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シュヴァルツェンベルク将軍について

 今回はオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍について。1813~14年の戦役で有名で、特に1814年の時には連合軍側の最高司令官でした。この時期のゲームには必ず出てくるはずです。


Karel Filip Schwarzenberg
 ↑英語版Wikipedia Karl Philipp, Prince of Schwarzenbergから


 今回、彼に興味を持った最初のきっかけは先ほどのエントリと同じ『ナポレオンとバイエルン』からでした(P85~86)。

 シュヴァルツェンベルク将軍がバイエルンに見事にだまされるという面白い部分があったのです。

 1805年のウルム・アウステルリッツ戦役が始まる前の話です。オーストリアは以前からの宿願であるバイエルン併合をもって対ナポレオン戦争を有利に運ぼうと、シュヴァルツェンベルクをバイエルンに派遣しました(本文では「元帥」となってますが、元帥になったのは1813年になってからっぽいですね)。

 ……オーストリアの陸軍元帥シュヴァルツェンベルク侯爵が百騎の軽騎兵および竜騎兵の先頭に立ってニンフェンブルクに現れた。兵士が宮殿を取り囲んでいる間にシュヴァルツェンベルクは【バイエルンの選帝侯である】マックス・ヨーゼフに皇帝フランツII世の手紙を渡し、また皇帝の名において、バイエルン軍を遅滞なくオーストリア軍に合流させ、ナポレオンに向かって進軍させること、中立はいかなる形でも認められないこと、もし逆らうのであれば武力が行使されるが、従うのであれば国の無傷は保証する、と要求した。


 選帝侯は翌日まで待ってくれるように頼み、翌日の夜にシュヴァルツェンベルクに曖昧な内容のメモを渡しました。

 シュヴァルツェンベルクは行間に隠された二重の意味を見逃し、ゴールに来たと信じた。


 このメモをシュヴァルツェンベルクから受け取ったバイエルン大臣は二重の意味を理解して、相手が楽観的な気分になるようにしむけました。そして3日後に、

ぼんやりとではあるが視野に入ったバイエルンとオーストリアの部隊の統合のあり方について話し合うことで合意し

たのです。
 約束の3日後、オーストリアに友好的であることで知られたバイエルンのノガローラ将軍が送られてきたのですが、

ノガローラのはっきりしない使命に不安になっていたシュヴァルツェンベルクは、翌【9月9日】朝マックス・ヨーゼフ【選帝侯】のメモを手にしたとき大変驚いた。それには突然の出立の理由は彼を襲った健康状態によるものとし、次の言葉で終わっていた。「ご機嫌よう、我が友よ。お暇なときに貴方を心から愛する者を思い出して下さい」。バイエルンの交渉使節が……シュヴァルツェンベルクとマックに単刀直入に、バイエルンの軍隊は合流せず、武装解除もしないこと、武器使用もあり得ると説明したとき、ようやく彼も目が覚めた。

 ……【バイエルンは】二重の罠をオーストリアに仕掛けた。一つには前向きの結果を期待させることによって集結しつつあるバイエルン軍の進軍を襲撃させないことであり、もう一つは会談の場所の選択によってマックは国境を越えてしまっており、それによってオーストリアが先制攻撃の汚名を被らなければならないように最初から仕組んだことであった。



 チャンドラーの『ナポレオン戦争』のこの部分のは私は持っていないので、『歴史群像』のナポレオン戦争の連載で当該部分を探したところ(122号P157)、

オーストリア軍は、9月13日に先手を打ってバイエルンへ侵入した。

という感じで書いてありました(他にもいくらかありますが省略)。『ナポレオンとバイエルン』における記述はまああくまでバイエルン側からの視点が強いものなのかもしれないですが、詳しい話として面白いですねー。


 シュヴァルツェンベルクに改めて興味を持ったので、日本語版Wikipediaを探してみたのですがないようで、それへの不満から作られた「Biography: シュヴァルツェンベルク元帥」というページがありました(^_^; このページから目次ページに戻ると、ウォーゲーマーでもあるらしい作者の方の他の軍事関係のページへのリンクがあり、アイラウ会戦の騎兵のページとかバルクライ・ド・トーリィのページとかも含め、印刷させてもらいました。またじっくり読もうと思います。


 でもって、定番の『Dictionary of the Napoleonic Wars』と『Who was who in the Napoleonic Wars』のシュヴァルツェンベルクの項目を訳してみました。

Schwarzenberg, Field Marshal Karl Philip, Prince(1771-1820)
 ウィーンで生まれ、1788年にオーストリア帝国軍に入隊。17世紀後半に家名の高まったフランケン地方の一族の子孫であったこの公子はまずトルコに対する戦役で名を上げ、その後オーストリア領ネーデルラントでフランス軍のデュムーリエ、そしてピシュグリュの部隊を相手に戦った。1796年に少将となり、1800年から師団を指揮。1805年にはウルムにおけるマックの絶望的な被包囲下の軍から脱出し、生き残った者達を再結集した。1806~1809年にかけてサンクト・ペテルブルクでオーストリア公使として務め、ワグラムの戦いとシェーンブルン和約の後、パリへと遣わされてマリー・ルイーズとナポレオンとの結婚の交渉を補佐した。1812年にはロシア遠征における大陸軍の最右翼に配されたオーストリア軍団の指揮を執り、難局を事前に予測して多数の兵士を連れ帰り、ポーランドへと退却した。1813年8月にオーストリアがフランスに対して宣戦布告すると、彼は第6次対仏大同盟の連合軍における最高司令官に任命された。ドレスデンで敗北した後、ライプツィヒでの勝利をもたらし、翌年のフランス侵攻の際にはボヘミア方面軍を率いて幾度かの勝利を収めた。1815年6月にはオーストリア軍を率いて再度ライン川を越えようとするところであったが、彼が大軍を率いて駆けつける前にワーテルローの戦いで決着がついた。高等軍事評議会の一員に任命された後、1817年にまひ状態となり、その3年後に亡くなった。対仏大同盟連合軍の指揮官として彼は大きな諸問題に直面したが、どんな時にもその共通の利益を維持することをからくもやり遂げたのであった。
『Dictionary of the Napoleonic Wars』


Schwarzenberg, Field Marshal Karl Philipp, Prince zu (1771-1820)
 彼は、1670年に相当な地位を得たフランケン地方を起源とする古く高名な一族の出身であり、この一族の中には帝国のAdolf von Schwarzenberg(1547-1600)将軍や、ルターの友人で法学者であったJohann, Freiherr von Schwarzenberg und Hohenlandsberg(1463-1528)も含まれている。カールは1788年にオーストリア軍に入隊しトルコ軍を相手に従軍したが、最初に誰もが認める活躍をしたのは1794年のネーデルラントにおいてであった。その若さにも関わらず、彼はランドルシーの解囲を試みようとするフランス軍を撃退するための連合軍騎兵部隊の指揮官に任命され、ル・カトー=カンブレシやボーモンにおける戦闘(4月26日)で目覚ましい成功を収め、その功績を称えてマリア・テレジア勲章を授けられた。アンベルクとヴュルツブルクで従軍した後、彼は1799年に中将の位を得て、ホーエンリンデンの戦いにおける敗北からオーストリア軍右翼を救い、1805年には師団指揮官としてウルムで包囲されたマック麾下の部隊から脱出した一群の中にいた。1808年にロシア皇帝への大使として遣わされ、帰国してワグラムで騎兵師団を指揮し、和平後はマリー・ルイーズとナポレオンとの結婚の交渉のためにパリへと送られた。Rue de Montblancにある彼の自宅のある舞踏会で火事が起きて多数の客が亡くなったが、その中に彼の義理の姉妹であるポーリーヌ・シュヴァルツェンベルクもいた。彼女は娘を探して火の中に急いで戻ろうとした時に落ちてきた床によって亡くなったのだった(ポーリーヌの娘はアルフレッド・ヴィンディシュグレーツ(1787-1862)の妻となり、1848年のプラハでの革命騒ぎの時に殺された)。ナポレオンによって高く評価されたシュヴァルツェンベルクは1812年のロシア戦役においてオーストリア予備軍団の指揮を執った。元帥となり、1813年に彼はボヘミア方面軍の指揮官に任命される。1813~14年の戦役で彼は最高司令官となったが、そこでかなりの優秀さと共に、非難される臆病さをも示した。彼の職務は様々な同盟国間の意見の衝突によって困難なものとなり、特にライプツィヒにおいては3人の君主が同席したことが彼の軍事行動を曇らせることとなった。戦後は大きな名誉が与えられ、宮廷軍事局の長に任命されたが、1817年に脳梗塞で倒れた後は身体の一部に麻痺が残り、彼の最も偉大な功績であったライプツィヒを訪問中に再度の発作が起こって1820年10月15日に亡くなった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』


 訳していてまず思ったのは、シュヴァルツェンベルクの生まれた年の1771年というのは私の生年である1971年のちょうど200年前なんですよね。で、彼が最高司令官であった1814年というのは年齢的に43歳という年で、私だったらその年齢で3君主の調整役しながら最高司令官とか無理だし、イヤだなと思いました(^_^; そいでもって彼は1817年の46歳の時に脳梗塞を起こして3年後に亡くなるわけですね。ううーむ、身につまされる……。


 それから、『ライプチヒ戦場哀話』には会戦前日にシュヴァルツェンベルクが妻にあてて書いた手紙が載っているのですが、その前段の、将軍に関する部分を引用してみます(P19~20)。

 シュヴァルツェンブルク侯(1771-1820)という人は、1813年以来、同盟軍の最高司令官の地位に就いていたのだが、そんな彼が、今日では、たとえばブリュッハー、グナイゼナウ、あるいはヨルクのような将軍ほどには知名度が高くはない。どうしてであろうか?

 一つには、彼は名目上は最高司令官だったとはいえ、実際は、しばしば、ロシアのアレキサンドル1世、オーストリーのフランツ1世、そしてプロイセンのヴィルヘルム3世に干渉され、ひいてはまた、これらの君主の軍事顧問らにまで干渉されたことである。(ブリュッハーは、この会戦での勝利のあとで、シュヴァルツェンブルクに捧げた乾杯の辞のなかで、「お三方の君主を司令部に擁しつつ、それでも敵を屈服させた総司令官殿に捧げます」と述べている。)

 いま一つには、この人は、たしかに、たとえばグナイゼナウのような猛将に匹敵する資質が欠けていたといえよう。それだけに、この最高司令官があのような難局を切り抜け、しかも、うぬぼれないで謙虚であったことは、まことに見上げたものである。

 それはともかくとして、以下に載せる彼の手紙は、この貴族と夫人とが固いきずなで結ばれていたことを物語っているばかりでなく、きわめて高潔で誠実な心情をも示している。- ちなみに、この時機での総参謀長は、軍隊行進曲でも有名になったラデツキ(1766-1858)であった。

 後日談になるが、シュヴァルツェンブルクは、1820年に、中風のために半身不随になった身で、ライプチヒ近郊の古戦場を訪れた。その滞在中に病気が再発して、ついに、その生涯で最大の勝利を得た場所で永眠したのだ。遺体がその故郷に移送されるに際しては、ライプチヒ市も、おごそかな式をもって弔意を示したのであった。……




 他にも色々資料はあるでしょうけども、アクセスしやすくまとまっているのはこれくらい……?

 最後に、全訳してあって検索とチェックが容易な『The Hussar General』から。色々と面白い話があっていいです。

 シュヴァルツェンベルクは【1813年】8月17日にバルクライから総司令官の任を引き継ぎ、慎重であまりにも几帳面すぎたが、彼は王達の扱いが巧妙であることを見せつけた。
-P126辺り


 だが連合軍の方でも、直近の成功にも関わらず、より大きな反目の様相を見せていた。ベルナドット、シュヴァルツェンベルク、アレクサンドル皇帝、フリードリヒ・ヴィルヘルム、ブリュッヒャー ー の全員がお互いに、その部下達と共に反目していたのである。フリードリヒ・ヴィルヘルムは依然としてベルリンを心配し、その地域における行動を主張しており、その要請はビューローによって極めて優れた才気と勇敢さによって答えられた【6月6日のルッカウの戦いのことだと思われます。ビューロー将軍について、まとめを参照】。だがビューローは、ベルナドットの考え方によって絶えず邪魔されていることに気づくことになった。すぐにブリュッヒャーも、この皇太子による同様の躊躇を経験することになる。だがベルナドットと、連合軍総司令官であるシュヴァルツェンベルクは、追撃がおこなわれるべきであるという一般戦略には同意し続けていた。これはシュヴァルツェンベルクの参謀長であるヨーゼフ・ラデツキー将軍によって描かれたものであり、「不適当な苦闘は避け、敵を疲れさせ、敵の弱まった部分を優越した戦力で攻撃を挑み、全体として敵を打ち破る」というものであった。
 原則として、そのような戦略はよさそうに思える。ところが実際にやってみると、その達成は極端に困難であることが分かり、特にシュヴァルツェンベルクは様々な王侯や国際的な利害からの実に多くの異なった圧力の影響下にあったのだった。ブリュッヒャーは、自身はこの連合軍総司令官に対して不賛成でありながら、シュヴァルツェンベルクの困難な状況を充分理解していた。というのは、後に彼は「司令部に3人もの王侯を抱えながら、それでもなんとかして勝利を勝ち取った最高司令官」への乾杯を提案したのだった。王侯のうちにの一人はオーストリア皇帝フランツで、シュヴァルツェンベルクとの関係は困難がなかったが、他の2人は彼に絶えず心配を与え続けた。
「ロシア皇帝は良い人だが弱く、」シュヴァルツェンベルクは書いている。「(プロイセン)王はおおざっぱで下品で、思いやりがなく、私にとっては、その哀れで勇敢なプロイセン人達が愉快だと思うのと同じくらい不快であった。」

 ……
 フリードリヒ・ヴィルヘルムの副官であったクネセベックは、連合軍司令部の混乱をこのように描いている。

「ここで我々が何をなすべきであったかを語るのは大変に難しい。なぜならば、我々は戦争の会議を仕上げたことが一度もなかったからである。シュヴァルツェンベルクは良識のある人であったが、彼は君主達の信頼や、自分自身への信頼を持っていなかった。それゆえ、延々と議論が続いた。ロシア軍の将軍達は命令に従おうとしなかった。皇帝は時折、自分自身で命令を出した。その結果、ある命令の後に別の命令が出され、誰も、誰が料理人で誰が執事であるのかを知らなかった。」
-P136辺り


 ラデツキー将軍による戦略というのは、いわゆる「ライヘンバッハ・プラン」のことですね。ライヘンバッハ・プランの立案者についてはR/Dさんの1813年7月12日 トラッヘンベルクに詳しく、非常に興味深いです。『The Hussar General』は「文学創作的な点が多すぎて、事実とフィクションの境界が曖昧」という評価(→ブリュッヒャー本の評価を参照)で、ブリュッヒャーを主題としているからにはシャルンホルストをライヘンバッハ・プランの立案者にしてしまいそうな感じですが、意外でした(^_^;

 ライプツィヒは65km南に位置していた。ブリュッヒャーはナポレオンの態勢が整っていない状態にしており、それに24時間以内にベルナドットがエルベ川を渡ってブリュッヒャーの右側面に位置する。彼らの軍勢を合わせれば総計140,000名にも達した。ライプツィヒの南ではシュヴァルツェンベルクの連合軍主力が220,000名で前進している。10月5日には先頭の部隊がライプツィヒから78kmのZwickauに到着したが、その最後尾は70km後方のKomatauまで伸びていた。この連合軍の環はブリュッヒャーとベルナドットが5日に南へ進軍し始めた時に確実に狭まり、ブリュッヒャーはMulde川の右岸を、ベルナドットは左岸を進んだ。だがすでにこの2人の指揮官の間での不一致が起こっていた。というのは両方ともが、他方の軍がMulde川を渡るべきだと主張したのである。主力軍からの知らせもブリュッヒャーを怒らせた。シュヴァルツェンベルクはあまりにもゆっくりとした前進で、ナポレオンに攻撃のチャンスを与えたのである。
-P141辺り


 【1814年戦役の作戦計画について】 スイスの迂回路を通るという軍事的根拠は乏しいものに見えた。このルートはラングルの高い高地へのアクセスを与えるものであり、ラングル自体の周辺からいくつもの大河川が発していた。この計画の提案者は、軍がこれらの川を渡る時、その川が発する辺りで渡った方が、下流で渡るよりもより容易であると主張した。ラングルの高地は、フランス国内戦役における「指揮のための場所」との言い回しをされたが、この計画への批判者達にとってはその様な専門用語は、ナポレオン戦争の発展によって時代遅れとなってしまっている戦争方法であるように感じられた。例えば、クラウゼヴィッツは、大量動員における新しい柔軟な戦争形式よりも「代数的な行動」を信じるような古い方法論的な将軍を非難している。クラウゼヴィッツが「軍事的博学の聖遺物」を崇拝するそれらの人々を批判する時、彼は恐らくシュヴァルツェンベルクのことを念頭に置いている。クラウゼヴィッツの教育に欠けたブリュッヒャーは、自分自身のことをもっと力強い方法で表現した。彼はラングル高地を取ることで彼が見ることのできる唯一の利点は、それはまたフランスの水源にもなっているわけだが、もし彼がその頂に立って排尿したとしたら、半分は地中海に注ぎ、半分は大西洋に注ぐだろうことだ、と言った。

 ……

 それゆえ、ブリュッヒャーと彼の支持者達は、その軍事的目標 ー 敵主力の撃滅 ー が最初になされるべきであり、それは政治上の配慮よりも優先されるのだとさえ信じていた。だが、シュヴァルツェンベルクは、大勢の国王達や大臣達や政治的助言者達に囲まれて、それらの他の政治的要素を回避するチャンスを失っていたのであった。

「私が耐えなければならないものは、本当に非人間的なものであった。」と、シュヴァルツェンベルクはいつものおだやかな態度ではあったが、大声で言った。
「私は愚かな人々や、あらゆる種類の間抜け達や、頭がおかしい計画者達や、陰謀者達や、馬鹿者達、大口をたたく者達に囲まれていた……私はかなりの頻度で、私は彼らの重みでつぶれてしまうのではないかと思った。」
-P171辺り


 ブリュッヒャーとグナイゼナウは激しく不同意であった。
「もし主力軍が接合に効果を及ぼせるほど充分に遠くまで前進したなら、」ブリュッヒャーはシュヴァルツェンベルクに書いている。
「我々は絶対的に決定的な打撃を与えるのに充分なほど強力になるに違いないと私は考えている。」
 だが、その主力軍はラングルで無駄に過ごしていた。シュヴァルツェンベルクは血気にはやるプロイセン元帥と、それに負けず劣らず性急な彼の参謀長を罵った。彼は妻に向けて怒りの手紙を書いている。

「ブリュッヒャーと、その上にグナイゼナウは……戦争の一つ一つのルールすべてを足下に踏みにじるような、完全に子供じみた怒りで、パリへの進軍を強く要求している。ChalonsからNancyへの街道を守る為に相当の部隊を置くこともなく、彼らは狂った様にBrienneへ突進しているのだ。彼らの後方と彼らの側面に関わらず、彼らはパレ・ロワイヤルでの【plan parties fines?】以外の何もしていない。それは、このような重要な瞬間にあっては、本当に浅はかなことだ!」

 ブリュッヒャーとグナイゼナウは、戦争のルールを曲げることの方を好み、シュヴァルツェンベルクの教本を固守する厳正さの方を疑わしく思い続けていたのである。さらに言えば、彼らは後方を無視するというよりはむしろ、彼らの為に主力軍がその機能を果たしてくれることを当てにしていたのである。だが、ラングルでの議論は致命的に重要なほぼ2週間の間続いた。それで、ブリュッヒャーはChalonsへと押し進み続けたのではあるが、彼の前進には支援がともなっていなかった。
-P176【ライン川渡河の辺り】


 シュヴァルツェンベルクは行動を起こさなかった。その代わりに彼はブリュッヒャーの攻勢主義を批判し続けた。

「我が老ブリュッヒャーはあまりにもまた再びパレ・ロワイヤルを望みすぎており(彼はその日のうちに妻に向けて書いている)、目の前の敵が確かに弱かったのだとしても、敵は彼の側面にもいるのだということを考えることなしに、狂った様に前進し続けているのだ。彼が戦力を放縦にもてあそぶことが彼の破滅に繋がらなかったとしたら、それはまさに奇跡だろう。」

 ブリュッヒャーを孤立無援のままに放っておき、連合軍部隊を分割するということを通してより多くの戦力の喪失をもたらしたという事に関してシュヴァルツェンベルクは罪を負ってはいたものの、彼の批判にもいくばくかの正当性があった。ブリュッヒャーはいつも通りに、戦う為に前進することを決めたのだった。特に、捕虜としたあるフランス人が彼に、ナポレオンは今やパリを守る為に首都へと引き返したということを保証した時に。
-P182辺り【6日間戦役の辺り】


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大量動員の軍隊は外国を犠牲にしてのみ戦争ができる

 『ナポレオンとバイエルン』をちょっとずつ読んでいってます。

 フランス革命戦争の中で翻弄されるバイエルンのところで、非常に印象に残る部分がありました。

 1796年にバイエルンに対して進軍したフランスが和約の条件として多額の占領費分担を負わせる条約を結んだところの話です。

 これはフランス軍の敵国におけるまったく典型的なやり方であった。というのは共和国の軍事的優位は一般兵役義務により国民戦場に狩り出す「大量動員」の巨大な軍隊に依存しているが、それを自力で維持するのはまったく不可能だったからである。フランスの将軍たちは占領費分担金を取り立てることができる外国でだけ戦争を遂行することができた。個々の兵士も指導者のお手本に見習って振る舞った。共和国の速成の巨大軍隊は必要に迫られて従来の兵舎生活を諦め、隊を田野に宿営させた。このことは軍隊に優れた機動性を与え、将軍たちは従来の戦法とは異なる柔軟な作戦を行うことができた。しかしこの新しい、しかしずっと以前にはそうであったシステムは隊の規律維持にはまったく役立たず、特に市民を困らせた。バッタの大群のように革命の旗手たちは徴発する場所を見つけるため移動し、分担金を巻き上げた。正規の軍隊というよりは盗賊団に似た共和国の兵士の姿は住民を不安と恐怖に陥れるのにふさわしかった。
『ナポレオンとバイエルン』P27



 こういうシステム面の話には大変興味があります。

 似たような話を他の本やウェブ上で見たことがないかと思ってちょこっと探したところ、R/Dさんのフランス革命戦争の「背景」の「軍国主義」のページにありました。

 そこだけ引用してみます。

 Paddy Griffithは革命期の大量動員によって成り立った巨大な軍隊が、戦争を再生産する原因になったと見ている。あまりに数の多い軍を養うことができないフランス政府は、軍自身が自らを扶養することを求めた。つまり、「現地調達」という名の略奪をするよう仕向けたのだ。そのためには軍隊は国境外への侵攻を続けるしかなかった。国内で略奪はできないし、国外でも一定期間軍隊が駐留した場所はやがて経済的に力尽きて軍隊を養えなくなった。軍隊が存在し続けるためには、新たな戦争を立て続けに起こし、次々と戦場を拡大するより他になかったのだ。戦争を終わらせることは、財政の均衡維持のために軍隊の動員を解除することを意味しており、それは失業と国内の分裂と混乱につながることが明らかだった。

 戦争のために軍隊が必要になり、その軍隊が今度は戦争を必要とする。そうした循環に巻き込まれたフランスは「現地調達」ができる地域を求めてはるか彼方まで遠征し、挙句の果てにロシアの奥地まで出かけて行って力尽きた。ここでは戦争そのものが目的と化してしまうシステムの存在が窺える。



 Paddy Griffithという人物が挙がっていることに関してですが、Amazon上で見られる彼の著作のページの中の、『The Art of War of Revolutionary France, 1789-1802』にそういうことが書かれているのだと思います。ってか、彼の著作の『French Napoleonic Infantry Tactics 1792-1815』という本を私持ってました(^_^;(が、私は詳細な歩兵戦術とかには興味があまりなかったみたいで、積ん読状態になってます)。

 『French Napoleonic Infantry Tactics 1792-1815』の著者紹介の文を読んでみると、戦術面に関する多数の著作がある一方でウォーゲームもやっているとのこと。実際、実際、Amazonの著作のページの最後にはナポレオニックミニチュアゲームに関する本がありました。





ウェリントン公の人となり

 『Children at the Battle of Waterloo』の読み直しは大して進んでいない(体調悪くて読めませんでしたし)のですが、ウェリントン公に関して非常に興味深いと思った記述があったのでそれを。

 カトル・ブラの戦いの前に、彼が兵士達(やその妻と子どもたち)の前を馬に乗って通り過ぎる時の描写です。

 【ウェリントン】公爵は兵士達が彼を歓呼するのを好まなかったが、兵士達は彼が通り過ぎる時に立ち上がって敬意を表した。【兵士の】ジョン・アドウィックは【6歳になる娘の】メアリーを持ち上げ、メアリーがこの偉大な人物が馬上で姿勢良くぴしっとしている様子が見えるようにした。
『Children at the Battle of Waterloo』17%

 「歓呼されるのを好まなかった」というのが非常に面白く感じました。この本がどれくらい信用できるかは良く分からないですが、少なくとも良く調べてあるという感想は持つので、なんらかの資料にそう書いてあるのだと思います。


 また、この記述もなんか面白かったです(^_^; カトル・ブラの戦いの終わりの頃。

 夕刻6:30に、聞きなじみのあるラッパの合図が聞こえた。前進の合図だった。メアリーでさえもが、ウェリントンは勝利を手中にした時でなければ決して前進しないということを知っていた。
『Children at the Battle of Waterloo』19%

というのは、ウェリントンは「守って勝つ」タイプの将軍だからでしょうけども……。


 他の探しやすそうな本でもウェリントン公についての記述を調べてみました。まずは『Waterloo:Companion』。

 彼はまた馬のゼーゼーという咳にもたとえられるような特有の笑い方をし、一度でもそれを聞いた者は決して忘れられなかった。
『Waterloo:Companion』P92



 ↓こういう感じでしょうか?(^_^; ゲームでウェリントン公の立場になる人はぜひマネしてみて下さい(おい)。





 ナポレオンは彼の兵士達に熱狂的に好かれ、あがめられ、崇拝されていた。それに対して、ウェリントンは兵士達に尊敬されていた。彼の兵士達は彼の将軍としての能力に最大限の信頼を置いていた。戦いの最中に危機的な状況に陥った時に、煙を通して彼らのよく見知ったウェリントンの横顔が見えたならば、無意識のうちに、すべてが好転し始めるのだった。しかし、彼が近づいてきた時の平均的な中隊の反応というのは、帽子を振って「公爵万歳!」と叫ぶというものよりは、一軍曹が「しっ! お前らの前に……公爵がいるぞ」とささやくというものだった。彼は厳格であり、あまり人を寄せ付けず、冷たい感じで、高飛車で、あまり人を褒めなかった。例えばワーテルローでは彼は会戦後に、Colonel Colbourneの勇敢な行為と、第52【歩兵連隊?】が親衛隊を撃退した腕前に関して言及することをしなかった。ナポレオンが賞賛、報奨、名誉を与えることに関して物惜しみをしなかったのに対して、ウェリントンは反対の極の方向に過ちを犯していたと言えるだろう。後にウェリントンは、「今までにもっとこうできただろうに、という事はありますか?」と尋ねられて答えた。「そうですね。私はもっと人を褒めるべきでした。」

 砲火の下での彼の勇敢さと冷静さに関しては、まったく疑いを差し挟む余地はない。彼の危険な状況における冷静さと、動じなさは、夕方の早い時間にラ・エイ・サントが落ちた時にもはっきりと示された。Ompteda将軍が幹線道路近くで撃たれて死亡し、De Lancey(ウェリントンの主計総監であった)が至近距離での大砲で致命傷を負い、同様に彼の最も信頼する副官であり、かつ個人的な友人でもあったSir Alexander Gordonが右翼に行っている間にオレンジ公とAlten将軍の両名が倒れた。残っている幕僚たちが叫び声でウェリントンに命令を求めた時、彼はまったく表情を変えずに言った。「最後の一人になるまで断固として立ち続けよ。それ以外に命令はない。」
『Waterloo:Companion』P94





 人物の逸話に関する本を買ってあったのを見つけたので、それらからも(特に面白そう?なのだけ)。

 ワーテルローでナポレオンを破ったウェリントン公は約束の時間をきちんと守るので知られていたが、彼はいつも時計を六つも持ち歩いていた。
『西洋人物こばなし辞典』P33


 ウェリントンは頑固一徹で、あまり兵士たちに好かれていなかった。あるとき運河に落ち、一人の兵士に助けてもらったが、兵士はこのことを誰にも話さないでもらいたいと頼んだ。そのわけはウェリントンを助けたことが知れると、仲間たちに運河に投げ込まれるのではないかと思ったからであった。

 ウェリントンは脚部をズボンの下に入れてはく足首の上までくるゆるい長靴を愛用したが、これがノージーというあだ名の由来となる大きな鼻とともに、彼のトレードマークとなった。今ではウェリントン(ブーツ)というのは広く長靴を表わすことばとして使われる。

 ウェリントンの部下の兵士にトマス=アトキンズという男がいたが、この兵士が勇敢な戦闘ののち致命傷を受けた。ウェリントンはこの人物の名を忘れず、その後国務大臣として陸軍法規に兵士の代表名としてこれを使うことに決めた。これ以後イギリスの陸軍兵士は、あだ名としてトミー=アトキンズまたはトミーとよばれている。
『世界人物逸話大辞典』P133


 運河の話が一番面白いですね(^_^;

 「トミー」の逸話も面白いですが、英語版Wikipediaの「Tommy Atkins」によると、あくまで複数ある説のうちの一つのようです。またその戦闘というのは、ナポレオン戦争期間中の話ではなく、1794年のベルギー・オランダ戦線におけるボクステルの戦いというのの中での話だそうです。

OCS『Case Blue』「チル川の戦い」シナリオ

 先日のミドルアース大阪で、OCS『Case Blue』の「チル川の戦い」シナリオをワニミさんとプレイしました。

 『Case Blue』はフルマップ9.5枚のとんでもないビッグゲームですが、この「チル川の戦い」シナリオは非常に小さいシナリオです。『Enemy at the Gates』にも入っているシナリオですが私はそちらは未プレイ。『Case Blue』には最初からは入っておらず、ネット上でシナリオが提供されています。OCSスターターガイドの最後のところで、OCS入門用シナリオのいの一番に挙げられているシナリオでもあります。

Case Blueの下から3行目↓
Chir Battles for Case Blue

 その下には冬の嵐作戦の『Case Blue』用シナリオがありますね……。


 ↓セットアップ時。

スクリーンショット_160405_096

 ウラヌス作戦でスターリングラード包囲環が完成したものの、ドイツ軍側からの解囲作戦があると見越していたソ連軍は、解囲作戦の攻勢発起点を少しでも西側へずらすために、このチル川の戦線でさらなる小規模の攻勢に出た……そうです。

 緑の○がそれぞれの増援の補給が湧いてくるヘクスで、赤い○(モロゾフスク)が勝利条件ヘクスです。『Enemy at the Gates』では補給が湧いてくるヘクスを踏めば終わってしまうという秘孔となっていたそうですが、この『Case Blue』上のシナリオでは「補給が湧くヘクスは踏むべきではない(should not)」と指定されています(^_^;

 シナリオ開始時ですでにソ連軍の第1戦車軍団が少し食い込んでますが、その後背地は湿地で補給が通しにくく、北へ延びる道路にはまだドイツ空軍歩兵師団が頑張っていてソ連軍側はなかなかつらい……。史実ではソ連軍は何度も攻勢を実行したものの、南にいるドイツ軍第11装甲師団にぼこぼこにやられたそうです。

 私がソ連軍で、最初慎重にドイツ空軍歩兵師団を取り除こうとしてみたのですが、取り除けはしましたがまあこのやり方ではどうしようもないかな、と再度セットアップしなおして再挑戦。


 ↓再挑戦プレイの途中の様子。

スクリーンショット_160405_097

 赤い矢印のようにして、ソ連軍にとっての予備軍団となっていた第5機械化軍団をモロゾフスクに突進させて占領。すると枢軸軍も(勝利条件もですが、ここを失うと一般補給が届かなくなるので)やむを得ずモロゾフスクを移動フェイズ中にオーバーランを繰り返して奪還。

 しかし次のターンでも再度ソ連軍がモロゾフスクに突っ込み、枢軸が奪還。その後、私が「大丈夫かな」と思っていて開けていた戦線の穴から黒い矢印のようにして枢軸軍が中央を分断し、ソ連軍は半分が被包囲みたいになると同時に、モロゾフスクへの突進に失敗しつづけて終了……という感じとなりました。


 「ショック戦」という意味では最初のプレイとの差異が面白かったのですが、しかし「モロゾフスクを持っていたら勝ち」というのは「モロゾフスクを占領し、かつそこまでソ連軍の一般補給が通じていなければならない」という風に解釈した方がより良いように思いました。『Enemy at the Gates』のリトルサターン2枚マップシナリオでも、枢軸軍はモロゾフスクとタチンスカヤを大兵力で落ちないようにすれば勝利するという解釈がありましたけども、一般補給が通じないのはダメと解釈した方がいいような……。

 あと、この戦いはニジネ・チルスカヤを巡る戦いという側面もあったらしいので、ニジネ・チルスカヤにも勝利得点を配するべきではないかという意見もありました。そうすれば、オレンジ色の矢印のように史実通りの攻勢ラインの方が現実的になるような気もします。

 OCSのシナリオの勝利条件設定はちと豪快すぎるきらいがあり、プレイにおいて苦慮します(^_^; 「長いキャンペーンの一部を戦っているようにプレイせよ」と考えて勝利条件は自分らで判断するという風にした方がいいかもと思いますが、しかしこの方法は曖昧ですね(^_^;

 勝利条件設定をうまくやるために再戦……! とかも興味あるところですが、手間は手間なので、「自分らで判定」の方がいいですかねー。

OCS『Case Blue』のマップ

 風邪の症状はほとんどないのに、なぜか思考力がない状態が長く続いております……(T_T) 先週はまじやばいくらいで、ブログも更新できませんでした。まだちょっとつらいのですが、なんとか。

 花粉症の時の目のかゆさも少しあるので、もしかして花粉症とか……?


 それはともかく、先日のミドルアース大阪に行った時に、初めて『Case Blue』のケースブルー部分(フルマップ4枚)のマップを広げてみましたので、その写真を。

スクリーンショット_160405_095

 広げたままにして周囲の反応を楽しもうと思っていたのですが、RPG部の参加者が多くて早々に片付けざるを得ず残念でした(^_^;




 ↓参考に、これまでのOCSヨーロッパ地図から。ある程度『Enemy at the Gates』部分とかぶってます。

OCSヨーロッパ地図1860




 ↓同エントリからこれも参考に。

pic1855448_md.jpg




 ↓VASSALでキャプチャしてみました。クリックすればある程度大きく表示できます。

スクリーンショット_160405_098

関西でOCSを始める人が急増!?

 誇大広告です(^_^; が、新規で2人の方が、1月からOCSをやってみようと思っていると先日ミドルアース大阪でお聞きしました。さらにもうお一人、昔からOCSをやっている方も参加されるということでした。

 そこらへん受けまして、尼崎会(拙宅)でもOCSインストの機会を設けていこうと思いますし、またゲーム会でもミニシナリオをやっていく予定ですので、興味のある方はお声がけ下さい。

 また、予定に関してはあげていくつもりです。


 あと、12月18日に和泉歴史研究会に行くと先日書いてましたが、山科に行くことになりました。和泉へ行く機会も楽しみにしているので、またの機会によろしくお願いします!


 インスト用シナリオですが、とりあえず『Sicily II』の「シチリア島西部」がいいかなと思ってます。ただし、艦船関係のルールは入らない方が良いでしょうから、その方向で。

OCS『Sicily II』シナリオ4「メッシーナへの前進」3回目AAR

 体調が悪くてOCSプレイが進んでいなかったのですが、久しぶりにプレイできました。


CIMG3948.jpg

 ↑第3ターン(連合軍)終了時。

 このターン連合軍は、東岸(の内陸部)と、中央山地での攻勢を意図してました。砲撃をやりまくってこれは当たりまくったのですが、東岸での緑の○に対する攻撃は失敗。中央山地での赤い○2ヶ所の攻撃は損害を出しつつも成功し、進みました。



CIMG3949.jpg

 ↑第3ターンの損害。


 「このシナリオはここらへんでとりあえずいいかな」ということでその後総評してました。戦力の配分とか、攻撃側の地形の効用とか、反撃の効用とか……。



 で、次はシナリオ5「ハスキー作戦」をやってみようかということで、セットアップしてました。ただしキャンペーン的にプレイするのではなく、枢軸軍がどれくらい反撃できるかやってみるという感じの予定です。


 ↓セットアップ全体図。

CIMG3950.jpg


 ↓上陸地点のアップ。

CIMG3951.jpg

 赤い○を付けたところが上陸地点および空挺降下地点です。

 一回の上陸作戦としてはノルマンディ上陸作戦よりも大規模だったそうですが、ゲーム処理的には大したことない印象です。でも第2ターンにも上陸や空挺降下があるでしょうから、そちらをどうするかが大変かな……?

 艦艇の配置を考えたくらいで、これ以降はまた今度ということにしました。


 昼飯を食べに車で外に出たのですが、大規模ショッピングモールの近辺を2ヶ所ほど通ったらどちらも駐車待ちの車で大渋滞! 「OCSを家でやっていればもっと幸せだろうに……」「お前らOCSを知らんのだろう!」というようなことを車の中で話してましたが、実際のところ単なる自虐でしかなかった……(^_^;



 今後のOCSの予定ですが、ゲーム会が開催されている日にはそっちに行ってOCSのミニシナリオをやり、リクルート活動をやろうということになりました。

12/11(日) ミドルアース大阪
 OCS『Case Blue』チル川の戦いシナリオ

12/18(日) 和泉歴史ゲーム研究会
 OCS『Case Blue』世界の果てシナリオ

12/25(日) GJ友の会
 何のシナリオをやるかは未定

 ……という感じです。よろしくお願いします。

『What was ...?』シリーズが充実?

 以前書いてました、『History for Kids: The Illustrated Life of Ulysses S. Grant』を読了しました。




 感想としては、まあ過不足のない記述でごく短めの伝記というところで、ところどころ面白いところはあるものの、全体で言えばものすごくいいとまでは思いませんでした。面白さで言えば『Who Was Ulysses S. Grant?』の方が断然すぐれていると思います……が、この本は良く出来すぎという気もするので比較するのは酷なのかも?



 『Who Was Ulysses S. Grant?』のKindle版は674円ですが、『History for Kids: The Illustrated Life of Ulysses S. Grant』の280円よりもコストパフォーマンスはいいかも……。

 「Kindle版を買って読み捨て」の件ですが、Kindle版は分からない単語は長押しで引けます(出てこない場合は英辞郎を起動して調べますが)し、分からない単語に青色でマーカーし、内容的に「おおお……」と思ったところにはオレンジでマーカーし(私は紙の本でも全部これをやってるんですが)できます。オレンジマーカーのところを重点的に読み返すとか、青色マーカーの単語のところを重点的に読み返して分からない単語を再度覚え直すとかもできますし、覚え終わったら青色マーカーを外すこともできます。なにより、単語のコピーを選択することで英単語暗記用アプリ『Biscuit』に自動的に登録されるのがいいです。

英単語暗記用アプリBiscuit、いいです! (2016/02/26)
 ※以前はこのエントリで、Handy英辞郎からはコピーできないと書いてましたが、できるようになりました。その件も追記しておきました。


 最近、英語能力を上げるのにちょっと本気になろうかという思いが湧いてきまして、その一環として気軽に読める洋書を大量に読んで読み捨てていくということをやろうかと思うので、お金的にはアレですが、ある程度以上面白く読める『Who was ...?』系をKindleで購入して読んでいってみようかとも。

 ↓は以前本屋で見つけてて、持っているんですが……





 以前は存在を知らなかった、こういうのも出てました.






 これらの『What was ...?』系の方が好みといえば好みですが、しかし『Who was ...?』系でもここらへんもいいかも。




 まあ適当に、購入して読んでみようと思います。

民間人の服でワーテルローにいた4人の有名人

 このブログの過去のエントリを見ていて、「あれっ、おかしいゾ?」と思う記述に出会いました。

ウェリントンとヒル卿のユニット (2012/03/27)

 の中の、以下の部分。

 ワーテルローの戦場で彼【ウェリントン公】以外に民間人の服を着用していた有名人として知られるのは、彼の息子のRichmond公爵と、シルクハットに銃弾を受けて死亡したピクトン将軍だけであった。
『Waterloo:Companion』P93


 「えっ、リッチモンド公爵がウェリントン公の息子ってことに?!」

 上記エントリは2012年に書いていたもので良く分かっていなかったわけですが、その後2014年に『Children at the Battle of Waterloo』を読んで、リッチモンド公爵について結構分かってきました。例えば↓ですとか。

リッチモンド公爵はなぜブリュッセルに来ていたのか? (2014/09/20)

 改めて簡単に書いておきますとリッチモンド公爵というのはウェリントン公の元上司にあたるような人物で、ワーテルローの戦いの時にはブリュッセルに置かれていた予備部隊の指揮官という地位にあり、またリッチモンド公爵夫人が戦役直前に開いたブリュッセルでの舞踏会は映画『ワーテルロー』でも描かれた有名なものでした。そいでもってリッチモンド公爵の四男であるウィリアム・レノックス(15歳)が以前からウェリントンの副官になっていたのにちょっと前に馬から落ちて怪我して従軍できなくなっていたのを、もともと彼が配属されていた近衛旅団長メイトランドの同僚副官(18歳)がカトル・ブラの戦いで戦死したというのを聞いて矢も楯もたまらず父親のリッチモンド公爵と一緒にワーテルローの戦いを見に行って……という流れになっておりました。


 で、原文を見てみると、こうなってました。

 The only other senior personages at Waterloo known to be in civilian clothes were the Duke of Richmond, his son, and General Picton who died with a ball through his top hat.


 これはまあ、事情を良く知っているのでなければ間違ってもしょうがない感じの文だった……?(^_^;


 聞いた話として、スペイン半島戦役に登場するイギリス軍のサー・ジョン・ムーア将軍という人物がいますが、なんらかの作品では彼のことが「ムーア人【モロッコ・モーリタニアなどアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々】」と訳されていたそうです。事情を知らなければそういうことって起こりますよね~(ただし綴りはMoore将軍とMoor人とで、異なるっぽいですが……)。


 一応、件のエントリは訂正しておきました……。

シチリア島のイタリア軍沿岸防衛師団について(付:OCS『Sicily II』)

 シチリア戦のイタリア軍について。

 今回は沿岸防衛師団についてです。師団でない、独立部隊もあります。



CIMG3944.jpg

 ↑『Sicily II』の沿岸防衛ユニット。帯が付けられているのは師団で、兵科マークの右側の数字が師団名です。兵科マークが青色で波のマークになっていないものは沿岸防衛部隊のカテゴリではないものです。

 沿岸防衛師団は、全て海岸線に沿って配置された。2線級の部隊であり、いずれの師団も定員を大幅に割り、士気は驚くほど低かった。また、敵の上陸に備えて適当な防御拠点を準備している部隊は、数えるほどしかいなかった。
 ……
 シチリア沿岸防衛隊は、この悪天候の中、敵が上陸する筈はないとタカをくくっており、空挺部隊や上陸部隊が深刻な状況に追い込まれることはなかった。
コマンドマガジン別冊 第7号『シチリア撤退作戦』P4~5


 1943年までに総計で25個の沿岸防衛師団が編成され、そのうち5個師団と2個旅団がシチリア島に配置された。
 この沿岸防衛師団は、シチリア島における最も弱体なイタリア軍部隊であった。これらの部隊はわずかな正規兵を含めただけでほとんど地元からの兵で構成されており、訓練は乏しく、装備は貧弱で、機動性もなかった。武器のほとんどは、フランス、ユーゴスラビア、ギリシアからの戦利品であった。海岸線に沿って薄く広げて配置された状態で、平均で1kmにつき26troops【中隊? 人?】、対戦車砲は8kmに一門しか配備されていなかった。彼らの主要な役割はコマンド部隊の上陸に対処することであって、本格的な上陸作戦に対してではなかったのだ。
『Sicily 1943』P18


 沿岸防衛師団は二線級の師団であり、労役や第二線の任務のために集められた40代や50代の男達で多くが編成されていた。地元で徴兵された彼は多くの場合、退役から再呼集された将校によって指揮されていた。彼らの装備もまた二流のものであり、ムッソリーニは解体されたヴィシー・フランス軍から大量の武器装備が得られるものと期待していたが、それらの多くはわざと破壊されていたり、弾薬がないまま到着していたりした。
Wikipedia:206th Coastal Division (Italy)



 40代、50代というと、我々日本のウォーゲーマーくらいですよね~。前線の兵士としては全く役に立たない体力しかないと思います。

 何かの資料で、「地元民の方が地元のためにより戦うであろうから」ということで徴兵されていたのだけども……というのを読んだ気がするのですが、むしろ地元民だと土地勘があるとか故郷が近いからという理由で逃げ出す率が高くなりますよね。実際、『Sicily and the Surrender of Italy』を読んでいるとどんどん降伏してましたし。

 『Sicily II』では3分の1の確率でしか戦わず、枢軸軍プレイヤーにとっては泣ける話ですが、しかしもし自分がこれらの部隊に配属された身だとすれば「戦うなんてやってられるかー!」という話で泣けますよね……(T_T)



<以下、別エントリにしていたものをこちらに統合しました>

 イタリア軍の総兵力はおよそ20万。しかし、そのうち3分の2を占める沿岸防衛師団は、戦力としてはほとんんどあてにならなかった。この師団は2~3個の歩兵連隊と砲兵大隊で編成されていたが、その砲は沿岸防御用の固定砲台で移動できない。歩兵連隊も重装備や補給を輸送する車両をまったく持っていないので、機動力は皆無。
 おまけにその兵員の大多数を占めるシチリア人徴集兵はドイツ人嫌いなうえ、敗北の決まった戦争で故郷が破壊されることを望んでいなかった。イタリア軍は、シチリア人なら自分の家を必死で守るだろうと彼らを配備したのだが、これはまったくの裏目に出た。
『歴史群像 54号(2002年8月号)』P39



 ドイツ人嫌いだったのですね……。それは士気が高いわけなし……(シチリア人に限らず、イタリア人の中にドイツ好きな人がそれほどいたわけではない印象はありましたけども)。

 また、抵抗すれば故郷がそれだけ破壊されるのだからというのもなるほどでした。

 それにまた、同ページには、

 イタリア軍はすでに戦争は負けだと諦め、その士気は最低である。

とも……。


 『Sicily and the Surrender of Italy』にはこうありました(23%の辺り)。

 沿岸防衛部隊は特に、装備が時代遅れで不充分であり、事実上輸送手段を持たず、多くの場合統制もまずく、シチリア人の占める割合が75%に達する部隊もあったが、シチリア島住民全体の低い士気の影響を受けていた。



 シチリア島住民自体が非常に厭戦的であったと……。

<統合ここまで>

<2021/08/23追記>


 S&T誌146号のシチリア戦の記事をDeepL翻訳で読みまして、沿岸防衛師団について書いてありましたので引用してみます。

 30個の師団のうち、21個の師団が「沿岸防衛」に指定され、すべて高年齢層の現地の新兵で編成されていた。狭いイタリアでは兵力自体が減少しており、若くて強い兵士が配置されている部隊は少なかった。例えば、シチリア島では、1918年に退役した将校が指揮する大隊が2つあった! 将校の選抜は社会的地位に基づいて行われ、その役職において何をすべきかを全く理解していない人物が権力者として配置されることが多かった。それが、徴集された兵士達への扱いをひどいものにし、彼らの戦意をさらに低下させる要因となった。
『S&T 146号』P15


 これはひどい……(T_T)

<追記ここまで>

脚に被弾したアクスブリッジ卿に、ウェリントン公はなんと言ったのか?

 『Children at the Battle of Waterloo』を読み返してましたら、ヨーク公がアクスブリッジ卿が副司令官になるように無理矢理押し込んだ……という話が載ってまして、そこらへん興味を持って調べようとしてましたら、むしろアクスブリッジ卿が片脚を失った(失うきっかけとなった被弾の)時の会話の話が出てきたのが気になって、そちらを調べてました。


 とりあえずまず、ウェリントンとアクスブリッジの関係に関して。

 ウェリントンはまた、摂政王子とヨーク公に贔屓されていた比較的経験の浅いアクスブリッジ卿に、騎兵指揮の全権を与えざるを得なかった。彼はまた、ウェリントンの弟の妻と駆け落ちした人物で、それが恐らく彼の応対の冷たさの一因となっていた - 戦場では反目は明らかには見えなかったけれども。
- 『Waterloo Companion』P26 -



 脚を被弾した時の大体の状況に関して。

 戦いはほとんど終わった。プロイセン軍はパペロットとラ・エイ・サントで戦場に現れた。そして、その夕方七時半ごろ、ウェリントンは英語の新しい表現をもう一つ生み出した。彼は全軍による進撃を決意し、「さあ、始めたからには、最後までしろ(In for a penny, in for a pound.)」と。フランス陣営に向かって帽子を三回振って合図をすると、騎兵も歩兵も、目の前の平原に向かって斜面を駆け降りた。それが最後だった。ネイはなおも猛り狂いながら、捕まれば、どうせ絞首刑だ、とデルロンに向かって叫び、ナポレオンは予備の近衛軍をすべて投入して、総崩れになったフランス軍を押し止めようとしたが、その努力は空しかった。ウェリントンが愛馬コペンハーゲンを駆って、アクスブリッジと並んで前進中、敵の流れ弾がその乗馬の首筋をかすめてアクスブリッジの膝にあたったのはこのときである。
『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』P287



 『Children at the Battle of Waterloo』には以下のように書かれています。

 実際には負傷したのはウェリントンではなくて、気の毒なアクスブリッジであった。ブドウ弾が彼の膝を打ち砕き、その後ウェリントンの乗馬の首筋を通り過ぎた。ウェリントンが退却するフランス軍を望遠鏡で見ている時に、アクスブリッジが叫んだと言われている。
"By God, Sir, I've lost my leg."
ウェリントンは望遠鏡を目から外しながら言った。
"By God Sir, so you have."
『Children at the Battle of Waterloo』78%の辺り



 これを何と訳すのか……? なんですが、「so you have」とかって基本的に出てこないのです。

 「by God」に関しては英辞郎で見てみると、

【1】神によって
【2】神かけて、絶対に、きっと、必ず
【3】おや、くそっ、ちぇっ

 とあります。ありそうなのとして、アクスブリッジは「くそっ」という意味で言ったのだけども、ウェリントンは「神によって」という意味で返したとか……?


 映画『ワーテルロー』にもこのシーンがあるのですが、恐らくこの"By God, Sir, I've lost my leg.""By God Sir, so you have."でもって、「片脚 失いました」「片脚……しっかり……」という風に和訳されていて、これはかなり有力な訳なのでしょうか?

 ↓2:08辺りから。





 The Battle of Waterloo: is this the most British conversation ever to be held on a battlefield?というサイトを見ていますと、ウェリントンが冷静であるということもあるかもしれないけども、8人も子どもをもうけた妻を捨ててウェリントンの弟の妻と駆け落ちし、決闘するなどという大スキャンダルを巻き起こし、無能な摂政王子とヨーク公から無理矢理押し込まれたアクスブリッジに対して冷淡であったからという可能性が……というような事が書いてあり、「冷淡な返し」であることが可能性としてあり得るっぽいです。


 一方、『The Battle』にはこうありました。

 公爵がその突撃を承諾した時、アクスブリッジ伯爵はそれを自ら率いるつもりであった。だがまさにその瞬間、砲弾の破片が彼の右膝を打ち砕いた。アクスブリッジは叫んだ。
"By God! I've lost my leg!"
 ウェリントンは冷静に返答した。
"Have you, by God?"
 この逸話は作り話かもしれないが、名誉の規範を忠実に守る彼らジェントルマン達は、危険に直面した時の平静さと自尊心を何よりも大事にした。このことは、この2人の指揮官から遠くない場所にいた第18ユサールのDuperierの目撃証言からも裏付けられる。彼はアクスブリッジ伯爵が突然ヴィヴィアンと握手をし、その後歩いて自分の馬をひきつつ後方へ向かうのを見た。Duperierはアクスブリッジが負傷したのかと気付いたが、
「だが、彼は誰からもそう見えないように非常にうまく行動していた。」
 その後すぐ、ワーテルロー村のある家で軍医がアクスブリッジ伯爵の片脚を切断し、伯爵はそれを庭に埋め、称賛されたのであった。
『The Battle A New History of Waterloo』P280


 この本は意味がとりにくいので、誤訳も全然あるでしょうがとりあえず。この本では「冷淡」ということではなく、「平静さ」ということが重視されているようです。

 で、この会話文を見ていて、う~ん、こう……かな? と思ったのは……。

"By God! I've lost my leg!"(「神よ! 脚が一本なくなった!」)
"Have you, by God?"(「神がそうなさったのか?」)


 で、ここらへんまで見たところで、ネット検索してみてたらなんと、英語版Wikipedia上に“Lord Uxbridge's Leg”という項目が! すごい(^_^;

 ……アクスブリッジはこの戦いの残りの間、イギリス軍の軽騎兵部隊による繰り返しの突撃を率いており、乗馬を撃たれて8~9回失っていた。

 1815年6月18日の最後の砲弾のうちの1つが彼の右脚に当たり、膝から上の切断手術を余儀なくされた。伝えられるところによると、恐らく作り話ではあるが、この負傷の時に彼はウェリントン公爵の近くにいて、
"By God, sir, I've lost my leg!"
と叫び、それに対してウェリントンはこう答えたという。
"By God, sir, so you have!"

 恐らくより真実に近いやりとりは、ウェリントンの友人であったJ.W.Crokerが1818年12月8日の日記に書いたもので、そこには戦場から負傷したアクスブリッジを運んだHorace Seymourとの間の会話が書かれている。Seymourはこう言っていたそうだ。
 アクスブリッジが撃たれた時、彼は叫んだ。
"I have got it at last,"
 それにウェリントン公は答えて言った。
"No? Have you, by God?"
Wikipedia“Lord Uxbridge's Leg”


 で、結局どう訳すかの壁にぶち当たります。無理くり「こんなんどうです?」的に訳してみると、

"By God, sir, I've lost my leg!"(「くそっ、脚を一本失いました!」)
"By God, sir, so you have!"(「神が君にそれを与えたのだから!」)

"I have got it at last,"(「ついにやらかした」)
"No? Have you, by God?"(「いや? 天罰じゃないか?」)

 とか……。

 ウェリントンの発言の原文は、分かりにくいことが多いです。英語できる人に教えてもらいたいです……。


 アクスブリッジですがその後、脚の切断手術(当時は麻酔なし)を平然と受けたそうで、これまた賞賛されているようです。

『ナポレオンとバイエルン』という本が出てました

 またぞろ、ぼーっとネットを見ていましたら、『ナポレオンとバイエルン』という本が出ているのを見つけました。




 ↓こちらに詳しい情報が。

ナポレオンとバイエルン - バイエルン王国の成立



 南ドイツ、フランスとオーストリアの間に位置するバイエルンは、ナポレオン戦争ではフランスの従属下にあってイヤイヤながらも親フランス側で戦わされていたのですが、1814年にようやく対仏大同盟側に鞍替えすることができました。

 そこらへんのことについて、バイエルンのブレーデ将軍を中心に以前書いてました。→フェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥 (2015/03/28)

 その時参照していたメイン資料は『バイエルン王国の誕生』という本で、こちらはバイエルン国内側からの苦闘が話の中心でしたが、『ナポレオンとバイエルン』の方はより、ナポレオンとの絡みが重視されているっぽいですね。2016/11と書いてあるので、ごく最近出た本のようです。

 私はこういう周辺的な話が大好きなので早速注文してみましたけども、世の中的にこういう本はセールス的に大丈夫なんでしょうか……?(^_^;

ものすごいウェリントン公好きの人を発見!

 子ども向け洋書の話ですが、イギリスでもって子ども向けの伝記シリーズとかってないのかなぁ……と思って探索継続していたのですが、よくわからず。

 とりあえず、↓のものを見つけたので、注文してみました。子ども向けだと思うのですが……。




 あと、↓は購入して読み始めてみてます(分量は思ったより少なかったのですが、文体的にまあまあ面白いような気がしてます)。





 『Children at the Battle of Waterloo』の読み返しを始めたのですが、色々読み飛ばしていたとおぼしきことがあって、興味深いです。とりあえず、リッチモンド公爵はなぜブリュッセルに来ていたのか? (2014/09/20)で書いていたことに案の定誤認があったので、追記しておきました。

 そこらへんのことで検索しているうちに、日本人の恐らく女性の人でえらいウェリントン公好きの人がいて、Pixivやツィッターでその周辺のキレイな絵を投稿されているのを見つけました。(略)33号さんという方で、検索すればすぐ出てきますので、興味のある方は見てみて下さい(*^_^*)

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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

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