FC2ブログ

イタリア軍のガリボルディ将軍とメッセ将軍とテレーラ将軍

 北アフリカ関係書物から資料を収集している中で、イタリア軍のガリボルディ将軍について興味を持ちました。


ItaloGariboldi

 ↑ガリボルディ将軍英語版Wikipedia「Italo Gariboldi」から


 以下、『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』のP114からです(山崎雅弘氏によるもの)。

 北アフリカ戦の前半期において、現地のイタリア軍を統括指揮する「リビア派遣軍(後に北アフリカ派遣軍)」総司令官を務めたイタロ・ガリボルディ大将は、形式上の上官である自分の意向を無視して独断で作戦を展開するロンメルとたびたび衝突した。しかし、実際にロンメルが英連邦軍を蹴散らしてキレナイカ奪回などの実績を上げ始めると、いつしか態度を改めて「ロンメル流の戦争遂行術」に理解を示し、協力するようになった。
 第二次大戦勃発時にはリビア西部国境を守る第5軍司令官だったが、イタリア軍大敗後の1941年3月25日、前任者グラツィアーニ元帥から指揮権を継承した。しかし4か月後の7月12日、ガリボルディは突然、北アフリカ派遣軍総司令官を解任される。1942年には東部戦線に遠征したイタリア第8軍の司令官を務めたが、同軍が1943年初頭にソ連軍の反攻で壊滅した後、イタリアの単独講和に伴ってドイツ軍の捕虜となった。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P114




 ガリボルディ将軍については、今まで収集した資料の中には、以下のようなものもありました。

 ガリバルディ将軍--ロンメルが最初に接触したこのひとは穏健な老紳士で、立派な軍人のようだったし、それよりもロンメルにとってありがたかったのは、彼の流儀でことをはこぶのを許してくれる心がまえがあったことだ。
『ロンメル将軍』P176


 イタリア軍では、ガリバルディは忘れてはならない存在である。彼は、ロンメルの第1回の攻勢から共に戦った。
 彼の部隊は、ロンメルのお荷物だった。しかし、誰がアフリカ軍団と肩を並べられるだろう。イギリスやアメリカの部隊がイタリア軍と同じ立場に立っても、やはり無能と呼ばれたに違いない。ガリバルディはまがりなりにも、ドイツ軍に近いレベルの部隊を作り出した。アリエテ戦車師団、トレント、トリエステ自動車化師団、フォルゴーレ空挺師団等である。彼は極めて悪い評価しか与えられなかったが、決して軍人として無能だった訳ではない。
『アフリカンギャンビット』P23



 わりと良い評価のように思えます。また、東部戦線では指揮権がメッセ→ガリボルディという流れ(とりあえずこの2人だけ?)でしたが、北アフリカだと、グラツィアーニ→ガリボルディ→(間にとりあえずバスティコとかが入る)→メッセという、メッセとの関係で言うと逆の流れになる感じなんですね。



 他に資料を探してみると、日本語版Wikipediaの「イータロ・ガリボルディ」がありましたが、英語版Wikipedia「Italo Gariboldi」を注意深く訳した方が良い感じっぽかったのでそれ。

 1940年6月にイタリアが開戦した時、ガリボルディはフランス領チュニジアとの国境に駐留するイタリア第5軍の指揮官であった。彼は最終的にはリビアに駐留する2つの軍を指揮した。フランス戦が終わった後、第5軍は、エジプトとの国境に駐留するイタリア第10軍に人員、装備、補給を供給した。

 1940年12月にイギリス軍のコンパス作戦が開始されると、マリオ・ベルティ将軍の病気離任の後を継いで一時的に第10軍の指揮を執った。最終的に彼は第10軍の指揮を任されることになったが、それは第10軍が実質的に壊滅し、ベルティの後任であったジュゼッペ・テレーラ将軍が戦死した後のことであった。

 1941年3月25日、ガリボルディはリビア総督へと昇進し、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥の後任となった。7月19日までにガリボルディは、ロンメルに対して非協力的であるとの理由を付けられて解任された。エットーレ・バスティコが彼の後任となった。



 山崎雅弘氏の記事でも解任は唐突な感じでしたが、日本語版Wikipedia上では「ロンメルに非協力的だから」という理由だと書かれていて、「協力的だったよ」という他の記事と矛盾します。で、これが、Wikipediaでも英語版の方だと、「実際には非協力的ではなかったのに、非協力的だという、嘘の理由でもって解任された」ということを匂わせる書き方になっている感じがしました。そこらへん知りたいところですが、まあちらっと探した感じでは見つからなさそうだったので諦め……。


 そんな中で見つけた、「ドゥーチェにもの申した将軍:イタリアに好奇心」というページには、こうありました。

ムッソリーニはヒトラーと歩調を合わせ、1941年夏に Csir (Corpo di spedizione italiano in Russia イタリア軍ロシア派遣隊)を結成した。216の列車で、6万2千人のイタリアが旧式の装備で派遣された。

司令官メッセはこの作戦を誤りだと考えていた。数ヶ月は何とかなった。しかしドイツ軍司令官が、イタリア軍の増軍を要求した時、メッセは拒絶した。

ロシアの冬は途方もなく、零下47度にも達した。しかしムッソリーニは、1942年夏に、Armir (Armata italiana in Russia) を創設。7千人の将校と22万の兵からなる軍隊だった。

司令官は外務大臣のチャーノが「間抜け」と呼ぶイタロ・ガリボルディだった。1942年11月1日メッセは帰国。

ムッソリーニは今度はメッセをチュニジアに送る。ロンメル将軍の活躍と言われているものは、実際はメッセによるところが大きかったようだ。

1943年5月12日、ムッソリーニの命令をうけ降伏。




 あと、Wikipediaに名前の出てくるテレーラ将軍ですが、ベダ・フォムの戦いで、第10軍司令官代理であったのにも関わらず自ら突撃を敢行して砲弾で戦死し、イギリス軍からも尊敬された人物です(日本語版Wikipedia「ジュゼッペ・テレーラ」)。イタリア第10軍はガルパンでも「威勢はいいけどすぐボコボコにされる」というキャラ付けにされてしまいましたが(→ガルパン同人誌とOCS『DAK-II』に見るジャグブーブの戦い (2016/11/06) )、このテレーラ将軍の件はすごい感動的じゃないかなぁ……(って、私もあまり良く認識してなかったのです(>_<))。


スポンサーサイト



東部戦線におけるイタリア軍のメッセ将軍

 イタリア軍最優秀と言われるメッセ将軍ですが、北アフリカ(チュニジア)でロンメルの後に戦っていたことは知ってはいましたが、その戦域でのメッセ将軍に関する詳しい記述も見たことがなく、どのように優秀なのか知らないままでした。

 今回、ネット上で日本語の記述を探してみたら色々出てきました。


Giovanni Messe

 ↑Wikipedia「ジョヴァンニ・メッセ」から


 主に東部戦線の、CSIRのメッセの指揮に関することを引用してみます。

対ソ戦で装甲部隊を持たないというハンデを機械化歩兵と騎兵師団からなる同部隊の機動力を広大な草原地帯で最大限に発揮する事で埋め合わせた。各所でソ連軍を破るCSIR軍に、ギリシャでの躓きを見ていたドイツ軍の評価が翻るのに長い時間はかからなかった。ブラウ作戦を前にしてドイツ軍はイタリア陸軍に大規模な増派を要請し新たに山岳師団などが加わったイタリア第8軍が形成されるが、その功労者たる自身は後任のガリボルディ大将に役目を譲っていた。自身が去った後も東部戦線のイタリア軍部隊は活躍を見せているが、スターリングラード攻防戦後にムッソリーニの命令で解散されている。
日本語版Wikipedia「ジョヴァンニ・メッセ」


部隊は温存されていた精鋭の自動車化師団、快速師団、山岳師団から編成され、機動性は十分にあったが対戦車戦力が極めて欠乏しており、T-34戦車との戦闘が不安視されていた。

司令官は初め、フランチェスコ・ジンガレス大将が務める予定だった。しかし輸送中のウィーンで病に倒れた事から1941年7月14日、ジョヴァンニ・メッセ中将に交代した。メッセはムッソリーニの見栄を重んじるような無計画な装備での遠征を批判しつつも、優れた采配で軍を率いて戦果を得た。しかしドイツ軍からの増援要請にも反対した為、遂に解任され北アフリカ戦線のドイツ・イタリア戦車軍の指揮官へと移された。一方、北アフリカから入れ替わる形で後任に着任したイータロ・ガリボルディ大将(リビア総督)は逆にドイツ軍の戦争計画に協力的であり、それが元で戦後の戦争責任を問われることとなった。

ブグ河近辺でソ連赤軍第9軍の先遣部隊と接触した自動車化師団『パスビオ』はベルサリエリからなるオートバイ中隊に前線を突破させる事でこれを撃破、3500名のソ連兵を捕虜するという幸先の良い初陣を踏んだ。続いてヴィーキングSS装甲師団のドニエプロ・ペトロブス地方での戦闘を助け、エバーハルト・フォン・マッケンゼン将軍の評価を得ている。CSIR部隊はドイツ軍や同盟軍とともにドニエプル川を渡河し、ペトコリフカ市を守備するソ連軍3個師団を巧みに包囲殲滅して1万3000名の捕虜と80門の野戦砲を鹵獲した。ペトコリフカ市の占領作戦はエヴァルト・フォン・クライスト元帥からも賞賛され、戦力としての信頼は確立された。
日本語版Wikipedia「イタリア・ロシア戦域軍」


一つはドイツのバルバロッサ作戦に呼応して開始されたロシア遠征。
メッセ率いるイタリア・ロシア戦域軍は、戦車大国ソ連相手に対戦車装備を欠いており、ドイツからは全くアテにされていない有様だった。
しかしメッセはその速力を生かした機動戦でソ連軍を翻弄し、戦車など自軍で対処できない相手はドイツに任せるといった「イタリア式電撃戦」を展開。
数でも勝るソ連軍を次々と撃破して拠点を占拠してみせ、あのヒトラーですらイタリア軍の戦功を賞賛するほどの活躍を見せたのである。

メッセ - ミリ姫大戦 攻略 Wiki


そこからのジョヴァンニの戦略はまさに「イタリア版電撃戦」と言えるものでした
イタリア軍各部隊はソ連軍が強固な戦線を構築する前に機動力を活かして突破していきます
浸透戦術のように、戦線を突破した後は敵を分断し指揮系統をマヒさせ、混乱した敵を各個撃破していく
これを基本コンセプトに次々と侵攻していきます
しかしイタリア軍はドイツ軍のように充実した戦力をもっていないため、
ジョヴァンニは戦術にアレンジを加えていました
そのジョヴァンニのイタリア版電撃戦にするアレンジとは

「やばそうな敵との戦いは避けてドイツ軍を呼ぶ」

というものでした
単独で撃破できるドイツ軍と違い、
対戦車能力などが劣悪だったイタリア軍ではソ連軍を倒すのは容易なことではなく多くの被害を伴うと予測できます
兵士が畑からとれソ連軍と違い、戦力が充実していないイタリア軍はわずかな損失でも避けたいものでした
そこで単独で簡単に倒せそうな敵以外は回避し、
ドイツ軍や他の同盟軍と連携をとるように機動力を活かして移動し複数方面から攻撃をかけるようにする、
という作戦を行ったのです

この作戦は当たり前に思えるかもしれませんし、
実際当時の戦術研究を行っている軍人たちはみなこの有効性をわかってはいたのですがなかなかそれを実行することはできませんでした

なぜなら将官のプライドが邪魔をしたからです
敵から逃げ、友軍とはいえ他国の助けを恥ずかしげもなくためらいなく借りる
これを最初からやれる指揮官は、貴族出身の多かったイタリア軍将官にはほとんどいませんでした
ドイツ軍やイギリス軍にも多くはなかったでしょう
どれほどの兵士たちの命が将官や政治家のプライドを守るため失われたのか、想像もできません
イタリア軍の名誉を回復するスレ



 イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)について (2017/05/12) で挙げてましたように、少なくともOCS上ではCSIRは機動力を結構持っていたように見えます。

unit00094.jpg

 確かにこれで電撃戦・浸透作戦をおこなって、やばそうな敵はドイツ軍に任せる……とかしたら、すごく面白そうです(^_^; 「ぜひプレイしてみたい……!」と思いましたが、しかしOCSではCSIRの時代はカバーされていませんし、GMT:EFSではCSIRは機動力があるようにはレーティングされていないっぽいので、無理か……!!(T_T)

 ただ、上記引用はWikipediaはまだしも、下2つは話が誇張されている可能性も無視はできないかもしれません……。


 『Sacrifice on the Steppe』だと、メッセが有能とかって話は出てきませんし、またCSIRの機動力に関しても、「機動力がなくてやばい」という泣き言が何カ所も出てきます。

 メッセが東部戦線での指揮官を解任された件ですが、ネット上で資料を見ていると「東部戦線へのイタリア軍のさらなる増派に反対したので、増派をしたがっていたムッソリーニから解任された」という風に書いてあるのばかりっぽいのですが、『Sacrifice on the Steppe』から受ける印象はやや異なります。

 P16からP17にかけて少し詳しめにメッセとムッソリーニとの会談の経緯と様子が書かれているのですが、それによると、

1.メッセがカヴァレロ将軍と会う。メッセは増派への反対論を唱えたが、カヴァレロはムッソリーニの決定だから、と言った。
2.3日後、メッセがムッソリーニと会う。ムッソリーニはメッセを褒め称え、メッセは後で個人的に会いたいと伝える。
3.同日遅く、再会談。ムッソリーニは再びメッセを褒め称え、メッセが指揮官であるのが最も良いと考えるが、ガリボルディ将軍がすでに次の指揮官として決定されたのでそれが不可能だと伝えた。
4.メッセは指揮権については何も言わず、さらなる増派に反対だということをこの後ムッソリーニに話していく……。

 つまり、まず解任された後にメッセは増派に反対という流れなのですが、しかしロシアで戦っていた頃からメッセは東部戦線への派遣に批判的でしたし、上記でカヴァレロに増派に反対と伝えたのをカヴァレロがムッソリーニに伝えていたということも充分にありそうではあります。



 あと、Google Books上でかなりの部分が見られる第二次世界大戦のイタリア軍に関する本『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』で東部戦線時代のメッセ将軍に関する記述を探してみたのですが、以下の部分しか見つかりませんでした。

 8月14日にドイツ第11軍司令官のSchobert将軍は、イタリア軍を褒め称えた。
「困難な状況であったにも関わらず実行されたパスビオ師団の迅速な前進は、第11軍団の勝利に非常に大きな貢献をなした。」
 Schobert将軍によるイタリア軍への賞賛は正当なものであった。なぜならば、そのイタリア軍兵士達は最大の敢闘精神で戦ったからである。しかし、CSIRの司令官であったメッセによる記述は、より実際を表しているのかもしれない。
「第80[歩兵]連隊と第1ベルサリエリオートバイ中隊によるこれらの会敵に対する戦闘は、すさまじいほどのものであった。」
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P105




「活躍したイタリア軍人たち」の中にアルピーニ軍団の指揮官2人が

 先日の『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)で何回か名前が出てきていた、イタリア軍人の中で最も優秀とも言われるメッセ将軍について、ネット上で漁っていたのですが、それはまた後日書くとして、その最中、今読んでいる『Sacrifice on the Steppe』の主人公達とも言えるアルピーニ軍団の指揮官の話が出てきていました。


 イタリア軍は弱くない、活躍したイタリア軍人たちというスレから。

地獄のスターリングラード攻防戦で包囲されたイタリア軍。

その包囲を打ち破るために自ら先頭に立って軍を指揮したガブリエル・ナスキー将軍。

イタリア軍の精鋭と言われた山岳部隊を預かる将軍で豪胆かつ決断力に溢れていたと言われる。

部下にもよく慕われていて師団の損耗率が5割を超えても彼の部隊はよく戦って崩壊する事が無かった。


同じくスターリングラード攻防戦で活躍したグイリオ・マルティナト将軍

この人はソ連軍の包囲を破る際に殿を任せられて味方の部隊を支援する為に最後まで戦場に留まった。

結果として彼の部隊は壊滅して彼自身も戦死したけれども貴重な時間を稼いで10万以上のイタリア軍が生還する結果となった。



 こういう情報、皆さんどこから仕入れてくるのですかね~。出典書いてくれたら助かるのに!!(T_T)


 で、この2人の名前を『Sacrifice on the Steppe』の索引で探してみましたところ、ありました!

 マルティナト(Martinat)将軍の方は2箇所にしか出てきませんが、ナスキー(Nasci)将軍の方は結構たくさん出てくるようです。ナスキー将軍はアルピーニ軍団の軍団長で、マルティナト将軍の方はその参謀長だったようです。

 ナスキー将軍の方は写真を見つけました。→Gabriele Nasci


 2人とも100ページ目以降に出てくるのですが、昨日でP45まで読み進みました。ドン川沿いに配置が終わって、陣地を作ったりしてます。ドン川越しに向かい合っているロシア兵と歌を歌い合ったりしている描写が超面白いです(*^_^*)

OCS『DAK-II』に見る88mm砲を装備したイタリア軍高射砲大隊ユニット

 続けて少しずつ、北アフリカ戦の情報を収集していってます。その中に、イタリア軍がドイツ軍の88mm砲を購入して戦った件(第5対戦車砲大隊)がありました。


 ↓動画にもしてましたが……。




 第二次世界大戦が勃発した当時、イタリア陸軍では、依然として前大戦で使われていたのと同じ、年代物の砲が使われていた。小国相手ならともかく、これではとても、近代的な装備が施されているイギリス軍に太刀打ちできない。そこで1940年9月、とりあえずドイツから88ミリ砲を購入し、フィレンツェで2個大隊を新編することになった。当時はまだ、88ミリ砲を対戦車戦闘で用いる戦術が確立していなかったため、対空大隊として編成された。
 10月には第18大隊が、12月には第29大隊が、それぞれ北アフリカに派遣された(後に88ミリ砲装備の3番目の大隊が編成され、トリポリに送られている)。第18大隊は完全に自動車化されており、イギリス軍の攻勢「クルセイダー作戦」に枢軸軍が破れた時も、損失は最小限にとどまっている。
 1942年1月、北アフリカのイタリア軍は改編を行い、第18大隊は第5対空/対戦車砲大隊に改められた。第5大隊はブレシア歩兵師団に配属された後、アリエテ機甲師団に転属となった。同じ頃、第29大隊はトリポリで対空戦闘に明け暮れていた。1942年にはリットリオ歩兵師団に配属となったものの、エル・アラメインの戦いで壊滅した。
『コマンドマガジン1号』P51




 OCS『DAK-II』でユニットを探してみると、イタリア軍の対戦車砲大隊がいっぱい入ってましたが、↑で出てくる第18大隊とか第29大隊とかは出てこず、第5大隊だけが出てきます。第29大隊はトリポリ配備だったということなので出なくても当たり前ですが、第18大隊というのはユニット化されておらず、1940年10月の時点でいきなり「(7)-4-3 AT Bn (5)」として出てくるようです(ただしOptionalと書いてあります)。しかし、そこ以外にはシナリオの初期配置などでも出てこないっぽいような……?

0011.jpg


 第5対戦車砲大隊についてや、あるいは他のイタリア軍対戦車砲大隊について何か分からないかと色々検索してみたのですが、全然分かりませんでした。ので、とりあえず今回はそれで力尽きましたという感じで……。


 【ガザラの戦いの時】
 いよいよ第5大隊が、その真価を発揮する時が訪れた。
 5月29日の正午、翌30日の朝、イギリス軍第2、第22機甲旅団は、後方、及びアリエテ師団とアフリカ軍団とを結ぶ連絡線を守る、第5大隊の対戦車防御陣地に攻撃を行った。支援砲撃もなく、しかも歩兵も随行しないのだから、無謀もいいところだ。結果、88ミリ砲に狙い撃たれたイギリス軍戦車は、1台、また1台と炎上していき、第2旅団に至っては、僅か30輌を残し、全て撃破されてしまう。対する第5大隊の損失は、砲5門、兵員49名にとどまった。
 1週間後の6月4日と5日に、イギリス軍は再びイタリア軍陣地を攻撃した。先の失敗に鑑み、今度は歩兵を随伴させる諸兵科連合を行い、しかも事前に砲撃まで行った(しかし、目標の遙か手前に着弾したため、損害を与えることはできなかった)。
 イタリア軍は今度も果敢に戦い、第22機甲旅団の156輌の戦車を撃退した。
『コマンドマガジン1号』P52


『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係


 『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』を読んでいっていて、非常に面白いです。

 ↑の本については、グランツのスターリングラード三部作(の一部)などを購入・注文しました (2017/04/23) をご参照下さい。



 今回は、イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)について (2017/05/12)で触れたCSIRの時のイタリア軍とドイツ軍、そしてロシア住民との関係性について(P9~P15)。


 ヒトラーはイタリアに対して不信感を感じており、イタリア軍には作戦目標や予定が知らされていなかったそうです。東部戦線でドイツ軍とイタリア軍はお互いに協力し合わなければならない状況にあった筈なのに、むしろお互いに腹立たしさや侮蔑が存在し、相互監視する有様だったとか。ところが、「逆説的なことに、イタリア軍とソ連の住民との間にはそのような不仲は存在しなかった」と書かれて(P10)いて、読んだ時は「はて、なんのことか?」と思いました。

 前書きを読んでいた時にも、苦しい経験をした著者の叔父さんが、「誰のことも恨んでいない。そしてロシア住民との間には感謝の念だけがあった」というようなことが書かれていて、「むむむ?」と思っていたのですが、P10から後を読んでいて謎が解けました。

 かつて、『戦争と飢餓』を読んだ時にも触れられていたことですが、ドイツはロシアに侵攻するにあたって、スラブ民族を劣等民族扱いし、住民が飢え死にするようにしてそこにドイツ人が入植できるようにと考えていてそれを実行しようとした……。

『戦争と飢餓』ポーランド兵の恨み…… (2014/10/22)
『戦争と飢餓』、超絶オススメです! (2016/02/29)


 『Sacrifice on the Steppe』でも、SSが住民を殺して回ったり、ウクライナでユダヤ人が9万人殺されたり、150人のユダヤ人が処刑されるのをCSIRのイタリア軍兵士が目撃したという話が出てきます。1941年7月31日のある兵士の日記にはこうあるそうです。
「今まで我々は、これは簡単な戦争だろうと思っていた。だが今日、我々の目は開かされることになった。」
 そして、「我々のラテンの魂はこのようなことに慣れない……私は今までドイツ兵に憧れを抱いていたが、そうではなくて野蛮な兵士だ……」というようなことを書いていたとか。

 一般的に、CSIRのイタリア兵達はロシアの地域住民達に対して敬意を持って接した。ドイツ軍とは対照的に、イタリア軍は人種的優越性という観念を抱いてウクライナの地にやってきたわけではなかった。それどころかイタリア軍兵士達は、彼らが目撃したドイツ軍による占領期間中の残酷で無慈悲な行いによって極度に苦しめられたロシア住民達に対して同情や共感を抱いたのだった。
 ロシアの貧しい農民達はイタリア軍兵士達に対して多くの場合温かいもてなしをし、兵士達を家に迎え入れてわずかばかりの食糧を分け与えてくれた。だいぶ後になって、ドン川からの悲惨な退却行の時に、恐らく多くのイタリア軍兵士達がロシアの貧しい農民達の気前の良さによってなんとか生きのびることができたのだった。

『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P12



 イタリア兵達は、「大ドイツ」の為に戦わされていることに気付き、征服者という役割に耐えることができませんでした。

 ドイツ軍はイタリア軍に対して、彼らが占領した地のすべてのロシア人捕虜と脱走兵達を36時間から48時間以内にドイツ軍の捕虜収容所に運ぶように要求していた。イタリア軍の将兵達は、ドイツ軍に捕らえられたロシア人達がどんなに残酷な扱いを受けるかを知っていたので、その「地獄の」ドイツ軍収容所に捕虜達を送り届けることをあらゆる手段で妨害しようとした。彼らはイタリア軍の輸送力の低さを利用したり、あるいはしばしば捕虜の数についてドイツ軍へ違った数字を報告したりした。……
 ロシア人捕虜の扱いに関して、メッセ将軍はこう言っている。
「イタリア軍兵士がロシア住民達に対して、ドイツ軍の命令とまったく反対に、親切心や、生まれながらの気前の良さや、感受性を示したり、あるいは捕虜達への我々の扱いが文明人に対するものであると安心させたりすることを妨害するなど、誰にもできなかった。」
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P13




 ただし、ここで「イタリアはドイツの犠牲になったに過ぎない説」に対し、こういう見方もあるようです。

 イタリア国民は好戦的なムッソリーニによって嫌々ながらソ連との戦争に参加させられたのだと、戦後の人々は信じている。しかし、実際にはそれは少し違う。イタリア王国軍はムッソリーニから命令を受けていたが、だとしてもやはり王の軍隊であった。将校達は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に忠誠を誓っていたのだ。イタリア王国軍に関するリーダーシップや管理という点では王は目立った役割を果たしていたわけではなかったが、その活動については詳細を把握していた。陸海空軍の将校達の間の貴族の存在が、王の管理からの距離を埋め合わせており、「王国軍」という言葉がいくらかそれを補ってもいた。

 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はバルバロッサ作戦へのイタリア軍の参加に反対しておらず、彼の将校達も反対ではなかった。思い起こされるべきはイタリアは王国なのであって、それはムッソリーニを首相にしたヴィットーリオ・エマヌエーレによる決定だったということである。ムッソリーニは王と貴族からその支配権について支持を受けていたが、それは彼らの利益を守ることと交換にであり、そして共産主義者達と戦うことは彼らの利益になることであったのである。ボルシェヴィキの手によってロシア王家であるロマノフ家が残虐に殺されたのはわずか20年前のことで、それはまだ鮮烈な記憶であり、また1900年に無政府主義者達によって国王ウンベルト1世が暗殺されたことも、忘れることはできなかった。ロシアにおける共産制に反対し、そして恐らく打倒しさえすることは、イタリアの王政と貴族にとっては明確に利益であった。そしてそれはカトリック教会にとっても同様に利益なのであった。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P100



 この後にカトリック教会による記述もあるのですがパス。しかしまあ、上記のことは王と貴族にとってはそうであったとしても、イタリアの一般市民や農民にとっては……?(王に忠誠を誓っているなら、大事なことではあるのでしょうね、しかし。あるいはまた、イタリア人の信心深さということもかなりあるような気がしてはいます)


 閑話休題。

 メッセ将軍は、地域住民から物資を得る場合にはその全額を支払う……べきことを麾下の部隊に対して明確にしていた。
「最初から、」と、メッセは書いている。「私は、この原則をもとに、我々のことを知らない地域住民との関係性を築きたいと考えていた……」 危機的な状況においてさえ、イタリア軍兵士達は住民に何かを要求することはほとんどなかった。メッセ将軍は、地域の村々から徴発を行うよりは、麾下の部隊の糧食を減らすことを選んだ。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P14



 ドイツ軍は、特別な証明書を持たない後方の市民をも収容所に入れようとしましたが、イタリア軍は証明書を持たない市民達を輸送する組織を作り、前線から補給集積所へと戻ってくる空のトラックを利用しました。

 【1941年から42年の】冬の数ヶ月間、CSIRの兵士達は地域住民とさらに多く接する機会を持った。部隊はドネツ盆地のスターリノの周辺で平穏な期間を過ごし、そこでの彼らの主敵は厳しい寒さであった。兵士達は頻繁に、暖かさを提供してくれるロシア人の家に避難した。村の女性達は兵士達のパンや食糧と交換に、よく洗濯をしてあげた。村の人々と兵士達が顔見知りになるに従って、彼らは子ども達の為に医者の助けが欲しいと言ってきた。イタリア軍の軍医達は村民達を診てやり、薬まで提供した。輸血が必要な場合には数多くの兵士達が血を提供した。リコヴォでは、トリノ師団の将兵達が無料の外来診療所や、高齢者の為の休憩所を建設し、さらには妊娠した女性のための診療所をイタリア人がロシア人の人員を雇って、イタリア軍の経費で運営するということまでしたりした。メッセ将軍は、これらのすべての活動は、「我々の将兵達の自発的な判断」の結果であったと述べている。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P15



 また、イタリア兵による住民への犯罪は厳しく処罰されたということです。


 前記引用の「リコヴォ(Rikovo)」の場所ですが、Rykovo、あるいはRukovoとも表記され、Gorlovkaの少し南東に位置すると思われますが、『Case Blue』やGMTのEFSでも地名は表記されていません。

unit00093_20170514223859124.jpg

 ↑は『Case Blue』の最初のキャンペーン開始時(1942年6月5日)のセットアップです。Rikovoの場所は恐らく、47.30の辺りだと思われます(『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P124の地図からの推定)。



 この後、いよいよアルピニ軍団の兵士達(本書の主人公達)がロシアに向かいます。

 この本、イタリア軍に対しての見方を劇的に変えさせる可能性を持った素晴らしい良書の予感しかしません。和訳されて出版されたりとか……無理ですかねぇ……(私の英語力では出版とかおこがましくて無理(T_T))。

OCS『Case Blue』「第2次ハリコフ戦」準備

 OCS『Case Blue』「第2次ハリコフ戦」ですが、セットアップの後ずっと、命令シートを作ってどうプレイするかというようなことを話しあってます。

 今日は、各陣営を「戦区」毎に分けて、それぞれに命令書を書いてうち一部を他のプレイヤーに任せる……というようなことを決めてました。

 また、SPの管理なんですが、マップを白黒A3サイズで出力したものをラミネート加工すれば、その上にホワイトボードマーカー(ただし赤色とか青色の)で記入して何回でも綺麗に消せるのに気付いたので、それを用意しようと思います。


 あと、この第二次ハリコフ戦シナリオに関しては、史実を知って且つ盤面をじっくり見ているとソ連軍プレイヤー側は突っ込んでいく気をなくすので、「ソ連軍プレイヤーは自軍のARは+2換算で心の目で見ないとダメだな」と(^_^; で、ドイツ軍のARも見ない。



 ↓平地での攻撃力が2倍になる、機械化(兵科マークが赤く塗られている)扱いの狙撃兵師団を発見……!(印刷ミスとかでなく?)

スクリーンショット_160405_179



 あと、ソ連軍側の主攻勢を担当するソ連軍第6軍の司令官の名前が「ゴロドニャンスキー」中将だというのを知って、「名前がカワイイ♡」とウケてました(^_^;(しかしこの第2次ハリコフ戦で戦死されたそうです(>_<))



 今回のルール疑問点とそのとりあえずの解決。

 補給路の5MP+1ヘクスの最後の+1ヘクスの部分は、敵ZOCで止められるか?

 OCS 12.3cと12.3dを見ると、+1は「地形に関係なく(たとえ進入禁止地形でも)」通ると書いてありますが、敵ZOCは通せるとは書いてないので、多分通らない(止められる)。

イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由、その2

 イタリア軍歩兵師団が「2単位」編成であること等の合理的な理由 (2017/04/09) というのを以前書いてましたが、別の文献でも2単位師団の利点について書かれているのを発見しました。

 『Rommel's North Africa Campaign』のP19で以下のように書かれています。

 ドイツ軍の山岳師団を除けば、イタリア軍は2個連隊師団を運用していた唯一の列強であった。この編成はエチオピアでの経験から生まれたもので、師団砲兵全部を配置している間にその地域の貧弱な道路網で素早く移動できたこの2個連隊編成の師団による作戦が成功したのである。2個連隊師団は、イタリア本土の他のヨーロッパ諸国との国境の山岳地帯の険しい地形においても有利であった。このいわゆる「2単位」師団のコンセプトは、1個師団が敵の師団を拘束している間に、2つ目の師団がその拘束された敵師団の側面を攻撃するというものであった。




 2単位師団はムッソリーニらの自己満足のためだったという記述もちょっと発見したのがあったので、参考にのっけておいてみます。

 戦争に足を突っ込んでから5年が経過し、様々な、装備の貧弱な植民地の敵軍と戦ってきたにもかかわらず、イタリア陸軍は明らかに近代戦への準備ができていなかった。総動員が1940年5月10日に宣言されており、海外派兵に増援が送りこまれていた。軍の大部分を構成する身体壮健な小作農出身兵は尽きることがなかったが、技術的熟練を持ち、経験を積んだ指揮官はほとんどいなかった。将校団の軍事的能力は不充分であった。1938年の再編成によって、2個連隊しか持たない「二単位」師団が作られた。これらは通常一致する旅団名(1815年のサルディニア王国に起源を持つ連隊2つの)のみならず番号も付けられており、恐らく総計13,000名より成っており - その多くはムッソリーニに幻の軍事力を提供するための単なる骨格に過ぎなかったのだが - 兵力は豊富であったが、装備はそうではなかった。ベルサリエリのような特別な歩兵を除けば、訓練の面でも指揮の面においても歩兵部隊は質が低かった。
『Operation Compass 1940』OPPOSING ARMIES Italian Forcesの項 (Kindle の位置No.204-205)

イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)について

 バイトに行く時の電車の中や待ち時間に『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』を読んでいっていて、非常に非常に興味深いです。

 まずはP5~9にかけて、バルバロッサ作戦に参加したイタリア軍について触れられています。

 よく認識していなかったのですが、最初にバルバロッサ作戦に参加したイタリア軍はパスビオ、トリノ、チェレーレ(アオスタ候アメデオ皇太子)の3個師団のみで、「イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR)」と呼ばれたのですね。で、ソ連軍の冬期反攻の後、ヒトラーは各同盟国に増派を呼びかけて、イタリア軍もさらに7個師団を派遣して今度は「ロシア戦線イタリア軍(ARMIR)」と呼ばれることになる。

 で、最初のCSIRの内訳ですが、細かいところまでは良く分からないのですが、『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P100,101の資料を元にOCS『Case Blue』のユニットで見ると、こう?(これら以外に馬匹砲兵が1個連隊あったはずで、ユニットとしても馬匹連隊が2個あるのですが、どっちがそれに当てはまるか分からないので省略……ちなみにユニットの方は砲兵砲撃力10か8かって感じでした)

unit00094.jpg

 ただし、CSIRは1941年7月から1942年春までですが、『Case Blue』は1942年6月からを扱うので、そこらへんまったくずれがありますが……。

 しかし、本を見ていて1942年春に増強されたと書かれているのは主にアオスタ候アメデオ皇太子師団の別の部隊が増派されたとかってのが主で、上に挙げた部隊が増強されたとかってのは見つけてないので、それほど変わりがないとすると、ARの高さと移動力の高さが特徴的に感じます。タリアメントは遅いですが、これは後で増援として送られたらしいので、最初のCSIRはイタリア軍としてはかなりレベルも機動力も高い部隊が送られたらしい……という印象を受けました(あくまでOCSにおけるレーティングでは)。


 『イタリア軍入門』によると……。

 7月11日、列車200輌による大輸送が始まり、メッセ将軍が率いるCSIR軍団は旧オーストリア、ハンガリー経由で前線手前のドニエストル河付近に、車輌5500台や野砲960門、輸送用の馬匹4000頭と共に順次到着した。しかしこの派遣軍には機甲部隊が割り当てられず、広大なロシア戦線に非力なL6軽戦車やL3豆戦車しか配備されていなかった。また歩兵部隊の貧弱な47mm対戦車砲だけでは、T-34戦車を装備した赤軍機甲部隊の前で、イタリア軍は無力な危険があった。
『イタリア軍入門』P47


 上記の数字に加えて、『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』のP326によると2,900名の将校と58,000名の兵士、それに51機の戦闘機、22機の偵察機、10機の輸送機。ただし『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P101によると馬匹は4,400頭。


 『イタリア軍入門』ではP46~50、およびP63にCSIRの激闘と活躍が描かれているのですが、まあそこらへんは『イタリア軍入門』でもって読んで頂くとして……。


 『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』ではCSIRの割と悲惨な状況について重点的に触れられています。これはまあ、この本はテーマ的にそうだからで、『イタリア軍入門』の場合にはイタリア軍の活躍を可能な限り描いていくという差異があるのだと思います。

 イタリア軍は1915~18年製の武器に大きく依存しており、ロシアでの戦いに必要な迅速な機動、戦車、近代的な兵器、それに陸空軍間の協調などについて、痛ましいほどに不適格であった。イタリア軍の将軍のほとんどはファシストではなく、王に忠誠を誓っていたが、彼らは過去にしがみつき、「近代戦のテクノロジーや戦略」の知識に欠けた無能力者であった。彼らは「第一次世界大戦の化石」であったのだ。

 イタリアの独裁者【ムッソリーニのこと】は壮大で好戦的な修辞法の数々を使いこなしたが、近代戦に必要なものがなんなのかについてはほとんど知識がなかった。

 【1941年の】夏にイタリアを出発した兵士達は、軽装の軍服に軽装のブーツを履いていた。……

 CSIR【イタリア・ロシア戦線派遣軍団】の装備もまた、個人単位でも全体の上でも貧弱なものだった。ライフルは1891年に導入されたもので、頑丈で機能的ではあったがロシア軍の自動小銃には対抗できなかった。サブマシンガンもほとんどなく、そもそもロシアの極寒ではほとんど動かなくなってしまった。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P7


 【1941年8月28日にヒトラーとムッソリーニがウクライナの東部戦線を訪れた時】ムッソリーニとの内輪の会談の中でメッセ将軍が、兵士達の置かれている状況について、特に輸送手段の不足によってイタリア軍部隊がドイツ軍の機械化師団に追随できないこと、それから補給集積所からの物資の輸送に困難を来していることについてを話した。燃料の不足についてもメッセは触れた。燃料がイタリア軍部隊に届くのが遅いため、イタリア軍の前進が遅くなってしまっており、それに加えて、イタリア軍部隊が前線のドイツ軍部隊に追いつくことができないために、ドイツ軍がジリジリしてイライラを募らせてきているのだと。

 メッセの報告の間中、ムッソリーニは無言だった。実際、彼は一言も発しなかった。メッセは、ムッソリーニは「存在しない」かのようだったと記している。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P8


 我々は食糧もなく、靴は壊れ、ズタズタに裂けた軍服を着て、各自の弾薬もほとんど支給されていなかった……
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P9





 CSIRのゲーム上での配置などですが、OCS『Case Blue』では時代が合わないので、GMTの『Barbarossa: Army Group South, 1941』『Barbarossa: Kiev to Rostov』のVASSALモジュールで探してみました。イタリア軍が出てくるシナリオはいくらかあるみたいでしたが、とりあえず2つほど。紫色のユニットがイタリア軍です。


 ↓『Barbarossa: Kiev to Rostov』シナリオ5:「To Kharkov」1941年9月30日

unit00091.jpg




↓『Barbarossa: Kiev to Rostov』シナリオ6:「To Rostov」1941年11月5日

unit00092.jpg



『Endgame at Stalingrad』3冊が揃いました

 グランツのスターリングラード三部作(の一部)などを購入・注文しました (2017/04/23) 『Endgame at Stalingrad Volume3. Book two December 1942 - Feburary 1943』が来ました (2017/04/30) で書いてました『Endgame at Stalingrad』がその後、『Companion to Endgame at Stalingrad』、『Endgame at Stalingrad: November 1942』と届き、3冊が揃いました。


スクリーンショット_160405_178


 Amazonで注文した場合に比べて、紀ノ國屋書店のウェブ書店の方がだいぶ早く届いたような気がします。

 中身ですが、『Endgame at Stalingrad: November 1942』は天王星作戦の計画段階からその最後までを、スターリングラードポケットの形成や土星作戦の計画の端緒あたりまでを扱う感じでした(まあつまり、1942年の11月の1日から30日までという感じなわけです)。

 『Companion to Endgame at Stalingrad』の方は、1942年11月から1943年2月までを扱う本誌の方の戦闘序列に関して、それぞれの時期にどんな部隊がどこにいたとかってことを可能な限りの一次資料を並列していくって感じの本になってました。ので、戦闘日誌や命令書なんかの内容がざあーっと挙げられていく感じです。

 ここらへんは、OSGのスペシャルスタディシリーズと似た感じのところがありますね。OSGのの方が、日と場所ごとに、物語的により読みやすく編集されている感じがありますが。

OSGのスペシャルスタディシリーズを買ってみました (2012/04/14)
ナポレオン関連本3冊、他 (2012/04/30)



 『Endgame at Stalingrad』の3冊はあまりにでかすぎて持ち歩けないので、家でひもとくしかない感じですが、とりあえず着手した小土星作戦のチル川戦線の辺りから読んでいって、OCS『Case Blue』のシナリオ作成ができればと思っています。

OCS『DAK-II』ユニットで見る第5軽、第15、第21装甲師団

 GameJournal誌の連載に「第二次大戦 各国軍隊部隊編成研究シリーズ」というのがありますが、その中の北アフリカの枢軸国師団の号(コピーで持っているので何号か分からない……(>_<))で第5軽師団に関して非常に興味深く書いてありました。

②機動防御を専門に行う大型戦闘団
 通常、装甲師団には、師団直属の歩兵部隊として、自動車化歩兵連隊1個と装甲擲弾兵連隊1個が配属されているが、第5軽装甲師団は、第200特殊連隊本部の指揮下の独立機関銃大隊2個を除いては、歩兵部隊が存在しない。機関銃大隊は、歩兵の火力支援的な任務に投入される部隊で、特定地域の占領を最終的に決定する歩兵部隊とは性質をやや異にする。
 本師団がこのような特徴的な編成になったのは、ドイツ軍最高統帥部が、北アフリカにおける基本戦略を、キレナイカ地区の機動防御に限定し、それ以上の侵攻作戦を考えていなかったため、特定の地域の占領・防御に必要な歩兵部隊を師団に随伴させる必要がないと考えたことが第1の理由である。
 アフリカでは、燃料、弾薬、食料はもちろん、真水まで全て後方補給をしなければならず、その補給線は、イギリス地中海艦隊とマルタ島のイギリス空軍機の妨害の下、地中海を海上輸送し、その後、鉄道輸送もない長距離の陸上補給路で構成されている。
 このため、最小限の人員と最大限の自動火器の装備で部隊を編成する必要があり、人数の割りに火力が低い歩兵部隊は、真水、食料の補給の負担を増大させることから、できるだけ避ける必要があった。第5軽装甲師団が、火力偏重装備で、装甲師団というよりも、機動防御を専門に行う大型戦闘団に近いものになった第2の理由がこれである。




 ↓『DAK-II』の第5軽師団。

unit00087.jpg

 確かに歩兵連隊がまったく存在していません。OCSのルール的には機関銃大隊であっても歩兵と効果はまったく一緒なのですが、しかし後に挙げる第15装甲師団の歩兵連隊が6戦力であるのに比べると大隊なのに5戦力ありますから、つまり火力的に強い、そしてRE値が1/2になると……。


 『歴史群像アーカイブ Vol.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』のP124には「通常の歩兵部隊のかわりに機関銃大隊を保有し、歩兵火力を重視している反面、輸送の負担を減らすために歩兵部隊も砲兵部隊も規模が小さい。」とあります。↑の写真で挙げている編成には2つの砲兵ユニットがありますが、火力4の方が最初に来たもので、結構後になってから火力17の方が来るのです。

 そしてまた、同記事には↓の3つの独立部隊が第5軽師団に編入されていたとあります。

unit00090.jpg

 これだけ編入されていればだいぶ強力だという気がします。


 一方、第15装甲師団↓。

unit00088.jpg

 第2機関銃大隊は第5軽師団から移管されたものです。そして、第5軽師団が第21装甲師団に編成替えされる時に、第15装甲師団の2個歩兵連隊のうちの第104歩兵連隊が第21装甲師団に移管されました。


 ↓第21装甲師団。

unit00089.jpg


 そうすると、第15装甲師団と第21装甲師団は、共に機関銃大隊1個と歩兵連隊1個ずつを持っていたということでしょうか。

 『歴史群像アーカイブ Vol.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』のP124には、「第15装甲師団は、新設師団であったが、基本的には別の戦線で戦う他の装甲師団と概ね同一の編制であった。」と書かれています。が、これは多分第104歩兵連隊を渡す(そして第2機関銃大隊をもらう)前のことでしょう。

 同書P125には「【第21装甲師団は】第15装甲師団から狙撃兵連隊を移管されたが、それでも通常の装甲師団の半分でしかなかった。これは機動戦を主とするアフリカにおける装甲師団の特性を鑑みた結果であろう。」と書かれていました。

 人員的には歩兵が半分程度であったけども、火力的にはほぼ遜色なく、補給も容易であったということなんでしょうね。なるほど……。

『カフカスの防衛』とその地図データをゲット!

 以前、OCS『Case Blue』「世界の果て」第1~4ターン (2017/02/13) にて、「世界の果て」シナリオで扱っている戦いについての「詳しい資料が見つけられない~」ってな感じで書いていたんですが、その後「OCSの物置2」の作業の最中だったかに市川さんの【Operational Combat Series】「Case Blue」 Edge of the World Solo-Play AARを見直していたら、その一番下のところに『カフカスの防衛―「エーデルヴァイス作戦」ドイツ軍、油田地帯へ (独ソ戦車戦シリーズ)』が紹介されているのに気付きました。

「ああっ! そういえばこんな本があったか!」




 その前にもこのページを何回か見ていたのに、全然気付いてなかったという……(^_^; もちろん、本屋でも何回も見ていたのですが、そこらへんの戦いのゲームに手を出すことはないと思い込んでいて購入候補に挙がっていなかったです。


 で、購入して見てみましたら、地図が2枚しか入ってなくてがっかり……してましたら、1枚の地図のところに、「ウェブページ上で追加の地図を公開してます」とある!

 喜び勇んで見に行ってみたのですが、ない、ない……どこにもない。

 しかしなんか、問い合わせフォームがあったので問い合わせメールを送ってみましたところ、「HP改訂の時にリンクが外されて、行方不明になったようです。探してみます」とのこと。で、今日「見つかりました!」とメールがありました(*^_^*)

 で、当該ページが↓

独ソ戦車戦シリーズ5/カフカスの防衛

 別に購入者じゃなければダウンロードできない仕様ではないので、みなさんもダウンロードされてもよいのでしょう。丁寧な対応に感謝です。


 本の中身ですが、「世界の果て」シナリオの戦場に関する記述が全体の半分弱くらいを占めているようで、非常に詳しくて満足です。「世界の果て」シナリオに出てくるソ連軍戦車部隊のほとんどが、アメリカのレンドリースの戦車を使っていたようで、そこらへん非常に興味深かったです。また、写真の多くにどの部隊の写真かのキャプションも付けられていて、OCSのユニットとの繋がりで思いを馳せることができるのもいいですね!

 詳しい戦いの流れについてはまたゲームを広げて比較してみたいところなんですが、特に、9月1日~28日のマルゴベーク防衛作戦というのが、私がソ連軍を受けもった時にはそんなタイミングで反撃できそうな気がしなかったんですが、いやいや、できるのかもしれず(って、史実でやってるわけだし)、そこらへん非常に興味があります。

OCS『EatG』『CB』で小土星作戦開始時のチル川戦線を

 『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』のP246に、小土星作戦開始時(12/16)時点でのチル川戦線の戦況図があるので、それと『Enemy at the Gates』の同じ部分と比べてみようと思い、VASSALで並べてみました。


 まずは『Enemy at the Gates』のシナリオ6、リトルサターンキャンペーンで当該部分をセットアップ……(古いモジュールなので、自分でセットアップしなければなりませんでした)。

スクリーンショット_160405_176





 次に、『Case Blue』(リトルサターンシナリオがない)のVASSAL上で、『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』の戦況図通りにセットアップ……。

スクリーンショット_160405_177



 だいぶ違います。『Enemy at the Gates』ではチル川をすでに渡ってますが、戦況図では渡れてないようでした。一方でソ連軍側に複数ユニットフォーメーションとなる部隊も大量にあり、「これだけあればあっという間に突破できるよね……」という気が……。ただし、ゲーム的にわざと「チル川を渡した状態で始めている」とか「複数ユニットフォーメーションはもっと後背地に置いてある」とかってことがあるかもとは思いました。


 また、本文を読んでいこうと思います。

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR