FC2ブログ

第2ニュージーランド師団の虐殺行為はマオリ兵によるもの?

 前回(東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17))、東部戦線でのドイツ兵の残虐行為を取り上げた中で、北アフリカにおけるオーストラリア兵、ニュージーランド兵による残虐行為も取り上げていましたが、その後『ドキュメント ロンメル戦記』を読んでいて、第2ニュージーランド師団兵による虐殺行為の話が載っているのを見つけました。


 まずは前回上げた、オーストラリア兵、ニュージーランド兵のもの。

 残念ながら、北アフリカ戦役でも非道な行為が行われている。
 最も残虐であり、しかし歴史の片隅に追いやられている事件は、1940年から41年にかけの、デルナ~ベンガジ突出部の略奪であろう。連合軍が前進し、その後、退却した際に、大規模な略奪が行われたことに、疑問を挟む余地はない。そこで行われたことといえば、ベンガジのイタリア人女性の虐殺(前進してきたドイツ軍が、その証拠を撮影している)、略奪行為(ニュージーランド兵による蛮行がすさまじかったという)、破壊、レイプ、そして殺人。
 前進してきたドイツ軍とイタリア軍は、非道な行いに対し、オーストラリア兵を告発した。略奪行為の一部は、イギリス軍上級司令部が奨励したものもあったという。現在、オーストラリアの公式の見解としては、確かに当時、虐殺は行われたが、それはニュージーランド兵によるものだ、ということになっている。しかし、一部のオーストラリア兵も略奪に関与したという考えは、否定できないであろう。
 もっとも、彼らは退却してきたイタリア軍とアラブ人がデルナとベンガジをさんざん略奪した後で、追い打ちをかけたのではあるが。
 オーストラリア政府はこれまで、1940年と41年にベンガジの市民を処刑したことを示す、文書による証拠の存在を明らかにはしていない。だが、現地のアラブ人がレイプされ、略奪され、殺され、同じようにイタリア人入植者が殺害されたことは間違いないのである。連合軍による略奪行為のうち、オーストラリア兵がどの程度関与していたのか、真相を知ることはできない。
 イタリア軍は、ANZAC(オーストラリア、ニュージーランド軍)の兵士は、投降したり負傷している枢軸軍兵士を処刑している、と主張してきた。第9ベルサグリエーリ連隊に所属していたセルジオ・タミオッツォは、1941年4月30日のトブルク要塞の外郭陣地に対する夜襲の際、オーストラリア軍が反撃に転じた後に捕虜・負傷者を虐殺する光景を目撃している。またメルサ・マトルーでは、ニュージーランド兵が投降を申し出たドイツ兵と負傷者を、銃剣で刺殺した例が報告されている。
『コマンドマガジン日本版Vol.15』P62,63




 『ドキュメント ロンメル戦記』にあったのは以下のようなものです。

 【1942年9月?】われわれは捕虜200名を得たが、その中に第6ニュージーランド旅団長クリフトン准将もいた。
 翌朝、私はクリフトンと会って話した。……
 私は、ニュージーランド部隊が犯した多くの国際法違反行為について彼を詰問した。この師団のために捕虜となったわが軍の将兵、および負傷者がたくさん虐殺されていたからである。それに対し彼は、それはおそらくこの師団にマオリ族の兵がたくさんいるからであろうと答えた。
『ドキュメント ロンメル戦記』P305,6





 ↓OCS『DAK-II』のニュージーランド部隊。

unit00098.jpg

 2NZと4NZのユニットが2つずつあるのは途中で置き換えられるのだと思いますが、4NZの片方がAR1であるのはなにゆえ……? 「RR」とあるのは鉄道工兵部隊で、北アフリカ戦域で唯一の鉄道工兵です。

 第28大隊が通称「マオリ大隊」と呼ばれるマオリ族の部隊で、AR5となっています。


 ↓Wikipedia英語版「Māori Battalion」から、北アフリカで「戦いの前の踊り(ハカ)」を踊るマオリ大隊の兵士たち。

E 003261 E Maoris in North Africa July 1941


 『ドキュメント ロンメル戦記』のクリフトン准将の発言を読んだ時には私は、「白人による有色人種差別ではないのか~」と思ってしまったりしましたが、まあ実際どうだったのかは資料をこれだけしか見つけてない状態では私には全然分からないわけで。ニュージーランドで発行されている本とか資料だったら載っているのでしょうか……。

 Wikipedia日本版「マオリ」には、「2006年8月9日、ニュージーランドの科学者が、マオリは戦闘的な遺伝子を有しており、暴力的で犯罪を犯しやすい傾向にあると発表した。マオリは直ちに抗議するなど、波紋が広がっている[8]。」ということが書かれていましたが、検索してみるとマオリの人々が暴力的な遺伝子を持っているとするのは誤りというページもありました。


 このエントリは残虐行為を糾弾するものではなく、もちろん称揚するものでもなく、ただどんな事実があったかに興味を持っているものですが、遺伝とかの話であればこういう本もあり、個人的にはかなりお勧めです。



 「戦い(ミリタリー)」というものに興味を持ってしまうのも、そういう要因であるとも思います……(尤も、女性にもミリタリー好きな人はおり、男性でミリタリーが嫌いな人もおり、あくまで平均値、最頻値において男性がそちらに寄っているということで)。

スポンサーサイト



東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について

 『Sacrifice on the Steppe』を途中まで読み進めていますがその中で、東部戦線におけるドイツ軍兵士によるロシア住民やロシア軍捕虜、そしてユダヤ人達に対する残虐行為の話が色々出てきて、それに対してイタリア軍兵士達が大きなショックを受けたり、むしろそれらのドイツ軍兵士達にひどい扱いを受けた人々を助けたりするのに、非常に興味を持ちました。


 『Sacrifice on the Steppe』については↓をどうぞ。
グランツのスターリングラード三部作(の一部)などを購入・注文しました (2017/04/23)
『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)



 ヒトラー及びナチス・ドイツが、アーリア民族の代表たるドイツ民族の人種的優位性を標榜し、スラブ人を劣等民族として奴隷化、あるいは追放化して、そこにレーベンスラウム(生存圏)を確保することを狙っていた……という話は、様々な本で読むところですが、ミリタリー的な本では、では実際に東部戦線でどのようなことがおこなわれていたかについては描かれていない感がありました。

 しかし、グランツの『独ソ戦全史』にはそこらへんのことも書かれていました。

 ドイツ国防軍将兵の大多数は、ソビエト人民を、あてにならない、だらしのない、獣同然のものと見なしていた。……
 だが、ソ連の捕虜や一般市民を取り扱う時に、このような表面に出ないドイツ側の心情によって、殺人と蛮行がどこでも広く行われたことは確かである。……
 ……独軍は戦争の最初から大虐殺に関与していた。ナチス党の占領部隊が所定の地域にやってくるずっと前に、最初にロシアの町に入った独軍部隊は、どんな抵抗をも諦めさせようとして、しばしば多数の住民を処刑した。……捕虜は地雷の除去をはじめとする、ドイツ側にとって危険すぎると見なされた作業を無理やりやらされた。
 ……ほとんど300万人に上るロシア人と白ロシア人、そしてウクライナ人が、しばしば死あるいは永久的な身体障害を被りかねないような環境での奴隷労働を強制された。
 これに加えて、ドイツ側の手に落ちた最低330万人のソ連軍の捕虜が飢餓・病気・遺棄によって死んだ。これはドイツ側に捕らえられたソ連軍捕虜の58パーセントに上る。……1941年当時、ドイツ側は莫大な数の捕虜のための用意をほとんど何もしておらず、降伏によって生き延びた捕虜の多くが、それから1か月以内に食糧と退避所の不足のために死んだ。
『独ソ戦全史』P132~134


 【1941年から1942年にかけての冬の戦いで】ドイツ陸軍が失ったものは……深刻な戦意の喪失であった。生き残った古参兵のほとんどが、異国の地での過酷で際限のない戦いに従事させられていると認識していた。だからといって脱走や降伏は不可能であった。なぜなら、互いに人間以下と見なしている相手にかかったら、言語に絶する拷問にかけられると思っていたからである。
 前線の将兵は次第に、自分が戦わねばならない大義名分の本質を追求するようになった。そのような本質を明らかにするため、将校は人種主義的、イデオロギー的なナチス公式のプロパガンダを持ちだすようになった。……教育将校がイデオロギー用語で話を進めるのに慣れてくると、独軍の下士官と兵士はスラブの「下等人種」に対する残虐行為にさらにいっそう力を入れるようになった。逆説的なことに、独ソ戦争はナショナリズムを重視してイデオロギー色を弱めたソ連側に有利に運ぶようになり、逆にドイツ側は政治将校とソ連型方式の教育を次々と採用していった。
『独ソ戦全史』P227,8





 また、『戦争と飢餓』には、ナチス・ドイツの一部で実際にスラブ人の絶滅計画が策定され、それが無秩序に断片的に実行されたことなどが書かれています。

 『戦争と飢餓』についてはこちら。
『戦争と飢餓』ポーランド兵の恨み…… (2014/10/22)
『戦争と飢餓』、超絶オススメです! (2016/02/29)

 戦後に重ねて否定されたが、計画にたずさわっていた数百人の官僚、政府職員、科学者、研究者の間では、これによって数百万人の絶滅死がもたらされることは共通の認識だった。もっと言うなら、彼らは既存の町や村を壊滅することを奨励した。そうすれば、何も描かれていないまっさらなキャンバスが手に入るからだ。
 東部総合計画は、ユダヤ人と飢餓計画の標的になるソ連の都市住民が、ナチスの長い絶滅民族リストの最初にすぎないことを明示していた。東方の原住民のうち、ドイツの社会に組みこめる人数はごくわずかで、ほかに1400万人を奴隷として使用すること、残りは強制退去させることが決まっていた。……1942年12月末の計算では、7000万人を強制退去させる予定だった。ユダヤ人と同じく、スラヴ人たちもいずれ重労働で死ぬことが予想された。ヒトラーは、スラヴ人の運命を「アメリカのインディアン」の運命になぞらえることで、ドイツの東方地域への野望をアメリカの西部拡大に重ねあわせたのだ。
『戦争と飢餓』P52,53


 結果的に飢餓計画は頓挫し、無秩序なやりかたで断片的に遂行された。その要因は、東部地域の統治を担うさまざまな組織間で協調がとれていなかったこと、計画の概念化には政治、経済面の官僚が大量にかかわっていたのに、具体的な実現方法がきちんと詰められていなかったことにある。
『戦争と飢餓』P50,51



 その具体的な行動に関してはあまり描かれていないのですが、ポーランド人に対する扱いに関して少し記述がありました。

 ドイツ人が夜に村へやってきて、住民に一時間足らず、たいていはほんの15分ほどの猶予を与えてわずかな身の回り品をまとめさせ、一カ所に集めたあと、暖房のない列車に乗せて東へ旅立たせたという。……彼らは何百年も代々住んできた故郷から強引に立ち退かされた。家畜同然に集められ、村から鉄道駅までの道で小突かれたり殴られたりした。歩みが遅すぎる者は射殺された……彼らは一時宿泊施設の藁のうえに横たわり、なかには体を起こせないほど衰弱した人もいて、子どもたちのほぼ全員が下痢を発症し、ひとり残らず「青白く疲労困憊して垢だらけで……ドイツとドイツ人への憎しみにあふれていた
『戦争と飢餓』P54,55





 『Sacrifice on the Steppe』では、イタリア軍兵士が見た、具体的な情景が何度も出てきて、非常に印象的です。

 ポーランドで、彼とその部下達はこの戦争における自分達の役割について疑問を持ち始めることとなった。なぜならば、彼らはこれまで知らなかったナチ体制の現実を目撃し、不安と苦悩を感じるようになったからである。その最初のものは、彼らの列車がワルシャワ駅で数時間停止している時に起こった。彼らは、ライフル銃を構えたドイツ兵達が鉄道の枕木を運ぶ市民の集団を指示しているのに気付いた。その悲惨な人々はぼろ切れをまとい、自分達の背負う重荷によろめいていた。そのぼろ切れにユダヤ人であることを示す黄色いワッペンが付いているのにアルピニ兵達は気付き、恐ろしくなった。
『Sacrifice on the Steppe』P21


 列車がブレスト・リトフスクとミンスクの間のどこかの小さな駅で停車した時、数時間停止するので列車を降りるようにとアルピニ兵達は指示された。プラットフォームで、彼らは60~70人の集団に出くわした。女性、子ども、それに老人達が「言葉では言い表せないほどひどい状態で、裸足で、ぼろ切れをまとって、まっすぐ立てる者もほとんどいなかった。」 その内の一人の少女がアルピニ兵達のそばを通り過ぎた。「声をかけたが彼女は歩みを止めず、ラテン語でパンを求める祈りの言葉を繰り返していた……時折、彼女は控えめにぼろ切れを整えるのだった。」
 このぼろ切れの集団から20メートルのところに、洗練された軍服に身を包んだ3人の若いSS将校が、銃をいつでも撃てるようにして立っていた。彼らは、この「体が弱った」人々がプラットフォームでイタリア軍兵士らと隣り合うことになることを気に掛けていない様子であった。
 このドイツ兵に関して、レヴェッリは仲間の将校達に言った。「こんなぞっとするような光景を我々に見せるのを許すなんて、奴らは気が狂っているに違いない。こんなひどいことがあるか? なんの意味があるんだ!」
 程なく彼は、そのドイツ兵達がわざとこの光景をイタリア兵達に見せているのだと気付き、これが珍しいことではないのだろうという考えに至った。
「聖母マリアよ!」 レヴェッリは叫んだ。「これがドイツのやっている戦争だというのなら、俺はそれに参加したくない。これは俺の戦争じゃない」
 この時の長い停車時間を利用して、レヴェッリと部下達は、イタリアを離れて初めての温かい食事を用意した。ミネストローネができあがるとアルピニ兵達は、その今にも飢え死にしそうな人々が拾い持っていた汚い錆び付いた缶に、彼らの分を分け与えてやった。
『Sacrifice on the Steppe』P23,24



 ここで出てくるレヴェッリの著作のうち、『ふたつの戦争を生きて』は和訳されていて、この部分に当たるのは以下になります。

 ワルシャワでは、ユダヤ人との最初の出会いがあった。ぼろぼろの服、一様に胸と背に黃色の星印をつけ、銃を突きつけるSSの監視のもと、線路沿いをさまよっているあの人たちは - 女も、男も、子どももいた - 何者だ? 私たちは互いに尋ねあった。全員が箒とバケツを手にしていた。駅の清掃に振りあてられたユダヤ人たちで、わが軍の列車が出したごみの収集をさせられていたのであった。私はことの真相を知りたかった、知ろうと努めた。……
 ウクライナのストルプチェには、さらに多くのユダヤ人がいた。私たちの温かい食べ物を、いくらか分けることにした。いつになく長い停車時間だった。ジュゼッペ・グランディが私に話しかけてきて、ふたりして食べ物を取りそろえながら、会話を交わした。ユダヤ人たちは死ぬほど飢えていた。私たちはSSの目を盗んで、食料の一部を提供した。山岳兵たちはみな列車から降りていたので、ユダヤ人たちはその混乱に乗じてうまくこちらに近寄り、それぞれ杓子いっぱいの野菜スープを、手持ちの缶詰の空き缶に受けとった。
 ひとりの若い女性がラテン語で話してくれたので、ようやく真相がわかった。ほど近いところに絶滅収容所があって、毎日、300人のユダヤ人が殺されているという。私のうちで何かが粉々に砕けるのを感じた。もっと知りたいと、すべてを知りたいと思った。そして目を凝らし、いま見ているすべてを瞼に焼きつけた。以来、ドイツの将兵を憎しみの眼差しで見るようになった。私の無知は取り返しのつかないものであった。絶滅収容所のことはまったく知らなかったのだ。いずれにせよ、ドイツ人の戦争は私の戦争とは違う、と気がついた。そしてこの感情に苦しみ、おののいた。
『ふたつの戦争を生きて』P100,101




 再度、『Sacrifice on the Steppe』から。

 ドイツ軍と違って、イタリア軍はレーベンスラウム(生存圏)を求めてロシアへやってきたわけではなかった。ナチの飽くことなき征服欲とナチ・ファシストとの同盟に不安を抱きつつ、またドイツ兵による市民への非人道的で攻撃的な扱いを理解することができないまま、アルピニ兵達はコーカサスへの任務を中止し、ドン川へと向かう長い旅路を開始したのだった。
『Sacrifice on the Steppe』P31


 ある日の行軍中、アルピニのアクィラ大隊は、身の毛がよだつ光景に遭遇した。「2人のロシア住民が一本の柱につるされ、揺れていた……我々の部隊の間では、我々がドイツ軍と同盟を組んでいることを非難する声がうずまいた。考えられる理由は、その小さな村の住民達がドイツ軍の助けにならないからということだった。言い換えれば、その住民達が充分な情報、食糧、建物を部隊に供与できなかったから、ということである。そんな理由で、住民達への見せしめとして、ドイツ兵はこのようなぞっとするような虐殺をおこなうのだった。
『Sacrifice on the Steppe』P33


 若干のドイツ兵が、ユリア師団によって保持されている戦線の背後のイタリア軍の補給集積所の近くに駐屯して残っていた。ベデシが書き残していることによれば、大体において、ドイツ兵とイタリア兵が1対1で会う際にはドイツ兵はいい人達であった。だがイタリア兵達の目から見て「特定の状況における彼らの解決方法は、当惑せざるを得ない」もので、イタリア兵達はこの同盟軍との関係を深刻に疑問に思わざるを得なかった。一方で、アルピニ兵達はドイツ軍兵士達の「秩序と規律」を尊敬していた。だが、ドイツ軍兵士達の現地住民への態度は時に理解しがたいものであった。その一例が、以下に挙げるポポフカでの出来事である。
 ポポフカで数人のドイツ兵がある丸太小屋を接収し、その小屋に住んでいたおじいさんと20歳の孫娘の2人を立ち退かせた。立ち退かされた2人は彼らの丸太小屋のそばに小さな避難壕のような穴を掘った。冬が来るのに備えようとおじいさんは、丸太小屋の隣にあった使われていない豚小屋の小さなドアを取り外した。彼は吹きさらしになっている避難壕にそのドアを付けようとしていたのである。一人のドイツ兵が、おじいさんが豚小屋からドアを取り外して運んでいるのに気付き、走って近づくと大声で叫んで掴み上げた。激しい格闘になったが、おじいさんはその小さなドアを離そうとしなかった。そのドイツ兵はおじいさんの顔を引っぱたき、おじいさんは地面にどうと倒れた。
 その時、孫娘がそこにやってきて様子に気付き、叫びながらその兵士を止めようとして、祖父と兵士の間に入った。そのドイツ兵は彼女を横へ押しやると、まだ地面に転がっているおじいさんに向かっていった。孫娘は祖父が殴られるのを止めようとして、兵士にすがりついた。その過程で孫娘は兵士をひっかき、その腕に幾筋かの血の跡が付いた。その時、幾人かの他のドイツ兵が間に入り、兵士と2人とを引きはがした。
 不幸なことに、この話はこれで終わりにはならなかった。翌日イタリア兵達は、そのおじいさんと孫娘が村の広場の木に吊され、処刑されているのを発見したのである。
 このぞっとすると光景を見て大きく心がかき乱されたベデシは考えた。「これは残虐性が解放されたということなのか? 被征服民の命を軽く見ているのか? 勝者は不可侵の存在であるという恐ろしいほどの厚顔によるものなのか?」
 ヴィットリオ・トレンティーニ中尉もまた、ユリア師団の戦線後方にある師団のラバが集められている場所に到着した時に、ある残虐な光景を目撃した。ある丸太小屋の隣の木に、年取ったロシア人男性の体が吊されたのである。「ドイツ兵達は一人の少女の目の前で彼を縛り首にした。彼が隠してあったじゃがいもの場所を隠そうとしたからであるというのである。」
『Sacrifice on the Steppe』P49,50




 
 この他にも、ドイツ軍が管理していた捕虜収容所がイタリア軍に移管されると、そこにはガリガリに痩せて死にかけの元ロシア軍兵士で溢れていて、イタリア軍は彼らの食料や被服に気を配ったりだとかという話が何回も出てきます。ロシア住民とのやりとりも何回も出てきて、ロシア住民はドイツ軍兵士を恐ろしく思い、ドイツ軍兵士を憎む一方で、イタリア軍兵士は「いい人達だ」と歓迎し、イタリア軍兵士達も彼らに温かく接するということの具体的な様子が描かれています。

 そのことの理由として、ロシアの農民の性格と、イタリアの農民出身のイタリア軍兵士達との性格が似通っていたから……というのも書かれたりしていますが、ドイツ軍兵士も農民出身であったりはしたでしょうし、やはりヒトラーによる「人種優位論(社会ダーウィニズム)」の影響が大きかったのでしょうか……。尤も、『アーロン収容所』で描かれたように、当時のイギリス人は日本人をそもそも人間だとも思っていなかった(著者の会田雄次氏がイギリス軍の捕虜になって、命ぜられてシャワー部屋を掃除していたら、軍属の?イギリス人女性が入ってきて全裸になってシャワーを浴びだしたのでびっくりしていたが、そこにイギリス人男性が入ってきたらその女性が恥ずかしがり、それでそもそも日本人は人間として認識されてないのを理解した)という話もあります。イタリア人はロシア人を同じ人間として認識していましたが、ドイツ人はロシア人を、少なくとも劣等民族で、その命の価値は軽いものだと見ていたのではありましょうね……(当時の日本人の中でも、中国人やなんかをそのように見ていた人もいたでしょう)。


 『Sacrifice on the Steppe』は、イタリア軍兵士の悪い面がほとんど全く描かれていない印象があり(「悪い行為もあったが、それらは厳格に処罰された」というような記述がこれまで読んだ中で2回ほど出てきたのみで、具体的に悪い行為の描写は一つもない)、『ふたつの戦争を生きて』などではイタリア軍兵士の悪い面も全然描かれているのに比べて、ちょっと偏向気味ではないかという感もするのですが、しかし、『ヘタリア』などに描かれる「ドイツ軍におんぶで抱っこのイタリア軍」という固定化された見方に、大きな一石を投じる著作でもあるような気がしています。精強だが非人道的なドイツ軍に対して、弱兵ではあるが人間味にあふれ、ロシア軍兵士やロシア住民を助け(同時に助けられもする)、一緒になってコミュニケーションや食事を楽しんだりするイタリア軍、というイメージです(『ヘタリア』でもそういう風に描かれている感じがあるかな?)。



 ところでこれら、ほぼ東部戦線の地域のウクライナ、ベラルーシ、ポーランド等で、ヒトラーのみならずスターリンも、第二次世界大戦前の時代から大虐殺をおこなっており、その死者が総計1400万人(!!)にも及ぶということを描いた、『ブラッドランド』という本の和訳が刊行されています。また、東部戦線で言えば『戦場の性――独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』という和訳本も出ていました(Amazonの書評が秀逸ですね……)。



 特に『ブラッドランド』の方は読んでみたいと思うところなのですが、純軍事的な本に使っている金だけでも相当なものになってしまっているので、さすがに自重か……と思っていたのですが、本の性質からも推測できる面もありましたが、今調べてみるとやはり図書館に蔵書としてあったりするようなので、図書館で借りて読もうかなとも思います。私は本に蛍光ペンで線を引きまくる人間なもので、図書館はまったく利用しなかったのですが、ここらへんの本では図書館利用は全然ありかも……。


 あと、北アフリカ戦での残虐行為について、コマンドマガジンに載っていたのを見つけてました。

 残念ながら、北アフリカ戦役でも非道な行為が行われている。
 最も残虐であり、しかし歴史の片隅に追いやられている事件は、1940年から41年にかけの、デルナ~ベンガジ突出部の略奪であろう。連合軍が前進し、その後、退却した際に、大規模な略奪が行われたことに、疑問を挟む余地はない。そこで行われたことといえば、ベンガジのイタリア人女性の虐殺(前進してきたドイツ軍が、その証拠を撮影している)、略奪行為(ニュージーランド兵による蛮行がすさまじかったという)、破壊、レイプ、そして殺人。
 前進してきたドイツ軍とイタリア軍は、非道な行いに対し、オーストラリア兵を告発した。略奪行為の一部は、イギリス軍上級司令部が奨励したものもあったという。現在、オーストラリアの公式の見解としては、確かに当時、虐殺は行われたが、それはニュージーランド兵によるものだ、ということになっている。しかし、一部のオーストラリア兵も略奪に関与したという考えは、否定できないであろう。
 もっとも、彼らは退却してきたイタリア軍とアラブ人がデルナとベンガジをさんざん略奪した後で、追い打ちをかけたのではあるが。
 オーストラリア政府はこれまで、1940年と41年にベンガジの市民を処刑したことを示す、文書による証拠の存在を明らかにはしていない。だが、現地のアラブ人がレイプされ、略奪され、殺され、同じようにイタリア人入植者が殺害されたことは間違いないのである。連合軍による略奪行為のうち、オーストラリア兵がどの程度関与していたのか、真相を知ることはできない。
 イタリア軍は、ANZAC(オーストラリア、ニュージーランド軍)の兵士は、投降したり負傷している枢軸軍兵士を処刑している、と主張してきた。第9ベルサグリエーリ連隊に所属していたセルジオ・タミオッツォは、1941年4月30日のトブルク要塞の外郭陣地に対する夜襲の際、オーストラリア軍が反撃に転じた後に捕虜・負傷者を虐殺する光景を目撃している。またメルサ・マトルーでは、ニュージーランド兵が投降を申し出たドイツ兵と負傷者を、銃剣で刺殺した例が報告されている。
『コマンドマガジン日本版Vol.15』P62,63




 10代の頃私は日本海軍ファンで(ご多分に漏れず、ウォーターラインシリーズなどの影響で)、その頃に『太平洋戦争とは何だったのか』という本を読んだのですが、この本は非常に中立的な本で、読後の印象は「日本軍はいい事もしたけど、悪い事もした。連合軍もいい事もしたけど、悪い事もした。戦争とはそういうものなのだろう。」というものでした。




 しかしながら、こういう優れた(と思える)本がだいぶ前に出ているにも関わらず、「日本軍は悪いことだけをひたすらした。連合軍はいい人達だった。」か、「日本軍はむしろいい事ばかりをした」という本に溢れているような気がします(T_T)

 「これまでの見方に一石を投じる」あるいは「イデオロギー的な偏向のない」本がどんどん増えてくれると嬉しいと個人的に思います。

ドイツ軍はイタリア軍のトラックを奪って撤退したのか?

 先日、OCS『DAK-II』で見るサブラサ、ピストイア歩兵師団 (2017/07/02) の中で、エル・アラメイン戦の後、「ドイツ軍がイタリア軍のトラックを奪って撤退した」というのは、イギリス軍の流したデマである、という話を書いてました。

 再度引用しますと、こちら。

 ロンメルの影響力は非常に大きく、イタリア軍ドイツ軍を問わず兵士の間で人気があり、イタリア軍最高司令部にもアフリカのイタリア軍司令官にも信頼されていた。ドイツ軍とイタリア軍部隊の連携は、一般的にいって大隊レベルまで良好で、これもロンメルによるところが大きい。……
 こうした背景があって、狡猾なイギリス軍は、ドイツ軍が使えるトラックを全部使ってイタリア軍を置き去りにしていった、というデマを流したのである。退却に関する責任は、イタリア軍最高司令部にあったのであるが。実際にはドイツ軍はイギリス軍が流布したことの逆の行動をとっており、撤退命令を聞かされていないイタリア軍部隊を、数多く救っている。第7ベルサグリエーリ連隊は結果的に置き去りにされたが、多くの兵士はドイツ軍によって救われている(生存者は今日でも、当時のことを口にする)。イタリア軍に意図的に情報が伝えられなかったのではなく、ドイツ語を優先した指揮系統に問題があったのだといえよう。

『コマンドマガジン日本版 vol.16』P86



(※2018/09/16追記:↑この和訳ですが、その後原文にあたる『Rommel's North Africa Campaign』P229を見つけられたので自分なりに訳してみたのですが、結構内容が異なっており、一応他の方にもチェックして貰ったのですが恐らく私の訳の方がより正確であろうという意見ももらえたので、ここに貼っておくことにします(その前の文章から貼ってみます)。

 これまでも書いてきたように、奇妙なのは第8軍が勝利したということではなく、彼らが多くの場合に敗北したことであった。ロンメルの影響は非常に重要であった。なぜならば、彼は部下たちからの人気が絶大で、イタリア軍とドイツ軍のみならず、イタリア軍最高司令部からも、アフリカのイタリア軍指揮官達からも賞賛されていたのだ。彼の幕僚の他の将校たちは異なっていた。ドイツ軍部隊とイタリア軍部隊の連携は、一般的に大隊レベルまでは行き渡っており、それもロンメルのおかげであった。多くの戦術的手順は似通っていたが、多くの他のものは異なっており、多くの一般用語においても2つの軍システムの間には非常に多くの違いがあって、両軍で戦った多くの人々がそれを経験したということは知っておかれるべきである。
 これに関連するが、広く知られた、ドイツ軍が困難な状況にあるイタリア軍からトラックをすべて奪っていったという話は、イギリス側の巧みなプロパガンダによって主に作られたものなのだ。そもそもこの退却の実行は、イタリア軍最高司令部に大きな責任があった。多くのドイツ軍部隊が、配属されていたイタリア軍部隊に通告することなく撤退したのは事実で、第7ベルサリエリの場合もそうであり、その生き残りや関係者は今日でもそのことを話題にする。だが、これはイタリア軍部隊よりも先にドイツ軍部隊にその命令が伝えられたことなどが理由であり、それは両軍の指揮システムの効率性の差が一つの要因だったのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P229


 追記ここまで)




 ところが今、『ムッソリーニの戦い』を見ていましたら、イタリア軍の将校の証言で「車両をドイツ軍に奪われた」という話が出てきました(^_^;

 このような慌ただしい退却の中で、イタリア軍隊の大半が自ら助かるすべもなかったのは極めて悲惨な出来事であった。というのは、車という車はすべてドイツ軍が没収したからだった。この悲劇について、後日、イタリアのある将校は次のように語っていた。
ドイツ兵はイタリア軍の車両をも奪い、勇敢に戦ってきたイタリア兵士を砂漠の真っただ中にほうり出して逃げたのであった。哀れなイタリア兵たちは、敵の猛攻撃や物資欠乏のため犠牲にされたばかりでなく、同盟国軍隊の盟友精神反逆という非道な仕打ちの犠牲となったのである。」
『ムッソリーニの戦い』P248


 他方、リビア戦線に目をやると、ロンメルの退却は依然続けられており、チアーノの日記には、「独伊両軍の不和は意外にも深刻(エジプト国境近くのハルファヤでは両軍兵士の間で撃ち合いがあったという)であるが、それはドイツ軍が大慌てで逃げる時、わが軍のトラックを片っ端から奪い、砂漠に残されたわが師団の多くの兵士たちが飢えと渇水のため死んだからである」というメモをとっている。
『ムッソリーニの戦い』P251



 資料間で言っていることが一致しないのはいつものことなのですが、「両方あった」とかなんでしょうか。イタリア将校側の言い訳に過ぎないという見方も成立するかもしれませんが……。

 一応、『ふたつの戦争を生きて』をさらっと見直してみたのですが、東部戦線で同様のことに関してぱっとは見つけられませんでした。しかし例えばこういう話が載っていました。

 モローゾフカ村で【イタリア軍の】ヴィチェンツァ師団の一大隊と合流するはずであったが、影も形もなかった。ヴィチエンツァの歩兵がひとり、裸足で雪の上に座っていた。その足は凍傷にかかり、すでに腫れあがっている。かたわらにドイツ軍のトラックが一台停まっていた。私は状況を伝え、その歩兵を救護してくられるように頼んだ。だが、ドイツ兵のひとりが、唯一の解決法はピストルの一発だ、と暗示して、こめかみに人差し指をあてがってみせた。ドイツ軍の下士官が割って入って、その《哀れな人間》をトラックに乗せてくれた。ありがたくて、私は下士官の手を握りしめた。
『ふたつの戦争を生きて』P121



 これを読んでも、「イタリア兵につらく当たったドイツ兵もいたが、イタリア兵に親切にしたドイツ兵もいた」ということのようにも思えますが……。


 『雪の中の軍曹』もさらっと見直してみたのですが、そこらへんはぱっとは見つからず。ただ、今回興味深く思ったのが、中にあったハンガリー軍に関する記述。

 【ドン川からの退却中】ハンガリー軍は、全軍の中でもいちばん消極的で、万事につけてどうでもいいといった態度である。彼らの橇には、ラード、サラミ、砂糖、ヴィタミン剤がこぼれんばかりに積まれているが、武器や弾薬はまったく見当たらない。
『雪の中の軍曹』P97



 『雪の中の軍曹』では、イタリア兵は(というか著者)は、何はなくとも武器と弾薬は確保しながら退却していって、必要がある時には必死に戦っていますから、このようなハンガリー軍はいったい退却行をどのようにおこなっていったのか、逆に興味が湧くところです(^_^;

 しかし、OCS『Enemy at the Gates』のプレイでは、積極果敢にドン川を渡って攻めてくるハンガリー軍に私はえらい苦しめられたのですが、国や軍としての士気的にはやはりこういうのは難しかったのだということですかねぇ……。

『WHO WAS WHO in World War II』を購入しました

 最近色々、第二次世界大戦中の将軍に関して調べたりしてますが、そういえばナポレオン戦争中の人物事典として『Who was who in the Napoleonic Wars』というのがあったりするので、第二次世界大戦に関してもあるのではないかと思って先日探してみたら、『WHO WAS WHO in World War II』というのが見つかりました。




 今ちょっと見つけられないのですが、値段の高いペーパーバック版があったりでしたが、中身をだいぶ見ることができて(私が好みの)人物評なんかも割と載っている感じだったので、値段のかなり安いハードカバー版を注文しました。サイズがでかいか心配でしたが……。

 それが昨日届きまして、サイズはA4よりほんの少し大きい感じでした。

スクリーンショット_160405_181


 右側のペーパーバックよりだいぶ大きいです。

 中身としては、想像していたよりはかなり写真が多く、大きく載っています。本の大きさがでかいこともあって、写真自体がだいぶでかいので他で見るより臨場感を感じました。


 中身をちらっと見てみたんですが、やはり割と人物評が加えられていて、良い感じだと思いました。単なる履歴ならWikipediaなんかでもだいぶ詳しく分かるのですが、人物評が書かれているのは貴重のように思います。また資料として活用していこうかと。


 今見ていたら、『Who Was Who in the Second World War』という本があって安いんですが、Amazon以外で全然検索に引っかかってこない……。



 しかし中古の最安値が700円弱で、次が1600円くらいなので、ダメで元々で買ってみました……。

イタリア軍のガムバラ将軍はロンメルに協力するようになって解任された?

 承前、イタリア軍のガムバラ将軍について。


Gastone Gambara
 ↑Wikipediaから


 前回にも引用していたものですが、ガリボルディ将軍の解任の時の話です。

 このころ、イタリア参謀本部では、総司令官の更迭が行われ、カヴァッレーロ参謀総長はガリボルディ将軍へ次の電報を送った。
「6月半ば、サルーム戦線の作戦が勝利をもって集結し、かつ貴下の指揮により、軍隊の再編を終えるにあたり、貴地における貴下の使命はここに完了したものと考える。貴下の功績に対し謝意を表するとともに、リビア総督と北アフリカ総司令官の職を解き、新たにバスティコ将軍をその職に任命したことを通報する。」
 この更迭の理由については、陸軍参謀長に昇格したロアッタ将軍がカヴァッレーロ参謀総長へ送った報告の中で明らかにされている。それによれば、ガリボルディとロンメル両将軍の関係について、ガリボルディはどうしてもロンメルの意向に沿って物事を進めるべきだと決めてかかり、したがって彼に命令したり、指示を与えることはしなかった。しかしガリボルディの幕僚であるガンバラ将軍は、ロンメルがたとえ不服を唱えても、ガリボルディが総司令官としての実権を行使すべきだと頑強に言い張ったので、両者が仲たがいしたためであった。
『ムッソリーニの戦い』P170


 7月12日に枢軸軍の一人の司令官が交替した。ガリボルディ将軍はイタリアに帰還し、その後ロシア戦線へと赴く。彼の後任は7月19日にやってきたエットーレ・バスティコ将軍で、ムッソリーニの友人の一人であり、エチオピアとスペインでの指揮経験を持っていた。彼はそれまで、エーゲ海のドデカネス諸島の守備隊の司令官であった。バスティコは北アフリカ上級司令部の指揮官となった。彼の参謀長はガストーネ・ガムバラで、スペイン内戦時のファシスト党の英雄の一人であり、ムッソリーニの義理の息子で外務大臣であったチアーノ伯の友人であった。バスティコには、ガリボルディの時よりもロンメルに自由裁量を与えることが期待されていた。ガムバラにはアリエテとトリエステ師団、それにイタリア軍のEsplorante戦闘集団やRECAM偵察戦闘集団より成る機動群の独立指揮権が与えられた。ロンメルはこれらのイタリア軍部隊を指揮下にできないことをひどく悔しがった。ロンメルは「頑固で横暴で凶暴」で知られたバスティコを「ボンバスティコ」と呼び、バスティコとガムバラの両方を「クソ共」と呼んでいた。
『Rommel's North Africa Campaign』P75,76




 ただ、ガムバラ将軍はロンメルと仲たがいばかりしていたわけではなく、ロンメルに協力的であった時もあったことが『ロンメル語録』に書かれていました。

 【1941年6月】
 ちょうどその時、イタリア北アフリカ派遣軍参謀長のガムバラ将軍が私の野戦司令部を訪れた。私は彼に戦闘情況とその戦術上の問題点を簡単に説明した後、ドイツ軍は一見優勢を保っているように見えるが、とてもエジプトへ進出できるような状態にないことを遠まわしに述べた。私は総体的な戦略の面では見通しが暗いことをできるだけ強調して語ったのだが、それは増援のイタリア軍諸師団をトブルク道路を迂回してできるだけ早くこの地に派遣する必要があることをガムバラ将軍に理解してもらうためだった。将軍は私の言葉に非常に感銘を受けた様子で、ソルームの陣地を固守するためにできることは何でもしようと約束してくれた。
『ロンメル語録』P135




 その後、クルセーダー作戦の時に、ガムバラはロンメルの指揮下に入ったようです。

 【クルセーダー作戦中の11月22日頃?】ロンメルはガムバラ将軍に、彼の機動軍団をシディ・レゼク近くの敵を殲滅中のドイツ軍の支援に送ってくれるように頼んだが、ガムバラはアリエテ師団の一部を送る準備をしただけであった。その後すぐにロンメルはローマに電報を送り、翌朝フォン・リンテレン将軍に、ガムバラを自身(ロンメル)の指揮下に置いてもらえるようにムッソリーニを説得することを依頼した。彼はまた、バスティコ将軍に関して、戦いが始まってから司令部にも顔を見せず、戦いの指揮を執ることもしていないことに不満を述べたが、しかし実際には明らかに、ロンメルはそのようなことを望んでいたわけではない。同日、ムッソリーニはガムバラの軍団をロンメルの指揮下に置いたが、ロンメル自身は依然としてバスティコの下に就くものとされた。
『Germany and the Second World War, 第 3 巻』P737



 ところがクルセーダー作戦で枢軸軍が危機的状況に陥る中、「ガムバラはどこか?」という言葉がドイツ軍の中で有名になります。『砂漠のキツネ』の中には、一つの章の見出しが「ガムバラはどこか?」になっているのです。

 イタリア軍に来てもらわなくてはならない。たたかってもらわなくてもいいのだ。側面の掩護だけでかまわないのだ。包囲陣の一環となるだけで。
 クリューヴェルは、最後の大きなチャンスを目前にし、ロンメルとイタリア軍指揮官ガムバラにたてつづけに無線で連絡した。頼み、命令した。「ガムバラはどこか?」 幾度も幾度も彼は平文でロンメルを呼びだした。「ガムバラはどこか?」 これはあまりにも有名な言葉となった。
 ガムバラの師団は戦場にあらわれなかった。ガムバラは来なかったのだ。ドイツ将校の顔はけわしくなった。その数日間、イタリア将校としては彼らの前にまかり出ないほうが利口というものであった。
『砂漠のキツネ』P94,5



 結構このくだりは印象的で、私も「ガムバラはどこか?」というセリフと共にガムバラ将軍の名前を覚えていました。

 ところが、『Rommel's North Africa Campaign』ではそれに対してやや修正的な見方を提示しているように見えます。

 【クルセーダー作戦の最終盤の1941年】12月4日にも、エル・ドゥダへのドイツ軍の攻撃が行われたが、撃退された。この撃退と、もしビル・エル・グビが落ちたなら側面包囲されるかもしれないという懸念から、ロンメルはトブルク包囲網の東面を放棄して全ての機動兵力をその南方へ集結させることを決断した。ドイツで流布している「ガムバラはどこか?」という話はこの状況において生起した。アリエテ師団とトリエステ師団はDAKに合流するように命じられた。ガムバラの司令部はかなり時間が経ってから命令を受け取り、ジョック・コラムと航空阻止(連合、枢軸両方の)に苦しめられながらアリエテ師団(左側に位置していた)は、トリエステ師団と共にゆっくりと集結しつつあった。しかも彼らはDAKとの集結地点までに、ドイツ軍の2倍の距離を行かねばならず、もちろん他の枢軸軍部隊と同様に、燃料も弾薬も欠乏していた。イタリア軍戦史局のモンタネッリが言うには、アリエテ師団とトリエステ師団長達は「自発的な活動力に欠けていた。イタリア軍の命令系統の伝達のお粗末さなどの諸問題が、命令の到着や執行の遅れをもたらした。」 彼はまた、ガムバラから師団長達への命令を引用している。「各師団長は命じられた場所へ時間通りに到着しなかった部隊や、それらの場所を通り過ぎてしまった部隊への責任を負う」「司令部との連絡を維持しなかったいかなる指揮官も、私は解任する」 指揮官からの命令としては異例である……。
『Rommel's North Africa Campaign』P124,5




 しかし、その後の撤退→ロンメルの第二次攻勢でベンガジを占領する前日に、ガムバラはまたロンメルと大喧嘩をし、その後解任されています。

 しかし、ベンガジを占領する前日【Wikipediaで見ているとベンガジ占領は1942年1月の28日か29日のことっぽい】、ロンメル将軍とガンバラ幕僚との間で大激論が戦わされた。ロンメルは、山岳の高台にイタリア歩兵部隊を増強すると主張し、ガンバラが反対したのであるが、これはロンメルにすれば、英軍が枢軸軍の兵力僅少を見抜いて、山岳地帯から反撃に転じてくると、キレナイカを再び放棄せざるを得なくなるのを憂慮したからだった。ロンメルは自分の作戦にたびたび難癖がつけられるのに憤慨し、司令官の職を辞任するとまで言い出した。今度はバスティコ将軍がなだめ役に代わり、ロンメルの作戦とその情勢判断に同意するのであった。こうして"砂漠の狐"は再び勝ち誇るのである。
 ……
 その後、北アフリカ情勢は数ヵ月間、停滞状態が続いたが、ただ人事の面で新しい動きがあった。すなわち、バスティコ将軍の配下ガンバラ将軍が幕僚の職を解任されて第11軍団に移り、その後任にディプルン将軍が任命された。
『ムッソリーニの戦い』P204,5



 Wikipediaイタリア語版のガストーネ・ガムバラの記事を見てみるとどうやら、ガムバラ将軍が解任されたのは1942年3月6日のことらしいです。ただし、『ドキュメント ロンメル戦記』(リデル・ハート編)では、ロンメルから奥さんへの手紙が書かれていっているのですが、ガムバラの解任の件は3月26日の手紙に書かれています。

〔1942年3月26日〕
 ……
 ガンバラはイタリア本国の職務に転任になった。つまり左遷だ。新しくきた男からはいい印象を受けた。
『ドキュメント ロンメル戦記』P214



 「新しく来た男」、つまり後任ですが、『ムッソリーニの戦い』ではディプルン将軍と書かれていますが、『ドキュメント ロンメル戦記』ではバルバセッチ将軍となっています。

〔1942年4月25日〕
 ……
 きのうは二人の人物に会ってとても面白かった。一人はワイヒホルト、もう一人はガンバラの後任のバルバセッチ将軍だ。
 この時私が聞いたところによれば、ガンバラは何人かの将校を前にして、今の彼の唯一の望みは、生きているうちにイタリア軍を率いて、われわれドイツ軍と戦うことだといったのが更迭された原因だという。馬鹿なやつだ!
『ドキュメント ロンメル戦記』P215


 これを読んでいると、「ホントにバカなやつだな!」という気しかしません(^_^;


 ところが、『Rommel's North Africa Campaign』のガムバラの解任に関する箇所ではどうも、ガムバラはロンメル寄りの人間になっていたために解任されたと書いてあるように見えます。訳が間違っていなければ……。

 【1942年1月頃? ロンメル第二次攻勢の時】ロンメルは同盟国イタリアが彼の新たな攻勢計画の秘密を保持できないのではないかと疑っていたので、このことを知る将校は非常に限られていた。ところが実際には、これはULTRAによる情報漏洩だったのである - 皮肉なことに、1941年以後にはULTRAはイタリア軍の上級司令部の暗号を解読できなくなっている一方、特にドイツ空軍のそれを容易に解読してしまっていた。バスティコ将軍も、OKWも、イタリア軍最高司令部もロンメルの攻撃計画を知らされていなかった。ケッセルリンク将軍でさえ、前日になって攻撃について知らされたほどだった。ところが、ガムバラ将軍はドイツ軍への補給トラックや燃料を供給する役割だったために、攻勢計画を知らされていたのだ。恐らくこの事実と、カヴァレロの知らないところでその意志に反して、他の行動でもロンメルを支持していたために、ガムバラはこの攻勢の展開後すぐ解任されてしまった。ガムバラが去る際には、彼はその「従順でない態度」と、部下達の着服疑惑のためにカヴァレロの不興を買ったのだと発表された。興味深いのは、ガムバラがロンメルを支えるようになるという変化が、彼が指揮系統に従わなかったことと同様、彼の失権をもたらしたということである。彼が他の将校との食事の時に語ったものか、彼が望んでいたのは「長生きして、ドイツ軍に対してイタリア軍を指揮する」ことであったという話があるにも関わらず、1942年の春までにガムバラ将軍は多くの場所でロンメル将軍を支えており、良好な関係を持ち、その戦争のやり方に賛同していたという。
『Rommel's North Africa Campaign』P141,2



 訳を間違えてる可能性もありますが……。しかしそれほど間違えてないとすれば、非常に興味深いことです。より詳しく知りたくてGoogle Booksで検索もしてみたのですが、良くわからじ……。「1942年の春までに」ガムバラはロンメルに協力的になった、という風な感じで書かれていますが、同年2月4日には枢軸軍はガザラの辺りまでは到達したらしいので、ガムバラ将軍は1月末にはまだロンメルと張り合っていたのが、それを見て2月中くらいにロンメルに協力するようになった……のでしょうか。で、しかし3月中には解任されてしまう、と……?

 しかし、『ドキュメント ロンメル戦記』のロンメルの手紙の中の書きぶりでは、ガムバラを馬鹿にする感じはあっても、惜しいみたいな感じはまったくありませんし、後任を明らかに好ましいと思っているようです。


 ただ、ガムバラ将軍が兵站部の担当だったとすれば、確かに攻撃計画を(他のイタリア軍首脳部より先に)知らされていたかもしれない記述がありました。

「私はメルサ・エル・ブレガから東方に向かう攻撃について秘密にしておき、イタリア軍の総司令部はもちろん、ドイツ軍の最高統帥にも報告しなかった」
「過去の経験から、イタリア軍の総司令部は秘密を守ることができず、なんでもローマに無線で報告するので、これをイギリス側に傍受されてしまうことを知っていたからである」
「しかし私は兵站部と調整し、攻撃開始の日である1月21日にはわが戦車軍の攻撃命令を、トリポリタニア全域の道路整備拠点に通知させておいたのである
「ホムズにいたバスチコはこれを通じてわれわれの企図を知り、当然のことながら私が事前に報告しなかったといって激怒した」
「彼はこのことをローマに報告したので、その数日後カバレロが自らメルサ・エル・ブレガにやってきた時も別に驚かなかった」

『ドキュメント ロンメル戦記』P210



 兵站部がガムバラ将軍の担当で、事前に攻撃計画を知らされており、トリポリタニア全域に通知する手配をしたのもガムバラだったのならば、その通知で攻撃計画を知ったバスチコに睨まれ、カヴァレロによって解任されてしまうというのも、あり得ることかもしれません……(あくまで推測ですが)。


 解任された後の役職ですが、Wikipediaによると本国に戻って何らかの役職にいた後、9月になってからバルカン半島の第11軍団司令官となったらしいです(第11軍団というのが、北アフリカにいる軍団であるかとも思ったのですが、そういうわけではない、と)。


 また、ロンメルの死のニュースが流れた時、ガムバラは次のように記したそうです。

 イタリア軍将官のなかで最も有能な一人ガンバラ将軍は、【ロンメルの死を聞いて】次のように記した。「砲火の下に泰然自若としている彼の雄姿を、わたしと同様、光栄にも目撃した人々の心に、彼は永遠に生き続けることだろう」
『ロンメル将軍』P295




 Yahoo! 知恵袋には、こういう話も書かれているのですが、どうなんでしょうね……。


イタリア軍のガリボルディ将軍の解任の理由、その2

 以前、イタリア軍のガリボルディ将軍とメッセ将軍とテレーラ将軍 (2017/05/27) の中でガリボルディ将軍の解任の理由についていくらか書いてました。その後、『ムッソリーニの戦い』をひもといていてそこらへんのことが書かれているのを見つけました。





 まず、ロンメルとガリボルディの最初の頃の関係についてですが、『ムッソリーニの戦い』でも関係が悪かったことが描かれています。

 ロンメル・ガリボルディ両将軍は初対面の時から、双方の作戦に食い違いがあることを認めざるを得なかった。ガリボルディはトリポリへの退却やむなしとして、早くもあきらめていたが、ロンメルの意見は違い、彼は偵察飛行を試みた後、ドイツ第5空軍編隊で一連の爆撃を強行する決意を固めたのである。
『ムッソリーニの戦い』P109


 イタリア司令部との約束では、マルサ・エル・ブレガを越えて前進しないことであったが、この約束は"砂漠の狐"によって踏みにじられたわけである。ムッソリーニは立腹を抑えきれず、ロンメルと連絡を取ろうとするが、ロンメルはいつも前線に出ているためにこれは不可能ということで、ガリボルディ将軍をドイツ軍司令部へ赴かせて進軍をやめさせるよう命じた。
 ロンメルは4月3、4日の両日、ガリボルディと会見したが、その模様を次のように記録している。
ガリボルディは、私の作戦がローマの指令に反するとして激しく非難した。彼は独伊両軍の増強が絶対にあり得ないと言い、私の進撃を停止するよう要求するとともに、今後の作戦は彼の承諾なしでは行ってはならんと強要するのであった。」
 このためロンメルは、イタリア司令部との関係を明確にし、ぜひともこの問題に決着をつけておくべきだと考えたわけであるが、記録には「私は自分の見解を明確に説明し、正しいと判断することは、今後とも断行する考えであると答えた。すると相手は怒りだして激論となり、とても収拾がつかないと思われた時、救いの神というか、ドイツ最高司令部から無電が入り、私に対して行動の完全な自由を認めるということであった」と書いている。
『ムッソリーニの戦い』P111,2



 ところが、ガリボルディが解任される時の事情としては、ガリボルディがロンメルを自由にさせすぎるからだということになっていました。

 このころ、イタリア参謀本部では、総司令官の更迭が行われ、カヴァッレーロ参謀総長はガリボルディ将軍へ次の電報を送った。
「6月半ば、サルーム戦線の作戦が勝利をもって集結し、かつ貴下の指揮により、軍隊の再編を終えるにあたり、貴地における貴下の使命はここに完了したものと考える。貴下の功績に対し謝意を表するとともに、リビア総督と北アフリカ総司令官の職を解き、新たにバスティコ将軍をその職に任命したことを通報する。」
 この更迭の理由については、陸軍参謀長に昇格したロアッタ将軍がカヴァッレーロ参謀総長へ送った報告の中で明らかにされている。それによれば、ガリボルディとロンメル両将軍の関係について、ガリボルディはどうしてもロンメルの意向に沿って物事を進めるべきだと決めてかかり、したがって彼に命令したり、指示を与えることはしなかった。しかしガリボルディの幕僚であるガンバラ将軍は、ロンメルがたとえ不服を唱えても、ガリボルディが総司令官としての実権を行使すべきだと頑強に言い張ったので、両者が仲たがいしたためであった。
『ムッソリーニの戦い』P170


 ここまでの間に、ガリボルディの変心について何か書かれていた可能性がゼロではありませんが、目視でやっているので……。

 あくまで推論としてですが、ムッソリーニがロンメルの言う通りにさせるのを苦々しく思っており、最初はムッソリーニの指令に従ってロンメルとケンカしていたガリボルディが(前回のエントリでも書かれていたように)だんだんとロンメルのやり方を認めるようになってきて、それでクビにしたとか……。


 今回、手持ちの『Rommel's North Africa Campaign』やオスプレイシリーズもひもといてみたのですが、オスプレイシリーズにはそこらへんの事情は何も書かれていないようでした(時期が合わないとかもあるかも)。

 『Rommel's North Africa Campaign』を見てみると、この本はガリボルディの解任の理由を「ロンメルと不仲になったため」と簡単に書いており、そちらの説を採っているようです。

  イタリア軍の将校団は多くの問題を抱えていた。エチオピアの英雄で、アルプス方面を重視する保守的なピエトロ・バドリオ元帥をトップとするイタリア軍は、その将校の選定に硬直的な年功序列システムを採用していた。この硬直的な年功序列システムは有能な若手将校の順調な昇進を妨げ、むしろ無能な将校を高級司令部に残す傾向にあった。しかも、高官は戦場で失敗しても退役や免職させられることなく、新たな役職を得て他の戦域に回されるだけということが多々あった。例えば、イターロ・ガリボルディ将軍は、1941年にエルヴィン・ロンメル将軍と不仲になったが、単にアフリカからロシアへ異動させられただけだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P14



 それより興味深いこととして、後任のバスティコ将軍や、あるいはガリボルディと意見が衝突したというガムバラ将軍がムッソリーニやチアーノ外務大臣の友人の一人であったり、ファシスト党の英雄であったりと、そこらへんの情実が優先されたのではないかと匂わせる記述がありました。

 7月12日に枢軸軍の一人の司令官が交替した。ガリボルディ将軍はイタリアに帰還し、その後ロシア戦線へと赴く。彼の後任は7月19日にやってきたエットーレ・バスティコ将軍で、ムッソリーニの友人の一人であり、エチオピアとスペインでの指揮経験を持っていた。彼はそれまで、エーゲ海のドデカネス諸島の守備隊の司令官であった。バスティコは北アフリカ上級司令部の指揮官となった。彼の参謀長はガストーネ・ガムバラで、スペイン内戦時のファシスト党の英雄の一人であり、ムッソリーニの義理の息子で外務大臣であったチアーノ伯の友人であった。バスティコには、ガリボルディの時よりもロンメルに自由裁量を与えることが期待されていた。ガムバラにはアリエテとトリエステ師団、それにイタリア軍のEsplorante戦闘集団やRECAM偵察戦闘集団より成る機動群の独立指揮権が与えられた。ロンメルはこれらのイタリア軍部隊を指揮下にできないことをひどく悔しがった。ロンメルは「頑固で横暴で凶暴」で知られたバスティコを「ボンバスティコ」と呼び、バスティコとガムバラの両方を「クソ共」と呼んでいた。
『Rommel's North Africa Campaign』P75,76



 「バスティコには、ガリボルディの時よりもロンメルに自由裁量を与えることが期待されていた。」とあるのは、「ガリボルディは、ロンメルと不仲になったから解任された」説によるものではないかと思います。


 バスティコとガムバラに関しても面白そうなので、調べたいと思ってます。

<2020/09/13追記>
 ブログ「Associazione Italiana del Duce -ドゥーチェのイタリア協会へようこそ!」という所のエントリに、「熱砂の将軍、エットレ・バスティコ元帥 ―灼熱の北アフリカ戦線で戦った戦術家の生涯―」というのがあるのをたまたま見つけまして、読んでましたら、ガリボルディの解任の理由について書いてありました。

バスティコのエーゲ海総督時代も、1941年7月に終わりを告げる。理由は、イタロ・ガリボルディ(Italo Gariboldi)将軍の後任のリビア総督として、北アフリカ戦線に派遣されることとなったからだ。ガリボルディ将軍は派遣されたドイツアフリカ軍団のロンメル側の独断専行的な姿勢から、初対面の時から双方の作戦に食い違いを感じ、対立していた。しかし、ガリボルディはロンメルがその強行策によって戦果を挙げていったことから、ロンメルの意向に沿って作戦を進めるべきだと考えるようになった。

このため、ガリボルディの幕僚であったガストーネ・ガンバラ(Gastone Gambara)将軍は、ガリボルディ将軍の低めの姿勢を批判し、立場上ガリボルディ将軍が北アフリカの枢軸軍の総司令官なのであって、ロンメルは支援軍の指揮官に過ぎないのであるからとして、相応の実権を行使すべきであると主張した。ガンバラ将軍はロンメルと特に仲が悪いイタリア側の将軍だった。これをロアッタ陸軍参謀長は問題視し、北アフリカ戦線の立て直しで多くの貢献をしたガリボルディ将軍を評価しつつも、リビア総督の職を解き、新たにバスティコ将軍を任命したのであった。


 このブログを書かれているLuciano氏は何冊ものイタリア語文献を参考に書かれているので、ここまで拙エントリ上で引用していた諸資料よりも信頼度は高いのではないかと……(^_^;

 しかしそうすると、「不仲が解任の理由」説というのは、公式にはそう発表されたからなのか……。うーむ。

<追記ここまで>



 

OCS『DAK-II』で見るサブラサ、ピストイア歩兵師団

 『コマンドマガジン日本版 Vol.16』に、北アフリカのサブラサ歩兵師団と、ピストイア歩兵師団に関する記述があったのに興味を持ちました。


 まずはサブラサ師団について。

 サブラサ師団は士気も練度も低い、2線級の部隊だった
『コマンドマガジン日本版 Vol.16』P75

 サブラサ師団といえば、せいぜい守備隊任務にしか使えないような、リビアで編成された2線級の部隊である。そのような部隊さえ、前線に投入せざるを得ないのが、アフリカ装甲軍の実情であった。このことを知ったムッソリーニは、精鋭のフォルゴーレ空挺師団の北アフリカ投入を決意する。これでヘラクレス/C3作戦の実施は完全に不可能となった。
『コマンドマガジン日本版 Vol.16』P76




 『砂漠の戦争』にも、サブラサ師団が弱いことについての記事があります。

 敵部隊の質はよかったが、非常にむらがあった。イタリア軍サブラタ師団は、つねに苦境においこまれていたようだった。彼らはもともと駐屯軍として使うべきものであり、それを前線に出すというのがそもそも間違っていたのである。テル・エル・エルサで、オーストラリア軍の前に屈したのもサブラタ師団だった。彼らは集団的に投降してきた。中央部で降服した、別のイタリア軍部隊は、インド軍情報将校にいった。
「われわれは、ブレーシア師団のものです。弱い兵隊だと思うでしょう? でも、サブラタに比べればましですよ」
『砂漠の戦争』P217




 それから、ピストイア師団について。

 アフリカにおける枢軸軍の問題の一つは、チュニジアまでに至る、伸び切った戦線であった。この広大な土地を守るため、ヒトラーは4月に弱小のピストイア師団をアフリカに送った。強襲上陸に備えてである。エル・アラメインに展開する枢軸軍の後背地に敵が上陸してくることを、ロンメルは懸念した。事実、後背地では限定された連合軍の作戦が行われていた。9月中旬、長距離砂漠グループが活動したが、とても成功したとはいえず、30機の航空機を破壊したにとどまった。トブルクに対する強襲は、沿岸砲台による砲撃と、同港を守るサン・マルコ海兵大隊のために失敗しに【ママ】終わっている。
『コマンドマガジン日本版 vol.16』P82



 トブルクへの強襲に関しては、『ドキュメント ロンメル戦記』にも記述がありました。

 【1942年】9月14日の早朝、敵はトブルク港と周辺地区に対し、約180機による連続爆撃を加えたのち、有力な部隊によってこの要塞地区に上陸を試みた。わが方の手に落ちた敵の文書によると、敵はドックの施設を破壊し、停泊中の船舶を撃沈する計画だったようである。トブルク半島にあったわが高射砲部隊は、直ちに猛烈な砲撃を開始した。大急ぎで独伊軍の反撃部隊が編成され、上陸した敵部隊の包囲に成功した。われわれはイギリス軍がトブルク占領を企図しているのではないかと思って、すぐに多数の機械化部隊をトブルクに向け出発させたが、同地にあった部隊は間もなく事態収拾に成功した。イギリス軍は、戦死および捕虜などばく大な損害をこうむり - わが高射砲部隊の報告によれば - 駆逐艦3隻、上陸用舟艇または護衛艦3隻が撃沈された。
 翌日、わが空軍は再びイギリス軍を補足し、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻および護衛艦数隻を撃沈した。またイギリス艦船多数がわが爆撃により損傷した。9月15日朝、私は自らトブルクに飛び、同地守備隊の善戦を称賛した。敵がトブルクを攻撃したという報告はわれわれに少なからず警戒の念を起こさせた。というおは、トブルクはわが方の最も弱点とする地点だったからである。私は敵がその攻勢開始にあたって、再びこのような攻撃を企図するのではないかと思った。そこでロンバルディー提督とディンドル将軍に対し、全力を尽くしてこの要塞を確保するように命じた。
『ドキュメント ロンメル戦記』P315,6




 ピストイア師団は、名前は聞いたことがあるものの、印象が薄いと思っていましたが、エル・アラメインの時という遅い時期になってようやく北アフリカに持ってこられたので、ゲーム上でもあまり見たことがないということなんでしょうね。



 ↓OCS『DAK-II』から、イタリア軍の歩兵師団(徒歩部隊のみ)と、前掲のサン・マルコ海兵大隊のユニット。

unit00097.jpg

 サン・マルコ海兵大隊のAR4は強いです。弱小と書かれていたサブラサとピストイアはAR3と、平均クラスになっています。


 その他のイタリア軍歩兵師団で、その強さについて触れられていた文としては、パヴィア、ブレシア両師団に関する、以下のものを収集していました。

 【クルセーダー作戦の時】ひるごろトブルク守備隊は60台の戦車と強力な歩兵部隊をもって、味方戦車隊と合流すべく脱出を試みたが、イタリア軍は死にものぐるいで封鎖線を守り、パヴィア師団はよく戦った。それでも敵軍は包囲線の拠点を多数奪うことに成功した。
『砂漠のキツネ』P78


 ブレシア師団と同じく、ファシスト1個レギオンをもつ。パヴィア、ブレシア両師団は、イタリア歩兵師団でアフリカ軍団について行くことができた数少ない存在であった。パヴィア師団は、トレント自動車化歩兵師団と第21歩兵軍団を編成していた。両師団はともに、エル・アラメインからの後退戦闘で壊滅した。
『アフリカンギャンビット』P25




 OCS『DAK-II』のユニットでは、パヴィア、ブレシアも、サブラサ、ピストイアも、ARは平均の3です。良く見る師団名の中では、ボローニャがAR2となっています(あまり見ない師団名のものは、コンパス作戦の時に壊滅させられた歩兵師団です)。


 ボローニャ師団は、エル・アラメインからの撤退の時に、見捨てられたそうです(>_<)

 ボローニャ師団は第7ベルサグリエーリ連隊ともに、沿岸部に見捨てられた。第10軍団の歩兵は、要請していた150台のトラックを受領しておらず、砂漠の中で水と助けを求めていた。
『コマンドマガジン日本版 vol.16』P86




 ただ、同記事には、エル・アラメイン戦からの撤退の時に、「ドイツ軍がイタリア軍のトラックを奪って撤退していった」というのはイギリス軍の流したデマであると書かれていて、「うおおおお。マジ!?」と思いました。

 ロンメルの影響力は非常に大きく、イタリア軍ドイツ軍を問わず兵士の間で人気があり、イタリア軍最高司令部にもアフリカのイタリア軍司令官にも信頼されていた。ドイツ軍とイタリア軍部隊の連携は、一般的にいって大隊レベルまで良好で、これもロンメルによるところが大きい。……
 こうした背景があって、狡猾なイギリス軍は、ドイツ軍が使えるトラックを全部使ってイタリア軍を置き去りにしていった、というデマを流したのである。退却に関する責任は、イタリア軍最高司令部にあったのであるが。実際にはドイツ軍はイギリス軍が流布したことの逆の行動をとっており、撤退命令を聞かされていないイタリア軍部隊を、数多く救っている。第7ベルサグリエーリ連隊は結果的に置き去りにされたが、多くの兵士はドイツ軍によって救われている(生存者は今日でも、当時のことを口にする)。イタリア軍に意図的に情報が伝えられなかったのではなく、ドイツ語を優先した指揮系統に問題があったのだといえよう。
『コマンドマガジン日本版 vol.16』P86



 「ドイツ軍がイタリア軍のトラックを奪って撤退していった」ということに関しては、東部戦線でも言われていて、先日読んだ『ふたつの戦争を生きて』の中でもそういう風に書かれていた……ような気がします(確かめるにはまた全文を読まなきゃなのでパスで)。

 『Sacrifice on the Steppe』にはどのように書かれているか(書かれてないかもですが)、期待です(ここ2週間風邪で頭が働かず、全然読み進めていません(T_T))。

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR