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OCS『DAK-II』の「サハリアノラクダ大隊」ユニット(再)

 先日、OCSユニットで見る「リビア人部隊」と「サハリアーノ大隊」 (2017/03/29) で書いてました「サハリアノ大隊」ですが、『DAK-II』の特別ルールに史実でのラクダ数が書かれているのに気付きました(どうも「サハリアノ」の書き方の方が正しそうなので今後それで)。


 ↓『DAK-II』の「サハリアノ大隊」ユニット。

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4.6f ラクダ  サハリアノラクダ大隊(Sahariano Camel Battalion)は160 頭のラクダを有していました。これは同大隊のリビア兵全員を騎乗させられる数ではなかったものの、この部隊を「快速」歩兵とみなすには充分なものでした。


 移動モードでの移動力が、ギリギリ航空輸送できる枠内に収まってますね……。




 利便性のために、前掲エントリの関連部分もここにコピペしておくことにします。




 さて、ラクダの兵科マークの部隊ですが、『アフリカンギャンビット』(P25)にあるこれかと思っていたのですが……

……サハリアーノラクダ騎兵連隊(実際は乗馬)……



 『Operation Compass 1940』にはこういう記述がありました。

……オアシスや前哨基地を守備する目的で現地民による部隊(Compagnia Sahariana)がサハラにおいて維持されており、その中には機関銃守備中隊、ラクダ大隊、自動車化中隊が含まれていた。


 これによるとラクダが実際に使われていたようでもあります……。

 「Compagnia Sahariana」で検索してみると「Auto-Saharan Company」というのが引っかかりますが、しかしこれは違うものかな……。

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OCS『DAK-II』の「移動娼館」ユニットと、占領された後のシチリア島の慰安所

 前エントリに関する資料を探していて、「1943年に占領された後のシチリア島で、独伊軍の慰安所を米軍がそのまま運用していた」という話が出てきて、興味を持ちました。

 まだ「砂漠のキツネ」は、それなりには第三帝国の政策を批判している箇所があって、他の戦線にはあったが、アフリカ軍団になかったものとして「保安隊、捕虜の銃殺、政治教育、そして慰安婦である。」(394頁)と書かれている。このうち、慰安婦に関して、14頁にベンガジでイギリス軍の捕虜になった「トラック一台分の若い女」が出てくる。彼女達はイタリア軍の「将校専用」なのだそうだ。ドイツ軍の慰安所はアフリカ軍団にはなかったかもしれないが、「慰安婦と戦場の性」161頁に1943年にシチリア島を占領した米英軍が独伊軍が運用していた慰安所を自分達が利用した事が紹介されているから、ドイツ兵もイタリア軍の慰安所を使っていたのだろう。当方は、この「砂漠のキツネ」の記述を読んでいたから、慰安所が日本軍独特の「性奴隷」云々という言い方が不思議で仕方がなかった。フランス外人部隊に類似の施設があったのは、それなりには知られているはずだし。
「苦労人」の写真を見て、ゾッとした。




 まず『砂漠のキツネ』のトラック一台……の方から取りあげておきますと、私の持っている本ではP10にこうありました。

 「……イタさんの補給はたいていすごい。ぜいたくな恰好で出陣するんだな。ベンガジでトラック一台分の若い女を分捕ったよ。《将校専用》だった」



 OCS『DAK-II』には、イタリア軍の「移動娼館」ユニットが入っています。

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 ユニット規模が珍しいことに小隊です(何REなのかが気になります。まさかの1RE?)。あと、ステップロスに充当できるんでしょうか……(おい)。

 『DAK-II』のルールにはこうあります。

6.2s 移動娼館(史実) この第10アルマタ移動娼館(24名の女性達)はベダ・フォムで捕獲された「部隊」でした。このユニットは単に、この戦役当初のイタリア軍将校達が満喫していた贅沢を表すためのものです。お好きなルールを作って用いて下さい。:-)



 『イタリア軍入門』には以下のようにあります。

 さらに前線では、軍が衛生面で管理した兵/将校用の慰問所も存在した。北アフリカではいくつかの移動慰問所が稼働しており、1941年にはシディ・バラーニに本部が置かれ多くのイタリア女性や現地女性が雇われていた。その後戦局の変化により移動式の慰問所は廃止されたが、トリポリやベンガジには残されたのだった。
『イタリア軍入門』P261,2





 シチリア島の方の話ですが、『慰安婦と戦場の性』というのは↓ですね。全然知りませんでした……。




 検索してみると、他にもこの本を基にして書かれたらしいページがあって、内容についてもうちょい知ることができました。

 例えば、ドイツ軍はソ連に侵攻した時にソ連では公娼が禁止されていたため、慰安所を設置しました。またイタリアシシリー島にはドイツ・イタリア軍供用の慰安所がありました。

 アメリカ軍はどうかというと、表向きは慰安所を作らないということになっていましたが、1943年にアメリカ軍がシシリー島を占領した時に、先ほどのドイツ・イタリア軍供用の慰安所をアメリカ軍がシステムと人員ぐるみでこれを引き継ぎ、軍医とMPが管理しました。
南朝鮮では慰安婦について本当のことを言うと名誉毀損になるのか!! その2




 最初の引用で、「フランス外人部隊に類似の施設があった」というのは、私が知っている例としては以下のものがあります。1941年のフランス外人部隊である多分第13外人准旅団がアフリカ東岸のマッサワを占領した後の話として、当時それに付いていっていた女性であるスーザン・トラヴァースの話です。

 いっしょにいた男たちの中には、度を超してうるさくつきまとってくる者はいなかった。ありがたいことにそのころにはモンクラール【外人部隊の指揮官】が外人部隊用の娼館を作っていた。戦時移動娼館(ボルデル・モビル・ド・カンパーニュ)、略してBMCと呼ばれ、現地の少女たちや、兵士たちのお金目当てに進んで居残った二人の白人女性が働いていた。イギリス人たちはBMCが作られたことに烈火のごとく怒り、存在を是とせず、やめさせようと手を尽くした。が、モンクラールはまるで頓着せず、これがなかったら、兵士たちは禁止されている地元の娼館へ押し寄せることになり、そうなれば暴力沙汰にもなりかねないと言い張った。
 とはいえ、当然ながら兵士たちは禁止されている地元の娼館にも出かけた。……
『外人部隊の女』P86



 出典は↓です。






 ノルマンディー以後?における米軍兵士の性に関しては、こういう本も出ています(原書とその日本語版)。



 ただ、原書や日本語版の書評を流し読みしていると、著者は「米兵によってひどいことが行われた」という「前提・思い込み」で書いている面があって、実際には行われていないようなことまで「あった」と主張しているんじゃないかという批判が、レビュアーからあるようです。

OCS『Tunisia II』の「第999懲罰師団」ユニット

 『砂漠のキツネ』をチェックしていたら、いわゆる第999懲罰師団に関する記述がありました。


 まずはOCS『Tunisia II』のユニットを。

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 AR4と良質です。『Tunisia II』の他のドイツ軍ユニットを見ていると、第164軽師団はAR3が基本で1ユニットだけAR5があるという編成で、平均的に見れば第999師団の方が優れているのが意外でした。しかも第999師団は完全に自動車化されていて移動モードでの移動力が14なのですが、第334師団は半自動車化で移動力12、第164軽師団にいたってはまったく自動車化されていないのです。



 『砂漠のキツネ』には以下のように書かれていました。

 ベルリンは第999師団を送ってきた。それはいわゆる《執行猶予師団》で、敵側放送をそっと聞いたり、家畜の密殺をやったりで軍法会議で有罪判決を受けた兵士たちから成っていた。それに兵に降下された将校、強制収容所から《恩赦》で出た囚人などもまじり、祖国とヒトラーを同一するいわれなど毛頭ない連中である。しかしここで言っておきたいことがある。同師団は地中海上で指揮官の乗機を撃墜されたが、驚くほどの善戦を示した。ことにヴォルフ中佐の連隊がめざましかった。敵に走った者は一割もいない。ほかの者は勇気で汚名をぬぐおうと努めた。
『砂漠のキツネ』P339



 他の資料を探してみますと、英語版Wikipediaの項目よりは日本語のウェブ資料の方が詳しいくらいでした。やはり「懲罰」ということから興味を持たれるからでしょうか。

 "999"という特別な番号を持つ(一つ若い番号を持つ部隊とは100番以上離れている……もっとも"999"には「歩兵」の名は冠せられていないが)この部隊は、指揮官は正規の将兵であったが、兵士たちは執行猶予のついた者たちであった。
 そうした事情でか、部隊編成の段階で、そのころ導入が始まっていた歩兵師団などへの突撃砲の装備は見送られていた。そして兵力も十分に揃わないままにチュニジア戦に投入されていた。
(『チュニジアの闘い:1942~1943[下]』P24)


 ドイツ陸軍には、軍規違反者に対する前線での執行猶予制度(Frontbewährung)があり、執行猶予大隊(Bewährungsbataillon)と呼ばれる懲罰部隊があった。第二次世界大戦中には、師団級の懲罰部隊として、第999アフリカ軽師団 (de:Strafdivision 999, AKA Bewährungseinheiten 999, Bewährungstruppe 999)も作られ、その一部が基幹となったロードス突撃師団も編成された。師団級の部隊に関しては全員が懲罰兵というわけではなく、一般部隊も編制内に含まれていた。また、戦闘能力では一般部隊に必ずしも劣るものではなく、北アフリカ戦線などで勇敢な戦闘を繰り広げた。ドイツ陸軍の懲罰部隊にしばしば見られた部隊番号の「999」は、イギリスのスコットランドヤードにつながる緊急通報用電話番号「999」に由来するともいわれる[1]。
日本語版Wikipedia「懲罰部隊」


第999執行猶予部隊(„Bewährungstruppe“ 999)
 1942年10月、戦況の変化に伴いより多くの兵力が必要とされるようになると、刑務所の囚人などこれまで「兵役不適格者」(wehrunwürdig)として招集を受けてこなかった民間人の招集が始まり、これが所属する部隊として第999執行猶予部隊が設置された。これに所属する隊員もまた、前線での勇敢を示すことで不名誉を返上し、規律の中で本物の兵士かつ市民に生まれ変わる事が期待されており、これが達成されない場合は刑務所に戻され残りの刑期を過ごすか、または強制収容所に送られた[13]。

 隊員のうちおよそ28,000名は政治犯であった。隊員はバウムホルダーの刑務所やホイベルク収容所(ドイツ語版)の囚人から集められた。第999部隊は当初アフリカ戦線に展開し、のちに東部戦線やバルカン半島を転戦し、ギリシャではパルチザン狩りに従事した。また第999部隊の隊員100名ほどが離反して占領地における対独抵抗運動に参加したという[14]。
日本語版Wikipedia「執行猶予大隊」



 それから「泡沫戦史研究所」さんに、かなり詳しい「第999アフリカ旅団/第999アフリカ軽師団」という項目がありますのでそちらもぜひご覧下さい。

Kindle本を買ってしまっても索引が見られる方法を発見

 OSPREYで北アフリカ本4冊を購入してみたのですが…… (2017/03/29) で書いてました「索引が見られない」問題ですが、前エントリを書いている途中に、(Kindle本を買ってしまっていて)索引がその中になくても、索引を見られる方法を発見しました!

 Amazonの「なか見!検索」か、Google Books上で索引のページを発見し、印刷してしまえばいいのです!





 ↑は「なか見!検索」で索引ページが見られます。項目があることが分かるなら、Kindle上で検索すればOK。

 



 ↑は索引がないのですが、Google Books上でたまたま英語版の索引ページがヒットしたため、そこを利用できます。もちろん、日本語版とページは合いませんが、何カ所あるとか、どこらへんにあるか分かるだけでもありがたいです。





 ↑ですが、「なか見!検索」では索引ページが出ず、Google Books上で色々工夫しても出ないなぁ……と思っていたら、よく確認してみたらそもそも索引ページがない本でした orz(がっくし) それじゃあしょうがないですね~。





 ↑以前Kindle版で買っていたこの本ですが、Google Books上で「Index」が見られるのですが、ページ数が書いてあるのでなくて直接飛べるようになってる? 「えっ、これってKindle版用のIndexってこと……?」と思ってKindle版を確認してみたら、Kindle版の最後がこうなっていて、直接飛べるようになってました。すごい! 他のもこうしてくれればいいのに……。



 他のKindle版を買ってみていたやつも確かめてみたのですが、同じようにできるやつはなかったですね……。ただし、↓は、本文中の注から巻末の注へとジャンプでき、巻末の注から本文へも戻ってこられる仕様になってました。これも便利。




 この本はKindle版には図がないのでペーパーバック版も買ってあって、そちらには索引も完備しているので、一応個人的には困らない感じです。



 というか、この『Jena to Eylau』は個人的に内容が非常に興味あるのと、書き方が面白いので、(ブリュッヒャーが降伏するところまでは)全部和訳作業したいと思っているのですが、全然できてません……(T_T)


OCS『Tunisia II』の「第47歩兵連隊」ユニット

 『砂漠のキツネ』をチェックしていたら、以下のような文章を見つけました。有名な「カセリーヌ峠の戦い」をロンメルが始める直前の、同僚指揮官アルニムによるその北方(のメインであるファイド峠のさらに北の峠の辺り)の動きについてです。

 アルニムの計画に従って第10機甲師団は北のピションに向かった。夜のうちに、この要衝に奇襲攻撃をかけ、そこのフランス軍を撃破して、連合軍戦線を崩壊させるために。しかしこれは成功しなかった。そのためツィーグラー将軍は翌2月17日の作戦用として、ブーゼ大佐麾下のリューネブルク出身の第47歩兵連隊の増援を受けた。フォン・アルニムはいまでも彼らのことを《チュニスの火消し役》と呼んでいる。連隊はピションを正面から攻撃するように定められたが、16日から17日にかけてアルニムの《春風》作戦は吹き飛ばされ……
『砂漠のキツネ』P335


 謎の賞賛の言葉ですが、この箇所の情報を集積すべきか迷ったので、試しに『Tunisia II』でその第47歩兵連隊というのを大して期待もせずに探してみました。そしたら、ありました!

 ↓『Tunisia II』のドイツ軍第47歩兵連隊。

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 独立扱いの連隊で、結構強いです。なるほど、これなら賞賛されてもおかしくないかも……。


 で、興味が湧いたのでネット上でこの第47歩兵連隊について調べてみようと、「tunisia 47 infantry regiment」という検索ワードで調べてみると、アメリカ軍第9歩兵師団の第47歩兵連隊ばかりがヒットしまくる!(『Tunisia II』のユニットにもちゃんとありました) なので「-9th」とかって、マイナスワード検索すると、今度はアメリカ軍の輸送機のC-47とかがヒットする……(T_T)

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 試しに『カセリーヌ峠の戦い1943』を見てみると、戦闘序列のところ(P21)に「第47擲弾兵連隊 ブーゼ中佐」と書いてあって「おっ」と思いましたが、長々と続くカセリーヌの戦いの記述のところを目視検索してみたところでは、「47」という数値はなさそう……(「ピション」という地名が英語版ではP79とP80、日本語版ではP56とP57の2ページにわたって3箇所ほどに出てくる感じですが、そこに「第47歩兵連隊」という記述はない)。



 で、今度は『Tunisia II』の特別ルールを見てみました。すると、戦闘序列のところに「• 47 Inf Rgt (of 22 AL Division)」とありました。第22空輸師団所属……だと? 第22空輸師団と言えば、『The Blitzkrieg Legend』に入っていたのでは……と思って探してみたら、確かにその中に第47連隊がありました!

 ↓『The Blitzkrieg Legend』の第22空輸師団。

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 かつてのエントリ『TUNISIA』枢軸軍の編制2 (2014/02/13) で、↓のようにも引用しているのを発見しました。

 1943年1月中旬の「アイルボーテ(急使)Ⅰ」作戦には、新参の第47擲弾兵連隊が投入された。ブーゼ中佐に率いられたこの部隊は、前年の夏、東部戦線はクリミア半島のセヴァストポリ要塞占領で大きな働きを示し、中佐は騎士十字章を受けていた。(『チュニジアの闘い:1942~1943[上]』P77)





 ただ、『Tunisia II』のセットアップ的には、カセリーヌキャンペーンの開始時の2月15日にはこの第47歩兵連隊はマレトラインにいることになってます。『砂漠のキツネ』のように2月17日にピションに向かわせるには、いる場所が遠すぎるような気はします。ううーむ……。


 試しに「pichon tunisia 47 regiment」で検索してみると、『Das Afrika Korps: Erwin Rommel and the Germans in Africa, 1941-43』という本がヒットして、第47歩兵連隊に関して記述がありました(他にもいくらかヒットする本はあるのですが、見られる場所が狭すぎて使い物にならない感じでした……)。

 いつものように、ロンメルはこの状況を最大限利用することを決断した。彼は第10装甲師団をタラへと向かう場所にその夕刻配置し、一方第21装甲師団は山脈を迂回するように命じた。これらの動きを支援するため、ブーゼ大佐の第47歩兵連隊もピションを通過して北西へと向かい、Kessereaを攻撃するように命じられた。
『Das Afrika Korps: Erwin Rommel and the Germans in Africa, 1941-43』P216


 「Kesserea」という地名ですが、『Tunisia II』のマップにおける「Kesra」ではないかと思います。

 ↓『Tunisia II』のマップにおけるその後の動き。

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 ほぼ同様の記述でその後の動きについて、『砂漠のキツネ』にありました。

 2月21日、ロンメルは第21機甲師団に山なみを迂回させ、第10機甲師団には北のタラに向かわせて、テベサの山の関門を抜こうとしたが、第21は強力な敵と遭遇して、予定どおり第10とは合流できなかった。……増強された第47歩兵連隊は武勲にかがやくブーゼ大佐の下で強引に西方に進出し、ピションを占領、さらにその20キロ先まで長駆した。だが、そこで止まってしまった。これが2月22日、DAKの攻撃がアメリカ軍B支隊にくいとめられてしまった日である。
『砂漠のキツネ』P336,7




OSPREYで北アフリカ本4冊を購入してみたのですが……

 ちょっと前に、OSPREYの北アフリカ本を4冊ほど購入してみてました。元々が北アフリカ戦好きではありながらも実際には何も史実に詳しくなく、ちょっと深いところを知るのにこれらの本は有用であろうと思って、思いきって買ってみたのでした。

 以下のものです。



 Kindle版が存在するものはそちらの方が安くて、両端の2冊はKindle版を購入。Kindle版が存在しなかった真ん中の2冊はペーパーバック版を注文したのですが、『TOBRUK 1941』の方はまだ届いていません。

 しかし、安くてもKindle版はやっぱやめた方が良かったかなぁ……という気が(T_T)

 というのは、OSPREY本には1ページの図で戦況を描いたようなのがありますが、それを拡大して見られないのが分かりまして……。より詳しく言えば、拡大はできるのですが字とかが潰れた状態で拡大されるので何の役にも立たない!(もし、「いや、ちゃんと文字も綺麗に拡大できるよ」ということであればぜひ教えて下さい!) あと、冊子版だと索引があって「どういう項目があるか」が見渡しやすいのですが、Kindle版だと(構造上しょうがないですが)それがない。

 もちろん、Kindle版にもいいところがあって、全文検索が容易です。しかしこれもどちらかといえば、索引の方が有用かもしれない……。

 もちろん、場所を取らないという理由などでKindle版の方を買う方もおられるでしょう。とりあえずこれらの情報を参考にしていただければ。

 宅配業者を困らせない……という意味でKindle版を買った面もあったのですが。


OCSユニットで見る「リビア人部隊」と「サハリアーノ大隊」

 OCS『DAK-II』において「Lib」と書かれたユニットにつきまして。リビアの現地民を中心に編成された部隊らしいですが、これも資料があまり見つけられないので良く分かりません……。


 ↓『DAK-II』のLibユニット(先頭のラクダのものは後述)。

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 リビアにおいて編成されたこのRegio Corpo di Truppe Libiche(Royal Coprs of Libyan Troops)は本国の部隊と似たようなやり方で2個師団が編成されたが装備は劣悪で、900名のイタリア人と6,500名の現地民によって構成されていた。
『Operation Compass 1940』

 1935年、「Regio Corpo delle Truppe Coloniali」(Royal Corps of Colonial Troops)が編成された。これは5個歩兵連隊、7個サハラ大隊、2個サハラ自動車化大隊、2個砲兵連隊、および2個パラシュート大隊(のちに1個に統合された)より成っていた。
『DAK-II』Vol.II P17



 英語版Wikipediaに項目がないようなのですが、イタリア語版Wikipediaで見てみると「Regio corpo truppe coloniali della Libia」というのがそれに当たるらしく、第1リビア師団、第2リビア師団の項目などもあるようですがイタリア語からの翻訳とか面倒なのでそれ以上パスで(^_^;


 『アフリカンギャンビット』にはこうありました(P25)。

●第1リビア師団(シビーレ)
 1940年からのウェーヴェル攻勢により全滅した。

●第2リビア師団(ペスカトーレ)
 1940年からのウェーヴェル攻勢により降伏した。




 さて、ラクダの兵科マークの部隊ですが、『アフリカンギャンビット』(P25)にあるこれかと思っていたのですが……

……サハリアーノラクダ騎兵連隊(実際は乗馬)……



 『Operation Compass 1940』にはこういう記述がありました。

……オアシスや前哨基地を守備する目的で現地民による部隊(Compagnia Sahariana)がサハラにおいて維持されており、その中には機関銃守備中隊、ラクダ大隊、自動車化中隊が含まれていた。


 これによるとラクダが実際に使われていたようでもあります……。

 「Compagnia Sahariana」で検索してみると「Auto-Saharan Company」というのが引っかかりますが、しかしこれは違うものかな……。

OCSユニットで見るイタリア軍「国境守備部隊」(GaF)

 OCSのユニットでイタリア軍を見ていると、「GAF」と書かれているユニットが結構多くあります。これらはどうやら、「Guardia alla Frontiera」の略で、国境守備部隊ということらしいです。


 ↓『DAK-II』のイタリア軍国境守備部隊(GAF)

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 ↓『Tunisia II』のイタリア軍国境守備部隊(GAF)

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 その国境守備隊に関する解説を探してみたのですが、まあ英語ではやはり量は多くなく……。

 ↓英語版Wikipedia「Guardia alla Frontiera」から。

 Guardia alla Frontiera (GaF)は1937年に創設されたイタリア陸軍の国境守備部隊であり、1851kmある北イタリアの国境を、"Vallo Alpino Occidentale"(フランスとの487km)、 "Vallo Alpino Settentrionale"(スイスとの724kmとオーストリアとの420km)、"Vallo Alpino Orientale"(ユーゴスラヴィアとの220km)を守備した。

 1940年にはGaFは21,000名の要員、8つの管轄地域、27の作戦区域と7つの砲兵連隊を持っていた。さらに1,000の防御設備、6,000の機関銃、1,000の迫撃砲、100門のCannone da 47/32 M35と、他に1,000の中~小口径砲(75/27 and 149/35)があった。

……

 1940年6月10日(イタリアが戦争に突入した日)までにはGaFは(リビアとアルバニアの植民地のものを除いて)23の作戦区域と50,000名の人員、 "Vallo Alpino"に28個大隊、ファシスト民兵(黒シャツ隊)に22個大隊を持っていた。



 英語版Wikipediaには、北アフリカにおける国境守備部隊のことは何も書かれていません(^_^;





 ↓『Operation Compass 1940』から。

 国境守備隊(GaF - Guardia alla Frontiera)がイタリア国内でと同じように歩兵、砲兵、工兵によって編成されており、イタリア本国国境においてと同様に補給線を守備することになっていた。守備地域にはバルディア、トブルク、トリポリも含まれていた。




 英語で見つけられた資料はそれぐらいです。


 同様にイタリア軍ユニットの中に良く見るものとして、兵科マークの中に「Ter」と書いてある、ARが軒並み0だったりするユニットがあります。「Ter」というのはOCS標準ルールの兵科マーク記号説明で「Territorial」と書いてあって、「(イギリスの)国防義勇軍」(黒シャツ隊のことではないでしょう)だとか「地方軍兵士」だとかって意味らしいのですが、良く分かりません。『Case Blue』なんかでもけっこうユニット化されていて、詳しいことを知りたいのですが……。

OCSユニットで見る「青年ファシスト」師団

 今回はOCSユニットで見る「青年ファシスト」師団について。

 「青年ファシスト」師団(GGFF)とは、簡単に言えばヒトラーユーゲント師団のイタリア版みたいなものです。ファシスト党の思想に熱狂的に共鳴した若者達で構成されていましたが、ヒトラーユーゲント師団が16歳以上の未成年によって構成されていたのと比べると、大学生が主体で若干年齢構成は高めであるように思われます(17か18歳以上?)。

 規模としては小さく、純粋な「青年ファシスト」を基にした部隊は1個連隊程度で、それにその他の部隊が配属されて師団を形成したっぽいです。機甲師団にすることが決定されてもいたらしいですが、イタリアの国力の弱さゆえかそれも実現されませんでした。


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 ↑青年ファシストの兵士たち。イタリア語版Wikipedia「136ª Divisione corazzata "Giovani Fascisti"」から



 まずはユニットから。

↓『DAK-II』の青年ファシスト連隊(独立)と、その所属した戦闘団RECAM。

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 ↓『DAK-II』の青年ファシスト師団。兵科マークの左側に「GGFF」とあるのが純粋な青年ファシスト連隊で、それ以外は借り物。

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 ↓『Tunisia II』の青年ファシスト師団。

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 こちらは青年ファシスト連隊が黒シャツ隊の色で塗られていますが、今回調べたところでは黒シャツ隊(国防義勇軍)所属というわけではなかったっぽいですが、もしかしたらチュニジア戦の時にはそうなっていたとか……?(『DAK-II』も『Tunisia II』も黒シャツ隊は通常の陸軍とは色が変えられているので、青年ファシスト連隊は『DAK-II』では黒シャツ隊扱いではなく、『Tunisia II』では黒シャツ隊扱いだということになります) ARが1落ちて、ベルサリエリより下になってますね。


 ↓試しに『Beyond the Rhine』のヒトラーユーゲント師団(第12SS装甲師団)のユニットも並べてみました。ノルマンディーの頃からはだいぶ損耗した状態だと思われますが。

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 今回使用した資料は、英語版Wikipeida「136th Armoured Division Giovani Fascisti」とCOMANDO SUPREMO ITALY AT WARというサイトの「GGFF (Giovani Fascisti) 1941-1943」というページと以下の書籍です。Google Booksで調べてもまったく大した資料が出てこないので、相当資料は少ないのか……?





 まずは北アフリカに送られるまでのところだけを並べてみます。

 「青年ファシスト(GGFF)」師団は青年ファシスト大学からの志願者によって編成された。彼らは陸軍とファシスト党黒シャツ隊との綱引きにさらされながらも、25個大隊が編成されたが、そのうち残されたのは2個大隊に過ぎなかった。この師団は1941年7月にリビアに送られたが、第III"A ferro freddo"大隊は訓練のためにイタリア本土に残り、後には補充の供給源として用いられた。
「136th Armoured Division Giovani Fascisti」


 1938年に、若年層の軍事教育と教練がMVSN【国防義勇軍】から引き継がれる形でリットリオ青少年団が組織化、17歳から21歳までの青年ファシストが組織化され、彼らは地方のリットリオ青少年団の指令によって作られた課程に従う義務を負った。

 彼ら若者達のうち25,000名がGGFF(青年ファシスト)として知られる25個大隊を形成した。第二次世界大戦が勃発した時、リットリオ青少年団内の多くの者達が志願して軍隊に入ろうとしたがそれは、若い時にすでに軍事訓練を受けていた者は戦争に必要な標準的な力を遥かに超えていると思い込んでいたからであった。しかし他方、イタリア国民の多くはこの戦争に熱狂しているとはまったく言いがたい状態にあった。そのため、PNF【国家ファシスト党】は「青年の行進」と呼ばれる、LiguriaのMarenzanoから出発し、ポー川峡谷を通って行進してVenetoのPaduaで終わる集まりを企画した。それはこの戦争に対する青年達の熱狂的で強い決意を示し、人々の姿勢に影響を与えようというものであった。だがこの企画は参加者の不足のために実現しなかった。それどころかこの行進の企画は、疑いを引き起こすだけでなく、大きな批判を巻き起こした。それに陸軍との間の論争もあった。なぜならば、ムッソリーニは「ある時点ですべての青年ファシスト達を補充将校へと昇進させたい」のだと信じられていたからである。この可能性を排除するために、陸軍の上級将校達はこの青年ファシストを解体させ、その後彼らを陸軍の通常部隊として編成させるという成果を勝ち取った。

 3つの青年ファシスト大隊のみが存続したものの後に2つに減らされ、その主体は大学生達であった。青年ファシスト大隊に対して非常に厳しい制限が課されたが、依然として熱狂的で有能な者達の間からさらに優秀な者達を選りすぐることができた。従軍の機会まで待機しつつ、また陸軍と国家ファシスト党との間の不可避的な論争の解決を待つ間、青年ファシスト大隊はベストな身体コンディションに特に配慮しつつ、細部まで行き届いた訓練を受けることができた。そしてこの部隊はアフリカに、良く訓練され情熱に満ちた部隊として送られたのであった。
『Rommel's North Africa Campaign』P88


 そして1930年には若年齢層の軍事教練を強化する戦闘ファシスト青年団も創設され、18歳以上の青年が入隊した。これらの準軍事組織は1940年に統合され、リットリオ青少年団という名の一大準軍事組織となり、その勢力はイタリア中に拡大、24個大隊が編成された。各大隊の内訳は、1000名の青年兵に対して陸軍経験のある将校20名と下士官50名が配属された。

 ……翌年【1941年】、国防省はリットリオ青少年団から前線志願した義勇兵により2個大隊を編成し、……4月にこのG.I.L.【リットリオ青少年団】特別大隊は、第301黒シャツ連隊『プリマヴェーラ/春』に編入された。しかし、その後間もなく『ファシスト青年大隊集団』として陸軍に再編入され、戦闘が激化した北アフリカ戦線への投入が決定されたのだった。
『Viva! 知られざるイタリア軍』P31,32


 一般に信じられているのとは異なり、この「青年ファシスト」(GGFF)はMVSN(国防義勇軍)の一部ではなく、GUF(Gioventu' Universitaria Fascista:青年ファシスト大学?)のメンバーが通常の陸軍に入隊したものであった。と言っても、この組織にはファシスト党がスポンサーとなっていたのだったが。

 19,000名のGUFのメンバーが志願して24個大隊が編成されたが、陸軍と国防義勇軍の間の権力闘争の過程でそのほとんどが解体された(恐らく彼らの真の忠誠が疑われたからであろう)。3個大隊のみが残されたものの、のちにそれは2個大隊へと減らされた! その結果、それらの部隊は非常に高い団結心と有能な指揮官達を有することになり、元の19,000名の志願兵のうちの最高の者達が残ることになったのであった。
「GGFF (Giovani Fascisti) 1941-1943」




 だいぶ色々書かれていることに差異があるのですが……(^_^;

 北アフリカに送られてからの記述も、焦点がかなり違う感じが……。

 連合軍によって「Mussolini's Boys」のあだ名で呼ばれた彼らは、第136戦車師団「青年ファシスト」へと改編されることが決まったが、この改編が完了することはなく、歩兵師団であり続けた。この師団はクルセーダー作戦の時に実戦に参加し、Ed Dudaの25マイル南にあるビル・エル・グビの近くの拠点を巡って第11インド歩兵旅団と激しい戦闘をおこなった。

「青年ファシストの兵士達はクルセーダー作戦の時に有名になった。ビル・エル・グビとして知られる小さな丘の守備を命じられた彼らは、1941年12月の最初の週の間、第11インド旅団とイギリス第7機甲師団を繰り返し撃退し続けた。兵力比が圧倒的に劣勢であったにも関わらず彼らは連合軍部隊に大きな損害を与え、深刻な飢えと渇きにも負けず一歩も引かなかったのだった。」(John Gooch. Decisive campaigns of the Second World War. Chapter: The North African Campaign)

 第136青年ファシスト歩兵連隊の第1大隊と第2大隊は丘の頂上の保持に成功し、1941年12月の最初の週の間、イギリス戦車とインド歩兵部隊の攻撃を何度も撃退した。

 「Mussolini's Boys」は軍予備として、1942年5月のガザラの戦いを開始した。その時彼らは4個歩兵大隊編成であったが、うち2個は元々からの大隊であり、それに第9独立歩兵大隊とサン・マルコ海兵連隊の第3大隊(その後ヘッカーの上陸作戦用の集団に派遣)が配属されていた。戦いの進展に伴い、残りの3個大隊は第102トレント師団が連合軍の地雷原を突破するのを支援する為に前進した。

 1942年の夏にはこの師団はエジプトのシワオワシスを占領したが、その目的はエル・アラメインを攻撃する枢軸軍の部隊の南にイギリス軍からの軍事行動の可能性を阻害するためであった。実際、1942年7月にはドイツ軍のJu.52輸送機がこの戦略的に重要なシワオワシスを攻略するために「青年ファシスト」の1個大隊を輸送し、アフリカにおいて枢軸軍による最大規模の空挺降下作戦をおこなった。師団の残りもすぐに駆けつけ、来なかったのは第4対戦車大隊の2個中隊だけであった。シワオワシスは連合軍の長距離砂漠挺身隊がリビア国内に襲撃するための中間準備地域になっており、今や枢軸軍側がやり返す機会が来たのであった。イタリア軍の計画立案者達はナイルへ繋がる道を切望していた。

 エルウィン・ロンメル元帥は1942年9月にこの部隊を訪れ、視察を行った。将校らは砂漠奥地で自分たちが作った地図と偵察の報告をロンメルに見せ、また幾人かのエジプト部族長達が、シワとナイルの間には連合軍部隊はいないと思うという意見を述べた。青年ファシスト師団は燃料さえあればシワから海岸までの連合軍をひっかきまわせる、と将校達は断言した。待っている間、イタリア軍はエジプト亡命政府を設けて郵便切手も準備し、イタリアの三色旗と一緒にエジプト国旗を掲げた。

 「青年ファシスト」師団のうちのいくつかの部隊は第2次エル・アラメインの戦いで第185空挺師団「フォルゴーレ」と共に戦った。

 11月中旬、モントゴメリーの勝利の後、この師団はシワからアジェダビア、そしてチュニジアへと退却した。マレトラインでは他の残存枢軸軍部隊と共に、連合軍を相手に勇敢に戦った。この師団はチュニジアの戦いを経て、1943年にほぼ壊滅した。

 大損害を被っていたにも関わらず、「青年ファシスト」師団は北アフリカで連合軍に降伏した最後の枢軸軍部隊となった。日付は1943年5月13日であった。
「136th Armoured Division Giovani Fascisti」


 青年ファシスト大隊の69名の将校と1500名の下士官及び志願兵達は、1941年7月末に北アフリカに到着した。

 更なる激しい訓練の後、彼らにはより優れた装備が支給された。通常の個人用のライフル装備に加えて手榴弾数発と短剣が配給され、さらに青年ファシスト大隊には自動小銃(軽機関銃)が27挺、機関銃9挺、81mm迫撃砲8門、対戦車47mm/32口径砲4門とゾロターン対戦車ライフル18挺が与えられた。彼らには、戦車猟兵分隊に装備されていた役に立たないPassaglia対戦車爆弾が、小隊毎に24個ずつ配分されていた。この新しく編成された部隊は「青年ファシスト大隊集団」と呼ばれ、その司令部レベルでも有効な輸送部隊と機動力のある修理部隊を使用可能であり、完全に独立して作戦をおこなうことができた。このため、青年ファシスト部隊は機動軍団偵察戦闘団(RECAM:Raggruppamento Esplorante del Corpo d'Armata di Manovra - Reconnaissance Group of the Mobile Army Corps)、のちに偵察装甲艦戦闘団(REC:Raggruppamento Esplorante corazzato)と呼ばれたものに所属した。

……

 青年ファシストの最も有名な戦闘はビル・エル・グビでのもので、以下の部隊が参加していた。

青年ファシスト大隊集団司令部
C3戦車中隊
第1青年ファシスト大隊と1個迫撃砲小隊、および第8ベルサリエリ連隊の機関砲中隊
第2青年ファシスト大隊
PA/無線部隊
第9ベルサリエリ連隊の1個47/32mm対戦車小隊
第8ベルサリエリ連隊の1個機関銃小隊


 1942年に青年ファシスト大隊集団は青年ファシスト連隊へと編成替えされた。それはこれまでの1個連隊のみでもって青年ファシストという名の機甲師団が新たに編成されることが計画されたからである。それは以下の4個大隊から成るものであった。
 2個ライフル大隊(これまでの青年ファシスト大隊)
 47/32mmを装備した1個対戦車大隊(青年ファシストから)
 1個黒シャツ「M」大隊(X旅団)

 この青年ファシスト機甲師団の編成はチュニジアにおいて実現することなく、使用可能な部隊は以下の通りであった。

 青年ファシスト連隊
 第8ベルサリエリ連隊(チェンタウロの第5ベルサリエリ、トレントの第7ベルサリエリ、アリエテの第8ベルサリエリ連隊の一部)
 第139砲兵連隊(かつてのアリエテ第132砲兵連隊)

 この師団には戦車がほとんどなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P88,89


 7月29日にターラントを出航してリビアのトリポリに上陸した『ファシスト青年』大隊集団は、当初北アフリカ・イタリア軍司令部配属となり、第1大隊はミズラータに第2大隊はホムスに配置された。また前線部隊として機関銃中隊が振り分けられ、47mm対戦車砲や81mm迫撃砲も配備される。そして、部隊は9月初旬にキレナイカ地方へ移動となり、ガンバラ将軍指揮の機動装甲戦闘団に編入され、いよいよ前線部隊としての戦闘任務を行うこととなった。
 ……【クルセーダー作戦による戦闘で】枢軸アフリカ軍の弾薬や燃料は底を尽き、稼働戦車も極端に減少。このため、12月4日に独ロンメル将軍はトブルク包囲を解き、全軍にガザラへの退却を命じたのであった。
 この時、後衛としてビル・エル・ゴビで守備に就いていた『ファシスト青年』大隊集団は、第1大隊が第182高地に、第2大隊が184、188高地に配置され、3日間に渡り追撃するインド第11旅団と英第22近衛旅団や第8戦車連隊の一部と対峙。しかし味方の可動戦車はM13型戦車1輌しかなく、47mm対戦車砲は14門、81mm迫撃砲が8門、20mmゾロターン対戦車ライフルが12門あるだけだった。
 それでも18歳~20歳の若い義勇兵1523名は、部隊歌「ラ・トラドッタ(輸送列車)」を唄いながら英軍の波状攻撃を防ぎ、少ない対戦車砲をカバーして火炎瓶やT4爆薬を手にした肉弾攻撃で果敢に戦い、重戦車6輌と軽戦車6輌、ブレンガンキャリアーを含む車輌50輌を撃破した。例えば第2中隊のニッコリーニ伍長は、数度負傷しながらも勇猛な爆薬攻撃でその命と引き換えにヴァレンタイン戦車1輌を破壊、死後に戦功勲章金章を授与されている。
 そして高地の防衛戦に阻まれ枢軸軍団の挟撃を受けたインド第11旅団は、戦死者約200名、負傷者約300名、捕虜71名の大損害を出して退却した。しかし大隊集団の損害も大きく、戦死52名、負傷117名、行方不明31名を数え、第1大隊長バリシティ少佐は左足に重症を負ったのだった。
 ……

 その後1年で枢軸アフリカ軍団はトブルクを奪還し……エル・アラメイン戦線まで進出。1942年5月24日、部隊は第136『ファシスト青年』機甲師団として再編成され、エジプト領内シワに配置された。しかし「機甲」とはいえ実際は、M14戦車が2輌配備されただけの名誉称号であった。またフィアット665/NMトラック37輌で機械化した第3大隊も到着。だがこの660名の将兵は、47mm対戦車砲24門と共に第1と第2大隊に振り分けられている。そして1942年10月末に英軍の反攻作戦が始まり、補給が停滞していた北アフリカ戦線は総崩れとなり、残存兵力はリビアまで撤退。同師団も11月8日から10日間で約1000km後退した。
 1943年1月に入ると首都トリポリも放棄され、枢軸アフリカ軍団はチュニジアで防衛戦に入る。『ファシスト青年』師団は第8ベルサリエリ連隊を加えて新編成の第20軍団に配備され……
 4月にチュニジア北部撤退した【ママ】枢軸アフリカ軍団は、防衛戦を引いて粘り強く戦った。『ファシスト青年』師団は、独第90軽アフリカ師団や『トリエステ』師団と共にアカリトを防衛したが1日で突破され、チュニス南方まで後退した。しかし同師団は25日に第141高地【ママ】をめぐりニュージーランド第6旅団と英第167旅団と攻防戦を繰り広げ、「サヴォイア王家!」「我々に勝利を!」と叫びながら手榴弾を手に白兵戦を戦い、攻撃を撃退。敵は、150名以上の戦死者を戦場に残した。これにはメッセ元帥も防衛戦の第一段階の勝利を宣言したほどである。しかし師団も103名の損害を数え、5月9日から13日にかけて英第50歩兵師団と更に苛烈な攻防戦を展開した。
 ……こうして2年の従軍で戦功勲章金章2個、戦功勲章銀章28個、戦功勲章銅章48個、戦功十字勲章105個を授与される武勲を立てたファシスト青年団の義勇兵部隊は、北アフリカでその短い歴史に幕を閉じたのであった。
『Viva! 知られざるイタリア軍』P32~35




 『Rommel's North Africa Campaign』における記述は、この「青年ファシスト」連隊に関する、負の側面に関する言及で終わっています。ヒトラーユーゲント師団と同じく、彼らは勇敢に戦ったとはいえ、ファシズムの狂信のもとに若い命を散らされたのだということを忘れるべきではないのでしょう……。

 ムッソリーニのファシスト体制における黒シャツ隊の部隊化の全過程を見ると、それは「見果てぬ夢」であったという印象を受ける。老齢で身体的にも不調を抱えながらも狂信だけには溢れた党幹部達の命令によって、知性と献身性とを兼ね備えた大学生達を青年ファシストとして組織して北アフリカの砂漠で戦わせる、という未来のない考え方。このイタリア史における興味深い側面は過去の圧力によりあまりにも長い間、充分に調査されて来なかった。戦争のこの側面に関する充分な研究というのがもし可能だとすればそれは、イタリアが過去を直視できるようになった時にしか書かれないことだろう。
『Rommel's North Africa Campaign』P89




OCS『Case Blue』「世界の果て」第15ターン

 OCS『Case Blue』「世界の果て」シナリオの第15ターンを尼崎会(拙宅)でワニミさんとプレイしました。用事があって2時間しか時間が取れなかったので。

 ↓第15ターン(1942年9月26日ターン)先攻(枢軸軍)終了時。

スクリーンショット_160405_167

 南西、オルジョニキーゼの橋頭堡の裏側に枢軸軍が攻撃をかけ、補給線をカット。東の翼側を脅かしているソ連軍騎兵ユニットに対してはドイツ軍装甲大隊が戦闘をしかけたものの、AL1Do1という結果となりました。



 ↓第15ターン後攻(ソ連軍)終了時。

スクリーンショット_160405_168

 オルジョニキーゼの裏側の遮断された補給線は、増援でやってきた騎兵軍団や補充で帰ってきた歩兵師団など使えるものはなんでもかんでも総動員して、辛くも確保。しかし一般補給の供給や戦闘補給の供給のために恐るべき量のSPを消費し、Low状態になってます……(>_<)

 東の翼側からは騎兵ユニットが嫌がらせのために枢軸軍の鉄道線上の村に居座りました。


 今回出ていた話として、「なるほどなぁ」と思ったことを挙げておきます。

☆早いうちに行っておかなくてはならないところは先に行っておくべきで、後になっても無理やり行けるところは後でいい。(前者はオルジョニキーゼや、オルジョニキーゼとグロズヌイの間の回廊地帯。後者はグロズヌイ北方や北西の平地ばかりの地帯)

☆このシナリオは大集積→大攻勢では間に合わない。しかし、LowやExhaustでマイナスになるまでやって部隊を殺して……では、Eqがほとんど来ないために補充で復活させられず、良くない。毎ターン少しずつ、血反吐を吐きながら進むべきなのか。また、1SPで戦闘ではうまくいかない、4SPでは払いすぎでもったいない、2~3SPの戦闘で戦果を収め続けていかなければならないバランスが非常に難しい。

OCS補給路、スタック、敵ZOCver1.2を作成しました

 OCS輸送まとめ、輸送まとめ図を作りました (2017/03/21) のコメントでさとうさんに指摘された件を修正して、ver1.2を作りました。

OCS補給路、スタック、敵ZOCver1.2.pdf

 今度は2ページ目だけの改訂ですので、ver1.1を印刷されていた方は2ページ目だけ印刷して差し替えてもらったら。

OCS、大量の燃料を持って迂回?

 OCSにおいて、「SPを大量に蓄積して大攻勢(停止期間も長くなる)」と「毎ターン少しずつ攻勢して常に常に敵を後手に回らせ、その積み重ねで有利さを得る」のどっちが有効なのか? という論争があります(ワニミさんと私の間で(^_^;)。

 私は、「史実では蓄積→大攻勢なのだから、OCSでもそうあってくれた方がいいとも思うのだけど、毎ターン小攻勢も確かに非常に有効だったりするし、どうなんだろう?」という感じなんですが、『砂漠のキツネ』を読んでいて、「蓄積→大攻勢」でなければならなそうな文言を見つけました。

 バイエルライン将軍の言です。

「われわれはこう攻撃するつもりだったのです。ラムケのパラシュート旅団、第90軽師団、イタリア第20機械化軍団が、扉の翼のようにアラメイン戦線から北方へ進出する一方、DAK各機甲師団の任務は敵第8軍を包囲し、背後から戦車で殲滅することでした。これがロンメル得意の戦術です。トブルク、マルサ・マトルー、ガザラでもこれで勝ってきました。アラメインでも成功するはずだった。心理的効果の狙いもかなりありましたね。戦線が突破されてドイツ軍が背後にいるとなると、これまでの経験では敵は恐慌を来たしたものです。もちろんDAK機甲師団は戦いながら大きく迂回するのですから、大量の燃料がいります。そればかりでなく、奇襲と急進撃が必要だった。敵にこの作戦に対応して移動するひまを与えないために。つまり成功は燃料と奇襲とにかかっていたのですよ
『砂漠のキツネ』P249



 数ターンにわたって多大な自由な機動を確保するだけのSPを持ちつつ、大きく敵を迂回するためには、SPの集積と、作戦中にSPをいかに運ぶかという配慮が必要な気がします。


 うーん、でもそれでも「毎ターン小攻勢」も有効は有効であるという感は拭えないかなぁ……。でもあるいは、防御側がもっと上手ければ、小攻勢を無効化できたりするとか……? うーむ。

OCS輸送まとめ、輸送まとめ図を作りました

 OCS輸送まとめver1.0(A4サイズ2枚)、OCS輸送まとめ図ver1.0(A3サイズ1枚)を作りました。

 自由にダウンロードしてお使い下さい。間違いを発見された時にはぜひご報告下さい。

 まとめ図の方は、私は壁に貼って使うつもりだったのA3サイズ設定で作ってしまいましたが、A4サイズで作っておいた方が混乱がおきなくて良かったかもです……。過去にB5サイズで作ったものもあったりで、印刷の時に注意しないといけないようになってしまっていて申し訳ないです(>_<)


 それから、OCS補給路、スタック、敵ZOCver1.1を作り、ver1.0から少し改訂しました。1ページ目しか改訂していないので、2ページ目と別に印刷していた方は1ページ目だけ印刷して差し替えてもらえれば大丈夫です。

OCS『Sicily II』「プリマソーレ橋」カターニア陥落!

 承前。富山のKさんが尼崎会(拙宅)に来られての、ワニミさんとの『Sicily II』プレイ第2弾、「プリマソーレ橋」シナリオです。

 富山のKさんが連合軍、ワニミさんが枢軸軍です。私はこれまた、あまり見ていませんでしたが……(^_^;


 ↓シナリオ終了時。

スクリーンショット_160405_166

 富山のKさんは上陸用舟艇を利用する揚陸(Amphibious Landing)を重視しての作戦。その揚陸した海岸にDUKWを持っていってSPを供給するという「あ、そんな方法が?」と思う手段を採られてきました。それに対してワニミさんは反撃を重視した作戦でしたが、航空戦闘でダイス目がひたすら悪く枢軸軍の航空ユニットがみるみる溶けていく……!

 ワニミさんが「第2ターンの先攻を連合軍に取られたら即敗北だ」と仰る中、イニシアティブのダイスは枢軸軍の勝利! で枢軸軍が先に行動。後攻ターンとなり、防備の固められたカターニアに対し富山のKさんは、あるだけの戦力をカターニアに対してひたすらオーバーランしまくるという戦法に出てきます。

 「なんという方法だ……!」と思ったのですが、実は最低戦力比でも9以上の目を出せばDo1で防御側は少しずつ削られていくとういうことを認識し、「えっ、そうなの!?」と。イギリス連邦軍は恐ろしいほどの損害と膨大なSPを消費しながら、少しずつカターニアの戦力を削っていきます。イギリス連邦軍にもうSPがなくなり、Lowにしながら戦っていた何回目かの戦闘のあと、ワニミさんが「撤退します」と宣言し、カターニアは陥落……! 「戦力がまだあるのに撤退するんですか?」と聞いてみたら、撤退していたのは専用トラックで、それ以外の戦力はすべてなくなっていたのでした(^_^;


 OCS『Case Blue』「世界の果て」第10~14ターン (2017/03/20) で書いていましたような、「とにかくこれをこうすれば勝ちなのだから後はどうなってもいい」という戦法であるのかもしれないのですが、しかしカターニアを早期に取ることはやはり重要で「長いキャンペーンを戦っている途中であるようにプレイ」してもこれは有効なやり方であるのかもしれず、判断の難しいやり方ではあると思いました。

 「シチリア島西部」シナリオは「4箇所のうち3箇所を取っていれば勝利」で、選択肢があるのですが、「プリマソーレ橋」シナリオは「第1ターンにアウグスタを、第2ターンにカターニアを取れていなければ敗北」という選択肢のない勝利条件なので、「シチリア島西部」よりこういうことは起こりやすい……ということは言えそうな気はします。

 第2ターンにアウグスタを取るのであっても構わないとか、損害や残りSPを数えてマイナスVPとして、カターニア等によるVPと得失点を計算して総合的に勝敗を決める……のはありでしょうか。結構損害が出てもカターニアを取れればよしとはするものの、その後のキャンペーンにおいて崩壊を引き起こしそうなほどの損害や残りSPになっていたら引き分けとか敗北になってしまうとか。

 公式の勝利条件はそれはそれでありと思うのですが、それと並列で尼崎会における勝利条件をも提示するという方式でやってはどうかという話が出てきています。

OCS『Sicily II』「シチリア島西部」で第2機甲師団が北進!

 拙宅(尼崎会)に富山のKさんが来られまして、『Sicily II』のミニシナリオ2本をワニミさんとプレイしていかれました。

 富山のKさんは自宅で研究しておられたそうで、「そんな方法もありか!」とちょっと思うようなプレイをしておられました。

 まずはシナリオ1「シチリア島西部」から。富山のKさんは連合軍をプレイです。


 ↓第1ターン先攻(連合軍)終了時。

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 富山のKさんは、史実に反して第2機甲師団を北進させて、シチリア島西部の枢軸軍すべての補給源を切る作戦に出てきました。私もその可能性はかつて検討していたものの、どちらかと言えば史実通りに西進させた方が良いか……と思って採らないでいた作戦です。

 対するワニミさんは「(3分の2の確率で降伏する)イタリア軍沿岸防衛ユニットの私の非降伏率は80%だ!」と豪語され、実際にチェックでどんどん沿岸防衛ユニットは「降伏せずに戦う」ことを選択していきます(^_^; 最終的にはなんと、すべての沿岸防衛ユニットが降伏を肯んじ、100%の非降伏率となっていました……(私がメビウス氏相手にプレイした時(OCSインストで『Sicily II』「シチリア島西部」「プリマソーレ橋」をやりました (2016/11/04) )にはすべての沿岸防衛ユニットが降伏したのに……(T_T))。


 ↓第3ターン終了時。

スクリーンショット_160405_165

 富山のKさんがひやっとするようなワニミさんの行動など、その後も知謀と気魄を尽くした戦いが繰り広げられ(私は「OCS輸送まとめ」を作る作業をしていたため、あまり見ていなかった)、最終的には連合軍が勝利していました。


 富山のKさん曰く「すぐ終わるかと思っていたシチリア島西部シナリオで、あんなにも大変な戦いになるとは……」と仰っていました(^_^; 実際、その後すぐに用意していた「プリマソーレ橋」シナリオに取りかかることができず、休憩で2時間くらいも雑談していました。

 「プリマソーレ橋」に関してはまたエントリを改めまして。

OCS『Case Blue』「世界の果て」第10~14ターン

 尼崎会(拙宅)にて、OCS『Case Blue』「世界の果て」シナリオの第10~14ターンをワニミさんとプレイできました。

 前回はこちら↓
OCS『Case Blue』「世界の果て」第8~9ターン (2017/03/13)


 ところが5ターン進行して写真を10枚撮っておかねばならないのが8枚しかなく、どこのターンが抜けているのか良く分からないので、最後の第14ターン目の最後のみ出すことにします(^_^;

スクリーンショット_160405_163

 前回最後の、「ソ連軍司令部の後ろにドイツ軍に回られてしまった!」危機は、ソ連軍側が一般補給を通そうとオーバーランを繰りかえすも全滅させられるのに至らず、前線に蓄積してあったSPを消費して一般補給を確保し、そののち戦闘フェイズで全滅させました。これでかなりのSPを無駄遣いさせられたことになりました。

 その後ソ連軍側は「後ろに回られたらやばい!」と、2つの司令部の南側に部隊を敷き詰めて「回廊」を確保するように。枢軸軍側は(後で聞いたところによると)西側のオルジョニキーゼをまずは落とさないと要塞化されたらやばいと気付いてそちらに戦力を集中しはじめ(ヴィーキング師団も到着)、東側は維持に努めるだけになったそうです。

 東側(グロズヌイ方面)ではソ連軍側が限定攻勢に出て3ユニットほどを吹き飛ばしましたが、補充ですぐに戻ってくるそうです(^_^; しかしテレク川を越えていた部隊は一掃され、テレク川の東側にも部隊を展開しはじめて翼側を取ろうとしています。



 「オルジョニキーゼを要塞化されたらやばい」説というのは、「勝利条件がオルジョニキーゼとグロズヌイ周辺の全5ヘクスを全部取っていること。全部取れなかったら敗北」なので、ソ連軍側が守りにくいグロズヌイ周辺を最初から捨てて守りやすいオルジョニキーゼに全部隊を振り向けて要塞化してしまったら枢軸軍敗北必至……というような仮説です。

 現象として本当にそれが有効かどうかちょっと分からないと私は思うのですが、少なくともOCSは一般的に「シナリオの勝利条件があまり良くない」のはその通りかなという気はします。ゲーム的に、「他の何がどうなってもいいからここだけこうする! そしたら勝利じゃん」ってのが生じやすい、と。それに比べて他のウォーゲームは勝利条件が戦力と都市の得点制になっていたり、あるいは勝利得点がどこにあったかがゲームが終わってみないと分からないようにされていたりと、かなり工夫されて(きて)いる……。

 OCS「長いキャンペーンを戦っている途中であるようにプレイせよ」 (2015/06/10)でちょっと書いてましたように、OCSは非常に長期のキャンペーンの途中を戦っているようにプレイしないと、他のゲームでは不可能なような非常に極端な戦法も採れてしまうのでおかしなことになってしまいやすいと思います。だからまあ、最も良い方法はキャンペーンをプレイするか、あるいは「頭の中で、非常に長期のキャンペーンを戦っている途中であるかのようにプレイする」ことかとは思うのですが(しかし前者より後者の方が難しいかもです(^_^;)、シナリオの勝利条件がおおざっぱでうまくいってないように見えるのは惜しいことだと思うので、何か我々なりの改善策を考えてみようかという話になりました。

 OCSは公式でも「こんなハウスルールがあるらしいよ」と紹介していたり、『Operations』誌上で「いいルール案があったら教えて!」と書いていたりと、各所でハウスルールを作るのは全然ありじゃん、という雰囲気が感じられます。それはそれでありだと思います。ただ、自分らで改善案を考えるといっても、なかなかに難しそうではあるのですが……(^_^;

OCS『DAK-II』の「総司令官戦隊」ユニット

 以前書いてましたように北アフリカ本をチェックしていってますが、『砂漠のキツネ』に以下のようにありました。

 《総司令官戦隊》もしくは直接指揮官の名をとって《キール戦隊》と呼ばれた部隊の先頭でロンメルはDAKの突破作戦をともにしていた。ロンメル個人の指揮下にあるこの戦闘部隊は、砂漠の戦闘から生まれた快速部隊の理想といえた。おおよそ、大隊兵力で戦車1個中隊、対戦車砲、高射砲混合(75ミリ自走砲、50ミリと37ミリの対戦車砲、20ミリ高射砲)の1個中隊、それに装甲偵察車、無線車1個小隊より成り、これを率いたロンメルはいつも戦闘の焦点にあった。
『砂漠のキツネ』P195


 『砂漠のキツネ』以外でも似たような記述を見たような気もします。

 で、これを『DAK-II』で探してみましたら……。多分これかと。

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 同じ名前で2つ存在しているのは、途中で増強されて置き換えられるからです。

 『DAK-II』の略語一覧によると「KStA— Kampfstaffel Afrika (Combat HQ)」とあって、シナリオを見ていると基本的にDAK司令部と常に同じヘクスにあるっぽいので、まあそうかなと……。

 『Rommel's Afrika Korps: Tobruk to El Alamein』という本には、「第2次キレナイカ攻勢の後で捕獲戦車がいっぱいあった、1942年2月に編成された。」「M3とかクルセーダー戦車で装備されていた。」「ガザラの戦いの少し前にロンメルはこの部隊を増強した。」「ロンメルに直接指揮され、小さかったが効果的で非常に価値のある部隊であった。」というような感じで書かれていました。


OCS『DAK-II』の「第288特殊部隊」ユニットの件に付け足し

 前回、OCS『DAK-II』の「第288特殊部隊」ユニット (2017/03/13) のあと、『DAK-II』のユニットシート(の画像)を見ていて、『DAK-II』にAfrik(a)と書かれた独立ユニットがあるのを見つけました。これが第288特殊部隊の改編されたもの? ユニット的にも隣に置いてあるし……。

unit00056.jpg

 増援登場表を見てみましたら、1942年に第288特殊部隊がこのアフリカ装甲擲弾兵連隊に改編されるとありましたので、それで間違いなさそうです。名前的にもユニット的にも合致してますしね~。

 『Tunisia II』のアフリカ自動車化歩兵連隊は、このアフリカ装甲擲弾兵連隊が弱体化したものなんでしょうね……。

OCS『DAK-II』の「第288特殊部隊」ユニット

 以前、OCS『Tunisia II』の「自由アラブ部隊」 (2017/03/04) で書いてました第288特殊部隊について。


 ↓『DAK-II』の第288特殊部隊ユニット。

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 LRDG -- Special / Elite Forces in North Africaというページから。

Menton戦闘団(第288特殊部隊、アフリカ装甲擲弾兵連隊)

 第288特殊部隊は1941年7月1日にドイツのポツダムで編成された。この特別部隊は、ドイツ中のあらゆる場所の部隊から引き抜かれた兵士達で構成されていたのみならず、今で言う南西アジアに暮らしたり勤務していた経験のあるドイツ人兵士による特別派遣部隊をも持っていた。この部隊は特別な任務のために編成されたもので、通常のドイツ軍部隊のような方法で作られたものではなかった。この特殊部隊は全部で7から12の中隊を持っており、各中隊はそれぞれに特別な任務を持っていた。

 この部隊の一部は極めて特殊な人員より成っていた。一つの中隊はいくつかのアラブ、およびペルシア方言、例えばウルディ語、ヒンディ語、サンスクリット語などの数カ国語を流ちょうに話す者達で編成されていた。その中隊の多くの者達はそれらの地域(シリア、イラク、ペルシア、インド)で長い時間を過ごした者達であり、この部隊はそれらの地域に配備されることになっていたのである。他に非戦闘任務に就く中隊として印刷部隊、水質試験部隊があり、またブランデンブルク(コマンド)中隊も含まれていた。このブランデンブルク中隊は敵の軍服を着て敵戦線に浸透して破壊工作に従事したり、情報を集めたり、その他の混乱を引き起こすことになっていた。

 その他の中隊は上記の中隊よりは通常の部隊であり、また大部分を占めていた。すべての戦闘中隊はもし必要があれば他の戦闘中隊に異動できるように混ぜて訓練が行われていた。第288特殊部隊の残りの中隊は以下のようなものであった。

・歩兵中隊
・山岳歩兵中隊
・偵察中隊
・対空砲中隊
・警護小隊を伴った砲兵中隊
・対戦車砲中隊
・工兵中隊
・衛生中隊

 全部隊が移動にトラックを使用し、完全自動車化されていた。警護小隊にのみ、装軌化された装甲車もあった。偵察中隊は車輪の装甲車を持っていた。

 第288特殊部隊は、同様の第287特殊部隊が編成されて程なく編成され、両部隊共に最終的にはギリシアに送られてそこで、予期されるエジプトにおけるイギリスの破局を待つことになっていた。その破局が起こったならば両部隊はシリアへ配備され、そこからイラクへ、最後にはインドへと送られることになっていたのである。両部隊はイギリス植民地で反乱を煽り立て、油田を占有する地域住民の助けを受けるつもりであった。これはソ連に対する新たな南側面のルートとして計画されていた。

 この計画はドイツ軍がエジプトで停止して白紙に戻った。第287特殊部隊は対パルチザン作戦のためにユーゴスラビアへ送られ、第288特殊部隊は北アフリカへと送られた。

 この時第288特殊部隊は数カ国語を操る者達の部隊や印刷部隊その他の部分を置き去りにしてきており、メントン戦闘団と改名された。この戦闘グループはまた、DAKの必要を満たすためのより良い装備を持ったそれぞれ3個中隊ずつを持つ2個大隊に分けられた。一つめの大隊は歩兵(山岳、軽および偵察)より成っており、2つめのものは重装備(迫撃砲、対空砲、対戦車砲)を持つ大隊であった。この独立戦闘グループはエル・アゲイラの防御戦闘で第90(軽)師団に配属された。後にはビル・ハケイムとトブルクで卓越した戦いを見せた。1942年10月31日、この部隊はアフリカ装甲擲弾兵連隊へと再編成され、第164軽師団に配属された。そしてこの部隊は第164軽師団に配属されたままでDAKの最後の日まで、チュニジアで戦い続けたのであった。

 この部隊はイギリス軍の長距離砂漠挺身隊と似た発端で、同じく北アフリカに配備されたにも関わらず、初期に意図したような作戦に従事することはなかった。この部隊が長距離砂漠挺身隊といくらかやりあったとしても、それは他の偵察中隊のものと大差ないものとしてであった。この部隊が長距離砂漠挺身隊を追いかけて壊滅させる任務を受けたという証拠はほぼ存在しないのである。



 この後、第288特殊部隊の装備について説明が続くのですが、兵器面には私はそれほどまでには興味ないのでパスで……。


 『Tunisia II』で第164軽師団にはそれらしきユニットは見つかりませんでしたが、独立部隊として「Afrika」という自動車化歩兵連隊があるので、これが第288特殊部隊の編成替えされたものなんでしょうか。

 ↓『Tunisia II』のアフリカ自動車化歩兵連隊ユニット。

0008.jpg



 その他にも資料を探してみますと……。




 ↑の中の説明で、以下のように書かれていました。

 アフリカ向けには3輌のみ【III号?】突撃砲が作られ、第288特殊部隊に配属された。第288特殊部隊はもともと、極東【中東の間違い?】をドイツ軍が占領した時にその地域に送られるために編成された。この部隊は外国語能力や原油地帯の管理、文化理解のための訓練を受けた者達で構成されていた。
 ドイツ軍の東方への進撃が突然停止した時、第288特殊部隊はまだギリシアで訓練中であったが、その後DAKを支援するためにアフリカへと送られた。


 これもその後、その第288特殊部隊内のIII号突撃砲についての詳細が書かれていってますが、パスで。「原油地帯の管理」というのが興味深かったです。


 『German Special Forces of World War II』という本の中には、「ギリシアで南方地方での気候で訓練を受けた。」と書かれていました。なぜギリシアで訓練していたのかというと、気候の問題だったのですね。


 『Rommel's Desert War: The Life and Death of the Afrika Korps』という本には、「指揮官のオットー・メントンは第一次世界大戦時のロンメルの戦友で、ロンメルのことを「きみ」と呼べた数少ない人達のうちの一人であった。」と書かれていました。


 その他にもGoogle Booksで北アフリカ関連本で大量に資料が出てくるっぽいですが、きりがないのでこれぐらいで……。

ゲームマーケット神戸でOCS『Sicily II』「プリマソーレ橋」研究

 ゲームマーケット神戸に行ってきて、午前中サンセットブースで売り子をしておりました。

 私が持って行った中古品(GJやCMJ等)は午後に売れ残りを値下げをしたこともあり、全部売れてよかったです。新天地でがんばれー。

 また、私が事前に「会場でOCS『Sicily II』をプレイします」と言っていたらこかどさんが「じゃあ、『Sicily II』在庫持っていきます」ということで『Sicily II』を3つ持ってこられまして、うち2つは会場で売れていました(*^_^*)


 で、午後に来られていた下野守さんと一緒に、『Sicily II』の「プリマソーレ橋」シナリオの研究プレイをしていました。過去の研究プレイはOCS『Sicily II』シナリオ3「プリマソーレ橋」研究プレイ (2016/10/31)と、その前の状況説明がOCS『Sicily II』シナリオ3「プリマソーレ橋」セットアップ (2016/10/28)にあります。その時の研究プレイでは「サイの目が悪くダメ」というものでした(^_^;

 ゲムマ神戸での研究プレイですが、普段ダイス目の良い下野守さんがダイスを振ってたんですが、最初のものはダイス目が1足りないことが多く、昔のものに輪を掛けてダメな感じで戦闘フェイズで1つ目の戦闘をやってAL2が出たところで「もう無理!」と投了(^_^; やり直すことにしました。

 やり直すに当たって、1回目はまあ「穏当」くらいのプレイ指針だったのですが、2回目は「(攻勢ジャンキーとも言われる)ワニミさんだったらこうするだろう」ということを指針に研究プレイ。また色んなことを狙うのではなく選択と集中を心がけました。するとダイス目も「絶好調」とは言わないものの、ギリギリで結果を出すことが多く、アウグスタは1戦力の自動車化歩兵を突っ込ませると7戦力分のイタリア軍沿岸防衛ユニットが全部降伏し、空挺降下でも1ユニットは敵ユニットの上に降りてしまって全滅したものの、2ユニットは無事に降下に成功(風に流されて位置的にはあまり良くなかったですが)。

 その後もかなり突き詰めて考えて、だいぶ満足な成果を得ることができたと思います。

 ↓シナリオ上の第1ターン(キャンペーンでは第2ターン)先攻(連合軍)終了時。

スクリーンショット_160405_159

 移動モードでですがイギリス第50歩兵師団がフルステップでプリマソーレ橋を渡ってカターニアに接しています(まあ後攻ターンにDGにされるでしょうが、しかし橋頭堡は確保したわけです)。最前線にいた枢軸軍ユニット4つのうち3つを壊滅させ、残りは1ユニット+1専用トラックとなっています。

 ただ、数ユニットの戦闘機を除いてあらゆる航空ユニットや艦船砲撃力を消費してしまっていますが、しかし有利な第1ターン先攻のうちに結果を出しておくべきだろう、と。カターニアやその南西の枢軸軍部隊もDGにしています。


 自由配置の枢軸軍をどう置くかでも差異が出てきますが、頭を使って結果の出た楽しい研究プレイとなりました(*^_^*)

OCS『Case Blue』「世界の果て」第8~9ターン

 久方ぶりに尼崎会でのOCSプレイができました。「世界の果て」第8~9ターンです。

 ↓第8ターン(1942年9月1日ターン)終了時。

スクリーンショット_160405_157

 予告を受けていたんですが、ドイツ軍が東の鉄道線2本を押さえてしまいます。



 ↓第9ターン(1942年9月5日ターン)終了時。

スクリーンショット_160405_158

 ソ連軍側としては2本の鉄道線のうち、南側のものだけでも回復させるために努力すべきかと最初考えていたんですが、マップ南端から補給線が引けるのと、座り込んだドイツ軍部隊をどかせるのは難しいと思われるので、もう鉄道線を回復するのは諦めてマップ南端からの補給線のみで戦線を張ることにしました。

 ソ連軍司令部の南にドイツ軍部隊が入ってしまってますが、これは次のターンにオーバーランでなんとかなるのではないかな……。

 ワニミさんが新たに「こうではないか」と提唱されているのが、「SPがゼロ近くになるまで攻勢し、その後蓄積期……ではなく、LowとExhaustを駆使してある意味SPがマイナスになるところまで攻勢し、そしてそれらが部隊が死ぬようにして、その後蓄積……ではないか」という案で、もちろん仮説なんですが、私も「なるほど……」と思うところがあります。


 防御側としては前線に戦力を多めに置く頭でっかち「▼」型に守るのではなく、前線には少なめで後背地に重めに置く「▲」か、あるいは全体に平均的に置く「■」型に配分すべきなのかなぁ……と考えるところがありました。


OCS『Tunisia II』のルクレール将軍の部隊

 ここ2、3週間頭が働かないでいた間、思いついて北アフリカの戦いの指揮官や部隊に関して翻訳本から抜き出していくという作業をやってました。

 その中で、北アフリカにおける(自由)フランス軍部隊について、「おっ」と思う記述がありました。エル・アラメインからロンメルが退却し続け、トリポリをも放棄する頃の話です。

 その間、第三の部隊もトリポリに向っていた。ル・クレール将軍の率いる一個旅団の戦うフランス軍が、アフリカ中央部のチャド湖から次々とオアシスを奪取しながら驚異的な強行軍をつづけ、今や南からトリポリになだれこもうとしていたのだ。
『砂漠の戦争』P247


 リビアの南のチャドからフランス軍がトリポリにやってきていたのにも驚いたのですが、ルクレール将軍の部隊というのは、OCS『Tunisia II』でユニットになっていました。日本語ルールから抜き出してみます。

unit00055.jpg

(ちなみにこの「L フォース」の移動モードでの移動力は自動車化で16でした)


 ルクレール将軍について、手持ちの本で調べてみると、パリ解放の時のフランス第2機甲師団長だと。ああ~。パリ解放の時のフランス軍とかってのは何か読んだことがありますね……。北アフリカの時と比べてだいぶ部隊も立派になったということなのですね……。

 さらにとりあえずネット検索してみると、フランスの現代戦車「ルクレール」が出てきました。そうか、なんか聞いたことあるような気がしていたのは、ここからか……? しかし、戦車の名前にも採用されるほどにフランスではいい意味で有名なわけですね。

 日本語版Wikipediaでもルクレール将軍の記事は充実していました。北アフリカに関係するところを抜き出してみます。

 ロンドンでドゴール将軍と面会した後、熱帯アフリカとチャドの鎮撫を命じられ、任務に成功、1940年11月チャド軍司令官となった。1941年チャドから出撃してイタリア領リビア南部のオアシス都市クーフラ占領に成功し、同年8月准将心得を拝命した。1942年12月、3000のチャド軍[注:その多くはモロッコ人ラクダ部隊だった。]を率いてリビアに侵攻、1943年1月トリポリを占領して、エジプトから来た英軍と合流した。英軍総司令官バーナード・モントゴメリー元帥の指揮下の第8軍に編入され、チュニジア侵攻作戦に参加、同年5月には少将に昇進した。



 ネットで資料を探してみると、例えばLA PHILATÉLIE, TÉMOIN DE L'HISTOIREというページはフランス語ですが、地図とか記念切手とかの資料が?

 英語だと、『World War II: The Definitive Encyclopedia and Document Collection』という本には、「チャド湖からトリポリまで、2000マイル(約3219km)を39日間で踏破した。」とありました。

 『Watching Monty』という本には、トリポリに駆けつけたルクレール将軍がモントゴメリーに会った際、ルクレールはほこりまみれだったが非常に興奮していて、そのフランス語があまりに早口だったので、著者たち?はそれを翻訳できなかった……(で、適当なことをモントゴメリーに訳して伝えたふりをしてみててやばーな感じなところを、ちゃんと訳せる人が来て助かった)というようなことが書いてありました(^_^;

“微笑みのアルベルト”ケッセルリンク将軍の洋書を探してみました

 以前から、“微笑みのアルベルト”ケッセルリンク将軍に関して興味を持っていたのですが、今回ちょっと本気で、ケッセルリンク将軍に関する良書を洋書で探してみてました。

 というのは「アルベルト」という自転車を購入したからです!(おい)

 しかし、どうも「これ」というものが見つけられず……。どれもがどこかに問題点がある感じで……。






 オスプレイによる64ページほどの作品で、読みやすそうでいいのですが、書評によると「経歴を見る意味では役に立つが、ケッセルリンクの指揮については「楽観的」という分析以外には何もなくがっかりだ。今まで読んだオスプレイ本の中で最悪」とか……。








 ケッセルリンク自身による回想録。書評ではかなり誉められていて、けなす点としては脚注とかが完備してなくて読みにくいよ、とか? しかし回想録よりは分析的なものが読みたいのでその点で食指がどうも……。








 『第二次世界大戦』ブックスで良く見るケネス・マクセイによる本で、ケネス・マクセイの英文は『ベダ・フォム』で読みにくくて散々苦労したものの、この本はそこまでひどくはなさそうなんですが、書評によると「ケッセルリンクをベタ褒めしすぎで気持ち悪い。リサーチ面でも古すぎてダメ」とか……。指揮面に関する本なので、そういう意味ではテーマ的には良いのですが……。








 2015年に出た本で、ケッセルリンクが「偉大な指揮官」なのか、「戦争好きな戦争犯罪人」なのか? というテーマを最新のリサーチで研究した本のようです。リサーチ面においてもテーマ的にも良さそうなのですが、いかんせん値段が高すぎ……(T_T)








 ヒトラーの将軍9人を扱った本で、ケッセルリンクも扱われているのですが、出版年が戦後すぐくらいらしく、古すぎるっぽいのと、文が読みにくそう……。



 と、ここまで書いてみたところで、Ospreyのドイツ軍指揮官本を探してみましたら……。



 この2冊は関係があるのかないのか良く分からず、それぞれの本で誰が扱われているかの情報もなかなか分からなかったのですが、なんとか見つけ出しました。

 左側の本は「Rommel von Manstein Model Schoerner Rundstedt von Kleist Dietl Guderian Hube Ringel von Manteuffel Cruwell Eberbach Scherer Bayerlein Bake Niemack von Opplen-Bronikowski Remer von Gaza von Brese-Winiary Bremm Frantz Jahde」が扱われているらしく、右側の本は「Sepp Dietrich Karl Dönitz Heinz Guderian Albert Kesselring Günther von Kluge Bruno Lörzer Erich von Manstein Hasso von Manteuffel Walther Model Erwin Rommel Gerd von Rundstedt Kurt Student Hermann Balck Johannes Blaskowitz Fritz Bayerlein Fedor von Bock Ernst Busch Ewald von Kleist Wilhelm Ritter von Leeb Wilhelm List Ferdinand Schörner Erwin von Witzleben」が扱われているようです。

 右側の本でケッセルリンクが扱われているようで、「なかみ検索」で文を見てみた感じでも良さそうだったので、注文してみました。

 左側の本もいいかもですが、今は手を出さないでおこうと思います……(^_^;


OCS『Tunisia II』の「自由アラブ部隊」

 ここ2週間、調子が悪くて尼崎会をお休みさせてもらってます……(>_<)

 そんな中、夕食を食べながら『北アフリカのドイツ軍』というPANZER臨時増刊の写真集本を見ていたら、チュニジア戦におけるドイツ軍側のアラブ人部隊の写真とその説明(キャプション)を発見。




 で、それがユニットになっているかどうか見てみますと……ありました!(「FAL」というのは「Free Arabian Legion」の略)

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 戦力的にもAR的にもまあまあです。キャプションだと実戦には使えなかったのかのような感じで書いてあったのですが。

 チュニジアにおいてアラブ義勇兵によって構成された“Freies' Arabien(自由アラブ部隊)”が編成され、その兵力は約2000名、3コ大隊であった。彼らは有名なSonderverband 288(288特殊部隊)のアラブ語が話せるドイツ人将校、下士官らによって指揮されたが、正規の戦闘部隊としては訓練、装備も充分ではなく、降伏前の数週間にチュニス付近で陣地構築などの労働任務に従事していた。ホチキス機銃を載せたロバと共に進むアラブ兵達のユニフォームはフランス軍のもので、その白い腕章には“ドイツ軍と共に”とレタリングされている。
『北アフリカのドイツ軍』P94



 写真からでは「いかにもアラブ人」という感じはしない兵達です。


 第288特殊部隊は『Tunisia II』ではユニットになっていない……?(Sonderverband 288 - Axis Historyというページによると、第288特殊部隊は1942年10月31日(エル・アラメイン戦中)に第90軽師団の一部へと編成替えされたらしいので、それでかもです)


 ↓『DAK-II』の第288特殊部隊ユニット

unit00023_20170304193100a75.jpg

 第288特殊部隊について資料を探してみると、英語で読めるものとしてはLRDG -- Special / Elite Forces in North AfricaというページのKampfgruppe Mentonという箇所がこの部隊のことらしく、ある程度詳しく書かれていますが、調子が悪いので訳はまたの機会に……(T_T)


 実は、以前からやっている、部隊を調べていくやつでイタリア軍の「青年ファシスト師団(GGFF)」や、「国境守備部隊(GAF)」を次にやるつもりなのですが、頭が働かないので止まっているという……。

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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