon 1806』和訳ルール06.pdf(ver2)

 特にイチローさんに教えて頂いたギークからのものは細かく色々あるんですが、大きいミスとしては、以下のもの。

・ドローフェイズ
 まったく同一の効果を持つ強制的なカードが複数枚引かれた場合には、それを引いたのが同じプレイヤーであってもなくても、2枚目以降のカードは効果無しで捨てられます。
 ↓
 片方のプレイヤーが、あるいは両プレイヤーで合わせて、強制的なカードが複数枚引かれた場合には、それらの強制的なカードはすべて効果無しで捨てられます。


Confusion (混乱:フランス軍/プロイセン軍)
 敵スタックが少なくとも3つの接続路を通って係争中でないエリアに入った時にのみ、イベントとしてプレイできます。そのスタックは持っている移動力の大きさにかかわらず停止しなければならず、《活性済み》面にならなければなりません。
 ↓
Confusion (混乱:フランス軍/プロイセン軍)
 敵スタックが少なくとも3つの接続路のある係争中でないエリアに入った時にのみ(その瞬間に)、イベントとしてプレイできます。そのスタックは持っている移動力の大きさにかかわらず停止しなければならず、《活性済み》面にならなければなりません。



 あと、プロイセン軍が弱小戦力をフランス軍スタックに突っ込ませて戦闘し、フランス軍スタックを《活性済み》にしてしまうという戦術が非常に効いてしまうそうで、↓の改訂ルールをデヴェロッパーが発表しているそうで、それも和訳ルールver2に織り込みました。

攻撃可否の判定:この時点で攻撃側のカード数が0に達した場合、攻撃はキャンセルとなり、攻撃側スタックは《活性済み》となります。判定には移動攻撃におけるペナルティ(-1カード)も含まれます。





 あと、イベントカード用の印刷シールですが、「Confusion(混乱)」と「Cannon Sounds(砲声)」のもの計4枚が間違っていました。改訂した全体のもの(両方ともシールの1枚目でした)、すでに印刷してしまった人のためのシール4枚分だけの2つのデータを用意してみました。(「エレコム ラベルシール FBAラベル 出品者向け きれいにはがせる 24面 100枚入り EDT-FBA24100」用のものになってしまってますのでご了承下さい)

イベントカード用印刷シール(ver2)
シール4枚分だけのもの



 しかしまだ間違いが全然あるのではないかとも思います。見つけられた方はご連絡いただけるとありがたいです(>_<)

ルイ・フェルディナント公について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍達について調べる、第3弾はルイ・フェルディナント公についてです。


 おおまかには、日本版Wikipediaを参照していただいたら。


Louis Ferdinand of Prussia
↑ルイ・フェルディナント公(Wikipediaから)


日本版Wikipedia「ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)」



 さらに、『Who was who in the Napoleonic Wars』の記述を挙げてみます。

 【フリードリヒ大】王の甥でフェルディナント公の息子であり、「プロイセンのアルキビアデース」と評された彼はクラウゼヴィッツによれば、偉大なる将軍となり、その時代のプロイセン軍の指導的な指揮官となる潜在力を持った人物であった。その軍事的、行政的能力を買われて、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が導入した改革に関与し(そこで彼は進捗の遅さを感じていた)、ルイーゼ王妃と共に宮廷の「主戦派」の指導者となった。彼は1806年戦役における主要なプロイセン軍指揮官達の中で最も若く、中将としてホーエンローエ=インゲルフィンゲン指揮のプロイセン・ザクセン連合軍の前衛師団を率いた。その軍事的才能がどんなものであったにせよ、それはイエナ・アウエルシュタットの戦いの4日前の1806年10月10日に彼が比較的小さな部隊でランヌの第Ⅴ軍団とザールフェルトで交戦し、敗北した時に失われることとなった。フランス軍の前進を食い止めようとして騎兵突撃の先頭に立った彼は、負傷したにも関わらず降伏を拒否し、フランス軍第10ユサールの主計将校ギュアンデによって殺されてしまったのである。彼の死はプロイセン軍に重大な衝撃を与えたが、ナポレオンはこれはこの戦争を彼が促進したことに起因したのだと語った。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P194



 古代ギリシアのアルキビアデースに喩えられた、というのですが、アルキビアデースといえば私の印象はまず「裏切り者」なんですが……(^_^; しかし容姿が美しく、才能も抜群で、「将来アテネを背負って立つ」と思われていた、というのはあります。そこらへんがルイ・フェルディナント公と似ていると思われたということなんでしょうか。


 また、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』にはルイ・フェルディナント公に関してかなり詳しい記述がありました。1つ目に挙げるのは著者による評で、2つ目に挙げるのはクラウゼヴィッツが書いた論文の中の評です。

 国王【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世】とフェルディナント公【フリードリヒ大王の末弟】の長子ルイ【・フェルディナント】との間が気まずくなったのもこのころである。いくつかの革命戦争を闘ってきたこの二十歳の将軍貴公子は、すでにマインツ攻防戦で砲火をくぐりぬけ、 負傷したオーストリアのマスケット銃兵を救出するなど気概のあるところを見せ、カリスマ的行動志向があった。だが、彼は国のためにつくしたいという意欲にあふれていたのに、重要な軍事、政治問題の圏外に置かれていたのである。
 戦争が一段落すると、彼は地方の駐屯地を転々として無為に日を送り、次々に愛人を囲って財政に窮するという有様で、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世やその後継者の現国王との間に金銭や結婚問題をめぐっていざこざが絶えず、裁判沙汰にまでなったこともある。しかし、彼が自堕落な生活を送っているという噂はやや誇張で、当人は政治、経済の諸理論や軍事問題の知識を広め、シュタインやシャルンホルストのような人たちに教えを請いたいと心から願っていた。彼は多才でしかも努力家であり、作曲もすればピアノも弾いた。ベートーベンは彼のピアノ演奏を聴いて、「殿様芸の域を脱している」と言い、シューマンは彼の作った曲について、「古典派の中のロマン派」と評し、音楽に新時代を開いたシューベルトのようなひらめきを感じさせたと後年書いている。
  19世紀に入ってから、ルイ・フェルディナントはまだ適職には恵まれないものの、定期的にベルリンにやって来ては長期滞在するようになり、芸術や社会問題に関心を持つ人たちのグループに仲間入りしてたちまち注目を浴びた。彼は軍事協会のメンバーでもあり、 ベルク伯爵夫人の家にもしばしば出入りし、ここでシュタインをはじめとする閣僚達や、 ゲンツ、ヨハネス・フォン・ミュラー、アレクサンドル・フォン・フンボルトらの作家、学者たちとも定期的に会合をした。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P164~5

 彼はアテネの将軍アルキビアデスの生まれ変りのような人物だった。人間として成熟しきれなかったのは私生活の乱れも災いしている。彼はあたかも軍神マルスの長子の如く勇敢で大胆不敵 、決断力に富んだ男だったが、旧家の家長にありがちな、富を鼻にかけ、世事に無頓着な人間で、教育によって自分の精神を高め知的世界を広げようと真剣に考えたことがなかった。
 フランス人は彼のことを"されこうべ"と皮肉るが、もし彼らが"頭は空っぽだが熱しやすい"という意味でそう呼ぶなら、誤解もはなはだしい。彼の勇気はいわゆる向こう見ずとはちがって、偉大さ - つまり真の義侠心の飽くことない追求から出たものである。子ども時代からそうで、戦争で危険に身をさらすことがなければ、じゃじゃ馬に跨がり、激流を突っ切って狩りに出たがる。
 猛烈に頭が良く、身ごなしは洗練されていて、ウィットに富み、読書家で多才。とりわけ音楽に秀でていた。彼のピアノの腕前は名人級である。
 ……フリードリヒ大王の甥で、勇敢で大胆、なかなかの遊び人でもある若くてハンサムなこの貴公子将軍は、まもなく兵隊や若手将校たちのアイドルになった。しかし、古参の頭がこちこちの将軍たちはこういうタイプの青年紳士には首を傾げ、フレッシュな才能など無用な軍隊の日課や規則にがんじがらめにしてその芽を摘んだ。
 ……彼は仕方なく放埒な生活に浸って多額の借金を作り、そのエネルギーのはけ口をひたすら享楽に求めた。とりまきも立派な人たちばかりだったとは言えない。 それにもかかわらず、彼は決して自堕落に陥らなかった。頭は常に水面に出し、精神は高貴な領域に住まわせておいた。国家、祖国の重大事から目を離すことはなく、栄光と名誉に憧れ続けた……ところが結果的にはこれが政府関係者から煙たがられた。国王はとにかく彼とかかわり合うまいとした。 真面目な王は、 彼の放縦な生活ぶりが気に喰わなかった。独裁国の君主なら無理もないことではあるが、国王は彼の野心をのさばらせまいと警戒もした。彼の才気煥発さがかえって王を懐疑的にした(『破局を迎えたプロイセン』)。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P166~168


 この最後のところの分析は「なるほどなぁ」と思います(クラウゼヴィッツ自身がその後、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世からひたすら疎まれてひどい目に合わされ続けるというのも……(T_T))。

 クラウゼヴィッツが書いた論文である『破局を迎えたプロイセン』ですが、おそらく↓がその英訳だと思われます。

EXCERPTS FROM NOTES ON PRUSSIA IN HER GRAND CATASTROPHE OF 1806
by CARL VON CLAUSEWITZ Translated by COL [US Army] Conrad H. Lanza


 ただ、一部の抜粋だそうで(それでもかなりの量ですが)、私は(ルイ・フェルディナント公に関してあったように)色々な将軍の人物評があれば読んでみたいと思ったのですが、ざっと眺めてみた感じではそれはなさそうで、ずっと戦役に関する分析が続いている感じでした。いくらかタウエンツィーンの名前が出てきて見ていると、「この時タウエンツィーンがもっとこうしていれば……!」と書いてあるような気がしました(>_<)。あと、クラウゼヴィッツはルイ・フェルディナント公の弟であるアウグスト親王の副官であったのですが、10月28日にプレンツラウで勇戦空しくフランス軍の捕虜となってしまったので、その時のくだりのことが書いてある論文も最後に付いていました。



 ウェブサイト「祖国は危機にあり!」を書かれているR/Dさんもそのブログでルイ・フェルディナント公に関して書いておられ、大変面白いです。

ルイ=フェルディナント



 また、ウェブサイト「プロイセンの王妃達」を書かれている霧野智子さんもルイ・フェルディナント公について書かれています。

ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン

 霧野智子さんはルイ・フェルディナント公に関する同人誌?も出しておられて私は持っているのですが、今は販売されていない?


 それから、ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(あるいはドゥセック)という作曲家とルイ・フェルディナント公が非常に仲が良かったという話があります。日本版Wikipediaには、

ドイツでは、初めはリストを予告するような、最初の美男のピアニストだった。ルイ・シュポーアによるとドゥシークは、「淑女たちが彼の美しい横顔を愛でることができるように」、舞台上にピアノを横向きに置いた最初のピアニストだった。だが間もなく、プロイセン王子ルイ・フェルディナントに仕官するようになり、王子には使用人としてよりもむしろ友人や同僚として遇されるようになった。2人は時おり一緒になって、「音楽の饗宴」と呼ばれた乱痴気騒ぎに興じもした。ルイ・フェルディナント王子がナポレオン戦争で戦死すると、ドゥシークは感動的な《ピアノ・ソナタ〈哀歌〉》作品61を作曲する。


 とあり、また、第120回しばざくらコンサートの解説pdf?には「そしてハンブルクからさらにベルリンに向かい、彼はそこで音楽にただならぬ見識を持っていたプロイセン王国のルイ・フェルディナントの知遇を得て、1804年からその宮廷楽長を務めました。フェルディナントは自ら楽器を演奏するだけでなく(ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は彼に捧げられています)、作曲もたしなんだので、ドゥセックはその助言も行ったようです。フェルディナントはドゥセックを片時も手放さず、戦場への遠征にも同行させるほどでした」とありまして、以前この作曲家がどういう風にザールフェルトの戦場に同道していたかの文をどこかで見たことがあるような気がするのですが、今回見つけられませんでした(>_<)


 あと、「ルイ・フェルディナント」で検索すると、クラシック曲の動画が結構ヒットしますから、それでルイ・フェルディナント公の曲を聴くことができます。




 さて、1806年戦役の時なんですが、『1806:Rossbach Avenged』10月8日~10日セットアップなど (2016/03/22) で、OSGの同ゲームにセットアップをしていた画像があるのでそれに地名等を上書きしたもので説明してみます。

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 セットアップは10月8日(早朝?)のもので、この領域にはフランス軍はまだ全然いません。ユニットがいくつか見えているのはすべてホーエンローエ麾下のもので、ルドルシュタットに青い□で囲んだユニットがスタックしています。マップの西側にはブラウンシュヴァイク公のプロイセン軍主力がおり、元々そこから南西の方向へ向かってフランス軍(およびその補給源)への攻撃を企図していたのですが、フランス軍が思っていたよりも東にいるらしいことを知って、より東に移動中という感じです。

 矢印で示したのは史実のその後1806年戦役の流れであり、青い矢印は一番左がランヌとオージュロー、真ん中がベルナドットとダヴー、一番右がスールトとネイのそれぞれの軍団の進路で、黒い矢印はブラウンシュヴァイク公のプロイセン軍主力の進路です。

 さて、ルイ・フェルディナント公ですが、OSGの『1806 Coming Storm』P21によれば彼はこの前日(10月7日)の夜にルドルシュタットにてカロリーヌ・ルイーゼ公爵夫人の舞踏会に出席しており、公爵夫人の求めに応じてそのピアノの素晴らしい腕前を披露していたとか。そこで公爵夫人はこのように言ったそうです。
「あなたはこれから他のピアノも演奏しなくてはなりませんわね、殿下」
 それに対して彼は陽気にこのように答えたとか。
「そう、しかしもっと耳障りなピアノをですけどね」(Bauer, Frank, Saalfeld 1806, p.30.)


 その後のルイ・フェルディナント公の動きについて、参照した資料では「ルイ・フェルディナント公が悪い」説と、「ルイ・フェルディナント公は悪くない」説の2つがあるようでした。

 まず「悪い」説。これは『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』(MAP60)にあるのですが……。

 【10月9日、】ホーエンローエの前衛軍を指揮していたプロイセンのルイ・フェルディナント公は、ブラウンシュヴァイク公の前衛と交代するまで、ルドルシュタットを保持し、ルドルシュタットとザールフェルトの間でザーレ川を渡るように命じられた。ルイはその後ペスネックを通過して東進し、ホーエンローエ軍に再び加わることになっていた。
 だがそうする代わりに、ナポレオンの敵たることを公言していたルイ公は、即座にザールフェルトに部隊を派遣し、10日には彼の指揮する全軍で続いた。この一見衝動的な行動の理由は、未だ不明である。

 【10月10日、】ランヌは彼の先導師団をルイの右側面に回り込むように機動させ、ルイをザーレ川に追いこんだ(この間、ルイはホーエンローエからの2つ目の命令を受けとっていた。その内容は、ルドルシュタットに留まり、ザーレ川とイン川の間の領域をカバーし、正常状態を保てというものだった)。しかし、ルイがそれを実行しようとしたとしても、ランヌの側面攻撃はあまりに迅速すぎるものだった。そのザーレ川の橋は1300時ちょっと過ぎに確保された。ルイは、土壇場で彼の騎兵を率い、絶望的な突撃を実行したが、あるフランスユサール軍曹によって斬り殺された。


 ザールフェルトに行く必要もザールフェルトにこだわる必要もなく、ペスネックへ向かえば良いのを、なぜかルイ公はザールフェルトへ向かったことになっています。


 一方、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』とチャンドラーの『ナポレオン戦争 第3巻』は、上官であるホーエンローエの命令が曖昧であったため、ルイ・フェルディナント公が勘違いしてしまったことが原因である(すなわちどちらかというホーエンローエが悪く、ルイ・フェルディナント公は悪くない)、という立場を取っていました。

 両部隊とも相手の位置や出方の見当がつかない。そんな中で、10月10日、プロイセン軍前衛部隊を率いるルイ・フェルディナント公はフランス軍最左翼軍団に襲撃された。命令が不徹底だったため、彼はあらゆる犠牲を払ってフランス軍を阻止せねばならないと思い込んだ。多勢に無勢の上、位置的にも不利な彼の軍団は惨敗し、フェルディナント公は戦死した。
『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P189


 ↑こちらは非常に短いですが、チャンドラーの方はえらく長めに説明しているので、ザールフェルトの戦い中のフランス軍の描写に関しては省略して引用してみます。なお、チャンドラーはルイ・フェルディナント公を「ルートヴィヒ・フェルディナント王子」と書いています。

 その間【10月9日】、プロイセン軍の幕営ではいつものように紛糾が頂点に達していた。アウマの近郊で混乱に陥った自分の部下、つまりタウエンツィーンの失策という知らせにより、ホーエンローエは彼の支援のため、ザーレ川を越えて全軍を前進させる準備をした。9日と10日の夜の間にルートヴィヒ・フェルディナント王子が、ザールフェルトから先のグラーフェンタールへと数多くの敵の露営火が連なることを報告してきた。そこで彼の上官【ホーエンローエ】は、渡河の用意のためにルドルシュタットとカーラの間に即時プロイセン軍を集結させるべきだとの確信を強めた。不幸にしてルートヴィヒ王子に対するホーエンローエの指示が曖昧だったため、結果として前衛の司令官【ルートヴィヒ・フェルディナント王子】は、その使命がザールフェルトの細道を保持し、かつホーエンローエが彼の主力軍をアウマへと移動させる間(タウエンツィーンを支援するため)、さらにはブラウンシュヴァイクが王子軍の左翼の空白地帯を埋める目的で彼の軍隊を連れて来る間、時間稼ぎをすることであると勘違いしてしまった。その結果、ブラウンシュヴァイク軍は躊躇しつつエルフルト近郊にとどまっていたため、ルートヴィヒ王子はだんだんと孤立していったのだ。翌朝までに、ホーエンローエも、提案したザーレ渡河の是非について考え直してしまった。事実、ブラウンシュヴァイクは無遠慮にも移動を禁じてしまっており、したがって彼も前進を撤回したのであった。この新しい命令は10日午前11時に不運なルートヴィヒに届いたに過ぎない。彼はいまや、ルドルシュタットを堅持してランヌ軍の攻撃を耐えしのぐよう指示されていた。しかしそれはあまりに遅かった。午前10時以来、既にザールフェルトでは交戦状態に突入していたのである。
 ルートヴィヒ王子は、自分の任務がホーエンローエのアウマ進撃を覆い隠すと同時に、予想されるランヌ軍団の介入に対してブラウンシュヴァイクのルドルシュタット進軍を保護することにもあると堅く信じて努めてきたが、午前7時……彼の軍勢を、グラフェンタールへと続く細道からの出口を押さえるため、ザーレ川の左堤に布陣すべく移動したのであった。
『ナポレオン戦争 第3巻』P49,50


 「ザーレ川の左堤(左岸:上流から見て左側)」というのは、ザールフェルトの位置においては川の南西側になります。

 ↓はOSG『1806 Rossbach Avenged』で生起したザールフェルトの戦い。

スクリーンショット_160107_025

 真ん中の「SAALFELD」(街ヘクスはルイ公のユニットの下で見えません)の左横に「Wolsdorf」や「Schwarza」の村が描かれていますが、(ゲーム上とは異なり)実際にはザールフェルトの戦いはザールフェルトの街の西側の数ヘクスでおこなわれていました。

 『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』にはザールフェルトの戦いの地図が2枚載っているのですが、2枚目の方だけ挙げさせてもらうと……(この本、一番すごいのは軍装と軍旗がフルカラーで多数収録されていることで、地図も細かいのが充実しています。あと、フランス軍の将校について詳しいです)。

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 このようにルイ・フェルディナント公がザーレ川を背にして戦っていたことについて、チャンドラーの書き方は「その必要があったからそうした」という感じに響くような気がしますが、英語版Wikipediaは「フランス軍は高地を占め、一方プロイセン軍は背後にザーレ川があり、退却は難しかった。」と書いており、フランスの歴史家(というか1871~3年のフランス大統領)のティエールは、「ルイ公は退却が非常に難しい、軍事的によろしくない配置をおこなっていた。もし彼に慎重さというものがあり、そして虚勢を見せて急行する必要がなかったならば、彼は可能な限り素早く退却すべきだったのだ……」というようなことを書いているようです(OSG『1806 Coming Storm』P25:Thiers, p.266)。

 ザールフェルトの戦いの推移については、たいしてルイ・フェルディナント公の人物像が見える感じの記述も見つけられなかったのでスルーしたいのですが、今回資料を読んでいてびっくりしたのが、この戦いにあのグナイゼナウが参加していたと書かれていたこと。グナイゼナウが1806年戦役の時にどこにいたのかはずっと気になっていたのですが、今まで分かっていませんでした。前掲の地図にも「Gneisenau」とあり、中隊長であったことはOSG『1806 Coming Storm』にも『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』にも書かれていたのですが、階級については書かれていません。改めて「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」のグナイゼナウのページを見てみたら、確かにグナイゼナウはザールフェルトの戦いに参加したと書いてあり、しかも脚を負傷しつつ強力なフランス騎兵の突撃を何度も受けたにもかかわらず、戦列を維持し続けて名を挙げたと書かれていました。さすがグナイゼナウ……。

 さらにもう一人気になるのが、ミュフリンク連隊長?というのが出てくる(記述にも、地図上にも)ことで、このミュフリンクが偉大なるプロイセン陸軍参謀総長様だったとわ……! (2012/08/10) ミュフリンクについて再点検 (2013/03/23) で書いていたミュフリンクと同一人物であるかどうかが気になり調べたのですが、よく分からないままです……。



 さて、ルイ・フェルディナント公は「麾下の部隊が混乱し始めるのを見たルイ・フェルディナントはフランス軍の騎兵に対して突撃をおこなった。ルイ・フェルディナントは降伏勧告を拒否し、フランス軍第10ユサール連隊の主計将校ジャン=バプティスト・ギュアンデを負傷させたものの、その後の戦いで討ち取られてしまった。」(英語版Wikipedia)のですが、その戦死の際の詳細について諸資料を見ると、色々と違いがありました。


Heldentod der Prinzen Louis Ferdinand bei Saalfeld

 ↑「ザールフェルト近郊におけるルイ・フェルディナント公の英雄的な死」という絵(Wikipediaから)


 まずOSG『1806 Coming Storm』P25には、ティエールの本からの引用としてこのように書かれていました。

 (ルイ公の)2人の副官は彼の側で討ち取られてしまった。あっという間に囲まれそうになってしまったルイ・フェルディナント公は逃げようとしたが、彼の馬が生け垣で動けなくなり、止まるしかなくなった。第10ユサール連隊のある主計将校が、まさか王族だとは思わなかったものの階級の高い人物だとは思って、馬を駆け寄らせながら叫んだ。
「将軍、降伏して下さい!」
 この降伏勧告に対してルイ・フェルディナント公は剣を突き出して答えた。(Thiers, p.267)


 ここまでがティエールからの引用らしく、次の文は地で書かれています。「剣でのやりとりが続き、ルイ公は6ヶ所を負傷したが、うち2ヶ所が致命傷であった。彼は乗馬の足下に崩れ落ちた。」

 非常に具体的に書かれていますが、ティエールが歴史家としてどれくらい信用できるかというと、怪しいものがあるそうです。R/Dさんの「祖国は危機にあり 関連blog ティエール」を読んでいただくと……。個人的には、あまりにもいきいきと描かれていて、それゆえにちょっと信用できない気がします(^_^;


 霧野智子さんの『ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン』にもある程度詳しくこの戦死の時の様子が書かれています。その記述では、ルイ公の前後を少数のフランス軍騎兵が取り囲み、降伏せずに(降伏勧告があったとは書かれていない)ルイ公は戦い続け、そのうちに下士官のグウィンディ(他の資料では主計将校、あるいは軍曹のギュアンデとあることが多いです)が進み出た、と。彼はルイ公の格好からプロイセン軍の元帥の一人らしいと考えた。彼のルイ公への攻撃はまず肘、胸、そして後頭部へと当たり、後頭部へのものが致命傷となった……とあります。そして、フランス兵達はルイ公の遺体に群がって金目の物を略奪し始めたそうです。

 霧野さんはドイツ語のルイ・フェルディナント公に関する本を含め、複数の文献にあたっているようです。



 また、ドイツ語版Wikipedia「Louis Ferdinand von Preußen (1772–1806)」にはルイ公の戦死の時の状況についてある程度詳しい記述があったので、ドイツ語をGoogle翻訳で英語にして、重訳してみました。

 プロイセン軍の前衛部隊の指揮官であったルイ・フェルディナントは1806年10月10日、イエナとアウエルシュタットの戦いの4日前に、ザールフェルトの戦いで戦死した。ルイ公はフランス軍第10ユサール連隊の主計将校であったジャン=バプティスト・ギュアンデ(1785-1813)によって討たれた。これによって彼はレジオン・ド・ヌール勲章を授与したが、昇進はしなかった。ナポレオンが、ルイ公を捕虜にした方がより良かったと発言し、それゆえ昇進はならなかったのである。ただ後にギュアンデは連隊副官補佐へと昇進した。
 ギュアンデが一人でルイ公を倒したのか、あるいは戦友の助けもある中で倒したかについては、現在の歴史家の間でも論争がある(有名なRichard Knötelによる「ザールフェルト近郊におけるルイ・フェルディナント公の英雄的な死」という絵は後者の説を採っている)。しかし恐らくは、一人で倒したというのが正しいのではないだろうか。なぜならギュアンデの報告では、ルイ公が馬を翻して逃げるのに対してギュアンデがまず追跡し、ルイ公の馬が柵を越えようとジャンプしたもののひっかかってよろめいた時に、ギュアンデがルイ公の後頭部を傷つけた、となっているからである。ルイ・フェルディナント公はこの時、致命傷を負いながらも戦い続けたそうで(!)、そこでギュアンデはルイ公の胸を突き刺したのであった。しかし、背後からの後頭部への一撃だけでも、ルイ公はすでに正常な能力を失い、死んでしまっていたことであろう。とはいえ、正面からの「名誉ある」一撃によってとどめをさしたことは、ギュアンデをより英雄的にしていると言える。



 引用文中の「(!)」は元の文にあるもので、私が付け加えたものではありません(^_^; 

 様々な説があるらしいわけですが、個人的には非常に興味深く感じます。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について調べる、第2弾です。

 いわゆる「Württemberg(ヴュルテンベルク)」と呼ばれる、予備としてハレにいる指揮官を取り上げるのですが、そもそもこのヴュルテンベルクという名前自体が、当時あった公国の名前です。


 ↓1806年9月初旬のプロイセン軍配置 (2016/03/17) で作っていた地図。

1806年戦役用03Map57用02

 左下の紫色の領域です。

 1806年戦役の時、この地図で色で塗った国はプロイセンに味方をした国なんですが、しかしブラウンシュヴァイク公国、ヘッセン=カッセル公国、ヴュルテンベルク公国は兵力は出していなかったのではないかと……(ヘッセン=カッセルは将軍も出してない?)。

 ちなみに赤い線は、ナポレオンが糾合して手下としていたライン同盟の領域ですから、ヴュルテンベルク公国はライン同盟に属していながらプロイセンに味方を……?

 しかし味方といっても何をしたか、何をしなかったか私は良く分かってません。ただ、ヴュルテンベルク公の弟がイエナ・アウエルシュタット戦役に参加しており、それがゲームでも将軍として出てきており、今回取り上げるオイゲン・フォン・ヴュルテンベルクなわけです。

 ……といっても、このオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公なんですが、私が今まで集めてきた資料の中には、「どんな人物か」ということは書かれていませんでしたし、頼みの綱の「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にも項目がないようです。が、なぜか日本版Wikipediaにはある程度情報があります。一応英語版とドイツ語版も見てみたのですが、記述がまったく一緒のようなので、どうやら重訳されていったもののようです。


Eugenwuerttemberg1822
 ↑オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)(Wikipediaから)


オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1758-1822)


 このオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク公はイエナ・アウエルシュタット戦役(とハレの戦い)に出てくるわけですからそれらにユニットとして出てきますが、それで軍歴は終わりで、しかし彼の同名の長男の方がロシア軍の将軍としてその後のナポレオン戦争で活躍し、ロシア戦役やライプツィヒの戦いでユニット化もされていておかしくないようです(私はそこらへんのゲームを持ってないので、ユニットの画像とかはパスで(^_^;)。

オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク (1788-1857)


 日本版Wikipediaの記述がある程度詳しくて、私にはそれ以上調べられそうにないので、もうそちら任せということで……。


 ただ、ヴュルテンベルク公(父)の項に「当時、オイゲンの駐屯していた地域は17世紀に枝分かれしたヴュルテンベルク家の分家が治めるエールス公爵領が存在していた。」という話が出てきます。

 このエールス公領は後にブラウンシュヴァイク公(子)の方に相続されるので、そこらへんのみ付け足しを。


 ↓ブラウンシュヴァイク公、ウィーンへ (2014/04/12) で作った地図。

Brunswick1809_001a.png

 「エールス公国」とあるのが、推測によるエールス公領の領域です。

 日本版Wikipedia「オレシニツァ公国」には、「公国は長くボヘミア王冠の属領であったが、シュレージエン戦争の結果、1742年にプロイセン王国に征服された。しかしヴュルテンベルク家の公爵達は領主として同国を領有し続け、1792年に公国はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯カール1世の息子の一人フリードリヒ・アウグストに相続された。」とあります。

 この相続された「フリードリヒ・アウグスト」というのは、ブラウンシュヴァイク公(父)の弟で、事績とか分かりませんがある程度長く存命した唯一の弟であったようですね。

 ただ、この人物も子供を残さずに1805年に65歳で亡くなり、後継者がいなかったのでブラウンシュヴァイク公(子)が継いだのでした。


タウエンツィーン将軍について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について、今まで調べていなかった人を調べようという企画、第1弾はタウエンツィーン将軍について調べてみました。


 いくつかの資料を参照したんですが、彼の外交的な仕事やなんかについてはいくぶんか省略しています。


Graf-tauentzien.jpg
 ↑タウエンツィーン(Wikipediaから)


 タウエンツィーンは1760年生まれ。がフリードリヒ大王に仕えた将軍であったことから、彼自身もプロイセン王家と密接なかかわりを持ち、1775年にプロイセン軍に入った後、フランス革命前の時期には王子(ハインリヒ?)と一緒にフランスを旅したりし、1791年に父が死んだ時には王(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)から従者に任命されました。その数ヶ月後に伯爵位を受けているのは父親の爵位を継いだもの? 1793年には王族の副官としてフランス革命戦争に参加し、その後ロシアへの外交任務に派遣され、1795年には大佐になりましたが、彼自身は軍人としてよりは外交の方に精通していたようで、1813年までに多くの外交的任務を任されました。

 ですが1800年3月には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に、外交的な任務でなく連隊長のポストが得られるように頼んでいます。しかしすでに外交的任務などで?年功のあった彼にちょうど合った連隊長職を見つけることは非常に難しく、そのうちに病気にかかって所領で養生していたようです。

 しかし少将に昇進後の1801年9月にようやく希望が叶えられ、アンスバッハに駐屯するある連隊の長となり、訓練に励みました。アンスバッハというのは当時のプロイセンにとって南西の方にあった飛び地で、1805年のフランス対オーストリアの戦役の時にプロイセンは中立であったにもかかわらずフランス軍がアンスバッハを通過し、大問題となりました。

 アンスバッハの位置についてはプロイセン王国の国土の拡張という画像が分かりやすかったです。

 なぜ当時フランス軍がアンスバッハを通過したのかに関しては、1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯 (2015/12/29)に以前いくらか考察を書きました。

 この時タウエンツィーンは、フランス軍の通過を止めるためにはあまりにも少ない兵力しか持たなかったので、現実的な対応をしました。つまり、フランス軍は通過させ、しかし南ドイツにおいてフランス当局に対して激しい外交キャンペーンをおこなったのです。1806年にブリュヒャーがアンスバッハにやってきて指揮を執り始めると、ブリュッヒャーとタウエンツィーンはひどく仲たがいし、タウエンツィーンは辞任を願い出ましたがフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はそれを却下しました。

 1806年の戦役の時にはタウエンツィーンはホーエンローエの率いる軍勢の中の左翼の前衛を担当し、資料により色々ですが大体8,000から9,000名程度の兵を持ち、うち1/3~2/3はザクセン兵であったかのようです。

 10月9日にタウエンツィーンの部隊はシュライツで、この戦役で初めてフランス軍との戦闘となりましたが、これは本格的な戦闘ではなく、小競り合い程度でタウエンツィーンの部隊は撤退しました。タウエンツィーンはシュライツでの戦闘でそもそも会戦を意図しておらず、小規模な砲撃や騎兵戦闘だけで時間稼ぎをして撤退したようなのですが、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」はこの戦闘を敗北とし、この時のタウエンツィーンの行動は批判されていると述べています(敗北が非難されているのか、あるいは可能性として、この撤退によって東の側面をフランス軍に明け渡したのみならず、その後のフランス軍の東側面における行動も監視下でなくしてしまったということが非難されるのかもしれません)。

 一方、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」はこの後の退却について、「タウエンツィーンは部隊を上手くMittel-Pöllnitzへと退却させ、プロイセン軍主力と合流させることができた。」と述べています。

 タウエンツィーンはイエナへと撤退し、イエナの戦いでは再度前衛として戦いました。イエナでの敗北の後の退却については『ナポレオン戦争 第3巻』P92にこう賞賛されています。「それでもなお、イエナから北へ向かう退却の間に見られた、タウエンツィーンの首尾よい援護行動は立派であった。特に、その同じ朝に彼の部隊は手荒に扱われたのであるから。」

 タウエンツィーンはホーエンローエの軍勢と一緒に退却したようで、ホーエンローエが大軍を持ちながらプレンツラウであっけなく降伏した時に一緒に捕虜となったようです(10月28日)。その後釈放されたのですが、ナポレオンは1805年のアンスバッハにおけるタウエンツィーンの振る舞いに立腹していたことから1806年12月23日に罪状もないままに彼を逮捕し、フランスの要塞に拘留しました。この後、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」による記述は時系列が良く分かりませんが、タウエンツィーンはアンスバッハとバイロイト(これもプロイセンの飛び地であったところ)で非常に大きな賞賛と歓迎で迎えられ、これが再度ナポレオンをイライラさせることになり再度逮捕され、最終的に1808年11月20日まで投獄が続きました。

 解放された後、タウエンツィーンはベルリンのブランデンブルク旅団の指揮官に任命され、またフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に同行してサンクトペテルブルクのロシア宮廷に赴きました。

 1806~7年の戦役における数々の失態によってプロイセン軍の多くの将官が解任されましたが、タウエンツィーンは解任されることはありませんでした。しかし、タウエンツィーンは保守派の者達の中でも特に伝統的な考え方を重んじる人物であったため、シャルンホルストや改革派の者達からこころよく思われていませんでした。タウエンツィーンは長年外交畑で活動していたためその人物像について良く知られておらず、多くの者達が彼が戦場指揮官として残る能力があるのかどうかに疑いを抱いていました。また彼はドイツのナショナリズムを大いに支持しており、フランスの秘密警察の重要な監視対象となっていました。

 1809年にプロイセン軍の将校シルがドイツ北部で反乱を起こし、すぐに鎮圧されましたが、シルはタウエンツィーンの指揮下にいた人間であったため(再びナポレオンの主張により)タウエンツィーンは逮捕されました。逮捕後、再びタウエンツィーンは辞職を願い出ましたが再び却下されました。裁判の結果はいかなる共謀も認められないというものでした。1811年10月にタウエンツィーンはブリュッヒャーの後任としてポメラニアの総督となりました(ナポレオンがそこの総督であったブリュッヒャーの解任を要求していたため)。

 1812年3月にタウエンツィーンはベルリン総督となり、1813年3月にはオーデル川とビスワ川の間のすべての軍の総督となりました。タウエンツィーンは戦闘部隊の指揮官となることを願い出て、拒否されて再び辞表を出しましたがいつものように拒否されました。

 タウエンツィーンはロシアのクトゥーゾフ将軍の下でシュテッティンの町を封鎖するように命じられました。クトゥーゾフはシュテッティンの町を取ろうとしてはいけないと警告していましたがタウエンツィーンは従わずに襲撃をおこなって敗北しました(と、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にはあるのですが、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」には「タウエンツィーンはシュテッティンの攻囲に成功した」とあります)。

 1813年7月にタウエンツィーンは主に義勇兵(ラントヴェーア)からなる第Ⅳ軍団の指揮を任されました。彼の任務は、オーデル川とエルベ川の要塞を支配し、またブリュッヒャーとベルナドットの軍と協力することでした。8月22日にタウエンツィーンはBlankenfeldでの小競り合いに勝利し、それによって翌日のグロスベーレンの戦いにおける連合軍の勝利に大きく貢献しました。8月28日にはLuckowを占領し、その後9月5日にデンネヴィッツで攻撃を受けました。当初タウエンツィーン軍団は単独で圧倒的兵力からの攻撃に耐えねばなりませんでしたが、ビューロー将軍の第Ⅲ軍団が到着するまで義勇兵達は耐え抜き、両軍団はネイの軍団を打ち破ってベルリンへの接近を阻止しました。デンネヴィッツの戦いの戦いの日の正午、タウエンツィーンの幕僚の一人が退却して軍団の損害を避けるようにと進言しましたが、その時彼はこう言ったそうです。
「一人の将軍が他の将軍に何かを言った際には、それを疑ってはならない。一歩でも後退するよりも、私は麾下の全部隊と共にここで死ぬことを選ぶ。」

 10月中旬、タウエンツィーンはナポレオンが3万の兵力でベルリンに進撃中であると聞き、ベルリンを守るためにエルベ川を越えて北に撤退しました。これは戦略的な誤りであったため、タウエンツィーンは多くの批判を受けました。なぜなら、タウエンツィーンが10月15~16日の夜の間に急いでベルリンへと向かっている間、ナポレオンは反対の方向であるライプツィヒに軍を集中しているところであったからです。このため、第Ⅳ軍団はこの大会戦に参加することができませんでした。

 1813年12月26日にタウエンツィーンはトルガウ要塞を奪還し、1814年1月12~13日(Wikipedia上では13~14日)の夜にヴィッテンベルクを占領しました。この占領の功績の大半は彼の予備部隊の指揮官であったドープシュッツ中将にあったのですが、ヴィッテンベルクの勝利はタウエンツィーンのものとして賞賛され「von Wittenberg」の称号と紋章それに大鉄十字章を授与されました(この時代に大鉄十字章を授章したのは、ブリュッヒャー、ビューロー、ベルナドット、ヨルク、タウエンツィーンの5人だけ)。ヴィッテンベルクのある通りには当時タウエンツィーンの名前が付けられたものの、今はドープシュッツの名前で知られているそうです。

 タウエンツィーンの軍団はその後マクデブルクを封鎖し、マクデブルクはナポレオンが退位した後の1814年5月24日になってようやく降伏しました。

 またこの頃、タウエンツィーンはデンネヴィッツの勝利の戦功を主張してフォン・ビューロー将軍との間で大きな論争となったそうです。

 『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』P100によれば、タウエンツィーンはこの頃のプロイセン軍保守派の一人であり(他にはクネーゼベック、カルクロイト、クライスト、ヨルクなどがいた)、またタウエンツィーンはビューローから軽視されていると考えていたそうです(デンネヴィッツの戦いの戦功に関する論争がその原因だったのかもしれません)。

 1815年3月23日にタウエンツィーンは第Ⅵ軍団司令官となっており、ワーテルロー戦役に向かいましたが、彼がフランスに入った頃にはワーテルローの戦いは終わっていました。

 戦後は第Ⅲ軍団を指揮し、タウエンツィーンは1824年2月20日にベルリンで亡くなりました。





 感想ですが、調べていて意外に、非常に面白い人だなと思いました(^_^; ナポレオンに投獄されまくったり、辞表を出しまくったり、ブリュッヒャーやビューローとケンカしたり、誉められたりけなされたり。



 今回の資料は、文中にもいくらか示しましたが、↓とOSGの『1806 Coming Storm』です。他にもいくらか参照しましたけど、収穫なしだったりしたので(あと、英文が私にとって分かりにくい資料は今回パスしてます(^_^;)。




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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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