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ロンメルはイタリア軍司令官からの抗議に、ヒトラーの許可を得たのだと嘘をついた?

 以前から続けて、北アフリカ戦の資料を収集していってます。

 その中で、ロンメルの最初の攻勢にイタリア軍北アフリカ司令官のガリボルディ将軍が抗議した時の話について気になってきました。

 その顛末は例えば……。

 3月24日、枢軸軍の攻撃でエル・アゲイラにいたイギリス軍第2機甲師団はその前哨拠点からメルサ・ブレガへの後退を余儀なくされた。4月2日、ドイツ軍部隊がその町からイギリス軍を追い出した。これに続けて、いくつかの枢軸軍師団(アリエテ戦車師団、第102トレント自動車化師団、イタリア第27ブレシア師団、およびドイツ軍第5軽師団)が前進を継続した。ロンメルは次に枢軸軍を分割したが、ガリボルディが反対した時、彼はヒトラーに訴えた。総統は、公式の指揮系統を無視してロンメルに行動の自由を与えた。これが、北アフリカ戦役の残りの指揮決定の雰囲気を決定づけた。
『Regio Esercito: The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P75



 これは多くの書物で、こういう感じになっているのではないかと思います(例えば第二次世界大戦ブックスの『ロンメル戦車軍団』なんかでもそうなっています)。


 若干詳しくなると、こんな風に書いている本もありました。

 イタリア司令部との約束では、マルサ・エル・ブレガを越えて前進しないことであったが、この約束は"砂漠の狐"によって踏みにじられたわけである。ムッソリーニは立腹を抑えきれず、ロンメルと連絡を取ろうとするが、ロンメルはいつも前線に出ているためにこれは不可能ということで、ガリボルディ将軍をドイツ軍司令部へ赴かせて進軍をやめさせるよう命じた。
 ロンメルは4月3、4日の両日、ガリボルディと会見したが、その模様を次のように記録している。
「ガリボルディは、私の作戦がローマの指令に反するとして激しく非難した。彼は独伊両軍の増強が絶対にあり得ないと言い、私の進撃を停止するよう要求するとともに、今後の作戦は彼の承諾なしでは行ってはならんと強要するのであった。」
 このためロンメルは、イタリア司令部との関係を明確にし、ぜひともこの問題に決着をつけておくべきだと考えたわけであるが、記録には「私は自分の見解を明確に説明し、正しいと判断することは、今後とも断行する考えであると答えた。すると相手は怒りだして激論となり、とても収拾がつかないと思われた時、救いの神というか、ドイツ最高司令部から無電が入り、私に対して行動の完全な自由を認めるということであった」と書いている。
『ムッソリーニの戦い』P111,2



 「と書いている」とあるのは、ロンメルの記した記録に書いてあるということです。

 ところが、(私が中学生の頃から崇拝していた)ロンメルに関しては、「命令を聞かない」とか「まわりの部隊や指揮官と協調しない」とか「勝手に別の師団の部隊を自分の配下に入れてしまう」とか「自己宣伝のために別の部隊の貢献を無視した文を書く」というようなことがフランス戦であったことを読んでました。


 で、このガリボルディの時の件に関して、山崎雅弘さんの『ロンメル戦記』ではこのように書いてありました。

 一方、ベルリンのドイツ軍上層部でも、ロンメルの独断専行が大きな問題として騒動を引き起こしていた。カイテルは4月3日、ロンメルに宛てて、次のような命令を暗号電報で送信した。
貴官の任務は、現在地を守って英軍を拘束することであると、総統も理解されている。もし限定的な攻勢をとる必要が生じても、現状の小規模な兵力の能力を超えるような行動に出てはならない。特に、ベンガジへの攻撃は、右翼〔内陸部〕から攻撃を受ける危険性に注意しなくてはならない」
 同日午後9時頃、怒りに身体を震わせたガリボルディが、アジェダビアにあるロンメルの司令部に到着した。ガリボルディは、面子を潰されたことで激怒し、ロンメルに殴りかからんばかりの勢いで、彼の命令への不服従を責めた。だが、ロンメルは薄笑いを浮かべて「わが軍の補給状態には何の問題もありません」と答えただけだった。
 ガリボルディとロンメルの感情的な話し合いが始まって3時間が経過した頃、前記したカイテルの命令電報が、ロンメルの元に届いた。内容を一読したロンメルは、過去にもこの後にも、戦場で偶然敵と遭遇した時にたびたび行ったように、表情ひとつ変えることなく、堂々とした態度で、事実と異なる言葉、つまりを口にした。
「これは、総統が私に、完全な行動の自由を認めるという内容の電報です」
 それを聞いて闘志を打ち砕かれたガリボルディは、それ以上何も言えなくなってしまった。そして、アジェダビアで激論が戦わされていたのと同じ頃、第3装甲偵察大隊は要港ベンガジ市内に突入し、ほとんど抵抗に遭遇することなく同市の中心部を制圧した。
『ロンメル戦記』P216



 この「嘘」という言葉は重要であると思います。多くの本ではロンメルは、ヒトラーに訴えたにしろ訴えなかったにしろ、ヒトラーの意志によってフリーハンドを得たという風に書いてあると思いますが、この本では、ヒトラーの意志としてもフリーハンドを認めるものではないという電報を、ロンメルは「これにフリーハンドを認めると書いてあります」と、虚偽を言ったということなわけですから。

 ロンメルを褒める論調で書かれている本なら、「ここでロンメルは実は嘘を言ったんですけどね!」とは書きたくないことでしょう。多くの本はロンメルを褒める目的で書かれるでしょうから、むしろ「ここでロンメルはフリーハンドを得ました」という内容こそが(ミームとして)複製されて広がっていくのはありそうな気がします。

 で、個人的にはこの「嘘」の件は非常にありそう気がしていますが、もちろん、ある本にそう書いてあるからそれが本当だと、言うわけにもいきません。山崎さんがこの話をどの本から引っ張ってきたかが分かれば、そこから辿っていくこともできるかもしれないですけども。

 私の知っている狭い範囲では、アーヴィングの『狐の足跡』が可能性がありそうな気もするのですが、アーヴィングに関しては資料の扱いがデタラメだという大木毅さんの記事(『ルビコンを渡った男たち 大木毅戦史エッセイ集2』アーヴィング風雲録-ある「歴史家」の転落(初出:『コマンドマガジン』第92号)。多分『ドイツ軍事史――その虚像と実像』にも入っていると思われます)もあって、どうも買うのがためらわれて手を出していません。

 そいでまた、山崎雅弘さんは大木毅さんとの間などに、アーヴィングの資料の取り扱いに関して論争?があるようです。尤も、この件がアーヴィングとは違ったところが出所であれば、全然関係ない話ということになりますが……。


 ただ、カイテルの電報という話は、送った側に文章と時間の記録があったことは想像できますし、それを誰か(山崎さんが参照したいずれかの本の著者)が調べたということはありそうな気がします。


<2019/05/15追記:2019年3月に出版された大木毅さんの『「砂漠の狐」ロンメル』でこの件が書かれており、やはり「ロンメルが嘘をついた」というのはアーヴィングの説で、モーリス・レミィというジャーナリストが実際にはその電報の後に本当にヒトラーからの祝福と支持を内容とする電報が届いていたということでした。>


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OCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーン第1ターン

 この土日に、尼崎会(拙宅)で、OCS『Case Blue』バックハンドブローキャンペーンの第1ターンをプレイできました。

 ↓第1ターン先攻(ソ連軍)終了時。

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 あまりにも広大なので、以下、各場所ごとに。


 ↓ロストフ周辺。

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 この周辺のソ連軍部隊は、主攻勢ではないので、大規模攻勢はせず(SPを大量に使うことはせず)、浸透に注力しています。ドネツ川とドン川を4箇所で渡河しています。


 ↓ハリコフ~イジュム付近。

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 疾駆作戦の主攻勢はイジュムの南東に向かっておこなわれましたが、担当のワニミさんは「どうにもならん(T_T)」と泣き言を(^_^; ドイツ軍部隊が強いです。天候判定で大河川も小河川も凍結にならなかったとか、特別ルールでソ連空軍が航空基地から20ヘクスより遠くでは色々作戦できないとかというのも効いてます。

 ハリコフとイジュムの間の渡河点に対して、私は1個戦車軍団を走らせたのですが、あまりうまくなかったか……。



 ↓スターリングラードから戦略移動で前線に向かう部隊。

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 北西と、西南西の2方向に。いくらかの重要なユニットは鉄道輸送しましたが、そのせいでSPを充分前線に届けることができない……。



 ↓第1ターンにやってくるSS2個装甲師団、LAHとDR。

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 つおい。つおすぎます。これにさらに、それぞれの師団所属のティーガー中隊もこのあとやってきます。


 ↓第1ターン後攻(枢軸軍)終了時。

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 ↓ロストフ周辺。

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 ロストフの南にいた部隊のうち1個装甲師団を、ドネツ川の穴の手当てに(黒い矢印)。ロストフの北西にいた2個装甲師団(青い○)は、ソ連軍ターン(先攻ターン)から動けたのですが、「まだあわてるような時間じゃない(というか、真に重要な場所が確定してから動くのでなければSPがもったいない)」ということで、まだ動かず。できれば次のソ連軍ターンのリアクションフェイズに燃料を入れて動き出したいところ(そうすればSPの効率が最も良いので)。


 ↓ハリコフ~イジュム付近。

CIMG5355.jpg

 包囲されていた第9装甲師団の一部部隊を救出するために1SPの出費を強いられ、地味に痛いドイツ軍。ハリコフ方面担当のワニミさんは中央黒い矢印のようにソ連軍後方の拠点を叩いてソ連軍の攻勢を麻痺させることを考えていましたが、移動力的に足らず断念し、グロースドイッチュラント(GD)師団を下げます。ハリコフに湧いてきたライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー(LAH)は渡河点に突進してきたソ連軍戦車軍団を包囲。攻撃はせずに立ち枯れを狙います。ダス・ライヒは疾駆作戦に対応できるような場所に移動。疾駆作戦の担当でもあるワニミさんは「こんなん作戦できへん!」とさらに泣き言でした(^_^;

 史実を見てみると、LAHとDRはハリコフにずっと居たみたいですね。ヒトラー命令によるものか……。OCSではヒトラーやスターリンの意向に(ほぼ)関係なくプレイができますが、1回目とりあえずハウスルールなしでプレイしてみて、もしヒトラー命令とかを入れた方が良さそうなら考えようかとも話してました。



 今回、日曜日には下野守さんも来られて観戦や、色々話をしていました。年末年始に可能そうなら、リハビリ的にOCSをやりましょうとも。

 OCSに興味のある方おられましたら、年末年始、尼崎会では何でも対応しますので、お気軽にご連絡下さい~。

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その3

 これまで、

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由
イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その2

 というのを書いていましたが、もう随分前に購入して読んだままになっていた大木毅さんの「ある不幸な軍隊の物語」(私は戦史エッセイ集『明断と誤断』で持っているのですが、一般に手に入る本としては『ドイツ軍事史』に入っていると思います)の中で、この件について触れられているのに気付きました。




 ただその理由は、ある意味では合理的ではあるものの、純軍事的には非合理的だと言えると思いますが……。

 さらに深刻だったのは、王国陸軍の構成が、第一次大戦後の人員削減の結果、「頭でっかち」、将校過剰の逆ピラミッド状態になっていたことだろう。将校は、一部は減員されたものの、なお余っていた。……とはいえ、将校たるもの、単に軍の幹部としてのみならず、社会のエリートとしての体面を保持すべしという王国陸軍の方針からすれば、彼らに、しかるべき役職を見つけてやらなければならない。
 1937年から38年にかけて……王国陸軍は……平時兵力を約40個師団から70個師団余に拡大している。それには……余剰将校のために指揮官ポストをつくってやるという意図も隠されていたのである。……王国陸軍は、第二次世界大戦において、その弊害を、いやというほど味わうことになる。イタリアの「師団」は、後方管理や運用の手間がかかるばかりで、相応の戦力を発揮することはできなかったのである。
『明断と誤断』P46,7



 この部分より前の部分には、「当時のイタリアが脱却できなかった階級社会」の弊害について書かれているのですが、階級社会なのであれば「ポストをつくる」というのもしょうがないですかね~。バキッ!!☆/(x_x)

 ただ、最近「年功序列が奪う日本の未来」というような記事や本を読んだり、読み返したりしているのですが、今の日本が当時のイタリアを笑える状況かどうかは、熟考しなければならないのかもしれません。当時のイタリア陸軍は、無能な貴族階級の上級将校が贅沢をする中で一般兵士らが勇敢に死んでいきましたが、昨今の日本は年功序列を昇ってきた管理職が仕事のない中で、その高給分を稼ぐために若い人達が使い捨てにされている社会である……と、例えば大分前に出版された『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』の中で書かれています。




OCS:スターリングラードへの空輸のための航空基地?

 フォン・メレンティンの『ドイツ戦車軍団』をぱらぱらっとめくっていたら、リトルサターン作戦に関して以下のようにあって、それがOCSでどのように効いてくるのかが気になったので調べてみました。

 ドン河における攻勢【リトルサターン作戦】でソ連軍は、モロフスカヤとタチンスカヤにある2つの飛行場を奪取した。これらは、スターリングラードに対する空輸を行える最も近い地点であった。この飛行場によって第6軍に対するほぼ正規の補給を意味する1日3回の空輸を維持することが可能であったのだ。いまや戦線は何百マイルも後退してしまった。使用可能な飛行場からスターリングラードまで2、3時間の飛行時間が必要だった。これは、空輸を1日1回しか行えないことを意味した。
『ドイツ戦車軍団 下』P76







 ↓『Enemy at the Gates』のマップでのリトルサターンキャンペーン初期配置。『Case Blue』のマップも基本的に同じです。

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 ①がタチンスカヤ
 ②がモロゾフスク(両者とも横に航空基地と空軍ユニットが置いてありますが、本当は村のヘクスにあります)
 ③がピトムニク飛行場
 ④がグムラク飛行場
 ⑤がLikhovskoiの航空基地(タチンスカヤとモロゾフスクが使えなくなった時の次の飛行場)

 灰色の矢印がスターリングラードへの第6軍救出を目指す冬の嵐作戦で、赤い矢印はリトルサターン作戦の攻勢軸です。

 ①から③までは30ヘクスありました。⑤から①までは12ヘクスなので、⑤から③までだと42ヘクスということになります。

 ここで、リトルサターンキャンペーンに登場するドイツ空軍の輸送機ユニットを見てみますと……。

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 Ju52が4ユニットで、輸送力が1T、航続距離が62。
 He111hが5ユニットで、輸送力が1/2T、航続距離が128です(これも『Case Blue』でも同様です)。

 OCSにおける航続距離は、片道のヘクス数を表しているのですが、空輸について以下のルールがあります。

航続距離分行って、帰る......輸送能力そのまま
航続距離の2倍行って、非活動状態となる......輸送能力2倍
航続距離の半分行って、半分で帰る......輸送能力2倍

 3つ目のルールを活用すれば、Ju52の場合には航続距離31で行って帰れば、2倍の2T運べることになります。先ほどのタチンスカヤ&モロゾフスクからスターリングラード包囲環の中の飛行場への距離は、①→③、②→④、あるいは②→③等で31ヘクス以内に収まりますから、輸送力の最も高いJu52をフル活用することを考えると、OCS上でも確かにタチンスカヤとモロゾフスクをソ連軍が奪取すると、スターリングラード包囲環内への空輸能力はがた落ちすることになりますね(細かく言えば航空基地の規模や整備の問題などもあるのですが)。

 さすがOCSです!


リトルサターン作戦後の連続攻勢でクルスク突出部を形成したのですね

 グランツ氏の『独ソ戦全史』と光文社NF文庫の『独ソ大戦車戦』(第二次世界大戦ブックスのクルスク本を文庫にしたものっぽい)などに目を通していたら、リトルサターン作戦から第3次ハリコフの戦いあたりに至るまでのソ連軍の動きについて、私が今まで意識していなかった興味深い視点が書いてあるような気がしたので、そこらへんのことを抜き書きしてみようと思います。




 その視点というのは、「リトルサターン後のスタフカの狙いは、南方軍集団のハリコフやザポロジェ方面ばかりでなく、中央軍集団の方のクルスク方面にも向けられていた。この2つを同時に達成できると考えたのはまずかった。南方軍集団に向かった方はマンシュタインのバックハンドブローによって撃滅された。クルスク方面でも手痛い反撃を受けたもののクルスク突出部は残り、そしてそれが次のクルスクの戦いに繋がっていく……」という感じのものです(全然既知だという人にはスミマセン。既知でない人向けということで)。

 私個人は、クルスクの戦いにはどうもほとんど興味が持てず(機動戦じゃないから?)、それより前の時代の南方軍集団(というかB軍集団というべきか)の方の戦いにばかり興味を持っているんですが、しかしそれでもってOCSで『Enemy at the Gates』マップばかりプレイしていたらいいのかというと、実は私が今一番興味を持っているリトルサターン~第3次ハリコフの間に、ソ連軍は『Guderian's Blitzkrieg II』のマップの方にも戦力を結構移動させてそこで攻勢している、とかってのは今まで意識していなかった興味深い問題なので、ちょっと調べておこうかな……と。実際の所、『Enemy at the Gates』マップだけでなくてホントは『Guderian's Blitzkrieg II』マップも繋げてプレイしないといけないんでしょうねぇ……。


 というわけで今回、『Case Blue』の『Enemy at the Gates』マップ部分だけでなく、『Guderian's Blitzkrieg II』のマップのデータをVASSALからキャプチャしてきて、それでリトルサターン後に起こったことをその上に描き出してみました。すると『GBII』の一番南の1/3だけで一応ぎりぎりOKなようでした。


 ↓『Guderian's Blitzkrieg II』と『Case Blue』(『Enemy at the Gates』マップを含んでいる)の連結方法
  (画像はOperational Combat SeriesのMap Layout for Case Blue +から)

Map Layout



 『EatG』のA、B、C、Dを今回のバックハンドブローキャンペーンでも使用しているんですが、さらに『GBII』のCとFも追加します。



 ↓各攻勢作戦の開始時の線を上に描いたもの。

unit00108.jpg


 オリジナルの8156×7239ドットのものもダウンロードできるようにリンクを張っておきます。もしよければダウンロードしてもらって、地名などを確認しながら読んでもらえれば。


 さて、それぞれの線ですが、以下のようにしてみました。

黒……1942/12/16:リトルサターン作戦の開始時
赤……1942/12/30~1943/1/13:リトルサターン作戦の終了時から、オストロゴジスク=ロッソシ作戦の開始時まで
緑……1943/1/24:ヴォロネジ=カストルノエ作戦の開始時
青……1943/1/29~2/2:疾駆作戦(1/29)と星作戦(2/2)の開始時
紺……1943/2/18:疾駆・星作戦による最大進出線?
赤紫……1943/3/26:春の泥濘によってストップした線?

 ただし、参照した地図によって様々に違いがあり、適当に取捨選択して描きましたので、「とりあえず」のものであって、信用はしないようにお願いします(^_^;  今気付いたんですが例えば、コマンドマガジン132号P26,27の見開きの「マンシュタインの反撃」地図では、ソ連軍はハリコフのはるか西方(『EatG』マップの西端ぎりぎりあたり)まで行っています。


 さて、まずリトルサターン作戦なんですが……。私は、GJ4号『激闘! マンシュタイン軍集団』で扱われている期間の全部がリトルサターン作戦だと長い間誤解していたんですが、それはもうないとしても、しかしリトルサターン作戦がある意味結構小規模なものだというのは、意識すべきだというような話に最近ワニミさんとの間でなりました。以前『Enemy at the Gates』でもってリトルサターンキャンペーンをやった時には、『激マン』の意識のままプレイして「過大な目標」を持ってしまっていたんですが、そもそもリトルサターン作戦自体が、(ロストフを奪取してA軍集団を含めまるごと孤立させるというサターン作戦を縮小して)とりあえずスターリングラードの包囲が冬の嵐作戦等のドイツ軍の反撃によって破られそうなのが怖いから、薄いイタリア軍の戦線を突破してモロゾフスクやトルモシンを狙い、ドイツ軍がそちらに戦力を振り向けないといけないようにするという、非常に限定的なものだったのだ、と(『From the Don to the Dnepr』P17。また、『失われた勝利 下』P111~5にかけて、マンシュタイン自身が、冬の嵐作戦のための戦力をホリト軍支隊の方向に転用せざるを得なくなったことに関して大きな遺憾の念を込めて書いています)。

 ですからそもそも今回の地図でもあるように、ニジネ・チルスカヤ方面ではソ連軍は攻勢に出ていない(我々のプレイではそこでも大攻勢してましたが(>_<))し、ミレロヴォもどうも、そもそも作戦の主目標からは外れされていたのかも?



 で、リトルサターン作戦の終盤の細かい動きとしては、以前「小土星」作戦、補給を2週間貯めて戦闘1週間分 (2016/10/26) で書いてましたように、

第11ターン(1942年12月24~26日):赤軍がタチンスカヤ、モロゾフスク、ミレロヴォへ到達(「小土星作戦」の目標へ到達)するも、ドイツ軍による反撃も開始される
第12ターン(1942年12月27~30日):ドイツ軍が上記3箇所を奪回し、状況を安定させた

 となり、

12月30日、戦いは小康状態を迎える。1942年の終わりには作戦は新たな段階へ入ろうとしていた。戦いの行方は、どちらが先にさらなる戦力を投入できるかにかかっていた。
 ……
 STAVKAはこうした失敗を、さらなる攻撃によって補おうとした。消耗した第1、第3親衛軍はそのままに、他の戦区で攻撃を行ったのだ。年明けの1月3日、戦線を整理するため、フレッター・ピコ軍支隊戦区で第3山岳猟兵師団がミレロヴォを放棄。チル河畔とドン川南岸にいた第4装甲軍とホリト軍支隊は、ドネツ川下流へと後退を始めた。A軍集団も年明けと同時にようやく撤退を開始した。これに対し赤軍は第5戦車軍、第5打撃軍、および第28軍による追撃を開始、ロストフへのレースが始まったのである。
『GameJournal4号』P16



 とありますから、今回の地図の赤→緑に移行する時の、下半分の部分はそもそもドイツ軍が自発的に退却していったのを、ソ連軍が追いかけたわけですね。

 ↓にもそこらへんの事が言及されていました(中身検索で序章的な部分がだいぶ読めるのです)。



 同時に、南西正面軍と南方正面軍(スターリングラードにいたもの)の部隊はゆっくりではあるが止めようのない西方への前進で、ミレロヴォ、トルモシン、コテリニコヴォ地域を通り過ぎつつ、B軍集団とドン軍集団の部隊をドネツ川北岸とロストフに向かって追いやり、スターリングラードからさらに引き離した。ミレロヴォへの攻勢で、南西正面軍の第1親衛軍、第3親衛軍、第5戦車軍、それにスターリングラード正面軍の第5打撃軍が、B軍集団のフレッター・ピコ軍支隊とドン軍集団のホリト軍支隊をミレロヴォとトルモシン周辺から一掃し、それらの西のアイダル川沿いの町スタロベリスクと、北側を走るドネツ川の南岸にあるヴォロシロフグラードに向かう枢軸軍に圧力をかける。ドン川の南では、南方正面軍(スターリングラードにいた)がドン軍集団の第4装甲軍を西方ロストフへと追いやり……





 それでもって次に、赤→緑の上半分が、1943/1/13に開始されたオストロゴジスク=ロッソシ作戦です。この作戦でイタリア軍のアルピニ軍団が悲劇的な退却行をおこなうことになるので、私が今一番興味を持っている作戦なんですが、入手が容易で言語的に読める資料というのはどうも苦しそうですね~。先ほどの『After Stalingrad: The Red Army's Winter Offensive, 1942-1943』の中で取り上げられていてもおかしくない作戦なのに、取り上げられていないのが泣きです。ただ、この本の中身検索でこのオストロゴジスク=ロッソシ作戦やヴォロネジ=カストルノエ作戦の地図が英語で見られるので、オススメです。

 『独ソ大戦車戦』のP14にはこの作戦の目標の一つとして、「重要なリスキ~カンテミロフカ鉄道線を回復してこの地域を奪回し」というのを書いています。リスキというのは、OCS地図ではSvoboda(スヴォボダ)となっていて、英語の地図ではどうも一貫してLiskiと書かれていますが、後述のロシア語地図だと「リスキ」っぽい綴りの下に括弧付きで「スヴォボダ」っぽい綴りが書かれているので、どっちもありなのでしょうか。カンテミロフカというのはロッソシのさらに南の鉄道沿いの村です。実際この鉄道線がここで分断されているのはソ連軍(プレイヤー)にとって大変つらく、OCSでのキャンペーンプレイ中には「ウラヌス作戦の次はこのオストロゴジスク周辺を掃討すべきだ」という話が何回も持ち上がりましたし、また『激マン』ではミレロヴォやモロゾフスクなどに向かうよりも、まずはこのオストロゴジスクやロッソシの枢軸軍を掃討して鉄道線を開通させるのが定石になっていたように思います。


 1943年1月と2月の戦いに関するソ連軍とドイツ軍の報告はおおむね合致している。リトルサターン作戦とコテリニコヴォ攻勢のすぐ後に、南西正面軍とスターリングラード正面軍はミレロヴォへと、ドン川屈曲部の西へ向かう基点としてトルモシン、そしてロストフへの攻勢作戦を継続した。これらの攻勢の展開と同時に、1月13日にヴォロネジ正面軍と南西正面軍が、ソ連軍の言うオストロゴジスク=ロッソシ作戦によってドン川沿いのB軍集団中、ハンガリー第2軍とイタリアアルピニ軍団を撃滅した(地図2参照)。この攻勢はB軍集団の防衛線に巨大な空隙を作り出し、ヴォロネジ地域の突出部を防御していたB軍集団のドイツ第2軍は南翼から回り込まれる危険にさらされた。B軍集団がこの脅威に対応するより早く、1月24日にブリャンスク正面軍とヴォロネジ正面軍がドイツ第2軍に対するヴォロネジ=カストルノエ作戦と呼ばれる攻勢を開始。第2軍の両翼と正面への攻撃によってソ連軍はその防御線を突破し、ドイツ軍の残余は混乱のうちに西方クルスクとベルゴロドへの退却を余儀なくされた(地図3参照)。
『After Stalingrad: The Red Army's Winter Offensive, 1942-1943』



 実はこの両作戦について、Tinker, Officer, Soldier, Spy-小説家:伊藤薫のページ 第29章:ドニエプル河へである程度の流れが読めるので、ありがたいです(T_T)

 あと、ロシア語ですが、この地図もオススメ。



 それで、ヴォロネジ=カストルノエ作戦+αによって、緑→青の線へと至ります。青の線は1/29か2/2かという感じなのですが、1/29の時点でヴォロネジ=カストルノエ作戦の領域で枢軸軍がまだ被包囲下にあったようです(諸地図によると)。

 この作戦は劇的な成功に映ったようで、ジューコフの目をして、この先のクルスク方面でも大きな成功を収めると予想するようにさせたらしいです。

 これまでの成功を活かすべく、1943年1月下旬にスタフカは南西正面軍とヴォロネジ正面軍に対して、これまでの作戦が完了していないにもかかわらず、文字通り「行軍から出ずる」とも言うべき2つの新しい攻勢作戦を下命した。このコードネーム「疾駆(スカチョク)」攻勢作戦では、南西正面軍の第6、第1、第3親衛軍が、多数の戦車軍団を要するポポフ機動集団の支援を受け、ドネツ川を西方へと渡り、ドンバス地域を通過してドニエプル川へと至り、ヴォロシロフグラードとザポロジェを占領して、しかる後に南進してアゾフ海を臨むマウリポリへと疾駆して、ロストフを通過して西方への退却を試みているA軍集団のみならず、ドンバス地域にいるドン軍集団のすべてさえをも包囲して潰滅させることになっていた。同時に、コードネーム「星(ズヴェズダ)」攻勢作戦では、ヴォロネジ正面軍の左翼の軍(第40軍と第3戦車軍)がスタロベリスク周辺から西方へと前進し、ベルゴロドとハリコフを占領してB軍集団の大部分を潰滅させ、もし可能ならば、クレメンチュクやドニエプロペトロフスク周辺でドニエプル川まで前進することになっていた。ヴォロネジ正面軍の部隊はこれまでのヴォロネジ=カストルノエ攻勢で余りにも劇的な前進を達成していたため、疾駆および星作戦を前にして、スターリンの最高司令官代理であったソ連邦元帥G.K.ジューコフは、ヴォロネジ正面軍の右翼(第38軍と第60軍)に対して、その目標としてクルスクを付け加えさせたほどであった。
『After Stalingrad: The Red Army's Winter Offensive, 1942-1943』




 そして疾駆作戦、星作戦に突入し、青→紺の線へと進むわけですが、紺の線の一番北の辺りで西にぽこっと出た突出部があって、その中心辺りにクルスクがあります。で、ここの紺の突出部とその北にある黒い線を見比べると、一番北西にはブリャンスクがあり、一番東にはオリョルがあり、このドイツ軍側から見たオリョル突出部が、またぞろソ連軍にとっての両翼包囲のための美味しいエサとしてぶらさがってくるわけです。

 かたや南側で「アゾフ海まで突進して片翼包囲だ~!」、かたや北側で「オリョル突出部を両翼包囲だ~!」となったわけですね。分かります分かります(--)(__)(--)(__)


 南側の推移については今回は興味ないので、北側だけのを追っていきますと、『独ソ戦全史』のP299~303に詳しく書いてあります。

 ここにまず、スターリングラード攻囲戦に使用されていたソ連軍大部隊が、その後どのように転用されたが書いてあります。これはゲームをプレイする上でも大いに興味のあるところでした。


スクリーンショット_160405_221


 2月2日にスターリングラードが陥落するやいなや、スターリンとジューコフはただちにはるか北方の新しい場所での包囲のために軍を転進させた。
 ロコソフスキー指揮のドン正面軍司令部と麾下の2個狙撃軍(第21と第65)、それに新編成の第2戦車軍と第70狙撃軍が同時にヴォロネジ、リブニ地区に移動して、そこで中央正面軍を編成するよう命じられた。古参の第16飛行軍と第2親衛騎兵軍団もまたこの地域で配置についた。これ以外のドン正面軍麾下の3個軍(第24、第64、第66)はスターリングラード地区に留め置かれ、ロコソフスキーもしくはヴァトゥーチン、いずれかの正面軍に編入されるべく命令を待っていた。
『独ソ戦全史』P299



 とありますが、ゲームプレイ上では、何はともあれ移動させられるんじゃないですかね~。リブニというのは、青の線の一番北の端の近くにある村です。

 この後『独ソ戦全史』では、2/12からの3つの計画について書かれていますが、その前の時期の攻勢の話として『After Stalingrad: The Red Army's Winter Offensive, 1942-1943』を見ていると第6章が1/26~2/12のブリャンスク正面軍によるオリョル攻勢と、ヴォロネジ正面軍(の第60軍と第38軍:先ほどジューコフが送ったやつ)によるリゴフ(L'Gov)およびスムイ(Sumy)への攻勢を扱っているとあります。後者は、赤紫の線の突出具合がまさにその周辺に存在する形になっています。

 で、2/12からオリョール突出部を包囲殲滅、2/17~25に掃討戦をしてデスナ(Desna)川西岸へ。2/25から3月中旬にかけてはなんと、ルジェフ、ヴィアジマ突出部にいる中央軍集団を両翼包囲してスモレンスクで手を繋ぐ計画だったそうです。

 ↓参考に『Guderian's Blitzkrieg II』マップ。クリックで拡大できます。

GB2Map.jpg


 しかしそんな壮大なことができるわけもなく、『独ソ戦全史』でその困難について詳述されています。ただ、ある程度うまくいった結果だけを書きますと、先ほどのリゴフ(L'Gov)の北西にセブスク(Sevsk)という村がありますが、その方面への攻撃は成功し、3/7までにはそのさらにかなり西方の、デスナ川沿いのノブゴロド・セヴェルスキー(Novgorod-Severskiy)の郊外にまで達したそうです。ところがドイツ軍の反撃と、南方での攻勢が破局に終わったために、そもそも他の戦区での大成功を前提としていたこの方面での攻勢は中止とさせられたのだとか。

 しかしそれでも最終的に、赤紫の線をソ連軍は確保して1943年の春までの戦いを終了したわけで、このクルスクを中心とした突出部が、この後の1943年7月のクルスクの戦いに繋がっていくんですね。なるほど……。


 可能ならこの『GBII』のマップCとFも連結してプレイしたいところですが、机はまだギリギリなんとかなるのですが、部屋のスペース的に無理かなぁ……。ちなみに、『Case Blue』では本来使うマップセットの一部だけでプレイする方法も書かれていて、そうする場合にはプレイヤーは起こってくる問題を「常識的に判断してうまく処理する」ようにするのだそうです(^_^;

 あと、スターリングラードにいた第21軍と第65軍は『GBII』のマップ領域に転用させられたのは史実のようなので、『Case Blue』と『GBII』共用のオーダー・オブ・アライバルの冊子にその転用が載っているかな? と思って見てみたら載っておらず、むしろこの時期には『GBII』から『Case Blue』への転用が数行に渡って載っていました。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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