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OCS『Case Blue』バックハンドブロー1回目の反省。次は『Tunisia II』

 昨日の尼崎会(拙宅)で、これまでのOCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーンのプレイに関して、再度いろいろと反省などを話し合っていました。

 とりあえずまず「今回のプレイで疾駆作戦と星作戦について色々考え違いをしていたし、格別失敗というわけではなかった」件について。


 疾駆作戦と星作戦についてネット上に、↓の地図があるんですが、それと今回プレイを見比べると……。

Maps 1943Operations of the Voronezh and South-Western Fronts


 地図に2/9の前線が描かれているので、それと今回のプレイの2/5ターン終了時の前線を重ねてみました。

 ↓赤が2/9の前線。黒が今回のプレイの2/5ターン終了時の前線。

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 ドネツ川を越えて大きく西に張り出している部分については、実は今見直していて気付いたもので、昨日ワニミさんと話し合っている時には分かってなかったんですが、「西に張り出し」以外の部分では別に大して差異はありません。

 ところが我々は、「第1ターン(1/29)や第2ターン(2/1)で少なくともドネツ川を突破して、第3ターン(2/5)くらいには大きく張り出していなければならないはずで、それができない、できなさそうでいる我々の攻勢は最初から大失敗だ」と思い込んでました。つまり、想像していたよりも疾駆作戦と星作戦はゆっくりとしたペースで進んでいたようで、我々の誤ったイメージとの乖離で勝手に「どうにもならん」と思い込んでいた。


 そいでもって今、詳しく地図とOCS『Case Blue』のマップ上とで見比べてみますと……。

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 驚いたのは、西に大きく張り出していた部隊は、例外なく歩兵(狙撃兵)部隊でした(RDが狙撃兵師団、RBgdが狙撃兵旅団)。

 OCSのユニットの配置は1/29のもので、赤い実線が前記地図における2/1の前線。部隊名に()が付けてあるのは、OCS上ではそこにいない部隊で、『ドン川からドニエプル川へ』と合致する面もありますが、合致しない面もあります(親衛かどうかなど)。

 赤い破線が前記地図における2/9の前線です。赤い矢印線は、「どの部隊がどこへ行ったか」を表すものであって、その矢印線の場所を走破していったということを意味するものではありません(前記地図にそこまでの情報がないので)。


 OCS上でこれがどういう風に再現され得るかと考えてみると、ドイツ軍側がそもそも全力で下がって、それをソ連軍歩兵部隊が移動モードでの全力で追いかけた場合とかでしょうか。

 前回の反省の時でも、「枢軸軍はもっと、ガガっと退却してよいのではないか。それで補給路が延びて困るのはソ連軍の方なのではないか? それに対して枢軸軍は、鉄道線がどこもかしこも枢軸軌道なのだし、困らないのではないか」という説が出てました。しかしそれに対して「でもドネツ川の線を保持することの方が合理的ではないか……?」という意見も出ていて、「う~~ん」という感じだったのですが、史実の枢軸軍は退却するところではガガっと下がっているということなのかもしれません。

 一方で今回の画像の下のあたり、ドネツ川南岸地区(スターリノの北方)では、ドネツ川をすでに渡河されてしまっているにもかかわらず、ドイツ軍は頑強に抵抗し、スターリノへの南進を阻んでいるように見えます。



 あと、「集積してから大攻勢」か、「毎ターン使えるSPで攻勢し続ける」かの件ですが、

・歩兵が追いつくのを待ってから次の攻勢をした方がいい。
・攻勢で態勢が崩れるから、それを一旦整えた方がいい。
・燃料を「入れる/入れない」で差が激しいのがOCSだが、それが「攻勢→集積→攻勢」のサイクルを生み出すのに一役買っているのではないか。我々はそれを、毎ターンちまちま動いて「SPがない~」と言っていたのではないか。

 などの話が出まして、「なるほど……」と。集積が必要だと思いつつもそれがプレイ上でなかなかできていなかったのですが、やはり一度じっくりと、それをやってみないと分からないよね、と。



 あと、松浦方式(「ソ連軍の戦線を2つに分けて2人がそれをプレイし、枢軸軍のターンにはソ連軍の時の自分の担当戦区でなかった方の戦区をプレイする」)だと、お互いの軍の意図が見えすぎるから、「ホントは知ってるけど、知らない体でプレイしなければならない」という弊害の話とか、今回のバックハンドブローキャンペーンでスターリングラードにいた部隊の多くがクルスク方面に向かっているはず(リトルサターン作戦後の連続攻勢でクルスク突出部を形成したのですね (2017/11/04) )なのだから、やはり本当はクルスク方面のマップも追加してプレイしなければならないよね……という件とか。


 で、毎回我々のOCSのシナリオプレイは「1回目は状況把握で、2回目が練習で、3、4回目くらいでようやくらしくなってくる」という感じなのですが、今回も1回目の状況把握はある程度できたかなということで、もったいないのですが閉じてしまおう、と。次やる時はクルスクマップも追加してやりたいと思います。

 で、とりあえず「集積→攻勢」のサイクルを練習するのと、キャンペーンをある程度以上(15~20ターン以上くらい?)通しでやってみる必要があるよね、ということで、次は『Tunisia II』のキャンペーン(58ターン以下)をやってみようかということになりました(『Sicily II』の方がキャンペーン(16ターン以下)は短く終わるのですが、シチリア戦は短期決戦で「集積→攻勢」のサイクルがあまりなさそうな感じがするので)。


 ただ、ワニミさんも私も、なんか悪寒がしてくるようになりまして、とりあえず今日のプレイはなしにして養生してます(^_^; 少なくとも悪化はしないで回復できたら、1/31~1/4にかけてプレイできるのですが……。

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補給物資を前方に集積しなければならない話

 OCSでは、後方から届く補給物資(Supply Point:SP)をトラックなどで前線近くに運んで集積し、それを消費することによってユニットに燃料供給や戦闘補給を与えます。この補給システムは確かにある程度面倒で、私も最初は「前線のゲームと、後方兵站のゲームの2種類のゲームを同時にプレイしている」かのような負担感を感じたものでした。が、OCSをひたすらプレイしているうちに慣れてきまして、今ではむしろ「もうちょっと、集積をしないとゲームが成り立たないようにした方がいいのでは……?」と思ったりもしています(これは後述します)。


 この「集積」に関して過去に、『ドン川からドニエプル川へ』(『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』)のリトルサターン作戦の章で、いくらか調べたりしていました。↓

「小土星」作戦、補給を2週間貯めて戦闘1週間分 (2016/10/26)


 が、戦記物を読んでいて、(前方への)集積に関して触れられているのをそれほど読んだことがあるような気はしません(意識してなくて読み飛ばしているだけかもですが)。ところが、先日購入した『「砂漠の狐」回想録』を少し読んだだけで、2箇所もそういう記述が出てきました。さすが抜粋でない、全訳だけのことはある?

 『「砂漠の狐」回想録』については↓こちら。

大木毅さん訳の『「砂漠の狐」回想録』が出てました (2017/12/23)



 「前方への集積」について出てきた部分はこちら。

 もし抵抗がないとみれば、イギリス軍はさらに進撃してくるだろうと、私は想定していた。だが、その一方で、あらたな戦闘が迫っていると知れば、敵が攻撃を続けることはないとも確信していたのである。その場合、イギリス軍は軍需品のストックを前方に運ぶことに取りかかるだろう。
『「砂漠の狐」回想録』P29

 ……私は、3月24日にエル・アゲイラ付近の敵に対する作戦を発動する準備をととのえておくよう、第5軽師団に命じておいた。……わが軍は少し前に、独伊混成戦隊を以て、南方数キロの地点にあるマラーダのオアシスを占領していた。そこに補給物資を集積しておかなければならなかったのである。が、わが補給段列は、エル・アゲイラのあたりにいる英軍によって、頻繁に攻撃されていた。
『「砂漠の狐」回想録』P36



 やはり史実でも、補給物資の前方への集積が大事なのですね。さすがOCS!


 ところが、2つ目の引用で名前の出てくる「南方数キロの地点にあるマラーダのオアシス」ですが、OCS『DAK-II』だとこんなに南にあります。OCSは1ヘクス約8kmで15ヘクスくらい南なので、南方120キロくらい?

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 Googleマップでのマラーダでも同じ辺りにあるように見えますが、SPIの『Campaign for North Africa』だともうちょい北にあるようです。

SPI『Campaign for North Africa』と『DAK-II』の比較 (2017/01/15)


スクリーンショット_160405_134


 
 OCS『DAK-II』のマラーダ・オアシスからだと、司令部を使えばエル・アゲイラあたりまで補給は届くかな……という感じですが、「南方数キロ」というロンメル自身の記述とは隔たりを感じますね。実際、OCSでプレイする上でも、数ヘクス(実距離にすると20~80キロ程度?)の場所に補給集積所を置きたいような感じがします。



 さて、前述の「もうちょっと、集積をしないとゲームが成り立たないようにした方がいいのでは……?」の件なんですが、大規模攻勢のためには集積しまくっておいた方がいいのは事実なんですが、「あるだけ全部使ってしまうのがプレイヤーのさが」ですし、各ターン毎に来る補給物資でなんとかずるずると攻勢を取れてしまう気もまた、しているのです。鉄道輸送が柔軟にできてしまうのと、前に運んだSPもすぐに使えてしまう(2回運んだりはできない)のが原因か……?

 ハウスルールでそこらへんを縛りまくるとかしたらどうなるか、試してみるとか……?(ハウスルールを付けたり外したり、色々試したりしてます。OCS公式サイドの、ハウスルールに関する考え方は↓こちら)

OCSのハウスルールへの考え方? (2015/05/03)


OCS『Case Blue』と『ドン川からドニエプル川へ』で疾駆作戦を検証

 今、OCS『Case Blue』で疾駆作戦と星作戦をメインとするバックハンドブローキャンペーンをプレイしていますが、どうも疾駆作戦も星作戦もうまくいかないので、グランツ氏の『ドン川からドニエプル川へ』(『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』)でもって検証してみようと考えました。





 まずは疾駆作戦(Operation Gallop)について、OCS上での初期配置と『ドン川からドニエプル川へ』を見比べてみました。

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 ソ連軍側からいきますと、まず第6軍(6 Army)は全然齟齬がありませんでした。オレンジの線で囲ってある範囲です。

 第1親衛軍もオレンジで囲ってありますが、色々齟齬がありました。「+」が付けてあるのは、OCS側にはないが、『ドン川からドニエプル川へ』に書かれている、ということ。逆に「-」が付けてあるのはOCS側にあるが、『ドン川からドニエプル川へ』に書かれていない、というもの。『ドン川からドニエプル川へ』ではここに第35狙撃兵師団がいるはずなのですが、OCS側では『Guderian's Blitzkrieg II』マップのE2.23にいることになってます。等々。

 ポポフ機動集団は赤色で囲みました。色々見当たらない部隊がありますが、特にOCS側では第25親衛狙撃兵師団がマップ上にいるのですが、それが本には見つからない。第52狙撃兵師団の間違い?

 また、予備も後方にいますが、第1親衛騎兵軍団が見当たらず、これも『Guderian's Blitzkrieg II』側にいます。


 枢軸軍側は、ランツ軍支隊を灰色で囲みました。第24装甲軍団がドネツ川北岸にいますが、北に離れて歩兵師団が2つおり、その北方ハリコフの方にいるのがランツ軍支隊の本体であるグロース・ドイッチュラント等という感じっぽいです。

 第1装甲軍を黒で囲みました。右下、第40装甲軍団の司令部だけとりあえずいたらしいとか、第30軍団の司令部とかは、ユニットはない?

 中央部の黒い囲みが第3装甲軍団で、装甲師団が3ついます。第7(第3装甲軍団司令部の下にスタックしている)、第19(緑帯)、第27(ピンク帯)で、イジュムには901Lehrってやつがいます。他に細かい独立部隊がOCS側には見えますが、グランツ側では分かりません。

 で、これはまだ準備段階で、これから『ドン川からドニエプル川へ』で読み込んでいこうと思いますが、とりあえずちょっと認識を改めなきゃと思ったのが、私は疾駆作戦は今回の画像の南の中央部辺りにおこなわれたイメージを持っていたんですが、むしろ真西に向かっている感じがありました。スラビヤンスク(Slavyansk)という小都市があるドネツ南岸の小河川から、画像の一番左上のズミエフ(Zmiyev)の間が、ポポフ機動集団が首を突っ込んだ場所なんですね。

 疾駆作戦の流れについては今後見ていくんですが、イジュム(Izyum)をまず奪取して……とかなのかしらん。

OCSユニットで見る「軽師団」→「猟兵師団」?

 『「砂漠の狐」回想録』を読み始めたところ、すぐ最初のところに以下のような説明書きがありました。

 ……軽師団 〔Leichte Division. 自動車化歩兵師団と装甲師団の中間に位置する、やや戦車を強化された編制。歩兵師団の一種が、同じ名称を与えられたこともある。後者は、のちに「猟兵師団 Jäger Division」と改称された
『「砂漠の狐」回想録』P25,6



 前段部分は、北アフリカで言うならば第5軽師団(のちの第21装甲師団)のことで、ポーランド戦の時には他に色々その種の軽師団があったようですがポーランド戦はよく知りません(^_^;

 後段部分(青色にしたところ)が今回興味を持ったところで、「のちに猟兵師団と改称された」と。


 実は猟兵師団がOCS『Case Blue』に複数出てきていて、「これはいったいどういう部隊なのだろう?」と疑問に思っていたのです!

 ↓『Case Blue』の猟兵師団(兵科マークに「Jg」とあるもの)。

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 比較のために他の歩兵師団も一緒に挙げましたが、マップ上で一番よく見るのは「20-4-3」の歩兵師団です。稀にしか見ませんが、ARが5、3、2のやつもいますね。「Trng」とあるのは「Training」の略で、「訓練」ということでしょうか。山岳歩兵師団はAR5で強いです。


 「軽師団」→「猟兵師団」について、他に調べてみたところ、以下のような記述が見つかりました。

 いくつかの歩兵師団が、「軽歩兵師団」として1940年後半に、あるいは1941年後半には「軽師団」として編成された。これらの部隊は起伏の多い地形、特に南西ヨーロッパでの作戦のために編成されたものであった。その下の歩兵連隊は猟兵連隊と呼ばれ、1942年には、軽師団と軽歩兵師団は猟兵師団と名称を変更された。
英語版Wikipedia「Jager (infantry)」


 ドイツ軍の猟兵師団は、標準的な歩兵師団よりも小規模な、困難な地形用に編成されたものだった。猟兵師団は山岳師団よりも重装備ではあったが、通常の歩兵師団ほどではなかった。戦争の初期には、山岳と平原の間の、荒れ地や丘陵地帯、それに市街地などで戦う師団として使用された。猟兵(ドイツ語で「狩人」を意味する)は、高い訓練度と、優れた連携、それに弱くはない砲兵支援力によって信頼を得ていた。
英語版Wikipedia「100th Jager Division (Wehrmacht)」



 

 ↓『DAK-II』の第90軽師団と第164軽師団のユニット。

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 兵科マークの左側の部隊番号が同一のユニットが複数あることに注意して下さい。これらが時期によって置き換えられるので、一度には写真のユニットの一部のみが存在することになります。しかしそれでも、『Case Blue』の猟兵師団より合計戦力値は大きめになりそうな気がします。装甲師団ユニットでも、『DAK-II』は他のOCSゲームよりも合計戦力値が多くなる(というか特殊な部隊が含まれていることが多い)ような気がします。



 ↓『Tunisia II』の第90軽師団、第164軽師団、第999軽師団のユニット。

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 こちらは時期による置き換えはなしですが、それぞれの軽師団の中身は結構異なる……?


 「軽師団」→「猟兵師団」への名称変更という話ですが、1942年にされたという話ですが、チュニジア戦の終了は1943年5月13日で、それまでに北アフリカの軽師団が猟兵師団へと名称変更されたという話は聞かないような気がしますから、「軽師団」→「猟兵師団」という話はあくまで南西ヨーロッパ(東部戦線の南方軍集団?)の話なのかも?

 『Case Blue』は1942年5月から始まりますが、その時点ですでに「軽師団」→「猟兵師団」となっていたのかどうかは分からないのですが、ゲーム上ではすべて「猟兵師団」となっています。

 ヨーロッパでの軽師団/猟兵師団が先ほどの引用のような性質なものだとして、じゃあ北アフリカの軽師団はどういう性質のものなのか、検索で探してみたところ、例えば『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』の以下のような記述が……。

注記:ドイツ軍の軽師団には、様々なタイプがあった。北アフリカでは、第90軽師団は3個自動車化歩兵連隊より構成されていたが、第164軽師団は3個装甲擲弾兵連隊より成っていた。第5軽師団は装甲師団に似た構成であり、後に第21装甲師団に改編された。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P212



 「様々」……うーむ、まあ確かに。しかし編制については、OCSのものとは合致してないような。


 他に、"The German Light Division" from Tactical and Technical Trendsというサイトがあって、そこで東部戦線の軽師団とリビアにおける軽師団などが研究されていたりするのですが、私は部隊の性質について知りたいのですが編制の話が主で、しかも戦時中のアメリカ陸軍省による研究で正確さについては保証しないとかって注意書きもあり、記事的には「実験的な2個連隊編制らしい」ってな内容のようなのですが、なんか他の記事とかと内容が合わないので、あんまり信用できないのかなぁ……と思いました。ただ、以下の記述は私としては若干興味深かったです。

 軽師団は、1941年の夏のロシア戦線で最初に実戦への参加が報告された。フォン・ライヒェナウの第6軍と第17軍は攻撃の先鋒として軽師団を何度も使用していた。これら2つの軍のどちらか一方の先鋒が軽師団のみで構成されていたこともあった。この使用法から考慮するに、軽師団は実験的なものであり、それを主に担当する指揮官に委ねられていたことはほとんど疑いない。








OCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーン第3ターン

 この日曜日に尼崎会(拙宅)でOCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーンの第3ターンをプレイできました。


 ただ、先攻ソ連軍ターンの終了時の写真を撮り忘れてしまったので、後攻枢軸軍ターン終了時の写真だけです(>_<)


 ↓第3ターン終了時。

スクリーンショット_160405_225



 ↓南東部

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 ソ連軍は2箇所で小包囲を完成させ、前ターンに突破していた独立戦車旅団のほとんどを救出。枢軸軍側は解囲の試みも撃退され、やむなく可能な範囲で下がりました。写真中央部に枢軸軍ユニットがスカスカなのは、ユニットが足りないということもありますが、写真北部の方に鉄道線が走っていてこちらの方が致命的に重要であるということが大きいです。

 

 ↓北西部

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 ハリコフ南西のドネツ川沿いにようやくソ連軍部隊が張り付いてきましたが、どうやってドネツ川を渡るのか想像も着きません(T_T) 第1SS装甲師団に包囲されていたソ連軍戦車軍団3ユニットのうち2ユニットが吹き飛ばされた他は、大して進展なしです。



 今回出ていた話は↓のような感じです。

・セットアップの穴に置き直しありのハウスルールを使用してみたが、MMPの『SPECIAL OPS』最新号に、初期配置に穴があるように作られている旨の表現があったとのことで、このハウスルールはなしにした方が良さそうだ。

・セットアップ状態でロストフ南方の枢軸軍の配置に穴があり、またその方面のソ連軍には潤沢な機械化軍団や騎兵軍団が存在している。それを考えると、ソ連軍はまずロストフ南方にSPを大量に送り込んで大攻勢をおこない、枢軸軍がその手当にSPやユニットを充てなければならないようにしてから、疾駆作戦と星作戦を実行したほうがいいのかも?

・ソ連軍は第1ターンの鉄道輸送力のほとんどすべてを部隊の輸送のために使うという選択肢もあったか。あるいはまた、マップ北辺からハリコフ東方にかけては複線の鉄道線があるので、とりあえずまず複線の場所まで部隊を持っていけば、あとは半分の鉄道輸送力で部隊を移送させられる。

・ドイツ軍側としてはドネツ川沿いの戦線を維持しようと努めるよりも、スターリングラードからのソ連軍の増援が届かないように(届かないうちに)逃げた方が得なのかもしれない。枢軸軍は第2ターンに戦闘機のほとんどすべてが引き抜かれてしまう(ことが分かった)ので、航空優勢が全然取れない中で撤退戦をしなければならない。装甲師団が多数あるといってもそのほとんどは手負いで、打撃力に劣る。装甲師団で戦線を形成することは避け、また師団マーカーで隠匿をはかるべきか。真に有効な使い方としては、装甲師団を1つ単位で運用するのではなく、3~4個の装甲師団で(つまり装甲軍団単位で)運用すべきなのだろう。

・尼崎会以外のゲーム会に積極的に出ていって、OCSのミニシナリオをやるぞ~。とりあえず私は『DAK-II』のブレヴィティ作戦シナリオに興味があります。

大木毅さん訳の『「砂漠の狐」回想録』が出てました

 昨日、ジュンク堂に行きましたら、大木毅さん訳の『「砂漠の狐」回想録』が出てました。





 ロンメル自身の回想録は、古い本ではリデル・ハートの『ドキュメント ロンメル戦記』、新しめの本では『ロンメル語録』の中にその抄訳が(というか、両方とも回想録の抜粋に解説が付いている感じ)ありましたが、今回の『「砂漠の狐」回想録』は北アフリカ戦のみが対象なんだと思いますが、回想録の全訳になっているようです。




 巻末の訳者解説を先に読んでみたんですが、『ドキュメント ロンメル戦記』はリデル・ハートの自己宣伝だという説とか、リデル・ハートの史料の扱いがややぞんざいだとか、しかし回想録自体もロンメル自身がナチの蛮行とは関係がないと自己宣伝してるとか、ロンメル自身の偏見(イタリア軍の努力の足りないと思い込んでた)がそのまま入っているとか、そこらへんの話が面白かったです。


 私自身が、最近北アフリカ戦の資料を引用収集していて、ようやくある程度以上知識があるようになってきたので、そのタイミングで北アフリカ戦に関するロンメルの回想録の全訳が出たというのは、大変タイミングが良かったような気がします。というか、大木さん最近色々本を出されていて、すごいですね。

 内容的にも、注や、括弧で解説が入っていて、その点でも大変ありがたいです。回想録自体が、主観的なものなので読みやすいですしね~。

 じっくり読んでいこうと思います。

グラツィアーニ元帥はフリーメイソンだったからイギリス軍に有利になるように行動した?

 先日購入した『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』ですが、北アフリカにおける1940年の最初のエジプトへの侵攻作戦であるグラツィアーニ攻勢のところ(P44~6)を読んでいて、びっくりしました。


 「グラツィアーニ攻勢ってなんやねん?」という方々は、以前作った動画の中で、↓はグラツィアーニ攻勢を含んで説明してますので見ていただけたら(下のはYouTube上のは削除されてしまったので、ニコニコ動画上でしか見られません)。









 あと、グラツィアーニ攻勢について過去にまとめていたエントリは↓こちら。

1940年9月北アフリカのイタリア軍グラツィアーニ攻勢について (2017/08/06)




 グラツィアーニ攻勢については、多くの本で「ムッソリーニの要求の方が無茶であり、グラツィアーニ元帥はそのようなことができる能力は在リビアイタリア軍にはないと考えていたが、ムッソリーニの命令によりやむを得ず実行せざるを得ず……」という感じで書いてあります。

 ところが、『Regio Esercito』の著者が書くには、リビアのイタリア軍は兵力においてエジプトのイギリス軍を凌駕しており、グラツィアーニ元帥の前任者であったバルボ元帥は「勝てる」として攻勢に熱心だった(バルボは乗機を味方に撃たれて死亡)。ところが後任のグラツィアーニ元帥はぐずぐずぐずぐずとしてイギリス軍の増強を看過し、それでもって「現代のローマ帝国」を失わせることになってしまった。

 で、あくまで著者の「私見」だとはしながらも、グラツィアーニはフリーメイソンの会員であったのではないか、それゆえにイタリア王国に忠誠であるというよりはイギリス側に通じており、イギリスがもう一突きで崩れるところをぐずぐずすることによって救ったのではないのか、という説を割と長々と説明しております(グラツィアーニ攻勢本体の記述は7行しかないのに、この私見は33行に及ぶ)。

 私の個人的な感想としては、「グラツィアーニがフリーメイソンだという証拠がある、ということを挙げないでこういうこと書いていてもしょうがないでしょ」とか「バルボは対英作戦にむしろ反対だったのでは」とか「兵力で凌駕していると言っても、補給体制や補給物資の量において大いに問題があったということが最大の問題だったのでは? その観点からすると兵力が過大であることはむしろ弱点なのでは?」とかとかとか……。

 グラツィアーニ攻勢周辺に関して日本語で読める詳しい資料としては山崎雅弘さんの『歴史群像』2009年8月号の「イタリア軍の北アフリカ戦線」(『歴史群像アーカイブ Vol.11 北アフリカ戦線』にも収録)があり、再読してみましたが色々とこちらの方が納得がいく感じがします。

 また、Wikipedia日本語版のロドルフォ・グラツィアーニのグラツィアーニ攻勢後の記述を見てみたのですが、「フリーメイソンでイギリス側に通じていた可能性」を主張するのはかなり難しそうな印象しか受けませんでした。


 今までチェックしていなかったのですが、英Amazonでこの本の書評を見てみたところ、一番上の人は「イタリア軍はとにかく弱かった、という言説ばかりが溢れている中で、この本はイタリア軍の強かったところに光をあてていて素晴らしい。イタリア軍の全部が全部弱かった、という言説は誤りで、あらゆる軍には強い部隊も弱い部隊もいるのだ。」というようなことを書いておられて、私も「うんうん、それは私もそう思う」という感じなのですが、二番目の書評は「この本の危ない面について警告する。グラツィアーニがフリーメイソンだったなどというのは、イタリアが戦争を失った理由を説明する代替案を見つけようと試みるような、馬鹿げた考えだ。」というように書いてました。

 また、この本の参照資料に関しては、一番目の書評は「作者はイタリア語の文献をほとんど参照してないが、それは瑕疵には当たらない」、二番目の書評は「乱雑で、有効な情報源へのすべての形式の参照が不足している」と書いていました。



 色々と面白いです(*^_^*)

 個人的には、「間違いのない本、バイアスのない本など存在しない」と思いますし、各資料の傾向性や限界性を認識しながら、その時々で取捨選択するということだと思います。私は色々な本の記述を並べて検討するというやり方ですし……。

第2次エル・メキリの戦いとイタリア軍ベルサリエリ部隊の活躍

 北アフリカの資料を集めていて、「第2次エル・メキリの戦い」というのに興味を持ちました。


 エル・メキリの場所と「第1次エル・メキリの戦い」については↓を見ていただくと分かりやすいかと思います。





 第2次エル・メキリの戦いというのは、上記の動画の後、ロンメルがやってきてトブルクへ進撃する途中に同所で起こった戦いです。

 この戦いで、イタリア軍の第8ベルサリエリ連隊と、その大隊指揮官であるモンテムッロ大佐が活躍するのです!


 ベルサリエリ部隊については↓で書いてました。

OCSのユニットで見るベルサリエリ部隊 (2017/02/10)



 その時は主に前記動画の時期における第10ベルサリエリ連隊について詳しく調べていて、第8ベルサリエリ連隊については少し触れていただけでした↓。

 その後、アリエテ戦車師団とトレント自動車化歩兵師団の到着に伴い、さらに2つのベルサリエリ連隊【アリエテの第8ベルサリエリ連隊とトレントの第7ベルサリエリ連隊】が到着。これらの部隊は【第10ベルサリエリ連隊と】同じ装備や車両を持っていたのだったが、訓練度や将校の質においてより優れており、オコンナー将軍の前でグラツィアーニ将軍が後退していくのにも意気消沈することなく、キレナイカでのロンメルによる最初の限定攻勢に参加した。彼らの果たした役割の記録はあまり残っていないが、これらの連隊は北アフリカ戦役の全期間で活動したのだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P38





 ↓今回使用した資料。





 まずは、第2次エル・メキリの戦い自体については一番簡潔だった『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』から。

 1941年2月にロンメルが到着した時には、エットーレ・バルダッサーレ将軍指揮下のアリエテ戦車師団はすでにそこに到着していた。ガリボルディ将軍(北アフリカ司令官の地位をグラツィアーニ将軍から引き継いでいた)はバルダッサーレにシルテの町へ前進し、続けてそこからエル・アゲイラへと進む準備を命じた。ロンメル将軍はドイツ軍部隊に、このイタリア軍の前進に同道するように命じた。彼はイギリス軍を攻撃する計画を立案し、ガリボルディは3月7日にそれらを承認し、またアリエテ師団をロンメルの指揮下に入れた(注72:Ian W.Walker, Iron Hulls, Iron Hearts:Mussolini's Elite Armored Divisions in North Africe 68)。
 3月24日、枢軸軍の攻撃でエル・アゲイラにいたイギリス軍第2機甲師団はその前哨拠点からメルサ・ブレガへの後退を余儀なくされた(注73:Walker, Iron Hulls, Iron Hearts, 68)。4月2日、ドイツ軍部隊がその町からイギリス軍を追い出した。これに続けて、いくつかの枢軸軍師団(アリエテ戦車師団、第102トレント自動車化師団、イタリア第27ブレシア師団、およびドイツ軍第5軽師団)が前進を継続した。ロンメルは次に枢軸軍を分割したが、ガリボルディが反対した時、彼はヒトラーに訴えた。総統は、公式の指揮系統を無視してロンメルに行動の自由を与えた。これが、北アフリカ戦役の残りの指揮決定の雰囲気を決定づけた。
 今やロンメルは行動の自由を得て、「シュヴェリーン戦闘団」とニコリーニ・サンタマリア大佐麾下の自動車化グループをメキリへ向けて送り込んだ。その後に、自動車化砲兵のグループとジーノ・ファブリス中佐麾下のベルサリエリが続いた。第5装甲連隊とアリエテ師団の一部もムススを経由してメキリへと向かった。その間、第27ブレシア師団(ジャーコモ・ ロンヴァルディ将軍麾下)は海岸道に沿ってデルナの港へと行軍した。
 ロンメルはこの第一次攻勢で、兵站面への軽視を見せ始めた。彼はある意味、麾下のイタリア軍部隊を補給が難しいままに進ませた。その結果、多くのイタリア軍部隊が燃料不足で停止せざるを得なかった。
 イタリア・ドイツ混合のシュヴェリーン戦闘団はメキリへと到着し、そこがイギリス軍機甲部隊によって守られているのを発見した。援軍なしではメキリを取ることはできないため、アリエテと第5装甲連隊に支援を要請した。だが枢軸軍部隊はファブリス部隊の位置を特定し、再補給を行うのに数日を要し、その間ロンメルは立ち往生することとなった。彼らの再補給が完了すると、ロンメルは彼らをメキリへ向かわせた。
 イタリア軍の戦車がまずメキリへ到着した。この町はガンビア=パリィ将軍の第3インド自動車化旅団(壊滅することになる第2機甲師団の一部)によって守られていた。第3インド自動車化旅団はイタリア軍のファブリス部隊と第8ベルサリエリ連隊との間の小さな隙間を偵察によって発見し、そこから包囲網を脱出しようと試みたが、イタリア軍の75mm砲兵がインド兵達に砲火を浴びせた。そしてウーゴ・モンテムッロ大佐のベルサリエリ部隊が彼らの脱出を阻止した。短くも激しい戦いの後、ガンビア=パリィ将軍はモンテムッロに降伏した。戦いが終わった時、第5装甲連隊が戦場に到着し、1,200名の捕虜を集めるのを手伝った。この後、このイタリア・ドイツ混合の部隊はトブルクへと向かった。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P75,6



 この本がちょっと面白いと思ったのは、割とロンメルが悪者っぽく書かれていることですが、後述のようにこの時期にはロンメルと第5軽師団長との間でやばいくらいのいざこざが起こっていたのです……。


 この戦いに出てきた部隊ですが、OCS『DAK-II』のユニットでもってほぼ確実に同定できるものとしてはこれぐらい?

・第3インド自動車化旅団
・サンタマリア自動車化機関銃大隊
・第8ベルサリエリ連隊(アリエテ戦車師団所属)

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 すべてアクションレーティングが4で、レベルが高いです!


 次に『Iron Hulls, Iron Hearts』ですが、この本は北アフリカ戦におけるイタリア戦車師団に関する本なので、記述がアリエテ戦車師団メインという感じで書かれてますね。

 アリエテからの部隊とイギリス軍部隊との最初の大きな戦闘は、メキリで4月8日に発生した。これは彼らにとっての砲火の洗礼であったわけだが、師団全体というよりはその一部の部隊が参加したものだった。枢軸軍側の計画はメキリを攻撃し、事実上被包囲状態にあったイギリス軍守備隊を撃破し、占領することだった。シュヴェリーン戦闘団は北と北東へ向かう。第3ベルサリエリ大隊を含むファブリス部隊とサンタマリア少佐の戦闘団は東へ。第5装甲連隊は重要な役割を果たすには到着が遅すぎたので西へ向かった。南では、第8ベルサリエリ連隊長のウーゴ・モンテムッロ大佐が、ムススから麾下のモンテムッロ縦隊や第8ベルサリエリの残りの部隊と共に到着しつつあった。メキリのイギリス軍守備隊は、ガンビア=パリィ将軍の第2機甲師団麾下の第3インド自動車化旅団から成っていたが、第2機甲師団はすでに蹂躙されていた。彼はすでに、枢軸軍の包囲網から脱出するように麾下の兵士達に命じていた。その結果起こった戦いはそのため、メキリ自体を攻撃するものというよりは、この脱出を阻止するための努力にすぐに変化した。夜が明けると、イタリア軍砲兵部隊は猛烈な砲火を浴びせ、その中でインド部隊はこの包囲網の薄い地点を探すため、複数の偵察部隊を放った。北、東、それに西に向かった偵察部隊はすべて撃退されたが、南へ向かった部隊がファブリス部隊と、新たに到着したモンテムッロ部隊との間に小さな隙間を見つけた。インド部隊は、後方から枢軸軍部隊の圧力を受けながら、この隙間を通って脱出を試みた。彼らはファブリス部隊の75mm野砲の砲撃に晒され、側面からはファブリス部隊とモンテムッロ部隊からの攻撃を受けた。モンテムッロはインド部隊の退却路を塞ぐために麾下のベルサリエリ部隊を送り出し、彼らは砲兵の砲火を浴びた。戦いは激しかったが、短時間でけりがついた。ガンビア=パリィ将軍がモンテムッロ大佐に降伏し、まさにその時そこに第5装甲連隊が到着した。枢軸軍によって総計1,200名が捕虜となったが、混乱の中でその他多くの者が脱出した。アリエテ師団から派遣された諸部隊は、困難な砂漠地形の中を250マイル(400km)に渡って前進したのであった。彼らは多くの車両を故障で失い、またあるものは燃料切れで放棄されたのであった。彼らは短かかったが激しい戦いで成功を収め、勝利した。この師団にとって上出来のスタートであった。まさにこの次の日に、性急なロンメルの、枢軸軍はトブルクに向かうべしという命令が届いたのである。
Walker, Ian W. Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa (Kindle の位置No.1338-1356). Crowood. Kindle 版.





 最後に『Rommel's North Africa Campaign』。この本は北アフリカ戦全体(チュニジアは除く)を扱った本ですが、共著者の一人がイタリア人なのでしょう、イタリア軍に関する記述の量が結構多めだと思いますし、なにより、たくさんの写真が載っているのですがそのほとんどがイタリア軍の写真です。

 また、この本は興味深いコラムがたくさん入っているのですが、そのうちの1つがエル・メキリの第1次と第2次の戦いについて扱ったもので、「この戦争の最初期に発生したこれら2つの小さな戦いは、たいていの場合無視されている。」という文で始まります(^_^;

 ↓P85の地図。

スクリーンショット_160405_224


 第2次エル・メキリの戦いは、1941年4月8日におこなわれた。ロンメルは砂漠を横断する競争に4つの混成部隊を送り出し、うち3つがエル・メキリでランデブーしたが、そこはガンビア=パリィ将軍が指揮する第2機甲師団の司令部、連隊規模の第3インド自動車化旅団、騎馬砲兵隊のM中隊、それに第3オーストラリア対戦車連隊の一部が守備していた。第3インド自動車化旅団は装甲車も対戦車砲もなく、1個大隊を欠き、通信機器の半分は失われており、その主要装備はライフルでしかなかった。第2機甲師団が到着するという希望もあったが、彼らが到着することはなかった。ロンメルは4月6日にエル・メキリに到達しつつあった彼の諸部隊での攻撃を望み、それがシュトライヒ将軍(ロンメルが臆病と罵った人物である)とのある光景の原因となったが、共に攻撃する部隊は事実上なかった。ロンメルは小さな攻撃を命じたが、彼の回想録にはこのことは書かれていない。次の日、7日の晩まで、ロンメルは様々な枢軸軍の間を飛び回って道を指示し、連合軍部隊の包囲を成し遂げた。ロンメルは8日の攻撃を部隊に命じた。その時までにガンビア=パリィは麾下の部隊に、夜明けと共に脱出してトブルクへと退却するようにと命じていた。
 北と北東はシュヴェリーン戦闘団が、東はファブリス戦闘団(大部分がアリエテ師団の第3ベルサリエリオートバイ大隊で、一部がいわゆるサンタマリア偵察団から構成されていた)が。その中には2個砲兵中隊、47mm対戦車砲中隊、3つの20mm対空砲班、いくばくかの工兵、それにドイツ軍通信班が含まれていた。第5装甲連隊司令部は西に向かうことになっていた。第8ベルサリエリ連隊の中の、ジュゼッペ・モンテムッロ大佐に指揮された第12ベルサリエリ大隊の約2/3が接近中であり、またその後ろにはドイツ軍の戦車部隊の主力がいたが、それらはこの会戦には間に合わなかった。インド兵らは0530時頃に4つの偵察部隊を発進させ、この包囲網の脱出口を探した。南側に向かったものは第3ベルサリエリ大隊によって阻止され、もう一つはシュヴェリーン戦闘団によって撃退され、3つ目のものは第5装甲連隊司令部によって撃退された。4つ目の偵察隊はモンテムッロとファブリス戦闘団の間を前進し、ファブリス戦闘団の後方を攻撃した。この偵察隊はイタリア軍の75/27mm砲と、モンテムッロとファブリス戦闘団による側面からの反撃に会って撃退された。
 この時、モンテムッロは前進せよとの命令を受けた。彼の麾下の第12連隊で砲撃しつつ前進し、視界に見えてきた第5装甲連隊と合流後、後退するインド軍部隊を攻撃せよと。モンテムッロは素早く部隊を展開させ、直ちに使用可能な全砲門を開いた。ガンビア=パリィと第3インド自動車化旅団はモンテムッロに対して降伏し、その時第5装甲連隊の司令部が到着した。総計1,200名が捕虜となったが、数個の勇敢なオーストラリア軍部隊を含めて、いくらかの部隊が包囲網を脱出した。第12ベルサリエリはこの場所から、さらなる名誉となる勝利を勝ち得ていくことになるのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P86,7



 ここでちらっと触れられている、シュトライヒ将軍(第5軽師団長)との「ある光景」ですが、『Rommel's North Africa Campaign』には触れられてないようなのですが、山崎雅弘さんの『ロンメル戦記』のP221~3にかけて、かなり詳しく触れられています。簡単に書きますと、

4月3日 ロンメルが同師団の持つすべてのトラックに戦車の操縦士を乗せ、後方の燃料や物資を取りに行くよう命令
4月4日 前日のトラックを待つことなく、部隊を海岸へ進ませるよう命令。そこにはイタリア軍が地雷を埋設していることをイタリア軍将校が進言したがロンメルの考えは変わらず。やむを得ずシュトライヒは命令を履行したが、案の定次々と貴重な車輌が地雷原で行動不能に
4月6日 ついにロンメルとシュトライヒとの間で口論。ロンメルは「すぐにメキリを攻撃せよ」と命じたが、シュトライヒが不可能だと拒絶するとロンメルが「貴官は卑怯者か!」と言い放つ。シュトライヒは自分の騎士十字章を叩きつけんばかりに怒り、ロンメルは発言を取り消した。

 第2次エル・メキリの戦いには第5軽師団がギリギリ間に合ってないのですが、その背景にはこういうこともあったわけですね。




 第8ベルサリエリ連隊は、最初のトブルク攻囲戦の最後期にもいい働きをしていたようです。

【1941年】
 4月22日、トブルク守備隊は要塞から出撃を試みたが、第3ベルサリエリ大隊の歩兵達によって撃退された。今度はドイツ軍が5月1日にもう一度襲撃をかけたが、これは完全に失敗した。
 5月4日、イギリス軍先鋒のオーストラリア部隊が攻囲軍の中のイタリア軍エリアを突破しようと試みたが、7時間に及ぶ凄まじい接近戦の末に、第8ベルサリエリ連隊によって押し戻された。この後6か月間、オーストラリア部隊はトブルクから出撃しようとはしなかった。イタリア軍部隊は夏の間、トブルク港の包囲網を維持し続け、その間ドイツ軍はエジプトからのイギリス軍による救出の努力を阻止した。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P76





 さて、モンテムッロ大佐のベルサリエリ部隊なのですが、この後のブレヴィティ作戦の時にも活躍します。

 この作戦【ブレヴィティ作戦】は5月15日に始まった。イギリス軍は当初成功を収め、ハルファヤ峠とカプッツォ砦を占領した。この時、近くにいたドイツ軍部隊が撤退した後も、ベルサリエリが残っていた。ベルサリエリが気がついた時には400ヤードの距離にマチルダがいた。彼らの47mm対戦車砲ではその装甲を撃ち抜けず、マチルダが彼らのいた低い石壁を乗り越えてきた時、目標をその履帯と車台に変更した。このやり方で7両のマチルダが撃破された。
 ロンメルが敵の弱さに気付いて反撃を準備し、バルディアに置いていた予備と第8装甲連隊を差し向けてきたため、英連邦軍は退却を余儀なくされた。ゴットもまた、同じ事に気付いてすんでのところで、ベレスフォード=ピアースの固守の命令の代わりに、退却を命じた。ゴットはハルファヤ峠は維持したが、占領した他のすべての地点は放棄した。
 ……
  ロンメルは、モンテムッロ大佐の指揮に一級鉄十字章の授章を推薦した。イタリアの公式戦史家であるマリオ・モンタネッリは、1940年のシディ・エル・バラーニの戦い【コンパス作戦】と対照的にこの戦い【ブレヴィティ作戦】でイタリア軍が敵を撃退できた理由を、いくつか挙げている。ここで戦ったイタリア軍はよく訓練されており、優秀な将校がおり、団結心のレベルも高く、しかもこれまでに誇りとなるようないくつかの勝利を(例えばエル・メキリなどで)経験していた。さらに、彼らはドイツ軍のやり方を真似し、また彼らはドイツ軍の戦車と、ロンメルを信頼していたのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P70


 【ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の間の期間に】追加の守備隊が再び、ソルーム、ムーサイド、カプッツォ砦、地点206と208に置かれ、また、バルディアにはこの地域用の予備が配置された。この配備の間、ベルサリエリとアリエテ師団の一部の部隊からなるモンテムッロ大佐麾下の約2,000名の戦闘団は、トブルクからの攻撃を撃退した。モンテムッロは健康を害して9月20日にイタリアに帰還したが、その別れの時にロンメルはこう述べた。
「ドイツ兵は世界を驚愕させたが、ベルサリエリはドイツ兵を驚愕させた。」
『Rommel's North Africa Campaign』P71,2



 この最後のセリフ、かっこいいですねぇ~。

 彼らが勝利できた理由のくだりに関しても、非常に興味深かったです。


OCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーン第2ターン

 この土日の尼崎会(拙宅)で、OCS『Case Blue』のバックハンドブローキャンペーンの第2ターンをプレイできました。

 前回は↓こちら。
OCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーン第1ターン (2017/11/22)


 今回は土曜日に長駆、富山のKさんが遊びに来てくれました(*^_^*)



 ↓富山のKさんが持って来られた、『Up Front』をプレイ中。

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 私は『Up Front』の実物(復刻版?ですが)を初めて見ました。教えてもらって動画↓で紹介してたりもしたんですが……。





 ↓その後、富山のKさんもOCSのプレイに参加してくれました。

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 ↓第2ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 ↓ドネツ川沿いの領域。

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 スターリングラードから駆けつけてきた大量の独立戦車旅団ユニットを使って、富山のKさんが大攻勢。赤い矢印のように後方へ回り込みます。ドネツ川の南からも戦車軍団が渡ってきました。


 ↓ハリコフ、イジュム周辺。

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 本来の疾駆作戦、星作戦の地域ですが、どうにもなっていません(^_^; LAHとDRの両SS装甲師団をイジュム方面に拘束しているような感じにはなっているので、ハリコフ方面への突破が有望かとも思われるのですが、星作戦のための部隊がまだ事前展開を終えられてない状況です。

 ○で囲ったのが被包囲にある部隊ですが、一番左のLAHに包囲されているソ連軍戦車軍団は補給物資を空輸することでなんとか食いつなぐことに成功しました(割と空輸で、被包囲でも生き残れるんですよね……)。



 ↓第2ターン後攻(枢軸軍)終了時。

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 ↓ドネツ川方面。

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 後方に進出されたソ連軍独立戦車旅団のうち致命的な1つを幸運にも航空爆撃で除去できたのですが、枢軸軍としてはドネツ川の線は維持できないとの現場判断で、やや下がって戦線を張りました。ただ、再度ソ連軍に戦線を突破されることは目に見えている状態です……。どうやって部隊を温存しつつうまく下がれるのか、予備とした装甲師団でどれだけのことができるのか、ですね。


 ↓ハリコフ、イジュム方面。

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 ほぼ変化なし(^_^; ハリコフ市街地には増援が到着してきていますが、このターン大量に航空戦力が引き抜かれてしまい、使える戦闘機が全然ない状況に……。なぜこんなタイミングで……(>_<)


 ソ連軍側がどうやって攻めればいいのか、枢軸軍側がどうやって守ればいいのか、まだまだ良く分かってないので、失敗しながらも経験を蓄積していきたいと思ってます。



東部戦線同盟軍洋書とイタリア軍洋書を入手しました

 ちょっと前に、東部戦線での枢軸同盟軍について扱った洋書を見つけて、注文してました。続けて、以前からGoogle Books上でかなりの部分が読めていたイタリア軍洋書も、オストロゴジスク=ロッソシ作戦部分がウェブ上では全部は見えないことから注文してしまいました。





 で、その2冊が届きました。配送の方、ありがとうございます(>_<)

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 『Death on the Don: The Destruction of Germany's Allies on the Eastern Front, 1941-1944』の方は普通のペーパーバックの大きさで、ある程度の厚さがありました。主たる枢軸同盟軍が東部戦線にいる間を扱うので、ウラヌス作戦辺りから同盟軍の崩壊に関しては後半1/4くらいという感じです。リトルサターン作戦の最初のところをちょっと読んでみたのですが、そこでイタリア軍の様子について述べられていて「えっ、ここで初めて?」と思いましたが、部隊に関しての記述もあるようで、「詳細」とは言わないまでもある程度の文の量で同盟軍のみを扱った本としてありがたいと思います。

 ちなみに、書評(英語)でも書かれていたのですが、地図はわずかしかありません(2枚だけ)。写真は時々洋書で見る、真ん中の10ページ程度に集中して置かれていました。



 『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』の方は、ペーパーバックの大きさではなく、なんか同人誌のような大きさでした(^_^; が、分厚さはある程度あり、ムッソリーニの時代のイタリア軍を扱った(ムッソリーニが失脚した後は扱っていない)もので、先日下野守さんに見せてもらったアリエテ戦車師団とかの同人誌でも参考文献として挙げられていました。

 地図や写真も大量に入ってますが、地図の解像度が低いのが残念。シチリア戦までが入っているので、東部戦線、北アフリカ(チュニジアも)、シチリアと、興味のあるところがたくさん入っていて嬉しいです。


 で、オストロゴジスク=ロッソシ作戦について両洋書で早速読んでいきたいところですが、ちょっと前から『Rommel's North Africa Campaign』で北アフリカ戦について資料集めをしていっていて、それが全然途中なのでそっちが終わってからにしようかと思います(^_^;


 『Rommel's North Africa Campaign』は以前、クルセイダー作戦の直前くらいまで目を通していたんですが、そこらへんで一旦止まってしまってました。日本語の本だと1冊読み切るのはまあ苦もないことなんですが、洋書を「分からない単語は全部引いて書き込んでいく」という方法で読んでいると時間がかかりすぎ、途中で止まってしまうことが多いです。しかし今回、「北アフリカ戦の資料集め」ということで、私が特に興味があるところの「指揮官の評価や人物像」「部隊の評価や履歴」等のみがあるところを見つけだし、そこだけは印を付けておいてスキャンして全訳して収集していく……という方法で読み直し始め、それがかなりいい感じのような気がします。これだと、分からない単語があっても基本的には放っておいて斜め読みしていき、「お、ここは特に興味のあるところだゾ!?」というところだけは精読・全訳する、ということで、メリハリがついて無理なく読み進められるような気がします。今後もそうやっていこうかと。



 ところで、『Rommel's North Africa Campaign』を読んでいますと、かつてコマンドマガジンで読んだことのある「北アフリカでの残虐行為」についての話がそのまま出てきました。↓の最後に挙げた引用を含む記事です。

東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について

 コマンドマガジン上では「北アフリカ戦役の暗部」という題名の2ページ記事で、副題っぽく「Friendly Fire and Atrocities(誤射と残虐行為)」と書かれていますが、『Rommel's North Africa Campaign』ではP131~134にまんま「Friendly Fire and Atrocities」という名前のコラムになっていて、完全にそこの全訳でした。

 記事の最後には「- Jack Greene」と書いてあるのですが、それが手持ちの『Rommel's North Africa Campaign』の著者というのは結びついてませんでした(^_^; 出典とページ数も書いて欲しいというのは、高望みしすぎなのか……。

 コマンドマガジンの同ページには「捕虜とその運命」というコラムもありますが、これも『Rommel's North Africa Campaign』のどこかで見たような気もするのですが、ぱっと見つけられませんでした。


 また、コマンドマガジンの次の号(16号)には、「ある通訳が語るロンメル像」という記事があるのですが、これも『Rommel's North Africa Campaign』のコラムの全訳ですね。

 以前↓で書いたやつです。

ロンメルは隠れてパスタを食っていた!?


 これはコマンドマガジンの方に著者名も書かれていませんが、英文のタイトル「Rommel and One Translator's View」というのはそのまんまです。


 ただ、和訳の感じが、原文とちょっと異なる感じがするところがあります……私の和訳能力が低くてそこらへんのニュアンスが読み取れないということかもですけども。



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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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